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モダニティのなかの「日本的なもの」

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(1)

1. はじめに

1920

年代は、東京や大阪のような大都市と、地方の農村とのさまざまな不均衡がはっき りと現れてきた時期である1)。ハリー・ハルトゥーニアンは、この時期の東京や大阪のよう な大都市が「新しい生活形態を想像し形象化する言説に巨大な空間を供給し、誰にとっても いまだ生きられたことのないような現実をファンタジー化する場所となった」と指摘し、そ のような現実を「モダンライフ」と呼んだ2)。例えば、「文化住宅」として結晶するよう描 かれたようなライフスタイルは、第一次世界大戦以後の都市文化のイメージを形象し、それ はメディアによって増幅されていく3)

この「モダンライフ」の文化や表現を特徴付けるものを、本稿では「モダニズム」と呼び たい。柳田國男のような戦間期の理論家たちは、この「モダンライフ」の登場が文化的な危 機―伝統的に培ってきたものが「モダニズム」によって超克されてしまうという危機―

を惹起する、と理解した4)。「モダニズム」は、文化的な伝統に対する広範な視点を改めて 構成した、とも言い換えられるかもしれない。この「モダニズム」を駆動させているもの、

あるいは刺激と消費、生成と変転の絶え間ない運動を、本稿では「モダニティ」と呼ぶ。「モ ダニティ」とは、デヴィッド・ハーヴェイの言葉を借りれば、「何らかの、あるいはすべて の先行する歴史的状況との容赦ない断絶を伴うだけでなく、モダニティ自身に内在する断絶 と崩壊の終わりのないプロセスによって特徴づけられる」ものである5)。「モダンライフ」

を特徴づけるのが「モダニティ」であるといってもよいだろう。

このような「モダンライフ」に対する危機感の表れとして、日本では

1930

年代に入ると「日 本的なもの」または「日本的なるもの」という言葉が登場する(本稿では前者で統一する)。

一般的に「日本的なもの」とは、日本固有の事象やシステムと思われるもの、あるいは文化 的アイデンティティを示すと思われているもののことを指し、それらの多くは前近代に由来 をもつと考えられることが多い。そのため、しばしば伝統と同義のように扱われ、いわゆる 日本人論や日本文化論のような議論とも近接性がうまれやすい6)。しかし、近代における文 化や伝統の構築性が論じられるようになって以降、「日本的なもの」に対する関心は、それ が指す具体的内容についてよりも、いかなる文脈のもとにそれが成立したのかという方向へ

モダニティのなかの「日本的なもの」

―建築学者岸田日出刀のモダニズム―

岸     佑

(2)

向かっているように思われる7)。例えば建築家の磯崎新(1931-)は、「日本的なもの」をい わば外部との交通を通して構成される思想的反応と捉え、文化的交流が生み出すダイナミク スのなかで論じている8)

その指示する内容はともあれ、「日本的なもの」という言葉は、1930年代に出自がある。

この言葉は、河田和子によれば、1930年以降になって初めて雑誌の見出しなどに用いられ るようになり、1930年代後半へ向けて使用頻度が増えていく言葉であるという9)。建築専 門誌に「日本的なもの」という見出しが登場した最も早い例は、『国際建築』の「日本建築 特集」号(1934

1

月)に掲載された、瀧澤真弓(1896-1983)による「日本的なるもの」

という文章である。もちろん伝統建築に対する関心が、この時期までなかったわけではな 10)。むしろそれまでの伝統建築に対する関心とは異なる位相をもつものとして、この時 期に建築における「日本的なもの」という言葉が登場していると捉えるべきではないだろう 11)。そうであれば、「日本的なもの」は、「モダニズム」に対する一つの反応として、そ して

1930

年代における「モダニティ」のひとつの表れとして考えることも可能だろう。

本稿は、上記のような理解に立った上で、建築学者の岸田日出刀(1899-1966)に注目し、

「モダニティ」という観点から岸田が「日本的なもの」をどのように理解していたのかにつ いて論じたい。岸田日出刀は、日本近代建築史においても言及が多い建築学者ではない。そ のため本稿では、まず岸田日出刀という人物について概略的に記述し、それを基にして日本 近代建築史において岸田が果たした役割の位置づけを試みてみたい。つぎに、岸田の洋行報 告などを参照しながら、岸田が「モダニズム建築」をどのように理解していたのかについて 言及する。岸田にとって、「モダニズム建築」と地域性とは強い結びつきを持つものであった。

これらの結びつきを論じる言説は、1930年代においては、「日本的なもの」をめぐる言説の なかに生じている。この時期に、建築における「日本的なもの」がどのような言説を繰り広 げていたのかについて論じた上で、岸田自身が建築における「日本的なもの」をどのように 理解していたのかを論じたい。

2. 岸田日出刀

岸田日出刀は、東京帝国大学および東京大学(以下、東大)の工学部建築学科の教授を務 めた建築学者である。1899年に福岡で生まれた岸田は、旧制第一高等学校を経て、1922 に東大工学部を卒業後、東大営繕課技師となり、1924年に東大工学部助教授、そして

1929

年に教授となり

1959

年に定年を迎えるまで、東大で教鞭をとり続けた。本人は、19世紀生 まれだといわれると、20世紀の生まれだと言い張ったらしい12)。東大では、長年建築意匠 設計を担当し、東大退官後は岸田建築設計事務所を開設して設計活動を行ったが、1966 に急逝した。

岸田は、ゴルフを愛した趣味人として知られる。そのことは、パタークラブを握った姿が 没後編集の評伝本冒頭を飾っていることからも推察できる。山中カントリークラブといった

(3)

ゴルフ場のクラブハウスも設計しているが、岸田が設計した建物のうち、建築専門誌などに 発表された作品は少なく、著作の中でも自らの作品に言及することは滅多にない。岸田が設 計した建築として知名度が高いのは、1960年代の学生運動のシンボルとして知られる東大 安田講堂だろう。1921年に工事がはじまり、関東大震災による中断を経て、1924年に竣工 したこの建物は、岸田の設計としては初期のものに属する建築で、外観の意匠デザインには ネオゴシック様式が採用されている13)。関東大震災前から東大本郷キャンパスにあった建 物には、外壁にスクラッチタイルが多く使われているが、安田講堂の外壁にはスクラッチタ イルではなく、赤レンガが用いられているのも特徴としてあげられるだろう。単著・共著を 含め著作の数は多いが、その内容は建築に関する専門的な学術書というより、一般向けのエ ッセイや写真集がほとんどを占めている。雑誌新聞記事数や著作の刊行数の推移をみると、

岸田の執筆活動の重心は

1930

年代から

1950

年代に集中しているようだ。

2.1. 岸田の教え子たち

日本近代建築史において

1930

年代から

1950

年代にかけての時期は、ヨーロッパから入 ってきたモダニズム建築が、都市部の公共建築や経済的に豊かな階層の邸宅を中心に定着を みせ、戦争による停滞を経ながらも、やがて国内の地方各地へ広がっていく時期であっ 14)。モダニズム建築の定義は、その表記法も含めてさまざまな議論があるものの、さし あたり本稿では、機能主義や合理主義といった思想を基礎に鉄・ガラス・コンクリートとい った建築素材を用いて、抽象的な形態の建物を設計する手法のことを指すと理解する15) 岸田が活動した時期は、まさにそのようなモダニズム建築の揺籃期から興隆期に位置してい た。

日本近代建築史における岸田の評価は、建築学上の学術的功績や建築史的価値の高い建築 の設計者としてではなく、教育者としての功績に基づいているといえるだろう16)。例えば、

岸田の影響を受けた教え子としては、前川国男(1905-1986)、丹下健三(1913-2005)、浜口 隆一(1916-1995)、郭茂林(1920-2012)といった建築家や建築評論家があげられる。

前川国男は、江戸東京たてもの園の自邸(1942)、東京文化会館(1961)そして国際基督 教大学湯浅博物館(1982)など、多くの建築を設計したことで知られる17)。前川は、建築 家ル・コルビュジエ(1887-1965)のもとで設計を学ぶべく大学を卒業したその日の夜、シ ベリア鉄道にのってパリへと向かったというエピソードをもつが、この情熱を前川に与えた のは、岸田が所蔵していたル・コルビュジエの著作だった18)

丹下健三は、広島平和記念公園(1949)や国立代々木競技場(1964)などを設計したこ とで知られる世界的な建築家である19)。丹下の世界的な名声は、広島平和記念公園とその 施設の計画によって確立するが、岸田は丹下が世界的名声を獲得するまでの設計活動をサポ ートしていた。

郭茂林は、植民地時代の台湾に生まれ、終戦後に日本国籍を取得した建築家である20)

(4)

霞が関ビルをはじめ、西新宿にある超高層ビル街や池袋のサンシャインシティなどの構想・

設計に携わり、東京都心にある超高層ビルの景観をつくりあげるのに中心的な役割を果たし た。また、浜口隆一は、戦後日本を代表する建築評論家のひとりで、終戦直後に『ヒューマ ニズムの建築』を出版し、戦後日本建築の理想像を提起したことで、その名を知られてい 21)

2.2. モダニズム建築のプロデュース

岸田自身は

1947

年から

1948

年まで日本建築学会の会長を務め、優れた建築物を評価す る建築学会作品賞を設けるなど、工学技術よりだった日本建築学会の方向をデザインよりへ 向かわせる役割を担った。1937年には、第

12

回オリンピック東京大会(1940年)へむけ た施設調査のためにナチス政権下のベルリンへ派遣され、ベルリン・オリンピックを視察し ている22)。帰国後に岸田は、東京開催のオリンピックでは

10

万人収容のメインスタジアム を建設するべきであり、当時陸軍が練兵場として保有していた代々木の一帯をメイン会場に するべきだと主張した23)。この主張は、戦後に開かれた第

18

回オリンピック東京大会(1964)

で間接的ながら実現している。

18

回オリンピック東京大会開催にあたって、岸田は大会施設設備委員会の委員長を務 め、オリンピック関係のさまざまな施設設計者を決定する権限と責任を担った。例えば、日 本武道館を山田守(1894-1966)に、オリンピック選手村を清家清(1918-2005)と菊竹清訓

(1928-2011)に、駒沢公園を芦原義信(1918-2003)に、国立代々木体育館を丹下健三に、

それぞれ設計を任せている。途中でこの人選の不透明さを非難する意見が表れたが、岸田は それについて「施設特別委員会の委員長であるわたくしがその全責任を負う」と言い切っ 24)。また、名神高速道路の建設にあたっては、トールゲート(料金所)やサービスエリ アといった関連施設の設計を、坂倉準三(1901-1969)や村野藤吾(1891-1984)といった建 築家に依頼している25)

このような岸田の活躍は、モダニズム建築が日本の都市景観のなかに溶け込んでいくため の重要な影響をもっていたといえよう。そこで必要とされていたのは、それぞれの建物にお いてモダニズム建築がどのように実現されるのか、という個々の建築の評価以上に、モダニ ズム建築の思想や理念が日本の近代化や伝統性といかなる関係を結びうるのか、あるいはモ ダニズム建築の理想や信念が都市や景観の公共性といかなる関係をもつのか、という、総体 的かつ美的/感性的理解および評価であったように思われる。そして、モダニズム建築をめ ぐる岸田の理解や態度に大きな影響を与えたのは、大正末から昭和初年にかけての洋行であ った。

3. 「理解」と「採用」

1926

年に岸田は、約

1

年かけて洋行している26)。洋行の経路は、1925年末に横浜を出航

(5)

したあと、ホノルル経由でアメリカ合衆国に渡り、西海岸から東海岸へと大陸を横断してか らヨーロッパへと向かって、ベルリン、パリ、ロンドンを拠点として半年ほど滞在したのち、

シベリア経由で日本に帰国している27)。岸田にとって、これが最初の海外渡航だった。

岸田は、帰国後に建築学会や建築雑誌上で洋行報告を行っている。確認できる報告は二つ あり、ひとつは

1927

年の『建築年鑑』に収録された「欧米建築界の趨勢」、もうひとつは

1927

7

月に刊行された『建築学会パンフレット』に収録されている「海外に於ける建築 界の趨勢(1)」である28)

3.1. 洋行と報告

「欧米建築界の趨勢」では、欧米での建築表現の主流が表現主義から「新しい建築精神」

に移行していることを報告し、そこに決定的な差異を認めていた。すなわち表現主義は、「著 しく主観的な、感情的な、また時によりて非常に浪漫主義的の傾向」があり、「幻想を追い、

形態に憧れるという、自ら掘った陥穽に落ち込む危険性を少なからずもつ」のに対して、「新 しい建築精神」は「建築の科学的精神又は工業的精神とも言わるべき純客観的立場に立つも のである」29)。後者の最も特徴的な点は、科学の発展そして現代生活の基礎となる機械がも たらした秩序と経済を課題とする点にあり、秩序と経済を極度に強調する点で「過去の如何 なるものよりも区別づけられる」と岸田は述べている30)。ここで岸田が「新しい建築精神」

と言っているものは、モダニズム建築のことだと解してよいだろう。

もうひとつの報告「海外に於ける建築界の趨勢(1)」では、モダニズム建築の動向につい てより具体的に言及している。岸田がとりあげているのは、アメリカ、フランス、ロシア、

ベルギーの

4

カ国である。岸田はアメリカの高層建築の林立を「純経済上の原因、即ち物質 的の原因」に求め、その例外としてフランク・ロイド・ライト(1867-1959)に言及する31) フランスについては、コンクリートの父と呼ばれるオーギュスト・ペレ(1874-1954)など にも目配せをしながら、ル・コルビュジエの建築理論について詳細に言及している。また、

ウラジーミル・タトリン(1885-1953)をはじめとするロシア構成主義、アンリ・ヴァン・デ・

ヴェルド(1863-1957)を含むベルギーの建築についても報告していた。

3.2. 報告と理解

二つめに言及した「海外に於ける建築界の趨勢(1)」にある、「理解4 4と採用4 4とは全然別の ことである」という表現に注目したい32)。この一文は、ル・コルビュジエの建築を批判す る「英国のレーリー教授」に対して岸田が言及する箇所で登場する。

岸田によれば、レーリー教授はル・コルビュジエが表現主義の建築家であるエーリヒ・メ ンデルゾーン(1887-1953)の影響を受けていると指摘し、その根拠として「支柱を置くべ きところに却って置かなかったり、建物の角に窓を配して実際そこに在る柱を宛かもなきが 如き表現としたがる」点を挙げている、という33)。しかし岸田は、支柱がないのは構造上

(6)

の必要性がないからであり、角に窓を配置するのは採光上の工夫に基づくものであるとして、

レーリー教授の無理解を批判する。さらにレーリー教授は、ル・コルビュジエをはじめとす るドイツやフランスの建築家たちの設計を「危険な 実 験 」とみなし、そのような「危険な 実験」を「そのまま吸収する前に、先づ吾々は吾々のもつ長い伝統というものを考えたい」

とも述べている34)。このようなレーリー教授のモダニズム建築に対する態度は、岸田によ れば、「理解なきことよりきた拒否」であり、岸田は「かかる建築が全然理解できぬところ の彼等英国建築家は救われぬ」とまで述べている35)。ここで用いられている「理解」とい う言葉は、モダニズム建築がどのような原理に基づいて設計されているかを把握すること、

と言い換えても良いだろう。前述したように、表現主義とモダニズム建築は根本的に異なる 建築表現だと岸田は捉えていた。それを同一のものとみなすことは、岸田にとって、無理解 も度が過ぎるといえるものだったろう。しかも、そのような無理解に基づいて採用すること を批判する、つまりコルビュジエを誤解しているにもかかわらず、コルビュジエのような建 築を「そのまま吸収」して建てることを批判するのは、さらに理解しがたいものだったにち がいない。それゆえ、「理解と採用とは全然別のことであることに特に注意したい」という のである。

ならば、正しく理解した上で「そのまま吸収する」、すなわち正しい理解にもとづく採用 ならば許容されると岸田は考えているのだろうか。これは、翻って考えると、日本における モダニズム建築の受容態度とも関わる問題であろう。

3.3. 理解と吸収

岸田の洋行と前後する時期に、ル・コルビュジエの名前はその著作とともに日本に紹介さ れ、建築関係者の間で大きな話題を呼んでいた36)。そうした状況下で、岸田は「そのまま 吸収する」ことについて言及している。例えば、1929

4

月に行った講演「現代と建築」

で岸田は、次のように論じていた。現代建築の特徴は「合理的な建築、飽く迄秩序あり統一 ある建築、而もあくまで経済的な且つ能率よき建築」である37)。合理的な建築に国境はな くインターナショナルと言えるが、「フランスで合理的なもの必ずしも日本でそれと同じ程 度に合理的であるとは限らない」し、現代日本の建築が「単に形の上から、形式の上から模 倣するということは我々にとって何等の意義もない」38)

建築の現代性に対する目配りと共に、ある種の模倣に対する批判的視点は、同じ年に書か れた「建築の意匠」というエッセイでも共有されている。

現在の日本の若い建築家にとっては、コルビュジエやグロピュースは神様の如き位 置を占めている。そして彼等の作り出す建築の或るものは、よくもこれ程コルビュ ジエに似たりグロピュースに似たと思われるようなものさえある。これらをしかし 単なる模倣の故に価値なしと見ることはできない。かような勇敢な模倣も、やがて

(7)

は正しい日本の新しい建築を生むために是非一度は経なければならぬものと認める とき、模倣の価値も十分に肯定できる筈である。39)

現代日本の建築は、現代社会を反映する現代的なものでなければならない。グロピウスやル・

コルビュジエの建築は現代的であるので、それを模倣することは理解できる。確かに今のそ れは、「単に形の上から、形式の上から模倣する」ことにとどまっているだろう、しかし、

それはやがて新しい建築を生むために必要なプロセスであると考えられる限りにおいて、肯 定されるべきものである40)。このように岸田は、正しい理解に基づく模倣が創造へ転換す るならば、という条件つきで、模倣を許容する。現代の日本の建築は、現代的でなければな らず、それを理解する限りにおいてならば模倣は許される、と解釈できるだろう。さらに、「フ ランスで合理的なもの必ずしも日本でそれと同じ程度に合理的であるとは限らない」と岸田 が指摘していることにも注目したい41)。合理的であるという特徴を保有することが現代建 築の条件であるが、なにが合理的であるか、については慎重になるべきだというのが岸田の 意見なのである。

ヘンリー=ラッセル・ヒッチコック(1903-1987)とフィリップ・ジョンソン(1906-2005)

がニューヨーク近代美術館(MoMA)で「モダン・アーキテクチャー」展を企画していた のは、岸田がモダニズム建築に対してこのような理解を形成していたのと同時期である42) ヒッチコックとジョンソンは、「国際的前衛によってすでに一般に受け入れられていた三人 の新しい指導者たち」すなわちル・コルビュジエ、ワルター・グロピウス(1883-1969)そ してミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969)の建築的な「実践を論理的にひとつに合成」

し、その顕著な美学的原理として、「ヴォリュームの強調」、「シンメトリーあるいはその他 の種類の明白なバランスに対立するものとしての規則性」、「装飾の付加に対立するものとし ての、材料に固有の気品、技術的完璧さ、そして洗練されたプロポーションへの依拠」とい

3

つを掲げた43)

ヨーロッパを中心に展開していた近代建築運動は、この建築展によって、一定の傾向をも った、ひとつの表現様式と捉えられるようになり、1920年代末までの建築表現がグローバ ルな広がりをもつことが主張された。「インターナショナル・スタイル」はこの建築展から 生まれたのであり、その後に出版された同名の書籍によって、この「インターナショナル・

スタイル」は、1920年代から

1950

年代に現れた、個人や地域性を超えて世界共通の建築様 式の創造をめざしたものだった、と理解されるようになる。

岸田は、「インターナショナル・スタイル」を国際建築様式と呼び、それがグローバルな 広がりを見せていることは了解しつつも、次のように述べている。

新しい精神で現代の建築を最も忠実に考え、その目的の充足を具現させようとす る時出てくる結果が、自然とこの建物[東京中央郵便局]のようになってくるので、

(8)

敢えてそれを何式と定義のうちに入れる必要はないだろう([]内は引用者補)。44)

モダニズム建築がグローバルに共有されるということは、建築における現代性の表れなのだ から当然である。だからそれは、特定の様式あるいはスタイルとして理解するのではないし、

形式的な定義を与えられるものでもない。しかも、「フランスで合理的なもの必ずしも日本 でそれと同じ程度に合理的であるとは限らない」のであれば、建築の現代性を担保する合理 性や機能性といった特徴は、地域によっても差異が生まれるのではないだろうか45)。建築 が「土地と人とを背景」とする以上、気候風土に合わせた現代建築が作られなければならず、

それこそが建築の正しい伝統をなす、と岸田は考えていたのである46)

今日の日本の建築を現代のものたらしめるとともに、またそれを飽くまで日本のも のたらしめようという点に、今日の我々日本の建築家の大きな苦心がなされつつあ る。47)

岸田にとって「モダニズムを理解すること」と「モダニズムを採用すること」は全く別のこ とであり、モダニズム建築を「採用」することとは、合理主義や機能主義といった現代的な 思潮を基礎としながらも、個別の気候風土に適合するようなものでなければならない、とい う意味であったといえるだろう。それならば、建築における現代性の表れは、気候や風土と いった地域性とどう関わるかということが次の課題になってくる。

洋行帰国後の岸田は、ル・コルビュジエに言及しながら「モダニズムを理解すること」と はいかなることを述べていた。だが、次第に主張の重心は「モダニズムを採用すること」と はどのようなことであるのかという方向へ移動していくのである。換言すれば、「インター ナショナル・スタイル」をいかに日本の気候風土に適合させたものとしていくかということ が、1930年代以降の岸田の課題となっていった。それが、建築における「日本的なもの」

をめぐる議論である。

4. 建築における「日本的なもの」

モダニズム建築と地域性をめぐる議論は、建築における伝統の問題と接続していくように なる。それが、1930年代に登場した、「日本的なもの」についての言説であった。岸田もま た、1930年代の後半になると、建築における「日本的なもの」について、積極的に発言し ていくようになる。まずは、この時期に建築家たちが「日本的なもの」をどのように論じて いたのかについて、概略を確認したい。

4.1. モダニズムと日本

この時期に、建築専門誌を中心とした雑誌メディアをにぎわせていた主題のひとつに、洋

(9)

風の建物に瓦屋根を載せた日本趣味建築の評価をめぐる議論がある。日本趣味建築とは、社 寺建築に由来する瓦屋根のようなモチーフを西洋風の建物に用いた、折衷的表現の建築であ 48)。建築専門誌を通して日本趣味について発言していた建築家のほとんどは、日本の建 築的伝統を瓦屋根のような具体的なモチーフによって示すのではなく、簡素・単純・純粋と いう抽象的特質から理解するべきだと主張して、日本趣味を積極的に批判した49)。この批 判は、1933年から

1936

年まで日本に滞在した建築家ブルーノ・タウト(1880-1938)の著 作とも共振する50)。タウトは、『日本美の発見』や『ニッポン』といった著作出版を通して、

伊勢神宮はギリシャのパルテノン神殿に匹敵する、あらゆる建築のクラシックであり、桂離 宮は

150

年前に建てられた現代建築であると述べて、二つの建築を激賞した51)

建築史家の藤岡洋保によれば、この時期の日本趣味建築批判とその代替的な伝統解釈の主 張は、大別して

6

つの特徴(平面・構造の簡素・明快さ、素材の美の尊重、無装飾、左右非 対称、自然・周囲環境との調和、規格統一)に分けられる52)。これらは、「モダニズム建築」

を特徴づけているものでもあり、合理主義的観点による伝統理解の形成とも言い得るもので あったことから、やがて日本の伝統建築には現代的な合理性や機能性が内包されていた、と いう理解が広まっていくようになる。

4.2. 岸田日出刀の「日本的なもの」

岸田も「日本的なもの」については、上記と同様の主張を繰り返している。例えば岸田は、

「日本建築の美しさ」(1938年)では、次のように述べる。

何一つ余剰的なもののない素朴にして明快な形の中に造形上の純日本的要素という ものが強く表れていますが、このことはまた現代の建築が是非とも具備しなければ ならぬ肝要の要素でもあります。今日の建築は世界何れの国でもつとめて簡単化さ れようとしていますが、複雑な過去の建築をもつ西洋では大変な革命でありませう が、日本では何等目新しいことでも何でもなく、ほんとの日本の建築というものは 古くから素朴明快をその本旨としてきたのであります。53)

ここでは、現代建築の必要な要素とは純日本的要素であり、また世界の現代建築が向かいつ つある方向が日本ではすでに先取りして行われていた、という指摘がなされている。ここで は、現代建築の視線が日本の建築的伝統を発見するのではなく、発見された伝統が現代性を 表すものへと反転していると言えるだろう。

「日本的なもの」(1938年)という短文でも、同様の主張は繰り返される。直線性は 「古 くから日本で行われる住宅その他の建築に連綿として行われてきた日本的な手法」であり、

「大きな窓」は「在来の日本の建築に見られる特徴」であり、「装飾がない」ことは「日本古 来の伝統的な建築のうちよく日本的な要素を保有するものの特徴」、そして単色性の色彩を

(10)

もつ現代建築は、日本建築のよい模範となる54)。岸田の主張はモダニズム建築の判別しや すい特徴が「日本的なもの」へと反転しているが、1938年という時期だけをみて、ここに 戦争の影響が読み取るのは短絡的だろう。岸田のこの主張は戦後においても展開されている からである。

1948

年に書かれた文章では、建築の日本的なものの特質として、「構造即表現」、「表現の 簡明」、「無装飾性」、「明朗開放性」の

5

つが挙げられ、「「日本的」であることが「国際的」

であり「国際的」であることがまた「日本的」である」と述べられている55)。1958年の著 作に収録された「外国でうける日本の家」という文章でも、「「より多くの光と空気を」とい うのが、新しい時代の家の合言葉であるならば、日本の家は古いが、而も極めて新しいとい うことができよう」と述べている56)。このような、近代と伝統が反転した上で一致してい くような岸田の思考が、戦時下において形成されたものであることは間違いない。しかし、

それは敗戦によって再考を迫られるような時局性の強いものというより、いわば内側で徐々 に形成されてきた思考のように思われる。

4.3. 機械

伝統と現代をめぐるこのような認識が、1930年代後半に反転していった背景には、岸田

1920

年代半ばの洋行後に報告していた機械美に対する態度があるのではないだろうか。

1920

年代末から

1930

年代初頭にかけて、日本では機械の美しさが盛んに論じられた。なぜ 機械は美しいのか、それは機械には余計なものがなく、合理的であるから、というのがその 骨子である。無駄のないものがもつ美しさは、機械工業が急速に発達した

20

世紀の美である。

機械には必ず目的があり、それゆえ機械の合目的性こそが機械を機械たらしめている57) このような機械美への関心は、ル・コルビュジエの『建築をめざして』にも登場する。岸田 も、1930年に著した写真集で機械が新しい美を生み出した、と指摘していた58)

この岸田の機械美への関心は、事物の「構成」の美を切り取る写真的なまなざしと、機械 の合理性が生み出す美的特質への関心の二つに分かれているが、後者の意味での機械美への 関心は、具体的には岸田にとって建築というより構造物、特に橋梁への関心として残り続け 59)。例えば

1938

年の「東京の橋」という文章で岸田は、橋の美しさは合目的性にある、

と述べた上で、橋全体の美しさは無装飾であることと周辺環境との調和によって生まれる、

とも書いている60)。1950年の橋梁美という文章でも、「構造物は合目的性をもたなければな らない」、「実用性の満足に少しでも欠けるものは、美たりえない」と書いていた61)。前述 したように、合目的性、無装飾、周辺環境との調和を重視することは、1930年代後半から 建築における「日本的なもの」として登場してきた認識であった。岸田にとっても、それは 同様である。岸田にとって、建築における「日本的なもの」とは、機能美の建築思想から導 かれたものであり、戦後においても橋梁の美しさという問題として考え続けられた問題だっ たように思われるのである。

(11)

5. おわりに

岸田日出刀は、ヨーロッパの近代建築運動を紹介するとともに、それを現代的な表現とし て理解した上で日本に定着させようとした。岸田をはじめ、堀口捨己(1895-1984)、吉田 五十八(1894-1974)といった多くの建築家たちが、このようなモダニズム建築のいわば土 着化を試みているが、そこで重要な思想的基盤となったのは、建築における「日本的なもの」

をめぐる議論であった。岸田にとってそれは、機能美の建築思想に立脚したものであり、そ の関心は建築のみならず、橋のような構造物にまで広がっていたといえよう。

このような建築をめぐる思索は、近代日本の近代化(西洋化)と伝統という思想的・文化 的枠組みから捉えてみるとより興味深いように思われる。というのも、この二つは、「欧化」

と「回帰」のように、しばしば対立する特徴として扱われることが多いからである62)。モ ダニズムは、ヨーロッパから日本に移入されたもので、この対立に従えば明らかに前者に属 する。にもかかわらず、建築のモダニズムと伝統を論じるにあたっては、前者が後者へと反 転していき、近代化することと伝統を理解することが等置されて理解されていったのである。

モダニズムの受容は、「正しい」伝統理解につながり、「正しく」伝統を理解することは、現 代日本にふさわしい建築をモダニズムに基づいてつくることである。なお、ここで述べてい る伝統理解とは、簡素・単純・純粋という視点から神社・数寄屋・茶室といった建築を評価 する理解である。

モダニズムと伝統が一致することによって現代日本のあるべき建築が生まれる、という考 えは、近代化と伝統という思想的枠組みがいわば止揚されること、つまり近代の超克を試み たものと解することも可能だろう。しかし、青井哲人と田中禎彦が指摘するように、このよ うな建築における伝統とモダニズムを等置する視点は、1930年代後半からの中国大陸およ び南方への進出によって次第に変質していった63)。そこでキーワードとなるのは、「空間」、

「環境」そして「記念碑性」だったが、それについては稿を改めて論じたいと思う。しかし、

岸田自身は、「空間」や「環境」といった概念へと展開する

1940

年代の建築理論の先端的 な議論からは距離を置いているように見える。岸田の言説に「空間」や「環境」という言葉 がほとんど見出せないこともそれを裏付けるだろう。そして岸田は、設計者としての自らの 限界のようなものも理解していたのではないだろうか。そのことを示唆するエピソードを丹 下健三の発言から引用して終えたい。

丹下 いつだったか、内田[祥三]先生、岸田先生とわたしがたまたま一緒にい て、内田先生がぼくは岸田くんとデザインの傾向は大分違うんだけれども、岸田君 のデザインくらいはよくわかる。しかし丹下君になると、もうわからないね。(笑)

きみ、丹下君のはわかるのかねといって……。(笑)恐縮したことがあるのですね。

あとから岸田先生は、なかなかいいことを仰言ると思ったのですが、きみとやるこ とは違うけれども、きみのところくらいまではわかる。しかし、そういうのをやろ

(12)

うとは思わん、自分で……。64)

内田祥三は、関東大震災後の東大本郷キャンパスの復興計画を策定したことで知られる岸田 より年上の教授である。関東大震災前から東大にある建築物がゴシック様式で統一されてい るのは内田祥三の影響であり、内田の前では岸田は頭が上がらなかった、という逸話も残さ れている。様式建築を好んだ内田が、丹下のデザインが理解できないというエピソードも興 味深いが、それよりも注目したいのは、岸田が丹下のデザインを自分ではやろうとしない、

と述べていることである。

ここでは岸田が若かりし頃に「英国のレーリー教授」に対して向けた「理解と採用とは全 然別のことである」という言葉が、そのまま自らへと向かっている、と見ることはできない だろうか。岸田は自分で「やろうとは思わ」ないが「理解」をしていた。目利きとして、あ るいはプロデューサーとしての岸田の役割は、それゆえ為しえた役割だったと思われるので ある。

1) 成田龍一「民衆文化とナショナリズム」歴史学研究会・日本史研究会編『講座日本歴史 9 近代 3』

東京大学出版会、1985年、田崎宣義「都市文化と国民意識」歴史学研究会・日本史研究会編『講 座日本歴史

10 近代 4』東京大学出版会、1985

年、吉見俊哉「帝都東京とモダニティの文化政治」

『岩波講座近代日本の文化史

6 拡大するモダニティ』岩波書店、2002

年などを参照。

2) ハリー・ハルトゥーニアン『近代による超克(上)』梅森直之訳、岩波書店、2007

年、57頁。

3) ジョルダン・サンド「「文化住宅」というメディア文化の産物」『建築史攷』中央公論美術出版、

2009

年。

4) 例えば、ハリー・ハルトゥーニアン「共同 -

体」『近代による超克(下)』梅森直之訳、岩波書店、

2007

年、村井紀『新版南島イデオロギーの発生』岩波現代文庫、2004年。これに対する反応と しては、菊地暁『柳田国男と民俗学の近代』吉川弘文館、2001年などを参照。

5) デヴィッド・ハーヴェイ『ポストモダニティの条件』吉原直樹監訳、青木書店、1999

年、26頁。

また、デヴィッド・ハーヴェイ『パリ モダニティの首都』大城直樹・遠城明雄訳、青土社、

2003

年も参照。

6) 南博『日本人論(岩波現代文庫)』岩波書店、2006

年、青木保『日本文化論の変容(中公文庫)』

中央公論新社、1999年、杉本良夫・マスオ・ロア『日本人論の方程式(ちくま学芸文庫)』筑摩 書房、1995年などを参照。

7) 小 熊 英 二『 単 一 民 族 神 話 の 起 源 』 新 曜 社、1995

年、Stephan Vlastos(ed.), Mirror of Modernity,

University of California Press, 1998、鈴木登美、ハルオ・シラネ編『創造された古典』新曜社、

1999

年など。

8) 磯崎新『建築における「日本的なもの」』新潮社、2003

年。

9) 河田和子『戦時下の文学と〈日本的なもの〉』花書院、2009

年。

10)

例えば、清水重敦『建築保存概念の生成史』中央公論美術出版、2012年などを参照。

11)

例えば、この時期になって茶室・数寄屋造、神社に対する関心が登場したことがあげられるだろ

(13)

う。茶室自体は、明治のかなり早い段階で建築家の武田五一(1872-1938)が関心をよせていたが、

その後はこの時期になるまでほとんど研究が進展していない。茶室研究の基礎ともいうべき研究 は、建築家の堀口捨己(1895-1984)によって、この時期に形成されている。堀口については、

藤岡洋保の研究を参照。藤岡洋保『表現者・堀口捨己』中央公論美術出版、2009年。

12) 「岸田日出刀」編集委員会『岸田日出刀』相模書房、1972

年、173頁。

13)

ネオゴシック様式は、ゴシック建築の復興運動(ゴシック・リヴァイヴァル)―18世紀後半

から

19

世紀にかけてイギリスからはじまりフランスやドイツなどへと広がった―で用いられ た建築様式のことである。

14)

村松貞次郎・山口廣・山本学治編『近代建築史概説』彰国社、1978年、大川三雄・川向正人・

初田亨・吉田鋼一著『図説 近代建築の系譜』彰国社、1997年、鈴木博之編著『近代建築史』市 ヶ谷出版社、2008年、藤岡洋保『近代建築史』森北出版株式会社、2011年など。

15)

笠原一人「一九三〇−四〇年代の建築における「日本的なもの」と行為概念」伊藤徹編『作るこ

との日本近代』世界思想社、2010年。

16)

新建築編集部編『日本近代建築史再考 虚構の崩壊』新建築社、1974年。

17)

前川国男著宮内嘉久編『前川国男作品集』美術出版社、1990年、前川国男『建築の前夜』而立

書房、1996年、『生誕

100

年前川国男建築展』(展覧会図録)東京ステーションギャラリー他、

2005-2006

年(のちに、100年前川国男建築展実行委員会編『建築家・前川国男の仕事』美術出

版 社、2006年 と し て 書 籍 化 )、Jonathan Reynolds, Maekawa Kunio and the Emergence of Japanese

Modernist Architecture, Berkeley: University of California Press, 2001.

などを参照。

18)

前 川 が 読 ん だ の は、 ル・ コ ル ビ ュ ジ エ の『 今 日 の 装 飾 芸 術 』(Le Corbusier, L’art décoratif

aujourd’hui, Paris: G. Crés, 1925.)である。この本は、前川自身によって翻訳された。ル・コルビ

ュジエ『今日の装飾芸術(SD選書)』前川国男訳、鹿島出版会、1961年。前川国男とコルビュ ジエの関係については、佐々木宏『巨匠への憧憬』相模書房、2000年を参照。

19)

丹下健三・藤森照信『丹下健三』新建築社、2003年、豊川斎赫『群像としての丹下研究室』オ

ーム社、2012年などを参照。

20)

酒井充子「霞が関ビルはじめ東京の超高層ビルを手がけた台湾人建築家郭茂林という人生。」『東

京人』(2013

3

月号)。

21)

浜口隆一『ヒューマニズムの建築』雄鶏社、1949年。浜口については、浜口隆一『市民社会の

デザイン』而立書房、1995年を参照。

22)

岸田日出刀「伯林オリンピツクに就て」『建築雑誌』(1937

1

月号)。西村将洋「岸田日出刀

:

オリンピックの建築家代表」和田博文ほか編『言語都市・ベルリン

1861-1945』藤原書店、2006

年を参照。

23)

岸田日出刀「オリンピック競技を招くための建築的な施設」(1936

6

8

日)、「中心の競技場

は外苑以外の敷地を 素晴らしい伯林競技場」(1936

9

7

日)、「依然外苑案は不可 東京オ リンピック大会会場論」(1937

4

19

日)、「駒沢案を支持す オリンピックの彼方へ」(1938

4

18

日)、すべて『帝国大学新聞』に掲載。1940年の東京オリンピックについては、例え ば古川隆久『皇紀・万博・オリンピック(中公新書)』中央公論新社、1998年、坂上康博・高岡 裕之編著『幻の東京オリンピックとその時代』青弓社、2009年、片木篤『オリンピック・シテ

ィ東京

1940・1964(河出ブックス)』河出書房新社、2010

年などを参照。

24)

岸田日出刀「オリンピック東京大会とその施設」『新建築』(1964

10

月号)、116頁。

25)

名神高速道路建設誌編纂委員会編『名神高速道路建設誌(総論・各論)』日本道路公団、1966年。

(14)

26)

勝原基貴「大正末の海外渡航での岸田日出刀の行程について」『日本大学理工学部学術講演会』、

2012

年。

27)

勝原基貴「大正末の海外渡航での岸田日出刀の主な訪問都市について」日本建築学会『日本建築

学会学術講演梗概集』、2013年、965-966頁。

28)

岸田日出刀「海外に於ける建築界の趨勢(1)」『建築学会パンフレット』(1927

7

月)、岸田日

出刀「欧米建築界の趨勢」『建築年鑑(昭和

2

年度版)』建築世界社、1927年。

29)

岸田日出刀「欧米建築界の趨勢」『建築年鑑(昭和

2

年度版)』建築世界社、1927年、3頁。

30)

同上。

31)

岸田日出刀「海外に於ける建築界の趨勢(1)」『建築学会パンフレット』(1927

7

月)、3頁。

32)

同上、33頁。傍点は著者のもの。

33)

同上、32頁。

34)

同上、32-33頁。

35)

同上、33頁。

36)

藤岡洋保「大正末期から昭和戦前の建築界におけるル・コルビュジエの評価」『日本建築学会計

画系論文報告集』第

371

号、(1987

1

月)。

37)

岸田日出刀「現代と建築」日本建築学会『建築雑誌』(1929

8

月号)、26頁。

38)

同上。

39) 「建築の意匠」東京帝国大学美学談話会編『美学研究』第二集、第一書房、1930

年、212頁。

40)

表現が模倣をへて創造に展開するという文化的な構造は、岸田が

1932

年に出版した『日本建築史』

においても踏襲されており、文化受容におけるある種の構造的な理解がここでも顔をのぞかせて いる。岸田日出刀『日本建築史』雄山閣、1932年を参照。

41)

岸田日出刀「現代と建築」日本建築学会『建築雑誌』(1929

8

月号)、26頁。

42) H-R・ヒッチコック、P・ジョンソン『インターナショナル・スタイル(SD

選書)』武澤秀一訳、

鹿島出版会、1978年。展覧会とこの書籍の関係をふくめインターナショナル・スタイルの世界 的広がりについては、佐々木宏『「インターナショナル・スタイル」の研究』相模書房、1995 を参照。

43) H-R・ヒッチコック、P・ジョンソン前掲書、13

頁および

21

頁。

44)

岸田日出刀「東京の新建築を語る(1933

8

月)」『甍』相模書房、1937年、213頁。

45)

岸田日出刀「現代と建築」日本建築学会『建築雑誌』(1929

8

月号)、26

46)

岸田日出刀「建築に於ける特殊性」『セルパン』(1935

3

月号)、14頁。

47)

岸田日出刀「日本の近代建築」『扉』相模書房、1942年、203頁。

48)

日本趣味建築は、九段下の九段会館や名古屋市庁舎、愛知県庁舎などがその代表例とされ、戦後

になると、いわゆる「帝冠様式」と呼ばれて、建築における軍国主義の表れであると解されるよ うになった。これについて、様式史的な観点から論じたものとして、井上章一『戦時下日本の建 築家(朝日選書)』朝日新聞出版、1995年がある。

49)

藤岡洋保「昭和初期の日本の建築界における「日本的なもの」」『日本建築学会計画系論文報告集』

412

号、(1990

6

月)。

50)

このようなタウトの発見は、オリジナルなものというより、先導者がいたと考える方が自然であ

ろう。例えば井上章一『つくられた桂離宮神話(講談社学術文庫)』講談社、

1997

年を参照。また、

建築様式史的に見ればこの時期は、建築表現の主流がいわゆる様式主義建築からモダニズム建築 へと推移する移行期にあたると考えられている。タウトは、モダニズムの立場で伝統を評価する

(15)

言説を発表することによって、様式上のヘゲモニー争いをモダニズム側へと引き寄せた、ある種 のピエロ的役割を担ったのではないか、という指摘もある。この点については、八束はじめ『思 想としての日本近代建築』岩波書店、2005年を参照。

51)

ブルーノ・タウト『増補改訳版 日本美の再発見(岩波新書)』篠田英雄訳、岩波書店、1962年、

18-34

頁および

158

頁、ブルーノ・タウト『ニッポン(講談社学術文庫)』講談社、1991年、

29-37

頁および

54

頁。

52)

藤岡前掲論文。これらの特徴はむしろモダニズム建築とも共通するものであり、藤岡は、モダニ

ズムの視線によって初めてこの伝統認識が可能になったのではないか、とも述べている。

53)

岸田日出刀「日本建築の美しさ」『堊』相模書房、1938年、301-302頁。

54)

岸田日出刀「日本的なもの」『堊』相模書房、1938年、116-118頁。

55)

岸田日出刀「日本の建築はどう変る」『窓』相模書房、1948年、91頁。

56)

岸田日出刀「外国でうける日本の家」『縁』相模書房、1958年、168頁。

57)

このような機械に対する理解は、例えばハイデガーや三木清といった哲学者たちの技術に対しる

関心とも時代的な共通性を見出せるのではないだろうか。

58)

岸田日出刀『現代の構成』構成社書房、1930年。

59)

機械の「構成」的な美しさは、同時期に登場した写真のモダニズム表現とも密接な関係を持って

いる。拙稿「建築における「日本的なもの」と「新興写真」」ICU比較文化研究会編『ICU比較 文化』第

38

号、2006年、61-88頁を参照。

60)

岸田日出刀「東京の橋」『堊』相模書房、1938年。

61)

岸田日出刀「橋梁美」東京大学生産技術研究所編『生産研究』誠文堂新光社、

1950

年、

26-27

頁。

62)

例えば、ケネス・

B

・パイル『欧化と国粋(講談社学術文庫)』松本三之助監訳、講談社、2013年、

日本語版への序文および第

9

章、あるいは西川長夫『国境の越え方(平凡社ライブラリー)』平 凡社、2001年、126-152頁などを参照。

63)

青井哲人・田中禎彦「1940年代前半の建築学における「大東亜」をめぐる言説に関する考察」

神戸芸術工科大学編『芸術工学 ʼ97』、1997年。

64) 「岸田日出刀」編集委員会『岸田日出刀』相模書房、1972

年、232頁。

参照

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