平 成 7年度 国立 大 学 図書 舘 協 議会 公 開事 業
幕 末 ・明治期 古 写 真 等 資料 展
〜忘れられた日本の風景、 風俗〜
二 三 :
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長崎出島 とロシア人居留地
展示 開催舘 ・開催期間 京都大学附属図書館 名古屋大学附属図書館
東北大学附属図書館 東京大学 附属図書館
(平成 7年11月 6日〜12日) (11月27日〜12月4日、
11月30日は休館) (12月11日〜17日)
(平成 8年1月23日〜 2月12日)
ご あ い さ つ
現代社 会 においては、大学 は社会か ら孤立 した象牙 の塔 であるこ とは許 されず、大学 はその活動成 果 を 様 々な形で社会 に還元することを求め られています。
大学図書館 は、大学 と社会 との接点 となるには最適の組織 である と思 い ます。大学図書館 は昔か ら学外 の 研究者 に対 して もサ ービスを提供 して きま した し、 また公 開事業の場 ともなって きました。即 ち、大学 図書 館 は本来社会 に開かれた大学の組織 であったのです。 この ような大学図書館 の特徴 は、今後 も守 り続 け更 に 発展 させ てい くべ きで しょう。
今 回の国立大学図書館協議会主催 の公 開事業 も、このような考 え方か ら生 まれたものです。各国立大 学の 附属図書館 には非常 に多 くの貴重 な文化財が蓄積 されてい ます。 これ らの文化財 は、篤志家の寄付 によった り、貴重 な国費 を使 って購入 した ものが多 く、後世に伝 える と共 に、関心ある人々に公 開することも大 学の 義務 である と考 えてい ます。 このため、多 くの国立大学附属図書館 は公 開展示会 を開催 して きま した。 しか し、その展示内容 には非常 に興味あるもの も多 いだけに、 もし関連ある展示物 をもち寄 って複数の図書館 に よる巡回展示会 を開催することがで きれば、更 に興味深い成果が生 まれ人々の関心 を呼び起 こす ことが期待 されることは想像のつ くところです。
幸 い、本年 は長崎大学附属図書館の ご協力 によ り幕末 ・明治の古写真 をお借 りすることがで き、 また トヨ タ財 団の ご援助 をいただ くことが可能 とな りま したので、この古写真 を中心 に四大学の附属図書館 を巡 回す る方式で全 国規模 での公 開展示会 を開催することとな りました。
この ように国立大学附属図書館が協力 して事業 を行 うことは、は じめての ことであ り、一部不慣 れな こと もあるか と思 われ ますが、長崎大学挙 げての協力 と開催する四大学 を含め国立大学図書館協議会 に属す る図 書館 員の献 身的な努力 によって、 この展示会が可能 となった ことを心か ら嬉 しく思ってお ります。
これが一つの契機 となって、大学 と社会の交流が一層深 まることを願 ってやみ ません。
国 立 大 学 図 書 館 協 議 会 会 長 東 京 大 学 附 属 図 書 館 長
閑 原 成 允
ご あ い さ つ
平成
7
年11月か ら平成8
年2
月にかけて国立大学図書館協議会主催 、長崎大学附属図書館共催、 トヨタ財 団後援 の公 開事業 『幕末 ・明治期古写真等資料展 〜忘れ られた 日本 の風景、風俗』の展示会が各地 区で巡回 して開催 されます。 ここでは、長崎大学附属図書館所蔵貴重資料 「幕末 ・明治期 日本古写真 コレク シ ョン」の中か ら厳選 した古写真(100セ ッ ト)が展示 され ます。
さて、 この コレクシ ョンは、時期 的 に幕末 ・明治 とい う日本 の写真 史の草創期 に撮影 された写 真 類 であ り、その歴史的価値が高いばか りでな く、 これ ら古写真 を通 して得 られる多面的な情報 は近代 日本 の生 い立 ちを研 究す る上か らも貴重 な資料であ ります。
今 回は、 この コレクシ ョンの中か ら、お よそ
1 0 0
年以上前 の風景 ・風俗が鮮やか に映 し出 された もの、近 代 日本 の形成期の姿 を表現 し、 また、歴史的にも重要 と思われる事物等 を中心 に抽出 し、時代背景 として鎖 国時代 、安政の五 カ国通商条約 を経 て、外 国人居留地文化の時代 、明治の文明開化の時代 にわた っていま す。加 えて当時の 日本各地の様子 を垣 間見 る内容 となってい ます。最後 に、今回の企画 に惜 しみないご協力 と解説作成 に貴重 なご投稿 をいただいた長崎大学古写真研 究会の 歯学部安 田克贋教授、教養部若木太一教授 、姫野順一教授、工学部 岡林隆敏助教授 に多大 の感謝 をいた しま す。 また、開催 を受け持 たれる京都大学附属 図書館、名古屋大学附属図書館 、東北大学附属図書館 、東京大 学附属 図書館の関係者の方々、そ して準備 されま した長崎大学附属 図書館巡 回展準備委員会皆様 の ご苦労 に 感謝 をいた します。
長崎大学附属図書館長
幕 末 ・ 明 治 期 古 写 真 等 資 料 展
〜 忘れ られた日本の風景 、風俗 〜
は じ め に
幕 末期 、 日本 に もた らされた写真技術 の普及 によ り、
日本 の 「伝統社会」 か ら 「近代社会」への過渡期 の映像 が多 くの古写真 と して残 されている。開港 によ りヨーロ ッパの技術 と文化 が怒涛 の よ うに流入 し、暮未 か ら明治 に力りナて 日本 は中心都市 か ら地方都市 、 さらに は農村へ と近代化 、洋風化 が進 んでい くが、各地の風景 や庶 民の 生活 に は古 い景観 と風俗習慣 が混在 していた。 これ ら幕 末 ・明治の 「洋風化 ・近代化」 は 「伝統」 と入 り混 じり、
特有 の 「忘 れ られた 日本 の風景 、風俗 」の映像 と して舌 写真の なかに残 されいる。今 回の企画展 は これ らをタイ ム ・ス リップ させて各会場 に映像 と して再現 するもので ある。 これ らは長崎大学 附属図書館 が所蔵 する幕末 ・明 治期古写真のなかか らテーマに即 して展示写真 を厳選 し、
展示館 の独 自出展 とあわせて公開 するもの であるが、国 立 大学 の所蔵 す る貴重資料 の社会 公開の一環 と して参観 者 に十分堪能 していただ きたい。
旦 1享 .I幕末開港 と長崎
長崎 は鎖 国期 か らオラ ンダ ・中国にたい して開溝 され ていたが、幕末期には他の欧米諸国にも開港 された結果、
それまで以上 に多種 多様 の外来文化 が伝来 し、 これ とわ が国の伝統 文化 とが融合 していた。 この章 では、暮未開
港 か ら明治 にか けての長崎の映像 を再現 す る。 オ ラ ンダ 東 イ ン ド会社 (の ちにオランダ通商会社) のおかれてい た 「出島」 は外 国人居留地 に編入 され、対岸 に は ロシア の居留地が設営 され、幕末開港期 の長崎 は振 い を きわめ ていた。 この長崎 には横 浜の下 岡蓮杖 とな らんで 日本 の 写 真技術 の開祖 とされる上野彦馬 が撮影局 を開設 し、多 くの写真 を残 している。 この上野彦馬 と横 浜 で最初 の外 国人職 業写 真家ベ ア トとの深 い交流 は本章 では じめて明
らかに されている。
第 1章 第 1節 長崎外 国人居 留地 と出島
1 南山手 か らの大浦 と出島 ( 2 枚続 き)・
1 7 . 9×2 2. 7 ( 5 8 ‑ 3 2 )
安政
5
年( 1 858
年)五 ヶ国修好通商条約 によ り長 崎 は 開港す るこ とにな り、安 政6
年( 1 859
年)8
月か ら外 国 人居留 地の建設が始 まった。外 国人居留地 の建設 は、長 崎市街 の南部の大浦湾 を埋め立 て、東 山手 ・南 山手 を造 成す る ことによ り始 まった。 この写真 は、大浦居留 地が 完成 した直後の文久2
年( 1 862
年)頃 の写真であ り、大 浦居留地の初期の様子 を見ることがで きる。東山手 には、造成 のため に土砂 を削 った跡 が まだ残 っている。居 留地 の向 こうには出島が見 えてい る。長崎大学 附属 図書 館が 所蔵 す る写真 の中で最 も古 い写真 であ る。
2
星取 山か らの長崎港21. 0×27. 5 ( 28 ‑23)
大 浦居留 地背後 の 山か ら、大浦居留 地、 出島、長 崎湾 の湾奥 を撮 影 した写真 であ る。大 浦居留地 と下 り松 居留 地 を結 ぶ初代 の弁天橋 が架設 され 、出島 には出島新橋 が まだ架 設 されてい ないので、慶応 元年
( 1 8 6 5
年) 頃の写 真 であ る。幕末 の長 崎港 に多 くの船舶 が停 泊 し、繁 栄 し た外 国人居留地 の情景が分 か る写真である。明治期以 降、第 1次 、第
2
次長崎港港湾改修工事 の埋 め立 て に よ り、海岸部 の地形が大 き く変化 した。 その ため に、 この写真 は江戸 中
期 以 降 の 長崎湾 の 地形 を知 る上 で貴 重 な写真 となって い る。
3
長幅 出島 とロシャ人居 留地5. 5×8. 8 ( 1 7 ‑34)
中国人の居留 地 (唐鋸 ) の倉庫 として建設 された新地 義 (しん ち くら) と、 オ ラ ンダの居留 地 であ る出島 (蘭 鰭 ) を撮 影 した写真 であ る。 手前 の長 い建物 が新 地蔵 の 倉庫群 、 中央 の緩 や か な弧 を措 い てい る場所 が 出島であ る。 出島が外 国人居留地 に編入 される慶応
2
年( 1 8 6 6
年) 頃 には、遊 歩道 や橋 の建設 に よ り、江戸時代 の出島の地 形 が変化 す る。撮影 され てい る出 島は、 これ らの手 が加 え られ る前 の、江戸 後期 の姿 を残 してい る。対 岸 の稲佐 地 区 には、 ロシャ人 が仮 泊 した場所 が あ った。慶応 元年( 1 8 6 5
年)6
月、F.
ベ ア ト( F. Be at o)
の撮 影 であ る。4
新地蔵 と出島 TheFarEast
1 3. 5×1 9. 4 ( 2ト28)
慶応 3年
( 1 8 6 7
年 ) 出 島が居 留 地 に編入 され た。長崎 居留 地 の北端 で あ る出島か ら、居 留 地南部 の娘 の平 にか けて、海岸 沿 いの道路が 建設 され た。 この とき、 出 島新 橋 、新大橋 、梅香 崎橋 の 3橋 が 明 治 2年 (1869年 ) に建 設 され た。 この3
億 が撮 影 され てい る。 いず れ も伝 統的 な木橋 であ る。橋 は、 出 島か ら築 町 、築 町か ら新 地 蔵、新 地蔵 か ら梅香 崎居留 地 にか けて架設 され てい る。 道路 には街灯 が配置 され てい る。 この写真 は、横 浜 で発 行 さ れ た新 聞
『T heFarEa st
』 明 治4
年( 1 8 71
年 )7
月1 日
号 に添付 され てい た もの で あ る。5
大浦川 口 TheFarEast
1 0. 5×1 7. 6 ( 2ト3
1)大 浦川 中流 か ら川 口 を見 た風 景 で あ る。大浦 川 の下流 に架 か ってい る橋 は、明治
3
年( 1 870
年) 架設 の桧 が枝 橋 であ る。写真 には大浦 海岸 沿岸 の道路が撮影 され てお り、道路 の縁 石 、舗装 の石畳、 4
間幅 と思 われ る道路 の 幅員 (ふ くいん)が読 み取 れ る。橋 の た も との特徴 的な 街灯 、下 り松 の 由来 を示 す松 の木 を見 る こ とが で きる。下 り松居留地 の洋風 建築 も鮮 明 に撮 影 され てい る。
6
南山手 か らの大浦居留地2 0 . 8×2 6 . 6( 2 6 ‑ 4 3 )
この写真 は明治
1 0
年( 1 8 7 7
年)頃 に撮影 された ものであ る。写真 中央 に大浦海岸通 りがあ り、その先 に出島があ る。出島の前面 に広 く干潟 (ひが た)が鉱が っているが、これ は中島川か ら流 出 した土砂 が堆積 した ものであ る。
このため に、長崎港o)港湾機能が低下 し、長崎県 はデ レ‑
ケ
( Dri j ke)
の指導 を受 け、明治1 8
年( 1 8 8 5
年)第 1次 長崎港改修工事 によ り中島川 を出島の背後 に変流 した。その後 、 出島前面が埋 め立 て られて江戸期 の出島の姿 は 消滅 した。 出島が消 滅す る原 因 となった、中島川の干潟 が撮 影 された写真 である。
7
大浦海岸通 り2 0. 7×2 6. 4 ( 8 ‑ 2 )
明治 中期 の大 浦海岸通 りを撮影 した写真 であ る。大浦 海岸通 りには、街灯 が設置 され、街路樹 が植 え られ てい る。通 りに面 して、商館 や領事館 の洋館 が整然 と並 んで お り、当時 の質 の高 い景観 を見 る ことがで きる。手前 の 橋 は明治 3年
( 1 8 7 0
年)建設 された下 り松 (松 が枝橋 ) である。木鉄混交の ポース トリング トラス橋 である。近 代 の橋 梁技術 に よ り設計 された ものであ る。欧米諸 国か らは、外 国人居 留地 に近代 的 な都 市計 画、洋風 建築 、近 代土木構造物等 が移植 され、 これ らが わが国 に定着 す る 過程 を古写真 か ら見 るこ とがで きる。8
大浦居留地洋館群1 9 . 4×2 5 . 8 ( 7 5‑
1)明治中期 の大浦居留地 と長崎港 を撮影 した もので ある。
大浦海岸通 りに面 した商館 と領事館 の建物 が背後 か ら撮 影 され てい る。写真右の道路 は、石畳舗装 され当 時 の代 表 的な道路交通手段 であ る人力車が止 まっている。長崎 港 には多数商船 や艦艇が停泊 し、繁栄 していた長 崎港 の 様子 を知 る ことがで きる。写真 の鮮 明 さと、彩色 の技術 の高 さを感 じさせ る写真 であ る。
9
東山手の ラッセル館2 0 暮 2×2 6 . 5 ( 5 8 ‑1 0 )
明治
2 0
年( 1 8 8 7
年)頃の東 山手居留地 を撮影 した写真 である。 山の上 の建物 は、現在 の活水学院の ラ ッセル館 である。 この建物 は明治1 5
年( 1 8 8 2
年 ) に建設 され た。細部 の美 しい木造 の建物 であ る。右下 の建物 は、東 山手
1 2
番館 (旧プロシャ領事館、現県指定文化財)であ り、現在残 されて活用 されている。学校 の石垣 や道路 は硯在 で も残 されてい る。明治 中期 の写真 は、手彩色 の写 真 で あるが特 に この写真 は、色彩 が美 しく仕上が ってい る。
1 0
梅香崎洋館群 と出島2 0. 0×2 6 . 0 ( 7 5 ‑ 2)
明治 中期 の梅香 崎居留地か ら出島を撮影 した写真 であ る。手前 の建物 は、左 か ら長崎郵便局 、デ ンマ ークの大 北電信 、 日本郵船 の建物 である。 デ ンマー クの国旗 と日 本郵船社旗 が立 っている。写真 中央 は出島である。明治
2 6
年( 1 8 9 3
年)竣工 の第 1次長崎港改修工事 によ り、中 島川が出島の背後 に変流 されている。明治2 1
年( 1 8 8 8
年) 架設 された出島橋 や、現在残 されてい る出島神学校 が見 える。出島の先の丘の上の建物 は、長崎県庁 (長崎奉行所 防)である。 明治3 2
年( 1 8 9 9
年)外 国人居留地が撤廃 され るが、居留 地時代末期 の風景 である。第
1
章 第2
節 長 崎港 と市街 の鳥 撤 (ち ょうかん)1 1
飴 の浦か らの汽船 と南山手明治
2 0
年代 中頃21 . 1 ×2 7暮 3 ( 21 ‑1 2 )
飽 の浦 か ら対岸の浪の平町 と南 山手方面 を遠望 してい る。 中央 の大 きな建物 は明治
2 0
年( 1 8 8 7
年) に建 て られた 鎮鼎小学校 (後 の狼 の平小学校) 、その左手 の赤塗 りの 建物 は南 山手2 5
番館 (現在 は犬 山市、明治村 に移築)、その上 は聖ベ ルナール病 院。艦船 そば には石炭仲仕 (な か し) につ なが る 「艦船積 み込み」 の珍 しい風 景が見 ら
。
1 2
長嶋の上方型弁才船 とイサバ船2 3. 8×2 8. 7 ( 2ト1 8 )
長崎大浦 にお ける大型 ・中型の弁才船 とイサ バ船 、向 か って右側 の二隻 は比較的大型で
1 , 0 0 0
右横級 の上方型弁 才船 、中央一隻 は中型で5 0 0
石積級 の弁才船 (北 前型 ?) である。左側 一隻 は小型 で船型 も異 な り、櫨 (船 尾 )屋 倉が な く鳥居立 (帆柱 を倒 した時 に乗せ る船尾 の 門型の 枠 )が あ る こ とか ら、小廻 し (近距離) の荷船 と して上 方 (関西) を中心 に活躍 したイサバ船 であ ろ う。 帆裳 に 洋式化 は見 られず明治1 0( 1 8 7 7
)年代撮影。1 3
大浦天主堂裏 か らの長嶋港 上野彦 馬21 . 2×2 7. 2 ( 73 ‑ 28 )
上野彦馬 アルバ ムのなかの一枚 であ る。大浦 天 主堂は 明治
8
年( 1 8 7 5
年)改造 され、三つ尖塔か ら一つ になる。大浦川 に架 か っている弁天橋 が木鉄混交 の ポニ ー型 ダブ ル ワー レン トラス形式 となってい るか ら明治
2 2
年( 1 8 8 9
年)前後以 降の写真 であ り、湾奥 の浦上川河 口の埋 め立 てが始 まっていないので、明治
2 0( 1 8 8 7 )
年代 の後半 頃の 撮影であ る。 中央 はベル ビュー ・ホテルで幕末 の写真で はコの字 であ ったが この写真 では増築 され て 日の字 型 に なっている。1 4
長崎市街 の中心部 と出島 ・大浦居留地 ベ ア ト1 8 6 6 年 1 月
1 5 . 3×21 . 1 ( 1 7 ‑ 3 )
福 済寺 の裏 山か ら長崎の街越 しに出島 ・大浦居留地 を望 む ものであ る。左 中央 は出島でその下 の丘 には長崎奉行 所西役所 の建物 が見 える。大浦の天主堂 は改築前 の もの であ り、その横 には まだ羅典神学校 はみ られ ない。大浦 のバ ン ドとよばれた海岸通 りには商館群が建 ち並 んでい る。右下の海 に面 した大 きな建物 は諸藩の蔵屋敷である。
1 5
長崎市街 の中心部 と出島 ・梅香崎居 留地 ベ ア ト1 8 6 6 年 3 月
1 7. 8×2 1 . 6 ( 1 7 ‑ 2 )
風頭 か ら望 む長崎 の街 と長崎港 。べ ア トのキ ャプシ ョ ンの 目付 けか ら
1 8 6 6
年 3月の ものであ る こ とがわか る。右上 の出島横 、 中島川 口にはまだ新大橋 が架 け られてい ない。唐 人貿易 に供せ られていた新地蔵 の裏 は まだ海の 名残 が あ り、その横 の梅香崎 には まだ洋館群 が建 て られ ていない。右上 の茂 みの側 には長 崎奉行所 西役所 の建物 が見 える。長崎 の鳥撤 (ち ょうか ん)写真 と して古 い も のの うちの一枚 であ る。
1 6
中島川沿いの長臆市街中心部 明治 中期1 6 . 3×21 . 7 ( 21 ‑ 6 )
写実 中央 に中島川が流 れ、旧市街地 中心部が撮影 され ている。川 と通 りで区切 られた長 崎の町建 ての様子 が よ くわか る。 中央 の大 きな洋風建築群 は、県庁前 の通 りに 面す る裁判所、学校 であ る。対岸 には稲佐 の集落 と、左 隅 には飽 の浦の造船所 を見 ることがで きる。
1 7
どんの山か らの市街地 ベ ア ト1 8 6 4 年
21 . 3x2 8 . 9 ( 2 8 ‑ 2 7 )
どんの山か ら片淵方面 を望 むベ ア トに よる幕末 の長崎 パ ノラマ である。右手下 は寺 町。 中央 の大 きな建物 は、
オランダの医師 ボ ンベ ・フ アン ・メールデル フ ォール ト の要請 で、幕府 の許可 を得 て文久元年
( 1 8 6 1
年)9
月 に 長崎小 島郷 に完成 した 日本最初の洋式病院 「長崎養生所」(小 島養生所 ともい う) であ る。病院 は
H
字形 の2
棟 で 左 手西側 に医学所 (長崎大学医学部 の前 身)が併 設 され ていた。 わが国の西洋医学発祥 の地であ る。第 1章 第 3
節 上 野 彦 馬 とベ ア トの長 崎
1 8 中島川 と上野彦馬邸 ベア ト 1 8 6 4 年 2 2. 0×2 8. 6( 2 8 ‑ 3 3 ) 中島川と上野彦馬邸 上野彦馬 明治 中期
1 6. 1 ×21 . 3 ( 21 ‑ 8 )
上 はベ ア トが元治元年 (1864年)長崎来訪の時 に撮影 した中島川上流 と上野彦 馬の邸宅 (左側
2
軒 目の石垣の 衣)の写真である。彼はこの写真 に 「長崎の小川の景色」と題 してい るが、彦馬へ の言及 はない。彦 馬 は文 久
2
年 11月、父俊 之丞が精錬所 を造 っていた この新大工 町中島 川端で写真館 (上野撮影局) を開局 していた。 この写真 か らも彦馬 とベ ア トとの直接 の交流が推測 され る。下 は 上野彦 馬 に よるベ ア トの 「中島川 と上野彦馬邸」 と同 じ ア ングルの写真 である。上野彦馬邸 は奥 の 白塀 の ように 改築 されている。19 ベア トによる長幡写真
一枚 シー ト
(25.1x21.1cm) に名刺大
5枚張 り付 け 1 8 6 4 ‑1 8 6 6 年 ( 1 7 ‑2 7‑1 7 ‑ 31 ) 1 7 ‑ 2 7
は" A gr ou p ofJa panesewo men after t ea
&同一の ようであ る。
1 7 ‑ 2 8
のお高祖頭 巾の女性の写真 は上野彦馬 とベ ア トを 結 びつ ける決定的な写真である。ベ ア トは これ にH Ni g ht
Dr ess"
(夜 の装束) と題 しているが、 この提灯 の紋所 は「桔梗 の二引」 とよばれ る上野家 の家紋 であ る。 したが って この女性 は上野彦馬の姉妹の一人の可能性 が大 きい。
おそらくこの写真 は上野邸の庭で撮影 された もの であろう。
1 7 ‑ 2 9
も謎 の写 真 で あ る。 ここでベ ア トはH chi nes e wo ma n ' Ahi ng'
=中国の女性 「ア‑ ヒン」 ) と説 明 している。 同 じ写真 について朝 日新 聞社 『延 える幕末 』 は 「お もちさん、ル ドルフ ・リン ドウ ・スイス領事の 日本人妻」
と解説 してい る。
1 7 ‑ 3 0
は= Go ver norofNa gas a ki "(
長崎 の奉行 ) と記 さ れてい る。 この奉行 は文久3
年( 1 8 6 3
年)5
月 、 日付 ・ 小納戸頭取 か ら長崎奉行 に着任 し慶応2
年( 1 8 6 6
年 )1
月 に長崎 を離 れた服 部長 門守 (常純、左衛 門左 )か 、慶 応元年 (1865年 ) 日光奉行 か ら
1 2
月長崎奉行 に着任 し、慶応
3
年( 1 8 6 7
年)長崎 を離 れた能勢大 隅守 (頼 之)の どち らかであ る。1 7 ‑ 3 1
の写真 もベ ア トと彦馬のつ なが りを証 明す る もの で あ る。 ベ ア トは この写真 を= Ja paneseMerchants
良c hi l d"
(日本 の商人 と子供) と説 明 してい るが 、背後の 敷物 と椅子 か らこれ は上野撮影局 の写場 であ る こ とがわ かる。 この商人が誰 であ るか まだ不明であ るが 、彦 馬ゆ か りの者 か も しれない。2 0
工部省長崎工作分局飴 の浦工場上野彦馬
1 8 7 9
年頃1 1 . 9×2 0. 1 ( 21 ‑ 3)
「長崎製鉄所」 (最初 は長崎鋳鉄所) はオランダ人ハ ルデスの指導 と本木 昌造 らの努力 によ り文久元年
( 1 8 6 1
午) に完 成 した。明治政府 は トーマス ・グラバ ーの小管 修船場 をこれ と合併 させ 、明治
4
年( 1 8 7 1
年)4
月工部 省 の所 管 と して長崎造船所 と改め、翌年長崎製作所 と改 名 した。 明治1 0
年 (1 8 7 7
年) には長崎工作分局 と改称 さ れ、明治1 7
年( 1 8 8 4
年)か ら明治2 9
年( 1 8 9 6
年)三菱会 社長崎造船所飽 の浦機械工場 となる。21
飽 の浦 の民家ベ ア ト 1 8 6 4 年 2 2. 3×2 9 . 3 ( 2 8 ‑1 6 )
長崎 の対 岸 になる飽 の浦岩瀬道 にあ った民家 で、長崎 製鉄所 (現三菱長崎造船所 )の蘭人止宿所 である
。 2
階 か ら外 を眺めているの は長崎製鉄所 のなか に造船場 を建 設す るため に、ハ ルデス帰 国の後文久2
年( 1 8 6 2
年 )お 雇 い外 国人 と して長 崎 を訪 れて、一部 を改造 した民家 に 止宿 (LLゆく) していた、造船師カール ・レ‑マ ン( C.
L e h ma n n)
か造営 師の シャルル ・レミ‑ ( C. Re my)
のいず れか と思 われる。2 2
蛍茶屋 と‑ の瀬橋 明治 中期2 0. 3×2 6. 7 ( 5 8 ‑1 2 )
「中島川‑ の瀬橋 」 の左 手 の蛍茶屋 か ら長崎街道 を登 りは じめた地点 であ る。 この街道 はやがて 日見峠へ と至 る。人力車夫 は まだ督 (まげ) を結 っている。‑ の瀬橋 辺 りは 「市瀬晴嵐」 と して長崎八景の名勝 に数 え られて いた。承応
2
年( 1 65 3
年)築造。左手の建物は蛍茶屋 で、後 ろの丘 は矢 の平 であ り、今 では民家が密集 してい る。
長崎の人達 は旅 人 を送 る とき、 この橋 まで見送 った。
2 3
中島川 の橋 小川一真 明治 中期2 1 . 3×2 7 暮 0 ( 9 ‑ 4 0 )
中島川 に架か る一覧橋 (手前) と古 町橋 (輿 )。
橋 の上 には街灯 、 シル クハ ッ トの男性 、人力車 と いった明治 の風俗 がうかが われ る。左手 のお寺 は 光永寺。 この寺 には幕末、 中津 の奥平侯 と福 沢諭 吉が寄宿 した こ ともある。明治 には初 めての長崎 県議会 の議 場 ともな った。長崎 には他 に眼鏡橋 等 があり、現存 す るわが 国の アーチ構造石橋発祥 の地。
2 4
興福 寺 開山堂 と麹屋町ベ ア ト 1 8 6 4
年 頃2 2 . 6x2 8 . 3 ( 2 8 1 2 8 )
中央 は元和
6
年( 1 6 2 0
年)開創 のわが国最初の黄葉宗の 唐寺で ある未 明山興福寺 の開山堂。石畳の舗装道路 は人 力車 のためであ る。背後 は風頭 山。ベ ア トの代表 的 な写 真 であ る。2 5
本籍町 (もとか ごまち)商店街明治 中期
2 0. 1 ×2 5 . 9 ( 7 5 ‑ 8 )
丸山か ら居留 地 に通 じる本寵 町の通 りは外 国人向 けの 日本人商店 が林 立 していた。看板 はロシア語、英語 で書 かれ、金銀細工所、床屋 、雑貨屋 が見 られ る。 い ちばん 手前の左側 の店 は写真館
( T. S HI R A Y A M A)
であ り、店頭 に はお土 産写真 の見本 が並べ てあ る。通 りの外 国人夫妻 は イギ リス人であ ろ うか。2 6
倍真寺外 国人墓地 上野彦馬 明治初期2 0. 6×2 6 . 8 ( 2 6 ‑ 2 0 )
稲佐 の浄土宗情実寺墓 地。 キ リシタ ン時代以 後 の仏法 再興 の最初 の寺 であ り、在留唐 人 の菩提寺 ともなったた め開国 まで外 国人の墓所 とな った。 中央 に見 え る白い塔 はギ リシア正教 の堂 であ り、 ロシア人の墓域 にあた る。
その右手 はオラ ンダ人墓域 であ り、 日本 で客死 した出島 のオラ ンダ商館 長 デュル コー プの墓 な どがある。
r車 t妻..‑.3洋風化・近代化‑ 日本各地の光と影
本 章 で は西洋 文化 の影 響 によ る 日本 各地 の近 代化 の進 展 の模 様 と、失 われた風景 や構 造物 の映像 が示 され てい る。外 国人居 留地 の土木 構 造物 や建 築物 、鉄道 、橋 梁 、 道路 、上水 道 や ホテル 、外 国人 に よって変化 した保 養地 な どは明治 の新興風 景 で ある。他 方 、お き ざりに された 徳 川幕 府 の遺構 も当時 は壮 大 な もの で あ った。新 たに造 成 され た横 浜 や神戸 の町 、江戸 の 中 に首都 と しての体 裁 を整 えて ゆ く東京 、変貌 す る古都 京都 、大 阪 ・神戸 の近 代化 、明治
2 4
年( 1 8 9 1
年)の濃尾地震 、中山道の宿場町 、 函館 、松 島 、下 関 な どの幕 末 明治 の映像 が再現 され てい る。第
2
章 第1
節 横浜 開き巷場 と洋風 建築安政
6
年( 1 8 5 9
年 )開港 した横 浜 は外 国人居 留地 と日 本 人町 か ら成 り立 ってい た。横 浜居 留地 の外 国人 た ちの 活 動 が 日本 に及 ぼ した影 響 は長崎 の外 国人 た ちに よる影 響 に比 べ 、 その地理 的条件 の ゆえに経 済 的 に も文化 的 に も大 きな もの で あ った。幕 府 時代 に西 洋 文 明の入口 だ っ た長崎 はその地 位 を横 浜 に譲 る こ とに な り、後 に神 戸 も 加 わ って一 時 田舎 町 へ と凋落 した。 と くに文 明 開花 の象 徴 であ る鉄 道 が果 た した影響 は大 き く、長 崎 の町 に鉄道 がや って くるの は明治3 8
年( 1 9 0 5
年) にな ってか らの こ とで あ る。 しか しなが ら、幕 府時 代 に造 られた医学伝習 所 お よび 日本最初 の西洋式病 院 は長崎 医科 大学 を経 て長 崎 大学 医学 書机こ、長 崎鋳鉄所 は官 営長 崎造 船所 、三菱造 船所 とな り近代 的 な長嶋 の町 へ と発展 した。幕 末期 、長 崎 にお い て起 こ った様 々の 出来事 が 日本 の近代 化 に大 き く貢献 した こ と、 また、原子 爆弾 の投 下 が第2
次世界 大 戦 終結 の契機 に な ったこ とな ど、長 崎 は何 時 も 日本 の歴 史 の転機 に関 わ っていたの で ある。27
横 浜居 留地 パ ノラマ2 0 . 2x2 6 . 1 ( 5 5 1l ‑ 2 )
野毛 山辺 りか ら東 南東 方 向 を撮 影 した横 浜居 留地パ ノ ラマ写真 で あ る。写真 中央 には米 国人建 築 家
R.P.
ブ リ ッジェ ンス の設計 に よる横 浜停車 場 が見 えてお り、その 左 側 には プ ラ ッ トホ ームの上屋 が 長 く伸 び てい る。停車 場本屋 の左 上 には生 糸改 会社 の建 物 が 、 ホ ームの左端 には機 関庫 の建物 も見 え、 その上方 には停 泊 中の船 舶 が見 えてい る。停 車場本屋 の右側 には大江橋 が見 え、 対 岸 に は明治
7
年( 1 8 7 4
年 )、2
代 目清水喜助 の設計 に よる外 務 省接 客所 と蓬莱社 の建物 が見 える。 明治期 の有 名 な写 真 家 下 岡蓮杖 等 が経営 す る成駒 屋 は明 治2
年( 1 8 6 9
年 )か ら京 浜 間 に乗 合馬車 を運行 していたが 、鉄道 の 開通 に よ り経 営不振 に陥 った とい う。
2 8
谷戸橋 と横浜居留地2 0 . 9 ×2 6 . 8 ( 3 ‑5 )
海岸 通 り南端 の堀 割川 に架 け られた谷戸橋 は明 治
2 0
年( 1 8 8 7
年 ) に横 浜4
番 目の鉄橋 として架 け替 え られ た。写真 の谷戸橋 は未 だ木橋 で、左側 には居留 地へ の 出入 り をチ ェ ックす る番所 の門柱 が見 えてい る。堀割 の右 側 は 関内の外 国人居 留地 で、手前 の半分見 えて い る建 物 は居 留地
3 0
番 の グラ ン ドホテル、その隣 りの2
階建 は3 9
番 の ヘ ボ ン邸 で あ る。 その隣 りの切妻屋根 は6 9
番 で、万 延元 午( 1 8 6 0
年 ) に蘭人 フライ と英 人 ク ックの共 同経 営 に よ る造船 所 が 開設 され た場所 で あ る。写真 中で谷戸橋 下 中 央部 に見 え る石垣 の 出張 りは この造船所 ドック‑ の渠 口 であ っ た。 この造船所 は慶応2
年( 1 8 6 6
年 ) か らは ウ イ ッ トフ ィール ドと ド‑ソ ンの経営 す る鉄工 所 にな り、明 治1 4
年( 1 8 8 1
年) には クー リー クサ イ ド ・エ ンジ ン ワー クス、横 浜 エ ンジ ンア ン ドア イア ンワー クス と改称 、 こ の界 隈 は鉄工所 街 に発展 した。ll
29
野毛浦埋 め立 てと高島町付近20. 0×25. 5 ( 3 ‑1
7)明治新政府 は東京 ・横 浜間の鉄 道建設 を決 し、明治
3
午( 1 8 7 0
年)4
月、汐留付近 の竜野、仙 台、会津藩邸跡 の地 な らし工事 か ら着手 した。神 奈J】卜 横 浜間 について は野毛浦 を埋め立 て、同区間 を直線 的 に結 ぶ計画であっ た。新 政府 には財政的 な余裕 が無 か ったので、 この埋め 立 て工事 を民 間 に行 わせ るこ とに した。明治3
年5
月、神 奈川県庁 を通 じて 「横 浜石崎か ら神奈川駅 までの区間 約
1 . 4 k m
、幅約6 4m
を埋 め立 て、その 中、約9 . 1 m
を鉄道 用 に、約1 1m
を公道用 に供 出すれば、残 りは埋 め立 て者 に貸下 げるので希望者 は申出 よ」 とい う告示 をお こなっ た。許可 は横浜 の材木商高 島嘉右衛 門に与 え られ、戸部 伊 勢 山 と飯 綱 山 を切 り崩 して埋 め立 て工 事 が 明治5
年( 1 8
72年)4
月 に竣工 し、高 島町が 出来上が ったのであ る。写真 は神奈川方か ら見 た鉄道線路 である。写真右側 は平沼 、中央奥が横浜の市街 であ る。東海道本線 の建設 は明治1 9
年( 1 8 8 6
年) に着工 され るのであるが、写真 中 で平沼 には工事 の気配 は認め られ ない。新橋 ・横浜 間鉄 道 開通直後 の撮 影であろ う。30 横 浜税 関監視 課庁舎
20. 0 ×26. 7 ( 55 ‑33)
安政
6
年( 1 8 5 9
年)6
月の開港 に先立 ち、幕府 は神奈 川 の名称 の もとに、横浜 を開港場 と決定 した。 ここを選 んだ意 図は東海道か らはずれ た交通不便 な地であったか らであ る。幕府 は関税事務 の ため に神奈川運上所 を設置 した。 明治4
年( 1 8 7 1
年)か らは県務 と分離 されて明治6
年、本町1
丁 目に庁舎 を建設 し関税本局 と改称 された。横 浜税 関長有 島武 の報告書 によれば、埠頭 まで相 当の距椎 が あ ったため、明治
1 5
年( 1 8 8 2
年)神 奈川県庁 が焼失 した 時 、庁舎 を8 0 , 0 0 0
円で売 り払 い、埠頭前 に税関庁舎 を新築 した。
建坪
1 , 0 3 3 m
2の煉瓦造 り2
階建て庁舎 は中央 に六角 の塔 を有す る左右対称の建物 であ った。明治1 7
年( 1 8 8 4
年)5
月、清水滞之助 の請負 によって起工、翌
1 8
年( 1 8 8 5
年)l l
月 には竣工 した。工費 は6 4, 1 9 0
円、 日本 人 の手 に よる洋 風建築 といわれてい るが、明治初期 の建物 、例 えば築地 ホテル館 や第‑ 国立銀行 な ど清水 組2
代 目の手 が けた建 物 に比較す る と洗練 されてい る。歩道 に沿 って ガス灯が 見 えている。横 浜で は明治5
年( 1 8
72年) にガ ス灯 が灯 ったが、電気が供給 され るの は明治2 3
年( 1 8 9 0
年 )になっ てか らであ る。 したが って この写真 の撮影 時期 は明治1 8
‑2 3
年の間である。 この建物 は大正1 2
年( 1 9 2 3
年 )の関東 大震災 に よ り焼失 した。第2章 第 2節 江戸 か ら東京へ
第2章 第 2節 第 1項 江戸城 か ら皇城 へ
将 軍 の居 所 であ り政 庁 で もあ った江 戸城 は慶 応
4
年( 1 8 6 8
年)4
月開城 され、同年7
月 (明治元年) 、江戸 は 東京 と改称 された。明治新政 府 は諸般 の事情 か ら東京遷 都 を決 め、皇城 の造営 と諸官庁の建設 に着手 した。天皇 親政 の ため、諸 官庁 は皇居周辺 に置 く必要 があ ったので 太政官 は江戸城 内に置 かれた。 その他 、西丸下 には神祇 官、会計官 、軍務官 、待詔局 など、大手 門前 に は軍務官 礼 間所 、公議所 、会計官営繕 司、武庫 司 な ど、大名小路 には弾正台、民部官、刑法官などが旧幕府役宅 をその ま ゝ 利用 して設置 された。その後 、西丸下 が整備 され現 在の 皇居前広場 になるの であるが、写真 に はその過 程 を示 し ているものが含 まれている。31
皇居坂下 門 と本丸辰 巳三重櫓20. 4×29. 0 ( 36 ‑23)
明治
2
年( 1 8 6 9
年)、ベ ア トの撮影 による もので、本 丸辰 巳三重櫓( d)
と多 門塀( e)
が失 われ る前 の坂 下 門の写 真 で あ る。多 門塀 の 内側 に富士見 三重櫓 (f)が見 えてい る。 ( g)
は松平容保役宅跡で明治2
年( 1 8 6 9
年)当時は軍務 官 に付属 す る建物 であった。 (a)西丸坂下 門、 ( b)
坂 下門 桝形櫓 、 (C)本丸蓮池二重櫓、( d)
本丸辰 巳三重櫓 、 (e)多 門塀 、 (f)富士見三重櫓 、 (g)歩兵屯所跡。32
皇居・坂下 門 と富士 見三重櫓20. 2×25. 6 ( 53‑29)
この写真 には、坂 下門
( a)
、坂下桝形 門渡櫓(b)、富士 見三重櫓 (C)が見 えている。明治3
年( 1 8 7 0
年)1 0
月7
日、本丸 にあった火薬庫が爆発炎上 した際 に本丸蓮池二重櫓、
多 門塀 は焼失 し、以前 は外 か ら見 えなか った蓮池百人番 所(d)の屋根 が見 え るようになった。
第
2
章 第2
節 第2
項 徳川将軍家の残照徳川幕府歴代将軍 の霊廟 は初代 家康 、第
3
代家光 が 日 光東照 宮 、大猷 院廟 に把 られている。 また、第1 5
代慶喜 の墓所 は谷 中霊 園 に ある以外 、第2
代 秀忠 (台徳 院) 、 第6
代 家宣 (文照 院)、第7
代家継 (有章院) 、第9
代 家重 (惇信院) 、第1 2
代家慶 (慣徳院)、第1 4
代家茂 (昭 徳院) は芝増上寺 、第4
代家綱 (厳有 院) 、第5
代綱吉 (常憲 院) 、第8
代吉宗 (有徳院)、第1 0
代家治 (孝恭 醍)、第1 3
代家定 (温恭 院) は上野寛永寺 に示巳られてい た。 これ らの霊廟建 築 はそれぞれの時代の文化 、技術水 準 を反映 した工芸品 であったが、慶応4
年5
月1 5
日( 1 8 6 8
年
7
月4
日)の上野 山彰義隊征伐 、第2
次世界 大戦 中の 東京大空襲 な ど、度重 なる火 災 によって芝増上寺 では台 徳 院惣 門、有章院二天門 が、上野寛永寺 で は厳有院勅額 門、常葉院勅額門、水盤舎 などが残 っているに過 ぎない 。本 コ レクションに は一部重複 はあるもの ゝ芝増上寺徳 川 将軍家廟所南廟 お よび北廟 あわせ て
5 4
点の写真 が含 まれてお り、往 時の華麗 な姿 を再現 している。
東京府史蹟保 存物調査報告書 第
1 1
冊 (田遠 泰 、昭 和6
年)付図及 び明治3 4
年( 1 9 0 1
年)発行の銅版画 「日本 東京芝三線 山増上 寺境 内全 図」 か ら撮影 された写真 の位 置関係 を知 るこ とが で きる。33
台徳 院霊廟本殿 内部27. 2×21 .1( 6 ‑20)
将軍霊廟 は拝殿 、相之 間、本殿 が縦列 に並 ぶ権現 造霊 屋 を中心 に して、背後 には奥 院 と宝塔 、前 には鐘楼 、水 盤舎、勅額 門、惣 門 な どを建設、 これ を柵 や塀 で囲 んだ 一区画 を形成 してい る.寛永
9
年( 1 6 3 2 )
正月藁去 した 第2
代将軍秀忠 の霊廟台徳 院 は芝増上寺山内南 に造 営 さ れた。拝殿 は入母屋造正面 に千鳥破風 を架 し、その軒 下 に唐破風 の向拝 を有 していた。拝殿 か らは相之 間を経 て 黒漆塗木製4
段 の階段 を登 り本殿 に達す る配置 にな って いた。本殿 は5
間の正方形 で各面 中央 に両折桟唐戸 、そ の両側 には両開桟唐戸 が備 え られていた。 その外側 は黒 漆塗 の廻縁 にな っていた。本殿 内部 は内陣 と外 陣が 円柱 で区切 られ ていた。写真 は本殿外 陣 を しめ してお り、円 柱 よ り左側 が内陣である。内陣柱 の各肘木 は金箔押 で あ り、欄 間 には花鳥 の透彫 が施 されている。 また、側 柱 に架 かる極彩色 の海老虹 梁が見 えている。全般 に江 戸時代初期 の豪華 な建築装 飾 になっていた。
1 3
3 4
台徳 院宝塔2 6 . 3×2 0. 3( 4 ‑ 4 )
台徳 院霊廟 は現在 の芝 ゴル フ場 の辺 り芝増上寺南廟 に 秀忠正室崇 源院霊廟 に隣接 して建 て られていたが、奥 院 は東照宮 の裏側 の小高 い丘 の上 にあった。台徳 院宝塔 は 円筒形木製 で、方形 の屋根 は極彩色 に塗 られた軒下 の四 手先 出組 の斗姐 によって支 え られ、屋根上 には相輪 があ る。正面 には唐様桟唐戸 が見 えてお り、腰長押 よ り上部 の羽 目には蒲湘八景 の図、下部の羽 目には牡丹 の図 を高 蒔絵 に施 し、七宝人 の透彫金具 を打 って装飾 された江戸 初期 の粋 を集め た美術工芸 品であ った。 この宝塔 は木製 のゆえに八 角覆屋 中の八角三重石造台座上 に安置 されて いた。
3 5
有章院勅額 門 か ら霊廟拝殿 中門2 1 . 1 ×2 6. 9 ( 4 2 ‑ 4 4 )
第
7
代将軍家継有章 院霊廟 は芝増上寺 山内北廟 に第6
代将軍家宣霊廟文 昭院 と並 んで北側 にあった。将軍家継 は家宣 の第三子 で、家宣の菱去 とともに滴 3
才 で第7
代 将軍 となった。元来病弱であった家継 は享保元年( 1 71 6 )
4
月 に菱去、 8
才であった。勅額 門は二天 門 を入 って左 寄 りにあ った。規模 、意 匠な どは第 6代将軍家宣霊廟文 昭院 と同様 であ り、 4
段 の石段 を上 った ところに鋼板葺 で正面 は軒唐破風 、側面 は千鳥破風 の四脚唐 門であ る。前後 四本 の柱 には龍 が巻ついた彫刻が、 また、柱全体 に は雲文 の彫刻 が地文 として施 されてい た。本柱 と前柱 の 間の羽 目には松竹 、雲鳳 の透彫 り、扉 は両 開桟唐戸 で、
各羽 目には波菊、怪 獣 の彫刻 が配 されていた。全体 は朱 漆塗で、彫刻 やその他 の部分 は金箔押す るな ど豪華 であ ったが 、文 昭院霊廟 に比較す る と幾分簡略化 され ていた とい う。勅額 門 を入 る と右手 に鐘楼 、左手 には水盤 舎が 対称 の位置 にあ った。写真 の奥 に見 えるの は拝殿 中門で あ り、その奥 が拝殿 向拝 になっていた。
3 6
有章院拝殿 左右廊21 . 0×2 7 . 3 ( 2 5 ‑ 41 )
有章 院霊廟拝殿 中門の左右 に連 なる廊 の外側 は透塀の ように造 られてい るが 内側 は方柱 を立 てただけで開放 さ れてお り、 中央部 のみ 中門か ら拝殿 に続 く廓 になってい た。写真左手 中央吾机こ見 える扉が内側 か ら見 た 中門扉で ある。腰長押 よ り下 の羽 目は花狭 間、腰長押 と頭長押の 間の羽 目には外 定形 の中 に花 鳥、波 な どの彫刻 をはめ込 んだ装飾が な され、欄 間 には波の透彫 が施 され てい る。
天井 は極彩色 の化粧屋根 裏 で、雲鳳 の彫刻 をはめ込 んだ 虹梁が見 えてい るが、 中央の扉 に続 く虹梁 には大瓶 束が 見 えている。 また、方柱 の各面 には梅 の彫刻が施 され、
全体 と して優雅 な雰 囲気 であった。
3 7
有章 院奥院唐 門2 1 . 0×2 6. 6 ( 4 2 ‑ 4 7 )
有 章 院奥 院拝 殿前 の唐 門は霊廟 後 の仕切 門 を入 って右 折 、 さ らに左 折 した正面 の石段 を登 った左 側 の石段 上 に あ った。唐 破風 の鋼板 葺屋根 で柱 は八 角 、柱 身 には花立 涌文 の沈 金彫 が施 され てい た。扉 は両 開桟唐戸 で、各羽 目には宝相 華文 、英 文 、渡文 な どが彫刻 され、 門全体 と して宋漆 塗 にな ってい た。唐 門の左 右 は透塀 になってお り、 門 の後 は奥 院拝殿 の向拝 ‑ と続 く。拝殿 背後 の石段 上 には 中門、そ して宝塔へ至 る配置 になっていた。
第2章 第2節 第3項
明治新政 府 の意 気込 み と洋風化 の波
首都 江戸 か ら東京 への変貌 は明 治新政 府 の とった わが 国の急速 な近代 化 の縮 図 とな った こ とか ら、文 明開化 の 多 くの象徴 が存 在 してい た。形 と して見 えるの はハ ー ド ウ ェア で、例 え ば鉄 道 や洋風 建築 な どであ る。洋風 建築 につ い て は一 日の長 が あ る長 嶋 の それ に比 較 す る と、初 期 の東 京 に は 日本人 建築 家 に よる和洋 折衷 の珍書 な建物 も出現 したが 、外 国 人建築 家 に よ る建 物 も数多 く建 て ら れた。 これ ら外 国人建築家 か ら学 んだ 日本人建築家や ヨー ロ ッパ 留学 か ら帰 国 した建 築 家 の活躍 に よ り素 晴 しい建 物 が東 京 の街 に建 て られ た。
明治
5
年( 1 8
72年 ) の大火 後 、道路 の拡 張 な ど都 市計 画 が立案 されたが、銀座 に耐火建築の煉瓦街 が建設 され、銀 座通 りの歩道 と車 道 が区分 され るな ど一部 を除 い て下 町 にお ける実施 は遅 々 と して進 まなか った。幕 府時 代 に は禁止 され てい た馬 車 が使 用 可 能 にな り、街 に は乗 合馬 車 が走 りだ した 。新 橋 停 車 場 、 日本 橋 間 に は明 治
1 5
年( 1 8 82
年 ) 、鉄 道馬車 も営 業 をは じめ 、明治1 6
年( 1 8 8 3
辛) 、 日本鉄 道 の上 野駅 が開業 す るに お よんで両 クー ミ1 5
ナル を結 ぶ重要 な公共交通機 関 とな った。 官公庁 や学校 な ど洋風 の建物 が建築 され るな ど、町 並 み は次第 に変貌 して行 くの であるが、その過程 で江戸 の町並 み と東 京の 町並 み が混 在 する時期 が写真上 に見 られる。
3 8
外務 省2 1 . 9×2 7 . 9 ( 53‑ll)
旧幕 府 時代 の筑前黒 田藩邸 に開設 された外務省 は仏 人 ボ ァン ビル の設計 に よ り明治1 4
年 に完 成 した。玄 関前 に は外務 大 臣陸奥宗光 の銅 像が建 て られ てい るが 、 この写 真 で は門柱 の陰 にな って見 えない。年代 を経 て建物 は建 替 え られ たが 、外務省 の場所 は現在 も変 わ ってい な い。3 9
霞 が関官庁街 、海 軍省 と大審院21 . 3×2 6 . 8 ( 2 2 ‑ 8 )
井上 馨 の 日比谷官庁街計 画 に よって明治
2 8
年( 1 895
年 ) に完成 した司法省( a )
、同2 9
年完成の大審院 (b)はエ ンデ、ペ ックマンの設計、同
2 7
年完成の海軍省 (C)はコン ドルの設 計 で あ った。写真 は桜 田通 りを虎 の 門方西側 か ら撮 影 した もので、現在 は合 同庁舎が並 んでい る。明治
1 6
年( 1 8 8 3
年)測量 の参謀本部陸軍部測量局地図上 で道幅 を計測 す ると約
30m
に なる。銀座通 りは車道約1 6. 4m
、歩道 は それ ぞれ約5. 5m
であったか ら、当時 としては異例 の道幅 であ った に違 い ない。米俵 を積 んだ大八車 や人力車 、歩 行者 達 も道路 中央 を悠 々 と歩 いてい る様 は隔世 の感 がす る。40
新橋停車場 と蓬莱橋20.1×26. 5 ( 53 ‑46)
明治
4
年( 1 8 7 1
年)、米国人R.P.
ブリッジェンスの設 計 に よ り完成 した駅舎本屋 で ある。左 右対称の建物 はま だ ら模様 の房州石 を用 いた木骨石造2
階建 てで、同人が 設計 した横 浜停車場 と全 く同 じであ った。写真 は汐留川 越 しに撮影 された もので、左 手 に見 える橋 は蓬莱橋 であ る。 これは明治7
年( 1 8 7 4
年 ) に石造化 され、木橋 時代 の汐留橋 か ら改名 された。堀越三郎著 『明治の洋風建築』によれば、 「鉄道 に とって最 も重要 な両 ター ミナルがお 雇 い外 国人で もない米国人の設計 で建設 されたのは不可 思議 である」 と述べ ている。
41 皇居 か ら神 田駿河台 を望 む、 明治の文教地区 20. 6×26. 8 ( 22 ‑1 7)
写真 中、 (a)は平河濠
、( b)
は大手濠、 (C)とその向 うに 見 える礎石 は明治6
年( 1 8 7 3
年) に取壊 された一橋 門渡 櫓跡 、左手 の松林 の向 うは竹平 町の文部省 、右手の松 の 間か ら平河橋 (d)が見 えてい る。 その右手 の建物 (e)は陸 軍病馬院、 (f)は高等商業学校 である。 日章旗が翻 ってい る(g)は東京大学で明治1 7 ‑1 8
年 に本郷 のキ ャンパスへ移 転 したので、 この当時、大学予備 門だけが残 っていた。学習院 は明治
1 9
年( 1 8 8 6
年)2
月 に全焼 してい るので、(h)は神 田錦 町 にあ った東京法 学 院であ ろ う。 明治
2 4
年( 1 8 91
年) に完成 したニ コライ堂 (1)が見 えてい るので、撮影年代 は これ以降 とい うこ とになる。その左手 に東京 師範学校 (j)
、( k )
は東京女子 師範学校、 (1)は順天堂であ ろう。江戸 時代初期 の町造 りに よって削取 られ、ゆるや かになった駿河台の斜面が見 えてい る。42
帝国ホテル21.1×26. 9 ( 42‑4
1)積極 的 な欧化政策 をとった外務 大 臣井上馨 の勧 め によ り、渋沢栄一、大倉喜八郎 、益 田孝等 、当時 の財界 人が 発起 人 となって計画 された本格 的 なホテルで あ った。当 時の東 京 には外 国人用のホテルは少 なか った。慶応
4
年( 1 8 6 8
年)8
月に開業 した築地ホテル館 は客室数1 0 4
あっ たが、明治5
年( 1 8
72年)2
月の銀座大火 に よって焼失 した。 その後、明治2 0
年( 1 8 8 7
年 ) には横 浜 の汽船 問屋 鹿 島屋 を発起人 として木造2
階建 、客室数25
の東京 ホテ ルが麹 町区有楽町の 日比谷大神宮 の傍 らに完 成 した。ま た、明治2 3
年( 1 8 9 0
年) には築地 明石 町 1番 地 にイギリ ス人の経営す る客室数2 0
の メ トロポールホテ ルが 開業 し た。帝 国ホテルの場所 は現在地 と同 じで、阿 部播磨守屋 敷跡 の官有地 の貸下 げに よって準 備 された。 当初 、設計 は ドイツ人 メ ンツ とテーゼであったが、後 、渡辺譲が再 設計 、竣工 は明治2 3
年( 1 8 9 0
年)
11月であ った。構造 は木 骨煉瓦造 り、3
階建 て、客室6 0
、 同居 間付 き1 0
、食堂、喫茶室 、舞 踏室 、談話室 、奏 楽重 その他 の設 備 を有 して いた。写真 は 日比谷見附か ら数寄屋橋 ‑ の濠 の有楽町側 か らホテル正面 を濠越 しに撮影 した ものであ る。