世界の分類について
文化システムの研究(1)
金 子 孝 吉
1.はじめに 本稿の目的は,人間による世界の分類の諸形 態を調査し,それぞれの分類の仕組みと特徴を 検討すること,またそれらの世界分類が発生し てきた経過を考察することにある。 人間は,自分の周囲を取り巻く世界を一定の 仕方で「分類」していくことによって,それ独 自の世界観を構築する。 人類の歴史の原初の時点,あるいは個人の場 合を考えてみてもその人間がこの世に誕生して きたばかりの時点では,人間にとって,周囲の 世界は〈混沌〉=〈カオス〉として眼前に現れ る。人間を取り巻く世界は,ほとんど脈絡のな いばらばらな多数の要素の集まりとして存在し ている。つまり,それは,まだほとんど構造化 されていない状態にあるといえるのである。ま た,そのときには,人間が世界において出会う 各要素は,その人聞にとって良いものなのか悪 いものなのか,味方なのか敵なのか,触れてよ いものなのかいけないものなのか,あるいは食 することが可能なのか不可能なのか,区別され てはいない。人間は,世界のなかで,ひとつひ とつの要素にぶつかるたびごとに,いちいち 一ときには生命の危険を冒して ,それが 彼にとって良いものなのかどうか,受容すべき ものなのか拒絶すべきものなのか,試してみな ければならないのである。 しかし,人間は長いあいだ試行錯誤を繰りか えし,経験を積んでいくうちに,少しずつ,世 界を構成する多数の要素を,彼にとって安全だ と見なしてよい要素群と,警戒しなければなら ない危険な要素群とに分けることができるよう になっていく。そのようにして,人間は徐々に 世界を〈カオス〉からくコスモス〉に変えてい くのである。そうした世界の秩序化をめざす, 人間の世界分類は,しだいに複雑化・精緻化し ていき,最終的には,強固な世界観,制度とし て確立するに至る。そして一旦確立したそれは, 今度は,しつけや教育によって,また宗教,思 想,社会的風潮などを通して,世代を越えて受 け継がれていく。また,世界の分類法は,それ が受け入れられ,定着するに至った社会のなか で生きる人々に,ある一定の世界観を付与し, またその人々が世界のなかでさまざまな行為を なす際の基準ともなる。 さて,20世紀の初頭に認識論上の大転換を引 き起こした言語学者ソシュールと彼の革命的な 思想を継承した人たちは, 〈自然〉というのは, 本来,人間にとっては「連続体」として現れて いたと述べる。そして,その連続体を人間が言 語記号によって「分節」していくことにより, 〈自然〉からく文化〉が発生したと主張する。 ソシュールによれば,人問は,すでに分けられ てある自然構成要素のひとつひとつに,名前 (レッテル)を貼りつけたのではない。そうで はなく,言葉があって初めて一あるいはそれ と同時に一自然が切り分けられて,要素が姿 を現したのである。1)「連続体」である自然とは, 換言すれば,無限に広がる〈混沌〉のことであ 1)ソシュール,F.『一般言語学講義』(小林英夫 訳),岩波書店,1940年,157頁以下参照。一46一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.6 1999 る。言語記号によって,あるいはそれが生じる のと同時に,「連続体」である混沌が分類・整 理され,秩序化されていくのである。文化人類 学者エドマンド・リーチの表現を借りれば, 「人間の自分を取り巻く世界についての内的な 知覚は,それを表現するために用いる言語範疇 によって,大きく影響される」のであり,また 「われわれは, 〈自然のまま〉の状態にあって はもともと切れ目のない連続体である場のさな かに,人工的な境界をあれこれと創りだしてい る」2)のである。荘漠として広がるく自然〉の なかにこうした「人工的な境界」を設けること, それこそが人間の〈文化〉の営みであるといっ てよいだろう。しかしながら,ソシュールが打 ち出した,さらに重要な言語思想は,人間はそ のように自然を分節して人工的な文化システム を作りあげる動物ではあるが,人間がその自然 を「分節」するときの仕方は決して,一定の決 められたものではなく,まったく「恣意的」・ 選択的であるという考え方だった。 それを受けて,エドワード・サピア,そして ベンジャミン・L・ウォーフら,「言語相対説」 を唱える言語学者たちは,世界の分節の仕方が 各文化ごとに大きく異なっていることを,より 鮮明な形で提示してみせた。とくにウォーフは その著『言語・思考・現実』3)において,ヨー ロッパの諸言語とアメリカ・インディアンの諸 言語を比較してみると,その語彙体系や文法体 系は,互いに対応関係を見いだすのがほとんど 困難なくらいの隔たりがあることを指摘した。 両者のあいだで世界を分節する方法が大きく異 なることによって,その結果として,おのおの が抱く世界観・価値観も大きな違いをもっこと になる。世界の分節体系の違いは,異なる言語 体系をもつ文化間の相互理解を困難なものにす るとさえ彼らは唱える。それほどまでに,言語 記号による分節が作り出す世界観の違いは著し いものなのである。 人間による自然の分節の仕方の「恣意性」, すなわち分節方法の多様性を示すもっとも有名 な例は,「虹」の色の分類であろう。日本人に とって虹の色は赤,榿,黄,緑,青,藍紫の 七色であるというのはおそらく,疑いのない自 明な事実である。だが,英語では,虹の色は, red, orange, yellow, green, blue, purpleの 六色とされているし,ローデシアの一言語であ るショナ語では,cicena, citema, cipswukaの 三色とされ,ウバンギの一言語であるサンゴ語
では,bengwbwaとvukoの二色,リベリアの
一言語であるバサ語でも,zizaとhuiの二色に しか区切らないのである。4) 自然現象である虹は,もともと,赤から紫ま で切れ日なしに「連続」的に変化していくもの である。それを,おのおのの言語体系あるいは 文化体系が,七つまたは六つ,さらには三つ, 二つとそれぞれ勝手に一すなわち「恣意的」 に一切り分けて,虹の色を決めているのであ る。同じ自然の事物・事象でも,それらの分節 の仕方は,文化によってばらばらなのであり, なんらかの一通りのく必然的〉な切り分け方が 先天的に人類の本能に組み込まれているわけで はない。ある一つの切り方が正しくて,その他 は間違っているということではなく,それは畢 寛,個々の文化ごとの習慣的な取り決め,約束 ごとなのである。 人間による世界の分節は,ホモ・サピエンス という種にあらかじめプログラムされた共通の 一種類の仕方によってではなく,個々の文化集 団が「連続体」であるく自然〉をそれぞれ独自 のやり方で個性的に,多様に切り分けることに よって行われるのである。 2)リーチ,E.『文化とコミュニケーション』(青 木・宮坂訳〉,紀伊国屋書店,1981年,71−73頁。 3)ウォーフ,B.L.『言語・思考・現実』(池上 嘉彦訳),講談社,1993年。 4) Gleason, H.A., ‘An lntroduction to De− scriptive Linguistics’,1955, p.4.または丸山 圭三郎編『ソシュール小辞典』,大修館書店, 1985年,79頁参照。2.二元的分類
人類が進歩する過程で,人間による世界の分 節行為はしだいに複雑化・精密化していったが, まず第一段階における最も原始的な一しかし 今なお最も基本的で重要な一世界の分節方法 は,「二元的」分類であるといってよい。 発達心理学的あるいは人類の精神史の視点か らまず考えてみることにしたい。始源の人間精 神にとっては,まだ自己と環境とのあいだの区 別はついていない。しかし,そのうち,まわり の世界とは異なる自己という存在がおぼろげな がらも意識されてくる。それと同時に,世界は その自己を取り巻く多数のばらばらな要素とし て認識されるようになる。さらに次の段階では, それらの要素が,一つずつ吟味され,自己に近 しいものと,あくまで自己とは疎遠なものの二 つに分類されていく。人間の生きる世界はその ようにして,自己,自己の所有物,自己の味方 の人間集団,自己の習慣的日常空間など(〈内 なる世界〉)と.それ以外の,自己とは疎遠な 事物,得体の知れないよそ者,あるいは自己 (集団)と対立する敵の集団,外側に広がる未 知なる異界の空間など(〈外なる世界〉)に分 けられていくのである。 そのうちに,歴史の経過とともに,〈自己の 世界〉対〈その他の世界〉という具体的・経験 的な,いわば自己中心的な二元論は,一応自己 の立場を括弧に入れた,非=個人的な,それ自 体で完結する二元論,普遍性を伴った二元論へ と進展していき,最後には,抽象的な思弁哲学, あるいは現代の諸科学に見られる客観的な分類 体系を誕生させるにいたったのである。 世界の二元的分類といえば,すぐ思いつくだ けでも,たとえば古代中国の「陰陽」思想があ る。それによれば,宇宙における万物は,「陰」 か「陽」のいずれかのカテゴリーに分けられる。 「陰」には,たとえば,女性,夜,月,水,大 地などが属し,「陽」には,男性,昼,太陽, 火,空などが属す。両者は互いに対立しあい, かつ依存しあいながら,世界を形成し,また動 かしていくとされるのである。 ヨーロッパにも,かなり古い時代から二元論 的発想があった。たとえば,ピタゴラス派の人々 は宇宙を,次のような二つのグループに分けて いたQ 限定されないもの 偶数 多 左 女性 悪静
暗 長方形 曲がったもの 限定されたもの奇数
右
男性善
動
明
正方形
達っ直なもの5) その他,よく知られているものには,ゾロア スター教やマニ教などに見られる宗教的二元論 がある。そこでは,光と闇,善と悪,真実と虚 偽etc.が対立的に捉えられていた。 しかし,それらと並んで,世界の多くの文化 に見いだされるのが,世界を「聖」と「俗」の 二つにわける分節方法である。 「聖」1θ sacr6, das Heiligeの概念は一言で 定義するのは難しいが,人間の力や知恵を遥か に超えた神々しいもの,むやみに人間が触れて はいけない崇高なもの,それを前にすると畏怖 を覚えつつも,魅せられ,引き寄せられてやま ないものを意味していると捉えるのが一般的で あろう。しかし,それらの解釈とはかなり異なっ た聖俗論を提唱したのが,宗教学者ミルチア・ エリアーデである。彼の聖俗論は,私たちがい 5)アリストテレス『形而上学』(井隆訳),岩波書 店,1959年,〔上巻〕42頁参照。この十対の対立 概念を並べた表は,ピタゴラス派の範躊表とも呼 ばれ,五世紀のピタゴラス学徒フィロラオスに始 まるとされる。一48一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.6 1999 ま取り組んでいる世界の分類の考察という文脈 からすると,実に示唆に富んだ観点を私たちに 提供してくれる。
エリアーデはその著書『聖と俗』Das
Heilige und das Profaneのなかで,原初の人 間にとって空問は,最初に体験されたきには, どこまでも均質な広がり,なんらの方角もなく, いわば無限ののっぺらぼうな広がりとして感じ られたと述べている。そのときには,人間にとっ て,その周囲の空間は,右も左もなく,上も下 もなく,すべては「同質」で,’どこが安全な場 所なのか,どこが危険に満ちた場所なのかもわ からなかった。人間の生活はひたすら偶然に委 ねられ,いっさいの予想がつかない,きわめて 不安定なものだった。一しかし,あるとき人 間は,その広がりのなかに一つの「中心」を設 ける。そこは,その人間(集団)が世界を認識 する際の絶対的固定点となる。いうならば,のっ ぺらぼうな白紙の上に,いまや中心点が設定さ れたのである。さらに,その基点を貫いて,垂 直に一本の線が引かれる。その線は,世界の中 心を貫通する「世界軸」axiS mundiであり, その軸は,上方では神々の住まう天に,下方で は死者たちの住む冥界に繋がる。またその固定 された中心を基点として,水平方向に座標軸が 敷設され,それによって東西南北などの方角も 決定される。そのようにして人間は,いわば右 も左もわからない不安な状態,上も下もない無 秩序な状態から脱し,空間を秩序化・構造化す ることができるようになるのである。エリアー デは次のように述べている。 伝統社会の一つの特徴は,彼らの住む領域と それを取り巻く未知不定の空間との,彼らに は自明な相反である。彼らの領域は〈世界〉 (精確に言えば〈われらの世界〉)であり, コスモス(宇宙)である。それ以外はもはや コスモスではなく,一種の〈別の世界〉であ り,幽霊や魔神やくよそ者〉の棲む,見知ら ぬ混沌の空間である。6) エリアーデは,そうした世界の中心を貫く 「世界軸」一あるいはそれは世界の中心に聾 える「世界樹」の場合もある一を基盤にして 秩序化された安全な場所を,「聖なる空間」と 呼び,それ以外の混沌と偶然が支配する危険に 満ちた周縁を,「俗なる空間」と呼んだ。人類 は,空間をその二つに分類することによって, 初めて自然状態を脱し,文化的歴史の次元へと 突き進むことができたとするのである。 時間についても,エリアーデは,人間にとっ て始源の自然状態の段階では,それは,始まり も終わりもなく,ひたすら流れ去っていく連続 的なものとして体験されていたとする。しかし, 人間はその一直線に伸びている時間に,自分た ちの関心や必要に応じて「節目」をつけた。均 質に流れる時間に切れ目を入れ,一年や季節や 月や週や日などの時間単位やその組み合わせに よる暦を創り出した。なかでも一番重要だった のは,流れ去る時間のなかに,初源の時点と終 焉の時点を設定し,それによって時問的「周期」 の観念を生み出したことである。すなわち,世 界は周期の初めに誕生し,しだいに成長してい き,そして周期の末に至ると死んで消滅する。 しかし新たな周期の開始時には世界は再び新鮮 な姿で甦る,という概念を人々は考え出したの である。これについても,エリアーデの説明を 聴くことにしよう。 ヨクト人は「一年が経過した」と言おうとす るとき,「世界が過ぎ去った」と言う。ユキ 人の聞では,「歳」は「大地」あるいは「世 界」に当る単語で表現される。ヨクト人と同 様,彼らは一年が過ぎ去ったとき,「大地が 過ぎ去った」と言う。……コスモス(宇宙) は,成立し,発展し,そして歳の最後の日と 共に,元日に再生するために消滅する生きた 統一体と考えられている。われわれはこの再 6)エリアーデ,M。『聖と俗』(風間敏夫訳),法 政大学出版局,1969年,21頁。生が一つの生誕であり,宇宙は毎年再生する ことを見るであろう。というのも時間は新年 のたびごとに最:初から(ab initio)始まるか らである。の 世界が古びて死滅し,新たな世界が誕生する 時点が,「聖なる時間」であり,そのとき,時 間の経過によって古び,傷ついた世界は,まっ たく新たに,健康になって生まれ変わり,最初 の活力を取り戻すとされるのである。だからこ そ人間はその新旧の時間が交代する転換点を儀i 礼によって祝うのである。そのようにして時間 は,初々しい活力に満ちた「聖なる時間」と, それ以外の「俗なる時間」とに分類され,それ によって人間の生活にリズムと秩序がもたらさ れるのである。
いずれにせよ,人問は世界一空間や時
間一をなんらかの方式で分類せずには,その 生活は,いつまでたっても偶然に左右され続け, なんらの見通しもたたない不安定なものにとど まる。人間の生活を,ある程度の範囲・期間に わたって計画的なものにし,安定化させるため には,世界を,全部とはいわないが,部分的に でも,カオス的な状態から,一定の構造をもっ たシステム状態に変えることが是非とも必要な のである。エリアーデのいう「聖なる空間」と 「聖なる時間」から成る世界とは,そのように して人間の生活がある程度まで秩序化・安定化 された〈中軸的〉世界部分を指すのであり, 「俗なる」空間や時間の世界とは,いまだに無 定形amorphousな段階にとどまっている始源 的世界,偶然に左右される,危険に満ちた無秩 序なく周縁的〉世界ということになるといえよ う。 さて,世界の二元的分類に見られる大きな特 徴は,そのどちらか一方の系列を,他方のそれ より,価値あるもの,優越するものと考える傾 向があるということである。つまり,二つの系 列のうち,たとえば,男性,右,明,白などが 優位に立ち,女性,左,暗,黒などは従属的な :地位に追いやられる。そして,前者は聖なるも のとして,後者は俗なるものとして位置づけら れるのである。二元論的思考は,ただ分類する だけでなく,二つの系列のあいだに序列化もま たもたらすといえる。 世界の多くの文化圏において,右側(あるい は右手)が左側(あるいは左手)よりも圧倒的 に優遇されていることは,よく知られている。 ヨーロッパの多くの国々でも,伝統的に右が重 視され,左は低い評価しか与えられていない。 古代ギリシアでもインドでも,右が吉であり, 左が凶とされていた。さらにはバリ島において も,マオリ族のあいだでも,またアフリカの諸 民族のあいだでも,右側が神聖で,左側は不浄 と見なされている。 そのような左右に対する評価の大きな違いは, 言語にも歴然と表れているのであり,たとえば インド・ヨーロッパ語族の多くの言語では, 「右」を表わす語は,同時に,「正しい」,「まっ すぐな」,「権利」などという意味ももっている。 身近な例をあげれば,英語right,独語rθcht, 仏語droit,露語pravyjなどである。それに対 し,「左」を表す語は総じてネガティヴな意味 をもつ語が当てられている。たとえば英語left は,古英語では「弱い」という意味であり,独 語linkは,英語のslink「こそこそ歩く」と語 源的に関係があり,仏語gaucheはもともと 「曲がった」という意味をもつといった具合で ある。ラテン語のdexterも,「右」という意 味の他に,「強」とか「幸運」を意味し,sinis− terは,「左」の他に「不吉」を意味するので ある。8) 世界の諸文化のなかで,右を尊び,左を蔑視 する例は枚挙にいとまがない。こうした「右」 7)同書,63−64頁。 8)風間喜代三『ことばの生活誌』,平凡社,1987 年,260頁以下参照。一50一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.6 1999 と「左」がもつ象徴的意味について,初めて画 期的な見解を提出したのが,フランスの社会学 者ロベール・エルツである。エーミール・デュ ルケーム門下の秀才だった彼は,1909年に「右 手の優越」と題する論文を発表し,世界を二つ に分類する諸文化において広範囲に観察される 価値づけの偏向,すなわち,右の項の,左の項 に対する優越性を明確に指摘してみせたのであ る。エルッは次のように述べている。 右には,神聖で,普通な,また善良な力があ り,すべての効果的な活動の原理,良く,好 ましく正しいすべてのものの源泉があるのに 対し,左には,俗,不浄なもの,弱,無能, また邪悪な恐ろしい存在の漠然とした表象が ある。……マオリ族では,右は神聖な側で あり,良い創造重力の宿る場所であるのに対 し,左は俗なる側で,常にではないにしても, 困惑と疑惑に満ちた力のほかには何も価値の ない側である。9) エルツによれば,人類に右利きが圧倒的に多 いことも,生理的要因によっては説明できず, その理由は社会的要因に求めねばならないとさ れる。ある人間が右利きになるのは,その人間 を取り巻く社会的慣習がそうするよう強制する からなのであり,また,その慣習を生み出した 宗教的価値観一右手は清浄で,左手は不浄で あるという観念など一をその社会が強固に信 仰しているからだというのである。 こうした「右」と「左」の象徴的分類につい てのエルッの研究は,彼が第一次大戦中に若く して戦死したせいもあって,その後久しく忘れ 去られてしまっていた。しかし,イギリスの社 会人類学者エヴァンズ=プリチャードが東アフ リカの牧畜民ヌア一族の象徴体系の分析にエル ッの研究を活用し,さらにエヴァンズ=プリ チャードの弟子の人類学者ロドニー・ニーダム がエルツの残した研究を高く評価して,それを 積極的に利用したことによって,エルツの業績 の真価は世界的に知られるようになった。 まずエヴァンズ=プリチャードについていえ ば,彼は『ヌアー族の宗教』のなかで,その象 徴的二元論を取りあげ,ヌアー族においては, 右手は,男性,力強さ,浄,善,父兄親族を表 すのに対して,左手は,女性,か弱さ,不浄, 邪悪,母系親族を表すと考えられていると報告 した。ヌアー族の成入男子がmutと呼ばれる 長槍をたえず右手に持っているのも,それが力 強く,善なるものである右手の「延長」または 象徴と見なされているからであると彼は述べて いる。10> ロドニL−t一・ニーダムについていえば,エルッ の研究を基盤に据えながら,彼は,ジョン・ビー ティーが調査を行ったウガンダ西部に住むニョ ロ族について,ビーテイー自身によっては軽視 されていたその象徴的体系を,詳細に分析して みせた。四八ダムが整理したニョロ族の象徴的 分類図式は次のようなものである。 左 女の子 王妃 女 凶兆 病気 悲しみ 不毛 貧困 地 黒色 危険 死 右 男の子 王 男 吉兆 健康 喜び 多産 富 天 白色 安全 生 9)エルッ,R,『右手の優越』 (吉田禎吾下訳), 垣内出版,1979年,150頁。 10)エヴァンズ=プリチャード,E. E.『ヌアー族 の宗教』(向井元子訳),平凡社,1995年,〔下巻〕 111頁以下を参照。
悪
不浄 奇数占い師
神秘的職能裸
野蛮 太陽 自然 変則的なもの無秩序
善清浄
偶数
王女
政治的役職着衣
文明
月文化
分類されたもの 秩序11) これは,きわめて包括的かつ精緻な二元的分 類図式であるといってよいが,ここでも,「右」 のグループに連なる諸項が,「左」のグループ の各項に対して,優越した価値づけを与えられ ていることは,すぐにわかる。この図式におい て,しかし私たちの考察にとって最も重要で, 是非とも注目すべき点は,優遇される右側に属 する系列に,「文明」,「文化」,F秩序」が属し, それに対して左側の列には,「野蛮」,「自然」, 「無秩序」が配されていることであろう。つま り,このニョロ族の二元的分類と,先ほど紹介 したエリアーデの聖と俗の二元論とのあいだに は,明らかな対応関係が見られるのである。両 者の二元論を比べてわかることは,ニョロ族の 場合であれ,エリァーデの場合であれ,いずれ も,対立項の一方にあるものは,文明化された 「秩序」ある「安全」な生活圏に属すものであ り,それに対して,もう一方の項にあるものは, それ以外の,いまだ自然のままの「混沌」状態 にとどまる未開の空間,「危険」で「邪悪」な 敵たちが潜む周縁空間であると考えられている ことである。要するに,世界は,「右」,「聖」, 「文化」という系列と,「左」,「俗」,「自然」と 11) Needham, R.,‘Right and Left in Nyoro Symbolic Classification’, Africa, 37(4), 1967,pp.425−452.また,エルッ, R。,前掲書 に付された吉田禎吾による「解説」を参照(181頁)。 いう系列の二つに分類されているのである。 ところで,こうした世界を「聖」と「俗」, 「右側」と「左側」などに分ける二元論的把握 は,おのおのの文化特有の世界観を骨筆するだ けではなく,その文化・世界観を共有するく社 会組織〉にも強い影響を及ぼしている。すなわ ち,二元論的思考は,社会人類学でいう「双分 制」の集団組織を形成することになるのである。 エルツはこのあたりの事情をうまく,次のよう に説明している。 部族を構成する二つの皇族あるいは胞族は, 聖と俗との対立として互いに対立している。 自分の胞族の中にあるものはすべて神聖であ り,自分に禁じられている。したがって自分 のトーテムを食べることができなし,同じ胞 族の成員の血を流すこと,成員の死体に触れ ること,自分の氏族の中の者と結婚すること ができない。ところが,相手の半角は自分に とっては俗なるものであり,この宗族を構成 している氏族は自分に食料,妻,いけにえに なる犠牲者を提供し,自分の死体を埋め,自 分の神聖な儀式の準備をしてくれる。未開社 会に浸透している宗教的性格のために,その 社会生活は,同じ部族の中で互いに対立し, おぎないあう部分の存在を必要としている。 そういう対立的・相補的集団は,一方の集団 の成員に禁じられている機能を他方が自由に はたすことができるからだ。12) 自分たちの社会集団こそが,聖なる領域に住 んでいるのであり,それ以外の場所に住んでい る他の半族は,前者の集団にとっては俗なるも のと見なされる。しかし,その逆の見方も可能 なのであり,後者の社会集団の眼から見れば, 前者のほうが俗なる集団であり,自分たちこそ が聖なる集団であると信じているのである。そ うした意味で,社会組織における二元的分類は, 12)エルッ,R.,前掲書,142頁。一52一 滋賀大学経済学部研究年報Vo1.6 1999 絶対的固定的なものではなく,あくまでも相対 的であって,たがいに交代可能な分割なのであ る。またその限りにおいて,双方は平等である ということができる。妻の与え手の集団は,別 なときには妻の受け手の集団にもなるのであり, また,自分の半族の誰かが亡くなったときには, 別の半族に死体を洗ってもらうが,もちろんそ の反対の場合もあるのである。 ロドニー・四二ダムはその著『象徴的分類』 のなかで,カルフォルニア・インディアンの一 部族,ミウォク族の半族同士の婚姻関係,奉仕 関係について紹介している。13)それによれば, ミウォク族は,かつて「水」の半族と「陸」の 半族に分かれていた。社会組織はもちろん,自 然界のすべても「水」か「陸」のカテゴリーに 二分されていた。ここでは,外婚制がとられて いて,各半族の成員は,もう一方の半族の成員 と花嫁を交換しなければならなかった。また, 葬式,服喪の儀式,少女の思春期の儀式,特定 の共同の舞踏などの際には,一方の半族が他方 の半族に特定の奉仕を要求する権利を有してい た。それらの要求と義務は,しかし,相互的・ 互酬的であり,また別のときには,先に奉仕を 要求された半族が逆にもう片方の半族に奉仕を 要求することができるのである。そうして,た とえば集団的な舞踏の際には,踊り手への贈り 物は,その踊り手が属していないもう一方の半 族の成員が行わねばならなかった。 先に,分類は世界に秩序化だけでなく序列化 をも,もたらすと述べた。しかし,社会組織の 分類についていえば,その序列化は永続的・固 定的なものではなく,時が変われば,序列がひっ くりかえって反対の立場にたつことになるケー スもあるのである。 このように時とともに立;場が入れ替わる,い わば平等主義的な双分組織制度は,人間の生活 13)ニーダム,R.〔ロドニー〕『象徴的分類』(吉 田・白川訳),みすず書房,1993年,7,23,26−27 頁などを参照。 が狩猟採集にほとんど依存していた原初の時代, 互いに助け合わなければ生きのびることが困難 だった時代には,是非とも必要な制度だったと 考えられる。そうした時代には,蓄積すべき財 産も乏しく,従って貧富の差,ひいては支配・ 被支配の関係もなかったであろう。だが,歴史 が推移するにつれて,農耕社会,工業社会が形 成されていき,平等を旨とする原初の集団組織 はしだいにその相補性を喪失していった。かわ りに,硬直した階層制度,カーストなどが生ま れてきたのであり,そのもとでは,上層の階級 はつねに神聖で,高貴であって,彼らは気高い 仕事に携わるが,他方,下層の階級は俗的で椴 れているとされ,たえず賎しい仕事に携わらな ければならなくなったのである。現代では,社 会組織の内部に階層の高低差が存在することは あたりまえの事実として受けとめられているが, 人類社会の原点においては,一般的に言って, 半族同士のあいだにおける聖と俗の役割は相互 的なものであり,いつでも交代可能なものだっ たのである。 次に,言語体系の視点から,世界の二元的分 類を眺めておきたい。本稿の最初でも述べたよ うに,世界の分節は言語記号なくしては遂行さ れえないのであり,世界の分類と言語体系とは 不可分の繋がりをもっているからである。ここ では,言語の文法的性別という現象を取りあげ ることにしたい。
名詞が一無生物を指す名詞も一男性か女
性のどちらかの文法的性に区別されるという現 象は,世界の数多くの言語において見られる。 たとえば,フランス語に例を求めると,太陽 soleil,空ciel,昼jour,木arbre,雲nuage, 庭jardinなどは男性名詞に,月1une,海mer, 夜nuit,草herbe,川rivibre,家maisonなど は女性名詞に分類されている。 名詞の文法的性の起源とその存在理由を巡っ ては,これまで神話学者や言語学者などから, さまざまな見解が提出されてきた。神話学の観点からは,名詞の性は,古代人に見られた,万 物を擬人的な存在として捉える神話的思考の名 残であると考えられている。言語学の立場から は,文法的性は語の形によって決定されるとい う説が出されている。確かに,ロシア語などで は,語尾の形からほぼ性別の判断がつくし,エ チオピア北東部とジブチで話されているクァファー ル語なども,語の形態を見ただけで,ほとんど 性別を言い当てることができる。また,その語 の意味から性別が決定されるといった見解もあ る。ドラヴィダ語族に属するタミール語では, 語の意味によって性別が決められる。けれども, それらの見解によって,世界中の言語の文法的 性のすべてが説明されることができるわけでは ない。それらの規則では説明できない例外が続々 と出てくるからであり,名詞の性別の法則に関 しては,最終的に万人を納得させることができ る説明はいまだに行われていないといってよい のである。14> しかし,男性と女性の二つに分かれる言語の 文法的性が,未開人たちが世界認識をする際に 重要な役割を演じていた二元的分類の発想とな んらかの関係があると考えることはできるよう に思われる。少なくとも,文法的性が存在する 理由の一つとして,それをあげることは許され るのではないか。先ほど見たニョロ族における 世界の二元的分類と,たとえばフランス語の体 系に見られた名詞の男女性の区別を見比べてみ るとき,両者のあいだに,それほど大きな根本 的相違はないように思われるからである。原初 の人熱は,世界に存在するあらゆる事物,体験 されるすべての事象を二つの対立するカテゴリー に分け,そしてそれぞれのグループに名称をつ けることにした。その際,人間が普段眼にして いる一番身近な,そして一番明瞭な対立関係で 14)以上,文法的性については,井上京子『もし 「右」や「左」がなかったら一言語人類学への 招待』,大旧館書店,1998年,179頁以下参照。ま た,Corbett, G.,‘Gender’, Cambridge Uni− versity Press,1991を参照。 ある「男」と「女」という対立的名称を採用 (流用)することにした。そのようにして,世 界のあらゆる事物が「男」か「女」のどちらか の性別をもつようになった。そう考えてもよい のではないだろうか。世界の事象の分類にして も,名詞の分類にしても,そこには,宇宙に存 在するあらゆるものを二つに分けてしまうとい う,人間の思考にとって基本的かつ普遍的な性 向が関与しているということができるように思 われるのである。 その他,世界の二元的分類の例は,哲学,神 話学,宗教学,美学,さらには社会科学,自然 科学の諸分野にわたって,ふんだんに見いだす ことができる。考察すべき二元論の事例はまだ 数多く残っているが,それらについての検討は また別の機会に譲ることにして,次に三元的分 類を見ることにしよう。
3.三元的分類
≡:元的分類が登場してきたのは,世界には, 二元的分類ではどうしても分類しきれない中間 的な事象が数多く存在するからだといえるだろ う。世の中には,シロかクロか,どちらか一方 に明確に分類できない物事がたくさん存在する。 だから,シロとクロの中間の灰色圏内に属する 事象を第三のカテゴリーとしてまとめるならば, 二元論的分類を押し通した際にいずれか一方の カテゴリーに強行的に振り分けるというあの無 理をしなくてもすむようになるのである。とは いえ,その点だけを取りあげて,三元的分類の ほうが二元的分類より優れているとは一概には 言えない。灰色の中聞領域を設定したことによっ て,今度は,逆に,二分法のもつあの単純明快 さが失われる場合もある。また,曖昧なカテゴ リーを設けたことによって,簡単に分類できな いものは,すべて第三のグループに分類してし まうという町なかれ主義的な態度が生まれる傾 向もあると考えられる。 さて,東アフリカのカダル族を調査したバイ一54一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.6 1999 ゲルマンによれば,カダル族は二元的な象徴的 分類も用いているが,それと同時に,三元的な 分類も使用しているという。そこでは,「通常 はたがいに分離される二つのカテゴリー間の両 義的もしくは境界的領域に」三つ目のカテゴリー が作り出されるのである。そうして,たとえば (その両義的カテゴリーを中間に置いて並べる と),生者/幽霊/神,親族/姻族/敵,土 地/山腹/天,生/死/超自然的存在といった ような三元的分類が行われるのである。ロドニー・ ニーダムは,この中間項を占めている人間や事 物の特色を,「通常は分離されている属性を結 合している」点に見ている。’5>中間項は,どち らの項にも属さないというその曖昧な性格のゆ えに,対立し合う二つの領域を結びつける働き をすることがあるというのである。確かに,親 族と敵集団が融和するにあたって,その中間に 位置を占める姻族が果たす〈仲介的〉役割は貴 重であるといえるだろう。第三番目の項が存在 することは,その意味では積極的に評価される といえる。だが,同時に,第三項目その曖昧な 立場ゆえに,ときには,両極にある項の双方か ら排除されてしまう危険もある。仲介役をつと めるときには重宝されるが,双方にとっての部 外者として,また別のときには仲間はずれにさ れることもあるのである。結局,第三番目のカ テゴリーに分類される要素は,場合に応じてポ ジティヴにもネガティヴにも評価されることが あるのである。 言語の領域において,まず真っ先に思い浮か べられる三元的分類といえば,二元的分類のと きと同じく,名詞を男性,女性,中性の三つの クラスに分ける文法的性別であろう。インド・ ヨーmッパ語の多く,サンスクリット語,古代 ギリシア語,ラテン語から始まって,ドイツ語 やロシア語に至るまで,名詞は,無生物を意味 15)ニーダム,R.,前掲書,9−10頁参照。 Beidelmanのカダル族の調査内容の記述も,ニー ダム,R.の同書同頁に拠った。 する名詞の場合でも,必ずそれら三つの性別の うちのどれかに帰属させられている。(たとえ
ばドイツ語では,月Mond,天Himme1,
山Berg,木Baum,風Windなどは男性名詞
に,太陽Sonne,大地Erde,海Sθe,島Inse1,花Blume,雲Wolkeなどは女性名詞に,流星
Meteor,陸Land,水Wasser,谷Tal,葉
Blattなどは中性名詞に分類されている。) あるいは,言語における人称構造にも,三元 的分類が顔を出している。すなわち,人称代名 詞は,一人称,二人称,三人称のどれかに分類 されるのである。三人称は,一人称の我(ら) でもなく,また二人称の汝(ら)でもなく,そ れ以外のすべての人々,事物,現象を指す。そ ういう意味では,三人称はまさしく,残余が集 められる第三項的なカテゴリーだということが できる。 「三」という数はそもそも,世界が二つに分 類されたときに,分類しきれずに残されてしまっ たすべてをその中に含む数であったということ ができる。アフリカのブッシュマンにあっては, 厳密な意味での数字は「一」と「二」のふたっ しかなく,それ以上は「たくさん」と数えたと される。16)オーストラリアのアボリジニたちの なかには,「二」以上の数字を発展させること がなかった部族もいる。また,南アメリカの最 南端のフエゴ島で話されているヤーガン語も, 数詞は「一」,「二」,「三」までしかなく,「三」 は「若干」の意味である。17)同じく南アメリカ に住むインディオのアビポン族は,ドブリツホッ ファーによれば,数が三以上だと指を出すこと も止めて,それは「たくさん」だといって,も はや数えようとはしなかったとされる。(とは いえ,アビポン人たちには彼ら独特の数の捉え 16)カッシーラー,E。『シンボル形式の哲学』第1 巻「言語」(生日・木田訳),岩波書店,1989年, 328頁。 17)亀井・河野・千野編『言語学大辞典』第4巻 「世界言語編(下一2)」,三省堂,1992年,「ヤー ガン語」の項(542頁)参照。方があったのであり,たとえば,彼らは狩猟に でかけるとき,馬に乗るとすぐに周囲を見回し, たくさんいる飼犬の群れのなかの一匹でも姿が 見えないと,すぐにそれがわかったという。数 詞を使って数えなくても,別段不便を感じない のである。)18) いずれにしても,人間生活の始源の段階ある いは基本的生活においては,数えるのは「一」 か「二」までで,それ以上は「たくさん」と捉 えるだけで充分だったのである。人間の文化の 黎明期においては,数字がせいぜい「三」まで しかなく,それが同時に「多数」を意味してい たということは,言語史的にも証明が試みられ ている。だが,そのことは,私たちの身近な言 語の数詞の成り立ちを調べることによっても推 察できる。たとえば,英語のthreeは, trans一 「∼を超えて」,tre一「非常に,たくさんの」 (tremendous等の接頭語), through「∼を通 り過ぎて」と語源的に深い関係を有すると考え られており19),そのことからも,「三jがそれ 以上数えられない「多数」を意味していたこと が想像できるのである。漢字に眼を向けてみて も,たとえば,「川」の三本の縦線がたくさん の水の流れを表し,「森」の三つの木がたくさ んの木を表しているように,三つあることは 「多数」を象徴:していることがわかる。日本語 の「ひとつ」「ふたつ」「みっつ」の「み」につ いても,白鳥庫吉が「日本語の系統」という論 文で提出した説によると,その「み」の語根の mは,masu(増す), amata(あまた), mure (群れ),mina(みな), motto(もっと)など において見られるように,元来「多数」という 意味をもっていたとされる。20) 数字の三項体系,そして「三」という数が 「多数」を同時に表すという捉え方は,世界の 多くの言語の数詞体系の基底に見いだされるも のなのである。人間が三まで数えるとき,それ は全部を数えあげたときと同じであると考える 思考が,人類の歴史の原初時点には支配的だっ た21)のであり,それは現在でも人間の心理の奥 底に存在し続けている。そうであるからこそ, 人類は,言語の人称体系において,三人称まで の分類で満足し,それ以上,すなわち四人称以 上の分類を作り出そうとはしなかったし,これ からもすることはないと考えられるのである。 「三」という数は,そのなかに,それ以上の数 をすべて含んでいる数なのであり,一と二と三 で,世界は充分に数え尽くされるということな のである。また,そこから,世界を三つに分類 すれば,それによって世界を十全に分類し尽く したことになるのだという考え方も生まれてき たといえるだろう。 その他,人間が世界や自然を捉えるときに, 空間を三次元(縦,横,高さ)で把握したり, 時間を過去,現在,未来の三つに分けたりする のも,三元的分類がいかに人間にとって重要な 役割を担っているかの証明となると思われる。 さらには,事物の三状態(固体,液体,気体) や,三原色(赤,黄,青),被造物の三範疇 (鉱物,植物,動物)などの区別を思い出して みても,三元的分類を行えば,それは世界のす べてを,あますところなく分け切っているのだ と人々が考えていることがわかるといえよう。 18) Dobrizhoffer, M., ‘An Account of the Abipones’, 」. Murrdy, 1822, vol.2, pp.170, 115−6.[Johnson Reprint,1970],レヴィ=ブ リュル『未開社会の思惟』(山田吉彦訳),岩波書 店,1953年,228−229頁から引用。 19)小林功長『数詞一その誕生と変遷』,星林社, 1998年,28頁参照。 20)白鳥庫吉「日本語の系統 特に敷詞に憂い て一」(岩波講座『東洋思潮』,1936年),20頁 参照。また,大矢真一『和算以前』,中央公論社, 1980年,29頁以下参照。 21) Usener, H., ‘Dreizahl’, Rheinisches Museum, N.F.,Bd.58参照。また白鳥庫吉,前 掲書,同頁参照。
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4.四元的分類
心元的分類が生まれてきたのは,最初世界を 二元論的思考によって二つに分けたあとで,さ らにそれらの内部でもう一度,精度を増した形 で再分類したいと願った結果であろうことは容 易に想像できる。四囲論は,二元論から生まれ, それの発展形態なのである。22) 世界の四元的分類は,オーストラリア大陸に その最も具体的で典型的な例を見いだす。なか でも,西オーストラリアのアボリジニの一部族 であるカリエラ族の「四分制」は特に有名であ る。23>彼らの社会は,四つの名称をもつセクショ ンに区分され,すべての成員は,それぞれの出 生によって,その四つのセクションのいずれか に所属することになる。四つのセクションとは, カリメラ,ブルン,パリエリ,バナカである。 カリエラ族における四つのセクション間の社会 関係は,最初眺めたときは非常に複雑に見えて, なかなか理解できるものではないが,簡単に言 うと次のとおりである。まず,四つのセクショ ン間で,婚姻関係を結ぶ仕方は厳しく決められ ており,カリメラの者は必ずパリエリの者と, バナカの者は必ずブルンの者と結婚しなければ ならない。そして,それは対称的な姉妹交換期 のかたちで行われる。もう一つ重要な特色は, セクションへの所属が世代ごとに互い違いとな ることである。つまり,たとえば,カリメラの 男がパリエリの女と結婚すると,そのあいだに できた子供はブルンに属する。また,バナカの 男がブルンの女と結婚すると,そのあいだにで きた子供はパリエリに属する,といった具合な のである。さらに,四つのセクションの二つず つ(カリメラとブルン,バナカとパリエリ)が それぞれ組になって,地域集団(ホルド)を構 22)これについては,イワーノブ,B.B.『偶数と奇 数の記号論』(田中ひろし訳),青木書店,1988年, 100頁以下参照。 23)笠原政治「四分制」(『文化人類学事典』,弘 文堂,1994年,334頁以下)を参照。 成し,一方の地域集団(二組のセクションから 成る)は,自分たちのことを「こちらの人々」 といい,別の地域集団の二組のセクションの人々 のことを「あちらの人々」と呼ぶ。こうして見 ると,カリエラ族の社会組織に見られる四分制 は,つねに二分制と関係をもち,二分制が細分 化・複雑化したものであることがわかる。 言語の領域における四元的分割の例としては, オーストラリアのアボリジニの一言語であるヂ ルバル語Dyirbalの名詞分類を見ておきたい。 ヂルバル語における名詞の四つのカテゴリー への分類は,R・M・W・ディクソンの先行研 究m)を,認知言語学の大家のひとりであるジョー ジ・レイコフがその著書 ‘Women, Fire and Dangerous Things’ (「女{生,火,危険物」 一邦訳名は『認知意味論』25))で取りあげて以 来,一躍人口に膳組するようになった。 ヂルバル語は現在,英語などに強い影響を受 けて,しだいにその伝統的な名詞分類はすたれ つつあるという報告26)もあるが,本来のヂルバ ル語では,宇宙にあるすべての事物が四つのカ テゴリーに分類されていた。ヂルバル語の話者 は,なにかある名詞を使うときには,その名詞 の前に,それが属するカテゴリーに応じて, bayi, balan, balam, balaの四語のうちの一 つに基づくものを必ずつけなければならなかっ た。ディクソンによれば,ヂルバル語の名詞の 四分類は以下のとおりである。 1 bayi:男,カンガルー,ポッサム,コウ モリ,ほとんどの蛇,ほとんどの魚,一 部の鳥,ほとんどの昆虫,月,嵐虹, ブーメラン,一部のやす(魚をつくため 24) Dixon, R.M.W., ‘Where have all the adjec− tives gone?’, Walter de Gruyter, 1982, pp.178− 183. 25)レイコフ,G.『認知意味論』(池上嘉彦他訳), 紀伊国屋書店,1993年,110頁以下。 26) Schmidt, A., ‘Young people’s Dyirbal: an example of language death from Aus− tralia’, Cambridge University Press, 1985.のもの),など。 H balan:女,フクロアナグマ,犬,カモ ノハシ,ハリモグラ,一部の蛇,一部の 魚,ほとんどの鳥,ホタル,サソリ,コ オロギ,ヘアリー・メアリー一・・グラブ (地虫の一種),火または水に関連するも のすべて,太陽と星,盾,一部の槍,一 部の木,など。 皿 balam:すべての食用果実とそれらのな る植物,塊茎,シダ,ハチミツ,タバコ, ワイン,ケーキ。 IV bala:身体の部分,肉,ミツバチ,風, ヤムイモ棒,一部の槍,ほとんどの木, 草,泥,石,雑音と言語,など。 これはヂルバルの人々の自然のなかでの生活 ぶりがうかがえる大変興味深い分類であるが, ディクソンによれば,この分類は,次のような 基本的原理にのっとって行われるとされる。 I bayi:(人間の)男,動物 II balan:(人間の)女,水,火,戦い 皿 balam:肉ではない食物 IV bala:それ以外のもの こうして,たとえば,川や沼地は,水が集まっ てできたものなので,IIIのbalanのカテゴリー に,また,野生のイチジクは皿のbalamに, 果実のならない木は(食物にならないので)IV のbalaのカテゴリーに分類される。 もちろん,上記の基準に従って分類されてい ないケースも多く見られる。たとえば,魚をつ くための「やす」,釣り糸などは,本来ならIV のbalaに入るはずなのだが,1のbayiに分類 されているし,「鳥」は動物なのに,1ではな くllのbalanのカテゴリーに分類されている。 こういつた翻齪については,ディクソンは,次 のような補足的分類基準がヂルバル語にあるこ とを指摘して,説明を試みている。その一つは く概念連想〉の原理であり,ある名詞が,別の 名詞と概念的に非常に繋がりが強い場合には, そちらの名詞のカテゴリーに入るというもので ある。つまり,「釣り糸」は,本来ならIVに分 類されるはずなのに,1のカテゴリーに属する 「魚」と関係が深いという理由で,1の中に入 れられるのである。また,〈神話的連想〉の原 理というのもある。つまり,「鳥」は動物であ るにもかかわらず,ヂルバルの信仰や神話にお いては,死んだ「女性」の魂であると信じられ ていることから,JIのbalanのカテゴリーに分 類されるのである。「コオロギ」も,神話では 老婦人なので,ffのクラスに入る。さらには, 〈重要特性〉の原理というのもディクソンは提 出している。たとえば,魚は魚でも,毒をもつ オニダルマオコゼや鱗骨類の魚は,その有害性 という重要特性のために,1ではなく,1のカ テゴリーに入れられる。つまり,それらは, 「火」や「戦い」と同様に「危険なもの」であ るがゆえに,[の「女性」グループに入れられ るのである。同様に,果実を実らせない木や蔓 植物,草はIVのクラスに属するが,二種類のト ゲのある木と一種類のイラクサは,有害な危険 物として,Hのカテゴリーに入れられるのであ る。(結局ヂルバル語では,「女性」,「火」,「危 険物」は,みな一緒に,同じllのbalanのグルー プに入れられているのであり,レイコフの本の 風変わりな原題はそれを表現しているのである。) 一見したときには私たちの眼にまったく荒唐 無稽に映るような事物の分類も,そこに隠され ている基準を発見しさえずれば,今度は,きち んとした論理的な法則にそって分類されている ことがわかるのである。また,ヂルバル語の名 詞分類は,オーストラリアの原住民である彼ら の狩猟・採集の生活と密接な係わりをもち,ま た彼らの神話とも深い関係があるということが できる。人聞が,その周囲を取り巻く環境・自 然の性質や特性,そのなかでの生活方法,その
一58一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.6 1999 関心・興味の持ち方によって,まわりの世界を 独自の仕方で分節していることが,ヂルバル語 の名詞分類を観察すると,私たちに実感として 理解されるといえよう。分類の仕方のなかに, 彼らが抱く世界観,価値観が明瞭に現れ出てい るのであり,事物の分類方法を観察することは, その民族のもつ文化を理解する最もよい手段の 一つであるということができるのである。 ヂルバル語における湯元的分類を,これまで 考察してきた二元論や三元論と比較すると,そ れらのあいだには密接な繋がりがあることがわ かる。すなわちその四分類は,まず,1とffの 対立,つまり男性カテゴリーと女性カテゴリー の二元論的対立が基礎となってできているので ある。そしてその際,他の二元論の大方のもの と同様,女性のカテゴリーに対して男性のカテ ゴリーが優越していることも明らかである。女 性のクラスには,危険なものや,有害なものが 多く含まれているからである。また,皿の「食 べることのできる果実がなる木や植物」という 特別なカテゴリーがあるのは,彼らの生存が木 の実や食用植物を採集することに大きく依存し ている事実を示すものだと解釈される。IVの 「それ以外」のカテゴリーが設けられているの は,世界の三元的分類によく見られるように, 男と女という両極世界に分類することができな い事物をそこに入れるためのものと見なすこと ができるだろう。結局,ヂルバル語の一元論は, そのなかに,世界分類の基本形態である二元論 や三元論の性質も備えているのであり,また, 皿のbalamのカテゴリーが特別に作られてい るのは,採集に大きく頼って生きていた彼らの 暮らしぶりが如実に反映されていると捉えるこ とができるのである。 その他,正元的分類の例をいくつかあげてお こう。北アメリカのインディアンたちにおいて は,「四」という数が特別視された。たとえば スー族は,四を完全なる数と見なし,人生の年 月を四分割し(幼児期,児童期,成人期,老年 期),動物を四種類に分け(地を這うもの,空 を飛ぶもの,四つ足で歩くもの,二本足で歩く もの),天体を四つのグループから成るとした。 また,太陽,月,大地,空の四元素,あるいは, 日,夜,月,年の時間の四区分なども見られる。 ス一族の神話では,神々までが,最上級の神々, 同盟者である神々,従者である神々,精霊とい う四階級に分けられるのである。27) また,インカ帝国では,壮大な規模の,空間 の康元細分割が見られた。帝国は,スユと呼ば れる四つの領域に分かれ,帝都クスコから四方 に放射状にひかれた幽幽の道路は四つのスユの 首都を直線的に結びつけていた。そうした,ク スコを中心とする四つの方位による分割と統一 によって,帝国の世界が構成されていた。イン カにおいては,その王国および全世界は,全宇 宙の四方位に対応した四つの領域に分けられて 分割統治されていたのである。四角形の王都や 四面から成るピラミッドその他の建築物は,そ れを表現したものであるとされる評 マヤの宇宙観においても,すべてのものは, 色で識別される四基本方位に関連づけられてい た。基本方位は先端が四つの地平線に接する十 字で表された。都市計画もこの方形に従って行 われた。すなわち,都市の中心にある聖なる樹 木から,四本の街道が十字型に四つの方向に向 かってのびていき,街道が都市から出ていく地 点では,境界を守るものとして四つの神殿が建 立されたのである評 インカやマヤの世界観の例を見るまでもなく, 四分割は〈東西南北〉という空間の方位づけと 密接な関係があるといえる。春分の日と秋分の 日の日の出と日の入りの地点を入念に観察して, 人間は基本的な方位を作り出し,広漠たる空間 27)エントレス,F.C./シンメル,A. 『数は何を 語るか』(橋本和彦訳),翔泳社,1997年,103− 104頁参照。 28)村武精一「部族社会の類別原理」(蒲生・祖父 畝編『文化人類学』,有斐閣,1969年,所収)を 参照。 29)エントレス/シンメル,前掲書,92頁参照。
に十字の座標軸を設定したのである。時間の面 でも,人類は〈春夏秋冬〉という四季を設定し ている。その他,多くの文化において観察され る四元的分類への強い志向は,人間の文化にとっ て「四」という数がもつ重要性を物語っている といえるだろう。
5.五元的分類
世界の五鼎的分類は,とりわけジャワにおい て豊富な例を見いだすことができる。 J・Ph・ドイフェンダックの調査によれば, ジャワでは,自然であれ,社会であれ,宇宙に あるすべてのものは,五つのクラスに分類され る。分類の基礎となっているのは,空間的な方 位,すなわち東西南北の四つの方角と「中心」 という第五のカテゴリーである。この五つのク ラスに,実にさまざまなもの,色,金属,(五 日からなる)週のなかのある日,性格,職業, 特定の物品,建築上の特性,自然現象,晶質な どが振り分けられる。 1 東,白,銀,ルギ30),控え目,農夫,食 物,庭,ベランダ,風,水,涼しい,吉 兆 H 南,赤,スアサ(銅と金の合金),パヒ ン,貧欲,商人,貨幣,ガナ神,モスク, 山,住居のすみやかな移転 皿 西,黄,金,ボン,明朗,ヤシ酒作り, 強い酒,脆弱,台所,不運,病弱 IV 北,黒,鉄,ワゲ,堅苦しい,肉屋,肉, 壊れた,畜舎,火事,火炎 V 中心,多くの色をした,多くの形をした, クリウォン,王子,スリ女神,家屋,土 地,不変31) この分類で注目されるのは,やはりVのカテ ゴリーであろう。それは,宇宙の「中心」に位 置するとされ,色の点でも,形の点でも,他の カテゴリー中にある要素を合わせ持っており, また王権とも関係があって,その性格・性質は, 「不変」で安定しているとされる。このカテゴ リーは,他の四つのそれよりも高い次元にある と考えられているのである。他のクラスについ ていえば,1のカテゴリーに属するものは,V ほどではないが,肯定的な要素が集められてい る。ll,丑}になると,好ましいものも,そうで ないものも入っているという印象を受ける。IV は,ほとんど否定的と見られる要素が入れられ ているといってよいだろう。 この分類表は,ジャワ人の世界観,価値観を よく伝えているものである。しかしジャワでは, 分類はまた,個人の性格についての判断,さら には「占い」を行う際にも利用される。ロドニー・ ニーダムは,「個人はこれらの区分の一つに関 連することにより,その象徴的クラスを構成す るすべての要素に関係する。彼の性格や運命は それによって決定される」と述べている。32)さ らに,ピジョーの「ジャワの占いと分類体系」 という論文によると,ジャワ人は,紛失したも のを捜す場合にも,心元的分類体系を利用する。 人々は,たとえば,家のなかから見える垂木を 一本一本見ながら,「庭」,「ガナ神」,「脆弱」, 「壊れた」,「スリ女神」というふうに唱えてい く。五番目の語までいくと,また第一番目の語 から繰り返す。そして最後の垂木のところで唱 えた言葉が,答えを示していると考える。もし, それが「脆弱」だった場合には,探し物は同じ HIのカテゴリーに属する「台所」で見つかると されるのである。伝統的にジャワの人々は,多 かれ少なかれ,こうした占いの結果に従って生 活を営んでいたとピジョーは述べている。33) 30)「ルギ」は,週のなかの特定の日の名称である。 この表のなかにある「パヒン」,「ボン」,「ワゲ」, 「クリウォン」も同じである。 31)ニーダム,R.,前掲書,12−13頁参照。 32)同書,13頁。 33)ピジョー,Th. G, Th.「ジャワの占いと分類 体系」〔『オランダ構造人類学』(宮崎恒二他県), せりか書房,1987年,所収〕。一60一 滋賀大学経済学部研究年ee Vol.6 1999 石元的分類は,アジアに多く見られる傾向が あるともいえるが,日本人にとってジャワの五 元論よりもっと身近なのは,中国の「五行」説 であろう。五行とは「木・火・土・金・水」で あり,五行説によれば,万物はその五つの原素 から成り立っていて,それらが消長し,結び合 い,循環することによってあらゆる現象が生ま れてくるとされているのである。 五行説においては,この世のありとあらゆる ものは五行の現れた姿とされ,たとえば方角に しても,季節や色にしても,すべての事物・現 象が五行に還元されることができる。そのよう にして,世界に存在するすべてのものが,五行 のいずれかに「配当」されることになる。以下, 万物の五行への配当を表に示しておく。 五行 木 火 土 金 水 五方 東 南 中央 西 北 五時 春 夏 土用 秋 冬 五色 青 赤 黄 白 黒 五気 風 暑 雷 寒 雨 五味 酸 苦 甘 辛 鍼 五臭 壇 焦 香 腱 朽 五虫 鱗 羽 裸 毛 介 五金 青鉛 赤銅 黄金 白銀 黒鉄 五星 歳星 焚惑 填星 太白 辰星 (木星) (火星) (土星) (金星) (水星) 五節句 人日 上巳 端午 七夕 重陽鋤 ここで見た五行の分類と,ジャワの五元的分 類とのあいだにいくつかの類似点があることは, もしかすると両者のあいだになんらかの影響関 係があったのか,それとも,人間精神に普遍的 に通じるものがあることの証左なのか,それに ついては確かめることはできない。ともあれ, 34)ニーダム,J.〔ジョゼフ〕『中国の科学と文明』 第2巻(吉川忠夫他訳),思索社,1974年,302− 303頁参照。また,吉野裕子『陰陽五行と日本の 民俗』,人文書院,1983年,32頁参照。 どちらの分類でも,五つのカテゴリーがみな平 等に価値づけされているわけではないことが注 目される。 〈木〉と関係する一番左側の要素群 は,明るく,生命に溢れ,かなり好ましいもの が集まっている。「東」は,毎朝明るい太陽が 昇る方角であり,「春」は,ものが芽生え,「青」 々として,生命が奮いたつときである。次に, 〈火〉のグループにも,明るく暖かいものが入っ ている。「南」は一番長く日が当たる方角であ るし,「赤」々と燃えあがる「火」のように 「暑」い「夏」もここに入っている。それらに 比べると, 〈金〉のグループには,やや冷たく, 暗いものが配当されている。「金属」というの はどれも,「水」ほどではないが,冷たいもの であり,「西」の方位は太陽が沈むところで, やはり「寒」さを感じさせる。凋落の季節であ る「秋」も,わびしさを覚えさせるものである。 だが,それ以上に, 〈水〉のカテゴリーには, もっと好ましくないものが集められているとい えるだろう。「水」は冷たく,下へ下へと流れ, 暗い場所にたまり,「冬」は季節のなかで最も 暗く寒い時期である。 五行のなかにあって,最も重要で,高い価値 づけがなされているのは, 〈土〉である。「土」 が「黄色」とされているのは,黄河を思い浮か べるとわかるように,中国の大地が黄土だから であろう。果てしない無限の天空に対峙し,地 平線のはるか彼方まで広がっている大地は,ま さに世界の土台であり,世界の「中央」に位置 するものと考えられている。また,他の四つの 原素,木・火・金・水はいずれも,土より出て, 土に帰るのであり,そのことから「土」は,万 物の源であり,また最終的な帰還場所であると 見なされている。「土」は,そのような意味で, 五行の根本をなすものとして特別視されている のである。それについて董仲箭は『春秋繁露』 において次のように述べていた。 土は中央にその所を得,(いわば)天の豊か な土地である。土は天の股肱である。その徳
は:豊饒であり,その眺めは美しいので,それ を一度で語りつくすことはできない。たしか に,土は五行と四季とをすべてもたらすので ある。金,木,水,火は,それぞれの役目を もっているが,中央の土によらなければ,そ れらはすべて崩れてしまう。同じように,酸 味,鍼味,辛味,苦味は甘味にたよっている。 その(基本的な)味がなければ,他のものは ‘風味’をだすことができない。甘いもの (すなわち,食べられるもの)が,五味の根 本である。こうして土は五行を統御するもの であり,その気が統一原理である。……(第 42篇「五行之義」押 このなかに,「土」が「四季」を「もたらす」 とあるが,これは,季節においてその中心に座 を占める「土用」が,同時に,他の四つの季節 のそれぞれのあいだにも位置していて,それが 一つの季節から次の季節へと季節を変化させる 力をもっていると考えられていたことを指す。 (本来「土用」は,夏にだけでなく,年に四回 あるのであり,季節と季節の問にあって,季節 を移行させるとされた。下図を参照。) 秋分 冬至 立冬 冬(水) 秋の .土用 秋金 ,’一馬