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第二次広州政府期の広州市政 ―特に1921年の改革について―

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(1)

第二次広州政府期の広州市政

―特に1921年の改革について―

塩 出 浩 和

第一章 問題の所在

中国国民党 を率いる孫文 と広東軍の指導者であった陳桐明によって1

9 20

年11 月広州 に於 いて建て られた政権 は、 これ まで 「第二次広東軍政府」 と呼ばれて きた。 この政権 は1

921

5

月 「中華民国政府」 に改組 され、孫陳対立の結果

1 922

6

月両者塵下の部隊が武力衝突 を起 こす まで、中国の中央政府 としての 正統性 を北京の政権 と争 った。1

921

5

月か ら翌22年

6

月までの広州 における

この政権 は、 「広東正式政府」、 「広東護法政府」な どと呼びな らわされて きた。

本稿では主 として1

9 2 0

年11月より、広州市参事合の構成が完了 した1

921

9

月ま での広州市政 を検討す るが、この期間 を含む1

9 20

年11月か ら

1 92 2

6

月までの 広州 における政権 をここでは一括 して 「第二次広州政府」 と称す る。1

921

5

月改組の前後で地域政権 としての当該 「政府」が有す る政策決定機構 と統治機 構 は実質的には変化 していないか らである。全国 レベルの政権 として とらえた 場合で も同様であると考え られ るが、 この点については他稿 に譲 る(1)。

第二次広州政府は、約一年半の存続期間中にその支配領域 (時期 によ り異な るがほぼ広東‑省)内で新 しい地方 自治制度の創設 と推進 に力を入れた。地方 自治制度の創意 と推進 とは、具体的には広東省内各児の県長及び児議会議員 と 広州市参事の選挙実施 を通 じて推 し進め られた代議制的地方 自治政府の樹立 ま たは整備である。

第二次広州政府の性格規定 とこの政権 を支 えた二人の指導者、すなわち陳桐 明 と孫文、の歴史的評価 については従来い くつかの見解が出 されて きた

( 2)

が、

(2)

政権の所在地であった広州市の政治、特 に代議制 を指向 した市政制度の諸改革 と その具体化 としての市参事選挙の解 明によってこの論争 を発展 させ る新 たな判 断材料が提 出で きるであろう。主 な論争点のひ とつ はこの政権 の下で試み られ た地方政治改革の本質 は何 であったのか、 つま り、それは 「軍閥」権 力の存続の 手段であったのか否か、 とい うことについてであった。

孫 ・陳両者の歴史的評価 につ いての新 たな判断材料の提供 は本研究の 目的の ひ とつであるが、本稿 をその一部 とす る一連の実証的考察 は近代 中国政 治の構 造 を解 明す ることを全体 の 目標 に している。 中国の政治体系 は当時、地域的 (水 平的)かつ多層的 (垂 直的) な分裂状態にあった。 中国の諸政 治権 力は全国 ・ 各省 ・各県 (市) ・各郷 (鎮) とい う四つの レベルで成立 していた。地域 的分 裂 とは、特定 レベルの同一空間で勢力圏 と正統性 を争 う複数の政治権 力の存在 をさす。下位 レベルの政 治体系が上位の政治体系 と関係 を持 ちなが らも独 自の 政治的課題 と争点、政 治的意思の形成方法、そ して政策遂行過程 を有す るある 程度 自律的な政治体系 として存在 していた状態 を多層的分裂 とよぶ。 そこで筆 者の当面の 目標 は、第二次広州政府の支配領域 における政治体系の地域 的 ・多 層的分裂状態 を分析 し、 この政権 の限定的支配下の諸 レベル に存在す る政権 の 権 力基盤、政策、政 治過程 の実態 を解明す るとともに、 それが当時の 中国全体 の政治の中で もっていた歴史的意味 をみ きわめ ることである。本稿 はそのため の実証 的研究の第二の試みである

( 3)

0

第二章 広州市政 に関す る諸制度の整備

辛亥革命後、胡漠民 と陳桐 明がそれぞれ広東の都督 と代理都督 であった時期

( 1 91 2

1

月〜1

91 3

8

月) に、広州市 旧城壁の一部 は取 り除かれ 自動車交通 に適 す る幅の広 い道路 が建 設 された。 これ は胡 が都督 の時 に設 け られ た広州 工務司 による事業であった。 その後1

91 8

年 に市政公所が設立 され、道路建設な

どの事業 をおこなったが、その他の市行政組織 は未整備であった(

4 )

陸栄廷率 いる広西軍の‑指導者であ り、孫文退 出後の第一次広州政府の下で 広東省長 に就 いていた莫栄新 とその摩下の部隊が1

9 2 0

年1

0

月に広州か ら引 きあ

(3)

げ、翌月陳桐明に率い られた広東軍主力部隊が広州 に到着 した。11月末 に孫文、

伍廷芳、唐紹儀 が広州 に入 り、11月2

9

日 「中華民国軍政府」の広州 における回 復が通電 された

( 5 )

0

2 0

年末か ら翌21年初めにかけて香港や上海 に移 っていた国 民党系 な どの国会議 員の一部が広州 に戻 り

、21

1

1 2

日には広州 において衆 参両院連合会が開かれた

( 6 )

広州の市政組織 が整備 され るの は1

921

2

月以後である。1

92 0

年11月か ら

2

月 までの間は、広州市市政 公所 はあったが、市 は軍政府の所在地 として実質的 には大元帥府 (孫文) と広東省省署 (陳桐明)の直接の支配 を受 けていた。 ま た一方で、広州市 には商人 をは じめ とした住民に よる自治 ・自衛の伝統があっ た。衛生事業、道路整備事業 さ らには治安維持活動 まで もが清朝後期以後広州 市民 自らの手で組織 され運営 されていたのである

清末 に至 り清朝政府 によっ て広州市 に公安 と消防の組織 が置かれたが、 「団」 と呼ばれた住民の 自治的治 安組織や 火の見や ぐら、消防団、貯水施設等 はひ きつづ き住民によって管理 さ れていた

( 7)

第一節 市政組織改組 と広州市暫行条例の制定

道路整備 と路面電車の建設 ・営業

( 8)

をおこなっていた広州市市政 公所の総弁 には、1

92 0

年末 から翌年初めにか けての時期、貌邦平が就 いていた。彼 は広東 系軍事指揮者の一人で、陳桐明 よ り先に1

9 2 0

年1

0

月2

9

日に広州 入 りしていたので ある。11月初めに広州 に到着 した広東軍総司令陳桐 明は 自ら広東省長 に就任す るとともに、市政 の統一 を目指 して市政庁 を設け孫科 を庁長 に任命 した

( 9)

。 こ の市政庁 は従来の市政公所の事業 に加 えて、治安 ・衛生 ・教育等の事業 を も担

うこ とが期待 されていた。1

9 20

年11月か ら翌年

1

月にかけての数週間は孫科 を 長 とす る市政庁 と貌邦平 を長 とす る市政公所が併 存 した。21年

1

月市政公所 は 解散 し、その事業 と債務 は広州警察庁 とともに市政庁 に引 き継がれた。 これ ら の措置 は広東省長陳桐明の意向に基づ いた経過的な ものであった。

この ような改組が進む一方で、1

92 0

年11月か ら1

2

月にかけて広東省長公署 に おいて四回にわた り、地方 自治制度 を検討す る 「省制編纂委員会」が開かれて

(4)

いた

( 1 0 )

。 この委員会 は省長陳桐 明の ほか、胡漢民 ・戴季 陶 ・孫科 ・林雲 陵 ・陳 融 ・屡仲憧 ・金章 ら十数 人で構 成 されていたが、広州 市政 につ いてはすで に市 政庁長 に任命 されていた孫科 が草案 を提 出 した。 この草案 はアメ リカ合衆 国の い くつかの都市 にあった シテ ィー ・カウ ンシル制度 に範 を とった もので、全市 民 に よる選挙 で市長 を選 ぶ と定めていた。委員会 の金章 らはこの草案 を支持 し たが、胡 ・戴 ・屡 らは、暫 定的 に 「保育主義」 を採用 し最初の五年 間 を務 め る 市長 は省長 に よって任命 され るべ きだ と主張 した。結局委員会案 としては胡 ら の考 え方が採 用 されてい る。 第二次広州政府期 の市や 県の 自治制度 は形 式上 は 首長直接選挙制 と代議 制的議会制 を採 用 してい るが、 実質的 には省長 に権 限が 集 中す るようになってお り、 これは省長であった陳桐 明が広東‑省 に独裁的権 力 を築 くため に歪 めた ものだ、 と従来一部の研究者 は説明 して きた

( l l )

。 しか し 実際 は、 この広州市暫 行条例 案 の審議経過 をみ ると、最初の市長 を住民 に よる 直接選挙 ではな く省長の任命制 としたの はむ しろ孫文 に近 い胡漠民や屡仲憧 ら であった。市政条例 は1

92 0

12 月 6日省長 に よって決定 ・公布 された。実施 は

翌21年

2

1 5

日とな っていた(12)。

この広州市暫 行条例 は基本的 には草案 と同様 にアメ リカの一部都市 で行 なわ れていた シテ ィー ・カウ ンシル制度 を採 用 し、 それ に若干の修正 を加 えた もの であった。条例 は、 「広東省省会」 (省都)を正式に広州市 と命名 しその市政機 関 を広州市市政庁 とす るこ とを定めていた。条例 に よると、市政庁 は市行政 委 員会 ・市参事合 ・市審計処 とい う三つの独立組織 に よって構 成 され るこ とにな っていた

。以下、条例 に基づ いてそれぞれの組織 の機 能 と構成 を記す。

市行政委員会 は 日常の行政 ・事業の監督 を担 当 し、市長 ・市財政 局長 ・市工 務 局長 ・市公安局長 ・市衛生 局長 ・市公用局長 ・市教育局長の七 人で構 成 され る。七 人はいずれ も広東省長の選任 によるとされていた。 これはいわば市政府 の内閣で、七 人は共同で市行政 委員会の職務 を行使す るとされた。 しか も、後 述 の参事会 が政策決 定権 を もっていなか ったの に対 し行政委員会 は市政 に関す る決定 と執行の両権 を与 え ら‑れていた。市長 はこの委員会の主席 であ り、対外 的 に広州市 を代表 し、市行政 委員会 の議決事項 を執行す る責 を負 った0

市参事会 は3

0

人の参事員 (す なわち議 員)で組織 され る。参事員の うち1

0

(5)

は省長 (市長ではない)の指名、1

0

名は市民 による直接選挙、残 りの1

0

名は職 能団体の代表であった。 これ ら職能団体代表 は労働 界 よ り3人、実業界 よ り3 人、教育界 よ り1人、医療 界 よ り1人、法律界 よ り1人、技術界 (エ ンジニア な ど) よ り

1

人 となっていた。市参事会の職権 は、‖市民の請願 を議決 し、 こ れ を市行政委員会 に送付す るこ と、(I)市行政委員会 より送 られた案件 を議決す ること、(ヨ市政庁各局の行政成績 を審査す るこ とであった。条例 では、予算審 議 権が どこに属 しているのか明確 ではない。 もし行政委 と参事会が権 限上の争

いをお こ した時 は広東省省長の決裁 にゆだね るこ とになっていた。

審計処の処長 は広東省省長 に よって任命 され るこ ととなっていた。 その職権 は、市財政収支の監査、行政委が結んだ財政 関係各種契約の審査、市財政会計 方式の改良 についての建議 、そ して毎年の市財政監査報告書 を省長 に提 出す る こ との四点であった。審計処 と行政委員会の間で食い違 いがあった場合 はや は

り省長が決裁す ること になっていた。

この ような内容の暫行条例 に基づ いて次節で述べ るように新市政庁設立の準 備が進 め られ、 また第三節で述べ るように正式の条例 を定め るため に広東省議 会 での討議 がおこなわれた。

第二節 新市政庁設立の準備

1 921

2

月1

5

日の広州市暫 行条例施行 にそなえて、1

92 0

年1

2

月末 または21年

1

月初め に貌邦平 ・許崇清 ・程天 国 ・胡宣明 ・蕪増基 ・黄桓 ・孫科の

7

人が市 政庁準備委員 に任命 された掴。 この任命 は広東省省長であった陳桐明による。

7

人の準備委員 は市政庁が取 り扱 うべ き職務範 囲 を定めなければな らなか っ た。そ して職務範 囲の確 定 は各種税金の うちどれ を市政庁の収入 とす るか とい う財政上の基本問題 にかかわっていた。容易に予想 され るように、省の各機 関 (財政庁 ・教育科等)や警察庁 な どとの間に権 限争 いがおこった。 これ ら諸機 関間の調整 は省長陳桐 明や広東高等裁判所がおこなった。 また準備委員は、暫 行条例 の施行細則 を作成 した

( 1 5 )

これ と同 じ時期、新市政庁への吸収が予定 されていた市政 公所の職員は全員

(6)

が広東省省署 に対 して辞表 を提 出 した。 これは、吸収時の職員定数削減 を予想 した公所職員の採 った抵抗の一手段であった。市政公所総弁貌邦平 はこれ よ り 先の1

9 2 0

年1

2

月に一度辞表 を提 出 したが、翌年

1

月までその職 に とどまった と み られ る(16)。 また、市政公所の一部幹部 も既得権益 を守 るために改組 に反対し た 。

一方、未確 定であった広州市の市城 をはっ き りさせ、かつ市城 を

1

1の区 (の ち方針が変わ り結果的には広州市 は1

2

の区に分 け られた) に分 ける作業が1

921

1

月貌邦平 と孫科 によって進 め られていた。市城画定は第二次広州政府成立 前か ら進行 していたが、政権 の交替で中断 していたのである。実地測量 は1

9 21

2

1日に開始 され、約一か月で完 了す ることになっていた(

1竹。 この市域画定 作業の完 了時期 は確認 されていない。

第三節 広東省省議会の対応

広州市暫 行条例施行が予定 されていた1

921

2

月1

5

日の直前、陳桐 明は広東 省議会 にこの条例案 を提 出 した。 この案 は、最初の五年間について広東省長が 広州市長 を任命す るとい うのは 自治主義の原則 に反す るとして省議会 で否決 さ れて しまった

( 1 8 )

。 この否決 には、 自治の原則 との抵触 という問題以外 に も、新 たな税金が課せ られ るのではないか とい う市民の不安、治安 ・福祉 ・教育 ・医 療事業等 を独 自に行なって きた善堂や会館 な どの市民組織の反発 といった問題 が関係 していた。

市政庁は1

921

2

月1

5

日、条例が未成立の まま暫定開庁 された。 これは陳桐 明 と孫科が省議会の追認 を期待 して採 った措置であったが、かえって省議 員の 反発 をかって しまった(19).一部の省議員は、省の立法機 関である省議会 の議決 な しで暫行条例が実施 されたこ とに反発 し、 また条例案 によると限定的な選挙 でその一部が選 ばれ るこ とになっていた市参事会が市の立法機 関 としては極 め て不十分 な権 限 しか もっていない と批判 した(20)。省議会 内の法律委員会 と庶政 委員会 が詳細 に批判 点 を論 じた報告書 を作成 している。

2

23

日、省議会 は条 例 を修正議決 したが、陳桐明は原案 を堅持す るとい う姿勢 をとった(21)0

(7)

陳は3月1

4

日に省議会 に宛てた書簡の中で次の ように述べ ている。すなわち、

「原案は官 に偏重 し、民治の潮流 に適合 していない」 という指摘があるが、立 法 と行政 を分離 して完全な市議会制 を採用す るのは時期 尚早 である、 と。陳は、

アメ リカ合衆国のニューヨーク市で民選市議会制 を採用 し 「無頼政客」が多数 進出 して市政が腐敗 し、公債が乱発 された例 をあげ、「官治民治 は形式上ではな く実際上 に兄い出 され る」 として委員制の採用 を主張 した

( 2

2)。彼 は、 中国の

「国情」 を考慮 し、 「欧米の経験」 を参考に して 「多数市民の本 当の福利 を図 るために暫定的に保育主義 を採 らざるを得ず、市長 と局長は省長による任命 と した」 と説明 した。 この任命制 を補 うために一部分 に民選制 を採用 した市参事 会 を設けたのだ、 とも陳桐明は言っている。彼 は、参事会の一部 を直接選挙 と 職域代表制 とす ることによって 「市民に選挙の習慣 を養成 し、五年ののちに市 長民選 を実行 し混乱 を避 ける」 ことを目指 したのである。結局、1

921

3

月下 旬、省議会 は再審議ののち原案通 り暫行条例案 を可決通過 させ た鍋。

第四節 省長 による市長 ・各局長の任命

前節でみた ように、暫行条例 は広東省議会で約一か月半にわたって議論 され、

その成立 は遅れたが、広東省長陳桐 明は当初の予定通 りに1

921

2

1 5

日広州 市長 と各局長 を任命 した。広州の 「軍政府」の大元帥であった孫文の子でアメ リカの コロンビア大学 を卒業 した孫科が市長 に任命 された。 旧市政公所総弁で あった貌邦平が広東全省警務処処長兼務の まま広州市公安局長 となった。以下、

財務局長 には察増基、工務 局長 (測量 ・道路建設 ・下水道整備等 を担当)には 程天固、公用局長 (電力 ・水道 ・交通 ・電話等 を担 当)には黄桓、衛生局長 (保 健医療 ・清掃事業等 を担当)には胡宣明、教育局長には許崇清がそれぞれ任命 された。彼 らはすべて約二か月半前 に任命 された市政庁準備委員であった。 し か し、省議会で広州市暫行条例が21年

2

月1

5

日の時点で可決 していなかったこ とがひ とつの原因で、貌邦平 と胡宣明は当初市行政委員会 に出席 しなかった。

胡宣明は医師で、市長孫科同様 に米国‑の留学経験があった。貌邦平はのち省 長 に辞職 を申 し出たが、省長陳桐明はこれを許可 しなかった(24)0

(8)

新市政庁の設立 に ともなって、広州市市政公所 ・広東省省合警察庁 ・広州市 督学局 ・広州市電話局の各機 関は解散 し市政庁 に痕収 された。その際 に各機関 の組織 と人員は一部改組 または削減 された(25)。 「軍政府」財政庁が管理 してい た市内の各種税務 (主 に交通 に関す るもの)は広州市市政庁財政局に移管 され た。同 じく 「軍政府」公路処が管理 していた道路 と港湾施設は市の財政局 と工 務局に接収 された。 しか しなが ら、広州市 に隣接す る郊外の海南県 と番馬県の 行政 は広州市には吸収統一 されずに分離 した まま残 り、都市政策遂行上の障害

となった(26)0

第三章 市参事選挙

1 921

年の広州市暫行条例 においては、市参事会 は行政 を担 う市行政委員会の 補助機関 または諮問機関 としての役割が主で、市の立津機関 としては極めて不 完全な機能 しか有 してお らず、 また予算審議権があるのか どうか も明確 ではな かった。参事会員30名の うち、1

0

名は省長の指名であったが、1

0

名は職能団体 の代表、1

0

名は市民の直接選挙によるとされてお り、部分的に代議制的な要秦 が とりいれ られていた。本章 では市参事合の構成過程、特 に民選参事の選出過 程 について検討す る。

第一節 市選挙委員会

1 921

3

月、市参事選挙の管理 ・運営 にあたる市選挙委員五名が省長によっ て任命 された。 この五名は、杜之杖 (委員長)・鍾栄光 ・黄焼延 ・屡泳鍔 ・羅 雪甫である(2D。 この組織の法的根拠である広州市市選挙委員会組織章程 と広州 市選挙条例 は広東省省署 によ り発布 されていた(28)0

1 921

3

5日、市選挙委員会 は広東省署 と合議の末、同年 6

1日に直接

民選参事1

0

名の選挙 を実施す ることを決定 した(29). この決定 を宣布 したのは市 選挙委員会 ではな く、広東省長であった。選挙委員会 が独立 して選挙事務 を管 理す る機関 とはな り得ず、選挙事務 についての広東省長の補佐機関 としての性

(9)

格 を強 くもっていたことは広州市選挙委員会組織章程の諸規定か らもうかがえ る。すなわち、委員は省長が任命 し (第

1

条)、委員の給料 は省長が決定 し(第 6条)、委員会の予算 は省長の認可 を必要 としたのである (第 7条)鋤。市参事 の任期 は一年 (連任 をさまたげない)であった

( 3 1 )

か ら毎年選挙 をす る必要があ ったが、選挙委員会 は一回の選挙が終わるご とに解散す ることになってお り、

常設組織 ではなかった (第

8

条)(32).

この委員会 で選挙事務 を執 るために雇用 された職員の数 は不明であるが

、9 0

万 人余 りとい う広州市有権者数 に較べ て極 めて不十分 な ものであったこ とは 後 に明 らか となる。 また、職員の資質に も問題があった (第三節)0

第二節 職能団体代表参事 と省長指名参事の決定

前述の ように市参事30名の うち1

0

名の民選参事のほかは、1

0

名は職能団体代 表参事であ り

、1 0

名は省長指名参事であった。

職能団体代表参事の配分 は労働界

3

人、実業界

3

人、教育界

1

人、医療界

1

人、法律界

1

人、技術界

1

人 と条例 で定め られていた。 この人数配分 に関 して 広東教育会の一部の会員は労働界 と実業界に比べて教育界代表の人数が少ない ことに不満 をもっていた。彼 らは、 「教育界は医療 ・法律 ・技術各界 よ り人数 が多 く、かつ国民 を啓蒙 し知識 を社会 に広め るとい う重要な役割 を担 っている に もかかわ らず、市参事代表が一人 というのは納得で きない」 として、1

921

3

月、省長 に定員増の要望書 を書いた(33)O この要望書 によって配分規定が変わ ることはなかったが、要望書 を提 出 した教育全会員の一人慶泳篤 (彼女 は屡仲 憶の姉で市選挙委員に もなっていた)は後に省長指名の参事 になった(34)0

各界の代表選出方法 は異なっていたが、労働界 と実業界か らの代表選 出には 間接選挙の方式が とられた。

労働界では、広州の有力労働組合であった総工合や華僑工業聯合金な どがそ れぞれ代表 を送 り込 もうとしたために

20

余万人が選挙人登録 をした。そこで選 挙委員会 は、労働界が先ず選挙人団を選びこの選挙人団が

3人の代表 を選ぶ と

いう方法 を認めた(35)。労働界では広州労働界市参事準備所 を設けて代表選 出作

(10)

業 を進 めたが、選 出方法 をめ ぐる対立で工 団総会 な どい くつかの労働組合 は準 備所の合議 をボイコ ッ トした銅。

実業界の代表選 出作業 は総商会が中心 となって進めた。選 出方法 については や は りい くつかの議論があったが、各業種の団体か ら代表一名 を先ず選び、彼

ら業種別代表 によって3人の参事が決め られた(3刀。

法律界代表の選 出は、1

921

6月 5日に約1 00

名の弁護士 (行政官吏 になって いた法律家は規定に よ り除かれた) による投票で行なわれた。 しか し、投票方 式が条例の条文に適合 しないのではないか とい う意見が一部の弁護士か ら出 さ れ、開票 と当選者の決定はで きなかった鍋。

技術界代表参事の決定 も順調 ではなかった。1921年

5

月に一旦、アメ リカに 留学経験のある台山県出身のエ ンジニア朱汝梅 が技術 界代表 に決 まったが、

6

月、測量技士の団体 が技術界代表の選出過程への参加 を要求 したのである(39). 技術界に測量技士が含 まれ るか どうかの規定は条例 にはなかった。

医療 界では西洋医 と漢方医がそれぞれ代表 を選 んで しまい互 いに譲 らなか っ た鋤。

上述の ように各職能団体の市参事選 出は混乱 し

、1921

6

月中旬の段 階で も ほ とん ど決 まっていなかった。

一方、広東省長陳桐 明は1

921

6

月4日、指名で きる

1 0

名の市参事の内

3

名 を決定 した。その三名は鍾栄光 ・黄換廷 ・屡泳筒 で、すべて市選挙委員であっ

た射)

第三節 選挙運動 と投票

広州市市参事の うち1

0

名の民選参事の選挙 は広州市市選挙条例

( 1 921

2月

広東省長 によ り発布) に基づ いて行なわれ ることになっていた。 その規定 に従

って省長 は民選市参事の選挙 を

1 921

6

1日に実施す ると宣布 した。

1 921

3

月中旬、広州市民 に選挙 人登録 の手続 きにつ いての通 知が な され た(42)。通知 に よると、選挙人登録がで きるのは満21歳以上で 1年以上広州 に住 む中国国籍保持者であ り、広州市暫行条例の条文 を朗読で きなければな らなか

(11)

った。 市 民 は登録 をす る と登録証 と候 補 者推 薦票 ( 立候 補 者 は これ を 1 00 枚 以上 集 め な けれ ば正 式の候補 者 と して認 め られ なか った( 4 3 ) ) を受 け取 ったが、 これ には 当初 2角 の登録 「 証 金」 と一票 あた り 2角 の代金 を払 うこ とが義務づ け ら れ た。 しか しこの登録 「 証 金」徴収 は広州 市民 か らの反 発 が強 く、 5 月 3 日、

省 長 と市選 挙 委 員会 に よって取 消 され た( 4 4 ) 。 しか し一票 あた り 2角 で投票 用紙 を購 入 しな けれ ばな らな い とい う規 定 は残 った。

1 921 年 3 月下旬 頃 よ り、様 々の 団体 ・個 人 に よる選挙運 動 が始 まった。 中国 国民党 は謝英伯 ・謝 良牧 ・凋 自由 の 3 人 を立 て た。女性 運動 の団体 も伍 智梅 ・ 郡毒芳 ・劉 少壁 とい う 3 人の活動 家 を推 した。 また、実業 界 は もと もと職 能別 選 出で 3 人の枠 を もって いたが、 貿 易会社 や たば こ会社 の い くつ か はそれ ぞれ の代 表 を立 てて選 挙運動 を進 め た( 4 5 ) 0 5 月初 め まで は選 挙 人登録 に 「 証 金」 が 必要 で あ ったの で有権 者 の 買収 が広 くお こなわれ て いた( 4 6 ) 。 各投票 区の事務 員 の 中に は 白票 を売 る者 もあ った( 4 刀。

選挙運動 それ 自体 を商売 に して しまう者 も現 われ た。彼 らは 1, 000‑2, 000 元 で 当選一 人 を請負 ったので あ る。彼 ら選 挙請負 い業 者 の顧 客 は電 力会 社 、水道会 社 、 た ば こ会社 な どで あ った とい う( 4 8 ) 。 電 力会 社 と水道会社 は市政 庁公用 局傘 下 の公共事業体 で あ った。

市 の 公 安 局 に よ る戸 口調 査 は、広 州 市 の有権 者 が 90 万 人以 上 で あ るこ とを 示 して い たが 、1 921 年 4 月下 旬 の 時 点 で選 挙 人登 録 を した者 は 15 万 人余 りで あ った( 4 9 ) 。 しか もこの 中 には選 挙 請負業者 が勝 手 に、実 際の有権 者 本 人の知 ら ない うち に登録 して しまった数 も含 まれ てい美 。

1 921 年 6 月 1 日、広州 市 内 37 か所 の投票所 で民選 市参事選 挙 の投票 が お こな

わ れ た。 投 票 に来 た市 民 は約 12, 000 人 で あ ったが 、 開票 す る と得 票 数 第 1 位

の候 補 ( 零 芝廷 )と得票 数 第 2 位 の候 補 ( 何 国光)にはそれ ぞれ 3 0, 000 以上 の票

が 入れ られ て いた( 5 0 ) 。投票 開始 前 に数 多 くの票 が投票箱 の 中 にか くされ て いた

の で あ る。 あ る投票 区 には数十 人の有権 者 しか投票 に来 なか った に もかか わ ら

ず、投票 箱 の 中か らは数 百 の票 が現 われ た 仰 。投票 日当 日は相 当組織 的 かつ あ

か らさ まな買収 もあ った。 あ る候 補 者 ( 王某 ) は一 人 8 角 で労働 者 5 00 名余 り

を雇 い、彼 らに投票 させ よう と した。 しか しこの試 み な投票 所職 員 に阻止 され

(12)

て しまった(52)o

この ような選挙違反の動 きに対抗す るため女性運動活動家の郡意芳や葉恵宜 らは 自主的 に民間選挙監視団 を組織 して各投票 区 に送 った。彼女 たちは投票 開 始前 にすでに票 でいっぱいになった投票箱 を発見 したが、投票区事務員や選挙 監察員 は見て見ぬふ りを した とい う(53)0

6

2

日か ら開票 がお こなわれ、

6

4

日には一応 の得票数が明 らか にされ た(54)。 しか し、投票 直後部意芳 らが広州 の高等裁判所 に選挙の無効 を訴 え、裁 判 の過程 で多 くの不正が明 らか にされて しまった(55).

6

月中旬、高裁裁判長の 陳鴻鐙 は

6

1日の市参事選挙の無効 とや り直 しを命 じた鍋。 この判決 の前後、

5

人の市選挙委員 は相次 いで省長 に辞表 を提 出 した(58。省長 は慰留 したが、結 局

6

月下旬市選挙委員会 は 自ら解散 して しまった(58)。省長 はこの解散 を認め な か った 。

第四節 再選挙 と市参事会の成立

省長陳駒 明は結局、市選挙委員

5

人に1

921

9月 1日の再選挙 を命 じた。 第

一 回選挙の ような混乱 を避 け るため に次 の ようない くつかの措置が講 じられた。

買収 の温床 とな った有料 の選 挙 人登録 ・投票 用紙発給 をや め、投票 所 は37か ら

12

に限定 されすべ て に選挙委員 または省長特派の監督 がつ くようになった。

投票用紙 は省署 で特製 し投票 日まで持 ち出せ ない ように した。 また、

6月 1日

選挙の時 に選挙事務員 として働 いていた者 は

9月 1日選挙 では事務員 として採

用 されない ように した(5

9

)0

9

1日の再選挙 で も本 人確 認の困難 さか ら くる混乱 な どが一部 に見 られた

が、 おおむね投票 は正 常 にお こなわれ、92日開票 された。 この選挙 では最 多得票者の得票数 は

1, 831

票 で、 当選最下位の 第1

0

位 は

3 79

票 であった。

6

月 の第‑ 回選挙 で第

1

位 であった電芝延 は

9

月の再選挙 で も ト リブ とな った。

6

月選挙 で 「当選 した」候補者

10

人の うち

6

人は

9月選挙 で も当選 した銅。女 性

運動活動家 で鉄道 労働 者 の支援 を受 けた邪悪芳 は

6月選挙 で は第1 3

位 で落選 したが、

9

月選挙 では第

8

位 にな り当選 してい る。 中国の組織 された近代都市

(13)

労働者が代議制 を通 して 自らの代表 を政策決定 を担 う機関に送 り込んだ最初の 例であろう。

1 921

9

月には紛糾 していたい くつかの職能団体代表の選 出 も終 わ り、同月 下旬、粁余曲折 を経た広州市参事会の構成は一応完了 した。確認で きる範囲で は、 当選者の中に国民党系の候補 はいなかったのである。

第四章 結

1 92 0

年11月か ら

1 922

6

月まで存続 した第二次広州政府下の広州市政検討に あたって市政 諸制度の制定過程 と市参事会員の選 出過程 をとりあげたのにはい

くつかの理 由がある。

第二次広州政府の二人の指導者、陳桐明 と孫文の政治路線 は、後の両者の対 立か ら類推 されて必要以上 に対立 的 に とらえ られ るこ とが多かった。確 か に

1 922

年 にはいると 「自治」を優先 しようとする陳 と手段が武力であろうとも 「統 一」 を重視す る孫の対立 は深 まるが、1

92 0

年か ら

21

年の時期 について言えば両 者 とも広東省における代議制的地方 自治政府の県 ・市 レベル における樹立 に関 心 をもっていた¢l)。彼 ら二人に とっては、県 ・市 レベルの政治改革 は近代国家

としての中国の建設に不可欠であったのである。

地方 自治制整備の諸課題 にどう優先順位 をつけるか、そ して改革の速 さはど の程度にす るのか といった問題 については、第二章で一部明 らかになった よう に、広州政府 を支 える主要政治指導者の間で も論争があった。孫文の側近 であ った胡漠民や厚仲憶が代議制 を限定す る 「保育主義」 を主張 したのに対 し、陳 桐明の参謀役であった金華 は早 い時期の市長民選 に賛成であった。広東省議会 は 「保育主義」 に当初 は反対 したが、省長陳桐明の説得 もあ り大枠では省制編 纂委員会の提案 を支持 した。

市参事会 は広州市政 に不完全ではあるが代議制的諮問機 関 を導入 しようとす る試みであった。第三章でみた ようにその選挙 は惨惰 たる結果 (不正が多 く、

実質的な投票率 は約

1

パーセ ン ト)であ り、胡漠民 らの 「保育主義」の主張が 正 しかったことを示 していた。胡 ・屡 らと世代がひ とつ違 う孫科 はアメ リカで

(14)

教育 を受 けた とい うこ ともあ り、い くぶん理想主義的な考 え方 を もって欧米的 な都市 自治制度の一部 を中国 に導入 しようとした。 しか しなが ら一方では、孫 科の考 え方 は広東省省議会議 員のかな り大 きな部分の支持 を受 けていたのであ

る。

広州市の選挙では孫文率 いる中国国民党の組織 的影響力は弱かったが、一方女 性運動 ・労働運動 はその力を部分的に発揮 した

。1 9 2 4

年以後、国共合作体制の中 で再編 ・統合 されてい くこ とになる五四事件後の広東の多様 な社会 ・政 治運動 が広州市の政治 に具体的な影響 力 を与 えは じめ るきっかけ として市参事の選挙 を位置づ けることも可能である。 この点 については

1 9 2 2‑2 4

年の広州 における 大衆組織 の展開を詳 しく調べ る必要がある。

市政制度の制定過程 と市参事の選 出過程か ら明 らか となった広州市の政 治体 系のひ とつの特徴 は、省 レベルの体系‑の高度 な依存性であろう。条例 の公布、

市長の任命、内部紛争の処理等 々 といった市政上の重要事項 が ことご と く広東 省長 に属 していたのである。 この点については

1 9 2 1

5

月の広州 国会非常会議 に よる総統選 出に ともな う上位政権 の 「軍政府」か ら 「正式政府」への改組 は 何 ら重大 な影響 を与 えていない。 中国の政治体系 は多層的な分裂状態 にあった とはいえ、少な くとも

1 9 2 0

年代初期の広東省では省長集権制 と呼べ る事態が形 成 されていたのである。 この省長集権制が代議制 を通 じて民意 を統合 し、その 結果 として省民 を社会 の近代 的再編 に動員で きるものであったな らば

、1 9 2 0

年 代前半の 「聯省 自治」運動 は再検討 されなければな らないであろ う。

(15)

〔注〕

(1)

地域政権 としてのこの 「 政府」 を 1 9 2 0 年1 1月か ら 1 922 年 6 月までのひ と つの政権 として とらえることがで きる所以 は本稿 における広州市政の分 析でその一端が示 され る。尚、県 レベルの政治については1 921 年 5月が 画期 とな らないこ とは次の拙稿 で示 されている。 (「 広東省における自 治要求運動 と県長民選 ‑ 1 92 0‑1 9 21 年‑ 」、ア ジア政経学会 『 ア ジア研究』3 8 巻 3 号、1 992 年 3 月、7 3‑1 05 頁。)1 921 年 5 月の前後で広 東省内の県政改革推進 について政策の大 きな変化 は観察で きないのであ

る。

(2)

諸見解 を大 まかに二分す ると次の ようになる。㊨‑ 地方 自治の推進者 としての陳桐明を積極的に評価 し、第二次広州政府 を自治指向の地域政 権 ととらえる。㊨‑ 中国の民主的統一の推進者 としての孫文に注 目し、

第二次広州政府 を、中央政権 としての正統性 を北京の政権 と争 う交戦団 体 もしくは正式中央政府 ととらえる。④の立場 に立つ主な研究は以下の 通 りである‑ ジェローム ・チェン著、北村稔 ・岩井茂樹 ・江田憲治訳

『 軍紳政権‑ 軍 閥支配下の中国』、岩波書店、1 98 4 年。康 白石 『 陳 桐 明伝』、文芸書屋、香港 、1 97 8 年。 また、⑧の立場 に立つ主 な研究 は以下の通 りである‑ 池田誠『 孫文 と中国革命』、法律文化社、1 9 83 年。

中国人民政治協商会議全国委員会 ・幕末省委員会 ・広州市委員全文史資 料研究委員全編 『 孫 中山三次在広東建立政権』、中国文史出版社、北京、

1 9 86 年。陳敏 「 陳胴明的 " 聯省 自治' '及其与孫中山的衝突」、 『 近代史 研究』1 989 年 第一期。段雲章 ・邦捷 『 孫 中山与 中国近代軍 閥』、四川 人民出版社、成都、1 990 年。 もとより以上の分類 はきわめて大 まかな も のであ り、細かな論点については論者のそれぞれの観点は異なる0 ( 3) 第一の試みは広東省内の県 レベルの政治 を、特 に1 921 年 8 月に実施 され

た県選挙観察 を通 して、初歩的に分析 した。 ( 前掲拙稿)

(4)

広州市市政庁総務科編輯股編 『 広州市市政概要 民国十年』、広州市市 政庁総務科編輯股、広州、1 922 年、 l衷o ( 以下、本書 を 『 概要』 と略 記す る。 )

(5)

中国人民政治協商会議広東省委員会 ・広州市委員全文史資料研究委員令 編 『 広州百年大事記』上、広東人民出版社、広州、1 98 4 年、21 4 頁。 ( 以下、

本書 を 『 大事記』 と略記す る。 )尚、最初の公文書である 「 布告」光字第 1 号、『 軍政府公報』は、1 92 0 年1 2 月 1日付で、 「 広州 において護法政府 を建てる」 と述べていた。 この布告の発表 は1 2 月4日であった0 ( 中山 大学歴史系孫 中山研究室 ・広東省社会科学院歴史研究所 ・中国社会科学 院近代史研究所 中華民国史研究重合編 『 孫 中山全集』第五巻、中華書局、

北京、1 9 85 年、4 40‑441 頁。 )

(16)

( 6 ) 『 大事記』上、21 9 頁。

( 7 ) 『 概要』、 l衷o

( 8 ) 市政公所の歳入 1 65 万元の うち、 1 00 万元が電車借款 であった。 (『 華 字 日報 』 〔 香港〕、1 92 0 年1 1 月1 8 日)

( 9 ) 『 概要』、 1‑ 2 頁。 また、 『 華字 日報 』 〔 香港〕、1 9 2 0 年11 月1 7 日及 び同月1 8 日。

(10)

『 華字 日報 』 〔 香港〕、1 9 2 0 年1 2 月 6日、 9日及び1 4 日。

( l l ) 例 えば、以下の二論文 を参照。林志釣 ・ 皐侶 ・鍾襟之 「 陳桐明侶行聯省 自 治及民選県長見聞」、中国人民政治協商会議全国委員会 ・ 広東省委員会 ・ 広 州市委員全文史資料研究委員全編 『 孫 中山三次在広東建立政権』、中国 文史出版社、北京、1 9 86 年。陳敏 「 陳桐明的 " 聯省 自治〝及其与孫 中山 的衝突」、 『 近代史研究』1 9 89 年第 1 期。

(12)

『 華字 日報 』 〔 香港〕、1 92 0 年1 2 月9日及び1 921 年 1 月 3日.

『 概要』、 2‑1 7 頁。 また、 『 華字 日報 』 〔 香港〕、1 92 0 年1 2 月1 4 日、

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1 5 日 、1 6 日及び1 7 日。

『 華字 日報 』 〔 香港〕

『 概要』、 4‑ 5 頁。

『 華字 日報 』 〔 香港〕

『 華字 日報 』 〔 香港〕

『 華字 日報 』 〔 香港〕

『 華字 日報 』 〔 香港〕

『 華字 日報 』 〔 香港〕

『 華字 日報 』 〔 香港〕

1 92 1 年 1 月 3日。

1 9 2 0 年1 2 月1 5 日及び1 921 年 1 月 5日。

1 9 21 年 1 月1 3 日。

1 921 年 2 月1 3 日。

1 921 年 2 月1 7 日。

1 921 年 2 月1 9 日及び2 4 日。

1 9 21 年 2 月 2 5 日、 3 月 1 7 日及び 3 月1 8 日。

黄炎培編 『 一歳之広州市』、商務印書館、上海、1 922 年、1 7‑21 頁。

『 華字 日報 』 〔 香港〕、

『 華字 日報 』 〔 香港〕、

『 華字 日報 』 〔 香港〕、

『 華字 日報 』 〔 香括)、

『 華字 日報 』 〔 香港〕、

李宗黄 『 新広東観察記』

『 華字 日報 』 〔 香港〕、

1 921 年 3 月2 8 日。

1 921 年 2 月1 6 日 、1 8 日及び21 日。

1 921 年 2 月1 7 日。

1 921 年 2 月1 8 日。

1 921 年 3 月3日。

、商務印書館、上海、1 92 2 年、7 4 頁

1 921 年 3 月 1 4 日。

黄炎培編 、前掲書、9 6 頁。

李宗黄 、 前掲書、 5頁。

茸炎培編 、前掲書、9 7 頁。

『 華字 日報 』 〔 香港〕、1 921 年 3 月1 9 日。

『 華字 日報 』 〔 香港〕、1 921 年 6 月4日。

『 華字 日報 』 〔 香港〕、1 921 年 6 月1 6 日。

『 華字 日報 』 〔 香港〕、1 921 年 6 月 2 4 日。

(17)

( 3 7 ) 『 華字 日報』 〔 香港 〕

㈹ 『 華字 日報』 〔 香港 〕

㈹ 『 華字 日報』 〔 香港 〕 ( 畑 『 華字 日報』 〔 香港 〕 ( 4 1 ) 『 華字 日報』 〔 香港 〕 ( 4 2 ) 『 華字 日報』 〔 香港 〕

( 4 3 ) 広州市市選挙 条例 」

( 4 4 ) 『 華字 日報』 〔 香港 〕

( 4 5 ) 華字 日報』 〔 香港 〕

( 4 6 ) 『 華字 日報』 〔 香港 〕 ( 4 7 ) 李宗黄前掲書 、7 8 頁.

( 4 8 ) 『 華字 日報』 〔 香港 〕

㈹ 『 華字 日報』 〔 香港 〕

、1 9 2 1

6 月 2 1 日。

、1 9 2 1

6

6 日、 7 日及 び1 4 日。

、1 9 2 1

5 月 2 6 日及 び 6 月 1 3 日。

、1 9 2 1 年 5

2 8 日及 び 6

1 4 日 。

、1 9 2 1

6

4 日。

、1 9 2 1

3 月 1 1日。

の 第 1 3 条及び第 1 4 条。黄 炎培編 前掲 書 、9 0 頁。

、1 9 2 1

5 月 6 日

、1 9 2 1

4 月 2 日。

、1 9 2 1 年 4

1 6 日。

、1 9 2 1 年 4 月 1 3 日。

、1 9 2 1

4

2 6 日。

( 5 0 ) 李宗黄、前掲 書 、 7 8 頁。また、『 華字 日報』 〔 香港 〕1 9 2 1

6 月 6 日

o

( 5 1 ) 『 華字 日報』 〔 香港 〕 、1 9 2 1 年 6 月 3 日o

( 5 2 ) 企 てが失敗 したため、 この候補者 は約束 の 8 角 を労働 者 に支払 お うと し なか った。その ため 5 0 0 人 は候補者 の家の前で さわ ざ、結局警察 が出動

して彼 らを整理 し、王某 に約束通 りの 「 賃金」 を払 わせ た。 (『 華字 日 報』 〔 香港〕 、1 9 2 1 年 6 月 4 日)

(53)

李宗黄 、前掲 書 、7 8 頁。

( 5 4 ) 最 多得票者 は電 芝延 で 3 1, 5 9 0 票。 当選最下位 の第十位 は 1 2, 3 7 3 票 で あっ た。 (『 華字 日報』 〔 香港〕 、1 9 2 1 年 6

6 日)

㈹ 『 華字 日報』 〔 香港 〕 ( 5 6 ) 『 華字 日報』 〔 香港 〕 ( 5 7 ) 『 華字 日報』 〔 香港 〕

㈹ 『 華字 日報』 〔 香港 〕 ( 5 9 ) 『 華字 日報』 〔 香港 〕 ( 6 0 ) 『 華字 日報』 〔 香港〕

( 6 1 ) 前掲拙稿 、7 9‑8 3 頁。

1 9 2 1

6

1 0日及 び1 3 日。

1 9 2 1

6

1 8 日。

1 9 2 1 年 6 月 1 0 日 、1 6 日及び 1 8 日。

1 92 1

6 月 2 7 日。

1 9 2 1

8 月 6 日及び 1 2 日。

1 9 2 1 年 6 月 6 ̲日及び 9 月 5 日。

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