• 検索結果がありません。

龍谷大学佛教学研究室年報 第17号(2013) 005杉本 瑞帆「仏鉢礼賛の諸相」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "龍谷大学佛教学研究室年報 第17号(2013) 005杉本 瑞帆「仏鉢礼賛の諸相」"

Copied!
30
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

仏鉢礼賛の諸相

杉 本 瑞 帆

1.はじめに 2・4世紀の Gandhara地域においては、澗堂に奉られたと尊像基壇部や、奉献仏塔装 飾部材の破風型浮彫に祭火(壇/櫓)、舎利容器、法輪、花飾のほか、‘鉢,(Pali.pa枕a, Skt.pa回)が礼拝・供養の'情景表現のーっとして表現されている。 Gandharaで描かれ る鉢の多くが‘仏鉢'と比定されており「四天王奉鉢」説話に基づくと解釈されてき た。そのため、先行研究1ではこの説話に着眼点を置いた考察が主で、あった。しかし 仏鉢の説話には「四天王奉鉢」だけではなく、それに続く「二商人の帰依」や、成道 直前の「乳粥供養」と「カーラ龍王の讃偶Jといった釈尊への施食を称える物語が二 通り存在し、元来はそれぞれ二つの説話が連続して表されていた。また、両方の説話 はほぼ同時期に鉢の重要性が描き出されるようになっている。 聖なる鉢の物語はどのように仏教説話中において発展を見せ、仏教美術中の仏鉢表現 の成立背景に影響を与えたのか、地域的特徴を踏まえて考察したい。

2

.

仏鉢の記録と Gandhara Gandharaでは90例近くに及ぶ二つのタイプの仏鉢の図像が存在する。ひとつは 仏塔基壇部の仏伝装飾レリーフ「四天王奉鉢J場面であり、 20例2が確認できる。 構図はほぼ同様であり、中央の仏坐像を四天王が左右に二人ずつ侍立し、手に鉢を 1桑山氏による中国僧たちの旅行録を中心とした史学的考察は、仏鉢の研究の根 幹となっている o 桑山 [1~~羽 U99~aJ

l

A

9

.

J

2

_

T

J

小山氏は『太子瑞応本起経』『『般舟 三味経』を用い Gandhãra 作例のー苦が弥戦仏で、ある可能性を炉説する。 ~J\W-J[2QQO] 「仏教図像の研究:図像と経典の関係、を中心にJ(早稲田大学博士学位請求論文) 00.56-63. 悶11氏は発達した仏伝を持つ経典と広範な美術資料を用いて鉢の造形

展開を考察する。即lIJuh抑留 I~009] . ~h~~qh~ra 氏は道宣の著作を精査し Gandharaにおける仏教徒の聖域の拡大を考察している。 Shinohara[2003] 2金香淑[1996]p.26.

(2)

龍谷大学悌教学研究室年報第17号 2013年 3月 持って礼拝する【図 1】。もうひとつは仏・菩薩坐像基壇部分及び破風型レリーフ のアーチ部分に見いだされ、中央台座に安置された大きな鉢を合掌礼拝する男女や、 比丘の姿が描かれているものが68例ある3【図

2

1

。後者が当時実際の供養場面で あるとすれば、どのように礼拝・供養していたのか、求法僧の記録等から推察でき る。 最も古い仏鉢の記録は、 『水経注』に引用される東晋の道安『釈氏西域記』中にお いてGandharaから来た人物から「擁陀越王城西北有鉢吐羅jと伝聞している。桑山 氏[1990]はこの資料を道安が師である悌園澄から得たと仮定し、鉢は310年以前に厨 賓と呼ばれる地に存在していたと指摘している4。また『高僧伝』によれば、鳩摩羅 什も 12歳時の361年に、沙鞠園5で仏鉢を抱えてみたが持ち上がらなかったと記録し ている6。仏鉢は【図 2】のように抱えきれないような大きさのものであり、また、気 軽に在家者でも触れることが可能な杷られ方をしていたのであろう。 続いて、法顕と同行者の慧応、慧達が弗棲沙圏(P削~apura) に赴いた 403 年ごろの記 述である『高僧法顕伝~ 7 (399-418年)は、記録者が実際の仏鉢を目にした最も古い 記録である。 仏鉢はこの国(Puru~apura)に在る。その昔、月氏王が軍事を盛んにし兵を起こ し、この国を討って鉢を持ち去ろうとした。この国を征服し終えると主は仏法 を篤く信じていたため鉢を持って帰りたいと考えて供養を盛んにした。三宝を 供養し終わると、大象を飾り立て、仏鉢をその上に置いた。しかし象はたちま ち地に伏してしまい、前に進むことができなかった。さらに四輪車を作って鉢 を乗せ、八頭の象で共に引かせようとしたが進むことができなかった。主は鉢 3 即li 氏は桑山 n29Q~b] で、上げられた鉢の図像作例にさらに追加して、 66 例があ ると指摘する。基壇部分28例、破風部分16例、アーチ部分11例、その他5例。 71

(3)

の縁がまだ自らに至っていないと知ると、ひどく嘆いた。そこでここに塔と伽 藍を建立し、併せて鎮守を留めて種々供養した。鉢を大いに供養した。(現在 ここには〕七百人以上の僧侶がおり、日がまさに正午になろうとする頃に、僧 たちは即ち鉢を出して、在家の人々ともに鉢を種々供養し、そののちに昼食を とる、くれとなり焼香の時もまた同じである。鉢の内容量は二斗ほどで複雑味 を帯びた色で、黒っぽい。(四つの鉢を一つに合わせた時の〕四縁(ふち)が明 瞭である。厚みは二分ほどでとても光沢をもっている。 また、彼はその後のセイロンでの体験から仏鉢に関して、それは衣と同じく釈尊 の法の継承者に渡るものと伝えられ、長い年月をかけて都市を移動し弥勅を待っと 伝聞しており8、現在Gandharaに鉢がある事が南方にも伝わっていた事実が確認で きる。法顕から後には404年以降に出発した智猛9、420年以降出発の曇無喝10、慧 覧11らが厨賓の地で{弗鉢を目撃している。特に智猛は鉢の特徴を「光色紫紺四際画 然」と記述しており、法顕の記録するところの仏鉢同様に、黒味を帯びた色彩で四 鉢が重なり合った造形を有していたと理解できる。最後の記録は玄焚『大唐西域記』 であり、だいぶ遅れて布路沙布濯(Puru号apura)を訪ねた彼は仏鉢台のみを目撃してい る120また彼はBodhgaya近辺には、 「二商人から愁蜜を受けるに際し、四天王が釈 尊に奉じた金・銀・頗低・琉璃・璃猶・車渠・真珠等の鉢は受け取らずに、紺青の 鉢で受け四鉢を一鉢とした、そのため鉢には四つの縁が明瞭で、あった」という伝説 に基づいて四天王奉鉢のストゥーパがあったとも記しているが、ここでは鉢の供養 12

r

N

o.2087. T51.879b23-cl01 W大唐西域記』玄奨 (646年)

r

健駄濯園。…王城 内東北有一故基。昔イ弗鉢之賓蔓也。如来浬繋之後。鉢流此因。経敷百年式遵供養D 流樽諸圏在波刺斯口 j 70

(4)

龍谷大学悌教学研究室年報第17号 2013年 3月 礼拝や現物の存在について言及をしていなし付。仏鉢記念塔の来由が伝聞や引用で あったにせよ、実際に釈尊成道の地である Bodhgayaで鉢供養はなされていなかっ たのが事実であろう。 このように、中国僧たちの旅行記には仏鉢が把られていた場所にPuru$apuraと厨 賓の両地域名が挙げられている。仏教徒は煽賓をKabul以南の地とする見解が一致 をみるだけで、地図上の中国側資料における同地の理解はKabul河下流域、Gandhara、 Kasm曲、 Kapisiと動いている140しかし、前述のようにPuru$apぽaでの法顕と蔚賓 での智猛の記録は非常に近い特徴を捉えて述べており、仏鉢は同ーのものであった とみて間違いないであろう。桑山氏[1983][1990a]も指摘するように、厨賓をKashmir と仏教徒が考えていたのは宋雲の記録までは確かであるが、一方で法顕と玄奨以外 は梁の慧岐撰『高僧伝』に含まれており、同時代に限っては扇賓と呼ばれる地が Gandharaに同定されていたと考えられる。以上から仏鉢は Gandharaの都市 Puru$ap町aに一つあり、求法僧たちはみなそれを自にしていたのであろう。 玄奨の時代に仏鉢が失われた事件の背景にある史実は、山田龍城氏[1955]、山田 明爾氏[1963]によってすでに指摘され、桑山氏によって考古・文化史にさらなる裏 付けがなされた150即ちフーナ(Hul,1a)16の玉、ミヒラクラゆ,fihirakula)による破{弗行為 の可能性をうかがわせる物語である。インド中央部を統治していたミヒラクラと呼 け入れられたとする。榎本氏は「厨賓」に相当する語が転読しKashmirとなっ と述べている。桑山『法顕伝』で、は僧詔の向かった地が「蔚賓」であり法顕は の地へと向かったが、現i<

a

s

h

I

n

ir

(

S

r

l

l

l

a

g

a

r

盆地)には6世紀以降の寺院ばかり 残っており、仏教の重要拠点としては疑問であると指摘するロ桑山 )0.43-44. S.Levi.“Note additionnelle : Le Kioin‘si旬ationet histor 戸._11_?宅l?E_.~lí~3~4.[_!.?2pJ1?PÅ 1_61_:r~~.[189_7Jp_p:~2~-f 白鳥庫1 東洋学報

7

巻 1号、東洋協曾調査部、pp.33・叩2.L.P~t~ch,“Tl

q

民 糖

J

'

鉱鵜犠

l

量協議室主雫芸願者]

;はここでよばれる厨賓とはKashmirと指摘じている。 |龍城氏はエフタル(~eph白al)= フーナとしているが、碑文を, 肝究によると エフタルはGandharaからインド西海岸の勢丈 宇部インドからKashmir(インドパキスタン北部国境)の別{ 捷の言う摩醸濯矩羅がミヒラクラと同一であるかには疑問が 日事実とは断定できないが、 520年ごろの宋雲『洛陽伽藍記E 2. T51.1020c9・1幻「正光元年四月中旬入乾陀羅図。土地亦輿J 皮羅因。矯喝嵯所滅。遂立勅敷矯王。治園以来己経二世。立 不信イ弗法白好記鬼神白 Iこのように仏教を弾圧する動きがあ あろう。 69

(5)

ばれる人物の暴虐性と、520年ごろからのち六世紀半ばGupta主朝崩壊後の混乱期、 そして Gandhara地域で下火に向かう仏教の実状といった、仏教徒らの感じた社会 不安が反映されている。彼らの視点から『蓮華面経~ 17のような疑経が作り出され たのみならず、閉じく中国撰述である『付法蔵因縁停~ 18巻五(吉迦夜、曇曜)、 『馬鳴菩薩{専~ 19 (後秦、鳩摩羅什)中において、月氏王が Patalip凶raへ侵攻した 際の戦勝金代わりに馬鳴と仏鉢を持ち去ったという物語が語られている面からも、 鉢の紛失には仏教徒たちを取り巻く、非常に不安定な政情が関わっていたと思われ る。 3.Gandharaの図像にみられる仏鉢の物語 Gandhara出土の仏鉢を主題としたレリーフは法顕の記述からも、四つの鉢を一つに 合わせたとする「四天王奉鉢」場面を根底に持っているとみてよいだろう。ここで多 くの先行研究はその説話と図像のみに焦点を当てているが、これは説話上連続する直 前場面の「二商人の奉食・帰依」と密接な関わりを持っている。 物語の主な流れは次のとおりである。 場面① 釈尊は成道後7日解脱の楽を楽しむ 場 面 ② 隊 商 主 の ト ラ プ サ(Pali.Tapussa

Skt.Trapusa)とパッリカ(Pali.Bhalliya

Skt.Bhallika)が通りかかり、投蜜を奉じようとするが鉢がない 場面③ 四天王が互

2

鎧を持ち寄る、釈尊は四つの鉢を一つにして挫蜜を受け取る 場面④ 召し上がった後、釈尊が鉢を虚空に投げる →鉢の行方は不明になる 場面⑤ (二/三)帰依20と仏髪の拝受、祝福 18[No. 2058. T50.297a-

f

J

19[No. 2046. T5Q.183a-

f

J

20特にTrapusaとBhallikaの二商人の帰依について、定方農氏[2001]はこの場面 を中心にそめ内容の展開を整理しており、二帰依の経典を三帰依とする経典の前 段階として大まかに位置付けている。 68

(6)

龍谷大学{弗教学研究室年報第17号 2013年 3月 最も簡潔な記述のものはANであり、 「声聞優裟塞で最初に帰依した者の最上は商 人タパッスとパッリカである」としており四天王は一切登場しなし、210 ほかの経典と 比較しても物語性はなく特徴的である。また、康孟詳訳出の『修行本起経j]22と『中 本起経j]23は提謂・波利二人の三帰五戒が説かれるものの、四天王は古層の経典類に 頻繁にみられるような四方位の守護者としてそれぞれ列挙されるに留まり、仏鉢の説 話自体が存在しない。 さて次にBCの散逸した党文後半部分に当たるチベット訳24とAsokavadαna25、漢訳 『イ弗所行讃j]26、 『雑阿含j]27、 『阿育王惇j]28、 『阿育王経j]29を見てみると、 かくて托鉢の時に到り、四天王が世尊に鉢を献上した。ゴータマはこれら四つの 鉢を受け取られ、自らの教えのために合わせて一つになさった。 →場面③ そしてその時、旅する隊商の資産家二人はその親しい神に勧められて、高貴な心 を持つ大いなる仙人に喜んで頂礼し、初めて食事をさしあげました。 →場面② このように物語では四天王が四鉢を献上し鉢が一つにされ、そこに二商人が登場し 土内│ ~l. ~q= 19~ r4:1:!7c] .. [中本起経』後漢曇果、康孟詳 (207年) i度二買客、提 謂波利。授三自帰、然許五戒、為清信士。 J 24 BC. v.l4圃106.チベット訳は、梶山雄一[1985]Wブッダチャリタ』講談社、を参 照とした。 67

(7)

奉食をしており、多くの経典では②ー③である順序が、③輔②と逆になっている。また、 二商人の名前も不明で、帰依の記述もない。平川氏30、定方氏が二帰依であることか ら初期に位置付ける律類31では、樹神によって挫蜜の奉上を勧められるといった動機 の設定や、隊商の様子などが具体的に描写されており、より発展した形をとっている。 イ局」 ~o.1459. T2~.l25a]

r

根本説一切有部毘奈耶破僧事』唐義浄 1爾時有二商主。一名黄茂、二名村落。各有百雨車及多人衆、共為輿販路由仏所。」 66

(8)

龍谷大学悌教学研究室年報第 17号 2013年 3月

さらに、四天王が当初持ち寄る鉢はほとんどが石の鉢であるが、 M旬、 Lv、 NK32で は、最初は金や宝石などの鉢であり、世尊は出家者に華美な鉢はふさわしくないとし て数回受け取ることを断る場面が付加されている33。以上から四天王と仏鉢の説話は

Mathurã と関わり深し 'Asokãvadãnaの原形34 もしくは、北インドを支配したKu~ãl}a朝の Kanishka王に重用されたAsvagho~aによる BC とし、った党文経典において既に完成して いたと思われる。さらにSNにはこの物語を含む『雑阿含』二十三巻に該当する部分が 存在しない点から、インド北部の伝承にその源流があると推察される。前述の『付法 裁因縁惇』 や『馬鳴菩薩停』に記述される事件からも、馬鳴と Ku~ãl}a朝の都であっ たP町 時apぽaの仏鉢には深い関わりがあったので、はなかろうか。 ここで、図像化された「四天王奉鉢Jを確認してみよう。紀元後l世紀とされるSanchi 第一塔南門東柱正面白では三分割された区画のうち上方から「ムチリンダ龍王の護仏J 「四天王奉鉢J

r

二商人の布施J と時系列に表されており、図像からも③ー②の流れ が本来の形態であるとわかる【図

3

1

0

r

四天王奉鉢」は右側の一部が破損しており 四天王全員の姿が確認はできないが、左側に鉢を捧げた二人の人物が中央の菩提座に 向かっている。またMathuraの仏教芸術で、も最初期とされる柱状レリーフ36が確認でき る点からも、紀元後1世紀末頃には四天王と四つの鉢の説話は完成していたのであろ う{図

4

1

0 その直後に律類において情景豊かな物語が形作られ流布し、Puru~apuraの 鉢もこのころに出現したと考えられる。2・3世紀のGandhara地域で、は四縁を持つ鉢の造 形が人気得て、さらにMtu、Lv、NKといった仏伝説話の大作へと展開したのであろう。 また、南インドではGandhãra~まどの作例数はないが、 2世紀中葉から後半ごろの Satavahana朝Amaravaiの作例に一つ、 3世紀前半から半ばごろのlksvaku朝 Nãgatjunakol}Qa~こも一つが確認できる。前者は大塔欄楯装飾柱の一部で中央のメダイ ヨンに描かれ、上部区画に「菩提樹礼拝(成道)J下部区画に「降魔Jが配される。

2

.

P

L

.

1

9

3

6

制作年については諸説あり、高田修氏は2世紀初期とするが、 R.C.Sharmaは 前 l 世紀から後 l 世紀、 S~Hunti~gton、 P.Pal は前 1 世紀としている。その造形か ら同地の最初期の仏像レリーフといえる。 Mathuraではこれを含めて3点の「四 天王奉鉢Jが確認されている。金

[

1

9

9

6

]

p

9

.

65

(9)

仏座の周囲に各々鉢を持つ四天王が立ち、手前には二商人が脆いて食物を捧げる様が 描かれている【図5]。後者は長方形の奉納浮彫板で上中下の三区画に分かれており、 下から「ムチリンダ龍王の護仏J i二商人の布施・四天主奉鉢J i初転法輪」と時系 列に並ぶ【図6]0 このように、南インドでは同時代のGandharaのように均一に連続 する仏伝説話の一場面としての「四天王奉鉢jや、礼拝対象の聖遺物として単独で表 される四縁の鉢とは異なり、 「成道」としづ重大な仏伝場面を彩る一説話として導入 されていたようである。しかしSanchIと時代の近い南インドKanganhalli遺跡、において は「四天王奉鉢」は表現されていない点からも、この物語はインド中部の都市SanchI 以北で生まれ、しばらくして南下した可能性が高い。 「四天王奉鉢」の石鉢が、経典に沿えば奉食後に行方不明となるにもかかわらず、 Gandhara地方に限ってこの鉢の頻繁な造形表現が起こった背景には、現物として残っ たとされた釈尊の鉢が、本来の聖地より遠方で王権の威信力を箔付けする一要素とし て37、また、仏遊行の聖跡からより遠方へと仏教の聖地が拡大するに伴って、聖地明 証の遺物となり重用されたためであろう。

4

.

粥供養場面における鉢 仏鉢の説話は「二商人帰依 四天王の奉鉢」だけではなく、降魔成道直前となる「乳 粥供養 カーラ龍王の讃偽jにも表れる。図像でも仏像出現前の初期仏教美術とされ る紀元後 l世紀の SanchI第一塔【図7】や、ほぼ時代の近いKanganha11i38にすで、に彫 刻されており、 「四天王奉鉢J とは同時期か、やや早いのではないかと考えられる。 説話の概略は以下のとおりである。 場面① スジャーターらが乳粥を黄金製の鉢によって供養する 場面② 鉢が釈尊によって水中に投げられ、河を逆流する。カーラ (Pali.KalalKalika, Skt.Kalaka)龍王のもとへ 37 肥田路美 [~0091 ~舎利信仰と王権J W死生研究:~ .~ ~号、 .pp_!4?4-418. 38 Meisterによると紀元前から4世紀ごろまでに継続的に増設されている。本論 中の作例は玉名を記した碑文と作風から無仏像時代のSatavahana王朝下での制作 と判断した。MichaelWilliam Meister [2010]“Palaces, Kings, and Sages: W orld Rulers and World Renouncers in Early Buddhism." From Turfan to Ajan回 :festschrift for Dieter

Schlingloff on the occasion ofhis eightieth birthday, Edited by Eli Franco andMonika Zin,

Lumbi

i

1

i Intemational Research Institute

pp.651-6

7

0

.

(10)

龍谷大学悌教学研究室年報第 17号 20日 年 3月 (場面③ 過去三人の覚者の鉢と合わさる39) 場面④ 新たなる覚者の誕生(菩薩の出現)に龍王は讃頒を歌う 場 面 ⑤ → 鉢 は 龍 宮 に ガルダ鳥が鉢を持ち去る →後に'閃利天で帝釈天が保管 この説話を分類してみると、党文経典のMtu40はスジャーター(S吋訟のが乳粥を、

BC

1 は「ナンダパラ -(N andabala)が乳を差し上げた」とあり、供養する女性はー名である 42。これに対してAsokavadana43、 『阿育王停』科、 『阿育王綬~ 4S、『雑阿含~ 46、 『根 本説一切有部律~ 47、 『修行本起経~ 48、 W{I弗本行経~ 49では「二人の牧女が釈尊に乳 63

(11)

(粥/康)を差し上げたJと記され、 NKではS吋ataと下女プンナー(PU明五)の名前が登 場しているが、北伝のものは供養者を歓喜(Nanda)と喜力(Nandabala)の二名にする傾向 が強い500 S吋ataの名前は後代の改変が指摘される51~四分律』と『五分律』を除くと、 NK、Mtu、 『イ弗本行集経~ 52に見られ、これらは金の鉢での供養や乳湧出の奇跡、供 養による功徳が説かれており後代の付加と見られる。ただし、 Mtuは四つある粥供養 場面の内唯一、銅の鉢で供養したと述べる「観察経J(Avalokitarp.nama siitra)のみは非 常に簡潔であり、 S吋ataの名前を持つ系統においては最も古い表現を受け継いでいる と思われる。以上の経典は『修行本起綬』と『破僧事』をのぞいて②.③、⑤の場面 が存在せず、すぐにKala龍王による讃偶場面へと転換する。女性の名前も共通して おり、例えばAN53ではSataであるのに対し、 『増ー阿含経~ 54では難陀と難陀婆羅 としている点からも、南伝と北伝で供養者である女性の名前と人数が明瞭に分かれて いる。興味深いことに、この説話も「四天王奉鉢Jと同じ『雑阿含』二十三巻に含ま れており SN中には確認できない。 ここでSanchi第一塔北門背面第二横梁中央部(左側)の図像【図

7

1

を見てみよう。 「降魔成道」場面の左隅に一人の女性が右手に水差しを下げ、左手で粥の盛られた器 を肩まで掲げ持ちつつ、聖樹を背にする台座に近づく姿があり、鉢に焦点を当てた表 現はされていない。 Kanganhalli55も情景は同様で、あるが、下部パネルで、は二名の女性 と小柄な女性一名が描かれており、上部パネル区画に龍蓋をもっKala龍王らしき人 53 AN. 1.14.7. 0.26. 54閃 0.125.T2.560 a29・b

l

1

W増一阿含経』巻第三「弟子品第四」程曇僧伽提婆「我 弟子中第一優婆斯。初受道詮。所謂難陀:陀婆羅優婆斯是。 J 55 W大乗仏教起源論のための悌教美術史的 礎研究研究成果報告書』代表;荒 牧典俊、写真;中西麻一子、 2011年、 Kanganhalli1 0 カンガンハリ遺跡 (2009 年時で現地) 62

(12)

(27 ) 龍谷大学悌教学研究室年報第17号 2013年 3月 物が加えられ仏座と仏足に合唱礼拝している。破断した碑文には fs吋

a

…canagarayaJ とあり、粥供養する女性はS吋喜信で、あったことが分かる。 Kanganhal1iより東部、仏像 出現後のNagarjunako

t

)

9

a

f成道前後の仏伝諸相J場面の作例【図81では、三分割画 面の最下段に「粥供養」がある。中段には「降魔成道」、上段には「神々の讃嘆Jが 描かれている。画面右半分には水差しを足元に置き器を手にする l名を含む 4人の女 性が釈尊に近づく様子と、脆いて合掌する l名の女性が確認できる。場面左端の龍王 は大きく破断しているが龍蓋らしきものと合掌する男性の体躯が残存する。 S吋

a

信ら による供養の左側に龍王が描かれていたと思われ、南インドではS吋

a

偏の名前を伝え る説話が伝承され、さらに「複数の女性による粥供養」と「カーラ龍王の讃偶Jはー 繋がりの物語としてとらえられていたと考えられる。 これに対して時代の下る『太子瑞応本起経~ 56、『普曜経~ 57、『方広大荘厳経~58、 『備本行集経~ 59、Nど。、 LV61で;'i‘金の鉢'を用いて供養しており、鉢を河中へ捨て る②"③の場面が追加されている。さらに悶u[2009]に指摘されるように、供養後河を 遡って鉢が保管される場所が龍宮から切利天へ移動する⑤の物語は後補と考えられ、 上記のうちでも『普曜』、 『方広』、 『集経』、 『破僧事』、 Lvの「乳粥供養Jは後 に大きく発展した鉢の物語であると理解できる。切利天とイ弗鉢の関わりは、二点の 60 J.I.p.68・70.suva早早apatIm 61 Lv. Le白nan.p.265 61

(13)

Mathura出土「三道宝階」場面を示す仏伝レリーフにも見いだされ、 【図 9ab】それ ぞれ、 2世紀後半と 3世紀の作とされており、 『普曜』の時代と一致する。三本の階 段とその上の切利天を表す区画が設けられ、階下中央に仏陀の立像が描かれる構図で ある。切利天(Trayastrirp釘)の区画には{弗髪、舎利容器とともに悌鉢が安置されている。 『修行本起経~ 62に「天化作金麹烏飛来捧鉢去。井髪一慮。供養起塔。」とあるよう に悌髪と同じ場所で供養したとされている。摩耗が激しいが、 「四天王奉鉢Jのよう な四縁の特徴はない点からも、これはNandaとNandabalaが乳粥供養に用いた鉢を図 像化したものであろう。中部インドの Sanchiや南インドのKanganhalliなどといった 初期仏教美術の粥供養場面表現とは異なり、食物の布施という行為の情景ではなく、 用いられた鉢の所在が重要視されている点がうかがえる。 また、両者は初期の段階で、は一連の流れでつながっており、乳粥供養ののち龍王は 菩薩の足音で将来の覚者と知って偶を唱えて讃嘆する。それを裏付けるように発達し た後の仏伝資料において①は④とは関わりの薄い説話となっている。 『破僧事』をのぞく『有部律~ 63とAsokavadana64においてはKala龍王による仏鉢を 60

(14)

(29 ) 龍谷大学悌教学研究室年報第 17号 2013年 3月 伴わない簡潔な讃歎情景が「乳粥供養Jの直後に記されており、龍王は盲目ではなく、 偶文も唱えない。次にMω65、Bび6、『阿育王侍~ 67、『阿育王経~ 68 と『雑阿含~ 69の 段階でも龍王は盲目ではないが、短い讃仏の偶文が続いている。 w修行本起経~ 70、 『過去現在因果経~ 71、 『破僧事~ 72、 『悌説衆許摩詞帝経~ 73では龍王は盲目となっ ており、これは菩薩の歩む音を聞き分けたという情景描写を、より印象付けるための 効果として付加されたものとみてよいだろう。後代のものほど二つの説話は分断され、 増広され、それぞれにおいて物語のクライマックスを迎えている。ここで『破僧事』 をのぞく『有部律』とAsokavadanaを比較してみると、 『有部律』には「カーラ龍王 の讃{易」直前に草刈人(Sotthiya)による「吉祥草の布施」が導入されている。初期仏教 美術の悌座はすべて方座であり、草座が表わされるようになるのは初期の Swatにお 59

(15)

いてからであり、 「吉祥草の布施」は『有部律』によって 1世紀半頃に経典に織りこ まれた可能性がある。この点から、NandaとNandabalaによる「乳粥供養JはAsokavadana にそのオリジナルを求めることができょう。 Sancruの図像は前章で述べたようにBC もしくはAsokavadanaの原型の影響下にあったと考えられる点から、 Nandaもしくは Nandabalaと思われる 1名の女性が描かれたのではなかろうか。 さて、②から④まで一つの物語としての連続性を持たせる③の記述があるのは

NK

、 『太子瑞応本起経~ (223・253年)の二経74のみで、あった。両経の「乳粥供養 カーラ 龍王の讃偶」場面をみると、黄金の鉢はナイランジャー何を遡り Kala龍王のもとで 過去三仏の鉢と一つになっている。さらに二商人の二帰依が説かれており、菩薩への 黄金の鉢と、成道後の簡素な土製(もしくは宝石製)の鉢に拠る二回の供養が混在し ている例として独創的である。二経いずれにおいても、三仏の名前を挙げてはいない が、過去(賢劫)四仏信仰75との関わりは明瞭である。 四仏信仰に先立つ過去七仏と聖樹の象徴表現は、既に紀元前150年頃の初期仏教美 術遺跡である Bharhue6や、それよりもやや下る Sanchi77にも見出され、大乗興起以前 から好まれた主題で、あったことがわかる。特にAsoka王法勅が倶留孫仏、拘那含牟尼 仏、迦葉仏とそれぞれ関わる土地にみられる点から、四仏崇拝とはAsoka王との関わ りを持つ古い思想で、あったと言えよう78。さらに『増ー阿含経』巻四十八79には四仏に 続いて弥鞍仏の出現が説かれている800ANには該当箇所がなく、劫数無辺際である点 から阿含でも北方で遅くに成立した部分であろう。 一方、律類においては二商人の奉食が述べられる『五分律~ 81には成道前の粥供養 79 rNo.l25. T2.813c26-814a191 80宮坂宥勝[1998]W仏教の起源』宮坂宥勝著作集;第 1 巻、法蔵館、P'p:~7_J_・383. 8)..JN9JA71_~_I_2~ .

1

.

03T77・2}]W五分律』巻第十五、イ弗陀什、竺道生「イ弗説偏巳。起 到欝締羅斯那衆落入村乞食。次到斯那婆羅門舎。於門外黙然立彼女須閤陀。見{弗 威相殊妙。前取イ弗鉢盛漏美食以奉世尊。偽受食巳語言。汝可蹄依イ弗腸依法。即受 自騎。是震女人中須闇陀最初受二自蹄矯優婆夷悌食巳復還菩提樹下。」 58

(16)

(31 ) 龍谷大学悌教学研究室年報第17号 20日 年 3月 の場面が存在せず、 『四分律~ 82では釈尊自ら少量の食事をしたとの記述のみで、あっ た。

r

五分律』で在家信女中最初に二帰依を受けたものを須闇陀、 『四分律』では蘇 簡羅大将の娘としており、この女性は成道後の釈尊のため「二商人奉食Jの直後に美 食を供養している。すなわち、この二経の S吋五倍の物語は成道前の覚者への奉食の物 語を、二商人の二帰依に倣って成道後の物語へと改編した可能性がある830 ここで、二経の違いを見てみると

NK

では「菩薩が備となられるには、今日、 10万 両の価値の金の鉢を得なくてはならなしリと金の鉢による供養を理由づける独自性が みられるが、 『瑞応』ともに弥鞠と四仏を結び付ける北方の思想、を導入し仏鉢の物語 を展開しており、同一のソースがあったと思われる。『瑞応』は成道後に「乳粥供養J が続いており、イ昌を唱える龍王の名前が文鱗龍(Mucalinda)とされている点から『四分 律~

r

五分律』の施食の物語の影響がうかがえる。しかし北伝中においては金の鉢が 用いられる最初期の段階であるといえよう。この二経がさらに発展を見せたと思われ るものが『普曜~ 84、Mtu85、LV86で、あり、 Kala龍王の讃偶lこ「世尊よ、クラクッチャ ンダ仏(Krakucchanda)、カナカムニ仏(Kanakamuni)、カーシャパ仏(Kasyapa)も歩まれた 道をあなた様は歩まれるのですJと成道の確定について具体的に詳述されるといった 表現が見いだせる870 以上のように経典類の展開が確認できた。ここで、 「乳粥供養jの作例を改めてみ てみると、 Gandhara'こおいて「乳粥供養jの作例はほとんど皆無といってもよいのに 対して路、讃偶場面の作例が複数見られる点から、 Kala龍王は特に有部活動拠点で、好 まれたキャラクターであり、食物の布施よりも覚者の讃嘆が重要視されていた点がう かがえる。これに対してS吋ataの系統と思われる南インドの作例は「乳粥供養 カー ラ龍王の讃偶Jとし、う一続きの物語を同一区画に明示しており、 Sanchi、Mathura、 ~7 _[N<?~~478~Tl~.786a27_-2~l.W 四分律t~ 巻第三十一、イ弗陀耶合、竺{弗念「蘇闇羅大 将女優婆夷矯最初。爾時世尊。食彼食巳。」 83 平川前掲書、 p.543. 84悶0.186.T3.sf4b14-161 W普曜経』巻努玉、竺法:~l i異皐三部品第十J' i爾時龍 王見斯光明。目即得開。輿ハ属前而欝歎目。我巳曾見開留秦イ弗。従来久遠。亦見 拘那含牟尼イ弗井及迦葉。 J M旬.Senart. vol.II, pp.265-267. ; pp.302-305. Lv. 19.38. Lef. p.281, margascapi yatha visodhitu surairyenadya tvarp gacch :naga卸 krakucchandubhagavan kanakahvayal) kasyap

a

Q

/

tha -va padma visuddha nirinala subha bhittva mahImudgatal) yasmirpnik~ipa5

:l11}a_na!iQ_alatpþh_ã~i tvel:maqyarhavan / / 『方広』で、は「過去三仏Jとしている他、偶文の内容も異なる。lNo.l87.T 方慶大荘厳経

JS

第八、地ご詞羅「詣菩提場品第十判よ「於龍衆中而説 三イ弗皆己現智,光明虞金色於是還観無垢光由斯疋有悌輿世J 88栗田 II.PL.187 57

(17)

Gandharaの表現に比べて仏伝の古い物語構成を忠実に配置し、独立させることなく、 釈尊の偉業に付随する物語として造形していたと理解できる。 「四天王奉鉢J

r

乳粥供養Jいずれの説話においても、初期の段階では正等覚者と なる人物、法を説くと約束された人物に、施食をするとしづ行為を称えるのみで、あっ たと言えよう。それが漢訳経典において金の鉢を用いての布施、龍宮や天界における その供養といった、稀有な仏鉢の存在が際立ち始めた要因には、四鉢合一の奇跡が初 めて説かれたAsokavadanaやBCといったMathuraと関わり深いとされる経典が背その 景にあったと考えられる。

5

.

特別な鉢の出現 では突知として詳細な鉢の物語が説話中に導入されたのには、どのような背景があ るだろうか。仏教経典内にみられる仏鉢の記述は多くが、世尊在世時において乞食の 場面描写内、もしくは律文献中において比正・比丘尼への禁則事項に触れる場合であ る。説話場面で特殊な役割を負うものはこつで、 「金の鉢J

r

土の鉢」である。この 二種の教団内における理解はどのようなものか。パーリ文献類では Theraghataの 97 偏及び 862偏に Hitva sataphalarp karpsarp sova明arpsata同jikarp, Aggahirp mattikapattarp idarp dutiyabhasevana'nti. 100カラットの高価な銅製の鉢も、 100ラージカする黄金製の鉢も捨てて、私は 土の89鉢を執りました。これが第二の濯頂であります。 高価な鉢よりも質素な鉢をよしとする傾向がみられる。また、律蔵 Mahavaggaでは 「鉢に二種あり、鉄鉢と泥鉢なりJ90とあり、 Culavagga91で、も「金製の鉢を持つては ならない。銀製の…瑠璃の…水晶の…織製の…鎌石製の…錫製の…鉛製の…銅製の鉢 を持つてはならない。…比丘らよ、鉄鉢と瓦鉢の二種を許可します」と実際に比丘ら の用いていた鉢がこのような簡素なものが推奨されていたことがわかる。ここで、粥 ~9 V~~'!Ya.: l\1al;lã;y~~~., p.~~t などで「鉢商あるいは陶器商…」と郷撤する場面か ら、おそごらく土器のよフな焼成物。

90 Vinaya. Mahavagga., p.123. Parivara. p.117. Dve patta ayopa枕omatikapa仕o.

91 Vinaya. Culavagga. p.112. 9-1.

(18)

龍谷大学悌教学研究室年報第17号 2013年 3月

供養場面の記述として Snの 80偶ノ〈ーラドヴ、ァージャバラモンの物語をあげよう。

Atha kho kasibharadv実jobrahma早omahatiyakamsaoãtiv~ payasarp va<;l<;lhetva bhagavato upanamesi, bhu白dataabhavarp gotamo payasarp kassako bhavarp yarp hi bhavarp gotamo amataphalarp kasirp kasatiti. その時、農業を営むバラモン・パーラドヴァージャは、大きな青銅の鉢に乳粥を いっぱいに盛って、世尊に召し上がっていただくように奉献した。「ゴータマ様、 あなたこそ乳粥を召しあがってください。あなたは農業を営む方です。ゴータマ 様、あなたは甘露の穀物を実らせる農業をなしておられます。 J この青銅の鉢(kansapatra1!1)は、乳粥供養の比較的初期段階の形式をもっMtu92で、も記 述されており、安価な金属製の鉢は仏教徒の施食の場面でも特に問題なく用いられて いたと思われる。しかし Snでは次の偶で、釈尊は「バラモンは詩備を唱えた報酬と して食物を受け取るが、仏教者はこのような謝礼を受け取ってはならないJと述べて 鉢を受け取ることはなかった。本論で取り上げる「四天王奉鉢J

r

乳粥供養jは「初 転法輪」場面より前の物語であるため、釈尊は謝礼としてではなく奉食を受けている。 このような背景には食物を奉じる行為に対する、仏教徒の認識の変化が想定される。 文献では追い切れない時代背景を考察するために、食物(供物)を捧げるための鉢の 造形を見てみよう。これらのモチーフとなった象徴表現として、 Mathuraの非仏教美 術作品がある93。前 1世紀ごろ Jaina教の奉献板などのレリーフ【図 101に見られ、 上下に4つずつ配置される ayagapataは八種の幸福を意味する吉祥紋のーつである鉢 に盛られた食物の図像で、 vardhamanakaを意味している。吉祥紋を並べるよく似た表 現が Mathuraの欄楯装飾94や菩薩像付属の傘葦内面【図 llabc1にも確認でき、仏教と ジャイナ教美術の相関性がうかがえる。仏教徒も Apαdana95において「鉢で食事をす 55

(19)

ることは、これは福行の果報です。私は名誉と財宝〔を受ける〕の鉢となった」と、 鉢と豊穣が関わりづけられる意識を持っていたことがわかる。 この繋がりは同時代作品であるボストン美術館所蔵の作例【図 12]でも明らかで、 仏教徒の舎利堂入口扉96と思われるティンパヌム(三角小間)表面には、アーチ状の 構成の最上部に、細粒状のものが入れられた鉢が円光を付し須弥壇のような台座上に 杷られている。このティンパヌムは聖樹・法輪柱・ヴィハーラといった意匠が表され た仏像出現直前の造形作品である。また、マトワラー博物館所蔵の同形のティンパヌ ム【図 13]でも、同様にアーチの最上部空間に粒状のものを盛られた鉢が安置されて いる。こちらの作例は面面のアーチ二段目に仏坐像が表されており、ボストン美術館 のものより後代の2世紀ごろに位置づけられる。また背面の同区画に仏髪が杷られて いる点からも、切利天でのS吋5協の鉢を意識して制作されたと思われる。どちらのテ インパヌムも最上段に鉢を置き、その上方の区画にGarudaを配している。これは「粥 供養J場面で、乳粥を食べ終えた釈尊は川中に鉢を投げ、その鉢を Garuclaが持ち去 るエピソードとの関わりを伺わせる。このようにMathuraではS吋ataの粥供養の鉢が、 ほかの聖遺物同様に多く図像化され、仏伝説話の場面としてではなく重要な切利天を 表す存在として供養されていたといえよう。そして、 Mathuraにはさらに注目すべき 造形が見出せる。紀元前 50・20 年頃の Ya~i とされる丸彫りの女性立像である。 【図 14]着飾った豊満な女性が、大きな鉢の様な柱頭を持つ装飾柱に背をつけて立ってい る。右手には水瓶を下げ、左手には山型の蓋をかぶせた皿に盛られた食物を肩まで掲 げている。この様な女性像はKankali

T

i

l

a(100圃125年頃)と Sanghol(150

200年頃)にも 見られ、紀元前 100-50年頃のBesnagar出土笠石部分浮彫のものはストゥーパに向か う姿で描かれている【図 15]0 これらの女性像は【図7] Sanchi第一塔北門背面第二 横梁中央部(左側)と同じ持物、ポーズを有しており、また一人で表現されている点 からも Quintanilla97の指摘するように S吋ataであると見てよいであろう。このことか らS吋ataは、 NandaとNandabalaよりも先行すると考えられる。そしてMathuraにお いては「乳粥供養jの図像化が早くからなされており、それは鉢が単独で供養礼拝さ れる図像より以前に、頻繁に作像されていたテーマであったといえよう。 一方、南インドではほとんど図像化された仏鉢の作例は確認できず、Amaravati【図 16]とNagarjunakot)ga【図 17】のメダイヨン浮彫の二例が確認できる。前者は中央のひ 96藤賦[2_01.

.

Q

J

はMathuraの重層建築物全景のレリーフと、碑文からこのティンパ ヌムを舎利堂入口の扉と指摘する。 97 Quintani1la[2007] p.l63. 54

(20)

龍谷大学{弗教学研究室年報第17号 2013年 3月 と回り大きく表された天人が一抱えもある大盤を掲げ、そこにすり鉢型の鉢が置かれ ている。その周囲を取り巻くように多くの天人たちが歓喜し、合掌しているさまが描 かれている。鉢に因縁はなく、四天王も確認できない。同様の構図で仏髪を合掌礼拝 する作例も同地から出土しており98、その点からもこの図像も S吋ataの鉢を切利天で 杷り上げている場面であろう。 このようにGandhara地域で I四天王奉鉢の四縁の鉢」が、 Mathuraでは「粥供養の 黄金の鉢Jのモチーフがそれぞれ人気を得ていたのに対して、南インドではそれらは あくまで仏伝中の一つの場面であり、鉢が主役となって物語に肉付けがなされたり、 場所を表す基点となるような意識は希薄であったと思われる。この地域で鉢に注目が 集まるのはだいぶ遅れた Mahavamsaの「歯舎利の由来Jであり、インド大陸からの 請来と両舎利を舎利堂に奉るまでの物語においてである。 北インド Mathぽ亙でなぜ「乳粥供養Jの鉢が重要視されたのかについては、 Jaina 教美術からの影響や、吉祥紋の富をもたらす鉢といった造形と、将来の覚者となる偉 人に食事を差し上げることで果報を得るという物語がこの地で結び付き、特別な鉢へ と転化していったのであろう。 6.

まとめ

仏鉢と呼ばれるものには「四天王の石の鉢」と「スジャーターの黄金の鉢J二種類 があり、 「成道jとしづ重要場面の直前直後に登場する施食の説話に現れる。それは ともに、未来の覚者とまさしく覚者となられたばかりの方に食べ物を差し上げるとい う簡潔な'情景で、あった。図像でも初期仏教美術の「乳粥供養J描写は鉢ではなく供養 者に焦点が当てられていた。しかし物語が拡張され「乳粥供養」の鉢が'閃利天に移動 すると、 MathuraではJaina教の意匠から未来の豊かさとしづ意味づけを加えられ、単 独で仏髪と同じ釈尊の聖遺物として図像化され供養礼賛されるようになった。 Mathura仏像出現前の作例ですでにこの傾向がみられる点からも、 1世紀半ばには「乳 粥供養Jの鉢が稀有で貴重な存在であると意識され始めていたと理解できる。鉢の神 聖化は仏伝美術が盛んに作られたGandharaでも受容され、人気の高し、「四天王奉鉢」 の鉢の行方を創造させたのではなかろうか。その一方で南インドではどちらの鉢の物 語も「成道」場面に付随する一部の説話であり、 Satavahana朝の後期まで特別視され

sωne

[1994] PL.225. K叩 nhalli遺跡にも同様の構図の浮彫作例が2例存在す 53

(21)

ることはなかった。 このように鉢の物語は地域によって異なる説話が抽出され、 GandharaとMathuraで それぞれの釈尊の特別な鉢が供養礼拝されており、両地域の特色が明瞭で、あった。し かし「四天王奉鉢J i乳粥供養Jいずれの説話でも、 Mathuraと関わり深いとされる Asokavadanaにおいて転換期を迎えており、釈尊の鉢の神聖化を進める思想・文化が この地において流布しており、紀元後1世紀半ばの仏像出現直前に仏教徒たちにも受 け入れられたのであろうと結論付けたい。 52

(22)

龍谷 大 学{7U教学研究室年報第17号 2013年3月

[図1]

{図2]

(23)

[図 3] 【図4]

(24)

悩谷大学付I~教学研究室年報第17号 2013年3月

[図6]

[~18]

(25)

ロコ て t ︻。ご 図 ︼ ︻ A 二図 ︼ ︻ 国=図 ] ︻。-図 ︼ ︻ ま図 ︼ っか図︼

野坂

i

了誕山.匂き

11

引っ:うよじ

11

-三議野--ト

i

-のお

I

均三-│ 外..三点主-ふ ..

ロプ

F

Hiffi、

.

.

如実穴崎礎議

j

綜総綜必 i

♂:

卜 問宅守手!lI 砂配?王引 J 己 4

‘-、 e 町広だ三吋 ミ℃‘引 J訂量“II1IIふ.、 ‘〆 頃 "" ず -ι ]叩哲 F 匹引ち以霊 11

「ぺ

11

吹、汚吹

1晩町包

J

川, !い :

主♂.芯

L

ごケ代代究究.殺与¥

111

‘つ?三戸守、し

I

方吋 一

W

努脅

I

I

.

ι

色 1 り

11

Vr

可勺;主

4

モと詳:長

I

主詳長主立

μ

山釘

i

与.三さ主竺

i

3

号主軍糸

I

宗主手

I

I

ミ-三

I

I

t

一一一一一汀﹂

-FtEH

べ一 Bl

E

(26)

能谷大学偽 教学研究室年報第17号 2013年 3月 [図11] 表面 袈面 表面 袈面 [図12] 47

(27)

【図13] [図 14]

[図15] [図16]

(28)

《略号》 AN=A.ti忠則ara-nikaya SN = Sarpyutta-nikaya Sn = Sutta-nipata 龍谷大学悌教学研究室年報第17号 20日 年 3月 J (NK) = Jataka(Nidhanakatha) Vin=Vinaya BC = Buddhacarita Mtu = Mahavastu Lv= Lalitavistara

T=

大正新惰大蔵経 全 集 =

-

w

世界美術大全集;東洋編第 13インド

u

栗田 1=栗田功 Wf弗陀の世界』 栗田11=栗田功 Wf弗伝』 彫 刻 展 =

w

インド・マトゥラー彫刻展:日本・インド国交樹立50周年記念』 溝 口 =

w

サンチーのストゥーパ:古代インドの悌教美術の精華』鹿島出版会 Quintanilla = History of early stone sculpture at Mathura, CA. 150 BCE -100 CE Knox=Amaravati: Buddhist sculpture企omthe Great Sぬpa 《図像出典》 【図 1]栗田 II,PL.238. 【図 2]緑色片岩、 h.24cm、日本個人蔵、栗田 1,PL.242. (43 ) 【図 3] 1世紀、第一塔南門東柱正面、砂岩、サーンチ一博物館収蔵 Marshall [1982] v. 2., PL.19. 【図 4】イーシャープル出土、クシャーナ時代 (1世紀)、砂岩、 h.48cm、マトワラ 一博物館所蔵、 『全集~ fig.74. 【図 5]アマラーヴァティー出土、 2世紀、石灰岩、 h.60cm

x

w.67 .5cm X 10cm、大英 博物館所蔵、Knox.PL.6(inner face). [図6】ナーガールジュナコンダ出土、イクシュヴアーク時代 (3世紀後半)、石灰 岩、 h.193cm、ナーガールジュナコンダ考古博物館所蔵、 『全集』臼g.l31. 【図 7] 1世紀、 SanchI現地、第一塔北門背面第二横梁中央部(左側)、砂岩、溝口 p.88・89. 【図 8】イクシュヴアーク時代 (3世紀後半)、ナーガールジュナコンダ出土、石灰 岩、 h.180cm、ナーガールジュナコンダ考古博物館所蔵、 『全集~ p.l46., PL.130 {図9a】 「仏伝五相中央Jラージガート出土、マトワラ一博物館所蔵、 2世紀後半、 赤色砂岩、 h.65cm、 『全集~ fig.77. 【図 9b】 「仏伝八相」 ドウルヴ・ティーラー出土、マトワラー博物館所蔵、 3世紀、 赤色砂岩、 h.21.5cm、 『全集~ fig.80、 『彫刻展~ PL.l5. {図 10】カンカーリー・ティーラー出士、 20・50年、淡黄褐色砂岩、 w.79xh. 71 cm、 ラクナウ州立博物館所蔵、 Quinta出lla.Fig.159 【図 lla】クシャーナ時代 (2世紀前半)、サールナート出土、砂岩、径300cm、サ ールナート考古博物館所蔵、 『全集~ p.8,.1PL.69. [図 llb】Govindnagar出土、クシャーナ時代、赤色砂岩、R.C.Sharma[1984] Buddhist art 01 Mathura, Agam Kala Prakashan. P.l12. fig.38.

【図 llc】Govindnagar出土、クシャーナ時代、赤色砂岩、 R.C.Sharma[1984] Buddhist aげ 01 Mathura, Agam Kala Prakashan. P.l12. fig.39.

【図 12]1世紀第二四半期、マトゥラー出土、砂岩、 h.78.1cm、ボストン美術館所蔵、 Quintanilla.Fig.286.

{図 13]クシャーナ時代 (2世紀前半)、ジャマールプル出土、赤色砂岩、 h.95.9cm

(29)

XW.80.8 cmX 11.5 cm、ニューデ、リ一国立博物館所蔵、 『全集~ p.76.77., fig.64.65. 【図 141 デオカリ出土(ファイザ、パド近郊)、前 50・20年、赤色砂岩、 h.98.2cm、ペ ナレスヒンドゥ一大学所蔵、 Quintanil1a.Fig.203. [図 151ベースナガル出土、前 100-50年、灰色砂岩、 w.350cmX h.28cm、グワリオー ル美術館所蔵、 Quintanilla.Fig.209. 【図 16】アマラーヴァティー出土、サータヴァーハナ時代 (2-3世紀)、石灰岩、径 88cm、チェンナイ州立博物館所蔵『全集~ p.135., PL.117. 【図 171ナーガールジュナコンダ site3出土、イクシュヴアーク時代 (3世紀後半)、 石灰岩、ナーガールジュナコンダ考古博物館所蔵、 Stone[1994]PL.115. 《参考文献》 金 香 淑[1996] ["インドの四天王の図像的特徴J ~密教図像~ 15号、 pp.1・27、図 lp. 桑山正進[1983] ["厨賓と悌鉢J ~展望アジアの考古学樋口隆康教授退官記念論集』 所収、新潮社、 pp.598・607. [1990a]~カーピシー・ガンダーラ史研究』京都大学人文科学研究所 pp.43-59.

[1990b] "The Buddha's Bowl in Gandhara and Relevant Problems", South Asian Arcl}aeology1987, IsMEO, Rome, pp.945・978.

栗 田 功 [2003a]~悌陀の世界』改訂増補版、二玄社 [2003b]~悌伝』改訂増補版、二玄社 NHKプロモーション編[2002]~インド・マトゥラー彫刻展:日本・インド国交樹立 50周年記念』東京国立博物館 肥塚隆、宮治昭責任編集[2000]~世界美術大全集;東洋編第 13 インド 1~ 小学館 小 山 満[2000] ["仏教図像の研究:図像と経典の関係を中心にJ (早稲田大学博士学位 請求論文) pp.56・63. [1998] ["ガンダーラの仏鉢と弥鞠J ~シルクロード研究~ 1号、 pp.l・12. 定 方 辰[2001] ["二商人奉食の伝説についてJ ~東海大学紀要~ 76号、 pp.l75・194. 藤原達也 [2012]["プッダの帰還ーガンダーラにおける仏像の起源について一J~死生 学年報 2012生者と死者の交流』東洋英和女学院大学死生学研究所編 (リトン刊) 溝口史郎 [2005]~サンチーのストワーノ" :古代インドの悌教美術の精華』鹿島出版会 山田明爾[1989] ["Huna and HephtalJ ~ZINBUN~ 23号、京都大学人文科学研究所、

pp.79-113(L) [1963a] ["ミヒラクラの破仏とその周辺-上-J ~仏教史学~ 11巻 l号、平 楽寺書庖 [1963b] ["ミヒラクラの破仏とその周辺-下-J ~仏教史学~ 11巻 2号、平 楽寺書庄 山田龍城[1955] ["蓮華面経についてJ ~印度学仏教学論叢:山口博士還暦記念』 pp.ll0-123. Cribb

J[l984]South Asian archaeology1981 : proceedings ofthe Sixth International Conference of the Association of South Asian Archaeologists in Western Europe, Cambridge University, 1981, Cambridge University Press. Czuma, StanislawJ[1985]Kushan sculjフture: images jト'omearly India, Cleveland Museum of Art in cooperation with Indiana University Press. Faccenna

Domenico[1962同1964]Sculjフturesfrom the sacred area of Butkara1 (Swat, W

Pakistα,n) ,Pt.2, P.t3. (Reports and memoirs ; v. 2・2,2・3)Roma:Isti旬toPoligrafico dello

Stato.

Gnoli, Raniero [1977] 1恥 Gilgitmanuscr伊tofthe Sα匂habhedavastu:being the1刀hand last section of the vinaya of the Mulasarvastivadin

Isti旬toitaliano per il Medio ed Es悦 mo

(30)

龍谷大学悌教学研究室年報第17号 20日 年 3月

Oriente.

Ingholt, Harald[ 195 7]Gandharan倒 的Pakistan:with 577 ilIustrati'Ons ph'Ot'Ographed by lslay Ly'Ons and 77 pictures

f

r

'Om 'Other s'Ources, New York : Pantheon.

Jones, John James [1949・1956]1加 Mahavastu,translatedfr'Om the Buddhist Sanskrit, v. 1, v. 2, v. 3.Luzac, Sacred books ofthe Buddhists. Pali Text Society; v. 16, 18-19.

Knox, Robert[1992]Amaravati " Buddhist sculjフturejトomthe Great Stupa, Published for the Trustees of the British Museum by British Museum Press.

Lefmann, Salomon[1977]Lalita vistara,'Leben und Lehre des Cakya-Buddha: Textausgabe

mit Varianten-, Metren-und Worterverzeichnis, Meicho・Fukyu-Kai.

Gandhara: das buddhistische Erbe Pakistans: Legenden, Kloster und Paradiese,

[2008]Kunst-und Ausstellungshalle der Bundesrepublik Deutschland, Buchhandelsausgabe, Munchen : Philipp von Zabern.

van Lihuizen-deLeeuw[1981]S'Outh Asian archae'Ol'Ogy, 1979: papersfr'Om thefifth

Internati'Onal C'Onference'Of the Ass'Ociati'On 'Of S'Outh Asian Archae'Ol'Ogists in Western Eur'Ope held in the Museumjur lndische Kunst der Staalichen Museen Preussischer Kulturbesitz Berlin, D. Reimer.

Luders, Heinrich[1963]Bhαrhut inscripti'Ons

Government Epigraphist for India. Marshall, John[1982]The m'Onuments'OfSanchi, v 1, v. 2, v. 3.

Parimoo, Ratan[2010]Life'OfBuddhαin lndian sculpture (a#a-mahaてpratihaηla),D.K. Printworld.

Pal, Pra旬paditya[1988]"A pre-Kushan Buddha image企omMathura. " A p'Ot-p'Ourri'Of lndian art, Bombay, pp. 1・20.

Quintanilla, Sonya Rhie[2007]Hist'Ory'Of early st'One sculjフtureat Mathura, CA. 150 BCE -100 CE (Studies in Asian art and archae'Ol'Ogy,'v. 25), Boston : Brill.

RHIJ叫1戸mg[2009] "The Fate of a Bowl (or Bowls): Representations ofthe Buddha's Bowl

泊Ear1yIndian Buddhism

inThe Art'Of Centra/ Asia and the lndian Sub-C'Ontinent in Cr'Oss-Cultura/ Perspective, ed. Anupa Pande, pp. 61-77.

Senart, Emile[1977]LeMahavastu,'texte sanscrit, publie p'Our la premieref'Ois et

cc'Ompagned'intr'Oducti'Ons et d'un c'Ommentaire, p訂t.1, 2.t, t. 3. Meicho・Fukyu・Kai.

Shinohara, Koichi[2003] "The Story ofBuddha's Beginning Bowl : Imaging a biography and Sacred Places. " Pilgrims, Patr'Ons and p/ace : l'Ocalizing sanctity in Asian religi'Ons, University ofBritish Columbia Press, pp.68・107.

Stone, ElizabethRosen[1994]The Buddhist art'OfNagarjunak01Jcla, M'Otila/ Banarsidass Publishers, (Buddhist凶ditions; v. 25). Motilal Banarsidass Publishers.

Strong, John S[2004]Relics'Ofthe Buddha, Princeton : Princeton University Press.

Wan-Toutain, Francoise[ 1994] "Le bol du Buddha : Propagstion du bouddhisme et legitimite politique."Bulletin de 1 'Ec'O/e Francaise d 'Extreme-Orient, vo1.81, pp.59-82.

くキーワード>仏教芸術、仏鉢、 Buddha,cαritlα、As'Okavadhanα、マトゥラー、サー ンチー

(本学博士後期課程)

参照

関連したドキュメント

東京大学 大学院情報理工学系研究科 数理情報学専攻. [email protected]

〔付記〕

ハンブルク大学の Harunaga Isaacson 教授も,ポスドク研究員としてオックスフォード

2014 年度に策定した「関西学院大学

関谷 直也 東京大学大学院情報学環総合防災情報研究センター准教授 小宮山 庄一 危機管理室⻑. 岩田 直子

経済学研究科は、経済学の高等教育機関として研究者を

最初の 2/2.5G ネットワークサービス停止は 2010 年 3 月で、次は 2012 年 3 月であり、3 番 目は 2012 年 7 月です。. 3G ネットワークは 2001 年と

 「世界陸上は今までの競技 人生の中で最も印象に残る大 会になりました。でも、最大の目