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和訳「ラリタヴイスタラ(改訂版)」 (第24‑25章)

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(1)

雨一一詞

和訳「ラリタヴイスタラ(改訂版)」 (第24‑25章)

外薗幸一

まえがき

本稿は前号(鹿児島国際大学「国際文化学部論集』第21巻3号)に掲載した和訳「ラリタヴィス タラ(改訂版) (第22‑23章)」に引き続くものである。 「第19巻1号」 (本シリーズ冒頭の号)所載 の和訳「ラリタヴィスタラ(改訂版) (第1〜3章)」の「まえがき」に記載したように,筆者は,

すでにラリタヴイスタラ全27章の初訳を一応完了しているのであるが, もう少し読み易い和訳にす ることを目標に「改訂版」を作成することにした。そして, これまでに第1章から第23章までを発 表したので,今回はそれに続く形で,第24章と第25章を掲載する。なお,第22 27章は,拙著『ラ

リタヴィスタラの研究下巻』の「第三部」に掲載したので, これらの章は「下巻』を底本とする ことになる。

略号

方広=『方廣大荘厳経』 (大正新脩大蔵経187). ChineseTranslationoftheLalitavistara.

普曜=『普曜経」 (大正新脩大蔵経186). AChineseTranslationofthe(old)Lalitavistara.

「佛教大辞典』= 「望月佛教大辞典(増訂版)』 (昭和32年増訂版,世界聖典刊行協会)

「梵和大辞典」 =荻原雲来編「漢訳対照梵和大辞典』 (昭和53年,講談社)

『佛教語大辞典」 =中村元「佛教語大辞典j (昭和56年,東京書籍)

「上巻』=外薗幸一「ラリタヴイスタラの研究上巻j (平成6年,大東出版社)

「中巻』 =外薗幸一「ラリタヴイスタラの研究中巻」 (2019年2月,大東出版社)

「下巻』 =外薗幸一Iラリタヴイスタラの研究下巻』 (2019年10月 大東出版社)

BHSG=B""""Hy6""az"sルγ〃G"""zαγα"dac"0"α秒Vol. I :Grammar,byF.Edgerton, NewHaven, 1953.

BHSD=Ditto,Vol.II :Dictionary.

括弧符号の使い分け

和訳の文章中において用いる括弧は,原則として,次のように区別する。

1. 「 」は,会話文を示すために用いる。

2. ( )は,直前の言葉を,別の言葉で言い換えるために用いる。

3. [ ]は,訳文を補充して,意味をはっきりさせるために用いる。

4. 〈 〉は 特殊な複合語や,重要な熟語を示すために用いる。

5. 《 》は,東大主要写本に原文が欠落しているが,挿入すべきである部分の訳文に用いる。

6. 〔 〕は,東大主要写本に原文が挿入されているが,削除すべきである部分の訳文に用いる。

7. 【 】は,諸写本に混乱があり,削除すべきか挿入すべきか確定しがたい部分の訳文に用いる。

*なお,第22章から第27章までの訳文の左端に付してある数字(208‑484)は, 『下巻j第二部(本 文校訂)における梵語原文のページ数を示すものである。

キーワード:ラリタヴィスタラ,仏伝文学,大乗仏教,混清梵語,仏教思想

(2)

国際文化学部論集第21巻鋪4g・ (2021年3月)

『ラリタヴイスタラ』 (大遊戯経)

第24章(トラブシヤ・バツリカ品)↑

しょうがく けっかふざ

かくの如く,実に比丘らよ 正覚を現証したる如来は,天神たちに讃歎せられつつ,結珈畉坐を

じゅおう せんかん

解かざるままに,眼を閉じることなく樹王(菩提樹)を膳観せり。禅定の喜悦を食となし2,安楽を 享受しつつ,菩提樹下にて七日間3を過ごしたまえり。

よくかい と

それから七日を過ぎて,欲界の天子たちは百千の香水の瓶を執って,如来のもとに来たれり。ま

しきかい

た,色界の天子たちも百千の香水の瓶を執って,如来のもとに近づき来たりて,菩提樹と如来に香

ガンダルヴァ アスラ ガルダ

水を注ぎかけたり。また,計数し得ざるほど[多く]の天・龍・夜叉・乾悶婆・阿修羅・迦櫻羅・

キンナラ マホーラガ ぬ

緊那羅・摩猴羅迦たちは,如来の身体より落下する, その香水を,それぞれ自分の身体に塗れり。

ひじょうしょうとうが〈 おこ

また,無上正等覚への心を発したり。また,天子たちをはじめとする,彼らは各自の宮殿に戻って

あいじゃ〈

もなお,その香水〔の香4〕を手離すことなく,他の香への愛著を起こすことなかりき。また,彼ら

は,如来への尊敬の念を作すことによって生じたる,その歓喜と 愉悦によって,無上正等覚[を求

たいてん な

める道] より退転せざるものと成れり。

しゅえ

その時,実に比丘らよ サマンタクスマ5 (普花) と名づける天子が, まさしくその衆会に来たり てありき。彼は如来の両足に平伏し,合掌して,如来にかくの如く言えり。 「世尊よ, 《如来が6》か

さんまい

の三昧に専念して,七日間結珈畉坐を解かざるままに過ごしたまえる,その三昧の名は何となす や」 [と]。かくの如く言われて,比丘らよ,如来は,かの天子に,かく答えたり。 「天子よ, この 三昧の名はプリーテイアーハーラヴユーハ7となし, その三昧に専念して,如来は七日間,結珈跣 坐を解かざるままに過ごしたり」 [と]。

それから,実に比丘らよ サマンタクスマ天子は如来を,偶を以て8讃歎せり。

280

282

せんぶく りんそう

l. [御身の]足は[千輻の]輪相に満ち,無垢なる蓮華の葉の[如き]千の光輝あり。

ほうかん くどくじゆ

天神たちの宝冠に触れられたる足なれば,功徳聚[なる御身]の両足に敬礼せん。

ぜんぜい

2. その時,かの天子は,心に歓喜しつつ,善逝(仏陀)の足を礼拝せるのち,

人・天9を寂静ならしめ,疑念を除くべく, この言葉を語れり。

とん じ人 ち

3. [御身は]シャーキヤ族(釈迦族)に歓喜を生ぜしめ,貧・腹・痴を滅尽せしめたり。

trapuSaとbhallikaは仏陀(釈ル#)から妓初の授記を受ける兄弟商人の名である。方広には, この第24章は「商人蒙記品

(しようにんもうきぼん)」と訳されている。

方広には「耐悦為食」と訳されているが,チベット訳は「禅定と歓喜を食となし」という意味の訳文になっている。

sapta‑ratraの原意は「七夜」であるが. 「七日間」の意味であり,方広にも「七日」と訳されている。

「香」 (gandha)は.チベット訳には相当訳語がなく.文脈上も不要であるから削除すべきである。

samantakusumaは「通満たる花」の意である。方広には「普花天子」と訳されている。

「如来が」 (tathagatah)は東大主要写本に欠落しているが,チベット訳にはこれに相当する訳語があるので挿入すべきで

ある。

prityaharavynhaは「歓喜食荘厳」の意である。方広には「喜悦三味為食」と訳されている。

チベット訳は「かくの如き偶を以て」という意味の訳文になっている。

「人・天」 (naramarunam)とは「人間や天神たち」の意であるが.方広には「天人」と訳されており,チベット訳には「非 天」 (lhamin) と訳されている。

34一ゆ6 j89

(3)

和訳「ラリタヴイスタラ(改訂版)」 (第24 25章)

ふっしょく

[今また]諸々の疑問を滅尽せしめて,人.天10の疑念を払拭したまわんことを。

しょうりょう いつさいちしょう じゅうりき

4.称量しがたき一切智性を正覚したるのち,十力(仏陀)は何ゆえに,

しようしゃ けつかふざ

勝者よ,菩提の座にて,七日間,結珈畉坐を解きたまわざるや。

ひやくようれんげ まなこ

5.満開の百葉蓮華の如き眼を有する者'! [たる御身]は,一体何を見て,七日間を,

またた

人中の獅子たる者よ,清浄なる眼を以て瞬きもせず観察したまえるや。

じゅおう

6.樹王(菩提樹)の根元にありて,七日間,結珈畉坐を解かざるところの,

せいがん べんさいし し

この誓願は御身だけのものなるや, それとも全ての弁才師子(仏陀)のものなるや。

じゅうりきそん みみよう ほうこう へいせぃ じょうけっ

7.十力尊'2 [なる御身]の口には美妙なる芳香あり,歯は平斉にして浄潔なり。

いざ,真実なる語を告げたまいて, 人間や天神たちに歓喜を生ぜしめたまえ。

かんぱせ

8. 月の顔容なせる者(仏陀)は,彼に'3言えり。 「天子よ, わが言葉を聴くがよい。

この質問に対して'4, われは少しばかり語るがゆえに。

かんじよう

9・王が. ある場所において,親族衆に灌頂'5 (即位)せしめられたる時に,

ほつしよう

七日間,その場所を離れざるは,実に16,王の法性17なり。

じ、うりきしや

10. まさに同じく 十力者(仏陀) もまた,誓願を成就して灌頂せられたる時,

七日間,菩提の座にありて,勝者(仏陀)たちは結珈畉坐を解かざるなり。

ゆうしや

ll.あたかも,勇者が余すところなく征圧したる敵衆を観察するが如く,

さいめつ しょぼんのう

仏陀もまた,菩提の座にて,催減したる諸煩悩を観察する。

ぐち

12.愚擬から生じる愛欲と念怒, それらは18衆生にとっての敵に似て,

ことごと

盗品を保持せる盗賊の如くなるも19, われは,それらを悉く, ここに滅除したり。

きょうまん

13. われは, ここに,九種の慢心鋤獺を滅除し, さらに僑慢を住虎なきものとなせり21o

ろ しやだん しこう しようち

[さらに]一切の漏(煩悩)を捨断したれば, われに至高の正智が生じたり。

うあい ぎよう な むみよう

l4. ここに,有愛22の行, また,かの,為すべからざることを為す無明,

284

286

'Oこの「人・天」は,方広には上と同じく 「天人」と訳されているが.チベット訳には「天・人」 (lhamihi) と訳されて いる。チベット訳は上註9の場面で誤訳したものと思われる。

I! 「満開の百葉蓮華の如き眼を有する者」の部分は 方広には「青蓮眸」と訳されている。

'2「十力尊」とは「十力を具えた尊者」の意であり. 「仏陀」の称である。

l3チベット訳には「彼に」 (tam)に当たる訳語はない。

1$チベット訳は「この質問への返答を」という意味の訳文になっている。

'5「瀧頂」とは「頭に水を濯ぎかけること」であるが. 「もとインドの国王の即位や立太子の時行なった儀式。四大海の水を もって頂にそそぎ,祝意を表わした」とされる(「佛教語大辞典」 192頁参照)。

l6チベット訳には「実に」 (hi)に当たる訳語はない。

'7「法性」 (dharmata) とは「諸法(万物)の真実のすがた;事物の本性」の意とされるが, インドの日常の用法では.単 に「日常のきまり」「世のならわし」というほどの懲味であった(「佛教語大辞典」 1252 1253頁参照)◎

'8「‑ド巻」の訳文には,不注意により 「それらは」 (te)が欠落しているので,挿入する。

'1)チベット訳は「盗賊が椋奪せる財物の如きものなり」という意味の訳文になっている。

卸) 「九種の慢心(九慢)」とは「我勝慢(われは彼よりもすぐれていると思う)」「我等慢(われは彼に等しいと思う)」「我劣 慢(われは彼よりも劣っていると思う)」「有勝我慢(他人がわれよりもすぐれていると思う)」「有等我(他人がわれに等 しいと思う)」「有劣我慢(他人がわれに劣っていると思う)」「無勝我慢(他人がわれよりもすぐれていることはないと思 う)」「無等我慢(他人がわれに等しいことはないと思う)」「無劣我慢(他人がわれよりも劣っていることはないと思う)」

の九種である(『佛教語大辞典」257頁「九慢」参照)。

2!チベット訳は「九種の慢心と住虚なき僑慢を滅除したり」という意味の訳文になっている。

望「有愛」 (bhava‑trsna)とは「生存への渇愛(生存を貧ろうとする妄執)」である。これに対して「無有愛」 (vibhava‑trsna)

とは「生存が滅無となることを欲する妄執」である。有愛は「自己生存の永続を願う来世願望」であり.無有愛は「自己

生存を減し去ろうととする自殺願望」であると考えられる。

(4)

国際文化学部論集第21巻第4号(2021年3月)

ずいめんこん あみ しょうち しょうじん

随眠根羽の網は, [われの24]聡明なる正智の火によって焼尽せられたり。

われ われ しんにゅう こんげん すいか えお じようさく

15. われは,かの, 「我は」 「我の」とて深入して根元にまで垂下せる積悪の繩索

塗華な考篝薩蕊の謹溝2 を, ここに,正智の刀剣によって切断したり。 とうけん

われ もうわく

16. われは,久しく 「我の所有」との妄惑により破滅に終着する,

しゆじゃく うん へんち

これらの取著ある[五]蕊を訂, ここに,正智によって遍知したり。

こもうびゅうけん

17. われは. これら二つの愚擬28.虚妄と謬見.大鱒地獄を結末とするものを,

ことごとばつじょ

ここに,悉く抜除し,再び生ぜしめること断じてなし。

ぜんどん かえん がいしょう ちようりん しょうじん

18.われは, ここに,善根の火焔をもって蓋障の稠林を焼尽し,

てんどう

またわれは, 四種の顛倒30を余すところなく完全に焼尽したり。

そうねん もうそう つる

19. われは,想念の糸に結ばれたる.有害なる妄想の蔓を.

ぼだいぶ人

菩提分3'の多彩なる花蓋によって。 ここに,残すところなく32停頓せしめたり。 ていとん

あくる めいもう

じやあく 33 20.六十五の悪路と.三十の不浄なる迷妄と四十の邪悪とを,

だんじよ

われは, この菩提の座にて断除したり。

21.十六の放逸と 十八の身体要素(十八界) と,二十五[の生存状態]斜の全てを,

われは,菩提の座に坐して, ここに,断除したり。

22.二十の繊35と,世間の二十八の恐怖錨とを,

しょうじんりき ゆうもう

われは, ここに,精進力と勇猛とを駆使して,超出したり。

23また. われは, ここに。仏陀の五百の瀧師を自覚し鍋,

百千に達する諸法を, われは証得したり。

ずいめん へんざい

24. われは,九十八の随眠39を,余すところなく,根の辺際に至るまで,

288

鱒「随眠根」とは「随眠(潜在的煩悩)の根」の意である。

2リチベット訳には「われは(〜を焼尽したり)」に相当する訳語(lias)がある。

野「蓋障」とは「蔽いさえぎるもの」「心をおおい.障害となるもの」の意である。

錨「纏縛」とは「からみしばるもの」「迷いの世界に縛り.繋ぎとめるもの」の意である。

「これらの取著ある[五]漣を」の部分は,チベット訳では「取著ある, この[五]篭を」という意味の訳文になっている。

錦「二つの愚癌」とは上の第12偶に見られる「愛欲と盆怒」を指すと思われるが,方広には「二無明」と訳されている。

鱒チベット訳には「大」 (maha)に当たる訳語はない。

30「顛倒」とは「道理にそむくさかさまの見方.考え方」を指し, 「一切世間の無常・苦・不淨・無我なる道理にそむき.そ れが常・楽・浄・我であると考えること」を「四顛倒」という。

3! 「菩提分」 (bodhy‑anga)とは「菩提に至るための七つの要件(七覚支)」を指すものと考えられる。

32チベット訳には「残すところなく」 (aSesa)に当たる訳語はない。

郷「六十五の悪路」「三十の迷妄」「四十の邪悪」のいずれも,内容の詳細については不明である。方広には「六十五種無明

|験四・ │・不善三十垢」と訳されている。

31 「十六の放逸」については詳細不明であるが. 「十八界」とは「六根・六境・六識を合したもの」である。また「二十五種 の生存」とは「衆生が流転輪廻する生死の世界を二十五種に分けたもの」であり, 「欲界に十四有.色界に七有,無色界 に四有がある」とされる(「佛教語大辞典」 1045頁「二−'一五有」参照)。方広にも「十六放逸十八界二十五有悉無餘」と

訳されている。

35「二十の塵氣」とは「二十種の随煩悩」を意味するものと考えられる(「佛教語大辞典」812頁「随煩悩」参照)。 「塵気」

(rajastara) とは「塵挨の拡散」の意味であるが.方広には「重塵」と訳され,チベット訳には「煩悩の暴流」 (rion monschubo)と訳されている。

妬「世間の二十八の恐怖」については詳糺││不明である。方広には「二十八種世間怖」と訳されている。

37「五百の地味」についても不明であるが. あるいは『悲華経jに説かれる「釈迦仏の五百大願」を指すものかもしれない

(『佛教大辞典』 1274頁「五百大願」参照)。

郷「下巻」には「悟得し」と訳したが, 「自覚し」に訂正する。方広には「證獲」と訳されている。

卿「随眠」とは「潜在的煩悩(表面に現れた煩悩に対して, いまだ表面化しない煩悩)」であるが, 「九十八随眠」は「九十

(5)

和訳「ラリタヴイスタラ(改訂版)」 (第24 25章)

ずいぼんのう かえん ぼんしよう

随煩悩の枝葉もろとも, ここに,正智の火焔によって焚焼4Oしたり。

しゅうき が人はん

25.欲望と疑念が集起して41,邪見の水によって流下する42,不浄なる岸畔のある.

かつあい こかつ

渇愛の河の激流を, [われは]正智の太陽によって個渇せしめたり。

てんご〈 こ麓人 きょうわく けんどん

26.詣曲と虚談は捨断され,証惑.樫貧.悪意.嫉妬などの。13,

ぱつじよ りつぎ

この判,煩悩の荒野は伐除され。律儀の火によって焼尽せられたり。

27かの,闘靜の根源にして雛なる編灘に謝する.聲菫う[なる者]への鵠の言葉は,

としや

ここに,最勝なる正智の薬剤によって吐漉せしめられたり。

ひきゅう どうこく うしゅう あいせき

28. われは正智と美徳と三昧とを獲得して,悲泣と働突,憂愁と哀惜とを,

ここに,全く残すところなく,終了せしめたり。

り ち ぼる

29. われは. ここに,真実.理智.三昧を得て,暴流と拘束と [煩悩の]束縛と,

ごうまん ほういつ

悲しみの矢と,傲慢と放逸との.一切を征服したり。

ち◎うりん き ぎ

30. われは, ここに,煩悩の稠林46にして欲念が堅く根づきたる.生存の樹々を,

しようね人

正念の斧を以て,余すところなく切断し,正智の火によって焼尽したり。

31 われは,かの47,強大なる雛(自負心)にして三界の自在主なる邪悪なる自我を蝿,

ざんさつ

ここに,正智の剣を以て斬殺せり, インドラによる阿修羅王19の[斬殺の]如く。

あいもう かつあい らもう

32.三十六[種]に活動する愛網釦(渇愛の羅網)は, この菩提の座において,

強力なる智慧の剣にて残すところなく切断され,正智の火によって焚焼せられたり。

しようき ずいめん

33. われは, これら,苦悩と悲しみを生起せしめる煩悩の根を,随眠もろともに,

最勝なる智慧の鰄訓をもって, ここに,残すところなく抜除したり。 ばつじょ ちえげん

34. われは, ここに, 自性の清浄なる衆生の智慧眼を清浄ならしめ,

しようまく

偉大なる正智の眼薬をもって,広大なる愚癌の障膜を切断したり。

290

八使(くじゆうはっし)」とも呼ばれ、 「三界の見惑に八十八使,思惑(修惑)に1.使を数え,合わせて九十八使とする」

説が「倶舎論」で説かれている(『佛教語大辞典』255頁「九十八使」参照)。方広には「九十八使諸随眠」と訳されている。

狐' 「焚焼」とは「焚いて焼いてしまうこと」である。

'1方広には「愛疑積集」と訳されている。

I2チベット訳は「邪見の水に満ちたる」という意味の訳文になっている。

i3チベット訳は「証惑と樫貧と嫉妬と悪意の」という意味の訳文になっており, 「など」 (adya)に当たる訳語はない。

チベット訳には「この」 (tam)に当たる訳語はないc

編「下巻」には「困難なる」と訳したが. 「険難なる」に訂正する。

16「稠林」とは「密生した森林」の意であるが. 「誤った見解,煩悩のはびこっている衆生のありさまを表わす語」として用 いられる(『佛教語大辞典」962頁参照)。なお. 「下巻」には振り仮名を「ちよう I)ん」と誤記したので, 「ちゆうりん」

に訂正する。

イ7チベット訳には「かの」 (so)に当たる訳語はない。

46「邪悪なる自我を」 (Sathatma)の部分は.チベット訳では単に「悪漢を」 (gyoncan)という意味の訳文になっている。

イ9「阿修羅王」 (daityendra)は,方広には「修羅衆」と訳されている。

sojaliniはjala (")の女性形であるが,パーリ語では「渇愛:欲纏」の意とされ. jalini‑visattikaは「網のはたらきをなす 執着」として「愛網」と訳されている(「佛教語大辞典』 17頁「愛綱」参照)。 「三十六種の渇愛」の内容詳細は不明であ るが. 「受」 (vedana)の種類が説かれる中に「三・l・六受」が挙げられる場合があり, 「云何が三・1・六過なる。依六貧著喜,

依六離貧著喜依六貧著憂依六離貧著憂,依六貧著捨.依六離貧著拾なり。これを三十六受を説くと名づく」 (「佛教大 辞典j2197頁中段参照) との記載と関係があるかもしれない。

副「鋤惣」 (laligala‑mukha)とは「鋤の刃」の意である。

(6)

国際文化学部論集第21巻第4号(2021年3月)

マカラ しだい うじよう かくらん

35. ここにおいて,放縦の摩錫魚52なる, 四大認の有情によって撹乱せられたる,

広大なる渇愛の肴誇認は,われの霞正念と脱琉との陽光によって雛せしめられたり。

はげ

36. ここにおいて,感官の材木の束にして,妄念の煙を出しつつ烈しく燃える,

かりゆう

情欲の大火を, [われは57]解脱の河流の清涼なる水によって鎮火せしめたり。

37われは.味覚を稲妻とし妄念を雷鳴とする随眠(潜在的煩悩)の蓋雲を, ずいめん しつぶう くち<

ここに.精進力の疾風により駆逐して,完全に消失せしめたり58.

しんぎよう

38.われは,無垢なる正念の三昧を得て, ,[、行59なる敵,生存の相続なる怨敵を㈹,

りけん

強力なる智慧の利剣によって, ここに,余すところなく切断したり。

いただ

39. ここに,かの6', [軍]旗を頂きに掲げて,象.馬の戦車を押し立てたる,

えとく ごうぶく

醜悪なる外貌のナムチ勢の勇猛なる軍隊を,慈[心]を会得して降伏したり。

じようみよう

40. われは,五つの[感覚的]享楽に富み,常に上妙の情欲を有する,六感官の軍馬を,

ふじょう ほばく

不浄[観]62の三昧を得て, ここに.余すところなく捕縛したり。

ひが人

41.実にわれは, ここに,無願の三昧63を得て,

とんあい ふんぬ しやだん

貧愛と憤怒とによる喧嘩と争論との斜,残余なき捨断の辺際に達したり。

くう

42. ここに, [われは65] [一切は]空なりとの三昧を得て,

ない げ もうそう もうふんべつ めつじん

内と外髄との一切の妄念と,妄想と妄分別とを滅尽したり。

むそう しこう きわ

43. われは,無相の三昧を得て,人間と天界との至高の極みなる,

かんらく しやき

一切の歓楽を, ここに,余すところなく捨棄したり。

44. [われは67]ここに,三種の解脱[門]錦を得て, われは今や,智慧の力によって,

う けばく 二とごと

かの鶴,一切の有(迷いの境界)の繋縛を,悉く。完全に繩したり。

292

52makaraは「海の怪物の一種(恐らくは鰐または鮫)」であり, 「朧端魚」と音訳される。荻原雲来編「梵和大辞典j982

頁(makaraの項)参照。

詞「四大」とは「物質的要素としての地・水・火・風の四大元素」を指す。

科「有海」 (bhava‑samudra)とは「生存の海」の意であり, 「迷いの生存を海に職えたもの」である。

弱チベット訳には「われの」 (me)に当たる訳語はない。

郡「止心」 (samathaI=Samathal)とは「散乱した心をとどめ. 'L,を一つの対象にそそぐ,静かな心の状態」である(「佛教

語大辞典」607頁「蓉摩他」参照)。

57チベッ卜訳には「われは」に当たる訳語(nas)がある。

錦チベット訳は「完全に吹き散らしたり」という意味の訳文になっている。

鞠「心行」 (citta‑cari)とは「心の作用」であるが, ここでは「心に起こる分別意識妄想」を意味する。

帥チベット訳は「生存の怨敵の相続を」という意味の訳文になっている。

61 「かの」 (sa)はチベット訳には「われは」 (nas)と訳されており.梵文と合わない。

鑓「不浄観」とは「肉体のけがらわしさを観想して煩悩・欲望を取り除く方法。身の不淨を観じて食欲を離れる観法」であ

る(「佛教語大辞典」 1165頁参照)。

「無願三昧」は「三三昧(さんざんまい)」の一つである。三三昧は「空三昧(我と我所とが空であることを観ずる)」「無

相三昧(空であるがゆえに。差別の相がないことを観ずる)」「無願三昧(相がないのだから何も願い求むくきことはない と観ずる)」の三つをいう (「佛教語大辞典」464頁参照)。

卿チベット訳は「貧愛と憤怒と喧嘩と争論との」という意味の訳文になっている。

チベット訳には「われは」に当たる訳語(nas)がある。

「内」は「内界としての心」, 「外」は「外界の事物」を指す。 「内外空(ないげくう)」とは, 「内の六根と,外の六境を観 ずると,両者がともに空であること」をいう (「佛教語大辞典」 1031頁参照)。

6アチベット訳には「われは」に当たる訳語(nas)がある。

縄「三解脱門」とは「三三昧」の別称である。

的チベット訳には「かの」 (tani)に当たる訳語はない。

(7)

和訳「ラリタヴイスタラ(改訂版)」 (第24 25章)

しようけん じようそう

45. われは, ここに, 因を[正しく]照見7Oして,無常に常想をなし,

らくそう がそう

苦に楽想をなし,無我に我想をなすところの,三種の因の妄想を征服したり71.

46われは。今や,六処72を根として蘂蓮する。諸種の行為の発現の一切を, ろくしよ

じゅおう もと

樹王(菩提樹)の下にて, 〈無常〉の打撃を以て切断したり。

47 [われは73]識の簑喋に膳まされて邪見,傲慢,憤恨に満ちたる. じゃけん ごうまん ふんこん

久しき暗黒を, ここに,正智の│場光により破って明浄ならしめたり。

マカラ はろう

48.貧愛と情欲との摩掲魚が住み,悪見と邪念の, [また]渇愛の波浪がある,

たいかい しょうじ入りき と超つ

輪廻の大海を,われは, ここに,箱進力の船により渡脱74したり。

とんあい しんに < ち

49. われは, それを了知すれば,貧愛.順悪75.愚癌と,心の妄想とを焼くこと,

が しょうち

山火事の中に落下した蛾の如くなる,それ(菩提)を, ここに證知したり。

てんつい コーティナユタ

50. われは,久しく転墜76して,実に無量の拘岻那由多もの[多くの]劫において

はんもん ねつのう

輪廻の道に煩悶せるも, ここに, [その]熱悩を減し,休息するを得たり77.

りやく げどういがく

51.われは,今や,世間の利益のために,一切の外道異学の達成せざる,

うひ しゆうめっ かんろ しようち

老・病・憂悲・苦悩を終滅せしめる,かの甘露(不死)を證知したり。

かつあい しよ うん

52.渇愛より生じる[六]処による苦悩, [五]蕊による苦悩が,

しようき むい

もはや生起せざるところの,無畏の都城に,今, われは到達したり。

うち

53.かの,巨大なる内なる敵の全ては, ここに[われによって78]證知せられたり。

われは,それらを覚知し,焼尽して,再生の余地なきものとなせり。

かんろ ため コーティナユタ しんにく

54.甘露の為に,それを目的として79,拘砥那由多もの劫において, 自分の身肉や眼や,

きしや

多くの財産を棄捨したるところの,それ(正覚)が,今, われに證知せられたり。

しょうしゃ

55.無数の過去の勝者(過去仏)によって覚知せられたる, それ[なる正覚]を,

おんじよう めいきょう

われはここに證知したり。その甘美にして悦ばしき音声は諸々の世界に鳴響せり。

いんねん くう いつせつな

56. 因縁により生起する世界は空にして.心の一刹那において過ぎ去るところの

かげろう しんきろう

陽炎か蟹気楼帥の如し[との],それ[なる知見]が,今, われに證知せられたり。

しこう 主なこ

57° われは今や,至高の眼を全く清浄ならしめて,それによって,一切の世界を,

しょうちゅう

あたかも掌中に置かれたる禽の美81を見るが如<に[如実に]見る。

294

70「照見」 (darSana) とは「明らかに見ること」「見きわめること」である。なお, 「下巻」には「見照」と訳したが, 「照見」

に訂正する。

7! 「無常に常想をなし」以下の部分は,チベット訳では「常と無常との想念,我と無我.楽と苦との,三種の因の想念に勝 利したり」という意味の訳文になっているが.方広には「又我永断彼無常作常想於苦作楽想無我作我想(又.我れ 彼の.無常に常想を作し、苦に於て楽想を作し、無我に我想を作すを永断せり)」と訳されている。

72「六処」は「六入」とも呼ばれ, 「内の六入」は「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」を. 「外の六入」は「六境(色・声・香・

味・触・法)」を指し,合わせて「十二入(十二処)」と呼ばれる。

73チベット訳には「われは」に当たる訳語(Iias)がある。

7イ「渡脱」とは「さとりの彼岸に達し解脱すること」である。

75チベッ卜訳には「順悪」 (dvesa)に当たる訳語はない。

76「転墜」とは「転げ落ちること」である。

77viSrantaを「下巻」には「鎮めたり」と訳したが. 「休息するを得たり」に訂正する。

78チベッ卜訳には「われによって」に当たる訳語(nas)がある。

79チベット訳には「それを目的として」 (yasyarthe)に相当する訳語はない。

帥gandharva‑pura (ガンダルヴァの城;乾闘轤城) とは「蟹気楼」を意味する。

81方広では「樹の実」に当たる部分に「篭嘩勒果(あまる<か)」との訳語が当てられている。

(8)

国際文化学部論集第21巻第4号(2021年3月)

ざんみよう しゆくみよう ねんそう

58. われは今や,三明を獲得し,宿命(過去世の生存)を念想せり。

ナユタ

[すなわち]無数の那由多もの劫を,眠りより目覚めたるが如〈に想起せり。

てんどう

59.天神や人間たちは逆転して念想し,その顛倒によって焼かれたるも,

ただ かんろ だいご

われは.その顛倒もまた如実に正して, ここに,甘露(不死)の醍醐を飲めり。

じゅうりきしや じ しゅじゅう

60.その[甘露を得る]ために,諸々の十力者が一切衆生に対する慈[心]を修習せり。

われは,慈[心]の力によって勝利し, まさに,その甘露の醍醐を飲めり。

61. その[甘露を得る]ために,諸々の十力者が一切衆生に対する悲[心]を修習せり。

われは,悲[心]の力によって勝利し, ここに, [その]甘露の醍醐を飲めり。

62. その[甘露を得る]ために,諸々の十力者が一切衆生に対する喜[心]を修習せり。

われは,喜[心]の力によって勝利し, ここに, [その]甘露の醍醐を飲めり。

ナユタ しや

63. その[甘露を得る]ために,諸々の‑,‑力者が那由多もの劫にわたり捨[心]を修習せり。

われは, その捨[心]の力によって勝利し, ここに, [その]甘露の醍醐を飲めり。

はる

64. また, ガンジス河の砂よりも遥かに多くの十力者や過去の勝者なる獅子たちによって,

かつて飲まれたるところの甘露の醍醐を, われは,今ここに飲めり。

けっかふざ

65. 「老・死の彼岸に達せずしては結珈畉坐を解かざるべし』 との,かの言葉を 軍勢を伴える, これなるマーラ(悪魔)の面前にて, われは宣言したり。

しようよう こんごう むみよう さいは

66.実に,堅固にして照耀たる正智の金剛によって, われは無明を擢破し,

かくて十力者たることを得たり。それ故に, [われは]結珈畉坐を解くべし。

あらかん ろ

67° われは阿羅漢たることを得て, われの漏(煩悩)は残余なきものとなり,

さいは

また, ナムチの軍勢も擢破されたり。それ故に, [われは]結珈畉坐を解くべし。

ごがい かんやく ことごと だは

68.五蓋82の関鋪は, われによって,今や,悉く打破せられ,

かつあい かずら

渇愛の蔓も切断せられたり83。それ故に綱, われは結珈畉坐を解くべし。」 [と]・

にんちゅう ゅうぜん

69. それから,かの,人中の月なる者(仏陀)は,悠然として座より起ち上がり,

荘厳なる灌頂を受けてから鱸,獅手産(玉座)に坐したまえり。 かんじよう

ほうびょう

70. また,天神衆は,千もの宝瓶より種々なる香水を注いで,

そうよく

世間の親族にして,功徳の彼岸に達したる̲,一力者を操浴せしめたり。

コーティナユタ ナユタ

71.拘岻那由多もの天神たちが,那由多ものアプサラス(天女)たちと共に和合して,

そう な

四方全面から,千もの楽器を奏して,比類なき供養を為したり。

72.かくの如く,実に,天子たちよ, 因あり,縁あり, また, 因縁ありて部,

もろもろ

諸の勝者は菩提の座にあって,七日間,結珈跣坐を解かざるなり, と [言われる]。

296

298

かくして,実に比丘らよ 正等覚を現証したる如来は, [成仏後の]最初の七日間を, まさに,

その[成仏を得たる]座に住したり。 「われは, ここに,無上なる正等覚の菩提を證得したり。わ

鑓「五蓋」とは「心を覆う五種の煩悩」であり. 「食欲(貧り)」「順悪(怒り)」「惰沈睡眠(眠りこんだような無知蒙昧)」「棹 挙悪作(躁鯵の状態)」「疑(ためらい)」の五つである (『佛教語大辞典』356頁参照)。

郷この箇所は,方広には「三愛牙悉除(三愛の牙悉く除けり)」と訳きれている。

鯛「それ故に」 (tena)はチベット訳には「ここに」 (hdirI=ihal) と訳されており,梵文と合わない。

鶴この箇所は.方広には「受諸天深浴(諸天の操浴を受<)」と訳されている。

柵この部分の「縁」の原語はhetu, 「縁」の原語はpratyaya, 「因縁」の原語はnidanaである。

(9)

和訳「ラリタヴイスタラ(改訂版)」 (第24‑25章)

しじゅう しかうめつ

れは, ここに,始終なき87生・老・死の苦悩を終滅せしめたり」と [思念しつつ]・

第二の七日間において,如来は.三千大千世界の辺際まで鍵.長ざ濯詳89の歩行をなせり。第三

またた

の七日間において,如来は瞬きすることなく菩提の座を観察したり。 「ここにて, われは,無上な る正等覚を証得して,始終なき帥生・老・死の苦悩を終滅せしめたり」と [思念しつつ]・第四の七 300 日間において.如来は,東の海から西の海の辺際まで9', [第二の七日よりも]短き経行の歩行をな

せり。

その時,実に,マーラ (悪魔)波旬92は如来のもとに来たり近づきて,如来に対して,かくの如

ばつねはん

く言えり。 「世尊よ,般浬梁93したまえ。善逝よ 般浬梁したまえ。今は,世尊の般浬梁すべき時 なり」 [と]。比丘らよ かくの如く言われて,如来はマーラ波旬にかくの如く答えたり。 「波旬よ

おんじゅんめいせき じゅうぜん むい たもん

われは, わが比丘たちが大いに成長し,温順・明蜥・柔善・無畏・多聞(博識)にして, [正]法

ずいじゅん げどういがく

に随順する法を体得し, 自ら師としての正智を輝かしめること94, また,次々に発生する外道異学

さいぶく じんぺん あた

を[正]法に即して催伏し,浄信を生ぜしめ,神変を伴う法を説くこと能わざるうちは,般浬梁せ ざるくし。波旬よ 世間において, われによって仏・法・僧(三宝)の系譜95が未だ確立せられず,

じゆき

無量の菩薩たちが未だ無上の正等覚に授記せられざるうちは, われは般浬薬せざるくし。波旬よ

ししゆ

わが四衆師が温順・柔善・明蜥97.無畏にして,神変を伴う法を説くものとならざるうちは粥, われは 般浬梁せざるくし」と。

すると,その時,マーラ波旬はこの言葉を聞くや,苦悩し落胆し,悔恨に満ちて卿,一方に退き,

うな超

項垂れて,杖にて地面に文字を書きつつ坐せり. 「《わが'伽》領域は[彼によって]超えられたり」

と [思念しつつ'0']。

実に,その時,かの102,三名のマーラの娘たち,ラテイ(楽)とアラテイ (不楽)とトウリシユナー 302 (渇愛)'(剛とは,マーラ波旬に偶を以て語りかけたり。

闇7「始終なき」 (an‑avara.agra)はチベット訳には「無始なる」 (thogmamedpa) と訳されており,梵文と合わない。

鵠原文upagrhyaは意味不明であるが, チベット訳にはbardu(〜の辺まで) と訳され.方広にも「爲遥際」と訳されてい るので. 「〜の辺際まで」の意とみる。

剛)「経行」 (cankrama)とは「食後や,疲労をおぼえたとき.坐禅していて眠気を催したときなどに・ 身心を盤えるために・

一秘の運動として静かに散歩する」ことである。禅宗では「きんひん」とよむ(「佛教語大辞典j235頁参照)。

甑'上註87と同じ。

9】ここでも上註88と同じく, 「辺際まで」の原文upagrhyaは.チベット訳にはbardu(〜の辺まで)と訳され・方広にも「(以 大海)爲遜際」と訳されている。

92「波旬」はpapiyan (悪しき者)の音訳であり.マーラ(悪魔)の呼称として用いられる。

93「般浬梁」 (parinirvana) とは「完全なる浬藥」の意であるが, ここでは「仏陀が亡くなること (入滅)」を指す。

9' 「自ら師としての正智を輝かしめること」の部分のチベット訳は「自ら師たることを宣言し」という意味の訳文になって

いる。

9局「系識」 (vamSa)はチベット訳には「名声」 (sgra) と訳されており.梵文と合わない。

鰯「四衆」とは比丘(男性出家者) ・比丘尼(女性出家者) ・優婆塞(男性在家信者) ・優婆爽(女性在家信者)の「四種類の 仏教信徒」である。

97チベツト訳には「明蜥.柔善」の順序で訳されているc

1鯖チベット訳は「法を説くことができる者たちとならざるうちは」という意味の訳文になっている。

チベット訳には「悔恨に満ちて」 (vipratisarin)に当たる訳語はない。

IIn「わが」 (me)は東大主要写本に欠けているが.文脈的にもチベット訳によっても挿入すべきである。

'0'チベット訳は「〜と思念したり」という意味の訳文になっている。

'(瞳チベット訳には「かの」 (tas)に当たる訳語はない。

これら三人の魔女名の原語は.前から順にrati. arati, trsnaであるs方広には単に「魔王三女」と訳されている。

(10)

阿際文化学部論集錆21巻鋪4号(2021年3月)

うしゅう

73.父よ,何ゆえに憂愁したまうや。もし, その'04人[の名]を告げたまうならば,

その者を!{腸,誉菱棚睾を以て羅涛し,象の如くに牽き来たらん。

牽き来たりて, さらに, その者を速やかに御身に服従せしむくしolO6 マーラ(悪魔)は言えり。

ぜんぜい とんあい

74'07.世間の阿羅漢なる善逝(仏陀)は貧愛に支配されることなし,

はなは

わが領域は完全に超越せられたり。それ故に. われの悲歎すること甚だしきなり。

それから,彼女たちは,女人の軽率さから, まだ[釈尊が]菩薩たりし時[にも示されたところ]

いじんりき

の如来の威神力を知っていたにもかかわらず108,父(マーラ)の言葉を聞かずして, [初めて]出産

みさかい

したばかりの女'(卿・若年の女・中年の女の姿を示現してllO,見境もなく,如来の近くに到来したれど

へんげ

も,如来は彼女らを意に止めざりき。さらにまた111,彼女らを老婦に変化せしめたり。そこで,彼 女らは.父のもとに帰り来たりて,かくの如く言えり。

けんいん

75. 「彼は貧愛によって牽引せられることなし。わが領域は超越せられたり。

いた

それ故に, われは甚く悲歎せり」と,父上が私らに仰せられたることは真実なりき。

けげん ようしき

76. ガウタマ(釈迦牟尼)を破滅させるために,私らが化現せしめたる容色を,

もし彼が注視したならば,それにより,彼の心臓は裂けたるべし。

しんぎよう ばんぎよう

されば,いざ父よ,私らの老婦の身形を消失せしめ[て本形に復せしめ]たまえ。

マーラ(悪魔)は言えり。

77.仏陀の威神力以外には, [それを]なし得るところのll2,そのような人を,

動くものと動かざるものとの世界(全世界)に, われは見ることなし。

304

!(ト'チベット訳には「その」 (asau)に当たる訳語はない。

1幅チベット訳には「その者を」 (tam)に当たる訳語はない。

'妬チベット訳には. この後に「かくの如き愛愁も不安も捨てたまえ。広大なる喜楽が得らるくし」という意味の一行分(4 行より成る一隅の最後の行に当たる部分)が付力llされている。 しかし. これに相当するSamyuttaNikaya(I.p.124K:南 伝大蔵経第十二巻「相応部経典一」2的頁)の偶も.Mv(III.p.281)の偶も. 3行で一偶を成しているから. もともとこの 付加部分(4行目)は原文に無かったものであろう。一般にSlokaは2行で一偽をなすが.そう見た場合, 3行目が1行 だけ残り. 1行の不足となるので.チベット訳者は原文には無い1行を創作して付加したと思われる。レフマン校訂本は 付加部分に当たるところに*印を付けて原文不明としているが. SantibhikSuSastri (Lα" ひな""", 1984. p.717)はチベッ ト訳付加部分の前半だけを基に還梵した原文(daurmanasyamupayasamviprajahahiyidrSam[ylはyaの誤植か?]「か くの如き悲しみや不安は捨てたまえ」)を挿入している。

11万レフマン校訂本によれば.直前の第73偶が2行と1行より成る二つの偶(第73偶と第7413)に分かれるために.本偶は第 75偽となる。 しかし.本智:では第73偶を3行より成る一つの偽とみるので,本偽は第74偶となる(以下. レフマン版とは 偶番号がずれる)。

!{脇方広には「如来爲菩薩時已作妖姿擾乱菩薩。赦穣幻惑無能得便」 (如来が菩薩たりし時.巳に妖姿を作して菩薩を擾乱せ しも,種種の幻惑.能<便を得ること無かりき)」と訳されている。

I(I9prasUtaは「出産した」の意であり.その女性形(prasuta)は「[初めて]出産したばかりの女」を指す。チベット訳は「一 人の息子を出産したばかりの」という意味の訳文になっている。 「下巻」には「一子を出産したる女」と訳したが, 「[初 めて]出産したばかりの女」に訂正する。

ll0チベット訳は「一人の息子を出産したばかりの年齢の若き姿を示現して」という意味の訳文になっているが. 「方広には

「一爲童女之形。一爲少婦之形。一爲中婦之形(一は童女の形と爲り°一は少婦の形と爲り,一は中婦の形と爲って)」と

訳されている。

ll1チベット訳には「さらにまた」 (bhUyaSca)に当たる訳語はない。

''2「[それを]なし得るところの」の部分のチベット訳は「変現せしめることができるところの」という意味の訳文になって

いる。

(11)

和訳「ラリタヴイスタラ(改訂版)」 (第24 25章)

さんげ

78.速やかに行って, [かの113]牟尼に, 自らのなせる罪過を熾悔,Mせよ。

彼は,汝らの願いどおりに, もとの身形に復せしめたまわん。

かご

そこで,彼女たちは行って,如来に謝罪せり。 「世尊よ,私たちの過誤を許したまえ。善逝よ

ぼんぐ もうまい

私たちの罪過を《許したまえ''5》。かくも幼稚なる,かくも凡愚なる,かくも蒙昧なる,未熟にし

ぼうとく

て道理を知らざる者どもなれば,私らは世尊を冒涜しうると '曼心したり」 [と]。そこで如来は,彼 女たちに偶を以て告げたり。

79. [汝らは]爪で山を引っ掻き,歯で鉄をかじり,

はか

頭で山をうがち,測り難きを測らんと欲した[るも同然な] り。

なぜ

[また言わく] 「それ故に,娘たちよ,汝らの罪過を[われは]許すべし。それは何故かといえば,

りつぎ ぞうじよう

罪過に罪過ありと見て繊悔し, その後は律儀を守るならば,それは聖なる法と律とにおける増上な ればなり」 [と]・

比丘らよ 第五の七日間において,一週間の大風雨が起こりたる時,如来はムチリンダ''6竜王の 居宅に住したり。その時,実にムチリンダ竜王は, 自らの居宅より出てきて,如来の身体を七重の

とく'ろ ふくえい

蜷局で取り巻き117,傘状に広げた頭部で覆蒻したり。「如来の身体を寒さや風が襲うことのなきよう に」と。また,東方からも,他の多くの竜王たちが来たりて,如来の身体を七重の蜷局で取り巻き,

傘状に広げた頭部で覆蒻したり。 「如来の身体を寒さや風が襲うことのなきように」と。東方から と同様に,南・西・北からも竜王たちが来たりて.如来の身体を七重の蜷局で取り巻き,傘状に広 げた頭部で覆蒻したり。 「如来の身体を寒さや風が襲うことのなきように」と。また118,その竜王た

湾んかい

ちの蜷局の団塊は, メール山王の如く,高々とそびえ立てり。また, それらの竜王たちが,七日七 夜の間に,如来の身体に密着して,彼らに生じたる''9ところの, そのような安楽は,かつて一度も 経験せざるものなりき。それから,七日を過ぎて,かの竜王たちは,風雨が去りたるを知って,如

ほど ・イ めん うにようさんぞう

来の身体より蜷局を解き,如来の足もとに頭面をつけて敬礼し,右逵三匝してから,各自の宮殿に 戻り行けり。ムチリンダ竜王もまた,如来の足もとに頭面をつけて敬礼し,右邊三匝してから, 自 分の住居に入りたり。

第六の七日間において,如来はムチリンダ[竜王]の住居よりアジヤパーラ・ニヤグローダ'鋤樹 の下へ赴きたまえり。ムチリンダ[竜王]の住居とアジャパーラ[・ニヤグローダ樹'2']との間の,

ナイランジャナ一河の岸辺において,チヤラカ派[の修行者]やパリヴラージヤカ'22 (遊行者)や,

306

ll3チベット訳には「かの」に相当する訳語(de)がある。

''4「繊悔」とは「過去に犯した罪を告白して許しを請うこと」である。

,,うこの「許したまえ」の原文pratigrhnatuは全写本に欠落しているが.チベット訳にはこれに相当する訳語があり.文脈 上も必要であるから. レフマン校訂本に従ってこれを挿入する。

''6mucilindaは竜王の名であI). 「目眞隣陀」と音訳される。

ll7チベット訳は「[自分の]身体で如来の身体を七重に取り巻き」という意味の訳文になっている。

ilsチベット訳には「また」 (ca)に当たる訳語はない。

ll9チベット訳には「彼らに生じたる」 (tesam…asit)に当たる訳語はない。

'20Ajapala‑nyagridha樹は「山羊飼(山羊を護る?)のバンヤン (椿樹)」の意味であり, 「釈尊は成道直後にこの樹の下に て説法を跨蹄し,梵天の勧請を受けた」とされる(赤沼智輔編『印度佛教固有名詞辞典」,法藏館.昭和42年, 9頁参照)。

'2'チベット訳には「ニヤグローダ樹」に当たる部分の訳語が挿入されている。

'22caraka‑parivrajakaはBHSD(carakaの項)によれば.全体で一つのセクトを意味するとも考えられるが, ここでは.チ

(12)

伺際文化学部論集第21巻第4号(2021年3月)

らぎよう

ヴリッダシュラーヴァカ (シヴァ派の老乞食者)やゴータマ派[の修行者]やニルグランタ (裸形

じゃみようは たず

のジャイナ行者)やアージーヴイカ (邪命派の行者)'23等々が,如来を見て訊ねたり。 「さても,

櫛身ゴータマは, この七日間の時ならぬにわか雨を12 .ずっと安楽に過ごせたまいしや」 [と]。

すると,実に比丘らよ 如来は. その時, この《ウダーナ(感興の句)を'蕊》禧えたまえり。

よるこ じやくじよう

80.法を聴くこと・見ることを悦ぶ者にとって,寂静は安楽なり。l26

しようるい

生類への自制ありて傷害せざるは,世間の安楽なり。

もろもろ らようだつ とんよく

81.諸の悪より超脱し,貧欲を離れることは,世間の安楽なり。

がまん

我慢(自負心)を律すること, それこそが最高の安楽なり。

308

!"比丘らよ 如来は,生・老・病・死・憂愁・悲歎・苦悩・落胆・惑乱等により,世間が燃え《焼 かれ!鍋》たるを見たり。そこで如来'"は, ここに, このウダーナ(感興の句)を唱えたまえり。

しよう そく み しき こう はんもん

82. この世間は,声・触・味・色・香によって,煩悶を生じたり。

せいぞん じんぐ

生存を恐れながらも,生存への愛着によって, なお生存を尋求せり。

130第七の七日において,如来はターラーヤナ'3! (無花果樹)の下に住したまえり。 しかして,実 にその時,北国の商人にして, トラプシヤとバッリカと名づける,聡明かつ利口なる,二人の兄弟 が,大利益を獲得して種々なる財物を保持し,隊商の大群集と荷を満載したる五百の車とを引き連 れて,南方から北方へと進み来たれり。彼らにはスジャータ (善生) とキールテイ132 (名声) と名 づける.二頭の,血筋の優れたる牡牛ありき。その二頭には[運搬に]停滞の恐れあることなかり

き。他の牡牛たちが運ばざる時には, その二頭に牽かせたり。また,前方に危難ある時には,その

くい つな つきぼう ぎょ てのひらいっぱい

二頭は杙に繋がれたるが如く動かざりき。また, その二頭は突棒で御されることなく, 掌一杯の

はなわ

ウトパラ花か, スマナー'33の花環によって,その二頭は御されたり。 [さて, その時] ターラーヤ

いじんりき にく'るま

ナ樹の近くの, クシーリカー'34 (乳樹)の森に住する神の威神力により,彼らの,かの荷車の全て

310

ベット訳[spyodpapadali/kunturgyudan]を参考に,二つのセクト箔に分ける。

これらの行者名に当たる部分の原文はvrddhaSravakagautamanirgranthajivikaである。このうちvrddhaSravakaは「老 弟子」の意であるが「シヴァ派の老乞食者」を指し. gautamaは釈尊の教えとは別の学派としての「ゴータマ派」を指 す(「梵和大辞典jによればgotamaは「Nyaya学派の祖師の名」でもある)。nirgrantha(尼捷子)は「裸体で修行するジヤ イナ教徒」であり, ajivikaは「特殊な方法で生活する修行者の一派」で「邪命外道」と称される。方広には, これらの 外道衆を全部ひっくるめて,単に「諸外道」と訳されている。

12iチベット訳は「七日間の激しいにわか雨の, この時を」という意味の訳文になっている。

123「ウダーナを」 (udanam)は東大主要写本に欠落しているが,チベット訳にはこれに当たる訳語がある。

この一行のチベット訳は「法を聴くことと見ることと.寂静を楽しむことは安楽なり」という意味の訳文になっている。

1訂方広にはこの箇所に. 5行下の冒頭部分に当たる訳文「爾時世尊於第七七日。至多演林中在一樹 ド (爾の時世尊.第七の 七日に於て.多演林中に至って,一樹の下に在り)」が挿入されている。

I鋤「焼かれ」 (pradiptam)は東大主要写本に欠落しているが. チベット訳にはこれに当たる訳語がある。

'鋤「如来」 (tathagata)はチベット訳には「世尊」 (bcomldanhdas) と訳されており,梵文と合わない。

1瓢)この箇所から.本章の品名になっている「兄弟商人トラプシャとバッリカによる供養物語」が始まる。定方晟「二商人奉 食の伝説について」 (「東海大学紀要文学部第76"j, 2001.pp.75‑118)参照。

'3'tarayapaは「神聖なる無花果樹」の名である。方広には「多演(林)」と訳されている。

'32これら二頭の牡牛名の原語はsujataとkirtiである。方広には「一名善生。一號名稲」と訳されている。

'33utpalaは「青蓮華」であり. sum2nnは「ジャスミンの一種」である。なお. 「下巻」には「スマナス」と表記したが「ス

マナー」に訂正する。

'34ksirikaは「乳液を出す樹木」の名であり. ナツメヤシの一種と思われる。ksiri・ksirini.ksirinikaなどとも呼ばれる (I佛

教語大辞典」605頁「篭利尼迦樹」参照)。方広には「乳[林]」と訳されている。

(13)

和訳「ラリタヴイスタラ(改訂版)」 (第24‑25章)

へんげん かわひも はさい

が変現せられて.動くことなかりき。革紐をはじめとする,荷車の全ての部品もまた断裂し,破催

こしき あた

したり'弱。また,荷車の車輪は,殻の辺りまで地中に没し, あらゆる手を尽くしても,それらの荷 車は動かざりき◎彼らは驚き,恐怖を生じたり。「はたして, ここに如何なる原因ありや。この異 変は何ごとなりや。この陸地にあって荷車が停止するとは」[と]。彼らは,スジャータとキールティ

くびき

との二頭の牡牛に範をつけたり。されど,かのこ頭は,掌一杯のウトパラ花とスマナーの花環に よって御されたれども,動かざりき。彼らは,かくの如く思念せり。 「必ずや,前方に何か危難あ

ていさついん

312 りて,そのために, これら二頭は動かざるなり」 [と]。彼らは,前方に,騎馬の偵察員を派遣した り。騎馬の偵察員は帰り来たりて告げたり。「如何なる危難もあることなし」と。また,かの[乳

しきしん

樹の森の]神が自らの色身を示現して, 「恐れるに及ばず」と慰安したり。かの,二頭の牡牛もまた,

こうこう だいにん

如来の蓋すところへと荷車を牽引したり。やがて'",彼らは,火炎の如く僅々として,三十二大人

そう ごんじき

相に厳飾せられ,昇って間もなき太陽の如き威光に燃え輝ける如来を見たり。また[それを]見て,

きょうたん かた

彼らは驚歎の念を生じたり。 「この方は, もしや梵天がここに来たれるや。あるいは,天主帝釈な

ぴしやもんてん

らんや。あるいは,毘沙門天ならんや。あるいは,太陽(日天)か月 (月天)ならんや。あるいは,

け き ころもあらわ

何らかの山の神か河の神ならんや」 [と]。すると,如来は袈裟の衣を顕に示したまえり。そこで,

彼らは言えり。「この方は袈裟を着けたれば,出家者に間違いなし。されば137,恐れることなし」と。

いだ

彼らは浄信を抱いて,互いにかくの如く言えり。 「この出家者は, まもなく食事の時間になるべし。

何か[食べ物は]あらざるや」。言わく, 「蜜のタルパナ(縦) と!認,皮を裁きたる砂糖黍あり」。 さとうきび

いま

彼らは,蜜のタルパナと皮剥きの砂糖黍とを持って,如来の在すところへと近づき来たりて,如来

うにようさんぞう いつぽう

の足もとに頭面をつけて敬礼し,右邊三匝してから,一方に立てり。一方に立って,彼らは如来に,

あl,みん せもつ のうじ◎

かくの如く言えり。 「世尊よ,我らを哀感するが故を以て, この施物を納受したまえ」 [と]・

314 その時,実に比丘らよ 如来にかくの如き思念が生じたり。 「われ若し[これを'39]両手で受け取

じゆのう

るならば,それは実に不善なるべし。昔の如来'40.正等覚者たちは,一体,何を以て受納せられた

はち

りしか」 [と]。 [そして] 「鉢を以て」と了知したまえり。

せつな

かくして,実に比丘らよ 如来の食事の時なりと知って, まさにその刹那に,四方から四大天王 が来たりて, 四つの金の鉢を捧げて,如来に献上したり。 「世尊よ,我らを哀感するが故を以て,

これら【四つ'4'】の金の鉢を納受したまえ」 [と]。 「それらは沙門にふさわしからず」と考えて,如

る り は り

来は受納せざりき。同様に, 四つの銀製の,四つの琉璃製の,玻璃(水晶)製の, ムサーラガル

ヴァ"' (葎操)製の,璃璃(エメラルド)製の,そして,四つの,一切の宝石より造られたる鉢を めのう ほうじ

奉持して,如来に献上したれども, 「沙門にふさわしからず」と考えて,如来は受納せざりき。

l鱒チベット訳には「破推したり」 (bhidyantesmaca)に相当する訳語がないから, この部分は削除すべきかもしれない。

'麓チベット訳には「やがて」 (yavat)に当たる訳語はない。

'訂「されば」 (asmad)はチベット訳には「我らは」 (bdagcag) と訳されており,梵文と合わない。

チベット訳は「蜜とタルパナと」という意味の訳文となっている。 tarpanaには「滋養物;元気を恢復せしめるもの」の 意があるが, 「乳魔(牛乳で作った粥)」と漢訳されることが多い。

l39チベット訳には「これを」に相当する訳語(hdi)がある。

'4Oチベット訳には「如来」 (tathagatailJ)に当たる訳語はない。

'41「四つ」 (catvari)は東大主要写本に欠けているが,チベット訳にはこれに当たる訳語(bshipo)がある。

142mUSaragalVaは七宝の一つとして「陣礫」あるいは「暁珀」と訳される。陣礫とは「珊瑚礁に住む二枚貝(おうぎがい)」

である。琉珀(こはく)は「マツ類の樹脂の化石」とされる(「ブリタニカ国際大百科事典」参照)。なお, 「下巻」には「(珊

瑚)」と補訳したが, 「(陣畷)」に訂正する。

参照

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