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超 克論 の原 点 と しての生 田長 江 「近代 の超 克 」

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超 克論 の原 点 と しての生 田長 江

「 近代 の超 克 」再考 ( その 2)

菅 原 潤 *

Re t hi nki ngof錨TheAt t e mptt oOve r c omet heMode r nM( 2)

J unSUGAWARA

A bs t r ac t :Chokol kut a ( 1 882‑ 1 936) i sr e ga r de dast hepi one e roft hea t t e mptt oove r c ome t he Mode r n be c a us e hi s ma j or book"The Pos t mode r n De cl a r a t i on "( HCho Ki nda i ha Se nge n" ) i ns i s t sonove r c omeoft hes t r uggl ebe t we e nc a pi t al i s m a ndcommuni s m a ndt hi s i s s ue i s t he s a me t hi ng a s Yo j ur o Ya s uda, t he l e ade r of t he J a pa n r oma nt i c s c hool , as s e r t s . Ka t s ui c hi r oKa me i , whobel ongst ot hi sgr oup, t hi nksa boutt hedi f f e r e nt t hi ngf r om I kut aa ndYas uda' sone・ Thepr ogr a mm ofconque r l ngt heMode r nf orKa meii s noneot he rt ha n t hene ga t i on ofc ommuni s m. Thi sdi s a gr ee me ntwi t h t hec onc e ptof ove r c oml ngt heMode r n i sha ndedove rt ot heoppos i t i onbe t we e nHi deoKoba yas hi

,

Te t s u J l r OKa wa ka mia ndKa meia tcons e r va t i onont hi se ve nc onc e p t . Ke ywor dS I OVe r COme , C a p i t a l i s m, Communi s m

1 .なぜ生田長江 を扱 うのか

前回までの議論では、「 近代 の超克」を論 じる際 に しば しば同様 の もの として言及 され る 「 近代 の超克」

と 「 世界史的立場 と日本」の 2 つの座談会が、実は い ささか方 向性 を異 にす るものだ とい うことが指摘 された。手短 に言 えば、「 世界史的立場 と日本」では 京都学派 の学者 が1 5 年戦争 中の 日本 を ビスマル ク時 代 の ドイ ツに重ね合わせ た上で ドイ ツ歴史学 ・哲学 を後 ろ盾 に して侵略戦争 を正 当化す る議論 を展開す るのに対 し、「 近代の超克」ではその よ うに無媒介 的

* 長崎大学環境科学部 受領年月 日 2 0 0 7 年 3 月 2 4 日 受理年月 日 2 0 0 7 年 5 月 8 日

に当時の 日本 の内外 の動向を西洋 のそれ に見立てる ことの困難 さが指摘 され るのであ り、それ ゆえ 「 近 代の超克」は現在 で も問題 になる 日本人のアイデ ン テ ィテ ィを真筆 に見つ める姿勢 を見せ る点で 「 世界 史的立場 と日本」 とかな り トー ンの異 なる議論 を し てい る

そ して この こ とは、双方の座談会 に出席 し ていた京都学派 の鈴木成高が 「 近代 の超克」の企画 を単行本 にす るに当た りこの企画 に寄せ た論考 を取

り下げた ことか ら窺い知れ る とい うのである。

だ とすれば、「 世界史的立場 と日本」とは異 なる 「 近 代 の超克」のスタンス をはっき りさせ るためには、取 り敢 えず一旦 は京都 学派 の視 点 を排 除す るのが肝 要 だ とい うことにな る。その上で竹 内好 と加藤周一の意 見 を参考 に して考 えれ ば、 「 近代 の超克」を考 える上 で重要なのは、皮 肉にも座談会 に参加 しなかった三木

‑ 1 49‑

(2)

清 と保 田与重郎だ とい うことになる。座談会 に出席 し ない人物 を座 談会 の性格 を考察す る上で重要 だ と主 張す るのは常識 的 に言 って明 らか に矛盾 した物言 い だが、座 談会 「 近代 の超克」のみな らず座談会の催 さ れた 1 9 42 年 までの思想状況をも考慮すれ ば、 この二 人 を重 要視す るこ とにはそれ な りの意味があ る と思 われ る。

こ うした長いタイムスパ ンで 「 近代の超克」を考 え るとなれ ば、この間題 を考 える上で最 も重要な人物 は、

大正期 に活躍 したが今 はほ とん ど忘れ去 られ た思想 家である生 田長江であ る。なぜ な ら長江 こそが 「 超克」

とい う特殊 な語 を世間 に流布 させ た張本人であ り、し か も座談会 よ りも 20 年近 く前 に主著 『超近代派宣言』

のなかで 「 近代 の超克」とほぼ同様 のス ローガ ンを書 き並べてい るか らであ る。しか も彼 は上述 の三木清 と、

佐藤春夫 を介 して保 田与重郎 に も大 きな影響 を及 ぼ しているのであ り、その意味で も決 して看過 され ては な らない存在 である。本稿 ではこ うした長江の足跡 を 紹介 した上で、三木清 をは じめ とす る後続 の世代 に及 ぼ した影響 を考察す る。そ して最後 に長江の思想 の奥 行 きを知 る手がか りと して、長江の大正期 フェ ミニズ ムに与 えた影響 にも触れておきたい。

2. 長 江 の 超 克 論

生 田長 江 について筆者 は既 にポス トモ ダ ン と関連 す る文脈 で論 じた機会 があるので ( 1 ) 、彼 について こ こでは超 克論 に絡む文脈 で手短 に紹介す るに とどめ よ う。生 田長江 ( 1 8 82 ‑1 9 3 6 ) は本名 を生 田弘治 と言 い、一高 を経 てニーチ ェ研 究では彼 の先輩 に当た る高 山樗牛がかつて在籍 した東大文学部美学科‑ と進み、

文芸批評 を開始 した。彼 の評論 は反 自然主義的傾 向を 持 ち、どち らか と言 えば 「 明星」派 に連 なるロマ ン主 義的な ものである。その後 「 明星」派 との縁 で与謝野 晶子等の仲介 を経て 「 閏秀文学会」を結集 した。この 会 には平塚 らいて う、山 川 ( 旧姓 は青 山)菊栄等 が参 加 し、後 の文芸誌 『青踏』の母胎 となった。ちなみ に

「 青踏」の命名者 も長江であ り、大逆事件 の余波 が残 る大正初期 に過激 な政治運動 を排 し文芸批評 の形 で 女性解放 を進 めることを考 えての こ とであった。こ う した長江 の 「 微温的」態度 が らいて うや 、や は り長江 がその才能 を見出 した高群逸枝 か ら厳 しく批判 され ることになる。

けれ ども、長江が我 が国の思想領域 において果 た し た最大の功績 は、 「 近代 の超克」 に大 きな影響 を与え たニーチ ェ全集 を本邦 で初訳 した こ とであろ う。大正

期 に彼 は堺利彦 、大杉栄 といった社会主義者 、無政府 主義者 とも交流 を し、『資本論』 の翻訳 に も着手 した が、彼 の思想 を培 ってい るのはや は りニーチ ェである

ただ しそのニーチ ェ解釈 は、後述す る三木 の評通 り

「 人道 主義的」なものであって、昭和初年 に流行す る シェス トフ的 な実存 的解釈 とはい ささか異質 な もの である。こ うした彼 のニーチ ェ‑の傾倒ぶ りがはっき りと示 されてい るのが、前述の主著 『超近代派宣言』

である

『 超近代派宣言』において長江は、現在 も続 く新 し い もの をあ りがたが る近代 の進歩史観 を断罪 し、この 状況 を作 り出す傾 向 として実証主義 、平等主義、民主 主義 といった観念 を挙 げる。この議論 のなかで一際 目 を引 くのが、一般 には近代 の乗 り越 えを 目指す と考 え

られてい る社会主義 が、資本主義 と同様 に実証主義 に 毒 され ているとい う指摘である。

同 じく‑の単なる近代思想 として、特 に主 として実 証主義精神 の額敗 か ら出た もの として、資本主義 と 非常 に多 くの共通点を有 ってい るのは、マル クス派 の社会主義である。よ り広 く云えば、資本主義 と同 じく、科学万能 を信 じ、器械 を崇拝 し、資本主義 と 同 じく、大都市及び其文明を謳歌 し、資本主義 と同 じく貨幣価値 以外 の如何 な る価 値 を も認 めない と ころの、自ら科学的社会主義 と名乗 ってい るところ の社会主義である。

社会 主義 は資本 主義 の敵 であ る以上 に其 味方 であ る。或 は社会主義 と資本主義 との争 いは、あかの他 人の争いではな くして、寧 ろ骨 肉近親 の間の争いで ある。それ は何 よ りも先ず財産の分配 についていが み合 ってい る ところの兄弟 二人 を連想 させ る

社会主義 と資本主義 とが兄弟であって も、その父母

ずれ をも同 じうしてい るのではない とい うこ と、

精 しくは一方 が父母 いずれ を も分 明に知 られ てい

‑ 、 ■ 、 ■

るのに対 して、他方 が所謂 ててな し児 であるとい う ことは承認 して もよい。

乃 ち、資本主義 は単 に実証主義 とい う母 か ら生れ た ことだけが明 白であるのに対 して、社会主義 は実証 主義的精神 とい う母 と、平等主義的民主主義的精神 とい う父 との並び存す るこ とをはっき り示 してい る ( 2)

そ して近代 に特徴的な実証主義、平等主義、民主主義 を一掃す ること、長江 の言い方か らすれ ば 「 超克」す ることが 「 超近代派」だ と主張す る

‑ 1 50‑

(3)

近代 的 な一切 の事物 に対す る堪 えがた き堰 吐感 か ら出発 してい るだけに、超近代主義 は一応近代主義 の単な る否定の如 く、単なる反対物 の如 く見 えるか も知れ ない。けれ ども実際は近代主義か らあ と‑ 引 き返 したのではな くして、さき‑通 りぬけて しまっ たのであ り、所謂超克 したのである。即 ち超近代 主 義 は人性 主義精神 の単な る否 定や反対物 であ る よ りも寧 ろ人性主義精神 の超克 された ものであ り、実 証主義 的及 び平等主義的傾 向の単 な る否 定や反 対 物 で あ るよ りも寧 ろそれ らの傾 向の超 克 され た も のであ り、従 って大抵 の近代思想 の単なる否定や反 対物 で あ るよ りも寧 ろそれ らの思想 の超克 され た ものである。 ( 此場合 、総ての近代思想 に関 して此 事 を言 うに蹟曙す るのは、余 りにも額敗的な或 るも のに対 しては、単な る否定や反対物 をほかに して、

如何 な る超克 らしい もの をも考 え ることが出来 な いか らである。)

科学及 び器械 については、それ らの ものを強 ち斥 け るのではないけれ ど、それ らの もの を礼拝す るよ う な態度 を全然取 るまい とす る ‑ これ は超 近代 的 である

商業主義 よ りは重農主義 を、都会 よ りも農村 を、文 明よ りも文化 を、西洋 よ りも東洋 を ( 単な るセ ンチ メンタ リズムか らではな く、『近代』生活 に対す る 最 も深刻 な批判 の結果 と して)撰 び取 ろ うとす る

‑ これ は超近代的である。

単純化 に対す る複雑化 の偏重 を、綜合 に対す る分析 の偏重 を、 経験 に対す る実験の偏重 を、乃至人間 ( ナ ポ レオ ンがゲェテを見て、『人間』 を見た と言 った ときの如 き言葉遣いに於 て)に対す る専門家 の偏重 を斥 けよ うとす る ‑ これ は超近代 的である。

社会主義 が存続す る限 り、その兄弟分 たる資本主義 もまた存続す るであろ うこと、並び に婦人 を本 当に 解放す る為 めには さしあた り『婦人解放』とい う近 代的謬 見か ら解放 してや らね ばな らぬ こ とを知 っ てい る ‑ これは最後 に、けれ ども最 も著 しく超近 代的である ( : 3 ) 。

この よ うに超近代派 を資本 主義 と社 会主義 の対立 の 彼方に位 置づ け、農民生活 のイメー ジを超近代 のイ メ ー ジに結びつ ける長江 の戦略は、日本浪蔓派の保 田与 重郎 に近 しい と言わ ざるを得ない (4) 。それ どころか、

「 超克」とい う語 を提供 した ことといい、機械文 明に 対す る嫌悪 といい 、20 年近 く先 の 『近代 の超克』 の ス ローガ ンが ここに揃 ってい る と言 って過言 ではな い。 また、『超近代派宣言』が刊行 され た大正末年 に

マル クス主義 を ここまで否定的 に位 置づ けてい る こ とも、注意すべ き点で ある。この当時は有島武郎等 の ごく僅 かな例外 を除けば、当時の社会主義‑のイメー ジは幸福 な未来 を約 束す るもの とされ ていたか らで ある。社 会主義‑の懐疑 は 3・1 5 事件以降の共産党‑

の徹底的 な弾圧 か らレオ ・シェス トフの『悲劇 の哲学』

の流行す る昭和初期 まで待 たね ばな らなか った事情 を考 えれ ば、『超近代派宣言』 の先駆性 はい くら強調 して も強調 し過 ぎるこ とはないだろ う

3. 「 人道主義者」 と しての長江

この よ うに反近代 主義者 としての立場 を鮮 明に し ていた生 田長江であったが、彼 が没 してい よい よ 「日 本‑の回帰」の機運が高まってい る 1 936 年 における 彼‑の評言 を見 ると、長江 はむ しろ大正期 の思想家 ら しい 「 人道主義者」として扱 われてい ることが分かる。

先ず は三木清 による批評 を見てお こ う。

生 田氏が指導的地位 に立って盛 んに活動 したのは、

明治の末か ら大正の初 めの ことであった。それはち ょ うど 日本 の文学及 び思想 の一般 的傾 向が 自然 主 義か ら人道主義‑ と移 って行 った時期 である。氏 も 時代 の子 として 自然 主義 を 「 偏重」 し、 「 吾人は 自 然主義者也」といってその立場 を取 った。しか し習 俗 を打破 し、特性 を尊び、人生 に対 して厳粛 な態度 を持す るこ とにおいて氏 は 自然主義 に同情的で あ った とはい え、純粋 な 自然主義者 であるに しては、

氏の精神 には遥かに強い人道主義的要求があった。

さらば とい って 白樺派 の如 き人道 主義者 とな るに しては、氏の精神 には余 りに実証的な、自然主義 的 な ところがあった。生 田氏がニイチ ェに沈潜す るよ うになったの もこの よ うな事情 によるであろ う。ニ イチェは或 る意味では最 も徹底 した 自然主義者、実 証主義者 であった、しか し同時に彼 は最 も熱烈な人 道主義者 であった (5 ) 。

三木 自身 が昭和初年 のマル クス主義運動 の挫 折後 に 新 しい ヒューマニズムを提唱す ることを考慮すれば、

三木 によるこの長江評 は、 「自然主義」の箇所 を 「 マ ル クス主義」に入れ替 える と三木 自身 の立場 の説 明に なるかに思 える。この三木 と長江の同質性 が 「 近代 の 超克」を読み解 く大 きな手がか りとなる予感 があるが、

これ については別 の機 会で論 じることとし、長江‑ の 評言の話 に戻 ろ う。

生 田長江の一番弟子 を自称す る佐藤春夫 は、長江 の

‑ 151‑

(4)

ことを次 のよ うに回想 している。

先生は トル ス トイが 『アンナ ・カ レリナ』を 「 幸福 な人間は皆一様 に幸福 である、不幸 な ものはみなそ れぞれ の状態で不幸である」と書 き出 したのを異常 に賛美 して 「トル ス トイの人道家た る特質 は この一 句だけにも遺憾 な く発揮 してい るのではないか。ト ル ス トイ は幸福 な る人 々 に対 して は別 に細心 な注 意 を払 わない結果み な一様 に幸福 に見 えたのに、不 幸 な人 々 に対 しては名 医が重患者 に対す るが如 く 細心な結果、遂に さま ざまな状態 の不幸を発見 した のであった。トル ス トイの申分 は科学的には或は間 違 いで あろ う‑ 幸福 な人間 もそれ ぞれ の状態 で 幸福 なのが科学的真 実か も知れ ないが芸術 の見地 か らは飽 くまで も トル ス トイ的解釈 が真である。こ こに科学 と芸術 との区別 を発見 し、所謂 自然主義 の つま らな さを気づ くべ きであろ う 。

かに真実が作 家の性情 によって曲げ られたか。然 も曲げ られ なが らも依然 として真 実 で あ るか を知 らなけれ ばな ら ない」と、先生は トル ス トイの一句 を発見 した喜 び に対 して緯々 として長広舌 を揮われた。先生の芸術 観 の核 心 を知 るに足 る言葉であろ う

(6

) 。

こ うした記述 を見 る と、昭和初年 当時 において生 田長 江は 「 近代 の超克」張 りの反近代化論者 として捉 え ら れ るどころか、その反対 の啓蒙主義者であ り、む しろ 白樺派 につ なが る人道 主義者 として の側 面 を もつ こ とが強調 されてい るこ とが分か る。こ うした長江評 は、

彼 の傾倒 していた思想 家 が反近代 主義 の権化 とで も 目され るべ きニーチ ェであるだけに、我 々の 目には極 めて奇異 に映 る。

4 . ニ ヒ リズ ム を欠 くニ ー チ ェ ‑ 大 正 期 の ニ ー チ ェ理解‑

けれ ども先述 の三木 の評言 を再読すれ ば、そ こに

「 ニイチ ェは或 る意味では最 も徹底 した 自然主義者 、 実証主義者 であった、しか し同時に彼 は最 も熱烈 な人 道主義者 であった」とい う文言 に出会 うであろ う( 。少 な くとも三木 に とって 「自然主義者 」としての二一 一チ ェ と 「 人道主義者」としてのニーチ ェは両立す るもの であった。 これ は ど うい う事情 によるものなのか。

実はニーチ ェを ヒューマニス トと して理解 す る見 方 は、大正期では主流 であった。例 えば三木 とも親 交 のあった評論家唐木順 三は、大正期 においてニーチ ェ の紹介者 として知 られ ていた和辻哲郎 の思想 を、次 の よ うに評価 してい る。

明治 の末か ら大正 にかけて、日本 にもよ うや く自我 の 自由の空気 が生れて きた。個人主義 の気風 がェ リ

ッ トの問にことに強 く出て きていた。魚住影雄 、阿 部次郎等 はその若 い代表者 であった ろ う。和辻 さん もその一人だった。しか し和辻 さんの場合 、さきに も書いた 『白樺』の同人た ち と違 って、自己の個性 を、家 との抵抗 において集 中的に、具体的 に保持す るとい うことはなかった。それ は一面か らいえば よ り拡散的、開放 的であった。そ して、そ うい う状態 において、ニイチェに、またキェルケ ゴル に対す る ことになった。 ところで ヨー ロッパ の実存主義 は、

近代文明、近代 自我 の危機 の上に出てきた思想 であ る。科学技術 の進歩が人間を機械化 し、個性 を無用 とし、ブル ジ ョアジイが人間を俗物化 してきた とき、

ぎ りぎ りにおいつ め られた一点、実存 において、ひ らき直って、近代 を全面的に批判否定す るとい う挙 に出たのが キェル ケ ゴルや ニイチ ェのいわ ゆ る実 存思想 である。彼 らの 自我 、実存 は限界状況 にお け るそれである。死、絶望、ニ ヒリズム、そ うい う状 況の中での 自我 である。それ はけっ して無 限の可能 性 を内包す る個性 とい うご とき楽的的 な ものでは ない。有機体的 に、また統一的に とらえ られた個性 や生 の観念 とはお よそ逆の ものである。十九世紀後 半以 来 のいわ ゆる世紀末 の不安 の中か ら生れ て き た実存 と、十七世紀 のライ

ニ ッツの単子論 との相 違 を考 えれ ば よい。若 い和辻 さん、す なわち選 ばれ た才能 と未来 をもち、よ うや く芽生 えてきた個性 に たっ個人主義 を 自分 の中に感 じた和辻 さんが、右 の よ うなニイチ ェや キェル ケ ゴル と相対 したのであ る。和辻 さんの理解や理解 の表現は実に見事 とい う ほかないが、同時に、出会いのち ぐは ぐさか らくる 制限 もまたやむ をえない。和辻 さんが彼 らの根抵 に ある近代 のニ ヒ リズムを、体得 しえなかったのはそ のか ぎ りではやむ をえない ことであった ( 7 ) 。

ここで和辻 の思想 の特徴 づ けに託 され て述べ られ て い るのは、白樺派 と実存主義 の流行 の狭間にあった大 正期 のニーチ ェ受容 の特徴 である。この時期 のニーチ ェ受容 の傾 向は個人 主義 を堅持す る点では 白樺派 と 共通 してい る。この傾 向を強調すれ ば、大正期 のニー チ ェ受容者 た ちは 白樺派 と同様 人道 主義 に分類 され る。けれ ども彼 らは、白樺派の よ うに 日本的な家制度 に対決す るとい うよ うな社会思想的な傾 向は もたず、

自分 の個性 を追求す れ ば 自ず と生 の観 念 に到 達で き るとい う楽観 的な態度 を取 ってい る と言われてい る。

そ して こ うした楽天的なニーチ ェの受容 は、本来 な ら

‑ 1 5 2‑

(5)

実存主義 に分類 され るべ きニーチ ェのニ ヒ リズムが 何 た るか を全 く分 かっていない と断罪 され るので あ

る。

な るほ ど和辻 の思想 と長江の思想 を同等 に考 え る べ きではな

か も知れ ないが、大正哲学 を批判的に検 討 した船 山信一 によれ ば、こと和辻 と長江のニーチ ェ 解釈 は生 の哲学 の基調 を帯び るプ ラグマテ ィ ックな もの とされてい るので ( 8 ) 、唐木 による和辻 のニーチ ェ受容 の特徴づ けを長江 に当て はめて もさほ ど問題 はないだ ろ う

それ に して も、唐木が前述の引用文 の末尾で和辻 の ニ ヒリズムの無理解 を批判す る語調 には何 か強い苛 立ちの よ うな ものが感 じ取 られ る。ここで唐木が念頭 に入れてい るのは、昭和初期 に流行 した レオ ・シェス トフのニーチェ理解 である。シェス トフ とは もとも と ロシアの社会運動家であ り、その後社会主義か ら転 向 し、『悲劇 の哲学』のなかで 自らの転 向体験 に基づい てニーチ ェ と ドス トエ フスキー を論 じてい る。この書 が後 に座 談会 「 近代 の超克」で司会 を務 める河上徹太 郎 によって翻訳 され るが、訳本 の刊行時がたまたま共 産主義‑ の強力 な弾圧 の直後だったため、左翼思想 に シンパ シー を抱 く知識人の共感 を呼んだのである。

5. ニー チ ェ、「 超克 」 理解 のすれ 違 い

けれ ども、ことシェス トフ理解 に関 しては、翻訳 し た河上 とそれ を読 んだ若 い世代 の間 にある種 の温度 差があった ことは十分注視 しなけれ ばな らない。

若 い世代 のシェス トフ理解 と して もっ ともよ く知 られてい るのは、日本浪 嬰派に属 し座 談会 「 近代 の超 克」にも参加 した評論家 の亀井勝一郎 である。彼 は後 に 『人間教育』に収 める 「 生 けるユダ ( シェス トフ論) 」 において、自らの共産主義運動か らの転 向の論理 の正 当化 をシェス トフのニ ヒ リズムに見出 してい る。こ う

したシェス トフの読解 は亀井独 りだ けの ものではな く、数多 くの若者 に見受 け られ ることを三木清が指摘 し、彼 らの心情 を 「 シェス トフ的不安」と名づ けてい る。こ うした風潮 に対 して翻訳者 の河上は当惑の念 を 表明 してい る。彼 によれ ばシェス トフの批評 は 1 9世 紀 の実証主義 に対す る知的な異議 申 し立てであって、

そ こには虚無的な傾 向は認 め られず、シェス トフの世 界観 はむ しろパ スカル 、ス ピノザ といった実存主義 よ りも古い時代 の思想家 と共鳴 してい る と述べてい る。

こ うした河上 と亀井 の間のシェス トフ理解 のす れ 違いについては別の機 会 に論 じることに し、ここでは 2 つの こ とを指摘 してお きたい。1 つ は的をニーチ ェ 理解 に絞 っての話だが、両者 がシェス トフか ら読み取

ったニー チ ェ理解 が これ までのオー ソ ドックスな哲 学研 究 にお けるニーチ ェ理解 の変遷 に重 なってい る ことであ る。亀井が読み取 ったニーチ ェは、唐木順 三 が論 じたの と同様 にニーチ ェをキル ケ ゴール に代表 され る実存主義 の系譜 に連ね る とい うものである。こ れ に対 して河上が理解 したニーチェは 、20 世紀後半 か ら始 まったス ピノザ ・ ルネ ッサ ンス と軌 を一 に して い るよ うに思われ る

ス ピノザ ・ルネサ ンス とはフラ ンスの哲学者 ジル ・ドゥルーズがス ピノザ哲学 を差異 の思想 として捉 え直す こ とか らは じまるものであ り、

その流れ にニーチェが数 え られ てい るのである

(9

) 。 こ うした哲学史上でのニーチ ェの位 置づ けに関す る 対立が、シェス トフ理解 のすれ違い として顕在化 して い ると考 えることがで きる。この よ うな視点に立てば、

河上 と亀井の対立は 1 930 年代の 日本 にお ける思想史 上の ロー カル な問題 ではな く、哲学解釈 の対立の‑ コ マ として捉 え直す こともできるだろ う。

も う 1 つは 「 超克」をど う考 えるべ きか とい う、本 稿 の論点 に関わ る問題 である。河上がシェス トフに認 めた批判精神 は、考 えよ うによっては三木 と佐藤 によ ってな され た生 田長 江 を人道主義者 として位 置づ け る見方 と合致す るよ うに思われ る。つま り河上や長江 といった、亀井や唐木 か らすれ ば 「 旧世代」に属す る 批評家 は、ニーチ ェの思想 を近代精神 の全否定ではな く、む しろ ヨー ロッパ精神 の健全 な発展だ と見てい る と考 えることが出来 る。その よ うに考 えれ ば、長江 の

『超近代派宣言』で表 明 された反近代的主張 も、実は 近代精神 の徹底 だ と捉 え直す こ とがで きるのでは な いだろ うか。

ここで注意 しなけれ ばな らないのは、長江 に とって 超近代 は、資本主義 と社会主義の対立の彼岸 に立た さ れてい ることである。これ に対 して亀井勝一郎の立場 は、超近代 を社会主義 か らの転 向 として、つ ま りは社 会主義 の裏面 として位 置づ けてい る。こ うした超近代 の位置づ けの違いは微妙 な問題 を随伴す る。つま り長 江 の よ うな超近代 は実 は近代 の批判精神 の徹底 に他 な らず、そ こか ら一見対立す るかに思われ る資本主義 と社会主義 も、ともに本 当の近代 が分かっていない浅 薄 な思想 として断罪す るこ とが可能 になるが、亀井 の

よ うな立場だ と社会主義 を批判 しなが ら、その用語法、

発想 が皮 肉に も敵で あ るはず の社会 主義 にだんだん 似通 って くる とい う事態 を巻 き起 こ しかね な

か ら である。私見によれ ば、座談会 「 近代の超克」 2 日目 の小林秀雄の立場 は、長江的な見地か らの ものであ り、

こ うした物言 い に亀井 をは じめ とす る新世代 は当惑 した と考 え られ る。

‑1

5 3

(6)

6. フェ ミニズムへの影響か ら見た長江の思想 の射程

この よ うに考 える と、当初 「 近代 の超克」の先駆的 形態 と見 な され た長江 の思想 が一筋縄 では解 き明 か せ ない こ とが分かって くる。彼 のなか には反近代的 な 主張 と近代 に特有 な批判精神が混在 してお り、しか も この相反す る契機 が 「 近代 の超克」に も及 んでい るた めに、話 は一層複雑 になる。

こ うした長江 の二面性 の向 こ うにあ る真相 に少 し で も接近す るために、最後 に彼 のフェ ミニズムに及 ぼ した影響 を考察 してお きたい。我 が国のフェ ミニズム の揺藍期 を代表す る論者 として与謝野晶子、平塚 らい て う、高群逸枝 の 3 人 を挙 げることには誰 も異存 はな いであろ う。この 3 人 のいずれ も長江 と親交があった ことは、彼 の 「 超近代」の思想 を考察す る上で看過 で きない事実である。長江 が閏秀文学会 を結成す る上で 与謝野の助力があった とい うことは、先述の通 りで あ る。『青踏』 の創刊号 に らいて うの寄せ たあま りに も 有名 な 「 元始女性 は太 陽であった」に長江の影響 があ ることを、 らいて う自身が認 めてい る

「 音階」創刊号には生 田長江訳 「 ツ アラ トクス トラ」

( 新潮社版)の広告 が掲載 されていますが、思い返 して も、この本 の記憶 がな く、どんな体裁 の本だ っ たか もまるで心 に浮び ませ ん。明治 四十四年八月 に 発行 され てお ります か ら、当然 これ も手 もとにあっ たはず と思われ ます が、紺色のクロースの表紙 の厚 い大判 の英訳本 が、机 と並んだ手近 の書架 にあった ことしか覚 えていませ ん。けれ どもわた くしの文章 のなか に引用 され てい るツァラ トウス トラの短 い 言葉 が、生 田先生の訳文 と同 じもの とすれ ば、や は りこれ もい っ しょに座右 にあった と思 うほか あ り ませ ん。とにか くあの文章に、ニイチ ェの影響 が あ る とい う第三者 の批 判 を全部否 定す るわ けには ゆ かない としても、くどく言 うよ うですが、ニイチ ェ 以上 に、

えニイチ ェのそれ とは比較 にな らぬ重 さ をもっていたのは座禅 の体験 か らえた影響 とい え ます (10) 。

この述懐 は らいて う晩年 の もので、社会運動 のなかで は大変評判 の悪 いニー チ ェか ら影響 を受 けた過 去 を 極力否定 した弁明の言葉だ と思 えるが、弁明 しなが ら も長江 の訳 書か ら影響 を受 けた こ とを しび しぶ認 め ざるを得 ない語 り口に、か えって彼女 に与 えた長江 の 影響の強 さを確認す ることができる。ちなみ に長江 は、

『青踏』発刊以前に らいて うが淑石 の弟子森 田草平 と

起 こした心中未遂事件 ( いわゆる塩原事件)の仲裁 に も一役 買 ってお り、見方 によれ ば らいて うの終生の恩 人である

高群逸枝 は直接 には 『音階』と関係 ないが、自分 の 文章が世 に出た こ とに長江 の助力 があった こ とを認 めてい る。以下は彼女 の 自叙伝 『 火 の女の 日記』か ら 孫 引き した、長江の推薦文である。

高群逸枝 さんは、まだ二十歳 にも満 たない婦人です。

最初 にその 「 民衆哲学」とい う論文原稿 を拝見 した 私 は、単にそれ を拝見 しただけで も少 なか らず驚 か され ま した。現代 の 日本 において、これだけ しっか りした推理 と、これ だけ鋭 い直観 とをもった婦人 が、

はた して幾人 あろ うか と思いま した。けれ どもその 後、彼女の長篇詩 『日月の上に』を拝見す るにお よ んで、私は彼女が単 に婦人 として稀有 の人であるの みな らず、あまね く文壇思想界 にお けるほ とん ど如 何 な る人 々に比べ て も些 の遜色 を見 ない ほ どの天

才者 であることを知 りま した ( ll) 。

その後長江 と、らいて うと高群 との間で家庭 にお ける 女性 の役割 をめ ぐって激 しい論争が繰 り広 げ られ る。

その論 点 は女性 の解 放 と家庭生活 の両立 は可能 か ど うか とい う現在 で もつ なが る内容で、らいて うか ら言 わせれ ば悲劇 の ヒロイ ン・ オ フィー リアを理想 とす る 長江の貧 困な女性像 を露呈 させ るものであった。とは いえ、らいて うは 「このあわただ しい批評 を止む を得 ず書いた事 を生 田先生 におわびいた します 」 (12) と、

高群 は 「 ああ生 田先生。けれ ども先生は、かの寛大 な お心で、『

かな る矢 も人その ものに向っては無気力 である。そは幻影 に向って しか。けれ ど幻影 に対す る 不断の戦いにこそ、彼等若 い者等 の、有意義 な歴史的 な使命 があるのだ。』 とお考 えになって下 さるであろ う 」 (13) とい う具合 に、論 の最後 を敬愛の念 で結 んで い ることを忘れ るべ きではない。

ここで注意 したいのは、長江 を介 して らいて うと高 群 がそれ ぞれ、ニーチ ェの天才論 と生命論 を吸収 して い ることである。らいて うの天才論 は前述 の 「 元始女 性 は太 陽であった」では、座禅 の体験 との類比で語 ら れてい る

無念無想 とは一体何 だろ う。祈祷 の極 、精神集 中の 極 において到達 し得 らるる自己忘却 ではないか。無 為、悦惚 ではないか。虚無ではないか。真空ではな いか。

実 に ここは真空である。真空 なるが故 に無尽蔵 の智

ー 1 5 4‑

(7)

恵の宝の大倉庫 であ る。一切 の活力 の源泉である。

無始以来、植物 、動物 、人類 を経て無終に伝 え らる j l く でん

るべ き一切 の能力の福 田である。

ここには過去 も未来 もない、あるのはただ これ現在。

ああ、潜 める天 才 よ、我 々の心の底 の、奥底 の情意 の火焔 の中なる 「自然」の智恵 の卵 よ。全智全能性 の 「自然」の子供 よ (14) 。

先の引用 で らいて うは、自らの思想形成 は長江経 由の ニーチ ェではな く参禅 経験 にあ るこ とをこ とさらに 強調 してい るが、長江 との交流 を考慮すれ ば彼女 の天 才論 も実 はニーチ ェに由来す る と推 測す るこ とが許 され るだ ろ う。高群 の生命論は 『恋愛創 生』に見 られ る。それ によれ ば、人類 の生殖 は徐 々に知性化 し 「 人 類 の無限の増殖 よ りは人類 の完全な合体、無性化‑ と 志 向 し、男女の性差 を次第 にな くして

そ して究 極的には、人類 の寂滅 あ るいは他 の新 生命‑ と発展的 解消、空化空散す るとい うのである 」 (15) 。

容易 に知 られ ることだが、ここで二人が論 じてい る のはいわ ゆる女性解放 といった社会問題 ではな く、長 江 にか ぎ らず大正期 の思想 家がニー チ ェに認 めた広 い意味での生命論 に属す るものである。この観 点か ら 考 えれ ば、長江が 「 近代 の超克」の先駆的な議論 を し た ことと、戦時 中の らいて うと高群 が母性主義 に連 な る発言 を した とい うことを社会 思想 的 に右 寄 りだ と して断罪 した り、あるいは昭和初期 の思想 に見 られ る 社会主義 か らの転 向に関わ る問題 と見た りす るので はな く、これ とは別 の思想 的問題 として浮かび上が ら せ る必要 があると思われ る ( 16) ∩

( 1 ) 拙稿 「 「 近代の超克」と 「 東洋人の時代」 ‑ 生 田長 江の 「 超近代」‑ 」、田村栄子編 『ヨー ロッパ文化 と 「日 本」 ‑ モデルネの国際文化学 ‑ 』昭和堂 、2006 年 、 1 52‑1 71 頁を参照。

(2)

生 田長江 『 超近代派宣言』( 近代文芸評論叢書 2) 日 本図書セ ンター 、1 990 年 、2 9‑30 頁。 旧字 を新字 に し、

現代仮名遣いに改めた。以下 も同様。

(3)

同書 、3 4‑3 5 頁。

(4)

戦後 に 自らの半生を回想 した 『日本浪蔓派の時代』

のなかで保 田は 自分の立場 を 「 文明の上でアメ リカニズム とコム ミュニズムを認 めない」( 『 保 田与重郎全集 』3 6 巻、

講談社 、1 77 頁) と表明 してい る。『日本浪蔓派の時代』

は しば しば 「日本浪蔓派」として亀井勝一郎 と一括 りにさ れ ること‑ の不満 を保 田が述べている点で も注 目すべ き 著作である

この問題 については機会 を改めて述べたい。

(5) 「 生 田長江全集」、『三木清全集 』1 7 巻、岩波書店 、 3 84 頁。

(6)

「 長江先生を果す」、『 佐藤春夫全集 』21 巻 、臨川書 店 、1 45 頁。

( 7 ) 唐木順三 「 和辻哲郎の人 と思想」、『和辻哲郎』( 現代 日本思想 大系 28) 、筑摩書房 、1 963 年 、41 頁。

(8)

「 大正哲学史」、『 船 山信一著作集 』 7 巻、 こぶ し書 房 、225 頁。

(9 )この傾 向を代表す る研究が浅野俊哉『ス ピノザ ‑ 共 同性 のポ リテ ィックス ‑ 』洛北出版 、2006 年である

( 10) 『元始、女性 は太陽であった ‑ 平塚 らいて う自伝』

( 上)、大月書店 、1 971 年 、3 3 5 頁。

(

ll)

「 火の女の 日記」、『高群逸枝全集 』1 0 巻、理論社 、 1 88 貢。

(

12)

らいて う 「 女の立場か ら生 田長江氏の婦人非解放論 を評す」、『婦人公論 』 1 月号 、1 927 年 、1 6 頁。

(13)

高群逸枝 「 生 田長江氏の家庭論 を難ず」、『婦人公論』

9 月号 、1 9 26 年 、33 頁。

(14)

小林登美枝 ・米 田佐代子編 『平塚 らいて う評論集』

岩波文庫 、1 987 年 、1 5‑1 6 頁。

(

15)

山下悦子 『高群逸枝 ‑ 「 母」のアルケオ ロジー』

河 出書房新社 、1 988 年、 1 1 4‑1 1 5 貢。

(

16)

鈴木貞美の主張す る 「 大正生命主義」の視点は、ニ ーチェをは じめ とす る生命主義か ら大正期 の思想 を読み 解 く立場 を提示 した点で高 く評価すべ きだが、この見方 を 昭和初期 の思想 にそのまま当てはめることにはいあ ささ か無理があるよ うに思われ る ( 『日本の文化ナシ ョナ リズ ム』平凡社新書 、 2 005 年) 。昭和初期の思想 にはも う一つ、

共産主義か らの転向の次元が確保 され るべ きである。

‑ 1 55‑

参照

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