号
81
ページ
16-22
発行年
2011-04-01
植民地ツーリズム
「植民地ツーリズム」ということばには、どこか違 和感があるかもしれない。娯楽としての旅行や観光を 意味するツーリズムと、支配や暴力を想起させる植民 地とが結びつくことが想像しにくいからであろう。し かしながら、宗主国と植民地との支配/被支配関係の なかであらたなツーリズムが誕生し普及した事例は、 ツーリズムの歴史のなかにはいくつも存在する。 たとえば、日本からも年間およそ 100 万人の旅行者 が訪れるハワイ諸島は、19 世紀末(1898 年)のアメ リカ合衆国によるハワイ併合前後から観光保養地とし て誕生し発展したものである。その観光地化は、太平 洋最大の軍事拠点(パールハーバー・真珠湾)の建設 と同時にすすめられたものでもあった。現在のインド ネシア(かつてのオランダ領東インド)に位置するバ リ島、現在のカンボジア(かつてのフランス領インド シナ)にあるアンコールワット、そしてイタリア・英国・ フランスの植民地であった北アフリカの遺跡群をはじ め、宗主国/植民地という関係のなかで、ツーリズム の目的地として発見され、メディアで宣伝され、多く の旅行者を集める観光地となった事例は数多い1)。 ところで、こうした植民地ツーリズムは、欧米諸国 が主導したものばかりではない。日清・日露戦争を契 機としてその版図を拡大した日本もまた、支配/被支 配関係のもとで植民地ツーリズムをうみだしてきた。 本稿の目的は、19 世紀末からのおよそ 50 年間にわたっ て、日本がさまざまなかたちで領有し、あるいは獲得 した外地や植民地などへのツーリズムの軌跡を思い出 すことにある。 20 世紀前半期における日本の植民地とそれに準ず る領域とは、千島、樺太、関東州を含む満洲、朝鮮半 島、台湾、南洋群島などである。こうした地域へは日 本からさまざまな旅行者が訪れた。文字通り植民=移 住した人、仕事や業務で移動した人に加えて、学校の 修学旅行や視察・見学の団体旅行、ジャパン・ツーリ スト・ビューロー(現在の財団法人日本交通公社なら びに株式会社ジェイティービー)などが企画したパッ ケージツアーに参加することで植民地への旅行を経験 した人々も少なからずあった。 そこでまず、1冊の古い時刻表からその軌跡をた どってみたい。現在においても月刊で発行されている 鉄道の時刻表は、日本では 1894(明治 27)年にはじ めて出版された。創刊から今日まで 120 年近くが経 過するが、過去の時刻表は実用的には価値がないため に一般的には消耗品と考えられ、大学図書館のコレク ションともなりにくい。しかしながら、その歴史的史 料価値から今日では多くの時刻表が復刻されており、 過去 120 年間近くの旅行のありさまを振り返る貴重な 資料となっている。1冊の時刻表から
その時代の朝鮮半島には2つの急行列車が走ってい た。1つは午前7時 30 分に朝鮮南部の都市釜山(現 在のプサン)を出発し、午後3時 20 分には京城(現 在のソウル)、午後8時前には平壌(現在のピョンヤ 文学部教授荒山 正彦
忘れられた植民地ツーリズムの軌跡
ン)に停車し、さらに朝鮮と満洲との境界線を越えて、 翌朝午前6時 40 分に満洲の奉天(現在のシェンヤン) に到着する「のぞみ」号である。 そしてもう1つの急行列車は、のぞみ号が釜山を出 発したおよそ 12 時間後の午後7時 20 分に釜山を出発 し、翌日の午前3時すぎには京城、午前7時すぎには 平壌に停車し、その後、のぞみ号と同じように朝鮮と 満洲の境界線を越え、1932(昭和7)年に「満洲国」 の国都と定められた新京(現在のチョウシュン)へ午 後9時すぎに到着する「ひかり」号である2)。釜山か ら京城までの片道運賃は、一等で 19 円 85 銭、二等で 12 円 63 銭、 三等で7円であった3)。 さて、この時刻表は、JR 各社の前身となる鉄道省 が編纂し、ジャパン・ツーリスト・ビューローが発行 した『汽車時間表』(1934・昭和9年)である4)。『汽 車時間表』には、索引としての役割をもつ「鉄道路線 図」が冒頭数ページに掲載されている。たとえばそこ 路線もあたりまえのように記されている。樺太や台湾 にも北海道や九州と同じように日本語の路線名や駅名 があり、時差のない同じ時間帯で列車が走り、海を隔 てていても鉄道のネットワークは接続し、連続してい ることを物語っている。こうした鉄道路線図を通して 人々は、日本の範域が空間的にどのように広がりを 持っているのかについて知り、あらためてその版図を 確認したと考えられる。そして、鉄道路線図を眺めな がら、時刻表の列車運行を追い、こうした広がりを持 つ領域への旅行を想像することもまた、一般的であっ たと考えられるのである。 そうした旅行に直接関わる情報として、当時の時刻 表にも現在のような旅行の広告ページが付されてい た。この昭和 9 年の『汽車時間表』巻末にも 30 ペー ジにわたる広告欄が設けられている。そこには各地に ある温泉地や旅館、遊覧バスなどの宣伝広告が掲載さ れており、その見出しには伊豆、富士、日光などの文 字がならぶ。そしてこれらの観光地とあわせて、朝鮮、 樺太、台湾などの旅行広告も掲載されている。全 30 ページの広告のうち、1ページ大の広告を掲載してい る例が5件あり、それは東京遊覧バス、京都名所遊覧 バスの2例と、あとは満洲(南満洲鉄道株式会社)、 朝鮮(朝鮮総督府鉄道局)、台湾(台湾総督府鉄道局) という3つの地域の旅行広告である。 たとえば朝鮮総督府鉄道局による1ページ大の広告 には、「史蹟に富む朝鮮 へ 風光美に恵まれた朝 鮮へ」という見出しで、 各地の古蹟(慶州、扶余、 開城など)、温泉(東莱 温泉など)、自然の風景 地(金剛山)が具体的に 紹介されている。つまり 朝鮮における列車運行 (昭和9年の時刻表から) 昭和9年 12 月号の時刻表の表紙。 定価 25 銭で販売されていた。 スキーのシュプールが表紙を飾る。
この当時、満洲や朝鮮、台湾への旅行は、伊豆や箱根、 あるいは北海道や九州への旅行の延長線上にある「手 の届く」旅行地であった。 このように、1冊の時刻表のなかに植民地ツーリズ ムの様相をみつけだすことは、実はそれほど困難なこ とではない。今日数多く復刻されている戦前期の時刻 表には、こうした植民地ツーリズムの記憶が刻まれて いるのである。
ツーリズムのリーフレットから
次に、植民地ツーリズムそのものを、よりはっきり みせてくれる資料をとりあげてみたい。ここに示した のは、『汽車時間表』に1ページ大の旅行広告を掲載 した朝鮮総督府鉄道局が、1935(昭和 10)年に発行 したリーフレット「朝鮮旅行案内」である5)。 『汽車時間表』(昭和9年)に掲載されている「鉄道路線図」。 九州とならんで台湾の鉄道路線が描かれている。「朝鮮旅行案内」は、大きさ 37 ㎝ ×53 ㎝の一枚も ののリーフレットで 12 分の1の大きさに折りたたん で、携帯することができるようになっている。おもて 面は「朝鮮交通略図」と題された主題図と 10 枚の写 真が組み合わされている。朝鮮交通略図には 1935 年 洲国」への鉄道ネットワークも示されている。また主 な観光地、主な海水浴場、温泉、寺刹、山岳などの観 光の目的地も地図上には記されている。地図の周辺に 掲載された写真は、金剛山、朝鮮神宮、妓生、京城と 平壌市内のみどころ、そして「日満を繋ぐ超特急ひか り」と説明された急行列車ひかり号などである。 リーフレットのうら面は、朝鮮の具体的な旅行案内 となっており、面積地勢、気候、旅行季節などの「朝 鮮の概略」、各路線の「沿線案内」、そして割引乗車船 券の紹介、旅行日程案の記述がみられる。おもて面の 交通略図とあわせて、朝鮮のみどころや旅行プランが わかりやすく示されている。その旅行案内の一部をこ こに抜き出してみたい。 朝鮮全体の旅行イメージを記す「旅行季節」の項目 では、「朝鮮は至るところ海に、山に、半島特有の変 化に富んだ自然の美を有し、(中略)絢爛の春、百花 の色彩とりどりに賑わう馬山・鎮海・京城・平壌など の桜はまさに内地の春をしのぐ美しさであり」、新緑 や紅葉、スキー・スケートなど一年を通じて楽しめる ことがうたわれている6)。 リーフレット「朝鮮旅行案内」(朝鮮総督府鉄道局発行、1935 年)のおもて面に掲載された朝鮮交通略図(部分)と写真(ひかり号など)。 リーフレット「朝鮮旅行案内」 (朝鮮総督府鉄道局発行、1935 年)の表紙。
また「沿線案内」では、都市や風景地などの見学先 が具体的に紹介され、大阪毎日新聞社が選定した朝鮮 八景・八勝、各地の温泉地、海水浴場、避暑地なども 個別に記載されている。そして「旅行日程案」の一例 として、山口県の下関から朝鮮半島南部の都市釜山を 経由して、再び下関へ戻る7日間のプランでは、関釜 連絡線や朝鮮総督府の鉄道線「のぞみ」と「ひかり」 を利用し、京城、平壌、慶州、そして満洲との境界線 にある二つの都市である安東と新義州、東莱温泉・海 雲台温泉をめぐる行程が示され、仮に三等の列車を利 用すると交通費、宿泊費などすべて含めておよそ一人 70 円であったことも示されている7)。 こうした一枚もののリーフレットには、同時代の ツーリズムの具体的な様相がさらによく示されている ように思われる。ここでは 1935 年発行のリーフレッ トを取り上げたが、同様のリーフレットは、1920 年 代から 40 年代にかけて、朝鮮のみならず、満洲、台湾、 樺太、南洋においてもさまざまに作製された。 それでは最後に、冒頭の『汽車時間表』を発行した ジャパン・ツーリスト・ビューローによる植民地ツー リズムに関連する図書資料の一部をとりあげてまとめ としたい。
『旅程と費用概算』と『東亜旅行叢書』
2012 年は、財団法人日本交通公社と株式会社ジェ イティービーとが創立 100 周年をむかえる年である。 両社は 1912(明治 45)年3月 12 日にジャパン・ツーリ スト・ビューローとして創設されたことにはじまる8)。 創設当初は日本への外国人旅客への斡旋業務を主とし たが、1930 年代に日本人旅行者へのサービスを大幅 に拡大する。そして同じ 1930 年代からは、いわゆる 日本内地での旅行斡旋ばかりではなく、1934(昭和9) 年に満洲旅行のための雑誌『旅行満洲』を創刊するな ど、日本から外地・植民地へのツーリズムに関しても 大きな役割を果たしてきた。 ジャパン・ツーリスト・ビューローでは創設翌年の 1913(大正2)年に月刊雑誌『ツーリスト』を創刊し、 日本内地はもとより、外地や植民地への旅行情報を発 信していた。そして 1919(大正8)年に月刊雑誌『ツー リスト』の附録として、「旅程と費用概算」と題され た旅行案内が発行された9)。翌 1920(大正9)年から『旅 程と費用概算』は一冊の単行本として発行され、戦前 期においてもっともよく知られた旅行案内書のひとつ となった。ここでは、前述の『汽車時間表』や「朝鮮 旅行案内」と同時期、1935(昭和 10)年に発行された『旅 程と費用概算』を事例にとりあげてみたい。 1935 年版の『旅程と費用概算』は総ページ数 812 ペー ジに及ぶ大著である。旅行案内書ではあるが、旅行先 に持ち出して携帯するのではなく、机上で旅行計画を 立てるときに用いられたと考えられる書物である。そ の内容は書名が物語るように、東京などを出発地点と して、日帰りや1泊2日で近郊へでかける旅行から、 10 日間をこえる日程での九州一周旅行、2週間での 戦前期に発行された『旅程と費用概算』 (ジャパン・ツーリスト・ビューロー)。費用の概算が示されているものである。 すなわち、この旅行案内『旅程と費用概算』を一覧 すれば、その時代における主要な旅行先とその行程が 明らかになるのである。さらに加えていえば、この資 料は 1920 年からの 20 年間にわたって改訂と増補が繰 り返されているため、『旅程と費用概算』を時系列に 並べて分析すれば、戦前期のツーリズムの歴史を概観 することもできる。 1935 年に刊行された『旅程と費用概算』では、前 述の「2週間北海道・樺太遊覧」と行程 22 日間の「台 湾遊覧旅行」に加えて、「朝鮮金剛山探勝」(12 日間)、 「満鮮周遊旅程」(15 日間)、「青島及鮮満周遊旅行」(21 日間)、「内鮮満周遊」(20 日間)などの植民地ツーリ ズムにかかわる旅行日程案とその費用が掲載されてい る。たとえば「満鮮周遊旅程」は、東京から三宮まで は鉄道を利用し、神戸港から満洲の大連までは船の移 下関へ戻り、ふたたび鉄道で東京へ戻るというルート である。その費用の概算は、二等 230 円、三等 135 円、 学生 100 円とされている10)。15 日間の長期にわたる 旅行としては、決して高額ではなく、11 日間での東 京北海道往復旅程がおよそ二等 150 円、三等 100 円で あったことと比べても、特別に高額でなかったことが わかる。1920 年代の大正後期から昭和前半期にかけ て、日本での植民地ツーリズムはそれなりに普及し、 一般性をもった旅行形態であったことがここにうかが われるのである。 ところで、『旅程と費用概算』は改訂と増補を繰り 返すうち、総ページ数が増え続け、1930 年代後半に は 1,000 ページを超えてしまう。そこで、1930 年代半 ばから、各地方別に編集されたツーリスト案内叢書が シリーズとして刊行されるようになる。たとえば第1 集は「北海道地方」、第7集は「九州地方」というよ うに、それぞれ 50 ページあまりの単行本として発行 された。 『旅程と費用概算』の内容は、こうして地方ごとに 再編集されシリーズとして刊行されるようになった。 ここでは植民地ツーリズムに関わる旅程について、現 時点で確認していることを記しておきたい。 ジャパン・ツーリスト・ビューローが社名を東亜旅 行社と変更した 1941(昭和 16)年に、ツーリスト案 内叢書というシリーズ名も東亜旅行叢書へと変更され た。地方ごとのナンバーはそのまま継承され第 28 集 まで刊行されていたことが確認でき、第1集から第 21 集まではいわゆる内地の旅行案内となっている。とこ ろが第 22 集以降では、第 24 集の『東印度諸島』、第 28 集の『満洲』を確認することはできるが、第 22、 23、25、26、27 集の5種類は、その存在を確認できない。 現時点では発行された形跡はみあたらず、発行が計画 された痕跡もない。この未確認の5種類の東亜旅行叢 『旅程と費用概算』(1935 年)から 「満鮮周遊旅程案」(部分)。
書のなかには、少なくとも朝鮮や台湾の旅行案内が計 画されていたのではないかと筆者は考えている。 こうした未確認の図書資料を含めて、近代日本の植 民地ツーリズムの軌跡を知る手がかりの全体像がよう やくみえてきた感がある。しかしながら、その整理整 頓と分析は、筆者の今後の大きな課題として残されて いる。