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佛教学研究 第71号 014鍵和田, 聖子「五大明王を中心とする仁王経曼荼羅成立の背景」

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(1)

五大明王を中心とする仁王経受茶羅成立の背景

五大明王を中心とする仁王経隻茶羅成立の背景

はじめに

仁王経受茶羅とは、仁王会の際に用いられる、不空訳﹃仁王護国般若波羅蜜多経陀羅尼念諦儀軌﹄(以下﹃仁 王念諦儀軌﹄)に基づいて描かれた曳茶羅である。仁王会とは、請雨経法、孔雀経法、守護経法と共に四箇大法 の一つに数えられ、十二世紀に最盛期を迎えた鎮護国家、万民県楽を祈願する法会である。日本では飛鳥時代頃 ① には始まっていたと考えられ、元々、川訳﹃仁王経﹄に基づき行われていたが、平安時代以降、純密とともに密 教の思想を反映した新訳経典が伝わると、その現場は徐々に密教へと移行し、本尊も密教的なもの、つまり仁王 ③ 経受茶羅へと移り変わっていった。 q L 現存の仁王経受茶羅は種々あり、代表的なものとしては、空海が使用したと伝わる五方を五幅に描きゑけた ﹁弘法大師筆様﹂や、特に東密広沢流で用いられた寛朝(九六一 l 九九八)作成の般若菩薩を中尊とする受茶羅。 特に束密小野流で用いられた仁海(九五一 l 一

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四六)考案の不動明王を中尊とする受茶羅などが挙げられる。 このように代表作例を挙げていくと、全て束密で作成されたものであり、仁王経受茶羅という図像が平安時代中 期の束密を中心に発展した様子を窺うことができる。しかし、小野流で用いられた仁海考案の五大明王を中心と する仁王経受茶羅には疑問点があり、広沢流の人師からも疑義が提出された例が見い出せる。筆者は以前、そう

(2)

いった疑問点のうち、拙稿において金剛利菩薩の三味耶形が通常とは相違する問題について、台密からの影響の ③ 可能性を論じた。しかし、その後研究を進めることで、新たに注目すべき記述を見出せた。このことから、金剛 利菩薩の三昧耶形の問題のみならず、仁海の五大明王を中心とする仁王経受茶緩の考案自体に台密が影響を与え ている可能性が高いことがわかってきた。そこで、この度は東密における五大明王を中心とした仁王経受茶羅成 立の背景を、台密の仁王経受茶羅様にまで視野を広げて考えていきたい。 五大明王を中心とする仁王経'監禁緩成立の背景

一、仁王経憂茶羅の構造

仁王経受茶羅は基本的に﹃仁王経﹄の注釈儀軌である﹃仁王念諦儀軌﹄に基づいて構成されており、各尊格の 形相などは﹁第一明五菩薩現威徳﹂に

- 2

1

8一

第一東方金剛手菩薩 ニ シ ヲ チ / ヲ / ト ヒ テ ル ノ ヲ シ テ タ ト ハ リ テ 経東あ金剛手菩薩摩詞#也、手持三金剛杵-放エ青色光一与三四倶抵菩薩-往護エ其国﹂解日金剛手者、依乙ニ蔵 ヲ ラ ハ ノ ユ J A リ テ エ ス ノ ヲ ツ ニ ハ 所持党恥金剛項喰伽払-一円堅臥利用具=二義一也。依=彼経-者、日疋五菩薩依ニ二種輪-現二身有異寸一者法 ナ リ シ ヲ ノ ス ル ニ シ テ ル カ ヲ ナ リ ツ ユ 川 ナ リ シ ヲ リ テ ス ニ ヲ ス カ ヲ ニ ノ ハ チ 輪。現=真実身一所 ν 行 願 報 得 ν身故。二者教令輪。示=威怒身リ由 v 品 大 悲 -現 ニ 威 猛 -故 。 此 金 剛 子 即 ス ル ト ハ ヲ ス ス コ ト ' シ キ 亨 ノ タ ス ル カ ノ ノ ヲ ニ リ テ ユ 品 ス J 普賢菩薩也。手持ニ金剛杵-者。表下起=正知日松山知中金剛日能断 ζ 我法微細隊-故、依ニ教令給-現作ニ威怒降 三 世 金 剛 寸 : ・ : : : 以 下 南 方 、 西 方 、 北 方 と 続 く 。 ( ﹃ 大 正 蔵 ﹄ 一 九 ・ 五 一 四 頁 ・ 上 ) などと説かれることにより、晶又茶羅の構成については﹁第二建立受茶羅軌儀﹂に

(3)

ヒ テ ニ ニ キ ヲ ニ キ ヲ ニ キ ヲ ニ キ ヲ ニ ク ヲ ノ ノ ハ チ レ 於 ν 中心画 二 二 幅輪一束画二五般金剛杵一南辺画ニ金剛宝 J 西辺画 ニ金剛剣一北辺画 剛 鈴 J

-J I l -l v l i L Tレ││相仲 l i l i -- 仰 ニ キ ヲ ニ キ ヲ ニ キ ヲ ニ キ 五方 菩薩 子中所 ν 秘密之契 c 東 南隅画 ニ ゴ 一 股 金剛杵一西南隅画 ニ宝冠 J 西 北隅 画 ニ 筆 篠 一 東 北隅画 ニ縄磨金剛 ヲ ニ ニ キ ヲ ニ キ ヲ ニ キ ヲ ニ キ ヲ ニ キ ヲ 杵 J ・ ・ 中 略 : ・ 次第 三重 東門画 ニ 金 剛鈎 一 南門画 乙 金 剛索 一 西門画 ニ 剛鎖 一 北門画 ニ金剛鈴一東南角画 櫨 一 ニ キ ヲ ヒ テ ニ キ ヲ ニ キ ヲ ニ ク ヲ 西南角画二荷葉 一 於 ν中画雑花一西北 角 画 ニ 燈 一 東 北 角 画 ニ 塗香 器 J ( 大正蔵 ﹄ 一 九 ・ 五 一 五 頁 ・ 中 ) な ど と 、 一 重 構成の作壇 法 が 説かれることによると考えられる 。 まずは本論の主題である、仁海が如照に捕かせ ④ たと伝わる量茶羅を例に仁王経 由受茶羅の基本的配置を説明したい。 仁海 本 の 量茶羅は 、 東を上としており 、 三重 に区画されている 。 中 尊 は 右手 に 剣 、 左手に 十 二 幅輪の輪 宝を持 五大町l玉を"1"心とする仁王経具茶経成立の背景

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内 田 臨 時 つ 不 動明 王 ( 寛朝 本では般若 菩薩 ) で、第 一 重 の 中央 日 吋 d っ ,U に捕かれている。それを取り囲むように五方 菩薩 ( 金 仁

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i}.木仁王経畳茶続配置│羽 剛波羅 蜜菩薩 ・ 金 剛 子菩薩 ・ 金 剛利 菩薩 ・ 金剛 宝菩 薩 ・ 金 剛 薬叉菩薩 )の内、金剛波羅 蜜菩薩を除いた 四 菩薩 と、金剛界 三 十 七 尊中 、内四供 養菩薩 ( 金 剛 嬉菩 薩 ・ 金 剛 髭菩薩 ・ 金 剛 歌 菩薩 ・ 金 剛舞 菩薩 ) の 三 昧耶 形が描かれている 。 第 二 重 には五大明 王 中不動明 王 以 外 の 凹 明 王 ( 寛朝木 では凹 菩薩 )と四 賢瓶が、第三重 図1 には金 剛界 三 十 七 尊 中の四摂 菩薩 ( 金 剛 鈎 菩薩 ・ 金 剛 索菩薩 ・ 金 剛鎖 菩薩 ・ 金 剛鈴 菩薩 ) と外四供養 菩薩 ( 金 剛 香菩薩 ・ 金 剛 華菩薩 ・ 金 剛 燈菩薩 ・ 金 剛 塗菩

(4)

五大明王を"i耳心とする仁王経

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茶主催成立の背景 現国呈奈癒金剤界成身会(西上) 。 五 持 即 時を陣()凸 向田臨 持 てフ畑惜 詩 。玉野 金剛界畏茶羅成身会配置図 口 酎 思 議 薩)及び四天王に帝釈天 ・ 火天 ・ 水天 ・ 風天を加えた 八天を配している。これを配置図に起こせば ﹁ 図 1 ﹂ のようになる こ の 目 叉 茶 羅 を 一 見して明らかなのは金 剛 界 畏茶羅成身会の構図をかなりの割合で踏襲していると さらに いうことである 。 金 剛 界量茶羅成身会を配置図に起こ したものも﹁図 2 ﹂ として掲載するので、 ﹁ 図 1 ﹂ と あわせてご参照いただきたい 。 図2 このように、仁王経蔓茶維と金 剛 界皇茶雑成身会の ハ U n ノ 臼 η ' u 不空訳である ﹃ 仁王念諦儀軌 ﹄ は ﹃ 仁王経 ﹄ に対する注釈儀軌ではあるものの、不空に 構成を 比 較 す れ ば 、 よる金 剛 界の思想が多分に盛り込まれていることが理解できる 。

仁 海 本 仁 王 経 墨 茶 羅 成 立 以 前 の 仁 王 経 曇 茶 羅 様 き て 、 ⑤ 先行研究でも指摘されているが、 仁海が回受茶羅を考案した時期には、 先行して寛朝( 九 六 一 1 九九 八 ) ⑥ 制作の五方 菩 薩を中心とする広沢流系仁王経団関又茶羅が存在していたと考えられる 。 この畏茶羅の正当性を主張す る覚印 ( 一

O

九七 j 一 一 六四︿広沢保寿院流﹀) は ﹃ 事 相 料 簡 ﹄ において 以 下のように指摘する 。

(5)

次 所 用 品 X 茶羅重重有ニ疑難-也。先中台五尊是儀所 ν説正法輪五菩薩也、所謂転法輪普賢文殊空蔵推魔也。全 テ ヲ カ ラ ス ヲ 以 ニ 教 令 輪 念 怒 尊 -不 ν 可 ν 図 ν 之 。 ( ﹃ 大 正 蔵 ﹄ 七 八 ・ 二 二

O

頁・下) すなわち、儀軌によれば五菩薩を中心に描くのが正しく、五明王を中心に描くべきではないという小野流の仁王 経受茶羅への疑鰍である。実際、先に引用した﹃仁王念稲儀軌﹄﹁第二建立受茶羅軌儀﹂を確認しても・岨上の三 昧耶形を指して﹁比

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五 品 川 町 払 到 刻 割 魁 手 恥 一 札 v 恥ル秘密之払リ﹂とあり、五方菩薩の三昧耶形を中心に描くよう 景 背 の 立 蹴それでは、なぜ仁海は五大明王を中心とする受茶羅を考案したのであろうか。これについて、錦織亮介氏は仁 茶 鍛王経法が護国、調伏といった性格の強い修法であることや、顕教において旧訳経典を典拠に行われていた頃から 山五大力菩薩を本尊とするなど念怒尊とのつながりが強いことなどと合わせて﹁小野流の仁海が作った憂茶羅は、 けすでに広沢流にあるそれとは異なった、小野流独自の仁王経受茶羅として、教令輪身の五大尊を中心におく図が 心 ⑦ 料作られたとも考えられよう。﹂と指摘されている。確かに、仁海の活躍した時代は、各流派の流派意識が強まり 畑出した頃であり、束密の流れの中で当時の時代背景を考えれば、仁王経法という重要な修法において既に広沢流 百に存在していた菩艇を中心とする量茶羅に対し、小野流の独自性を発揮するために、広沢流には無い、新しい受 茶羅を考案したというのも仁海本曇茶羅考案の契機の一つであった可能性は十分に考えられる。しかし、それだ けが五大明王を中心とする仁王経受茶羅製作の要因であろうか。そこで今一度、仁海当時存在していたと考えら れる仁王経受茶羅に関係する図像について、東密だけでなく台密にも視野を広げて確認していきたい。 まず、仁海の受茶羅に直接影響を与えた可能性が高い事例から見ていく。それが、仁海の師で醍醐寺上醍醐延 命院に住した元呆(九一四 l 九九五)が残したとされる仁王経受茶羅様である。東密における代表的な事相書に 説 か れ て い る 。 ワ 臼 ワ u

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小 野 流 の 覚 禅 ご 一 四 三 l? ・ ) 編 修 の ﹃ 党禅紗 ﹄ が あ る が 、 その巻 二 十七には ﹃ 仁王経 ﹄ に関する事相の記述が あ り 、 その﹁仁王経下 ﹂ ﹁豊茶羅異説 ﹂ に お い て 、 ﹁元果僧図 ﹂ として掲載されるものである(図 3 参照)。さら これと似た種類の蔓茶羅図が石山寺校倉聖教内に残 っており ﹁ 五忍量茶羅歎﹂と表記されてい 句 。 ( 図

4

参 陥じそして ﹂ の図に付された識語には 五大明王を中心とする仁王経長茶縦成立の背景 賢 此ノ 信 本 間ヒ者 テ1ゴI

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本ノ主 也 末 如 何 ス ル ニ ヲ

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、 持 二 出 H H T Z -リ ニ ヒ テ ニ 根本者在 二三宝 院経蔵一平治元年四月日於 ニ勝肱院 -然海閤梨房、 ノ ク ヒ テ l I l l l 1 1 1 l l l L ラ ル 彼閣梨云、於 ニ延命院天井然海自見 也 ﹃ 党禅紗 ﹄ ・ ﹃ 大正図像 ﹄ 十 二 ・ 別 紙 一 一 ) とあり、これが任量茶羅つまり仁王経畏茶離の 一 種であることがわかる 。 ま た 、 この図の原本が元果の住した延 っ ' u η L 円 ノ 臼 命院の天井画であ っ たという 。さら に 、 ⑨ 私・興 L に見ることが出来る 。 これには﹁ 天井ノ 司 T Z L と表記されており(図 5 参照)、この図 この延命院天井画を図式 化 したものと考えられる図を金沢文庫蔵書中の ﹁ 仁王経法 上 限 醐 峯 慣 房 元 呆 借 園 料 出 云 と 瓶 王tL, 事邑 阿 寸 不 関 磨 1 輸品 Z

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⑬ 「元果僧図」 降 三 世 箪 茶 利 不 動 大 威 徳 金 剛 業 叉 匡13 匡14

(7)

五大町l 王を中心とする仁王経員茶維成立の1IT);~

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ム ヲ の説明には ﹁ 上醍醐ノ僧坊ノ天井ノ上 ヨ リ 尋 ニ 求 之 一 ﹂ とある 。 す なわち 、本図 は延命院の天 井図 を写し取ったものであることが解 ⑬ 「延命院 天 井 図」 る。こういった ﹁ 元 果僧図 ﹂ ﹁五忍蔓茶羅 ﹂ ﹁延命院天井 図﹂を 比 較 す る と 、 全て五智 如 来を 中 心 と し た 配 置 で 、 由 良茶羅壇の手前に 五大明王を配列するなど よく 似 ていることから こ れらが同じ 系統の仁王経系呈茶羅様であると理解する こ とができる 。 なお 図5 筆者は 拙 稿において ﹂ れ ら醍醐寺周辺に存在していた仁王経畏 茶羅様が全て東上に配置されていること こ そ、仁海本豊茶羅が東 ⑬ 上に配置される所以であることを論じた 。 しかし、東上配 置 の 問

u q L n L られる。実 際 、 井図﹂とい っ た仁 王経量茶羅様の存在は仁 海 の畏茶羅製 作 において無視することのできない存在であ っ たと考え 題のみならず、 師である元果が残した﹁元果僧図﹂や ﹁ 延命院天 こ れらの皇茶羅様を確認すれば、回受茶羅自体は五智如来を 中心 に構成されるもので、回受茶羅の 内 部には五大 明 王 が配置されない 。 しかし、受茶羅の手 前 には必ずしも 順 序は 同 一 で は な い が 、 五大明王が列挙さ 見 られ るということになる 。 し か し 、 れるという特 徴が 共通して見られる 。 す な わ ち 、 元 日 米 の 時点で 、 五大 明 王 を仁王経星茶羅に導入する構想が既に それ を 受茶羅 内 に配置するには至 っ ていないと考えることができよう 。 仁 海はこのような醍醐寺周辺に存在した仁王経畏茶続の古様を参照して五大 明 王を配した仁淘本仁王経畏茶羅を作 成したと考えられるのである 。 な お 、 こ れ ら に近似す る 配 置を 持 つ 自 民 茶 羅 と し て は 、 ﹁ 五忍回受茶羅﹂が覚超( 九 六

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三 四)撰 ﹃ 四畏 茶

円仁(七九四 1 八六 四 ) 請来本﹁ 四印 塁茶羅 L に酷似する こ と が挙げられる ( 図 7 参照 ) ま た 、 在 住 相 庁 り 入 、 ﹄司旬珂 ﹄ Ff d 什

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﹃覚禅紗﹄には円珍(八一四 i 八九二議来と伝わる仁王経目史茶羅への言及が見られ、これに五智知来が配当さ れる旨が記されているが、これらについては後述する。さらに、﹁五忍受茶羅﹂には如来を鳥獣座に描くことが 表記されている。しかし、東密で使用される﹁現図受茶羅﹂では如来を鳥獣座に表さない。それに対し、円珍請 来の﹁五部心観 L 等、天台入唐僧が持ち帰った金剛界の古様には鳥獣座が描かれるのであ旬。 このようなことを考え合わせると、元呆の残した﹁元呆僧図﹂や元呆の住した延命院の天井画、それを原本と 五大明王を中心とする仁王経隻茶緩成立の背景 して構成された﹁五忍受茶羅﹂には台密の影響を見ることができるということになる。すなわち、仁海の受茶羅 製作にも台密の影響が反映されている可能性が高いということになる。 以上、仁海当時、醍醐寺周辺に存在していたと考えられる仁王経受茶羅様について論及した。その上でそこに、 台密の影響がある可能性を指摘した。そこで、右記に紹介したものより更に古い仁王経受茶羅様の例について、 台密の記述も視野に入れ、確認していきたい。まず、﹃覚禅紗﹄の﹁仁王経上﹂の段においては、裏書きに以下 のような一文が記されている。

- 2

2

4一

フ ヒ ニ ノ ソ 問、講堂井智証請来受茶羅、何五仏御乎。答、図センニ何有 v之。隻茶羅句義有 ν之文 ( ﹃ 大 正 図 像 ﹄ 四 ・ 六 八 九 頁 ・ 中 ) ここでいう講堂というのは、東寺の講堂のことである。東寺の講堂には二十一体の尊像による立体受茶羅が構成 ⑮ されている。これは、空海(七七四 l 八三五)の設計によるものと考えられ、筆者自身も拙稿でその思想的背景 を論じた。この立体受茶羅の構造を分析すると、﹃金剛項経﹄を中心とした密教思想と﹃仁王経﹄を始めとする 護国経典の要素が混在して反映されていると考えられるが、東寺の伝承において本受茶羅は長らく仁王経受茶羅

(9)

であると信じられていたため、仁王経受茶羅の一つとして言及されている。また、先に少しく触れたが、同時に 天台宗の知日証大師すなわち円珍が唐より何らかの仁王経関係の員茶羅を請来していたという伝承があったようで、 両者に五仏が登場することが示されている。円珍に関係する請来日録などには仁王経受茶羅の請来を確認するこ とは出来ないため、真偽を判断することは難しく、仁海の生きた平安中期の状況を窺い知ることも困難であるが、 五大明王を中心とする仁王経受茶羅成立の背般 鎌倉時代初期頃には円珍請来とされる仁王経受茶羅が存在していたということになる。 さらに注目すべきは、台密の大成者たる安然(八四一

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の ﹃金剛峰楼閣一切珠紙経修行法﹄(以下

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耶 紙 経疏﹄)に説かれる量茶羅である。﹃論紙経疏﹄には、 それが、以下の作壇法である。 五大明王を一壇に安置する受茶維についての言及があり、 シ ス ハ テ ヲ ク ス ル ヲ ニ 品 シ シ テ ニ ス ヲ シ ノ ニ 7 カ ヒ テ J A キ ヲ ニ キ 若 欲 下 以 ニ 五 大 尊 -岡 安 中 一 壇 上 者 、 当 下 准 ニ 仁 王 儀 軌 一 修 歩 之 。 如 ニ 彼 文 云 ベ 於 ニ 壇 中 心 -画 ニ 十 二 幅 輪 ﹂ 東 辺 画 ニ 五 ヲ ニ キ ヲ ニ キ ヲ 品 ク ヲ ノ ノ ハ チ レ ユ ノ ス ル ナ リ 股金剛杵一南辺両ニ金剛宝﹂西辺幽斗金剛剣一北辺両ニ金剛牙 4 此上五事即是五方菩薩手中所 ν執秘密之契。 ニ キ ヲ ユ キ ヲ 品 キ ヲ ニ キ ヲ -シ ノ ニ ク ヲ 東南隅画=三股金剛杵一西南隅同二宝冠一西北隅耐ニ鐙一筏﹂東北隅耐ニ縄磨金剛杵一当 s四角上置ニ問賢瓶一金銀 シ ク ヲ ユ シ ヲ ス ヲ 7 ノ 品 ク ノ ノ タ ノ 銅査新瓦亦得。可 ν受ニ一斗イ巳下瓶満=盛水-挿ニ枝条花斗用=四色絵各長間尺一青黄赤緑知ニ上次第-繋ニ四瓶 ヲ ニ パ ニ キ ヲ ニ キ ヲ ニ キ ヲ ニ キ ヲ ノ ニ キ ヲ ノ ニ キ 項﹂次第三重東門画ニ金剛鈎一南門画=金剛索一西門画ニ金剛鎖一北門画=金剛鈴﹂東南角画コ香炉一西南角画二 ヲ ヒ テ ニ キ ヲ ノ ニ キ ヲ ノ ニ ク ヲ ノ ス ル リ ノ ニ ノ ア リ 荷葉一於 v中岡=雑華﹂西北角画 ν灯、東北角画=塗香器﹂所 ν画杵等皆有二光焔ザ三重壇外一重界道。 ﹁ ﹁ υ ( ﹃ 大 正 蔵 ﹄ 六 一 ・ 五

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四 一 良 ・ 上 ) まず、五大尊つまり五大明王を同時に一一埋に安置する場合は﹁仁王儀軌﹂すなわち﹃仁王経念諦儀軌﹄に准ずる ﹃仁王念諦儀軌﹄﹁第二建立憂茶羅軌儀﹂を踏襲する形で受茶羅の配置が説明されて.いる。 としている。その上で、

(10)

こ れ を 図 に 起 ラ ﹂ せ ば 、 ﹁ 図

6

﹂ の よ う に な り 、 ﹁ 図 l ﹂に挙げた仁海本仁王経量茶羅と 比 較してみると、基本 的 な構造は、仁王経量茶羅と 同 様である ないが 、 五大明王をどのように配置するのかということについての詳述は 更 に 、 ことがわかる 。 このように、安然には五大明王を 一 つの量茶羅の 中 に 配置するという認識があ っ た こ と が わ か り 、 その作壇方法が ﹃ 仁王念諦儀軌 ﹄ に基づくとしている こ と は、東密仁海考案の五大明壬を 中心と する仁王 経回受茶羅を考える際に重要な示唆となる。 この安然の五大尊に関する呈茶羅の記述は、覚超の ﹃ 西蔓茶羅集 ﹄ に所収されている 円仁 請来本四印呈 ⑫ 茶羅の構造にも 似 ている(図 7 参照)。右記で、東密小野流の仁王経由史茶羅様の 一 つ 、 ﹁ 五忍畏茶羅﹂に近似する として紹介したものである。西国史茶羅とは金剛界回受茶羅のことで、金剛界回受茶羅は西に安置するものであるから、 五大明王を中心とする仁王経史茶縫成立の背景 な お 、 安然の五大尊壇 区

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1(. 骨t ' 主 F h u ワ μ 生句 区17 四印受茶緩様 (r大正蔵』七五・七八0・下) A主

(11)

このように呼ばれる。党超の﹃西量茶羅集﹄は金剛界受茶羅に関する経典の記述や口説と量茶羅図像を集めたも ので、その中に収録されている凹印長茶縦は、空海請来の羽凶品文茶羅における九会の金剛界受茶維のうち四印会 に類する受茶羅の一種と考えられる。 また、右の円仁請来本四印受茶羅様には 五大HJJ王を 1I1心とする仁王経呈茶織成立の背;紋 ノ タ ル ノ ヨ リ ニ タ 慈 党 大 師 受 ニ 府 阿 附 梨 -日 決 日 、 ト ノ ス ナ リ ト 四仏四波羅蜜八供養四摂中尊為ニ二十二 四 -ク 折 帰 云 、 四 印 具 ニ 二 十 一 尊 -者 、 ( ﹃ 大 正 蔵 ﹄ 七 五 ・ 七 八

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頁 ・ 下 ) という一文が添えられている。円仁が唐において金剛界を受法したのは大興善寺の元政阿閤梨であるから、元政 より授かった口伝にこのような金剛界の四印受茶羅が含まれていたと考えられる。 なお、現図品 X 茶羅の問印会には基本的に十三尊が配置される。現閃受茶羅の十三尊は大日如来を中尊に四波羅 蜜菩薩と八供養菩薩中の内の四供養菩薩に慧門の四菩薩を加えて配置されており、円仁請来本のような五智如来 ト ハ ノ ナ リ 中の大日以外の四仏や四摂普薩は描かれない。本品 X 茶維について覚超は﹁問印者四仏印(﹃大正蔵﹄七五・七八 一・上ごとしており、現図晶瓦茶羅における四印会の四印が九会の金剛界受茶羅のうちの成身会・三昧耶会・徴 細会・供養会という四種の受茶羅を示していることとは意味が異なるようである。安然の師でもある円仁の請来 受茶羅に四印受茶維のような構造を持つものがあることを考えると、安然は五大明王を一つの受茶羅に配置する 際に﹃仁王念諦儀軌﹄の記述や安然以前の金剛界系統の請米並茶羅を参考にして構成したものと推測することが ←

2

2

7一

で き る 。 従来、台密における仁王経受茶羅の作例はあまり知られておらず、論及されることも少ない。しかし、仁王経

(12)

受茶羅とは明言できないものの、安然に﹃仁王経念諦儀軌﹄に基づく五大尊壇という構想があったことは、台密 における仁王経受茶羅様として、特に注目すべきである。なお、十二世紀にまとめられた台密の事相主円である静 然の﹃行林抄﹄には﹁第十六仁王経法﹂という段があり、そのご蔓茶羅 L において、東密で使用される受茶羅 ⑮ と共に安然の五大明王の壇も所収されている。このようなことから、安然の五大尊壇は後世の台密でも、仁王経 回曳茶羅の一つとして、ある程度認識されていたことが解る。 五大明王を恥むとする仁王経受茶援成立の背策 このように、仁海本仁王経受茶羅の成立以前の仁王経受茶羅様を見ていくと、仁海の晶 X 茶羅に至る以前のコ冗 呆僧図﹂﹁五忍受茶羅﹂﹁延命院天井図﹂では、受茶羅自体には五智如来を配置するものの、五大明王が羅列され、 ﹁金剛界蔓茶羅の構造を下敷きとした五大明王による仁王経受茶羅﹂というまさしく仁海本隻茶羅の萌芽とも言 うべき構造が見られることがわかった。さらにそれらには、台密の影響が見られ、特に安然が﹃仁王経念諦儀 軌﹄に基づく、五大明王を一壇に安置する受茶羅について言及することは仁海以前の小野流系仁王経受茶羅様な いし、仁海自身に何らかの影響を与えた可能性が高いと見なすことができる。 では、元呆や仁海が台密の影響を受ける可能性を、どの程度考えることができるのであろうか。以下では彼ら の東密・台密の枠を超えた交流について見ていきたい。 - 228

三、元果や仁海周辺に見られる東密・台密の交流関係

元呆や仁海と台密の関係について考える場合、元呆の師である石山寺淳祐(八九

01

九五三)からの流れとし 一つ注目したいのが、東密における蘇悉地の伝来である。なお、東密では空海 て促える必要があろう。そこで、

(13)

以来金剛界と胎蔵の両部を受法するが、ム H 密では円仁・円珍などがそれに蘇悉地法を加えた三大法を請米し組織 した。そのため、蘇悉地法というのは基本的に台密で行われる法である。ところが、禅遍(一一八四 l 一 二 五 五)によって両部の伝来についてまとめられた﹃両部大教伝来要文﹄の巻下には東密における蘇悉地法の伝来が 記 さ れ る 。 五大明王を中心とする仁王経主主茶羅成立の背景 ネ テ ク 尋 一 五 。 ノ ム 蘇悉地部。大師伝否如何。 ケ テ ニ ヲ シ テ タ 石山内供。授ニ延命院僧都印信一批云、 シ ノ タ ク キ ル ス ル コ ト ヲ 知ニ眼前陳﹂能々可 ν 存 v ν 之 耳 。 ニ ハ ル セ タ ニ リ 妙成就許可之事、高野旧風之中、所 v ν行也。但他家有ニ此事 4 ク ヲ モ シ ニ 授ニ小野僧正之印信一批詩、大旨同 ν之失 其/ 趣,、 延命院僧都、 -ク 7 ノ ニ ル ヒ ヲ レ ス ノ ノ ニ 品 シ ノ タ 秘密決疑抄云、問、小野流伝法漉項、被 ν ニ 蘇 悉 地 潜 項 -是 非 ニ 大 師 御 伝 、 高 野 川 風 等 一 抄 ・ 無 ニ 算 、 伝 寸 日 ハ 一 山 僧 ノ メ チ ル ヒ ヲ ・ ノ ヘ チ ク ノ ヨ リ ル セ 宇 正 始 被 ψ 用ニ此事-保如何。実心阿閑梨容一五、禅林後入唐僧正鰍。彼人本被 ν伝ニ天台滋.項-故也。蘇悉地潜 ニ モ 7 ヲ 項、天台流。尤伝 ν之故也云云。

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229-( ﹃ 日 仏 全 ﹄

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六・七九頁・上) これによると、石山寺の淳祐が延命印僧都元呆に伝授した印信の批詞には﹁妙成就つまり蘇悉地の許可は古くは 高野山では行われていないが、他家つまり台密では行われており、その内容は今述べた通りであるから、よく心 にとどめておくように﹂とあり、元呆が仁海に授けた印信においても同じようなことが述べられているという。 ⑬ また、勧修寺流相伝の諸尊法の口訣である仁済 ( ? l 一 二

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四)記﹃秘密決疑抄﹄からの引用として、東密で蘇 悉地滋項を始めたのは仁海であるが、空海の伝承ではなく高野山でも行われておらず、文献にも見られないのに、 なぜ雨僧正仁海はこれを始めたのかという問いが立てられている。これに対して、実心(一

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九五 1 一 一 七

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)

(14)

五大明王を中心とする仁王経隻奈羅成立の背景 の回答として、蘇悉地に関しては台密で伝えられているから、これは元々、天台宗で濯項を受け、後に真言宗の 門に入った禅林寺宗叡(八

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八八四)が伝えたのではないかとある。宗叡と蘇悉地の関係については、明ら @ かではないものの、この他にも東密の蘇悉地に関する記述は幾つか確認することができ、それらによると、少な くとも平安時代後期には東密小野流に蘇悉地の伝承があったことが確認できる。また、こういった記述について は、三崎良岡氏も注目されており、東密における蘇悉地に関する研究の中で引用されてい旬。三崎氏は宗叡から 仁海までの蘇悉地の系譜を改めて整理し、﹁宗叡│禅念│玄静﹂という相伝とよ京叡│源仁│聖宝(東密小野流の 始祖

)

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観賢│淳祐│元呆

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仁海﹂という相伝の二系譜を提示されている。なお、三崎氏も源仁から観賢の事跡 においては蘇悉地の要素が見当たらず、その後の石山寺淳祐(八五

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九五一二)にも無かったと見てよいであろ うと考察される。しかし、実心は仁海死後五十年ほど後に生まれた人物で、仁海の伝承が正しく伝わっていても 不思議でなく、仁海が蘇悉地法を始めた可能性は考えられるであろう。 v 宗叡以降の人師逮に実際に蘇悉地の利伝があったか否かは判然としないものの、淳祐や元呆がム口密と密接な交 流を持っていた様子は他の資料からも窺える。まず、淳祐であるが、祐宝(一六五六

1

一七二七)撰﹃金剛項無 上正宗続伝灯広偽﹄中の﹁十一一ブ祖東院贈大僧都江州石山普賢院ノ閉山内供奉淳祐ノ伝﹂﹁伝法﹂には淳祐授法 の弟子として以下のような記述がある。 n u q o 円 r u 座│伝 主│法 統 ・ く 元 呆 延命院潟瓶 -救 世 神応寺広沢ニ詳 未 詳 ・ 慈 慧 (龍谷大学大宮図書館蔵・四冊中の二冊目・ニ二丁・裏) 池 上 同 -長 鞍 比叡山 -官 見 申 一 川 すなわち、比叡山の良源(九一二

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九八五)が淳祐授法の弟子であり、元呆とは兄弟弟子にあたることが記されて

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い旬。また、元呆と良源の間には親密な交流があったことが、﹃天台霞楳﹄二編巻三所収の﹃金剛界念前一賦﹄や ﹃金剛界念諦賦﹄は良源から元呆にあてた書簡であり、その冒頭には ﹃同賛金剛界賦﹄から窺える。まず、 五大明 J: を "1 心とする仁 I経娃!M'(~成立の背景 十 ル ニ ラ 7 ヲ へ 品 ム ニ へ 累月金剛界。手白供二華香一老病以来、不 ν = 自 修 一 令 ニ 同 一 伴 供 寸 永 観 一 五 年 七 月 , ヲ シ テ ヲ ス ノ ル ユ メ ム ヲ ラ カ ニ テ ニ ス ヲ ス ル コ ト 不 ν v止。怒 ν ニ 進 修 一 非 ニ H 疋身病之疫一為 ν令ニ常勤不九八、愛向 ν壇感ニ相催一転 ν カ ル ヤ シ テ ヲ ス ヲ ニ 人誰知乎。今賦=中心 J 呈 ニ 之 同 志 ﹂ 珠 十 昔 涙 六 日 数ノ H ~I: 下 。 齢 仏,、無キ H寺 H佐タ

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月十 (.L当 / 事 JI台 J I漉 界 ( ﹃ 日 仏 全 ﹄ 一 二 五 ・ 一 八 七 頁 ・ 上 ) とある。これは、永観元年(九八三)、良源七二歳の頃で、当時良源は天台座主であった。ここで良搬は、﹁昔の 血気盛んなころは全て自ら行っていたのに、年老いて病に倒れてからは、自分ではできず、周闘の人に手伝って - 231

もらうようになった。しかし、作法などは自分で行わざるを得ないので、無理がたたって、病が回復しない。そ れでも、鹿主の勤務からは逃れられないので、壇に向かうとせきたてられるような気持ちであり、涙を流すこと も多い﹂と、自らの老いと病を悔やんでいる。そして、・﹁このような良淑白身の状況を、仏はただ照らしてくれ るに違いないが、他の人は誰が知っているであろうか﹂と思い悩んでいる様子が窺える。そして、今、自らの心 の中に思うことを述べて、これを昔日の同志である元呆に差し出すというのである。座主職であるために、周囲 のものに弱音を吐くことが出来ず、壮齢の頃に淳祐の元で、共に研鎖した昔日の同輩に心の内を明かしているの である。さらに﹃同賛金剛界賦﹄は良源の﹃金剛界念稲賦﹄に対して元呆が返事した書簡である。その冒頭には 台 和 尚 、 テ リ レ A 7 -蓮華部心源出 ν白=天竺国﹂流及=日本州一 へ ヲ ノ パ レ リ ニ 受学超ニ於他人一延暦道場興降勝二於他処一 今 大 和 尚 、

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又 ス 是 ニ 閑 天 金 剛 界 会 、 受 学 之 人 、

(16)

庭一調味養 ν 性 。 ノ ニ マ ル ヤ 何 点 止 乎 。 ミ テ 予 ヲ 像 以 -霊 山 詞 J ヘ テ シ テ タ 相応讃目。 ( ﹃ 日 仏 全 ﹄ 一二五・一八七頁・下 1 一 八 八 頁 ・ 上 ) 五大明王を中心とする仁王経受茶権成立の背景 とあり﹁インドより日本に伝わった密教の教えは多くの人に学ばれ、その数も知れないほどであり、密教が興隆 した地も多いが、その中でも良源は他のどの人よりも密教を学ぴ、比叡山の密教道場の興隆はその他のどこより も勝っている﹂と良源や比叡山を褒め称えている。その上で、﹁乱文ではあるけれども、お返事いたします﹂と して、返事をしたためているのである。このような良源と元果のやりとりから窺えるのは、両者が壮齢の時から 高齢に至るまで、親しく交流していたということであり、東密の淳祐や元呆が台密の僧侶とも親密な関係であっ たことを窺い知ることができるのである。そのように考えれば、元呆の残した仁王経受茶羅様や、住まいであっ た醍醐寺延命院の天井図に台密の要素が取り入れられていたとしても何ら不審ではない。さらに、その弟子であ る仁海も同じように台密の事例を参照できる環境にあったことは想像に難くなく、仁海に蘇悉地の伝承があった というのも、強ち偽りではないと推測出来る。 すなわち仁海は、師の残した図様や、安然の記述の中に見られる五大明王を一壇に配置する受茶羅などを参考 に五大明王を中心とする仁王経受茶羅を作成したと考えることができるのである。 - 232

以上、仁海が考案したと考えられる五大明王を中心とする仁王経受茶羅について成立の背景を考察した。この 仁海本仁王経受茶羅に関しては、その典拠である﹃仁王経念諦儀軌﹄によると、菩薩を中心に描くべきであるの に、五大明王が中心に描かれているということについて、広沢流の覚印からも指摘されており、平安時代、既に

(17)

疑難としてあがっていたことがわかる。そこで、仁海の時代に存在していたであろう仁王経受茶羅の古様を台密 の記述にまで広げて確認した。その結果、特に台密の安然には五大明王を一壇に安置する﹃仁王経念諦儀軌﹄に 基づいた受茶羅の構想があったことがわかった。また、仁海の師である元呆周辺の受茶羅図にも台密の影特が見 られると考えられ、仁海はこういった仁王経受茶羅様を参照して仁海本仁王経受茶羅を作成したものと考えられ る 五大日月五を中心とする仁王経受茶羅成立の背景 従来、基本的に東密において発展してきたと考えられてきた仁王経受茶羅に台密の影響が見られることは大変 興味深く、このようなことから、東密と台密の交流が深かった様子が窺える。なお、台密の安然がなぜ、﹃仁王 経念論儀軌﹄を典拠に五大明王を中心とする受茶羅を作成するに至ったのかという問題を考える必要があるが、 それは今後の課題としたい。 - 233一 註 ①仁王経会の日本における始まりは、斉明天皇六年(六六

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)

と言われており、古くより我が同に伝わっていたこと が知られている。すなわち、もともとは顕教によって行われており、その本尊は百仏菩薩羅漢像や五大力菩雌像であ ったと考えられる。これについて演田隆氏は天平勝宝五年(七五三)、天平宝字問年(七六

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)

の仁王会の際に形相 すさまじい密教風の像容の五大力菩薩像がもちいられたという事実には少なからず奇異の感を抱くと詳している。 (演出隆﹁五大力菩薩関像と高野山国宝像﹂﹃岡事﹄八

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七号、一九五九) ②﹃仁王経﹄には、法議釈の一巻本、羅什訳の二巻本、民諦訳の一巻本、不空訳の二巻本の四種があると畳間われてい るが、現存は羅什訳と不空訳の二本である。顕教の経典であった旧訳を密教的に解釈、改訳したものが新訳﹃仁王 経﹄と言える。新訳﹃仁王経﹄に基づく儀軌が仁王経受茶羅の所依の儀軌﹃仁王念諦儀軌﹄である。(栂尾群雲寸密 教経典と護国思想﹂﹃密教研究﹄第七四号・一九七

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。錦織亮介﹁仁王経受茶羅の形式│儀軌と図像の間│﹂﹃仰教芸 術 ﹄ 一

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一 号 ・ 一 九 七 五 。 ︿ 以 下 錦 織 亮 介 前 掲 論 文 ﹀ )

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③鍵和田聖子﹁仁海本仁王経憂茶羅の思想的裏付け 1 金剛利菩薩の三昧耶形を中心に i ﹂ ﹃ 密 教 図 像 ﹄ 三

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・ 二

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一 一 ( 以 下 ﹁ 前 掲 拙 稿 ① ﹂ ) 。 ④﹃覚禅紗﹄(﹃大正図像﹄四・六八一・上)﹃遍口紗﹄(﹃大正蔵﹄七八・六九四・下)﹃秘紗問答﹄(﹃大正蔵﹄七八・ 三六八・下)等に知照に描かせた経緯が説明される。 ⑤中野玄三﹃続日本仏教美術史研究﹄忠文悶・二

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六、錦織亮介前掲論文、川村知行﹁醍醐寺の仁王経蔓茶羅と図 像﹂﹃醍醐寺の密教と社会﹄山喜房仏書林・一九九一︿以下川村知行前掲論文﹀等。 ⑥恵什﹃図像抄﹄に﹁遍照寺御伝﹂つまり、寛朝伝として般若菩薩を中尊とする受茶羅が紹介されている。(﹃大正図 像 ﹄ 巻 三 ・ 一 一 一 良 ) ⑦以下錦織亮介前掲論文参照。 ⑧﹃大正図像﹄十二・別紙一一。 ⑨金沢文庫蔵(二三九函 1 六ム己・正応三年十一月銀阿書写本。初写年建仁三年。 ⑬ 前 掲 拙 稿 ① ⑪﹃大正蔵﹄七五・七八

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・下。本論二八二頁 1 二 八 三 頁 。 ⑫川村知行前掲論文。 ⑬﹃大正図像﹄四・三一七頁・上。 ⑬石山寺校倉聖教内﹁五忍受茶羅鰍﹂と表記(京都国立博物館編﹃画像不動明王﹄) ⑬金沢文庫本﹃仁王経法私・興﹄﹁天井ノ隻陀羅﹂。 ⑬鍵和田聖子寸東寺講堂立体受茶羅の思想的背景﹂﹃龍谷大学大学院文学研究科紀要﹄二八・二

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六 。 ⑫石山寺校倉聖教内﹁五忍量茶羅鰍﹂と表記(京都国立博物館編﹃画像不動明王﹄)。 ⑬﹃大正蔵﹄七六・一三六頁・中。 ⑬高野山大学図書館に金剛三昧院蔵書の写本が保管されている。請求番号四八五・ヒ・二ハ。 @実心は醍醐理性院賢覚(一

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-五 六 ) の 弟 子 。 @栄海(一二七八 1 一三四七)﹃判守主紗﹄巻一七二日仏全﹄五二・五三三頁・下 1 五 三 五 頁 ・ 下 ) 、 呆 宝 ( 二 二

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六 ー一三六二)﹃実冊紗﹄巻三(﹃大正蔵﹄七七・七九九頁・下)など。三崎良周﹁東密における蘇悉地﹂(三崎良周﹃台 五大明王を中心とする仁王経隻策緩成立の背景 - 234

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、 b 五大lI}j 壬を中心とするi:正経畳茶羅成立の 1~策 密の研究﹄一九八八・創文社・六

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六 頁 1 六 五 三 頁 ) 参 照 。 ⑫三崎良間前掲本・六

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六頁 1 六 五 三 頁 。 @龍谷大学大宮図書館本は、四冊一具となっており、外題が一冊目が﹁﹃伝灯広録後﹄巻一之四﹂、二冊目から四冊目 が﹃統伝灯広録﹄とあり、二冊目が﹁巻一之七﹂三冊日が﹁巻八之十三﹂四冊目が巻一之八下と記される。そのうち、 ﹃金剛項無上正宗統伝灯広録﹄は二附日に所収されており、奥山骨に﹁享保卜二年六月六日早率書写之了一校了宇 和三突亥年二月以件本会模写之三月六日白校合了浮木玄瑞﹂と記されている。(龍谷大学大宮図書館蔵︿二九六│ 五/八五

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四 ﹀ ) @ 石 山 寺 文 化 財 綜 A 口調査同編﹃石山寺の研究﹄(一九七八 1 一九九二・法蔵館)では築島裕氏を中心に石山寺聖教の 訓点研究が行われ、比叡山点が付された聖教が多く発見されている。 キーワード 仁王経受茶羅、五大明王、仁海、安然 戸 h d q J

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