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佛教学研究 第69号 013松島, 央龍「仏教とは何か : 説一切有部の仏教観」

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仏教とは何か

仏教とは何か

一一説一切有部の仏教観一一

松 島 央 龍

仏教とは何か.仏教を学ぶものなら誰でも抱くであろうこの単純な疑問に 答える事は.残念ながら筆者の力量のおよぶところではない.本稿は.この 間いに対する説一切有部の同答を紹介する.この「仏教云何=仏教とは何 か」という疑問ははじめ「発智論』で議論されたが,そこでは例によって簡 潔な問答がなされるのみである.詳細を理解するには r大見婆沙論』を縮か なければならない.ここでいう「仏教」とは今 11.理解される意味での仏教と いうよりも r仏語/仏説 buddhavacanaJのことであるが,そこではこの 問題を論じる

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的,仏教の本質,仏教の作用と形式などが説かれている.従 ってその議論を追う事で,説一切有部の仏教観を示すことができるであろう. 『大昆婆沙論』 T27, 658c24-28 悌教云何.乃至臆説. 附何故作此諭.

議論の目的

答矯止於非悌教起側;教想故.如l今有言.我説{帰教.我間働教.彼於非悌 -

(2)

209-仏教とは例か 教中起仰教恕.偽欲遮Il:如是想、故,J:.え矯暴員示制I~ 所説者是民刊I~教,除所説 者非民側i教故,作斯論. 仏教とは何か云々. {問]何のためにこのことを論じるのか. [答]仏教ではないものに対して「仏教である」と考えることを否認す るためである.今, r私は仏教を説く Jr私は仏教を聞く」と言うものが あるが,彼は仏教ではないものに対して,それが仏教であるという恕い を起こしているのである.このような想いをせきとめて否認するために, また,仏の所説が真の仏教であり,それ以外の所説は真の仏教ではない ということを明らかにするために,このことを論じるのである. なぜ「仏教とは何か」を論じるかというと,仏教と疑似仏教との違いを明 確にし,疑似仏教を仏教であると思い込む事をとどめるためである.ここで 仏教とは「仏の所説J,すなわち仏説であり,それ以外は疑似仏教であると ¥.-"1つ.

アビダルマ仏説論

しかし仏説のみが仏教であるならば,アビダルマは仏教であるといえる のかという疑川が当然予怨される.そのため, 11"大見婆沙論』は口頭で r発

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命』が仏説である事を論じている.このアビダルマ仏説諭は後代1I"

1

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合 論』で再ぴ疑問視され,それに対して町l顕正理論』は詳細な反論を加えてい る.ここでは本稿に関連する筒所を紛介する. 『大見婆沙諭』 アビダルマの起源とその説者について 『発智論』は仏説でありながら,カー卜ヤーヤニープトラ作であることの -

(3)

210-仏教とは何か 説明のひとつとして, r妙願による智慧を仰て‘かつて過去五百仏のもとで 党行を積み11'在、は未米世で釈迦牟尼仏の般

i

里繋の後にアビダルマをつくろ う』と弘く誓願を発した」からであるという r発智論』作成が欝阪という 利他を根拠としていることは注

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に値する. また,直接の仏語ではないものが仏説と見なされる根拠を二点挙げている が.重要なのは「法性に違わなければ」という説である. また、仏説であっても仏弟子の説であっても,それが法性に反しないな らば, Itl:尊は受持する事をピクに許したのである.従って,かの尊者は [アピダルマが]次々と伝承されたものを聴いたり.あるいは願による 智慈の力によって

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ら[アピダルマを]観察し.これを編集して正しい 法が世に長らくとどまるように.この諭を作ったのである[から,これ も仏説に他ならない

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たとえ仏弟子の説であっても法性に反しない教えを「受持する事をとクに許 した」とし 寸理論は, rJI出正理論』にも受け継がれる. また, r正しい法法.が

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に長らくとどまるようJ に r発

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られている. がë~' ては rliln正理論』から紹介したい.まずは,仏がアピダルマを説いた理 由を述べる筒所である. 世間の人々に.択法を修習して諸々の煩悩を減せしめるために,仏はア ビダルマを説いたのである. もしも仏が[アピダルマを]説かなかった のならば.舎利弗などの偉大な声聞もまた,諸jよ-のキ

1

1

を道理に合うよう に分析する事はできなかったであろう.従って.この論のよりどころで ある根本アピダルマは必ず仏説なので・ある. - 211

(4)

仏教とは何か また, 1-止親の立場で‘は仏が説いたものだけを仏説と認め,仏が許可をしたア ピダルマを仏説と認めない,という批判を想定し,次のように答えている. [あなたが主張するであろう通りに]諸経典についても仏が[弟子に説 く事を]認めているものを仏説としないのならば,大量の経典を捨て去 らなければならなくなる. ここでは, (1)アビダルマは仏が,I市去の相を人々に理解させるために説いたものであ り,仏が説かれなかったとしたら,誰も諸法を正しく分析できなかったであ ろう.

(

2

)

仏説のみならず,仏が弟子に説くことも認めた教えもまた仏説とみな してよい. という事が挙げられる. このうち第一の点は「正法久住」説を,そして第二の点は

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,去性に反しなけ れば」という説を引き継ぐものであり,後述するト二分教の契経の定義にも nJいられる.

疑似仏教とは

以上のようにアピダルマも仏説=仏教である事が説かれたが,では疑似仏 教とは何なのだろうか.そしてなぜそうしたものが起こるのだろうか.続け て述べる. T27. 658c29-al0 : 問今時1"J故有作是常.我説伺i教,我聞刊I~教. 答彼依桜本故作是説.謂今所説,染・

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手,縛・解,生死・

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呈繋, 1きl・果 等法,十

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本皆是刊

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説故.

(5)

仏教とは何か

有説.1,皮依相似而説.謂悌先依如是次第名句文身鵠他演説.今亦復依 ~Il

是次第名句文身而宣説故.

有説.彼依随11仮而説.調悌先

1

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(

如是│強順名句文身筋

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也演説.今亦復依ftll 是随順名句文身而宣説故.

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説.í皮依期事慮 IRl 故作是説.謂如利I~法親問 i1~ 昆入烈得果,離染遜i%ft.

開今所説亦現時斯事. {問}ではどうして今 r私は仏教を説くJr私は仏教を聞く」と言うも のがあるのか. {答]彼はその起源(松本)にもとづいてそのように言うのである.今 説くところの染・浄,縛・解,生死.~早繋, [大│・果などの法もその起源 はみな仏の所説だからである. [別解①]ある論師は言う r彼は相似にもとづいてそのように言うの である.すなわち.仏は以前このような順序の名・句・文身によって他 の人々のために説き,今もまた同様な 11頃序の名・句・文身によって説く からである」と.

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解②]またある論師は言う r彼は[内容の]順序を考えることに もとつeいて説くのである. すなわち,仏は以前このように[内容の] 順序を考えた名・句・文身によって他の人々のために説き,今もまた同 様に順序を考えた名.

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J

・文身によって説くからである」と. [別解③}またある論師は言う r彼はものごとを説き教える(事を弁 ずる)場所を同じくすることにもとづいてそのように言うのである.す なわち,仏の面前で直接法話を聴き,人聖し, [阿羅漢]果を得て.煩 悩を離れ.煩悩を尽くしたように,今の所説を聞いてもまたそのような 事を弁じるからである」と. 疑似仏教の発生について四つの説が紹介される.①教義の内容や.②語順. そして③内脊の順序.④説教の場を同じくして.今また説く事が

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j]様である q J 内 r u

(6)

仏教とは何か から,いま疑似仏教に対してそれが仏教であると思い込むのである.いずれ も否定されるのは「人によるな,法によれ」の精神にもとづくのであろう. これに統L、ては仏教とはどのようなものなのかが}議論される.

仏教は仏語である

T27. 659al1-22 : 働教云何. 答鵡倒語言昭詞評論議音話路語業語表.是調仰教.

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1

11fi111佐是認表,非無表耶. 答生他正解放名悌教.他正解生,但山表業,非無表故. 有i泌.1i帰教耳識所取,非無表業可Ir 識取故非刊I~教. 有説.伺;教二識所取,諸無表業唯一識取故非刊I~教. 有税.世尊三無数-幼,精勤/''i行,求仰語表.今得成~~1 ,非無表故.部仰

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:

尊,昔於無量正等究所,精勤苦行,求無

.

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科,潟他説法,依藤界慮, ;R組界!蓮,展勝利純,今得成制I~ , i~ ,ì持有情,演説法・要,令捨生死符般世 繋.此事背山側語表業.是故仰教H佐悌語表. 【

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悶】仏教とは何か. 【答】仏の語言,

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詞,評論,語此話路,語業,語表ーこれを仏教 (仏語)というのである. 【IIIJ]なぜ仏教は部去のみであって, [語の]無表はそうではないのか. 【答]他者に正しく理解を生じさせるから仏教というのであるが,他者 が

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しく限解するのはただ[語]表業によってであって,

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の]

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県衣 によるのではないからである.

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解①]ある人が言う r仏教は;上

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識の認識対象であるが, [首長]無表 業は耳識が認識できるものではないから,仏教ではない」と. 【別解②]またある人が言う r仏教は[耳識と意識との]二識の認識 a q ワ 白

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仏教とはれ4か 刈象であるが.無表業はただ[意識だけの]ー識が認識するものである から,仏教ではない」と. [}}IJ解③]またある人が言う r世草は三無数封jの問,努力し苦行し 仏の語表を求めて.そして今それを成就したのであるが,無表はそのよ うではないからである.つまり,仏・

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:

尊.は背,無-量の正等覚たちのも とで努力し苦行し.無上の符惑を求め,他者のために法を説こうとして 組・界・処[という教え]によって,組・界・処[という教え]を求め, 何度も生まれ変わって(展転相続),今生で仏と成ることができ,諸々 の生あるもののために法話を説き,生死を離れて般j呈繋を得させるので ある. しかもこれはみな仏の語表業の働きによるのであるから‘仏教は 仏の語表だけなのである」と. ここから仏教の定義が開始される.まず仏教とは仏の言葉であるというが. このうち唱詞は後述する一1-二分教の応頚等に,評論は論議などに相当するも のであろう.仏教はなぜ無表ではなく表業であるのか. という事が説かれる が.仏教は(1)他者に正しく理解させるもの (2)耳識の認識対象 (3)耳 識と意識との認識対象 (4)諸有↑!?のために法話を説j 生死輪廻を離れて 般浬繋させるもの, という四つの説が紹介される.ここで注目すべきは(1) と (4)とであるが、それぞれに少し解説を加えたい.まず,仏の語表業は 「他者に正しく理解させるもの」であるというが,これは表業の定義である, 「他者に(自らの心の詐必を)矢11らしめるもの」を受けたものである. 一方で無表は i(仏語を)他者に知らしめる」事はできないため.仏教は 語表のみである.次に (4)であるが‘この説明はO'

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具合論』の目頭侃への 影響をうかがわせる.いずれの説でも仏教とは仏が発したさまざまな語であ るという.これは.仏教は「聴くものに正しい理解を生じさせるもの」だと いう考えが桜本となっている これもまた仏教の利他の側而を良くあらわし ているだろう.

- 2

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(8)

仏教と!;J:fuIか

仏教の体

T27,

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:

問如是-仰教以1[11偽健.~是語業, 1為是名等.若是語業,次後所説嘗云や

1

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j盈.如説悌教名何法.容詞名身・句身・文身,次第行手11.次第安布,次 第連介.伽│他所説復云何通.如説欲潟頒因,文即是守,頒{氏名鱒,造者 潟依.若是名等此文所説蛍云何通.如説悌教云何 調悌語言乃至語表, 是謂側教. 答聴作是説.語業錫鰻. 問若爾.次後所説首云

1

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1

j邑.女fl r.Jí刊I~教名何法.答謂名身句身乃至!責説. 答後文~穎悌教作用,不欲開示刊I~教白健.部次第行列・安布・連合名句 文身,是悌教則. 問伽他所説復云何通. 答有於名縛,有於義特.此中且説於名勝者. 有説.刊;1教名等偽健. 問若爾.此文所説蛍云何通.如説仰教云何.謂悌語言.乃至臆説. 答依属勝因故作是説.如

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子孫民側生法.間語起名.名能鱒

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義.如是税 者語業矯憧.刊I~ 意所説他所開故. {問]では、そのような仏教の実体は何なのか.語業なのか,それとも 名など[の詔

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だとするのか.またもしも部業だとするならば,後述す る説をどう矛盾なく解釈すれば良いのか. [後述する説とは]つまり, 「仏教とは何に名付けるのか.名・句・文身が云々」という説のことで あるが,どうすればこれと矛盾なく理解できるのか.また[既に]偶で 述べた, r欲を碩の原因とする.文は字であり,碩は名によって転じて, それを造ったものをよりどころとする」という説をどう矛盾なく理解す るのか.また, もしも[仏教の体は]名など[の語]であるとするなら p h u

(9)

仏教とは何か ば,「仏教とは何か.仏の語言ないしは語表,これを仏教というのであ る」という先ほどの説とどう矛盾なく理解するのか.

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1

宇]このように答えるべきである. r [仏教は]語業を本体とする」と.

[

1

1:1]もしもそうならば. r仏教とは何に名付けるのか.名・句・文身 が順序よく並び,順序よく配置され.順序よくつながったものである」 という説をどうすれば矛盾なく理解できるのか. [符]"[今指摘された]後述の文は.仏教の作用を明らかにするための ものであり,仏教の体を明らかにしたものではない.つまり.‘名・句・ 文身を順序よく並べ.配置しつなげるのは仏教の作用である.

[

1

1

1

1

1

では先の備で説いたもの[すなわち「欲を云々

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は,どうすれ ば矛盾なく哩解できるのか. {符]名について転じるものもあり.義について転じるものもあるが. ここでは名について転じるものを説いたのである.ある人が説いたよう に. r仏教は名等を体とする」のである.

[

1

1

1:

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もしもそのようであるならば,次の文で説かれたことはどうすれ ば矛盾なく解釈できるのか.つまり, [先に引用した] r仏教とは何か. 仏の語言云々」という説である. [符]展転!大│によるために,そのように説いたのである.世間で子や孫 が11闘に(展転して)生まれるように.語は名を起こし,名は意味を表す のである. 正統派(如是説者)が説くように, r [仏語は]語業を体とす る.仏が説こうとすることは,他者が耳を傾けるものであるから」とい うのが正統説(如是説)である. 仏教の体は語業であるのか.あるいは語のよりどころである名・句・文であ るのか、 と問われる.これは、語業であるとするならば先述の説に矛府し, 名・句・文であるとすると後述の説に矛盾するからである 結論は.仏教の 体は語業である.なぜなら,仏の教えは他者が

1

1

を傾けるものだからである. ワ 白

(10)

仏教とは何か

仏教の等起

T27, 659b12-17 : 仰教嘗言善耶,無記耶,乃至演説. r.1J何故復作此諭. 符前雄穎示情;教自慢,而未頴示仰教等起.今欲顕示故作斯論. 仰教儲言普瑚),無記耶. 答或善,或無記. 云何善. 調働者・心所溌語言乃至語表. 云何無記. 調{弼無記心所鼓語言乃至語表. 仏教は善であるというべきなのか,それとも無記であるのか云々. {問}ではどうしてこのことを論じるのか. [答]ここまでは仏教の自体を明らかにしたが,まだ仏教の等起は明ら かにしていない.そのため,今それを明かそうとして論じるのである. 【問】仏教は善であるというべきなのか,それとも無記であるのか. 【答】善のものもあり,無記のものもある. 【[l

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】善のものはどのようなものか. 【答】仏の帯心から発せられた誠言ないしは語表である. 【fI日】無記のものはどのようなものか. 【答】仏の無認心から発せられた語言ないしは語表である. 仏の善心から発せられた青葉は善の言葉であり,仏の無記心から発せられた 言葉は無記の言葉である.では,どのような言葉が替であり,どのような言 葉が無記なのだろうか. - 218

(11)

仏教とはやIか T27‘659b17-c3 : 間於偽教中何者善,何者無記. 答阿昆達隣・案但横議.多分是帯.毘奈耶議多分無記.如世尊説。門癒 ~~l 閉,衣鉢熔霞竹架龍牙‘女Il}立等常皆無記故. 有説.悌教若偽所化説.謄知赴善.若矯絵事説.是則無記.如世尊合阿 難陀言.汝住観天潟耐不雨,

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中何故高聾大野.如是等需皆無記故. 有説.刊I~教 icV 用功説,熔生日是普. :('j:任運説是

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リ無記. 有説.

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部教力無畏等所掻受者,憾知是善.)J無畏等不磁受者,是則無記. 野間燭受託:心護語,普無記心倶得究寛.無記心殺語.無記善心倶得'先克. 刊I~奔心礎知,善心究克.無記心殺語,無記普心倶得究党.定無善心殺語, 無・記心究党.諸悌説法.有増無減故.悌所作業,定無萎退故. [問]仏の教えの中で,

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可が普であって何が無記のものであるのか. {答]論蔵と経蔵は多くは善であり,律蔵は多くは無記である.世尊が 説かれた「門はかんぬきで閉ざすべきであり,衣鉢は竹架・龍牙におく べきである」といった言葉はみな無記だから[律蔵は多くは無記]であ る. {別解①]ある論削iが説く r仏の教えのうちで‘教化のために説くも のであるならば,それは善のものであると理解すべきである. もしも教 化以外のために説いたものならば.それは無記のものである.たとえば‘ 世尊がアーナンダに行げていった.『雨が降っているのかいないのか. 行ってみできなさいJr[憎たちが]図で声を上げているのはなぜなの か』というような言葉は‘すべて無記のものである」と. [別解②]ある論自rliが説く r仏の教えのうち.[十])J.[四]無民の 摂受であるならば.それは善のものであると理解すべきである. もしも 力,無畏の摂受でないならば,それは無記のものであると理解すべきで ある」と. また,声附や独覚は.その善心から発した語については.普-と無記との 日 可 U つ h H

(12)

仏教とは何か 心がともに究克 (samapana/完成)することがあり,その無記心から 発した語については, 4~日己と普の心がともに究覚することがある.一方, 仏はその善心から発した諸については,善心のみが究寛し,その無記心 から発した語については,無記と普の心がともに究党することがある. しかし,その反対に善心から発した語で無記心がともに究覚するものは 決してない.なぜなら,諸仏の説法は[無記から背・へと]増大する事は あっても[普から無記へと]減少する事はないからである.また,諸仏 のなされることは決して衰退することはないからである. ここで三つの説が紹介されている. ( 1 )経蔵:普

1

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1 律蔵:無記中心 生活に関する言葉が多いため 論蔵:普中心

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2

)教化のための言葉は普 教化以外のための言葉は無記 これはその内容から, (1) と同様の分類であると考えられる. ( 3 )力・

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4

県民の摂受:普 それ以外:無記 『大昆婆沙論』の三蔵について論じる筒所から理解される事は,ここでいう 力の摂受は経蔵色無畏の摂受は論蔵を指し,それ以外は律蔵のことである. 従って,これらの説は分類法は異なるものの,その怠図は同一であり,ま た律蔵に合まれる日常生活に関する言葉は無記である,ということで一致し ている. 仏教の作用 T27. 659c4-8 : 仰教名何法,乃至廃説.

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(13)

仏教とはfnIか 間何故復作此論. 答前雌顕示悌教白健,而未顕示悌教作用,今偽顕示故作斯論.

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弗教名何法. 答調名身・句身・文身.次第行列.次第安布,次第連合. 此則線穎悌教作用. 【問】仏教とは,何の法をそのように呼ぶのか云々.

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りでは,何のためにこのことを論じるのか. [答]既に仏教の自体をIIJJらかにしたが.仏教の作用はまだ明らかにさ れていないため,それを示すためにこのことを論じるのである. 【問】仏教とは,何のj去をそのように呼ぶのか. 【答】名・句・文身が順序よく並び,配置し,つながったものである. これは総じて仏教の作用を明らかにするものである. 仏教の作用とは名身・句身・文身が順序よく並び,配置されたものであると いうが,そうであるからこそ「聴くものに正しい理解を生じさせる」のであ る.これも仏教の利他/教導という側面を良く表してるといえるだろう.

仏教の形式

( 1 )十二分教 『大昆婆沙論J T. 27, 659c8-12 : 契経.癒碩,記説.伽他. 1'1説.因縁,警町議,本事.本生.方庚.希法, 論議,名作j法. 答謂名身・句身・文身.次第行列.次第安布.次第連合.是名悌教作用 差別. {問]契経,応、額、記別.訊碩,自説,縁起,醤l恥本事‘.本生,方広, - 221

(14)

-仏教とは1n1か 希

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去, iii命

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義とは

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か. {答] 名・句・文身が1)恒序よく並ぴ, 1)頂序よく配置され,順序よくつ ながったものである.これを仏教のすぐれた作用とよぷ. このいわゆる卜二分教が仏教の形式であるのだが,『大昆婆沙論』は第一巻 で仏陀がなぜこの十二分教を説き示したのかを論じている.これはアピダル マ仏説論へと通じる箇所であるが,そこで明確に主張されているのは, O"

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論』も仏陀の卜二分教も,他者の利益となるように説き示された,という ことである.そこではアピダルマ/十二分教が蓮華・を照らすH光・月光や時 間を!!日らす灯火に除えられる.智慧-という│珂があったとしても,『発科1論』 や卜二分教のような縁によって照らされなければ,智慧が閥かれて'悟ること ω はできないからである.仏教のもつ利他の面が強調されるとともに,困ー紘一 栄の荒要性が示されているのである. 続いては『大見婆沙諭.DII"JI~~正理論』の十二分教のそれぞれを見ていくが, 紙数の都合上 rJI出正理論』からは契経,方!黄,論議のみ本文を紹介する.Hij

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[1964Jが指摘するように,全体として『大昆婆沙論』の説は伝統的解釈 に忠実であり,一方Ii'IJ恒正埋論』は r大見婆沙諭』よりも11"11命伽師地論』や 『大乗阿毘連情集論』など, 11佐識系の ~í命書への類似を示している. 契 経(sutra) 『大昆婆沙諭』 契経云1;i

.

1

鯖諸経

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技説文句.立l

ji諸行無常,諸法無我, ~M繋寂静等. 問契経有や

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義. 特此略説有二義.一結集義,二

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り定義. 結集義者,謂{略語言能帰持義,如イと望楼.女

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結質者以綾結花冠衆生首. つ 臼 ヮ “

(15)

仏教とは何か 久無退散.如是悌教結集義[IIJ,冠有情心.久

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1

性忘失. 刊定義者¥謂仰語言能裁断義,如匠.縄墨.如

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巧者縄墨衆材,易了正邪, 去 ~UJ 留直.如是悌教刊定義f"J ,易了是非.去悪留普. 契経とは何か.経典に散説された文句である.「,諸行は無常である.諸 j去は無我である.

i

呈繋は寂静である」などである. 【問】契経[と言う語]の意味は何か. 【答]略せば二つの意味がある r結集」と rflJ定」とである. まず「結集」というのは.仏の言葉は意義をよくまとめる点で花髭のひ ものようである.結望者がひもで花を結ぴ,人々の首にかけると長い間 ほどけることがないように,同様に仏教は教義を結集して人々の心にか けると.長い間忘れることがないのである. 次に rfIJ定」というのは.仏の言葉が意味を断ち切ることは.匠の墨縄 のようである.大工が材木に墨縄をひいて善し悪しをわかりやすくし 山がった材・木を除いてまっすぐな材木を選ぴとどめるように,同様に仏 教は怠義を

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定してその是非をわかりやすくし悪を取り除いて普をと どめるのである. 11"1)悩正理論』 言契経者.澗能線端容納随Jl

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俗勝義堅賞理常.UI1是契経是{弗所説.成 悌弟子側許故説. 契経というのは.世俗と勝義との堅実の理の言葉を総じて収め, 1)阪序を よく考えて説くのである このような契経は仏の所説であり.あるいは 仏の許可によって仏弟子が説いたものである. 『大昆婆沙論』では経は形式としては仏が散説された言葉であり, r結集」 と rflJ定」の怠l床だとする rひもJや「墨縄」のたとえは r経 /sutra= 縦糸」の語義をよくあらわしており興味深い.また,前者は正法久住を

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1

(J~J q a q L

(16)

仏教とは1iiIか とし後者は悪を取り│徐き普を勧める事を日的とすることは重要で、あろう. rJI民正理論』では形式はそれに準ずるものの,「仏の許可によって仏弟子が 説いたもの」も合めている.これは先行論書には見られず, r釈軌論』のみ が同様の解釈をしている.この定義は衆賢によりアビダルマ仏説の恨拠とさ れた.

慮 頒

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r大見婆沙論』 熔碩云何.謂諸経l十1依前散説契経文句,後結局頒,而楓前之.即結集文. 結集品等.知世尊台~:錦衆言.我説知見能査諸j属 若無知見能墨漏者, 無有是彪.世尊散説,此文句巳復結矯頒,而掘調言 有知l 見識ìJr;j~ ~県知見不然 達 趨 生 滅 時 心 解 脱 煩 悩 応頒とは何か. 前述の散説された契.教の文句にもとづいて,後に結ぴの頒として,それ を11日えるのである.つまり,文をまとめ,章をまとめる等である. 「私は知見によって諸々の煩悩を尽くすと説くが, もし知l見がなければ 煩悩を尽くすことはあり得ない」と世尊がピクたちに告げたようなもの であるが,世尊が散説したこの文句は,また結んで'項としてl唱えるので ある. 「知見あるものは煩悩を尽くすが 知l見なきものはそうではない 離の生滅に達するとき 心は煩悩を解脱する」 r大見渡沙論』は経典の文句をまとめて,頒の形として繰り返すものである という.IrIJ恒.正理論』ではそれを「讃える」とした上で,あるものの説とし て唯識系の論書に見られる「経典は未了義であるから,その理解を深めるた - 224

(17)

仏教とはfpfか めに頒の形で補うものである」という説を引用する. 記 説

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『大毘婆沙諭』 記説云何.謂諸経中諸弟子1111如来記説,或如来問弟子記説,或弟子問弟 子記説.化諸天等間記亦然.-{'i:諸終

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四種間記.若記所讃所生!義等. 記説とは何か. 経典中,弟子たちが

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~、如米が記説し,あるいは如来が問い弟子が記説 し,あるいは弟子が問い弟子が記説したものをいう.化身と諸天との問 と[それに対する]記説もまた同様である.もしくは,経典中の四種間 記,あるいは[未米世において〕悟りを得る事やどのような生まれを得 るかを記する等のものである. 『大昆婆沙論』ではまず問答の形式を取り,そしてその形式は四種間記など に制限される. という.またその内容は未来世の授記にかぎられるとするが, rJI頃正理論』では三世に渡る(或諸所有緋曾嘗現)とし,ここでも唯識系の 説.を引用している. 伽 他

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『大昆婆沙論』 伽他云何.謂諸経中結句楓碩彼彼所説、即麟碩等. 如伽他言 習近親愛輿怨憎 使生食欲及眠窓 ω 故 諸 智 者 倶 遠 避 燭 慮 経 行 如l麟角 -h d ヮ “ ワ 臼

(18)

仏教とは何か 伽他とは何か. 経典中の結1ljや楓頒それぞれの所説であり,麟頒等である.伽l他に次の ようにいうようなものである. 「親愛・怨'11;~1 に慣れ親しむと すなわち食欲や11m志を生じる それi吹に請の智者はこれらをともに避け 独り経行すること麟角 のごとし」 『大昆婆沙論J,

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恒正理論』どちらも応、預とは異なり,前の説をまとめたの ではなく単独で意味をなすものであるという.また,

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唯一

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正理論』はここで も「あるいは二・三・四・五・六句など[によってうたうもの]である(或 二三四五六旬等)J として唯識系の論書-に見える説を紹介する.

自説

(udana)

『大見婆沙論』 自説云

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五百諸経

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憂喜事,世尊自説. 因喜事者.女11悌一時見野象王,便白頒日 象玉陪l蹟 野 放 暢 心 無 憂 符

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虚!羽林治進志悟寂 困憂事者.如悌一時見老夫妻,便白頒日 少不修党行 喪失聖財賓 今加 l 二老鶴共守~fM也 白説とは1111か. 経 典 中 , 憂 い や # ぴ の

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で そ の た め に 世 尊 が [ 他 者 か ら の 要 請 で は な く]I~ ら説くものである. 喜ばしいことによるものは,たとえば仏があるとき野生の象の玉を見て, 自ら碩をなしたようなものである. - 226

(19)

仏教とは何か 「象王は広野にとどまり ほしいままにして心に憂いがない 智者は静かな林にとどまり 遁逢し志はa閑寂である」 憂うべきことによるものは,たとえば仏があるとき老夫婦を凡て,自ら 頒をなしたようなものである. 「若い時に発行を修養しないと 聖人の財宝を喪失してしまう 今二羽の老いた鶴が ともに一つの捌れ池を守るように」 これは

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llj論書に大きな違いはない.世尊が喜ばしい事や憂うべきことに触れ, 周りの要請からではなく自ら額したものである.

因縁/縁起

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『大毘婆沙論』 閃紋云何.調諸経中過諸因縁,而有所説.如義品等種種因縁.~II 毘奈耶 作如是説.

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菩財子等品初犯罪,是故

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l:尊集芯努僧,

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立皐慮. 因縁とはやすか. 経~Ip ドに様々な因縁にあって説かれたものである.義足経等で様々な因 縁を説くようなものである.また,律に以下のように説くようなもので ある r善財子などが故初に罪を犯したことにより,そのため111:尊はピ クサンガを集めて規則を制定した」と. これもどちらも大きな違いはなく,律を中心として,様々な出来事の由来を 述べるものである. 誓 喰

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『大昆婆沙論』

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(20)

227-仏教とは何か 持l除云何.部諸経中所説,種種衆多醤H食.如長警職・大警I聡等.女

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大j呈 繋持律者説. 饗l聡とは何か. 経典中に説かれた種々様々な警職であり,長警l除,大警l駄などのよう [な警喰の

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である.また,大浬燃の持律者の説のようなものである. 『大見婆沙論』はただ単に醤織であるとするが, D"JJ原正理論』ではその目的 は説かれた内容の埋解を助ける事を目的とする(潟令晩悟所説義宗,府引多 門,比例開示.) ,という.この説明は『釈軌論』にも見られる.また, rll頂 正埋論』に紹介される第二の説(有説此是除諸菩薩,説除本行能有所i者示所 化言: ある者は説く rこれは諸菩薩を除いて,その他の本行の所授がある ことを説j 所化の言を示すものである」と.)は平川によれば,

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期の警 職の特質を著したものである.

本事

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r大昆婆沙論』 本事云何.諸諸経中宣説前際所見聞事.立

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説過去有大王都名有香茅,玉 名善見.過去有仰名見鉢ド,偶諸弟子税如是法.過去有偽名儀式企・見 潟縛浮・絢洛迦孫駄・掲諾迦牟尼・迦葉j皮,偽諸弟子-説如l是法.加 1:是等. 本事とは何か. 経典中に,前生で見聞した事を説くようなものである.たとえば, 「過去に有香芽(クサーヴァティ)という名の大きな王都があり,王は 芹見王といった.J r過去に昆鉢戸(ヴィパシー)という名の仏がいて, ~J 子たちにこのような訟を説いた.J r過去に式全(シキー),見混縛浮 (ヴィシュヴァブーに掬洛迦孫駄(クラクッチャンダ),縄訪迦牟尼 (カナカムニ)迦葉波(カーシュヤパ)という名の仏がいて,弟子たち

-

(21)

228-仏教とは何か にこのような法を説いた」といったものである. 『大昆婆沙論』は仏が前世で見

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したというのに対しli'IJ国正理論』では誰 がどこでどのような因縁で説いたかは明かさない(不顕説人)とする.前同 が指摘する通り, li'IJ頂

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耳目論』は醤喰の説話性を強制する点で.先ほど見た 「警l聡」の定義│日]様 r大毘婆j'T論』より一歩進んでいるといえるだろう.

本生

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『大毘婆沙論』 ω 本生云何.謂諸経中宣説過去所経生事.如熊鹿等諸本生経.如併J因提婆 途多説五百本生事等. 本生とは

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肋 ¥ 経典中に,過去生の出来事を説いたものである 熊となったり,鹿とな ったり,という様々な本生経や,仏が提婆達多にちなんで五百[人に関 する]本生を説いたようなものである. 『大見婆沙論』が過去-111:の出来事と規定するのに対し, f'

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正理論』は本事 との比較を述べる.fll民正理論』によれば,本生が現在世の出来事にちなん で過去の出来事を語るのに対し.本事は過去世の出米事に始まり‘過去Ll

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の 事に終わるものであるという.

方虞

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「大毘婆沙論』 方底云何.謂諸経中成説種種甚深法義 如五三経・党網・幻網・五組・ 六慮・大│材紙等. - 229

(22)

-仏教とは何か 脇尊:者言.此",般若説名 JjJ貨.事用大 ,~5c. 方広とは何か. 経典

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に,広く種々甚深の法義を説いたものである.たとえば,五三経, 党網経,幻網経,五雄経,六処経,大因縁経等である. 脇尊符は「ここで,般若を説いて方広と名付ける 事・川が大であるか ら」と説く.

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理論』 言方!資者.謂以正理虞緯諸j去.以一切法性相衆多,非!長言言liJ.不能締故. 亦名成破.出此成言,能破極堅無智問i吹.或名無比.由此

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提言,理趣剛 博,除無比故. 有説此康器大菩提資糧. 方広というのは,正理をもって詳しく諸法を論じるものである.一切の 法の性・相は多種多様であるので,詳細な言葉でなければ論じる事がで きないからである.これはまた「広破」ともよばれる.この詳細な言葉 (広)によって,極めて強悶な無智の閲を打ち破る(破)からである. あるいはこれは「無比」ともよばれる.この詳細な言葉により,そのイ

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様は広く奥深くなり比類がない(無比)からである. あるものは,「これは詳細に大菩提の資糧を論じるものである」という. 白羽) 『大見婆沙諭』では例として,IP,される経典から,短~\文章を詳しく説いたも のという事が理解される.また,脇尊者の説が般若経を示唆するものである ならば,大乗に胃及している_t1~ になり, IIt~識系の方成=大乗 fi$í に通じる. 一方

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正理論』は「広破Jr無比」ともよばれるとしそれぞれの名称を 得る特徴を述べているが,こちらは内容をアピダルマに限定しているように 埋解される.また,イ子説としてこちらも JjJ背=大乗説を紹介しているのであ ろう.

- 2

3

0一

(23)

仏教とは何か

希法 (adbhutadharma)

r大毘婆沙論』 希U~ 云何.謂諸経中説三賀等甚希有事. 有除師i説.諸弟子-等,讃歎 111:尊希有功徳.女11舎利子讃歎世尊無上功徳. 尊者慶喜讃歎世尊甚希有法. 希法とは何か. 経典中.三宝などの非常に希有なものを説いたものである. 「弟子たちが世尊の希有な功徳を讃歎するものである.合利子が世尊 の無上の功徳を讃歎し慶喜(アーナンダ)尊者が!日:噂の非常に希有 な法を讃歎したようなものである」と他の人々はいう. 『大昆婆沙論』では(1 )三宝が希有である事と,他の人々の説として

(

2

)仏弟子による仏陀の功徳や法を.つまり仏と法とを讃歎したものであ り‘僧は合めない.とする説をあげる.一方『順正理論』では法に限定(唯 説希奇11

1

'11止同法)し(1 )の三宝の讃歎はある者の説としている.

論議 (upadesa)

『大昆婆沙論』 論議云何.調諸経中決判歎説大説等教.又如悌一時略説経己.便入静室. 宴歎多時,諸大星空間共集ー慮,各以種種異文句義,解稗側;語. 論議とは何か. 経典中の黙説や大説などの教えを判決するものである.また.仏がある とき,経を略説してすぐに側室に入り,長く禅定に入られた時に,偉大

- 2

3

1

(24)

仏教とは何か な声聞たちがーカ所に集まって,様々に異なった文言によって仏説を解 釈したようなものである. rJI国正理論』 言論議者.翻於上説諸分義't', ~!棋倒顕示稗難決様. 有説,於経所説深義巳見慎者,或除智人随理鯨稗亦名論議.日11此名日摩 但理迦.稗除経義時此矯本母故.此又名潟阿見連勝.以能呪針諸法相故.

1

眼倒穎示諸法相故. 論議というのは,上に述べた諸々の分義の中で,誤り無く説示しし'難点 を解釈し

i

決犬択するものである.ある者は説く r経の所説の甚深の意義 において既に真実を見るもの,あるいは他の智者の道理に従って弁釈す るものもまた論

i

義と名付ける」と.またこれを名付けてマートリカーと もいう.多の経典の意義を解釈する H払これは本母となるからである. またこれをアビダルマとも名付ける.諸法の相に現に対する事ができる からであり,誤りなく諸法の相をl明らかにするからである. 『大昆婆沙論』では仏が略説して解説が得られなかった時に,弟子たちが集 まって解釈した,すなわち議論の結果が論議であるという.あるいはこの 「楠種異文句義」とは学派ごとにアビダルマが異なる事の起源をあらわして いるのであろうか. 一 方 I rIJ頃正理論』ではアピダルマによって経典の難解な部分を解釈するのだ という.つまりこちらでは解釈の因,道具としてアビダルマを理解している. また,ある者の説をどこまでとするかは問題であるが,唯識系の説を紹介し, 論

3

義=マー卜リカーニアピダルマとすることによって,アビダルマが仏説で あるヰ五も明らかにしている. 以上,それぞれの内容はそれほど難解ではないが, rIIJ出正理論』には明らか 内 r u q δ つ ' u

(25)

仏教とは何か な怠図が見える.第一に,契経の定義から仏が弟子たちに認めたものは仏説 とみなしでも良いという事.そして第二には論議がアビダルマの事で、ある. としてここでもアビダルマが仏説である. とした事である. ( 2 )三蔵 以上の十二分教と三蔵との関係は『大昆婆沙論』では詳らかにされない. ー れは r)1恒正理論』でも11司様であるが.11"1)恒正理論』は十二分教の解説につづ き.次のように述べている.

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如是所説卜二分教略説麿知三磁所掻.言三識者.一素但携議.二毘奈耶 磁.三阿見達磨磁. 以上のような十二分教は略説すると三蔵におさめられる.三蔵というの は‘ーに経蔵.二に律蔵,三に論蔵である. このように説くことによって司そして既に見たように十二分教の論議をアビ ダルマで川あるとすることによって.

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恒正理論』はアピダルマ・十二分教・ 三蔵の関連を強化する.従って仏教の形式である十二分教が全体としてはど のような性質なものなのか,それぞれの三!議論を見ていく必要がある r大 見婆沙論』では,冒頭でアピダルマの起源を論じた直後に三J哉の差典に関す る記述がある. 11'1)顕正理論』では四説が紹介されるが.その記述はほぼ『大 昆婆沙論』に沿ったものであるため,その違いのみを指摘する. 関 『大見婆沙論』 三蔵聖典中におけるアピダルマの地位に就いて

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諸仏が出現すると.みなそれぞれの三蔵を説き示す,という.では三蔵のそ れぞれにはどのような違いがあるのだろうか r大見婆沙諭』では,三人の q a q t u ワ 臼

(26)

仏教とは何か 論師の説が紹介される. 第一の論師 或有説者.無有差別.所以者

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一切仰教,従ー智海之所生故,随一党 池之所出故,等)J無投所嬬受i1i丸同一大悲所等起故. {答]ある論師は説いている r差異はない.なぜかというと,あらゆ る仏の教えは,一つの智の海から生まれたものであり,ひとつの悟りの 池から出たものであり,等しい)J, 無畏が受け取るものだからであり, また同じひとつの大悲から生じたものだからである」 これは,形式としては経・律・論の三つの械に分かれるが,それらはみな│司 ーの仏の智,悟りなどから生じたものであるから,本質的にはただ一つであ 刷 る,という.この説は,パーリに残る“

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一 味 " や 大 衆 部 説 に 通 じ るものであろう.なお,力や無投,大悲については後述する別解③を参J!日さ れたい 第二の諭師 復有説者.亦有差別.且名即義別.謂此名索│坦撹.此名見様耶.此名

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昆達磨.

復次依慮亦有差別.謂若依増1:心諭道,是素但締.若依増上戒論道,込-l

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株耶.若依増上慧論道,是ドiiJ民連磨. 間於一切中一切可得.謂菜・

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亦有依増上戒・増上慈論道.毘捺耶

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亦有依増上心・噌

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慧論道.阿見達磨中亦イ

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依増上心・増上戒論道. 立11)止三磁熔無差JJI]. 符依増勝説.翻案'1立続中依増上心論道増勝.昆株耶中依増上戒論道増Jf;券. 阿見達磨中依増上慧論道増勝. ﹄ 且 τ q δ ワ u

(27)

仏教とは和iか [ }Jlj解}またある論師は説いている r差異はある.まずは,名称が異 なる.あるものを経とよぴ,あるものを律とよぴ司 またあるものを論と よぶからである.また次に,よりどころにも違いがある.すなわち.増 上心にもとづく論道は経蔵であり.増上戒にもとづく論道は作械であり, 増 1--慧にもとづく諭道は論蔵であるJ と.

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1:)]では[そのようならば]すべて[の蔵]において[三蔵]すべて があり得るではないか.つまり.経蔵の中にも増上戒・哨上慧にもとづ く論道があり,律蔵の中にも柄上心・増上慧に基づく論道があり,論蔵 の

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にも増ー上心・増上戒にもとづく諭道がある.そうすると,三蔵には 芹:興がないはずである. {答】増勝の説によるのである.つまり,経蔵の中には哨

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心にもとづ く諭道が最も多く(増勝),作1哉の中には増上戒にもとづく論道が最も 多く,論

1

哉の中には増ー上慧にもとづく諭道が最も多いためである. 先の説とは違い,第二の論伺iは三械はそれぞれに異なることを

2

点挙げて説 明する.まずは名称が異なる. ということであるが,これは説得力に欠ける だろう.次に,こちらが重要なのであるが,よりどころ(所依)が異なる‘ という.つまり, 以下に示すように 経I議 増上心にもとづく論道 律1議 増上戒にもとづく論道 論蔵 増上慧にもとづく論道 という.この説は後に『大乗阿見迷磨集諭』や rJI恒正理論』の第三説など. 多くの品書に採用されることになるが,経蔵にもアピダルマ (I~) な経典がある ように,当然三蔵それぞれがこの説明のようにきれいに分類されるのでもな し上述の三つの要素は入り交じっていると~,う批判がなされる.そうする と.どうして三つを分類することができるのか. というのがその批判である. これに対する阿答が, r増勝の説Jである.それぞれの蔵に最も多い要素を 代表させて分類するのである. という.

- 2

3

5一

(28)

仏教とは骨付、 第三の諭師 有作是説.索但練中,依増上心論道是素但縄,依増上戒論道即毘株耶, 依I幹上郡:諭道日IJ阿見達磨.昆椋耶中,依哨上戒諭道是昆榛耶,依増上心 論道問l宗十日概,依I曽

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慧論道日Il

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見連勝 Imf昆述磨 ~11,依増上慧t論道赴

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昆達磨,依増上心論道即素'1由貿,依増上戒論道日1]毘捺耶.故山依彪亦 有差別. [別解①]ある論師は次のように説いている r経蔵の中で増上心にも とづく論道は経蔵[に含まれるべきもの]であり,増上戒にもとづく論 道は律械であり,増仁慧にもとづく論道は論蔵で・ある.律蔵の中で~J_

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心にもとづく論道は経蔵であり,増上戒にもとづく論道は律蔵であり, 増上部にもとづく論道は論蔵である.論j哉の

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で増上心にもとづく論道 は級品抵であり,増上戒にもとづく論道は作蔵であり,増上慧にもとづく 論道は論蔵である.従って,よりどころが異なるのである」と. これは前述の第二の論師に対する批判者の説と同様であろう.経・律・論が それぞれ増上心・戒・慧にもとづくことは同じであるが,そのため三蔵の要 素は入り乱れてしまうことになるのではないだろうか. 復次所説

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亦千f差JjI1.謂素他繍次第所暴

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索!日中時中聴求次第.

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次官1:尊 此品無

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lJ宵説彼品.若昆樵耶縁起所願.言

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,聴求縁起.

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甘:尊;依

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立彼彼串慮.阿昆達磨性相所願.認阿昆達磨中臆求諸法員資性 相.不聴求彼次第縁起.或前或後或無縁起倶無過失.

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解②

1

rまた,明らかにするものにも差異がある.経蔵は順序(次 第)をIlJJらかにするものである.従って,経1識においては順序を理解し ようとするべきである.なぜ世尊はこの主主の直後にあの章を説かれたの か,というようにである.律蔵はものの起こり(縁起)を明らかにする - 236

(29)

仏教とは何か ものである.従って,律蔵においてはものの起こりを理解しようとする べきである.どのような由米で世尊はそれぞれの規則(学処)を制定さ れたのか, というようにである.また論蔵は法の本質と定義(性相)と を明らかにするものである.従って論蔵においては諸j去の真実の本質と 定義とを理解しようとするべきであって, [経蔵のように]その順序や [律蔵のように]由来を理解しようとするべきではない. [法を説く1)恒 序が]先であってもあとであっても,またその由来が[説かれてい]な くとも,過失はないのである」 これは,それぞれの蔵が明らかにしようとする日的が異なるという説である. 経蔵では仏がそれぞれの教えを説~\た順序が.律蔵ではそれぞれの学処が説 かれた│夫│縁が.そして論蔵では法の性・相が明らかにされるのだという. 復次等流亦有差別.謂素但概是力等iJ

1

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昆捺耶是大悲等流.阿毘達磨是 無畏等流.

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11解③] rまた,どこから流れ出たか(等流)にも差異がある.すな わち.経j哉は[十]力の等流であり,律蔵は大悲の等流であり,論蔵は

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無畏の等流である」 側 この記述は簡潔であるため, r)1恒正理論』第四説で補足すると, (1) 経典中に説かれた内容は決して屈服させる事はできないから経蔵は力の 等流である. (2) 正しい生活習慣によって悪趣へと趣く事から救う事を説き示すから律蔵 は大悲の等流である.

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3

)

真の法相を確立し問答を決択するのに畏れるところがないから論蔵は 無畏の等流である. 復次所説亦有差別.謂種種雑説是素但繍.説諸皐慮是昆椋耶.分別諸j去 ワ t 司 令 u q 〆 “

(30)

仏教とはfnfか 白相手~杭l是阿見達磨.

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JI解④

1

rまた,説かれるものにも差異がある.郁々様々な1)')容を説 いたのが経蔵であり,諸々の規則(学処)を説いたのが作成で‘あり,諸

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去の

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相・共相を分別するのが諭械である」 これは説かれる内容がそれぞれに異なる,という説である.すなわち経蔵は 様々な内容を,律j議は学処を,諭j践は諸j去の分析を説いたのである. 復次所矯亦有差別.謂未種普-根者令種普a根故説栄│坦概.巳種普般若-令キ11 績成熟故説毘捺耶.キ日績己成熟者令得正解脱故説阿見連勝. 復次分位亦有差別.謂依始業位説索恨繍.依己*習位説毘椋耶.依超作 意位説阿毘達磨. 復次進趣亦有差別.謂未入正法令人正法故説家但繍.巳入正法令受持率 慮故説毘椋耶.己受持皐慮令通達諸法異質相故説阿昆達磨. 是故三磁亦有差別. [ }}IJ解⑤] rまた,その日的(所為)にも差異がある.普般を植えてい ないものに善般を植えさせるために経蔵を説くのである.既に善根を植 えたものに,それを持続(相続)し,成熟させるために律蔵を説くので ある. [善根を]持続し,成熟したものに正しい解脱を得させるために 論蔵を説いたのである」 {別解⑥] rまた説く時期(分位)にも差異がある.初心の時期j(始業 位)には経蔵を説き,受持しi続けた頃(じ忠習位)には律1践を説き,精 神集中ができた頃(超作意位)には論蔵を説くのである」 [ }}IJ解⑦] rまた進趣にも差異がある.まだ仏法に入信していないもの を仏法に入信させるために経蔵を説く.既に仏法に入信したものに学処 を受持させるために律蔵を説く.慨に学処を受持し[ているもの]を諸 - 238

(31)

-仏教とは1rifか j去の真実の相に精通させるために論蔵を説く」 このように,三蔵には差異がある. まず第五の説はli'lj恒正理論』で第一説としてあげられるが,そこでは経典を 説く対象は未だ勝義を喜ばないものであると説かれる,また‘アピダルマを 説くのはそれが解脱への正しい方便だからであるという.そして第5から第

7

の説はそれぞれ所為,分位,進趣が異なるとするが.いずれも明らかに経 →律→論というように,三蔵を説く段階が進んで、いくことを述べ,アピダル マが最上位に位置する事を示している. 最後にli'lj田正理論』独自の三1議論を紹介したい. T29, 595bl0-14 : 或以!責略清妙文詞,綴絹雑~及i青i手法,令易解了名偽契経.宣説修行・ 戸羅・軌則・浮命方便名馬調伏.者-能穎示諸契経中,深義趣言名矯封法. あるいは‘詳細・簡略な清妙な文・語をもって,雑染と清浄とのj去をま とめ,理解しやすくするためのものを経典という. 修行と生活習慣と規則と正しい生活の方便を説き示すためのものを戒律 という. 諸々の経典中の甚深の言葉[の意味]を明らかにするものをアピダルマ という. これは理.解しやすいが.重要なのはアビダルマによって経典の甚深な意義が 明らかにされる司 という事である.すなわち,アビダルマが無ければ経典を 深く理解する事はできないのである.ここからも論蔵が三蔵中の最上位に来 るのであるが,それは経典を正しく理解するためのものである事が理解され るだろう. - 239

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仏教とは何か

小 結

以上の記述から,説一切有音ISの考える仏教,そしてアビダルマの特徴がい くつか明らかになっただろう.まずは,仏教もアビダルマもどちらも衆生の 理解を助け解脱に導くという利他の精神にもとづくものであるということ. そして,仏陀が存夜しなければ衆生は輪廻を抜け出す事ができないように, アビダルマがなければ諸法の真実の相を,また経典の真の意味を正しく明解 する事はできないのだ, という事である.どちらも解脱にとっての「縁」と なるのである.また,『大昆婆沙論』のアピダルマ仏説論と契経の定義から, どちらも仏j去を永らく伝えていく事を目的としていた事・が理解される. 三蔵中のアビダルマの立場についてはそれを最上位におく怠見もあるが, 重要なのはアビダルマは経典の難解な部分を解釈するためのものであり,決 して経典から独立しあるいはアビダルマ独自の意義を主張したものではな く,経典とアピダルマとは相依の関係にあるという事である. アビダルマは(そしていわゆる「小乗仏教」は)しばしば自利を中心とす るものである,難解な議論のための議論である.などという批判を受けるが, 説一切有部が目指したものは仏のことば同様利他であり,アビダルマによっ て仏法を正しく理解して受け継いで、いく事だったのである. 〈略号およぴ使用テキスト〉 『発智論J1= Ii'阿毘達磨殺智論』大正新情大蔵経 第

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6

巻 『大見婆沙諭.11=Ii"向l昆 達 磨 大 昆 婆 沙 諭 』 大 正 新11首大蔵経 第27巻 1 i ')1国正理論JJ=Ii'阿見達磨順正理論J80巻 , 玄 突 訳 大 正 新 情 大 蔵 経 第29巻 〈参考文献〉 de Jong, J. W. [1979]‘Review on Abhidharmasamuccaya', (original French translated and reprinted in)Buddhist Studies, Berkeley Lamotte, Etienne [1988] HistoηI01 lndian Buddhism, (tr. by Webb-Boin) Louvain ﹄ 斗 る つ 山

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藤田祥道 [1998] 舟橋向哉 [1977] 楓 内 俊 郎 [2009] 本庄良文 [1989] 本庄良文 [2010] 本庄良文 [20日] 前回窓学 [1964] 仏教とは何か 「仏語の定義をめぐる考察Jrインド学チベット学研究J 3 「十二分教と三蔵・二蔵との相摂関係について」大谷学報通 号215 『世親の大乗仏説諭_r釈軌諭』第四章を中心に』山喜房仏 書林 「阿昆達磨仏説諭と大乗仏説諭」印度学仏教学研究 75 「昆婆沙附の仏説観Jrインド論理学研究.01 「アピダルマ仏教と大乗仏教Jr大乗仏教の誕生J /シリーズ 大乗仏教2所収 fJ京始仏教聖典成立史の研究JIIJ喜房仏書林 註 (1) D"発智論』なお,この筒所は1I"f:具合論』には対応筒所がないにも関わらず. r倶舎論記.sT41, 31c23-r似合論疏JT41, 492a18ーに引用されているように, 説一切有部の教理の解釈には重要なものである. (2)実際に r発智論』の異訳である r八鍵度論』では「仏語云何J(T26, 852b21) となっている.また,藤田 [1998J参照. (3) 以下.テキストおよぴ訳中の太字は『発智論JI. (4) この「アピダルマ仏説諭」に│期しては既にいくつかの研究がなされている. 議論の詳細はそれらの先行研究を参照. (5) いわゆる 'kila'r伝説する」とL寸語で不信を表明している. (6) T27. la26-28:獲妙願智.曾於過去五百悌所,積修発行.競弘誓願.我於 未来稗迦牟尼仰般

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里繋後造阿見達磨. (7) これは大東の仏説諭の根拠として利用されていった可能性が尚く,思想史上 重要なものである.本庄 [1989J等参照. (8) T27, lb21-24:又若悌説,若弟子説,不違法性,世尊皆許芯錦受持.故彼 尊者展特得1m ,或願智力観察纂集.震令正法久住1~:故制造此諭. (9) T29. 329c15-18:潟令世間修習捧法滅諸1煩↑踊.故言困此仰説針法.悌若不 説,合利子-等諸大聾聞,亦無イjfj~於諸法相如理簡J宰.是故此論所依根本阿見達 磨定是僻説. ( 1的 T29, 329c24. 25:如諸契経.若悌所許不名悌説,便磨棄捨無量契経. (11) この④についてはまだ解釈が確定できず,詳細は不明. (12) T29. 531c4, 5 :謂能表示故名 1~表.表示 I~I 心令他知故. また,これはAKVyにも引かれる. vijnaptir hi sva-samutthapakarp cittarp kusalakusalavyakrtar}1saumyarp

kru.ram anubayam iti va pararp vijnapayati/ (AKVy, p.30, l.5, 6)

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(34)

仏教とは1I1fか この定義",の“samuttapaka..は後に論じる「等起」につながるものであ る r大毘婆沙諭』でも語表を説いたところからやや離れているが.明確な定 義はないものの「知らしめる内容」が意識されていることが想定される. (13) 他に知らせないから無表である. pararp na viji)apayatity avijnapti (AKBh}l , p.8, 1.8) ( 14) T29, la8,9: 001a08:諸一切種請冥減抜衆生出生死泥敬鵡如是主f1理師針 j去議論我常説. ( 15) 三本およぴ常本は名身・切身・文身乃至次第連合. ( 1 日 三本およぴ山本は語表,是;1¥1'仏教. ( 1司 三本および日本により教を訂j

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(瑚ωl8) r後麦述する1c2お5-す27れ:これは f)順町順t討脱i副正lj.正11E瑚 (側l帥却 T2幻7.2b回2-9仁:!醤醤如闇室I中!ド1 雌有栢積1種種a物 無燈│閥剖所隠 有目不能見 ~tI是雌有智不従他聞法是人終不能分別善悪義 響如有目者 !大│蛾見衆色有智依多聞能別普-語義 多

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1fJ雌不善多聞拾無義多聞得泥繋 これは後代のアピダルマ・ディーパを連想させるとともに,ここに「白灯明 法灯明」という言葉の響きを聞く事ができるだろう.

これは既に見たようにD"I)恒正理論』のアピダルマ仏説諭の根拠となった. (21) それぞれT27.659c12-660b7,T29,595a2-b5

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しかし,これは堀内 ([2009] p.33参照)が指摘するように『釈軌論』を引 則したとは考えにくい.というのも,既に見た通り仏弟子の説を仏説と認める のは衆賢説であり.少なくとも111:親は認めないであろう事を衆賢が必定して反 論を加えているからである. (23) 三本および山本により鱗を訂J

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( 24) 三本および山本は「事」欠.

cf.SkilIing“Mahiisutras"vo.l1, 11 '(PTS) 側 堀 内ibid. 間平川彰『律蔵の研究』 側三本および何本は「熊」とする.

前回は rJI~ÜI 以111.論』とは異なり『大見婆沙諭』の税は仏の過去 lil:に限定され ないとするが、どの本生もすべて仏の前生であろう.例えば熊は『根本説一切 有部昆奈耶』破僧事T24.pp. 177-178等,詳細は干潟龍祥 r本生経類の,思想史 的研究』参照.

0) 前回ibid,・pp.404-411

1) 三本および山本により「仰説」を「仰語」に訂正. (32) 桐内ibid.p. 45, 45 - 242

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-仏,f,{と{土fufか (33) この筒所はすべて本庄 [2010]に訳出されている. (3~) た と え ばVin1I,p. 239等.詳細1)はLamottep.142参

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日.大衆部説「如来の 語はすべて法輪を転ずる」については寺本・平松i"j歳漢和三訳対校 奥部宗輪 論Jp.22 (35)特に研究されるものとしてDNSaogitisutra/長阿合 「衆集経」などが挙げ られる. (36) T29, 595b15-19:成宗但縮政)1::)J等流.以諸経rl:1所説義理,畢克無有能回伏 故 . 毘 奈 耶 縦 娃 大 悲 等

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Il~答決時無所l!-ki'i文. (3司 T29, 595b8-10:未柿持恨未欣JJ事義.令腕欣 11if{,<<.~~見事~.契経.巳積己欣令熟和| 純.作所作故為説iUl]伏.己熟巳作令i

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参照

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