• 検索結果がありません。

加賀・能登両国地租改正の収穫反米

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "加賀・能登両国地租改正の収穫反米"

Copied!
36
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

はじめに

(1)と関連し、①旧新川県で改租事業が行 (2)。ここでは、加賀・能登両国における改租事業の実態追跡の際、十分な考察を加えられなかった、両国の「収穫 たんまい」につ

  「収穫反米」とは何か

は、価(た、 (3)て、

加賀・能登両国地租改正の収穫反米

奥  田  晴  樹

(一) 

(2)

いる一石当たりの米価(改租石代)、②田畑の収穫量を米の石高として見積もったもの(収穫米)、③収穫米の代金を、当該地所が生

む利子の年額と看做して地価を算出する際に用いる利子率(還元利子率)、④収穫米の代金から予め控除される種籾と肥料の費用(種

肥代)の四つが定められている。

このうち、②の収穫米の算定基礎をなすのが「収穫反米」である。この「収穫反米」に田畑の面積(反別)と改租石代を乗ずれば、

当該地所における②の収穫米の代金が得られるのである。したがって、「収穫反米」は、田畑の面積の測量( じおしじょうりょう)で得られる

反別とともに、②の収穫米を決定する上で、決定的な役割を演ずるのである。

い。は、れ、

めるその割合が定められてい (4)。また、①の改租石代は、明治三~七年(一八七〇~七四)の平均相場による決 (5)という大枠の下で、

る。り、は、告、

もども、その裁量余地が大きく、地価の算定において、しばしば決定的とも言える役割を演じている。

それは、人民側の申告に実質的には依存して地価を算定する、小作地準拠の第二則方式を基本とする改租方針から、官側の裁量余

地が大きい自作地準拠の第一則方式へと転換し (6)後では、尚更である。ここに、いわゆる官側の査定による「 おしつけ反米」の問 (7)が惹

起された所以があろう。

ば、れ、れ、は、の「

を一筆→地所所有者→村→郡・区→府県と積み上げて、その平均値、すなわち「平均反米」の形をとって決定される筈である。しか

し、往々、実際には、そうなっていなかったように見受けられる。

関東諸府県は、貢租が相対的に低水準である旧幕府領と畑の地所が多く、改租結果が増租になることが予想されるため、全国の改

租事業の掉尾に残されていたが、そこでは、個々の地所の地位等級のみを決定しておいて、地租改正事務局と諸府県当局の交渉で「平

均反米」を決定し、その数値を代入して一挙にすべての地所の「収穫反米」を弾き出すやり方がとられてい (8)

この狡猾とも言える方法に辿り着くまでに、全国の諸府県でとられた「収穫反米」の決定方法が、かならずしも「地租改正法」に

定められた手順通りの「平均反米」算出に至るやり方でなかったことは、「押付反米」問題の生起が何よりの証左であろう。しかし、

それらのすべてが、民衆側の不満や反発を招くようなものばかりだったとは、かならずしも言えないのではなかろうか。さなくんば、 (二) 

(3)

そもそも改租の全国集計結果が大幅な減 (9)とはなるまい。

体、賀・合、は、か。え、

大幅な減租結果の主因となった郡村耕宅地の改租において、石高では全国的にも一定の比重を占める旧加賀藩領を事業の対象とする

ことを考えれば、その検討は、両国改租の実態追跡の上に止まらず、地租改正事業そのものの歴史的理解にとっても、少なからぬ意

義を有すると言えよう。

  加賀・能登両国における地租改正の概観

(一)  地租改正への直行 賀・は、  ば、 リ整頓ス」とあ )(1

。ここで明治七年(一八七四)一〇月とされている、改租事業着手の経緯は、如何なるものだったのであろうか。

七年当時、石川県少属として地租改正事業を担当していた、安達 なおゆき )((

翌八年(一八七五)九月付で、当時、県のトップだった権

令桐山純孝(旧大垣藩士族)に提出した上申書中の一節で、その経緯が以下のように説明されてい )(1

不肖敬之短才ニシテ地租改正ノ重大事業ノ任ヲ辱ス、已ニ昨七年 (九日)、敬之命ヲ奉シ出京、当管下地租改正着手ノ順序法案ヲ草 シ其節御在京 (九郎)参事殿御決議ノ上御伺相成、則同八月御許可ヲ得、敬之程ヲ期シ帰県、而シテ実地着手方法ニ於ケル局長 (尚志)

其他同僚各所見多少異ル所有リ、仍テ数日弁論ノ末、畢ニ該局ノ一面目ヲ改メ地券調査ノ如キハ断然是ヲ廃止シ更ニ一般改正調

査ニ方向ヲ換ヘ、予メ本年管内悉皆整理シ功ヲ奏セン事ヲ期シ、先ツ加賀国第四・第五ノ両区ヲ始メ改正調査着手ノ義已ニ御決

議ヲ承ケ一同勉励従事シ、各村人民慣習未タ脱セサルモ漸ク解諭ノ末陋習ヲ破棄シ已ニ今日ノ体裁ニ相運フ、

右の記述から、安達が七年四月から八月まで、県官ナンバー・スリーの参事熊野九郎(山口県士族)に随行して上京し、一足先に

帰県していることがわかる。東京で、大蔵省租税寮改正局の官員に接し、政府中央が地券調査―地券交付よりも地租改正の方に施策

の重点を移していることを知ったのであろう。安達の一足先の帰県もこの新事態に対応して県行政の方向転換をはかるためで、おそ

らく熊野の指示、あるいは両者の合意の上でのものであろう。帰県後、地券交付事業の責任者だった草薙尚志(石川県士族)らとの

(三) 

(4)

数日に亘る議論の末、地券調査―地券交付の作業を打ち切って、地租改正事業に直行することを決めたとい )(1

こうして、石川県では、東京に出向いて大蔵省の指導を受けた県官の安達の主導により、金沢町への市街地地券がようやく一割程

度交付できたところで、地券調査を打ち切り、地租改正へと直行したのであ )(1

。県は、七年一一月二八日付の県達四二四番で、それ

を以下のように管内に布達してい )(1

今般地租改正ノ儀、三百七十三番ヲ以テ取調方心得書等相達候ニ付テハ先般来相渡来候地券証書ノ儀、兎角調方遷延不申請村々

猶今日ニ至リ地券調方致候テハ官民重複ノ手数而已ナラス却テ調方紛煩ヲ醸スヘク、隋テ冗費モ亦不尠、中ニハ地券申請ルト雖、

実際ノ耕地番号錯雑ノ向モ有之体ニテ券面上実地ト齟齬ノ廉ヲ以テ改正調方ノ際、彼是故障ヲ生シ踟蹰可致儀ニ付、爾来地券渡

方指止候条、各村地引図ヲ初メ直ニ今般相達候改正取調心得書ニ照準、詳密取調方可致候、此旨沽券税発行ノ个所ヲ除キ無洩布

達候事    明治七年十一月廿八日         県令代理        石川県参事  桐山  純孝

(二)  改租作業の停頓

かくて、地券調査を打ち切り地租改正へと直行した、石川県だったが、左大臣島津久光の幕末以来の側近であった県令の内田政風が、

大阪会議後の政局の動向に関連して、八年(一八七五)三月三一日付で依願免官して帰京して以降、後任の参事桐山純孝と、内田と

結びついていた旧金沢藩士族の県官たちとの間に軋轢が生 )(1

、改租事業を主管する租税課長草薙尚志らが一斉に退官したため、改租

作業が停頓を来してしまう。安達は前出の上申書を提出し、この間の事情を説明して、その是正を桐山に求めている。それは以下の

通りであ )(1

       (安達) ス、 (尚志)ス、

然処過日敬之輪島派出ノ際、局長草薙其外数名一時職ヲ辞セルト聞キ実ニ驚愕且疑ヒ且惑ヒ敬之輪島ニ在リ其事実察知スル能ハ (四) 

(5)

スト雖トモ、地方ニ於ケル堂々タル各課ノ長一時職ヲ辞セル該県ノ面目ニモ関シ、就中地租改正ノ如キ重大事業殊ニ調査切迫ニ

当リ局長職ヲ辞セル是レ何ノ事故アランカト敬之カ管見徒ニ焦慮罷在ル際、不日収穫等調査着手ノ義ニ付同僚ヨリ帰県ノ報ヲ得、

幸ヒニシテ程ヲ急キ庁ニ帰ヘル、然処局長已ニ職ヲ解ケリト聞キ敬之遺憾是レニ過キスト雖トモ事爰ニ及ヘハナリ、而シテ爾来

局中調査ノ体裁タル局長解職以来前日ニ反シテ事務混同シ殆ント体裁ヲ失ヒ各自其主務ナク故ニ百事差違ヲ生シ順序顚倒徒ニ紛

繁ヲ究ムル而已ニシテ一トシテ纏マルナク、是則其任ニ堪ユル者自ラ担任 (処)分スルナキ故ナランヤ、方今 (地租改正事務局)局ヨリ派出セル (之武)

殿等着県来已ニ数十日ヲ過キ最早加賀国第四・第五両区収穫等調査派出ノ如キモ一日々々ト遷延、加之今度調出セル反別先般整

理ノ反別ニ突合スニ殆ト障碍少カラス、是敬之等短才ニシテ事務ノ挙カラサル罪免カレスト実ニ恐懼戦慄ニ堪ヘス、然リ而シテ

其不都合ヲ生スルヤ区吏下調疎漏ヨリ出、適々是ヲ責ムルモ過般 (「局」ノ誤リカ)長解職セルヲ以責ムルニ詮ナク、且過日課長稲垣義方改正事

務兼務被命、敬之等欣躍其指揮ヲ俟タントスル処、改正事務熟知セサル故ヲ以テ徒ニ辞シ未タ該局ニ至レルナク且一ノ見込有ル

ヲ聞カス徒ニ名義ニ過キルノミ、就テハ改正事務将来ノ運方ヲ反覆熟慮スルニ前局長草薙尚志曩ニ一旦職ヲ辞セルモ敬之察知ス

ルニ敢テ庁議ニ不平ノ意有ルニ非ラス、唯先般県会以来彼ノ数名カ論議一ニ帰セス、然ル処其際ニ当リ庁議昔日ニ異ルアルヲ疑

ヒ畢ニ事爰ニ及フカ是必ス同朋ノ義止ムヲ得サル事情ニ出ツヘシ、然ラハ尚志ニ於テ敢テ深ク罪アルニ非ス、依テ仰キ願ハクハ

尚志義再ヒ改正事務担任ノ命アラン事ヲ、然ル時キハ銘々方向一ニ帰シ調査体裁ヲ得、敬之等ニ於テモ一層勉励従事シ速ニ功ヲ

奏セント欲ス、是敬之元ヨリ尚志ノ為メニ聊カ弁論スルニ非ス、実ニ改正ノ事務ヲ重ンシ上  政府下人民ニ対シ不都合ナカラン

事ヲ憂慮ス、若此際荏苒時日ヲ遷サハ不日改正事務瓦解シ畢竟忽チ本年改正ノ目途ヲ失フ而已ナラス遂ニ人民ノ大不幸トナラン、

是敬之深ク憂ヘ甚タ恐レル所ナリ、敬之浅学拙文意ヲ尽ス能ハス、願ハクハ垂問事情ヲ尽サシメ敬之カ微意ヲ亮察、速ニ命アラ

ン事ヲ伏テ懇願、恐懼々々頓首敬白

    明治八年九月        少属  安達  敬之         謹白    権令  桐山  純孝  殿

石川県の改租作業が停頓を来していた時期は、あたかも、政府中央が改租事業の拙速方針へ転じた時期と重なったため、租税課員

(五) 

(6)

に留まっていた安達らの動きと、来県していた地租改正事務局員詫摩之武らの指導と督促の下、政府中央が定めた期限内での改租完

了をはかるため、当初の作業方針が転換されることとなる。

(三)  改租作業の方針転換

改租事業着手当初に石川県が打ち出した作業方針は、明治七年(一八七四)一〇月一二日付の県達三七三番で布達された「地租改

正取調方心 )(1

」に示されている。

それは、「地租改正法」中の「地租改正施行規則」第一 )(1

に定められた通り、当該地所について、従前には石盛や貢租などがなかった、

無税地と看做して、その地所から単作ないし二毛作によって一年間に収益する米金(米穀の収穫量とその代金)を見積もり、そこか

ら種籾と肥料の代金、さらに地価の百分の三の地租と、地租の三分の一を上限とする、堤防や橋梁などの修築費として石高に賦課し

てきた村入費とを引き去って得られた、完全に「地主」の所得となる米金を基準として、今後、売買する際に見込まれる地価を、そ

の地所の所持者に申告させる方式で実施しようとするものだった。

もっとも、地券調査の際に作製された地引絵図、反別の地押丈量(地所の面積測量)の結果などを、実地と齟齬しない限りは継承し、

それらについては改租作業での再調査を不要としている。そして、「地方官心得書」第一二章の検査 )11

による官側の査定や、「地租改

正施行規則」第一六 )1(

による強制買い上げ処分で威嚇しつつも、基本的には人民の申告に依拠して改租作業を進めようとしていた。

政府中央の動きに目を転ずれば、安達が上申書を提出する前月の、八年八月三〇日付の太政官達第一五四号で、改租事業の完了期

限を翌九年(一八七六)とすることが布達されてい )11

。こうして、改租事業の拙速的実施が各府県に求められる下で、石川県では動

揺する県政局の影響を被って、改租作業に停頓が生じていたのである。

に、は、て、①「令、

年三月三〇日付の地租改正事務局七等出仕で、前引の安達の上申書で金沢に足止めを余儀なくされているとされた、詫摩之武の出張

復命書、④同年四月一四日付の同局八等出仕入沢敏行と一三等出仕南挺三の出張復命書、⑤「石川県下加賀・能登両国新旧税額比較

表」、⑥「石川県管轄加賀・能登両国新旧税額差引調」が掲出されてい )11

は、が「義、と、調 (六) 

(7)

租改正事務局へ伺い出たものであ )11

。これに対する同局の回答指令である②は、以下の通りであ )11

  伺之通、明治八年ヨリ旧法相廃シ規則ノ通収税可致事    但山林・沽券地ノ儀申立ノ通、聞届候事

かくして、市街地と林野を除き、加賀・能登両国の郡村耕宅地の改租事業は終了したのである。詫摩の③出張復命書の日付から見

て、で、る。ば、五、の、

下の事業終了の鍵は那辺にあるか。

前出の『地租改正事務局別報』第三〇号に掲載されている、地租改正事務局から石川県に派遣された同局八等出仕入沢敏行と一三

等出仕南挺三の④「石川県出張復命書」では、急転直下に作業終了が可能となった事情が、以下のように説明されてい )11

全管内(中略)段別ノ称呼ナク、其慣行大凡廿年ヲ隔テ或ハ地所変換ノ節、一村毎ニ各其地ヲ丈量シ村民相会シテ地位ニ応シ合

合盛ハ猶石盛ト云ガコト二、六、 ル、籤・ス、簿 フ、 ス、

ヲ以、新旧反別ノ増減ヲ比較スル能ハス、且其高モ田畑・宅地ノ区別無之、旧租モ亦然リ、今之ヲ区別スル能ハサルナリ、(中略)

主・ (「各」カ) 以、

各村相比較シ(中略)衆議ノ帰スル所ヲ見据ト定メ県官一同丁寧反覆人民ニ説明シ収穫其実ヲ得セシムル

に、た、 でんちわり わりち )11

た、

まんぶ帳」に記載された「 ぶすう」を改正反別とし、同じく「万歩帳」に記載されている「 ごうもり米」(年貢諸役と小作料の合計値)の倍 額を改正地価の算定基礎となる収穫量としたのである。しかも、その当否の確定作業も、基本的には、近世の とむら きもいりの「村役人」

層と、人的系譜と社会的機能において連続性を有する区戸長 )11

の協議に委ねている。

つまり、改租作業の根幹をなす、地押丈量も、他府県で往々紛議の原因となった収穫量の査定も、実質的にはやっていない。壬申

調 )11

様、も、ろ、に、る。

ここに、加賀・能登両国における地租改正の際立った特徴がある、と言ってよかろう。

(七) 

(8)

このように、当初の作業方針を転換し、「村方丸投げ方式」がとられ、九年二~三月頃までに急遽、事業を竣功させているのである。

こうした措置が可能になったのも、第二則の小作地準拠方式の拘束を解除し、官側の裁量余地を拡大したからだと言えよう。

果、賀・は、も、

四七万六五六三円余の大幅な減租結果となったのであ )11

  加賀国の収穫反米

(一)  加賀国第四・五区からの改租作業着手

石川県の地租改正掛は、明治七年(一八七四)一〇月三〇日付で、加賀国第四・五区(石川郡)の両区長宛に、以下の「地租改正

取調惣代人心得」を布達してい )1(

地租改正之義ハ不容易事業ナルハ各人民ノ知ル所ニシテ各村地引図ヲ初、収穫及卸付米其他取調ヘ各人民ヨリ可書出ハ当然ニ候

得共、村民中ニ者筆算未熟之者モ有之、改正御規則ヲ初、調方心得書等モ銘々ニ自得スルヤ難カルベシ、然レハ調査之義モ亦自

ラ整理ナラサルカ故ニ地所調方調査之為、斯惣代人ヲ設ケラレ候次第ニ候、就テハ其旨趣ヲ篤ト了知シ各人民ニ対シ惣テ御規則

及心得書等懇ニ説示スベシ、且愚昧之者ニ至ッテハ新税御規則単ヘニ減税相成候様心得候者有之候テハ甚タ不都合之次第ト云ベ

シ、今般改正御施行之旨趣者数百年之積習・実地錯雑・地租之平準ヲ得サルニ付、一般貢租者地価之百分三ニ改正シ寛苛之弊ナ

カラシムル訳ニ候間、心得違無之様可致、将四・五区調査之義ハ着手ノ始ニシテ各区標的ニモ可相成義ニ付、一層勉励、毫釐之

誤リナク精密調査相成様注意可致、依テ調方心得大略之条件、左ニ告示シ候事(「調方心得」四ヶ条は省略)

右之外、猶了解致兼候廉有之候ハヽ反覆伺出、不都合無之様可致事

   明治七年十月 (八) 

(9)

表1 石川県の区―番組編制(明治5年11月17日~9年10月30日)

加  賀  国 能  登  国

番 組 郡・町 番 組 郡・町

第一区 第二区 第三区 第四区 第五区 第六区 第七区 第八区 第九区 第十区 第十一区 第十二区 第十三区 第十四区 第十五区 第十六区 第十七区 第十八区 第十九区 第二十区 第二十一区 第二十二区 第二十三区 第二十四区 第二十五区 第二十六区 第二十七区

一~六番組 一~七番組 一~七番組 一~六番組 一~六番組 一~六番組 一~六番組 一~七番組 一~七番組 一~八番組 一~四番組 一~八番組 一~七番組 一~八番組 一~六番組 一~六番組 一~六番組 一~六番組 一~六番組 一~四番組 一~七番組 一~五番組 一~六番組 一~七番組 一~六番組 一~六番組 一~七番組

石川郡(三・四番組は美川町)

石川郡 石川郡

石川郡(二・三番組は松任町)

石川郡

石川郡(一~四番組は金石町)

石川郡 金沢町 金沢町 金沢町 金沢町 金沢町 金沢町 金沢町 河北郡 河北郡 河北郡 河北郡 江沼郡

江沼郡(大聖寺町)

江沼・能美郡 江沼郡 能美郡 能美郡

能美郡(一~四番組は小松町)

能美郡 能美郡

第一区 第二区 第三区 第四区 第五区 第六区 第七区 第八区 第九区 第十区 第十一区 第十二区 第十三区 第十四区 第十五区 第十六区

一・二番組 一~五番組 一~四番組 一~四番組 一~四番組 一~三番組 一~四番組 一~五番組 一~五番組 一~四番組 一・二番組 一~三番組 一~三番組 一~三番組 一~四番組 一~四番組

鹿島郡(七尾町)

鹿島郡 鹿島郡 羽咋郡 羽咋郡 羽咋郡 羽咋郡 鳳至郡 鳳至郡 鳳至郡 珠洲郡 珠洲郡 珠洲郡 鳳至郡 鳳至郡 鹿島郡

注) 石川県編『石川県史』第4編、同県、1931年3月、100~119頁を参照。

(九) 

(10)

        地租改正掛

地租改正取調之際、惣代人心得書別冊相渡候条、猶披見之上、惣代人江可相渡候也

    第十月三十日        地租改正掛    四・五        区長中

この「地租改正取調惣代人心得」は、前文で、先ず、改租事業がその作業の全般にわたり人民各自の申告に委ねられており、それ

が適実なものとなるよう、人民を指導するところに、「地租改正取調惣代人」の職責の要諦があることを説き、さらに加賀国第四・五

区が県下で最初に改租作業に着手する区域であり、後続の各区の模範となるような作業の実施を指示している。

七年一一月二八日付で、発信者も宛所も不詳だが、文面から見て、おそらくは県の地租改正掛宛に第五区長から出されたものと考

えられる、「地租改正取調惣代人」を当分の間、増員してほしい旨の願書が伝存してい )11

。また、県の地租改正掛は、同月一五日付で、

右の両区長宛に、地価算定には改租作業着手以前の五年間の上中下の三等級の米相場の平均値を用いることになったと達し、それを

調査して早々に上申するよう指示してい )11

。次いで、同年一二月一三日付で、同じく地租改正掛から両区長宛に、地租改正地引絵図

の作成が指示されてい )11

。県によるこれらの作業指示に対して、同年一二月付で、加賀国第四区の区長である笠間知影は、地租改正

に、年(年〔〕)年(年〔〕)と、年(年〔〕)年(

年間の石代相場を上申してい )11

これら一連の動きから、加賀国第四・五区では、遅くとも七年一一月中には改租作業が着手されたと見てよかろう。

(二)  改租作業方針の修正

かくて、改租作業は、前引の「地租改正取調方心得」と「地租改正取調惣代人心得」を指針とし、先ず加賀国第四・五区で着手さ

が、て、る。は、月、で、調 (一〇) 

(11)

方心得」増補を布達す )11

。そこで、注目すべきは、以下の第五・六の両条である。

    第五

一地価取調の義ハ尤其土地収穫品代価により其地益に随ひ取積候義□候得共、右ハ全く収穫而已に関せす土地の善悪・肥糞の多

少・人民の好悪等ニ依り不一様、且各自毎一筆計算取調候様にては夥多の田畑容易の手数ニ無之、却って其実を得す不都合を

生すへくに付、先ツ該村耕地の持主を論せす仮に一村公有の地と看做し実際に当り毎筆地所の等級を極め其等級に随ひ地価相

定可申事

    第六

一地所等級の義ハ尤旧税額に拘らす全く無税の地と看做し地味の厚薄・水理の善悪・作人の便否を斟酌し今後地価高低の見込を

以十五等より不少等級を定むへし

は、に、調う、

方針の撤回し、次のように、大修正したものである。

  地所一筆毎の収穫量調査を実施せず、その地位等級のみを決定する。各筆の地位等級は、各村内で一五等以内に設定する。

  それに先だって、村の地価、具体的には、一般には「平均反米」と呼ばれる、村に所属する全地所の反当収穫量の平均値を先

ず決める。

  それを基準として、一五等以内に設定された各地位等級の収穫量を決定する。

  各筆の収穫量は、それぞれの地位等級の収穫量に反別を乗じて算出する。

この方式では、なるほど各村の「反米」は存在しようが、それは、各筆の収穫量を調査して、その積算結果から算出される「平均

反米」ではない。では、その「反米」なるものは、一体どのようにして決定されるのか。この肝心の問題は後述する。

(三)  改正地価算定石代の決定

改租作業方針を、前述したように大修正したのも、偏に改租事業の促成を期すためであろう。その甲斐あってか、加賀・能登両国

の改正地価算定石代が決定の運びとなる。

(一一) 

(12)

地租改正事務局より、八年(一八七五)六月二二日付の同局達第六八号で指令が下さ

)11

許可された石代は、表2に表示した通りである。これによれば、和歌山県などに見ら

れたような全管内一律米価方式を採ら )11

、加賀国は えぬま のみ・石川・ かほくの全四郡す べて別立てとなり、能登国は近世以来、 くち郡と概称された はくい・鹿島両郡と、同じく おく

郡の ふげし すず両郡の二本立てになっている。もっとも、その差異は、国別の米価では、

加賀国で五銭、能登国では二銭という、僅かな額の範囲内に止まっている。しかし、両

は、格(格(至・

で三六銭の開きがあり、これは決して少額とは言えない。地価算定石代の決定にあたっ

て、加賀・能登両国の差異をかなり考慮していると見なければならず、しかもこうした

県の配慮を地租改正事務局も認めているのである。

和歌山県では、この全管内一律米価方式による改正地価算定石代の決定を不満とする

同県那賀郡の諸村が、八年二月に、加賀・能登両国と同様の郡別決定方式へと変更する

よう願い出ている。しかし、和歌山県と地租改正事務局がともにそれを認めず、ついに同年四~五月にかけて同郡で騒擾が起こった

のである。それは、地租改正をめぐる騒擾で、軍隊が鎮圧のため出動するに至る最初の事件となっ )11

と、が、に、

何らかの因果連関を想定し得るであろうか。

(四)  各村の「反米」決定方式

そこで検討されねばならないのが、先ほど保留した、各村の「反米」が一体どのようにして決定されたのか、という問題である。

年次未詳で、加賀国第五区の ばんじょうかくち匠垣内 ののいち々市 たへいじ平寺の三ヶ村で実施された「歩苅試検」の記録が伝存してい )11

。その内容は表

3に表示した通りである。これによれば、各村で、上中下の三等級の田をそれぞれ一歩ずつ試験的に収穫し、その収量を記録したも

表2 加賀・能登両国改正地価算定石代

国 名 郡 名 米 価 麦 価 大豆価

加 賀

江沼 3.95 1.88 3.35 能美 3.92 2.03 3.80 石川 4.00 1.82 3.78 河北 3.98 1.81 3.84 能 登 羽咋・鹿島 3.64 1.77 3.10 鳳至・珠洲 3.65 1.67 3.24 注1) 石川県立歴史博物館所蔵「後藤家文書」を参照。

 2) 金額は1石当価格、単位は円。

(一二) 

(13)

のと見られる。

た、で、調

伝存してい )1(

。その内容を表示したのが表4である。これにより、石

川郡に属する三二九ヶ村が一一等級に区分されていることがわかる。

に、れ、

その結果が参考にされたのであろうか。どうも、そうではないようで

ある。そればかりか、各村(→各筆)の等級区分によって実際の改租

作業がなされたのかどうかがそもそも問題である。

金沢町の市街地を除く、石川郡の郡村地は、該期の行政区画上では、

が()、

れの区についても所属する各村の反米や新旧税額の減租歩合の書上が

伝存している。そのうち、加賀・能登両国で最初に改租事業に着手し

た第四区の分を表示したのが表5である。

表4と表5を照合してみれば明瞭だが、各村の等級と、実際に地価

算定に用いられた「反米」とはかならずしも一致しない。例えば、橋爪

橋爪新の両村は等級も「反米」(田反米)も一致しているが、「反米」(田

反米)が同じ松任町と宮丸・倉光・徳丸・平松・菅波・中林の六ヶ村

は、等級では松任町と倉光・徳丸両村が二等、宮丸・平松・菅波の三

か村が三等、中林村が四等になっている。

この食い違いは、各村、したがってまた各筆の地所を等級区分する

方式が、実際の地価算定では採られなかったことを示しているものと

考えられる。

表3 加賀国第五区歩苅試検

番組名 村 名 等   級

備   考

上田 中田 下田

四番組 番匠垣内

0.0088 0.0060 0.0065

中田の数値は原史料のママ、下田は平年より2割落 0.0174 0.0145 0.0135

反米 2.6400 1.8000 1.9500

五番組 野々市

0.0090 0.0075 0.0060 0.0173 0.0132 0.0110 反米 2.7000 2.2500 1.8000

六番組 太平寺

0.0076 0.0070 0.0068

上田と下田は平年より2割落 0.0128 0.0123 0.0010

反米 2.2800 2.1000 2.0400 注1) 前掲「後藤家文書」を参照。

 2) 単位は石。

 3) 反米は著者が算出した。

(一三) 

(14)

表4 加賀国石川郡各村等級調

等級 町  村  名 村数

1等 田井、笠舞、上安江、下安江、北広岡、長田、諸江 7

2等 観音堂、野々市、相木、三社、普正寺、松任(町)、村井、横江、福増、倉光、徳丸、成、田中、

徳用、蓮光寺、中、泉、森島、上島田、寄新保、吉田漆島、福留、源兵衛島新、下柏野、荒屋

柏野、石浦、山崎、石坂、西広岡 29

3等

長島、五影堂、美川(町)、小上、上柏野、行田、舘(第二区)、針道、坊丸、安吉、安養寺、上林、

三口新、木津、知気寺、道法寺、荒屋、下荒屋、上新庄、柴木、七原、熱野、曽谷(第三区カ)、

御供田、牛坂、有松、増泉、三浦、二口(第四区カ)、平松、宮丸、管(菅)波、乙丸、幸明、町、

乾垣内、平木、北安田、橋爪、橋爪新、宮永市、五歩市、番匠垣内、田尻、堀内、赤土、鷺森、

袋畠、金石本(町)、二口(第七区カ)、示野、示野中、入江、若宮、割出、間明、三口、大河端、

北間、洲崎、三ッ屋、高畠、東力、米永、横川、米泉、四ッ屋、福永、上安田、源兵衛島、流 安田、水島、内方新保、釼(劔)崎、耳橋、鶴来

76

4等

番田、笠間、明烏、矢頃島、大竹、明法島、井口、来同、藤木、向島、小柳、日御子、部入道、

今西、坂尻、長坂新、円光寺、寺地、中林、馬替、末松、三日市、稲荷、野々市新、粟田新保、

宮保、久安、三納、矢作、額新保、位川、下林、押越、押野、窪、大額、額乙丸、額谷、柳 町、専福寺、福正寺、清金、藤平田、藤平田新、長竹、宮永新、宮永、徳光、相河(川)、竹松、

二ッ寺、西念新保、渕(淵)上、桜田、粟ヶ崎、玉鉾、大豆田、古保、北、藤江、若宮出、二 ッ屋、薬師堂飛地、大友、南新保、直江、西蚊爪、泉野出、地黄煎、泉野、大桑、曽谷(ママ)、

西泉

73

5等 運上島、末正、三十苅、八田、八田新屋、上安原、専光寺新、太平寺、倉部、太郎田、二日市、

中屋、八日市、八木荒屋、北笹塚、保古、市川、糸田、松、薬師堂、近岡、大友御供田、寺中、

戸水、長屋、蓮池、平加、手取新、金石庄(町)、専光寺、中野 31

6等 本吉新、松本、十一屋、栗林地方、牛首、山科、伏見、八田中、中新保、野、黒田、畝田、八

日市新保、野代 14

7等 北島、小川、上辰巳、下辰巳、別所、野田、土清水、下福増、相川新、御経塚、長池、失(矢)

木、四十万、南笹塚、下安原、八日市出、森戸、無量寺、手取、打木、東米光、黒瀬、西米光、

高尾 24

8等 白山、中島、八幡、石切小原、天池、中戸、水渕、鴛原、下谷、舘(第三区)、村井新、石立、鹿島、

小原、五郎島 15

9等 吉岡、江津、佐良、福岡、吉野、三宮、三小牛、山川、蓮花、平栗、相合谷、下鴛原、城力、熊走、

上荒屋 15

10等 置海、中置海、久保、市原、木滑、瀬波、中宮、倉嶽、坪野、清瀬、富樫新保、住吉、小平沢、

大平沢、国見、樫見、寺津、駒帰、瀬領、菅池、白見、上原、畠尾、西市瀬、七曲、茅原、羽場、

田子島、湯涌 29

11等 吹上、奥池、下折、金間、内尾、木滑新、板尾、堂、後谷、日尾、見定、二又、倉谷、娚杉、河内、

16

合     計 329

注1) 前掲「後藤家文書」を参照。

 2) 括弧内は、①同一名の別村の区別、②石川県編『石川県史』第四編、同県、1931年3月、100~103頁に掲出されて いる村名との異同、③町をそれぞれ示す。

(一四) 

参照

関連したドキュメント

3 次元的な線量評価が重要であるが 1) ,現在 X 線フィ ルム 2) を用いた 2 次元計測が主流であり,3 次元的評

二一1D・両眼とも前房の深さ正常,瞳孔反応正常,乳

[r]

︵漫 録㌧ 第十λ⁝櫓  麓伊九⁝號   二山ハご一

治山実施設計業務(久住山地区ほか3) 大分県竹田市久住町地内ほか

東医療センター 新生児科部長   長谷川 久弥 先生.. 二酸化炭素

三好市三野体育館 三好市三野町芝生 1293 番地 30 三好市屋内ゲートボール場「すぱーく三野」 三好市三野町芝生 1283 番地 28 三好市三野サッカー場

平 成十年 度(第二 十一回 ) ・剣舞の部幼年の部 深谷俊文(愛知)少年の部 天野由希子(愛知)青年の部 林 季永子(茨城) ○