歴史を読み解く : さまざまな史料と視角

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

歴史を読み解く : さまざまな史料と視角

服部, 英雄

九州大学大学院比較社会文化研究院 : 教授 : 日本史

http://hdl.handle.net/2324/17117

出版情報:歴史を読み解く : さまざまな史料と視角, 2003-11. 青史出版 バージョン:

権利関係:

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南北朝内乱と家の交替

一 肥後国人吉庄・相良氏の場合

      さがら 大学院修士論文︵昭和五〇年度︶で肥後国の武士団︑相良氏を扱った︒そのとき気がついたことは︑近

世の家譜では連綿と続いているかのように叙述されている相良の家は︑じつは幾度か交替しているとい      ひとよし       く まうことだった︒世間では相良といえぼ人吉であろう︒今も球磨郡︵球磨盆地︶の政治経済の中心である

人吉を支配していた一族こそが︑相良の惣領だ︒そうした考えは古くからあるものだろう︒しかし実際

には少しちがっている︒      かみさがら        たらぎ 肥後国球磨郡に入部した相良氏は上相襟脚と呼ばれ︑多良木村を拠点とした︒多良木村は人吉から東

に二〇キロメートルほど︑球磨盆地の最奥である︒元来はこの家︵上相良氏︶が惣領家だった︒そして

多良木村のみならず人吉庄の支配権も有していた︒惣領として南北朝期に到るまで﹁人吉上本御下文﹂

など重要文書の保管を行っていたのは︑この上相良氏である︵相良文書・元弘三年八月二十一日置鎌倉将軍家

下文案奥書︑﹃鎌倉遺文﹄三巻一五五六︶︒上相良の当主であった上蓮︵頼氏︶の譲状には多良木村のほか人吉

庄も明記されており︑この家は人吉庄支配権を持っていた︵相良家文書・正応六年七月+七日︑上蓮譲状写︑

﹃鎌倉遭文﹄二四巻一八二五二︶︒菩提寺である人吉願成寺には︑相良頼氏︵上相良・上蓮︶の置文が残ってい

る︵願成寺文書︑正応六年七月+七日︑﹃鎌倉遺文﹄二四巻一八二六一︶︒これも同じく上相良氏の支配を示す︒

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        しもさがら その人吉庄には下相良氏といわれる家があった︒頼氏の弟翠巌︵漁利︶にはじまる家系︑すなわち惣

領の弟の家系で︑当然に庶流である︒しかし人吉庄地頭職については多くの名・地頭職を有しており︑

有力な庶家だった︒南北朝期の初め︑下相良氏は地頭職安堵を申請するにあたり︑上相良氏から上記の

相伝文書を借りて写している︒

 従来︑さきの願成寺置文の差出人﹁沙弥﹂は上蓮ではなく頼俊だと考えられていた︒﹃熊本県史料﹄

も﹃鎌倉遺文﹄も沙弥は﹁鼻輪︵カ︶﹂として傍注が付され︑頼俊置文と推定した︒しかしこの沙彌花

押は︑三日後︑七月二十日に出された上蓮譲状︵相良家文書︑﹃鎌倉遺文﹄二四巻一八二六二︶の上騰︵頼氏︶

花押に一致する︒人吉庄に上相良氏の権限は及んでいないと思われていた︒そうした先入主が強かった

から︑誤った比定もなされたのであろう︒

 鎌倉期︑球磨盆地から外界に至るみちは四方に通じていたが︑八代︑佐敷など八代海側へのみちや肥

後国府へのみち以外に︑東方︑九州脊梁の猪鹿倉越︵横谷越︶を経て日向国府に至るみちもあり︑京

都・鎌倉に一番近かったのはこのみちではなかったかと考えられる︒してみると︑現在の感覚では球磨

盆地の最奥になる多良木は︑じつは京鎌倉に最も近い︑球磨盆地の入り口であった︒上相良氏が多良木

を根拠地とした理由には︑ 一つにそうしたことも考えられる︒

 南北朝の内乱には上相良氏は宮方になった︒下相良氏は武家方になった︒相良家は事実上分裂し︑両

家は敵対した︒南北朝期を通じてこの図式はほぼ変わらず︑結果として宮方上相良氏は凋落し︑武家方

下相良氏がそれに替わった︒南北朝内乱による家の分裂と交替があった︒さらにこの下相良家にも交替

があった︒室町期の文安五年︵一四四八︶に内証があって︑永富相良氏が当主となる︒永富家は後の系

肥後国人吉庄・相良氏の場合 99

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図では初代の相良小景から出ていて︑かつ本来は惣領であったかのように書かれているが︑当時の古文

書を見ればそのような状況は考えにくい︒頼偏流︑すなわち下相良氏からの︑いずれかの段階の庶流︑

おそらくは南北朝期以降に分れた庶子の家であろう︒相良氏には少なくとも二度の家の交替があって︑

庶家が惣領家になりかわっている︒そのはじめは南北朝の内乱が契機だった︒

*以上の詳論は服部﹁空から見た人吉庄・交通と新田支配﹂﹃史学雑誌﹄八七−八︑一九七八

 相良氏と同じような現象は各地の武士団にみられるのではないか︒わたしは中世の荘園村落像を現地

調査によって解明する作業を続けてきたが︑そのなかでそうした印象を持ったことがいくどかある︒以

下山口県・広島県で行った荘園調査のなかでの経験を語りたい︒

    二 周防国仁保庄の場合

 に ほ       たいらご 仁保庄︵山口市仁保︶の地頭は平子︵仁保氏︑三浦氏とも︶で︑三浦平氏の一族である︒この家の系図を に お見る限り︑南北朝期に家が交替したとか︑動揺したということは考えにくい︒文書︵三浦文書︶を見て

もまたしかりである︒さて現地調査によって鎌倉期の当初にこの地に入部した平子重経の根拠地と︑南       ど いこうち北朝時代に惣領だった平子重嗣の拠点を確認できた︒整経菩提寺源久寺は仁保土井河内で︑重嗣菩提寺 あさじは浅地長寿寺で︑前者はいまに寺院が現存し︑後者はその跡が残っている︵﹃防長風土注進案﹄︶︒重経の法

名は源久西仁︑また重嗣の法名は長寿寺帰覚であり︑寺号そのものであった︒また前者には土居という

館地名があり︑加えて増作地名が周囲ニカ所にあった︒後者に館地名自体はなかったがやはり︑畑作地

5南北朝内乱と家の交替 エ00

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  ようじゃく名︵愛着︶があった︒しかしながらこの両者はニキ図心ートル以上も離れていた︒連続した家系だとす

るといささか不自然ではないか︒そう考えて文書を再点検してみた︒

 ﹃大日本古文書﹄に収められた﹁三浦文書﹂は周防国平子︵仁保︶氏の文書であるが︑その冒頭に建

久八年︵一一九七︶以来の手継文書・相伝重書案がある︒この連券には三種のものがあり︑ア︵一号︶は

一四通から︑イ︵二号︶は=通から︑ウ︵三号︶は一二通からなる︒イ︑ウは同じ内容だが︑ウの末尾

には至徳元年︵一三八四︶七月二日の平子重房申状︵紛失状︶がある︵二日分を含めて﹃南北朝遺文﹄中国四

国編六巻四八七〇︶︒イ︑ウには継目花押があるが︑アにはない︒アにはイ︑ウにはない三通がある︒

 1 文永元年︵一二六四︶二月十八日平子重着譲状︵﹃鎌倉遺文﹄一二巻九〇五七︶

 2 正応六年︵一二九三︶七月二十五日平子重親譲状︵﹃鎌倉遺文﹄二四巻一八二六五︶

 3 文保元年︵一三一七︶十月十六日平子重書譲状︵﹃鎌倉遺文﹄三四巻二六三九六︶

 これらは2に﹁為二嫡子一所二重与一実也﹂と明記されているように︑重資←重親←県有と続く家が

﹁嫡子﹂として所領を相伝してきたことを示すものといえる︒しかし以下に見るような問題点がある︒

まず一︑弘長四年が文永に改元されたのは二月二十八日で︑二月十八日は改元前である︒未来年号を使

用した文書︑つまり後から作成されたものとなる︒2については同じ日付の別の譲状が同じ三浦文書中

にあるが︑それは﹁沙彌﹂から庶子に出したひらがなの譲状で︑執権連署の外題安堵があってまちがい

なく正しい文書だ︒この沙彌は重親︵唯如︶以外に考えられないが︑同じ日に出されたとされる2の方

は漢字書で︑しかも実名︵母親︶が使われ︑沙弥ではない︒不自然である︒こうした点から三通のうち

まず二通に問題があることがわかる︒これらは文言が酷似し︑共通して﹁誤配 将軍家御成敗﹂とある︒

二 周防国仁保庄の場合

エ0エ

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鎌倉期の文言としては聞き慣れない感じがする︒ふつうならば﹁将軍家﹂ではなく﹁鎌倉殿﹂であろう︒

ほかにも沙弥西仁︵重経︶から重手にだされた4貞応二年︵一二二三︶五月二十六日譲状︵﹃鎌倉遺文﹄五巻

三一〇九︶にも︑同様﹁可仰 将軍家御成敗﹂とある︒しかしこの年は源実朝死去の後であって︑かつ︑

藤原頼経が鎌倉に下向する以前にあたる︒つまり将軍不在時期であるから︑この文言はとても不自然で

ある︒﹁将軍家﹂文言は観応元年︵一三五〇︶八月十二日の平子重嗣譲状︵三浦文書一︑三︑﹃南北朝遺文﹄中

国四国編二巻一八五六︶にもみえるが︑このときこそは観応擾乱のさなかである︒錦小路殿・足利直義の

側にはつかないこと︑将軍・尊氏への忠誠を明確に誓う言葉はまさしく時代にふさわしい︒この時以外

の﹁将軍家﹂文言はみなこの表現に引きずられたものとわかる︒つまり一連の量器にはアから除かれた

ものにも︑イ︑ウ中の他のものにも︑後世のものが含まれていた︒除かれた三通のうち残る一通︑すな

わち3文保元年十月十六日重訳譲状も︑状況から考えると怪しい︒つまりその十日前の平子重連感状

︵三浦文書一六四︑﹃鎌倉遺文﹄三四巻二六一二九〇︶によると︑重連は﹁仁保庄惣領地頭公文害毒﹂を主張して

いるように︑自身が惣領だと主張し︑明白に重奏とは敵対している︒重有は兄弟︵重連︶と嫡庶相論を

行っでいたわけで︑誰しもが認めるような惣領であったとはいえまい︒3には重連当知行分は子重盈に

譲り︑今後和与等があって知行地を回復できれば︑半分は兄如円に譲るとしている︒仁保庄全体の地頭

くもんしき公文職を重有が有し︑子に譲る状況にあったとは考えにくい︒

 以上に見たように︑連券中に含まれる偽文書数通は重言←重親←重圏と続く家が嫡流であることを示

すたあに偽作されたものである︒一連の連券をもとに所領安堵を申請した重房の段階になって︑すなわ

ち南北朝後期︑至徳の直前に作られたものと考えられる︒

102 5南北朝内乱と家の交替

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 重資←重親←重有←重嗣と続く家が本来の嫡流ではなかったことは︑重嗣菩提寺が沙彌西仁︵重経︶

菩提寺の所在地土井河内からは離れた浅地にあること︑すなわち拠点となる館が代々世襲されていない

ことからも推察はできた︒文書の精査だけでなく︑﹁状況証拠﹂もそれを示していたといえるだろう︒

 南北朝内乱の当初︑かれらはピンチだった︒その所領が元弘三年︵︼三三三︶収公され︑仁保庄は       みいりのしよう﹁上総宮内大輔﹂のものになったからだ︒のちにみる三入質に同じように︑仁保庄平子氏も当初は北条

氏与党と見なされたものか︒﹃尊卑分脈﹄・吉良に上総介意家の子としてみえる吉良宮内大輔貞経がその

人物であろう︒しかし建武元年︵一三三四︶には安堵の勅裁を得︑また建武三年四月十五日には足利尊

氏御教書︵三浦文書一二︑高師直雇書案︑﹃南北朝遺文﹄中国四国編一巻三二二︶を得て︑彼らの地位は保全され

た︒ 重嗣はおそらくは庶子家の出自で︑鎌倉期にはその地位は不安定であった︒しかしながらいくたびの

相論・和与を経て︑次第にその地位を磐石にしていった︒元応元年︵;=九︶あるいは元亨四年︵一三

二四︶には重嗣に寄り合って関東御公事を勤仕しており︵三浦文書九︑一一︑﹃鎌倉遺文﹄三五巻二七〇八○︑

三七巻二八八一八︶︑事実上の惣領だった︒元亨元年十二月十五日には︑それ以前には相論を続けていた

と思われる伯父の重通に所領の一部を去り渡し︑そのことに関して元亨三年十二月二日︑幕府の外題安

堵を得た︵三浦文書一〇︑﹃鎌倉遺文﹄脱漏か︶︒これらは惣領として認知されるための布石でもあった︒貞

和四年十月十七日足利直義下知状︵三浦文書一七六︑﹃南北朝遺茎中国四国二巻一六七八︶になれば︑確実に

﹁惣領地頭平子彦三郎重嗣﹂と明記されていた︒

 鎌倉末期には一族内で対立・抗争をくりかえしつつも︑次第に惣領の地位を獲得しつつあった重嗣は︑

二 周防国仁保庄の場合 103

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南北朝の内乱期︑とりわけて観応の擾乱に︑将軍家すなわち足利尊氏につくことによって勢力を増強す

ることに成功するが︑その道は決してたやすいものではなかった︒

 貞和五年閏六月段階に周防守護として上総左馬助がみえている︵東大寺文書・同+六日左馬騎奉書︑﹃南北

朝遺文﹄中国四国編二巻一七二四︑東寺百合文書・同二十九日室町幕府引付頭人奉書︑﹃同﹄二巻一七三〇︶︒﹃尊卑分

脈﹄に︑先の地平弟としてみえる左馬面・吉良氏家である︒父親の官途上総介から︑彼も﹁上総﹂と呼

ばれていた︒足利直冬が中国探題に任じられた短い期間の周防守護で︵佐藤進一﹃室町幕府守護制度の研究

下﹄一九八八︶︑むろん直冬の直臣である︒閾所仁保庄︑敵方所領としての仁保庄をいったんは領有して

いたのが兄の貞経であった︒弟が周防守護に任じられれば︑平子重嗣の排除を試みたであろう︒重嗣に

とっては夏冬党は眼前最大の敵である︒貞和六年︵一三五〇︶七月十七日の足利直話宛行状︵深江家文書︑

﹃南北朝遺文﹄九州編三巻二八〇二︶がある︒そこにはなんと︑      ︵重嗣︶  周防国仁保庄・平子彦三郎跡

と書かれていた︒重嗣の所領たるはずの仁保庄が書窓方の安富泰重に与えられている︒重嗣にとっては︑

直義・直冬に対抗しうる唯一の存在︑将軍尊氏に忠節をつくす︒そのこと以外に選択肢︑活路はなかっ

た︒ 一連の偽文書にくりかえしみえた﹁将軍家﹂文言は︑じつはこうした背景のなかで︑自ずと強調さ

れるべき言葉だったのである︒

 仁保庄・平子一族においても︑南北朝内乱による家の交替があった︒庶子が嫡流になったのである︒

そうした歴史的な事実をまず端的に示していたのが現地の景観だった︒

*以下仁保庄︑三入庄︑地白庄に関しては前著﹃景観にさぐる中世1変貌する耕地景観と荘園史研究﹄︵一九九五︑新人

5南北朝内乱と家の交替 エ04

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物往来社刊︶で報告したことがあるが︑本書では視点を変えて再整理した︒なお仁保庄に関する旧稿では︑

を北条一門・上総氏と誤認していたので︑ここに訂正する︒この点村井章介氏のご教示を得た︒

三 安芸国三入庄の場合

上総宮内大輔

 三入庄調査︵昭和五四年頃︶の時は︑広島城天守閣資料館にある高宮郡﹃郡中国郡志﹄︵黒川文書・安政六

年度八五九﹀写︶を活用した︒それまでの研究が使っていなかった史料である︒文政八年︵一八二五︶広

島藩によって﹃芸藩通志﹄が編纂される︒その過程でまず雨垂から﹁郡書志堰出帳﹂を提出させた︒こ

れを郡単位にまとめたものが﹃郡中国郡志﹄である︒高宮郡﹃豊中国郡志﹄をみてみると︑完成本﹃芸

藩通志﹄には記述のない地名の一覧が書き上げてあった︒現在の小字にはない江戸時代の詳細な地名で

ある︒完成本にこれが欠けているのは︑たぶん他の郡ではこれほどの地名の報告がなかったので︑全体

の体裁をあわせるために高宮郡の詳細な地名を割愛してしまったのだろう︒

 さて﹃郡中国郡志﹄に列挙された地名には中世文書に登場する地名と一致するものが多かった︒当面

の現地調査の課題はまずこうした地名を聞き取り︑現地比定していく作業になった︒村によってはあま

りうまくいかない場合もあったが︑逆に驚くほど順調にいった村もあった︒荘園復原に当たってまず地

名の資料としての有効活用が可能になった︒

 この作業を経て︑鎌倉時代末期における熊谷一族惣領熊谷直経の所領分布範囲を推定することができ

た︒従来の研究者たちは︑直経は三入庄全体を支配していたと考えていた︒しかし復原できたかれの所

領は︑意外にも︑広い三面詰のなかの一つの谷に過ぎなかった︒中世の三入庄域とは︑おおよそは旧の

三 安芸国三入庄の場合 エ05

(10)

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δ講・争_重鰻盤垂瓢顧せど駅Xg

5 南北朝内乱と家の交替  106

(11)

三入村のほか大林村︑亀山村︑中原村等を加えた地域であろう︒いまでいえば広島市安佐北区のうち︑

根の谷川沿いの広い地域である︒しかし﹁惣領﹂と呼ばれた直経の所領は全体の中のごく一部だったよ

うに思われた︒その根拠は

( A )

嘉暦四年(一三二九)四月三日の熊谷直経去状(﹃大日本古文書﹄熊谷家文

書︑

﹁鎌

倉遺

文﹄

一ニ

九巻

O五五六七)と︑

( B )

貞和二年(一三四六)十二月十七日足利直義下知状(熊谷家

文書

︑﹃

南北

朝遺

文﹄

中国

四国

編二

巻一

O六

)で

ある

( A )

はもともと直経の所領の一部を伯父有直に去り

与えたものである︒直経所領そのものではなく︑一部であるが︑

( B )

には﹁門田屋敷・高屋名内田畠﹂

とある︒領主のもっとも基本的な財産である門田を分割している︒その具体的な坪付が

( A )

に記され

ており︑そこに記された耕地の地名の内︑小字(今日の土地台帳上の地名)として馬通

(A

には

﹁む

また

し﹂)︑そして小字以外の通称や屋号として門田︑信吉(のぶよしみやう)︑依弘(よりひろみやう)︑山倉(や

まくらみやう)︑平林(ひらはやしみやう)等の地名が検出された︒これらはむろん﹃郡中国郡志﹄に下町屋

村の地名として書き上げられていたから︑それをもとにして聞取ができた︒ほかに

( B )

に記載された

﹁高屋名﹂の遺称﹁甲屋﹂も小字名に残っていた︒文書には登場しないが︑そこには﹁土居﹂や﹁佃﹂

(小字では突田と表記)の地名もあって︑いかにも熊谷一族の本拠地にふさわしかった︒

これらの地域はいずれも根の谷川流域全体ではなく︑その枝谷山倉川の作る小さな谷に分布していた口

従来熊谷氏の居城といわれていた伊勢が坪城や高松山城のある村々の地名は全く出てこなかった︒それ

でわたしは鎌倉末期の熊谷直経の所領は︑いわれていたような広域ではなく︑案外にこの山倉谷を中心

とした狭い地域ではなかったかと直感的に考えたのである︒

この直感は直経所領の一部分を譲り渡した

( A )

の所

領が

( B )

では﹁門田屋敷﹂﹁高屋名﹂と書か

安芸国三入庄の場合 107 

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れていたことによっていた︒門田さえ分割する状況では︑他に多くの所領があったとも考えにくい︒分

割された水田はまとまった耕地ではなく︑ごくごく微細・零細で︑断片的な土地ばかりだった︒よって

︵A︶は直経のもつ所領の一部  たとえぼ信吉名︑依弘名︑山倉名︑平林名などを分割したものなの

だから︑分割以前の所領も︵A︶に書かれた地域に近接していただろうと考えた︒実際の管理は直経に

よってなされていて︑得分のみを有直に支給したと考えた︒しかし︵A︶はあくまで直経所領全体の部

分に過ぎないので︑部分を記述した史料から直経所領の全体を論じようとした方法に︑飛躍がなかった

かどうかは検証・吟味しておかなければならない︒

 ︵A︶は直経の自筆の譲状である︒ほかに五年後の﹁けんふくわん︵建武元︶年二月九日置に書かれた

同じく自筆の置文がある︒自筆ということは財産処分に関わる重要文書であることを意味する︒それに

よれば﹁三入本庄は飛入道道︵直面︿西忍﹀か︶の跡を︑直満︵直経の父︶が有直︵直経の伯父︶に去り出し

た︒直経もまた有直に去り出した︒有直が兄にこれを与えたようだが︑直経は惣領だからと言って︑こ

の土地に口出しすることはしない﹂と約束している︒これが︵A︶に書かれている﹁︵父︶直満が先年

︵直経の︶伯父熊谷助四郎︵霊芝︶に去り出した一丁五反に加え︑新たに二丁一反を去り渡す﹂と書かれ

た事実に対応しよう︒︵A︶には二丁強しか書き上げてなかった︒それはたしかに直経の所領の一部で︑

全体は示さない︒

 しかしこの二丁が直経所領の十分一とすれぼ︑全体は二十丁︑二十分一として四十丁になる︒少ない

が︑実際その程度だったのではないか︒山倉谷と周辺でその数字になるだろう︒直経所領は︵A︶に近

接していて三入墨全体には及んでおらず︑限定された地域だったとみたい︒この考えは現地調査で得た

5 南北朝内乱と家の交替 エ08

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直感によるものではあったが︑けっして的外れなものではないと考えている︒それは以下から傍証でき

る︒すなわち鎌倉末期から南北朝期にかけて︑直経が置かれた苦況を語る一連の史料群である︒

 まず南北朝内乱の当初︑武士団熊谷一族を統率していたのは︑直経ではなかった︒直清という人物で

ある︒彼は熊谷系図によると同じ三入熊谷氏の一族だが︑直経の本庄系ではなく︑新庄系であった︒三

入熊谷氏が本庄家と新庄家に分かれたのは︑直黒︑資直の兄弟の時で︑直時の曾孫が直経︑資直の曾孫

が直清にあたる︒その直清が総大将として各地を転戦していた︒﹁智力国大将﹂ともいわれて︑群盲国

の兵を統率していた︵熊谷家文書三六︑元弘三年五月二十日熊谷直久軍忠状︑﹃鎌倉遺文﹄四一巻三二七六︶︒一方

の直経は︑といえぼ鎌倉幕府の末期に千早城攻めに参加し︑楠木正成の兵にやられて骨にまで到る大怪

我をした︒それで以来寝ていたのである︒﹁在京﹂とあるからしばらくは京都にいたようだ︒しかし足

利尊氏の軍事指揮に従わないわけにはいかない︒直経は代官︵直久︶を直清のもとに派遣して︑その指

揮下に従軍させた︒直清が主で︑直経は従だった︒      しょリフ この千早城合戦の手負注文は︑古文書学の教科書には必ず写真が掲載される著名なものである︵正

きょひつ慶二年閏二月二十七日直経合戦手負注文ほか︑佐藤進一﹃古文書学入門﹄巻頭グラビア︑﹃鎌倉遺文﹄四一巻三二〇四三︑

四四︑五〇︑五五︶︒なぜこれが熊谷文書に大切に保存されてきたのか︒熊谷直経は足利尊氏の命に従え

ず︑建武動乱に参戦できなかった︒スタートで出遅れただけでない︒不参戦では疑惑の目をさえ向けら

れかねない︒けっして尊氏に敵対しているわけではないことを証明するために︑のちのちまで絶対に必

要な証文だった︒

 直経の所領三入落はなんと﹁元弘没収地﹂として︑すなわち元弘以来の敵方の土地として没収された︒

三 安芸国三入庄の場合 109

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そしてそれが最大の功労者と認定された直清に与えられた︵熊谷文書六三︑六一︑暦応三年三月二+七日足利

直義下知状︑暦応元年九月十一日︑同﹃南北朝遺文﹄中国四国編一巻九五四︑七九四︶︒命に関わる戦いをし︑貢献

もしたつもりだった直経はびっくり仰天であろう︒絶体絶命︑最大のピンチだった︒直経自身は動けな

くとも︑代官を派遣して新政権誕生のために戦ってきた︒ところが新政権は︑直経は敵対勢力U北条氏

与党であると認定したのである︒直経は訴訟を起こし懸命に自身の行動を説明しなければならなかった︒

その努力の結果︑やっと半分だけが直経のものになった︒じつは直経は建武元年︵一三三四︶に︑雑訴

決断所論︵熊谷文書四七︑建武元年六月十日﹃南北朝遺文﹄中国四国編一巻三六︶によって三入本庄の知行を安堵

されている︒にもかかわらず︑この体たらくだった︒乱発された決断所牒による安堵などは何の役にも

立たなかった︒こうした事態になった伏線にはやはり︑三入庄では直経の影響力がさほどには︑なかっ

たことがある︒そういわざるをえない︒

 直経はもともと三入庄では熊谷武士団の唯一の切り札ではなかったのだろう︒同程度の武士︑熊谷な

にがしは何人かいた︒﹁惣領﹂といってはいるが︑際だつ勢力ではなかった︒熊谷一族全体をみれば︑        なおしげ武蔵熊谷本庄には直鎮︵直重︶がいて︑元弘三年︵=二三三︶四月二十日には後醍醐天皇論旨を得ている

︵熊谷丈二二〇八︑﹃鎌倉遺文﹄四一巻三二〇九六︶︒武蔵を拠点とするかれは︑やはり周囲からも惣領と見なさ

れていた︒

 三入周辺にいた対等な何人かは︑南北朝の内乱の勃発と同時にそれぞれの大将にしたがって行動した︒

内乱ほ宮方と武家方に︑やがては武家方が尊氏方と直義方に分かれ︑三者に分裂する︒各家のリーダー

は三つのいずれかに属した︒

5南北朝内乱と家の交替 110

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 直清の他にも頻繁に名が登場するものに熊谷蓮覚がいる︒新庄家の一員で︑直清の伯父である︒建武

二年二月︑守護武田氏と合戦し討死にした︵﹁黄薇古癖集﹂︑﹁吉川文書﹂︑﹁小早川文書﹂︑﹁毛利文書﹂︑﹃南北朝

遺文﹄中国四国編一巻二一二︑三〇四︑三四九︑三五三︑三五四︑九州編五巻五三〇〇︶︒その遺児も︑また直清の

遺児直房も︑いずれも直経の大きなライバルだった︒

 結局はうまく時流を乗り切ったもののみが︑その後の指導権を握ることができた︒直経の場合︑もと

もと三入庄内での基盤が薄弱な上︑スタートでの篤きがあった︒しかし彼は先行した一族の有力者に次

第に追いつくことができた︒以後繰り返して訴訟も行った︒時間は相当にかかったが︑少しずつ失った

領地を挽回することもできた︒

 三入戸では︑鎌倉時代には所領もそれほどには広くなく︑ワンノブゼムに近かった熊谷直経は︑三入

庄外に拠点がいくつかあった︒武蔵では熊谷郷の一部や木田見郷また上野国高尾村︑安芸西条郷寺家分

を領有し︑美濃金光寺地頭でもあり︑美濃から越前に向かっての軍事行動に代官が参加した︵建武元年

七月十四日足利尊氏施行状︑同九月二十日平重時打渡状︑暦応三年九月二十日熊谷直経代三山重行軍忠状ほか︑熊谷文書

四八︑四九︑五二︑五四︑五五︑五六︑六七︑六八︑六九︑﹃南北朝遺文﹄中国四国編一巻三六︑四五︑二八五︑五九六︑

一〇〇二︑一〇〇五︑一〇〇八︶︒かれは三入庄の中で最有力の惣領であったというよりは︑むしろ﹁在京﹂

しつつ︵建武三年九月二十九日道山経行軍忠状︑上記五五︑四九八︶︑これら所領群全体を統括した︒その意味

で﹁惣領地頭﹂たりえた︒三入庄の中だけをみれば︑ほかにも有力者はいたのである︒南北朝の内乱を

乗り切っていくことができたのは︑﹁在地﹂ではなく﹁在京﹂で培われた力があったのであろう︒しか

し一歩まちがえば︑他の熊谷某が直経に代わる可能性は大いにあった︒現地調査をしてみれば︑大きな

三 安芸国三入庄の場合

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(16)

カオスとしての内乱期と︑葛藤する武士団とそのリーダーの姿を読みとることができる︒

    四 備後国地砒庄の場合

 じびのしよう 地砒庄ではどうか︒地砒庄でのわたしの現地調査︵一九八○年頃︶の対象となった地域は庄原市本郷

と市村︑つまり﹃大日本古文書﹄所載の山内首藤文書に高山門田として記された一帯だった︒このとき

も従来の研究者が利用することのできなかった多くの関係史料を使うことができた︒﹃広島県史﹄︵一九

七四︶の刊行により︑学界未紹介に近かった多くの地圧庄関係史料︑多くの山内氏関係史料の利用が可

能になっていたからである︒第一には山内一枝氏文書である︒既知の山内首藤文書に重なる系統の内容

で︑且つ現地の詳細な記載があった︒第二は元来京都長福寺に伝来した領家方の文書群︒のち石井進編

﹃長福寺文書の研究﹄︵一九九二︶に一括されて活字化された︒こうした研究の発展の恩恵を受けつつ作

業を進めることができた︒現地調査にあわせ︑新史料の登場で︑おのずから新しい視点が開かれる︒

 現地調査の結果︑甲山城の山麓に拡がる高山門田の現地復原ができた︒文字どおり高山門田は甲山城

の麓の一帯に拡がっていた︒地砒庄は講習郡の全体にも近い広域で︑現在の市町村でも一市三町にまた

がっている︒高山門田はその広さからいえばわずかな地に過ぎない︒文書が詳細に記述していた世界は︑

やはり案外に狭いところでもあった︒

 調査自体での成果は多かった︒高山門田の四至境界に当たる地に存在した﹁おおのの池﹂と呼ばれる

池や﹁別所池﹂が確定でき︑それが文書の記載によって一旦は破堤していた事実が確認できるなど︑土

木技術史のうえでも興味深い事柄が明らかになった︒地頭名と呼ばれる水田には︑分水嶺︵﹁水越の樋の

5 南北朝内乱と家の交替 エエ2

(17)

タオ﹂︶を越えて引かれる用水がかかっていた︒﹁えんみょう池﹂と呼ばれる小さな池︵湧水点︶があった

が︑それが﹁円明田﹂﹁西は池原のたわを︑ゑんみやうのうゑを﹂など多くの文書に登場していること

にも感銘を受けた︒調査の直後に圃場整備が行われたが︑あの湧水はどうなったのだろうか︒調査成果

の詳細はすでに報告済みだからここでは割愛する︒しかし復原し得た高山門田のありかたと︑この調査

を通じてよむことができた備後山内氏の様相もまた︑きわめて興味深いものになった︒

 海曹庄にいた地頭山内首藤氏も︑他の武士団同様に庄内にもまた庄外にも多くの家があった︒鎌倉時

代には山内本郷の山内氏である時通は﹁兵衛三郎﹂︑同じく地響庄内の河北を根拠とする系統の清俊は

﹁首藤四郎﹂という名乗りだったが︑彼と相論した相手の兄俊家︵能俊︶は﹁右近将監﹂であった︵﹃大日

本古文書﹄山内首藤家文書一︑文永四年+月二十七日関東下知状︑﹃鎌倉遺文﹄一三巻九七八八︶︒年齢的なものもあ

ろう︒しかし後年になっても感通らが何らかの官職についた徴証はない︒彼らの父宗俊は左兵衛尉︑祖

父重俊は中務丞だった︒しかし官職に就くことができるのは一人だけで︑弟たちは無官のままだった︒

無官の時通と位官を有するものとでは︑およそ家格に大きな差があった︒中務丞は古言であれば従六位

上相当︑左兵衛尉は大尉であれば正七位下相当︑右近将監は従六位上相当︒この家の家格はそういった

ところで︑かつ︑そのポストに就けるのは一族全体における本当の﹁惣領﹂一人だけだった︒時通の孫︑

本郷山内氏の﹁惣領﹂の通資は︑鎌倉末期を通じて﹁首藤三郎﹂のままだった︒

 この兄であり︑﹁惣領﹂だった俊家がどこを拠点にしていたのかは分からないが︑山内首藤氏には︑

陸奥から豊後に到るまで︑全国の各地に所領を持つ一族がいた︒地砒庄内でも平字の系統本郷山内氏の      かわきた所領は本郷市村を含む一部地域に限定されたものだった︒弟清俊の系統は北の馬洗川に面した河北に入

四 備後国地砒庄の場合 113

(18)

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高山門田の分割状況

5南北朝内乱と家の交替  114

(19)

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Bゴ蒙こミ.勢.\・︶ □四至に記された地名などで現存するもの〇四至に記された地名のうちその位置を惟溢してみたもの

   推定四至境界線

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図17 南北朝初期地繋累本郷

1エ5 四 備後国地砒庄の場合

(20)

つた︒ このように鎌倉期から一族間には訴訟など対立が絶えなかったが︑南北朝期になると︑対立する各家

はあるいは武家方︑あるいは宮方︑あるいは尊氏方あるいは直義方といった旦目合に︑中央の対立をその

まま地域に持ち込んだ︒河北の山内首藤氏︑俊資︵先の清俊の孫︶は宮方になった︒そして後醍醐天皇か

ら目をかけられて︑﹁備後権守﹂という受領︵国司︶になった︵﹃長福寺文書﹄二二三︑﹁古文書纂﹂建武二年正

月二十六日国定書状︑﹃南北朝遺文﹄中国四国編一巻一〇七︑山内系図︶︒備後は上国だから従五位下相当である︒

元弘の内乱の時︑京都で参戦したものは山内雅楽助︑山内藤兵衛尉だった︵﹃山内文書﹄四九五︑元弘三年

五月 日山内通継軍忠状︑︶︒系図によれば前者は俊資の子︑後者は俊資弟通興で︑ともに俊資肉親である︒

雅楽助は正六位下相当︑兵衛尉は大尉ならば正七零下相当である︒南北朝内乱はまずこの俊資の家を破

格的に拾頭させた︒

 なお雅楽助らの任官はいっか︒官位を持つ彼らが登場したのは元弘三年︵一三三三︶五月だった︒鎌

倉幕府滅亡以前から名乗っていたことになるが︑備後権守に同じく︑後醍醐天皇からの特別恩賞として

与えられたか︒伯書・船上山からの帰路での叙任だったのかもしれない

 破格の厚遇を受けた河北・俊資流︑しかし彼らは後醍醐天皇側についてはじめて飛躍が可能だった︒

宮方の凋落は彼らの凋落をも意味する︒俊資流と継橋・通時流の対立は長く続いたと思われる︒観応の

擾乱時には通時子通雲は直義方となって︑尊氏方の守護岩松氏に対立︑直義方が使用する貞和年号を用

いた一族一揆を成立させた︵山内首藤文書二五︑貞和七︿一三五一﹀年十月二日山内一族一揆契約連署起請文︑﹃南

北朝遺文﹄中国四国編三巻二一四八︶︒この一揆に引き続く新恩拝領人交名︵同二六︑二一四九︶には︑敵方・

116 5 南北朝内乱と家の交替

(21)

俊資の弟である先に見た通興や俊資の甥︵弟俊宗の子六郎︶も参加しており︑通継は俊資流を分裂させる

ことに成功している︒

 本郷通時流も直義の凋落にしたがい︑試練が待っていたはずだが︑危機を乗り越え︑次第にその基盤

を安定させることができた︒

 南北朝内乱は鎌倉期には全くの傍流に近かった本郷通資流や河北俊資流を拾頭させた︒宮方として急

速に拾頭した河北俊資流はやがて凋落するが︑通言流は直義の敗北という難局を乗り切り︑戦国時代に

まで発展を続けることになる︒南北朝内乱はそれまでの家内部の秩序関係を︑一旦は完全に否定した︒

五 南北朝の内乱と家の交替

 家の歴史は勝者となったものの手によって書かれる︒あとから書かれた歴史叙述では︑当初からその

家が一貫した揺らぎのない家であるかの如く書かれる︒だがこのように見てくると︑南北朝の内乱期に

それまでの惣領家が没落して︑庶子家が拾頭してきた家がかなりあることがわかる︒

 肥後国相良氏は鎌倉期の庶子家が︑南北朝内乱以後︑惣領家よりも強大になり︑さらに再度の家の交

替をへて︑戦国時代に大名化した︒周防国仁保庄は鎌倉末期に拾頭しつつあった庶子家が︑内乱期に惣

領の地歩を確保した︒戦国期には大内氏の有力家臣になった︒安芸国三入庄の場合は︑家の交替までに

は至らなかったが︑鎌倉期に惣領家であるとされていた家は︑庶子家の拾頭によって没落寸前にまでい

っていた︒備後国地勢庄では南北朝内乱によって︑庶子家の二家が拾頭した︒そして宮方に付いた家は

急速にのし上がったものの︑比較的はやく没落した︒直義に付いた一流が戦国期に大名化する︒

五南北朝の内乱と家の交替 エ17

(22)

 こうした変化は︑後の粉飾された史料に惑わされて分かりにくい点もあるが︑仁保庄に顕著であった

ように︑また三入庄で示唆されたように︑現地の調査によって解明できることがある︒

南北朝内乱は︑それまでの惣領家・庶子家といった秩序を︑一旦はすべて否定し白紙化するエネルギ

ーを持つものだった︒家の歴史を考えるときには︑一旦はここで断絶があったであろう状況をみたい︒

5南北朝内乱と家の交替 1エ8

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参照

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