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(1)

権利に関する若干の考察

著者

三野 陽治

雑誌名

東洋法学

10

4

ページ

27-55

発行年

1967-05

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00007861/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

権利に関する若干の考察

日 次 一 総 論 二 権 利 に 関 す る 学 説 付 総 説 ∞ 権 利 の 帰 属 性 三 権 利 の 内 容 付 権 利 の 対 象 伺権利の法律上の権原、目的、定義 椛利に関する若干の考察

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二 七

(3)

耳: 洋 法 学 二 八 絵 、 主 ら 日間 (1) あらゆる権利行使は義務に従わねばならないことはドイツ民法において従来特に強く主張された原理である。 権利と義務を分離すべきでなく、義務を履行し得んがため、多くの権利がわれわれに与えられている。権利はドイツの 意見によると個人の意思力または法的に保護された利益のみでなく、社会的義務をもその中に包含する。これにより 権利は人的生活形態に奉仕する。孤立せる権利からでなく、その中に人間が存在し、それから始めて権利が流出する 法的地位から出発すべきである。すべての権利は他人の利益を考慮して、注意深く行使されねばならない。 権利を行使する者は他人の権利を侵害することなしとの原理はロ

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マにおいてのみ妥当するが、私法の中心概念であ ロ ー マ の る権利概念は永い歴史的産物であり、歴史的段階により進展しまづアクチオ思想から実体上の規制された法律関係の 思想ヘ通ずる法学思想の転換の表現である。その範囲でこの概念の発生は私法と訴訟法の関係という一層大なる関係 に属する。さらに詳しくは、私法からの訴訟法の分離である。権利の概念は二当事者聞に生ずる法律上の関係を説明 する手段としてアクチオに代わったのである。 したがって訴権のカテゴリーに代わって権利体系が現れ、個々的に形成されるアクチオに、個々に規定される権利 が代わった。しかし、権利思想の出現は同時に個人の自治とその保護の中に社会規範の木質的目的を見る自由という 社会哲学の表現である。権利思想は個人に一定の社会目的の到達への権能でなく、良かれ怒かれ自己の認識により、

(4)

むしろ意見による使用の権能が委ねられたことを表す。この哲学においては、その行使と主張が個人に委ねられてい るこのごどき個々の法的地位の保護の中に法規の目的が見出される。 (2) それゆえに、この権利思想が歴史的発展の所産であるとしても、この概念がこの芯味において、歴史的所産と してのみ、そこで結局は偶発的なものとしてのみ見るべきか、またはこの思想発展が同時に事実上の認識を表し、そ して現実の必要性に適するか否かの問題が起きねばならない。そこで精神史的になされる研究の前に立っている。 権利思想は現実的意味に関する社会学的側面から鋭い批判を受けた。 子。江口問はかなり組野な方法で権利の定義に ついて活動し権利は法的に保護された利益であると言う表現を新しい概念として提案した。 一部的には一九世紀の初 頭の著者の誤解に基づくこの拡判はわれわれにはあまり重要なものとは考えられぬ。自由社会説の主張者、すべての 自由主義者は社会の一定の人間の利益に個々の権利は関係すると述べるであろう。しかし、それにもかかわらずその ため椛利は個々の自由に関係するのは正しいと添け加える。個々の権利はたしかに個々の利益を保護するが、 し か し、法規はまったく当該の利益に向っても人間の自由を保護する。 それゆえにその限りではこの見解の問には必然 的な対立は何ら存しない。また、

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が総則で述べたごとく権利の同時代の定義は二つの立場を統一するとい う事実はこの明瞭な証拠である。仏社会学派の権利概念は基本的広範囲な批判を受けた。特にロ z z p の批判を受け ? こ ロ ロ ρ 巳仲は一生涯権利概念を多くの文献の中で争った。彼は社会機能の補充への研究独立の思想によりその補充 をした。この見解は疑もなくその当時のフラ γ ス社会学の基本テ l ゼ に 、 特 に ロ ロ 円

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の社会学に関係する。それ によると文化発展は客観的過程において、固有の法により個々の個人は創造的役割を呆すことなく実現される。この 権利に関する若干の考察 二 九

(5)

京 洋 法 学

立場から、個々の自由を否定することも一貫している。なぜならこの社会哲学においては個人には独立の創造的役割 は帰していないからである。この社会説はここで論議する余地はない。権利概念は法律形成とその適用の実証的経験 とそれに奉仕する法学上の活動において維持されるか否かの問題に向うことを考える。 A 私法は権利体系として理解され得ぬ。このことは特に契約法の中に示される。すでに他人の芯忠についての怠 思力の主体としての債権者の法的地位の定義は人工的と思われる。特に、しかし、契約関係の法学的判断にとり本質 的なものは相対権の対立の中に観察しうるものではない。むしろ、契約法は法規が個人の法的地位の限界と保訟を以 つてのみ活動するのでなく、共力、共同を法共同体の構成に共通の目的に組織し、安全にすることを以って活動す る ω 恐らく∞雪山間ミは有機的関係として見た法律関係を権利でなく、法の基本カテゴリーと見たから、この事実を見 たのである。なぜなら、この出発点を熟考すると、権利は二次的のものである一方、自己法則性を以って当事者の総 体関係が前面に出てくると考えるようになる。もちろん、 ∞ p i m ロ uーはこの考え方を実現しない。なぜなら、 ∞ 何 回 ﹂ 刊 日 間 ロ 可 は自然法の影響の下に有機的法律関係を権利の関係に再び分割したからである。 B 他方、権利概念は近代私法の構成と学問上の理解にとり不可欠のものと見られる。 一定の法的地位に関し利用 と処分権が個人に委ねられ、この地位の保護はこの個人、権利主体の意思に依存し、他方、少なくとも当該の法的地 位が自己に印刷すると主張する者のみが保護を求めることを明瞭にする一つの概念を使用する。まったく誰が法的地位 の保護を受けるかの問題に際し、誰に権利が帰属するかの問題をほとんど回避し得ぬのは明らかだ。同様に権利の概 念形成は法的地位の移転の問題に際し、共同の法律関係から本来、それゆえに契約関係から成立するこのごとき法的

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地位が中心の場合も一定の契約から生ずる金銭請求権のごとき総体関係から生ずる地位が他人に移転される場合も不 可欠のものと忠はれる。しかし、権利の観念は特に自由と法規によるその保護との関係にも基礎づけられると思われ るむ松利の観念は私法とそれが基礎になる法的保訟は社会における個人の自由の維持に卒仕し、佃人の自由はそのた めに私法が存する基本理念の一つであるという見解を生ずると考える。なぜなら、松和の観念の中には、私法は相互 に依存し、その固有の意思決定により行為する法仲間の法である、と表現する。 この熟考は権利の古典理論の欠点はこの概念を展開したことでなく、それを私法の中心、唯一の基礎とした点にあ る。法律生活の唯一の要因としての人間の行為(契約 不法行為)の古典的理論の対比が生じた。 いわゆる事実的契約 関係の事実、または準契約が存するとの見解はその排他性において誤であることを教えた。権利概念に同秘のことが 存すると思える。権利概念は正しいがしかし唯一の可能な拘テゴリ!と考えてはならない。私権は私法の中心概念で ま工、 1 、 ' v + J

UV4 川 N しかし本質的には合目的であり私法の基礎となる倫理上の目的設定からは十分根拠のある概念である。こ の機能を細かく突込むのはドグマの責務である。歴史家は、ここで述べた重大な歴史的発展は哀の事実関係を明阪に ハ 2 ﹀ し た と 確 信 す る 。 ( H ) Z O 山口吋向。 r z E m u

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-杭 利 に 関 す る 若 干 の 考 察

(7)

東 洋 法 "主L,.

7-権利に関する学説

総 論 (1) 権利についての法学上の文献をくまなく探求すると、この法的形象の多くの概念的見解に道 遇する。そして一つの重要な対象についてのこの多様性と多種性はまったく驚くべきである。他の法的基本概念の追 求におけると同様にこの場合にも法学の認識上の努力の一種の悲劇を表すようである。それは法現象と効果の世界に おいて、権利よりも明瞭で分りやすいものはないからである。そして法律家は自己の直接の理解に明瞭なものとして 迫り、自己の認識にまったく明らかであるものを最も深い方法で最も重要なものと解する。そこで法学の現実におい ては最も公知のものはその内的存在については最も隠れたものである。権利の現存在が表されても、そのかくあると いう存在を聞くことを法学の精神は知らない。しかし権利の多くの概念の争をここですべて程々の順序で説明するこ とは無価値なことである。概念のこのごとき変化はむしろこの法的現象に関するわれわれの認識を明瞭にしないであ ろう。それにもかかわらず、 権利の概念決定の中に立ち入る定義を少し試味してみよう。そこで、 ∞ 当 日 ぬ ロ u に よ る と、われわれをすべての方向で取りまき診透する法的状態において、権利は個人に印刷する力であり、その中で意思が 支配し、われわれの同意を以って支配する一つの領域であり、 一方、個々の法律関係は法規により決定される人と人 との聞の関係として表される。 客観的法との関係においては、 一般に対する特別として、 通例に対する個々の場合 として、その関係を形成している規範に対する生活関係と現実として考えられる。 この定義の中にこの概念形成が

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巡辺する力と文配の要素が浮き出し、法学と法哲学にこの概念形成が現れて以来ますますその傾向がある。 例えば 同 N o m o r r o 認め円も程利を簡単に承認された利益の満足への力として表し、 一 方 Z 右 目 ︼

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は概念的に個人に法規によ り与えられた法的力として形容する。この場合、 印 p i m H q によると、松利という現象は客観的法のそれより一一泊多く の存在と現実が伴なっている。そしてこのことは法規のこのこつの面を正しい理併にとり注目すべきである。権利の 最も激しい敵対者がその存在を犯し、結局、客観的法に帰せられるほど、これは注目に価する。 (2) こ れ に 反 し 、 叶 r o ロによれば法規がその規範の強行性を利害関係人自身に委ね、単にその助成行為のみを彼に 約するときは、財物または利益のすべての保護は権利になる。法規による万一起るべき詰求の約束は規範により保設 される状態を権利という現実に高める。それゆえに、権利は規範により保護される人にとっては客観的法の規定より 生じ、それにより客観的法の違反の場合に命令されたことの実現、禁止されたことの終了のための一つの手段、すな わち請求権が保障される。この著者によると、それゆえに利用、利得と取得、簡単に言うと利益は、権利の概念上の 要素ではなく、単に法的保護が要素である。そこで利益は利用への単なる手段になり、その場合利用は庭図は庭垣の 概念に属さないと同様に、権利の本質に属しない。そこで叶

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は権利の本質を法的保護に置き、それゆえに彼は利 用の法的確実または利益の自己保護として表す。そしてここではこの権利の法的現象の新たに表された要素が現れ、 その定義の多くのものの中に存在してきた。後に至りこの本質を一層明瞭に簡単に訴を以て一一一口い現すようになったに すぎない。さらに回

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旦払﹁によると権利は意思許可によりその実現が保障される人的利益またはその実現のための 法規がそれに法的効力を結合させることにより意思支配の可能を、この意思が誰に属しても同様に、承認するという 権 利 に 関 す る 若 干 の 考 察

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芋 法 学 四 人的目的である。ここにわれわれは二つの概念要素すなわち利益、意思に遭遇し、この二つは多く争れたこの形象の 本質決定の説明において真の障害物となった。

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ロ ﹃ ロ H m はさらに権利を一般意思が個人に属すると認め個人に保障 する生活利益への参加として把握する。彼によると意識的な国家法が形成される前にすでに主観的立味の法は歴史的 に永い間存在した。それは個々の人間という人の中に根拠を有し、その場合存在する権利の観察から拍象により法規 の概念を取得する。この定義の中にまったく、ほとんどすべての国家法以前に権利の存在が力説される。むしろ、権 利の投射によってのみ社会法規自身が形成され、この点でこの見解は少なくとも特色あるものとして表れる。 (3) こ れ に 反 し 、 回 c r - o 円 は﹁ドイツ行政法判例における公権とその保護﹂という論文の中で私権と公権の論述を した。前者は彼によると一人が私的経済主体としての他人に何物かを要求しうるこ私人間の関係として表れ、 一 方 後 者は法律行為または行政官庁に対し主張しうる個人利益の保護のため公布された強制法に基づき国家にある物を要求 しえ、または国家に対しある行為をなしうるごとき国家に服従する法的地位を言う。この概念的理解の前者は債権法 に 入 ら れ 、 一方後者は多面的に急速に発展する公法において個人に桔利が発生する前提条件の決定に関して功績を残 した人々から発生した。最後に

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によると、権利は受益者の個人意思にその保護が依存する個人のための法 規、または個人利益のための国家的法的保護についての処分権である。この定義においては権利の客観的法への重大 な転換が行なわれる。なぜなら Z m

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によると前者は従たる法規すなわち手続法、訴訟法または形式法の中に現 れる法的保護の単なる処分として表されるからである。そして、これを以てあちこちの文献で咋仰された権利の客観 的法への法学上の転化が暗示される。

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しかし法学上の文献の中で権称の本質に関するはげしい論議を統一する理論と見解は未だ主張されていない。経利 が表し、芯味するものの説明と表現は法律関係の研究の困難な争れた問題をなすから、この法学上の論争は何ら不思 ( 1 ) 議 で は な い 。

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右に概観したごとく、権利をその内容から見る立場と、形式から観察する立場があることがわかる。この実質 的成分を権利概念の核心にまでひきあげた権利理論をつくり出したのは同宮ユ認であり、権利は法律によって保護さ れた利益であるというその定義は、利益説の精髄として広く知られているところである。かれは従来の歴史法学が採 っていた意思中心の考え方を斥けて、法律を生み出すところの本当の力を探ってまず利益という概念を求め、法律的 規律の対象をなすものは利益に他ならぬとしてあらゆる方面において利益の観念を高調したのであるが、権利につい てもこれを基礎として説明を試みるに至ったのである。 ﹁権利の概念を構成するものに二つの要素がある。 一 つ は 実 質的の要素であって権利の実際的な目的はそこに存する。すなわち法律によって保障されるべき利用、収益がこれで ある。他は形式的の要素であって、かの目的に対してはただ手段たる関係を有する。すなわち法律の保護、訴がこれ である。前者は権利の核心であり、後者はこれを保護する皮設である。﹂ こういってかれは権利の中心は利益である としたのであるが、さらに一歩進んで考えると、そのいわゆる利益も人の意欲を離れては考えられることを得ないの ( 2 ﹀ であるから、そこにはやはり権利の本質を意思に求める意思説が考えられる。 意思説は大点権利を意欲しうるとか、法律によって承認された意思力または意思支配とかいうふうに解しているよ うであるが、学者によって説くところはさまざまであるから、これについて単一の表現形式を求めることはむずかし 権 利 に 閃 す る 若 干 の 考 察 一 五

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東 洋 法 学 _._ / 、 い。そしてそこにいわゆる意思が何を意味するかは必ずしもはっきりしていないのであって、もしそれを自然的な心 理的の意思だと解するならば、直ちに幼児や精神病者のごときは権利をもち得ないではないかとの非難が加えられ る。そこであるいは﹁権利において支配する怠思は、法規の芯思にすぎぬのであって、権利づけられている者の意思 ではない﹂巧古 L m o r o 日 仏 という答えがなされているけれども、それに対してはさらに﹁権利の基体をなすものが法規 の意思であるとするならば、それは法規によって承認されもしくは保障された意思であり得ない。五しかかる芯思は 必然的に法規の意思以外のものでなければならぬからである。というのは法規は自己の意欲し得ないと同じように、 自己の意思を承認しもしくは保障するを得ないから﹂ 問 。

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という駁論がなされる。とにかく、意思説はすべての ものの基礎づけを意思において見出そうと試みた第一八、九世紀の哲学思想殊にその法理観、 ﹁例えば法律の根基は つまり精神的者であり、その手近い立場と出発点とは意思である﹂といったような形市上学的の考え方から出ている のであって、それは通話歴史法学派と呼ばれているところの当時の支配的学派によって一般に是認されていたのであ ハ 3 ) る。そしてこれに真向から反対したのは、利益法学の開拓者﹄ r o 己認であった。 歴史法学の代表者∞宮古ミの﹁法律上の状態を、それがいかに現実の生活においてあらゆる方面からわれわれを囲 続しまたわれわれを法透しているかを観察するならば、そこにはまづ各個の人に属している力すなわち人の怠思が支 配している

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しかもわれわれの同意を得て支配している

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領域がわれわれの限に映ずる。この力をわれわれはその人 の権利!権能というも同義ーと名付ける。そして多くの者はこれを主観的の芯味における法と呼んでいる。斯ういう 権利は多く自に見える形態で現われているのだが、もしそれが疑われまたは争われるならば、その存在と範囲とは裁

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判官の判断によって確認される﹂という基本的な説明を後世学者の普通に引用するところである。すなわちかれは枢 利において力を見さらに力の根抵において人の意思を認めているのである。今日 r i h H ロ U1 が一般にいわゆる意思説の ハ 4 ) 先駆者であるかのように考えられているゆえんもここにある。 このように枢利を内容より観察し、利益と意思に従ってその本質的要素とし、両者を折衷して、概念的には松利は 法規により個人に与えられた法的力でありその目的によると人的利益の満足のための手段であるとし、その本質の両 面の評価によってはじめて権利は完全に認められ、権利は人間の本質により、その社会的機能を果すために個人に与 ( 5 ﹀ えられ、それゆえに、現行法においては不可欠の法技術的な手段であると考えられる。 このように利益の本質を見ることが近代の権利観の代表的な見解であり、 利益や意思という自然的な存在をその 内容と考えることになるが、権利を形式より見ると、法律との関係で、その保護との関係で権利を観察することに な る 。 権利を形式的立場から見るものは前述の吋

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である。彼の権利論は三宮門戸口ぬが権利の実質的要素と呼んでいる ところの権利の実際的な目的(利用利益というようなもの﹀ は権利の概念規定に属しない﹂としている点において、枢 利の概念をはっきり法律上のものたらしめるために、 一段の進歩をなしていると言うことができる。すなわち、松利 においては保護する皮殻すなわち法律の保護と核子すなわち利益とを区分すべきではない。否、 実に皮殻のみが枢 利を成すのであって、核子はもはや権利には属しない。権利は手段たるにとどまり自己目的ではない。手段すなわち 現在または将来の卒益を可能ならしめる一つの手段なのである。権利は保護される利益ではなく、利益の保護手段で 権 利 に 関 す る 若 干 の 考 察 七

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東 ハ 6 ﹀ ある。このごとく権利を形式より見る見解が明らかとなった。 洋 法 A主ι ヴー 八 権利の帰属性 次に枢利の本質を帰属性に求める新たな観点が存する。 、 ‘ . , , 4 E A , , . ‘ 、 ロ与山口はいかに板利概念を形成したか。まづ彼によると権利は物の権利主体との帰属を言う。 この法理論は 法がなし、表すべてのものに基づいても明らかになる帰属の観念を以つてのみ始まる。この際、この帰属は

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と 所持の表現の中に現れ、権利の形式的成立をなす。そこで﹄ r o ユ誌の意味の利益からもまったく明瞭に止揚し、意思 とその表示との結合をも示さない。帰属から発生する権限は意識も、行為も、享受をも支持しない。 さらにそれは有体的利益同様、無体利益、最高の人格的能力と価値、給付、職務、有機的能力とその他の物を示し うる。価値法、婚姻法と家族法におけるごとく、金銭的価値あるまたは金銭的価値なき履行または不作為におよぶ場 合は債務者の廻り道をしてのみ対象を把握するから間接的である。まったく汲み尽し得ぬ、常に発展において握みう る権利対象の多様性から流出する強弱にかかわらず、この帰属性の中には常に一種の所有権または所有権類似性のも のが映じている。それゆえに精神的所有権または工業所有権または地代若しくは債権についての所有権とも言う。そ こで所有権が一般的意味の権利に発展する。さらに権利はその存在を客観的法から汲み取るから、客観的法にその根 拠を有する。にもかかわらず、しばしば実定法が単に認める自然の製作物または人間の意識の技術上の創造として現 れ る 。 ロ与山口によると、権利のその他の本質的特徴は権利容体についての力と支配を構成する。この場合、帰属は物の属 性として支配は主体の特性として表れ、前者は後者の中にその最後の完成と頂点を受けとる。木来、帰属から発展す

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る支配は対象の処分権の中に存する。 処分杭は物自体またはその他のものを使用し利用し、それを変更し、破壊し、 有償無償に譲渡する自由を抱合す るむたしかに、権利者はこのごとき支配を以って客観的法の枠内でのみ、または枢利に付着する契約上、法伴上の制 限内で処理しうる。この場合、この支配の形態は権利の客体の性質により変化するし、 一定の人格椛の場合の単なる 保持、行使と単なる享受から、外界の事物についての無制限の処分程にまで生ずる。それにもかかわらず、しかし根 利者の場合の支配の存在はその現実の行使と結合するものではない。むしろ、 たとえ現実に行使することができなく ても、この主体は全体の支配を保持している。そこで権利の中に包含される支配は潜在的処分杭と考えられる。支配 自体の木質的要素の中に怠思は充分生を受けている。意思は権利の中に存する価値を事実上、法律上充分利用し、全 体の権利行使と権利形成の動機となる。 しかしこれが全体ではない。なぜなら二つの上述の要素にさらに主体性が仲間入りする。それは権利の第三者の閃 係を示す。客体の権利者への直接、間接の帰属関係に、その帰属と支配に基づく権利者と第三者の第二の関係が接合 する。このことは債権法においては明瞭であり、 一方絶対権の場合には不明瞭となる。なぜなら権利としては、後者 も第三者との関係で存在するからである。 ロビンソンは彼の島で孤独で物を処分するが権利を処分するのではない。 それは権利を対立させうる人間的対立者をもたないからである。枢利者と第三者の関係は不可侵性の二つの概念の中 に表われる。前者は権利主体の客体との関係を妨害し、侵害しないという第三者の消極的義務の中に存立し、後者は この権利の不可侵と尊重を要求する可能性の中に存する。しかし、実現性は権利の本質に属するのでなく、この単な 権 利 に 関 す る 若 干 の 考 察 }1

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東 洋 法 学 四

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る 結 果 に 成 る 。 最 後 に ロ 与 山 口 により権利の定義の中に入ると思われる最後の要素はすなわち法的保護と訴を述べる。たしかに後 者は純粋の習俗の平面では何ら概念的要素をなさぬ。その存在においては法的保護と強制、保障なき松利が完成す る。これに反し、国家法規の分野では、これなしには権利は成立し得ぬ権利の不可欠の要素にこのモメントが発展す る。なぜなら、単なる純粋の規定に国家目的があるのでなく、権利の保護、保障の中にある。それゆえに訴と法的手 段はその必要な制裁である。国家秩序が私的強制を阻むにつれてますますこのことが増すのである。その外にいろい ろの法的手段の中に現れる保護が権利を直接加工する。そこでここでは単に間接に権利の尊重を促進すべき一般的国 家的措置は問題ではない。権利はたとえ適当な保護が認められるとしても、訴と混同すべきではない。なぜなら、後 者は権利に追従し、新たな権利、すなわち訴権の中に現れる枢利の単なる保護手段として表れる。訴杭は枢利の完全 性を示し、ある程度保護される権利と一致する。そこで訴権はその形態と目的により、被保護権利の行使から区別さ れ、その固有の主張に一つの利益を仮定する。さらに、その生成と発生は被保護松利の侵害と威嚇に結合するから、 訴権は一一極の可能な存在のみの間生ずる。占有保護においては訴松は単なる事実状態の保護手段になり、このことが 新たに被保護権利に対するその特殊性をまったく明瞭に確認する。そこで、ロ岳山ロによると上述の本質要素は次の定 義の中に結晶する。主観的法は客観的法により個人に認められ、訴訟により保障される自己に属すると認められ、彼 のものであり、当然受けうる利益を意のままに処分する特権である。 (2) この概念決定は批判的調査の下に置くと、まづこの場合、根利の概念的把担はすでに注目すべき完成になって

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いると一一.一口う印象をうける。まずこの中には権利の本質の説明の際に多くの障害となる根拠のない芯忠要素を表面上は まったく捨て去ったと考えられる。むしろ支配や処分程は人間の認識、意思による活動の中にのみ生き得るから、そ れは支配や処分松という問題

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ある概念要素の中に続いているようである︾担鮮し難い﹄ F O 江口問の利益はさらにすべ ての枢利、法律関係が取り巻く権利対象に圧縮される。この適当な書き換において、権利の定義の中にそれは入るに ちがいなく、そこで自然の古典的形式を見出した。松利対象と杭利主張の問の結合は帰属という造形的一一二日深の中に好 都合に固持される。この結合は他の適当な表現でとらえうるか否かを問題とするほど本来的なものとして表れる。す べての場合口与宮は最後の根底を追及していないことは明白である。結局上述の定義の枢利は客観的法に基づいてい るし、このことは一見して心から離れぬであろう。法律はそこで権利が由来し、その存在と生成を創造する原因の扱 能を姉与える。ロ与吉の見解はそこで何らかの法的存立をもつものはすべて法律に根拠をもっという近代的傾向に適す る。そこで法律家の精神生活において客観的法はすべての合法性の広い根元となり、この点に一九、二

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世紀の問に 栄えた実証主義が適当な見地を見出した。ロ与古のこれに関する見地は何ら実定法上の思想と混合されない。反対に 最も明瞭にこの根拠なき精神的傾向から切り離される。そしてロ p r z の基本的力作を以って、権利の本質の説明は従 来より適当な表現をもち、 より良い定義に入るから、この説のドイツ用法への簡単な継受が強制されるか否かの問題 ( 7 ) が生ずる。その批判的実行の際審議なしに引き受けえぬ不足と誤が明瞭にされる。 権利の本質に関する学説は多くを数えるがその形態は社会の進化に伴なって複雑となり、人格的保護が今日のドイ ツ民法において一般的、絶体的効力のある人格権の形態で、例えば、 九イ九民法二八条のごとく、認められるか否か 権 利 に 関 す る 若 干 の 考 察 四

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東 洋 法 学 四 の問題は常に争われている。人間の人格的価値例えば名誉、家庭平和、私生活の秘密、信書、労働力、経済企業経営 ︿ 8 ﹀ も不法行為の規定で法的利益として保護される。 ドイツ民法九

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三条において、法律は所有権の概念を説明せず、積極的面、作用範囲と消極的面、排他的範囲により 所有者

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権限のみを椛成する。権限の二つの集団は法律の規定または第三者の権利を侵害しないという留保がある。 この権利の内容は積極的に、すなわち、役権者、抵当権者などの権限の列挙により規定されるが、これに反し結局す べての法的力を具体化する所有権の内容はそのようには規定されていない。この物をすべての関係で包含する所有者 の権力的地位は、所有権は物を一主体に基本的に完全に与えることにより明らかとなる。この点に所有権の特徴とし ての物の個人への終局的な法的帰属が含まれている。所有権は一般的にはじめて法的に帰属を構成するから、所有松 は他人の物の権利でも、自己の物の権利でもない。自己の物の権利はすなわちすでに被担保物上の所有権を前提とす る。制限物桔はその内容上被担保物

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所有者に向けられ、所有権は、他人がその所有者の分野を侵害するときは、た しかに請求権を保障するが、 しかし一他人に向けられるものではない。物権の絶対的性格は当然所有権の中に最も明 白に表されるから、それゆえに所有権保障も強力に椛成せられ、そして物権法上の保護規定の体系の中において、主 ( 9 ) たる地位を占めているのである。 {3) (2) (1) ロ 円 ・ ﹀ - r o ユ︿。ロ } P E r s u N C E 円 。 。 -M仲間七 r F - c m C ℃ } 戸 山 由 。 r g g E r t r o 円 L P m J ︿ 2 2 L g m c z o r 片 山 ︿ g H N 2 r z w 印 ・ ︼ C 町 内 -w 米 川 問 者 椛 利 侵 害 治 二 三 二 頁 末 川 博 若 前 掲 二 三 四 頁

(18)

(9) (8) (7) (6) (5) (4) 末川博若不法行為並に権利濫用の研究一四七頁 開 ロ ロ B O R E -自 宅 ・ 君 。 } 同 F F o r r c o r ι o m E a R -g g 阿 佐 。 r E W E ・ ゲ 印 ・ 品 N G W 末 川 博 若 紘 利 侵 害 論 二 四 八 頁 ロ 円 ・ ﹀ - r o ユ ︿ O ロ -S F o p 内 F P C -w 印 ・ 口 止 -w 国 O L O B E g u m o F 己 ︻ ︼ 円 。 。 r 仲 ι 2 即 位 円 ∞ O L r r C o m E N r z 。r g w ω ﹀ Z 2 ・ 印 ・ ω 印 ∞ 、 出 R B P ロ ロ 何 目 。 r o ♂ 同 ロ 日 片 山 宮 神 戸 O ロ o p 仏 g m p o r o ロ 円 。 。 r f H 回 門 戸

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・ 巴 w 権 利 の 内 容 権刺の対象

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権利に含まれる対象の権利主体への帰属性を考えると、この関係性、秩序性、帰属性の本 質に通暁せんと欲するときは権利の対象として表されるものを説明せねばならぬ。すべての関係は関係帰属者、具体 的には権利主体、関係目的、関係原因を仮定する。権利主体の権利関係の対象または関係目的との関係において、こ の法的秩序性または帰属の特別形態が最も明瞭になる。この場合、外界の権利主体と関係目的は権利の形式的な本質 的基礎として明らかになる関係の固有の物質的原因を形成する。権利の対象は理性なき物、または法律用語によると 物、作為、不作為または職務、機能でありうる。対象が存在し、その人閉または権利主体との秩序性または帰属性が 権利主体または対象の性質、本質、単なる存在より実現される。上述のごとく、これは最も明瞭に基本格と自由粧の 中に一定の人間の人格権と個人権、または刑法上の保護をうける一定の法的利益、例えば生命と安全の権利、精神と 権 利 に 関 す る 若 干 の 考 察 四

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洋 法 学 四 四 肉体の不可伎の松利、人間の完全な人格の発展と形成の権利、宗教と祭杷の自由、学問と意見の自由、自由活動の権 利、親権と親族程、名誉と氏名の権利、'結社と集会の自由などの中に表れる。この程利の保護なしには、すなわち人 間は長期にわたり単なる肉体的な実質にも精神的な実質にも存立し得ない。そして人間の性質と存在からこのごとく 基礎づけられる法的利益が大変きびしく迫るから、法規も当然にそれを権利に結合させる。そこでこれらは人間の本 質的傾向と素質の固有の法的沈澱物として表れる。 そ の 場 合 、 ﹂のすべての基本的権利の場合の自然的基礎が常に 同様に徹底的に表れるのではない。なぜなら、権利の自然法的度合が主体の内在の強さにより決められるからであ る 。 (2) 物権、債権の場合は対象の主体へのこの秩序づけは粧利主体の存在と本質に根拠を持つのがゆるいし、個々の 場合に根拠を持たないのは明白である。そこでこの場合、人格権、物権、債権を格別と解するものの単なる実例的な 具体的形態として考えるこのごとき観察は他の法分野にも適用される。私法の平均的正義の中に権利の本質を最も明 瞭に見出す。殊に所有権は権利として最も徹底的な完全な形態において表れる。それゆえにこの表現をまったく法学 的 で な く 、 一層哲学的理解においてするとすべての権利も所有権類似性を示す。なぜならすべての松利は所有権とい う基本的法制度から出発し、それを取り除くと他のすべての私権をも根絶するであろう。このごとく大変この基本的 制度とからみ合っているから、その法的存在なしには多くの松利は価値とな味のないものとなる。それゆえに外界の 人間とは具なる物に基づく多くの形態の椛利の法哲学的、最終的以因の根拠は所訂れの社会的哲学的正当性に結合す る。ここにからまる芯味のすべての権利は所有権の怪と発端をそれ自身の中に包含する。それゆえに権利の本質を法

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哲学的に説明せんとすると、私法の最も純粋な言葉の場合から追及することを始めねばならぬ。 物抱と債権の場合、主体と客体は存在的に分けられるから権利の中に含まれる関係は先入観にとらわれぬ観察者の 自にとまる。おのおのの対象が主体への帰属を家りまたは宗るべきであることを枢利主体の木質の中に見ないときに も同様である。これらの椛利主体に対象を処分し、使用し、消防 μ し、または似務者から履行を鉛供させ、不正に占有 する者から対象の返還を請求する。この場合しかし、物権債権の場合その周知の法的な区別はその法律関係の形成の 中に表れる。物松の場合、主体から引き出される関係は直接客体を把握し、すべての閃係から第三者を排除し、排他 的に権利者に帰属させている。この絶体の厳格な第三者の義務が権利者に対しないときは、 一体最も明瞭なそしてよ い人格権と物権は何であろうか。それゆえに、実定法的に一一一日うと、権利主体と客体の第三者との関係は、すべての法 的そしてすべての事実上の対象との関係の不作為と、制限物権の場合には、権利行使の単なる忍容に還元される。物 経と人格権の場合は第三者に対し帰属性を強調するため、法規は権利主体と客体の関係を徹底的に包括的に形成し た。その場合、第三者の客体に対する地位は客体の観点の下に考えられる。そうでないと帰属はこの権利の以上のご とく徹底的な形式の中に含まれる必要はない。なぜなら、第三者に対する保護とその義務への根拠のためにはそれは このような権利として形成される。そこで法哲学的見地からは人格権と物権の場合の法律関係はある程度、多数人の 問の関係としても表される。その中で第三者は権利主体に対し、すべての侵害、粧利行使の不作為とこの侵害と奪取 の場合の返還と損害賠償の義務を負う。 これに反し債権の場合は、権利は固有的には対象と履行ヘ、たとえこのごとき可能性が、 一定の法作効果の中に表 権利に関する若干の考察 I四 五

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東 洋 法 ぶu. 六 T-四 六 れているとしても、 およぶものではない。むしろ法的には履行を提供するべき人に向って行くのである。法的義務 と責任の尺度はしかし版行の範囲につきる。それゆえに権利者と義務者間の法的関係は履行または対象の中にその回 有の客観性を受けると言える。この場合、その関係がまったく一義的に二人またはそれ以上の人を包括し、義務者を 権利者の支配という一定の面の下におき、義務者を権利者に帰属さすならば、この帰属は履行に限られる。 なぜな ら、人間は権利対象になり得ぬからである。それゆえに、債権においては法律関係はその具体的内容により、義務者 を履行のみに権利者に結びつける。選挙法や権限法のごとく、官吏法や組織法の場合や法人や同様の法形態や未成 年、被後見人への代理の法の場合は権利主体と客体の聞の結合のより一一胞の緩和と分離された形式に突き当る。この 場合権利主体と対象の聞の関係は一般に固有の帰属ではなく、単なる所属と単なる権限に形成される。この本質と形 態においてはある程度疑のある権利の主体の直接の人格的利益はここでは公職担当者と機関担当者にたとえ結合して いても、色あせてくる。そしてその主体はその法律的存立のわずかな部分をも怠のままにし得ぬとしても、そのごと き法的性質をもっ法律上の存在方法の中に入れられる。その法的性質が主体自身たる人を法的、機能的に徹底的に公 的に資格づけるほど、まずまずこのようになる。 結局、権利の中に包まれる帰属と秩序性は倫理的性質をもち、したがって不可侵である。それは存在秩序と自然と 法律行為、法律と理性に基づくからである。しかし、人間の行為に際し、自然的理性的として示されるものは、倫理 的であり、普である。そこで、法自身は菩の存在方法に成長するしそのカテゴリーからそれ以上に決定的な説明をう け る 。

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(3) さらに権利の分析をすると、権利の対象は本来、すべての法的関係の一般に法的関係の決定的要素であるとい う事実である。二人または多数の人の聞で、しかしながらその対象は中心点である。それが木米の中心であり、全法 律関係が仲びる中心であり極である。その法律関係は法律原因からその出発点をとり、主体と客体にまきっき、その 客体を全面的にまたは一定の面の下に把握し、主体に帰属させる。そこで対象の主体への特別の知印刷は創造され、そ れゆえに対象はその人格の一部として本来彼のものとして見られる。人間の人格の深奥でさえ板利の対象の殻の中に ある程度まで客観化され、それによりすべての権利の境界の中に押し込められるむ同様にすべての法的義務もその客 体の中に汲みつくされている。客体が消滅するとすべての権利義務は消滅する。すべての法伴閃係の核が消滅するか ら、その全体の実現化がその対象と関係原因に係っている法律関係の空虚な外皮のみが存在しているむ椛利と義務の 中に包含される関係は、その関係の中に組合う人に常にその対象の関係でのみ、対象のため、対象により、対象の範 囲で接触する。この法律関係の存在と本質は常に対象の中に汲みつくされ、これなしには最後にはまったくの無に還 元 さ れ る 。 それゆえに、この対象を権利としても表わしたことは不思議ではない。権利と法的義務の中に包まれるすべてがそ の中に集中され、説明されるから、その権利としての資格はおのずと迫ってくる。しかしながら、すべての権利対象 もその単なる存在によりそれ自身とその法的対象として見られるむこの法律上の対象性の形成より権利はその本質を 受取る。権利は対象に関係し、対象を把握するという見解によりその本来の種類に分けられる。その本質により程々 の物はその権利対象性の共通性に出合う。逆に一つの権利対象は本質により租々の方法に理解されるし、多様な枢利 経 利 に 関 す る 若 干 の 考 察 四 七

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東 洋 法 は 対 象 を 示 す 。 ,ll4 守一 四 八 権 利 の 法 律 上 の 権 原 、 目 的 、 定 義

ω

しかし権利の中に包まれる一定の権利主体への対象の秩序づけと帰印刷は偶然 に生ずるものではない。すなわちすべての関係は発生し存続する法律原因をそれとは異なる存在として要求する。そ れゆえに法律関係もその基礎づけのため、権原または法律上の原因と呼ぶ基礎を要求する。 いかにして、どこで、別 々の形態の権利が根源的にその出発点をとり、その本質と存在の正当性を理性の広場にあらわすかを示す。そこで個 々の権利は権原と効力の中に残された秩序性と帰属の性質からその存在と存続を汲み出す。何によって枢利が存する か、権利主体を権利対象との関係に秩序づけるかというものとして梅原が明らかになる。権原の背後に、これに反し 固有の深い意味において、権利が産出する本質すなわち人閉または法の創造する社会の中に存する権利の根拠という 原因が潜んでいる。 私法の分野において、法律的に見ると法的重要な行為と事実、法律行為、契約と社会的行為が権原として明白であ る。この場合、人格根の場合と婚姻と家族権の中では、人間の存在秩序と性質において充分であるが、 一方、物権償 権では一見して表面的であり、 一層法律的であり、存在的実体的に形成されないようである。そしてここでも多くの 場合この合理的根拠は社会秩序と経済的社会的発展にとり不可欠の法制度とおのおのの人間的行為と行動または事物 の性質としても資格づけられるものだが決定的な行動に基礎をもっ。物の民主は売主からその全面支配とその所有権 を、売主は代金を取得するのは当然であり、正しく合法的であり、合理的であり、正当である。同様に一組傭義務者は その労務のために穴金を受取り、一居主はこれを支払うのは明白であり、明附である。この場合杭利はその原因を双務

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契約とその相応する版行の中に見出す。そして、この人間行為と法律関係の中に根拠をもっ原則の多くは人間の精神 に直接の洞祭により自明なものと迫るから、それは法規により正しいと理性として認められる。しかししばしば法律 関係の錯雑は人々にその規則が直接には発見されない問題を投げ掛ける。その場合、万一存しうる当事者間の取極、 法律、判例、学問の解釈は解決を与え、それを以って正当性がすべてにまったく実定法の中に根拠をもっ。さらに、 しかし常に権利客体の権利主体への帰属のための権原が理性に基づき明阪なときは特別に倣・民的にこのことは椛利主 体の意思と行為から、法律関係または法制度の性質から、または法律の単なる類型的関係形態から生ずる。 (2) 権利の権原がその根拠を単に法律の中にもつことがしばしばある。この場合、しかしそのときの実定法的見解 から流出する問題の単純化が重要である。なぜなら、すべての権利の基礎は合法的なものでないことがありうるのは すべての証拠の基礎が一つの証拠であり得ぬと同様である。すべての場合、法律は権利主体の自治を以って実現され る私法の分野においてはまったく梶原として現れるものとはかぎらない。 むしろ法律はまったく類型的な原因結果 の関係の役割のみに後退する。しかしながら、法律上重要な適法と不法行為と法律事実と法律行為はそれを維持する 当事者の怠思を以てそれから生ずる権利の最後の存在理由を示すとしても、強行法の規制の場合は法律は固有の法的 形成理由ヘ発展しうる。これに反し、公法の巨大な範囲では法律はまったく創造的、決定的に権利の形成に入り込 む。殊に近代国家の場合、公法上の負担と公課に強制的に服する権利主体の重要な分野においては、支配権を以て形 成される公共団体と前者の後者に対し多く規定される義務に関し示される。その場合公共団体の枢利義務は法律自身 によりその存在原因を取得し、その中に権原を見出す。しかしこの分野でさえ、実定的制定法が一つの松利の存在と 権 利 に 関 す る 若 干 の 考 察 四 九

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洋 法 学 五

形成原因をなすものではない。なぜなら、結局この制定法の背後に何があるか。それは立法程、命令粧を以て形成さ れる法的共同体であるのか。そしてこの立法権は法律規範の中に示された法的力以外のものを芯味するか。しかしこ の後者を以て広義において法的効力ある権利と法律関係の発生、消滅、変更原理である能力と考えられる。この場 合、判断能力と意思能力が与えられた人聞から成立する法的社会の一定機関または官庁にこの権限が委ねられる。そ れゆえに、この立法松は法律、命令の公布の中に全力を出す一定の官庁の特別にその社会範囲の中で発展した行為能 力と行為力として表われる。そこでわれわれは再び、習俗上の法的力とし権利を存在させ、それに法的成立を与える 巧日ロ己目。﹁巳品の意思説の行為能力として仮面をはぎとった意思力に突きあたる。なぜなら、法律も自然法的基本原理と 理性により明らかにされ、決定された社会上の意思力であり、その一般的命令は一定の法規の用語に鋳造される。そ して、この人間と法社会の中に存する倫理上の法的力の中にすべての権利の権原の上述の理由も存し、自然法的存立 において、神聖な立法者の智と意思に基づく。 しかし、法律が多くの場合格利の単なる存在原因を形成するときは、法律は義務を負担させないというのではな い。むしろこの類型的原因結果の関係を以って、法律と権利の本質と存在との関係のみが表される。すべての場合、 この関係は法哲学的に異なって解されない。法律より権利が見られるほど、ますますこうである。 (3) 第四の概念要素としてこの基本的法創造物の目的がさらに加わる。人間の保談、幸一初、完成と完全がその肉体 的、精神的存立の中にそのものとして現れる。さらに、法人とその組織の保護が問題となり、それに法規が一定の存 在を与えるのである。椛利は権利能力、行為能力を以って法伴の世界の中の人間の本米の本質内容を造り出す。これ

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無しには文字通りの法律上の無として示される。これに反し選挙権、立法権、官吏程、私法上の包括代理代理経は 権利主体の保設と幸福ヘ帰属するのでなく、そのために行使がなされる肉体的人または法人の保設と幸一相に帰属す る。ここでも、新しく明らかにされた問題であるが、これらの法形態は存在の仕方により、他の権利の法形成とは対 照をなしている。 権利の中に表されるこの目的の到達の関係行使においてその特別形態を受けとるか否かが問題となりうる。人間に その人間的存在の完全な形態にまで完成するための権利が与えられるときは、権利の行使はこの目的から真の倫理的 秩序に従うであろうか。この構成に内存する目的が、その存立と範囲にではなくて、その行使との関係自身に規範と 基準を与えないだろうか。このことは人間の完成に注ぎ込む権利の目的性から聞かれるようである。松利は不正行為 と濫用に退化しうるし、そして法律は最も損害を与える濫用のみを阻止するから、権利は法律を超越する倫理性によ り最後の完成を受けとるであろう。国家法規は権利行使において、進んで公共の福祉のためにそれを制限することを うる。しかも、国法は権利の成立自身を公共の福祉という切迫した要求のためのみにより完全な補償により侵害しう る。さらに権利行使の規制とその変更は純然たる法律を超越した倫理上の秩序に属する。それゆえに程利の成立は決 してその行使と同様の制限で書き変えるものではない。同様に権利は不行使と濫用により失効しまたは消滅するもの ( 2 ) で は な い 。 ドイツ民法二二六条によると他人に損害を加える目的のみでなされる権利行使は許されないとされる。この場合は 多くの論議を呼んだ普通法のシカ l ネ禁止が問題となっている。この場合も一一層広い範囲にわたるがしかしこの範囲 権 利 に 関 す る 若 干 の 考 察 五

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東 洋 法 学 五 においてのみ法規範囲に高められた社会倫理の命令が基礎となっている。権利行使とは権利の内容に適応する権利主 体のすべての行為を言う。そこで権利行使の種類は権利の具なるに従って種々である。権利濫用の禁止の場合も、経 利行使の意味を権利主体のすべての事実上の実行と解するシカ

l

ネ禁止はすべての程類の権利に関し、通常民法以外 の法律に基づく枢利にも関係する。それは民法は一般の倫理的原則に基づく原理を排除することを欲すると考えるべ きではないからである。これに反しドイツ民法二二六条は、訴訟行為はその濫用的行為が問題である限り専ら訴訟法 により判断すべきであるから、訴訟法には適用されない。 他人に損害を与えるすべての権利行使が禁止されるというものではない。多くの権利の場合、 一般にその枢利が行 使されるときは、他人を害することなしにすまされることではない。その権利行使が損害を目的とすることで充分な のではない。むしろ、諸般の事情から、損害目的以外の目的を持ち得ないことが明らかにならねばならない。しかし 一般にはその権利行使は行為者に何の利益ももたらさないことのみを考えるべきである。 ドイツ民法二二六条により禁止される損害行為は多くは財産上の損害である。 しかしこのことが必要なのではな い。精神上の利益の侵害でよい。 シ カ l ネ禁止に反する行為は禁止され、それゆえに違法であり、ドイツ民法二二六条は他人の保訟を目的とするか ( 3 ) ( 4 ﹀ ら、ドイツ民法人二三条二項により、さらに八二六条により損害賠償義務を負う。その上にシカ

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ネ禁止にふれる権 利行使の除去または不作為を訴求しうる。これに反し、ドイツ民法二二六条は日按の抗告賠償請求椛を保障するもの ではない。二二六条の翠犬的意味はその狭い見地のためわずかなものであ一勺このすべての票作決定を一定の定義の

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中に概括すると、 枢利は権利主体と客体の性質中に、または法律上重要な事実、

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, 、

4 4 h a d 法作行為の中に、 またはま ったく法律の中に基づく物、履行、不作為、または能力の、 一人または数人への経利主体の保設または完成のための 帰属または秩序づけの標準関係として表される。われわれが概念を分解すると法学的批評の中で大いに非難される怠 忠、利益または効用の要素を追求するのは無駄なことである。最後の﹄ r o 門戸高の示した摂識は殊にその関係の本来の内 容的中心として表れる権利対象の中に吸収されるのである。同様にこの要素決定は支配と処分権の特色を含むもので はない。これは権利対象の人への帰属、秩序づけのまったく恒久的結果を形成し、その単なる行伎をなすが、権利の 本来の本質内容をなすものではない。それどころではない。それは、最近のこの椛利理論の発肢がそれから離れんと 努める力と意思という要素をその存在に接合するものである。結局、支配と処分権は主体への帰属、秩序づけの純粋 の法律上の創造物として表れるし、そして権利の定義に属しない。そこでわれわれの概念決定は、はてしない誤りや すい見解を脱するこの対象に関する論議に関して生ずるのである。 (4) ここで主張される見解に対し多くの論者が考えるごとく、権利保護は訴の概念決定も前述の概念決定の中に入 れるべきではない。 根本的に考えると、ここでは西洋の法哲学の中で真の運命を、決する問題に発展した。強制は権利の本質に属するか 否かの教義において非常に争れた問題が重要となる。第一に、 一定の強制と執行の可能性が権利の対象の中にのみあ るとまづ言いうる。権利の対象がその不可侵性と権利主体の帰属性の保障が形成されるなら、強制と一定の執行が可 能となるし根利が強制されうる。すなわち権利主体に帰属される対象がまったく特定のある物または制限された他人 松利に関する若干の考察 五

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東 洋 法 学 五 四 との外的関係を形成する場合には、不完成な執行に引き込まれる。しかし多くの場合、大きな不公正が大きな力に結 合する場合には殊に国際法において禁止される。さらに国家法規において、強制も刑罰畏嚇も近づくことのない死点 に常に突きあたる。また一般に誰も一定の行為に強制されえぬ。結局固有の強制は常に権利侵害の場合には許され る。人間の死の場合には現世の力はその生命への権利を再建し得ぬ。強制可能性はわれわれの法哲学上の形象の多面 的、偶然的効果現象として表れさらに権利対象の性質から生ずる不完全にとりつかれている。それゆえに通常、補償 履行、補償企図または損害賠償の単なる可能性の中につくされるし、それゆえにすでに全く不完全性があらわされて いる。法の強制の主張者がこの最後の自明の内容のみ考えたとしても、人々はその見解に賛成し得た。しかし強制自 身を権利の本質に置き、単なる可能性を本質に置くのではないから、まづこの問題に存する一定の誤解が除かれねば ならぬ。なぜなら、 たしかに法哲学においてはこの問題については多く論述されるが、強制の本質についてはほとん ど述べられない。そしてしかもこの全体の問題の核心がこの本質問題に潜んでいる。 外部的理由から生ずることのみが強制されるから、強制を受けるものは何らこのことに寄与しない。すべての権力 的なものは常に外部的理由から、或るものの中に現われ、付加物となり、矛盾するものになる。それゆえに、人聞の努 力活動を固有の強制はさまたげる。しかもすべてが外部的理由に由来するものと言うわけでなく、同一目的に人間の 内的努力の伴なわない強制されたものである。純粋に人間に関しては、それゆえに、外部から人間に迫り、本来の努 力を排除し、その要求を不可避的、反意思的なものにすることを強制と言いうる。この説明を法強制に移すると法が 要求するものの版行に人間が外部から意思に反し専かれる外的な標準を強制と考えられる。この概念的確定から強制

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の木質が椛利実現に際し、完全に実現されるのはまれであることが明らかになる。個々の場合にのみ実現方法に強制 を適用することが粧利を不可侵の状態に維持し得るにすぎない。刑の畏嚇による椛利実現の場合には、強制はまった く不完全の方法でのみその本来の存存をあらわす。なぜなら、単に刑畏嚇により義務を版行するものは故芯に、無理 ハ 6 ) に行為し、それを以てこの法強制はその本質を示すからである。 (6) (5) (4) (3) (2) (1)

H J ﹀ - r o H 仲 ︿ 。 ロ - P 己 r o p N Z B H 2 r z u z -o m C M ︼E m o r o ロ印可巳 H t r o 円 仏 m g J ︿ 2 0 ロ 仏 g m z r ﹂ o r 片 山 ︿ ぬ 口 問 。 。 r z 、 印 ・ 呂 町 内 向 よ り ♂ ﹀ - r o ユ ︿ O ロ -P E r o p p -p ・

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・ H H K R h w (本学専任説師) 権利に関する若干の考察 五 五

参照

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