者 は 二 つ の 論 考 を 発 表 し て き た。 「 大 原 幽 学 没 後 門 人 と 明 」 〔『 国 立 歴 史 民 俗 博 物 館 研 究 報 告 』 第 一 二 五 集、 二 〇 〇 六 年 〕 、 の 教 え を 学 ん だ 旧 幕 臣 列 伝 」 〔『 ひ か た の 歴 史 と 民 俗 』 第 八 号、 〕 で あ る。 使 用 し た 史 料 の う ち 主 要 な も の は、 旧 幕 臣 門 人 グ 、新 た に こ の テ ー マ に 関 連 す る 貴 重 な 文 献 の 存 在 が 確 認 さ れ た 。 す る 『 佐 藤 家 の 人 びと 』 が そ れ であ る 。 こ れは 旧 幕 臣 ・ 性 学 生 まれた人 物 の 回 想 録 で あ り 、 史 料 と し て はあ く ま で 二 次 は ある が 、 当 事 者 に し か わ か らな い 詳 細 か つ 重 要 な 内 容 を 含 先 述 の 二 つ の 拙 稿 を 大 い に 補 っ て く れ る 証 言 と な っ て い る 。 資料原文を掲載する前に、簡単な解説を付しておきたい。 佐藤雪洞著『佐藤家の人びと』は、二〇字・二〇行の四〇〇字詰原稿 用紙一一四枚にペン書きされた原稿を電子複写し、二つ折りにしてA 5 判サイズで袋綴にし、活版印刷した表紙・奥付のほか、扉・口絵・付図 などを付け加え製本した私家版である。執筆は昭和四三年(一九六八) 一月一七日から八月一〇日にかけてであり、その年の秋、限定一〇〇部 が作成され、親族間に配布された。副題に「井上・北角につながる覚え 書」と付されているように、佐藤・井上・北角の三家がその親族の範囲 であったと思われる。 著者の佐藤雪洞(一八九三~一九八六)は、本名を源作といい、長野 県で教師・日本画家・俳人として足跡を残した人である。雪洞の経歴に つ い て は、 『 伊 那 路 』 第 四 二 七 号・ 特 集 佐 藤 雪 洞 先 生 追 想 〔 一 九 九 二 年、 上 伊 那 郷 土 研 究 会 〕 が 詳 し い。 そ の 父 佐 藤 巳 作 は 性 学 門 人 で あ り、 佐 藤 家は一家そろって大原幽学の教えを奉じた家であった。佐藤家のみなら ず、同家の姻戚や遠縁にあたる北角・井上・入江・黒部・渡辺・宮田・ 伊藤・岡田といった旧幕臣諸家は軒並み性学の道友(門人)になってい た。 『 佐 藤 家 の 人 び と 』 に も 各 家 の 系 図 が 掲 載 さ れ て い る が、 本 文 で 述
『佐藤家の人びと』の翻刻・紹介
べられている関係を総合して表現すると別掲の系図のようになる。 二つの拙稿にも、性学を受容した旧幕臣の姻戚関係図を作成し、掲載 しておいたが、本図によってさらに補強されたことになる。佐藤家を中 心とした『佐藤家の人びと』と伊藤家を中心とした拙稿とが連結するこ とで、つなげられずにいた諸家の系図がつながり、門人間の姻戚関係の 深さと広さがより一層明らかになったのである。 具 体 的 に は 以 下 の ご と く で あ る。 拙 稿 で の 主 人 公 で あ っ た 伊 藤 家 の 人々、とりわけ東京における性学教会の事実上の最有力支持者ともいえ る伊藤悦子(ゑつ)は、幕臣北角家に生まれた女性であったが、その実 弟が佐藤為信(銓吉)であった。為信自身は神文を提出せず、正式な性 学門人とはなっていないが、シンパとしてその活動を援助した。また、 為信の息子・娘たちはそろって入門した。為信の長男が巳作であった。 巳 作 の 妻 た み( 民 )、 す な わ ち『 佐 藤 家 の 人 び と 』 の 著 者 佐 藤 雪 洞 の 母は、幕府陸軍の工兵頭をつとめた井上元七郎(義通)の娘であった。 元七郎は維新後早く若くして亡くなったが、その父井上如水(義斐・備 後 守 ) や 未 亡 人・ 遺 児 た ち は 性 学 に 接 近 し、 ま た 入 門 し た。 井 上 元 七 郎 の 妹 の ぶ の 嫁 ぎ 先 で あ る 旧 幕 臣 岡 田 家 に も 性 学 が 広まった。 拙 稿 で は、 横 浜 語 学 所 に 学 び 沼 津 兵 学 校・ 静 岡 学 問 所 に 奉 職、 そ し て フ ラ ン ス へ の 留 学 も 果 た し た 新 時 代 の エ リ ー ト 青 年 で あ っ た 伊 藤 隼 が 病 気 に よ り 挫 折 し、 性 学 の 世 界 に 入 っ て い く 過 程 を、 強 す ぎ る 母 の 下 で 苦 悩 す る 息 子 の 姿 と し て 垣 間 見ることができたが、 『佐藤家の人びと』 か ら は 伊 藤 家 の 複 雑 な 事 情 が よ り 明 確 に なった。悦子は隼の実母ではなく継母であった。そして少年時代の佐藤 雪洞がひそかに「西太后」と渾名を付けたごとく、やはり伊藤悦子は強 烈な個性を持った女性だった。 佐藤家と伊藤家の間では、二重の姻戚関係が形成された。悦子と為信 が姉弟の間柄だったほか、為信の三男(巳作の弟、雪洞の叔父)である 平三は、 伊藤隼の娘幹 (もと) の婿となり一時伊藤家を継いだのである。 平三と幹の間には娘が生まれたが、二人は後に離婚した。幹が亡くなっ た後、佐藤家と伊藤家との交際は絶えたという。そして、佐藤家側には 雪洞の記憶が、伊藤家側には文書資料が残った。その後の長い年月を経 て、伊藤家文書が伝える諸事実と佐藤家の回想・伝聞が伝える諸事実と は、本稿の中で再度出会い、融合することになった。 大 原 幽 学 記 念 館 所 蔵 の 大 原 幽 学 関 係 歴 史 資 料 に 含 ま れ る 伊 藤 家 文 書 は、 書簡や日記などから成り、 きわめて客観的な史料である。その半面、 性学門人たちの信仰の内面や日常生活の実態をうかがい知ることは難し か っ た。 と こ ろ が、 『 佐 藤 家 の 人 び と 』 の 記 述 に は、 門 人 た ち の 心 の 内 写真1 『佐藤家の人びと』
教 の 信 者 特 有 の 熾 烈 な も の で あ っ た」とする。 自 家 の 信 仰 の 背 景 と し て、 「 維 新 に 直 面 し た 時 の 江 戸 の 武 士 達 は、 ど の 様 に し て そ の 俄 に 失 は れ た 安 定 感 を 取 り 戻 さ ん と し た か 」、 「 三 百 年 よ り 所 と し て い た 幕 府 の 倒 れ た あ と の 武 士 階 級 が、 一 私 人 と し て、 其 の 心 の 生 活 の よ り 所 と し て 中 に は 藁 を も 掴 む 思 ひ で 此 の 教 会 に 入 」 っ た、 「 皆 一 度 は 出 来 な い 迄 も 理 想 主 義 の 性 学 へ 入って、 単純に救はれようと、 ユー ト ピ ア を 夢 見 た も の で あ っ た の か も 知 れ な い 」、 と い っ た 視 点 を 打 ち 出 し て い る。 こ の よ う な 理 解 の し方には十分首肯できる。 「 俄 か に 頭 は ザ ン ギ リ に な り、 昨 日 迄 の 下 々 の 人 間 が 無 遠 慮 に 物 を 言 う よ う に な り、 足 軽 上 り の 官 員 が 馬 車 に 乗 っ て 横 行 す る 不 愉 快 か ら、 す べ て を 忘 れ よ う と す る も の の 如 く で あ っ た 」、 「 儒 教 的 な、 或 は国粋的なと云うか、反欧化主義とも言うべき消費中心の生活をして居 た」 、「獣肉を甚しく忌み嫌った事、後には砂糖の使用を禁じた事、服装 の上では昔のまゝに丁髷を結っていた事、衣服に極端な制限をして、全 部木綿だっきにし、女子の頭の如きも老若一様におばこという或時期の 江戸市民にとっては葬式の時の髪形であった事」 、「感情の上では天皇の や日常について語り伝えてくれる箇所が少なくない。当事者にしかでき ない貴重な証言となっているのである。たとえば以下のような記述に注 目してみたい。 父母ともに熱心な信徒の家庭に育ち、自身も小学校に入るまでは丁髷 を結っていた雪洞であるが、その性学に対する視線はあくまで客観的で ある。三代目教主石毛源五郎に対する伊藤悦子の熱心な傾倒を「新興宗 写真2 元治元年(1864)に撮影された井上如水(義斐)の写真 『アサヒグラフ 臨時増刊 写真百年祭記念号』(1925年刊) に掲載 写真3・4 井上元七郎(義道)のガラス板写真とその箱蓋 井上敏子氏所蔵 元治元年(1864)撮影
名による新政府をも軽蔑して居た」といった記述は、性学門人集団が明 らかに文明開化に反対する姿勢を意識的に貫いていたことを証明してい る。 雪洞が性学門人の意識と行動を客観視できた理由は、この回想録の執 筆が明治維新から一〇〇年を経過した時点であり、明治も歴史の対象と なるようなはるか遠い時代となっていたからである。なおかつ佐藤家自 体が明治後期にはすでに性学から離れていたといういきさつもある。雪 洞が小学校に入学した後、父巳作も髷を切ったとある。本文中には、時 代 の 趨 勢 と と も に「 反 動 的 陶 酔 か ら 醒 め る 人 達 が 出 来 て 来 た 」、 若 者 の 間には「先づ明日の自分を如何にすべきかという事が何よりも切実な問 題となり、同時に禁欲的な日常があきたらなくなりはじめた」と、脱退 者増加の理由が述べられている。また、三代目教主石毛源五郎の時代に は 内 紛 が 顕 在 化 し、 「 親 の 代 に は 感 動 の あ ま り 無 条 件 で 教 会 へ 差 出 し た 土 地 や 財 産 に 対 し て 未 練 が 生 じ 」、 子 の 代 に 訴 訟 が 頻 発、 そ れ に 対 抗 す るために取られた原理主義的な動きは、 「幽学の理想にははるかに遠い、 む し ろ 夫 れ に は 無 関 係 な も の 」 と な り、 「 一 種 の 末 期 的 現 象 」 が 生 ま れ ていたとする。 早 く 脱 退 し た 者 ほ ど 経 済 的 苦 境 か ら は 逃 れ や す か っ た か も し れ な い が、 離 教 し た 者 も 決 し て 順 調 に 社 会 復 帰 で き た わ け で は な く、 「 父 の 五十前後は苦悶の連続であったと思はれた」と、父巳作の苦しみに思い をめぐらしている。 とはいえ、雪洞の筆致からは性学に対する恨みや悪意はあまり読み取 れ ず、 む し ろ 懐 旧 や 哀 惜 の 気 持 ち が 感 じ ら れ る。 「 客 観 的 な 悲 劇 の 人 々 を、たゞ明治誕生の大浪に流された藻屑と見るだけで片付けてしまう事 の気のどくさと、明治がよき時代であるならば、其のよさとは何であっ たかを噛みしめて、其の由来する所の正義性とでも言うべきものの残滓 を反芻する気持も手伝って、此の一団の事共が書いて見たかった」とい う箇所がそのことをよく示している。 攘夷思想を捨てきれずテロにはしり抹殺された志士たち、武士の特権 に こ だ わ り 敗 れ 去 っ た 西 南 の 反 乱 士 族 た ち、 「 蒙 昧 」 と 謗 ら れ な が ら も 旧慣を固守し開化を拒み続けた民衆など、近代化に抵抗した者の諸相は さまざまである。 皮肉なことに、 旧政権の担い手であった旧幕臣の場合、 明治新政府の官吏となり近代化を推進する役割を果たした者が少なくな かった。彼らは仇敵である新政府に取り込まれたという側面もあるが、 自ら新政権に食い込んで旧幕時代に中絶した政策を実行したという側面 もあり、その点では近代化路線は幕府瓦解をはさんで継続していた。そ れに対し、東京のど真ん中で反文明的生活を続けた性学門人旧幕臣集団 の存在は、ある意味ではストレートに明治政府に歯向かった、旧政権の 生き残りにふさわしい姿を示していた。 ただし、なぜその拠り所が大原幽学の思想でなければならなかったの か。また彼らのうち少なからぬ者が幕府の中下級の実務官僚、洋学習得 者であったという点はなぜか。最高の保守主義者は、上層・高禄の旗本 や、儒学・国学を学んだ者だったのではないかと考えたいところである が、むしろ性学受容者はそうではなかった。旧幕臣と性学の思想が結び 付いた理由を完全に説き明かすためには、まだまだ検討が必要である。 本稿がそのための一材料となれたのであれば幸いである。 末 筆 な が ら、 『 佐 藤 家 の 人 び と 』 の 翻 刻・ 紹 介 を お 許 し 下 さ っ た 佐 藤 紀代様、佐藤至朗様、佐藤正様、資料の閲覧、情報の提供にお力添えを いただいた井上稔様、北角晴男様、井上敏子様、佐藤澄江様、要伝寺、 駒ヶ根市立図書館の皆様に心より御礼申し上げる次第である。とりわけ 井上稔様には、二〇年前、性学の家とは知らずに、単に沼津移住旧幕臣 のご子孫として連絡を取らせていただいたことがあった。今回再びお世 話になる機会に恵まれたが、史料と史実が結び付けた機縁であり、とて も感慨深かった。
翻刻にあたっては、以下の方法を採った。 1. 手書きで記された原文をそのまま活字化したが、旧字を新字に改 めた部分もある。 2.改行や句読点は原文の通りとした。 3. 本文の理解を深めるとともに、誤りを正す意味でも、原文にはな か っ た 註 を 新 た に 付 し、 ( ) 内 の 番 号 で 表 示 し、 末 尾 に ま と め て記載した。 (表紙) 佐藤家の人びと 佐藤雪洞 (扉) 雪洞筆録 佐藤家の人びと 井上・北角につながる覚え書 附 三家の系図・筆蹟・明治初期の地図
佐藤家の人びと。 ─井上北角につながる覚書─ 佐藤雪洞 佐藤兄弟と云っても、素より 信 しのぶ 夫 の 荘 しょうじ 司 元 もとはる 治 の子の、継信や忠信のこ とではない。自分と弟達とのはなしである。 昭和四十年の十月、私は長男夫妻に招かれて、井上源之助北角源三の 二人の弟と共に、名古屋御園座の観劇に出かけた。そしてその次の日に は此の年開村した犬山市の明治村を見物に行ったのである。 すでに七十二才になった自分と、古稀を迎へた井上と、これも六十七 才になる北角にとって、明治村はなつかしいものであった。 明治になってもなほ久しい間幕末の空気を残して生きて来た我が家、 そしてその明治が終ると共に東京を離れた自分にとって、此の村の空気 は故山に還る思いであった。 時たま
く
我々兄弟の生れた家、そして又弟二人が名跡を継いだ家に ついて話し合って見ると、一応年号が大正と改まると共に東京生活を打 ち切った自分の記憶が、一番明瞭であるらしいのである。これは引続い て東京に居住して居た二人にとっては、東京の目まぐるしい変貌が、古 いものを記憶するいとまを与へなかったからであろう。 二人とも、夫れく
孫のある年になった弟達は、信州に移った自分の 脳裏に、今は標本化されて固定した、古き我が家につらなる思い出を、 今の内に書きとゞめて置くように勧告したものである。 今日は四十一年の四月十七日の(昔なら父が年々上野の東照宮へ参拝 した日で其の年月の長さは、御神酒を頂いた後頂戴して来た、葵の紋の つ い た か わ ら け の 数 で も 想 像 さ れ た。 ) 拂 暁 で あ る が、 昨 日 曽 て 自 分 が 何代目かの会長であった、伊那美術協会の総会に出席して、芸術の気の 失せたその変容と、官僚の如くに事務的に煩雑に、且乾燥無味になり、 個人的には年令差によって、孫のドライ振りを見る祖父の如き味気なさ を痛感した後の事なので、近く手術はするが結果はどうなるかはっきりとせぬ白内障の眼が、まだかすみ乍らも見える内に、弟達の勧めに従っ て、思い浮ぶまゝを書き付ケて置こうと思い付いたのである。 今 私 は 寝 床 の 中 に 腹 匍 い に な っ て 、此 の ペ ン を 走 ら せ て い る の で あ る 。 曽て一度書いておいたが、いつか紛失してしまって、今となっては到 底見当りそうもない家系のメモもあきらめて、そのような紛失も亦此の 記録の一節と考へるようなゆき方で、 これから思ひ出す侭に、 縦横に向っ て記憶の糸を辿ろうと思うのである。 そしてその筋道は、我が家の家系の畧記とも云うべき過去帳があるの で夫れを参考に自分達兄弟を振り出しにして書き記すことにするつもり だ。尚書いたものとしては此の外に家督相続の時に幕府へ差出した系譜 の下書があるから、夫れらも参考にする。 長男 雪洞(前名源作) 巳作 二男 源之助 母の生家井上氏をつぐ たみ 三男 源三 祖父の生家 北 キタズミ 角 氏をつぐ 四男 登 釈宗活師命名。 他の三人の名は石毛規方の命名。 此の佐藤兄弟の父巳 作 (1 ( は幼名巳之助。銓吉為 信 (2 ( の長男で、母は入江氏 であったが、佐藤の家がその前二代子がなくて養子が続いたので、事実 上巳作は此の家ではじめて生れた男子である。母のた み (3 ( は井上元七郎の 長女で、後に石毛源五郎規方の養女として佐藤へ嫁した。その縁で佐藤 の三人兄弟の命名は、皆石毛翁の行はれたものであった。 此所で我々の両親の近親関係を記すと次の如くになる。 長男 巳作─(幼名巳之助) 為信 二男 源次郎─(伊藤氏を継ぐ) 綏 三男 平三─父為信の姉の嫁したる伊藤家の養子となったが 離縁復籍の後分家。 長女 錫 スズ ─北角 修 ナガタツ 立 に嫁し千葉にて死す。 此の様な関係なので、佐藤に近い親戚は祖父の生家の北角、祖母の生 家の入江、母の生家の井上の三軒と謂うことになるが、その後佐藤兄弟 の配偶者が登場して来るので、夫れを記すと、 雪洞の妻の生家 松沢氏 源之助の妻の生家 西村氏 源三の妻の生家 草間氏 と言うことになる。登は妻を迎へて居ないから、その関係はない。 井上北角は、還元の形で孫や子達がその祖父なり母なりの生家を継い でいること別述の如くであるが、入江氏は別である。 これを佐藤とのつながりに於て畧叙すると次の如くである。 入 江 佐 藤 の 関 係 は、 安 政 二 年 の 江 戸 大 地 震 の 年 に( 綏 の 話 に よ る。 ) 当時十六才であった 綏 (4 ( が銓吉 (後に為信) に嫁いだことからはじまるが、 為信は 午 ウマ の年だったから十六才の綏の 子 ネ 年から考へて二十一才であった と思はれる。 (天保五年の生れと聞いていた。 ) その時の、わが佐藤の家の家族構成は次の如くであった。 源左エ門 體 モトノブ 信 為信 かつ 綏 源左エ門は前名を活五郎又は鍋次郎と称し最後には源作と云っ た (5 ( 。こ れが曾孫雪洞の幼名になるのであるが、役は奥御祐筆で、同じ役の山本 儀助の弟であった。 黒 クロアバタ 痘痕 のこわい顔の人であったと言う事と、涙もろ い人で忠臣義士の伝記などの古典を音読し乍ら涙を流したと言う事、碁 を 打 ち 乍 ら 亡 く な っ た と 言 う 事 な ど が 伝 は っ て い る。 妻 か つ (6 ( は 後 妻 で あって石野弥五右エ門の娘と記されている。 孫の巳之助を非常に可愛がったそうだが、此の石野の後は末吉という 養子の時に倒産して(麹町で洋品店をしていたが、此の倒産は融通した 資本の回収不能になった点で佐藤の家に大分影響があったらしい。現に 先方でも夫れを気の毒がって債権者会が手を打つ前に何とか佐藤さんの
分は別に所置したい、という内交渉があって弁護士をたのむか、という 話 迄 出 た の だ が、 「 重 要 な 親 戚 が 生 へ 立 っ て 策 謀 し て、 他 人 様 に 迷 惑 を か け る の は 心 苦 し い。 」 と 云 う 事 で そ の 意 見 は 撤 回 さ れ、 千 両 の か た に 編笠と云うたとへの通り、その時の石野のかたみとしては小さな赤革の 折鞄が錠前の毀れたまゝ永いあいだ箪笥の中にごろ
く
していたのがそ の結末であった。 )後には愛知県の知立に移住した。あいという娘があっ たことまでがわかっている。 其の石野から来たかつと源作との養子が為信であるが、幕府の瓦解を 前に養父の死に遭い、前将軍亀之助(後の家達)に扈従して多くの旧臣 仲間と共に静岡へ移住した。その時巳作はすでに生れて居り錫源次郎等 もみな生れて居た事と思はれるがその頃の巳之助の友人に傍島某と云う のがあったが、その娘の砂と云うのと、其の又弟の正雄というのが後に 自分の入った入谷小学校へ来ていた。 為信を家長とする一家が静岡に居る時に新日本の戸籍制度が出来たの で、我が家の本籍はそれから後迄静岡市東鷹匠町無番地という事になっ てい た (( ( 。その鷹匠町という所をはじめて自分の眼で見たのは昭和二十三 年頃自分の三男容三が当時の浜松工専を卒業した時、在学中世話になっ た浜松市海老塚町の長谷川昌代さんの所へ禮に行った時あべこべに久能 山 参 拝 に 案 内 さ れ、 そ の 時「 此 処 が 鷹 匠 町 で す。 」 と 教 へ ら れ た の が は じめてゞあった。 明治五年に一家は再び東京へ帰ったという事で其時初めて鉄道の開通 した横浜から新橋迄を汽車にのった話が伝はっている。 何でも下りて家へ帰ってもからだが揺れている様な気がしていたそう だ。 一 家 は 下 谷 の 竹 町 十 三 番 地( 後 に 二 十 四 番 地 に な っ た。 ) に 居 を 構 へ た。雪洞の生れたのは此の家であった。爾来二十年余り此処に住んで居 たわけだが、その後の為信は工部省の何等出仕とかいう小役人になった 事もあったらし い (8 ( 。 工部卿井上馨と云う名の入った辞令を曽て見た記憶がある。しかしこ れはあまり長い間のことではなかったと思う。 ウェートと言う英国人その他と一しょに撮った写真、及びウェート一 人だけの写真を昔見た事があった。ウェートは何かの技師であったらし い印象があ る (9 ( 。 この辺が僅かに匂っている佐藤家と新時代との接触であるが、夫れは 又次に記すような事情から、大きく新時代と離れる事となった。 此 の 辺 で 何 時 の 間 に か 大 き く 迂 回 し は じ め て、 消 え て 仕 舞 い そ う に なった入江との関係へ話を戻すが、綏の生家入江氏は綏を中心とすると 次の様な家族構成であった。 入江氏 長男 三蔵 進八郎 長女 綏 れつ 二男 進次郎 三男 春 ハル シ ゲ 重 進八郎は 春 ハルユキ 皓 と称し、楽人東儀氏の出であったが入江家の養子となっ た。 算 法 に 詳 し く 暦 学 に も 通 じ て い た と 伝 へ ら れ る 学 問 の 好 き な 人 で あったらしく、其の遺愛品の中には間宮林蔵所持のコンパス(竹製)な どがあった。又北辺の地図なども何点かあったのを後に佐藤に預けられ た文庫の中で見た。夫れらと共に 篳 ヒチリキ 篥 などの楽器のあった事も、その楽 人の家の出である事を偲ばせるものであっ た ((1 ( 。 ( 因 に 入 江 家 の 寺 は 当 時 牛 込 横 寺 町 に あ っ た 草 刈 薬 師 の 寺 と よ ば れ た 正蔵 院 ((( ( という寺であった。入江家の定紋は四つ石に二つ星という珍らし い紋で、中をあけて上下左右に正方形を積み、その下段の左右に小さい 丸を描いた紋で夫れが石塔にも刻んであった。 (一月十七日記)進八郎は巳作兄弟にとって母方の祖父であったから極めて当然の事で はあるが、みなその名つけ親であった事が命名の書類の残っている事で わ か る。 「 何 が し と 称 せ ら る べ し 」 と 横 二 つ 折、 竪 三 つ 折 に し た 奉 書 に 書いてあるのが今も残っている。しかし維新前に亡くなったらしくて、 其の静岡ゆきは話題に残って居らない。 そして家女である進八郎の妻、即ち綏の母れつをはじめ子供達は姉の 嫁いだ佐藤の家で暮す事が多かった様だ。長男二男共に早逝して、末子 の春 重 ((1 ( が家督をついだが、これが後の鶴見の汐田の入江繁之助(後に繁 光と称した)の父である。 れつは家付女房で、春重が後に記す八石教会上の原出張 所 ((1 ( に勤番をし たために、晩年は佐藤の家に引取られて、曾孫の守などして居たが、日 暮里元金杉の家で八十六才で亡くなった。 此の人に妹があったが一代嫁がず家に居て姉のれつがあまり細かいこ とには向かない性分を補って家事を助けていたと云うが、本名はわかっ ていない。甥達のよび名の 「あっちゃん」 と云う名だけが伝はっている。 姪の婿である為信が俗用をたのんでやった手紙などが残っているが、極 めて明るい性格で、昔の芝居見物の大がゝりな支度などには、いつも此 の人が中心人物であったらしい。 結局入江家は、春皓(進八郎)れつの間に出来た子供の内、綏と春重 の二人だけが生き残って、綏は私達の祖母となり、春重は長男繁之助が 鶴見に永住するに及んで、其処に引取られ、九十に近い高齢を保った。 春重の妻は東海道上の原の人でおたねさんと言ひ矢はり八石教会の人 であった。 子供は女二人男一人あった。長女たつは宮内鶴之助に嫁し與作と云う 子供があったが、三十代で亡くなった。二女たには同じく八石教会の一 員で日暮里の丁髷炭団屋の仕事をはじめに、山口安 貞 ((1 ( さく夫妻に貰はれ た。これは母のおたねさんが早く亡くなった為めではなかったかと思は れるが、十才位でなくなったので、繁之助一人が残ったわけだ。 彼は土建業を営んだ関係で方々に出張していたが、家は鶴見に建てゝ 住んで居た。 妻は石毛氏で千葉県の人、長男輝繁外一女があった。繁之助の繁光は 私より二三年年長であったと記憶するが生真面目な男であった。輝繁は 大正末生れ位の年令である。 今記憶に残っている入江の家系を畧記すると次のようになる。 たつ(宮内氏) 進八郎 春重 繁之助 長男 輝繁 れつ たね 妻石毛氏 長女 某 たに(山口氏) 佐 藤 の 家 が 血 統 的 に 北 角 入 江 の 両 家 に よ っ て 始 ま る 事 は 前 に 書 い た が、 そ の 意 味 で 此 の 辺 で 北 角 氏 に 就 て 記 す の が 順 序 と 云 う も の で あ ら う。 北角氏 北角氏は後に記す 修 ナガタツ 立 でもすでに十余代を算へる旧家で、その菩提寺 である浅草の清光寺 (浄土宗) にある墓碑によれば、 その先祖の歿年は、 寺の開基よりも古いの だ ((1 ( 。 し か し 夫 れ は 夫 れ と し て 佐 藤 と の 関 係 は 北 角 十 郎 兵 エ 為 直 ((1 ( の 弟 で あ る、銓吉為信が養子に来た事から始まるわけだ。 その縁組の動機は両家が共に徳川の奥御祐筆という役にあった事と、 銓吉が若くして亡くなった源作體信の子松三郎と親しかった為めに、松 三郎の希望的遺言が実って親友の家をついだものと伝へられている。 松三郎は若くして亡くなったが秀才であったらしく、彼の伝授を受け た剣道兵法等の巻物は曽て何巻も佐藤の家で見受けられた。その小口に 金箔をおき水晶の軸をつけた美しい形は少年の自分の目に、何か厳しい 印象を与へたものであった。
そこで為信の生れた北角の人々について、記して見ると左の如くにな る。 長女悦子(伊藤富禮妻) 初代 二男銓吉(為信)佐藤氏 十郎兵エ為明 長子二代十郎兵エ 修立 源三 晴男 (為直) 妻錫 妻しづ 晴枝(伊東) 女 宮田氏 久仁子 忠英(黒部氏をつぐ) 長女くに 妻くら 二女くめ 房(渡辺氏) はつ(宮田温妻 北角で生れた為信の姉悦子が伊藤富禮の後妻に行った事から、伊藤家 は佐藤とも親族となり、更に為信の三男平三が悦子の義子隼の長女幹の 養子となるに及んで、一層近い親戚となるのだが、先づ悦子の事を記す 事にする。悦子は二代目十郎兵エ即ち為直の妹であったが、兄妹中で一 番性格が強かったようだ。 夫れだけに弟為信にとっても力になる姉であったと思はれる。はじめ 小笠原家の家老某に嫁したが不縁となり、後伊藤富禮の後妻となった。 富禮の先妻はその出を知らぬが、何かで主人に熱湯の入った鉄瓶を投 げつけたというかどで離別されたと伝へられているが、その子の隼がフ ランスに留学中に発狂して送還され た ((1 ( 事を思うと、或はその人に精神異 常があったのかも知れない。しかしその隼にも妻があって、幹、せつ、 の二女があった。此の二人の母は宮田氏の出であった。 宮田鉎女、同正高、内山處謙などの兄 妹 ((1 ( と思はれるがその事は暫く措 く。 悦子には子供がなかった。富禮の歿後の悦子は、熱心な法華経の信者 で あ っ た が、 ( 伊 藤 家 の 菩 提 寺 は 四 谷 の 西 光 寺 と 言 う 浄 土 宗 の 寺 で あ っ た が。 ) 後 に 大 原 幽 学 を 祖 と す る、 八 石 教 会 を 知 る に 及 ん で、 熱 心 な こ れの外護者となった。当時伊藤の屋敷は上根岸の一本橋を渡って、石神 井川を北に越えて二丁程の元金杉にあった。其の屋敷の南は洋画家山下 新太 郎 ((1 ( の生家の経師屋山下と池を隔てゝ隣していたが、自家に程近い上 根岸町百二十五番地に広大な宅地を買って、其処へ八石教会東京出張所 を建てたものだ。 悦 子 一 人 の 喜 捨 と は 思 は れ ぬ が 彼 女 が 教 会 の 中 心 で あ る 石 毛 源 五 郎 規 ノリミチ 方 を支持する気持は新興宗教の信者特有の熾烈なものであったようで ある。規方又悦子を「奥さま」と呼んで特別扱いにしていた位だか ら (11 ( 。 八石教会東京出張所については、別に記さなければならないが、悦子 の亡くなる頃十五六才であった私が、彼女を西太后とよんだ記憶がある 事から推しても、彼女は当時としては稀に見る権力と財力を許された老 婦人であったと考へられる。 しかしすこしも生産的な裏付けが無かったので、後には孫幹の第二の 養子源三郎(千葉県夏目の人宮内助右エ門の二 男 (1( ( )との財産をめぐって の訴訟などで疲弊して、 不遇の中に人生の幕を閉じたようであった。 (私 には十二三才の頃彼女から五十銭銀貨四枚を貰った記憶がある。その時 はすねてほしいと思った銭亀を五十銭で買いに行った。 悦子の肉親としては兄の子修立、黒部へ養子に行った忠英(この人は 通 称 を ケ ン さ ん と 云 っ た。 字 は わ か ら な い (11 ( 。) そ の 又 弟 で 渡 辺 を つ い だ 房、妹はつなどがあげられるが、此の外の甥と言へば弟為信の男の子三 人と娘一人、並に宮田系の人々であらう。 為信の一人娘の錫は従兄修立の妻となったが千葉の教会で若くして死 ん だ (11 ( 。 此 の 一 人 っ き り の 私 の 叔 母 は 私 の 母 と 同 ひ 年 の 元 治 元 年 生 れ で あったと云うが、二十を幾つも出ないでなくなったものと想像される。 男の兄弟の中には見られない才気煥発型であったそうで、その死は長く その父為信を悲しましめたと聞いていた。
修立は後に後妻に伊勢の人でおことさんと云う人を迎へたが、悦子の 暴君的叱責が因で失踪し、一生を一人で佐藤の家に寄食して終った。修 立の性格に此の最初の妻錫の影が、濃く投影していたであらう事に察知 するに難くない。 悦子の強烈な性格は、愛憎の念が非常に烈しかったらしく、その一つ のあらはれとして嫉妬の激情が凄かったらしい。そしてその事は自分の 目下の、言はゞ子や孫に当る者に迄及んだようである。 修立の家と云うのが貝塚にあったと云うが、其所の座敷を借りて源之 助を生んだ後の私の母が静養している折、たま
く
庭先の石の蔭から鎌 首 を も た げ た 一 疋 の 蛇 を 見 た 時、 母 は「 こ れ は お こ と さ ん だ ナ。 」 と 即 座に感じたそうである。自分に身近な妹であった錫を感じないで、行衛 不明になったおことさんを思い出した処に西太后のはげしい所置がよくく
若い人達の心にしみていたのだと、その話を聞いた時私は思った。 (一月十八日朝) 北角家については、今当時の武鑑に北角十郎兵エの名の見られる事以 前の事はわからないが、関東の震災以前に整理した北角家の墓の中に北 角久琢先生之墓と為直先生の墓いうのがあった。先生と特に記されるよ うな人であったのであろう。 残念ながら自分には為直の烏帽子素襖姿の(修立を思い出させる面影 の)肖像画を見た記憶がある事と、今その為直の自筆の和歌の短冊を一 葉所蔵している事以外には何の記憶に残しているものがなく、僅かにあ るのは修立以下のその弟妹の人達についての事共だけである。従って為 信を頂点とする甥や姪の話だけという事になる。言ひかへれば父巳作の 従兄弟の上だけと云うことになる。 修立弟妹は、これの他の親戚の人々と同じように、いづれも一度は八 石教会へ入ったが後にはみんな脱会してしまった。この事は八石教会東 京出張所の条でくわしく書く。 修立は通称を久(ひさ)と言っ た (11 ( 。これは北角の家で男の子が育たな かったので当時よく行はれた世間の習慣に従ったもので、女名前をつけ たのだそうだ。渡辺房も実はその時の女名前が本名として通ってしまっ たものだという。黒部忠英がけんさんとよばれたのも同じ理由であった らしい。 修立は少年時代に二階の物干し台で凧を揚げていて転落し、そのため に右の肘を痛めて身体障凝者になって居た。気のどくな彼の食事する時 の手の形は子供の時の私に、北斎漫画に出ている、蕎麦を食う男を連想 させたものであった。二人の妻に別れた後、教会を脱会して、何であっ たか憶えていないが、俸給生活者になり、晩年は従弟の巳作が自家に引 取っていたが、五十二才位で亡くなった。 源三が彼の名蹟をついだのは、彼の希望に添って、其の死後に入籍し たものと記憶する。年令順に語ると、次は黒部忠英であるが、黒部家は 千葉県の忠英の妻くらの生家の名字であろうと考へられるがよくはわか らない。 忠英が電信の通信手 (?) になって勤務 中 (11 ( 、大酒が因で脳溢血になり、 佐藤の家へ引取られ源之助の守などしていたが、其の頃は甚だしく記憶 力 を 喪 失 し て い て、 よ く「 叔 母 様 何 時 で す ナ。 」 と 幾 度 も 私 の 祖 母 に 時 刻を聞いて、みんなに笑はれていた。鼻の脇に大きな黒子があって磊落 な人柄は好感が持てた。 私は今テレビで俳優北村和夫を見ると此の忠英の面影を思ひ出す。一 番似ているのは、声の調子である。 彼の妻くらは留守を守って百姓をして居たが、その長女くにはしっか りした女で頭もよかった。脱会の後生家で店をしているという話を大正 の初めごろ聞いた。今居れば七十五六であらう。くめのことは十二三才 の彼女を見た以外の記憶はない。 その次が宮田 温 たづぬ に嫁したはつであるが、これは巳作の祖母かつが嫌って、 「 も し も あ の 娘 を 家 の 孫 嫁 に す る な ら、 私 は 化 け て 出 る よ 」 と 云 っ たという話のある位、佐藤の家の空気とは違った人柄であったらしい。 佐藤でその一家と、殆んど葬式の時以外には交際しなかったのは、彼の 家が何を苦しんでか其の娘達を芸者にしたという事が、佐藤式潔癖に抵 触したものではなかったかとも思う。 今記憶に残っているその子等の名をあげると次のようになる。 菅之丞 温 はる はつ なほ 正之 まだ娘があった様な気もするが、いづれも人伝に聞くのみで、遇った 事 は 殆 ん ど な か っ た。 菅 之 丞 は、 神 田 の 桜 井 と い う 歯 科 医 の 弟 子 に な り、後に群馬県藤岡で開業しているとの話を聞いた。なほだと記憶する 娘の一人は、静岡県用宗に居た長野県出身の医師藤山人春原藤兵エの妻 になった。 正之は印刷工ではなかったかと思う。 宮田温は後に記す伊庭から来た正之の妻つねの産んだ子で一代萬朝報 (?) の 英 文 欄 の 仕 事 を し て い た (11 ( 。「 英 語 を 読 む 事 は 達 者 だ が 学 問 的 で ないので、 夫れ以上には出ないのだ。 」と人の云っているのを聞いたが、 一寸性格が軽燥で、 酒などのむと品が悪くて、 佐藤の家では歓迎しなかっ た。 渡辺をついだ 房 (11 ( は、一生南千住駅の職員をしていた。神経質な堅人で あ っ た が、 渡 辺 氏 の 先 代 章 アキラ は (11 ( 好 人 物 の 養 子 で、 も っ ぱ ら「 出 島 の カ ル メラ」と仇名された白アバタの細君ていの独裁的家庭にあって、娘のお いえさんという人が子がなくて死んだ後、千葉県岡井田から来た総兵エ の娘のふきという細君なども姑の存命中は殆んど女中扱いで、房が「俺 は今迄我まんして来たんだから好いがお前はいつ一人前の女房らしく扱 はれるかわからないから里へ帰って新らしく身の振り方を極めた方がよ く は な い か。 」 と 言 い、 そ の 好 意 に 感 激 し て い く ら 苦 労 し て も 辛 棒 し ぬ く決心をしたのだ。と後に人に話したと言うはなしが自分の耳に迄届い ている。 房は従兄弟の中では一番近代的な頭の持ち主で、覇気こそ無かったが 佐藤の家の家運の傾いた時にもその将来について一番発言して呉れる親 戚であった。 北角源三が佐藤家歿落の後渡辺に引取られたのも、その好意のあらは れという事が出来様。勿論夫れは為信のよく親戚の人々の面倒を見て、 みんなから慕はれていた、その反射のあらはれとも言うことが出来よう けれ共。 渡辺に寄寓した源三はその頃から人眼をさけつゝ写真器をいぢりはじ めていた。その事は北角源三自身に書いて貰いたい。と思うが家がつぶ れかけても長男の源作は絵をかく事をやめなくて、生産的な仕事に就こ うとはしないし、時々夜など来て世話をやいた房の苦労も大へんであっ たと思うが、その頃にはそんな察しは出来なかった。 房にはふきとの間に秋野という娘と、謙という男の子があった。謙は 後に小学校の教師になったと聞いている。後に記す源次郎叔父の長男賢 一が北千住駅につとめた事も、此の生字引的な渡辺房の口利きによるも のと思はれた。 此の辺ではなしを我々の母の実家、井上の上に転じる事にするが、井 上家は八石教会の関係以外にもっと大昔から千葉県に因縁が深い。千葉 県と云っても当時は下総の国と云う方が正しいがその下総の香取郡香取 村に香取七郎兵衛という名主があった。その二男に生れたのが井上家の 祖先 元 モト 七郎胤隆で、以来井上は代々 元 モト 七郎を名乗りつゞけて来た。 胤隆は百一歳という稀に見る長命の人であった が (11 ( 、此の人の立志伝的 な生涯は幼年時代によく話を聞かされたので、童謡の様に自分の幼な心
にしみ込んでいた。 彼 は 農 家 の 弟 息 子 に 生 れ た の で、 「 此 の 侭 で は 何 程 成 功 し て も 高 が 知 れ て い る。 」 と 考 へ て、 少 年 の 日 に 家 を 出 て 然 る べ き 主 人 を 求 め よ う と 思ひ立ち、当時登城の侍の大勢通行する、江戸の護持院ケ原の道路の真 ん中に旅支度のまゝね転んで、人の通るのを待っていたそうである。 果して通行の武士にとがめられたが、夫れを繰りかへす事何回目かに 事 情 を 詳 し く 聞 い て く れ る 人 に 出 逢 い、 「 何 と か し て 一 人 前 の 武 士 に な り た い。 」 と い う 願 い が 聞 き 届 け ら れ て、 「 兎 も 角 も 使 っ て や ろ う。 」 と 云う事になり、夫れから次第に認められて井上氏を名乗るに到ったと云 うのである。 此の人の経歴の中で、最も興味深く覚えたのは、当時浅草田圃のまん 中にあった大きな二階家を只に等しい安い値で買いうけたという物語で ある。 其の頃その付近一帯は、長雨が続くと屢々川が氾濫して、一面水びた しになったものであった。廉い二階家を買った胤隆は、一人で二階に寝 て居た所、はげしい風雨の後に夜空にひゞく早鐘に表を見たが火は見え ない。 てっきり又例の水出だナと夜明けを待つ覚悟で床の中に大きく眼を見 開いていると、ごとり
く
と何か次の間で音がする。 怪しんで手燭をともして境の襖を開けるとあはてゝ隠れようとする、 小犬程の動物の姿が目に入った。 気 丈 の 胤 隆 が あ ち ら こ ち ら 追 い 廻 し た 末 捕 え た の は 一 疋 の 狸 で あ っ た。 そこで胤隆には、はたと思い当る事があった。と云うのは此の家が 箆 ベラ 棒 ボウ に廉かった事だ。後には化物屋敷と仇名されているという人の話も聞 いたが、素より化物など居りようもないと極る込んで居たのだが、或は 此の狸が邸内に巣くっていて、水出の時などには困って、家の中へ入っ て来たのを、先住者が恐れて化物扱いをしたのかも知れなかった。と気 が つ い た 胤 隆 は、 次 の 日 そ の 狸 に 麦 飯 を 肚 一 杯 食 べ さ せ た 後、 「 お 前 の 御蔭で俺も廉い家屋敷を手に入れる事が出来たのだから、命は取らずに お い て や る が、 も え 二 度 と 人 の び っ く り す る よ う な 真 似 は す る な。 」 と 云って放してやった。狸は夫れっきり出て来なかったというのが此の物 語の終末である。 その後此の胤隆は、墨田川を渡った川東へ転住したと見えて、城中で 勤番の侍達が食べ残した飯を、 「勿体ない。 」と云って袋に入れては持ち 帰り、 墨田川を渡る時に、 永代橋の上から「魚に供養するのだ。 」と云っ て、いつも夫れを川の中へ投じたという話も伝はっている。 昭和の戦災の為めに焼けてしまったが井上の家には、行儀あられの裃 をつけた、胤隆の百歳の時の画像があった。丸顔の眼の大きな逞ましい 風采の人であったが、 黒 ホクロ 子 が沢山あったと見えて、夫れが克明に描かれ ていた。 定紋は井桁と矢車とが用いられていた。 菩提寺は今も下谷の鴬谷の坂を下って、浅草へ向う道の左角から二三 軒目の清正公を祀ってある要伝 寺 (11 ( という法華寺である。 胤隆から何代目に当るか暫くして井上家では二代養子が続いた。その 前の方が後に函館奉行所勤務になった井上信濃 守 (1( ( であって、此の人の写 真は朝日新聞が曽て大正十四年写真術発明百年展を開いた時に陳列され て、その時のカタログアサヒグラフ増刊にのってい る (11 ( 。妻は家女できん と呼んだ。 此のきんに出来たのが私達の祖母の順である。後に弟甲子郎が生れた が、夫れは後の事なので順は養子をした。これが矢はり元七郎を名のっ た。 徳 川 の 軍 官 学 校 の 様 な 所 へ 入 っ た と 見 え て 古 風 な 軍 服 を 着 た 写 真 が あ っ た。 温 厚 な 秀 才 型 の 人 で あ っ た ら し く 思 は れ る が 二 子 が あ っ て 二十八才で亡くなった。此の時順は二十四才で、長女民は四才、弟豊は二才であった。此の民が私達の母なのである。 函館勤務をした元七郎(源七郎とも書いた)は木村氏の出で、実家を 継いだ兄の外にも男兄弟があって、一人は細谷氏へゆき、一人は河津氏 へ行った。 細谷の甥は後に高田商会へ入った安太 郎 (11 ( であるが、維新の際五稜郭の 戦争で戦死したと噂された程に戦って、体には無数の刀痍があったとい う。 河 津 を 継 い だ 祐 賢 (11 ( は 歌 な ど よ ん だ と 見 え て 此 の 人 が 如 水( 元 七 郎 の 号)の年忌の時によんだ歌の短冊が現存している。此の人も男子がなく て、その後嗣には後に法学博士になった河津 暹 (11 ( が養子に来た。此の河津 家は例の曽我兄弟の仇討で有名な河津の後で毎年先祖祭をしているとい う話を聞いていたが、祐賢以後はだん
く
行き来も遠くなり、当主の 暹 セン と年令も違う自分達がシヤム(今のタイのこと)とよんで僅かに縁故者 である事を感じていた程度であった。これらは質の良い方の親戚であっ たが、そうばかりもいかなくて誰か兄弟の一人が養子に行った先の大原 銀次郎などゝいうのは身上を呑みつぶしてしまい、方々に迷惑をかけた らしく、零落しても言葉だけは鄭重であったが順の所へ無心に来た事が あった。これは元金杉の家での事であったが居留守を使うつもりで中ス キになっている杉戸を締めようとしたら、その戸が倒れてしまって、そ の中に針仕事をしていた順の上へ傾きかゝり、結局気を利かせたつもり の自分の応急所置は何にもならなかった失敗の一幕などもあった。 甲子郎は順の末弟であるが、名前から推定して元治元年の甲子年の生 れではなかったかと思はれる。甚しい反っ歯であったと聞いていたが率 直 な 性 質 で あ っ た ら し い こ と が 順 や 民 の 思 ひ 出 話 に よ っ て う か ゞ は れ た。大学予備門と云う様な所へ通学中に亡くなったという事で明治十七 年の九月二十九日がその命日である。男子のすくない井上ではその外に 甲子郎より二才下の民の弟豊が居たがこれも亦二十年の八月二十五日に 病歿したので順の外孫源之助を後つぎにする事になる迄の約二十年間と いうもの井上家の戸籍は順一人きりであった。しかし順には妹が何人も あった。 そしてそれらの妹の嫁いだ先が後に又縁故を生じているから次にその 人々を挙げる事にしよう。 民 和子 順 豊 伸一 源七郎 源之助 建二 きん 稔 源豊 のぶ(岡田氏に嫁す) ふみ(宮川氏妻 栄吉 きく 庄吉 とみ 逸名(本間氏に嫁す)─すま(大沢九重郎妻) 同(磯村氏に嫁す) 鋠太郎 妹 西村氏に嫁す 甲子郎 順は若くして寡婦となったが、後に記すような徳川の家臣の何人かゞ 八石教会によって新らしい心の棲み家を得ようとした動きに同調して、 二人の子を連れて入会した。 そしてその娘民は主宰石毛源五郎の養女となった。しかし順のしっか りした性格は、事実上教会の隠然たる勢力となっていた悦子には煙たい 存在となった。数年の後色々考えた上順は教会員としての自分の将来に 見切りをつけたが、二人の子供を連れていたのではどうにもし様がない ので、民を教会に残して豊だけをつれて脱会した。そしてつてを求めて 後に海軍大臣になった西郷従道の家に旧幕臣という素性をかくして裁縫 師 と し て 抱 へ ら れ た( 針 妙 と 云 っ た。 ) 名 前 も た け と 云 う 変 名 を 用 い た と云う。どの位居たのか聞き洩したが従道夫人が 「お前は徳川の者であらう。 」 と云ったと云う話と、その夫人が異常な潔癖家で、一度便所へゆくとそ のあと手桶に一杯位の湯を使ったという、話を聞いたことがあった。 体 格 は 大 き か っ た し 筆 蹟 も 見 事 で あ っ た し 物 腰 も 落 ち つ い て い た 順 が、どうもたゞの針妙とは見へなかったであらう事は想像するに難くな かった。 その後西郷家を出た順は当時花柳界などを賑はせた平岡大盡の門内に 暫らく住んたことがあった。その時母民につれられて行った私は、其処 に二人のお婆さんが居るのを不思議な気持でながめた事を覚えている。 その二人と云うのは順とその母きんであったが、今思うと子供の眼に 映ったのは此の二人がお婆さんと云っても、割合に若く見えた事だ。親 のおばあさんの方が小柄で、娘のおばあさんの方が大柄であると思った のもその時の印象である。 後 に 甥 の 磯 村 鋠 太 郎 が、 時 々 真 面 目 と も 冗 談 と も つ か ぬ 口 調 で、 「 此 の伯母さんは、今頃は裏店でマッチ箱でも貼り乍ら愚痴でも云って居そ うな道をあるいて来たのに、何時でも紫の座布団の上に座って、みんな の 上 座 に お さ ま っ て い る が、 よ っ ぽ ど 運 の 好 い 人 だ。 」 と 云 う の を 聞 い たことがあるが、順にはどんなに貧乏しても貧しく見えない貫祿と気品 があった。鰯や秋刀魚は一括して下魚と呼ぶような所があった。後に姪 のすまの子供達の面倒を見てやるために、大沢家に寄寓した事もあった が、養子にした孫の源之助が成人すると名古屋を振り出しに一しょに暮 し、曾孫達も見た上で八十六才の春、娘の民の看護をうけて、当時田端 に居た佐藤の家で安らかにその曲折の多かった生涯を了へた。 順の妹の ぶ (11 ( は、姉にくらべると音和しい一方の性質で岡田房州とよば れて一寸意地の悪い所が芝居の師直もどきではなかったかとさえ想像さ れる、岡田安房 守 (11 ( の子の顕次 郎 (11 ( に嫁ぎ、意地の悪い舅に仕へて苦労した 話が伝はっているが此の人には三人の子があった。 長男某は矢はり一時八石教会に居たらしいが出来はよくなかったらし い。 その妹ふみは宮川氏へ嫁した。自分達の知っているのは無論宮川とし てのふみであったが此の家にはふみの祖母にあたる切り下げ髪の芝居の 後室様型の老婦人が居た。みんなは此の老婦人をおさだ様と呼んだ。お さだ様はつまり岡田安房守の未亡人なのである。 従って、此の人の教育方針が宮川家の子供に作用したから私と一つ違 位の豊造即ち後の源豊和尚の如きは子供の時から親戚へ時候の挨拶など にやられても、聞く者の方が照れくさい位紋切型の口上を仕込まれてい た。 こ の 様 な 眷 属 を 持 っ た 宮 川 は 豊 吉 と 云 っ て 小 僧 の 時 か ら の 材 木 屋 で あったが神代杉を掘って大もうけをし様というのが一代の念願であった が、目ざした様な好い木が掘り当てられなくても次から次へと計画を立 てゝ一代その仕事をやっている様に見えた。そしてついに芽の出た事は なくてしまった。手許不如意になった佐藤がせめて元金だけでも返して 貰いたいと請求してもついに返済して貰へる事は来ず、催促に行っても 得る所は何もなかった様である。此の家には豊吉だかふみだか或はその 両方だかわからぬが、何をするにつけてもその指示を受ける木島さんと 云う易者がついていた。此の女の易者の云ふ事に「豊吉さんと云う人は 凡そ幸運に値する一かけらも持って生れていない人だが、僅かにふみに 授かった分があるので夫れで持っている。 」と云ったという話を聞いた。 少年期を幾つも出ていない私は、その様な断定を敢て下すその易者に対 して、すくなからぬ憤りを覚えていた。 先にのべた豊造は病気の平癒を願った事の叶ったのを機会に頭を丸め て浄土宗の僧侶になったけれ共、俗事を超越するだけの道心もなくて、 つまらぬ事でノイローゼになり自ら死期を早めた。のぶのはなしが長く なったがのぶの又妹は二人あって、一人は本間氏へ、一人は磯村氏へ嫁
した。本間へ嫁した妹は子供が一人あって亡くなったがその子が後に四 谷箪笥町で繁昌した歯科医大沢九重 郎 (11 ( の妻のすまである。此の人は早く 母に別れた為めもあらうが、伯母の順をたよりにして自分もよく伯母の 為めにもよいように、順が源之助の独立して一家を持つようになる迄、 順に一しょに住んでもらった。しかし此の人も沢山の子供を生んで、割 合に早く亡くなった。 磯村へ嫁した妹には男女二人の子供が出来た。その兄の方が鋠太郎で 妹が後に西村氏へ嫁いだ。後に井上源之助の妻になったしげは此の西村 氏の娘である。 従ってこれは、よく絶え
ぐ
になった家系をつなぎ止めた、順の心遣 いの結果であったろうが、玆に於て井上は遠くなった親戚とも再びつな が り を 保 ち、 子 供 に 恵 ま れ な か っ た 昔 の 姿 か ら 完 全 に 脱 し た わ け で あ る。 余事であるが少年時代の私は、よく親戚の人達から「 豊 ゆたか さんによく似 て い る。 」 と 言 は れ た。 夫 れ は 実 際 で も あ っ た ろ う け れ 共、 其 の 事 は 蒲 柳の質であったその叔父のように、自分も亦二十才位で死ぬのではない かと云う気持を多分に私に持たせた。 叔父の豊は母親よりも父親に似て居たらしい。その父親の写真はどれ も細面のやさ形であった。美術的なセンスのある人間の一人も居らない 我が家に、自分達兄弟のような者が生れたのは、此の外祖父の遺伝では なかったかと思はれる。曽て私はこの祖父の彫ったという、楕円形の茶 盆を見た。夫れには何か花が彫刻してあったが、此の様に祖父は絵心も あった人と考へられる。 沼津へ行っていて病気になり、そこで亡くなったので、墓は沼津市城 内 町 の 本 光 寺 (11 ( と い う 寺 に あ る。 此 の 寺 へ 父 の 巳 作 に 連 れ ら れ て 参 詣 に 行ったのは、自分の小学生の時で自分の汽車に乗ったのは多分此の時が 最初であった様に思う。 (一月二十一日) 夫れは八月の暑中休暇中の事であって、おそらく外祖父元七郎の年忌 に当る時であったと思はれる。つまり順が自分の代りに婿の巳作に沼津 ゆきを頼んだことゝ思はれる。 何でも其の時は沼津に大 火 (1( ( のあった後の事で、寺も類焼の厄に逢い鐘 楼を残して大部分焼けてしまった本光寺では、その時は仮建築のような 建物であった。その日住職は不在で梵妻がお茶を出して呉れ乍ら、火事 の物凄かった事を話して、皆が此所は安全だと思って境内へ荷物を持ち 込んだ為めに寺は焼けてしまったのです。と残念そうに話していた。 此の寺は夫れから更に十何年か後に今一度訪ねた記憶がある。多分夫 れ は 関 谷 楚 山 先 生 が、 横 手 か ら 帰 ら れ た 後 一 時 東 草 深 に 居 ら れ た 事 が あって、そこへ伺った事があるからその帰りであったと考へられる。関 谷先生の紹介で静岡新報の滝閑村氏にあったのも此の時と思うが、それ が先生の牧師の最終で、その次上京された時は牛込の南榎町へ住まれた 時、すなはち今の産経、当時の中外商業の政治部記者として立たれた時 であった。だが今は此の話の方へ辷り込んでは困るから、此の話は又の 機会にしよう。 どうも覚えているようで居て思ひ出せないのも困りものだが、生じっ か記憶がむやみとよみがへって来て雑草の生へるように色んなことが前 後の脈絡もなく蜂起してくるのも始末が悪い。 こういうのが年寄の常だろうと片づけてしまへば夫れ迄だが─。 却説、前にも鳥渡ふれかけたが、此の辺で私達の親戚の間に大きく影 響を与へて居り、自分の如きはむしろ其の中に人間形成を行はれて、長 短共に夫れを離れては考へられないと思はれる、 八 はちこく 石 教会(自分達の間 では、 これを内容の点から、 性学と称していた。性学とは中庸に所謂「天 命之を性と謂ふ」と言う語に端を発したものと思はれる。以下性学と呼 ぶ。 )に就いて書く事にする。 八石教会は、尾張の浪士で、大導寺玄藩の子と推定される、大原才次郎幽学が、下総に開いたもので、英国の産業組合よりも、尚百年早く出 来た、一種の「新らしき村」と目されているものである。 これを体系づけて編述したものは何と云っても元東京市長北雷田尻稲 次 郎 の 著 し た、 「 幽 学 全 書 (11 ( 」 で あ る が、 年 代 的 に は こ れ に 先 立 っ て そ の 片 鱗 を 紹 介 し た も の は、 明 治 末 に 探 検 世 界 誌 上 に 美 土 路 春 泥 氏 の 書 い た、 「 丁 髷 の 炭 団 屋 (11 ( 」 で あ ら う。 記 録 と し て、 又 思 想 体 系 の ま と め と し ては、素より量に於ても前者の方が数段まさるものではあるが、事東京 の教会出張所に就ての付記に関する限りは承服しにくいものがある。幽 学全書の後記をかいた高木なにがしは多分人づてに聞いた外には何も東 京出張所の事を知らなかったのであろう。 そのことは枝葉にわたるがその人やその未亡人を知っていた伊藤の養 子源三郎自身がすでに自分の一度身を置いた性学の何たるかについては 理解を持たなかったのだから、其処から複写された記述では夫れが見当 を外れていても仕方がない。 結論と言へば幽学を紹介する為めの幽学全書の巻末に、真相を知らな い人による後日譚などが無用だと云うことなのである。 かく言う私の言ひたいのは、今も亦明治維新に似た様な大きな時代の 断層の見られる時、前の維新に直面した時の江戸の武士達は、どの様に してその俄に失はれた安定感を取り戻さんとしたかと云う事の一部分と して、これを佐藤家及びその親戚の上に見様としたのである。 其の様な意味で前記の美土路文書及び後に昭和二年三月の中央公論に 下田将美氏の書いた記 事 (11 ( の方に客観的正鵠さを認めるものである。自分 は見ていないが幽学に関する研究は後に高倉輝氏のも の (11 ( がある筈だし、 陸軍出の飯田伝一氏の小 著 (11 ( もあるし、色々な人の著書がある様だが、私 の場合はその様な先覚者の紹介ではない。 三百年より所としていた幕府の倒れたあとの武士階級が、一私人とし て、其の心の生活のより所として中には藁をも掴む思ひで此の教会に入 り、夫れが又どの様に四散して行ったかを、自分達の同族のある時代の 姿として回顧して見たいと思う事に外ならないのである。 信州には上田市教育委員に小山曲水氏があって、上田時代の幽学の事 を調べて居たようなので、一度訪ねて色々聞き度く思っていたが、戦時 中の事で夫れも果せないでいる内に小山氏も亡くなってしまった。 実の所、私自身も、秩序立って幽学の著などを調べた事はなく、たゞ おぼろ気に聞き伝へていたり、或は見覚えていたりしている東京教会の 姿から、 逆算的にあれこれと記憶の断片にページを打って、 順序を立てゝ いるに過ぎないのだが、客観的な悲劇の人々を、たゞ明治誕生の大浪に 流された藻屑と見るだけで片付けてしまう事の気のどくさと、明治がよ き時代であるならば、其のよさとは何であったかを噛みしめて、其の由 来 す る 所 の 正 義 性 と で も 言 う べ き も の の 残 滓 を 反 芻 す る 気 持 も 手 伝 っ て、此の一団の事共が書いて見たかったと云うわけである。 しかし文筆の人間でない自分には、ちと分に過ぎた大荷物であり、雪 洞もちと年を取りすぎたようだ。 (一月二十二日) 閑話休題。所で性学に参加した諸家を拾い上げると、第一が伊藤悦子 である。当時悦子はすでに未亡人であったと思はれる が (11 ( 、此の悦子の生 家 北 角、 北 角 か ら 養 子 に 行 っ た 佐 藤、 黒 部、 渡 辺、 隼 の 妻 の 里 の 宮 田 氏、その宮田氏へ嫁しているつねの実家伊庭 家 (11 ( から出た妹達田村山口の 二軒、狂言に関係のあったらしい宮内与惣 治 (11 ( の一族、その宮内へ後に娘 の嫁した入江一家、辻永や和田三造、橋本勒助などが上野の美校の生徒 で あ っ た 頃 下 宿 し て い た 内 山 氏( こ れ は 宮 田 の 親 戚 で あ る。 ) な ど が 先 づ挙げられる。 其の頃の此の人々の住所を列記すると、佐藤は下谷竹町に、井上は牛 込の築土に、宮田は日暮里の山の上に、田村は下谷に、伊藤は根岸に程 近い日暮里の元金杉に、内山は前田邸や諏訪邸のあった上根岸の藁葺屋 根の家に住んでいた。
そして新らしい木道具の建築は、上根岸の鶯横町に近い子規 庵 (11 ( の近所 にあった。これがかゝって居た板看板の文字の示すごとく「八石教会東 京出張所」であった。 此所は下谷区上根岸町百二十五番地で、西側だけが隣の屋敷に境して いたが、南北東の三方は、いずれも大小の差こそあれ道路であった。此 の 西 隣 の 屋 敷 は、 後 に 中 村 不 折 の 書 道 の 宝 庫 と よ ば れ た 土 蔵 の あ る 邸 宅 (1( ( となるのだが、その頃は日本橋の老舗、本惣太田吉左エ門の別荘で普 段は大沢栄吉という留守番親子が住んで居った。 此処も以前は誰かの旧居であったらしく、東西二軒の宅地には、共通 の池があって、水だけは一つゞきに成っていた。 此の屋敷を買取る時の名義人は為信であったが、金は大部分悦子から 出た様であった。庭には何本も老松が聳え、南には茶の畑などもあって 広い境内であったが、自分の生れる前の教会の全盛時代には、石毛規方 の話を聞きに、毎日