和辻仏教学における原始仏教の根本的立場と現象学
: 「法をあるがままに知る」はどのように解釈され
たか
著者名(日)
田崎 國彦
雑誌名
井上円了センター年報
号
6
ページ
156-128
発行年
1997-07-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002832/
和辻仏教学における原始仏教の
根本的立場と現象学
怯をあるがままに知6Jはどのように解釈されたか 田崎國彦t。、aki.k、、n、h、k。 0.『原始仏教の実践哲学』と現象学一一一問題の所在 和辻哲郎(明治22[1889]一昭和36[1961])が1927年に著した『原始仏教 の実践哲学』(『実践』と略)(Dは、刊行当時・以後も含めて仏教学界に大 きな衝撃と影響を与えたと言われ、近現代日本の仏教研究史においては 「古典」とも称されている。しかし、『実践』は、精読と理解にもとつ く批判・批判的継承という点では恵まれず、敢えて言えば《仏教学界に おける不遇で孤独な存在》であったように思う。特に『実践』に対する 諸批判(2)は、彼が仏教的視座からだけでなく現象学的視座からも原始 仏教の根本問題一『法とは何か(解答:二層の法;本稿〈2.〉のテーマ)』 『法をあるがままに知るとはどういった事態か(解答:真実の認識;本稿 〈3.〉のテーマ)』の解明に取り組んでいる点を考慮していない。後論に おいて明らかにするが、『実践』における先の根本問題に対する「従来 とは異なる新たな解答」に論理的な明晰さと体系性を与えたのは、カン ト哲学ではなく、フッサール(Edmund Husser1;1859−1938)の《現象 学》である(3)。和辻がフッサールの『論理学研究』(第一巻は1900年に、 第二巻は1901年に初版が刊行され、増補改訂した第二版は1913年の刊行)と 『イデーン1』(第一巻は1913年に初版刊行)を読んでいたことは、『実 践』及び後述の『倫理』における引用などから確認できる(3)。こうし た私見は、例えば、次のような和辻仏教学に対する見解と対立する。 山折哲雄「やせほそった「仏陀」一一近代仏教研究の功罪を問う一」 は、原始仏教の縁起説、特に無明の解釈に関する「木村泰賢(1881一1930)一和辻哲郎・宇井伯寿(1882−1963)」論争を取りあげて、両者を順 次〈盲目意志(無明)一ダイナミックな生命的・心理的解釈一仏陀の内部 生命という深層に下降せんとする問題意識と方法一ディオニソス的〉 スタティックと、〈仏陀の根本思想を知らぬこと(無明)一静的な論理主義的解釈一論 理主義的な実証研究一アポロ的〉という意味系列として対立的に捉え、 論争の結末として残された「漂白された残骸」の如き木村説の再評価・ 復権を主張している。本稿に関係する和辻は、特に〈ショーペンハウエ ルに依拠した木村一カントに依拠した和辻(4)〉という対立構図で捉え られ、近現代日本の仏教研究史上に概略、次のように位置づけられてい る。『理性信仰・論理信仰という日本近代の仏教学研究の根本軌道は宇井 によって敷かれたが、その軌道の啓蒙と普及に絶大の威力をふるったの は和辻であり、その方法と思考はやがて学界の主流を形成し、共通の常 識、定説の地位を得るに至った』(5)。和辻は学説として宇井を最も信頼 しているが、和辻・宇井を学説的に同類と解し得るだろうか(6)。和辻 は、宇井と同列に『学界の主流を形成し、定説の地位を得る』ほど、理 解されたであろうか。和辻の「法」解釈は、カント(特に範疇論)に依 拠しているのだろうか。木村説は筆者も再考すべきと考えるが、和辻仏 教学に対する博士の御見解には疑念を禁じ得ない。 本稿は、以下にあげる諸理由から『実践』「第一章 根本的立場」を 主な考察範囲とする。第一章には、次項で述べるように和辻仏教学の核 心部、即ち先の根本問題に対する解答の大綱が論述され、後の主著『倫 理学』へと通底する日常経験の重視・実践哲学・自我を否定する無我の 立場・否定の運動を通じて根源(無自性空)へと還帰する運動といった 考え方も表明されている。第一章は彼の仏教関係の全著作の中で最も重 要な箇所であり、この章の理解なしに和辻仏教学は語り得ないと考え る。『実践』の基礎となった遺稿の講義ノート『仏教倫理思想史』(1925 −1926年;『倫理』と略)(7)は、必要な範囲内で取り上げることにする。
本稿の目的は、上述した理由から第一章に見られる現象学の影響を受 けた記述に注目しつつ、『法(dhamma−)をあるがままに知る』(本稿の 副題)すなわち「真実の認識」(8)が和辻の言う《原始仏教の根本的立場》 であることを論証し、更にそれがどのように解釈されているかを解明す ることにある。なお、テキストとしては岩波書店刊行の『和辻哲郎全 集』(全集と略)を使用する。『実践』は全集第五巻所収。『倫理』は全 集第十九巻所収。以下、出典箇所を記す場合、両書の巻数は省略する。 また、パーリ本はPTS版を、漢訳経典は大正新脩大経蔵(Tと略)を 使用する。 1.真実の認識と原始仏教の根本的立場 和辻は、『実践』序言において自著を《原始仏教の哲学、特にギリシ ア哲学の潮流と異なる独特な「実践哲学」に関する純学術的な研究》と 位置づけるが、それは、内外にわたる当時の権威ある研究書に対する批 判的検証、及び原始仏典(パーリ・漢訳の経蔵と律蔵)に対する文献学的 研究の成果「序論 根本資料の取り扱い方について」(例:経文における 新古の層とその理論的展開)にもとついて(9)、経文を常に典拠としつつ 自らの解釈を論述するという方法・態度に端的に反映されている。 では、和辻は、具体的にどのような経文を「真実の認識」と呼び、そ の経文をどのように解釈しているのだろうか。この二点を確認すること からはじめよう。諸経文の中でも原始仏教の教理・理論の核心に据えら れ、最も重視されるのは、「無常・苦・無我」説である。彼は、「無常・ 苦・無我」をもとに〈五羅→六入処など→縁起説〉という「法」体系の 理論的発展を想定するため㈹、真実の認識を定義した文章(〈如実知〉 定義文)も次項の〈二層の法〉説も、「五緬あるいは六入処の無常・苦・ 無我を説く諸経文」を原資料に論述されている。その代表的経文を以下 に引用しよう。これが「真実の認識」すなわち『法をあるがままに知
る』(=如実知)を説く経文である。パーリ本・相当漢訳を対照させて引 用し、筆者の日本語訳を付しておく。 RUpam bhikkhave aniccarp, yad aniccam ta甲dukkharp, yarp dukkharn tad anatta, yad anatta ta乎netam mama neso ham asmi na meso atta ti. Evam etam athabhUtam sammap afifiaya datthabbam.−SA「,22.15 Yad anicca(vol.3, p. 22). (《比丘たちよ、色は無常である。無常である〔色〕は苦であり、苦で ある〔色〕は非我であり、非我である〔色〕は 「これは、私のもの (我所)である・私である・私の我(アートマン)である」ということは ない》と、まさにこのように、〔あなた方は〕正確に正しい知慧をもって 見るべきである。) 色無常。無常即苦、苦即非我、非我者亦非我所。如是観者名真実 正観。一『雑阿』巻一、第9経(T.2,2a)。*受想行識の各項に関 する記述は省略した。**下線は筆者。 この原始仏教を代表する経文は、悟りにおける知慧の働き(如実知 見)を説いている。筆者が「あるがまま吟味〔1〕」(11)において《yatha− bhatam用例文》と呼ぶ事例の一つで、これに続けて《その証果を示す 文(例:解脱・浬藥)》が説かれるが、本稿では紙数の関係上この問題を 扱えないため引用していない[別稿にて和辻の解釈と共に扱う予定]。 和辻は、上述した類の経文を《真実の認識》(以下引用文の破線部)と 解し、自説をもとに次のように解釈・定義している。以下、四種の文章 から成るこの定義を「〈如実知〉定義文」と呼ぶことにする。 『①《色受想行識或は眼耳鼻舌身意が、無常、苦、無我である事 . の . を》如実に(yathabhatam)観ずるとは、㊧すでに説けるごとく 《一切の存在者の存在が無常、苦、無我であることと、その一切の 存在するものの法が色受想行識あるいは眼耳鼻舌身意であることと の二層の法を》、あるがままに、現実に即して、何ら独断的な予想
を設くることなく、認識するということである。◎言いかえれば、 素朴実在論及び形而上学の偏見を捨てて無我の立場を取り、実践的 の現実をそのまま現実として取り扱い、その実践的なる現実自身の 内に現実成立の根拠たる法を見ること、④さらに言いかえれば、自 然的立場を遮断して本質直観の立場に立ち実践的現実の如実相を見 ること、これが真実の認識である。』(『実践』p.165)。参照:『倫理』 pp、69−70。*傍点は和辻。《》、波線、および①∼④は、筆者の補。 ①は、既に彼の解釈が混入しているが、上に引用した経文(yatha− bhUtam用例文)の類を和辻なりに命題化した文章で、六入処について も同様に説く経文(例:SN, 35. 1;vo1.4, pp. 1−2)がある。①は、和辻が ②③④の解釈を加える原資料と言える。②は、①の命題(《》内)か ら導き出された彼独特の〈二層の法〉説を用いて、①を言い換えた定 義。③は、〈二層の法〉説をもとに非仏教的立場(正統バラモン思想・非 正統的唯物思想)と新しい仏教の哲学的立場(無我の立場)とを区別し て、①に解釈を加えた定義。④は、仏教の哲学的立場という制約のもと で、現象学的視座から①に解釈を加えた定義。自然的立場・遮断・本質 直観はいずれも、《現象学》にもとつく用語である。 以上、簡略に述べたが、この〈如実知〉定義文は、②の「二層の法」 が〈2.〉で考察され、これをもとに③④が〈3.〉で解明される。②にも とつく③④の解明は、和辻が与えられた仏教文献(①)をどのような思 想・視座から解釈したかを知る最適な事例と言えよう。従って、本稿の 目的は、《文献と解釈》という仏教研究における問題とも関係する。 具体的な考察に先立って、次の問題に答えておきたい。真実の認識、 すなわち〈如実知〉定義文の①②を用いて表現すれば『二層の法をある がままに(=如実に=yathabhatam)認識する』は、第一章の中にどう 位置づけられ、また和辻の言う《原始仏教の根本的立場》とどんな関係 にあるのだろうか。真実の認識(or真の認識)は、〈インド思想史にお
ける原始仏教の新しい哲学的立場〉を象徴する語であり、『実践』全体 を通して用いられている。この語に着目して第一章(一∼八の八項から 成る)を読むと、次のような一貫した論述の流れを見出だせる。可能な 限り、簡略にまとめてみよう。 『原始仏教は、哲学的思索を斥けず、「真実の認識」を追究・確立した 〔一〕。真実の認識とは「法の認識(厳密には、無我の立場における構造的 な法の認識)」であって、それは同時代の思想に対する「新たなより高 い立場」の設定であった〔二〕。「法の認識とは何か」が、〈二つの問 い〉㈹に対する解答として示される。a)「法」はどのように捉えられ ているか〔解答:三∼七;二層の法〕、b)法の「認識」はどのような種 類の認識か〔解答:八;〈如実知〉定義文〕(13)。真実の認識とは、解脱・浬 藥に至る認識であり、理論的と実践的との区別を有しない認識(実践哲 学)であり、生活の全面的変容・真理の体現である〔八〕。かかる「真実 の認識」の孕む問題が理論面と実践面とから考察される。最初に、「真 実の認識がどうして浬薬(一切の存在者の存在の滅)への進行であり得る のか」に対する解答として、縁起説(第二章の主題)更に龍樹の無自性 空が位置づけられる。次に、「真実の認識がどうして同時に浬薬を実現 する道であり得るのか」に対する解答として、八正道(第三章の主題) 更に龍樹の無自性空が位置づけられる〔八〕。最後に、真実の認識を仏 教哲学の開展の中核点と見て、真実の認識の史的展開が〈原始仏教→阿 毘達磨仏教→般若経・龍樹の哲学〉として素描される〔八〕』。 以上からは和辻の論述が‘ノVへと収敷し、そしてそこで新たな問題が 提起され、第二章・第三章へと連絡していることが理解できる。言わば ‘八’には、《和辻の仏教研究における基本構想とそれにもとつく思索の 成果》すなわち《和辻仏教学》が集約・総括されているのである。‘八’ の主題が「真実の認識」であり、これに対する彼の定義が〈如実知〉定 義文である。この定義文に、彼の主張する《原始仏教の根本的立場の中
心点》があることを看破したのは、恩師・西義雄博士(1897−1993;東洋 大学名誉教授)である㈹。また、真実の認識は、『実践』においては、 文脈に応じて《法の認識=法を観ること=如実知=本質直観=般若の立 場=正見=無明の滅》など㈹と様ざまに言い換えられてもいる。こう した点から言えば、真実の認識が『実践』の論述を紐解く第一のキーワ ードであり、実質的には《原始仏教の根本的立場》であると言える。 2.法(励4〃zma−)とは何か一 〈二層の法〉説 〈如実知〉定義文の②に出る「二層の法」がどのような手続きを経て 導き出され、どのように捉えられているかについて考察する。『実践』 第一章における和辻の「法に関する論述」は、A:文献学的考察、 B: Aにもとつく、現象学を思想的背景とした仏教的考察、C:現象学的方 法を駆使した〈如実知〉定義文(特に③④)から成る。和辻の「法」解 釈㈹は、言わばこれら三つで一組みである。ここではA、及び『法 (dhamma・)とは何か』に対する和辻の解答と言えるB(〈二層の法〉 説)を取りあげ、彼の論述の要点を私なりにまとめながら理解を進める ことにする。 和辻は、〈L>に述べたが、無常・苦・無我を教理の核心に据えて〈五 菰説→六入処説など→縁起説〉という「法」体系の理論的発展を想定す るため、「五緬の無常・苦・無我」説を取りあげて文献学的考察(ニA) を行う(17)。彼によれば、以下にあげる“a)→b)→c)”という順序で 理論的に開展したと言う。単独強調型などは、筆者の命名である。 a)独立強調型……『色等は無常である』『色等は苦である』『色等は 我でない』という命題を独立した一経の主題とする型。*a)・b) は経典の最古層に属すとされる。 b)同一強調型……『色無常、無常即苦、苦即非我、非我者非我所』 などとして三概念の同一を強調し、三概念を「無我を目標とする根
拠づけの関係」で捉える型。 C)無我論証型……『色等五羅が無常であり、無常が苦であるならば、 これ変易法(viparinamadhamma)であって、そこに我、異我、相 在を見ることはできぬ』(『雑阿』第34経:SN,22.59 Pafica;初転法 輪の説法第二経に出る経文;和辻訳)という「無常・変易法が無我を 論証する註釈的傾向」をもっ型。 上記によれば、無我はb)では根拠づけの目標であり、c)では無常に よって論証され、無常はb)では根拠づけの初項であり、c)では変易法 とされて無我論証の根本的な根拠である。ここから、次のように結論づ ける。第一の要点:三概念の間に〈無常・苦→無我〉という関係を設定 し、無我は最も中心的な関心事であり、無常(変易法)は根拠づけの関 係における根本的な根拠である。この結論は、「五緬無常」を根本的な 命題として「法」解釈の出発点に据え、また「無我の立場」を設定する 文献レベルの根拠となる点で極めて重要である。文献研究の成果の範囲 内で「二層の法」が導き出されると言える。 第二の要点:《法(超時間的に妥当するもの・過ぎ行かないもの)の領域》 と《存在するもの(時間的存在者・時間的有者・過ぎ行くもの)の領域》と は区分される。従って、「法」とは、存在者すなわち日常生活において 我我が経験し得るものの一切ではなく、その在り方・与えられ方として 追究・確立される(第三の要点、参照)。この要点は、和辻による「法」 解釈の理論的支柱と言える。彼は、〈第一の要点〉をもとに苦・無我を根 拠づける無常を取りあげ、命題『色などの五緬は、無常である、変易法 である』の解釈から〈第二の要点〉を導いている。 では、その解釈をたどってみよう。和辻は、「法」解釈の冒頭で、五 緬を〈我我が経験し得るものの一切〉と解し、命題を『〔我我が経験し 得るものの〕一切は無常である』と表現する。筆者の理解する所によれ ば、先ず、彼はこの命題を次のように解した。具体的事物aは、無常で
ある。b、 c……一切は、無常である。無常とは「時間的に存在する・ 推移する・流転する」の意であるから、命題は『我我が経験し得るもの の一切は、時間的に存在する』の意となる。ここに時間的存在者として 特徴づけられた「我我が経験し得るものの一切」、すなわち《存在者の 領域》が確立する。次に、彼は『命題の意義そのものは果たして無常で あろうか』〔『実践』p.113〕と問い、第二に〈命題の意味自体〉を問題に する。『一切は無常である』という命題の意味は、仏説の法であるから 推移せず、あらゆる時代に妥当する。ここでは、「仏説の法」が論拠と して提示されている。すなわち、ブッダは時間的に存在するもの・過ぎ 行くものとして滅したが、仏説の「法」は超時間的に妥当する。これは 「経典の示す確信」である。命題『一切は無常である』は、上に述べた ように《存在者の領域》にある一切の存在者は時間的存在者であり、そ こでは超時間的なものがすべて排除されていた。しかし、命題の意味 (一切が無常であること)は、法として超時間的に妥当し、《存在者の領 域》に属さないのである。ここに《存在者の領域》に対して《法の領 域》が確立されていると和辻は解する〔以上『実践』pp.112−114〕。 和辻は、『一切は無常である』を両義的に解釈し、〈第二の要点〉を導 いた。この背景には、次のような発想があったのではないかと思う。 dhamma−(法)は多義的に解釈されるが、彼にとって法とは何よりも まず「ブッダによる直観の内実」であり、「それを記述したもの」すな わち「仏説」の法であった。学説として彼が信頼する宇井博士は、法の 語義は本来∨一dhr(持する)を語源とする「法則、軌範、理法」であっ て、仏教における「徳(guna)・教説(desana)・もの」などの語義も根本 的には理法に帰し、またそこから一般化されると言われる(18)。彼は、 こうした解釈「法の多義性0理法」を先の「法」理解にもとついて一歩 進め、法の普遍的な存在性格として「超時間的に妥当する」と解した。 彼にとって、法の本来的な語義は、『超時間的に妥当するもの・過ぎ行か
ないもの』〔『実践』p.114〕であり、「時間的に存在するもの(無常なる もの)」ではないのである〔第三の要点の最後、参照〕。 第三の要点:「法」とは、存在するもの(時間的有者・過ぎ行くもの)を 存在するものたらしめる「かた・こと」である。『日常生活的経験を可能 にする範疇』『素朴な現実存在そのものの有り方』〔『実践』pp. 108,110; 本稿p.134参照〕などとも言われる。これは、《日常生活的経験》におけ る存在者が「意識」存在としての人間に、あるいは純粋意識にどのよう な有り方(法)として与えられ、存在者の存在妥当が成立するのか・経 験を可能にしているのかといった現象学的見方から為された定義でもあ る。こうした定義の論拠あるいは着想を得たと言えるのが、中国阿毘達 磨教学における「法の二義」(任持自性・軌生物解or能持自性・軌生勝解) ㈹である。この二種の定義は、自性の「有」を認めてしまった点で問 題だが、原始仏教本来の「法」の意義を保持していると彼は考える。以 下は和辻が『任持自性・軌生物解』に対する自らの理解を述べた代表的 文章であるが、ここにも彼の「法」の定義が明確に示されている。 『そ〔の色受想行識など〕の自性ある法が「軌」となって一切の 物の理解を生じるということも〔中略〕一切の現象がこれらの法を 「軌」として理解されてくるのだとしたら、法は現象自身をさすの ではなく、現象としてわれわれが受け取っているものをそれとして 成り立たしめる規範のごときものをさしていることになる。』(『実 践』p.365)。参照:『実践』p. 365。*傍点は和辻。〔〕内は筆者の補。 『たとえば「無常」という法はそれ自身無常ではなくして自性を 持し、一切の有者を過ぎ行くものとして理解せしめる「軌」とな る。』(『実践』p.114)。 前者は五緬の法などを例に、後者は無常の法を例に『任持自性・軌生 物解』を解釈している。法とは、軌 法・則と同義で「軌範」に通じ、 宇井博士の言うdharma一本来の語義とも先述した「超時間的に妥当す
るもの」とも合致する一であり、現象・有者自身を指すのではなく、 現象・有者が直観される際の《かた、こと、軌範、有り方、本質、範疇、 形式(但し、主観の形式として客観の質料を予想するものではない)》なの である。和辻は、こうした定義は「もの」という語義をも包摂する(20) と解し、次のように「法の定義」をまとめている。 『かくのごとき「かた」の意味が法の本来の意味である。後に法 が「もの」(nissatta)の意味に用いられるとしても、過ぎ行くもの それ自身が法なのではなくして、過ぎ行くものがそのものとしてあ らしめられる「かた」としてのものが法なのである。〔中略〕「も かた の」に内在する「こと」が法としての「もの」である。かかる意味 において法はあくまでもこの法によって存在するものとは区別され ねばならない。』(「実践』p.115)。*傍点は和辻。下線は筆者。 かた
ここでは、『「もの」に内在する「こと」が法としての「もの
(nissatta−;筆者の補)」である』と言われ、「法とは、存在者(個物・現 象)であり、かつそれに内在する理法・実体・本質である」などと理解さ れ易い表現であるが、これは後述する自然的立場からの「法」解釈であ り、そう受け取っては早計である。また下線部が言うように、和辻は、 法(例:五緬)とは、物質(肉体を含む)と精神、あるいは物理現象(客 観)と心理現象(主観的心理作用)に二分される一切の存在者(もの・現 象)ではなく、法はすべて無常ではないと理解するのである。 第四の要点:「法」の領域は、具体的には「二層の法」すなわち《法 P:存在者と法とを区別する法=無常・苦・無我の法》と《法S:存在 者自身の存在の法=色・受・想・行・識の五法(法Sの代表例)》から成る。 法Pは、法Sの前提・基礎となる法である〔法P、法Sは筆者の略称〕。 最初に、〈二層の法〉説について明言した文章を引用する。 『ここに我々はすでに二層の法を、すなわち存在者と法とを区別 する法[法P]と、かかる存在者自身の存在の法[法S]とを、見いだすのである。』(『実践』pp.117−118)。参照:同、 p.118, ll.16−17; p.165,ll.5−6[〈如実知〉定義文];p. 130,11.9−17。*傍点は和辻。[] 内は筆者の補。 和辻は、〈第一の要点〉である文献研究の成果一根拠づけの関係に おける無常の重視に従い、無常を根拠にして苦・無我を次のように解釈 する。まず、根本に無常が位置づけられる。例えば花がやがて消え行く ように、『存在者はすべて、時間的に存在する・推移する(無常)』。人間 にとって存在者は、自然科学におけるような単なる物理的存在ではな く、美醜・快苦といった価値関係において捉えられ、常に実践的な働き かけの対象である。例えば、ある花を価値的に「美しい」と捉える。し かし、花は時間的に存在し、美しい姿もやがては消え行く。価値的に捉 えられた存在者は、推移するものとして苦への契機を孕んでおり、『存 在者はすべて、価値的には苦である』と苦が位置づけられる。そして、 『存在者はすべて変遷するものであって、自己同一を保てるものは全然 存在しない」と無我が位置づけられる[無我の立場は後に再論する]。〈第 二の要点〉では無常の法が《一切の存在者の領域》と《超時間的に妥当 かた する「法の領域(法Pも法Sも含む)」》とを区分すると述べたが、無常 が根拠づける苦・無我も、無常と同様の役割を果たす法である。つまり、 法Pすなわち無常・苦・無我の法は、《法の領域》において一つの層を成 し、「物理現象・心理現象を問わず日常生活において我我が経験し得るも のの一切=一切の存在者=存在者の領域」が「時間的に存在すること・ かた 価値的には苦であること・自己同一を保つものが全然無いこと」を「法」 として存在すると規定すると同時に、法の領域と存在者の領域とを区分 する。そして、以下に引用するように、かく規定された「一切の存在者 かた の法」が探究され、法Sが観取されるのである。 『無常、苦、無我の法[法P]によって「存在するもの」の領域 [X]が「法」の領域[法P・法S]から区別され、さらにその存在
するものの「法」[法S]として五緬[法Sの代表例]が立てられ た』(『実践』p.118)。*傍点は和辻。 法Sには、五緬・六入処〔四、六∼七にて論述〕・縁起の法〔主に第二章 にて論述〕などの「法」体系が含まれる。ここに〈二層の法〉説が成立 する。《法の領域》は構造的になっていると言える。従って、彼は、『色 は無常である』などの命題の中に「二層の法」を見出す。存在者を [X]とすれば、命題『色などの五緬は無常である』は、例えば『色受 想行識は無常であると言わるる時、そこにはすでにすべての存在者の存 在(有り方;法)が無常であること[P]と、すべての存在者[X]が 色等[S]を法[S]として存することが言いあらわされている』〔『実 践』p.130;p.118参照;[]内は筆者〕というように、〔X〕の本質的述 語要素(=法P・法S)が読み込まれる。 次に、〈第四の要点〉の後半部である「法Pと法Sがどのような関係 になっているか」を明らかにする。法Pは、『存在者を法より分ける根 本範疇・最初に取り出された存在者の形式・存在の仕方の最も根本的な もの』などと呼ばれ、『五薔説における法の体系そのものがその下層に 存在者と法との区別を基礎として有する』〔『実践』p.118〕とも明言され る。従って、法Sは法Pを予想・前提とするが、その逆は無い。この関 係を式化すれば“法P→法S”である。無常・苦・無我の法一一後述す るが、無我の立場とされる一が五羅などの「法」体系の基礎・前提と なる法として重大な役割を果たす所に、和辻仏教学の一特徴がある。 以上は、本稿における筆者の観点からは、現象学を背景にした「法」 解釈と言える。こうした解釈は次項でも扱うが、最後にこれまでの行論 を承けて現象学的視座からの「法」定義を提示しておく。 第五の要点:法すなわち二層の法は、客観的存在者(例:個物)でも レア−ルななく、客観的存在者に内在する本質(実在的本質)でもなく、言わぱ イデア−ルな 「理念的本質」である。和辻は、『実践』〔p.117〕の注記[8]におい
て『存在するものに対して存在論的なる法を、すなわち存在の仕方を確 立した』と述べている。《存在論的なる法》という表現は、原始仏教が 自然科学的実在論に立って「存在者が事実どのようであるか」を問うた のではなく、「存在者の存在(有り方)とは何であるか」を問題にした ことを物語っている。原始仏教が探究した「法」とは、存在者ではな く、《存在者の存在(有り方)》であり、『主観の形式として客観の質料 を予想しない、主客を分かたない現象そのものの形式』〔r倫理』p.50〕 なのである。『倫理』は、法の非実在性を、次のように明言している。 『かくて現象(=時間的存在者;心理現象・物理現象を問わない)の根 底に時間・空間を超越せる、すなわち非有のものとして見出だされ たのが、法(dhamma−)である。感覚的直観的なる存在者に対して 「根拠」となれるものを我我の経験内に、意識の領域の中に求め た。』(『倫理』p.50)。*()内は筆者の補。 現象とは、科学的研究の対象となる事実・客観存在としての現象 (例:自然現象)でもなく、意識に与えられていない『超越的な対象』 〔『実践』p.132〕でもなく、〈意識に現出するもの〉である。「或るものご と」は意識されてはじめて対象として人間に与えられるのであり、一切 の存在者は意識されてあることになる〔『実践』p.135〕。一切の存在者 を意識(Bewusstsein)における所与性から見ていくのであり、主客図 式を超えた《無我の立場》において存在者が意識にどう直接与えられて いるかが内省され、その存在根拠となる「法」が観取される。 3.二層の法をあるがままに知る 〈如実知〉定義文の解明 〈如実知〉定義文の①②には『二層の法をあるがままに認識する』と 言われていたが、「それがどのような構造の中で捉えられているか」を 端的に示したのが③④である。③④を図式化してその構造を明確化し、 前項の〈二層の法〉説を念頭に置きながら解明をすすめる。
〈非仏教的立場〉〈立場変更への通路〉 〈真実の認識(如実知)〉 ◎:素朴実在論・形一→〔捨てる〕一→無我の立場:実践的現実自身の内 而上学の偏見 に現実成立の根拠たる法を見る ④:自然的立場一一一→〔遮断〕一一→本質直観の立場:実践的現実の如 実相を見る 和辻仏教学の特徴の一つは、《日常生活的経験》 『倫理』よりは 『実践』において明確に主張され、日常生活的具体的現実の世界・素朴 的具体的なる現実など(2Dとも表現される を、「仏教の道」の出発点 として、更には回帰点として位置づける所に見られる。前者は、ひとが ④の《自然的立場》のうちにある状況を言い、上記の図式で言えば、立 場変更して『仏教の立場(無我の立場)における哲学的反省』〔『実践』p. 116;()内は筆者の補〕が遂行される以前の状況である。③④の「実 践的現実」はこの意味での日常生活的経験を指し、また③の「素朴実在 論・形而上学の偏見」は、後論するが、自然的立場を基盤にして発生す る非仏教的認識あるいは先入見・偏見であって、自然的立場に包摂され る。後者は、真実の認識を通して自然的立場が根本的に排除あるいは止 揚され、『生活全体を変容すること』〔『実践』p.167〕である。但し、こ の解脱・浬薬、無明の滅などに関係する問題は本稿では扱わない。 本稿の目的である〈如実知〉定義文(③④)の解明は、上述内容から 導かれるが、日常生活的経験と重なり、かつ仏教の道における出発状況 を示す《自然的立場》一『これが具体的にどのような立場であるか』を 明確にする所からはじまる。彼は、下に引用する原始仏典の記述(波線 部)などに因んで、自然的立場を「計我の立場」「愚痴無聞凡夫の立場」 「素朴実在論的な立場」あるいは「法を如実知せざる不知(無明)の立 場」などと言い換えており、自然的立場はこれらの総称と言える。この 立場の典拠は次のような経文である。『愚 無耳・夫、於。色見二是我異 我相在_。見二色是我我所_、而取。取已、彼色若変若異、心亦随転。心
随転已、亦生二取著一一……』(『雑阿』第43経[T. 2,10c]:SN, 22. 7 Upadaparitassana[vol.3, p、16])、『若諸沙門婆羅門、−ma。一切皆 於二此五受陰rma……』(『雑阿』第63経[T.1,16b]:SV,22.47 Samanupassana[vol.3, p.46])(22)。これによれば、自然的立場とは何よ りも《我(attan−)を立てる立場》である。自然的立場は現象学からの 借用ではあるが、和辻の独自性は、仏典の記述(我を立てる:計我)に もとついて、自然的立場の根本的特徴を「世界の一般定立」というより は《我(主観・自我)の定立》に置き、《無我の立場》と鋭く対立させる 所に見られる。彼は、ここに「自我意識の立場の否定」(23)という自らの 抱える問題に対する解答を見出だしたのではないかと思う。 和辻は、疑問を抱きつつも、上述の下線部『於色見是我異我相在』を 『色受想行識において〔我があり〕、この我に対して他我があり、それ が相並んで存していると見る』(24)、すなわち「我」を自我・主観、「異 我」を自我に対する他我、「相在」を自我と他我の並存と解釈する。そ して、この解釈を論述の柱(以下引用文の波線部に相当)にし、『イデー ン1』(特に第27節・第29節)(25)における〈自然的態度(natUrliche・Einstel− lung)〉を参照しながら、具体的に次のように記している。これは、自 然的立場に関する代表的説明文である。 『計我の立場は凡夫の立場すなわち自然的立場であって、そこで は ’が に・している。その外界は空間的にひろがり、時間 的に移り、「我」に対してあらゆる刺激を投げかける。「我」は直接 にその世界を見、触れ、経験し、また直接に経験せざる範囲をも思 惟の力によって知っている。それは単に「物の世界」であるばかり でなく、美醜、快苦、善悪等の価値の性質を帯び、また実用的な意 味を担った世界である。「我」はその中において認識し、感じ、意 欲し、さまざまの苦しみと喜びとをもって現実的な生活を生きてい く。この「’に・して に くの「’があり 同じ世界におい
て大体に同様な生活を送っている。そうしてこの「我」と他の多く の「我」との間に、さまざまの愛着憎悪等の葛藤が醸される。これ が自然的立場における現実である[1]。』(『実践』p. 131)。参照: 『倫理』p. 58,IL 5−11。*文中の[1]は、和辻の注記番号で、『雑阿含 巻二(四三、四五)、巻三(六三)等。SN、 XXII;7,47.』とある。* *傍点は和辻。波線および下線は筆者。 この文によれば、自然的立場とは、一人称単数の主格「私は」で語る 立場である。この「私(我)」及び波線部に焦点を当てて要略すれば、 『私はいる。この私が直接・間接を問わず見聞覚知する「ものごと(我我 が経験する一切の存在者)」も在る。私に対して同じような他者がいる。 そうした確信のもとで私は、対象(存在するもの)を、単なる物理的存 在あるいは自然科学の研究対象となる純粋な自然世界としてではなく、 美醜・快苦などの価値関係において感受したり渇欲したりしながら実践 的に働きかけ、価値づけた対象を求めて他者との間に愛憎などを繰り広 げている』とまとめられる。これは、先に述べたが、自然的立場が遂行 されている《日常生活的経験》を記述した文と言える。こうした日常生 活的経験においては、「我(私・主観)・我の経験する一切の存在者(例: 外界)・他我の実在」が自明なものとして信漏・確信され、〈主観一客観〉 という相関関係がごく自然に習慣的に成立している。特に「我」は、 『経験我(=経験的認識主観;筆者の補)が自己の経験的な体験や外界の 事物に対して経験的な中心となっている』〔r実践』p. 135〕と言われる。 ③の素朴実在論および素朴実在論的な立場とは、こうした「主観一客 観」関係にもとついて認識論上「模写説」をとる素朴実在論(naive realism)に立つ態度、すなわち『経験的個人的な主観が外界に対立し て存し、その外界を模写的に認識すると見る自然的な立場』〔『実践』p. 116〕と解す所から命名されたものである。素朴実在論とは、自然的立 場のうちにある認識の仕方と言える。先に述べた③の「形而上学の偏
見」とは、日常生活的経験において習慣的に採られている自然的立場を 基盤にして発生する哲学的偏見・先入見であり、具体的には原始仏教と 同時代の二つの思潮一正統バラモン系の思想・非正統的唯物思想が立 脚する思想的立場を指しており、和辻が『古き立場における知識、総じ て自然的立場における知識』〔『実践』p.107〕と呼んでいるものである。 前者は「アートマン形而上学」と呼ばれ、簡略に表現すれば、個我にし て普遍我であるアートマン(超感覚的超越的主観;精神的原理)という形 而上学的実体を立てる思想的立場である。後者は、例えばPakudha Kaccayana(六師外道の一人)が〈地・水・火・風・楽・苦・霊魂(jiva・) という七つの要素(kaya−)〉を立てたように、不変無始の形而上的実体 である「要素(物質的原理)」を立てる思想的立場である。和辻によれ ば、両者には自然的立場における理念一順次、経験的現実の根源の探 究において把捉された理念、感覚的なるものの本源として要請された理 念一の実体化という共通点がある〔『実践』pp.104,107〕。 自然的立場の根本的特徴は、「我」が実在すると信漏・確信して我を立 てる所にあり、『経験我は自然的立場の中核であり、一切の煩悩の根で ある」〔『実践』p.133〕と言われる。自然的立場とは、日常生活的経験に 潜む「我・我に対する存在者・我に対する他我の実在」を暗黙裡に信漏・ 確信し、主客関係が成立している態度・見方である。和辻は、『日常生活 的な現実の真と偽、正と不正を問うとすれば、むしろ自然的立場そのも のが全体として真でなく正ではないのである』〔『実践』pp.163−164〕と 述べており、日常生活的経験というより、日常生活的経験において採ら れている自然的立場を問題にしていると考えられる。こうした自然的立 場にとどまる限り、《二層の法をあるがままに認識する》ことはない。 和辻は、この如実知に至るための方法として禅定(例:四禅)・梵行 (brahmacariya−)など、いわゆる「修行」には言及していない(26)。そ の代わり、本項冒頭の〈如実知〉定義文の③では「素朴実在論及び形而
上学の偏見を捨てること」による、④では「自然的立場を遮断するこ と」による《立場変更》が方法的措置としてあげられている。 では次に、③の「無我の立場」とは何か、〈2.〉で述べた〈二層の法〉 説をもとに考察する。無我の立場は「無我の法」を言い換えたものであ る。何故に無我の立場とされたかは、私見では次のように理解する。第 一に、〈2.〉の〈第四の要点〉によれば、無常・苦・無我の法は、二層の 法において「基礎となる層」であり、日常生活において私たちの経験し かた得る一切の存在者が先ず規定される「有り方(法)」である。そして、 かく規定された一切の存在者の有り方が追求され、五纏・六入処などの 「法」体系が構成される。第二に、〈第一の要点〉および〈第四の要点〉 によれば、この前提として一つの層を成す無常・苦・無我の間には、無 常は苦を包摂しかつ無我の根拠であり、最終項である無我は無常・苦を 予想するという関係がある。そして、第三に、無常・苦・無我などの法 は、後述するように《「法」を原本的に与える作用としての本質直観 (如実知)》として与えられるのであり、人間の意識と無関係に実在す る独立自存の自己同一的な実体ではない。以上をまとめれば、如実知の 構造は、先ず一切の存在者の有り方(法)が無常・苦・無我として直観さ れ、次いで五緬の法などが直観される。言わば、無常・苦・無我の法の 直観は、一切の存在者の領域に対して仏教的な見方・立場を採ることで あると言える。「無常・苦・無我の立場」と言わないのは、無常・苦・無 我の間では無我が最終項として位置づけられ、無我は無常にもとついて いるから、言わば代表として「無我の立場」が立てられると推測する。 この故に、〈如実知〉定義文の③に『無我の立場に立って、実践的現実 ……サ実成立の根拠たる法(=五纏の法など)を見る(=観取・直観す る)』と言われる。 無我の立場は、具体的に次のように言われている。 a)『原始仏教はかくのごとき日常生活的経験を批判し、その根
本範疇を見いだそうとしたのである。しかもこの仕事は後に説くご とく無我の立場において、すなわち主観客観の対立を排除した立場 において、行なわれた。〔中略〕従って日常生活的経験を可能にす る範疇とは日常生活的主観の形式なのではなく、素朴な現実存在そ のものの有り方なのである。かかる意味の範疇がここには「法」と して立てられる。』(『実践』pp. 107−108)。 b)『法を観るとは〔中 略〕自然的立場を超越して主客なき無我の立場に立ち、自然的立場 を可能ならしめている法そのものを直観することであった。』(『実 践』p.242)。*下線は筆者の補。 無我の立場とは、下線部が示すように、「主観客観の対立を排除した 立場」すなわち「自然的立場の排除・突破」である。これは、和辻が 『こ〔の五緬〕の法は「主観の形式」としてではなく、主観を抜き去っ た、従ってまた客観を抜き去った、存在そのものの法として考えられて いる』〔『実践』p.117〕と述べるように、主観を抜き去ることによって客 観も抜き去られ、主観客観の対立が排除されるのである。従って、無我 の立場とは、自然的立場の根本的特徴である主観・我を抜き去ることを 通して開示され、明確には次のように言われる。 C)『しかるに無我の立場はかくのごとき「我」(=経験我)もそ の本質としての「我」(=純粋我)もすべて把捉し得られないこと を主張する。そうして一切の現象(=物理現象・心理現象=一切の存 ■ ■ ■ 在者)の考察においてすべての「我」を抜き去ることを要求する。』 (『実践』p. 131)。*傍点は和辻。()内は筆者の補。**上に引用し た自然的立場の代表的説明文に続く文章。d)『我を抜き去り意識の 事実に(言い換えれば一切の存在に)直面するならば』(『実践』p. 137)。e)『主格を抜き去って法を考え、その法の条件を追及する のが縁起説の立場である。』(『実践』p、176)。*c)∼e)の下線は筆 者。
和辻は、先に述べた「経験的認識主観(経験我)」は自然的立場にお いて無いといっておらず、それを抜き去って無我の立場へと立場変更す ることを要求する。無我の立場においては、この経験我は五穂の法に他 ならない〔r実践』p.117〕。また、現象学的視座からの解釈でも、自我論 的還元をとらず、現象学で主張される『意識の統一としての純粋我(純 粋主観)』を認めない。ここには無我の立場という仏教の独自性があり、 和辻が現象学を批判的に導入していることが理解できる。 では、具体的にどのようにして「無我の立場」に立つ、すなわち我 (主格)を抜き去るのであろうか。現象学的視座から先と同様の事態を 述べる文章を引用し、この問題に答え、無我の立場を再考しておく。 『仏教の哲学的方法は、この立場(自然的立場)における経験的事 実を全然抜き去って、「法」を観ずる立場において意識の事実に直 面するにある。経験的事実は自然的立場における事実としてそのま まにさし措かれ、その事実の根抵としての法が追及されるのであ る。』(『実践jp.133)。*()内および下線は筆者の補。 ここでは「経験的事実をそのままにさしおくこと」が言われている が、経験的事実とは、本稿(p、131)に引用した文中の「自然的立場に おける現実」(下線部)であり、③④の「実践的現実」に相当する。ま た「そのままにさしおくこと」は、④の「遮断」に相当する。「そのま
まにさしおくこと・遮断」は、現象学で言う「現象学的エポケー
(phtinomenologische Epoche)」に相当する。現象学では、エポケー(判 断中止)とは、現象学の対象となる「純粋意識の領域」を得る方法とし て自然的態度にもとつく判断を〈括弧に入れて排去する作用〉であり、 自然的態度から現象学的態度へと態度変更するための方法的操作となる 《現象学的還元》の開始であるとされる(27)。この遮断によって、すな わち我を立てる自然的立場を遮断してはじめて、意識に実践的現実・日 常生活的経験・存在するものの領域が与えられ、その根拠として「二層の法」が観取されるのである。具体的に言えば、疑問も残るが、先ず 〈無常→苦→無我〉の法が観取されて「一切の我」が抜き去られ、次い で無我の立場において「五艦の法」などが観取される。この場が「意識 の事実」すなわち現象学の言う「純粋意識の領域」である。この意識の 事実についても、「我に」を抜き去ることが次のように言われている。 『かくて一般に「何物かが我に感受されてある」乃至「何物かが 我に識別されてある」という表出から、「我に」を抜き取り、ただ 「何物かが感受乃至識別されてある」をのみ残すならば、ここに意 識(Bewusstsein)の意義について重大な変更が行われていること ロ になる。元来意識とは「何物かが我に意識されてある」ことであ コ ロ ロ サ る。〔中略〕ここでは意識とは「何物かが意識されてあること」で ある。それは何物かがあるために必ずよらなくてはならないあり方 であって、言わば「何物かがある」ことの「法」と呼ぶべきもので あろう。』(『実践』p.132)。*傍点は和辻。 これまでの行論では、無我の立場において「法」がどのように意識の 直接経験としてありのままに直観・観取されるかについて論述しなかっ た。最後に、この問題に答える④の「本質直観」を取りあげる。 和辻は、『現象世界に対する別の立場〔中略〕すなわち本質直観を究 寛の「基礎づける作用」(begrUndender Akt)とする立場をとり一、 その立場においてあらゆる現象を成り立たせている根拠(=法:筆者の 補)を求めた』〔r倫理』p.58〕と述べている。本質直観は、『倫理』〔p. 69〕に出る④の相当文では‘Wesensschauen’と原語があげられ、〈如実 知〉定義文に続く文章では『「法」を原本的に与える作用としての本質 直観』〔『実践』p.167〕(2B)と説明されている。本質直観は、『イデーン1』 によれば、《対象を与える働きをする直観(gebende Anschauung)》(29)で ある。『イデーン1−1』の訳者・訳注者である渡辺二郎博士は、『直観に おいてのみ、対象がおのれを与え示し、所与性となって現れてくるので
あり、そして究極的には直観に戻らねば、対象は与えられ得ない』『対 象そのものに原的に出会い触れ合う場面』(30)と説明しておられる。和辻 は、「対象」を「法(二層の法)」と解して、如実知の解釈に用いたので ある。和辻は、この『真の認識は、パウロによって神の智慧と呼ばれて いるような神秘的な、超感覚的なものの認識ではなく、無我、五蕊、縁 ロ つ り ぼ 起、四諦というごとき原理の認識にほかならぬ』〔『実践』p.94;傍点は 和辻〕と述べているが、この真の認識は如実知である。和辻が如実知 (本質直観) 後述のように一挙に遂行されるわけではない を神 秘主義的に解してはならないことを明言している点は重要である(3D。 和辻は、『倫理』〔pp.58−61〕、『実践』〔pp.137−140〕において、本質直 観の立場においてどのようにして「五羅」という法が見出されるかを具 体的に説明している。ここでは、色法を代表として取りあげる。『倫理』 の方が現象学的色彩をより濃厚に残しているので、こちらを簡略にまと めながら紹介する。最初、個的な「目前の黄色のばらの花」から出発 いうし、(a)他の形や色の異なった様ざまなばらと比較して通覧し、(b)そ れらに共通する「ばらの花一般としての形色」が成立し、同様にして更 に(c)花一般の形色、植物一般の形色、生物一般の形色、そして最終的 に存在の形色すなわち最も一般的な形色が成立し、(d)色法(rapa−) すなわち感覚的直観的なるものの最も根本的な本質(Wesen)が直観さ れつつ取り出される。個的な事実から本質が直観的に取り出される[* 受想行識については省略]。『実践』は次のようにまとめている。 『かかる意味で「色」は存在する白椿の「法」とされる。この法 は感覚として与えられる素材を外から包む形式ではなく、感覚とし て与えられるそのものの与えられる仕方である。超越的に存在する ロ . コ の ものが見られるのではなく、見られるものとして初めて存在し得る お コ のである。「何者かがある」ということの第一のあり方が「色であ ること」なのである。』(『実践』pp.137−138)。*傍点は和辻。
このように本質すなわち法を意識の直接経験としてあるがままに見 る・観取するのが、本質直観すなわち法の認識(法の如実知)である。和 辻によれば、『たとえば、「諸行は無常である」は判断の形であるが、そ は判断の形に現わされたものであって、本来はur−teilenを受けざる直 観なのである』〔r倫理』p.71:参照:『倫理』p.70,ll.10−13〕と言われる ように、経典中に『「SはPである」とあるがままに知る』などと〈判 断形式〉で説かれていても、それは判断ではなく、本質直観によっての み与えられるのである。 和辻は、如実知(あるがままに知る)すなわち「真実の認識」の正当 性の権利源泉として直観一現象学的には「本質直観」を立てる。私見 によれば、彼は近現代日本における仏教研究史の中でも神秘主義的な直 観説を脱して、従来とは異なる《直観としての知慧・悟り》を最も哲学 的に・論理的に説明した類い希な研究者である。 おわりに一本稿が残しfe研究課題 本稿は、これまで仏教学者の注目しなかった現象学的視座からの原始 仏教理解に焦点をあてながら、第一章の理解を目標とし、それに対する 私の批判・検証、更には和辻仏教学に対する他の研究者による批判を検 討しなかった。これらの問題および本稿で十分に論及し得なかった事項 に関しては稿を改めて論じることにする。また、和辻は現象学を全面に 押し出して仏教思想を解釈してはいないが、現象学が論理的に第一章の 根幹を支えていることは間違いない。現象学は、言わば「開かれた方 法」であり、現在でも様ざまな学問分野に適用されている。では、仏教 研究に適用することが出切るか否か、彼の適用はどこまで成功している か、和辻がどこまで現象学的態度に立って仏教文献を見ているかといた 根本問題が残されている。これは、筆者が仏教学を志す者であって現象 学に疎いこともあり、結論を保留せざるを得ない。更なる筆者自身の努
力と成長を期するしかない。いずれは結論を出したいと考えている。 【注】 *本稿は当初、主題を「近現代日本の仏教研究における〈あるがまま〔に〕〉 用例とその思想構造」とする予定であったが、紙数制限の事情により現題 名に変更した。なお、本稿に関係する拙稿には、「〈あるがまま〉を吟味す る 原始仏教におけるyathabhatam・yathabhata一の語義と用法〔1〕 一」(『東洋学研究』第33号、1997)などがある。 (1) 『実践』は、1926年に『思想』に連載した論文を改訂・増補して刊行さ れた。『日本精神史研究』の序言、及び「沙門道元」の追記によれば、 同研究は1923年に道元研究の途中で中断しており、仏教を理解せずに日 本精神史の考察は進められないということが明言されている(全集第四 巻、pp. 5−6,245−246)。恐らくその後の数年にわたって、和辻は、仏教 の源流である原始仏教研究に精魂を傾けたものと思われる。その成果 が、『倫劉『実践』である。『実践』は、彼の最初の学術的著作であり、 言わば、彼の思想を作りあげる様ざまな流れが合流し、かつ後の思想が 流れ出る「湖」とも言える著作である。 (2) 諸批判の検証は機会を得て再論する。批判の実例は、注(16)、参照。 (3)現象学の語とフッサールの著書名が出る箇所を、以下にあげる。① 『しかし現象学において用いるIdeation(本質直観)の意に用いたので はない。後者の意味のIdeationは法を観ずることに相当するのであり』 (『実践』p.154、注記[16])。②五緬の緬(khandha−)を‘Region(領 域)’と解する典拠として、“Husser1, Ideen, S.9”の原文を引用・和訳 (『倫理』p. 77、注記[24])。渡辺二郎訳『イデーン1.1』(みすず書 房、1979、p.63, ll.15−18)に相当。また、 ldeen Iの原文は『倫理』 (p.231、注記[3])にも引用。③“フッサール(Log. Unt. II,1)”とし て『論理学研究』をあげる(『倫理』p.56)。また、『実践』『倫理』に は、多くの現象学用語および現象学的な文脈で読解すべき文・語句 例えば、出典はあげないが、自然的立場、本質直観、超越的な対象、純 粋我、Eidos、形式的存在論・領域的存在論、『一切を意識に内在せしめ る企て』などが出る。なお、和辻と現象学の関係を扱った著作には、例 えば以下がある。金子武蔵「体系と方法」(『理想』和辻哲郎研究、No、 337、1961、pp.1−19)。全集第十一巻(『倫理学 下』)所載の金子武蔵 「解説」(p.453以下;『実践』についてはp、453で言及)。吉沢伝三郎 『和辻哲郎の面目』(筑摩書房、1994;特にpp.120−131)。
現象学は、まず大正末から昭和初頭にかけて日本に広まった。当時の 哲学専門誌である『哲学雑誌』『哲学研究』『思想』r理想』などに田辺 元、高橋里美などの諸氏が論文を発表し、大正12−13年にはフッサール 自身が『改造』に論文を寄稿している(『世界の名著 51 ブレンター ノ ブッサール』中央公論社、1970、p.44、参照)。こうした状況下 で、和辻も現象学を独自に研究していたと思われる。『論理学研究』『イ デーン1』に対する和辻の研究は、筆者は未見であるが、『和辻哲郎の 思想と学問に対する基礎的研究 付 法政大学所蔵和辻哲郎文庫マイク ロフィッシュ収録目録』(法政大学文学部、1993)によれば、両書にお ける多量の書き込みという形で残されている(pp.83,84、参照)。『実 践』刊行の1927年は、留学したドイツでハイデガー『存在と時間』を読 む年でもある。また和辻には、フッサールの著作に対する訳業「フラン ツ・ブレンターノの思い出」もある(『思想』第18号、1932)。 (4)木村は和辻の「法」解釈をカントの範疇論に近いと解し(「原始仏教 における縁起観の開展」『原始仏教思想論』大法輪閣、1968、p.372)、 武内義範「縁起思想」は『カント主義の根本精神を眼目とし』と言う (『講座仏教思想』第五巻、理想社、1982、p.79)。 (5)季刊『仏教』(No.1、1987、 p.55.下段ll,15−22)を要略・紹介。 (6) 山折論文が同列に扱った宇井博士は、『氏(和辻;筆者の補)の優れ た思索理解に追随するを得ずして、ために完全にその真意を把捉し得な いかの恐れの感が消失し得ない』と言われる(『印度哲学研究』第三巻、 p.352)。謙遜ではあろうが、宇井博士が現象学的方法を駆使した和辻 仏教学をどこまで正当に評価したかは、疑問が残る所である。 (7) 『実践』の序論、第一章、第二章縁起説、第三章道諦は、順次『倫理』 「第一篇初期仏教」の序論、第一章無我の立場、第二章縁起説、第三章 道徳の根拠づけに対応する。 (8)和辻は、第一章において、abhififia−、 sambodhi・、 sammappafifiaを 「真実の認識」と解し、あるいは翻訳している(『実践』p.93,L17、及 びp.164,L5)。 (9)和辻が参照した仏教文献および代表的な研究書は、『倫理』(pp.28− 35)の「序論」に付された「根本資料および研究書目」の一覧表を参 照。その他は、『倫理』『実践』における彼の各注記を参照。 (10) 「法」体系の理論的発展については、特に『実践』(pp.118−119,158− 162)、参照。また和辻は、序論において、経典を見分ける際の二つの視 点(文学的と理論的)について述べている(『実践』pp.62−89)。後者
の理論を説く経典中『雑阿』に繰り返される『色無常、無常即苦、苦即 非我、非我者即非我所……』(本文に引用)を、r教団において暗講せら れた法要の、現存せるうち最も古き形』と位置づける(同、p.87)。 (11) 【注】冒頭の*にあげた拙稿、及び『印仏研』(45−2)所載の拙稿を参 照して頂きたい。 (12) 二つの問いは、先述した原始仏教の根本問題に相当し、以下に出る。 『実践』p. 110,1.16−p.111,Ll、及びp. 163,ll.13−14。 (13)本稿が扱うのはここまでである。真実の認識に伴う「証果(解脱・浬 藥)」関係の問題も共に扱う予定であったが、紙数制限を越えるため割 愛し、別稿で扱うことにする。 (14)西義雄『原始仏教に於ける般若の研究』大東出版社、1978、p.108,1. 5−p.109,1.8。 (15) これらを同義的に論述する箇所は、特にpp.163−171,178−179,234− 235,240−246, 249−251,252−256,259−261である。真実の認識に関しては、 特にpp.92−96,106,108、参照。 (16)和辻の「法」解釈に言及した論文。中村元「説一切有部の立場」『倫 理学年報』第六集、1957。泰本融「原始仏教の無我思想」『東洋学術研 究』第13巻5号、1974。平川彰『法と縁起』著作集第一巻、春秋社、 1988、pp. 57−59。松本史朗『縁起と空』大蔵出版、1989、 pp.23−29。 泰本論文以下は和辻説に対する批判が述べられているが、現象学的視座 からの「法」理解を考慮していない点で問題を残す。 (17)文献学的考察、特に第一の要点は、『実践』(pp.110−118)において 論述されている。 (18) 「阿含に現れた仏陀観」(『印度哲学研究』第四巻、pp.132−134)。 (19) 和辻もあげる同類の表現『能持自性・軌生勝解]は、普光(玄笑の弟 子)『倶舎論記』巻1(T.41,8c)に出る。例えば、注(16)の平川前掲 書(pp.131−132)、参照。 (20)和辻の「もの・こと」に関する理解は、『実践』より後の論文「日本語 と哲学の問題」(『続日本精神史研究』全集第四巻;特に、pp.524−537) に詳細に述べられている。 (21) 日常生活的経験およびその類語は、それを可能にする「法」との関係 において、『実践』(pp.107−110,141,163−165,247−249)で詳論される。 和辻の信条とも言える日常生活の重視については、湯浅泰雄『和辻哲 郎』(ちくま学芸文庫、1995、pp.55,124−125,135,335,344, etc.)、同 『近代日本の哲学と実存思想』(創文社、1970、pp.113−114)、参照。
特に『倫理学』における日常生活の問題性を指摘し批判的に検証したも のに、岩崎武雄『倫理学』(有斐閣、1971、pp.149−150)がある。 (22) これらの経文は、例えば下に引用する自然的立場の説明文中の注記 [1]に出る。和辻は、『実践』(p.178)において引用した『雑阿』第 43経を自説に即して意訳している。 (23)和辻における自我意識の問題については、注(21)の湯浅前掲書『和辻 哲郎』(pp.59−61,124−125, etc.)、同『近代日本の哲学と実存思想』 (pp. 109−112)、参照。 (24)この解釈は、『実践』(p.116、同注記[7]、及びp.134)に出る。 〔〕内は筆者の補。この解釈を、次の注(25)にあげる『イデーン1』 の中に見出だしたと言うべきか。和辻による『是我異我我相在』などの 誤読については、舟橋一哉「附記「是我・異我・相在」の解釈について」 (『原始仏教思想の研究』法蔵館、1978、pp.249−255)、参照。 (25)注(3)の前掲書rイデーン1.1』(pp.125−129,132)、参照。『イデー ン1』との関係は、吉沢伝三郎『和辻哲郎の面目』(筑摩書房、1994、 p.121)に指摘されている。 (26)和辻仏教学における「行」の問題に関しては、次のような批判があ る。津田眞一氏は、特に「無明」の解釈をめぐって、『和辻博士の『原 始仏教の実践哲学』の一大特徴は、博士が当の実践=行の問題を完全に 見落されたことに存する』(「『般若経』から『華厳経』へ」『成田山仏教 研究所紀要』第11号『仏教思想史論集1』1988、p.350)と言われる。 この批判は、氏による他の論文でも取り扱われている。 (27)注(3)の『イデーン1−1』第31節。また、新田義弘『現象学とは何 か』(講談社学術文庫、1992、pp.46−51)、同『現象学』(岩波全書、 1978、pp.54−62)参照。 (28) 『実践』pp.165,166,167。〈原本的に与える作用〉は、全集第十九巻 所載の中村「解説」中に紹介される「和辻自身がノートに添付したメ モ」にも出る(『倫理』pp.389,389,390)。和辻にとって本質直観は、 後の倫理学に至るまで重要であった。伊東洋一氏は、和辻倫理学原理構 築の基調として絶えず働いていたものは「本質直観の立場」ではないか と論を結んでいる(「和辻倫理学原理の仏教哲学的理解のための私論一 一無我思想を中心として一」『倫理学年報』第7集、1958、特にp. 184)。 (29)本質直観は注(3)の前掲書『イデーン1’1』の第三節(pp.64−68) 参照。なお、レヴィナス「フッサール現象学の直観理論』(法政大学出
版局、1991)を参照した。 (30)注(3)の前掲書『イデーン1−1』p.333、訳注(三)、参照。 (31)但し、『倫理』(p. 70)には『如実知は神秘的な直観であって』とあ る。『倫理』から『実践』の間に和辻の現象学研究は深まったようであ る。現象学でもこの点は厳しく注意される。例えばG.ベルジェ『フッ サールのコギト』(せりか書房、1977、pp.40−41)。 (追記)和辻哲郎は、大正9(1920)年から14(1925)年にかけて、教授として 東洋大学に在職。注(21)の湯浅前掲書、巻末所載の「略年譜」、参照。 なお、『東洋大学百年史 資料編1・下』「二九四東洋大学教員一覧 (大正10年11月)」(pp.15−17)によれば、彼は、倫理学(日本倫理 史か;筆者記す)・文学・史学の講座を担当している。