用宗地区における住民の地元意識 : 地域と人のつ ながりから考える
著者 秋山 陽香
雑誌名 静岡市・用宗地区. ‑ (フィールドワーク実習調査 報告書 ; 平成26年度)
ページ 69‑80
発行年 2014‑12
出版者 静岡大学人文社会科学部社会学科文化人類学コース
URL http://hdl.handle.net/10297/8071
用宗地区における住民の地元意識
〜地域と人のつなが りか ら考える〜
秋山陽香
1
は じめに
2 用宗地区における行政の変遷
21 用宗地区概要
22 行政 区画の変遷
23 自治組織
3 用宗における社会組織の変容
3.1祭祀組織か らみ る用宗
311 祗園祭 について
312 旧浅間神社の氏子組織
313 旧熊野神社、人幡神社の氏子組織
32 当番制の変化 と現在の体制
4 用宗住民の地元意識
41 用宗地区 とはなにか
42 地域 と住民のつなが り
5
おわ りに
1 は じめに
静岡県静岡市駿河区にある用宗 (も ちむね
)地区は、静岡市の西南端に位置し、南は海、
北は山に臨んだ自然豊かな土地である。交通の利便にも優れてお り、 JR静 岡駅から用宗駅 へは西へ
2駅と近い。こうした点から、用宗地区は暮 らしやすい地域であるといえる。実 際、インタビユーをおこなつた住民のほとんどが、 「用宗は住みやすい場所」と答えていた。
また、用宗
3丁目から
5丁目は古くからの家々が密集 してお り、用宗
1丁目から
2丁目は 新 しい家屋やアパー トが建てられている。 したがつて、ここで暮 らす住民は古くから用宗 に住んでいる人、仕事で県外より引つ越 してきた人などさまざまであることがわかる。
しかし、用宗地区は住民の高年齢化や人口減少といつた問題を抱えている。これにとも ない行政区画が変更され、地区の在 り様もしだいに変化 している。その変化の 1つ が、用 宗地区内の神社の統廃合であつた。住民、とりわけ昔から用宗に住む人々は、こうした変 化を受け入れながら今 日に至つている。そこで本章では、現在までの用宗地区における行
‑69‐
用宗地区における住民の地元意識〜地域 と人のつなが りか ら考える〜
政区画の変遷や氏子な どの社会組織 の変容 にともない、用宗地区の住民が 自分たちのまち
「用宗」をどのように考えているかについて考えてみたい。 これにより、用宗の人々の地 元意識 を明 らかにす る。
本章の構成は以下の とお りである。本節に続 く第
2節では、かつて有度郡用宗町だつた 頃か ら静岡市の一部 となった現在までの行政の変遷について述べる。第
3節では、
2010年の神社合祀に ともな う用宗地区における祗園祭 (ぎ おんまつ り )の 当番制の変遷を取 り上 げ、祭祀組織 の変化に ともな う住民 と地域のつなが りを考える。第
4節では、用宗地区に おける住民の地元意識 について考察す る。
2 用 宗 地 区 に お け る行 政 の 変遷
ここでは、住民の地元意識 を考 える上で基本 となる用宗地区の概要 と行政 区画の変遷、
お よび 自治細 餞についてみてい く。
21 用宗地区概要
用宗地区は漁港が中心のまちであ り、特 にシラス漁が有名である。また、江戸時代には 徳り II幕 府の直轄地であつた とい う由緒あるまちでもある。戦国時代、 この地区に持舟 (ま
たは持船 、 もちふね )城 が建て られて駿河 の守備城 として重用 されたが (安 本編
197r4951)、 これ は用宗地区が直轄地 となった要因の 1つ だ と考えられ る。こ うした経緯 か ら、
明治時代 に入 つてか らも用宗地区は しば らく雄藩や外様大名 な どの支配 を受 けなかつた (前 掲 :85‐ 86)。
写真
1持舟城趾 (秋 山撮影
)‐
70‑ちなみに、 『用宗町誌』によると、その後の持舟城は徳川家康の侵攻によって廃城 となつ た (前 掲 :57)。 しか し、その土地は持舟城趾として、現在の用宗城山町に残つている。こ の持舟城趾は住民から「城山さん」と呼ばれ、散歩や学校の遠足、また津波の避難場所と しても利用され親 しまれている (写 真
1)。持舟城趾の位置や用宗地区の内部については、
調査地概要の地図
3を参照 してはしい。
22 行政区回の変遅
用宗地区が漁業を中心とした歴史的なまちであることは前述のとお りである。では、次 に行政区画ではどのような変化があつたのかをみていきたい。現在の用宗地区は、用宗 1 丁目から
5丁目、用宗小石町、用宗巴町、用宗城山町の
8つに区画されている。また、周 辺の広野地区、石部地区、青木地区などとともに長田南地区と呼ばれている。この地区は、
後述の明治時代における村の合併 との関連が考えられる。
『用宗町誌』によると、まず、
1878(明治
11)年7月 の郡区町村編成法により、当時の 用宗村は広野村、青木村、大和田新田、石部村、小坂村、上川原新田、東新田、下川原新 田とともに有度郡に区分された (安 本編 :85・ 86)。 また、
1889(明治 22)年 4月 の市制・
村町制の施行で、用宗村は広野村のほか
8つの村とともに長田村に合併された。 さらに、
1896(明
治
29)年4月 には長田村が安倍郡に編入 した (前 掲 :93‐ 96)。
昭和に入ると、
1934(昭和 9)年 10月 に安倍郡長田村のほか、千代田村、麻機村、大谷 村の
4つの村が静岡市に合併された (前 掲 :253)。
平成では、
2003(平成 15)年 4月 に静岡市が旧清水市と合併 して、新静岡市が誕生した。
さらに、
2005(平成
17)年に区制が施行された。以降、用宗地区は駿河区に区分され、現 在に至る (静 岡県市町村振興協会 2010)。
また、現在の区画ができるまでの用宗地区内の区分についても説明 しておきたい。現在 の用宗
1丁目から
5丁目において、以前より東中西の
3つに分けられてお り、現在の 1丁 目から
3丁目が東、
4丁目が中、
5丁目が西である。前田也枝子氏 (女 性、
60歳)の 話に よると、東は地域外から越 してきた若い住民が多いために子 どもが多く、中は世帯数こそ 多いものの、子 どもの数は少ないそうだ。町丁名ができた今も区分は残つてお り、子 ども 会や運動会などで用いられていると前田也枝子氏は話 していた。
23 自治組織
先の行政区画の変遷に続いて、用宗地区の自治組織についてみていく。本節を記述する にあたつて、聞き取り調査 と『用宗町誌』(1971)の 記載をもとに、用宗地区における明治 時代からの歴代の町内会長を一覧にした表を作成したので、参照 してはしい (資 料編
1)。また、聞き取 り調査のなかで歴代の町内会長が所属する祗園祭の当番組 (当 番組について は次節で詳述する )が わかつた。これにより、現在の行政区画上の出身地が把握できたた め、それがわかつている人については名前とともに出身地を記載 した。
‑71
用宗地区における住民の地元意識〜地域 と人のつなが りから考える〜
用宗地区における自治組織 の代表は、明治時代か ら区長、総代、町内会長、代表、町内 会長の順に名称が変化 してきた。 『 用宗 mrt』 によると、先述の
1889(明治
22)年の長 田 村への合併により、当時の用宗村は村 としての 自治が事実上消滅 した。だが、新たに用宗 区として存続 したため、区長制 を施行 することとなった (安 本編 1971:263)。 初代区長は、
現在の 4丁 目出身の前 田萬次郎氏が就任 した。なお、初代区長か ら第 5代 区長の池ケ谷利 作氏
1(現在の
2丁目出身 )ま での就任期間は、 『 用宗町誌』 (1971)と 公民館 の肖像写真の いずれにも記載がなかった。 しか し、剛者の記述により、初代区長から第
4代区長の前田 善一郎氏 2の 在任中までが明治期であると考えられる。そ して、第
4代区長 の在任中か ら第
6代区長の途 中の在任 中までが大正期である。
明治期 か ら大正期の用宗地区は、都市化が進行 していた。そのため当時の歴代区長は、
用宗地区の社会事業を長 田村 に重点的に取 り上げて もらうべ く、 日夜努力 していた とい う (前 掲 :2641。 また、当時の用宗地区は安倍郡には県会議員 を、長田村 には村会議員 を送る ことのできる有力な地盤 として尊重 されたとい う (前 掲 :153)。 ここか ら、特に明治期の用 宗地区は、 自治体 としての機能が消失 しても、歴代区長の活躍によってこれまでの自治体 に劣 らない機能を果た していた と考えられる。
第
6代区長の在任 中、時代 は昭和に変わった。その後 も区長制は第
10代の前田欽平氏 (3 丁 目出身
)まで続いた。 しか し、
1937(昭和
12)年に用宗区が用宗町に変わると、第 11 代の竹下勝之助氏 (出 身地不明
)からは総代制をとるよ うになった。 この背景には、同年 の 日支事変 と日中戦争 による全国の戦時体制の強化が激化 し、 自治権が以前より持てなく なつたことが挙げ られ る (前 掲 :266)。 その後、総代制は第
13代の竹下助右工門氏 (出 身 地不明 )ま で続いた。
総代制が
3代続いた後、第
14代か らは町内会長制 を採用 し、前田重太郎氏 (3丁 目出身
)が初代の町内会長 となった。 当時は第二次世界大戦時で、国による統制のもとに運営され た とい う記述が『 用宗 RTh』 にあ り、これが名称変更の理由だ と考え られ る。 とはいえ、
用宗町の地域組織 は、明治期か ら大正期にかけて、委任 された地域行政に合 うように出来 ていた。 この長年の蓄積によ り、居住組織が整備、強化 されてきたため、体制が変わる際 に摩擦や相剋は生 じなかつた とい う (前 掲 :266)。 第
16代町内会長の伊柳鋏之助氏 (出 身 地不明 )の 後 に、第
17代の竹下勝之助氏 (出 身地不明
)と第
18代の赤井甚作氏 (出 身地 不明
)の2代のみ代表制を採 った。 しかし、第
19代の前田欽平氏 (第
10代以降、再任
)か ら再び町内会長制に戻 り、現在の第
45代の石田英亀氏 (5丁 目出身)ま で継続 している。
先に述べた、
2代のみ代表制 を採用 していたことについて、その背景を説明 したい。当時、
終戦処理により、歴代 nl内 会長は苦難を強い られ、また占領政策 によって町内会の機能が
1た だし、公民館に掲額された歴代区長の肖像写真では、第 5代 区長は現在の3丁 目出身の前日善一郎氏 となつているが、ここでは『用宗町誌』(1971)の記述にしたがうことにする。
2こ れも注 1と 同様、公民館の肖像写真では、第4代 区長は口形徳次郎氏となっているが、ここでは 刷電 宗 mra』 (1971)の 記述にしたがう。なお、日形氏の出身地は不明である。
‑72‑
消失した。それにともない、町内会長から代表に名前が変更となつた。 しかし、第 17代 代 表の竹下勝之助氏 と第 18代 代表の赤井甚作氏の
2代を終えたところで占領政策は解除され た。 したがつて、町内会組織は復活 し、第 19代 日、前田欽平氏から町内会長市 1に 戻つたと い う (前 掲 :267)。
以上、用宗地区の歴代町内会長について、制度の変化 とその社会的背景を追いながらみ てきた。次に、用宗地区の現在の 1丁 目から
5丁目のなかでどこが多いかを考えてみたい。
まず、歴代の代表者のなかで、最も多いのは現在の用宗
3丁目と
4丁目の出身者である。
また、出身地が判明 している
25人中、人数の多レ J頃 に
3丁目と
4丁目の出身がそれぞれ 9 人ずつ、
2丁目出身が
4人、
5丁目出身が
3人である。初代区長の前田高次郎氏など「どて やす」や「ますえん組」といつた祗園祭を実施する組の有力者も多いことがわかっている。
これらは現在の
3丁目と 4丁 目に該当する。 したがつて、明治から現在までの用宗地区の 自治組織は現在の用宗
2丁目から
5丁目の人々が担つてきたことがわかる。すなわち、古 くからの用宗は
2丁目から
5丁目が中心であったと考えられる。
3 用宗 にお ける社会組織 の変容
前節では、自治組織の視点から用宗地区の行政の変遷をみてきた。本節ではそれ らの内 容をふまえて、用宗地区における社会組織の変容を祗園祭の当番制の変化に着 日して説明
してきたい。
31 祭祀組織からみる用宗
311 祗園祭について
まずは、祗園祭の概要を説明 したい。祗園祭 とは、八坂神社、または津島神社の主祭神 である須佐之男命 (ス サノオノミコ ト)の祭 りであり、旧暦 6月 15日 前後 (新 暦では 7月
)に全国各地の同神社でおこなわれる。祗園祭の起源は
869(貞観
11)年で、清和天皇が当 時流行 していた疫病の退散のために、京都の人坂神社から神泉苑まで神輿を送る祗園御霊 会を実施 したことが始まりとされる。
長田南地区では、毎年 6月 に第
1土曜 日は小坂、第
2は石部、第
3は広野、第
4は用宗 と順に祗園祭がおこなわれる。用宗地区の祗園祭は長田南地区内で最後の開催 ということ もあり、毎年住民だけでなく、地区外からも多くの人が訪れる。私が
2014年6月 28日 に 用宗地区の祗園祭を参観 したときも、津島神社がある浅間神社へは多くの住民が参詣 して おり、こども神輿も用宗東、用宗中、用宗西の 3カ 所に分かれて地区内をまわっていた (写 真
2)。夜になると、」
R線の南を東西に走る通 りに屋台が立ち並び、多くの人で賑わつてい た (写 真
3)。なお、祗園祭や神社については、第
4章の戸塚の記述が詳 しいので参照され
‑73‑
用宗地区における住民の地元意識〜地域 と人のつなが りか ら考える〜
たい。
312 !口
浅間神社の氏子組織
続いて、用宗地区でおこな う祗園祭の当番制の しくみを通 して、用宗 2丁 目か ら
4丁目 の
1日浅間神社の氏子細 職をみてい く。なお、以下の記述は石 田英亀 (い しだひでき
)氏(男
写真 2 こども神輿 (用 宗公民館提供
)写真 3 祗園祭の屋台でにぎわう様子 (秋 山撮影〉
‐74‐
性、
72歳、第
45代町内会長
)、那須野秀勇 (な すのひでお )氏 (男 性、
87歳、ナスノ板金 工場経営
)、前田善徳 (ま えだよしの り
)氏(男 性、
73歳、第
44代町内会長
)、増 田金重 (ま すだかね しげ )氏 (男 性、
63歳、用宗公民館職員
)からうかがった話の内容 をま とめた。
用宗地区では祗園祭 を当番常 1で おこなつてきた。当番制の組数や体制はこれ までに
2度変更 している。かつての祗園祭の当番 は、現在の用宗
2丁目か ら
4丁目のなかにあつた 6 つの組が順番 に担 当 していた。各組 は地元の有力者が中心 とな り、そ こに協力者が加 わる 形で形成 されていた。 また、祗園祭は津島神社の行事であるが、当番の組に所属す る住民 は浅間神社の氏子であつた。津島神社は浅間神社内に合 nBさ れていたか らである。 これ ら は、「ます えん組」、「土手組」、「やぶ さき」、 「川端」、「メチ ヨーベエ組」、「大高組」とい う 名であつた。「やぶ さき」と 1川 端」は現在の用宗
2丁目、「土手組」と「メチ ョーベエ組」
は
3丁目、「ますえん組」 と「大高組」は
4丁目にあつた (詳 細は図 1を 参照
)。この
6組の当番制が続 けられていたのは、第
22代町内会長の渡邊金市氏の時代までである。その後、
第
23代町内会長の前田恭平氏 3の 頃には「やぶ さき」が「土手組」に編入 し、
5組に減つた。
Goog le map
2014年 10月 22日 取得 )を もとに秋山作成
ここで、各組の名前の出来についても説明しておきたい。「ますえん組」の名は、組の有 力者の屋号に出来する。「土手組」は、当時の組の有力者が土手の近 くに住んでいたことか らつけられた。「やぶさき ]に ついては、詳しい名前の出来がわかつていない。有力者が亡 くなった後に、土手組に編入されたからであろう。先述のとお り、この編入によつて組の
3用 宗公民館会議室に飾られた歴代会長の写真では前日本次氏の名であるが、ここでは 『 用宗町誌』 (1971) の記載にしたが うことにする。
図
1祗園祭の当番組
7′
用宗地区における住民の地元意識〜地域 と人のつなが りから考える〜
数は
6組か ら
5組に減少 した。 「り ll端 」も同 じく名前の由来がはつき りしていない。しか し、
以下のような話 を聞 くことができた。昔は用宗地区に小玉沢 とい う沢があ り、住民は 「お だま さあ」 と呼んでいた。 その沢は用宗
3丁目か ら 5丁 目の間を通つてお り、その沢辺に 有力者の住む家があつた とい う。 この話か ら推測す るに、「土手組」 と同 じく、有力者の居 住地がその名の由来 となつた と考 えられ る。「メチ ョーベエ組」は、当初は長倉氏が中心だ つたために 「長倉組」 と呼ばれたが、長倉氏が亡くなつて尾崎氏が役 目を引き継いだこと により、組の名前が変わった とい う。「メチ ョーベエ」は、尾崎氏の先祖の名前だ と考えら れる。 r大 高組」は、有力者の苗字に由来す るとい う。
313 旧熊野神社、八幡神社の氏子 tE織
このように、現在の用宗
2丁目か ら 4丁 目では、浅間神社の氏子や有力者 によつてつ く られた組が祗園祭 の当番 を担 当 していた。その一方で、現在の用宗
5丁目の住民は祗園祭 に参加せず、別に祭 りをお こなつていた。とい うのも、
5丁目には熊野神社 と人幡神社があ り、
2丁目か ら
4丁目とは異なる氏子組織を形成 していたか らである。那須野秀勇氏の話に よると、熊野神 社 は丸尾宮 (ま るおみや
)の方、人幡神社は石 田の方 と住民か ら呼ばれて お り、それぞれに氏子が存在 した とい う。また、那須野氏は長年祗園祭 に携わつてきたが、
5丁
目の祭 りについてほとん ど知 らず、
5丁日以外の他の住民も知 らなかつたのではないか と話 していた。
32 当番制の変化 と現在の体制
前項の記述の とお り、かつては用宗
2丁目か ら
4丁目の範囲で有力者 を中心 とした組が 祗園祭の当番 を担つていた。 また、用宗
5丁目では熊野神社 と人幡神社 を信仰 していたた め、祗園祭には参カロしていなかった。
しか し、増 田氏の話によると、
5丁目では氏子の減少、住民の高齢イヒにより、神社の維持 や祭 りの運営に大きな負担 を抱 えるようになって しまつた とい う。そ して、ついに 2010(平 成 22)年 に神社が合祀 され、熊野神社 と人幡神社のご神体が浅間神社内に移 された。 これ により、
5丁目の住民が祗園祭に参加することとな り、
1丁目か ら
5丁目がそれぞれ 当番に あたる形態へ と改組 された。 この当番制の変化の理由について、前 田善徳氏 は、大勢の人 に参カロしてもらえるよ うに とい う願 いもあつた と話 していた。 とい うのも、前述 したよう に
5丁目の人々は祗園祭に参加 していなかった。また、用宗
1丁目か ら
2丁目は他所か ら 転入 してきた人が多 く、用宗 3丁 目か ら
5丁目は古 くか ら住んでいる人が多い とい うよ う に、住民の由来が異なる。つま り、従来の祗園祭は用宗
5丁目の住民が不参加であつたこ
とに加 え、用宗
1丁目や 2丁 目に多い移住者が参加 しにくい状況にあつたことが背景 とし て考えられ る。
当番が新体制にな り、祗園祭 に用宗地区全体がかかわるよ うになつたことは、住民に と つて も大きな変化 となつたことは間違いないだろ う。それ を示す もの として、実際に参カロ
‑76‑
した
2014年6月 28日 の祗園祭の様子 を説明 したい。調査 した
2014年は、
5丁目が初の当 番 となつた年であつた。
5丁目在住の石 田英亀氏 をは じめ、当番である
5丁目の住民は、こ れまで関わつたことのない祗園祭の運営に、手間取つているようにも見受けられた。ただ、
当番制になつた とい う点で、以前 より負担が軽 くなつた とい うことは事実であるようだ。
これまで、祭 りは用宗地区に古くから住む住民が中心となって運営 してきたために、他 所から移住 してきた人々があまり深く関わることができなかつた。昔から用宗地区に住ん でいる 1丁 目在住の那須野秀勇氏の話によると、 用宗地区は住民の地元意識が昔から強く、
よそ者を受け入れにくかつたそ うだ。 しか し、現在はそ うした意識が弱まり、外からきた 人々の意見も取 り入れているとのことである。また、前田善徳氏は、用宗地区のなかでも 用宗
3丁目から
5丁目の住民が強い地元意識を持つていると話 していた。だが、最近は用 宗
3丁目から 5丁 目の地域から若者が他所へ働きに出て行つてしまうこと、反対に用宗 1 丁目と
2丁目は移住 してきた若者が多いことから、徐々にそうした意識が弱くなつてきた
と語つていた。つまり、高齢者が多くなつた地域だけでは用宗地区を支えていくことがで きず、若年層が多い地域の力が必要 となつてきたため、これまで強かつた地元意識が薄ま ってきたと考えられる。
4 用宗住 民の地 元意識
第
2節では用宗地区の行政の変遷を、そして、第
3節では祭祀組織における社会組織の 変容をみてきた。これらをふまえて、本節では用宗地区で暮 らす住民の地元意識について 考察 していく。
ここで、地元意識について説明しておく。中村八朗 (2009)に よれば、地元意識 とは 「自 分の出生地、居住地あるいは勢力範囲である地域に対 して持つ意識」である。つまり、地 元意識をもつことは、自分が 「地元」だと感 じる地域に住む人々に対 して、連帯感や帰属 感を持つ状態のことをい う。また、この状態の場合は他の地域に対 して優先意識が強く、
排他的になるとい う (中 村 2009)。
41 用宗地区とはなにか
今回の調査時に、主に用宗
1丁目から
5丁目に住む用宗地区の住民、また近隣の広野、
石部地区や静岡市外など用宗地区以外から来ている人を対象 として、それぞれが考える用 宗地区の範囲についてたずねた。その際に、 「用宗を知らない人に教えるときの範囲」と「自 分の感覚でみたときの用宗の範囲」に分けてもらい回答を得た。すると、人々が客観的・
主観的にみる用宗地区の姿が明らかとなつた。そこで本項では、用宗地区の範囲に対する 考え方を、用宗
1丁目から
2丁目の住民、用宗
3丁目から
5丁目の住民、そ して用宗地区 以外の人に分けてみていく。
‑77‑
用宗地区における住民の地元意識〜地域 と人のつなが りから考える〜
まずは、「用宗 を知 らない人に教 えるときの範囲」か らみてい く。 これによ り、人々が用 宗地区を客観的に どうとらえているかがわかる。その結果、ほとん どの人が 「東は漁港か ら西は用宗公園まで」 と答 えてお り、用宗地区の住民 と用宗地区以外か ら来ている人の差 異はみ られなかった。また、北は 」
R東海道線の線路までが範囲だ と考 えている人が多かっ た。すなわち、用宗地区を客観的にみた ときには、現在の行政区分、特に用宗 1丁 目か ら 5 丁 目が
'用 宗」を示す範囲だ と多 くの人が考えていることがわかる。
続いて、「自分の感覚でみた ときの用宗の範囲」の結果 より、用宗地区に対す る人々の主 観的なとらえ方をみていきたい。回答を分析す ると、用宗
1丁目か ら 2丁 目のなかでも移 住 してきた住民 (以 後、 Aと す る
)、用宗
3丁目から
5丁目のなかでも古 くか ら住む住民 (以
後、
Bとす る
)、そ して用宗地区以外の人 (以 後、
Cとする
)で異なつた。
Bで は、 自分たちが住む 3丁 目か ら
5丁目、または用宗駅を中心 とした ところが感覚的 な範囲だ と答える人が多かつた。石部地区を含めた範囲を回答 した人 もいたが、 Bは 比較的 狭い感覚で用宗をとらえる傾向にあることがわかる。次に Aと Cで は、線路より南を範囲 と考える人や、石部地区や広野地区を含める、あるいは石部地区は含むが広野地区は含め ない地域を範囲と考える人など、回答がさまざまであつた。 しか し、
Aと CはBほ ど具体 的ではなく、他の地区も含まれるものも多かったため、比較的広い感覚で用宗をとらえる 傾向があるといえる。
42 地域と住民のつなが り
以上より、用宗地区に対する住民の意識を考察したい。まず、
Bは、徳川幕府の直轄地で あつた用宗の歴史から、自分たちの地域への誇 りを強く持つていると考える。理由として、
第
1節で述べたとお り、用宗
3丁目から
5丁目は先代から住む家で、さらに地元の有力者 の家系が多いことが挙げられる。
また、前項で Bの 人々が石部地区を用宗の範囲に含めた人もいたことから、石部地区と は海を通 じてつながつているが、広野地区とは区別するとい う意識 もあると考えられる。
これについて、静岡大学人文学部 日本史学研究室の研究によつて明らかとなった、以下の ことも根拠 として挙げられる。すなわち、用宗地区と広野地区は海に面した隣同士である ことから、昔から浜の村境や漁場の確保、漁業権の維持などたびたび争論が起こつていた という (静 岡大学人文学部 日本史学研究室 2005:23‐ 28)。
一方、 Aは 用宗地区と周辺地区の区別が明確ではないと考えられる。これは、特に地区外 の生まれで仕事の関係などで引つ越 してきた人などが多く、用宗地区との関わ りが比較的 薄いことが背景として考えられる。また、 Cに も同様の理由が考えられる。
このように、用宗地区における住民の地元意識は、地域 とのつなが りが深く関わつてい る。 しかしながら、地元意識が強い用宗
3丁目から 6丁 目の住民の意識に変化が生 じてい ることもわかつた。第
3節で、地区外からの流入者の増加が祗園祭における当番制の変化 の要因の 1つ となつたことを述べたが、これも住民の意識変化の表象であると考えられる。
‑78‑
また、前田篤史氏 (男 性、
64歳)の 話によると、今の用宗地区は、昔 と比べて近所付き合 いや助け合いが減 り、近所 をは じめ住民同士のつなが りがな くなつてきたそ うだ。サラ リ ーマンな ど外か ら人が流入 して くることにより、音の伝統や風習がな くな り、まちのまち 全体の個性や、古 くか らの屋号 もな くなつて しま うが、これは社会の環境変化ゆえの こと で、 しかたないと前田篤史氏は語 つていた。
さらに、仁科良方氏 (男 性、
76歳)の 話では、昔か ら現在までの用宗の変化 として、昔 は子 どもの声が聞 こえたが、みな都会に行つて しま うために若い人が少な くなつた とい う。
長 田南地区のそれぞれが土地意識 を持 つていたが、若者の減少で年配の方同士で協力 し合 う動きが生まれ、意識 が弱まつてきた と仁科良方氏 は話 していた。 したがつて、昔か ら用 宗地区に住む住民は、 こ うした住民、そ してまち全体の変化 を徐 々に受 け入れつつあると いえる。
5 おわ りに
以上、本稿では用宗地区の地元意識について、地域 と人のつなが りをみながら考えてき た。用宗は歴史あるまちであり、それゆえに住民同士のつなが りが密接で、地元意識が強 いことがわかつた。 しか しながら、そ うした状況が移住 してきた住民との間に壁を作つて いたことも事実である。
こうした状況もふまえて、用宗地区は今、改革の時期に入つている。歴史の古い地域で は若年層が流出し、新興地域では逆に増加 しているが、現状が祗園祭の当番制の変化にも つなが り、用宗地区の一体化がはかられている。これにともない今後、新たな用宗地区が 倉 1造 され、住民の地元意識にさらなる変化が生じることが考えられる。
謝辞
本調査を行 うにあたつて、多くの方々のご協力をいただきました。皆様のおかげで、快 適に調査をおこなうことができました。この場を借 りて厚く御礼を申し上げます。
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79‑用宗地区における住民の地元意識〜地域 と人のつなが りか ら考える〜
参 照 文 献
京都紙園祭
2014 「祗 園祭 の概 要」京都 祗 園祭 ホー ムペ ー ジ (2014年
10月 6日取 得 、
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静岡県総務部合併推進室・ 静岡県市町村振興協会
2010 「静岡県市町村の変遷」静岡県公式ホームベージ
(2014年11月
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