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リカード周辺の議員経済学者
一W.ハスキッソンとH.ブルーム
真 実 一 男
1 はじめに 《リカード経済学入門》(〔44〕)以後の筆者のリカード研究は,リカード機械 論研究史(〔42〕,〔43〕,〔47〕)と議員時代のリカードの言動(〔45〕,〔46〕)に集中 された。そしてまたこの後者の場合は,《リカード全集,第5巻,演説と証言 》(〔35〕V(一以下引用に当っては,ローマ数字の大文字で巻号をローマ数字の小文字とア ラビヤ数字でページ数を表わす。なお訳本には原本のページ数が入っているので,とくにあ げなかった。一))におけるリカードのみの発言を中心にしてきたともいえよう。 本稿においては,リカードと同時代の議員経済学者中,ハスキッソンとブルー ムに焦点を絞り,かれらの側から議貝経済学者リカードに光をあててみること にしたい。 さてランガア(〔27〕)によれば,経済学(political economy)は1815−25年 に形成され,その著名な学者(celebrated masters)にはリカード,マルサス, マカロック,トレンズがあげられ,さらに彼等の同調者(allies)としては, 他の人々とともにハスキッソンとブルームもあげられている。そしてこの両者 はまたいずれも議員経済学者であったが,ただ前者はトーリーに所属し後者は 1) ウイッグに所属したため,そのマヌーヴァーにはおのずから差異を生じた。こ れに対してリカードはトーリーにもウイッグにも属せぬインディペンダントで あったので,その時々において彼等とは異なるマヌーヴァーをとったが,強い 1)さし当り当時のトーリーの動きについては,〔16〕を,ウイッグの動きについては〔31〕 を参照せよ。24 荒木麺夫教授退官記念論文集(第300号) ていえばハスキッソンにより近しいかもしれなかった。以下ハスキッソンの方 から始めよう。 IIW.ハスキッソン(1770−1830) ハスキッソンの一生については,すでにブラディ(〔3〕),フエイ(〔17〕),によ る伝記がある。しかしわれわれは以下トーリー・リベラリズムの立役者として の議員経済官僚ハスキッソンに注目してみたい。 ハスキッソンの官僚生活は,まず第1次ピット内閣(1795−1800)での陸軍 および植民省次官(Undersecretary of War&Colonies)より始まる。さら に1804年の第2次ピット内閣では,ピットの覚えめでたく,大蔵次官(Secretary of Treasure)の大役をも引受ける。また1807年のポートランド内閣では,再 び大蔵次官ともなった。そして1812年には長期政権のリヴァプール内閣が成立 するが,キャスルレイ(Castlereigh)とキャニング(Canning)との間の不 和および前者による閣内制覇のため,カンニンガイトとしてのハスキッソンは,
その経済エキスパートとしての能力を評価されながらも、森林局長
(Commissioner of Woods&Forests)の役職をあてがわれたままに放置さ れる二品であった。しかし1822年のキャスルレイの自殺に伴なうキャニングの 復位によって,ハスキッソンはリヴァプール内閣の保守的傾向を打破するとと もに,その翌年には閣内ポストに昇格した商務大臣(President of Board of Trade)となる。そしてまた大蔵大臣のロビンソン,内務大臣のピールととも に,キャニング主導による自由主義的改革がそこに開花する。ただその後は18 2) 27年初頭のリヴァプール内閣の崩壊とそれを受けた短命のキャニング内閣,キ ャニングの死によるこれまた短命のゴダリッチ内閣の成立と瓦壊,1828年のウ エリントン内閣と目まぐるしい交替劇が演じられた。ハスキッソンはその間キ・ ヤニング内閣までは商務大臣の地位に留まりえたが,ゴダリッチ内閣では植民 相(Secretary of Colonies)に鞍替され,ウェリントン内閣では保守的なウエ 2)キャニング内閣の成立および構成については,〔1〕を参照のこと。リカード周辺の議員経済学者 25 リントンとソリが合わずに1809年以来の野に降った。さらに,1830年目はマン チェースターとリヴァプール間の鉄道開通式での列車事故により,将来を嘱望 されながらも再帰をまたず不帰の客となってしまった。 他方かれの議員生活の方はといえば,落選した1802−04年を除く1796−1830 年を通じて代議士として下院で活躍したが,ブルームやキャニングほどの弁舌 の冴えはみられなかったらしい。 さておそらくかれのトーリー・リベラリストのスタートになったのは,かれ の議会内委員会での活躍,なかでもその《報告書》の起草およびそれへの弁護 であったといえよう。まず1810年の有名な《地金報告書》は,もちろんF.ホ ーナーをキャップとしていたが,それに並んでW.ソーントンとハスキッソン もまた共同起草者として名をつらねている。そしてかれの唯一の著作ともいえ る同年のパンフレット(〔23〕)は,《地金報告書》の立場を擁護して,現行の金 紙のひらきおよび外国為替の逆調をイングランド銀行券の過剰発行に帰せしめ るとともに,その対策として1797年以来とられてきた免換停止を改めてその党 3) 換化を提唱するものでもあった。これは当時颯爽とデビューしたリカードの《 地金の高価》(〔35〕III所収)に添う議論であり,ハスキッソンとリカードは その時には面接もなかったけれども,同一の理論・政策に属していたことを証 明しよう。 ところで1815年のナポレオン戦争の終結は,イギリス経済を不況に追込んだ がなかでも農産物価格の低下は著しく,戦時中の農業への過大投資や救貧税増 加等による負担過重とともに,農業苦況をもたらした。そのうえ戦争終結に伴 なう大陸からの安い穀物輸入の脅威も加わって,農業保護の機運を上昇させた。 これを受けて農業利益の代表者を多く含む下院は,従来の穀物法を改正して, 穀物関税を引上げて外国からの穀物輸入の制限に踏みきろうとした。この動き 3)マカロックは,それがリカード等の理論になんら新しいものをつけ加えるものではな いが,その叙述が明瞭で公衆の注意を喚起する点にメリットを認める。(cf.〔30〕p. 174.) しかしブラディは,それがたんなる《地金報告書》の弁護に止まらず,そこには重商主 義批判=自由貿易政策につながる論点も見出されるとする。(cf.〔3〕 pp. 30一一一31.)
26 荒木麺夫教授退官記念論文集(第300号) に対して穀物法論争が起こり,産業資本家階級の立場にたつリカードと地主階 級の立場にたつマルサスとを中心にして,はげしい論戦が繰り広げられたこと 4) は周知の所である。 この1815年の殼物法へのハスキッソンの対慮は,《地金報告書〉の場合とは 反対に,穀物法賛成の立場にたった。同穀物法の議会での討論は商務省次官ロ ビンソンの決議の導入から始つたが,ハスキッソンは彼に賛成して80sの保護 価格を支持するとともに,都市部よりの反対請願を振切ってその成立に尽力し た。 他方ナポレオン戦争の終結によって,《地金報告書》の延長線上にある現金 支払再開の問題も浮上してきた。しかし政府は戦後の各年ごとにその繰延べを はかってきたが,その順延も1819年には不可能となり,2月にはくイングラン ド銀行支払再開に関する秘密委二会〉(Secret Committee on the Expiediency of the Bank Resuming Cash Payment)が両院に成立する。このうち下院の ものは委員長の名をとってピール委員会とよばれたが,同委員21名中にはキャ ニング,ハスキッソン,ロバートソン等のいわゆるカンニンガイツの面々が含 まれており,また喚問された証人24名中にはリカードも含まれていた。このう ちハスキッソンは「問題の所在を知る唯一の人」(〔35〕V/354)といわれるよ うに,エキスパートとして彼の《地金報告書〉以来の立場を貫ぬき,現金支払 再開にむけて努力した。他方リカードもまた1810年以来の自己の理論がいまや 大方の支持をえつつあることに満足しえたのみならず,1816年の《経済的にし て安全な通貨》(〔35〕IV所収)における金地金支払の採用の可能性にも期待 をよせた。 さてその《第二〔最終〕報告〉は5月6日に提出され,それに基ずくピール の決議が5月24日に上提される。この年の2月から議会入りしていた一年生議 員リカードは,これに対する演説を行ない,経済エキスパート議貝としての地 位を確保した。そしてその翌日には現金支払法案が下院で可決され,6月25日 4)穀物法論争については,さし当って〔2〕や〔44〕を参照のこと。
リカード周辺の議貝経済学者 27 5) にその成立をみた。もっとも再開はさらに2年繰下げられ,1821年から実施さ れることになった。ただこの間ハスキッソンとリカードは,現金再開に対して 同一歩調をとったといえよう。 また穀物法による保護にもかかわらず,穀価の低下による農業苦況はその後 ますます深刻の度を加え,旧平価暗事による現金支払再開のデフレ効果とも相 6) まって,農業苦況は現金支払再開とからめて攻撃されるに至った。そしてまた これらを受けて,農業利害関係者は請願につぐ請願を行なうとともに,穀物法 の再強化をもくろむ。これらに押されて議会も3次にわたる〈農業苦況委員会 〉(1820,1821,1822)を設置したが,なかでも重要なものが1821年忌それで あった。同委員会は3月7日にグーチを委員長とし,採寸中にはハスキッソン, ブルーム,リカードを含むものとして成立したが,ハスキッソンの手になると いわれる《報告書》(〔33〕)が6月18日に提出される。ここでのハスキッソンは, 1815年の進物法論議における保護主義的立場を改め,基本的にはリカードに賛 成する穀物法強化反対の立場をとろうとした。しかし同《報告書》は政治的妥 7> 協をよぎなくされたため,最終的には折中的なものに終らざるをえなかった。 そのうえ《報告書》の遅れによって,当年の議会ではなんらの立法的措置も講 ぜられずすべては翌年送りとなった。 1822年には,2月18日にロンドンデリー(キャスルレイの襲爵による改名) によって前年の《報告書〉を特別委員会に附託するという動議が可決されたが, 同委貝会の顔ぶれは前年とほとんど同一であり,ハスキッソンもリカードとと もに甘貝として止った。同委員会は4月1日に新たに《報告書》(〔34〕)を提出 したが,それは前年のものに較らべて保議主義的色彩を強めていた。リカード はこの《報告書》には反対であり,ただちにそれへの少数意見とみなされる《 農業保護〔反対〕論》(〔35〕IV所収)を刊行して反撃に出る。イースター明 5)この間の詳しいいきさつについては,(〔45(1)〕pp.99−102.)を参照のこと。なお翌年 の1820年6月11日のウエスタンとリカードの論戦にさいしては,ハスキッソンがリカー ド援助の動議を提出するという一幕もあった。(cf.〔46〕pp. 121−122.) 6)実際にはこの両者に加えて,租税負担もあげられていた。(cf.〔22〕pp.98−99.) 7)これに対する書評には,〔29〕と〔36〕がある。
28 荒木麺夫教授退官記念論文集(第300号) けの4月29日の議会では《報告書》に基ずくロンドンデリーの決議が提出され るが,三余曲折ののち修正されたロンドンデリー案による穀物法が6月10日目 8) 下院を通過する。もっともこの穀物法は発効はしたもののほとんど実効をもた ず,翌23年6月にも余儘的に穀物法論議がむし返されたが,それは前年ほどの 迫力をもちえなかった。そ.してここでのハスキッソンとリカードは,ある程度 までは穀物法強化反対の線で同調するが,トーり一陣営の議員としてのハスキ ッソンはそれに若干の手心を加えざるをえなかったようにも思われる。(cf.〔3 5〕IX/177のLetter to Trower No.490.) さてこの1822年はまたnンドンデリーの自殺に伴なうキャニングの復帰によ って,りヴァプール内閣のりベラル化も促進された。なかでも,ハスキッソン やロビンソン等による経済自由化の試みには,目をみはるものがあった。1823 年にはリカードはこの世を去るが,同年にはキャニングの努力によってハスキ ッソンはインナー一一・一tキャビネット付きの商務大臣に就任する。23年以降のハス キッソンの努力は,その前年に出されたいわゆるウォーレス=ロビンソン Code(cf.〔3〕pp.89ff.)によって口火を切られた関税切下,航海法緩和,植民 地貿易改善をさらに押進めて自由化の途をたどることであった。その活動は多 岐にわたるが,以下特筆すべきものをあげて,その詳細をみることにしよう。 その第一は1823年目スピッタルフィールド法の撤廃であろう。同法は何より も絹織物労働者の賃銀を役人(magistrate)が決定することで有名であったが, ハスキッソンは同法の廃止を企わだてる。これに対してロンドン市長(Lord Mayor)による11,000人の署名を集めた請願が議会に提出されたが,撤廃法 は,ハスキッソンの努力によって下院を通過する。しかし上院によってこれが 骨抜きにされたため,ハスキッソンはいったんこれを取下げ,翌年に再提出の うえその成立を可能ならしめた。これに対してリカードは,1823年5月9日, 6月9日,6月11日のそれぞれの演説において,ハスキッソンを援護して同法 8)なお4月29日にはこのロンドンデリーの13項目決議以外にも,ハスキッソンの11項目 決議が提出されたのみならず(cf. Annud Register1821. pp.198−122.),討論は5月9日, 13日,6月3日,10日と継続して行なわれたらしい。(cf.〔35〕Vの当該日付の項。)
リカード周辺の議員経済学者 29 廃止の論陣をはった。(cf.〔35〕V/292,306−307,308−309.なおIX/318の Letter to Trower. No. 535も参照のこと。) 第二にハスキッソンは,高率保護関税の大幅切下をめざす。例えば綿製品に ついては,従来の75%,67%,50%という段階的課税を,一律10%の従価税に 切下げた。また羊毛については1819年に1b当り6dに引上げられた輸入税を 1dに戻したのみならず,1dを支払えば国内羊毛の自由輸出を認めようとも した。さらにインドよりの生糸関税は1b当り4sから3dへ,中国とイタリ ーからのそれは5sから6dへと引下げられたのみならず,絹製品についても 9) それぞれに関税引下げが行なわれるという具合であった。(cf.〔37〕Vol. II. p. 199.) 第三に,航海法およびそれに関連する植民地貿易の制限解除も目ざされる。 例えばすでに1822年には新興独立国アメリカに対しては,イギリス植民地との 貿易をアメリカ船によって行なうことを許可することによって,航海法の一丸 は崩されていた。ハスキッソンはそれをさらに,互恵を条件としてではあるが, ヨーロッパ諸国(スエーデン,デンマーク,オランダ等々)にも及ぼすべきで あり,イギリス植民地と上記諸国との問には,原則として自由貿易も認めるべ きであるとした。しかしハスキッソンの場合は,リカードのように完全な自由 貿易体制をめざすものではなかった。そこでは植民:地は「統合された帝国」(〔3〕 p.132.)に止めておかるべきであり,「帝国特恵」(ibid. p.133.)は温.存さるべき ものとされる。従って西インド諸島の砂糖やカナダの木材は,保護に値すると もいう。例えば西印度のために東印度からの砂糖輸入には15sないし10sの上 乗せ関税を認めたし(cf.〔37〕Vo1. II. p.160.),カナダ木材の輸入促進のため にはパルテック産木材には1ロード当り£3−5sという高率関税がかけられ 10) るという具合であった(cf. ibid. p.27)。そしてこれらに対して自由貿易支持者 9)有名なJ.D.ヒュームによる関税整理にも,ハスキッソンが貢献したらしい。(cf.〔22〕 p. 181. ) 10)もっとも翌1821年の改革によって,£2−5sにまで引下げられはしたものの,運送費 を考慮した場合には,カナダ木材は30sの優位を与えられることになる。(cf.〔37〕Vol. II. p. 27.)
30 荒木一夫教授退官記念論文集(第300号) からの攻撃も行なわれたが,ハスキッソンは断固としてこれを擁護し,それら を守り通したのであった。 1827年2月のリヴァプールの病気退陣に伴なって,ウイッグとの連立によっ てキャニング内閣が成立する。ハスキッソンの比重は俄かに高まったかにみえ たが,その年の8月には今度はキャニングの急死によってゴダリッチ(ロビン ソンの襲爵による改名)内閣が成立したが,翌年にはウエリントン内閣にとっ て替わられる。ハス・キッソンはゴダリッチ内閣では植民相(Secretary of Colo− nies)となり,1828年目ウエリントン内閣の成立時にも同職に止ったが,やは りウエリントンとは合わずに辞職する。1830年の鉄道事故による不慮の死まで の3年間は,ハスキッソンにとっては次の出番をまつ不遇の年といってよかっ たが,その願いはついに果たされなかった。 以上ハスキッソンの議員経済学者としての側面をみてきたが,かれの真骨頂 は何よりも有能な官僚という一語につきるかもしれない。しかもカンニンガイ トとしての彼は,経済自由化政策の推進に尽す所大でもあった。そしてまたそ の点では議員経済学者リカードと共鳴する多くのものをもちえた。しかし実務 家としてのハスキッソンは理論的なリカードの自由貿易化にはついて行けず, 妥協の途を選択することも多かった。のみならず「建設的帝国主義者」(〔3〕p. 133.)としてのかれは,積極的に「帝国特恵」〈ibid.)を温存しようともした。ス マートもいうように,「かれは一時的もしくは永続的〔輸入〕禁止を樹立する 何物にも決定的に敵対するものであった。……しかし……かれは自由輸入を保 護的関税によって十分に防禦したであろう」(〔37〕Vol, II. p.289.)というのが, ハスキッソンの基本的立場であったのかもしれない。 III H.ブルーム(1778−186B) ブルームの一生については,ホウズ(〔21〕),ニュー(〔32〕),スチュアート(〔3 9〕)の伝記がある。しかもかれの場合はハスキッソンとは異なり,19世紀の半 ばすぎまで長命であったのみならず,当初は下院議員としてウイッグに属した が,後には爵位をうけて上院に転じ,またウイッグにありながらトーリーにも
リカード周辺の議員経済学者 31 同調するという破乱多き一生をたどった。そのうえかれ.の視野は広く社会科学 部門に限っても経済以外に法律,宗教,教育等の多岐にわたり,その著作もお 11) びただしい数にのぼる。またその社会活動も,奴隷制反対,議会改革,王妃裁 判弁護,教育制度別して成人教育への提言や施策等々多彩を極めた。しかし以 下では時期的に1830年頃までに限り,また内容的には主として議員経済学者と しての側面,別してリカードとの関係に焦点を絞ることにしたい。 さてブルームの経済学者としての出発点は,かれがその創設者の一人でもあ った (cf.〔15〕Appendix The Founding of the Edin bu rgh Review. pp.186− 197.)エデンバラ・レヴュー(以下E.R.と略称)への寄稿に始まる。そして その創設の年である1802年からかれが議会入りをする1810年まで,彼はホーナ ーと並ぶE.R.の経済論文の主たる寄稿者でもあった。(cf.〔18〕) そこでの処女論文(〔4〕)以来のかれの主要関心は,なによりも植民地経済論 にむけられていた。翌年にはその延長線上にかれの大著(〔5〕)がでる。そこで は一方で地主階級と新興産業資本家階級との対坑関係に目をくばりながら,他 方でヨーロッパ各国(とくに英・仏)とその植民地との相互関係が全面的に取 上げられる。そしてまたその過程において植民地に対する貿易特恵が擁護され 12) るとともに,アメリカや西印度諸島における奴隷取引ないし奴隷によるプラン ティション耕作の改善も要求される。前者はマカロックのような自由貿易論者 からの批判をあびたが(cf.〔30〕p.92.),後者はウイルヴァーフォースの賞讃 を受け,奴隷反対運動論者としての彼の出発点ともなった。 もっとも彼の場合,母国と植民地以外の貿易以外については,自由貿易を擁 護した。そしてその立場からナポレオンの大陸封鎖の斜坑措置としてとられた イギリスの逆封鎖令(Oders in Council)には反対の論陣をはった。(cf.〔8〕, 13) (9)) 11)さし当り〔14〕を参照のこと。 12)そこでのブルームはスミスに従って自由貿易に組しながらも,植民地貿易に関する限 り,スミスに反対して貿易特恵を擁護せんとする。その点ではブルームもハスキッソン 同様,〈自由貿易帝国主義〉の先駆者といえるかもしれない。(cf.〔38〕p.16.) 13)ブルームはまた,1812年の勅令廃止にも精力的に活躍したらしい。(cf.〔20〕pp.127−128.〉
32 荒木廼夫教授退官記念論文集(第300号) 以上のどちらかといえば経済政策面での活動に加えて,ブルームは当時の議 員経済学者の大御所ともいうべきローダデールに対して理論面での論戦をも挑 む。スミスの根底的批判を目ざすローダデールの主著(〔28〕)に対するブルーム の書評(〔6〕)は,竣烈でありまたpolemicalのものでもあるが,その要点を個 条書にまとめれば,次のようにもいえよう。その第一は,価値論をめぐるもの である。ローダデールは,スミスの労働価値決定論に対して,効用と希少性か ち自己の需給論を主張した。またスミスの労働価値尺度論に対しては,内在的 かつ固定的な価値をもつものは皆無であるとしてそれを否定した。これらに対 してブルームはまずV一ダデールは交換価値の面ばかりを強調して需給論に移 っているが,それではスミスの価値逆説における絶対価値もしくは使用価値を 無視することになろうという。またローダデールは価値尺度としての労働が不 適であるとするが,スミスの場合最も頻繁に交換される商品としての労働を最 適としただけにすぎないとする。 第二は,公富論をめぐるものである。ローダデールは,個人の富(Private Riches)と公共の富(Public Wealth)とは本来異なり両者は相反して動くも のであるのに,スミスはこの両者を混同すると批判した。ところがブルームに よれば,そもそもローダデールがこのような取違えをなした根元には供給の減 少が個人の富を増加させうるという考え方があったためである。しかしそれは 全体としてみればたんなる価値や価格の上昇,すなわちインフレ現象にすぎな いのではないかともいう。 第三は,富源論に関するものである。ローダデールは,富の起源として土地, 労働資本の三者をあげる。そしてスミスが労働を重視したのに対して,むし ろ資本を重視せんともする。しかしブルームによれば,富源は土地と労働の二 者でよく,資本はそれより派生してきたものにすぎないとされる。またこれに 関連して,資本形成要因としての貯蓄論も問題となる。スミスは資本蓄積の主 要因として節倹=貯蓄を推奨したが,n一ダデールはむしろ消費こそが需要を 喚起させて市場を活勢化させるという。ブルームはローダデールの極端な貯蓄 反対論を批判することによって,さし当ってはスミス擁護の側にまわる。しか
リカード周辺の議員経済学者 33 し過剰貯蓄の弊害をも十分に承知していたブルームの場合,その結果梗塞され た市場のハケロとしての植民地の必要性が強調され,前年の著作(〔5〕)におけ る植民地擁護論への直結が試みられる。 第四は,生産的労働論をめぐるものである。周知のようにスミスの生産的労 働論は,二元的メルクマールすなわち利潤生産性と商品生産性によって行なわ れていた。これに対してローダデールは,後者による規定を批判してそれを重 農学派的な不十分なものとして斥ける。ブルームもまたスミスの後者による規 定は新しき富と物質の変換(transformation)の差異を強調しすぎるものであ り,より広い解釈が望ましいとされる。そしてまたこの点に関してローダデー ルは不十分かつ偏狭であるとされるが,ブルームのローダデール批判は,いさ 14) さか的外れの感がしないでもない。(cf〔20〕p.66.) 他方議員経済学者ブルームの本格的旅立ちは,1810年のかれの下院入りから 始まる。もっとも1812年の選挙では,リヴァプールで保守党のキャニングのた めに一敗地にまみれたが,1815年以降はまた議会に返り咲く。復帰後のブルー ムはまずナポレオン戦争後の農業苦況と穀物法改正の問題に直面したが,これ にさらに現金支払再開の問題もからむことによって,・やがて議会におけるリカ ードとの対立関係も生じるようになる。 前年の穀物法改正にもかかわらず1816年に入っても,穀価下落による農業苦 況は深刻の度を加え,農業保護の声はかまびすしかった。これを受けて下院で はまず3月7日にウエスタンが苦況の実態,原因,対策をのべたあと,保護の ための14個条の決議を提出した(cf.〔2〕p.180n.7.)。3月28日には同決議が再 審議されることになったが,そこではさらなる保護の賛成派に対し,政府側の ロビンソンが先に行なわれた所得税と麦芽税の廃止で当面は十分であるとして この要求を却下せんとした。そしてまた同決議案が三度取上げられた4月9日 に,ブルームの〈大演説〉(cf.〔37〕Vol.1. p.526ff.)が行なわれる。 そこではまず苦況の原因として,1812年以降の豊作と終戦による外国からの 14)ブルームは,翌年にもローダデールのブルーム批判にリジョインダーを試みる。(cf.〔7〕)
34 荒木廼夫教授退官記念論文集(第300号) 穀物輸入の予想とによる穀価の下落商工業不況,課税ことに救貧税負担等々 が縷々とのべられる。そのうえでブルームの一時的ならびに永続的救済策が, 次のように展開される。ブルームによれば,少くとも昨年(1815年)に成立し た穀物法は一時的救済策(palliative)としては有効であり,擁護さるべきも のとされる。なぜならばそれによって今までに土地に投下された貴重な資本の 喪失を免らしめるだけでなく,それに頑なって投下された熟練と労働をも無駄 にせずにすませるだろうからである。そしてまた苦況の大原因たる租税および 救貧税に対しては,それぞれマルサス的処方箋による貧民の独立心喚起と減債 基金取崩しによる租税軽減も提案される。 このような討議にもかかわらず政府側の心得ははかばかしくなく,議論は翌 17年の下院に持越されることになった。ブルームは3月13日に,今・度は商工業 の状態についてのく大演説〉(cf.〔37〕Vol.1. pp.594一一604.)を試みる。ブル ームによれば,政府のいう戦時から平時への転換に伴なう困乱が商工業苦況の 唯一の原因ではなくして,政府のとる制限的政策が真の原因であろうとされる。 もっとも彼は前年のく大演説〉で穀物法を擁護したが,それは唯一の例外であ って,其他については自由貿易政策が推奨される。例えば現在パルテック貿易 における鉄鉱・木材,南米貿易における銅の輸入制限がみられる。同じくフラ ンスからのワインや大陸からの麻の輸入についても,同様であろう。しかしこ れらの制限は我国からの輸出(例えば石炭)を妨げている。またスミス以来の 聖域とされる航海法についても,その制定当時はいざしらず現在では不要であ るともいう。これに対する政府側のロビンソンはその主旨に賛意を表しながら も,既得権益による抵抗の強さを訴えるものでしかなかった。さらにこのあと ベアリングがブルーム援護にたち自由貿易を擁護したが,最後に政府側のキャ スルレイがブルームの決議を118対63で否決することによってこれをしめくく った。(cf. ibid. pp.604−606.) 18!9年に議会入りをしたリカードとブルームとはその後幾度も論議を交える が,おそらくその最初のものは,ピータールー事件の処理をめざすその年の特 別議会でのリカードの演説(12月24日)に対するヴルームのコメントであろう。
リカード周辺の議員経済学者 35 そこではまず商業苦況に関するロンドン商人の請願がアーヴィングによって提 出される。これに対してリカードは苦況の原因が請願のいうような党換復帰を 見すえた通貨の減少にあるのではなくて穀物法と國債にあると断言する。これ に対してブルームはリカードのいくつかの論点には同意するものの,リカード 国債償還法の非現実性を批判する。(cf.〔35〕V/40−41および〔45(1)〕pp.103 −104. ) 翌年の1920年には,引続く農業苦況打開のための特別委員会設置の動議が提 出されるが,リカードがこれに対して反対演説(5月30日)を行なう。しかし ブルームは動議支持の立場からリカードに対して反対演説を行ない,「ポータ リントン選出の彼の友人〔リカード〕はあたかもかれ〔リカード〕がもう一つ 別の遊星から落下してきたかのよう」(〔35〕V/56)であるとして,リカードの 偏理論断をつく有名な発言を行なう。(cf.〔45(2)〕pp.29−35.) 翌1821年にも農業苦況のための特別委員会が設立され,委員中にはハスキッ ソン,リカード,ブルームを含み,その《報告書》がハスキッソンの手になる ものであることは前述した。そしてまた翌1822年の特別委員会の《報告書》が 前年のものよりも後退していたため,リカードがそれに対する少数意見として かれの《農業保護〔反対〕論》を出したことも前述した。そしてこの1822年に はリカードとブルームの対決がその年の穀物法改正をめぐって数多くみられる ことになる。 まず開期早々の國王の演説の奉答文に始まる討議に引続く2月11日にブルー ムは,現在の苦況別してその農業苦況を救済するために貨幣価値の変化に応じ る租税の軽減を求める動機を提出した。これに対してリカードは,現在の農業 苦況の真の原因は穀物の供給過剰であって租税ではないと反論した(cf.〔35〕 V/125−127.)。2月15日にはロンドンデリーがそれに対する政府側の万慮策を 発表し,その一つとして農業委員会の復活を約束した。そしてこれを受けて2 月18日には,前年の《報告書》を附託するように発議した。このようにして前 年とほとんど同一の顔ぶれで,1822年のく農業苦況特別委員会〉の成立をみた, 同委員会は4月1日にその《報告書》(〔34〕)を提出する。イースター明けの4
36 荒木廼夫教授退官記念論文集(第300号) 月29日には,ロンドンデリーが同《報告書》に必ずく決議を提出するが,リカ ードはこれに代る自己の決議を出してロンドンデリー決議を批判する。 この論議は5月に入ってからも続行され,7日,8日の討議のあと,9日に はオルトロップ(Althorop)がリカード決議に自己の修正決議をぶっつける。 リカードはこれに対して長広舌をふるうが,その途上でオルトロップと意見を 15) 同じくするブルームをも次の如く批判する。ブルームは間接課税の農業界に及 ぼす影響に十分な考慮を欠くというが,その計算の基礎となったものは,製造 業と農業ではその価格構成が異なり,前者では賃銀部分が少なく利潤部分が多 いのに対し,後者ではその反対となるということであった。しかしリカドによ れば,そのようなことは根拠あるものとは考えられず,救貧税についてもその 一部は製造業者の負担となっているとされる。そして最後に三決議の票決に移 ったが,オルトロップ修正決議については24対201で否決,リカード決議につ 16) いては25対218で否決,ロンドンデリー決議については218対36で可決された。 なおブルームは,リカード決議の票決にさいしては,リカード決議賛成の少数 派に投票していたらしい。(cf,〔35〕V/185.) このような迂余曲折を経た1822年の穀物法は,6月10日にやうやく成立をみ た。しかしそれはほとんど効果をあげえず,1823年にも余儘的な論議がむし返 されたが,前年ほどの迫力をもちえなかったことは前述した。 これまた前述したように,ロンドンデリーの自殺によってカンニンガムおよ びカンニンガイツが復帰し,トーリー・リベラリズムの推進に拍車がかかる。 そしてブルームは反対党のウイッグに席をおきながらも,これを支持してゆく ことになる。その一つの例証として,リカード死後の翌年の1824年におけるく 『15)この点の詳細については,(〔46〕pp.126−127.)を参照のこと。なおそのp.126,1.7−8 にかけての「……小麦1gの国内価格が80sになるまでは輸入禁止,70s未満では輸入化 …」とある所は,「80s以上になれば輸入自由,70未満では輸入禁止・…・・Jと改めたい。 またp.ユ27の「オルソープ(Viscount Althrop)」も,「オルトロップ」に改めたい。この 2点については,〔40〕,〔41)の羽島氏の御教示による。 16)リカード決議の票決については,(〔19〕p. 38)およびそれを引用する(〔38〕p.41)では, 25対217となっている。
リカード周辺の議員経済学者 37 救貧法特別委員会〉での活躍があげられよう。それはラッセルを委員長とし, ピールたちと並んでブルームをも委員として含む構成をとり,その《報告書》 が6月4日に提出された。そこではマルサス的な立場から,現在の救貧法体制 (1795年のスピーナムランド・システム)が次の如く批判される。第一に現体 制では雇用者は有能な労働者を雇えない。なぜならば貧民労働者は生産性に劣 っているから。第二に農場労働を必要としない人は他人のためになされる仕事 の支払のために貢納を余罪なくされる。第三にそのために余剰人口が奨励され る。第四に最悪の弊害として労働者階級の性格を堕落せしめる等の諸点よりし て,現行体制は労働者階級の幸福を促進せずに反対にそれを損なうものである と結論ずける。(cf.〔37〕Vol. II. pp.249−250.) もっともこの《報告書》は当面はなんらの成果をも1もたらしえなかったが, それは遠く1834年の新救貧法を見すえているものであり,それの一翼にブルー ムもつながっているという意味で興味がもたれるものであろう。 この外にもブルームは成人教育に力を入れ,メカニックス・インスティテユ ーション(Mechanics’Institution一以下MIと略称)や有用知識普及協会 (Society for the Diffusion of Useful Knowledge一以下SDUKと略称)の設 17> 立や支援に努力する。前者はかれの盟友パークペック.が1823年にロンドンに設 立したものから始まるようであるが,ブルームはその成立に協力を惜しまなか ったらしい。なかでもかれの〔10〕は,MIの理念を一般に知らしめるととも にロンドン以外の各地にMIの設立を促がした。そしてそこでは技術教育のみ ならず,経済学も教えられたが,それは正統派のそれであって急進的なもので はなかった。(cf.〔38〕pp.132−136.) ブルームの成人教育の今一つ柱であるSDUKは, MIを補充するものとし て1826年に創立される。ブルームはその管理委員会の委員長としてこの事業に 専念する。また翌年にはSDUKの最初の啓蒙的パンフレットもいうべき〔13〕 をかく。ただSDUKの科学的主題についての安価な刊行物を主として労働者 17)Infant SchoolやLancastarian Schoolの如き初等教育へのブルニムのコミットについ ては,(〔38〕pp.129 ff.)を参照のこと。
38 荒木廼夫教授退官記念論文集(第300号) 階級に提供するという当初の目的は,上層の機械工や中産階級には受入れられ 18) たが下層の嗜好には逢わず,必ずしも満足のゆくものではなかったらしい。ま たそのような成人教育の延長線に,1826年のブルームのロンドン大学の創設活 動がある。それはオックスフォードやケンブリッジの大学とは異るイングラン ドにおける最初の非宗教大学であり,そこでの最初の講義は1828年10月中ら始 められるが,それはまた貴族のみではなく中産階級にも開かれた最初のもので あったともいえよう。(cf,〔11〕,〔12〕) IV むすびに代えて 以上ハスキッソンとブルームのそれぞれの活動の中で,リカードとのかかわ りを主にして彼等の社会経済的側面についてのべてきた。最後に彼等によるリ カード評とリカードによる彼等への評価とをのべて,むすびに代えたい。 まずハスキッソンのリカード評は,リカードの死の翌年の1824年2月18日の 議会での発言にみられる。すなわち,「彼〔ハスキッソン〕は,……アバディ ーン選出の議員〔ヒューム〕が彼の価値ある友人である故リカード氏一語もま た喜こんで彼の友人中に数えてきた紳士なのだが一の死によって議会が受け た損失を遣憾に思ったということに,少しも驚かされなかった。彼よりもリカ ード氏の鋭敏と能力を高く尊敬した人はいないし,また彼の損失を真摯に嘆い た人もいまい。彼〔リカード〕の公的行動のすべてにおいて,彼が正しいと考 えたことをなし,国家の利益を求め,それ以外の目的は追求しないという切望 が明白であった。そして彼の演説はつねに,彼自身と国家に対して等しく名与 を与える所の堅固と和解の精神によって際立っていた」(〔35〕V/332.)とする。 そして時にはリカードからの批判を受けたものの,しばしばリカードによって 助けられ,ことに1820年以降は基本的にリカードと同じ立場に立ちえたハスキ・ ッソンのこの発言は,たんなる公式的な言辞に終るものではなさそうである。 18)SDUKはその後ナイトの協力もえて,1830年以降Penny Magazineを刊行して出版物 の低廉化をはかったり,機械導入賛成のパンフレット(〔24〕,〔25〕)を出して急進主義に 対坑するようになる。(cf.〔26〕VoL II ch. VIII−IX.)
リカード周辺の議貝経済学者 39 これに対しブルームのリカード評は,ハスキッソンにくらべて,少し辛口で ある。前述したように,1820年5月30日の他の遊星人というリカード評は後年 の語り草ともなったが,かれの全面的リカード批評は,〔35〕のv/xxii−xxiv 19) にみられよう。すなわち,「……彼〔リカード〕の発言,彼の行動のマナーは すべて非難される所がなく,また哲学者の中での彼の高い地位,政治的事件に ついての彼の周知の意見,彼のやさしい性質,彼の飾らない慎み深さのすべて が,その人にふさわしかった。彼をめぐっては,すべての党派の尊敬をか.ちえ た何かがあったが,それは主として彼がいったりしたりしたあらゆることにす べておごりや含みがないということであった。彼の論題は,いつも高い価値が あった。あなたが彼と意見を同じくしょうが異にしょうが,もしまさに正義と 真理の追求があなたの目的であるならば,あなたはそれを持出しその問題に関 連させられたことに十分満足させられよう。」としたのちすぐに続けて,「彼の 見解は実際しばしば理論的でありすぎるので,それはある時には彼の聴衆に対 してあまりにも洗練されすぎており,彼が適用しつつある事物の状態を実際に は正当に考慮することなしに,正しい原理を追求してその帰結のすべてを出す という彼の性向か.ら時としては途方もないものになってしまうことがしばしば であった。それはあたかも機械工が,そこで作動するであろう空気の抵抗を考 慮しないかまたは造られるであろう部分の力や重さや摩擦を考慮しないで,エ ンジンを組立てるのに等しい。」(〔35〕v/xxii−xxiii)として,その例証とし て前述したりカードの資本課税による国債償還論とリカードの金党換平価復帰 論とをあげる。そのうえでさらに,「彼の間違いはそのようなものであったし, 下院の多数で重要な階級に強烈な感情を呼起す種類のものでもあったが,彼は, すべての人によって認められた彼の能力を性格の偽りなき資質によって一様に あまねく尊敬された。」(ibid. v/xxiii)とする。また教会や国家の憲法につい てのリカードの極端な意見もかれの義務感のなせる業であったから,誰をも怒 らせなかった等の事実をのべたのち,「彼の喪失に対して感じられた遣憾の情 19)これは,(〔14〕),Vol。 IV. pp. 166−171からの抜粋である。
40 荒木麺夫教授退官記念論文集(第300号) は,彼や議会にあった三年間に彼が保持してきた高き評価に比例していた。ま た国家もその代議員とともに,すでにそんなにも有用でありまた世界を照すの にそれだけ多くのまた長期間のサービスを果すべく期待されたかもしれない違 大な光りが永久に消滅したことを当然に悲しんだ」(ibid. v/xxiv)としてこれ をしめくくる。 これらに対してリカード側からのハスキッソン評は,折々の短かいコメント を除いては,ほとんど見当らない。これに反してブルームに対しては,やや辛 刺な批評をあびせる。それは,トラワーがバーデットの議会改革の演説に答え たブルームのそれを好演説だとした手紙に反論する形で,次のようにのべられ る。すなわち「一それ〔ブルームの演説〕は少しも議論になっていず,また 改革に関するかれ自身の現在の原理が何であるのかをも示していません。ブル ームはひじょうに賢こい人ですが,政治家としては決してひじょうに高くは位 置ずけられないでしょう。なぜなちば,彼の意見には一貫性がなく,また彼は 目前の目的に対してあまりにも大きな犠牲を払いすぎるようにわたしには見受 けられますので。ある場合には彼はウイッグに妥協せんと欲し,それで急進的 な改革者が彼の手で容赦なく取扱われますが,一一一他の場合には彼が改革の大 義においてバーデットにさえくらべられるほどの所までゆくものと結論される でしょう。永続する名声を獲得したいと欲する人は,当面の拍手に熱心であり すぎる右顧慮晒する政治家であってはなりません。」(〔35〕VII/274)と。 みられるようにリカードはブルームにはきつく,ハスキッソンにはより寛容 であったといえるかもしれない。 〔引用文献〕 ( 1) Aspinall, A., The Formation of Cannings’ Mindst2 y, Febvaa7 y to August 1827. edited ノラ「om()ontemPoranyソCorresミかondence.1937. (2) Barnes, D. G., A Histo7y ofEnglish Corn Laws from 1660−1846. 1930. (reprinted by Kelley. 1961.) (3) Brady, A., MlilSiam Husleisson & Liberal Reform. An Essay on the Changes in
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42 荒木廼夫教授退官記念論文集(第300号) 2.) (30) 一, The Literatzare ofPolitical Economy. A Classtfied Catalogue ofSelect Publications in the D21fferent DePartments of That Science with Historical, Critical, and BiograPhical Notes. 1845. (reprinted by Kelley. 1991,) 〔31〕Mitchell, A.,7物陥郷勿吻os露加,1815−30.1967. (32) New, Ch., Lzfe ofHen7y Brougham to 1830. 1961. (33) Ropert from the Select Committee of the Hoztse of Commons, to whom the Several Petitions ComPlaining of the Dtstressed State ofAgriculture of United Kingdonz were re一 プ繍6ゴ:Ordered to be pressented 18 th June 1821.(repinted in Annual Register 1821. Appendix to Chronicle. Public Documents. pp.506−535.)毛利健三〔訳〕,農業不況に関 するイギリス下院報告書〔1821年〕(1>一く3)(福島大商学論集,第35巻第2一第4号,1966. 9&12, 1967. 3.) (34) RePertfrom the Select Committee, aPPointed to inqztire into tlae A llegations ofSeveral Petitions to the Hoztse in the Last & Present Sessions of Parliament, comPlaining of the Ddstressed State ofAgriculture of United Kingdom, and to rePort their Obsevations there uPon to the Hoztse : 1 st April 1822.(First Repert) (repirinted in Annual Register 1822. Appendix to Chronicle. Public Documents. pp. 438−444.) C35) Ricardo, D., The Works (f} CorresPondence ofDavid Ricardo. ed. by P. Sraffa with the Colgaboration〔of M, H. Dobb. Vol.1−XI.1951−1973.(堀経夫・末永茂喜・鈴木鴻一郎 ・中野正・玉野井芳郎監訳,〈リカード全集》,第1一第10巻.1960−1972.) {36) Senior, N W., Report on the State of Agriculture. (Quarterly Review. No. 50. 1821. 7) (37) Smart W., Economic Annals ofthe Nineteenth Centza70,. Vol.1 1801−20. Vol. II 1821−3 0. 1910 & 1917. (38) Sockwell, W. D,, PoPulartsing ClczssicalEconomias. Hen7yBrougham & William Ellis. 1994. (39) Stewart, R., Hen20, Brougham, 1778−1868. Hts Public Career. 1986. 〔40〕羽島卓也,1822年の穀物法改正とリカード(関東学院大学経済学研究科紀要,No.14., 1989. 4.) 〔41〕 ,久保・真実・入江編著,スミス,リカード,マルサス,1989.の書評(関学 大経済学論究,第44巻第1号,1990.5.) 〔42〕真実一男,リカード機械論の復位(大阪市大経済学雑誌,第67巻第5・6号,1972. 12.のち〔44〕の附録3に所収) 〔43〕 ,リカード機械論再訪(真実一男・尾上久雄・柴山幸治編著,国家と市揚機溝, 1982.所収,のち〔44〕の附録4に所収) 〔44〕 ,リカード経済学入門(増補版),1983. 〔45〕 ,経済学者議員IJカード(1ト〈3)(奈良産大開学記念諭:文:菓,1985.11.;奈良 産大産業と経済,第1巻第1号,1986.6.;同誌,第2巻第1号,1987.6.) 〔46〕一,議員時代のリカード(久保芳和・真実一男・入江奨編著,スミス,リカード,
リカード周辺の議貝経済学者 43 マルサス,1989.所収) 〔47〕一,最近のリカード機械論研究(奈良産大経済学部創立エ0周年記念論丈菓,1994. 11. ) 〔追記〕参照文献の入手に関しては,京都峯園大渡辺恵一,大阪市大山岡茂樹,大東文化大 竹永進,奈良産大渡辺邦博の各氏にお世話になった。また奈良産大圖書館の竹辺久美 さんにも御配慮をうけた。記して感謝の意を表したい。