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私の研究活動を振り返る

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(1)

 「研究雑話」ということで、何を書こうかと机上 にある3冊の自著に目を通していますと、福岡大学 での35年間に及ぶ教育・研究生活に関わる感慨に駆 られてきました。このほかにも何冊か教育・研究書 を書いてはいるのですが、この3冊にはとりわけ私 自身のこれまでの研究活動における様々な思いが集 約されています。言い換えますと、この3冊が私の 研究領域をそのまま示しており、これらの領域の挟 間における厳しい教育・研究条件や環境の下で「不 安」と「不燃焼」の感に迫られながら在職生活を 送ってきたということにほかなりません。以下にこ の3冊に関わる思いや願い、そしてこれらの研究を 通して生じてきた多くの人との「縁」などの一部を 述べることで、「研究雑話」に代えさせていただき ます。

 というのも、職務上で避けられなかったとはいえ、

以下に述べていきますように著書内容でもある「進 路指導・キャリア教育」、「教育制度・教師教育」、

「EU の教育・訓練政策」の大きく3つの教育・研究 活動の挟間で、自己の専門領域に専念できずにどの 領域も中途半端な研究に終わってしまうのではない かという「不安」や「不燃焼」の思いに駆られつづ けてきたということです。ところが今では、この3 領域において研究者世界の「縁」というか、いかに 多くの方との人間的な交わりにおいて、私自身の教 育・研究生活そのものが支えられてきたかを実感さ せられています。こうした人生の「縁」ともいうべ き研究者間の人間関係をより深くさせていただいた ことも福岡大学に在職できたからこそに尽きるとい うことで、まさに感謝の念で一杯です。

 まず1冊目は高等学校の商業と工業の教員免許状 取得に必修である「職業指導」、そして教育・臨床 心理学科科目の「キャリア教育論」及び「キャリア

政策論」のテキストとして刊行した『進路指導・キャ リア教育論―政策・理論・実践―』、中川書店、2010 年です。九州大学での5年間の助手・研究員を経て、

本学に赴任した1979年度に担当した科目が「職業指 導」で、どう指導していけばよいのかまさに「不安」

の連続でした。この解消のためには、日本進路指導 学会(旧職業指導学会)への入会が極めて大きかっ たと思います。とりわけ会長であられた仙武先生

(当時文教大学)などの指導的な立場にいられた方々 の進路指導に対する強い熱意に接することで、職業 指導・進路指導研究の実践と理論への「不安」や

「不燃焼」がよりよく和らげられていきました。

 このこともあって1985年に『学校教育と進路指導

―一人ひとりを活かすために―』、創言社、を刊行 することが出きたし、1993年には第15回日本進路指 導学会の全国研究大会を本学で開催することにもな りました。この学会も日本キャリア教育学会となり、

各地区に地方学会が設置されるようになりましたが、

2001年に本学が最初の九州・沖縄地区部会の事務局

(現在九州大学)となり、多くの大学や学校現場の 方とこれからのキャリア教育について論じることが 出来ました。

 次の2冊目は教職課程履修者の必修科目である

「教育制度論」のテキストとして刊行した『教育制 度の歴史と現状』、中川書店、2009年です。本学教 職課程の専任教員として、当然のことながら「教師 教育」の実践的な研究の深化が求められる中で、本 書の執筆へとつながった『学校の原理と構造―今日 的視座の確立―』、創言社、1983年や『学校と教育 行政―より良い教育条件を求めて―』、創言社、1987 年をまとめながら、教職課程の大学教育での現実的・

根源的な問題の解決に迫られてきました。端的に言 いますと、教職課程教員が大学教育において構造的

―   ―2 研究雑話

3つの研究領域の挟間において

―「不安」と「不燃焼」のなかで―

人文学部教育・臨床心理学科教授 坂 本   昭

(2)

に持ち続けてきた、いわゆる教師養成としての教育 と研究の「ジレンマ」、そして教職が資格課程とし て専門課程や教養課程との関係で生み出されてきた 大学教育における「ヒエラルキー」、さらに教師教 育での理念と実践との「ズレ」などから喚起されて くる「不安」にどう対応するかということでした。

 こうした言わば「苦悩」ともいうべき切実な教職 課程(教師教育)の構造的な問題解決のために、

1979年設置されたのが「全国私立大学教職課程研究 連絡協議会(全私教)」でした。この中心的な存在 であった鈴木慎一先生(当時早稲田大学)や右島洋 介先生(当時関西大学)などから直接・間接的に得 られた開放制教師教育に対する基本的な活動姿勢や 研究態度は、言葉に言い表せないほど貴重なもので した。1987〜1988年度には、鈴木先生を代表とした 科学研究補助金(総合研究 A)の『新規採用教員の リクルート・勤務実態及び力量形成に関する諸条件 の実証的研究―青年の人生選択の観点から教師教育 制度の総合的評価と改革を目指して―』に参加し、

教職課程に関わる多くの研究者と教師教育の持つ根 源的な諸問題について熱海の研究合宿で論じ合った ことやその成果の刊行なども本当によい思い出と なっています。

 この協議会や日本教師教育学会に向けた先生方の 情熱により、私の研究の専門領域外としての「不燃 焼」が抹殺され、当時の強い教師教育への意欲にも 繋がっていったというのが正直な言い方かもしれま せん。全私教の下部組織としての「九州地区教職課 程研究連絡協議会」設置・充実にも関わりながら、

この地区部会こそ当時の教職課程で同じ悩みや・不 安を持つ仲間の共通理解の場でした。こうした一連 の教職課程の持つ根源的な教育・研究に関わる問題 や課題についても、これらの協議会や学会で提案・

発表をさせていただいこともよい経験でした。

 最後の3冊目は2003年の博士(教育学)学位論文

「EC の教育・訓練分野の『調整化』政策に関する研 究」(九州大学)に、若干の修正を加えたものを福 岡大学学位論文出版助成の交付により刊行した『ヨー ロッパ連合の教育・訓練―EC 市民育成の展開−』、

中川書店、2004年です。私の主専門領域であるヨー ロッパ教育・訓練への関心は、既に学部卒業論文に 端を発しており、その時のテーマが「ソビエトにお

ける総合技術教育の理論と実践」でした。この職業・

技術教育への関心が、修士論文での「近代技術教育 の比較制度史的考察―19世紀イギリスの歴史的アプ ローチ―」に発展し、さらに博士課程中間論文の

「西ドイツにおける職業教育改革の動向―Dualismus の理念と実践をめぐる再評価―」として拡がり、そ れまでの研究対象としての地域・内容の収斂がヨー ロッパ共同体(EC)における教育・訓練政策にほか なりません。

 こうしたヨーロッパ教育への関心をより現実的な 研究テーマとして取り組むようになった動機は、こ の方向性が少し明らかとなりつつあった大学院時代 の時で、それもまさに恩師である井野正人先生との 出会いでした。井野先生は教育哲学のご専門で、当 時ドイツの高等教育研究をなされており、その研究 に対する厳しい姿勢や人間としての生き方において 実に感銘することが多く、そのことは先生の文字や 文章に対する執念ともいえる研究者としての意気込 みと他者に対しての温かく豊かな人間性に尽きます。

ただただ感謝のみで、先生がお亡くなりになられた 後に、先生のお書きになられたものの一部をまとめ て井野正人著『教育の道標』、創言社、1985年とし て出版させていただきました。

 このヨーロッパ教育・研究と関わる日本 EU 学会、

そして日本比較教育学会に所属し、ここでもいろい ろな研究者の方々との交流がありました。とりわけ ドイツ教育研究で天野正治先生(当時筑波大学)、

そして馬越徹先生(当時九州大学・名古屋大学)な どからはその著作や学会活動を介して研究面から生 活面にまで大きな影響や感化を受け、その上に馬越 先生には個人的にも暖かい交流をさせていただいた ことも忘れることが出来ません。 最近では近藤孝 弘先生(早稲田大学)らの2005〜2007年度の科学研 究補助金(基盤研究 B)で「EU 加盟国における統 合政策と教育改革の政治力学に関する比較研究」、

ならびに2008〜2011年度(基盤研究 B)の「EU に おける能動型シティズンシップに関する比較研究」

の共同研究に関わらせていただく中で、若い研究者 の方々から、どうしても日常において生じる研究へ の「不燃焼」に対して、その反省に向けての強い刺 激を受けました。この EU に関する研究成果の一部 を、近藤孝弘編『統合ヨーロッパの市民性教育』、

―   ―3

(3)

名古屋大学出版会、2013年に掲載しています。

 こうした3冊の自著を見ながらの感慨は尽きない もので、それだけ大学人としての研究への「不安」

や「不燃焼」の気持ちが、この道に生きていくエネ ルギーともなったのかなと改めて再認識させられて います。繰り返しますが、3研究領域ともその成果 はまだまだ不十分のままですが、こうした研究への 感慨や人間としての深い「縁」の場を与えていただ いたことは、福岡大学での在職があってこそ可能で した。最後になりましたが、福岡大学での教職員の 方々との同僚としての「縁」についての感謝は述べ るまでもありません。

―   ―4

(4)

 九州大学法学部の恩師徳本鎮教授のもとで、公害 被害者の救済の在り方を研究する中から、救済の法 的要件だけでなく、救済方法の内容に関心をもつよ うになりました。そこで1972年に福岡大学法学部着 任した頃は、日本で検討されることが少なかった訴 訟による差止請求について研究していました。

 ところで、九大の研究室時代の公害研究は、最初 は東京大学加藤一郎博士が主宰される「公害研究会」

の一員に加わっての北九州等の公害被害の現地調査、

といった形で行っていました。その後福岡大学法学 部着任直後の1973年に、公害研究会を引く継ぐ形で

「人間環境問題研究会」が設立されることになり幹 事役の故野村好弘教授から研究室に電話があって設 立メンバーになるようにとのお誘いをうけました。

1972年の国連人間環境会議に触発されて設立された この研究会は、公害被害の防止・救済だけでなく、

地球環境や自然環境問題も視野に入れた環境問題を 広く研究対象にすることを考えていました。以後毎 月、定例研究会のために東京に行き、多くの先生か ら指導をうけ、また行政担当者や若手の研究者から 最新の情報を得て私の研究の幅は急速に拡がってい きました。この研究会は、環境庁からの委託研究を 主な財源にしていましたので、委託をうけての全国 の自治体の公害・環境条例の網羅的な解析、公害防 止協定の徹底的な分析類型化など、手間がかかる仕 事を手作業で行いましたが、若い頃にこういった実 証的な検討をする機会を得たことは、後の大きな財 産となりました。

 1979年秋に、人間環境問題研究会は、加藤一郎先 生を団長とし中国社会科学院法学研究所と提携して 中国を訪問し中国の公害・環境法を調査することに なりこれにも加えていただきました。以後、1989年 天安門事件が起こって、交流を中断するに至るまで、

ほとんど毎年のように中国に調査にでかけ、中国の

環境政策などの変化を調べるとともに、研究者との 交流を通じて、日本の法制度の在り方を考え直す機 会を得たことは貴重な経験でした(なお、1992年に は、福岡大学で、日本と中国の環境法研究のシンポ ジウムを開くことができましたが、これも長年の交 流の成果であったと思います)。また、中国では、1980 年代から民法典の整備がはじまっていました。そこ で、環境法だけでなく、民法典の整備の状況にも関 心を払い、野村教授と共に、最新の情報を日本に紹 介することにも努力しました。またこのような研究 をしていたことが、本学で中国からの留学生を指導 する上で大いに役立ちました。

 さらに1979年には、大牟田市での公害健康被害補 償法の患者認定の委員になりました。医師の先生方 の中に一人加わっての実務経験はこれも有用でした。

1988年同法が改正されましたが、その準備のため加 藤一郎先生、森嶌昭夫先生と共に1984年頃からはじ めた研究会では、実務経験が役立ちました。

 人間環境問題研究会で環境庁とのつながりをもつ ことがあったからか、1980年には、当時国会審議が 難航していた旧環境影響評価法案をめぐる法的理論 の検討会委員に指名され、その後、次々に環境庁の 委員を引き受けることとなりました(なお、旧環境 影響評価法案は廃案になりましたが、1994年からは、

現行法準備の研究会に加わり、法律の制定、その後 の法律の改正、法律の運用さらには環境アセスメン ト学会の設立やその運営、といった具合に、研究と 仕事がつながっていきました。私の研究スタイルは、

この頃にはじまるのだと思います)。

 1982年、文部省環境科学特別研究に社会科学枠が できて、これに加わり、九州班を組織するなどしま した。この研究はのち重点領域研究と名前がかわり、

さらに、文理融合の動きの中で、技術科学・自然科 学と共同研究のもとで進めよ、ということになりま

―   ―5 研究雑話

私の研究活動を振り返る

―今につながる時々を思い起こしながら―

法学部教授 浅 野 直 人

(5)

した。そこそこの年齢になるとこういった研究のお 世話役をさせられることにもなり、異分野との忍耐 強い学際交流を、その後1990年代半ばまで続けるこ ととなりました。なお科研費の研究活動を母体に環 境科学会が設立されてきましたが、先輩に続いてそ の理事・副会長・会長を務めたり、現在も続いてい る環境研究評価・審査をさせていただいているのは、

この頃の研究活動のおかげなのでしょう。総論から 始めるのではなく、他の学問領域の情報を活かし個 別の分野のニーズに応える、環境科学としての役割 を意識した環境法学・環境政策学という私の発想は、

この学際交流研究の経験から生まれました。

 この1982年には、福岡市公害対策審議会の委員に なりました。かつて公害研究会の九州班で、徳本先 生とならんでお世話になった故近藤昭三先生が辞任 された後を引き継いだわけです(なお、近藤先生に は、1978年の日米民間環境会議で報告の機会を得た、

「イリオモテヤマネコ保護に関する研究」を行う際 に、西表島での現地調査を含めて、実に適切なご指 導をいただいたことも忘れることができません)。

公害対策審議会は、のち環境審議会と改組されまし たが、現在まで、30余年委員を続けています。

 その後、北九州市、福岡県、太宰府市など、多く 地域で環境行政に参与することになりましたが、80 年代の福岡市公害対策審議会委員の時代には、公害 測定の現場に行かけたり、大学院卒の優秀な技術職 員から手取り足取り基礎的な技術概念を教えていた だくなど、貴重な経験をすることができました。こ のことが、上に記した、学際交流では大いに役だっ たことを思い起こして感謝しています。

 いずれにせよ、環境法の研究や国の各種の委員の 仕事を、地域での仕事の裏付けや基盤の上で、進め ることができたことは、私の研究や活動にとって、

まことにありがたいことでした。

 1982年には、さらに恩師徳本鎮先生のご指示で、

佐賀医科大学(現佐賀大医学部)の法医学の講義の 中で医療事故の講義をすることになりました(そし てその後は各地の医学部でも講義を依頼されるよう になりました)。福岡大学医学部創設当時、法学部 のスタッフだけで医事法の講議をしたことがありま すが、わかりにくいと、余り評判がよくなかったこ とでしたが、その経験から考えても、医学部の学生

に法律を理解させるためには、判例の事案をできる だけ具体的に説明することがいい、と考えました。

そこで、当初はスライド、のちには OHP、さらにパ ワー・ポイントとプレゼンテーション技術の進化に 応じてこれを身に着け、活用することにしました。

こういうプレゼン技術は、環境研究の学会の発表で も役にたちましたし、資料を作ることを通じて文献 を読んでいるだけでは気が付かない観点に気づかさ れる、という経験をすることができました。真面目 に講義をすることは研究の上で何よりも役に立つこ とを実感します。

 ところで、先に述べた公害健康被害補償法の認定 実務での臨床医との交流の経験や、法医学の講義を 通じての医系の先生との情報交換の経験は、医系の ものの考え方を理解する、いい機会でした。

 1990年代以降、環境庁での、水俣病被害救済の論 議に本格的に参画することになりましたが、おかげ で、医系の先生方との意見交換を円滑に進めること ができました。また、1995年頃から、化学物資管理 や土壌汚染対策の政策・施策を、2005年頃からは石 綿粉じん被害救済の政策・施策にも関わりをもつよ うになりました。この際にも環境リスクといった概 念に、さして違和感を覚えることなく議論に加わる ことができたのは、学際交流や、医系の方々との交 流の経験があったからとだと考えています。

 1992年、それまでの公害対策と自然環境保護に分 れていた日本の環境政策を一元化するための環境基 本法の制定の準備が始まりました。環境庁環境基本 法制検討会委員という肩書をもらって(実は委員は 一人だけ)、ウラ方として法律の準備にあたる機会 を得ました。偶然でしたが1993年11月19日私の50歳 の誕生日に環境基本法が公布、施行され、以後中央 環境審議会委員として地球温暖化対策や循環型社会 形成など次々に新しい課題を追いながら現在に至っ ていますが、あっという間に70歳を迎えました。国 の審議会委員はもう1年務めますが、41年余お世話 になった福岡大学を一足先に定年退職することにな りました。余り大学におらず、外を飛び回るという 勝手な研究スタイルを、長くこれまで許してくだ さった大学と同僚の寛大さに改めて心からの感謝を 申し上げます。本当に福岡大学で研究生活を送るこ とができてよかった、と感謝しております。

―   ―6

(6)

 福岡大学法学部に赴任したのは1974年4月ですか ら、2014年3月で40年間勤めたことになります。そ の間、長期在外研究で1年間ニュージーランド、ク ライストチャーチ市のカンタベリー大学に留学して 休んだ以外は、健康にも恵まれ、研究と教育に邁進 することができました。これも、福岡大学のすべて の皆様の支えがあったからと感謝しています。

 私は法律学の分野の中でも、社会保障法というど ちらかといえばマイナーな科目を研究分野に選びま したが、これは私が大学の学部時代を過ごした金沢 大学法文学部で、故佐藤進先生の労働法、社会保障 法の講義を聞き、社会保障法の演習に参加したこと がきっかけだったと思います。当時はまだ大学法学 部で社会保障法を講義科目として設置していた所は 少なかったと思います。それから10年後、私が福大 法学部に赴任した頃も、本学部ではすでに社会保障 法の講義が行われていましたが、その頃でもまだ全 国的には少数派だったと思います。大学卒業後、九 州大学大学院法学研究科社会法専攻コースに入学し、

研究者への道を歩み始めました。大学院時代に指導 を受けたのは、林迪廣先生、当時九州大学産業労働 研究所におられた古賀昭典先生、そして熊本大学法 学部から赴任された荒木誠之先生ら、わが国の労働 法学会ならびに社会保障法学会を代表する大先達の 先生方でした。大学院時代の1968年6月には米軍 ファントム機が建設中の電算センターに墜落する事 故が起き、学内外は騒然とした雰囲気となり、連日 の米軍基地撤去のデモ行進に明け暮れた時もありま したが、私は「社会保険に関する法的一考察」と題 する論文をまとめて修士課程を終えることができま した。その修士論文の中の一部をまとめて、「社会 保険事故論」と題する論文を『九大法学』24号に掲 載しました。私にとっては初めての学術論文の発表 でした。

 本学法学部に着任当時、法学部で労働法を担当さ れていたのは故池田直視先生でした。お酒をこよな く愛された先生でした。池田先生にもいろいろな面 でお世話になりました。担当コマ数の関係もあり、

法学部の社会保障法の講義のほか商学部第二部で労 働法の講義も担当しました。これが後に法学部でも 労働法を担当する足掛かりになったのですが、当時 の商学部第二部の教室は舞鶴公園の中、舞鶴中学校 に隣接する古い校舎にありました。受講生は多く、

教室は常に満杯の状況で、新米大学教員の私として は大きな負担を感じるとともに、責任の重大さを感 じさせられる時間でした。当時の夜間部の学生は多 くが社会人であり、労働法の実務経験は私より何倍 も多く積んでこられた方達ばかりであったと思いま す。今振り返ってみても、よくやってこれたものだ と思います。商学部第二部はその後教室を高宮に移 し、最終的には七隈の地に移されましたが、高宮校 舎の講師控室で、本学の他学部の先生方や非常勤の 他大学の先生方とした雑談は、また一つの楽しみで した。

 研究活動としては荒木誠之先生・古賀昭典先生編 著の『現代社会福祉の課題』(法律文化社)で、「社 会福祉の行政と権利保障」および「老人福祉の実態 と問題点」(古賀先生との共同執筆)をまとめまし た。また福岡大学法学論叢21巻3・4号に「老齢福 祉年金における扶養義務者所得制限について」を書 きました。さらに別冊ジュリストの『社会保障判例 百選』の初版本には健康保険をめぐる問題の中から

「法人代表者の健康保険被保険者資格」、「解雇に関 し係争中の被保険者資格」、「傷病手当金受給の要件

―労務不能とは」の3事例を担当させてもらいまし た。そしてニュージーランド留学後に、『海外社会 保障情報』(社会保障研究所、その後国立社会保障・

人口問題研究所、1998, 3)に「ニュージーランド

―   ―7 研究雑話

福大で過ごした40年

法学部教授 片 岡   直

(7)

の社会保障―所得保障を中心として」を掲載すると ともに、1999年には小松隆二・塩野谷祐一編『先進 諸国の社会保障2、ニュージーランド・オーストラ リア』(東京大学出版会)でニュージーランドの「年 金、生活給付」を担当しました。そのほか、ニュー ジーランド留学で得た資料を翻訳したものを福大法 学論叢に1988年7月から1994年3月にかけて、何回 かに分けて発表しています。なお1995年の宮崎で開 催された九州法学会ではシンポジウム『雲仙・普賢 岳災害をめぐる法的・行財政的諸問題』にシンポジ ストの一人として参加し、「災害避難住民の健康で 文化的な生活の保障」と題する報告を行うとともに、

その内容をまとめて福大法学論叢41巻1号に掲載し ました。この報告をまとめるにあたっては、現地島 原市に行き、市役所やその他の関係機関で当時の話 を聞いて回ったことを思い出します。また当時議論 になっていた、20歳以上の学生に対する国民年金の 強制適用をめぐって、社会保障法講義の受講生を対 象にアンケート調査を行うとともに、その結果を含 めた問題点の解明について、福大法学論叢41巻2号 に発表しています。

 学部の講義は故池田直視先生が労働法を担当され、

私が社会保障法を担当しました。私の前任者は古賀 昭典先生で、古賀先生が非常勤講師として教えてお られました。当時の受講生は毎年700人位という、

いわゆるマンモス講義だったと聞いていました。私 が担当するようになって受講生は減りましたが、そ れでも500名近い受講生がいたこともありました。

通年講義でしたから、年2回の採点時期になると、

採点作業の遅い私にとっては大変なことでした。研 究室で徹夜の作業をしたこともあります。現在は、

受講生は100名を少し超えるぐらいで、半期完結科 目となりましたので、採点の負担はかなり軽減され ました。少人数クラスの講義は演習と外書講読を担 当しました。いずれも単年度完結のものでしたが、

1986年度からの10年間は、3・4年次2年間連続の

「論文ゼミ」を担当しました。この論文ゼミでは、

4 

年次の最後に卒業論文をまとめて提出することが 義務づけられていました。学生は就活と卒論に四苦 八苦の状況でしたが、それでも全員がそれらをやり 遂げて、社会人として巣立って行きました。その成 果は、私と各ゼミ生の手元に、ゼミ論文集として残

されています。これらのゼミ論文集は、私の宝物と して大事に取っておきたいと思います。

 大学院の授業を担当するようになったのは教授に なってからで、大分遅かったように記憶しています。

それに社会保障法専攻の院生が入学してくることは 稀でした。大学院で担当する社会保障法講義には、

林弘子先生担当の労働法専攻の院生や他の院生、留 学生が参加してくれ、閉講になることはありません でした。初めての社会保障法専攻の院生は、久留米 大学商学部を出て税理士事務所に勤務していた香月 恭弘君でした。その翌年、学部の私のゼミから大学 院に進学してきたのが池綾さんでした。それから少 し間をおいて、私と同年齢で、しかも福大法学部の 石村善治先生のゼミ生だった山崎哲男氏が社会人入 学生として入学されました。山崎氏は、勤めていた 病院事務長を退職された方で、当時、九州大学大学 院医学研究院の医療経営・管理学研究室にも所属さ れ、そこの世話人のような仕事もやっておられた方 で、その方面のエキスパートの方でした。経験豊富 な方で、私のほうがいろいろ勉強させられた状況で した。以上3名が、私が指導した院生でした。それ ぞれの修士学位論文は、香月恭弘君は『介護保険法 の創設とその問題点』(1999年度)、池綾さんは『女 性の結婚と年金』(2000年度)、そして山崎哲男氏は

『医療法人制度改革の現代的意義と課題―社会経済 システムの一翼としての医療法人の将来―』(2008 年度)というテーマでまとめたものでした。なお山 崎哲男氏とは同年ということもあり、病院勤めが長 く、病院管理についての専門家でもあるということ から、現在も懇意にしてもらっています。これから もお互いに切磋琢磨して、世のため、人のために、

微力ながら尽くしていけたらと思っています。

―   ―8

(8)

私の若い頃からの50年来の根本的な疑問  私は若い頃から、次のような2つの大きな疑問が 心に引っかかっていました。

1.古代ギリシャ人はなぜ早々と紀元前3世紀にピ タゴラスやアルキメデスやユークリッドなどの賢 人を排出したのか? そして、その成果がヨーロッ パでは約2000年もの間、消えてしまっていたのは なぜか?

2.私は若い頃にヨーロッパに留学し、ヨーロッパ 人と日本人の思考や感覚の大きな違いにカルチャー ショックを受けた。俗に、「西洋医学と東洋医学 の発想の違い」等のことが語られるが、この思考 の落差の本質を学問的に解明できないだろうか?

 1996年に埼玉大学から福岡大学に転勤して、それ まで専門としていた純粋数学(代数的位相幾何学)

から応用数学としてのコンピュータによる自然言語 翻訳の研究へと専攻分野を転換させました。構文解 析や翻訳文生成のコンピュータ・プログラムも自力 で作り上げ、英・日および日・英の翻訳データも学 生諸君のアルバイト作業の力も借りながら充実させ て行き、これらの成果を社会に還元すべく、3冊の 著書を出版し、幸いにもかなりの売れ行きをあげ、

ソフト会社の社員研修などでも利用して頂きました。

 応用数学科で実施している高校教科「情報」の教 職科目を担当している関係もあって、2011年に教育・

臨床心理学科の勝山吉章教授から、福岡県の教職員 で作るいくつかの算数・数学教育研究サークルの共 同研究者になってほしいという依頼を受け、教育現 場での実践や、その報告レポートを分析する研究を 始めました。そして、福岡県の教師たちの30年に渡 る教育実践研究の成果を見ているうちに、先に述べ

た永年に渡る2つの疑問が解けてきました。彼らの 様々な驚くべき成功のカリキュラムの共通点として、

教科書の演繹的な解説法を逆の順序に転換して帰納 的な学習順序に改めていることが分かりました。そ れで、私は、言語学者 Noam Chomsky の「普遍文法 理論」における「主要部パラメータ」の原理が働い ている、と考えました。(実は、これは歴史言語学 の視点を欠いた推論で、あとから歴史的観点を加え て理論を修正することになります。)私は、次のよ うな仮説を立ててみました。

[ズームアウト/ズームイン型認知仮説]

 世界の全ての言語話者は、以下の2つの認知分野 で、タイプズームアウト型、タイプズームイン 型、の2つの内のいずれか1方に分類される。2 

つ の分野の内の1つでタイプあるいはタイプと決 まれば、残りの分野でも同じタイプを取る。

 社会的な空間認知(住所)、時間認知(年月日)、

人間関係認知(姓名)

 住所の表示

 Nanakuma 1-1 , Johnan-ku, Fukuoka City, Fukuoka Prefecture, Japan のようにズームアウ トする。

 福岡県福岡市城南区七隈11のように「大

→小」とズームインする。

 暦の年月日の表し方

 The 4th of July, 1776(=4_7_1776)のよう にズームアウトする。

 1776年7月4日(=1776_7_4)のようにズー ムインする。

 姓名の表し方

 Winston Churchill, Charles de Gaulle, Adolph

Hitler のように「名前」+「姓」の順序で表

―   ―9 研究雑話

青春の日の夢を70歳で達成……西洋思考と東洋思考の違いを 物理的根拠に基づいて明らかにする

理学部教授 柴 田 勝 征

(9)

す。

 毛沢東、金日成、ホーチミン、徳川家康の ように「姓」+「名」の順序になる。

 11以上の複合数詞の結合順序

 「1の位の数(またはそれの短縮形)」+「10

(または10の数詞を短縮した接尾辞など)」とい う順序で結合されるが、数が大きくなって行く と、あるところで結合順序が突然逆転して、「上 位の数」+「下位の数」という順序に変わる。

どこで逆転するかは、言語族によって異なる。

 (例)

  ゲルマン、アラブ、ヘブライ:99を越えると 逆転スラブ、英語:19を越えると逆転。フラン ス語、イタリア語:16を越えると逆転。スペイ ン語、ポルトガル語:15を越えると逆転。

 11から無限大まで一貫して上位の位から下位 の位へという順序で数字を並べて行く。

 私は最初、認知の方向に関するこのズーム型と、

チョムスキーの普遍文法理論における主要部前置/

後置の型が対応しているとばかり早合点して、チョ ムスキーと3回ばかりメールのやりとりをしたので すが、「どうも、おかしい」と思い始めて、いろい ろ調べているうちに、松本克己「世界言語への視 座 歴史言語学と言語類型論」(三省堂)という本 に行き当たりました。

 文法構造を持った人類の言語が発生した時点では、

既に人類は世界の各地に分散していたものと考えら れ、ズームアウト/ズームイン型認知パラメータと 主要部前置/後置語順パラメータの違いによって、

次の4タイプの言語が発生しました。

 さて、ヨーロッパ言語は約2000年かかって、よう やく14世紀から17世紀にかけて、主要部後置型から 主要部前置型への語順の大逆転をいちおう完了しま す。その正確な時期は、それぞれの言語によって100 年から300年くらいの差があります。それぞれの言 語が現代語順を確立した時期と、世界史の年表を比 べてみると驚くべき事が分かります。

ヨーロッパ言語の語順が OV 型から VO 型に転 換した時期

ギリシャ語 紀元前5〜4世紀

 数学、自然哲学の発展⇒アラビア語へ翻訳      (深い断絶)     

イタリア語  紀元(後)14世紀⇒ルネッサンス  ギリシャ古典をアラビア語からラテン語へ翻訳 スペイン語  紀元(後)15世紀⇒レコンキスタ  (イスラム教の支配から脱出),大航海時代の幕開け ド イ ツ 語  紀元(後)15世紀⇒ルターの宗教改革,

 (聖書を VO 語順に転換したドイツ語に翻訳)

オランダ語  紀元(後)16世紀⇒北欧ルネッサンス

(フェルメール、レンブラント、ルーベンス),「東 インド会社」設立⇒植民地獲得へ

フランス語  紀元(後)16〜17世紀⇒啓蒙思想  (ルソー、ボルテール、等)

英   語  紀元(後)16〜17世紀⇒啓蒙思想  (ジョン・ロック、デイヴィド・ヒューム等)

 すなわち、ヨーロッパの「中世から近世への転換」

と言うことの実体は、とりもなおさず、それまで ヨーロッパ人の脳内を数十万年前から支配していた ズームアウト型認知に新しく対抗する方向で生まれ 出た主要部後置型の言語生成機能を、約2000年間か かってやっとのことで主要部前置型に逆転させるこ とに成功したということなのでした。これで、ヨー ロッパ人の脳内宇宙が「晴れ上がった」のです。中世 のヨーロッパ人は脳内のエネルギーの大半を脳内抗 争に費やしていたために、外部への目立ったアウトプッ トがほとんど無かった、というのが私の新解釈です。

 私の半世紀前からの「青春の夢」であった冒頭の 2大問題の解決の機会を与えていただいた18年間の 福岡大学での生活と福岡県の教職員の方々に心から 感謝いたします。

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参照

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