静岡大学教育学部研究報告 (教科教育学篇)第32号 (2001.3)137〜
147 137
原体験 における身体の関わ りに関する研究
A Study on the Physical Relations in the Proto-experience
新 保 淳
Atsushi SHIMBO
(平成12年10月
10日
受理)Abstract
Japanese education has taken knowledge seriously.The need of the natural experi―
ence is said as a reflection to it.It is said that a proto―
experience influences a person's idea
even during the experience.This thesis is reexanlined about the proto‐
experience and is explained about thephysical part in the idea follllationo And this thesis is exanlined about the influence which physital contrOl exerts on the idea.
Our recognition isn't concluded by each function of the five senses.These receptive
vessels function by relating to the mutuaHty as a system.This system is the basis of our world recognition.A proto‐
experience is the starting point to compose this system. A human being recognizes the world continuously by moving this proto‐experience to the starting point。
Each view of life is made by the way of the recognition of this envirorlment world.
An individual idea is controlled intentionany if this proto‐ experience is restricted by
the political powero We must recognize the danger that it has like this.Enough prot9‑experience is necessary so that edication may forllrl a human being better.
1.緒言
昨今 の「机上 の学習へ の偏 り」=「知識偏重」に対 す るア ンチテーゼ として取 りざた され る事 柄 として、「 自然体験 」の必要性が あげ られ る護1ヽ そ こで は、青少年 の 自立や心の発達 のために は、 自然体験 や生活体験 な どの「体験」が重要であ る とし、 しか も単 な る「 自然体験」や「生 活体験」だ けです ませ るので はな く、 それ らが後々 に何 らかの意味 を持 った ものにな るような、
いわ ば「原体験」であ る ことが求 め られてい る註a。 確 か に、 自然探索 をす るだ け、 あるいは自 らの生活 に関わ る体験 を増 やすだ けで は、 その個 々人 のその時 の「体験」が、後 に、彼らの 自 然認識 や社会認識 に対 して、果た して どの ような意味・ 意義 を保証 す るのか は、不透 明な まま で あ る と思われ る。
ここで言 う、一 つの体験が後々 に意味 を持 つ ようになる とい う「原体験」 は、様 々 な場面で 使 われ る用語 であ る。例 えば「彼 のあの行動 は彼 の原体験 に基づ く」 とか「思者 のルー ツを彼
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新 保
女の原体験 に求める」というレベルの ものか ら、「その ときどきの母親の行動 こそが、子 どもの 原体験が『楽園』の旗の下 に立つかそれ とも『地獄』の印を帯びるかについて、決定的な影響 を与 えるか らである」(マー リオ・ヤコー ビ、p.8)と いうように、学問的分野で も散見 される。
また辞書 における「原体験」の定義 を見て も「人の思想形成に大 きな影響 を及ぼす幼少時の体 験」
(広
辞苑第4版)と あ り、人間がある体験 をすることによって、その個人の後々の行動や思 想 までをも規定することになる、重要な「体験」であることを示唆 している。このようなことを受 けて、教育の分野では、山田 (1992)、 鈴木 (1996)、 森本 (1998)ら が 原体験 をキーワー ドにした調査・ 研究 を行 っている。そこでは、 これまでの学校教育が、人間 の五感の内で も「視聴覚」 という、「生存 という視点で見 ると、アクセサ リー的感覚」
(小
林、p.54)だ けを重視 してきてお り、それ以外の人間に生得的に与 えられた他の三感、すなわち触 覚・ 嗅覚0味
覚 といった感覚機能 を加 え、かつ、それ ら全てを十全 に使 ってこそ「体験 に裏打 ちされた生 きた知識が判断力、表現力、創造力 を豊かにする」
(小
林、p.54)も のになると指摘 している。そしてこうした体験 を原体験 と呼び、それに「生物やその他の自然物、あるいはそ れ らにより醸成 され る自然現象を触覚0嗅覚・ 味覚 をはじめ とする五官(感
)を用いて知覚 し た もので、その後の事物・事象の認識 に影響 を及ぼす体験のこと」(小
林、p.54)と い う定義 を 与 えている。確かに、「彼のあの行動 は、彼の これ これの原体験 に基づ く」というように、一つの行動に対 してある特定の原体験 を抽出 し、それに因果関係を決定論的に求めることは困難であることが 予想 され る。 そのため「五感 を使 った体験」 という網羅的な条件設定 を行 うことで、後々には 子 ども達の「感性・意欲 などの生 きる力や概念形成の基盤」
(小
林、p.55)と なるであろう、 と い う認識 に留 まることは、現状では止むを得ないものであると思われる。しか しなが ら、ある原体験 という「基盤」が、 どのような機序
(メ
カニズム)をもって、後々 の我々の「思想形成」にまで影響 を及ぼすのかについて考えることは、原体験の持つ意義・ 意 味、あるいはその必要性 を再確認するうえで重要であると思われる。本論文では、 まず、原体験 その ものについて今一度検討することによって、それを「基盤」
として派生するであろうメカニズムを、「知覚」と「自己形成」の関係に求め、さらには思想形 成 における「身体」の役割 を明 らかにしたい と考 える。そしてこれ らのこのことか ら、「身体」
を管理することが、思想形成 を一定の方向に導きうる可能性 を持つことについても、言及 して みたい と考 える。
2.原体験の持つ意義
原体験 とは何であ り、またその意義 は、どこにあるのであろうか。このことを検討する上で、
い くつかの文章 を検討材料 として考察 をすすめることにする。
まず山田の以下の文章か ら、原体験 について探 ってい くこととする。
今 まで視聴覚教育の成果があがってきたのは、触嗅味の原体験が十分になされていたためと 思われ ます。人間は外界の情報の85%以上 を視覚 と聴覚の二つの感覚か ら得ているといわれて います。 このため視聴覚教育が重要視 されたのは当然のことです。 しかし、視聴覚教育が有効 なのは、視聴覚教材の内容
(素
材)と学習の基礎 となる体験 とが結びついた ときでぁ り、学習 の基礎 となる体験が乏 しい児童・生徒への視聴覚教育は考え直す必要があると思います。(山田、原体験 における身体の関わ りに関する研究
1990、 pp.343‑344)
まず山田は、現代の子 ども達が、実物 にまさに自分 自身の「身体」 を通 して「触れる」 こと よりも、「視
(見
)る」 ことや「聴(聞
)く 」ことで知識 を得ているという現状認識か ら、 これ までの視聴覚教育の成果 は、子 ども達が、 自然 と十三分 に触れあうことで得た原体験があつた か らこそ教育効果があったのであ り、 これか らのそうした原体験 をベース としない子 ども達 に 対 して、果た して従来のような視聴覚教育が効果 をあげるか どうかに疑間を投 じている。確かに「知識」 は、現実世界が文字や絵 あるいは図 として記号化 されることで、人間は蓄積 す ることがで きるのであ り、その伝達 は視覚や聴覚 によってなされると言 えよう。 とするな ら ば、その効率的な伝達方法である視聴覚 を使 うことは、文化の維持・ 伝達方法 としては、妥当 な方法選択である。 しか しなが ら「知識偏重」の教育 は、「触・嗅・味」 という三感 を含めない 世界で成立す るものであ り、 この ことは環境世界 と人間の五感の関係 を希薄化 させ るものであ ることを、山田は示唆 している。そしてまた、その ことへの危惧が、原体験 の必要性の根拠 と して述べ られている。
こうした危惧 は、今 日の科学技術 の発展によって もた らされた「仮想現実」の世界 において も、類似の問題 として取 り上 げられる事柄である。例 えば、荒俣 は、今 日訪れた「技術者的社 会」
(機
械 とソフ トの特性 を知 りつ くした者 を頂点 とする社会)を
支 えている世界認識が<抽象 化>にあるとし、それによって、例 えば「父母」 とい う、 ときには微笑 させ、 ときには涙 ぐま せ るほどに重い一語 をすべて単なる記号 と化 し、極カ リア リティや身体性か ら引 き離す ことで、操作性や管理可能性 を獲得 してきた と述べている。 さらには、 こうした抽象化 された世界 は、
リアルな原素材の復元力 を弱める傾向を持つ として、以下のエ ピソー ドをあげている。
19世紀半ばのビク トリア期イギ リスでは、室内のフラワーアレンジメン トすなわち花瓶 に花 をいけることが大流行 した。深窓の令嬢たちはこぞって切 り花 をいけるアー トに熱中 したのだ が、そのかわ り、花 は葉 と茎 しかな くて水中にある生物だ と信 じこんでいた。植物が本来 は根
をもち大地 に生 えている事実 を、彼女たちはほ とん ど知 らなかったのだ。
(荒
俣、p.309)このエ ピソー ドは、「視聴覚」において投影 された、 まさに「切 り取 られた現実」が認識の材 料 とされていることを提示するものであ り、 この「深窓の令嬢」の似姿 を、我々 は現代の原体 験がない (あるいは少ない)子ども達の将来の姿 にも投影す ることが可能であろう。
この視聴覚、なかで も視覚の優位性 に対 して、触覚 (こ こでは狭い意味での触覚ではな く、
筋肉感覚や運動感覚 も含んだ感覚=体性感覚)の持つ意味 について、中村 は、以下のように述 べている。 まず、 これまでの視覚優位 は、実は「視覚の働 きについて、他の感覚 とくに触覚 と の協働 によるものを、純粋の視覚、単なる視覚の働 きととりちがえている」(中村、1979、 p.106)
ことと、 もう一つは「諸感覚の統合が もっぱら求心的に視覚の側 にだけ考 えられていること」
(中村、1979、 p.108)に あるとしている。そして「 もとはといえば触覚
(体
性感覚)が視覚 を 教育 したのであるが、一たび教育 された視覚 はたちまち触覚(体
性感覚)を導 き、方向づけ、その関係が習慣化 され る」(中村、1979、 p.131)のであ り、基体的なものは体性感覚 にあると している。例 えば我々が空間を認知する場合、それは視覚 によってなされているように思いが ちであるが、 この中村の指摘 に従 うな らば、触覚
(体
性感覚)に よつて蓄積 された体験 な くし140
新 保て視覚の認識 はあ りえず、 もしそうした触覚
(体
性感覚)を用いた体験 を経ていない とするな らば、その現実の空間は、視覚 に訴 えかけて くる光刺激のみであると言えよう。そしてこのこ とは、山田が指摘する「今 までの視聴覚教育の成果があがってきたのは、触嗅味の原体験が十 分 になされていたため」 ということを裏付 けるものであると考 えられる。以上の ことより、原体験 は基体的な感覚受容 においてなされる体験 に近い ものがあると思わ れる。 そして、そこでの原体験 を始点 として、後の事象あるいは事物認識 を行っていると予想 されるのである。
次に、小林の以下の文章 を検討材料 としてみよう。
原体験 は従来の教育 の視点で見 る と、教育的意図や方向性 に欠 けるとして評価 されていな かった ものである。
(小
林、p.54)教育の もつ内実の一つ としてあげられることに、ある意図をもって人間に働 きかけることに よつて社会的な価値 を実現することがある。小林 は原体験 を教育に取 り入れることを前提 とし て議論 を展開 している関係か ら、例 えば「原体験 は360° の方向性 をもった ものであるので、原 体験 それ自体 は教科教育的ではない」
(小
林、p.54)と いうように、原体験 は、教育への直接的 な有用性、すなわちある価値 を実現するような、教育的意図や方向性 を持ち合わす ものではな い としている。確かに原体験 は、「戦争体験」や「冒険体験」といった、非 日常的な「体験」か ら、ある個人の人格形成 を説明するための根拠 として使われることが多々あることか ら、一般 的な原体験のイメージが、そうした ものに偏 りがちであることは、確かである。しかしなが ら、原体験 を始点 とする「360° の方向性」 ということにこそ重要な意味があるのではなかろうか。
というの も、後 に述べることになるが、我々の人間の多様性 は、実はこの「360° の方向性」が 保証 され、それを担保 として実現 され る可能性 を持っていると考 えるか らである。 また こうし た視点か らして も、原体験が「後の事物・事象の認識 に影響 を及ぼす体験のこと」
(小
林、p.54) であるとい う言説を覆す ものではない と言えよう。そこで、次にこの「後の事物・ 事象の認識 に影響」 というメカニズムについて言及 してみる ことにする。
3.原体験の自己展開性
前節で も述べたように、我々人間は、原体験 を始点 として、後の事象あるいは事物認識 を行っ ていることが予想 されるとしたが、このことに大 きな関わ りをもつ と考えられることに、「記憶」
がある。 そこで、 この記憶 について、 まず概観 してみることにする。
記憶 には、「記銘」という覚 えこむ過程 とそれを覚 えてお く「保持」過程 と、 これを再生する
「想起」 とよばれる三つの過程があると言われている
(塚
原、p.130)。
この内の「保持」について考 えるうえで、例 えばコンピュータという具体物 を想像するならば、
我々はあたか も何か、ハー ドディスクのような安定 した物理的な脳の「組織」に、それまでの 体験が蓄積 されるように思いがちである。 しか しなが ら「脳の構造物質は速いスピー ドで破壊 され、再生産 されている。これを代謝回転 というが、代謝回転のスピー ドは、DNAを除いては 二週間以上安定な物質 はない」 とされ「人間の終生におよぶ記憶 を担いうるものは、その安定 性 において、個々の物質 にはとて も求むべ くもな く、唯一の考 えることができる構造は、神経
原体験 における身体の関わ りに関する研究
回路の結合部位であるシナプスの構造 とい うことになる」
(塚
原、p.89)。すなわち、例 えばある原体験 をした と仮定 して も、それは脳 に物理的に保持 されるのではな く、ある意味で非常 に「弱 さ」 を持 った形で しか保持 されないのである。 ここで異分野 につい ての検討ではあるが、以下の金子の「弱い情報」 についての考察 は、上記の問題 に対 して参考
となるであろう。
社会的な状況 において も、経済的な局面 において も、不都合だ とお もわれていた こと、で き ない とお もわれていた こと、 とるに足 らない とお もわれていた こと、それ自体ではたいした意 味がない といった<弱い情報>が自発的に自由に発信 され るべ きである。それがネ ッ トワーク をかけめ ぐり、それにたいして誰かが解決法や提案 を出 した り、それに誘発 されて新 しい情報 が次々に出て くるとい う「つなが り」が形成 される必要がある。そうしなければ、新 しい展開 は生 まれない。
(金
子、1998、 p.46)ここで注 目すべ きは、「弱 さ」があるが故 に、「つなが り」が形成 され うるということである。
前述 した ように、原体験 は、大 きな衝撃 をともなって脳 に記憶の痕跡(エングラム)と して「保 持」 され ることが一般的なイメージであろう。 また こうした視点か ら、原体験がその「後の事 物・ 事象の認識 に影響 を及ぼす」 ことの要因 を、非 日常的な体験が持つ「強 さ」 に求めがちで ある。 しか しなが ら、一方で、そうした ものだけを原体験 として捉 えることは、原体験の持つ 一面性 を、特化 しす ぎるように思われる。 とい うの も、従来の「強 さ」 を基盤 として原体験か ら導 き出され る「後の事物・ 事象の認識 に影響 を及ぼす」 ということが、あまりにある個人の 思想傾向を限定的な視点か ら見なし、その個人 をステレオタイプ化 して捉 えるおそれがあるか らであ り、 またそれによって、原体験の もつフレキシビリティを覆い隠す可能性 をもつ と考 え られる。
̀
これ らの ことを金子の「 ヒエラルキー 0ソ リューション」 と「 コミュニテ ィ・ ソリューショ ン」という考 えかたを援用す ることで、 さらに考察す るな らば以下のような様相が見 えて くる。
「 ヒエラルキー・ ソリューション」 は「権限 と強制力 をもつ第二者が統制す る」
(金
子、1999、p.160)こ とで、ある問題の解決 をしようとす ることであ り、「強い」原体験 においては、「強 さ」
が後々の個人 を「統制」 してい くという点で類似が見 られ る。一方「コ ミュニティ・ ソリュー ション」 とは、以下の「 コモ ンズ」 を想定することで、問題の解決 を図ろうとする方法である
(金
子、1999、 p.37)。0人々が 自発的に集 まり、情報、技術、問題 な どを持ち寄 る
・ 共有 された情報が編集 され、その ことでコ ミュニティの何かが変化 し、新 しい関係や意味が 出現する
0持ち寄 った情報や変化の経験が、蓄積 され、共有資源 となる
・ 具体的な成果が上が り、各 自が果実 を持ち帰 る
この ことか ら、た とえ「弱い」日常的な活動であつた として も、それ らを「身体」という「コ モ ンズ」 に蓄積 させ ることによつて、新たな「つなが り」 を求めるネ ッ トワークが展開され る 可能性 を秘 めていることを、イメージす ることがで きると考 えられ、 ここに原体験 の持つ「 自
新 保
淳己展開性」があると思われる。
佐々本 は、「想起」 について、以下のような考察 を行 っている。
ある種の情動状態 において記憶 した ことを、同一の状態が再び喚起 されるとき最 もよく想起 で きる。 またある状況下で記憶 した ことは、同 じ物理的状況に置かれた ときに初めて生 き生 き
と思い出す ことがで きる。いずれ も記憶 という現象が、 こころに『貯蔵』され、出し入れされ るものではな く、われわれの現在の活動全体 (中略)と有機的にかかわって初 めて十全 に存在 するものであることを示 している。
(佐
々木、1992、 p.248)この佐々木の考察は、前述の「つなが り」について、さらに説明を与 えるものであると思わ れる。すなわち、連続的である認知 システムの原点 (スター ト地点)である原体験が、「同一の 情動状態」や「同 じ物理的状況」という契機 において、「想起」されるだけでな く、そこでの蓄 積が、 また新たな活動方向を求めて展開するのである。いわば「情報は (中略)や りとりを交 わす過程の中ではじめて、情報 に意味がつけられ、価値が発見 され、新 しい解釈 (中略)が生 まれて くる」
(金
子、1992、 pp.122‑123)の と同 じように、原体験が「想起」される(あるいは それが意識 にのぼ らない ものであるとしても)に留 まらずに、そこでの新たな体験 を次なる活 動へ と発展 させ ることになると考 えられる。 ここに常にネ ッ トワークを張ろうとするベク トル を持つ、原体験の意味あるいは意義があると考 えられる。さらに、 こうした「原体験の自己展開性」 という状況を、西垣の「動物 とは本来、環境世界 か ら整合的なアフォーダンスを受 け取 りなが ら、少 しずつォー トポィェティックに自己を形成 し、成長 してい くもの」
(西
垣、pp.200‑201)と いう記述 に求めるとするならば、 この「原体験 の自己展開性」 というメカニズムはどのように説明できるであろうか。以下、この西垣の記述 を手がか りとすることによって、 さらに考察 を深めることとする。4。 原体験 と自己形成の関係
まず西垣が使用 した、アフォーダンス理論 とオー トポィェーシス理論 について、概観するこ とか ら始 めることとしよう。
まず、アフォーダンス理論であるが、 これは、ジェームス・ ギブソンというアメ リカの知覚 心理学者 によって、1960年代 に完成 された ものである。端的にこのアフォーダンスを述べるな らば、それは「環境が動物 に提供する『価値』のこと」であ り「良いものであれ、悪いもので あれ、環境が動物 に与 えるために備 えているもの」
(佐
々木、1994、 p.60)である。「床 はそこ に立つ ことを、あるいは歩 くことをアフォー ドしている」のであ り、「壁 はあなたの姿や声を、外の世界か ら隠す ことをアフォー ドしている」
(佐
々木、1994、 p.62)の である。さらに言 うならば、アフォーダンスは、「刺激」ではな く「情報」であ り、その「情報」を発 見するためには「全身での経験が必要な場合 もある」
(佐
々木、1994、 p.66)も のなのである。こうしたアフォーダンス理論が成立するのは、我々が生 きている環境世界の素材 じたいの物理 的性質がそれほ ど変化 しない とい う前提があるか らであ り、「 ヒ トもふ くめたすべての動物の身 体 は、アフォーダンス理論が説明するような方法で知覚・行動するように構成 されている」
(西
垣、p.195)のである。また五感 と知覚 との関係について、 このアフォーダンス理論では、五感 をそれぞれ個々の受
原体験 にお ける身体 の関わ りに関す る研究
容器 として捉 えるのではな く、受容器全体が連携 されることを前提 とした、「知覚 システム」と して捉 えられている。例 えば、視覚 を失 った人が歩 けるのは、「眼」とい う受容器以外の ものを システム として総合的に活用することによって、歩 くことを可能 にしているのである。 とする ならば、我々が よりよ く環境世界 を生 き抜 こうとするな らば、当然のごとく、 まず我々 を取 り 巻 く環境か らのアフォー ドを十三分 に受 け取 る必要があることと、さらには、五感のシステム 化 をいかに成 し遂 げるかが、 その必要条件であると言 えるとともに、そのためには五感全体 を 通 した体験 (≒原体験)の必要性 をも示唆するもの と言 えるであろう。
環境の中の情報 は無限である。 したがつてそれを探索する知覚 システムの動作 も生涯変化 し つづ ける。知覚 システムは、動物が どのような環境 と接触 してきたかによってまった く個′性的 であ り、情報の数 に対応す るように無限に分化 しうる可能性 をもっている。知識 を「蓄 える」
のではな く、「身体」のふ るまいをより複雑 に、洗練 された ものにしてゆ くことが、発達するこ との意味である
(佐
々木、1994、 p.81)。とい う佐々木の言葉 は、原体験 を始点 とし、そこを起点 として複雑化、洗練化 されてゆ く知 覚 システムの流れ を表現するものである。 また、アフォーダンスを受 け取 る基体 としての身体 が重要な意味 を持つ ことを、再確認 させ るものであると言 えよう。
次に、そうした「アフォー ドを受 け取 つた」主体が、 どのように自己形成するのであろうか。
以下、オー トポイエーシス理論 について見てい くことにす る。
オー トポイエーシス とい う用語 は、チ リの神経生理学者 ウンベル ト・ マ トゥラーナ とひ と時 の弟子であったフランシスコ・ ヴァレラが発明 した ものであ り、それはオー ト(自己)と ポイ
エーシス
(制
作)というギ リシア語か ら造語 されたシステム理論である。 この理論の特徴 を河 本 は「みずか ら行為す ることによって作 り出され る多元的世界 を形成する」(河
本、p.143)も のであ り、 さらには「認知の側か ら行為 を組み立てるのではな く、行為 その ものの継続 とい う 点で機構 を組み立てた」(河
本、p.150)のが、オー トポイエーシスであると述べている。西垣 は、オー トポイエーシス理論の観点か ら、<心 >は「自律的な閉 じたネ ッ トワーク」であ ると述べ、「妄想 とか猜疑 とか強迫観念 といつた ものは、まさに心が 自己回帰的な閉 じたネ ッ ト ワークだか らこそ生 まれる」のであ り、「 自分の創 りだ した先入観 にとらわれて対象 を解釈すれ ば、それは他の人の解釈 とはかけ離れた、<意味>を帯び」さらには「 その解釈が また、新たな ゆがんだ先入観 を自己回帰的に創 りだす」
(西
垣、pp.77‑78)と 述べている。 ここにまさしく自 己が 自己を創 りだす「 自己制作(創
出)」 の循環 プロセスが成立するのである。 また、「オー ト ポイエーシスが基本的な場面 とする経験 は、行為の継続がその ことによってみずか らの境界 を 変 え、自己その ものを繰 り返 し作 り出 し、それに応 じて環境 その ものを変 えている場面である」(河
本、p。129)と いう記述 もまた、西垣の理解 を補足す るものである。以上の ことよ り、「原体験 の自己展開性」 とは、原体験 を始点 とし、環境世界か ら様々なア フォー ドを受 け取 りつつ、それが さらなる自己 を創 りだす ことを繰 り返すのであ り、 またそこ における自己形成 は、他者 との「差異」 によって、すなわち他者の目か らするならば、それが その人の持つ「個性」であるとともに、一人の思想 をもった人間が創出されてい くメカニズム を持つ と言 えよう。
そして、再び原体験が何であるのかについて言及するな らば、それは、連続的である認知 シ
新 保
ステム と自己形成の原点であ り、かつ常にネッ トワークを張 ろうとするベ ク トルを持った もの である、 と考 えられ る。
5。 原体験 における「360° の方向性」の持つ意義
原体験 を自己形成の始点 として考 える場合、原体験の持つ「360° の方向性」 という特性 は、
大 きな意味 を持つ と考 えられる。それは、身体 に対する意図的な方向づけが、その人間の思想 形成のプロセスを方向づ ける可能性 を持つ とも考 えられるか らである。
市野川 (2000)は、歴史的に権力が生命 を「奪い取 る」 ことか ら「産出する」 ものへ と移行 してきていると述べているが、 この権力による生命の「産出」が、我々の原体験へ と及ぶ とき、
そこにどのような状況が もた らされるのであろうか。
以下、明治以降、 日本 に輸入 された「衛生思想」を素材 として、原体験の特性である「360°
の方向性」への権力の規制 について見てい くことにする。
日本の近代化 と衛生 システムの関係 について、小野 は以下のように述べている。
国家衛生論 は、個人個人の健康のみな らず、国民全体 を衛生 システムの中に組み込み、 日本 をして「清潔で、健康 な」文明国に仕立ててい く目論見であった。それは日本が19世紀の列強 のせめぎ合いの中にあって、先進国への仲間入 りをはたすための必要条件であった。病原菌の いない こと、清潔であることが、近代国家の条件であったのである。
(小
野、p.90)この近代国家へ向けての衛生 システムは、「人命 を人間個人 としてみるよりもむしろ、国家 と い う有機的全体」
(小
野、p.93)と して どのように達成す るかが課題であった。 ここに、個々人 の身体が、衛生国家 を構築するための手段 として、管理・統制 されていった ことが看取できる。もともとこの明治 における衛生 システム構築の発端がコレラの流行 にあっただけに、その対 策 は多岐 にわた り、検疫制度、隔離病院、警察制度 をふ くめた衛生行政機構の整備がなされる とともに、公衆衛生学・ 予防医学の発展、細菌学の進歩 と薬品の開発、大 日本私立衛生会のよ うな啓蒙機関、衛生組合のような町組織がつ くられた
(小
野、p.64)。 すなわち、衛生 システム 構築 において必要 とされる諸制度が、 コンラという目に見 えない細菌対策の必要性か ら、為政 者サイ ドの「力」によって作 り上 げられていったのである。ここに日本人の「清潔志向」の端緒があるともいえよう。 というのも、 こうして明治をスター トした衛生思想 は、今 日、異常な形で清潔 を志向する人々を生み出しているからである。例 え ば、抗菌グッズに代表 されるように、汚いものに触 りた くない という「不潔大嫌い」人間は、
日常品でさえも「抗菌」であることを望むのであるか ら、当然のごとく「不潔」なものを自分 か ら積極的に遠 ざけることになる。多 くの日本人が「臭い」を嫌い、「感触」を求めず、「視聴 覚」の心地 よさのみに走 るの も、 まさに「無菌無臭の環境 を『善』 とする社会的信仰」
(藤
田、p.208)に裏打ちされているのであ り、 また この ことは、原体験の「360° の方向性」への権力 の規制が導いた結果 とも考 えられよう。
さらに中村 は、古来、哲学では、五官の うち、視覚 と聴覚が上位に据 えられ、臭覚や触覚は 下位 に位置づけられてきた としつつ、特に近代 においては、五官のうちで臭覚が ことさらに貶 め られているという。 これは、わが国が明治以降、文明化の過程で押 し進めてきた近代的な原 理 にも結びつ くものであ り、その近代原理 を「動物か ら人間を区別 し、本能的ではな くて知性
原体験 における身体 の関わ りに関する研究
的、官能的ではな くて理性的たろうとする立場、
(中
略)一口にいえば、 自然的(原
始的)では な く文明的た とうとす る立場」(中村、1999、 p.26)であると述べている。ここでの問題 は、原体験の持つ「360° の方向性」が保証 されない ことにある。すなわち、衛 生 システムが生み出 した清潔志向は、我々が 自己形成 をなす うえで必要条件 と考 えて きた原体 験 という始点 に、管理 0統制 を加 えるものであ り、 こうして身体 に加 えられた管理・ 統制 は、
後々の思想形成 にもその影が及ぶ ことの一例であろう。
原体験の もつフレキシビリティを使 つて、身体 とい う「 コモ ンズ」 に蓄積 し、そ こでの「つ なが り」
(新
たなるネ ッ トワーク)を
経 ることで、 自己 を再構成 してい く。 こうした一連の流れ の出発点 を統制す ることが、その後の個々人の思想形成 に影響 を及ぼす結果が、先 に例 として あげた、衛生思想 を起点 とした、今 日の「超衛生志向」 に見て取れるのではないだろうか。一方で、管理教育への批判が高 まる中で、昨今の教育界 を見 るとき、そこに新たなる視点の 芽生 えを感 じさせ るものがある。それは従来の教科学習 との関連 にみる総合学習の類型の一つ である。
まず、従来の教科の学習指導に間接的に生かされてい くところの下 ごしらえ的土壌づ くりと しての総合学習がある。つ まり、意図す る何かを直接的に指導するという構 えを前面 に押 しだ す ことをしないで、ただ子 どもに豊富な活動体験 を積 ませてい く、その ことを第一義的なね ら い とするような総合学習である。(中略
)つ
まり、 自然や社会への認識 を深めてい くというよう な指導意図は背後 に退いている。(中略)子 どもが何かを知的にわかろうとそれな りに追究のめ あてをもって活動体験 を展開 してい くものではないか らである。(清
水、p.244)この総合学習の類型の一つは、原体験 の持つフレキシビリティを生かそうとす るものであ り、
小林、山田 らの考 え方に通ず るものであると思われる。教育 における価値実現 に向けてなされ るのが教科学習であるとす るならば、その基底 となる部分 を総合学習 にた くす ことは、 これ ま で一連の自己形成のメカニズムを見 る限 り妥当な ものであ り、 ここに原体験 における「360° の 方向性」の持つ意義があると思われ る。
6.結論
本論文では、 まず、原体験 その ものについて今一度検討す ることによって、それを「基盤」
として派生するであろうメカニズムを、「知覚」と「 自己形成」の関係 に求め、 さらには思想形 成 における「身体」の役割 について明 らかにしてきた。
まず原体験 は、基体的な感覚受容
(例
えば、五感(官
)と呼ばれているもの)においてなされ るものであ り、それを始点 とする「360° の方向性」へ と自己展開可能 なフレキシビリティを 持つ ことに、その特′性があることを明 らかにした。 さらには、そのフレキシビリティを使 い、
システム化 された知覚 によって獲得 された情報が、身体 とい う「コモンズ」 に蓄積 され、そ こ での「つなが り」
(新
たなるネ ッ トワーク)を経 ることで、 自己 を構成 してい くとい うベ ク トル を持つ とも考 えられる。 この ことが、「原体験 は、後の事物・事象の認識 に影響 を及ぼす体験の こと」であると言われ る所以であると考 えられた。また、その「360° の方向性」が何 らかの意図で統制 されるとき、それによってその統制 を支 配す る者の意図的展開を可能 にす る危険性 も学 んでいると考 えられる。そして これ らの この こ
新 保
とか ら、「身体」を管理することが、思想形成 を一定の方向に導 くうる可能性 を持つ ことになる と思われ る。
最後 に、五感の持つ今 日的意義 を改めて考 えるとき、中村の以下の文章 も参考 になろう。
いまや、近代原理 はもちろんの こと、文明にした ところで、人間の生存にとって唯一の絶対 的な価値ではな くなった。それ どころか、文明化の独走 によって、あらゆる意味で人間にとっ て生存の根源である生命力が、著 しく衰退 し希薄になってきている。 したがって、 もしわれわ れ人類が自己の根源的な生命力 を取 り戻 し強化 しようとすれば、 どうしても、自然のにおいと それを感 じとる能力 を、またそれ らの持つ意味 を新 しく見なおす必要が出て くる。(中村、1999、
pp.26‑27)
註及び引用・ 参考文献
1)平成10年版環境 自書の第3章「 ライフスタイル を変 えてい くために」 において、自然 との ふれあいを取 り込む生活 を送 るための方策 について、現代の青少年の体験の少なさ等の調 査 をもとに、詳細 な考察がなされている。
2)科学技術庁で も、科学技術振興調整費
(科
学技術会議の方針に沿 って、各省庁、大学、民 間等の研究能力 を結集 して 基礎研究等を総合的に推進するとともに、科学技術の総合的な 振興 にあた り、必要かつ重要な研究業務 に係 る総合的な調整 を行 うための経費)を
使 って、以下のような調査結果 を発表 している。
「次代の科学技術 を担 う青少年の創造性 を育成するための方策のあ り方に関する調査」
(科
学技術振興調整費ニュース、第170号平成9年
11月 13日
<http://w̲。sta.go.jp/sOnota/sOnota/711181.htinl>
そこで も、青少年期 に倉
J造
性 を育成するための環境が どのような ものなのかを探 るために、研究者 0技術者が青少年期 に自然科学系に興味 を抱 く構造 を分析するための原体験 に関す る調査 を行 っている。
1)荒俣宏 (1996):VR冒険記,ジャス トシステム
2)藤田紘一郎 (1999):清潔 はビョーキだ,朝日新聞社 3)市野川容孝 (2000):身体/生命,岩波書店,pp.21‑22
4)マー リオ・ ヤコー ビ (1988):楽園願望,紀伊国屋書店,p.8
5)金子郁容他 (1992):ボランティアー もうひ とつの情報社会,岩波書店
6)金子郁容他 (1998):ボランタ リー経済の誕生,実業之 日本社
7)河本英夫 (2000):オー トポィエーシス2001,新曜社
8)小林辰至,雨森良子,山田卓三(1992):理科学習の基盤 としての原体験 の教育的意義,日
本理科教育学会研究紀要,第33巻 2号 ,pp.53‑58
9)森本弘一,山本三恵子(1998):幼稚園教諭 における原体験 について,奈良教育大学教育研 究所紀要:第34号,pp.25‑34
10)中村雄二郎 (1979):共通感覚論―知の組 みかえのために一,岩波書店
11)中村雄二郎 (1999):正念場―不易 と流行の間で一,岩波書店
12)西垣通 (1999):こ ころの情報学,筑摩書房
原体験 における身体の関わ りに関する研究
13)小野芳朗 (1997):<清潔>の近代,講談社
14)佐々木正人 (1988):記憶 とか らだ,伊藤正男・佐伯朕編,認識 し行動す る脳,東京大学出 版会
15)佐々木正人 (1994):アフォーダンスー新 しい認知の理論,岩波書店
16)清水毅四郎 (1989):合科・ 総合学習 と生活科―五感 を通 した認識の成立 を一,黎明書房
17)鈴木誠(1996):原体験 を重視 した高校生の自然観察の実践一大学の附属演習林 を利用す る 一,生物教育,Vole36,No.2,pp.122‑131
18)塚原仲晃 (1987):脳の可塑性 と記憶,紀伊国屋書店
19)山田卓三 (1990):ふるさとを感 じるあそび事典一 したいさせたい原体験300集 ―,農山漁
村文化協会
20)山田卓三 (1998):か らだを感 じるあそび事典一五感 をひ らく原体験100集 一,農山漁村文 化協会