我国人口の老令化研究序説
塚
原
仁
最近厚生省が発表した昭和三十九年簡易生命表によると︑日本人の平均寿命は男六七・七才︑女七二・九才であ
った︒平均寿命は順調に年々伸びを示しており︑恐らく十年後には長寿国のトップグループに入ると言われてい
る口長寿は人類の悲顕であり︑これが達成さることは誠に慶賀すべきことである︒人口老令化の意味するところは
必ずしも平均寿命の伸びそのものではないとしても︑人間が死に対して強くなったことが︑その内容を為すもので
ある︒我国の第一回の生命表(明治二十四年
l
コ二
年︑
一八九一ーー一八九八年)によると︑男は四二・八才︑女は
四四・一ニ才であった︒従って男に在っては五八・一%︑女に在っては六四・五%︑即ち男は二四・九才︑女は二八
‑六才だけ寿命が伸びている︒驚異的改善と称すべきものであるが︑第一回の生命表については︑
その
信組
脳性
が可
成り疑問視され︑当時の寿命はもっと低かったと考えられ︑松浦氏の改作生命表によると︑男は三五・二九才︑
女は三六・八六才であるから︑男は三二・四八才︑女は三六・
O
一 才 ︑
従って男は九一・二%︑女は一
O
一・九%と︑殆ど寿命が倍に伸びていることになる︒
ω
こうした驚異的な平均寿命の伸びからも予想さる︑我国人口の老令化が︑いよいよ強化の傾向を示していることから︑老人の就業︑保健︑生活保障︑家族関係︑その他の複雑な老人
福祉に関する多くの問題を生起せしむるに至った︒
人口老令化は老人を対象とした問題である︒問題の処在を明かにする前に︑老人の意味を明かにして置く必要が
ある︒云う迄もなく︑老人は年寄りであり︑高令者︑老令者︑老年者の謂である︒では年を取った人とか︑老いた
一一 九
生命表の研究、
1 2 9
頁 (1) 水島治夫一二
O
人と称する場合︑どの位年を取ったものか︑何才から老いたと云うのかとなると︑之はそう簡単に線を引いて決め
ることは出来ない︒出生時から自然に時間が積み重なって年を取ってゆく訳であるから︑いつ老人になるという訳
のものではない︒われわれが老人という言葉を聞くとき︑我々のイメージに浮ぶものは︑顔にしわがあるとか︑髪
が白
いと
か︑
腰がまがっているとか︑老人を特徴︒つける肉体的外貌を有するもの︑更に目や耳が遠いとか足が弱っ
ているとか︑頭が呆けているいうような生理的機能の衰えを有する人々であるが︑十又は四十にして既に禿頭或
は白髪のものもいるし︑又七十︑八十にして漆黒の豊かな髪をもつものもいるし︑又四十︑五十で老人性痴呆の人
聞も少くないし︑七十︑八十の老人にして政治をリードし︑優れた芸術作品を残す人も少くない︒かようにして人
聞の老佑・老衰現象は個人的に大きな差があって︑老人とそうでないものとの境界を明白に引くことは出来ない︒
従って老人とは何年以上年をとったものというように︑一定年令を以て区別することは︑甚だ乱暴なことにある
が︑全体的又は平均的に見る場合︑一定年令以上のものに︑前に述べたような肉体的︑精神的な︑外観又は機能に
於て老化又は老衰現象が現わる﹀のが普通である︒そこで便宜的︑常識的な線が引かれること﹀なる︒
実際人聞をその年令によって︑人聞が経過すべきいくつかの段階に区別せんとする誌みは︑洋の東西を問わず︑
古今の哲人によって為されたところである︒礼記曲礼上篇に︑﹁人世十年を幼と臼ふ︒学ぷ︒二十を弱と日ふ︒冠
す︒三十を荘と日ふ︒室あり︒四十を強と日ふ︒而して仕ふ︒五十を文と日ふ︒官政に服す︒六十を雪と日ふ︒指
使す︒七十を老と日ふ︒伝ふ︒八十︑九十を老と日ふ︒﹂とある︒従って老というのは七十からのようである︒平家
物語
に︑
﹁・
:今
年六
十四
に成
給ひ
ける
口:
::
︒老
死に
非ぎ
れど
も宿
運忽
に尽
させ
て:
::
︒﹂
とあ
るが
︑
平清盛は六十
四才で死亡したが︑平家物語りの作者は︑﹁老死に非ぎれども:::﹂と云っているところを見ると︑清盛を老者と
は考えず︑七十才以上が老人だとの礼記の一言葉に従っている︑併し七十才以上にならねば老とはいわぬという乙と
は︑如何に寿命が延びた今日でも一寸賛成者はないと思うが︑人間の老化現象はそれよりももっと早く現わる﹀乙
とは︑前記の礼記によっても明らかである︒即ち五十を文︑六十を奮と呼んでいるが︑交はもぐきであり︑受年は
頭髪が交の如く白くなるという意味があり︑又奮はとしよりの意味である︒従って交も者今日の言葉では︑年より
であり︑老年のことである︒これから云えば所謂老年は五十才以上ということになる︒我国では老人を指して﹁お
きな
﹂と
か︑
﹁おうな﹂というが︑松尾芭蕉の残年は五十一才であったが在中既に︑﹁おきな﹂と呼ばれていた︒
徒然
草に
は︑
﹁命
長け
れば
恥多
し︑
めやすかるべけれ︒﹂と書いてある長くとも四十ならんほどにて死なんこそ︑
が︑これは四十才を限界として︑それ以上は老衰して︑人々より侮らることを悲しんでのことである︒この段では
兼好
は老
とい
う一
一一
一口
葉を
使っ
ては
いな
いが
︑別
の段
(一
二二
段)
で︑
﹁四
十に
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りぬ
る人
の:
::
﹂の
中に
︑
﹁お
ほ
かた聞きにく旨︑﹁老人の﹂云々と云っているところを見ると︑四十才以上のものに老みぐるしきこと﹂として︑
年者の姿を見ていることは確かである︒初老というのは四十の異名であるから︑四十才を過ぎたものを老人と云う
我悶人口の老令化研究序説
乙ともあり得る訳であるが︑今日われわれが問題としている老人を四十才以上とする例は殆んどない︒勿論我々は
四十才位より老の至ることに対する淋しさ︑或は悲哀は︑数多くの文学作品に之を見ることが出来るが︑われわれ
の問題としているのはそんな個人的感情や個人ではなく︑集団としての老人である︒否人口の老令化が問題となる
その老人が絶体的にも︑相対的にも増加した為である︒肉体的︑
的に衰えた︑働けないもの︑働くとしても低能率又は非能率である老人が問題である︒ 精神的又は機能のは単なる老人の問題ではなく︑
かく考えると四十才以上を
老とする乙とは︑あり得ない︒若し暦年令を以て老年の境界線を引くとすれば五十才以上︑普通は六十才︑六十五
一一
一一 一
才を以て老人とするのが妥当のようである︒
我国の現行民法ではなくなったが︑旧民法では隠居制度が認められていた︒隠居は法律上戸主が生前その一戸主権
(家長権)とそれに伴う財産を相続人に譲ることであって︑その動機は必ずしも老令だけが原因ではないが︑木来
年老いてもその任に不堪ということで︑公的生活から身を退くことから起ったものであるが︑旧民法(七五一条)
によると六十年以上なることを以て︑隠居の原則的条件とした︒(但し女戸主に在っては年令に拘わらず隠居が認
められた︒七五五条︒)之によって判るように︑我国では法律的には六十才以上を以て老人と認め︑そこで始めて戸
主としての公的責務から解放され︑家督を子供に諮って悠々と自らの残された人生を送ることが許されたという訳
である︒尚隠居年令を六十才に定めたのは︑我国民の老衰事に耐え得ない平均年令を考慮し︑且我国では民間に於
ける習俗に於て︑六十才を還暦と称し︑人生の一転機と考えられていたのに︑よったものと思われる︒老年の線を
六十才のところに引いたものは︑今日の法律にもある︒例えば生活保護法にいう養老施設への入所は︑六十才以上
を原則としており︑厚生年金の老令年金は六十才から︑支給が始まる︒(厚生年金法四十二条)併し最近出来た国
民年金法では老令国民年金を六十五才︑老令福祉年金を七十才から支給することを定めている︒老人福祉法に於て
老人としてその福祉措置の対象者は六十五才としている︒但し六十五才未満であっても老衰が著しいか︑そのもの
︑福祉の為に特に必要ある場合には︑この法による保護が与えられる︒(同法一一条)所得税法上に於ても老年者
とは六十五才以上
ω
ものをいうとしている︒以上のように我国の法律では老年者を六十才以上又は六十五才以上として︑一定していない︒停年制はもともと
一定年令に到達したものが︑当然にその職を退くことを余儀なくさる︑もので︑老朽淘汰︑新進抜擢に貢献する人
事の刷新を目的とするものであって︑必ずしも老年者と直接結びつくものではないが︑その大部分は官公庁又は事
業会社に於ける職員の新陳代謝を目的とするものであって︑所謂老年者を主要対象とするものであるが︑その年令
については様々である︒法律で定年が明白に規定されているものは︑裁判官及び検察官である︒即ち最高裁判所の
裁判官は七十才︑簡易裁判所裁判官七十才︑その他の裁判官は六十五才︑検事総長は六十五才︑その他の検察官は六十
三才である︒尚国立大学の教授の停年は大学管理機関が定める乙とになっているが︑実際には六十i六十五才となっ
ている二般官公吏には停年制は規定されてないが︑勧奨退職の形で︑五十五才以上のものに対して行われている︒
民間に於ける停年制について︑最近労働省が調査結果を発表しているが︑之によると一律停年制︑即ち常用労働
者全部について惇年制が定められている場合には︑五十五才が圧倒的に多く︑これが七八・O%を占め︑五十五才
以外では︑五千人以上の大企業では五十六才(一一%)及び五十七才(九%)となっており︑六十才は僅か三%︑
また三
01
九九人の企業では六十才(一九%)が多い︒男女別定年制に於ける男子の停年年令は︑一律停年制と同
じだが︑女子の場合は五十才が最も多く︑三十五才以下の低い停年年令を決めた例もある︒これが定年制の現状で
あるが︑最近に於ける死亡低減に基く寿命延長傾向に鑑み︑停年の延長が採り上げられ︑停年の改訂を行った企業
は昭和三十年以降一
oi
三十労で︑大規模のもの程改定率が高く︑
特に昭和三十五年以降改定する企業がふえて
いる︒改J疋内容は五十五才を五十六才とするものが最も多く︑大規模では︑これ以外に五十七才︑又小規模では五
十五才か︑六十才への延長が多い︒
尚外国に於ける国民年金支給年令や定年制について見る凡そ六十又は六十五才が大部分を占めている口次に定年
制に於ける各国の定年年令を示せば次の通りである︒
一一
一
一
一 一;~.~-
.}<守川における公的老令年金受給IJIJ始年令7 0 6 7
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表主要国における公務只の定年年令国 年 才
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リ カ (1)7 0
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( 2 ) 6 5
才西 ド イ ツ (3)
6 5
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( 4 ) 6 0
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才二四
(労働省,定年制調査結果概要)
ム V
年始開給受金年の 年 ) 吏 刊 官 官 続
員本の員勤務(州務は公員ぴ公く般務よ家し一公お国も邦家邦般才連国連一白
12345 注
以上形式的に何才以上を老人とするか︑その限界について見たのであるが︑五う迄もなく年令にはそれに相応す
る生物学的︑生理学的現象としての老化現象を伴う︒併し生物学的︑生理学的観点より︑老衰とは何か︑又従て老
衰化のどの程度の進行を以て老人とすべきか︑それは専問的研究領域に属するものであって︑私には之を云々する
資格はないが︑極めて初歩的なことを述ぶれば次の如くである︑
シュチ
l
グリッツによれば︑四十i
五十才に於ける更年現象を以て初老期︑次で老化期を経て︑六十
i
八十才以後を以て老衰期と定義している︒内容的には環境への適応性の衰退を縮少︑組織や機能に於ける貯義の消耗︑生体の物質代謝の失調などが老年期の特徴である︒しか
し総ての機能が一様に同じ速度で衰退する訳でなく︑又老化の速度は極めて緩漫で︑はっきりした始期をみつける
のが困難である︒その上老衰の個人差が︑きわめて大きい︒従って老年期に関する年令的定義︑生理的定義のいづれ
もあまり厳密に考ふべきではない︒一般的に老年期を老化衰退の時期を考える傾向が強く︑老眼視現象︑聴覚に於
ける高音領域の欠損︑色彩視の欠損等が生理的特色として挙げられている口(国民百科事典老人期)緒方知三郎博
士は総ての臓器の働きが最も盛んな時を目安に置くべしとし︑男女両性の成熟期は二十五
i
四十
五才
とし
︑ 四 十
/ ¥
才以後を退縮期とした
D
叫要するに四十五才を過ぎたら︑老人の仲間に入るζとになるのが︑医学的に見た常識といふことになる︒この点からは︑前に挙げた兼好の説も全く的はづれでない︒確かに四十才を初老といふ乙との医
学的根拠が見出されて興味はあるが︑乙んな説は社会的立場よりは採用し得ない︒
五
3 5 ‑ 3 8
頁 いつまでも若く紹万知三郎 (2)
一二 六
人口の老令化が問題として我国に於て取り上げらる﹀ようになったのは︑戦後のことで︑それも極く最近のこと
である︒シェルドンが︑﹁今世紀の後半を特徴づけるものは︑所詞老令人口現象と称せらる﹀もの︑並にこれにつ
Yいて生起する多くの問題についての関心が全国を通じ急激に増大することであるこ同と云っていることからも︑
察せらる︑ように米国に於ても最近のことである︒だがこの問題は︑米国に於て戦後突如として現われた訳ではな
く一九二0
年代
︑
一九
三
0年代の初め頃︑既に数州に於て個人的慈善事業を以てしては︑養護すべき老人の増加の
ために︑之を扶養することが出来なくなり︑又その親族も必要な保訟を為し得ないことが判った︒進歩的企業の中
には退職職員の為に養老年金制を設けるものも出来たが︑其数は余り多くなかった︒老人保障の問題が米国で本格
的に取り上げられたのは︑米国議会が一九三五年に六十五才以上の退職者に対して国民養老保険制を樹立し︑又述
邦政府が保険計画では救われない困窮老人の援助案を作ったのが初めてYある︒凶人口学的立場より云えば︑老人
問題が社会の重大関心を牽いた大きな理由は︑老人の数が増大して︑人口中に占むる割合︑が大となったことにあ
る︒それは人口年令構成に於ける推移が惹起した問題の一に外ならない︒
元来人口は年令階級別に之を幼少年階級︑生産年令階級︑老年階級に分けることが出来る︒こうした分け方は極
めて自然な分け方で︑印皮の聖法典によっても︑人の生涯を分って学生期︑家長期︑退隠期と分けているが︑之も
前記の分類と全く軌を一にしたものである︒要するに第一期は云はY準備期に該当するものであり︑第二期は活動
期︑第三期は隠退期と称すべきものである︒一国経済の負担者の主力は︑云う迄もなく︑第二期の活動期にある生
産年令階級であって︑第一期及び第三期に在る人口は第二期の人口に経済的に依存又は従属せるものである︒従っ
て一国人口に取って主要なのは︑生産年令の人口である︒又労働力人口の大小が問題である︒尤も青少年人口は第
H. D. Sheldon , The Older Population o f t h e United S t a t e s . P . 1 .
i b i d . b . 1 .
(3) (4)
二期人口への依在又は従属人口であるが︑之は将来の活動人口︑労働力提供者たるものである︒之に反し同じ依存
人口たる老人人口は︑老令人口の定義如何は之を別とするも︑その大部分は非労働労力人口︑又は働くとしても若
干の例外を除いて肉体的︑精神的に非能率な労働力人口であって︑極端な云い方をすれば︑社会の寄食者であり︑
デッドウェイトの如きものである︒幼少年人口も亦大部分は寄食人口であり︑社会の負担たるものであるが︑
それ
は将来の労働力の補給源たるものであって︑之なくしては社会の維持発展はあり得ない︒この意味に於て幼少青年
人口は社会の負担ではあっても︑貯蓄的又は投資的意味をもっ︑将来に楽しみが持てる人口である︒之に反し︑老
人人口は全くの負担である︒過去に於ける社会に対する貢献は確かであるが︑それは提供済み又は消費済のサlピ
スに過ぎない︒従ってどんな原始社会に在っても︑社会の寄続の為には︑社会の自衛本能としての生殖︑育児があ
り︑その生殖と育児とは社会の必要に応じて統制さる︑ものであった︒ところが︑シモンズが云っているように︑
﹁生まのま﹀の自然は特に老年には親切ではなかった︒誰でも年を取って死なねばならなかったよのであるが︑
こ
うした老人が生き延びる乙とが許されたのは︑社会的︑文佑的要因があったからである︒即ち個人的︑感情的な報
恩感謝の怠味から︑老人に対する保護又は尊敬が考えられたのであるが︑既に用済みの老人であってみれば︑当然
に社会が老人を扶詫する能力があれば格別︑そうでない場合には︑即ち非常な災厄に見舞われ︑社会全体の生存が
おびやかさることを余儀なくさる﹀ような場合には︑之を排除せんとすることは︑未聞の原始社会に於ては社会の
自衛本能の発露として当然の成行であると考えられた︒
タス
マニ
アン
︑
エスキモーの或桓族︑米インディアン︑アフリカの或極族に於いて老人排除の一般的慣行があっ
たこ
とは
︑
その例である︒勿論総ての極族が老人や病人を殺した訳ではなく︑老人を柔しくいたわるものも多かっ
一二 七
一二 八
た︒ウェスタlマ!クは食老俗について述べているが︑その殆どが宗教的︑又は感情的理由と結びつけられ︑それ
は無慾悲な残虐行為とは考えられていない︒同又未開社会には老人が他の前一荷となることを欲せず︑自殺するもの
もいた︒老病人が家族の厄介者たることを苦にして︑自殺する例は︑今日も例を見る訳だが︑原始社会では自殺す
る老人も︑又老人を殺すものも︑之を以て残虐行為とは考えず︑むしろ慈愛の行為の実践であると考えた︒ウィリ
アム・カルヴァ
l
トによると︑フィジl
人が老いた両親を殺すに当っては︑愛情を訴え︒みじめな第二幼児期を短縮してやることが︑親切な行為であるとした︒之から見ると︑
ふしがある︒附又老人を溺死せしめた例も少くなく︑古代ロlマでは神に対するいけにえとして六十才の老人を河
に橋上より投げ入れたことが伝えられている︒又ゲルマン人のヴェント族にも古代洪水を免かれんことを祈り︑﹁
との送別の唱をもって老人を水神の費としたし︑又古代エジプトでも六十才
又歴史家ス卜ラボの述べると
フィ
ジ
l
人は親殺しを一つの社会制度として実行した泊め
︑泊
め︑
乙の世界は苦界なり﹂︑
に述した老人をナイル河の橋上から︑水中に投ずる風習があったと伝えられている︒
ころによれば︑ギリシャのケオス島では︑六十才に達したものは毒を仰ぐべしとの法律があったとのことである︒
けだし老衰者が余生をむさぼる乙とは︑向島の後継者より生活資料を奪ふことがないようにするためであった︒
こうした一連の殺老俗よりも︑更に多い老人排除の習俗として棄老俗がある︒ティ!ルによれば︑
﹁"
ブッ
シュ
マ
ンは挺々狩猟の為に場所を移動するとき︑老人の親達を遺棄した︒乙の場合︑彼等は老人に一片の肉や蛇烏の卵と
一杯の水を与えて捨てる︒この貯えがなくなれば︑あわれな遺棄されたものは︑飢餓で死ぬるか︑又は野獣の餌食
とならざるを仰なかった︒側こんな原始民族に関する悲惨な記述は決して人ととではない︒我国に於ける姥捨ての
伝悦が︑ど乙まで災突であったか︑そうした慣行がどこまで行われたかは︑別として︑そうした乙とが全くなかっ
(7)
( 5 ) E. Westermark , The Origin and Development o f The Moral I d e a s .
1IP . 5 6 0 ‑ 5 6 9 .
( 6 ) H . G. Duncan. Race and Population Problems. P . 2 7 3 ‑ 2 7 4 .
(7)穂積陳童、隠居論
5 3
頁。( 8 ) H.G. Duncan , i b i d . P . 2 7 4 .
たとは云いきれない︒深沢七郎の楢山節考に描かれた世界は︑棄老伝説を文学的に表現したものであり︑主人公の
﹁おりん婆さん﹂は楢山行を当然の社会制度として受取っており︑通過儀礼として一定の儀式によって実行さる︑
ことを描いている︒
我国の棄老伝説は﹁姥捨山﹂の説話として伝えらる︑ものであるが︑之には隠し養った親の知慧で難問を解き︑
以後親を捨てるならわしを捨てたという棄老国説話と︑山に親を捨てに行った子が親の愛情に感動して士山をひる︑が
えすというこつの型がある︒これ等の説話は何れも結局は親孝行や親子の情を描いたものであるので︑果して事実
として棄老︑即ち姥捨てがあったかどうか疑わしい︒而も前者は雑宝蔵経にある棄老国の伝説をそのモデルとする
もの
であ
って
︑
この話は枕の草子や今昔物語りに換骨脱胎して伝えられている︒後者は楚の原穀の故事によったシ
ナの棄老伝説をモデルとしたもので︑万葉集一六之巻の竹取翁の長歌の未に︑
古のかしこき人も後の世の鏡にせむと老人を送りし車もて還り来し
﹁震且原谷謀父︑止不孝
語﹂と題して原穀の故事を訳載している︒結局これ等の物語りは修身の教科書みたいな親孝行や老人を敬愛すべき とあることで判るように︑この伝説は早くから伝えられたもので︑今昔物語り巻九にも︑
ことを教えた物語りである︒従ってこのことから︑直にシナに棄老の習俗があったかどうかは判らない︒併し我国
﹁六
十谷
乙が
し﹂
︑
﹁斐
ころ
ばし
﹂︑
という物語りが伝えられ︑楢山節考を裏書するような︑には﹁六十落し﹂︑
というよりは楢山節考がそうした説話を土台としたものであるが︑事実伝説地には斐の破片や人骨が散乱している
こと
もあ
るが
︑
それは恐らく葬場のあとなどに︑棄老伝説が付会されたものであろうといわれている︒
以上のような原始民族その他に見らる︑殺老︑棄老の習俗や制度的な老人自殺の慣行は︑経済発展の低い段階に
一二 九
一 三
O
在り︑其扶養力が極めて限られた社会に在っては︑社会の在続の至上命令として︑容易に理解出来ることである口
併しながらこうした老人の原始社会に於ける悲惨な処遇は︑必ずしも普遍的なものでも︑又如何なる場合に於ても
然りと云う訳ではなかった︒というのは︑原始社会や未聞社会の経済的環境に於ける悪条件は︑高死亡率を招致し
之が為に多くのものが所謂天寿を全うすることが出来ず︑若いうちに刈り取られ︑老令者を余り多く残さず︑
社会の年令構成が比較的安定していたので︑現実問題として社会集団として老人をそれ程厄介者又は邪魔者視する
必要はなかった︒更に原始社会に於ても次第に遊牧の生活より次第に一定の土地に定着するようになり︑又食糧の
安定的供給が達成され︑農業や牧畜が行われ︑家族制度が樹立さる﹀につれて︑老人はその力と安全とを次第に確
保するに至った︒事実そうした社会に老人となるまで生き残った人々の大部分は︑魔術的行事の発達や一般的知識
その社会の生存に不可欠の職能を与えられた人々であった︒
人間の精神能力のピ
l
クがやって来ると述べているし︑ やその集積によって︑アリストテレスは四十九才位に又キケロも国家の存在は性急激烈な青年の自由な支配に対
する老人の知慧と慎重さの行使に依存すると云っている︒則乙れ等の一一一一口葉から看取さる﹀ように︑老人は年を主ね
た人々あり︑それだけ人生経験の豊かな人々である︒従って老人がその長い経験の保持者として社会生活の各方面
に於ける指導的頭脳として︑その生活の知慧を社会の為に︑貢献すべき役割を持つものであることも︑老人が逆に
尊重された理由でもある︒
併し何といってもそんな素朴な又単純な社会に於て老人が仮令人生の長い経験者であり︑知慧者であっても︑そ
の経験︑知慧は次の世代に伝承され︑次の世代が生活の知慧と経験とを獲得するとき︑老人の教師として︑又指導
者として果すべき役割は︑次第に減じてゆき︑更に依然として彼等がその地位に残るならば︑後継者はいつまでも
その
C . Tibbits and W. Donahue , Aging i n Today's S o c i e t y . XII
I.(9)
その地位が塞さがれる訳である︒ここに身心共に強健なる世代の為に︑老年者は後退を余儀なくする社会的事情が
ある︒又更に社会が真に必要とする老人の経験︑知慧は︑そんなに多くはない・︒それは棄老国や蟻通し明神の伝説
に見らる﹀ような非常時に於てY
あり
︑
それも真に優れた老人の頭脳だけが必要とさる﹀のであって︑
一般
的に
云
って老人の経験や知識への依在はむしろ例外的の場合である︒
かく考えるとき一般老人に対して期待さる︾ところは︑僅かに助業的仕事や家庭内の些末な仕事であって︑
般
老人はかくして社会の負担として︑社会より疎外さるL宿命をもつことになる︒だがこうした社会に於ても︑血縁
のつながりによる愛情︑宗教的︑人道的立場よりする老人に対する救護の手が︑子による又家族扶養の形式に於
てさしのべられたことは云う迄もない︒併しこうした人情的・人道的立場の中には︑老人は社会の厄介物ではある
が︑憐むべき在在として︑之を救済し︑扶養せんとするものであるが︑近代社会となるに及んで︑特に福祉国家を
目︑ざす時代に於ては︑家庭や社会に於ける各個人の一生を通じての相互依在の一部だとの社会連帯の立場より老人
問題を国家として慈善でなく︑取り上げらる︑こと﹀なった︒我国に於て老人福祉法の制定を見たのも全くこの立
場からであった︒
従来青少年問題はあった︒又婦人問題もあった︒併し老人問題はなかった︒なかった訳ではないが︑それは家庭
に於ける姑の嫁いびりゃ︑或は新旧思想の対立による親子間の葛藤として老人問題が浮彫りされたり︑或は孤独の
困窮せる老人が救岨の対象として︑或は家庭から隔離された親子の不和の犠牲者としての老人が︑たまたま新聞雑
誌に取り上げらる︑に過ぎず︑従ってそれは家族制度の坪内に在る親子関係︑嫁姑の関係の問題として︑又一般的
な困窮者の救護の問題として︑取上ぐるだけで足りた訳である︒老人問題が社会問題としての比重を大して持ち得
一一 一一
一
一一一 一一 一
なかったということは︑実は老人の数が少なかったので︑それでよかった訳である︒ギリシャやロ
l
マの最盛時に於ける平均余命は僅か十八
l
二十才に過ぎなかったが︑相当の年令に達するものもいなかった訳ではなく︑偉大な戯曲家ソフォクレスの如︑きは九十才の長寿であった︒これは記録のある総ての民族に妥当するところであったし︑
又今日の未聞社会に於ても然りである︒更に老年は個人に取って種々の問題を鷲らした︒アリストテレスも人生
の段階に於げる人間の性格の叙述の中で︑このことを認めている︒又老人が家族や社会に問題を資らした︒だから
どんな社会に於ても︑老人が存在する限り︑老人の問題がなかったと云うことは正しくない︒た
それが重大なるJ Y
社会問題として取上げられなかっただけのことである︒否社会の問題として取上げる必要性も︑又重大性もなかっ
た︒ところが今日では全く事情が変った︒老人問題は之は社会の一つの大きな問題として脚光を浴びること﹀なっ
た︒その理由のうち先づ第一に挙ぐべきものは︑老人人口の絶対的並に相対的増加である︒而もその増加の傾向は
今後永く続くことが予想されていることである︒これが最大の理由である︒第二に挙ぐべきは︑産業構造に於ける
変化が︑老人の経済的活動に於ける分野を著しく︑狭降ならしめ︑老人労働の価値を低下せしめたことである︒第
三は都会化である︒之が老人をして益々社会から疎外せしめらる︑に至り︑老人に取っていよいよ住み難い世の中
としている︒けだし農村に於いては老人には老人なりに︑その社会や家庭に於て果すべき責任や雑役が相当残され
ているのに対して︑都会に於ては退隠後の老人の仕事の分野が狭少であるばかりでなく︑都会地に於ける一般労働
者の住宅事情は老親と共に居住することを困難ならしめ︑更に又農村に於ける地縁社会的環境は老人に取ってその
親戚故旧友人に恵まれてているのに対して︑都会地ではそうした知人が広く散在していて︑老人達に一回孤独感を
感ぜしめること︾なるし︑都会に於ける生存の為の激しい競争は︑相互扶助な農村社会に比して︑老人に取って堪
Tibbits and Donahue. i b i d . P . X I I I . Sheldon i b i d . P . 101~.1
(10)
え難いものとするからである︒この都会化に伴う人口の移動性の激化によって家族構成に於ける変貌を余儀なくす
るに
至り
︑
老人はその子孫や友人から隔離さる﹀こととなって老人問題が重大化する一つの原因となっている︒産
業社会に於ける急速なる技術革新に基く変動によって︑老人はたえずその有する職業的技術ゃ︑その考え方や価値
観や生活の様式に於ける時代遅れとなる脅威にさらされ︑工業時代に於てば︑先づ農業経済時代に於ける老人の既
述した役割を剥奪されるに至った︒第四に家族と扶養の問題がある︒特に我国に於て戦後旧来の家長制度の崩壊に
よって︑家族制度の革命的変革によって︑一居老人が社会の片すみに︑追いやらる﹀乙と﹀なった︒以上のような
一連の原因が︑老人問題をして︑戦後我固に於て︑特に重大ならしむるに至った要因の主たるものである︒次に人
口老令化の意義とその実情について︑主として我国に於ける事情を検討すること﹀したい︒
我国人口の老令化研究序説
最近に於ける我国の老人問題が︑社会問題として取上げられたのは︑老人人口の増加即ち︑人口の老令化現象に
因由するものである︒人口老令化とは︑之を端的に云えば結局人口の年令構成に於ける老年階級の絶対的並に相対
的培加の謂である︒依って我国に於ける大正九年以降に於ける我国の老令者
(六
十
t
六十五才以上)の数並にその割合の推移を見ることにする︒
一一一 一一一 一
大正年
九 大 正 十 四 年 昭 和 五 年 昭 和 十
年
昭 和 十 五 年 昭 和 二 十 年 昭和二十五年 昭 和 三 十 年 昭和三十五年
一三
四
我国の老令人口の推移
六十才以上(千人)
人口
一
O O人中
六五才以上(千人)
人口 一
O O人中
四︑五五七
/I
、
二︑九一七
五
四︑五四五七・七二︑九九四
五・
四︑七三六七・四
一 二 ︑
O
三四四・入五 ︑
O
九九一八 九
四・六七・四
五︑六二O七・七三︑四一四四・七 五︑七六八三︑五八
O
五・
o
八・
o
六︑四七・七
四九一O四・九
七︑二
O
九戸、
四︑七二四五・三 入︑二八一五︑三四九五・七八・九 先づ老人人口(六十五才以上)の絶対数に就て見るに︑大正九年に二︑九一七︑
000
人であったのが︑各調査 年次に於て常に増加を示している︒而もその増加数は大正十四年より昭和五年に四O︑
000
人 の 増 加 で あ っ た が︑その後は前調査年次に於ける増加数を上廻る増加を示している︒特に終戦後に於ける老人口は飛躍的に増加し
ている︒乙とは次表に明かである︒
老令人口(六五才以上)の前調査年次に対する増加湾 大 正 十 四 年
七七
︑
000
人昭 和
四O
︑ 000
人 五年
昭 和
年
一五
五︑
000
人十 昭 和 十 五 年
二二
五︑
000
人昭和二十二年
三三
一︑
000
人昭和二十五年
六回
︑
000
人昭 和 三 十 年
六三
八︑
000
人昭和三十五年六O
二 ︑
000
人終戦後に於ける老人人口飛躍的増加は︑戦後に於ける社会衛生︑医療施設の改善︑経済生活の安定化に伴
う死亡の低下の効果が︑老人人口に於ても現われていることを物語るものである︒
次に我国人口に占むる老令者人口(六十五才以上)の割合について見るとしよう︒老令人口の割合を見て気付く
ことは︑以外にも我国の老令者の割合が︑大正九年に比してそれ程多くないことである︒人々は人口老令化が喧伝
されているので︑その割合も亦甚だ増加してゐることが︑予想さる﹀にも拘わらず︑統計の示すところからは︑そ
れ程驚くべき乙とではないようである︒即ち我国の大正九年に於ける老令人口の割合は︑
人口
一 O
O人中五・三人
を占めていたが︑その割合は昭和十年に四・六人となり︑
は︑漸く昭和三十年のことであった︒云う迄もなく︑ 爾後次第に上昇していて︑大正九年の数字に到達したの
年令構成の如︑き構成比に見らる︑変化の意味する乙とは︑構
一三
五
一一 二六
成部分の一部に於ける増加は︑他の部分に於ける相対的減少を生ぜしむるものであって︑絶対数に於ける増加又は
減少のアンバランスが相対的の変化を鷲らすものであることは︑構成比の本質的性格である︒仮りに絶対数に於け
る減少も︑他の部分の減少がより甚だしければ︑却って増すことも何等怪しむに足りない︒従って老令佑率とも称
すべき乙の老令人口の割合が︑その絶対数の増加にも不拘減じているのは︑他の年令階級に於ける増加がより大で
あったこと︑端的に云えば出生率が高かったこと﹀︑他万死亡率の減少の効果は︑特に乳幼児年令に於て特に若し
いものがあった為に︑青少年階級に於ける増加分が︑老人者階級に於ける増分に比して遥かに多かった為に外なら
ない︒構成比の変佑は云わ
ゴム誌の一万を押せば︑他が膨る﹀関係にあるから︑その増減は相対的な増減を意味J Y
するものである︒か﹀る観点よりこの老令佑率の変化の移推を見ると︑昭和十年を最低として次第にその率を増し
ていることは︑昭和十年より昭和十五年にかけて︑大正九年以降既に見られた出生減退の傾向が依然として続いて
いた
こと
︑
それと同時に死亡の減退が着々としてその歩みを続けていたζ
とが
︑
か﹀る老人人口の割合の増加を見
た理由である︒昭和二十年に於ける微増は︑戦争の苛烈化に伴い生産年令階級が兵隊として︑或はその他海外に出
たものが多かったこと︑更にその年令階級の戦争による欠落が大であった乙とによるものである︒
旦 て ヘ ル シ ュ
は︑銃を取って戦場に出る兵士だけでなく︑人生の両極端にある階級の人口も戦争の犠牲者であることを結論した
が︑前大戦末期に於ける我国の悲惨な生活が︑抵抗力の少い乳幼児や老年者に対して︑人口学的にそれ程痛烈な打
撃を与えていないことは︑奇異に感ぜらる﹀ところで︑それが過去の経験によって︑幼少年並に老年者に対する人
口政策的保護が加えられたことの為か否かは︑別として︑兎も角も統計の示すところでは︑欧洲第一次大戦に見た
ような乙とはなかったことは事実である︒
終戦後に於ける老令人口の割合の増加は︑既述した絶対数の増加と共に︑
誠に顕著なるものがある︒実際老令化 現象が我国に於て問題となり︑各界の人々によって取り上げらる﹀に至ったのは︑蕊十余年来のことである︒とこ ろでこの人口老令化なる問題提起にも不拘その比率は︑昭和三十年に於て漸く大正九年の数字に到達したに過ぎな い︒従って只その限りに於ては︑左程驚くに当らぬことではないように思える︒だがここで考えねばならぬことは 戦後に於ける我国の極めて異常なる人口動態の推移である︒次に昭和十五年以降昭和三十年までの出生率並に死亡
率を示せば次の通りである︒
我国の人口動態
出生率
死亡率
昭 和 十 五 年
一六
・ 二九
・
o
昭 和 十 六 年
一一
一一
.
一
一五・七
昭 和 十 七 年
三
0
・二
一五・八
我国人口の老令化研究序説
昭 和 十
/ ¥
年三
0
・二
一六
・
昭和二十二年三四・三
一四
・六 昭和二十三年三三・五一一・九
昭和二十四年
三三
・
o
一一
・六
昭和二十五年
二八
・一
一
0
・九
昭和二十六年
二五
・一
ニ
九・九
一三
七
一三 八
s
昭和二十七年二三・四八・九
昭和二十八年二一・五八・九
昭和二十九年二
0 ・ 0
八、
.
昭 和 三 十 年
一九
・四
七・八
戦後に於ける所謂ベイピ
i
ブl
ムの名に於て知らる﹀高い出生率によって︑多くの幼少年人口が加ったが︑こ の
ブームも昭和二十五年からは︑出生は減退の急坂を下りること﹀なった︒併し死亡率の低下は実に驚くべきものが
ある︒この二つのことは乳幼児人口の激増を意味するものである︒従ってこうした事情を考慮に入る﹀ならば︑仮
令老令化が僅かながらも進行して行ったことは︑確かに注目すべきことである︒併しながら何と云っても老令化率
自体から云えば︑それ程驚くべきことではない︒問題は戦後に顕著になった老令化の傾向である︒
シェルドンが米
国について云っているように︑﹁既に見らる﹀著しい増加だけでなく︑将来の増加が問題だ﹂と云っているが︑そ
の点我国も亦全く同様である︒前掲の我国の人口動態に見らる﹀傾向は︑その後もそのま﹀持続している︒出生率
は昭和三十六年には一六・九にまで下り︑又死亡七・四を記録している︒これは直に人口の老令佑の要因である︒
こうした我国人口動態の傾向を踏まえての︑孜国人口の将来に於ける年令構成がどんな具合に進展するか︒即ち
我国人口に於いて老令人口がどうなるか︑之について少し古いが︑厚生省の人口問題研究所の推計を示せば次の辺
りで
ある
︒
老令人口推計
六五才以上六O才以上
一九六五年(昭和四十年)九・七六
一九
七
O
年六・九七一
O@
六
一九七五年七・六
五
一九
八
O年
八・
三一
一一
.
一一 一
一九八五年八・八四一三・三八
一九
九
O年九・八
一五
・四
一
一九九五年一一・四九一七・七四
二
000
年一一
二・
一二
六
一九
・八
一
この推計は昭和四十年に於ける仮定をそのま︑続くものとして︑二︑
000
年まで延長投影したものであって︑そこに推計の大きな制約が見られるが︑恐らくこの推計に見らる﹀ところは︑我国の将来人口をそんなに誤りなく
我国人口の老令化研究序説
示すものであると考えらる﹀口我国人口の老令化が此数字の辺りに進展するか否かは別として︑益々深刻化してゆ
くことは確かである︒何故なら乙の人口老令化を阻碍するような因子は現在のと乙ろ何もない︒否むしろその或も
のについては却てその強化や深化が益々進行することが予砲さる﹀からである口
前に述べたように︑我国の老令化は漸く初まったばかりである︒我国に於て六十才以上(国際比較の為に資料の
関係で六十才以上を取ること︑する︒)の人口が総人口に占める割合が八%代となったのは︑漸く一九五五年以降の
乙とである︒ところでこの老令化率を他の欧米諸国について見るに︑フランスでは︑一八五一年に於て︑男九・四
一三
九