宗教と信託法の基礎理論
著者名(日)
浅野 裕司
雑誌名
東洋法学
巻
46
号
2
ページ
1-36
発行年
2003-03-01
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00000182/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja︻論 説︼
宗教と信託法の基礎理論
浅
野
目 次 一 二 三 はじめに 仏教と信託思想 欧州における信託法の源流と宗教 イスラームにおける信託類似制度 おわりに東洋法学
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宗教と信託法の基礎理論はじめに
信託法の基礎を学んで四五年が経過した。信託は、キリスト教ばかりでなく仏教など、さまざまな宗教と深く 係わって始まり、内容的には多少複雑なところはあるものの魅力ある学間領域として進展していることを最近、 強く感じている。信託の素地は、古来の神道・仏教・キリスト教・イスラームなどの戒律などにその観念がある。 現在、注目されている公益信託は、英国慈善信託法︵O冨葺筈一①↓釜馨>9一。 。㎝ω︶から本格的に広まったが、救 貧ないし宗教促進の信託がまさに信託の源泉であった。わが信託法の公益信託の規定︵六六条︶も、公益目的とし ては、祭祀・宗教・慈善・学術・技芸の五項目が具体的に示されている。福祉と信託法の関係も重要であるが、 宗教と信託法の基礎理論について素描を試みることにしたい。 仏教と信託思想 わが国にも、仏教の分野における信託法の素地があった。 空海は、わが国に初めて、教育の機会均等を高唱し、国民教育の普及を実行された。天長五年︵八二八年︶一二 しゅげいしゅちいん 月一五日、東寺の南東︵京都市南区針小路堀川︶に綜芸種智院︵以下種智院と略称︶を開校した。 空海は、人望があり帰依者も多かったが、財産がなくしては教育に手はとどかず、ましてや完全給費制を考え るならば資金は重要であった。空海に深く帰依していた辞納言藤大卿︵右大臣藤原朝臣三守︶は、空海の教育事東洋法学
業に共鳴し、積極的に援助するため、堀川沿いにあった二町歩余りの自己所有地と邸宅を、種智院創設のため寄 ︵−︶ 附している。こうした財産の提供により、公益信託あるいは財団が形成された。信託法的に考察すると、藤原三 守から寄附された財産は、だれに帰属したのか、その財産の独立主体性は法的に認められていたのか、また、当 時の土地法制はどのようであったかなどを探求する必要がある。さまざまな推測ができるが、種智院が創設され、 高等教育が実施されたという事実は、目的財産の創設とその維持を可能にする法技術が、既に存在していたこと を証明している。 空海に帰依していた藤原三守など貴族が、土地などを出資して教育機関を設置した際、宗教家である空海に直 接財産を譲渡するわけにはいかなかったため、出資の受け皿となる受託者として第三者が介在させられており、 信託的手法がとられている。 空海は、種智院のために﹁配一田園一而宛二支用一﹂という活動をしたこと、空海の死後、承和一四年︵八四七 年︶に實恵僧都が﹁沽二却種智院一﹂をしたこと、さらに﹁弟子商量、沽、一却彼院一﹂という記述があることな どを考慮すると、当時、財産の独立性を保障する法技術や元本から収益をあげて、それを特定の目的に充当させ る法技術も存在したのではなかろうか。 こしん 種智院の開設は、空海の青年勉学時代の労苦のなかに育った夢の実現であったが、﹁衆生をみることなをし己身 ︵2︶ のごとし﹂という、進歩的な人間主義の当然の発露でもあった。 設立趣意書については、﹁綜芸種智院式﹂なるものに、事業の目的、内容がかなり詳細に記述されている。﹁序﹂宗教と信託法の基礎理論 を合せて綜芸種智院は長文であるが、空海は人々の救済を願い、儒、道、仏の三教、つまり、あらゆる教育を兼 ねて学ぶことで学校をつくりたいと思っていたところ、藤原朝臣三守が土地と邸宅をそのために寄附してくれた。 そこで、自分の願いがかなえられたので、学校名を﹁綜芸種智院﹂として校則を定めた。そして、必ず最後まで やり通す所存であり、教育効果をあげるには、良い教師を得るほか、師弟の完全給費制を採用する必要があるこ となど、いくつかの条件を満たさねばならないとしている。また、寄附を一般の人々に向って広く呼びかけてい ︵3︶ る。これは、まさに公益信託の素地というべきものである。 当時の教育施設︵大学、国学の官学、和気氏の弘文院、藤原氏の勧学院、橘氏の学館院、淳和天皇の皇子恒貞 親王の淳和院などの私学︶が、すべて特権意識に基づく、特権階級の子弟の教育に限られ、一般庶民は文化の恩 恵に浴する機会は与えられていなかった。 かせい ろじゅく 空海は、﹁今、この華城︵都︶には、ただ一つの大学のみ有り、閻塾︵庶民の学校︶あることなし。この故に貧 つ あまね どうぼう 賎の子弟津を間ふところなし。遠坊の好事は往還するに疲れ多し。今この一院を建てて普く童蒙︵学齢期の子弟︶ せいぎんこうこう をすくはむ。亦善からざらむや﹂と、貴族一辺倒の偏向教育をつき、﹁若し青衿黄口︵童蒙に同じ︶の文書を志学 こうちょう そん み よろ せば、緯帳先生︵先生の尊称︶、心慈悲に住して、思ひ忠孝を存して貴賎を論ぜず、貧富を看ず、宜しきに随って ていせい う しく 提斯して、人をおしゆること倦まざれ。三界は吾が子といふは大覚の師吼なり。四海は兄弟といふは将聖︵孔子︶ ︵4︶ の美談なり。仰がずばあるべからず﹂と叫んで、人間主義の炬火を高々とかかげた。 このすぐれた教育事業も、空海なきあとは長期には継続しなかった。開設後、約二〇年、この民衆学校は経営
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じちえ 難におちいり、第二代東寺長者実慧のとき︵組織的には空海入滅後一二年の承和一四年︵八四七︶に︶、種智院の でんほうえ 用地を売却し、他の水田を買い、重要な伝法会の資金づくりに当てざるをえなかった。 種智院の結末はどうあれ、空海による創設は目的財産とその維持に奉仕し得る法技術が既に、九世紀の昔、わ が国に存在していたことになる。それは公益信託あるいは財団が形成されたことを証明している。空海の教育理 ︵5︶ 念、教育事業、公益活動と密教思想などは、思想史や仏教哲学の領域で専門家による論究がさらに進展されると 思われるので、ここでは当時のわが国における信託の思想と仏教における信託の思想を重視し、信託法の素地が その後にどのような影響を与えたか、とくに仏教と信託法理との係わりを重要課題とすべきであろう。なお、な ぜ寺院が必要かという現代人の問いもある。聖人・高僧が世に出てすばらしい教えを説き、多くの著作を後世に 残したとしても、それらを慕う出家者︵僧尼︶と在家者︵信者︶が拠点とする聖域空間︵居住空間を含む︶がな ければ、その宗教は社会の中で制度的に確立しにくい。仏教の場合、それが寺院︵庵・坊・堂を含む︶である。 仏教徒であった織田信長は、皇室および室町幕府の財政をたて直すために、信託財産をつくり出すことを目的 として、元亀二年︵一五七一年︶九月末、京都の洛中・洛外のすべての田畑、一反につき一升の反別米を課し、 同年一〇月一五日から同月二〇日までの間に、洛中二条の妙顕寺に持参することを命じた。これは、信長はお米 を妙顕寺に持参させ、集められたお米を京都の町々に預託し、預託された町々がそのお米を他に貸付け、それに ︹6︶ よる収益つまり利米を皇室に納め、皇室経済の維持を図った。 すなわち、委託者は信長、受託者は京都の町々、受益者は皇室、ということになる。信託財産は信長の強制徴宗教と信託法の基礎理論 収に係わる反米、信託目的は皇室経済維持ということになる。 寺院の財産受託については、寺院が信者から財産を寄進された場合、その寄進行為は単なる贈与ではない。信 者の目的は、寄進した財産を特定人の供養ないしは祭祀にあててもらうことにあり、そのために寄進するという のが通常の意思であって、寺院としてもそのような目的のもとにあるものとして、寄進を受けることになろう。 寄進された財産は寺院に帰属することは当然である。受贈者である寺院が寄進された財産から利益を受けてよく、 また受けなければならないけれども、寄進行為には信託行為がある。信者から寺院に対して信託がなされたと解 するのが当を得ている。 豊臣秀吉も信託を用いている。天正二〇年︵一五九二年︶八月四日附の豊臣秀吉朱印状︵高野山金剛峯寺惣中 せんがん あて︶に、秀吉が天瑞寺殿すなわち大政所、秀吉の生母を追善供養するため、高野山に剃髪寺︵青山巌寺︶を建 立することとし、そのさい、高野山︵高野山惣中︶に一万石の土地を寄附する。そのうち、七千石は高野山に属 する各子院に配当され、各子院が領知する。残り三千石のうち、千石については、高野山はこれを剃髪寺の﹁仏 供灯明﹂ならびに﹁寺僧諸賄料﹂にあてなければならない、と朱印状は示している。これは信託法の原型からす ると、秀吉︵委託者︶から高野山︵受託者︶に対して千石の領知︵信託財産︶を信託し、高野山はそこからの収 ︵7︶ 益︵年貢︶を、剃髪寺︵受益者︶の﹁仏供灯明﹂ならびに﹁寺僧諸賄料﹂にあてることになる。 寺院を受益者とする信託は、加賀藩の護国山宝円寺についてみられる。金沢市宝町に所在する曹洞宗の宝円寺 は、藩祖、前田利家が天正一一年︵一五八三年︶大透和尚を開祖として建立したのがはじまりとされる。同寺は
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前田家累代の菩提寺となり、加賀藩から毎年二二〇石余の供養米を寄進された。初めは、現在の兼六園の東隅に 所在したが、元和六年︵一六二〇年︶、現在地に替地一万一千六百坪を賜って移転した。元和四年︵一六一八年︶ ちか の横山山城守長知および本多安房守政重の名義により、三名の町人に対し申渡しがなされ、大坂の役︵慶長一九− 元和元年−一六一四ー一六一五年︶で戦死した同藩の藩士の供養を宝円寺に委嘱することを目的に、同寺に米 一〇〇石を寄進することとした。申渡書は、この米一〇〇石を基金にして、これを運用し、その結果、毎年あが る収益︵利米︶をもって同寺による供養の経費をまかなうことにし、同寺による供養が長く続くことを期待して ︵8︶ おり、米一〇〇石の運用は同寺ではなく、商売上慣れた三名の町人にまかせることにする、としている。この場 合、信託法的にみると、委託者は加賀藩であり、受託者は三名の町人で、信託財産は米一〇〇石︵同藩が同寺に 寄進し、同寺の所有に帰したもの︶であって、それを町人に信託したことになる。信託契約の内容は、三名の町 人がこの米一〇〇石を毎年、他に年利四割の利率で貸付け、そのうち、三割の利米三〇石を同寺に引渡し︵同寺 はこの三〇石をもって供養の経費をまかなうということになろう︶、残り一割の利米一〇石は受託者が収めてよい ︵報酬としての信託手数料とみられる︶。信託受益者は同寺ということになる。加賀藩は、他人︵宝円寺︶所有 の米一〇〇石について、三名の町人との間に信託契約を締結したことになるが、事前、事後を問わず、その他人 ︵宝円寺︶が承諾すれば間題はなく、同寺の承諾は間違いなくあったであろう。また、異なる側面からみると、加 賀藩から宝円寺に寄進された米一〇〇石について、同藩が同寺を代理して、受託者すなわち三名の町人との間に ︵9︶ 信託契約を締結した、と解すると、同寺は委託者兼受益者ということになる。宗教と信託法の基礎理論 元和六年︵一六二〇年︶三月一五日附の東照大権現社領寄進状によると、将軍秀忠は満願寺に対して﹁都合五 千石﹂︵一七箇村︶を寄進し、そこからあがる収益をもって、東照大権現︵家康の墓所︶の供料神事などの費用に あてさせるという、信託的行為がみられる。将軍家光も、實永一一年︵一六三四年︶五月二日、満願寺に対し、 ︵−o︶ 秀忠と同旨の目的をもって、﹁弐拾弐箇村都合七千石﹂を寄進している。 このように佛教寺院に係わりをもつ信託的事例は多数あり、これらの事例も含めて、その文献の解明を進展さ せることにより、わが国にも信託法の素地が佛教を通してあったことの事実が証明できる。キリスト教社会だけ きしやく のものという先入観が法学界にあったことの学間的反省も必要であろう。また、明治の世の廃仏殿釈も研究を困 難にさせた。なお、東洋大学文学部の菅沼晃先生から御研究の成果である貴重な文献をいただいた。ここに感謝 と敬意を表したい。
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︵1︶ ︵2︶ ︵3︶ 宮崎忍勝﹁新・弘法大師伝﹂︵大法輪閣、昭和五六年︶三二二頁。頼富本宏﹁空海と密教﹂︵PHP新書、平成一四 年︶二一九−二二二頁。湯川秀樹﹁弘法大師﹂、同﹁天才の世界﹂︵小学館、昭和四八年︶五四頁。渡辺照宏H宮坂宥 勝﹁沙門空海﹂︵筑摩叢書、昭和四二年︶一七四頁。 米倉明﹁信託法のわが国における素地⑭﹂信託一六一号、一二一丁二四頁。宮坂宥勝﹁空海ー生涯と思想﹂︵筑 摩書房、昭和四九年︶三九頁。渡辺”宮坂・前掲書一七五−一七六頁。その他、弘法大師空海全集編輯委員会編﹁弘 法大師空海全集﹂巻︵筑摩書房一九八三∼八五年︶、大法輪編集部編﹁弘法大師のすべて﹂︵大法輪閣、一九八三年︶、 竹内信夫﹁空海入門−弘仁のモダニスト﹂︵ちくま新書一〇七、二〇〇〇年︶。 宮坂・前掲書一六〇1一七三頁。東洋法学
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︵6︶ ︵7︶ ︵8︶ ハ パ109
宮崎・前掲書三一二−三一三頁。 梅原猛﹁空海の思想について﹂︵講談社学術文庫猫、二〇〇一年︶二四頁以下。哲学的にいえば、やはり空海の密 教思想の基本軸となるのは、聖と俗という本来異次元の両極を接続しようとする即身成仏の思想である。頼富・前掲 書二一二頁。 岡本良一、他編﹁織田信長事典﹂︵新人物往来社、平成元年︶一九一ー一九二頁。三浦周行﹁織田豊臣二氏の法制 と財政﹂︵大正四年︶、同﹁法制史の研究︶︵岩波書店、大正八年︶二二九−壬二〇頁。太田牛一﹁信長公記﹂、﹁桑田 忠親校注、改訂版︵新人物往来社、昭和四〇年︶一二二頁、奥野高廣﹁皇室経済史の研究﹂後篇︵畝傍書房、昭和一 九年︶二二五ー二二七頁、同﹁増訂織田信長文書の研究﹂︵上巻︶︵吉川弘文館、昭和六三年︶四九〇1四九一頁。 石井良助﹁江戸時代における神社および寺院の法人格﹂︵昭和五一年︶、同﹁日本団体法史﹂︵創文社、昭和五三年︶ 二二一頁。東京大学史料編纂所編﹁大日本古文書家わけ一ノニ、三﹂︵東京大学出版会、昭和四三年︶六〇七頁。日 野西真定編﹁新校高野春秋編年輯録﹂︵名著出版、昭和五七年︶二八三頁。小瀬甫庵﹁太閣記﹂桑田忠親校訂︵新人 物往来社、昭和四五年︶四四八頁。市川訓敏﹁村堂への﹁寄進﹂行為について1紀ノ川流域の村落を中心にしてー﹂ 関西大学法学論集二七巻四号︵昭和五二年︶六三五−六三六頁。 下出積与﹁石川県の歴史﹂︵山川出版社、昭和四五年︶一三〇1一三二頁。若林喜三郎監修﹁石川県の歴史﹂︵北国 出版社、昭和四五年︶二一二頁。候爵前田家編輯﹁加賀藩史料﹂第二編︵石黒文吉発行、昭和五年︶四三一−四三二 頁。 米倉明﹁信託法のわが国における素地③﹂信託一六三号、三五ー三六頁。 石井良助﹁江戸時代における神社および寺院の法人格﹂八六頁。米倉明﹁信託法のわが国における素地⑥﹂信託一 六二号二七頁。 なお、平安の大思想家である弘法大師・空海の生涯を語る際に必ず登場する綜芸種智院の創設であるが、直接言及 さいせん する一次史料としては、﹁性霊集﹂の第十巻、正確には十一世紀の後半に、仁和寺の学匠であった済邊によって補撰 ならぴ された﹁続遍照発揮性霊集補闘鉛﹂の第十巻に収録されている﹁綜芸種智院の式、井に序﹂のみである。頼富・前掲宗教と信託法の基礎理論 書二一九頁。 二 欧州における信託法の源流と宗教 こりつ 英国における現代的信託は、英国の普通法および衡平法の間に介在し、特異の発達を遂げたもので、衡平法裁 ︵−︶ 判所︵Oげ碧8蔓O自詳02旨o︷○富ヨ8曙”02詳亀国ρ鼠q︶こそ実に信託の乳母であった。 信託の発生については、諸説はあるが法制度上現われた古いものでは紀元前一∼二世紀のローマで信託遺贈の 制度がみられる。文献上不明な点もあるが、当時、女性への相続を認めていなかったなかで遺贈者は第三者への 信託の形式をもって、例えば残された妻に遺贈を可能にした。中古のゲルマン法においては、財産所有者が相続 人なくして死亡した場合、その者の財産は国王に帰属した。そこで、その遺産をいったん第三者であるザルマン ︵遺言執行者︶に移転した後、ザルマンが指定する者に引渡す方法がとられた。それらの多くは宗教団体などに土 ︵2︶ 地を寄進するために使われたとされる。この考え方は、ノルマン・コンクェストで英国にもたらされ、長子相続 を原則とし、相統に際してさまざまな封建的負担を課していたイングランド国王や領主は、土地寄進を許可制に しこれに対処した。そこで、民衆は第三者︵受託者︶から直接教会に寄進するのではなく、第三者が教会のため に土地を管理し、収益を教会が受取れる方式を考え出した。これがユース︵dω①︶であり、後にトラスト︵↓霊8 といわれるものとなった。ローマ法における信託遺贈︵ゆ8一−8ヨヨ一ωωqB︶にせよ、中古ゲルマン法におけるザル ︵3︶ マン︵ω巴ヨき︶の制度にせよ、相続という身分関係間題に宗教的側面をもって、分配の衡平化を志向している。 10
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英国では、一五世紀以来、一九世紀後半まで、普通法裁判所と衡平法裁判所が並存し、前述のように衡平法裁判 所がユースを認知し、受託者の履行責任について判例を重ね信託法が形成されていった。 信託の源泉については、また後述することにして、衡平法裁判所と大法官について触れておかなければならな い。衡平法裁判所は、大法官府︵Oげ碧8蔓︶裁判所の意味である。当初、大法官︵O富琴亀自︶は、国王側近の 僧侶で国王によせられる民衆の苦情や貴族からの直訴を聞く立場にあった。それが往時、普通法裁判所が十分な 救済を与えることができないか、または救済を拒否した事件に対して、大法官が国王の名において正義衡平の立 場から特別の恩恵的救済を与えた慣習が次第に発達し、一六世紀に至り独立の裁判所となった。そうして、事件 の増加に伴い、記録長官︵竃霧叶R9園o房︶を裁判官に昇格させ、さらに、副大法官︵く一80冨目亀9︶を設 置して大法官を補佐し、第一審事件を担当させた。その主轄事項は、主として信託、売渡担保︵竃o目茜諾Φ︶、契 約特定履行︵99田o零ユ自B彗8︶、遺産管理など衡平法に特別なもののほか、令状の執行、証書の登録などの 普通法上の事務である。一八七三年の裁判所構成法︵冒象8日お︾9ωしo 。おき血一。 。誤︶によって高等裁判所衡平 ︵4︶ 法部︵Oびき8曙∪貯蝕9亀頃お﹃02昌亀甘ω蔚o︶に移行された。 現在の大法官は、宗教的身分にこだわりはないが英国伝統の﹁大法官﹂に二〇〇一年以来、批判がでている。 英国では法務大臣にあたる﹁大法官﹂が、首相により任命する閣僚でありながら上院議長と最高裁長官を兼任し てきた。しかし、この伝統の制度は現代の民主主義にふさわしくないとして、三権分立を求める意見が強くなっ た。勅選弁護士や裁判官の任命権をもつ大法官は、立法府の一部である上院︵貴族院︶議長と最高裁判所に相当宗教と信託法の基礎理論 する上院上訴員会のトップも兼ねる特殊な役職である。裁判官の任命は、独立の機関にゆだねるべきであるとい う要求が広がっている。現代の大法官は、法律の専門家であるが大法官の地位が俗人に、さらに法律家の手に移 ったのは一六四九年以降であり、チャールズ一世時代のウイリアムズ︵田鴇8≦自鋤Bω︶は最後の僧侶の大法官 であって、チャールズニ世時代のシャフッベリ︵8巳ω富津8どQ︶は一五世紀最後の非法律家の大法官であっ ハ5︶ た。 一六世紀の大法官は、良心に従って裁判するという場合、この良心とは各大法官の良心ではなく、従来の判例 ︵6︶ に示された精神を指すものとした。これは、当時の良心は受託者にも、加害者にも、裁く大法官にも、また、信 ︵7︶ 託を設定する委託者にも全員に呼びかけられていた言葉であった。良心︵8霧9窪8︶という言葉は、日本人が考 えるものとは、観念的に多少違いがあり、また、キリスト教における良心という場合、旧約聖書やヘブライ語に も、直接的に良心にあたる言葉はない。一五世紀から大法官裁判所の勢力拡大とともに、8乱qざOo房息Φ目ρ 霞器叶という信託関連の用語が表面化してくる。一三五〇年前後の社会情勢は、国王の慈悲、恩恵の形式で大法官 府の対応が活発化して、二三ハニ年冨け3腔8から国ロひq一一筈ω置Φという、自国語による自立裁判となった直後の ︵8︶ 一三六七年から、判例、遺言書などに、自らの哲学と道義の表明として集中して現われている。 信託の起原と宗教的要素は、信託︵島。︶の発生について触れなければならない。これまで、古代エジプトのピ ラミッドの壁画に信託的なものが存在するという説が伝えられてきた。各種あるピラミッドの歴史的年代の測定 も今後の研究に依存しなければならないが、総合的な研究は国王側近の神官が裁判官も務めていたことが明らか 12
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になってきている。しかし、文字の上での論争は諸説あって、ローマ法のなかにあるラテン語の&8諾または &拐q目︵∼のために、∼に代って︶という古い言葉がよくもちだされる。これは、私見ではこの言葉の意味に、 かくされた部分、すなわち、神の名において∼のために、があると思う。メイトランド教授は、信託につき英国 固有説をとり、信託は﹁古代英国要素の自然的所産︵四轟ε﹃巴o旨8ヨΦ9碧9①日国轟一一筈α①ヨ窪邑である ︵9︶ と信ずる﹂旨を説いている。また、﹁諾①という新法律をもってローマ法よりの借用として、英国の諾①または け霊馨とローマ法の臣8一−8ヨB凶ω霊ヨとの間に歴史的関連があると考える者もあるが、自分は、これを信じない ⋮⋮。なぜならばその理由の一つとして、大法官達︵9き8ぎ邑が最初から受益者︵8ω鼠2①奉①︶の権利 を土地についての物権︵碧8$8ぼ昼&︶に酷似するものとして取り扱った。こうして、彼等はこのような相 続に関する事件について、英国土地法の規則をこれに準用した︵σo語拝8幕巽后自εことをあげなければ ︵−o︶ ならない﹂と説いている。 ︵11︶ ︵12︶ 信託の起原は、英国固有のものであるとする説の思考にω巴ヨき︵留巨鎚唇︶の観念を加え、究極において信託 ︵13︶ はこの両者の共同、混在に起因するものとするω巴Bき共同起原説がある。ω巴旨碧は、遺言執行者にあたるがゲ ︵14︶ ルマン法において古くから認められて、その起原は冨図ω呂8まで遡るとされている。 ︵15V ω巴導きまたは↓お昌讐αRとは、中世ゲルマン︵フランク・ランゴバルト︶民族法において、相続人の指定お よび養子の目的を達するための制度であって、土地および動産の所有者がそれ︵正確にはO①名Ro︵ω①一ωε︶を一 度、第三者の遺言執行者であるザルマンに引渡した後に、さらに、当該の土地および動産につき所有者の指定し宗教と信託法の基礎理論 た者に移転させることを意味する。 こうしたザルマンの制度は、多数の利用例があるとされ、宗教、慈善その他公益目的で財産を提供しようとす る者は、まずザルマンにこれを移転し、ザルマンは所有者に代って所有権移転の手続をしたとされる。 この手続には僧侶や寺院関係者が担当していた。このような場合のザルマンは、一般にU一8Φ霧讐B臣ω鼠薯− 8さ蝉畠緯9と呼ばれていた。ザルマンは、本来、不動産に関してのみ利用されていたが、∪一ω需萌簿eは動産 または債権に関してまでも用いられており、これはドイッ法における⇒窪轟且震に充当する者であった。学説 ︵16︶ 上、ザルマンは信託の関係において被相続人︵卑巨錺ωR︶より財産の移転を受ける者、すなわち、財産を引渡さ れてもその権利は法的には最初から信託の意味において設定されるものであるとする。このザルマンの支配権お よび物の上の権利は、財産の引渡によって発生するが、これと同時に、ザルマンは一方、被相続人または財産の ︵17︶ 引渡を受けるべき者に対して債務を負うことになる、とする。 これまで触れてきたユース︵霧Φ︶は、ε>89Φ器09ωという形式でAに土地の権利すなわち、コモン・ ロー上の不動産権︵一畠巴oω富邑を与えるが、その権利はBの利益のためにAによって保有される処分行為であ って、Aをユース付封譲受人︵80諏88議①︶、Bをユース受益者︵8警乱ρ器5①︶という。一四世紀頃には、 ︵18︶ 英国において広く一般に利用された慣行であった。しかし、受益者であるBの権利は、コモン・ローの認めると ころではなく、また、コモン・ローの令状体系︵胤自ヨω9霧畝9︶のなかには、受託者であるAの道徳的義務を 強制し得る適当な訴訟方式を見出すことができなかった。そこで、もし、受託者Aがユースに違反して受益者B 14
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︵19︶ の受益権が侵害されたとしても、受益者を救済する法的手段が存在しないことになる。 古き時代の信託について、キリスト教十字軍︵R島&①﹂。8山曽。︶との関係に触れなければならない。十字軍 出征の騎士たちは、その妻子兄弟姉妹および子孫のために︵8跨o霧①9︶土地を第三者に移転した場合があげ ︵2 0︶ られる。それぞれの土地を帰還するまで、自分に代って、妻や子供たちのために保有し、管理してくれるように、 信頼できる友人に託して遠征に参加した。一二世紀当時は、土地の占有について、その土地を侵害している者に 対しては上位の権利を主張する成人男子だけが、コモン・ロー上、侵害の訴えを提起することができ、このよう な配慮を怠って一〇年以上、郷里を離れていた出征の騎士は侵害者に対抗することができなかった。生還した後 に自分に代って土地を保有・管理してくれていた友人が、返還を拒んだ場合、コモン・ロi上はその友人が保有 する土地であるから、コモン・ロー裁判所による救済は期待できなかった。結果的には、出征していたその騎士 ︵21︶ は、正義と公正の見地から、友人に自分の権利を認めさせて、不正なきよう国王に請願するしかなかった。 一三世紀の初めには︵正確にはぎ浮Φ器8呂ρ轟辞霞︶、セント・フランシス教団の僧侶たち︵写き9零彗 R巽ω︶が英国に渡来したが、一般の僧侶︵o一①お矯︶や修道士︵唐9冨︶と異なり、﹁清貧の誓﹂を最も重要な徳 目とし強要されていた。そして、個人の資格においても、教団の名においても一切の財産を所有することを禁止 されていた。これに対し、多くの信者は教団僧侶の宿舎は必要であるとして多くの家屋を提供した。この場合、 寄贈者︵冨冨賦9自︶は、その土地・家屋を教団僧侶のために市︵爵①び92讐8eヨ§一蔓︶にε9①5①99 ︵22︶ 霧き一9呂津呂9跨①ヰ一貰ωとして譲渡した。この慣行は急激に普及し、市︵げ目2讐︶に譲渡した場合は問題宗教と信託法の基礎理論 はなかったが、地方の有力な騎士に譲渡し教団を受益者として管理を任せた場合、土地の収益を着服する騎士が ︵23V 現われて間題となった。教団の僧侶が諺oを享受し得るか否かについては、宗教上、相当間題であったが、法王 ︵24︶ は一二七九年布達︵ゴεをもって、拐Φは財産︵冥8R蔓︶ではない旨を宣言した。結果的には、フランシス教 団の僧侶を受益者として行われた初期のユースでは、受託者︵前述の地方の有力な騎士など︶の背信的行為に対 して教会が介入し、宗教的制裁をもって実質的に受益者を保護していたが、しだいに世俗人が受益者になるよう ︵25︶ なユースが一般化してからは、教会の保護も適しないようになってきた。 ︵26︶ 土地を宗教団体︵お凝δ拐ぎ拐Φ︶のような法人に、譲渡する傾向が盛んになるにつれ、死手地︵鼠&冨箆ぎ Bo耳ヨ巴⇒︶が増加したので、国王および領主は何らかの対策を講じなければならなくなった。死手地に対しては、 国土や領主は、封建制度に基づく負担を強制することはできなくなり、ユースによるこれらの負担の回避ないし 逸脱が一般化することは、王室財政上、収入の低下を招くことにもなる。そこで、土地譲渡の防止策として、ヘ ンリー三世︵一二〇七−一二七二︶およびエドワード一世︵一二三九ー一三〇七︶の治世になって、ついに教団 のような法人が、国王および領主の許可︵浮98︶なしに、土地を取得することを禁止し、もしもこれに違反す るときは、その譲渡は無効として直接、領主はその土地を没収することができるとした。これが、マグナ・カル ︵27︶ タ︵困轟轟○巽$︶および一二七九年の死手法︵ω899ω9日o昌ヨ巴づ︶である。 宗教法人︵お凝δ器8∈o鍔鉱○嵩︶など教団に対する不動産譲渡は、死手譲渡︵巴一①轟江9ぎ目o#目巴⇒︶と いわれているが、それは、ωまず、第一に、法人は死亡しないし、将来とも身分上の変化はないため、封建法上、 16
東洋法学
これらの事実に伴う領主のさまざまな収益が失われるので、その結果、不動産が何らの利益をも生まない﹁死せ る手﹂︵8&ぎ且︶に帰したと考えられたこと、㈲次にまた、死手譲渡の場合、その主たる相手方である宗教団 体が、法律上、﹁死亡した﹂と考えられる人々によって構成されたことのいずれからか、生じた名称といわれてい ︵28︶ る。 ヘンリー八世は、自己の財政的収入を増加するため、ユースによる脱法的手段を防ぐことを目的として、一五 ︵29︶ 三五年にユース法︵ωけ簿昇①90ω8︶を制定した。内容はユース禁止法ともいうべきものである。その法律条文 などは宗教と直接係るものではないので、ここでは省略するが、制定後、一〇〇年も経ないうちに、ユース法に 対する批判がまき起り、また、ユースの復活を望む民衆の声が強くなった。そして、ユース法自体は残存せしめ ながら、その適用を回避する方向に変わり、二重のユース︵霧①ε9諾o︶という擬制的技術が考え出され、大 法官がこれを保護するようになって、往年のユースが実質的によみがえった。これは、8︾89Φ器①亀ω8 9Φ諾Φ90という二重のユースが設定されると、Bのための第一のユースにはユース法が適用されるが、Cの ための第二のユースまでは適用されず、Cの受益権はユース法の影響を受けないため、ユース法制定前に8ゆ8 ︵30V 浮①=器90としてユースを設定したのと同じ効果が生じた。 一六三四年の留目3畠ダU巴ω8⇒事件において、Cのための第二のユースの効力を認め、Cの権利を衡平法 上救済するようになった。第二のユースすなわちCのためのユースは、その後、新たに信託︵け霊8の名称のも とに再発足し、さらに、二重のユースは文言上もAを除いて琶8きα8跨Φ霧の9ω営嘗拐什8周○という形宗教と信託法の基礎理論 ︵31︶ 式をとるように改められ、これがユース法制定前の8国8夢o諾Φ90と同一の効果を有するようになった。 一五世紀において、衡平法裁判所は拐①に干渉し、これに保護を与えた結果、ここに諾Φに対する衡平法裁判 所の管轄権の確定をみることとなった。この管轄権の由来については、従来から二つの見解が対立している。そ ︵3 2︶ の一つは、寺院裁判所よりの伝来であるとする︵寺院裁判所承継説︶もの、他は、ユースは衡平法裁判所創設説 である。 そこで、宗教裁判所について触れておきたい。これは、魯昌昌8仁詳とも呼ばれたもので、僧侶はノルマン・ コンケスト以前は昏R焦︵保安官︶とともに8目蔓8震二通常の地方裁判所︶の裁判に参与したが、ウイリア ム一世︵一〇まiε。 。刈︶は、僧侶ならびに宗教的事項を管轄するために世俗裁判所と独立の裁判所の創説を許可し た。これが英国寺院裁判所の始まりとされ、その初期には、○き目い鋤白︵ローマ教会法︶を適用し、僧侶の刑事 事件を専属管轄とした。しかし、後には一時その管轄権が広汎となり、道義上の保護強制について俗人の間にも 干渉し、とくに遺言、遺言管理、夫婦関係事件に関しては、一八五七年まで専属管轄を有していた。そうしたこ とから一六世紀頃より国王裁判所︵困轟、ωO雲この発達にしたがい、その権限はしだいに縮小し、その後は単 に僧侶の宗教的犯罪ならびに宗教的な監督に関する純粋な宗教的事件を司るにすぎなくなった。その主なものは、 二つの賓o証目芭8畦二大僧正裁判所︶と8諺一雪o曼8葭又僧正裁判所︶である。前者のうち、カンタベリi 大僧正の主宰するものが02旨9︾容箒ω︵︾8冨ωOoξけ︶、ヨーク大僧正の司るものがO霊昌90げき8曼 ︵33︶ ︵O富目①曼O雲琶である。このほか、費oま①碧目.ω8貫什︵副僧正裁判所︶がある。 18
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一五世紀においては、ユースの設定者が同時に受益者の資格をも兼ねて、ユースの目的である土地を占有する 場合、その占有者をとくに、受益者たるユース設定者︵8のε一ρ器5①ぼ冨霧8巴9︶といい、ユースが捺印契 約︵8奉轟導︶により設定された場合は、このような受益者は普通法裁判所に対し、捺印契約訴訟により救済を ︵3 4︶ 受け、ユースの効果を享受することができたが、その他の受益者︵8馨鼠ρ器岳Φ冒お目巴づαR︶、すなわち、契 約の当事者でない受益者は、通常の訴訟手段により、ユースの履行を請求することができず、普通法上の保護を 受けることができないことは英国のみならず、欧州大陸においても一般の裁判所が最後の受益者についてザルマ ︵35︶ ンに対抗する保護を与えなかったのと同様であった。このような情勢のもとにあって、教会は大体において、間 題の受益者となっていたから、その保護救済に力を貸した。すなわち、受遺者に対する最初の裁判所は宗教裁判 所であったとみられ、まず、宗教裁判所は自衛上これを干渉することとなり、自然にその管轄権が衡平法裁判所 ︵36V に移行したと考えられている。ユースの管轄権がなぜ寺院裁判所から衡平法裁判所に移行したかの点につき、 ユースがより完全なる発達をするためには、寺院裁判所はもはやその資格をもたなくなったと結論する説もある。 その理由として、まず、ヘンリ!四世の時代に、譲渡人︵遺言者︶の遺言を履行するために、財産が信託的に譲 渡され、しかも、その受託者がユースを履行するかのような形式によって不法に財産を移転した場合において、 これが救済を受けることができないという不満が起ったことをあげている。こうしたことは、当時、僧侶が宰相 府の要部を占めていた関係上、その保護を宰相府、すなわち、衡平法裁判所に求めたため、衡平法裁判所の干渉 を招くことになったとしている。そして、衡平法裁判所によって認められた8馨乱ρ器拐①の権利こそ信託の根宗教と信託法の基礎理論 ︵37︶ 源であるとしている。 メイトランド教授は、当時の普通法が信託関係を適切に処置するには不十分であり、ただ、宰相に対して許さ れた訴訟手続のみが最も適当であったことを指摘し、宗教裁判所︵宰相もほとんど常に僧侶であった︶が過去長 年にわたり、精神的制裁︵8E言巴8箒貫8︶、すなわち、臓悔︵b窪き8︶および破門︵①図8ヨB目凶8江9︶を もって、信託違反︵ぼ窪989け霊豊を処罰したことは極めてあり得ることであったとされている。そして、 ︵38V 宰相が信託を履行することを承認したのもまた事実だと思われるとされている。 これまでみてきたことは、信託法のごく一部にすぎないが、英国信託法の基本原理を推論していくと宗教とい うものが最初にあり、信託制度はその起原から政治的に永年さまざまな圧迫と受難に遭遇してきたが、温かい宗 教家の情義と民衆の英知により維持され発展してきたということができる。 20 パ ハ
21
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︵5︶ 水島廣雄﹁信託法史論﹂︵学陽書房・昭和六三年︶二三頁。 水島、前掲書、六八頁、海原文雄﹁英米信託法概論﹂︵有信堂⊥九九八年︶六頁、田中実﹁信託法講義﹂︵三井信 託・一九七三年︶二二頁、国o冒Φρ国巽百国紹房げ国ρ巳蔓”ω①一Φ9雰鐙惨ぎ>轟す︾琶R一〇きげ認巴国凶界<o一。 戸や刈09国o包ω矩o目9”=一ω8ユ8一冒qo身o戯o⇒けo夢Φ一蝉づαい餌ヨ唱一弩. 水島、前掲書、五七、六七頁、海原、前掲書、六頁。 水島、前掲書、二二頁、二三頁、浅野裕司﹁衡平法における普通法との融合と将来﹂東洋法学第二三巻二号二九 八○年、三一頁以下。 ○Φ一3井国oBΦ暮ωo︷国鑛一凶筈冨≦一。ω。 。●℃k。東洋法学
ハ パ パ パ ハ ハ11109876
) ) ) ) ) ) ︵12︶ パ ハ 1413 ) ) パ パ ハ パ 18 17 16 15 ) ) ) ) パ ハ パ212019
) ) ) 蜜巴自9昌9国ρ巳姶”一露①。も●o 寓巴菖卑づ9国ρ鼠蔓℃一旨9℃.①. 小平、前掲論文、六五頁。 小平敦﹁信託の原像を求めて︵その6︶﹂信託一六二号、六六頁。 水島、前掲書、二八頁。 oN● 水島、前掲書、四六頁−七九頁、海原、前掲書、六頁−二二頁、森泉章﹁イギリス信託法原理の研究﹂︵学陽書房・ 一九九二年︶二九頁⊥二六頁。新井誠﹁信託法﹂︵有斐閣・二〇〇二年︶二頁−五頁。大島俊之﹁信託の起源はイス ラム法?﹂信託一五九号、一二頁以下。 水島、前掲書、四七頁以下、海原、前掲書、六頁、新井誠、前掲書、三頁ー四頁、入江真太郎﹁全訂信託法原論﹂ ︵巌松堂書店・大同書院・一九三三年、六一頁f六五頁、ハインリッヒ・ミッタイス門ハインツ・リーベリッヒ・世 良晃志郎訳﹁ドイツ法制史概説﹂︵改訂版︶︵創文社・一九七一年︶一四二頁−一四四頁、田中実、前掲書、二二頁。 水島、前掲書、五六頁以下。 水島、前掲書、五七頁、海原、前掲書、六頁、=o冒①ρ国巽ぐ国鑛房げ国ρ鼠蔓︵い餌≦O轟辞R信”①<凶Φ≦しo <o一﹂■E﹂8肖欝︶。 霊ω3び鋤oダ↓おqげ9αRロ昌α↓おqげ鋤p凝Φω昌鋒けρψ曽。 水島、前掲書、五八頁。 Z餌魯oρ↓8qげ讐αRq&↓円雲げ磐α鴨ω毘ω魯四津①pψω● 水島、前掲書、四四頁以下、森泉、前掲書、二九頁以下、井上彰﹁イギリス封建制度の崩壊とユースの発展︵一︶︵二︶﹂ 法学新報八五巻七ー九合併号三八、一八一頁以下、新井、前掲書、六頁。 海原、前掲書、八頁。 水島、前掲書、九四頁、切亀○良きα冨包二きρ↓げ①頸ω8蔓9国轟房ゴ一9ヨ一〇冒●ぎ一・戸や器ピ ディヴィッド・ヘイトン・新井誠監訳﹁信託法の基本原理﹂︵勤草書房・一九九六年︶一二頁、新井、前掲書、七宗教と信託法の基礎理論 ︵22︶ ハ パ ハ パ 26 25 24 23 ) ) ) ) ︵27︶ パ ハ
2928
) ) ︵30︶ 頁。 水島、前掲書、九五頁−九六頁、勺o一δ畠きα冨巴二磐ρ↓冨国一ω8曙亀団鑛房げい蝉ヨお欝.<o一,Fす認一旧 竃蝕こき9国∈詳ざおま。す謡旧国α巧mこ甘昌厨︸︾o oび○辞田ω8曙9国轟房げい9妻一おお。PO9 海原、前掲 書、七頁。 ディヴィッド・ヘイトン・新井訳、前掲書、二一頁。 水島、前掲書、九五頁、国o匡ω名o昌プ>田ω8曙9国漏房げ一蝉ヨお臨’くo一﹂ダ署・呂①−占S 海原、前掲書、八頁。 水島、前掲書、一〇八頁、田碧ぎピ鋤名U8賦o屋曼℃一〇弩●P目爵も℃昆o良きα竃巴こ琶9↓ぎ匹警oq9 国⇒ひq一きαげ餌ヨぎ9<o一﹂.E。Nお9ω8こω芭①暮ぎρい鋤薯9&09曼導一濾・ 。●すo 。o 。9海原文雄・砂田卓士編 ﹁英米信託法辞典︵金融財政事情研究会・平成八年︶六一頁。 水島、前掲書、一〇八頁ー一〇九頁。海原・砂田、前掲書、二〇二頁。メイトランド﹁信託と法人﹂森泉章監訳︵日 本評論社・昭和六三年と四〇頁、森泉編、前掲書、四〇頁ー一八四頁、海原、前掲書、四九頁、国oF冨謎墨○震旦 ぎ9署’αOΦ酢ωΦ£勺○=Oo匿きq宮巴二餌pρω仁冥四8什o︵一︶●づ。o 。G 。刈“缶o匡ω妻o昌げ鋤⇒αく一〇屏Rρ↓ぎ一餌薫○︷ ω88ωω一〇三一〇 。Oo 。︶。P㊤①・ 水島、前掲書、一〇九頁。 水島、前掲書、二〇八頁ー二二八頁。海原、前掲書、九頁−一〇頁、=o一αωゑ○旨F目一ω8蔓9国轟房げび餌ヨ<o一。 一<●E。良09ω8引ω○巳毛Φ一一”↓箒肉88一〇︷浮①ω富旨①o賄Oω①ρωO富同轟三﹂。同Φ︿。&①旧ωoひqR戸該曽且− びo爵9げ餌妻9↓霊雪ω︵お刈G 。ン薯﹂。魯8ρ海原・砂田、前掲書、二〇一頁、砂田卓士・新井正男編﹁英米法原 理・補訂版﹂︵青林書院・一九九二年︶二八五頁、ユース禁止法は、一九二五年財産権法︵9名9ギ8R蔓>簿お謡︶ によって廃止された。 水島廣雄﹁dωΦ唇9拐Φについて﹂法学新報八一巻二号、一九七四年、水島廣雄﹁二重信託﹂︵学陽書房・昭和 五四年︶、海原、前掲書、一二頁−二二頁、水島、前掲書、二一二四頁ー二四六頁、森泉編、前掲書、五九頁以下、高 22東洋法学
パ パ ハ ハ ハ ハ パ ハ 38 37 36 35 34 33 32 31 ) ) ) ) ) ) ) ) 現代社会におけるイスラームと信託については、 な管理組織が活動するなかで見直しがなされている。 古くは、信託の起源論としてワクフ︵≦曽ζ︸妻餌ρ眺︶についての論争もある。 柳賢三﹁封建的不動産破壊過程におけるエクイティ法理の作用﹂法学協会雑誌四六巻四号六〇頁以下、海原・砂田編、 前掲書、二三六頁、高木文雄・小平敦編﹁信託論業﹂︵清文社・昭和六一年︶四六頁、浅野裕司﹁英国衡平法におけ る二重信託の素描﹂東洋法学二五巻二号・昭和五七年、通説よりも早い年代にコ一重信託﹂が行われていたと推測す る。 水島、前掲書、二四六頁以下、海原、前掲書、二二頁、ω接2↓冨d器唇g餌d器一昌国2詳旨田。 ρ勾oダωω。 水島、前掲書、一五〇頁、缶o一ヨoω︸図震蔓国鑛一一筈国ρ巳蔓矧Oo頴9a一畠巴勺9 。冨声一〇認・薯・旨−蜀 水島、前掲書、一五二頁−一五三頁。 水島、前掲書、一五一頁。 国o冒Φρ評二図国鑛一一魯南∈一ぐ”Oo一一①9&一畠巴℃巷Rω口。αN・署﹂㌣一ω。 水島、前掲書、一五二頁。 =o一きΦρ国曽マ国昌笹δげ国ρ且昌”Oo一一①9①αいΦ⑯巴℃鋤℃Rρ一〇竃’℃●一9 水島、前掲書、一五八頁、竃讐二きρ国e詳ざ5霧.℃﹄● なお、エイムズ教授は、衡平法裁判所独創説︵倫理説︶をとり、その論文↓箒○ユ讐づ9dω8の冒頭において、 ホームズ判事の主張に反論している。>営Φρ↓冨〇二ひq日亀d紹ρ冨09おω9い畠巴田ω8q”一。o 三 イスラームにおける信託類似制度 イスラーム法にあるワクフ︵寄進︶関係法を中心にさまざま イスラームの社会構成原理につい宗教と信託法の基礎理論 てのイスラーム法は、イスラームの神聖法、すなわち宗教法であるとされる。それは、ムスリム︵イスラーム教 徒︶の全生活の一切の局面においてムスリムの生活を規律するアッラーの命令の総体であってみれば、イスラー ︵−︶ ム法はまさしく義務の体系ということになるとされる。 ワクフの法的定義は、委託者が財産を慈善を目的として神に寄進し、その収益および用益権を公益の用または ︵2︶ 特定人のために供すべくこれを管理する受託者を指定する法律行為あるいは寄進財産そのものをいう。ワクフ は、イスラームのムスリムが神に対してなさなければならない五つの儀礼的行為︵イバーダート︶の一つである 喜捨︵ザカート︶の精神に基づく寄進行為である。ワクフの語源は、﹁停止すること﹂、﹁凍結すること﹂、﹁妨げる ︵3︶ こと﹂、﹁抑制すること﹂などを意味するというのが通説である。イスラーム法の用語としては、ある物を第三者 の所有物とならないように守り停止すること、すなわち、敬慶な心により慈善を目的として財産を神︵≧一魯︶に ︵4︶ 寄進して、その収益および用益権を公共の用または特定人の利益に供することを意味する。 イスラーム法がイスラームの神聖法とされることは、神が人間の一切の所有物を統括するとみなされ、ワクフ が設定されると神のもとに所有権の移転された物の元本は拘束され、それから生じる収益のみが神の創造せる受 ︵5V 益者ないし慈善目的のために使用されるともいえる。 ワクフは、二つの要素からなるとされる。 一つはワクフ物件であり、その所有権が凍結され、そこからの収益が慈善目的に充てられる物件である。それ は、通常、土地や建物など、収益を生むことができ、永続的な履行が期待できる不動産からなる。他の一つはワ 24
東洋法学
クフ施設であり、ワクフ物件からの収益がその建設・維持・運営のために充てられる。モスク︵イスラム礼拝所︶、 マドラサ︵高等教育機関︶、サビール︵共同給水泉︶、病院、墓地などの慈善的、公共的な施設である。通常、ワ ︵6︶ クフという場合、それは前者のワクフ物件を指していう。公共目的のための慈善ワクフも、家族の利益および霊 魂のための儀式履行を目的とする家族ワクフも、同一の規則が適用されるが、家族ワクフの場合には受益者が貧 ︵7︶ 困でなければならないとする。 ワクフは、設定目的の永続性という要件がみたされなければならず、ワクフの設定者の明確な意思表示を必要 とし、同時に、ワクフは撤回不能かつ譲渡禁止の法律行為と解されるのが一般的である。したがって、たとえば、 受益者が設定者の直系卑属の家族ワクフの場合に、もし、相続人不存在になれば共同体たる貧困者ないし他の永 ︵8︶ 続的目的自体が相次すなわち、従属的受益者として指定されなければならない。ワクフの設定には主として不動 産が対象とされる。ワクフ設定者にとって、この制度はイスラームとしての宗教心を満足させるばかりでなく、 ︵9︶ 自己の財産の分割を防ぎ、その継続的管理を自身の一族に委ねることを可能にした。これは、個人が子孫のため ︵−o︶ に信託する家族ワクフ︵アフリーぎ=またはハーッス浮習。︶である。所有権については、各法学派によって異 なった歴史があるが、イスラーム法においては、厳密な概念としての所有権は神のみに認められる。ワクフの場 ︵11︶ 合にも、対象物の所有権は神に移転するため、設定者はじめ自然人の所有権は最終的には認められない。これは、 イスラーム以外には奇異に映ずるかも知れないが、かつての英国におけるキリスト教徒の土地に対する観念も、 最終的には神のもの、国のものというものがあり、わが国のように厳しい個人土地所有権で争う姿勢はないとい宗教と信託法の基礎理論 える。 ワクフとして設定できる物件は、所有権が設定者に帰属するものであり、イスラーム法の財産権における基本 規範としての所有権である。ムスリム以外の者が所有権を有している物件をワクフ設定することはできない。ワ クフの設定と運営に関するすべては、イスラーム法の管轄下におかれる。かつては、永代貸借という法的擬制に より、ワクフ物件が事実上の処分を受けることもあったが、原則的には、ワクフ物件は、所有権が凍結されるこ とにより、設定後には分割、譲渡、売却など一切の処分を禁止されていた。これは、設定後のワクフ物件の所有 権については、それは神に復帰︵お言ヨ︶するか、ウンマ︵イスラム共同体︶に帰属するか、法学派によって理論 はわかれていたが設定後は、設定者であれ、国家であれ、ワクフ物件を自由に処分することはできなかった。イ スラーム法の管轄下におかれていたワクフは、財産に対する異民族支配国家の恣意的な介入を防ぐ手段にもなっ ︵1 2︶ た。 イスラーム法における法史学的には、土地の寄進者をワーキフというが、そこには信託的な要素も含まれ、土 地そのものを一般的にワクフといった。ワーキフの所有権については、法学派により議論が古くはわかれていた。 アブー二・ハニーファとマーリク派は、所有権は保有するが、その行使は許されないとし、アブー・ユースフ以 後のハナフィー派とシャフィイー派は、所有権は神に帰したとする。ワクフにはナージルまたはムタワッリーと いう有給の管理者をおかねばならず、初代のナージルは普通ワーキフが任命し、しかもワーキフその人であるこ とが多い。しかし、マーリク派はこれを禁止していた。それ以外の場合はカーディーがナージルを任命し監督し 26
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ていた。イスラームの利益に沿わないワクフは無効とされていた。オスマン帝国は、一八四〇年にワクフに対す る管理強化を図ったが、その後、各国でワクフを制限する方向に進み、エジプトでは一九五二年に、家族ワクフ ︵13V を廃止し、一九五三年、慈善ワクフを国家の管理下におき、レバノンやシリアでもワクフの新設を禁止していた。 現代社会になりイスラーム社会でのワクフは普及した。このワクフは、慈善ワクフであり、イスラーム社会に とっては、ワクフからの収益が公共施設の建設・維持・運営という慈善目的に充てられることによって、モスク、 マドラサ、サビール、病院、墓地などの社会資本が充実するという恩恵を受けた。イスラーム社会の都市部のほ ︵14︶ とんどの公共施設は、ワクフによって維持されているといわれている。 慈善ワクフは、こうした慈善目的に充てるという対象および効果からみて、英米諸国にみる﹁公益信託﹂に共 通するところが多い。 ワクフには、制度上、管理人がおかれるが、これは設定者ないし裁判所により指定される。そのワクフ財産の ︵15︶ 管理の形式および任務は、受益者に対する収益の配分方法などにつき、ワクフの設定行為によって定められる。 管理人の権利と義務に関しては、統一的見解はないとされているが、一般的には信認的所持に基づくワクフ財産 の事実的支配すなわち、占有権︵巻9冒ω器隆9︶を有するのみで、所有権︵巨一Fo≦器お圧℃︶を有しないと解 ︹16︶ されている。 二〇〇二年一〇月、ワクフの管理権と関連する大きな間題が発生した。エルサレム旧市街にあるイスラム、ユ ダヤ両聖地﹁神殿の丘﹂︵ハラム・アッシャリフ︶の石組みの﹁南の壁﹂が外側に向って大きくゆがみ、崩落の懸宗教と信託法の基礎理論 念が出ている。一一月上旬に始まるラマダン︵断食月︶には二〇万人規模のムスリムが聖地を訪れる見込みであ るが、ユダヤとの宗教対立で改修が困難とされている。重要モスクのある﹁神殿の丘﹂の上の聖域は、各宗教・ 宗派間の争いごとを避けるためのエルサレム特有の現状維持の原則に従って、イスラエルが一九六七年の第三次 中東戦争で聖域のある東エルサレムを占領・強制併合した後も、イスラーム側のワクフの管理組織が日常的な管 理を行っている。一九九九年、ワクフは﹁アルアクサ・モスク﹂地下部分の改修工事を行った。同モスク地下に は一一世紀末にエルサレムを占領した十字軍の馬車﹁ソロモンの厩合﹂があり、十字軍時代後、イスラムの地下 礼拝所となった。ワクフ側は、ここを改修して、一万人規模の信徒を収容できる施設にしたいという。ワクフ事 務局は、モスクは全世界のムスリムのもので、ムスリムだけが壁の修繕の権利を有するとしている。ここのワク フは慈善ワクフであり、公益信託と同様なものに基づいて、管理・運営がなされているといえる。モスクなどの 公共的な目的をもつワクフ施設は、ウンマを構成するムスリムが宗教的精神の発露によってなす喜捨︵ザカート︶ ︵17︶ とワクフ物件からの収益をもって、建設・維持・運営に充てている。 ︵18︶ このワクフという制度が、信託の起源かどうかについては研究不足であり結論は出せないが信託類似の制度と ︵19︶ みることはできる。英米でいう信託とは同一でないにしても、イスラームの信託概念とみることの方がよいよう に思われる。 28 ︵1︶ 眞田芳憲﹁イスラーム法源論とイスラーム法学﹂・比較法学の課題と展望︵大木雅夫先生古稀記念︶所収・︵信山社・
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︵2︶ ︵3︶ パ ハハパ
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) ) ) ) ︵8︶ ハ パ ハ ハ パ ハ ハ 16 15 14 13 12 11 10 9) ) ) ) ) ) ) い乞b.︾注R8P巨曽目oピ四毛冒︾ま8こ.ω畠8算﹃霞○身&g梓oHω富昌oピ四ゑ︵這謡︶海原、前掲論文、 遠峰、前掲書、谷、前掲書、参照。 加藤、前掲書、一八六頁−一八七頁。 嶋田裏平、前掲書、四〇九頁。 加藤、前掲書、一八五頁ー一八七頁。 遠峰・前掲書、9ωoξ拝冒窪03亀o昌8巨鋤ヨ8一鋤≦︵這胡y 鳴田裏平﹁ワクフ︵譲㊤含と︵イスラム事典所収・平凡社・一九九八年︶四〇八頁。 ) 加藤、前掲書、一八六頁、参照。 o耳﹂算8身o鳳98房一鋤巨o一曽ゑ︵ご3γ海原、前掲論文、四〇頁−四一頁。 いω。富亘↓箒9色湯o闘鼠旨餌ヨB&き冒器胃&①gρいo且opO圏oこ¢旨くΦ邑蔓即8ω︵這㎝。︶こ・ω90− 九七六︶、谷、前掲書、参照。 海原、前掲論文、四頁、一誓富算ぎ茸a8江8けoHωξ温oびゆ類︵お誤︶●遠峰四郎﹁イスラム法﹂︵慶応通信・一 加藤、前掲書、一八三頁ー一八四頁。 海原、前掲論文、四頁、遠峰、前掲論文、谷、前掲書、参照。 遠峰、前掲論文、谷、前掲書、海原、前掲論文、四頁。 一二一号・二〇〇二年、四〇頁。 加藤博﹁文明としてのイスラム﹂︵東京大学出版会・二〇〇一年︶一八三頁以下、海原文雄﹁ワクフと信託﹂信託 七頁。 遠峰四郎﹁ワクフについて﹂法学研究三三巻八号三六頁、海原文雄﹁英米信託法概論﹂︵有信堂二九九八年︶六頁− 谷義雄﹁イスラムにおけるワクフ︵信託および類似制度の研究︶﹂︵トラスト60研究叢書、一九九三年︶一三五頁、 二〇〇二年︶四四三頁以下。
宗教と信託法の基礎理論 パ パ 1817 ) ) ︵珀︶ 加藤、前掲書、一九八頁−一九九頁。 大島俊之﹁信託の起源はイスラム法?﹂信託一五九号一二頁以下、海原、前掲書、六頁以下、海原、前掲論文・四一 頁﹁ワクフは果して信託の起源と称し得るであろうか。確かに、慈善的ワクフは対象および効果からみて英米の公益 信託に共通するところが多い。また、家族ワクフも受益権が直系卑属に限定される点では、その目的のみからみれば 信託により設定されたイギリスの限嗣的権利︵窪琶一8巨R8け︶と歴史的に軌を同じくするといえるかもしれない ︵↓紡鐸畠器芦O自q8頃鐸o憂9浮ΦOo目ヨ9い鋤薯︶。⋮⋮しかし、度々述べたように、イスラム法は神法であ ってワクフの所有権も究極的には神に帰属する。したがって、ワクフの管理人は信託の受託者とは根本的に異なって ワクフ財産の所有権は保有せず、設定行為を履行するための単なる所持人に過ぎない。⋮⋮結論として、イスラム法 が神の啓示法としてのいわば自然法である以上、ワクフにおいても良心の観念は随所にみられるとしても、当事者間 に信認関係︵暁こ8す曼お一呂9︶という信託に必須の法関係は存しない。したがって、ワクフは信託の類似制度と はいえようが、信託の起源と称するのは早計のように思われる。﹂としている。 本章を書くにあたり、次の文献を参照した。 現代信託法研究会著・海原文雄・砂田卓士編﹁英米信託法辞典﹂︵トラスト60研究叢書・金融財政事情研究会・平 成八年︶、眞田芳憲﹁イスラーム法の精神 改訂増補版﹂︵中大出版・二〇〇〇年︶、ハイム・ガーバー・黒田寿郎訳・ 解説﹁イスラームの国家・社会・法−法の歴史人類学﹂一九九六年。眞田﹁イスラーム法における抵抗権の思想1 ー西洋法との比較法的考察﹂︵中央大学百周年記念論文集︵法学部︶昭和六〇年︶、黒田寿郎編著﹁イスラーム経済1 ー理論と射程﹂︵三修社・一九八八年︶、眞田芳憲・松村明編著﹁イスラーム身分関係法﹂︵中大出版・平成一二年︶、 黒田寿郎﹁イスラーム世界の社会編成原理﹂、黒田編﹁共同体論の地平−地球研究の視座から﹂一九九〇年、眞田 芳憲﹁イスラーム法と国家とムスリムの責任﹂一九九七年、冒冒寒諄良貫い①鴇=畠凶oき儀国ρ鼠蔓嘗巨鋤ヨ8 一餌ヨ冒﹂ω一鋤ヨ8■曽碕鋤且い畠巴↓ぎo曙︵a。び矯旨き国α鳴︶一〇〇〇唱い鋤矩お昌8国oω①戸国ρ9昌きαU一ωRΦ− 江oづ冒寓oαΦヨHωご昌oい①ひq巴琢曾Φβぎ﹂ω一m旨oい曽類琶αい紹巴↓げ8曙︵a。菖︸磐国凝①︶一〇8. 30
おわりに
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信託法の源泉を宗教に求めて探究を続けてみたが、その奥深さと自分の浅学をあらためて反省している。 信託法の素地は、解明がまたれている古代エジプトのピラミッド建設以前にも存在していたと思われるが、わ が国で﹁空海﹂が学校として建設した綜芸種智院にまつわる財産間題は最古の信託とみることができる。仏教の 世界では、寺院を受益者とする信託は数多い。社寺関係の信託は調査を進めれば相当数にのぼると推測される。 また、仏教の精神・観念を内在している公益信託は、﹁秋田感恩講﹂の創立経緯や今日に至るその沿革をみると立 派という言葉以外のなにものでもない。この点は、拙稿﹁法と宗教について﹂︵比較法・三七号・一九九九年︶一 頁∼二一頁で論述したので、本稿では省略した。 ﹁米百俵﹂で名高い物語も信託的であり、その背景に仏教思想がある。米倉明教授も﹁信託法のわが国におけ る素地ω﹂︵信託一六一号︶一一六頁で指摘されているように、三根山藩の士族から越後長岡藩の士族にあて見舞 いとして贈与された米百俵を、藩士に分けず、飢えに耐え、この米百俵を売った金銭を資金に、藩校である﹁国 漢学校﹂を創設した。人材の養成に士族ばかりでなく庶民の子弟の入学も認めた。明治三年の越後長岡藩の﹁病 翁﹂小林虎三郎の﹁米百俵﹂として著名な事例である。この小林虎三郎の思想は、後の育英財団長岡社︵明治八 年創設︶の源流をなすものといわれている。 英国における公益信託は、慈善信託︵O冨旨筈一ΦO器︶としての起源は古く明確ではないが、その初期の歴史宗教と信託法の基礎理論 が中世英国の宗教法人および公益的法人︵8∈o轟江自色8ヨ8旨餌曙︶の発生と密接な関連を有した事実は疑い ないとする。これは初期における公益的な贈与は主として修道院︵B9器8q︶の維持に捧げられ、このような修 道院の富の増大は、土地保有者が領主に支払うべき封建的付随義務︵け&巴営98暮ω︶の回避を招き、それによ ってとくに国王の収入の喪失を来すこととなり、その結果、死手法が数次にわたって制定されたことは触れた通 りである。海原教授が指摘されておられるように︵﹁英米信託法概論﹂︵有信堂︶四八頁以下︶、死手︵ヨoほB巴o︶ なる語は、8&ざ巳の意味のノルマン・フレンチであり、ラテン語の死財ないし教会財産︵ヨ壁⊆ω旨o辞鋸︶ の写しともいわれる。公益ユースの初期の段階では、主として死者︵遺言者︶の霊魂に対するミサの形で設定さ れるのが通例であり、したがって、この宗教的なユースが侵害された場合の救済は、当然に神への崇敬と慈悲に ︵簿跨①お<R窪890&餌巳薯名亀90匿葺く︶訴えることを意味し、当時、主として僧侶であり、しかも 国王の良心の保管者たることをもって自他ともに認めていた大法官が、これに介入するようになった。公益ユー スに関する大法官に対しての請願に際しては、﹁神に対しかつ神聖なる公益ユースの方法において︵℃霞∪凶窪卑 窪8葭8の器一旨昌巽津o︶、もっとも慈悲深き大法官が救済を与えむことを﹂という当時の大法官に対する請願 者の結びの形式がとられるのが通例であった︵ω①一α窪ω09①9ω巴①90器①ωぎ○げ目8蔓︵一。 。ま︶。薯.命−お︶。 したがって、神と教会が信託の始まりから、さまざまな形式で係わりをもっていたことになる。信託の規定のな かで、公益目的とは何か、について﹁宗教の促進﹂がほとんどといってよいほど、その内容の一つにあげられて いる。本稿を書くにあたり、海原文雄先生に、文献上も御教示されることが多く、心から感謝したい。 32