忘れられた近代の知識人「金九経」に
関する調査
孫 知 慧
一 はじめに 本稿では、近代における新出敦煌文献の校訂、初期禅宗史の研究に貢献 した学者でありながら、「未完成の年譜を残して行方不明になった人物1)」 とされる「金九経(1899‒?)」に注目し、関連資料の調査を通じて彼の行跡 をたどってみたい2)。 金九経は、1920 年代に日本の大谷大学に留学し、鈴木大拙(1870‒1966) や胡適(1891‒1962)の初期禅宗史研究と『校刊本楞伽師資記』の刊行に協 力した人物である。1934 年に刊行した『薑園叢書』には彼の敦煌本校勘本 が収められている。また『魯迅日記』からは、彼が北京大学の講師を務め た時、魯迅(1881‒1936)・周作人(1885‒1967)・倉石武四郎(1897‒1975)ら文 人や学者との交友を結んでいたことも窺える。なお、稲葉岩吉の『満洲発 達史』には「槿域の秀士であり内藤湖南に師事した3)」とあり、満洲滞在 期に金九経は、満洲の遺跡調査と歴史研究に尽力し『重訂滿洲祭神祭天典 禮』なども残している。 とりわけ、近代禅宗史学において重要な地位を占める『(敦煌本)楞伽師 資記』が、千余年の時間を経て世に知られるようになったのは、金九経と いう若い韓国人学者を媒介とした日中韓三国学者の協力による産物といえ る。金九経自ら「私の願いは日中学者の相互交通であった4)」と述懐した ように、近代東アジアの学術交渉に貢献した人物という観点からも考察し てみる必要があるだろう。 ところが、彼の多様な活動に比べてその存在も活動もほとんど知られていない。彼に対する情報も極めて少ない。そこで、韓国に限らず、中国や 日本に散見する資料の調査を通じて彼の足跡を追うことを試みた。基礎的 作業ではあるが、これが、今後の彼の行跡を究明する土台になることを期 待し、本稿では、把握可能な範囲で、金九経の履歴を紹介し、彼の活動を 主題別に分けて整理してみたい。 二 金九経の履歴 金九経に対する既存の紹介としては、個人的関心による断片的な言及の みが若干見られる5)。主に彼は「五里霧中の人物」「行方不明の人」「忘れ られた人物」と表現されている。2004 年度『毎日経済新聞』「毎経春秋」 (2月 22 日)には「金九経、先駆的学問業績を残したが、彼の一生はいまだ 霧に包まれている……中国で活動し歴史学において不滅の業績を残した方 である。ところが、今は世の中で金九経を知る人はほとんどいない」と、 金九経の存在を探す人が切ない心の内を打ち明けている。幸に『韓国民族 文化大百科事典』には金九経の項目があり、部分的に金九経にふれるいく つかの論稿が見えるが6)、金九経が中国人として紹介されたりしている。 これらほとんどの紹介は、具体的な資料証明はなされておらず年度表記に も不明な点が多い。 韓国の資料で参考になるものとして、金時俊は「魯迅이 만난 韓国人 (魯迅が会った韓国人)」で、金九経が北京滞在の時に未名社の文人達と交遊 した内容を紹介しており、一智は『떠도는 敦煌(さすらう敦煌)』で、金九 経の初期禅宗史研究に対する貢献を評価している。これらの情報を踏まえ た上で、日中韓資料調査を通じて新たに明らかになった事実を加え、金九 経の履歴を整理すると次頁のようになる。 三 金九経の活動 次に金九経の活動について、1 日本留学期、2 敦煌写本の校勘・刊行、 3 北京滞在期:文人・学者との交遊、4 満洲滞在期:古跡調査・歴史研
[表1:履歴] 年度 活動 1899 ・ 慶州出生7)(別称:明常、鶏林、担雪行者、退如、待曙堂、新 馬晋(創氏改名)) 1917(?)‒1920 ・京城第一高等普通学校卒業。小学校の教師を勤める(不明) 1921(日本留学) ・ 日本京都の真宗大谷派大谷大学の予科に入学、文学部の支那 文学科に進学(時期不明)(鈴木大拙・倉石武四郎に師事) 1923 ・(1月):在京都苦学生会を組織、会長として活動 1927 ・(3月):大谷大学の支那文学科卒業 ・(7月):芥川龍之介からの書簡 1927 ・韓国帰国 1927‒1928 ・開城松都高等普通学校の教師を勤める ・(京城帝国大学図書館の司書官を歴任8)) 1928 ・ (下半期)(家族をつれて)中国の北京到着、未名社に寄寓す る 1929‒1931 ・ (1929 年3月):魏建功の推薦で北京大学の朝鮮語・日本語 講師になる中文系(「中日韓字音沿革研究」)、外交文系(「日 文」)を担当 1929‒1932 ※未名社の文人・中日学者と交遊 □■ 周作人との交遊 ・(1929 年5月 24 日):魏建功の紹介で周作人と初対面 :以後 1932 年まで親密な交友関係を維持 □■ 魯迅との交遊 ・(1929 年5月 25 日):魯迅と初対面 ・ (同年5月 31 日):倉石武四郎・水野清一・塚本善隆らと魯 迅を訪問 ・(同年6月3日):駅まで魯迅を見送る □■(時期不明)日本人の奥野信太郎とともに銭稲孫を訪問 ※(1930‒1934)独立運動記録 1930 ※(1930‒1934)敦煌写本校刊本発行、鈴木大拙や胡適と交遊 ・ 鈴木大拙の英文著書 Studies in the Lankavatara Sutra を胡適に
贈呈
1931 ・1931 年2月:胡適からの書信をうけとる
・ 1931 年9月:(敦煌発見本)『楞伽師資記』に太虚・胡適の序 文をつけて刊行
1932 ・北京から満洲(奉天)に移住 ・ 1932 年6月7日:満洲国立奉天図書館に嘱託として着任(図 書整理担当、金毓黻副館長の秘書、司書部に配属) ・1932 年6月中旬 : 日本人学者の渤海史関連遺跡(西古城子・中京顯德府)調 査に参加(通訳) : 軍隊の警護のもと東京城北方の三霊屯古境などで石器時代 の遺跡を視察 1933 ・1933 年5月:遼陽出張:遼金時代の古碑拓片蒐集 ・1933 年6‒7月頃か:満洲国立高等農業学校に赴任、教師 ・ 1933 年9月:楞伽師資記の再校本『校刊唐写本楞伽師資記』 発行 (・1933 年 10 月:中耳炎で瀋陽の南蛮医院に2カ月入院) 1934 ・ 瀋陽で全集『薑園叢書』を出刊:『校刊唐写本楞伽師資記』 『校刊安心寺本達摩大師観心論』『校刊大乗開心顕性頓悟真宗 論』『校刊歴代法宝記』『校刊柳氏 文誌』収録 ・ 中国人の魏建功と同郷人の李正根と交友し音韻学の議論・研 究をする 1935 ※ 1930 年代中後期:満洲の歴史・民俗・言語を研究 ・『重訂満洲祭神祭天典礼』編校3冊発行 ・ 瀋陽の春日公園に「三学士重修碑」建立、碑文、『三学士傳』 釈書発刊 1936 ・ (5月)国立高等農業学校学友会学芸部の副部長・同校の論 文集『塔影』編集人 ・ (12 月)高等農業学校の論文集『興農』第3号に「塔湾の地 名と仏舎利」発表 ・仏舎利塔の現地調査と研究 1937 ・1937 年8月 14 日:満洲図們税関鑑査官として正式発令 ・(在奉天朝鮮人同胞学校)満洲東光高等普通学校の創立理事 1940 ・創氏改名:「新馬晋」を名乗る ・『満洲発達史』漢訳本の刊行(共訳・校訂) 1945‒1947 ・1945 年韓国帰国 ・ソウル大学図書館で勤務 ・1946 年ソウル大学中国文学科の教授。延世大学出講 ・1947 年朝鮮書誌学会(現韓国書誌学会)発起委員 1950‒ 行方不明(拉北か)
[表2:著書・論稿] 分類 書名・論文・記事名 □■『薑園叢書』(瀋陽:薑園精舍、1934 年) 著書 (校訂・翻訳) ・『校刊安心寺本達磨大師観心論』・『校刊柳氏 文志』 ・『校刊大乗開心顕性頓悟真宗論』・『校刊楞伽師資記』 ・『校刊歴代法宝記』上・下 *『楞伽師資記』(待曙堂、1931 年)・『校刊唐写本楞伽師資記』 (1933 年再刊)、 ・宋時烈 (金九経 )『三学士傳』、遺蹟保存会、1935 年 ・『重訂満洲祭神祭天典礼』編校3冊、薑園精舍、1935 年 ・ 稲葉岩吉(楊成能訳)『満洲発達史』、奉天萃文斎書店、1940 年:(金九経共訳・校訂) 論文・記事 ・「同侔の情」、中田普成社、1919 年 10 月 ・ 「対話、ドン・ジャンの弟子」『大谷大学学友会誌』、大谷大学学 友会雑誌部、1925 年3月 ・ 「大歴の才子韓 」『観照』創刊号、大谷大学内観照社発行、1925 年6月 ・ 「墨子の兼愛説」『観照』3月号、大谷大学内観照社発行、1926 年3月 ・「다시 苦学하려는 여러 형님끠」『東亜日報』、1923 年8月 26 日 ・ 「塔湾の地名と仏舎利」『興農』第3号、満洲国立高等農業学校、 1936 年 ・ 「滿洲語と漢語を混用したる歌本:吃 蟹」『奉天圖書館叢刊』21、 1935 年 ・ 「瀋陽と朝鮮の三学士」『在満朝鮮人通信』、興亜協会、1939 年6 月 ・ 「胡適氏의 学術独立十年計画案」『朝鮮教育』第1巻第7号、 1947 年 12 月 ・ 「和諍国師와 薛聡의 至誠」『仏教』25 巻、仏教社、1940 年9) 其他 満洲瀋陽の重修三学士碑文 内藤湖南宛の書簡
究、5 韓国帰国後に分けて見ることにしたい。 1.日本留学期 金九経は、1921 年に大谷大学に予科生として入学し、1927 年に支那文 学科を卒業した。彼が大谷大学の留学生であったことは、『大谷大学要覧』 (大正 11 年)に「予科2年、乙組、特別生金九経、朝鮮10)」とあることから 確認できる。また『大谷大学学友会』(大正 14 年)には、金九経作「対話、 ドン・ジャンの弟子」が収録されており、大谷大学の発行雑誌『観照』に は、金九経の「大暦の才子韓 」(大正 14 年6月号)と「墨子の兼愛説」(大 正 15 年3月号)の二編が載せられている。 簡単に紹介すると、「対話、ドン・ジャンの弟子」は、好色家 Don Juan の物語に基づいて演劇台本のように日本人(甲・乙)を登場させ、女性問 題をめぐる対話を載せている。冒頭に『新約』「見女人起 心不異既姦 」・朱氏家訓「見色而起 心報在妻女」を書いていることから教訓的性 格の文章と思われる。また、「大暦の才子韓 」は、大暦年間(766‒779)に 活躍した詩人「韓 」について正史の『新唐書』「文芸列伝」、また正史以 外の韓 の生涯を載せる孟棨(未詳)の「本事詩」など多くの資料を提示し、 韓 の名詩を紹介している。なお、「墨子の兼愛説」は、墨子が儒教思想を 受け継いだかどうかという問題について、当時の胡適・梁啓超らの考証を 引きながら論述しており、墨子の兼愛説を解説・紹介したものである。 また、『東亜日報』(1927 年2月 17 日)の記事には、「京都卒業三十名、京 都の朝鮮留学生学友会は、11 日の午後1時に大学生集会所で卒業生送別 会を開いたが、60 余名の学生が集まり、今年度の卒業生を送別する祝詞と 答詞が行われた……大谷大学、金九経、支那文学11)」とある。これまで証 拠の提示もなしに金九経が日本留学生として漠然と語られてきたが、これ らの記録から彼の学校・専攻・卒業日時など、より詳しい事実が確認でき た。 次に、金九経が朝鮮人京都留学生を中心とする「京都苦学生会」の会長
として活動したことも確認される。この会は 1923 年1月に組織されたが、 資金難で長くは続かなかったようである12)。下は「京都苦学総会」『東亜日 報』(1923 年5月9日)の記事である。 日本京都に留学している朝鮮苦学生を中心に組織された朝鮮苦学生会 は、去四月五日、当地の帝国大学生集会所で第一次定期総会を開いて、 任員の改選と将来維持策などを協議した。新たに選出された任員と協 議事項は次のとおりである。会長に金九経、重任会計に金溶桓……13) また、金九経は「再び苦学しようとする先輩たちに(다시 苦学하려는 여 러 형님끠)」『東亜日報』(1923 年8月 26 日)14)という留学生を励ます文章も 残している。彼が、当時の京都留学生の学業と生活に非常に関心を持って いたこと、また留学生の実生活と学業環境が窺える。 ただし、彼が大谷大学で具体的にどのような研究を行ったかは把握し難 い。大谷大学の関連雑誌と日本人学者の記録から中国文学を専攻したこと、 倉石武四郎から中国語、鈴木大拙から仏教学を学んだ程度のことが把握で きる。1927 年3月卒業後、朝鮮に帰国した金九経は、1928 年に北京へ向 かうまで、開城の松都普通高校で教師15)として勤めた。さらに 1927 年4 月付の内藤湖南宛の書簡には、金九経が「九日から大学に初出勤」と報告 しているのが見えるが、具体的な大学名や部署は書かれていない。 その内に、芥川龍之介(1892‒1927)が金九経に送った書簡が見えるので [図1]「다시 苦学하려는 여러 형님끠」『東亜日報』(1923 年8月 26 日)
紹介しておきたい。他の資料については未発見であるので両者の関係は具 体的には把握できない。 前略、原稿用紙にて御免蒙り候。「書物礼讃」ありがたく存候。訣、訳、 ともにあて字たる国に生まれたること私ながら笑止千萬に存じ候。所 わけと仮名にするに若かず。唯訣字を用ひたるの校正者の誤りなら ざることを御承知下さらば幸甚に存候。(「慢性出鱈目」の慢性も言海に は慢性とあり、新聞雑誌などには蔓性とあれども、しやれて慢性といふさへし やれと聞え難き世の中に候。)高須氏の著書は拝見不仕、高評によりて大 体を窺ひ申し候。右とりあへず御礼まで。頓首。七月八日 金九経先 生。曼青(—芥川龍之介の書簡。昭和2年7月8日、田端から金九経宛—)16) 2.敦煌写本の校勘・刊行 次に、近代禅宗史学と関わる金九経の業績を見てみたい。20 世紀初頭に おける敦煌学の著しい成果として「近代禅宗史学」が挙げられる。禅仏教 に関わる貴重文献の写本が次々と発見され、宋代以前の史料も扱うように なるに伴い、禅宗史の新たな側面が明らかになった。ここで注目したいの は、近代禅宗史学の分水嶺をなした胡適と鈴木大拙の論争が、金九経が校 刊した『楞伽師資記』から始まったことである17)。 淨覚(688‒746) の『楞伽師資記』とは、北宗禅を中心として初期禅宗 史の伝灯と思想を説く文献である。同書の敦煌写本は、ペリオ(Paul Pelliot、 1878‒1945)とスタイン(Aurel Stein、1862‒1943)によって移されたパリ・ロ ンドン博物館で、1926 年に胡適によって発見された。胡適は次のように述 べている。 民国十五年(一九二六)九月八日、私はパリのフランス国立図書館で敦 煌写本楞伽経師資記を読んだ。そのとき、私はこの一 が重要な資料 であることを認めた。やがて私はロンドンにゆき、また大英博物館で
別に一本を読んだ。この二種の本を私は共に写真にとって持ちかえっ た。五年を経て、私はかねがねこの本を整理して印刷にしたいと思っ ていたが、いつも思いにまかせなかった。今年、朝鮮の金九経先生が 私のパリ、ロンドン二種写真を借りだし、校合して定本をつくり、活 版によって印刷してくれた。印刷ができあがって、金先生は、私に校 閲を申し出るとともに、一 の序を書くことを求めた。私は自分が長 らく気にしていた工作を仕上げてくれた金先生に感謝し、喜んで求め に応じ序文を書くこととした……(下略)胡適、民国二一年十一月十 五日夜18) より詳しい状況は、1933 年9月に完成された再校本『校刊唐写本楞伽師 資記』の「自序」に書かれている。 恩師鈴木大拙先生は……昭和五年に英文で楞伽経研究(Studies in the Lankavatara Sutra、引用者)を著わされて、出版と同時に遠く京都より北 平の私のところに贈って来られた。そのころ、胡適之先生が南より来 て北京大学で哲学を講じ、ちょうど禅宗教理史を研究せられていたの で、恩師の新著をさしだして批評を乞うた。私の願いは、中日学者の 相互交通であった。日ならずして、適之先生は手紙ですこぶる丁寧な 御意見をのべてくださった。感激して私が今度は手紙でその要旨を鈴 木大拙先生に報告すると、先生は適之先生が「楞伽師資記」の写真を もっていられることを知って、すぐに私に借りてコピーをつくるよう にたのんで来られた(……)癸巳九月、鶏林金九経、瀋陽無所得居19) これから窺えるのは、胡適と鈴木大拙の間で金九経が掛け橋の役割を果 たしたことである。大谷大学留学生の時、鈴木大拙20)に師事した金九経は、 卒業後、1930 年代から中国北京大学の講師になったが、当時は、胡適も北 京大学で哲学の講義を行いつつ禅宗史の研究に努めていた。中日学者の相
互交流を願っていた金九経は、鈴木大拙の英書を胡適に渡したり、胡適か らの書簡の内容をまとめ鈴木大拙に伝えたりする掛け橋の役割を果たした。 鈴木大拙は金九経の伝達を通じて、胡適が楞伽師資記の写真を所蔵してい ることに気づき、金九経にそれを借りて筆写することを頼んだ。下は、上 に言及した胡適からの書簡である。 九経先生 鈴木大拙先生の楞伽研究は、すでに一部を読みました。先生の努力は 非常にお見事です。大部分の考えは、先生と私と全く同じであるが、 他面では私の完全に同意できないところが多少あります。先生は禅宗 の古い歴史を過信されていて、楞伽宗以後の歴史が了解できないよう です。楞伽宗が一派をなして後の伝統系譜は、続高僧伝の法沖の章に 見えていて、そのことは鈴木先生もすでにごぞんじですが、敦煌石窟 中に保存されてきた淨覚 の楞伽宗資記を全く見られていません。こ の本には、巴里本と倫敦本があって、私はどちらもその写本をもって います。この本は楞伽一宗の歴史を記録していて、われわれに楞伽宗 が後に謂うところの「北宗」で、神秀の一派すらこの派の正統であり、 後から起る「南宗」こそ一派の革命軍にほかならず、自から達磨をう けていても、本当は楞伽宗ではないことを知らせてくれます。私が構 想している「楞伽宗考」はまだ完成しませんが、おちついたら、きっ とこの書につづいて、鈴木先生の指正を願うことにしましょう。私は すでに英文で書いた禅宗小史一 をイギリスの Sa-unders に託して鈴 木先生に看て頂いています。先生は、どんな批評をされるでしょうか。 今年は又、私の神会和尚の書一冊を贈って御指教を乞いましょう。鈴 木先生の御本は他日直接お返しにまいります。新年おめでとうござい ます。胡適、二十年一月二日21) この後、胡適は 1931 年 11 月 15 日、「楞伽師資記序」を脱稿、その一ヵ
月前頃、鈴木大拙は『大谷学報』12‒3 に「 楞伽師資記 とその内容概観」 を掲載した。 今から二十四五年前、敦煌で発見された多くの仏教書類の中に、禅宗 史に直接に関係した書物が二つある。一を「楞伽師資記」といひ、一 を「歴代法宝記」といふ。「歴代法宝記」は、大正蔵経の第五十一巻、 史伝部第三、第二千七十五号にをさめてある。故にこの方は仏教界一 般に知られてゐるが「楞伽師資記」の方は、矢吹慶輝氏の編纂した 「鳴沙録韻」中に、その一部(倫敦本)が玻璃版になつて出てゐる。そ れによつて「師資記」の幾分かは世に知られてゐるが、その全部に至 つては見た人は少いと思ふ。「師資記」の原本は、一部は倫敦の大英 博物館に保存せられ、今一部は巴里の国民図書館にある。倫敦にある 方は、よく保存せられて字体も明瞭で読み易いが、後先が欠けてゐる。 巴里の方のは、始を除けば、完本ではあるが頗る読み憎い。「鳴沙余 韻」に出てゐるのは倫敦本で、猶あと四分の一程欠けてゐる。支那の 北平大学教授胡適氏が、幸に倫敦本と巴里本とを写真にして持つて帰 つてゐるので、今度、氏に頼んでそれを活字にする事を得た。それを 大谷大学出身の金九経氏が校訂して北平で出版してくれた。両氏の好 意によつて、斯くの如く珍重すべき禅宗史が一般読者の手に入ること は、学界の為に喜ぶべきことである。今自分が入手した一本は、まだ 本として完成したものではない。胡適氏自身が序文を書いてくれるこ とになつてゐるのだが、今度の騒ぎでまだ手がつけられてゐない。そ れを待つてゐるわけにもゆかぬので、仮綴のまゝで、金氏の好意で数 冊送つて来たのである。……いづれにしても、「楞伽師資記」、「歴代 法宝記」、「神会録」、「法宝壇経」等の発見があつたので、今まで暗闇 に葬られてゐた支那に於ける禅宗初期の歴史が、いくらかの輪郭を彷 彿たらしめるやうになつて来たのである22)。
これらの引用文で、敦煌本「楞伽師資記」校訂・刊行の経緯(1931 年初 刊・1933 年再刊)が読み取れるので、再度説明する必要はないであろう。こ のような経緯で、三人の協力による「楞伽師資記」校勘本が完成され世に 出された。すでに 1931 年に鉛版印刷が行われたが、満洲事変のため順調 に進められなくなり、二年ほどの修正を重ねて、1933 年瀋陽で再刊された のである。鈴木大拙のいう「こんどの騒ぎ」はその満洲事変である。 さらに、金九経は、1934 年、自らの校訂本(敦煌禅籍の三種・朝鮮の希 書二種)を一帙に収めた『薑園叢書』を刊行した。同書は「校刊唐写本楞伽 師資記」・「校刊安心寺本達摩大師観心論」・「校刊大乗開心顕性頓悟真宗 論」・「校刊歴代法宝記」・「校刊柳氏 文誌」の五種で成されている。当時、 日本では『新修大蔵経』が出刊され敦煌本が収録されつつあったが、金九 経の「校刊大乗開心顕性頓悟真宗論」と「校刊歴代法宝記」は『新修大蔵 経』第 85 巻に収録されており、「校刊唐写本楞伽師資記」は校合に用いら れた。 一方、上の胡適の書簡からも若干窺えるが、初期禅宗史をめぐって鈴木 大拙と胡適は、学問的見解の差を見せた。その詳しい内容は本稿の論旨か ら外れるので「胡適・鈴木大拙 論争 要約および解説」など関連論稿を 参照されたい23)。彼らの相反する考えは 1953 年ハワイ大学発行の哲学雑
誌 Philosophy East and West Ⅱに発表された論争で絶頂に達した24)。胡適は 文献・歴史主義に、鈴木大拙は禅の非論理性・超歴史性に重点を置く立場 を表明した。両者の論争に火が付いたのが「楞伽師資記」の発見であった ことは言うまでもない。近代禅宗史学研究に欠かせない胡適の『楞伽宗考』、 鈴木大拙の代表作『禅宗思想史研究』、両書とも『校刊写本楞伽師資記』に 基づいて書かれたのである。 これらの国際的学術成果は、金九経の媒介、それによる鈴木大拙と胡適 の学術的交流からであることを見過ごしてはいけない。もちろん金九経の 校勘には誤 もあろうが、若い学者としての彼の漢文読解力と橋渡しの役 割は注目に値する。
しかし、金九経は忘れ去られる運命を迎えた。日本人学者の間に「楞伽 師資記」「歴代法宝記」の校訂者として金九経に言及する例は断片的に見 える25)。柳田聖山は「胡適と鈴木大拙の学問的交友は、二人に師事する朝 鮮の若い学者金九経を介して一層深められていた」といい、篠原壽雄は 「金本は現在の禅宗史関係の研究者に益とするところ実に大で、大正大蔵 経八十五巻も、S2054 と金本との校定をなしているのである。私の研究も 金本に大いに啓発された」と述べている。さらに、中国の高僧太虚(1889‒ 1947)は、初刊本楞伽師資記の「序」に「担雪行者金君九経は、あらゆる 言語に通じていて、心意は禅宗にあった。彼は極めて厳密に禅の根源を探 求し、文献を精密に校訂し刊行するに至った」と評価している。 ところが、韓国の場合、金九経は仏教界においてもほとんど認識されて こなかった。韓国の東国大学所蔵の初刊本『楞伽師資記』の扉には、「退耕 和尚惠存」という親筆と「担雪行者」という印章が捺されており、『朝鮮仏 教略史』の著者の権相老(退耕、1879‒1965)との縁も推測されるが26)、それ 以外、韓国仏教徒の間で、金九経に言及する例は見当たらない。 参考に、太虚が書いた『楞伽師資記』の書名と印章、同書の序文、本文 の一部を示しておきたい。本文中の上部の赤字の書き込みは金九経の真筆 [図2]『楞伽師資記』(1931 年初刊本)(関西大学所蔵27))
と思われる。 3.北京滞在期:文人・学者との交遊 金九経は 1929 年に北京に至り、魯迅と若い文学徒が組織した未名社に 寄寓した。1929 年春学期から北京大学で朝鮮語・日本語の講義を担当し つつ、中国・日本人学者や文人と交遊した28)。魯迅・周作人・倉石武四郎 らの日記から金九経の行跡が窺える。 金九経を北京の未名社に紹介したのは、魏建功(1901‒1980)だと推測さ れる。魏建功は北京大学で魯迅と周作人に師事した人物である。彼は 1928 年の春、韓国の京城帝国大学から中国語講師として招かれて一年間ソウル で過ごしたが、その時に金九経と知り合ったと考えられる29)。 次の『魯迅日記』からは金九経と魯迅の対面が確認できる。 ・ 1929 年5月 31 日:晴。午後金九経偕塚本善隆、水野清一、倉石武 四郎来観造像拓本。 ・ 1929 年6月2日:星期、晴……夜金九経、水野清一來。 ・ 1929 年6月3日:携行李赴津浦車站登車、卓風、紫佩、淑 相送。 金九経、魏建功、張目寒、常維鈞、李霽野、台靜農皆來送。九経贈 〈改造〉一本30)。 1929 年5月 25 日、魯迅と金九経は未名社で初対面したが、『魯迅日記』 には5月 31 日に金九経の名が初めて登場する。魯迅は朝鮮の情況をたず ねるため金九経と談話し、金九経は敬慕する魯迅から扇面に一首揮毫して もらったという31)。魯迅が北京を離れる 1929 年6月には、金九経は未名 社の文人と見送りに行って、日本の雑誌『改造』を渡したと記されている。 また『魯迅日記』には、塚本善隆(1898‒1980)32)、水野清一(1905‒1971)33)、 倉石武四郎34)ら日本人学者が、金九経の紹介で魯迅を訪ねたと記されてい る。このことは、倉石武四郎も『倉石武四郎中国留学記』『中国語五十年』
で記録している。大谷大学で中国語教師として金九経を教えた倉石武四郎 は、その縁で金九経の紹介によって魯迅を訪問するようになり、同行した 水野、塚本らとともに魯迅が蒐集していた金石拓本を見る機会を得た。下 は、倉石武四郎の回顧である。 北京にいる間に、有名な魯迅先生にもお目にかかる機会ができました ……そして数日後に、わたくしがむかし教えた朝鮮の学生—今は北京 大学の朝鮮語の先生—(金九経のこと、引用者)につれられ、数人いっ しょに先生のお宅を訪問しました。これはなんと、無情かな、また正 確な日本語で、ゆっくり話をされた。他の人の目的は魯迅先生の持っ ている拓本をみせてもらうことでしたが、あとでいろいろ閑談をされ た35)。 また、魯迅の弟、周作人の日記には、1929 年5月から 1932 年4月末ま で金九経の名が頻繁に見られる。周作人も北京大学の教授を務めたので、 二人の会う機会は多かったと推測される。 ・ 1929 年5月 24 日:建功招金九経君來。 ・ 1929 年6月 23 日:金九経君贈朝鮮紙四枚取來。 ・ 1929 年7月 06 日:金九経君來訪。 ・ 1929 年 11 月 21 日:得金九経君信致 。(周作人の娘が亡くなる) ・ 1930 年5月 25 日:上午金九経來在 口立談少頃。 ・1930 年 5 月 31 日:六時往東興楼応金九経君之請十時返。 ・ 1930 年 11 月8日:晩金九経君招宴辞。 ・ 1930 年 11 月 14 日:在北大一院找金君談。 ・ 1930 年 11 月 16 日:六時永持君在東興楼招飲、同坐春宮、瓜生、原 田、矢野、賀剛章、金九経共八人、九時半回家。 ・ 1930 年 12 月 15 日:上午往北大上課還金君『禅』一冊。
[※ 1931 年分の周作人日記は忘失。] ・ 1932 年1月 29 日:金九経君來未見。 ・ 1932 年2月8日:上午金九経君來不見。 ・ 1932 年2月 23 日:下午……劉 勤女士來談九経事。 ・ 1932 年3月 20 日:金九経來未也、留下楞伽師談記一冊。 ・ 1932 年3月 21 日:発金九経信。 ・ 1932 年3月 26 日:受金九経信。 ・ 1932 年4月 23 日:受金九経信36)。 1932 年を最後に、周作人日記から金九経の名は見えない。その後の両者 の関係は推測し難い。ただ金時俊によると、『周作人日記』には無いが、金 九経の外孫(娘の金京子氏の息子)が保管した金九経の号に関する貴重な文 章があると紹介している。文脈の前半が欠損されている。 友人金九経君字明常号担雪軒。近又擬称待曙堂、余偶憶幻時所読中庸 中句、謂可号天下国家堂、方丈斗室可容六合、或于担雪塡井之理有相 契者歟。然則此名非莊非諧、別有可取者。金君以爲然、因命記之爲此。 十九年三月九日 于北平苦雨齊 作人37) 前述のように、金九経は北京滞在中、胡適と交流し敦煌出土写本の校訂 に注力し、北京大学で講義を行った。『北京大学校史』(北京大学出版部、 1988 年)には、1931 年中文系の「中日韓字音淵源研究」、外文系の「日文」 講義の担当者として金九経の名が見える。 1932 年、金九経は、家族を韓国に帰らせて一人北京に残ったが、しばら く満洲の奉天に居所を移した。渡満後も言語学に多くの関心を払った金九 経は、魏建功と同郷人であり奉天高校の教師の李石根らと共に音韻学につ いて議論・研究を続けた。とりわけ彼は、朝鮮後期の言語研究書である柳 僖(1773‒1837)の『言文誌』を校訂して覆刻しており、『校刊柳氏言文誌』
を刊行した38)。 また、散在する資料の中では、渡満後金九経が、奥野信太郎(1899‒1968) とともに日本文学の翻訳家として知られる銭稲孫(1887‒1966)を訪ねた記 録も見られる。 西域受壁胡同に銭稲孫先生をはじめて訪れたのは何時のことであつた か、大分以前の寒い頃であつた。満洲農大の金九経教授と共に静かな 先生の書斎へ、礼知らざる闖入者として立ち現れたわたくしは、その 後先生には種々お世話になつたのである……金先生が北京を離れてい つも思い出す人は銭先生のことだとわたくしに語つたことは、今にし てまたわたくしにとつても同じ思ひである39)。 さて、他に金九経の中国滞在期の行蹟の中で注目されるのは、独立運動 と関わる記録である。金時俊は、未名社の文人臺靜晨(1904‒1990)40)の短編 小説「私的隣居」(『地之子』、未名社、1928 年)の「見知らぬ朝鮮青年が亡命 して隣人として暮らしたが、独立運動の疑いがあるとし中国警察官に連行 された」という内容が、金九経をモデルにしていると推測した。因みに、 金九経の名が見える独立運動と関わる記事を調べて見ると、すべて 1930 年代初めのものであり、これから見て彼が独立運動を行った可能性も排除 できない41)。 4.満洲滞在期:古跡調査・歴史研究 1932 年に渡満した金九経は、奉天国立図書館に勤務し、奉天農業学院の 教授を務めた。とくに彼は、満洲に移住してから古跡調査にも熱中した。 一例として、1930 年代の日本人学者の渤海史関連遺跡(西古城子・中京顯德 府)調査に関わる記録に、奉天国立図書館の主任金毓黻(1887‒1962)42)とと もに調査に会同したと金九経の名が見える43)。1933 年6月中旬に軍隊の警 護のもと、東京城北方の三霊屯古境、および同地の石器時代の遺跡を視察
したとする。このように彼が満洲で現地調査のため出張した記録がしばし ば見られる44)。 韓国に帰国するまで、満洲で行った彼の活動として確認できるのは、塔 碑の調査、満洲の民俗・風習の研究、重修三学士碑の建立、校勘作業など が挙げられる。それらの記録を見てみよう。 1)塔碑の調査:『塔影45)』 満洲国立奉天図書館は、事変後の文溯閣四庫全書の保全し、分散してい た档案など貴重資料を整理する名目で、1932 年6月 18 日に開館した。 1932 年6月7日、同図書館に着任した金九経は、図書整理を担当し金毓 副館長の秘書も兼ね司書部に配属された。翌年5月には、遼金時代の古碑 拓片蒐集に遼陽へ出張するなど現地での史料調査を行った46)。 その後彼は、満洲国立高等農業学校に赴任したが、奉天西北に位置する この学校の町は、仏舎利塔があるため塔湾と称された。金九経は、同学校 校友会学芸部の編集員として『塔影』の執筆に同参し、また「塔湾の地名 と仏舎利47)」という論稿を『興農』第3号(満洲国立高等農業学校、1936 年) に掲載した。この舎利塔(遼代塔湾舎利塔・無垢浄光舎利塔)とは、1044 年建 立の八角形で 13 層の塔である。遼・中京の大明塔等と同様の密檐式の仏 塔で、密教の影響が窺える。瀋陽市内の最古の建築とされる。地宮、塔座、 塔身、塔檐、塔刹の五つの部分に分かれており、地宮は基座の下面に位置 し、珍藏佛舍利などの遺物をここに収めている。金九経は、この舎利搭が、 現在の文教部の古蹟調査から抜け落ちているほど一般に忘れられてきたこ とを嘆きつつ、『塔影』の発展とともに仏舎利も名高くなることを期待す ると述べている48)。 2)満洲の民俗・言語の研究:『重訂滿洲祭神祭天典禮』 稲葉岩吉(1876‒1940)49)は『満洲発達史』(漢訳本)の「序」に金九経に関 して「奉天農大新馬晋教授退如、余故人也」、「退如謂曼殊学人」と紹介し
ている。下は「序」の続きである。 退如以畢訳之稿来請序。余 曰。水到渠成。其斯書之謂矣。斯書之訳。 始於金楊二君。而余不与知焉。斯書之成。則退如之功。而余亦不与聞 焉。然此訳一出。将見不脛走。徧行于白山黒水之間。余烏得不欣然自 喜。快然自足乎。新馬晋教授。原姓金。名九経。槿域秀士。曾問学於 先師内藤湖南博士。今春創氏為新馬。易名晋。退如則其字也50)。 1915 年に日文『満洲発達史』(大阪屋號出版部)を著した稲葉岩吉は、二 十余年後、新京(長春)を訪ねた時、金九経と満洲発達史の漢訳について 話し合った。その後、金九経と楊成能がともに翻訳に着手した。上の「序」 に続いて、訳者の楊成能の「序」が付けられており、「新馬先生金九経が、 『満洲発達史』の漢訳を勧めた」と、訳書刊行の経緯を書いている。その内 容から、金九経が多くの分量の初訳を行った上で楊成能に頼んだことと、 訳書刊行に決定的な役割をしたことが分かる。 そして、稲葉がいうとおり、金九経が内藤湖南に師事したのかどうか、 その詳しい関係は確認し難いが、金九経の日本留学期から関わりがあった ことは、日本関西大学所蔵の内藤湖南関連資料(書簡・葉書)から確認でき る。以下のとおりである。 ① 「内藤湖南宛金九経書簡(1通1枚)」(1927 年4月8日付、京城府宮井 洞)[『内藤文庫各種資料』(12‒9‒108‒16)]。内容:帰国後の近況。 ② 「葉書(1枚)」(1927 年6月 25 日付、京城)[同(12‒9‒109‒16)]。内容: 転居の知らせ。 ③ 「葉書(年賀)(1通1枚)」(1930 年 12 月 25 日北平消印)[同(17‒2591)]。 内容:「恭賀。新禧 金九経・「担雪軒」印章」。 ④ 「電報送達紙、弔電(6月 27 日‒29 日消印)」(1934 年6月 28 日付)[同 (30‒44)]。
⑤ 「葉書(1枚)」(1935 年6月 18 日付、18 日‒21 日消印、吉林省):[同 (17‒3545)]。 ⑥ 「拓本(1通2枚)」(日時未詳)[同(5‒11)]。「封筒:崔源墓誌銘拓片、 封筒裏:満洲国政府」。 ⑦ 「名刺:金九経」(日時未詳)[同(34‒59)]。 このように、数は少ないが、京城、北平、吉林、奉天からの内藤湖南宛 の金九経の書簡・葉書が確認できる。とりわけ 1927 年は金九経が大谷大 学卒業の後帰国した年であり、書簡には「出発前は色々と御心配をかけま して誠に恐縮致します。本日大学から辞令を頂きましたから、御安心くだ さいませ……51)」と自分の就職についてなど近況を書いている。また、同 年6月には転居の知らせを書いた湖南宛の葉書も見られる。因みに、関西 大学所蔵の 1931 年本『楞伽師資記』の扉には「内藤湖南恵存」という親筆 と金九経の号「担雪行者」という印章が捺されている52)。また同大学所蔵 の再刊本『校刊唐写本楞伽師資記』の表紙には「癸巳十月二十五日金明尚 拝贈」という真筆が見える53)。これから見て、金九経が京都留学の時期か ら内藤湖南から学問的に教えを受けた可能性も窺える。 また、稲葉の表現のように「満洲学人」金九経は、満洲の民俗・言語な どを研究したが、とりわけ注目されるのは『重訂滿洲祭神祭天典礼54)』三 冊(薑園精舍、1935 年9月)を残したことである。満洲族の祭神祭天に関す る『欽定満洲祭神祭天典礼(乾隆 12 年勅 )』六冊に基づいて、文献編・儀 編・貢献編に分けて、器物の形態など詳細な説明を加えた労作として評 価されている。「序」を書いた遼陽の 世之君子という人は、次のように 述べている。 鶏林金君明常は、満洲古史を窮究し、その文字を完全に習って、故宮 に所蔵される満洲語の祭神祭天典礼と漢文本を相互対照して、満洲の 古語で書いている満洲語の祝詞を音訳し、漢文本とともに収録した55)。
さらに、天台山人としてよく知られる金台俊(1905‒1950)56)は、「奉天印 象記」(『三千里』第7巻第9号、1935 年 10 月1日)で、満洲での金九経と出会 いを次のように述べている。 当時は、乙亥年の夏、偶然に私も新興満洲の帝国領内に一歩を進むよ うになった……司書の金九経氏の厚意で館蔵珍籍を一々見る機会を得 た……金九経氏は、滿蒙文字硏究に造詣が深い方である。柳僖の 文 誌、柳得恭(1748‒1807、朝鮮時代北学派・『渤海考』の著者、引用者)の灤 陽録などを奉天で出版して薑園叢書に収まった。さらに近日には、三 学士伝を刊行し、申景濬(1712‒1781、実学者、引用者)の訓氏正音韻解 を発刊する予定だという57)。 上の文に見えるように、金九経は、満洲語研究にも熱議を払い、それは、 彼が発表した『滿洲語と漢語を混用したる歌本:吃 蟹』(奉天圖書館叢 刊:第二一冊、1935 年)からも窺える。 3)重修三学士碑・重刊三学士伝 三学士とは、丙子胡乱(1636 年)の時、清に降伏せず主戦論を唱えた三 [図3]『重訂満洲祭神祭天典礼』(薑園精舍、1935 年)
人(洪翼漢・尹集・吳達濟)のことであり、彼らは清に捕まり瀋陽で殺され た。清太宗はその高節を称え「三韓山斗」の揮毫を下しており、祠堂と石 碑を建てることを命じた。『宋子大全』第 113 巻には、1671 年に宋時烈 (1607‒1689)が著した彼らの伝記『三学士伝』が収録されている。その後、 三学士は朝鮮後期の最大忠臣として伝えられてきた。 金九経は、1932 年に瀋陽で吳斗煥(吳達濟の後孫)に出会い、吳達濟の遺 稿二冊を見てから彼とともにあらゆる記録を参考にして瀋陽一帯の遺跡を 調査した。その過程で「三韓山斗」と記されている碑額を発見した58)。「三 学士遺跡保存会」を組織して募金を行い59)、1935 年3月に瀋陽の春日公園 に「三学士遺跡碑」を復元した。金九経はその碑文を書いた。その詳細に 関しては金九経が残した「瀋陽と朝鮮の三学士」(『在満朝鮮人通信』、興亜協 会、1939 年 6 月)に述べられている。 また金九経は、碑の再建とともに宋時烈の『三学士伝』の注釈書を刊行 して流通させた。しかしやっと復元された碑は、1960 年代中国の文化大革 命期に毀損され失われた。その後、再発見され、現在は遼寧渤海専修学院 内の展示館に保管されている。 [図4]「三韓山斗」(『重刊三学士伝』 (1935 年)収録) [図5]「瀋陽と朝鮮の三学士」 (1939 年)
4)其の他 それ以外にも、満洲滞在期の金九経に関する資料は、次のものが確認さ れる。 ① 1933 年 10 月 29 日の『東亜日報』「한글기념식 奉天에서 挙行(ハン グル記念式、奉天で挙行)」記事には、同日、奉天ハングル記念会主催の記念 式で、金九経・李定根の講演が行われたと記録している。 ② 1937 年8月 15 日の『東亜日報』「朝満人事交換」記事には、同月 14 日に「金九経・満洲図們税関鑑査官として正式任命」されたとあり、1937 年 12 月3日の『東亜日報』「渡満八十年の結晶!在奉天同胞の熱誠東光高 普を創立」記事には、奉天朝鮮人同胞学校の東光高普の創立理事のとして 「金九経」の名が見える。 ③ 1940 年6月1日「機密室、우리 社会의 諸内幕」(『三千里』第 12 巻第 6号)の記事からは「この頃新たに創氏した方の中で、国立奉天農業大学 教授の金九経氏は、長く注釈をつけて新馬晋という通知書を各方面に出し た……各地有力者の創氏……金九経氏(奉天)新馬晋」とあり、金九経が 「新馬晋」として創氏改名した記録が確認される。 5.韓国帰国後 1945 年に韓国に帰国した金九経は、ソウル大学図書館で一時勤務し、 1946 年からは同大学の中文科の教授になった60)。延世大学の閔泳珪(東洋 史学)教授の回顧によると、金九経は延世大学にも出講したようである61)。 1947 年8月 25 日には、朝鮮書誌学会(現韓国書誌学会)の創立に、金九経 が、朴奉石・李在郁らとともに主軸の役をなしたことが確認できる。しか し帰国後の金九経の活動に対する記録は非常に少ない。 まず、教育問題に関して発表した「胡適氏의 学術独立十年計画案」(朝 鮮敎育研究会、1947 年 12 月)では、胡適の教育計画案を紹介している。冒頭 に、その趣旨を次のように書いている。
戦争中に駐美大使、現在、国立北京大学総長の胡適氏が、今年、第 60 回を迎える満洲事変記念日に当たって発表した「学術独立計画案」が、 南京で発行された九月二十八日の中央日報に掲載された。満洲事変の 直後に北京で別れ、その後会えなくなった氏の論文に接するに、私個 人としても発憤の感が起こり、論説の内容が、現下、混乱中の我が教 育政府に多くの示唆を与えると思い、多少参考になりうると考え、紙 面を割いて紹介しようとする。氏は、米国大学で教 を取って経験を 持つ人物であることを念頭に置いて、この計画案を読んでほしい62)。 また『서울新聞(ソウル新聞)』(1948 年 12 月 26 日)「民族精神洋洋全国文 化人総決起大会、各界 500 名을 招請」には、27 日・28 日の招請人士とし て「金九経」の名が見える。 その後の幾つかの記録からは、金九経の拉北の可能性が窺える。ソウル 大学の教員であった歴史学者の金聖七(1913‒1951)の 1950 年韓国戦争当 時の日記(『歴史 앞에서:한 史学者의 6.25 日記』、創作과 批評者、1997 年、73 頁)には、1950 年6月 30 日にソウル大学に行って、まだ避難をしていな かった金九経・李秉岐・李丙燾などの文理大教授に会ったと記録している。 つまり 1950 年6月までは、金九経が生存したことが推測される。 その後の彼の具体的な足取りは確認する方法もないが、たとえば「韓国 戦争拉北事件資料院」から「金九経、57、教授、ソウル市鐘路区明倫同四 街 74‒3、拉致日:6・25 戦争中、50 年7月 21 日(51 年家族会、52・54・56 年名簿)63)」と拉北の記録が見える。それ以外にも「老教授와 캠퍼스와 学 生 11」(『京郷新聞』、1973 年9月 11 日)には「ところで、拉致され犧牲にな った教授も多い。理大の孫晋泰氏と金九経教授など、師大の 鶴模、金起 林教授など……」とある。下は、『ソウル大学校大学新聞社』(ソウル大学出 版部、2004 年)の記録である。 李春昊先生をはじめ多くの教授方々が北朝鮮に拉致された。大学新聞
史:文理科大学の孫晉泰(歴史学・当時学長)、金九経(中文学)、金晋燮 (独文学)……64)。 その後、金九経という人物は、我々の記憶から忘れられてしまったので ある。 四 おわりに 以上、金九経という近代の知識人に関する資料を紹介し活動を整理して きた。金九経の青年時代から行方不明までの履歴をたどってみると、1920 年代から 1940 年代までの複雑に絡み合った東アジア情勢、その時代相が そのまま読み取れる。彼は、自分の意志で、また回りの環境・時勢に応じ て、国を渡りながら転々と居所を移したが、結局、韓国戦争の最中に行方 不明になるという運命を迎えた。その後、彼は の存在となっていくので ある。 彼の活動が、韓国内にはほとんど知られておらず不明だと伝えられたの は、親日の問題や国家間の政策が原因であったかもしれない65)。あるいは、 長い期間、他国で活動したため、それほど有名ではなかった為かもしれな い。とはいえ、そのような問題は別にして、『薑園叢書』に収められた敦煌 写本の校勘などの重要な学問的成果も、認識されてこなかった事実は、指 摘せざるを得ない。 確かに、彼自身の名前では目立つ業績を揚げなかったものの、本稿で見 てきたように、近代の仏教学・史学の巨頭とされる人物らの業績の裏側で、 それらの成果を引き立てる、架橋の役割を果たしたことは評価すべきであ ろう。金九経の「楞伽師資記」「歴代法宝記」校訂、『満洲発達史』の翻訳 などは、物や思想の運び、伝達、翻訳などの二次的活動を行った人々に、 目を向ける必要性を感じさせる。とりわけ近代の韓国知識人に関する人物 研究においては、このような検討の余地が多くある。そのような認識のも と、本稿では、長い期間、見過ごされ続けてきた金九経という人物に注目
し、彼の多岐に渡る行跡に対する調査を試みた。新たな資料の補完、関連 資料の詳しい解釈などは、今後の課題としたい。 1) 一指『떠도는 敦煌(さすらう敦煌)』(海印寺出版社、1993 年)66 頁。 2) 筆者が「金九経」に注目し始めたのは、近代の「元暁(617‒686)」関連資料を 調査する際、鶏林生「和諍国師와 薛聡의 至誠」(『仏教』25 巻、仏教社、1940 年)を発見してからである。同一人物かどうかは確認が要るが、金九経という人 物の号が「鶏林」であることを把握した。金九経が京都の大谷大学の留学生とし て仏教に関する重要な活動を行ったことに関心を持ち調査を計画した。それから 大谷大学所蔵の『大谷大学学友会誌』『大谷大学要覧』『観照』などから調査を開 始し、関連資料を収集しながら胡適との関係や満洲での活動などまで視野を広げ るようになった。 3) 稻葉岩吉(楊成能訳)『漢訳満洲発達史』(萃文斎書店、1940 年)。 4) 淨覚 (金九経校)「自序」『校刊唐写本楞伽師資記』(『薑園叢書』、薑園精舎、 1934 年)。 5) 金時俊「鲁迅이 만난 韓国人」(『中国現代文学』13、韓国中国現代文学学会、 1997 年)日本語本は、金時俊(道上知弘訳)「中国に流亡する韓国知識人と魯迅」 (『アジア遊学 25』、勉誠出版、2011 年)。また、阿桂外(張鎮根訳 )『滿洲源流 考』(パ ワ ー ブ ー ク、2008 年)の 訳 者 の 張 鎮 根 の ネ ッ ト ブ ロ グ「満 洲 源 流 를 사랑하는 사람들의 모임」で言及している。 6) 『ディジタル韓国民族文化大百科事典』(http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/ Index)。 7) 金時俊、前掲論文では出生地がソウルとなっている。 8) 金時俊「流亡中国的韓国知識人」(魯迅博物館編『韓国魯迅研究論文集』、河南 文芸出版社、2005 年)に収録されているが、事実可否は確認が必要。 9) 確認必要。注2)を参照されたい。 10) 『大谷大学要覧(大正 11 年)』(大谷大学、大正 11‒14)(「国立国会図書館」参 照)。因みに、金九経以外に 1920‒30 年代の大谷大学の韓国人留学生としては 「金鳳守」(1933 年に西洋哲学科を卒業・ソウル東明女子中学校の校長)、「南延 雲」(専門部卒業・1954 年社会部援護局の静養課長・援護課長)が確認できる (『大韓民国人事録』・『大韓民国建国十年誌』参照)。 11) 「在日各団消息神戶朝鮮労組看板問題觧决」『東亜日報』(1927 年2月 17 日)。 12) 「特別高等警察課の文書。朝鮮人留学生について」(1926 年 10 月、京都府「大 正十五年十月池田前知事、浜田知事事務引継演説書」京都府立総合資料館所蔵・ 京都府庁文書大 15‒15、485‒486 頁)。 13) 「京都苦学総会」(『東亜日報』、1923 年5月9日)。「京都에 苦学生会」(『東亜
日報』、1923 年2月 13 日)。
14) (韓国)国師編纂委員会:韓国史データベース、Naver New library 参考。 15) 「松高盟休拡大」(『東亜日報』、1928 年6月 15 日)。 16) 芥川龍之介(吉田精一ほか編)「芥川龍之介の書簡」(『芥川龍之介全集』第 11 巻、岩波書店、1978 年)519 頁。 17) 一指、前掲書、68 頁。著者一智は、金九経を「近代禅宗史学における隠された 動線」「近代禅宗史学の巨頭」と表現している。 18) 胡適「序文」『校刊唐写本楞伽師資記』(『薑園叢書』、薑園精舍、1934 年)。日 本語訳は、柳田聖山「胡適博士と中国初期禅宗史の研究」(『胡適禅学案』中文出 版社、1975 年)を参照。 19) 金九経「序文」『校刊唐写本楞伽師資記』(『薑園叢書』、薑園精舍、1934 年)。 (日本語訳は、柳田聖山、前掲書、35 頁)。 20) 1921 年3月 22 日に真宗大谷大学の教授に任命。 21) 『胡適全集』第 24 巻(安 教育出版社、2003 年)71 頁(日本語訳は、柳田聖山、 前掲書、36 頁)。 22) 鈴木大拙「 楞伽師資記 とその内容概観」(『大谷学報』12‒3、大谷大学大谷学 会、1931 年)。 23) 宮川敬之「胡適・鈴木大拙「論争」要約および解説」(『中国哲学研究』17、東 京大学中国哲学研究会、2002 年)。
24) Hu Shih, “Ch’an/Zen Buddhism in China: Its History and Method,” Philosophy East and West 3.1, 1953, 3‒24。Suzuki Daisetsu, “Zen: A Reply to Hu Shih,”25‒46。 25) 柳田聖山「胡適博士と中国初期禅宗史の研究」(前掲書、1975 年)35 頁。篠原 壽雄「楞伽師資記について」(『駒沢大学研究紀要』13、駒沢大学、1955 年)94 頁。 小川隆『神会:敦煌文献と初期の禅宗史』(臨川書店、2007 年)。 26) 一指、前掲書、76 頁。 27) 淨覚 ・金九経校『楞伽師資記』、待曙堂、1931 年)(関西大学所蔵、撮影: 2014 年 10 月8日)。 28) この内容に関しては、今村与志雄『魯迅ノート』(筑摩書房、1987 年)を参照 されたい。 29) 金時俊、前掲論文、149 頁。『魯迅全集』巻 15、573 頁の日記 「魏建功」。 30) 『魯迅日記』(『魯迅全集』、人民大学出版社、1984 年)。 31) 「魯迅先生 1925 年5月回到北京省親。他在日記中写到、曾3次到未名社。25 日 「往未名社談至晩」。当時有個朝鮮人、固為不満意日本人的措施。脱離了日本人所 辨的大学來到北京。一時沒有辨法、就住在未名社。魯迅先生和他談了很多話、主 要是了解朝鮮的情況」(李霽野「関于魯迅先生的日記和手迹」『魯迅先生與未名社』、 人民文学出版社、1984 年)。 32) 塚本善隆(1898‒1980):浄土宗僧侶、仏教史学者。中国仏教研究の権威者。 33) 水野清一(1905‒1971):日本の考古学者。京都帝国大学卒。北京留学。 34) 倉石武四郎(1897‒1975):日本の中国語学者、中国文学者。東京大学卒業、同
大学院中退、1922 年に京都大学大学院に入学。1923 年に大谷大学に中国語の講 座が設けられ助教授として赴任。 35) 倉石武四郎『中国語五十年』(岩波新書、1973 年)38 頁。1929 年5月 29 日の こと。 36) 『周作人日記』(魯迅博物館蔵(影印)、大象出版社、1996 年)(金時俊、前掲論 文、150‒151 頁参照)。 37) 金時俊、前掲論文、152 頁。 38) 『劉氏言文誌』は、柳僖の文集『文通』卷 19 に収録。筆写本と新式の活字本の 2種が伝わる。新式の活字本は、李熙昇が今西龍(1875‒1932)の所蔵本を伝写し、 その流通写本を金九経が活字化した。1937 年に朝鮮語学会で『ハングル』5巻の 付録として刊行した。 39) 奥野信太郎「燕京食譜」(『随筆北京』、平凡社、1990 年)47‒48 頁(東京:第一 書房、1940 年)。 40) 台靜晨(1904‒1990):台湾大学の教授歴任。小説家、文学家。 41) 「団体名:上海韓人女子靑年同盟。創立年月日:昭和五年八月十六日、現幹 部:委員長金九経……活動狀況:特記할 만한 活動 없다」(『韓国独立運動史資 料』3巻・任政編Ⅲ・三.中国에서의 臨時傘下 및 後援団体(国史編纂委員 会))。 42) 金毓 (1887‒1962):満洲遼東出身の歴史学者。『渤海国志長編』『東北通史』 の著者。 43) 『東京城:渤海国上京龍泉府址の発掘調査』(『東方考古学叢刊』甲種刊行会編 (東方考古学叢刊、甲種第5冊)、雄山閣、1981 年7月)。 44) 酒寄雅志「渤海史研究と近代日本」(『駿台史学』108、駿台史学会、1999 年)12 頁参照。 45) 岡村敬二「遼寧省図書館訪書記 2007 年8月—附論:資料紹介『塔影』創刊号 満洲国立高等農業学校校友会」『戦前期中国東北部刊行日本語資料の書誌的研究』 2009 年を参照されたい。 46) 「館務要録」『国立奉天図書館季刊』第一期、1934 年 12 月(岡村敬二、前掲論 文からの引用)。 47) 金九経「塔湾の地名と仏舎利」『興農』第3号、満洲国立高等農業学校、1936 年 12 月に転掲。 48) 金九経「塔湾の地名と仏舎利」(岡村敬二、前掲論文からの引用)。 49) 稻葉岩吉(1876‒1946):一橋外国語学校中国語科を卒業、中国の華北に留学。 1909 年から7年間、満鉄の歴史地理調査室で満洲と朝鮮史を研究。1922 年に朝 鮮総督府編修局の朝鮮史編纂委員になる。1939 年には文学博士を取得、その後満 洲建国大学の教授を歴任した。 50) 稻葉岩吉(楊成能訳)『漢訳満洲発達史』(萃文齋書店、1940 年)1‒4 頁。 51) 「内藤湖南宛金九経書簡」『内藤文庫各種資料』(12‒9‒108‒16)(関西大学所蔵)。 52) 『楞伽師資記』(北平:待曙堂、1931 年)(関西大学所蔵本)。
53) 贈呈の対象は内藤湖南と推測されているが確認できない。 54) 金九経『重訂滿洲祭神祭天典礼』(薑園精舍、1935 年)。 55) 金九経「重訂満洲祭神祭天典礼序」(『重訂満洲祭神祭天典礼』、薑園精舍、1935 年)1頁。 56) 金台俊(1905‒1950):1931 年京城帝国大学の中国文学科を卒業。1930 年に韓 国最初の比較文学的国文学研究とされる『朝鮮小説史』を『東亜日報』に連載。 韓国文学史において欠かせない人物とされる。 57) 金台俊「奉天印象記」(『三千里』第7巻第9号、1935 年 10 月1日)。 58) 「仁祖當年의 三学士奉天에서 碑石発見」『東亜日報』(1933 年5月 15 日)の記 事によると、1933 年5月5日、奉天の日語講習所長の黄肉徳が、北市場の保寧寺 の門前で壊れた碑を発見した。 59) 「三学士遺跡保存会創立記事」『朝鮮中央日報』(1934 年6月3日)。 60) 文璇奎は、朝鮮時代の文人の權 (1569‒1611)が著した漢文伝奇小説『周生 伝』の筆写本をソウル大学金九経の所蔵本として初めて翻訳・紹介した。原本の 所在は未確認。 61) 一指、前掲書、67 頁。 62) 金九経「胡適氏의 学術独立十年計画案」(朝鮮敎育研究会、1947 年 12 月)。 63) 「韓国戦争拉北事件資料院」http://www.kwari.org/参考。 64) 車培根『ソウル大学校大学新聞社』(ソウル大学出版部、2004 年)48 頁。 65) 今村与志雄は、李霽野の『回憶魯迅先生』(新文芸出版社版)は、のち修改して 『魯迅先生與未名社』(湖南人民出版社刊、1980 年)に収められたが、「關于魯迅 先生的日記和手迹」(文末に 1956 年8月と記す)という一 は、1973 年1月 18 日付の「附記」、1979 年 11 月7日付の「再記」を付け加えたものが収められてお り、これでは「当初有個朝鮮人金九経」の「金九経」が削られており、次の文章 にも名前のかわりに「 個人」に置き換えられているのを指摘した。その理由に ついて今村は「一九七三年当時の中国社会の政治的雰囲気の、いわば 傷痕 で あろう」と述べている(今村与志雄、前掲書、273 頁)。 (本学任期制助教 東洋史) 〈キーワード〉金九経、近代、禅宗史学