東敬治の『澤瀉先生逸話籠』 : 東洋大学の漢学者
たち(その四)
著者名(日)
吉田 公平
雑誌名
井上円了センター年報
号
18
ページ
143-210
発行年
2009-09-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002792/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja東敬治の=澤潟先生逸話籠﹄
東洋大学の漢学者たち︵その四︶吉田公平ざ誉§
東敬治が東洋大学に勤務することになった契機については、東敬治自身が証言を残していないし、東洋大学の 記録にも残っていないので、もはや分らない。東洋大学は明治21年に麟祥院内に哲学館として出発しているが、 東敬治が明治41年に陽明学会を組織して機関誌﹃陽明学﹄を刊行した際にも麟祥院内に事務所を設けている。時 間差は二十年。しかし、28年ころには東敬治の陽明学運動は識者の注目を集めて陽明学は東洋大学という評判が 立っていた。麟祥院をめぐる社会活動の人脈の中で、学歴とは無縁であった東敬治は井上円了と出合い、中国哲 学の教授として迎えられたのであろうか。 東敬治には二つの顔がある。一つは東洋大学に於ける中国哲学担当教授という顔である。故郷の岩国から上京 したての頃は万事不如意で生活は困難を極めたに違いない。定職を得たことにより一応の安定を得たであろう。 儒教の中でも王陽明・陽明学を中心にすえた講義を行った。もう一つの顔は、陽明学運動の推進者という顔であ る。日本に於ける陽明学運動の推進者としては、吉本嚢・宮内黙蔵・石崎東国・高瀬武次郎もいるが、組織の大 きさとその持続力、機関誌の長期間発行などという視点から見ると、東敬治の成果は断然トップである。その運 動の目的は人心を開明化して日本倫理の再建にあった。そのために講演活動などを精力的に展開した。陽明学・ 143 東敬治のr澤鴻先生逸話籠」良知心学が日本においては親和性に富むものであることを力説するためにも、日本に於ける所謂陽明学者の基礎 資料の発掘収集、その顕彰に精力を傾注した。その成果は単行本として刊行されもしたが、概ね機関誌﹃王学 雑誌﹄﹃陽明学﹄に掲載された。この成果は特筆に値する。東洋大学が近代陽明学運動の震源地であるという評 判は過褒ではない。今は東洋大学図書館に所蔵されている、その成果の一部を利用して﹃中江藤樹心学派全集﹄ ︵上下二巻。=OO頁。研文出版。小山国三氏と共編︶を上梓したが、我々は東敬治が挙げた成果を今なお充分に活用 し切れていないことを遺憾とする。 陽明学顕彰の中で東敬治なればこそ特にカを注いだ人物がいる。それは東澤潟である。東敬治の実父である。 東澤潟の伝記を執筆し、﹃澤潟全集﹄上下二巻を編集刊行した。親孝行という気持ちだけがこの作業を遂行させ たのではない。それを如実に示すのが東澤潟を一貫して﹁先生﹂と呼び続けたことである。この呼称が一際顕著 なのが、ここで紹介する﹃澤潟先生逸話籠﹄である。私的感情を見事に超越して、﹁澤潟先生﹂を最大限活用し て良知心学運動を推進したのである。 東澤潟︵一。。ωNー一。。q⊃﹂。天保3年ー明治24年︶は幕末から明治中期まで生きた。澤潟塾は明治時代の私塾におけ る師弟関係・講学内容を﹁澤潟先生﹂の﹁逸話﹂集という形で示したのが﹃澤潟先生逸話籠﹄である。 この﹃澤潟先生逸話籠﹄は我々に次のようなことを示してくれる。一つには、近代教育制度が整備される前 の、所謂私塾における修学風景である。塾頭である﹁澤潟先生﹂の個性が大きな役割を果たしているのだが、嘗 ては人格教育が主題であった。知識・技術に主眼が置かれている現今の現状を返照する鏡の役割を果たす側面も あろうか。澤潟塾で人間形成した世代が主役を演じたのが明治時代である。しかし、旧来の制度は近代化・西洋 化を進めるにはもはや充分には機能しない。井上円了が哲学館・東洋大学を立ち上げた所以である。東敬治は旧 144
制度の中で修学しながら新制度の組織に奉職しながら、旧制度の文化遺産を新組織を立ち上げて活用して大きな 運動を起した。井上円了その人も旧制度の中で修学を開始しながらも、高等教育は新制度の中で修了し、その後 は専ら新制度の活性化をはかるが、全国講演会とか講義録の刊行などに象徴されるように、新制度に参入できな い人々を射程に収めた、新知識の普及活動を展開している。二人の活躍時代は、旧制度と新制度が混在して役割 分担をしながら展開していった時代である。それぞれが持ち味を異にすればこそ、需要があったのである。﹃澤 潟先生逸話籠﹄は旧制度の一つのあり方と特色を示している貴重な記録といえる。 凡例。一。逸話を内容により分類することはしないで、﹃陽明学﹄掲載順に排列した。二。複数の逸話がまとめ て掲載されている時、最後の逸話の末に﹃陽明学﹄の号数、発行年月日を記した。三。逸話に番号を新たに付け た。四。漢字は通行体に改めたところがある。五。句読点を改めたところがある。六。二行割りは︵︶に入れ た。七。返り点・ルビは省いた。 ﹃澤潟先生逸話籠﹄ 一。先生の人を教えらるるは、路次随行などの時の講話に、人を感発せしめらるる事多し。蓋し陽明先生の教法 より来るものと思はる。予は嘗て澤潟塾にありし時、先生の遊山せらるるに瓢を持せられて随行したるが、路次 予問ふて云ふ。先生の所には、沢山の書籍があります。彼の書籍は先生一々御読になりしや。と。先生笑つて云 ふ。書籍と云ふものは、心得なくてはよめぬものぞ。其の中には、紙の燗れる程読まねばならぬもあるが、たぶ 入用の用丈を抽き読みにして読むものもある。そこで其法を知らざるものは、我が多くの書を知りて居るを見て 驚くが、愚の甚しきものである。どうして彼の沢山なる書籍を頭からそう一々読まれるものか。と。予又問ふて 145 東敬治のr潭渠先生逸話籠」
云ふ。先生の講義なされるに、其字音を御構ひないか、丸で違ふて居ると笑ふものがあります。と。先生又笑て 云ふ。今日本でも、漢音呉音と云ふ二つある。それが今の支那人がよむ音ではない。支那は今は轡人がとつて居 るので、轡音のである。到底それが支那古代以来の正音かは分らぬ。音が違ふても意は判る。学問は書中の意を 知りて、之をその我々の実際役に立つことにせねばならぬものぞ。其の支那でさえ違ふて居る音を、八釜敷云ふ て、読書にいらざる骨を折るは、此を真の腐儒と云ふものちや。と。予はそこで、先生の読書法を聴くことを得 て、今に至る迄感心して居る。︵村重泰治氏談︶ 二。澤潟先生も、後に至りて人も尊敬せしも、其始は、岩国の郷人なとは、唯是れ一の狂書生と見て、誰も相手 にするものさえなかつたそうである。然るに江戸大橋訥庵先生の闘邪小言は、其頃岩国藩の宗家萩藩中志士の間 に頗ぶる珍重されて居つたので、岩国先輩中に萩に至り、宗藩志士のものより此の書を授り帰るものあり。今日 天下有識のものは、大抵此説であるとして出したるに、案外に其書の校訂者として、先きの狂生徒計り思ひし先 生の名が明記しあるに驚きたりと云へり。此は蓋し先生の知人僧月性が、先生より其書をかりて、吉田松陰に見 せたるに、松陰始めて之を読み、此れは豪い議論ぢや、其人物も思遣られる。成程江戸の片田舎小梅方りに、大 橋と云ふものが居つたが、彼の辺は所謂風流人などの多く居た所であるゆゑ、我も其類と思ふて尋ねなかつた が、我は人を失つたわい。と云ひしことがありたれば、必らず此より松陰先生も此書を其同志間に賞揚せしよ り、自然萩藩中に流行することになりしものなるべし。現に松陰門下の高弟高杉晋作も大橋先生に従学して、其 玄関番をせしこともありたると見え、晋作の筆記せる大橋先生出入の記録が残りておる。此も松陰先生に聞きて 従学することとなりしものなるべし。︵正堂聞見︶。︵﹃陽明学﹄44号。明治45年6月1日発行︶ 三。澤潟先生の学は、種々の所より得来られたるものは固り多かるべきも、先生が最も幼時十三四歳、天保十五 146
年頃までの事なるが、軍談書類取読の一組生じ、而して先生も其組に入りて居られたので、先生の読書に趣味を 覚えられしは、此が其の第一動機となりおることと思はる。此の組は、其初めは、回番にて集会所を引受ること となるも、後武田順佐と云ふものの家ですることに定りたるが、順佐の父楊岸は、画家なるが故に、此の少年軍 書取読組の間に、戦国武士の状態を写す絵画が流行となれり。此がまた先生晩年に絵画の能手となられし源因か と思はれる。其の陽明学に於ても、佐藤一斎翁などより学ばれたものは、其の精微の意義に於ける所に在るの で、先生は江戸遊学以前より、陽明学と云ふことに就ては、往々之を口に挙げて居られた。畢寛岩国には、昔し より学校蔵書中に伝習録は已にありしことを覚えて居る。︵学校本の多くは、宇都宮遜篭先生の遺書なれば、或は其 伝習録も最初遜篭の本なるべし︶。先生も初め之を読みて、世に陽明学あるを知られたに相違ない。︵藤田清痴翁談︶ 四。藤本鉄石は嘗て天下に周遊して、間に各地政事人情英才の有無などを観察せしものなるが、此れが岩国にも 来て居りたこともあつた。此時岩国には唯之を一箇風流漢とのみ見て、誰も其重んずべきを知らなかつたのであ るが、然るに澤潟先生此時十七八歳、毎日其旅寓に至りて、詩の添削を乞はれたとの事である。後に栗栖天山先 生の鉄石に逢はれたときは、世間が大分騒しくなつて来た時でありしが、鉄石が天山先生に語りて、岩国にも格 別人物は居らないが、独り予が滞留中に、詩を見てもらいに来り居つた少年があつた。若今猶在れば相応な年齢 になり居る筈であるが、此書生が居れば、何かするであろうが、まあ外に人は居ない。と。斯う談じたので、後 天山はかへりて其事を澤潟先生に告げ、此は決して先生の事をいつたものに相違ないと語られしと云ふ事があ る。澤潟先生の詩学は、郷里では香川午谷に受け、外藩では門田朴斎翁より益を得られたのであるが、其の藤本 鉄石に学ばれたことも知らねばならないので、顧ふに其間に於る精しき消息は分らないが、恐くは鉄石の先生に 授けしも先生の之に受けられしも、独詩計りではなかつたのであらふ。そは其の天山先生に語られし言で、略推 147東敬治のresaseekmes ru
察は已に出来る。︵正堂所聞︶︵﹃陽明学﹄45号。明治45年7月1日発行︶ 五。予嘗て精義建尚二隊創立の関係、及び其の当時の事どもを、澤潟先生に問ひしに、先生予が為めに語りて曰 く、初我が義団を起すに就て、一日天山と審議し居るに、会々乃父五竹来訪せらる。因て天山をして先づ其の来 意を聞かしめたるに、五竹云ふ。恰も天山も来合して居られしがか。これ幸也。方今天下の形勢を如何と見らる や。宗藩の如きは有志団結して奇兵隊なども組織し士気大に振へり。翻て我藩を顧るに、有司因循、徒に故格旧 例に拘泥し、人才を登庸して時銀を済ふ所以を知らず。かくては吾公尊撰の志も恐くは遂に達せざらん。誠に慨 嘆の至りならずや。因て予は白沙︵白沙は澤潟先生の別号︶及び貴殿と一致協力して、何か一隊を建るを計らん が為めに来りしなり。幸に此の意を通ぜられよと。天山乃ち入りてその由を告ぐ。因て我は之に答えて曰く、此 は至極妙なり。折角其事に就ては、天山と議し居たる所なり。貴君の言大に吾意を強ふするに足る。然るに今お 互が一団となるは得策に非ず。貴君は別に一隊を建てられよ。然れば互に相呼応する事にもなりて自然気勢を張 る上に大利ありと。五竹諾して去れり。是に於て予は天山と策を決し、必死組といふを組織し、随分不穏非常の 事をなし、有司に逼り、遂に許可を得るに至れり。五竹も引続き建尚隊といふを建て、大夫香川氏を総裁に戴き 福原範輔を参謀に推し、五竹其間に立ちて事を執れり。蓋し五竹の家格は﹁組外﹂とて﹁大組﹂の下にありて、 家格一段卑きことゆへ、人の或は附従せざることを慮り、自ら主たらずして別に総裁を戴きたるものにて、事宜 を得たるものである。是に因つて建尚隊に入るもの極めて多く、其の勢力我が精義隊︵必死組と改名︶と伯仲の 間にありしなり。 六。我が立隊は兎も角其志を遂げたるも、遂に罪を受けて南島に流さるるに至る。此れ迄親友と称するものも罪 累の及ぶを恐れ、唯一人見送るものとてはなかりしが、我が艦輿に籠められて送り出され、郭門の外に出つると 148
き、暫くと声をかけしものがあつた。輿丁が停りしゆへ、何事ならんと輿の窓を少し開き見たるに、五竹立ちて 前にあり。予に揖して、此度は遠島との事、誠に無念の至りなり。併し我は決して此の儘にては棄て置かず、必 ず君の志を継ぎて整るるも猶已まざる決心なり。幸に健在なれと。言葉短かく訣別の辞を述べられたり。何ぞ図 らん是れ我と五竹と遂に終生の別ならんとは。此時の五竹の声、今猶予が耳底にありと。暗涙を催されたり。 七。先生猶語を続けて曰く、我と天山と巳に南島に諦せらるるや、前に一旦振ひたる士気もまた其勢力を喪ひ、 有司の専横なるより、俗論の旧弊又熾に、藩中の形勢日に非にして、藩主尊撰の志も殆んど将さに之が為めに捻 蔽せられんとす。五竹憤怒に堪へず。姦権某々等を誌して、我を海島より抜き、大挙して宗藩奇兵隊に投ぜんと して、事露れ捕に就き、遂に斬に虚せられたり。余海島より帰り、始めて其の死を聞き、大に驚きたる次第な り。 八。是より先き五竹已に建尚隊を建て、兵伍を改編し、武備を講習し、只管士気を鼓舞することを務めたりし が、隊中の士には、巳に相当の地位あるもの、及び其他妻子を持つ老成のもの少なからずして、梢もすれば議論 多く、又家を顧みるは人情の免れざることにて、或は万一の用に適せざるを慮り、隊中の少壮死士のみを結び、 別に尊擾社といふを創め、五竹は此の徒を引率して大挙を謀り、必ず尊穰の実行を期したるものである。蓋し最 早尋常の手段にては、到底当時の積弊を打破し、其の主義を行ふ能はざるを以て、遂に此の最後の手段に出でた るものなり。乃父の遺文に尊嬢社人名録序といふ名文あり。其の人名録は累の多数の人に及ばんことを慮り、将 に捕はれんとする時に悉く焼き払ひたるものなりと語り了りて、無窮の感慨を催され、遂に南君緯伝といふ一篇 の文章を作られたり。︵南部保氏寄稿︶ 九。予が諸生時代に、或る史書を読んで、先生に質疑せることのありしが、其の飴りに多くの朱姦を粘附せるに 149 東敬治のreSUt先生逸話籠」
因り、満紙燗然たりければ、先生答へられず。稽久ふして、予に諭して曰く。それは皆字義の質問である。筍も 少しくそれを字書に引出せば、大抵は皆判るものである。然るをその通りに朱纂計を多く着けて来るは、全く索 引の労を煩はしく思ふより起る。鈍け根性である。良師と云ふものは、そんなものに答へるものではない。全体 史書を観るの要は、治乱興亡の由来する所は那辺に在るや否に付て、充分考究をなしたる上に、其の着眼点が果 して其の当を居るやを質すものぞ。若しそれを知らずしては、句々に朱姦を着け、字々に質したればとて、而し て仮令幾百巻を暗調するに至るとて、遂に何の効能もあるものではないと。予は当時此言を聞きて、棟つたとし た。 十。また先生が由宇村に於て教授せられしときは、別に塾則と云ふものもなかりしが如し。而して童蒙須知︵此 は朱子の著にして、陳格門の編せる五種遺規中の養正編内にも載てある︶の一冊が、寧ろ当時の塾則である。現に予 が其時十四歳にて写したるものを所持してをるが、当時の諸生は皆之を写して熟習服膚したものである。抑も此 の童蒙須知は僅々たる小冊子なれども、其内容は凡そ衣服冠履第一、言語歩趨第二、漉掃滑潔第三、読書写文字 第四、雑細事宜第五と分けて、それぞれ其の心得を示したものにして、之を童蒙の時より熟習せしむるときは、 それが心性を蚤くより酒養せしむるに於て至て親切なるものにて、往昔先生我等幼童を教訓せしことを、今更に 感入る次第なるが、予は今は長年諸生と難も、恐らくは未だ一人も此の法則に彷彿たる修錬をなせるものはある まいと思ふのである。︵村童泰治氏寄稿︶ 十一。先生は百人一首一読笑と云ふ著書をせしことはあるも、鯨りに和歌を作られたことを見ないが、一つ斯う 云ふ道歌がある。﹁我道は、杓子せつかい、すり粉鉢、猫のあたまに、あななしの槌﹂。其の意味は中々深くて判 らない。此れは学者が何とか工夫をして考え当てて見たいものである。二は先生が晩年通津驚邸に移られて、予 150
は猶保津澤潟山下に留りて居たる時、先生も時々来られる際の歌。﹁来て見れば、いつきて見ても、面白し、澤 潟山の、秋の夜の月﹂。と。此れは道歌と云ふ訳でもなけれども、先生の風神が見える。此の二首の外は、更に 予の聞て居るものもない。︵正堂所見︶︵﹃陽明学﹄46号。明治45年8月1日発行︶ 十二。澤潟先生の嘗て某地に蟄居せるとき、某壮士の蓋し先生の行事か何かに就て奮激せるものあり。遂に決心 する所ありて、抜剣のまま入来りて先生に決闘を求むることとなりたる時、先生之を叱して具に闘はんとせる も、忽に云ふ。我汝と決闘するは頗る快事なれば、固り避くる心はないけれども、先づ我が本志を告げて汝に聞 かしむべし。其上にも猶意見の合はざれば是非なきことなり。今若し無闇に闘ふて死するも、或は後に其精神が 知れて、此れは互の誤でありたと、後悔することも出たときは、今日の決闘は真の犬死となるべし、如何と。壮 士之を然りとなし、抜剣のまま先づ先生の議論を聞くこととなりしが、漸次聞き居る間に、遂に其説に感服する こととなり、而して其の決闘は遂に中止になれり。此れは極めて彼の王心斎または中江藤樹の盗賊に逢ひたる時 の事と其の様子最もよく相類似せり。︵中原邦平氏談︶ 十三。澤潟先生に其の嘗て絶食せられし時の様子を聞きしことあり。先生曰く、最初の一両日は食欲しきりに起 りて、之を制すること誠に苦しむものなれども、四五日も過ぐれば、全く忘たる如くになり、食物は縦令口に入 るるも、却て吐き出す程にて、精神凝集し、一切の欲念総て空しく、何の苦痛も無くなるものなり。第三日目の 夕刻に、頻りに渇して堪へざるにより、一椀の茶を飲みしに、忽ち全身に泌み渡り、精力頓に加はり来り、始め て茶の効力非常なるに驚きたり。古人絶食せるに、飲茶亦増精力、自今不復飲といひしことありしに、真に其の 言の如し。今時のものは、何か厚味のものに非れば、滋養にならないかの如くに思ふは、寧ろ贅沢の極といふべ し。かくて第七日に至りし時、藩医山縣闇斎が来り、君命を伝へて食はしむ。是に於て予遂に死するを得ざるこ 151東敬治のr醐先生逸頴」
ととなりたるなり。︵南部保氏寄稿︶ 十四。澤潟先生曰く、予南島にありし時、一日天山予に謂て曰く、我等両人を此の島に流したるは、猶ほ平氏が 頼朝を蛭子島に流したるが如し。脱れて長に行き、土に行き、薩に︵行︶くも、吾が欲するがままなり。有司我 輩が何事をも為し得ずと安んじ居るは、其愚寧ろ欄むべきなり。因て脱島せんことを予にすすむ。予曰く、此計 頗る妙なり。然れども、万一捕縛護送せらるることもあらば、武士の恥辱此上なし。今暫く忍で時機の会を待ら れよと。天山復た脱島を云はず。︵同上︶ 十五。天山先生嘗て昌平費に学ぶ。其の帰郷の後、澤潟先生に語て曰く、聖堂考試の文題に蝦夷誌序。詩題に 題藤黄門遁世図といふが出でたり。某は其の文章に全力を注ぎし為め、詩題は時間不足となり、急に考へて見 るも好き趣向思ひ浮ばず。偶々先生旧作の﹁不得不去去亦好。幾回仕立拝皇城。風送絃声知御宴。下宮燈火夜 深明。﹂といふを思ひ出し、之を拝借したり。ところが圏点累々連珠の如く、其の標語に曰く、大獲忠臣去国情 と。これによりて遂に﹁詩文方﹂の任命を博し得たり。といひて大に笑ひ、且曰く、先生の詩を拝借した代り に、一つ謝礼に御土産物がある。それは此の詩の起句であるが、是は直ちに﹁誰識忠臣去国情﹂と改めた方がよ かろうといふ事であつた。澤潟先生。それは千万辱けない。成程其の方がよろしいと云て、遂にそれに改められ しとなり。︵同上︶ 十六。天山先生瓢逸脱濃。常規に拘々たらず。時に滑稽悪戯。人をして絶倒せしむるものあり。予が長兄需嘗て 笑つて予に語て曰く、自分七八歳の頃、一日天山先生の許に遊びに行きしに、先生曰く、需能く来た。汝によき 事を教へて遣はさん。汝彼の坂本泰吉の門前に行き、大声を発して﹁編幅来い、編幅来い、幅幅も鳥の中、坂本 泰吉も医者の中﹂と呼べ。それから樋口文紀の所に行きて、﹁煽幅来い、編幅来い、編幅も鳥の中、樋口文紀も 152
儒者の中﹂とやるのちや。そうすると、両先生大恐悦で筆の二一二本位は屹度貴様に呉れるに相違ない。と云はれ た。それで小供心に面白半分に、先づ坂本氏の門前にて声を発し呼びしが、不在どもにや、何事もない。因て転 じて樋口氏の門前に行き、頻りにやつた。所が文紀先生忽ち大喝一声、小共何を云ふかつ⋮、筆を貰へるど ころではない。却て大目玉を頂戴し喫驚して飛んで帰つた事があると。蓋し坂本家は家世医なれども、泰吉氏は 経史に通じ最も左氏に精しと称せらる。樋口家は世々仁斎学の家筋なり。彼は儒を以て標榜せんとするも、医た るを免れず。此は儒を以て自ら居るも、迂儒たるを免れざることを、小児の口を仮りて識れるものなり。︵同上︶ 十七。福原範輔翁は、天山先生の叔父なり。人となり慷慨義気に富む。其の劔術藩中無双と称せらる。建尚隊の 参謀となり、当時最も活動せり。嘗て姪天山が文学にのみ耽りて、更に武術を知らざることを憂ひ、屡ば之に剣 を授くれども遂に成らず。其の後翁天山と論じて合はず。激怒して天山を両断し呉れんと、忽ち刀を引抜かんと したるに、天山笑て其の刀禰を抑へて曰く、叔父さんそう狼狽するものではない、事は静かに議すべし、と意気 殊に従容たり。翁遂に斬るを得ず。翁後人に語りて曰く、吾此の時は真に天山を斬る積りなりしかど、忽ち天山 の浩気に打たれ、我の怒気は遂にどこかへ奪ひ去られ、漸汗背に淋滴たり。天山心中武あり。我が武は徒に手腕 外形のみ。及ばざること遠しと。澤潟先生嘗て屡々予に語りて曰く、天山のものせる中にて、孟子浩然気章講義 ︵雑誌陽明学第十二号附録に出づ︶及び蝦夷志序の如きは、共に是れ不朽の文字なりと。今福原翁の言と併せ考ふ るに、先生の浩気は蓋し養ふ所の深きによりて得しものなることも亦以て知るべきなり。︵同上︶︵﹃陽明学﹄47号。 大正1年9月1日発行︶ 十八。臼井小介翁は、嘗て奇兵隊に参謀として居たることもありて、長州出身の維新元勲中も、往々此翁の前に 出ては鹸り幅か利す事もならない人にて、翁は何等の容捨もなく罵倒をして居るので、山縣公爵も嘗て翁に向 153東敬治の「瀦先生逸話筒j
て、若し今日罵倒局とも云ふが出来れば、翁は槌に其の局長ぢや、と云ふて戯られたこともある程にて、殆んど 誰人も翁に罵倒せられないものはないが、独り澤潟先生の前に出ると、翁は、丸で小供の様に成つて、先生を尊 敬して居た。嘗て先生の前で、翁は、我は先生門下の顔回ぢやと云ひし時、先生は否々、昔し孔子は老購を称し て猶龍とせしことがありしが、翁は殆んど我の猶龍ぢや、と云ふて大笑せしこともありしき。︵佐伯武雄氏談︶ 十九。津秋助太翁は、先子が通津村に移住せしより、我家の膿焼となりて、現今猶其の世話になりて居る。誠篤 敦厚の老農なるが、此程予に語りて曰く、澤潟先生が通津村に移住せられたる鯨り程遠からぬ時の事であります が、どうも妙なことがありました。其は御存知の如く、私は何の学問もなき百姓でありますが、至て懇意にせら れまして、随分平素台所へも通り、給仕役もするのでありますが、或日夜深けて帰らんとする時、今夜は怪しき ものが来る様子ゆえ暫らく居れ、と仰せられるに因て、定めて此は豪盗でも来るので、先生は闇に警戒して居ら れる事と思ひ、控へて居りました。此時御家属の方は皆寝床の間に入りておいでの後であります。段々夜深て、 玄関に人音がするので出て見ますと、誰か車夫一人を連れて来ておる。所で名を尋ねますると、何とか云はれま した。旧名または匿名かのやうにありました。取次ますと、先生早速其所に迎へられて、ちやんと上席に着かれ るやうに案内されました。御存知の通り先生は大抵自ら上席に居ながら送も迎もせぬ振りでありますに、頗る尊 敬もせらるるにより、何んでも此は豪い御方であらふと思ふて、次に控えて居りますと、助太台所に往きて何か 持て来い、と仰せらるるにより、平生の如く、有合の酒肴を持出ました。御談の意味はさつばり分りません。大 抵の客には奥様がお酒の世話もせらるるに、一向御家属を呼べとも仰せられない。其客人が私を見て、彼はどう 云ふものちやとの尋もあり、私も何となく容捨の心地もするので、引取うとしますると、居れ大事ないとの事に 因つて、ぢつとし居り、其内に客も帰られましたが、其の談話の事はさつばり更に分りませんでしたが、今から 154
考へると、万一若しか其客人は或は伊藤様︵前公爵春畝公︶どもではなかつたしらんと思ひますけれども分りま せんと。助太翁は予に談じた。顧ふに翁の此談は、先子が通津村に移住して予等は猶旧住澤潟山下に在るの時な れば、明治二十年の頃ならんか。此際伊藤公がさしてさの如き秘談を齎して来らる筈もなきやうなれども、暫ら く録して後日の参考となす。︵正堂所聞︶ 二十。澤潟先生の和歌といふては至つて珍敷ものゆへ、響にも聞くがままに書出したるが、今また先生の九月 十三夜の看月に作られたるものを得たれば、書取りたり。﹁六十路経て、十日三つ夜の、月看るも、聖の御世 の、なごりなりけり﹂と。皇朝往昔聖治の御世を遠慕せる情、自然に其の言外に顕れて、先生の作に違ひあるま ひものなるが、但先生は其の六十歳の春を以て残せられたるものなれば、九月十三夜の月を賞せる事はならぬ筈 なり。或は其の前年の作にして、六十路経ての一句は、先生はただ大数を以ていいしものか。猶先生の夫人櫻井 氏も、和歌を善せられしが、其の草稿家に留らず。且つ平生至つて謙譲の人にして、偶作らるも、他に示されざ れば、予と錐も、今猶記憶にあるは、唯七夕の作一首である。﹁ささかにも、庭の小笹に、綜かけて、今宵や星 の、手向するらん﹂と、此計りなりしが、近日親戚の所より、其が小作三首を得たれば、付記す。其の雪中早 梅を読めるは、﹁ふり積る、雪の中より、さきそめて、にほひもたかき、梅の初花﹂。月を読めるは、﹁ふくるま で、なかめにあかぬ、秋の夜の、月にさやけき、滋賀の海つら﹂。鹿を読めるは、﹁おほかたの、秋のあはれも、 あるものを、ゆふへゆふへの、さをしかの声﹂。予が友人歌学者すすきのや大人は、此の三首を評して、梅より は月鹿との順序に、歌品も上り居る様なりと云へり。︵同上︶ 二十一。青山鐵槍翁は、水戸人にして、東都に住居せらる。常に漫遊を好みて、八洲遊記を著せるものなるが、 嘗て中国筋の諸国を回遊して帰りたる時に、或人翁に其の訪ふ所の名士を尋ねたるに、翁直ちに答て曰く、西に 155東敬治のr醐先生逸ssn」
東あり、東に西ありと。蓋し周防は西なり。而して東澤潟先生あり。備前は東なり。而して西微山ありとの意な るべし。西翁は以て東先生に対するは、不倫の甚きなれども、ちよと面白き対語なれば録しぬ。︵生田格氏寄稿︶ 二十二。或る行違の事より、澤潟塾中の学生が願起して、岩国にある某役所を論撃した事があつたが、其の時某 学生が、役場に往き見るに、役員が居らないので、私宅に往つた。所に案外に馳走が出たので、議論が鈍つてし まつたが、さて其事が澤潟先生にしれたので、サー大変になつた。先生は直ちに総学生を集め其列座の前にて、 某生の意気地なきを叱し、僅の馳走で腰を抜かすはどうちや、と散々遣込めて、遂に人は鵜でもなければ、一旦 呑込だものを吐くことなるまい故に、これよりは直ちに岩国に出て、それ丈ものを彼の役人に戻せと厳命せられ たので、某生は半夜三里以外岩国に き戻すことになりて、やッと先生の塾を放逐せられなくて済んだことがあ つたが、此時程学生一般の脳底に響た御叱りはなかつたとは、我々は窃にさう思ふて居る。蓋し某生の失敗をよ き材料にして、一般の学生を教訓されたのである。︵村上賢裕氏談︶︵﹃陽明学﹄48号。大正−年10月−日発行︶ 二十三。先生の著書中に、大學正文といふがあるは、誰も知り居る所なるも、此に就て、先生は嘗て予に語られ たる事がある。曰く、大學に於ては、少時より随分力を蜴したる書にして、嘗て註釈の如きものをも書きても見 たることもありたれども、後思ふに、註釈などと云ふて、自分の説の如く、立派に書立てたとも、其実古人の御 陰で得たものに過ぎないものを、自親に得たかの様にかくは見苦い事である。と斯う考へたるにより、今如く唯 本文を正し、後に古人の説の従ふべきものを附記する事に改めたが、此は多少学問が進みてののちでなけらね ば、案外なしがたい事であると。此時予は孝経に註して孝経解なるものをこしらゑて居たので、先生の言を聞い て、即ち急に其書を殿つて、別に孝経学按として略々大學正文の体制に改めた。︵正堂聞見︶ 二十四。明治丙子前原一誠の騒動せし時は、吉田松陰の姪にて、且つ其後嗣子たる吉田小太郎と云は、其少し前 156
迄は澤潟塾に在り。先生に従学せしものなるが、此者もまた其党中に入りて戦死せし位にて、塾中諸生も人々其 方針に惑ふ模様なりしが、此時旧長藩国老清水氏の嗣主たる、俗称為之進も、︵今男爵資治氏の先代なり︶正に其 の澤潟塾に寓して従学せしが、其の老臣難波草蕎翁︵先月先生と全時贈位されし人なり︶より、我主人事は一に先 生に頼むとの事申来たる。此時先生は顧みて予に謂はれた。人の死生に関する方針などに就き、その一身を頼ま るるは六ヶ敷様なれども、大抵我死生に方針を定むれば、人の世話は容易に出来るものちや、と。而して先生は 直に其の承諾の旨をいと易く答へ置れた事がありしが、また嘗て先生は、一口の短刀を出して、諸生に示された るが、人は此の一物さゑあれば何事も出来るものちやと。語られたるか、一諸生が其れは覚悟の事でしやうとい いしに、先生は頗ぶる其言が其の気に協ふたかのやうにて、嬬然微笑の中に首肯された事もあつた。︵同上︶︵﹃陽 明学﹄49号。大正−年11月−日発行︶ 二十五。西南戦役の起りし頃なりき。臼井小介翁︵雑誌四十八号澤潟先生逸話籠参照︶が先生を訪はるる事ありし に、予随行す。予は従学を乞ふがためなり。刺を通れば、先生欣然早速に座に迎られて直に酒肴を出さる。時正 に午刻なり。翁一酌を受るや、杯を置き、慨然として、九州の騒乱起りたが気の毒なるは西郷翁の軽挙ぢや、実 に西郷翁のために惜むと云ふや、先生願然とし曰く、近来の快事なり。西郷翁の西郷たる所は是れぢやと。闇に 称賛せるものの如し。翁色然として罵て曰く、先生学あるも軍事に暗しと。先生大に喝して曰く、酔老の隻眼を 以て大丈夫の心事を視るを得んやと。蓋し臼井翁は、嘗長州馬関壌夷の際、軍隊指揮中負傷して一目を失す。北 越戦争の際も山縣公と共に官軍に参謀たり。因て諸藩の壮士は皆翁を呼で長州の独眼龍となす。故に先生も亦之 を斥して隻眼とせり。議論共に下らず。而して論は転して弟西郷氏に移る。先生は兄弟の誼として宜しく官を捨 て兄を助け以てよく賊名を雪がしむこと其道なるに、何ぞ袖手平然として兄の死を芳見るやと論ず。翁は大義滅 157 東敬治のr澤潟先生逸話ff1
親の理を以て朝を去る可からずと辮ず。議論頗ぶる反対にして、二人心熱して満面朱を注ぐが如し。予謂ふ此の 勢なれば、遂に腕力に訴ふるか、又は義絶に至るも知れずと。窃かに脂を寒からしめたり。而して俄に先生長大 息して落涙数行、翁も亦惨然とし曰く、今官賊執が勝ち執が敗ると錐も、西郷翁は勤王の士なり。勝ては官軍敗 れば賊とは世諺の如くならんも、固り国家の土台は動くものに非らず。維新の大業は決してそれがために破壊す るの患なし。唯陛下の震襟を如何に悩し座まさんを思えば、恐擢に堪えずと。共に語る能はざること梢久ふし て、先生曰く、今は翁のために柳か酒肴を饗ず。此より共に時局を語らず、愉快に酔ひ玉はば幸甚。翁厚意を謝 し、大杯を辞せず、共に語り、大に笑ひ、声屋外に響き、遂に暁を告るに至り、翁酔眠して前後を知らず。先生 起て翁を顧みて、能く眠れりと、笑を含み、洗盟なして、講堂に出て、塾生の朝拝を受けられ、翁は遂に二泊し て辞去れり。顧ふに前原一誠の事を挙げたる時に、窃かに客を遣して先生を動かさんとせしに、先生は大義を以 て倒に其客を諭して応ぜざりし事もあれば、先生の臼井翁と論ぜしは、或は故意に其辞を反して翁が如何程迄に 覚悟せるやを試みしやも知るべからず。︵佐伯武雄氏寄稿録︶ 二十六。明治二十年かまた翌年の頃にやありけん。故品川子爵当時の大臣として山口県下に来り通津村なる先生 棲隠の地を過られたることあり。大臣人を介して先生所蔵の書画幅を見んことを請はる。先生乃ち秘蔵数幅を出 し、其の旅宿に持ち行かしむ。大臣展開して其の明末名士方密之書高座寺の幅に至り、垂誕に堪えず、之を獲る ことを乞はれたるに、少々其値を云々されたるを以て、先生直ちに一詩を賦して之を拒絶せられたり。其夜大臣 一僕を従へ先生の盧を訪ひ、其の軽忽を謝し、且つ値を論ぜぬゆへ狂て譲与ありたきを願はれたるも、先生遂に 之を許されさりき。此れは予が先生より其後親しく聞きたることなれば、前に録せる︵雑誌四十八号澤潟先生逸 話籠参照︶津秋助太翁の談に、先生が今夜怪物ありて我家に来ると言はれしを以て強盗どもの来ると思ひ、差控 158
えて居りしに、案外に豪い貴顕らしき人の来られけるが、其人は分らぬと云ふてあるが、その怪物の正体は正し く品川大臣にてありしなり。先生遺稿中に、官人某欲獲予所蔵画幅、論価遂止の題にて、名幅由来是美人。明珠 百斜買繊身。球珠不忍高楼別。不信人間有趙倫。と云があるは即ち其時の作なり。唯是文墨風雅の談にして別に 秘密の事はなきようなるも、固り両賢の珍敷対面なれば、書画以外に共に会心の話は必らずありしに相違あるま い。︵南部保氏寄稿︶ 二十七。澤潟先生が晩年絵画に其心を留められて来たので現に段々名幅も残り居ることは既に世人の知る所であ るが、其の之を学びしには別に師傅と云ふはないので、一は直に其は古人の論書著書に研究し、二はまた其古人 の名幅真蹟を看て、而して其の所謂五墨六法などは皆自己より工夫して以て自然に彼の古人の矩燈を求められた のであるが、其の先生を此に導きたるは実は呑霞と云へる骨董商人の老人あるを知るものが寡い。今より思へば 此の呑霞は決してただの骨董商ではないので、寧ろ高韻脱俗の隠君子であると見て宜しい。元来先生は最初別に 絵画の観念はなかりしものなるが、此の老人の少壮時は彼の書家で有名なる沢俊卿雪城の荷物持となりて天下に 遍歴して、多くの名家などに接したるものなるか、晩年帰郷せるものゆえ、先生は其の幅物などより彼老人の談 ずる諸名家の逸話を聞くを楽み、老人の来れば常に酒を設け、段々聞て居らるる中に、遂に絵画もひとつやつて 見ようかと思ふ気も起り、それより多少画幅も求め、論集を読まれたのであるが、其は皆此の老人が勧めしもの である。然るに此の老人中々豪い男で、先生に勧めて絵画をなさしめ、これによりて其の骨董品も売附たるのみ にならず、後は先生の絵画は勝手に貰ひて、それを他に売附るの揚句は、追々先生の筆蹟価格の増すと共につい には自分がその贋筆までもこしらへて売附たるが、先生は頗ぶる其の人物を愛して毫も之を禁制せられないのみ ならず、時々は呑霞どうか高価に売たか貴様は構はないゆえ、出来獲限り高価にせよと云ふて呵々として笑はる 159東敬治のr醐先生逸話籠」
迄にて事済みたり。︵正堂所見︶︵﹃陽明学﹄50号。大正1年12月1日発行︶ 二十八。澤潟先生は、壮年岩国藩にて藩校養老館の教授を勤め、また時勢探訪のため鎮西を巡回せしことあり。 其の何れかの功労によりて藩君より金品若干を賜りたることありけるに、先生金品は重宝なるも失ひ易し。藩君 の恩賜を紀念する事には珍書を贈ふに若かずとなして、即ち其金を以て一部明朝紀事本末を買ひ置けり。其時若 し金品にて置たるならんには其金は已に早く煙の如くなりたるならんと、平生先生のそう云ふて居られた事は槌 に予も嘗て親しく聞いて居る所なるが、其の事頗ぶる彼の新井白石先生が賜金を以て甲冑を製し置かれたる事と 相似たり。其の紀事本末は、頗ぶる美装製本にて、今猶存せり。︵正堂聞見︶ 二十九。先生の鎮西漫遊の時には、肥前にて草場侃川には遇はれたるも、永山二水先生には寛に遇れなかりしが 如きは、予の遺憾とする所なり。二水先生は佐藤一斎翁の門下にて、其学陽明を宗とす。楠本碩水翁の如きは、 二水を以て鎮西第一の陽明学者なりと称せり。鍋島閑里公の襲封当時の初は藩中頗ふる疲弊の体なりしも、後来 卓然富強の実政揚り、維新の際は称して世間強藩中の一英主とせり。而して其のこれあるを致す、全く其の二水 先生のカなり。嘗て閑里公は二水先生と謀りて藩学を陽明主義に変更せんと迄に思ひたることあり。然るに其時 侃川藩校の教官なりしが、上書して痛く其非を論じ、かかる異端邪説の学を採用せらるるに於ては、先づ臣に死 を賜はれて後にせられよと申し込たるにより、閑里公も侃川は嘗て其れが師傅たりしこともあるものなるがため 頗ぶる困り、遂に藩学は先づ旧慣の儘に差置きて、陽明の学は自身一人、及び藩中志士の勝手修業すべきことに 任せりと伝聞す。果して然れば此時若し先生を二水先生に対面せしむれば、定めて同心相照すともゆふべきこと にも至るべきに其事なく、而して其の侃川との学談は必らず相互の討議辮難に見るべきものもありしならんも、 今其の詳細伝らず。猶其の漫遊の時には、先生には肥前月田蒙斎には遇ふて居らるる。其時蒙斎は特に先生に能 160
酒養者不衣而温、不食而飽の語を書して與へたるに、先生深く此に感じて、先生の学も是よりまた一進歩をなせ りと云ふは、そはまた予が先生少時の知人中村松石翁より伝聞せる所なり。︵同上︶ 三十。青山鐵槍翁は、故水府考彰館総裁青山延干先生の次子にて偶々西遊の途次に、先生を来訪せり。先生も流 石水府名家の事にて史学は殊に核博にして詩文も相応に出来、漫遊者には珍敷ものなり、として頗ぶる歓待せら れたるが、但其の頗ぶる書を沽る模様なるを卑しみて戯に一詩を贈りて調刺の意を示めさる。其詩に云ふ。正議 凛然持国体。無人不仰大藩風。拠却鐵槍売文字。世間変態更無窮。と。翁もまた怒らず。亦塊ちず。其詩に和し て云ふ。天数乗除君莫唄。桃源案用避孤秦。煮文鷲字新生計。亦似廟堂売勇人。と。然るに此時翁年恰も六十 飴にて、十八九位の妙齢美人を携へ居れりと伝聞するも、予は未だ其故を詳にせざりき。︵同上︶︵﹃陽明学﹄51号。 大正2年1月1日発行︶ 三十一。予は嘗て澤潟先生の塾に入り、其教を授かりたるものの一人であるが、沖原光孚翁と相識る。而して沖 原翁はまた嘗て其の先生の創立せる精義隊中より出てしものなり。或時予に語て日ふ、維新の際、我隊中のもの の奥州白河口の方面に向ひし時に、一隊十七人で敵中に斬込たる事ありしが、後先生に其状を談したるに、先生 曰く、臨機の処置は宜しいけれとも、惜哉未た兵法を知らず。全体平手に人を打つは拳骨に若かぬものぞと、も と頗ふる先生の賞讃あるべしと思ひて談出した。しかるに、事案外に出て、頗る閉口せりと。其時予も覚えず奮 感を催ふし日ふ、実は某もまた丁度其通りの教を受けたることあり。最も其は某が嘗て拙き詩文を訳もなく沢山 に出して添削を願ひたる時なり。先生散々に叱斥して、其揚句遂に一詩を録して某に與へられたりと。其詩を出 したるに、沖原翁も大に感じて激賞せり。其詩は﹁篇切章磋字句磨。快於利剣鋭於支。用文大抵用兵似。唯貴厳 精不貴多。﹂と是であるが、因り此は作文の法に就て発せられたるものなれども、其意は遂に彼の作文の教に止 161轍治の情蹴生逸話fi」
りさるものありて、予は爾来之を以て吾が坐右の箴となし、万事皆其の精神をもって貫き来れり。︵蜂谷和輔氏 談︶ 三十二。澤潟先生の少時、江戸より帰郷の際、恰も其同藩剣客森脇敬太氏と同伴出発せんとせるに、二人共に路 金に乏く、幸に某豪家の便船ありて借乗せり。其初固り便船の事なれば、終に其の房隅に二人同袋にて睡らせら るることを得て居たるに、一日其褻中より文武軌優の議論起り、二人互に願合ひ、議論腕力並に発し、終夜喧鴛 已まざれども、豪家主人は窃に唯ぢつと聴いて居たが、敢て其を答となさず。翌日よりは二人を推尊して、舟中 の貴客となしたるにより、先生も意外の事より却て大に其の仕合せを招き、舟中も大に其都合善くなりたるとの 事であるか、顧ふに此の豪家も能く塵埃の中に名士を知る所より察すれば、必是れ尋常一様の人物ではあるまい と思ふも、惜哉遂に其の姓名を逸せり。︵正堂所聞︶︵﹃陽明学﹄52号。大正2年2月1日発行︶ 三十三。澤潟塾創立の際は、先生は諦所より帰られてより未だ久からざるの時なれば、其の財政も頗ぶる難渋な りしが如し。固り其の地形は、山を負ひ、海に臨み、白沙雪の如く、真に絶塵の仙境とも謂ふべき場合なるも、 塾舎は僅に掘立の茅葺小屋にして、先生の居宅とせるものも、近地に嘗て其家に総首とか屠腹とかせる事ありて より、妖怪も時々起ると云ふて、相手のなき廉価のものを買取られたるものなり。而して我等が其壁塗も味噌揚 も手伝ひしたる位ひなるが、先生少しも頓着せられず、其堂に掲げてあるは、誰かが船の額に製したるの不用の ものを呉れたるに、先生自ら松月と題し、それも門人中の誰かが刻したるものなり。当時先生が予に賜はれたる 書がある。 人唯要尽凡情。凡情尽時即是聖境。不要想聖境。聖境想時。巳入凡情。良知之学。本無別法。於是洞徹透 発。宇宙皆在我。今人為学。一日理気。一日善悪。識別愈精。障碍愈深。 162
と斯うてあるが、以て先生が当時如何なる胸次をなし居られしかも分る。猶此れには、赤穴士敬持紙乞言、余病 廃日久難可告。挙旧聞答之、神明之在其人。勉之勉之。と云ふ小祓も附してある。因て予は今によく大切に此書 を保存して敢て忘れず。︵赤穴麟郎氏寄稿︶︵﹃陽明学﹄53号。大正2年3月−日発行︶ 三十四。澤潟先生の母、財間氏は、晩に小念と称せられたるものにして、其は固り女傑と云ふべき勝れたる人物 なりしことは、予も嘗て稔聞せしものなるも、予は未だ其の精細事実を知らざりしが、一日予は先生を訪ふて、 遂に泥酔に至り踊珊帰来せるに、夜は既に深更にして、一箇小嶺を喩行ことなるが、覚えず半途山中に倒れた り。忽に人の来りて、我を扶披するものあり。驚き問えば、畢寛先生母堂より遣はせる人にて、暗に予の帰路を 護衛せしものなりけり。其の用意の周到、情意の懇側、予もほとほと感服し、始めて深く先生学業の日々盛なる も、一は此の母堂の闇助による莫大なるを知るに至れり。︵故山中鶴三郎氏談︶ 三十五。予は薩人なるが、予が周防山口に宙遊せしは、明治十三年の晩冬なりしき。予は其の当時笠を戴き莫産 を被り、宛然乞童の姿にて、先生を尋ねたるに、先生少しも怪まず、快く予を引見して曰く、維新前は常に薩人 と相往来せしも、隠居後は遂に相逢ふの機会を得ざるのみと。酒中維新前後の時事談或は薩摩陽明学の評論談な どありて、遂に筆硯を呼び、墨書露根蘭を写し上に一詩を題し予に贈り、而して其の押せる印章刻文に、趾與魑 魅争光とあるに就きての典故を述べられたり。其詩に曰く、蘭到露根不受塵。枯槁猶似楚追臣。芽芳狼籍無人 拾。憔風悼雨不堪春。と。予思ふに、今此事たる、実は偶然先生が、予を引見せし際の墳事に過ぎざれども、今 に於て世の先生を敬慕するものに知らしめたらんには、此れ猶或は其間に以て我先生の片影を窺ふべきものなき にしもあらざるべし。故に特に之を記す。︵日向都城貴島基寄稿︶︵﹁陽明学﹄54号。大正2年4月1日発行︶ 三十六。澤潟先生は、嘗て近江八景に倣ふて、其の澤潟塾開業の時代に於て、其眺望杖履の渉る区域間に八景を 163 東敬治のrffas先生逸話籠」
選ばれしことのありたると見えて、此節南一枝翁遺稿中に﹁澤潟塾八啄応白沙君嘱﹂と題せるものを見当たれ ば、菰に摘録して以て先生の当日寄興高懐を偲ばんと欲す。翁名は厚、字は士載、岩国の隠士にして、嘗て広瀬 淡窓に従学せし事もありて、詩に長ぜり。 潮来磯石残。游鱗洋焉焉。潮去汀沙白。亮驚就暖眠。潮来已可去亦可。幽人随虚渾適然。︵澤潟春潮︶。 澤潟は保津村の東端海中に斗出せる高岬にして、老松其上に乱植し、極めて絶景なり。而して先生其下に棲居 す。原と面高と書せるを、先生其字の雅馴ならざるを疾みて改書せり。面高、澤潟、共に﹁おもたか﹂と読むに よる。先生嘗て﹁門無戴冠客、室有参禅床。睡足伴春鴨。詩成観夕陽。﹂の句あり。また此の詩と相発す。 荻原今無荻。万松接天青。一路明月下。独踏樹影行。四顧蓼々海気冷。秋籟幽虚不堪情。︵荻原秋月︶ 荻原は保津より隣村黒磯に至る途中に在り。先生は嘗て此地路傍篁叢中より、新生の紫芝一二本を采得て帰り、 頗ぶる悦んで珍重せし事もありたり。 嶺西人絡繹。営々遂鳴鶏。嶺東書声起。香姻出暁斎。山霞欲分人清濁。一抹隔得嶺東西。︵通嶺暁霞︶ 通嶺は保津より隣村通津に輸ゆる峠を名く。澤潟岬もまた其嶺より流れたる一支峰なり。先生晩年通津龍邸に移 り、予猶澤潟岬下に在るの時は、花辰日夕、先生は常に其嶺より往来して甚だ楽めり。 水天凝一碧。夕陽海気澄。布帆点其際。如蝶游青郊。好携酒具上舟去。姫子迎人喚欲応。︵姫島夕陽︶ 姫子島の事なり。澤潟岬の海岸に立て左望すれば、遙なる海中に一拳大の小岬あるは、即ち是なり。先生は嘗て 一度の彼の島に遊ばれたる事なし。唯眺望せるのみ。 群鴻相呼下。沙汀月似霜。僻地少量支。秋田多稲梁。兼葭影裏秋眠穏。無復残夢到瀟湘。︵白沙宿雁︶ 白沙は、地名に非らず。先生。棲居せる澤潟岬下の海岸は、自然に湾を成し、白沙鮫潔雪の如くなるを以て、先 164
生仮に其を以て其の見渡せる海岸の総称とせり。先生の別号白沙は、其の澤潟卜居前より事なれば、此より取れ るには非ることは明なり。先生の旧宅は嘗て岩国旧藩城下沙原町にあるによるとせるもあり。又は先生最初陳白 沙を慕はれたるものとせるもあり。先生平生其故を説かす。但し先生の嘗て作れる白沙心漁伝を見れば、略々其 意を知るべし。 漁舟如落葉。片々遂浪還。十里磯石黒。盧花埋孤村。村晴連日殊多穫。老妻炊飯児僕門。︵黒磯帰舟︶ 黒磯は農漁相半せる村落なるも、此の八景の一勝に入るは、蓋し其海岸の漁村に在り。 股々雷声迅。■雲残遠村。模糊海面白。駅雨忽傾盆。珍重鯨沢及書塾。満簾涼風夜読人。︵雄津駿雨︶ 雄津は即ち由宇村津口の略辞なり。由宇川口の開作堤上の松樹排列の状、澤潟海岸より望めば、三保松原を観る が如し。 日喧海気晴。呼酒書窓閥。天辺多少山。歴々落九席。人道江南春色早。怪他積雪幾峰白。︵豫峯飴雪︶ 瀞荘たる海を隔て、丁度其の澤潟海岸より其の前面の遠空を眺むるときは、天辺澹墨の画き出せるが如き雪峰を 観るものは、豫州の高山なり。先生時々軒に椅り、或は楊を沙上に移して遠望放眼興を催せり。︵正堂所見︶︵﹃陽 明学﹄55号。大正2年5月1日発行︶ 三十七。先生は極めて写字に長せり。晩年はさう多くの写書もせられざるも、壮年の頃は日に一巻位の事は容易 に出来て、先生の手写本今猶多く家に戚せり。先生嘗て予に告ぐ。写字をすれば、三度履読するよりも精しく、 且つ記憶に留まる。また抄録がよし。抄録すれば其書の要所をのみ抜いて自己の役立つる事が出来、且つ書物を 浮と読まぬ、よい癖が附く。丁度蜂が密を造る様のものちや。と頻り写字の効力を開示下されたるも、其の当時 は深くも意に留めざりしが、今日に至り、写字の埼明ざるがため、鯨程に事の不自由を感ずるによりて、始めて 165 東敬治のr澤潟先生逸話籠」
深く当時其教を忽諸にせしを悔ゆ。先生また曰く、学者の梢読書力が着けば、先賢の随筆ものを看るがよい。是 れは学者の知識を長ずるに於ける捷径であると。予謂ふ、此は猶今日よりも勉められる。︵正堂聞見︶ 三十八。先生嘗て曰く、岩国片山翁は歴代劔術師範の家柄なるが、嘗て翁に詣るに、翁恰も障子の側に潜み、右 手木剣を持し、頻りに手を揺して予の妄動を戒しめらるるに似たれば、予も暫く様子を見合せ居りしに、翁は忽 ち障子を開き庭の池畔に立ち向はれたるが、融の池中より出て来るあり。翁輻ち一撃してそれを蜷せり。其の手 の熟練せるは固よりの事なれども、此れ機なり。徒に熟練計りにて能すべきに非ず。蓋し翁は彼馳の毎に其の池 中の養魚を害するを見て、打取らんと思へるものなれども、其の池に残するを待ちしこと妙なり。彼れ池中に入 りて前後を覚へず。そこで其の水より出で来る所を窺ふて一撃せり。夫れ天下の事皆然らざるはなし。荷も其の 自己の学力芸術のみを侍みとして、物情虚実の活機を知らざれば、遂に何等の事をもなすことは出来ぬものな り。また先生の厳父蕃蔵翁は嘗て其の剣法を片山氏に学んで達人と称せられたるるものなるが、平常箸にて膳縁 に留るの蝿を多く打落して戯となせる程の手練ありたるも、而も其の剣法を論ぜるには曰く、心を運すを上とす と。予謂ふ此即ち所謂片山流師資相伝の秘なるべし。︵同上︶︵﹃陽明学﹄56号。大正2年6月−日発行︶ 三十九。澤潟先生の所には、随分変なものも多く出入せる中に、近所に津谷河図吉と云ふ老人が居て何時もよく 先生を尋ねて来をつた。此老人頗ぶる禅学に通じて、毎に其傍人に向ひ、昔より釈尊などの所には、天龍夜叉非 人と云ふ種々のものが出入して御用達をもして居るのでありますが、私どもの先生の所に参るは、丁度非人が釈 尊の所に参る様の訳であります。と云つて居つた。 四十。或時此老人が、先生に杉民治翁︵吉田松陰の実兄にして、此時某地の代官となりて居た︶へ何か頼れて呉れ と云ふて、先生がそんなことは嫌やぢや、と断るにも構はず、うるさくせがむので、先生そんならよし、一つ附 166
状を書くから持て往けとて、封書を渡したが、其中には此老里は中々喰ゑない男で、其言も浮かと聞込と間違も あるが、随分豪い老里ではあるゆゑ、其積りで遇ふことにせられよと書いてあつた。後に其事が知れて、老人首 を掻いて、此度丈は丸で先生にやられた。丁度犯罪者か捕虜が引渡をせらる様のものを、態と鄭重に持参した は、私は此程沽券を落したことはなかつた、と云ふて笑つたこともあつたが、此の老人は嘗て禅機を持って栗栖 天山先生を負かした事がある。 四十一。或時天山先生が此老人に問ふた。其許は禅学を修めらるるそふなが、全体禅学と云ふものはどんなもの か。老人さればでござる、先づ達磨はどう六祖はどうのと云へかかると。天山暫らく押へて、それは昔しの禅で ある。予の尋ぬるは今其許の修むる禅の事をぢやと云ひしに、老人大に平身低頭して云ふ。此れは全く遣込めら れた。実に一言もござらぬ。天山重ねて云ふ。是非まあ我に告げて下さいと。すると、老人もう返事は済んで居 ります。どうか先の言葉で御勘取りを願ひますと云ふて、空哺いて微笑した。澤潟先生が後に此事を談じ、唯此 丈は流石の天山も却て此の老人に負かされたと云はれた。 四十二。また先生は嘗て亀井南漠の書幅を懸て居られたが、其の書幅は、郎乗去潮去。応乗来潮来。借問潮頭 月。郎今回不回。と云ふ五言絶句の詩で題は今槌に記臆せざるも、長干行とかあつたかと思ふ。そこに河図吉老 人来りて、一たび其を読下すや、讃歎して云ふ。此は誠に結構なる幅物でござる。朝夕に此幅を調請すれば、一 部女大學を百万遍繰返すよりも、猶優るの功徳あるべしと。先生莞爾として云ふ。如是々々。後先生も漁村の詩 が出来て居るが、蓋し先生もまた闇に此詩の意を敷術せるものに似たり。其詩に云ふ。日出送郎帆影遠。日入望 郎櫨響微。潮去潮来潮無尽。祈郎日々獲魚帰。河図吉老人は、何時か、法華経を毎朝水垢離とて、冷水浴をなし ては読むことの誓願を立て、十数年満願後は遂に其の経巻を土蔵して一碑を其所に建て、これが紀念とせし事も 167東敬治のr醐先生逸話舶
ありたり。︵正堂見聞︶ 四十三。澤潟先生伝中に、先生が嘗て年賀として禅僧橘仙和尚の所に至られたるに、謙信信玄優劣論が始まり で、遂に年賀を告ぐることを忘れられたるとのことあり。然るに此の傑僧橘仙の遺篇としては、其が世に伝はる もの至て寡なきを以て、予は曾て其居住せし寺に詣り捜索せしが、遺物としては終に其の一箇破屏風あるのみな るも、蓋自作六篇の詩を書せるものなり。而して詩もまた極て禅機を発揚し、決して尋常詩人の辞を以て見るべ きものにあらざれば、予は其当時写来りて時々沈吟玩味せるも、今特に此に録して、以て先生交情の深きも、ま た其故あることを表さんと欲す。其詩に曰く、 波心浮月月応撹。水洗枕辺耳也清。誰言免道多騒客。縁底今宵訣笛声。 一領袈裟重七斤。満肩指去坐欣々。窓外夜雨握々着。這裏無心谷口雲。 有約早行正是寅。雪華綾乱残畦珍。行人只知夫頂重。忘了脚眼踏白銀。 万機休罷不存些。日愛檬瞳異類歌。一睡呼醒千年夢。空手撃来一椀茶。 数尽高山幽谷虚。清蓼秋水與長天。勿在菊花叢裡住。香風狼籍過那辺。 先生自起嗅寒梢。黙識東風動草茅。夷帽髄珍閑旧具。都来欲向朔方拠。 と。斯うしてあるが、偏と見れば偶の如く、詩と見れば詩の如く。反覆調諦せば、彷彿として、夫の明儒陳白沙 先生の詩を読むが如き感あり。また予は今橘仙の一書幅を蔵す。﹃諸法因縁生畢寛性空﹄の語あり。亦以て其学 を知るに足る。橘仙は曽て加賀瑞龍寺に住せしも、後岩国安禅寺にて寂す。︵同上︶︵﹃陽明学﹄57号。大正2年7月 1日発行︶ 四十四。先生嘗て云ふ。凡そ私塾でも新に開業しようとせば、諸生の草履揃までもして遣る覚悟で掛らなければ 168
出来るものではない。私塾のみではない。凡そ天下何にても、荷も事を成そふと思立つるものは、皆其の通り と。今思ふに、先生此説は極めて夫の陽明先生が賊酋謝忠珊が世に筍もこれぞ好漢ぢやと思付たるものに逢へば 決してそれを観過さないで、そのためには充分の力を費すを厭はなくて、以て其の自然に我に感孚するを待つて 遂に我党類に引入れる。而してよく此の如きの賊党を纏め得たと云ふを聞きて、我等が講学に友を求むるも、亦 其通り云はれしものと、其意極めて能く似て居る。︵正堂見聞︶ 四十五。渡辺畢山翁と佐藤一斎翁との疑問。畢山翁の陽明学は、一斎より授りたるものにして、近時某著書華山 研究中の畢山翁自作文心の掟にも、一斎を交遊中第一位に置き、﹁心事の相談致し万事不隠候事﹂となせり。而 して畢山の罪を得るに至りしは、大塩平八郎徒党の嫌疑によるも、畢山は平八郎と平生全く相識らざるを、鳥井 耀蔵の議訴せしものと伝へり。畢山入獄の時、交遊せる諸子は皆これがために奔走せるも、然も一斎悟然として 独り何等の援けをなさず。当時一斎幕府の儒官として地位高し。交遊中最も有力なるものなるも、空ら知らぬ貌 をして居るは、何ぞ心事を談ずるの交とせんや。而して其の深く立入り言込み、遂によく畢山を救ふて出獄せし めたるは、却て平生交疎なる松崎嫌堂にあり、と云ふが此実に大なる疑問である。或は云ふ。鳥井は当時大學頭 林述斎の弟なるを以て、一斎我心に憧る所ありて、或はそのため自己の位置を危せんかを恐れたる臆病心より其 態度に出るものなりと。或は云ふ。然らず。一斎と嫌堂とは至つての親友なれば、懐堂の死力を出して彼を救ひ たるは、皆一斎の方寸より出てたるものにして、其実一斎の救ふに同じ。畢寛一斎の老練にして、世人浅知の測 る能はざる所は是であると。両説未だ執か真なるか。暫らく録して疑問とす。︵正堂記︶︵﹃陽明学﹄58号。大正2 年8月−日発行︶ 四十六。天里寺住職雄峰和尚は、先生が晩年殊に相往来せられたる方外友であるが、此和尚は随分一僻ある和尚 169 東敬治のr潭潟先生逸話寵」
にして、世間からは巌狂僧と呼ばれて居つた。平生見識高く、何所かで原坦山とは同学で別懇であつた様子で、 坦山丈は随分賛めて居つたけれども、洪川の如きは丸でただの売主僧の如きもののよふ思ふて居つた。此の和尚 はとくより時の機運を察したものか、一旦其寺の建並べたる天聖寺の殿堂を悉く殿ちて田地とした。而して其寺 に所轄せる或る一峰頂山にあるちいさな観音堂に入つてしまつた。而して此よりは別に壇越門徒の力によらない ことになして、傲然として独り世を罵り俗を呵し、実にちよと俗眼には其真相の分らない奇僧であつた。此和尚 初め祐峰と称したのであるのを、先生が嘗て此れ其意の必らず彼の百丈禅師所謂独坐大雄峰より取りたるものな るが、其を祐峰とせるは、蓋し和尚の謙意に出るなれども、今より我澤潟が和尚に許すにより宜しく明々雄峰と せられよと云はれたるに、和尚欣然として、遂に其の言に従ひたるものなり。また嘗て此の和尚が何かの事によ り、其檀家某を怒りて喧嘩訴訟を起したることのありしが、檀家は其権勢を侍みて、和尚を圧迫せしかば、和尚 頗ぶる弱りて、先生に告げ、全体仏道は忍辱に在るものゆゑ、マア負けて置うと思ふと語りしに、先生之を叱し て、仏道が忍辱なれば、何ぞ最初に喧嘩を起す。それは腰抜けと云ふものちや。腰抜坊主に仏道はない、そんな ことならば以後和尚と交際することならぬと追ひ立られたれば、之によりて、和尚も大に其力を得て、檀家も遂 に屈服せしことになりたるが、和尚は爾来談荷も澤潟先生の事に及ぶ毎には、実に先生程豪気な御方はないと云 ふて心より感じて居つた。︵正堂聞見︶︵﹃陽明学﹄59号。大正2年9月1日発行︶ 四十七。澤潟先生は識見極めて高く、因て何事に限らず、彼の清国人の如きは、丸で眼中に置かれずして、ナー 二彼の辮髪児が何を知らうそ、と云ふやうに思ふて居られたが、嘗て清客方継儒と云ふが尋ねて来たので、先生 珍しく思つて歓待された。其時彼が詩を先生に呈したるは、先生も非常に褒められた名詩がある。﹃為仰高風謁 玉堂。清韓雅話洗枯腸。阿儂本似浮薄藻。万里吹来依繭香。﹄と斯うであるが、誠に面白い。或は彼が其自国先 170
輩の詩を窃みて書したるやも分らず。方正学の子孫と云ふて居つた。此は固り嘘である。其時先生が貴君は予の 書法は何より来る、言ふて看よ、と云はれしかば、彼は先生の書は米帯より来ると答たりしが、後先生は、日本 人の書は皆強い。而して彼邦では只米帝許り。因て彼土のものが日本人の書を見ると、皆米帝流と見えるらしい が、全体筆は柔翰とも云ふて、強い許りが妙ではない。彼に次では東披が強い。予は米苦の書は学ばないが、初 年に東披を学んだのが、遂に悪癖となりて甚困る。と云ふて、晩年は鯨程王右軍の法に苦心されたが、陽明先生 の書も学ばれた。尤もそれも行草の事で、楷書は、先生は初年は頗ぶる清初成親王の書を好まれた様なれども、 それは例の辮髪児と思はれたるか、中年以後は、文衡山の厳整なる所に変じたらしい。晩年は頻りに察畠が郭有 道の碑文を臨書して、漸次古質の体を喜ばれたかのやうにある。而してその書に至つては、務めて唯米苦の法に よられたので、先生は、実際米帝の筆は之を書に用ひては頗ぶる怒張の気がありて宜しくないが、之を書に用ひ ては、古今遂に誰一人の之に及ぶものはないと云ふて居られた。故に其詩に云ふ。平生吾重裏陽翁。妙奏雲姻溌 墨功。暮年学書所何得。唯在濃々淡々中。︵正堂所見︶︵﹃陽明学﹄60号。大正2年10月1日発行︶ 四十八。東澤潟、周防岩国に居り、三層楼を起し、楼上に坐し、読書す。遠近賛を執りて其門に游ぶもの甚だ多 し。澤潟陽明王氏の学を奉じ、気宇浩訟、才鋒人を圧す。其師弟を講ふるや、多く目前の事実を借りて指導す。 松村翠蔭、曽て其塾に在り、一日起居を侯す。後障整閉せず。澤潟大喝して曰く、障の閉開、亦其心を看るに足 る。足下等の丹田平静ならざる、此の障の如しと。翠蔭縮然改容す。︵依知川敦氏抄寄澹如纂記一節︶ 四十九。或時徒を聚めて説話す。曰く、楠氏の赤坂に城くや兵寡く糧乏し。加之、城壁未だ完からず。然るに関 東大軍を発して之を攻め抜く能はず。足下等攻城の将とならば能く一日一夜にして之を陥るるの謀ありや。否 と。門生等轍傲甲論し、乙駁し、舌戦時を移す。澤潟乃ち喝して曰く、愚人天下の謀士戦將を集めて猶ほ一孤城 171 東敬治のr澤潟先生逸話籠」
を抜くに苦しむ。況や爾等少年、豊に其謀を得ん。是れ死学のみ。宜しく宇内の大勢に達し、其眼を有用の事に 着すべしと。拳坐呆然。︵同上抄寄東海文詩第一号︶︵﹃陽明学﹄61号。大正2年H月1日発行︶ 五十。澤潟先生は、往々吾等が意表に出る挙動のありしことは、蓋し一二に止らざるも、近世儒家中には実に珍 しい活眼の先生であつたが、其代り随分痛癩者でもあつた。嘗て予が澤潟塾に在つた時、塾中に熱病者の発生し たるにより、予某友と二人隣村医師を迎ふるの命を授り、出向たり。其病者をば帰来必らず徹夜看護の事あるべ ければ、二人気味悪く、因つて医師をば先づ急行せしめて、自分二人は酒店に飛込み、大杯数酌を傾けて帰りた れば、先生其酒気を帯ぶるを見て答めらる。固り市中飲酒は塾則の大禁なれば、予等大に櫻れたるも、包匿する ことにならず、実を吐きたるに、先生頗ぶる之を首肯し、遂に其看病者の総てに酒を與へられたり。予は当時其 の意外に驚きたり。また塾中にて時々風呂を立て入浴することあり。其の都度必らず先づ初湯を先生に告げて浴 を乞ふことの例なるが、先生は毎度来浴をせられざるにより、或日先生に告ぐるもの、未だ帰らざるに、書生先 を争ふて入り、赤裸々にて曝ぎ居たりしに、案外にも先生来られ、其体を見て散々に叱斥を受けたることもあり たり。先生の挙動には往々箇斯の類が多かりし。︵香川香南氏談︶ 五十一。旧岩国藩諸士の中にては、澤潟先生の誉めて居られる者は鹸り多くはなかりし様なるが、独り柔術家の 樋口安輔と云ふは、先生も随分誉めて居られた。此れも先生より聞たる事なるが、何でも江戸時代、矢張回向院 の大相撲の時、樋口氏が見物に来りて、其力士等を評して、彼れは先づ二畳で打殺て遣られる、彼れは三畳か、 或は四畳と云ふて、平気で大笑しながら見物し居れり。其二畳三畳と云ふは、其場所の広狭によつて、我働に難 易あるによる。其れに樋口翁自身は痩こけたる体格にて、到底力士に対して較ぶべくもあらず見えたるにも拘わ らず、斯る大言を吐くとも、諸力士も逡巡して誰も其言を答めるものはなかつたそうな。されば此の樋口翁も 172