東南 ア ジ ア研 究 24巻3号 1986年12月
熱 帯 多 雨 林 沿 岸 部 の 生 活
-
東 スマ トラ, リア ウ州の実例
-高
谷
好
一,* ァ リス ・ポニマ ン**
TraditionalLife and ItsTransformation among the Melayu People on the EastCoastofSumatra
Yoshikazu TAm YA*andAJisPoNIMAJl**
ThemainstayofhfebeorfeWorldWar IIin the coastal lowlandsoftropical Asiawassago-washing a nd丘shing.Theseactivitiescanstinbeseenin a limitedpartoftheeastcoastofSum atra.Khairama n-dahisanoldvinagedatingbacktotheSultanatewhich hassurvivedonsagoproduction.Despiteitsisohted locationinthemidstofahugeswampforest,Ⅴ山age lifeseemstohavebeenstable,evenaBluent,thanks totheabundanceofsagoandforestproducts,for whichusuallymarketdemandremainedgood.This sago village is,however,now undergolng rapid changeduetothesystematicexpansionofcoconut plantations. ま え が き ここに述べ る もの は,昭和59年度 ,文部省 科学研 究 費海外学術調査 『熱帯 島喚域 におけ る人の移動 に関わ る環境形成過程 の研 究
』
(代 表者 :前 田成文) の調査結果 の一部 であ る。 調査 の全期 間は4カ月であ ったが,本稿 にか * 京 都 大 学 東 南 ア ジ ア研 究 セ ン ター ;TheCe n-terforSoutheastAs ian Studies,Kyoto Uni -verslty **BAKOSURTANAL,Bogor,IndonesiaBekawanisatypicalMelayu丘shingviuage,located nexttoKh血amandah.Theviuagestandsonstilts erectedinshdlowwateroffamangrovefringe.The sitewasformerlyoccupiedbyagroupofwanghzut, butin 1915aMelayumerchantbu批 a丘shingcamp thereandsoonitdevelopedintoav山age.Fishingfor shrimps,whichweresoldinSingapore,wasthesole activity and is stilldone today. The arriVal of Chinese-Indonesian丘shem enwith 1argernetshas a
lmostcompletely forced the MehytJfrom their original place.Theystilllivethere,butnow they workbrthenewcomers. か わる現地調査 は昭和59年12月5日か ら同16 日の12日間であ った。調査 にあた ったの は, 著 者 らふ た りと リア ウ (Riau)大学 で水 産学 を専攻す る大学 院生 Sudiswanの
3
人であ る。 調 査 地 点 に選 ん だ イ ン ドラギ リヒ リー ル 県 (Kabupatenln血a如H
血 )マ ン ダ郡 (Ke-C… bnMandah)は,マ ラ ッカ海峡 に面 した 海岸低 湿 地 に位 置 して い る (図1)。 熱帯 島 喚域 は内陸部 と沿岸部 に分 ける と,その姿 を よ り明確 に とらえ られ るが, ここは典型的 な 沿岸部で ある。 ご く最近, ココヤ シが広 が り だ したが,それ まで は大部分が湿地林 で覆わ
東南 アジア研 究 24巻3号 れていた。 その うち,海岸線 と感潮河川 ぞい はマ ングローブの世界 であ る。湿地林 は過湿 図1 調査位置図 で海岸線 は塩 水浸入 のため に農業 は行 い に く く,サ ゴ採取 と漁業が生業 の中心 とな ってい る。以前 は水上生活者 で あ るオラ ンラウ トも いた。 マ ンダ郡 には
3
万 人弱 の人たちが九つのデ サ (desa)に分 かれて住 んで い る (図2)
。
そ れぞれのデサの人 口 と村 の面積 , な らびにサ ゴ園面積 は,表 1に示 してあ る。 表1 マンタの九つのデサの人口,面積,サ ゴ面積 (郡役所の未発表資料より) テ' サ 人 口 面(1984) km積 サゴ面積 2 ha Khairamandah 3,570 208.73 450 Ⅰgal 4,696 213.26 316 BakauAceh 3,104 176.96 141 Belaras 5,048 367.38 375 Bente 1,977 117.98 625 PulauCawan 617 36.30 20 Peladuk 2,747 172.43 515 BatangTumu 2,492 145.20 420 Bekawan 4,278 41.00 0㌔ .
∼ ,-
l
千
丈
十一
n
l
b
l
i
i
u
-
-
'
'
{
鳶 : ' ' ;' '● ト I Ji Jr⇒ 琶国サゴ園 ?湿 地林 ∈ヨマングローブ 田 干潟 ■アサ役場所在集落BT :BatangTumu,BA :BakauAceh,PL:Peladuk,IG :Igal,KM :Khairamandah, BN :Bente, BL:Belaras, BK :Bekawan, cw :PulauCawan
高谷 ,ポニマ ン :熱帯 多雨林沿岸部 の生活 この報告で は生業面で特徴 的なふたつのデ サ を選 んで,その ようす を記載す る。第
1
は, デサ カ イ ラマ ンダ (Khairamandah)で あ る。 これは湿地林 中にあ り,古 くか らのサ ゴ生産 地 で あ る。現 在 は, 郡 役 所 (KantorCamat) 所 在 地 で もあ る。 第2
は, デ サ ブ カ ワ ン (Bekawan)で あ る。 これ は海 中 につ くられ た杭上家屋 の漁村である。 短い調査期 間であ ったが,デサ長 たちの全 面的な協力のおかげで,調査 は能率 よ く進 ん だ。昼 はデサ長の助手 の案 内 をえて作業現場 を歴訪 した。夜 は毎夜遅 くまで,デサ長 の集 めて くれた古老や村民 と話 を した。質問はそ の ほ とん どすべ て を AriSが したが,漁業 関 係 の質 問 はSudiswanが した。 ここに は, こ うして見聞 きした多雨林沿岸部 の概況 を報告 す る。 Ⅰ サゴ を中心 と したカイラマンダ Ⅰ-1 カイラマ ンダの立地 カイラマ ンダに至 る最 も早 い方法 は,州都 パ カ ンパ ル (PekanBaru)か ら レ ンガ ッ ト (Rengat)に小 型機 で 飛 び, そ こか ら, 乗合 ス ピー ドボー トで イン ドラギ リ(Indragiri)川 をイ ン ドラギ リヒ リールの県庁所在地, トゥ ン ビラハ ン (Tembilahan)に至 り, ここで ス ピー ドボー トをチ ャー ター して, カイラマ ン ダに至 る方法 で あ る (図1
参照)。 トゥンビ ラハ ンか らカイラマ ンダまで はス ピー ドボー トで2
時間であ る。 トゥンビラハ ンー カイラ マ ンダ間には週数 回の定期便 もあ って, これ だ と1
2
時間かか って行 ける。 トゥンビラハ ン か ら行 く時 は左手 数百m の ところに,ず っ とマ ングローブ をみなが ら進 む。 水の色が青 灰色 になった り黒褐色 になった りす る。 黒褐 色 の ものは,マ ングローブ背後の ピー ト湿地 か ら出て きた腐植 質の水であ る。 マ ングロー ブ を割 って入 る感潮河川 は, どれ もこれ も, その川 口 に この黒褐 色 の水 を吐 きだ して い る。 こ う し た 感 潮 河 川 の ひ と つ, マ ン ダ (Mandah)川を上 って ゆ く (図2参 照)。 マ ンダ川 は川 口で は1km 以上 の幅が あ るが, 数km 上 る と,300mぐらい にな り,以後ず っとこの川幅が続 く。川水 は黒褐色 で,川岸 はびっ しりとマ ングローブで覆 われている。 マ ングローブはすべ て, タコ足様 の根 を張 っ た Rhizqphwaで あ り, 土 地 の 人 は バ カ ウ (bakau)とい ってい る。 それ は樹齢 のそろ っ た純林 をな していて, まるで植林 を したかの ようであ る。 川 口か ら直線状 に約 15kn 上 った ところ で, は じめて左手 にひ とつの集落がみ える。 杭上家屋 が軒 をつ らねて,マ ングローブの前 面 の 水 中 に た っ て い る。 ス ン ブ ア ン (Sembuang)とい う中国系 の人た ちの集落で あ る (写真 1)。 デサ カイラマ ンダに属 して いて,全戸が商店であ る。 ここで左折 し,支 流 に入 る。 幅30mぐらいの支 流 を約300m入 る と, 急 に水面が広が り,そ こが賑 かな川港 にな っ ている。 ここが カイラマ ンダ港 である。 袋状 に広が った川港 には長大 な桟橋 が延 びて きて い る (写真2)
。
満潮 時 な ら,港 の最奥 まで 舟で行 けるが,干潮時 には, この長い桟橋 の 突端で舟 をお りなければな らない。ちなみに, ここでは干満 の潮位差 は約2mであ る。 写真 1 中 国 人集 落 ス ンブ ア ン東 南 ア ジ ア研 究 24巻3号 写 真 2 カイラマ ンダ港 を縦横する桟橋。前方に カイラマンダがわずかにみえる 図
3
はこの カイラマ ンダの川港周辺 の地図 であ る。 川港 に接 して商店,広場,郡役所 な どがある。商店の半分 は桟橋 にそ って水上 に たて られた杭上家屋 である。 桟橋 は広場 か ら 川港 を縦 断 して, まっす ぐに約400m延 びて いる。桟橋 にそ った20軒 た らずの店 は食堂, 雑貨店,食料品店であ る。 これ らはすべ てム ラユ (Melayu;マ レー人)の店 で, 中国 人 の 店 は1
軒 もない。広場 はサ ッカー場 だ といわ れているが,サ ッカー試合 に も, また, ほか の用途 に も利用 していない。満潮時 には,そ の一部 に水があが って きて湿地状 であ る。 カイラマ ンダの地元民 の家 は, ココヤ シ園 や湿地林 の中に,1
戸 また は敷戸ずつで散在 してい る。 これ らの家 はいずれ も床下0.7m ぐらいの杭上家屋 で,屋根 はニ ッパヤ シで葺 いている。家 の まわ りには垣根 もない し, こ れ とい った果樹 もない。 ト2 カイラマ ンダの歴 史 い まの カイラマ ンダの町並 み は昔か らの も ので はない。1
9
1
0
年代 の カイラマ ンダは図4 に示 した ような ものであ った。 同図は,1
9
01
年 この土地 に生れた老人に描 いて もらった も のであ る。 当時,城砦 (benteng)とア ミール (ami r;徴 税 官) 館 の あ ったあ た りが,今 日 では川港のほぼ中心 にな ってい る。 図3
と図 守 , : -三=i=i:- = i := = = =二=二 ‥ ‥‥ = ‥ ‥‥_=:=‥ここ } 三 二 _ . 二 一 三 _∴ - . .. - . ⊥ Y y V■YV▼▼▼▼ Y Y ▼ ▼ ▼ V Y Y Y Y V Y Y V I ′▼ ▼ Y Y▼YYVY ▼ > ▼ Y Y Y Y Y V ▼ V V Y V V 千千f
千千 千
1. モ ス ク 2.中学 校 3.集 会 所 4.テ'サ 長 宅 5.警 察 6.助 祭所 7. ア サ 役 場 8.郡 役 所 9.チ ャマ ッ ト官 舎 10.小 学 校 1.取 材 所 2.建 設 中の 市 場 3.杭上 商 店 4.魚 あ げ場 a.城 砦 跡 b.旧 ア ミー ル 館 跡 C .ア ヘ ン商 店 d.旧パ タ ン集 落 跡 e.旧 小 学 校 跡 ′yY▼▼yyyvyy▼yyY▼YYY ■VYYVYY▼YVV▼YYY▼>▼▼ f.j監獄 跡 g.造船 所 跡 h.旧マ ン タ集 落 跡 一一一桟 橋 - 過 口 商 店 1 公 務 且 官 舎 o 一 般 民家 l サ ゴ 不 コ コヤ シ 三三三湿 地 林 図3 1
9
8
4
年時点でのカイラマンダの中枢部高谷 ,ポニマ ン :熱帯 多雨林沿岸部 の生活 図4 1910年代のカイラマンダ川港周辺の概念図
4
を比較 してみ る と,次の ようなことがい え る。 ィ.今 日み る役所 や公務員宿舎 と,それ を と りま くココヤ シ園は,1910年代 には全 くな い。 ロ.1910年代 の行政の中心 としてはア ミー ルの館(砂があ った.それ は古 い城砦@ の隣 に あ った。 ハ.当時 はマ ンダーイガル (Igal)を結 ぶ運 河 は存在 していなか った。 こ.1910年代 当時,人 々は現在の川港周辺 に衆居 していて,その まわ りはサ ゴヤ シ園に なっていた。 ホ.合流点 にある中国人集落 ス ンブア ンは 当時か ら存在 していた。 しか しそれ は,現在 の集落の対岸 に位置 していた。 古老 たちによる と, カイラマ ンダの歴史は 次の とお りである。古 くはここには城砦 しか なか った。城 砦 に は, リンガ (Lingga)の ス ル タ ンの 義 理 の 息 子 の トゥ ン ク シ ャ リ ド (TengkuSyarid)が城主 を していた。 しか し, オ ラ ンダは ここに支 配 を及 ぼす よ うにな る と, この城主 を追放 し, ア ミール館 を城砦の 側 にたてて,初代 ア ミールをそ こに入れた。 その後, このア ミール館 はほかの ところに移 された。それが現在の郡役所 の地 (図3
の8)
であ る。い までは旧 ア ミール館 と砦 の位置 は マ ングローブに覆わ れて しまい, ただ干 潮時 にだけ,かつて の城砦の煉瓦片がみ える状態 になってい る。 新 しいア ミール館 がつ くられた時, イ ガルへ の交通路 とし て イガル運河 が掘 ら れた。それ は掘削当 時 は, ほんの 1m 幅 の ものであ ったが, その後潮汐の作 用で浸蝕 され, い まで は幅 20m をゆ うに越す ほ どの もの になっている。 新 しい運河が掘 られ, ア ミールの新館がで きる と,古 い集落 はかわ りだ した。1925年時 点 になる と,現在 のデサ長宅 (図3中の4) の近 くに病院がつ くられ,新 ア ミール館 のす ぐ南 に警察がつ くられた。城砦跡 の北 には造 船所 (図3のg)がつ くられた。川港 を隔てて, 造船 所 の対岸 には学校 (e),監獄 (f)がつ く られた。広場 の北,い ま,商店 の並 んでいる あた りには,過 2回のパサ ール (Pasar)がで きた。中国人の アヘ ンを売 る店 (C)もで きた。 要す るに,現在 のカイラマ ンダの萌芽がで き だ したのであ る。 カイラマ ンダの中枢部 は第 2次大戦後 に大 きく膨 れあが った。 しか し,それは古 い もの がその まま発展拡張 した もので はない。戦後 だけで も1957年 と1975年 に大火があ って,そ の配置 も建物 の形 も大 き くかわ った。大火の たびに,古 い宋居相の うちの何戸 かが この中 枢部 に集 まって きた。かつて,川港 をと りま いていた,比較的 まとま りの よか ったサ ゴ集 落 は, こうして徐 々に消 えてい った。一部 は 中枢部 に移転 し,他の一部 はココヤ シ園開設 のために湿地林 に散 ってい ったのであ る。東南 アジア研 究 24巻3号
Ⅰ
-
3
第2
次大戦前 のサ ゴ い まではサ ゴの重要性 は ぐっ と減 った。 コ コヤ シが,サ ゴをお きかえる形で,急激 に伸 びだ して きたか らであ る。 しか し,い まで も まだサ ゴ採取 は至 るところでみ られ る し,特 にベ ンテ (Bente)な どでは,サ ゴは まだ最重 要作物 だ といわれている。1
9
3
0
年代 に入 って動カサ ゴ粉砕機 が導入 さ れるまでのサ ゴ生産 は,それ以後の もの とは かな り違 った ものだ った。サ ゴ洗いの方法そ の もの もさることなが ら,集落が違 っていた。 当時の集落 は どれ もこれ もが,図4
に示 した ように,3
0
-
5
0m
の間隔 をおいて1
列 にた っ ていた。 どの家 も表 は川 に面 していて,そ こ に足 の高 さ3m
はある高床 の家 をたてていた ので あ る。 い まの家 が多 くは6
0
-
8
0c
m
の高 さの床であるのか ら比較す る と,昔 の ものは 大変 な高床 だ った とい うことになる。 こうし た高い構造 に していたのは,虎 の侵入 を防 ぐ ためであ った とい う。 そ して,各戸 はその背 後 にかな らずサ ゴの洗 い場 をもっていた。 こ れは前の川の水 を引 き入れた小 さい池 と,そ の脇 に と りつ けた洗源用 ネ ッ トか らなってい た。 そ して, その背後 の奥行1
5
0m
か ら2
0
0
mがサ ゴ園 に な って い た。集 落 とサ ゴ園 を と りま くまわ りは広大 な湿地林であ った。1 戸 だけで孤立 した り, またサ ゴ園が遠 くに離 れてあ る とい うようなこともなか った。人々 はみな,虎 を大変恐 れたか らである。 サ ゴ生産は次 の とお りであ った。サ ゴは裏 のサ ゴ園か ら長 さ1
.
2m
ぐらいの丸太 に して 伐 りだ して きて,それ を洗 った。父 と息子が オロシ板で髄 をす りおろす と,妻がそれ を洗 うのである。 洗 う方法 はイモか ら澱粉 をとる の と同 じである。 目の粗 い布の上で髄 をもみ 洗 うと,繊維 質だけがそ こに残 り,澱粉 は通 過 して下 に沈澱す る。 一家で1
日に丸太2
本 が処理で きた。1
本の丸太 か らは,2
0
-
3
0k
g
の ヌ レサ ゴが とれた。週の うち5
日ぐらいは こうしてサ ゴ洗 い を した。 こうして生産 した サ ゴは自給用食糧であ った と同時 に売 出 しも した。1
9
3
0
年代 のは じめに動力粉砕機が導入 され る と,事情 はおおいにかわ った。集落の中の ひと りが機械 を手 に入れる と, けっきょくは 彼 のサ ゴ洗い場がその集落のサ ゴ工場 になっ た。村人 は重労働 の手動 のす りおろ し作業 を 嫌 って,機械 を使 うことを望 んだか らである。 一度粉砕 して しまうと,量 の増 えた髄粉 を自 分の洗い場 に運ぶ ことは大変 になる。 けっき ょく,村人たちは機械 の近 くで洗液 まで して しまいた くなる。 こんなこ とが あ って, ほ と ん どの集落で は,いわゆるサ ゴ工場が生 れだ 写 真3 サ ゴ園。 こ こ はす で に伐採 跡 で, や や空 いた感 じ 写 真4 サ ゴの洗い場高谷,ポニマ ン :熱帯多雨林沿岸部の生活 した。機械所有者 が村 はずれに機械 を据 え, その まわ りに,10カ所前後の洗い場 を建設 し て,機械 の賃貸 しを目的 と した営業 をは じめ るようになったのである。1984年の今 日, な お, この種 の工場 は,デサ カイラマ ンダだけ で も
5
カ所 にみ られ る (写真3
と4)。
工 場 は基 本 的 に は機械 を賃 貸 しす るの だ が,それにはいろいろな方法がある。 私 たち の開いた範囲では次 の ような ものがあ る。 も しあ る人が粉砕機 と洗 い場 の両方 を借 りて作 業 をす る と,彼 は製品の30%を工場主 に支払 わねばな らない。もし粉砕機 だけを借 りると, 25%を支払 う。別 のケースで は,機械 を借 り, なおかつ人 を雇 って作業 をす る場合がある。 この場合 だ と,機械の使用料 と して工場 に25 %,残 りを実際の作業者 と原木の所有者で折 半す る。 もしある人が丸太 を工場 に もちこみ 作業のすべ て を工場 に まかせ る と,工場 と原 木所有者 は製品 を折半す る。 もっ ともしか し, このあた りのや り方 は, かな らず Lも簡単で ない らしい。い くつかの 工場 には例 のス ンブア ンの中国人の資本が入 っていて,そ うい うところで はいわゆる工場 主 は中国人商人の代理 人で しかない。 こうい う工場 で は,工場側がサ ゴの立木 を買い,人 を雇 ってそれ を洗 うことがある。 こうした場 合,立 木 はサ ゴ園で 1本1,500-2.000ル ピア (1984年価額)で買 われる。 ヌ レサ ゴ は ふ つ うサ ゴ ル ン ダ ン (sago rendang)に まで加 工 され て保存 され, また 食べ られる。サ ゴル ンダンとは, ジ ンタン状 の小球 に煎 りあげたサ ゴの こ とであ る。 これ のつ くり方 は以下 の とお りであ る。 まず, ヌ レサ ゴは アヤ (ayak)と呼 ばれ る フルイの上 におかれ る。 この フルイはゴバ ン 目にはなっていないで,密 に張 られた縦 の ヒ ゴのみでで きてい る。 アヤの上で ヌ レサ ゴを か きまぜ ると,それは細かい粉状 になって, 下 に落 ちる。 こう して,塊 の ない均質 なサ ゴ 粉 を つ く る の で あ る。 別 に プ ン グ ラ ン (pengulang)とい う ものが あ る. これ は畳 1 枚 ぐらいの大 きさの厚手 の布で, ち ょうどハ ンモ ックの ように四隅 に紐 をとお して天井か らつ る してある。 このプ ングラ ンに先 ほ どの ふ る ったサ ゴ粉 をのせ て, ふ た りで前後 に4
-
5
分 もゆす る。 す る と,サ ゴ粉 は無数の小 球 になる。 こ うして小球状 にな った もの を先 の アヤに移 し, アヤの枠 を トン トン トン トン とたた くと, フルイをとお った小球が下 に落 ちる。 ここで, この小球 を もう1
度 プ ングラ ンの上 にのせ,今度 は強 くゆす る。 彼 らにい わせ ると,こ うして小球 を強 くす るのである。3-
4
分 もゆす って, さらに もう1
度 アヤで と お し,通過 した ものはその まま, ござの上 に 2-3晩放置す る。2-3晩 のあ と, これ を大釜 で ゆ っ くりと煎 る。20-30分,ヘ ラで か きま ぜ なが ら煎 る と,サ ゴル ンダンがで きる。 カイラマ ンダで は役 人 と商人以外 はい まで もサ ゴが主食であ る。 サ ゴル ンダンは何 の調 理 もしないで,その まま食べ る。 この ジ ンタ ン状 の小球 を何十粒 も,パ っと口に投 げ入れ て, グイ と水で飲 み下す。サ ゴル ンダンは極 めて堅いので, これ を歯で噛み砕 くことは ま ず不可能であ る。 副食 としては,多 くエ ビや 魚の煮物,揚 げ物 を食べ る。 それ にカ ンクン (Ipome
aaquatica), ワ ラ ビ (蕨), プ チ ュ (bucuk)とい うヤ シの新 芽 な どの煮物 やスー プ も食べ る。 サ ゴ食者 たちの食事 はふつ う1日2食であ る。朝 は早 くお きるが,お茶 だけで済 ます。 第1回 目の食事 は8時か ら10時 ごろ とる。 こ の時 はサ ゴル ンダンとオカズ を食 う。 第 2食 目は夕方5
時か ら6
時 ごろであ る。 内容 は第 1食 と同 じであ る。 もっともしか し,戟後 に なって,米が多 く出 まわる ようになってか ら は, 日に 3食食べ る人が多 くなった。米 はサ ゴに比 して腹 もちが悪 いか ら,1回多 く食べ るのである とい う。東南 ア ジ ア研 究 24巻3号 サ ゴル ンダンは非常 によい食糧 だ と彼 らは い う。第一,携帯 に便利で,お まけに料理 し ないで食べ られるか ら,森 や海 に出かける時 は大変便利 だ とい う。 また,腹 もちが よい。 彼 らにいわせ ると,急場で腹 の空いた時 は水 だけ飲 めば よい。腹 の中のサ ゴル ンダンはそ の水で もう1度膨張 して,2-3時 間な ら, け っこうそれで もつ とい う。 サ ゴはいつ もサ ゴル ンダンにばか りされる わ け で は な い。 時 に サ ゴ ル マ ッ ク (sago lemak)がつ くられ る。 これ は小球 を大 釜 で 煎 る時,それが半分煎れた ところで引 きあげ る。そ して,別途,鶏卵,ココヤシ ・ミル ク, 塩 の混合物 を用意 してお き,それに半煎 りの 小球 を しば ら く浸 したあ と, もう1度煎 りあ げる。 これはオヤツと して, また時 に,朝食 に食べ られる。鶏卵,ココヤ シ ・ミルクな ど, この地 には元来 ない材料 を使用 していること か ら して, これは新来の もの といわ ざるをえ ない。 サ ゴは自給 だけのための作物 ではない。 こ こで はサ ゴは商品作物 であ る。昔 は
1
週 に1
度 ス ンプア ンの中国系の商人がサ ゴを買い集 めに きた。い まで も時 々買いに くる。彼 らは そ れ を近在 の 町 にその まま売 った り, 時 に 自分 たちで もう1度乾燥 させ て シンガポール に輸 出 した。 サ ゴの販売 はいつ も中国系の人たちに まか せ たわけではない。地元民が独 自に販売す る ことも少 な くなか った。 この場合,最 もよ く 売 りに出かけたのは トゥンビラハ ンやプラウ キ ジ ャン (PulauKijang), クア ラ トゥンカル (KualaTungkal)であ った (図1参照)。 これ らの地 にはいずれ もサ ゴはな く米が多い。マ ンダの人たちはここにサ ゴを運 び,米や雑貨 を買 って きた。ふつ う3人 ぐらいが組 んで,5
トンぐらいの帆舟で行 く。 プラウキジ ャン までだ と片道 1昼夜, クアラ トゥンカル まで だ と1昼夜半で行 ける。 この帆舟利用 は1982 年 まで続 いたが,その後 は動力船で行 なって いる。 第2次大戦前 はシ ンガポールに直接 出 す こともあ った。同 じような大 きさの舟で行 なったが,所要時間は風 向 きによってず いぶ ん違 った。南風 だ と 2日で行 けたが,北風 だ と15日ぐらい もかか った。帰 りに買 って くる もの は布地や シャツ,古着 な どだった。 サ ゴの値が最 も高 く,かつ多 く売れたのは, 第1次大戦 中であ った とい う。マ ンダの人た ちはこの時のサ ゴの高値 の理由 を次 の ご とく 説明 している。 当時, フランスは ドイツの砲 撃 を防 ぐため にサ ゴをつめた袋で壁塁 を築い た。そのために大量のサ ゴを購入 したのだ と い うのである。 1930年代 の は じめ動力粉砕機 の導入で変化 したサ ゴ生産 は,1935年, もう1度大 き くか わ った。 カイ ラマ ンダのパ ダ ン (Padang)逮 河 ぞ い に, 中国系 の商 人のエ ンコキ (Engko fG)が大サ ゴ工場 を建設 したか らであ る。 こ れ は1日に40-50本 の丸太 を処理す る大 きな もので,多量 の丸太 を購入 しだ した。工場 は 立木1本 を15ル ピアで買 った。村人の多 くは 立木 を売 った。工場 はまた1.2m長 さに伐 っ た丸太 を工場 に運ぶ と,運搬賃 として1本 に つ き30セ ン トを支払 った。それで,多 くの村 人は丸太運 びで働 いた。 けっきょく,村 人は 自分 たちでサ ゴを洗 うことをやめ, 自分 の立 木 を工場 に売 り,それ を運 んで貨かせ ぎをす ることにかわって しまったのである。 この工場 は,しか し,長 くは続 かなか った。 い ままで にない大規模操業の結果, カイラマ ンダ周辺 のサ ゴの成木 は2年の うちにな くな って しまったか らである。 エ ンコキはあ っさ りと工場 を閉鎖 して しまった。あ とには劣化 したサ ゴ園だけが残 ることになった。やがて, 数年の うちに第2次大戦が勃発 し, 中国人は 去 り,サ ゴ販売 もほ とん どで きない状態 にな った。高谷,ポニマ ン :熱帯多雨林沿岸部の生活 ト4 戦前 のサ ゴ以外 の生業 サ ゴ洗い以外 で最 も重要 な仕事 は魚 と りで あ った。 中 で も, トゴ (togok)とサ ラサ ラ
(
s
a
r
as
a
r
a
)
と投 網 が重 要 で あ った。 これ ら はい まも重要 である。 トゴ とは流れ下 って く るエ ビ を受 け入 れ る大 網 で あ る。 長 さ数 m の棒 を川 中に密 にたて,その平面形が上流 に 開いた漏斗形 になるような垣 をつ くる。 そ し て,漏斗 の末端 には直径 1m,長 さ数mの袋 状 の網 をと りつ けてお く。 こうしてお くと, 引 き潮の早い流 れに垣 にそ って押 し流 された エ ビや小魚が,袋 の中に入 りこんで くる。引 き潮が もう終 りに近づ いた時,袋か らエ ビを と りだす。 サ ラサ ラはエ ビ専 門の特殊 な漁法であ る。 小舟 の片方の舷 には,サ ゴの葉で編 んだ ア ン ベ ラをたてて,簡単 な壁 をつ くってお く。 い ま一方の舷 には,サ ゴの葉 をむ しりとって軸 だけに した一種 のブラシを,2
本 ぐらい船外 につ きだ してお く (図5参照)。小 舟 を岸 ぞ0
図5 サ ラサ ラ漁 の装備 いに進 めて, この ブラシで水面 を逆 なで して ゆ くと,驚 いたエ ビが舟 に向か って跳 び跳ね て くる。跳 ねあが ったエ ビは, ア ンベ ラの壁 に さえ ぎられて舟の中に落 ちる。 このサ ラサ ラ漁 はひと りで夜行 う。 エ ビは面 白いほ どと れたが,危険 な漁法で もあ った。 しば しば ワ ニに出 くわ したか らである。投網 ももっぱ ら エ ビと り用の ものが多 い。 トゴ,サ ラサ ラ,投網が 中心 だが,エ ンパ ン(empang)とい うの もあ る。 これ は川岸 に で きた小 さい入江や支流の入 口に箕 を張 って お く方法であ る。 満潮期 にそこに入 りこんだ エ ビや魚 は,干潮 になると逃げ場 を失 って, とらえられる。マ ンダ川の両岸 な どには,た くさんこの しかけがつ くられる。 このほかに 釣 りもあ る。 漁具 を もたない人 は漁具 をもつ人の助手 に なって働 く。 この際,漁獲高の 3分 の 2は漁 具の所有者 に,3分 の 1は助手 に, とい う具 合 に分配 される。 昼 間はサ ゴ園で働 き,夜 に なる と, こうしてふた りで組 をつ くって魚 と りに出 るのがふつ うであ った。 とれたエ ビは 自家消費す る以外 は,すべ てス ンブア ンの中 国人の店 に もってい った。夜 のサ ラサ ラ漁 な どのあ とに も, まっす ぐそれ を店 に もってい った。 ム ラユ の間で漁業 についで重要 だ った もの は造船 であ った。 カイラマ ンダに もイガルに も造船所 があ った。2
-
3
トンの舟 は もちろん の こ と,数十 トンの船 もよ くつ くられた。 こ う した船 の龍骨 にはルサ ック (resak;Sh
o
r
e
a
g
l
a
u
c
a
)
,舷 の張板 には メ ラ ンテ ィ(meranti;Pwa
s
h
we
a
の類)を用 い る と決 っていた. こ れ らの木 は, プ ラ ドゥ ック (Peladuk)川 の上 流か ら筏 でおろ して きた。舷 を支 える腕木 に は, マ ン グ ロー ブ の 一 種 で あ る ク ダ ブ (kedabu)を用いた。 い わ ゆ る森林 物 産 はそ れ ほ ど多 くなか っ た。 それで もダマ ール (dam ar)や ミニ ヤメ ラ (minyakmerah)を よ く集 め た。 両者 と も 樹脂 で,舟の隙間の充填材 や防水剤 として, 造船所で は多 く用 いた。余分がある と,ス ン ブア ンの商人 に売 った。1
9
3
0
年代 まで は,バ カウ (マ ングローブ) の皮 も多 くとった。 こ の中に含 まれている タンニ ンが,舟の帆の強 化剤 と して用 い られた。 シンガポールか らラ ッカセイやココヤ シの油が入 るまで は,食用 油 はス ンタイ (Suntai;P
a
l
a
q
u
i
u
mb
wc
k
i
i
)
油 だった。 ス ンタイの実 を集め るために, よ く東南 アジア研 究
2
4
巻3
号 湿地林 に入 った。 ここで は藤 はあ ま り出なか っ た。 そ の か わ り, ア ッカー ル トヨ (血t
o
y
o
k
)
や ア ッカールチ ナ(
a
ka
rC
i
na
)
を よ く とった。 これは港木の根 で, これで縄 な どを つ くった。 これ もまた,多 くとれる とス ンブ ア ンの商人 に売 った。 ところで, ここで, ス ンブア ンの ことを簡 単 に触 れておいたほ うが よい。先 に述べ た よ うに,これはカイラマ ンダの川港-入 る直前, 川港 か ら約3
0
0m
離 れたマ ンダ川の本流 に面 している。 一見,十敷戸 ぐらいあ りそ うにみ えるが,実際 には8
戸 しかない。い くつ もの 倉庫 や物干 し場があ るか ら,大 き くみえるの であ る。 物干 し場 にはコプラやエ ビな どが干 してあ る。店では食料 や雑貨のほか,灯拍や 軽油の ドラムカ ンをい くつ もおいている。支 流 をはさんで対岸 には,中国式 の廟 をつ くっ てい る。 この ス ンプア ン,1
9
1
0
年代 にはすで に2
-
3
戸 の集 落 と して存在 していた (図4参照)0 当時か ら中国人 自体 は もう少 し多 くいたが, 多 くはマ ングローブ伐 出 しのために,いわゆ るパ ンロ ン(
p
a
n
g
l
o
n
g;
伐 採) 小屋 をつ くっ て,川 岸 に散 居 して い たの で あ る。 それが1
9
4
7
年 ごろか ら,い まの ように集居 す るよう にな った。8
戸 はすべ て広州 出身者 である。 い まで も中国語 を用 いているが, ひ とりの老 女 を除 くと,もう漢字 の読み書 きはで きない。8
戸 はいずれ も,数十 トンの船 を もっていて, ブ ラ ラス(
Be
l
a
r
a
s
)
を中継 点 に し, シ ンガ ポール と杏 な関係 を もっている とい う。 カイラマ ンダな どのムラユ集落 は湿地林 の まっただ中にあ り,サ ゴ生産 を中心 として生 活 を支 えている。 しか し,それはけっ して 自 給 的な集落で はない。上の中国系の人たちの 活動 か らも推察 され るごと く,人 々は余剰生 産す るサ ゴや,その他 の物産の販売 を通 じて, 外部世界 によ く通 じている。人 口稀 薄な湿地 林 とい う生態環境が与 える閉鎖 した印象 よ り は,実際 には, この地域 にははるかに よ く発 達 した現金経済がある。Ⅰ
-
5
ココヤ シの拡大 カイラマ ンダの役所 区の まわ りの広 い ココ ヤ シ園の中には,サ ゴの混 じている ものが あ る。ふつ うのサ ゴ園中のサ ゴと違 って,叢生 している吸枝 をみな伐 り払 っているか ら, こ の種 のサ ゴはその主茎のみが孤立 して, まる で ココヤ シの ようにつ った っている。 したが って, うっか りしている と, まるで全体が コ コヤ シ園の ようにみえる。 こう したサ ゴは, い またってい る ものが1
-
2
年 の うちに伐 り倒 される と, もうサ ゴは絶滅 して しまい,全体 が ココヤシ園 になる運命 にあ る。 これは,か っ てのサ ゴ園が ココヤ シ園 にかえ られてゆ く 最終段 階 を示す ものである。 カイラマ ンダにはココヤ シは1
9
1
8
年 ごろ導 入 された とい う。 もっともその ころすで に, 海岸 の プラウチ ャワ ン(
Pu
l
a
uCa
wa
n
)
あた り にはココヤシはかな り普及 していて,苗木 は そ こか らもって こられた とい う。 カイラマ ン ダで ココヤ シが 目だって増 えだ したのは,例 の中国人の大サ ゴ工場 が閉鎖 された1
9
3
0
年代 後半 か らであ る。村人 による と, この ころ, サ ゴに比 して コ コヤ シの値 は非常 に よか っ た。そ して,戦後 またココヤ シの値があが り, カイ ラマ ンダの コ コヤ シ もまた一段 と増 え た。 ココヤ シの導入 は, カイ ラマ ンダの生態環 境 も,集落パ ター ンも,そ して経済 も,大 き くか えて しまった。 村 人たちが ココヤ シを植 えたのは,サ ゴ園 背 後の湿地林 であ った。 もっとも,湿地林 は その ままの状態で はココヤ シに適 さない。一 度雨がふ る と3
0c
m
ぐらいの深 さの湛水が1
週 間 も続 くここで は,根腐 れがお こるか らで ある。そ こで, ココヤ シを植 えるに際 して, 人々は湿地林 の排水 をはか った。彼 らが行 な高谷 , ポニマ ン :熱帯 多雨林沿岸部 の生 活 った方 法 は,川 ぞ いのサ ゴ園 をつ き切 って, 幅
1m
,深 さ約1
.
5m
の溝 を,川 か ら湿地林 に 向か って掘 ったので あ る。 こ うす る と湿地林 の水 は干 潮時 に排 水 す るこ とが で きる。 この 排 水溝 掘 削 はサ ゴ園 に思 わぬ打 撃 を与 えた。 サ ゴ園の土壌 水分 もまた抜 けて しまったので あ る。 本 来が多湿 地 を好 むのが サ ゴであ る。 水分 が不足 す る と, とたん に成 長が悪 くな っ た。特 に, ピー トの上 にあ ったサ ゴ園の被害 は激 烈 で あ った。 地下 水位 の下 が った ピー ト は乾 燥 した オ ガ ク ズ の よ うに カサ カサ に な り, サ ゴは急速 に枯 死 す る こ とさえあ った。 こ う して, コ コヤ シが儲 か る とわか る と, 共 同作 業 に よる大規模 な コ コヤ シ園 開設 が行 わ れ る よ うにな った。1
9
4
0
年 ごろか らで あ る。 たい てい はひ と りの リー ダー を中心 に十数 人 が組 をつ くり,共 同 して1本 の水路 を掘 り, 各 人 はそ の 水 路 ぞ い に 間 口何 ドゥパ (depa; 1ドゥパ は約 1.7m)か の地 片 をえた ので あ る。 こ う した水路 も川 か ら直角 に幅1m
,深 さ1
.
5m
で掘 られ たが,ふつ うは1k
m 以上 , 時 に2k
m 以上 の長 さに も達 した。 掘 削 者 た ち は ふ つ う は, ひ と りで 間 口5
0-
60
ドゥパ の もの を入 手 した。 誰 もが川に 近 い,水路 の入 口 を欲 しい と思 った。 そ こは 交通 の便 が よ く,土壌 その もの もピー ト分 が 少 な く上 質 だ ったか らであ る。 しか し,ふつ うはそ うい う ところは最年長者 に与 え られ, 以下 ,年齢順 に若 い もの ほ ど奥 を とる, とい うこ とで割 りあてが行 われ た。 この方法 はマ ンダで はい ま も生 きて い る。 こ う した長 い水 路 には潮 汐が入 りこみ, 千 が て それ らは拡 幅 されてい った。最初1m
幅 で掘 られ た水路 が, い まで は どれ もこれ も十 数m
か ら2
0m
を越 す もの に な り, その多 く が賑 か な交通路 と して使 われて い る。 それ と 同時 に,サ ゴ園の排 水 は ます ます進 み,サ ゴ 園の劣化 を導 いた。 け っ き ょく, ココヤ シの 導入 は地域全 体 の排 水 を著 しく促進 し,全体 の景観 は,湿 ったサ ゴ湿地 か ら,水路網 の縦 横 に走 る乾 いた ココヤ シ園地帯へ, とい う変 化 を もた ら したので あ る。 ココヤ シの拡 散 は伝 統 的 な集 落パ ター ンを もか える こ とにな った。 ココヤ シ園の開設 に 際 して は,5
0-
6
0c
m
に育 った若苗 を8m
ぐら いの間隔 で植 える。 コ コヤ シ園開設 時 の最大 の問題 は, この新植 苗 の保 護 で あ る。 ココヤ シ苗 の芯 には タケ ノコの よ うな軟 質部 が あ っ て, これが野豚 や猿 の大好 物 にな って い る。 若苗 を獣害 か ら守 るため に,人 々は 自分 たち の家 を新 開 ココヤ シ園の 中央 に移 した。 多 く の人 々が ココヤ シ園 を開 くようにな る と, け っ き ょくは川 ぞ い に比較 的 まとまった兼任形 態 を とっていたかつ ての集落 は,次 々 と消滅 し, か わ って湿地林 中の ココヤ シ園へ の散居 が は じまるこ とにな ったのであ る。 カイ ラマ ンダで村 人 に聞 いてみ る と,平均 して彼 らは,1
0
年 に 1度 家 を移動 させ てい る。 それ は, ココヤ シ園 を新 開す るた び に, その 中央 に家 をたてか えるか らであ る。 ふつ うコ コヤ シ は,7
-
8
年 もす る と実 をつ けだ し, も うあ ま り手 が かか らない。 こ うなる と, それ に隣接 す る湿地林 に また新 たな ココヤ シ園 を 開 き, そ こに家 を移す ので あ る。 こんな具合 だか ら,移動 とい って も,一般 の焼畑 民 の よ うに何k
m も動 くの で は な い。 せ いぜ いが 数 百m動 くの で あ る。 成 木 に な った コ コヤ シ 園の 中 には,赤 貝 の小 さい貝塚 が よ くみ られ る。 これ らは, かつ て その ココヤ シが若 か っ た ころ, そ こに約1
0
年 間 とどまった人が残 し た貝殻 の 山で あ る。 生 活 や経 済 の面 で も大 き くか わ った。 かつ て は食糧 は 自 らが生 産 していた人 た ちが, コ コヤ シ中心 にな る と,食糧 を購 入 しなければ な らな くな った。第2次 大戦前 は,原則 と し て,米 は役 人 と商 人の食糧 と考 え られていた。 もちろん,一般 のサ ゴ採取者 も米 を食べ た。 しか し, それ は特 別 の機 会 に食べ た にす ぎな東南 アジア研究 24巻 3号 か った。それが,戦後 ココヤシが伸長す る と, 一般民の米消費が はっきりと増大 した
。1
9
8
4
年の時点でみる と,ベ ンテの ようにサ ゴの比 較的 よ く残 っているところで も,米 とサ ゴの 消 費量 の割合 は1:1ぐらいであ る。 カイラ マ ンダの ような変化 の激 しい ところだ と,主 食中でサ ゴの占める比率 は3
分の 1ぐらいに な り,米が ぐん と重要 になった。 もっとも彼 らは, ココヤシの値 の高い時 にはよ り多 く米 を食 い, ココヤシの価が下が ると,サ ゴに力 を入れ,サ ゴの比率があが るのであ る。 ココヤシは殻つ きの まま売 りに出 されるこ とが多い。 しか し, コプラに して出 されるこ ともある。 コプラづ くりは,園内の極めて簡 単 な乾燥小屋 の中で行 われ る。 コプラも殻つ きの コ コヤ シ も, と もに ク ア ラエ ノ ック(
Ku
a
laEn
o
k
)
に送 られ る. この ため の集荷 と輸送 は,例 のス ンブア ンの中国人かKUD
(
Ka
n
t
o
rUnl
S
a
nDe
s
a
)
とい う村の協 同組合が 行 う。協 同組合 は しか し,かな らず Lも生産 者 に評価 されているわけで はない。 た しかに 高価 に買 って くれ るが,現金の支給が遅れ る とい って嫌 われる。 そんなわけで,最近で は 中国人 を間に入れ,現金の回転 を早 くす るよ うな便法 を講 じた うえで,組合運営がな され ているとい う。 私 にはこのあた りの内実の具 体的 なことはわか らないが,村人の生活が極 めて強 く現金経済 にまきこまれているこ とだ けは理解で きる。ト6
ココヤ シの大拡張 と最近のサ ゴ ココヤシは戦後ず っと拡大 を続 けた。そ し て,1
9
7
0
年代後半以後,その拡大 はまた一段 とす さま じくなった。政府 の援助す るココヤ シ ・プロジェク トが動 きだ したか らであ る。 政府 の プロジェク トだ と,幅1m
,深 さ2
mの幹線排 水路 が, ピー ト地 帯 を貫 い て, まっす ぐに掘 られる。そ して,その水路 ぞい が1
2
パ リス(
b
a
r
iS
)
ずつ に均分 され るO バ リ ス とはココヤ シの植 え られた列で,ふつ うパ リス間隔 は5
ドゥパ,す なわち約8m
である。1
2
パ リスは したが って,約1
0
0m
になる。 こ の間口で もって,各人 は奥行 き約1
2
0
ドゥパ, すなわち約2
0
0m
の範囲 を占有す る。政府 は ここで各入植者 に,各 自の地片 の中央 に,幹 線排水路 か ら直角 に延 びる小水路の掘削 を指 導す る。 こう して,櫛 の歯状 にで きた排水路 で もって地域全体の地下水位 を下げ, ココヤ シを植 え付 けるのである。 水路掘削 を して1 年 もたつ と,ピー ト地盤 は少 な くとも50cm, 場合 によって は1m
以上 も沈下す る。 こうし て,あ る程度の沈下が進行 したあ とに実際の 植付 けを行 う。 政府 プロジェク トで な く,個人で組 を組ん で行 うココヤ シ園開設 もある。 これ も基本的 には政府 プロジェク トの場合 と同 じである。 規模 も30数人が ひと組 をなす など,大規模 な もの もある。 デサ長 に申請す ると,土地 は喪 料で入手で きる。 占有 に際 して必要 な ものは 登記料 だけである。 ただ,個人の場合だ と, 苗木の入手が難 しい。政府 プロジェク トの場 合 だ と,安価 な苗や,時に無料苗の入手が可 能である。 しか し,個 人だ と高価 な市販の苗 を購入 しなければな らない。1
9
7
0
年代 の ココヤシ園拡張 は,それが政府 プロジェク トであっただけに,それ以前 の も の とは違 って,入植者 の顔ぶれ も多様 であ っ た。政府がプロジェク トを公表 して入植者 を つの ったか らである。 マ ンダ以外の郡の人た ちや ジャワ人 も入植 した。1
9
7
0
年代後半 にお こったあ ま りに も急激 な ココヤシ拡張 は,サ ゴに直接 的な打撃 を与 え た。それ以前 のココヤシ栽培 とは,サ ゴ園 を 保持 しなが ら,サ ゴの外縁 の湿地林 にココヤ シを植 えてゆ くとい うものであった。しか し, 今度の場合 は,サ ゴ園 を積極 的にココヤシ園 にかえる動 きが出て きたのである。先 にカイ ラマ ンダで ココヤシ とサ ゴの混植 をみたが,高谷,ポニマ ン :熱帯多雨林沿岸部の生活 それ はこの例 であ る。 おかげで,サ ゴ面積 は 急激 に減少 してい った。郡の園地担 当官 に よ る と,1979年 に は まだ6,800haあ ったマ ン ダ郡 のサ ゴ面 積 は,1984年 に は2,800haに 減少 して しまった。 ベ ンテの ような ところで は,い まだにサ ゴ を大事 に し, さかんにサ ゴを洗 っている。 し か し,多 くの ところで は,サ ゴ洗い を放棄す るような現象が広が ってい る。 カイラマ ンダ や イ ガ ルで は, 隣 の ガス (Gas)郡 にサ ゴ丸 太 を輸 出す る方式が定着 しつつ ある。 ガスの 大 きなサ ゴ工場 か らは,月 に2回,船がサ ゴ 丸太 を曳 きに くる。丸太 を筏 に して 1回にだ いたい1,000本 ぐらい曳いて ゆ く。 丸1日半 で ガスの工場 につ くとい う。マ ンダ と違 って, ガスにはサ ゴを大規模 に処理す る工場 が最近 で きたのであ る。 ベ ンテの人たちがサ ゴは有利 だ とい う時 に あげる理 由の最大の ものは,その維持 には人 手がかか らない とい うことである。 サ ゴ園だ と,た とえ 5年,10年放置 しておいて も何 と い うことはない。 ところが, ココヤ シ園だ と 定期的 に収種 や除草 を しなければな らない。 こんなわけで, た とえば,5-6年 出かせ ぎに ゆ くような場合で も,サ ゴ園な ら問題 はない が,ココヤシ園だ と手放 してゆかねばな らず, その不便 がある とい うのであ る。 サ ゴの重要性 は最近,政府 当局 によって も 認め られは じめた。 あ ま りに一方的 にココヤ シに頼 るのは危険 だ とい うのであ る。1981年 以降,州政府 はサ ゴ育成計画 を進めて きてい る。 例 の大工場 のあ るガス には85haを, そ して マ ン ダ 郡 で は バ カ ウ ア チ ェ (Bakau Aceh)に25ha, プ ラ ドゥックに31ha, ブ ラ ラス に25haのサ ゴ園 を開設す る計画 をたて た。希 望 す る もの に は1戸 につ きlhaの土 地 を与 え,開墾 に際 しては,55,000ル ピアの 奨励金 を与 えて,サ ゴ園 を開かせ ようとい う ものである。 この計画が どの程度 の実績 を収めたのかは 私 は知 らない。 しか し,近年のサ ゴの下落 を 押 し止 めるほ どの力 はない ようである。 かつ てのサ ゴ地域が,い まは政府のサ ゴ奨励政策 の適用 を受 けねばな らないほ どの事態 にたち 至 っているのであ る。 ⅠⅠ 漁業 を中心 と したブカワン ⅠLl 漁村 ブカワンルアール 1984年のブカ ワンには内陸の集落 もある。 これ は近年 ココヤ シ栽培のため に入植者が住 みつ いたか らであ る。 しか し,本来のブカワ ンは陸地 と全 く無縁 の干潟 に位 置 した漁業 集落 で あ る。 この部 分 は ブ カ ワ ンル アー ル (BekawanLuar)と呼 ばれ て い る。 1984年現 在 でのブカワ ンルアールの概略 図は図
6
に示 してある。 漁村 は干潟 に刻 み こまれた痔筋 (図 6中の ①) にそ って列状 にたて られている。 建物 は いずれ も高 さ5mぐらいの杭 の上 にたて られ た杭上家屋 であ る。 のちに少 しく詳 しく述べ るが,この漁村 は四つの部分か らなってい る。 第1
はムラユ漁民の集 中区②,第2
はその南 にあ るオ ラ ンラウ ト(Oranglaut)区③ ,第3 は近年つ くられた行政,文教 区(彰である。濡 筋 をは さんだ対岸 は福建系 の漁民区⑤ になっ ている。集落 よ り200mほ ど離 れた海岸 はマ ングローブ⑧ が一面 に生 い茂 っている。 そ し て,そ こに感潮河川⑨ が入 りこんでお り,そ の川 口には最近完成 した コプラ乾燥場⑩があ る。 川 は上流 に至 る と急 に細 くな り,湿地林 ⑪ に至 る。 この湿地林 の中に,1960年以降広 が りだ した ココヤ シ地区⑫ がある。 カイラマ ンダーブカワンルアール間にはス ピー ドボー トはないので,漁船 をチ ャー ター しなければな らない。船頭 はブカワ ンの まわ りに広が る広 い干潟 (図2参照)が満潮時 に 冠水す るの を待 って,マ ングローブの外縁 に東南 アジア研 究 24巻3号 そ って航行す る。 ブ カワンルアールに近 づ くと,いったん少 し沖に出て滞筋 に入 り,それ をったって, 約 1.5km を さか の ぼ る。 こ の 1.5kn の間は,滞筋ぞいに 30m お き ぐ らい に 点 々 とニボ ンヤシの ポールがたててあ っ て,滞筋の位置 を明 示 している。 ム ラユ区 と福建人 区 との間の水路 は幅 約 40m で あ る。 そ こには大小 の舟が ぎ っ し りつ ま っ て い る。 その部分 の よう す は図
7
に示 してあ る。 ムラユの家のベ ランダや桟橋 は,満 潮時 だ と水面 よ り1
m ぐ らい, 干 潮 時 だ と4m以上の高 さ になる。 どこに も乗 船,下船用の施設 な どないか ら,適当な 杭 につか まって, よ じ登 らね ば な ら な い 。 ム ラユ もオランラ Nrこブ」:::::::::::::::::::::::::ニ::? ? ::::::
:
:
::こ:::::::::::::
:
:
:
:
:
:
:
?
?
:I::
I
::
:
i
L
,
:
I
:
:
I
:
∴
'
'
'
‥
∴,
I
-
1
f
∴ -=
:-∴
∴∴=一
室
:
:
_
:
=
T
:
:
:
:
:
:
:
:
:
:
:
:
:
‥
‥
:
号
・
r
?
…
■
…
"
Y
'
…
Y
…
…
'
…
…
…
'
'
?
?
:
:
:
こ
:
:
:
:
:
:
こ
こ
:
こ
:
:
:
:
:
:
:
:
:
:
:
:
こ
:
こ
:
:
:
こ
?
::::::
:
:
:
:
:
:
:
:
:
:
:
::こ
:
:
:
:
:
:
:
:
:
:
:
:
:
?
0 400m::::::::::?-
I
ll-j>s・義
苧
′ (》汚筋 ② ムラユ区 (卦オランラウト区 ④ 新 開行政 区 (9福建人区 ⑥ ェり葵
毒==
=
二 ヽ\ ヽ\ ヽ ・ ⑦、、> ⑬ ′′/′ (97ラット ⑧ マングローブ ⑨ プカワン川 ⑲ コプラ乾燥場 ⑪ 湿地林 ⑲ 内陸ココヤシ地区 ⑲ 干潟 図6 ブカ ワ ンル アールの概 略 図(1984年現在)くつ
て
こ⊃ くこ⊃亘
f
四
所
耐 :._..;.I. ..オ ラ ンラウ ト地 区 ..I.,:.q?
_
.
町
'.二-. ..a:アサ 長 宅:
I
.
_
'
I
.
.
:
.
:
,
9
.
a
・■∴ bC:もとフ ックテ ィナユの家:もとジャ ンタンの家 図7 ブカワ ンル アールのム ラユ 区北部 と福建 人区周辺(1984年現在) ウ トも中国人 も,家 の構造 は基本的には同 じである。 どの家 も入 口は桟橋 に向かって大 きく開いていて,背後 には物干 し用のベ ランダをもっている。 ムラ ユ区ではその家の半数 ぐらいが入 口に商品 を 並べている。 明 らかに漁師の家だ と思 うとこ ろに も,ち ょっとした小間物がおいてあるか ら, ここは一見,場末の商店街 の ようにみえ る。オランラウ ト区には商品はおいていない。 福建漁民 区では桟橋 にまでエ ビと魚が山盛 り にされていて,魚市場 の ようにみえる。 デサ ブカワンの全容 を概観す るために,統 計 をみてお く。 以下の ものは,デサの役所で高谷,ポこマ ン :熱帯多雨林沿岸部の生活 写 真5 ブカワンルアールの入口。左がムラユ区, 右 が福建 人区 写真6 オランラウ ト区か らムラユ区の方 をみる 保 存 され て い た記 録 か ら転 写 した もの で あ る。 1)人 口 (1984年現 在 ) ブ カ ワ ンル ア ール 194戸 1,173人 内陸 の諸 集 落 563戸 4,340人 合計 757戸 5,513人
2
)
出身 (戸 数 に よる) 3)職 業 ブギ ス ム ラユ バ ンジ ャール オ ラ ンラウ ト そ の他 農 業 漁業 商業 森林 産物採取業 教 師 % 0 5 5 3 7 5 1 1 1 約 人 95
5 3 3 42
7 2 1 32
1 その他 合計 19 1,7044
)
船 動 力船 60隻 エ ンジ ンの ない舟 148 今 日で は内陸諸 集 落 の人 口が , もとか らあ る漁村 ブ カワ ンル ア ールの そ れ の3
倍 近 くと い うほ どに膨 れあが ってい る。 これ は最近 , 大挙 して入 って きた ブギ ス移民 に よる もので あ る。 この こ とはの ち に もう 1度触 れ る。 い ず れ に して も,漁村 ブ カ ワ ンル アール はム ラ ユ とオ ラ ンラウ トを中心 と した空 間で あ る。 一方 ,内陸 には ブギ スの コ コヤ シ空 間が あ る。Ⅰ
ト2
ブ カ ワ ンの歴 史 ブ カ ワ ンの 歴 史 を は っ き りさせ る た め に は, その前 史 と もい うべ き ダンジ ョンダ トゥ (TanjungDatuk)の こ と を, まず 述 べ て お い た ほ うが よい。 そ の次 に, ブ カ ワ ンル ア ール の誕 生 と成長 , そ して最後 に内 陸 の 開発 とい う具 合 に,順 に追 って み て ゆ くとよい。 デ サ ブ カ ワ ン の 先 代 デ サ 長 A.
M.
G.
は 1914年生 れ,博 識 で知 られ, また呪術 師 と し て畏敬 されて い る。 この 人の話 す ブ カ ワ ンル アー ルの歴 史 は以 下 の ご と くで あ る。 A.
M.
G.
の父 はパ レ ンバ ンに住 んで , カエ ア グ ン (KayuAgung)- パ レ ンバ ンー シ ンガ ポ ー ルー トレンガ ヌ (Trengganu)交 易 に従事 して い た (図 1参照)。 カエ ア グ ンはパ レ ン バ ンの上流 にあ る有 名 な土器生 産地 で あ る。 彼 は こ こで 土 器 製 焼 炉 , サ ンバ ル (sambal; 七 味) づ く り用 の措 鉢 , そ れ にニ ッパ ア タ ッ プな どを積 み こんで シ ンガポ ー ル に行 き, そ れ を現 金 にか え, 空船 をマ レー東 岸 の トレン ガ ヌに まわ し, また, そ こで塩 干 魚 を仕 入 れ て パ レ ンバ ンに戻 る とい う仕 事 をや って い た。 当時 か ら, パ レンバ ン下流 の ム シ川 川 口 に は ス ンサ ン (Sungs肌g)とい う有 名 な エ ビの東南 アジア研究 24巻3号 漁場 があ って,彼 はいつ もそ こをとお ってい た。一方,マ ンダの沖 には タンジ ョンダ トゥ とい う岬があ って,そ この海底地形 と水質が ス ンサ ンによ く似 ていることを彼 はよ く知 っ ていた。1915年,彼 は友人5人 と語 らって, この タンジ ョンダ トゥにエ ビ漁場 を開 くこと になるのであ る。 6人の男 は当時, タンジ ョンダ トゥの近 く で最 も栄 えていた プ リギ ラジ ャ
(
Pe
r
ig
iRa
j
a
)
に まず行 った。 プ リギ ラジ ャはイ ン ドラギ リ 川 の川 口にあ って, 日ざす タンジ ョンダ トゥ の西南40kn1の ところにあ る (図1参照)0 ここでパ ガ ン(
b
a
g
a
n
)
建設用 のニボ ンヤシや トゴ用 の竿,網, それに2カ月分の食程 を購 入 して, タンジ ョンダ トゥに至 った。パ ガ ン とは海中につ くる一種 の櫓 であ る。干潮時の 水深が2mぐらいの ところに,ニボ ンヤ シの 柱 を何本 も打 ちこんでつ くる。 杭 の上 に広 い ステージをもっていて,そ こに漁獲物が干せ るようになっている。 また,その一角 には, 寝 お き用 の小屋 もつ くる。6人 は2基 のパ ガ ン建設 を1カ月で完了 した。それか らす ぐに トゴを しかけた。 ここの トゴは, カイラマ ン ダ周辺 の川で用 い られている もの よ り, ひと まわ り大 きい。 これについてはのちに詳述す る。 パ ガ ン建設後1
年 して,父 は家族 をパ レン バ ンか ら呼 び寄せ た。A.
M.
G.
は2
歳 だ った が,母 に連れ られてパ ガ ンに移 った。 この時 何家族 かが一緒 にパ ガ ンに移 った。パ ガ ンの 生活 は楽ではない。飲水 は大 きなツボに雨水 を貯 えたが,それが切 れる と,湿地林 に舟 を 漕 ぎ入れて,補給 して こなければな らなか っ た。野菜 は全 くなか った。毎 日,サ ゴ とエ ビ と魚 ばか りを食 った。男 たちは1
年 中ここに とどまったが,女 と子供 は断食月 をはさんで3
カ月 はプ リギ ラジ ャに上陸 した。 水あげの中心 は圧倒 的にエ ビだった。 これ はパ ガ ンで干 しあげて, プ リギ ラジ ャのふた りの中国人の親方 (tauk6)に売 った.売 った とい うよ り,パ ガ ン建設時 につ くった借金の 返済 にあてた。 やがて6
人 に倣 って,パ レンバ ンか ら別の 人たちがや って きてパ ガ ンをつ くった。 その うちマ ンダか らもや って きた。マ ンダ人のパ ガ ンは2基で きた。 こうして,1920年代 中ご ろには, タンジ ョンダ トゥには10基 ほ どのパ ガ ンが操業 されることになった。 こんな状態 が約10年 ほ ど続いたのち,1928年 になると, は じめて,ふた りの 日本人が シ ンガポールか らや って きた。彼 らは台中丸 とサ クラ2号 と い う2隻の動力船でや って きて,生エ ビを買 っていった。 これは, タンジ ョンダ トゥで生 エ ビが売 れた最初 ので きごとである。 1931年 になる とオラ ンダの布告が出た。 タ ンジ ョンダ トゥで とれたエ ビは1度かな らず プ リ ギ ラ ジ ャ か ク ア ラ マ ン ダ(
Ku
a
la
Ma
nd
a
h
)
に出荷 し, そ こで 許可 をえたあ と でなければシ ンガポールに輸 出 してはな らな い, とい うものである。 この ころになる と, タンジ ョンダ トゥでは一段 とパ ガ ンの数が増 え, このあた り最大の漁場 となった。 その ころのプカワンルアールはまだ無人の 地だ った。時折, オランラウ トの舟が もや う ことはあ ったが,定置的な構造物 は何 ひとつ なか った。 この地 に最初 の定住者が現 れ るの は1931年 で あ る。 この年, フ ックテ ィチ ュ (HukTeiChu)とい う中国人が プ リギ ラジ ャ か ら出て きて, は じめて1軒 の杭上家屋 をた てた。それは現在 のムラユ区最北端 にあ るフ ックテ ィチ ュの家 (図 7の b)であ る。 この 家 はの ち に A.
M.
G.
が購 入 して, 同氏 自身 がい まも住 んでいる。 この時, フ ックテ ィナ ュは家の近 くに トゴをかけてエ ビをとる と同 時 に,季節的 に訪れるオラ ンラウ トに砂糖 や 米や菓子 を売 った。 1934年 になる と, フ ックテ ィチ ュの家の南 隣 に, オ ラ ン ラ ウ トの 首 長 の ジ ャ ン タ ン高谷,ポニマ ン :熱帯多雨林沿岸部の生活 Oantan)が家 (C)をたてた。 ここはい ま,そ の孫 にあたる人が住 んでい る。 ジ ャンタンの 家 の まわ りには, オランラウ トの舟がいつ も 多数 もや うようになった。 このふたつの家 は 大 きなベ ラ ンダを もっていて,その上でエ ビ を乾か した。 1936年, ブララスか らムラユのムハマデ イ
(
Ma
c
h
mu
d
i
)
が や って きて, ジ ャンタ ンの南 隣 に家 (d)をたて, コーヒー店 を開いた。 ム ハマデ イが出て くる と,時 を同 じくして,多 くのムラユがや って きた。主力 はブララス出 身者であ った。 しか し, このマ ンダ出身者 た ちは ここに家 をたてたわけで はない。 ここか ら2
-
3k
m も沖 にパ ガ ンをたて, そ こに住 ん でエ ビをと りは じめたのである。パ ガ ンの数 は またた く間 に増 え,1
-
2
年 の間 にそれは2
0
を数 えるに至 った。漁法 は ダンジ ョンダ トゥ の場合 と全 く同 じ トゴであ る。 やがて, この 漁場 はタンジ ョンダ トゥを凌駕す るほ どにな った。そ う した中で,1939年, カイラマ ンダ にい る ア ミー ルのマ ハ マ ドゼ ン(
Ma
c
h
a
ma
d
Zen)が漁場 の公式視察 を した。 以上が ブカワンルアールの誕生 と第2
次大 戦直前 までの状況であ る。一方,内陸で は, 1938年, ご く一部 なが ら,最初の開発が は じ め られた。パ レンバ ンか ら5-6家族がや って きて, トウモ ロコシ, キ ャ ッサバ,水稲 な ど をつ くったのであ る。1940年代後半 にはマ ン ダの人たちが,ブカワン川ぞいに入 って,か ってパ レンバ ンの入植者が行 な った ことを真 似 た。1950年 に な る と, バ ン ジ ャー ル(
Ba
I
由r
)
の数家族が入植 し, ココヤ シと水稲 をつ くった。バ ンジ ャールの水稲作 はマ ンダ のそれ よ り, はるかに上手 だった。 内陸 に多 くの人間が入植 しだすのは1955年 か らであ る。 この時, クアラエ ノ ック, プラ ウキジ ャンな ど, リアウ州南部のブキス地区 か ら大勢 のブギスが入植 して きた。一部 は南 ス ラ ウェ シか ら直接 や って きた もの もあ っ た。彼 らは もっぱ らココヤ シを栽培 した。か くして,内陸 には広大 なココヤ シ園が開かれ ることになった。 1960年 ごろか らは,パ ガ ン漁業 もかわって ゆ く。 この ころになる と,動力船が ようや く 一般 的になって きた。 こうなる と,人々はパ ガンを放棄 しは じめた。苛酷極 ま りないパ ガ ンの上の生活 よ り,岸 に近 く家 をたててそ こ に住 み, トゴ- は動力船でか よってエ ビと り をす るほ うが, よっぽ ど楽 だか らである。 ま たた くうちに,桟橋 はムハマデ イの家 (d)か ら南 に延 ば され,それぞいに家がたち並 びは じめた。 1970年 ごろ,福建人区 (h)がで きた。 やが て しば ら くす る と, オランラウ トの舟離 れ も 著 しくな った。1980年 ごろか ら, ムラユ 区の 桟橋 は また一段 と南 に延 ば され,そ こにオラ ンラウ ト区が誕生 した。 以上が ブカワンの歴 史のあ らま しである。 ⅠⅠ-3 ブカワ ンルアールの伝統 的漁法 福 建 漁 民 が や って くる まで の ブ カ ワ ンル アールには, いろいろな漁法があ った。中で もム ラユ の トゴ とオ ラ ンラ ウ トの ブ ラ ッ ト (belat)は, この地 を代 表 す る中心 的 な漁法 であ った。以下,村 の老人たちの説明 を もと にそれ らの漁法 を羅列 してみ る。 トゴはその概要 をすで にカイラマ ンダの と ころで も述べ た。要す るに,吹流 し状 の ネ ッ トである。 図8
にその ようすが示 してあ る。 入 口は1
辺1
-1
.
5
ドゥパ (1
.
7
-
2.
6m)
の方形 で,長 さが4-5ドゥパあ る。入 口に近 い1ド ゥパ ぐらいは3/4イ ンチ ぐらいの 目の網 を用 い, それ よ りう しろは1
/
2
イ ンチの 目の もの になってい る。 全体 は尻すぼみにな り, メガ フ ォン状 を してい る。 そ して最後部 には, う ん と目の細 かい網が, その末端 を しぼって袋 状 に してある。 さて, これ を,干潮時の水深 が2
-
3m
の ところ に頑 丈 な柱 で定 置 して お東 南 ア ジ ア研 究 24巻3号 き,潮 にの って流れ こんで くるエ ビを待 ち受 けてつか まえる のであ る。 吹流 し状 の網の前 面 には,流入す るエ ビを導入す るための 細 い棒 の列が たて ら れ る。 この棒 の列 は ジ ャジ ャール Gajar)と呼 ばれ, これ には据 口2-3cm,3-4m長 さで, まっす ぐな ランカ ダイ