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子どもの意識における死の擬人化 上 薗

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(1)

子どもの意識における死の擬人化

上  薗 恒太郎

Personification of Death  in Child's Consciousness Kohtaro KAMIZONO

1 問題の設定 H 方法

皿 擬i人化

IV 擬i人化はみられない V 背景のための考察

VI結語

  註

1 問題の設定

 死に関する子どもの意識を明らかにしょうとする分野において,Maria Nagyが1948 年に発表したブダペストでの調査結果Dは,今日なお引用を続けられている2)。先駆的な 研究であったとともに,子どもの年齢に応じた死の意識の3つの発達段階の主張ゆえにで

ある。

 M.Nagyは3歳からユ0歳の子どもを対象に研究したが,調査対象数からして,中心は,

第2段階とされた5歳から9歳にあったといえよう。Nagyは,1)作文,2)描画,3)対 話,の3つの方法で378人の子どもから4853)の資料を得ている。したがって一人の子ども が複数の回答を寄せている場合があり,6歳で描画と対話の2つ,7歳以降3つの調査方 法で重なりがある。結果として得られた資料の年齢分布は,3歳が7,4歳が13,5歳が 16,6歳が34,7歳が104,8歳がl13,9歳が134,10歳が64である。 M. Nagyは調査 結果を,基本的に5歳未満,5歳から9歳,9歳を超える者,の3つに分ける。調査資料 数からすると,5歳から9歳の子どもに集中し,401名,83%を占める4)。

 この5歳から9歳,第2段階の特徴を,Nagyは,擬人化であるという5)。Nagyは第2 段階をdeath=a Manというタイトルのもとで,「第2段階において子どもは死を擬人 化する(personify)」というトピック・センテンスで始め,「死の擬人化は二つのやり方 で起こる。死は離別した人としてイメージされるか,もしくは死は死者と同一視される。

死が離別した人としてイメージされるとき,われわれは再び二つの概念を見いだす。

『(大きな草刈鎌を持って)刈り取る人』の考えが受け入れられているか,死という人に ついてのまったく個々の像が形づくられている」と述べる6)。

 E.K廿bler−Rossも,擬人化について一言述べる:5歳以後,死はしばしば擬人化され,

長崎大学教育学部教育学教室

(2)

死は人々を連れ去るためにやってくるBogey−man(おばけ)とみなされる7)。

 これに対してGerald P. Koocherは,擬人化はみられないという:一人の子もこの 研究(Koocherが1974年に発表した研究)において,死ぬときに何が起こるかを話し合

う際に擬人化(personification)タイプの反応をしなかった。この発見はおそらく文化的 相違の反映であるが,Nagyが対象とした子どもたちとは違った対処機制(コーピングメ

カニズム)を示唆しているのは確かである8)。

 Koocherが擬人化を否定した研究は1974年に発表されている。この研究は,アメリカ 合衆国midwestern university communityのさまざまな夏のリフレーションや補習プ ログラム(school enrichment programs)の参加者,6歳から15歳の子ども75人を対象 としている。年齢の幅広さからすると,対象数が少ないといえよう。

 擬i人化がみられるかどうか,子どもの死の考え方の基本にかかわる。はたして子どもた ちは,死を擬人化して考えているのだろうか。

1 方 法

 この論文では,子どもの死の意識における擬i人化(personification)について長崎での 調査をもとに検討する。死に関する子どもの意識調査を長崎で次のようにおこなった。

 1991年7月から9月に,長崎市内の3つの幼稚園と保育園および佐世保の保育所,長崎 市内,時津町,東彼杵郡の小学校および長崎市内の学童保育所で調査した。そのうちここ では当該の5歳から9歳の子どもについてとりあげる。調査対象は5歳児が139名,6歳 児が245名,7歳児が339名,8歳児が341名,9歳児が199名,合計1263名であった。

 調査方法は,5歳から8歳児の一部(139名)については調査者が質問票を持っての面 接聞き取り,8歳児202名と9歳児には質問票を配布して自分で書いてもらった。面接法 では1対1の聞き取りのほか,1対3程度の複数の子どもを相手にしての聞き取りもおこ なった。調査は,大学3・4年生・卒業生を中心としたチームを組んでおこない,調査者 には調査票記入上の注意のほかは,死の意識研究についての仮説のレクチャーなど,おこ なっていない。調査対象とした子どもたちは,長崎県内でいわゆる普通学級に通っており,

年齢は調査時点のものである。男女の構成比がどちらかに傾くことはなかった。また調査 対象は,地域差の可能性を考慮して,都市部,都市周辺の町,郡部でそれぞれおこなった。

 調査の基本となる質問は,<死ぬとは どんなことだと 思いますか? あなたが か んがえていることを おしえてください。〉であった。面接法では調査者が質問票を広げ て,子どもに口頭でこの質問をし,書きとっていく。したがって読める子どもは,質問項 目を読むこともできた。記述式の場合は,子どもは基本的に,調査者の指示によって各自 調査項目を読み,記入した。

 この論文では,子どもの意識において死の擬人化がおこなわれているかどうかを検討す るために,手順として,M. Nagyがブダペストの子どもたちのどのような発言から擬人 化の結論を引き出したかを整理し(皿),長崎の子どもたちに擬人化がみられるかどうか

を検討する(IV)。さらにその違いの背景について考察を試みる(V)。

 その作業の中心となるのは,次の点である。

ONagyの見いだしたイメージが,長崎の子どもたちにも見いだせるか否かの検討,

(3)

さらに

○死を擬人化している可能性のある個々の発言の分析。

 また考察の柱になるのは,

○アニミズムと死の擬人化

○死ぬという動詞において死者と結びつけて死を考えることと,死という名詞において死  の概念について考えること

○死を擬人化しての物語によって死の意味を語ること,寓意物語(アレゴリー)は子ども  世界の特徴なのか,

といった点である。

 personificationは,本論文では引用の場合を除いて,擬i人化とした。

皿 擬人化

 まず,M. Nagyの擬人化の主張について検討する。

 死の擬i人化とM.Nagyが見なした子どものイメージとNagyによる解説は次のよう

に抽出される9)。

○(6歳)雪のように白い。骨。骸骨の骨。 (Nagy)骨人

○(7歳)死者の王。白。骨でできている。

○(8歳)大きい草刈鎌をもってきて,人を切り倒し,連れていく。そのとき足跡を残し  ていく。 (Nagy)足跡を残しさえするほど人なのである。

○(9歳)死は骨。船をひつくり返せるほど強い。 (Nagy)おとぎ話のスタイルで死を  考えている。

○(9歳)死は危険。謹みたい。全部の部品が骸骨でできている。 (Nagy)死は夜出て  行くので見えない。ほかの子どもたちは死は悪意があると考えるのに,この子どもは善  意をもつと考える。

○(7歳)幽霊。見えない。骨だらけの。 (Nagy)死は人である。なぜ見えないのか彼  は語らない。

○(4歳)死は悪いことをする。死という人。 (Nagy)彼は死を人としてイメージして  いる。死という人を殺せば私たちは死なないだろうとは,子どもたちが繰り返し語る欲  求である。

○(6歳)白いコートを着て,死の顔をしている。人なんだけど眼が大きい。

 (Nagy)死は存在しており動いている人と同じである。大きな眼でそれとわかる。多  くの子どもたちが死という人を彼らなりに描く。

○(8歳)人みたいなもの。天国にいる。体は人みたい。考え方が違う。人は死を悪いと  考える。だけど死は人を天国に連れて行くときいいことをしょうとしているのだと考え  ている。

○(7歳)死は見えない,天使みたいに,霊だから。死は悪い人の骨だと思う。

○(7歳)死ぬ人は誰でも死の天使が連れて行く。死は天使の王。

○(7歳)幽霊。見えない。見えない誰か。見えない人。 (Nagy)死は見えない人であ  り,それは幽霊である。

○(8歳)死は生きていない人。死は霊みたいで,夜に出歩く。霊は,見えない人のこと。

(4)

 (Nagy)死が生きていないとは見えないことであり,死は夜出歩く。

○(9歳)死(he)は一種の霊。見えない。

○(9歳)死は霊で存在しない。空にいる。見えない。

 死の擬人化の第三の形は,死が死者と同一視されるときである。このグループはしたがっ て死についての語を死んだ人についての語の代わりに使う。ハンガリー語では二つの語は 根本的に違っており(halal−halottlo)),音声においても他の言語(Der Tot−tot,1a mort−mort, death−the dead)のように混同しようがないのだから,驚くべきことで

ある。

○(6歳)死は棺のなかにいる,いつでも。

○(7歳)死は話せないし,動くこともできない(Death can t speak, nor move)。

 (死は)死んだ人で,もう肉がなくて,骨だけ。

○(8歳)死は話せない(Death can t talk)。 (死は)死んだ人。・

○(9歳) (死は)魂。 (Nagy)死は再び死んだ人と同一視される。

 M.Nagyは,第二段階を次のように要約する11):発達の第2段階,一般的には5歳か ら9歳で,子どもたちは何らかの仕方で死を擬人化する。このグループに属する子どもた ちの3分の2は死を明らかに人格(personality)としてイメージする。彼らは宮人(skel−

eton−man)のリアリティを信じているか,個々にまったく独自の死という人(death−man)

の観念を創りだす。彼らは死という人は見えないという。これは二つのことを意味する。

死という人は,体のない人だから,それ自体見えないか,または隠れて,たいていは夜に,

行動するからわれわれの眼に止まらないだけである。子どもたちはまた,連れ去られる人 に一瞬死が見えることがあると述べる。死が否定されている第一段階と比較して,ここで はリアリティーの感覚が彼らの欲求に比べて増大していることに気づく。子どもはすでに 死の存在,つまりその最終性を受け入れている。他方で,死という考えを嫌悪しており,

それを退ける。死はわれわれのうちに起こる過程から,われわれの外側の現実になる。死 は存在する,しかしわれわれからは縁遠い。縁遠いのだから,われわれの死は避けられな いわけではない。死ぬのはただ死という人が捕まえ連れ去る人だけである。逃げ去ること のできる人は死なない。発達の第二段階にある子どもの3分の1がまた死を人と考え,死 を死者と同一視する。これらの子どもたちは死という言葉を死者の代わりに使う。この考 えにはまた死を遠くに置いておこうという欲求が明らかである。死はなおわれわれの外側 にあり,普遍的ではない。死の擬人化というテーマを扱った文献がいかに少ないか驚くほ どである,擬人化の傾向は子どもの発達の一定の段階で一般的によく知られているにもか

かわらず12)。

 M.Nagyが擬人化と判断したイメージをまとめてみると次のようになる。

①一1

①一2

大きい草刈鎌をもち,刈り取る人。

防人:骨でできた,白い,ないし見えない,人。

悪い,眼が大きいなどの,一定の特徴をもつ人。

死の天使,霊,幽霊。

②死と死者との同一視:棺のなかにいる,話せない,動けない。

これらが,長崎の子どもたちにおいても同様に見られるのだろうか。

(5)

】V 擬人化はみられない

ブダペストの子どもたちの死のイメージ

 ここではM,Nagyの整理した先のイメージを5つに分けて検討する。

①大きい草刈鎌をもつ人のような,死の,擬人化されて広がっているイメージ。

②骨揚。悪い人,眼が大きいなどの特徴をもつ人のような,個々の子どもが描くイメー

 ジ。

③死の天使のイメージ。

④霊,幽霊。

⑤死者との同一視。

草刈鎌

 結論から先に述べれば,①の大きい草刈鎌をもつ人のイメージ,またそれに相当する擬 人化された,広がった死のイメージはみられなかった。

②のような死についての具体的なイメージについて語った例をいろいろと見出すことは できなかった。それらしい発言があったとしても,イメージはブダペストにおけるよりも やせ細っている。(おばけと死が結び付いた例については後述。)

 死の話のなかで骨について述べる子どもは,長崎の子どものなかにもいる。何らかの形 で,骨について述べた子どもの数は次のようであった。

表1 調査対象化と骨について述べた者の数

年 齢 5歳

調査対象数  139人

6歳 245人

7歳 339人

8歳 341人

9歳 199人

計 1263人

〈死ぬとはどんなことだと思いますか?〉

骨について述べた者の数とパーセンテイジ(小数点以下4捨5入)

3  2%  6  2%  ユ5 4%  5  1%  3  2%  32  396

 表1からまず容易に読み取れるのは,骨が,Nagyの調査ほどには,大きな役割をもた ないということである。

 以下具体的に骨について語った子どもの発言を掲げ,内容を検討する。

○(5歳)骨だけになる。 (5歳)骨が残る。

○(6歳)骨だけになる。

○(6歳)骸骨になる。かわいそう。 (6歳)嫌なこと。骨だけになること。

○(6歳)骨になって,恐くなって,お化けになる。恐いし,悲しい。

○(6歳)生きれないこと。骸骨になってしまう。

(6)

○(6歳)戦争の時,骸骨になる。

 6歳児の第2例は,死に伴う感情と,死んでどうなるかを語っている。

 6歳児第3例は,死ぬと骨になり,お化けになるという意味に受け取れる。確かに死ん だ人について語っているが,死そのものが骨人であるとのイメージは読み取れない。

 6歳児第4例は,死とは生きられないことであり,死ぬと骸骨になってしまう,との意 味である。

 6歳児第5例では,死の原因とともに,結末が語られる。

○(7歳)骸骨が残る。 (7歳)わからない。焼かれて骨になる。 (7歳)骨になること。

 壺に入れられる。暗い。

○(7歳)恐いこと。骨になる。 (7歳)恐い。骨になる。 (7歳)恐い。骨になる。

○(7歳)悲しいこと。骨だけになる。亡霊になる。

○(7歳)体を燃やして骨になる。かわいそう。(7歳)体を燃やして骨になる。かわい  そう。く7歳)骨になる。嫌だ。生き返りたい。 (7歳)人間が箱に入れられて,火で  焼かれて,骨になること。

○(7歳)骸骨になる。天国で生きている。 (7歳)体がなくなって,骨になって,地獄  や天国にいく。地獄なら骨になって,天国になったら生きていける。

 7歳では,説明が6歳よりも詳しくなる。焼かれて骨になり,壺に入れられる,という 即事的な答であったり,天国地獄という死後世界についてであったりする。

○(8歳)骨になる。 (8歳)骨だけ残る。 (8歳)骨になったら,ぼろぼろになる。

○(8歳)骸骨になる。暗いし,さびしい。

○(9歳)人間が骨だけになること。 (9歳)骸骨になること。

 以上骨について述べた者のいずれも,Nagyが見いだしたような金人のイメージは持ち 合わせないと言っていい。死が骨と結び付いている場合でも,骨は死からまず想起される

ものであったり,死の結果を表すものである。子どもたちの表現は基本的に,死んで骨に なる,であり,死は骨という人である,ではない。長崎の子どもたちにとって,骨は死に よる変化の果てである。

 とはいえ,骨は他の部分に比べて,亡き人を表すのに特別の位置を与えられたもの(特 に頭蓋骨や,子どもの発言にはなかったが喉仏が)であることは否定できない。火葬の場 合に灰は拾わないが,骨の一部は壷に入れておごそかに持ち帰る。そうした大人の死への 対処のし方は,おそらく子どもにも反映しており,骨は死者を象徴しもする。しかし子ど もたちは,骨を,死についての何らかの寓意物語の象徴にしているわけではなかった。こ こでの骨は,いわば,事柄として乾いている面が強い。

悪い人

 悪い人というような言い方がなかったわけではない。しかしそれは,死の擬i人化ではな いo

O(7歳)悪いおじちゃんたちに連れていかれるとき,死ぬ。治らない病気も。

○(6歳)知らない人にだまされて知らないところに連れていかれて殺される。

現代の子どもにとって,死と人の結び付きば,誘拐という形ででも意識されている。死の

原因となる悪い人から子どもを守ろうと言い聞かせる親の姿を髪髭させる。ここでの悪い

(7)

人は,決して死の人格化された姿ではなく,現実の悪しき事件を引き起こす人間である。

死の天使

 死の天使のイメージは,子どもたちの発言には現れなかった。ただ,天使を思わせる発 現が2つあった。

○(5歳)ガンになって死ぬ。後ろに羽があって,お墓に行って参る。

後ろに羽があるというイメージは,天使と受け取ってよさそうであった。しかし,死が天 使として擬人化され,そこから死についての意味や寓意物語が展開されるわけではなかっ

た。

○(7歳)いいことをしたら天使の輪ができる。

輝かしい昇天のイメージとして,頭上を天使が舞うのであろうか。この天使は一定の死に 際して登場するとしても,死そのものの姿,ないし死の天使だということは難しい。

 内容としては幽霊や魂を含みながら,何らかの形で霊ないし霊に相当するものについて 語った者が,以下のような割合で存在した。

表2 霊について述べた者

      〈死ぬとはどんなことだと思いますか?〉

年齢5歳 6歳 7歳 8歳 9歳

霊について述べた者の数とパーセンテイジ(小数点以下4捨5入)

      N%N%N%N%N

      ↓  1%   5  2%  11 396  11  3%  

7

%  N  % 4%  35 3%

霊といっても,いくつかの型に分けることができる。型ごとに具体的な発言を見てみる。

〔霊,幽霊〕

○(5歳)死んだこと。お墓に埋められる。 (そして)幽霊になる。お父さん,お母さん  は泣く。llO番を呼ぶ。

幽霊は必ずしも死を代表した姿として擬i人化されていない。墓,父母の悲しみ,llO番ま で含めて死をめぐる要素の一つである。幽霊はきわめて現実的な認識とないまぜになって 存在している。この子どものなかで擬人化が死を支配しているとは言えそうになかった。

幽霊が具体的なイメージにまで作り上げられていることはないようであった。

○(6歳)幽霊になる。

○(7歳)幽霊になって天国にいく。

○(7歳)霊になって人に取り付く。

この子どもの場合,霊は人に取り付くのだが,それが必ずしも死をもたらすものではない。

次のような似た1例もあった。

(8)

○(8歳)殺されたり,弱って病気で死ぬ。年をとること。お墓をつくって天国に行って,

 幽霊になって,今までに憎んだ人を恨むこと。

○(8歳)命がなくなって,霊になって,天へ行くこと。

○(8歳)霊界に行くということ。

○(8歳)幽霊になること。

○(9歳)霊などが,地上をさまよっているかもしれない。普通はいなくなる。こわい。

○(9歳)霊界にいく。こわいこと。 (9歳)この世から離れて霊界にいく。

〔魂〕

○(6歳)魂がぬける。 (6歳)魂が消えること。

○(7歳)魂が出て生まれ変わる。 (7歳)魂が出てくる。埋められる。そして天国に行  く。 (7歳)自分の体はなくなるんだけど魂は生きている。 (7歳)魂だけ天国に行く。

○(8歳)魂がぬけてどこかで生きている。 (8歳)自分の魂がぬけていくから(死ぬ)。

○(9歳)自分の体から魂がぬける。 (9歳)自分の体がなくなって,魂があの世にいく  と思う。

 死に関する情報をテレビから得て,霊について語る者もあった:(9歳)テレビでみた けど,死ぬとは,自分の魂がどこか(天国か地獄)にいくという話。この子どもの場合 く死ぬとはどんなことだとおもいますか?〉に対する自身の答は,「命がなくなること」

であった。霊について知っていても,死について擬人化してはいない。

〔おばけ〕 2例見られた。

○(6歳)骨になって,こわくなって,おばけになる。こわい。かなしい。

おばけと,骨,死にまつわって生じる感情が思い付くままに並べられる。おばけは死を擬 人化した存在というより,死にまつわって生じる事柄の一つであるようだ。骨という現実 的な成行きと,非現実的な存在とが,どちらかに集約されることなく並べられている。

 おばけ,幽霊と死を結び付ける,次の例がみられた。

○(7歳)幽霊がきて食べられること,殺されること。

この子どもは,夢を見たらしい。夜おばけに殺される夢を見た,と語った後に死について この考えが述べられる。死に対する嫌悪感を強くもち,死んだ動物に対して,気持ち悪い,

と答え,動物が死ぬのと人が死ぬのとどちらがかわいそうですか,の質問にも,どちらも 気持ち悪い,と答えている。夢と嫌悪感と死の意識調査が結びついて展開されたイメージ かもしれない。この子どもの,幽霊,ないしおばけの表現に擬人化傾向を見て取ることが できるかも知れないが,それらの具体的イメージは語られなかった。

〔透き通る〕

 次のような例があった。イメージの背景など詳しくはわからない。

○(8歳)死ぬということは,すきとおって見えること。

擬人化なのか

 死と死者の同一視について,2年前の1989年に行った長崎での同じ調査で,擬人化と受

(9)

け取れる可能性をもつ発言があった。〈死ぬとはどんなことだと思いますか?〉の次の答

である。

○(7歳)地獄にやられた人がまた戻ってきて,その人に殺されたら嫌だと思う。

ここでは,死の擬入超された特定のイメージはみられないが,死と死者とが結び付いてい る。その死者は死と生の問を行き来でき,しかも死者は死をもたらす。

 この子どもは,別の関連で,「全部合格の人は天国に行ける。」と発言し,側にいた友 人に「天国の人には血が流れているのかな。」と尋ねられて,「(天国で)刺されたりし た人は少ししか流れないかも知れない。」と答えており,先の答は,その後になされたも のである。合格の人一天国一刺される一血は少ししか流れないかも,の文脈の裏に,不合 格の人一地獄一刺される一大量出血,のつながりが予想される。このつながりから,死と 死者とが分けられていないことによって,地獄にいった死者一刺される一嫌なこと,の連 想を推察することもできる。

 死と死者が結びついていることを擬人化とするなら,この子どもの発言も擬人化の範疇 に入ることになろう。Nagyは,明確なとはいわないが,擬人化に含める。ただ,死を語 るに死者について語ることをもってすることが,アニミズムによるこの年齢段階の特徴と いえるかどうかはさらに考える必要があると思う。

 さしあたっての7歳児の場合,死の擬人化が明確だといえるのだろうか。どうも,そう は解せない。一つは先に示した連想によって当の発言が生じた可能性がある。もうひとつ は,同じ子どもが,1991年に次のように答えていることによる。

○(9歳)わかんない。いやだ。天国はいいけど,地獄はいやだ。はじめはいいけど,先 にいったら,こわくなる。勉強しなかったら,勉強地獄に行く。

この子どもにとって, (7歳)不合格一地獄, (9歳)勉強しない一地獄,の結び付きば 続いている。死後の世界が存在し,否定的な生によって地獄へ赴くことになる。さらに,

死を経てなお死んだ人は存在する。というのは,この子は,<死んだ人はどこかで生きて いると思いますか?〉に対して,7歳の時も9歳の時も,はい,と答えている。〈どこで 生きていると思う?〉の問いに対して,7歳では天国,天国についての話題のなかから地 獄も登場する形をとったのだが,9歳では天国,霊界,地獄,と答えている。つまり,死 者は死んでなお生者とは別の世界に存在し続ける。しかしその存在は,死後の存在であっ て,死そのものでは必ずしもないのではないか。人について,生きている状態と,死んだ 状態とがあるという区別のしかたからは,死を擬人化しているとは判断しにくい。この子

どもは,人の生命と死の原因についての認識はもっているといえる。7歳の時に,大人は いっか死ぬと思う,年寄りになったら死ぬ,また自分はいっか死ぬと思う,病気になった ら,と答え,9歳位時,大人はいっか死ぬと思う,年をとり,病気で,事故で,また自分 はいっか死ぬと思う,年をとり,病気で,事故で,と答えているから。生命あるものと生 命のないものとの敷居は,9歳の時が画然としている。7歳の時は,木についてだけは死 なないと思うと答えている。9歳になると,木について,何十年も生きると言いながら,

判断としては死ぬ,と答える。あるいは,9歳になっての死と生の敷居の高さゆえに,7 歳の時のように死者を生者の世界に行かせる発言をしなかったのかも知れない。

 死が人と結びつけられることにより,その人と,生者の同様な行為とが結びづけられる

ことは起こるだろう。その際その人が生者と同じ行動をとることが,死の擬人化によるの

(10)

か,別の関連による連想の展開なのか注意する必要がある。それゆえNagyも,擬人化 された死という人と生者とを区別する特徴(夜行性,眼など)に注目したのだろう。この 子どもの7歳の時の発言を,死の擬人化の証明とすることは難しい。

V 背景のための考察

死と死者の同一視と死を語るやり方

 死者について思いを致しながら死について話すことは,死について語るやり方の一つで あろう。死と死者との同一視を,死者について語ることによって死について語る方法だと 考えれば,死の擬人化を子どもの特徴とする文献が少ないことをNagyほどに驚くこと

もない。

1)死:死者がどうなるか

 子どもとの自由な対話において死が,死という名詞について語られるのではなく,死ぬ という動詞のかたちで,何かが死ぬという体験を材料に語られることをもって,5歳から 9歳の特徴として,擬i人化の証拠とするのは難しいのではないか。Nagyのなかでは,ア ニミズムと死の擬人化とが当然に結び付いているように見受ける。子どもがアニミズムの 傾向をもつことと,死を人として一定の姿で表象することとの問は,直接に結び付くとい

うよりも,後述するような要因に媒介されているのではないか。

2)日本人にとっての死:死者に密着した思考

 日本人は死について,死体を重要なものとして考えているという。日本においては死体 を眼前にしてはじめて死を確認し,死体の処置を含む儀礼が関係者の参加によって行われ てはじめて弔いが終わる,という考えが強く,死体が独自の要求をもち,それは権利とし て尊重されるべきだと考えられているという13)。日本では,死は死体に,より多く密着し ているといえそうである。そうであるならば,子どもが死について考えを述べるとき死ん だ人について語るとしても,日本においては,子どもの特徴としては目だたないという事 情が考えられる。実際調査に参加したメンバーから,死んだ人について話すことを子ども の特異性とする感想はなかった。

 日本人は死体に密着した形で死について考える傾向があるとすれば,子どもたちもブダ ペストでの調査以上に,死と死者を同一視するがゆえに死を擬人化していいはずだともい えよう。しかし,Nagyが確認したような擬人化は長崎での調査ではみられなかった。

 死を人として何らかのイメージにおいて捉えているということと,死を語るに死者につ いて語るをもってすることとは,区別したほうがいい。死の擬人化といえるのは,厳密に は死を何らかの人としてのイメージで語る場合であろう。

3)死を考えるに死者について考える

 死を語るに死者について語る大学生,短期大学生は数多い。また,死について論ずる旨

のタイトルをつけた出版物でも,中は,著作者が死者にかかわった体験を語っているもの

が少なからずある。死者なくして死はない,ともいえよう。特に子どもにおいては,死に

ついて語るに死者について語るをもってすることと,死と死者の擬人化としての同一視と

は区別が難しい。死者について物語ることが,死の擬人化によるアレゴリーに相応するの

かもしれないと仮定してみても,しかし両者の間にはずれがある。

(11)

アニミズムと擬人化

M.Nagyが「擬人化の傾向は子どもの発達の一定の段階で一般的によく知られている にもかかわらず,死の擬人化というテーマを扱った文献がいかに少ないか驚くほどであ る」14)と述べるとき,Nagyにとっては,子どものアニミズムと擬i人化が直接に結び付い ていたのだろう。確かにアニミズムは発達の一定の段階で知られている,しかしそれは直 ちに死の擬人化を生じさせるものではない。

 次の長崎の子どもは,アニミズムのなかで思考している。しかし,死については擬人化 していない。

○(5歳)人間とおばけは,おばけが強い。おばけは生きている。おばけ屋敷にいる。風 も生きている。鬼が袋にいれてふく。

おばけについて語るけれども,この子どもは,死がおばけだとは言わない。<死ぬとはど んなことだと思いますか?〉の質問に対しては次のように答える。

○車にひかれて(死ぬ)。お墓にいく。なんまいだ一(と言う)。

 宮本一史ら,東京都立教育研究所相談部による調査 5)によれば,アニミズムは高い率で みられる。

<下のえのように,みんながボールけりをしてあそんでいます。このボールは,みんなに けられて「いたいなあ」とおもっているでしょうか,おもっていないでしょうか。〉(絵 略)との問いに対して,

幼稚園児の85.4%,小学校1年生の78.4%,2年生の80.9%,3年生の47.2%が,「いたい なあ」と思っている,と答えている。

また,<下のえのように,にもつをつんだトラックが,さかみちをのぼっています。この トラックは,「おもいなあ」とおもっているでしょうか,おもっていないでしょうか。〉

(絵略)に対して,

幼稚園児の79.3%,小学校1年生の81.9%,2年生の88.2%,3年生の52.8%が,「おもい なあ」と思っている,と答えている。

 小学校2年生までの約8割,3年生の約半分が,アニミズムの傾向を示しており,その アニミズムが死の擬人化に直接つながるのだと考えると,Nagyの言う,「一般的には5歳 から9歳で,子どもたちは何らかのやり方で死を擬人化する。このグループに属する子ど もたちの3分の2は死を明らかに人格としてイメージする」1のは,首肯しうる。3分の2 は概略において首肯しうる数字ではある。

 しかしKoocherは,先に引用したように,一人の子も彼の研究において擬人化の反応

をしなかったと言う。そしてこの結果について二つの点を示唆している:1)文化的相違

の反映,また,2)Nagyが対象とした子どもたちとは違った対処機制(コーピングメカ

ニズム)が確かであろう,と。Koocherは人格化の代わりに用いられたアメリカの子ど

もたちの対処機制を次のように推察する:子どもたちの大部分は,何が起こるかの具体的

ないしステレオタイプ化された記述,葬式の詳細にわたる記述ないし墓のなかでの 腐敗

消失 の記述といったことに焦点をあてて,死について述べていく。……おそらくアメリ

カの子どもたちは,死を卓越する,したがって死を 支配する 手段として,擬人化より

も,(死の)細部の固有性を使う方により傾いているのだろう。それはつまり,  もし私

が死んだとき何が起こるのかを知っていれば,いまそれについて思い煩うことはない と

(12)

いうことであろう17)。

 1)についてKoocherは特にそれ以上述べていない。じつはこの点は,文化史的な違 いとして後述するが,大きな要素ではないかと思われる。2)については,死を現実的な ものとして理解するようになる年齢との関わりを考えるべきだと思うが,本稿では論じな い。指摘しておきたいのは,子どもたちの対処機制に,大人による子どもの死への対処法 の反映を感じるということである。その例として,死の原因として知らない人や悪いおじ ちゃんを挙げる前掲の子どもたちの他,次の例を挙げておく。

○(5歳)殺されたり,病気したり,道路で殺されたり。

○(9歳)死んだら生き返らないから,交通安全というものがある。

 死の擬人化がみられない要因について,もう少し論じておきたい。      

言葉の違い

 この調査で使われた言語,日本語の場合,死とは,の名詞の形で質問することはしなかっ た。ロ頭で質問するには,同音異義語が多いために,必ず説明を要する。説明による誘導 を避けて,動詞の形の方が効果的に質問の意味を伝達できる。また,名詞形の概念をぶつ けるよりも,動詞の方が,柔らかく質問を切り出し,受け入れてもらいやすい。それらは 日本語の特性でもあり,また日本的な問いの出し方でもあろう。子どもたちの場合は,死 とは…と概念を尋ねても,死ぬとはどんなことだと思いますか,と聞いても結果は変わら なかったであろう。調査において子どもたちは名詞で尋ねられたか,動詞で尋ねられたか によって答を変えないことは,経験的に確認されると判断した。どちらで尋ねられても,

自分の考えていることを話すと思われた。

 死の擬人化(personification)を,死という概念を擬i人化する,と考えると,子どもの 思考からはずれる。死という抽象概念の獲得は,死ぬということの一定の理解の後に可能 であろう。具体的に存在するのは,死んだ人なり死んだ何かである。死んだ何かを語るこ とによって死を語る方法は,死の概念を獲得する過程にある思考において本質的だといえ るのではないか。その意味では,死という名詞形の概念があるのにそれを死んだ人として 使うことを特異に感じるのは,概念で思考する大人にとっての陥穽であろう。子どもは概 念を擬人化したのではなく,死んだ何かに依って死について考えるという事情にあるとい えよう。この点は,halalとhalottの差を明確に意識する大人Nagyと長崎の子ども たちの差であるばかりではなく,日本とハンガリーの文化的差をも含んでいるように思う。

文化史的な違い

 さらに,文化史的な時代の差を考えてみるべきだと思う。Carla Gottliebは近代絵画 と死について次の点を指摘する:

1)旧約聖書は死を,神から送られた天使として語り,新約聖書は,青ざめた馬に乗る騎 手として語る。……多くの墓が死の天使の装飾をほどこされているし,……後期ゴシック 時代は,新しくて非常に感動的な死の肖像,つまり死体をつけ加えた。……それは,50年 のうちに,肉が朽ち果てた骸骨へと展開した。……近代絵画は,人格化された死の描写に 対しては何の貢献もしなかった。……伝統的な死のシンボルをいくつかあげてみれば,

Chronos(時間)の神から借りた草刈鎌……頭蓋骨や骨も…明らかに死を意味するもので

(13)

ある18)。

 Ph. Ari6sも死の象徴として骸骨,どくろ,鎌などをあげる:昔の古い棺型の箱は,清 教徒の間でもカトリックの間でも,骸骨,どくろ,鎌,砂時計,墓掘り人夫のシャベルか

らなる,伝統的な死骸趣味風モチーフの用具類の一つだった19)。死を思うべくメメント モリの象徴として,骸骨や大きい草刈鎌は意味をもっていた。

2)中性末期は,死のイメージの創造がとりわけ盛んな時代であった。ところが驚くべき ことに,多くの近代絵画においては,19世紀末に活躍したある芸術家たちを除けば,死に ついての想像は大きな役割を演じてない。……近代絵画は,この重要な死のイメージを排 除する。……14世紀と15世紀がその恐怖の対象を形象化することによってそれから解放さ れようとしたのに対して,われわれの時代は,葬り去ることによって強迫的思考からのが れようと闘っているようにみえる。……近代の芸術家は,彼らにとってアレゴリーの精神 が縁遠いため,死を人格化することによって示そうとしない20)。

 クールベが初めて英雄や王侯貴族ではない平民である祖父の埋葬場面を絵に描いたとき

(1849年から1850年差,死を描くことにおいて「平等の概念」21)が適用されたのと同時期,

19世紀に,共同墓地に匿名で埋葬されることなく,「お墓は家族ごとの,あるいは個人別 なものに,なり始めていた」%)し,マネが1870年に「葬列」を描いたとき,葬式は「単な るスペクタクル」であり, 「死には,情緒と劇性が欠け,完全に非人格化」されてしまっ たという。

 死に関する寓意物語や象徴を伝達する場が社会のなかで失われてきているという事情も あろう。G. Gorerは1963年のイギリスにおける調査から次のようにいう:大部分の人々 は,現在,看護iの付添人を別にすれば,一人きりで死ぬようである。遺族のうちで,親族 が死んだ時にその場に居合わせたのは,四分の一以下であり,……子供では,四分の一が 親の死に立ち会っていた。しかし兄弟姉妹は,僅かの例外があるものの,死に立ち会って いなかった。子供はほぼ全員,病院で一人きりで死ぬ。上層中流階級や専門職階級では,

遺族が死に立ち会うのは稀である(八人に一人以下)23)。Ph. Ari色sもいう:今日ほとん どすべての西欧諸国では,遺族はおおやけの席で決して悲嘆を露わに.してはならないこと

、がきまりなのだ。……今日,フランスでは,ここ10年も経たぬ前(1970年頃)から,お勤 めの終わりにできた遺族へのお悔みの行列は廃止されている勿)。現代日本では,遺族が死 に立ち会うことを求める社会的要求は強い。しかし,野辺の送りは,車を並べての通行に 変わってしまった。子どもは,往々にして死の場面から遠ざけられ,往々にして死に関す る説明から遠ざけられている。死についてゆっくり話したり,子どもに対して説明するよ うな場が失われてきている,ここではこの指摘にとどめる。

 ブダペストの子どもたちの死のイメージの豊かさと具体性,大きい草刈鎌をもつ人,骨 でできた人などが,こうした文化史的背景に支えられているとすれば,長崎の子どもたち に同様のイメージがないのは当然であろう。合衆国や長崎の子どもたちが死のアレゴリー から縁遠く,死の擬人化されたイメージから遠いのも,時代の心性を反映していると考え ていいだろう。子どもにアニミズムはあっても,それを死の擬人化として明瞭に表現する 手段,アレゴリーや具体的イメージが失われてきたのであろう。骨について口にする点で

は同じであっても,日本の子どもたちに擬i人化された意味や情緒を同様に認めることはで

きなかったのは,死を思う象徴としての骨の意味に接することがほとんどないからでもあ

(14)

ろう。

VI結 語

 特に5歳から9歳の子どもの意識において死の擬人化が明瞭な特徴であるとの主張は,

M.Nagyらによってなされ,引用され続けているが,長崎で1263名を調査した結果,死 の明確な擬人化は見られなかった。死について語る場合に死者について語る思考はみられ るが,それは子どもの特徴としてのアニミズムによって死の擬i人化がもたらされた結果と は言い難い。アニミズムによって,死が擬人化された表現形態をとるためには,表現の素 材を必要とする。しかし現代社会は,子どもの周囲にまで広がった死を象徴する具体的イ メージをもたない。

註)

1)Maria Nagy;7んθcん嗣 8孟んεor θs coπcθ而πg dθαオん, in 77んθPθ4αgo9 cαZ Sθη τ 一   παrツα記Joμrηα♂(ゾGθπθ古 c PSッCんoZO9ッ,σん嗣Bθんαび or,加伽αZ Bθんαび or,侃d

  σompαrα伽θPsッ。んoZo8:y, September l948, volume 73, first half pp.3〜27.以下

  M.Nagyについての記述はこの論文による。

2)例えば,石川弘義;死の社会心理,金子書房,1990,60〜62頁,また,西村昂三;小児と死の   世界,アルフォンス・デーケン,メヂカルフレンド社編集部編,〈叢書〉死への準備教育第3   巻死を考える,メヂカルフレンド社,平成元年,218〜219頁。さらに,大山正博;死にゆく   過程  死への準備教育のために,前掲叢書第2巻,13頁。

3)調査対象となった資料の総数を,M. Nagy自身は本文および表の総数欄で484と記している   が,年齢別の資料総数を合計しても,各調査方法による資料総数を合計しても,485になる。

  484は誤りであろう。

4)M.Nagy;op. cit., table l,1948, p.7 5) ibid. p.16

6) ibid. p.16

7)Elisabeth KUbler−Ross;0πDθα孟んαπd D:y加g, New York, Macmillan,1964, p.179

  川口正吉訳;死ぬ瞬間 死にゆく人々との対話,読売新聞社,昭和59年,では222頁。

8)Gerald P. Koocher;7αZ勉ηgω記ん0ん Zdlreη,αわ。碗Dθαオん, in S.α W Zcoκαπdl

  M.S臨0π;σπ4θr8伽4 ηg Dθα孟んαπ4 Dツ η9,侃謡ε翻8⑳伽αrツαpproαCん,

  PαZo/1髭。, 1985, P. 267 9) ibid. pp.16〜25

!0)この部分のハンガリー語表記については,ハーマン・ファイフェル編,大原健士郎,勝俣古史,

  本問修訳;死の意味するもの,岩崎学術出版社,1973,96頁による。

ll)M. Nagy,1948,0p. cit. p.25

12)次の文をもってNagyは第二段階の要約を終わる:E. Sternだけが!0歳児についてその点   に言及しているが広範な意義を見て取らず,またその諸動機についても扱わなかった。

13)波平恵美子は次のように述べる:「日本人が遺体について次のような観念をもっていることが

  推察できる。……死者自身にとっても遺族にとっても死体が重要な存在であり,死体の処置を

  含む儀礼が行なわれなければ,死者の魂を弔うことができない……。……死体はそれなりの希

(15)

  望や欲求をもっており,遺族にそれをかなえてくれるよう要求することができるし,その権利   がある……。」 「……日本人の死生観や遺体観あるいは残された遺族の亡くなった人への思   いは次のように整理することができるだろう。……遺族にとって遺体が確認されない限りは,

  死は起こったことにならない……」。(脳死・臓器移植・がん告知,死と医療の人類学,福武   書店,1990,22〜24,37〜38頁)

14)M.Nagy;op. cit.,1948, p.25

15)東京都立教育研究所相談部;昭和55〜56年度 子どもの「生と死」に関する意識の研究 資料   調査の結果。調査対象は東京都下の5歳幼稚園児82名,小学校1年生88名,2年生68名,3年   生89名である。引用は2頁からのもの。

16)M.Nagy;op. cit.1948, p.25

17)G.P. Koocher;op. cit.1985, pp.267〜268. Koocherは,文化的相違の反映の内容に   ついてはそれ以上特に説明していない。

18)Carla Gottlieb;近代絵画と死, inハーマン ファイフェル編;ibid.160〜161頁 19)フィリップ アリエス,成瀬駒男訳;死を前にした人間,みすず書房,1990,537頁 20)C.Gottlieb;ibid. pp.158〜159,最後の一文は189頁。

21)C,Gottlieb;ibid. p.176.マネについてはp.178。

22)福井憲彦;死の鏡に映る生,変わるか死生観「脳死臨調」答申に思う5,朝日新聞,1992.

  2.4朝刊

23)G.ゴーラー,宇都宮輝夫訳;死と悲しみの社会学,ヨルダン社,1987,38頁 24)アリエス;ibid.519頁

(1992年2月29日 受理)

参照

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