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自己負罪拒否特権の性質と機能 ⑴

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自己負罪拒否特権の性質と機能 ⑴

Nature and the Function of the Privilege Against Self-Incrimination (1)

安 井 哲 章

   目   次 一 問題の所在

二 自己負罪拒否特権の性質

  1 .ホーフェルディアン・システムの概略   2 .ホーフェルディアン・システムにおける特権   3 .ホーフェルディアン・システムと自己負罪拒否特権 三 ベンサムと自己負罪拒否特権

  1 .ベンサムと自己負罪拒否特権   2 .ベンサムの法理論

四 自己負罪拒否特権の機能   1 .自己負罪拒否特権を支える理念   2 .グリズウォルド教授の見解   3 .自己負罪拒否特権と弾劾主義

  4 .自己負罪拒否特権と無罪推定原則 (以上,本号)

  5 .自己負罪拒否特権と個人の尊厳   6 .自己負罪拒否特権とプライヴァシー理論   7 .自己負罪拒否特権と無辜の保護   8 .自己負罪供述への不信

  9 .Murphy判決に対する合衆国最高裁の評価 五 自己負罪拒否特権の概要

  1 .自己負罪拒否特権の構成要素   2 .自己負罪拒否特権の捜査への波及   3 .被告人と自己負罪拒否特権

 所員・中央大学法学部准教授

(2)

  4 .証人と自己負罪拒否特権   5 .大陪審証人と自己負罪拒否特権 六 結   論

一 問題の所在

本稿は,自己負罪拒否特権がどのような性質を有し,どのような機能を 果たしているのかという観点から,自己負罪拒否特権の正当化根拠を探る ものである。自己負罪拒否特権の正当化を試みる理論構成を詳細に分析し たドリンコ教授は,その論証に成功した理論構成はないと結論づけている。

しかしながら,同教授は,原理に裏づけられた正当化根拠を欠いていたと しても,法制度の中で重要な役割を果たしている法的ルールというものは あり,このようなルールを廃止することは,法制度全体を毀損することに 繫がるとしている。ドリンコ教授は,このようなルールのひとつとして自 己負罪拒否特権を位置づけている1)

そこで本稿は,これまで積み重ねられてきた自己負罪拒否特権の正当化 根拠をめぐる議論を参照しつつ,自己負罪拒否特権が「特権」とされてい る点に着目して,自己負罪拒否特権の性質と機能を描写する。

自己負罪拒否特権は「特権」とされている以上,そこには「権利」とは 異なる性質が盛り込まれているはずである2)。もしそうでないのならば,

自己負罪拒否「権」とされていたはずだからである。そこで,自己負罪拒 否特権の性質を明らかにする前堤作業として,「特権」と「権利」の異同 を明らかにする必要が出てくる。すなわち,特権を有しているということ が何を意味するのか,権利とは異なる特権固有の性質は何かが明らかにさ 1) David Dolinko, Is there a rationale for the privilege against self-incrimination ?,

33 UCLA L. Rev. 1063 (1986).

2) 自己負罪拒否特権を特権ではなく権利として理解すべきとの主張もある。渡 辺修「『刑事免責立法化』と田宮理論」法律時報68巻12号(1996年)93頁以下。

(3)

れなければならない。本稿は,特権の性質を解明し,そこで抽出された特 権としての機能が自己負罪拒否特権にも当てはまることを示す。その手掛 かりとして,本稿は特権を含む法律上の諸概念の意味内容を明らかにした,

ホーフェルドの法理論を参考にする3)

ホーフェルドは,例えばある人に権利が正当に認められる場合に,この 人を中心としてどのような法律関係が発生しているのか,を考察した。

ホーフェルドの研究対象には特権も含まれているため,特権の性質に関す るホーフェルドの研究を参考にして,自己負罪拒否特権の原理的な性質の 解明を試みる4)

自己負罪拒否特権の性質に検討を加えた後,次に,自己負罪拒否特権に 批判的であったベンサムの見解を取り上げ,自己負罪拒否特権の正当化根 拠として掲げられる理論を批判的に吟味する。この批判的検討を経た上 で,更に,今日においても自己負罪拒否特権の理念として主張される内容 について考察を加える。すなわち,合衆国最高裁判例のMurphy判決が掲 げた自己負罪拒否特権の理念や目的を手掛かりとして,自己負罪拒否特権 と弾劾主義,無罪推定原則,プライヴァシーとの関係をめぐる理論状況を 精査する。このように,ベンサムの自己負罪拒否特権批判とMurphy判決 の検討により,自己負罪拒否特権の果たすことが期待されている機能につ 3) David Campbell and Philip Thomas ed., Fundamental Legal Conceptions as

Applied in Judicial Reasoning by Wesley Newcomb Hohfeld, Ashgate, 2001;

Wesley Newcomb Hohfeld, Fundamental Legal Conception as Applied in Judicial Reasoning, Yale, 1919.

4) ホーフェルドの法理論が刑事法に当てはまるのかについては慎重な吟味が必 要だが,ホーフェルド自身が「特権」の具体例として自己負罪拒否特権を挙げ ているため,自己負罪拒否特権の原理を解明するにあたってホーフェルドの法 理論を参考にすることに問題はない。また,ホーフェルドの法理論を用いて,

ミランダ法理の黙秘権は特権(自由)としての黙秘権と請求権としての取調べ 中断権の二つから成ることを論じる文献として,Laurent Sacharoff, Mirandaʼs Hidden Right, 63Ala. L. Rev.535(2012)がある。この論文で議論されている内容 がミランダ法理を超えて,自己負罪拒否特権についても当てはまるのかの検討 は,他日を期すこととしたい。

(4)

いて論じる。

二 自己負罪拒否特権の性質

.ホーフェルディアン・システムの概略

ホーフェルドは,従来法律家が「権利」と呼んでいたものは分析が不十 分であって,「権利」という言葉の多義性に無自覚であったとする。すな わち,仔細に分析すれば性質の異なることが分かる法現象を,「権利」と いう言葉ひとつで表現してきたとする。そこでホーフェルドは,これまで

「権利」とされてきた法的状態を四つの法概念に分解した。すなわち,純 粋な意味での「権利」,「特権」,「権能」,「免責」である。要するに,法律 関係は権利と義務の対応関係だけでは整理できないということである5)。 したがって,権利という言葉の持つ多義性を十分に自覚した上で,当該法 律問題ではどのような法律関係が問題となっているのかを分析しなければ ならないとしている。

ホーフェルディアン・システムは,通常次の二つの公式で示される。す なわち,反対概念と相関関係である。それぞれの組み合わせは以下の通り である。

【反対概念(Jural Opposites)】

・権利(right) – 無権利(no right)

・特権(privilege) – 義務(duty)

・権能(power) – 無権能(disability)

・免責(immunity) – 責任(liability)

【相関関係(Jural Correlatives)】

・権利(right) – 義務(duty)

5) Nigel Simmonds, Introduction in Fundamental Legal Conceptions as Applied in Judicial Reasoning, Ashgate 2001.

(5)

・特権(privilege) – 無権利(no right)

・権能(power) – 責任(liability)

・免責(immunity) – 無権能(disability)

反対概念と相関関係は八つの法概念の対応関係を示すものだが,ホー フェルドの分析はそれにとどまるものではない。すなわち,八つの概念に 固有の意味と領域を説明するだけでなく,法概念相互の関係を示すことで 具体的な法律上の人間関係を示しているのである。すなわち,ホーフェル ドの考える「法的関係」とは,法概念の関係だけでなく,法的人間関係を 意味している。したがって,これまで反対概念として理解されてきた公式 は,一人の人間の中で両立し得ない法的状態を示す法概念の関係と捉え直 す必要がある(非両立関係)。同じく,これまで相関関係として理解され てきた公式は,法的関係に入った二当事者間の法的状態を示す法概念の関 係と捉え直す必要がある(対抗関係)。以下の説明では,ホーフェルドにな らって,法律関係に入る当事者をX,Yと表記して八つの法概念を示し,「非 両立関係」と「対抗関係」という観点から法概念の対応関係を整理する6)

【八つの法概念7)

権利「XはYに対し,Yが行為αを行うよう請求する権利を有する」

6) ホーフェルドの法律関係が何を意味するのかについても議論がある。例えば,

反対概念について,OppositeではなくContradictionあるいはNegationを使用 すべきとの主張がある。ホーフェルドの反対概念は,一方が存在する場合に他 方の存在が否定されるという関係であるため,反対概念とされる法的利益は互 いを否定する関係にある。したがって,否定関係というのは正しい理解である。

本稿は,同様の意味で非両立関係と表現する。この点については,Matthew H.

Kramer, Rights Without Trimmings in Matthew H. Kramer, N. E. Simmonds and Hillel Steiner, A DEBATE OVER RIGHTS, OXFOFD, 1998, p.12 n3.

7) ホーフェルディアン・システムの説明に関しては,太田知行『当事者間にお ける所有権の移転』(勁草書房,1963年)13頁を参考にしつつ,自己負罪拒否特 権の性質を解明するという観点から若干の修正を加えた。併せて参照された

(6)

義務「YはXに対し,Yが行為αを行う義務を負う」

特権「YはXに対し,Yが行為αを行わない特権を有する」

無権利 「XはYに対し,Yが行為αを行わないよう請求する権利を有し ない」

権能「XはYに対し,当該法律関係を変化させる権能を有する」

責任 「YはXに対し,当該法律関係につき,Xによって生ぜしめられる 一定の変化に服する責任を負う」

免責「YはXに対し,当該法律関係につき免責される」

無権能「XはYに対し,当該法律関係を変化させる能力を有さない」

【非両立関係】

①権利と無権利

「XはYに対し,Yが行為αを行うよう請求する権利を有する」という ことと,「XはYに対し,Yが行為αを行うよう請求する権利を有しない」

ということは両立しない。

②特権と義務

「YはXに対し,Yが行為αを行わない特権を有する」ということと,「Y はXに対し,Yが行為αを行う義務を負う」ということは両立しない。

③権能と無権能

「XはYに対し,当該法律関係を変化させる権能を有する」ということと,

い。また,亀本洋「ホーフェルド図式の意味と意義」法学論叢第166巻 6 号(2010 年)68頁以下および,亀本洋『法哲学』(成文堂,2011年)を参照。また,安井 哲章「自己負罪拒否特権の原理的考察」大学院研究年報32号法学研究科篇2002 年291頁以下において,ホーフェルドの法理論について検討したことがある。

  なお,権利の請求内容を「ある行為を行うこと」と表記した関係から,特権 の内容が「ある行為を行わないこと」になっている。権利の請求内容が「ある 行為を行わないこと」であれば,特権の内容は「ある行為を行うこと」になる。

ある行為を行う特権であれ,ある行為を行わない特権であれ,重要なのは,特 権とは,義務づけられないということを内容とする点である。特権の性格は,

義務との関係を抜きにして決定することはできないのである。

(7)

「XはYに対し,当該法律関係を変化させる能力を有さない」ということ は両立しない。

④免責と責任

「YはXに対し,当該法律関係につき免責される」ということと,「Yは Xに対し,当該法律関係につき,Xによって生ぜしめられる一定の変化に 服する責任を負う」ということは両立しない。

【対抗関係】

①権利と義務

「XはYに対し,行為αを行うよう請求する権利を有する」場合,「Yは Xに対し,当該行為αを行う義務を負う」ことになる。

②特権と無権利

「YはXとの関係で,Yが行為αを行わない特権を有する」場合,「Xは Yに対し,Yが当該行為αを行うことを請求する権利を有しない」ことに なる。

③権能と責任

「XはYとの関係で,当該法律関係を変化させる権能を有する」場合,「Y はXとの関係で,当該法律関係につき,Xによって生ぜしめられた一定の 変化に服する責任を負う」ことになる。

④免責と無権能

「YはXとの関係で,当該法律関係につき免責される」場合,「XはYと の関係で,当該法律関係を変化させる能力を有しない」ことになる。

.ホーフェルディアン・システムにおける特権

ホーフェルディアン・システムを利用して自己負罪拒否特権の原理的な 性質を理解する前堤として,ホーフェルディアン・システムにおける特権 の意味内容を明らかにする必要がある。ところで,ホーフェルドは,基本 的な法律関係を示す概念として,権利,義務,特権,無権利,権能,責任,

免責,無権能の八つを選び出しているが,いずれについても明確な定義を

(8)

付与していない。したがって,ホーフェルドは特権とは何かについても明 確には語っておらず,特権が保障される場合の法律関係がどのようなもの なのかについて説明するにとどまっている。しかしながら,法律関係から 分析を進めることで,特権が何を意味し何を意味しないのかの手掛かりを つかむことができる。

特権は諸権利のひとつではあるが,通常の意味での権利(請求権)とは 異なる。法律関係の観点から見るならば,特権は義務の否定である。この ように,ホーフェルドは法概念を説明する際に,積極的な意味を付与する のではなく,「否定」というかたちで意味内容を確定していく。

特権保有者は義務を負わないというのは何を意味するのかが次に問われ ることになる。特権は自由という概念と交換可能であり,しばしば特権よ りも自由と表現する方がむしろ正確であるとも言われる8)。しかしながら,

日本語の自由は特権と交換可能な言葉として使用されるLibertyの意味だ けでなく,License(放縦)の意味でも使用されるため,日本語の次元で は特権と表記する方がむしろ誤解が少ないであろう。たとえ自由という言 葉を使用したとしても,ホッブズが描く自然状態ではない。具体的な法律 関係から離れた自由は,ホーフェルディアン・システムの中には存在しな い。

特権とは,義務の否定としての自由である。あるいは,義務からの解放 としての自由である。そこで次に問われるのは,否定される義務,あるい は解放される義務は何かということである。この問いの手掛かりも法律関 係の中にある。手掛かりは,非両立関係と対抗関係のマトリクスの中にあ る。すなわち,義務とは相手方(対抗当事者)の請求に拘束されることを 意味する。特権保有者は,相手方の請求に拘束されないという意味で義務 が否定され,特権保有者の相手方には請求権が認められないということに なる。相手方の請求に拘束されないという意味で自由の状態にあることか ら,特権保有者は相手方の請求に応じることもできるのである。この場合,

8) Kramer supra note at 10.

(9)

特権は放棄されたということになる。

ここまでの議論を整理すると,非両立関係にあるのは「行為αをする義 務」と「行為αをする自由」ではなく,「行為αをする義務」と「行為α をしない自由」,あるいは,「行為αをしない義務」と「行為αをする自由」

である9)。そして,「行為αをする義務」と「行為αをしない義務」は,特 権保有者の対抗当事者の請求の内容である。そうすると,「行為αをしな い自由」は「行為αをするよう義務づけられない自由」であり,「行為α をする自由」は「行為αをしないよう義務づけられない自由」ということ になる。このように,特権と義務の非両立関係,特権と無権利の対抗関係,

義務と権利の対抗関係を照らし合わせることで,特権の基本的な性質が明 らかになる。法律関係から見た特権は,対抗当事者の請求内容を構成する 義務の否定という形で理解することになる。そして,特権を中心とした非 両立関係と対抗関係を統合して理解するならば,特権とは,権利義務関係 の否定を意味するということになる。

.ホーフェルディアン・システムと自己負罪拒否特権

特権と義務の非両立関係,特権と無権利の対抗関係,および義務と権利 の対抗関係から明らかになった特権の基本的性質を柱に据えて,自己負罪 拒否特権を中心とした法律関係を整理する。

自己負罪拒否特権も特権のひとつであるとするならば,自己負罪拒否特 権は何らかの義務を否定する効果を持つことになる。この場合,自己負罪 拒否特権を正当に行使する者と対抗関係に立つ者は,義務の履行を求める 請求権を有しないということになる。

自己負罪拒否特権が否定する義務は,自己に不利益な供述(証言)をす

9) ホーフェルドの描いた法律関係に忠実であろうとするならば,「行為αをし ない自由」や「ある行為αをする自由」という表現も誤解を招きかねないもの である。特権の性格が義務の否定であるならば,「行為αをするよう義務づけ られない自由」や「行為αをしないよう義務づけられない自由」と表現する方 が正確である。

(10)

る義務である。これはそのまま自己負罪拒否特権の内容になる。自己負罪 拒否特権の保有者の側から見れば,自己に不利益な供述(証言)を義務づ けられることはないということになる(義務の否定)。対抗当事者の側か ら見れば,不利益な供述(証言)をするように義務づけることが禁止され ることになる(請求権の否定すなわち無権利)。このように,自己負罪拒 否特権は義務の否定と相手方の無権利という効果をもたらすものなので,

権利ではなく特権として位置づけられることになる。

自己負罪拒否特権は特権であることから,その適用を論じる際には,否 定される義務との関係を抜きにして論じることはできないということにな る。すなわち,法律上の義務づけという契機が存在しない場合には自己負 罪拒否特権を論じる前堤を欠くということになり,自己負罪拒否特権侵害 はないということになる。

自己負罪拒否特権の保有者と対抗関係に立つのは,捜査・訴追機関,場 合によっては行政機関ということになる。これらの機関は,自己負罪拒否 特権の存在によって,対象者に対して自己に不利益な供述(証言)を提供 するよう請求する権利を持たないことになる。これは,自己に不利益な供 述(証言)を義務づけることができないということと同義である。なぜな ら,無権利とは,権利の効果である義務を発生させることができないとい うことを意味するからである。このことから,捜査・訴追機関が対象者に 対して自己に不利益な供述(証言)の提供を義務づけた場合には,提供さ れた情報を対象者に不利益な証拠として利用することが禁止される(不利 益利用禁止法理)。この法理を制度化したものが刑事免責である。

自己負罪拒否特権と密接に関係する刑事免責については,特権と義務の 非両立関係,特権と無権利の対抗関係,義務と権利の対抗関係に加えて,

免責と責任の非両立関係を組み合わせることで基本的な性質を整理するこ とができる。

刑事免責とは,制裁の免除と交換に自己負罪拒否特権を放棄し,自己に 不利益な内容の証言を義務づけるものである。被告人には自己負罪拒否特 権が保障されているため,捜査・訴追側は不利益証言を義務づけることは

(11)

できない。被告人側も,自己の刑事責任の追及につながるため,自己負罪 拒否特権を放棄することは考えにくい。そうだとすれば,自己に対する刑 事責任の追及が払拭されるのであれば,被告人の証言を確保する道が開け ることになる。これを実現するのが刑事免責である。刑事免責の付与によ り,この証言を利用して被告人の刑事責任を追及することはできなくなる が,事案の真相を解明することが可能になる。

自己負罪拒否特権は,刑事免責の付与によって消滅する。免責と交換に 自己負罪拒否特権が消滅するのであるから,両者の範囲は一致するもので なければならない。自己負罪拒否特権の消滅により,捜査・訴追側は被告 人に証言するよう請求することができ,被告人側は証言義務を負うことに なる。特権は権利義務関係を消滅させる機能を有しているため,特権の消 滅は権利義務関係を生み出すという効果をもたらす。すなわち,刑事免責 の付与による自己負罪拒否特権の消滅は,証言請求と証言義務という法律 関係を生み出すのである。刑事免責の付与によって免責される責任の範囲 は,自己負罪拒否特権が保障される範囲と一致するため,義務づけた証言 およびこれから直接的・間接的に得られた証拠の利用が禁止されることに なる。刑事免責の効果が及ぶ範囲は,使用および派生的使用が限度となる10)

三 ベンサムと自己負罪拒否特権

.ベンサムと自己負罪拒否特権

捜査・訴追の効率性を重視する立場からは,自己負罪拒否特権の存在は 効率性を妨げるものということになるため,真実の発見にとって自己負罪 拒否特権は大きな障害ということになる11)。そこでしばしば引用されるの

10) Kastigar v. United States, 406 U.S. 441(1972).

11) イングランドでは,黙秘権行使の不利益推認を肯定するThe Criminal Justice Public Order Act 1994が制定された。この法律については,井上正仁「イギリ スの黙秘権制限法案( 1 )( 2 ・完)」ジュリスト1053号(1994年)39頁以下,ジュ リスト1054号(1994年)88頁以下および,石田倫識「被疑者の黙秘権に関する一

(12)

が,ベンサムによる自己負罪拒否特権批判である。自己負罪拒否特権に対 するベンサムの批判は,以下の四点にまとめることができる12)

(一)老女の嘆き理論

批判の対象となった第一の理由づけは,ベンサムが「老女の嘆き」と揶 揄する考え方である13)。自己負罪拒否特権の正当化根拠として,「自己負罪 の義務づけは人を苛酷な状況に追い込むものであるため許されない」とい うものがある。この考え方に対し,ベンサムは,怪我を負った子供を前に して涙ぐむ老女の嘆きと変わるところがないと批判する。すなわち,苛酷 を核心とする自己負罪拒否特権の正当化根拠は,治療のために外科手術用 のメスにさらされる小さな子供はかわいそうだと涙する老女の嘆き同様,

感傷以外の何物でもないとする14)

返答するように義務づけられることは苛酷であるとして非難の対象にな るならば,処罰を受けることはこれよりも苛酷さの度合いが大きいため,

刑罰を科すことは一切許されないということになってしまう15)。また,自 己負罪の義務づけが苛酷であるならば,他の第三者が提出する証拠で有罪 となるのは苛酷さの程度が低いということになる。しかし,自分自身の発 言内容で有罪となるより,自分の愛する人の証言で有罪となることの方が 苛酷さの程度が低いとは言えない16)。また,証人として自分の子供に対す る不利益な証言を義務づけられることが,自分自身の発言で有罪となるこ とよりも苛酷でないと説明することはできないだろう17)。したがって,ベ

考察」九大法学86号(2003年)107頁以下参照。

12) 平野龍一『捜査と人権』(有斐閣,1981年)83頁以下参照。

13) Bentham, RJE240.

14) William Twining, Theories of Evidence : Bentham and Wigmore, Weidenfeld and Nicolson, 1985, pp. 84-85

15) Id.

16) Michael A. Menlowe, Bentham, Self-Incrimination and the Law of Evidence, 104 L.Q.R. 286, 297 (1988).

17) Adrian Zuckerman, The right against self-incrimination : an obstacle to the supervision of interrogation, 102 L.Q.R. 43, 63 (1986).

(13)

ンサムが主張するように,苛酷を根拠として自己負罪拒否特権を正当化す ることは,論証として不十分であることが分かる。

しかしながら,この批判が当てはまることと,自己負罪拒否特権の存在 を不要とすることは必ずしも結びつかない。あくまでも,自己負罪拒否特 権の正当化根拠として「苛酷」という視点が当てはまらないことを示した にすぎないからである。

(二)狐狩り理論

批判の対象となった第二の理由づけは,ベンサムが「狐狩り理論」と揶 揄する考え方である。自己負罪拒否特権の正当化根拠として,「自己に不 利益な供述(証言)を義務づけることは公正さを欠く」というものがある。

この考え方に対し,ベンサムは,狐狩りを例に挙げて批判を加える。すな わち,この正当化理論は,スポーツマンが用いるのと同じ意味で「公正」

という観念を手続法に持ち込む見解である。要するに,犯罪者には,狐狩 りの狐のように逃走する公正な機会が与えられなければならない,という 考えである。

ベンサムは,裁判をスポーツに喩えるこの見解には根本的な誤りがある と批判する。なぜなら,スポーツの目的が娯楽であるのに対して,手続法 の目的は判決の正しさを確保することだからである。その範囲内で,迅速 な法の運用・執行が認められる。しかし,狐狩りに効率性を導入すると,

狐狩りの楽しみは失われてしまうと批判する。

ベンサムの狐狩り理論に対する批判は,自己負罪拒否特権を狐狩りに喩 える論証が破綻していることを示している。しかし,ベンサムは公正とい う観念自体には効果的な批判を向けていない。裁判手続には迅速さが求め られるのに対し,娯楽に迅速さを求めることが本末転倒であると論じるよ うに,裁判と娯楽の違いを強調したにすぎない。ベンサムの論証が成功し ているのはこの限りであって,自己負罪拒否特権の存在を否定するほどの 説得力は持ち得ていない。そして,ベンサムが批判の対象とした狐狩り理 論は,今日においては,自己負罪拒否特権の正当化根拠の一つとして数え られる弾劾主義論として命脈を保っている。すなわち,国家と国民の間に

(14)

公正なバランスを保つために自己負罪拒否特権が存在するという考え方で ある。弾劾主義と自己負罪拒否特権の関係については後に論ずる。

(三)取調べと拷問との同視

批判の対象となった第三の理由づけは,取調べと拷問を同視する考え方 である。しかしながら,質問に答えるように義務づけることと,回答を引 き出すために身体に苦痛を与えることとは全く異なるものである。回答を 引き出すために拷問を加えることは禁止されるが,取調べそれ自体は禁止 されるべきものではない。また,回答の義務づけと拷問を同視することも できない。

(四)悪名高い制度への言及

批判の対象となった第四の理由づけは,星室裁判所や高等宗務官裁判所 と負罪供述の義務づけを結びつける考え方である。この考え方の論理は,

次のようなものである。すなわち,「ある人物の行いは悪いものとする。

そして,『これ』はこの人物が行った事柄に含まれるものである。したがっ て,『これ』は悪行ということになる。」この論理を,自己負罪拒否特権に も及ぼすのである。すなわち,星室裁判所や高等宗務官裁判所で採用され ていた取調べ方法は,自己に不利益な供述を拒む権利を認めるものではな かった。したがって,悪名高い裁判所で採用されていた取調べ方法は禁止 されるべきである,というものである。

星室裁判所や高等宗務官裁判所と自己負罪の義務づけを結びつける発想 は,今日においても根強い支持を得ている発想である。しかし,自己負罪 の義務づけが禁止されるのは,星室裁判所や高等宗務官裁判所で採用され ていた取調べ方法であるということを理由とするものではない。自己負罪 の義務づけ自体に理由がある。したがって,自己負罪拒否特権とこれらの 裁判所を結びつける発想は根拠に乏しいが,自己負罪供述(証言)の義務 づけが禁止される理由が他にあるため,ベンサムの論証が成功しているの は,悪名高い制度への言及が根拠に乏しいという点にとどまる。

(15)

.ベンサムの法理論

ベンサムが自己負罪拒否特権に否定的であるのは,ベンサムが考える法 の役割に起因する。そこで,以下では,ベンサムが法の役割としてどのよ うなものを構想したのかを整理する。

ベンサムは,法の役割を,共同体の幸福の総量を増加させることにある とした18)。そして,法を実体法と手続法に区分した19)。実体法は,民法と犯 罪法を含むものであり,手続法は訴訟に関する法,科刑に関するルール,

裁判所の組織に関する法を含むものである20)

そして,実体法と手続法は,機能の面において異なるとする。すなわち,

実体法の役割は当該共同体を構成する最大多数の者の幸福を最大化するこ とにあるとする21)。これに対して,手続法の役割は,そのような機能を有 する実体法を実施・執行し,その効果を最大化することである。手続法に 分類される証拠法の役割は,判決の正しさを確保することである22)。すな わち,実体法を的確に適用するための事実を入手することが証拠法の役割 である。

手続法の機能が実体法の実施と効果の最大化にあるとするならば,手続 法の役割は効率性の観点から整理することになる。しかし,ベンサムの考 える手続法の役割は,効率性の追求に集約されるものではない。ベンサム は手続法の目的を二つに分け,手続法の主たる目的を実体法の実施とし,

18) J. Bentham, An Introduction to the Principles of Morals and Legislations 158 (J.

Burns and H.L.A. Hart eds. 1970).

19) Gerald J. Postema, The Principle of Utility of Procedure : Benthamʼs Theory of Adjudication, 11Ga. L. Rev. 1393, 1395 (1977).

20) Menlowe, supra note16 at 288. 我が国で刑法と表記する場合,通常は犯罪の 成否に関する部分と刑罰に関する部分の双方を含む。しかしながら,ベンサム の法理論において,科刑に関する部分は手続法に分類されるため,本文中では criminal lawを犯罪法と表記した。

21) J. Bentham, The Principles of Judicial Procedure, in 2 Works of Jeremy Bentham 1, 6 (J. Bowring ed. 1938-1943).

22) Id.

(16)

副次的な目的として,実体法の実施によって生じる障害を最少にすること であると指摘する23)。実体法の実施によって生じる障害とは,濫用,費用,

遅延,誤判である。誤判の防止の強調は,証拠法の役割として判決の正し さの確保を掲げることと一致する。そして,この立場からは,真実への到 達を何よりも重視することになるので,証拠は原則としてすべて取り調べ られるべきことになる。この議論を単純化すると,証拠の利用を制限する 自己負罪拒否特権に否定的なベンサムの立場は,彼の構想する法の役割と 一致することになる。

このように,ベンサムの法体系からは自己負罪拒否特権の存在は批判の 対象となるが,自己負罪拒否特権に対するベンサムの批判は,自己負罪拒 否特権の存在を否定するほどの説得力を有するものではなかった。ベンサ ムの批判が成功しているのは,自己負罪拒否特権の正当化根拠として掲げ られた理由づけが根拠に乏しいという点である。したがって,ベンサムは 自己負罪拒否特権の存在を否定する論考を執筆したというよりは,自己負 罪拒否特権の正当化根拠として掲げられた理由づけが見せかけのものであ ることを論証しようとしたと理解すべきである。

そこで,今日ではどのような根拠を示して自己負罪拒否特権の正当化が 図られているのかを見ることとする。その正当化根拠には,ベンサムが批 判の対象とした理由づけと同様のものも含まれる。以下では,自己負罪拒 否特権の目的や理念を謳い上げたMurphy判決を批判的に吟味し,自己負 罪拒否特権の正当化根拠を整理する。

四 自己負罪拒否特権の機能

.自己負罪拒否特権を支える理念

Murphy判決において,合衆国最高裁は,「自己負罪拒否特権は自由の

発展過程における重要な前進」であり「野蛮や隷従からの解放という戦い 23) Id.

(17)

の中で人類が獲得した偉大な成果である」というグリズウォルド教授の著 名なフレーズを引用し,自己負罪拒否特権の正当化根拠を七つほど掲げた24)

すなわち,①被疑者を自己訴追,偽証罪,裁判所侮辱罪のトリレンマに さらすことに対する懸念,②刑事司法制度として,糺問主義ではなく弾劾 主義に支えられた制度を採用していること,③自己負罪供述は,非人間的 扱いや虐待から得られる傾向にあること,④個人の権利を制約する正当な 理由が示されてはじめて政府は個人に干渉することが許され,また,政府 と個人が対立する場面では,政府の側に完全な負担を課すという観念,⑤ 人格の不可侵性の尊重と,個々人が私的な領域では私的な生活を送ること が許されるという権利の尊重,⑥自分で自分を罪に陥れる証言を我々は信 頼しないこと,⑦自己負罪拒否特権が,時として有罪の者の逃げ道になる ことはあるものの,無実の者を守るものであるとの確信,が自己負罪拒否 特権の存在を支えるとする。

合衆国最高裁が,グリズウォルド教授のフレーズを引用した上でこの七 つの正当化根拠を掲げていることから,自己負罪拒否特権の正当化根拠に 関する合衆国最高裁の考え方は,グリズウォルド教授の所説に支えられて いると言える。そこで,合衆国最高裁に影響を与えたグリズウォルド教授 の見解を整理した上で,Murphy判決が掲げた正当化根拠に検討を加える。

なお,自己負罪拒否特権の正当化根拠をめぐって,これまで多くの議論 が積み重ねられているが,ドリンコ教授は,これを二つのカテゴリーに分 類した25)。すなわち,①刑事司法制度の様々な目的を実現する手段として 自己負罪拒否特権を基礎づける理論構成と,②個人の尊厳に依拠した理論 構成である。Murphy判決で合衆国最高裁が示した七つの正当化根拠も,

ドリンコ教授に倣って制度にかかわる正当化根拠と個人の尊厳にかかわる 正当化根拠に分類することができる。例えば,②,④,⑥,⑦は制度にか かわる正当化根拠であり,①,③,⑤は個人の尊厳にかかわる正当化根拠 ということになる。しかし,重要なのは個々の正当化根拠の理論的背景を

24) Murphy v. Waterfront Commission of New York Harbor, 378U.S.52 (1964).

25) Dolinko, supra note1.

(18)

たどることであり,分類することそれ自体には大きな意味はない。

また,注意を要するのは,Murphy判決で合衆国最高裁が示した自己負 罪拒否特権の正当化根拠は,どれも抽象的な表現で示されているため,そ れらをいかように使うことも可能という点である26)。すなわち,自己負罪 拒否特権を主張する根拠としても,それを制限する根拠としても使えてし まうのである。

.グリズウォルド教授の見解

「自己負罪拒否特権は野蛮や隷従からの解放という戦いの中で人類が獲 得した成果である」という一文は,合衆国最高裁判例の中で繰り返し引用 されてきたフレーズである27)。このフレーズは,グリズウォルド教授が著 書の中で示した見解である28)

確かに,人類が自由な社会を手に入れる上で自己負罪拒否特権が大きな 役割を果たしてきたことは間違いない。しかし,自己負罪拒否特権を讃え るこのフレーズから,自己負罪拒否特権がどのように機能しているかにつ いての答えを引き出すことはできない。このフレーズが合衆国最高裁判例 の中で繰り返し引用されてきたことによって,かえってグリズウォルド教 授が著書の中で展開した議論が霞んでしまったとも言える。自己負罪拒否 特権に対する賞賛のみが独り歩きした観がある29)

そこでグリズウォルド教授の主張を要約して紹介し,グリズウォルド教 授が主張する自己負罪拒否特権の正当化根拠に検討を加える。

グリズウォルド教授の著作は三つの論文で構成されており,それぞれ講 演原稿が元になっている。自己負罪拒否特権の正当化根拠に直接かかわる

26) Peter Arenella, Schmerber and the Privileg Against Self-Incrimination: A Reappraisal, 20 Am. Crim. L. Rev. 31, 37 (1982).

27) Ullmann v. United States, 350 U.S.422, 426 (1955).

28) Erwin N. Griswold, The Fifth Amendment Today Havard U.P. 1955.

29) 合衆国最高裁の判決においても,自己負罪拒否特権を讃えるフレーズとして 引用されている。

(19)

のは,第一論文と第三論文である。引用されるフレーズは両論文の中で使 用されているが,中心になるのは第一論文の自己負罪拒否特権の形成に関 する議論においてである。したがって,以下の議論では第一論文に焦点を 当てることとする。

①自己負罪拒否特権と拷問

グリズウォルド教授は自己負罪拒否特権と拷問との関係を強調してい る。自己負罪拒否特権と拷問の関係は,自己負罪拒否特権の歴史的背景に 依拠した議論である。野蛮や隷従からの解放をめぐる戦いの中で自己負罪 拒否特権が確立したとの主張は,グリズウォルド教授の歴史認識を反映し ている。すなわち,野蛮や隷従を象徴するのが拷問なのである。

16世紀までには,「何人も自己を訴追するように義務づけられてはなら ない」との格言が人口に膾炙するようになるが,これは標語以上の意味を 持たなかった。16世紀においては,被疑者・被告人に対して自己に不利益 な証拠の提出を義務づける実務は依然として続き,供述を確保するために 拷問が用いられることもあった。

そのため,グリズウォルド教授は,自己負罪拒否特権の確立が拷問の廃 止と密接に結びついている点を見落としてはならないと強調する。自己負 罪拒否特権の確立と拷問の廃止との関係を象徴的に示す事例として紹介さ れるのは,17世紀中葉の星室裁判所におけるジョン・リルバーンの闘争で ある。リルバーンは異端文書・政府転覆を企てる文書の輸入を理由として 星室裁判所に引き立てられた。リルバーンは真実を供述する旨の宣誓を拒 否したことを理由にむち打ちおよびさらしの刑を受けた。そこでリルバー ンは庶民院にこの制裁の不当を訴え,この請求が認容され,貴族院もリル バーンに対する損害補塡を命じたのである。この史実を根拠にして,グリ ズウォルド教授は,17世紀後半に自己負罪拒否特権がイングランドにおけ るコモンローの一部として確立したと主張する。すなわち,星室裁判所や 高等宗務官裁判所で行われていた職権による宣誓への抵抗が自己負罪拒否 特権へと結実したとするのである。

(20)

そして,イングランドのコモンローとして形成された自己負罪拒否特権 が,開拓移民の手によって植民地アメリカに持ち込まれたとし,その例と して,1689年のペンシルヴェイニアの事件を紹介している。もっとも,自 己負罪拒否特権が自覚的に憲法に組み込まれたのは1766年のヴァージニア 権利章典が最初であり,合衆国憲法に自己負罪拒否特権が第五修正として 組み込まれたのは1791年である。したがって,当然のことながら,1689年 の事件の中で自己負罪拒否特権という言葉は用いられていない。

この事件は,植民地アメリカに印刷技術をもたらした印刷業者,ウィリ アム・ブラッドフォードにまつわる事件である30)

30) ブラフォード事件についてグリズウォルド教授は著作の中で簡潔に紹介する のみである。この事件を比較的詳細に取り扱う文献として,Leonard Levy, Origins of the Fifth Amendment : The Right Against Self-Incrimination, Oxford, 1968 がある。また,自己負罪拒否特権の起源を論じる文献として,石丸清見

「英米における自己負罪拒否特権 Privilege against Self Incrimination」法務研究 報告書40集 3 号(1952年) 1 頁以下,安倍治夫「英米における自己負罪拒否特 権の形成」法律のひろば10巻 6 号(1957年)33頁,多田辰也「捜査の構造再考 序説─黙秘権の歴史的考察を手掛かりとして─」立教大学大学院法学研究 3 号

(1982年)1頁以下,澤登文治「自己負罪拒否特権の歴史的展開 ⑴─合衆国憲法

修正五条の意義」法政理論24巻 2 号(1991年)153頁以下,同「同(2・完)」同 25巻 1 号(1992年)124頁以下,小川佳樹「自己負罪拒否特権の形成過程」早稲 田法学77巻 1 号(2001年)121頁,伊藤博路「自己負罪拒否特権の確立期につい ての一考察─イギリス法を中心に─」帝塚山法学 5 巻(2001年)135頁以下,同

「植民地期アメリカにおける自己負罪拒否特権に関する一考察」帝塚山法学 6 巻

(2002年)203頁以下,同「合衆国憲法修正五条の自己負罪拒否特権の沿革に関 する一考察─独立後から合衆国憲法修正五条成立直後の時期までを中心にして

─」明治学院論叢705号(2003年)205頁以下,中島洋樹「被疑者・被告人の供 述主体性 ⑴」法学雑誌51巻 1 号(2004年)54頁以下,同「同(2・完)」同51巻 2 号(2004年)165頁以下,伊藤博路「自己負罪拒否特権の起源についての一考 察─アメリカでの議論を中心にして」吉田敏雄 = 宮沢節生 = 丸山治編『罪と罰・

非情にしてこの人間的なるもの─小暮特雄先生古稀記念論文集』(信山社,2005 年)189頁以下,松倉治代「刑事手続におけるNemo tenetur 原則 ⑴─ドイツに おける展開を中心として─」立命館法学335号(2011年)138頁以下を参照。

(21)

1689年,ペンシルヴェイニアでは,領主の代理人である総督とクェーカー 教徒参議会との間で権力闘争が勃発した。「自由憲章」では,領主不在の 場合には総督に権力が帰属することになっていたが,「政府機構」では,

クウェーカー教徒参議会にも相当の権力が認められていた。クウェーカー 教徒参議会の委員であるジョセフ・ゴードンは,総督との権力闘争の中で 使用するために,「自由憲章」と「政府機構」のコピーを160部印刷するよ うにウィリアム・ブラッドフォードに依頼した。この印刷は正式な許可な く行われたものだった。「自由憲章」の印刷によって,領民は自己に保障 される権利について知ることができるようになったが,いかなる権限に基 づいて印刷を行ったかが問題となり,ブラッドフォードは総督の尋問を受 けることになった。この尋問の過程で,ブラッドフォードは誰が自分を訴 えているのかの開示を求め,また,自分で自分を罪に陥れることは苛酷で あり,受け入れ難いことであると抗弁した。

自己訴追の法的義務づけの禁止は,自己負罪拒否特権の目的の一つであ る。したがって,グリズウォルド教授が紹介する挿話から,自己の主張が 自己負罪拒否特権の主張であることを明確には認識していなくとも,自己 に不利益な供述を法的に義務づけられることはないという法的利益の存在 が植民地時代の人々にも知られていたことがうかがえる。

しかしながら,グリズウォルド教授は拷問について具体的に検討してお らず,また,拷問に対する抵抗と自己負罪拒否特権の確立との関係につい ても明確な論証を示していない。すなわち,拷問の使用に対する抵抗とし て自己負罪拒否特権の主張がどのように機能するかは示されていないので ある。1637年のリルバーン事件と1689年のブラッドフォード事件を対置す ることによって,大西洋を挟んだ植民地アメリカにおいても職権による宣 誓に類似した手続が存在したことが示されているにすぎない31)

31) レヴィー教授も植民地時代の17世紀アメリカに自己負罪拒否特権の萌芽を見 ているが,植民地アメリカの各地で,自己に不利益な供述の強要の禁止や自己 訴追の禁止が当然のこととして認められていた訳ではない。すなわち,主張は されてもこの特権の存在が法的利益として尊重されていた訳ではないのであ

(22)

拷問と自己負罪拒否特権との結びつきは,拷問との戦いの中で自己負罪 拒否特権が形成されたとの理解32)のほかに,現在においても拷問を禁止す る作用を自己負罪拒否特権は有しているとの理解が示されることがあ る33)。しかし,供述を入手するために拷問が用いられた場合,自己負罪拒 否特権を主張することは有効な防御手段とはならない。事後的な救済とし ても,自己負罪拒否特権侵害を主張するよりは,非人道的な取り扱いを受 けたことを直接の根拠とすべきであろう34)。すなわち,自己負罪拒否特権 が自己負罪の法的義務づけを禁止する規定であると理解するならば,法的 義務づけとは構成できない拷問の禁止は,自己負罪拒否特権の保障で実現 することはできないことになる。要するに,自己に不利益な供述を獲得す る手段として拷問が用いられた場合には,不利益な供述という点ではなく,

端的に,拷問の使用に着目して基本権侵害がなされた構成することになる35)る。自己負罪拒否特権の起源に関する有力な見解によると,被告人に弁護人の 助力が認められるようになった19世紀に自己負罪拒否特権が被告人に保障され るようになったとしている。どのような形であれ自己負罪拒否特権が主張され た時期を起源と見るか,他の刑事手続上の権利と同様に明確な形で法的利益と して保障された時期を起源と見るかの違いとも言える。

32) Alfred C. Clapp, Privilege Against Self-Incrimination, 10 Rutgers L. Rev. 541, 544 (1956) ; R. Carter Pittman, The Colonial and Constitutional History of the Privilege Against Self-Incrimination in America, 21 Va. L. Rev. 763, 783 (1935) ; Louis C.

Wyman, A Common Sense View of the Fifth Amendment, 51 J. Crim. L., Criminology

& Police Sci. 155, 157 (1960) ; Nathan April, A Reappraisal of the Immunity From Self-Incriminaton, 39 Minn. L. Rev. 75, 76 (1954).

33) Donald B. Ayer, The Fifth Amendment and the Inference of Guilt from Silence : Griffin v. California After Fifteen Years, 78 Mich. L. Rev. 841, 849 (1980) ; Roy Morelamd, Historical Background and Implications of the Privilege Against Self- Incrimination, 44 Ky. L. J. 267, 274 (1956) ; Gordon Van Kessel, Prosecutorial Discovery and the Privilege Against Self-Incrimination : Accommodation or Capitulation ?, 4 Hastings Const L. Q. 855, 868-869 (1977).

34) 供述を入手する目的で拷問が用いられた場合,自己負罪拒否特権侵害ではな く,デュープロセス侵害と構成することになる。

35) Brown v. Missippi, 297 U.S. 278 (1936) ; Ashcraft v. Tennesse, 322 U.S. 143

(23)

②自己負罪拒否特権と議会の委員会による調査・質問

グリズウォルド教授の議論は,拷問の廃止から政治的意見の暴露の義務 づけに対する批判へと向かう。グリズウォルド教授は第一論文を自己負罪 拒否特権の歴史的経緯から説き起こしているが,頻繁に引用されるフレー ズも含めて,この部分に関する議論は第一論文全体の中で導入部分を占め ているにすぎない。1950年代半ばという時代を背景にしたグリズウォルド 教授の議論は,実は議会の委員会による調査・質問と自己負罪拒否特権の 関係を主題としているのである。拷問の例として星室裁判所や高等宗務官 裁判所で用いられた職権による宣誓をあげていたことを前提にすると,著 書が執筆された1950年代の非米活動委員会の公聴会の手続は,現代におけ る「職権による宣誓」であると示唆することにグリズウォルド教授の狙い があったと推察できる36)

政治的意見も含む内心の尊重は個人の尊厳と結びつくことになるが,こ の点に関してグリズウォルド教授は次のように主張する。すなわち,「犯 罪を犯した者は,処罰を受ける必要がある。しかしそれは,被告人が犯人 であることを指し示す証拠が提出され,かつ,適切な裁判所の公正な裁判 の中で,提出された証拠が十分に吟味された上でなければならない。自己 を有罪に導く証拠の提出を被告人に義務づける手段として,拷問,宣誓,

裁判所侮辱罪に問われるとの威嚇を用いてはならない」と37)

個人の思想・良心や政治的意見が当該訴追の核心である場合,当の被告 人以外には証拠の入手源がないということも珍しくはない38)。グリズウォ ルド教授によれば,自己負罪拒否特権は,まさにこのような文脈の中で大 きな役割を果たしてきたと論じる。したがって,自己負罪拒否特権が,異

(1944) ; Malinski v. New York, 324 U.S. 401 (1945) ; Spano v. New York, 360 U.S.

315 (1959) ; Rogers v. Richmond, 365 U.S. 534 (1961).

36) Mark Berger, Taking the Fifth 27は,非米活動委員会における尋問はエリザ ベスⅠ世下の高等宗務官裁判所の取調べを想起させるとしている。

37) Id. at 7-8.

38) Id. at 8.

(24)

端信仰や政治犯罪の訴追に対する抵抗の中で主張されてきたのであり,思 想の自由の砦として機能してきたことを強調する。逆に言えば,思想や意 見のみを理由に人を訴追しようと企てる政府にとって,自己負罪拒否特権 は大きな障害物になるのである。

確かに,時の権力にとって都合の悪い言論をどこまで許容するかは,そ の社会の自由度を示すバロメーターとなる。別言すると,自由社会におけ る権力は,批判的吟味にさらされて初めて機能する。時の権力にとって都 合の悪い言論が犯罪とされる社会において,その旨の供述を義務づけると いうことは,自分で自分を罪に陥れることを意味する。したがって,自己 負罪拒否特権がどこまで尊重されるのかということは,その社会の自由度 の指標とも言えるのである。

しかしながら,異端信仰や政治信条は,今日においては合衆国憲法第一 修正の守備範囲となっている。したがって,自己負罪拒否特権と拷問に関 するグリズウォルド教授の議論は,自己負罪拒否特権がかつて果たしてい た役割を論じたものであって,そのまま現在の自己負罪拒否特権に当ては まるものではないのである39)

議会の委員会による調査・質問に関する議論では,実例を示すことは意 識的に回避されている。そのかわり,二つの仮説事例を用いて議論が展開 されている。第一論文の主題はこの部分にあるが,後の文献はこの箇所に ついては特に着目していない40)。マッカーシズムの影響を受けた直後の議 論ということもあり,時代の制約を大きく受けている議論である。そのた めもあって,自己負罪拒否特権の正当化根拠といえるほど精緻な論理は展 開されていない。

二つの仮説事例とは,①比較的平穏な時代であった1930年代半ばに共産

39) もっとも,今日においても自己負罪拒否特権は内心における意思形成を保護 するとの主張は有力である。この考え方を洗練させた代表的な論者として,

ガーシュタイン教授がいる。

40) 後述のとおり,二つの仮説事例を用いて論証しようとした議論を,後にグリ ズウォルド教授自身が修正を加えていることも大きな要因であろう。

(25)

党に所属し,現在は離脱している大学教員に対する議会の委員会による質 問と自己負罪拒否特権の主張と,②許可をしていないにもかかわらず,あ る活動家が賛同者として自分の名前を使用しているのに対して反対もせず 認容し,この活動組織が共産党の下部組織であることも認識していなかっ た非共産党員の大学教員に対する議会の委員会による質問と自己負罪拒否 特権の主張である。

第一事例では,Smith Actの下で多くの共産党員が訴追されているとい うことが議論の前提になっている。このような文脈の中で,かつて共産党 に所属していたのかという質問への回答は自己を負罪に導きうるため自己 負罪拒否特権の主張が認められるべきであるとしている。この事例の大学 教員は共産党にかつて所属したことがあるだけであり,犯罪活動には一切 関わっていない。しかも,共産党への所属それ自体は犯罪ではない。それ にもかかわらず,自己負罪拒否特権の主張を認めるべきであると論じるの は,所属の自認は刑事訴追を導く証拠に捜査官を誘うことにつながる可能 性があるからであるとする。

第二事例では,大学教員は共産党に所属していないため,所属の有無に 関する質問に対して「否」と返答することに問題はないように見える。し かしながら,この質問に回答すると,下部組織への所属について説明しな ければならないはめになり,却って共産主義者との共謀の立証に使用され るかもしれない証拠を自ら提供することになってしまう。したがって,共 産党への所属に対する質問に対して「否」と正直かつ正当に回答できる場 合であっても自己負罪拒否特権を主張することは正当であるとする。

しかしながら,第一事例では,具体的にどのような犯罪の訴追につなが るか,また,その恐れはどの程度強いのかが示されていないため,抽象的 な自己負罪の主張を排除する今日の議論とは,そのままでは整合しない。

情況証拠が他に積み重ねられることが議論の前提になっている。さらに,

仲間を窮地に陥らせないために自己負罪拒否特権を主張することがあげら れているが,仲間の窮地は自己の負罪とは関係のない事柄なので,この指 摘は自己負罪拒否特権の正当化根拠にはならない。第二事例では,質問に

(26)

一致する事実は存在しないため,返答の拒否は自己負罪拒否特権の行使と してではなく,黙秘権の行使と構成すべきであろう。また,第一事例と同 じく,共謀の恐れがどの程度現実的なのか明確に示されてはいない。

グリズウォルド教授が二つの仮説事例を提示したのは,自己負罪拒否特 権は無実の者を保護するために存在するということを例証するためであ る。自己負罪拒否特権が保護するのは無実の者かそれとも罪を犯した者か をめぐる議論は今日まで解決されていない問いである。しかしながら,グ リズウォルド教授の仮説事例は場面が非常に限定されており,通常自己負 罪拒否特権の主張が問題とされる事例とは異質である。すなわち,1950年 代半ばのアメリカ合衆国という時代と地域に規定された議論である。グリ ズウォルド教授自身,1960年の論文で「自己負罪拒否特権は無実の者を保 護する」という主張に修正を加えている。すなわち,自己負罪拒否特権は 基本的に無実の者を保護するために設計されたと考えるのは失当であると しているのである41)

第一論文を締めくくるにあたり,グリズウォルド教授は議会の委員会の 役割に言及している。すなわち,委員会の調査権限が広範囲に及ぶことを 認めたとしても,委員会の調査権限を一人の人間が行使することの危険性 を指摘する。この指摘自体は勿論正当である。しかしながら,第一論文全 体の議論は必ずしも理論的なものではなく,自己負罪拒否特権の重要性を 高らかに宣言する以上の理論は示されていない。もっとも,グリズウォル ド教授の目的は自己負罪拒否特権の重要性を強調することにあり,自己負 罪拒否特権の存在根拠は第一論文の射程に含まれていなかったということ はできる。

以上の通り,合衆国最高裁がしばしば引用するフレーズは,グリズウォ ルド教授の著作の一部分を構成するものに過ぎず,また,グリズウォルド 教授の見解も,今日においてはやや根拠に乏しいと考えられるところがあ る。しかしながら,グリズウォルド教授が著作の中で示した自己負罪拒否

41) Erwin N. Griswold, The Right to be Let Alone, 55 Nw.U.L.Rev.216 (1960).

(27)

特権の歴史的経緯や委員会の役割に関する議論の背後にある発想は,

Murphy判決で合衆国最高裁が掲げた自己負罪拒否特権を支える理念と土

壌を共有していると言える。そこで,次に合衆国最高裁が掲げた自己負罪 拒否特権の正当化根拠について検討を加える。

.自己負罪拒否特権と弾劾主義

合衆国最高裁は自己負罪拒否特権の正当化根拠として,合衆国の刑事司 法制度が糺問主義ではなく弾劾主義に支えられていることを掲げた(正当 化根拠②)42)。そしてこの弾劾主義は,国家と国民の間に公正なバランスが 保たれることを要求する(正当化根拠④)。すなわち,弾劾主義の下では,

個人を有罪にしようとする国家が,この個人の協力を得ることなく,独力 でこの個人に不利益な証拠を集め,裁判所に提出する義務を負う。した がって,被告人の唇から自己負罪供述を引き出すよう義務づけ,これによ り得られた供述を不利益な証拠として公判に提出することは禁止される。

このように,自己負罪拒否特権は国家と国民の間の公正なバランスを保つ という弾劾主義の目的を達成するための道具としての性格を有するのであ る43)

自己負罪拒否特権と弾劾主義との結びつきを強調する発想は,合衆国最 高裁判例の中で繰り返し示されている。例えば,Culombe判決は44),「弾 42) ベンサムが批判の対象とした狐狩り理論は,狐狩りと弾劾主義に支えられた 刑事司法制度との類似性を示すことで自己負罪拒否特権を理論づけようとした 発想であることが指摘されている。すなわち,狐狩りにおいて,猟師が狐狩り の際に用いてよい方法と用いてはならない方法がルールで定められているのと 同様に,弾劾主義の制度の下,刑事手続に関するルールが被疑者・被告人を訴 追する際に用いることができる手続を定めている。また,両ルールは,公正と いう観念に基礎づけられている点も共通する。See, David M. OʼBrien, The Fifth Amendment : Fox Hunters, Old Woman, Hermits, and the Burger Court, 54 Notre Dame L. Rev. 26, 36 (1978).

43) Id. at 35-41. 渥美東洋『全訂 刑事訴訟法(第 2 版)』(有斐閣,2009年)199 頁以下。

44) Culombe v. Connecticut, 367U.S.568, 581-582 (1961).

(28)

劾主義に支えられた刑事司法制度の核心は,個人を有罪にし,処罰しよう と企図する国家が,この個人の唇から不利益な証拠を引き出すよう義務づ けるという簡易かつ残酷な手段に依拠することなく,独力で不利益な証拠 を提出するよう求められている,ということである」と判示し,Rogers 判決が45)「合衆国の刑事司法制度は弾劾主義であって糺問主義ではない。

すなわち,国家は独力かつ自主的に採取した証拠に基づいて被告人の有罪 を立証しなければならない。したがって,被告人に義務を課して,被告人 自身の唇を用いて有罪立証を行うことは禁止される」と判示した。同様の

表現はMiranda判決の中にも見られる46)。すなわち,「政府は国民の尊厳と

完全性に敬意を払わなければならない。これが自己負罪拒否特権を基礎づ ける憲法上の価値である。したがって,国家と国民の間に公正なバランス を保つためには,政府が全ての負担を負わなければならない。人格の不可 侵性を尊重するため,我が弾劾主義の刑事司法制度は,個人の処罰を企図 する政府が,独力で不利益な証拠を提出することを要求する。したがって,

被告人に対し,被告人自身の唇から不利益な証拠を提出するよう義務づけ る残酷かつ簡易な方法を採用することは,弾劾主義の下では禁止される」

と判示している。

弾劾主義と自己負罪拒否特権が結びつくことにより,自己負罪拒否特権 は,政府と国民との間に公正なバランスを保つための調整弁として機能す ることになる。そして,法的義務づけの有無と程度が,自己負罪拒否特権 によって確保される政府と国民の間のバランスをはかるバロメーターとな る47)。自己負罪拒否特権侵害となる法的義務づけの程度は,全事情を総合 的に判断して決定することになる48)

しかしながら,弾劾主義と自己負罪拒否特権が結びつくものだとしても,

政府と国民の間の公正なバランスを保つという弾劾主義の目的を果たす上 45) Rogers v. Richmond, 365U.S.534.

46) Miranda v. Arizona, 384U.S.436, 460.

47) OʼBrien, supra note 42 at 40.

48) United States v. Washington.

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