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戦 前 青 森 県 に お け る 障 害 者 の 生 活 実 態

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(1)

弘前大学教育学部紀要 第5 4号 : 8 1 ‑8 9( 1 9 8 5

1 0 月) BuL L .Far .E劫c .Hi r o s akiUni z 7 .5 4:81 ‑8 9( Oc t .1 9 8 5)

戦 前 青 森 県 に お け る 障 害 者 の 生 活 実 態

安 藤 房 治*

Li f eo ft h eHa ndi c a pp e di nAo mo r iPr e f e c t ur e t xf o r et heWo r l dWarI I .

Fus a j iA NDO ( 1 9 85.7. 20 受理)

論 文 要 旨

青森盲唖学校 ( 大正1 4 年,青森盲人教育所 として創設)設立,発展の歴史的背景を解明す る前提的作業 と して,明治期後半 より昭和期初頭にかけての青森県におけ る障害者の生活実態を.盲人を中心に明らかに し た。

戦前, とくに明治期にあ っては障害者の多 くは農業生産の補助的な労働に従事 し,家族,親族等によって 農村社会の中で扶養 されていた。 しか し,資本主義の発展,農業人 口の減少により,障害者の生活基盤は除 々に動揺 した。農業社会において扶養不能 とな った障害者は,公的救済制度の不十分な中にあ って,一部は 独 自の職域に吸収 された ものの,それが困難な障害者は無業者層へ と流れていった。

1 . はじめに

戦前青森県において設立 された障害児のための学校は,八戸盲畦学校お よび青森盲唖学校のみであ った。

1) 筆者はすでに,八戸盲唖学校設立に至 るまでの青森県の障害児教育の歴史について明 らかに した。八戸盲唖 学校設立,発展の背景には,盲人 自身に よる自らの要求の組織化 とそれに対す る民間の篤志家たちの人的, 財政的援助があ った。 さらに,それに公的援助,施策が従 うとい う歴史的展開があ った。

加藤は,歴史的に表われ る障害者問題 とは, 「資本主義的生産関係か ら疎外 され ることか らお こる生活問 2)

題」であ り,障害者教育は 「この障害者問題か ら生れ る非組織的 ・組織的な要求 ・運動 ( 障害者,その家族 あるいは彼 らの要求を代弁す る教師や社会事業家などの運動)に よって初めて社会の関心を集め, この下か

3)

らの運動を前提 とし,運動 と一定の緊張 ・対抗関係において障害者教育に対す る政策が成立す る」 としてい る。

以上の視点か ら見 る時,大正末期に青森盲人教育所が設立 され,青森盲唖学校‑ と発展 してい く背景には, それ らを必要 とす る盲人の生活実態お よびそ こか ら生 じる教育要求が存在 し, この教育要求を代弁 し,活動

した人 々がいた と思われ る。本稿では,青森盲唖学校設立,発展の歴史的背景を解明す る前提的作業 として, 明治期後半 より昭和期初頭にかけての青森県における障害者の生活実態を,盲人を中心に明 らかにす ること を 目的 とした.

2 . 障害者の生活実態 1)障害者の出現率

戦前の青森県において障害者は量的に どれ程存在 していたであろ う。表 1 は,明治41 年の南津軽郡におけ

*弘前大学教育学部心身障害学科教室

De p a r t me ntofMe nt a la ndPhys i c a lHa n di c a p,Fa c ul t yo fEduc a t i o n,Hi r o s a kiUni ve r s i t y

(2)

表1. 明治 41 年南津軽郡におけ る不具者の種類お よび数

^ &

1

2 55

J

6 5

1

4 5 t1 2 8

I

1 6

J

6 4 1 3 2

1

7 8

1

3 9 出 現 率

( 人 口1 万人対比

)

2 4. 4 7

1

2 4. 3 7

1

6. 1 4 13. 0 7 1 1 1 . 2 3 山梨県 (明治

1 2 年)におけ る出現率(同) 1 ) 現 在 の 出 現 率(同)2 )

2 4. 6 9 ( 育) 2 1 . 4 8

( 視覚障害 1 ・2 級)

5. 7 6( 畦聾)

1 0 . 5 ( 警警護)

( 南津軽郡役所編,南津軽郡是全,復刻版 , 3 8 5 ‑3 8 7 頁 , 昭和 5 0 年) 表注 1 )山梨県におけ る出現率は,加藤康昭,盲教育史研究序説,昭和 4 7 年 ,7 4頁 よ り引用。同書に よれ ば, 「白痴」 とは 「まった く職業をな し得ない 老 」 , 「半痴」 とは 「わずかに職業をな し得 る老」

とされ,両者を合わせた ものが 「痴愚」である。

表注 2) 現在の出現率は,昭和 5 5 年 の身体障害者実態調査 ( 厚生省社会局厚生課、身体障害者福祉の現状, 昭和 5 8年 ,2 7 1 頁)におけ る障害者数お よび同年の 国勢調査に もとづ く 1 8 才以上の人 口を基数に して算出 した。ただ し,精神薄弱児 ・者の 出現率は,昭和 4 5 年1 0月におけ る 推定数 (同書 ,2 9 9 頁) と同年 の国勢調査に よる総人 口に もとづいて算出した。

る不具者の種類お よび数である。現在の調査 と比較す ることは障害の定義,調査方法等で問題はあ るが,お お よその 目安をつけ るために出現率を比較 してみ る。 まず 目につ くことは,現在 の精神薄弱の中 ・重度に相 当す る 「白痴」の出現率が低 く,軽度の精神薄弱を示す用語は, 山梨において 「 半痴」 とい う用語で示 され

4)

ているものの,南津軽郡においては明記 されていないことである。 さらに,肢体不 自由を示す 「不具者」の 出現率が低 いことも顕著であ る。

肢体不 自由の場合,現在その原田の 3 5 % を労働災害,交通事故等の現代的な 「事故」が占めてい ることか ら,出現率そのものが増大 した と考え られ る。 ところが,精神薄弱の場合,絶対数が現在に比 して少なか っ た とい うよりも,加藤の指摘す るよ うに 「障害を有 して も多 くの者は農業生産の中に 自家手伝 いあ るいは 日

5)

傭 な ど補助的な労働 力 として吸収 されていた」ために,軽度の障害の場合社会的問題 として顕在化 しなか っ

6 ) たためであろ うC 「盲 目 」 「 唖」 「聾」の出現率は,現在 よりもやや多いとい うものの大 きな差異はない。

2) 障害者の就労 と生活

これ らの障害者たちはいかなる労働 に従事 し,生活 していたであろ う。戦前, と くに明治期のわが国は, 農業生産を中心 とした社会であ った。表 2 は,県内の全戸に対 して農家の占める割合であ る。 明治 2 0 年にお

表 2. 戦前青森県におけ る農家の占める割合の推移

総 戸 数 J 農 家 戸 数 l

合 l 備 考

いては 7 5 % ,明治 2 4 年においては 6 8 % を占めていた。郡部に限定すればその比率は さらに高か った。た とえ

7)

は,先に障害者数が明 らか とな った南津軽郡においては,明治 4 2 年におけ るその割合は 9 0 % であ った。 さら

に,同郡におけ る 生産総額 の 5 7. 5 % を 農産物が 占め,堆積肥料等の副産物 ( 1 2 %) ,醸造物 ( 5 . 4%),荏,吹

な どの副業 ( 4. 5 %) がそれに次いだ。多 くの障害者は, こ うした 農業社会において生活を 営 んでいた。先に

も述べた よ うに,労働可能 な障害者は,補助的な農業労働を中心に就労 していた と思われ る。 こ うした労働

(3)

戦前青森県における障害者の生活実態 8 3 が他の障害者に比べて困難な盲人においても,藁細工,藁難作 り,日挽 き,麻摘みなどの農家手伝いに従事

8) していた とい う報告 もある。

盲人の職業お よび生活状態について更に見てみ よう。表 3 ‑表 5 は,全国の盲人の職業お よび生活状態を 表3. 明治 4 4年全国盲人職業調査

( 調査人員6 9, 1 6 7 名)

( 加藤康昭,盲教育史研究序説,35 頁,昭和4 8年) 表4. 明治 4 4年全国盲人職業お よび生活調査

( 調査人員約6 9, 00 0 人)

職 業

( 加藤康昭,同書,81 頁)

表5. 明治 4 4 年全国盲人生活

状態調査 ( 調査人員6 8, 94 4 人) 生 活 状 態 l 百 分 率

自 活 シ 得 ル 老 l 5 3. 3%

親族知人 ノ扶助 ヲ受 クル老

慈恵団体又‑公共団 体 ノ扶助 ヲ受 クル者

其 ノ 他 ノ 者 l 1 2. 1 % ( 加藤康昭,同書,81 頁)

示 した ものであるo表 3 によれば,有業者の半数以上が按摩に従事 している。 按摩, 叙術. 灸術 ( 以下.

三療 とす る)の自活率が非常に高いように思われ るが,鍍術の平均 日収5 0. 7 銭が当時の 日傭人夫の 日収に相

9)

当す るものの,按摩,灸術はその半分に しかな らなか った。盲人全体 として 「自活 シ得ル老」は5 3. 3% ( 蓑

(4)

5 に及ぶ ものの一その所得水準は極めて低いものであ った。

盲人の中で も比較的多数が従事 していた三療は南津軽郡においては どの ような実態であ ったであろ う。表 6 は,同郡におけ る三療従事者数を示 している。 しか し, これ らがすべて盲人であ ったわけではない。大正 期 より,昭和期にかけてであるが,表 7 は青森県におけ る三療従事者数の推移である。 この当時三療に占め る盲人の比率は 5‑ 6 割であ った とみてよい。 この ような三療に占め る盲人の割合か ら推察 して,明治末の

表6. 南津軽郡におけ る鍍 ・灸 ・採療治従事者数

鉱 治 l灸 治 l操 療 治 l‑ 兼業 J叙操兼業 l灸操兼業 l

( 南津軽郡役所編,前掲書 ,37 0‑37 2 頁 より作成)

表7. 青森県におけ る鍍 ・灸 ・按摩術営業者数の推移

計 l 盲人 占有 盲人 l 晴眼者l 率 ( %)

( 青森県統計書,大正 1 5 年 ・昭和元年〜同,昭和 1 0年 より作成)

南津軽郡においてもその 5‑ 6 割が盲人であ った とみて無理はないであろ う。明治 42 年におけ る同郡の三療 従事者は 5 8名であ り,その中の 5‑ 6 割が盲人であ った とすれば.その数は 30 名前後にす ぎなか った。 蓑 1 で示 した よ うに当時の同郡の盲人数は 2 54 名であ った。 この中か ら,子 どもと老人 とを除いたとして も一三 療に従事で きる盲人は一部分であ った と考え られ る。盲人の職業の中で も比較的 「自活」の道に結びつ く可 能性のあ った三寮につ くことも困難なことであ った。

3) 盲人のその他の生活

表 3 に示 されている盲人の職業中 「その他」には当然農作業 も含 まれているが,特に戦前青森県の盲人の 生活においてイ タコの存在は欠 くことができない。イタコは盲人女性が従事す る宗教的活動である。

「 津軽の民俗 」 ( 和歌森太郎編,昭和 45 年)に よれば,昭和 4 2 年現在,津軽地方を中心に 5 6 名のイタコの

所在が明 らかになっている。表 8 は同書で紹介 されている5 事例を,調査時年令,失明 (または視力低下)

(5)

戦前青森県における障害者の生活実態 85 年齢,弟子入 り年齢お よび入盤の動機の視点で表に した ものであ るO いずれの事例 も,明治期後半に生 まれ, 成人前に失 明または視力低下 した ものであ る。事例 5 が示す よ うに,農業従事が困難な盲人女性に とって, イタコは 自活の可能性のあ る 「職業」の一つであ った。

蓑8. 津 軽 イ タ コ の 事 例 失明 ( 又

は視力低 下)年齢 事 例 昭和 41 年

弟子入 り

年 齢 入 9. の 動 壊

1 . 奈 良 な か 1 65 歳 J 2 歳 l 1 5 歳 l近所にイタコが住んでいた

2 . 長谷川

ワ 65 歳

l

l 0 歳 l 1 4 歳 r両親,長兄,親類な どにすすめ られて 3 . 山 ロ ト メ 72 歳

1 1

0 歳 1 1 3 歳 l親の勧めに したが って

4 ・ 清 藤 た き J6 7 歳 l 生 来 1 1 8 歳 l亨暴言誓イタコにな る以外 に生 きる道はない 5 . 対 馬 や え l6 7 歳 J生来弱視 l 1 9 歳 l視力が弱 ま り農業に携われな くな った

( 和歌森太郎編,津軽 の民俗 ,31 1 ‑3 2 4 貢,昭和 4 5 年 より作成)

また,表 3 には盲 人の職業 として歌舞音 曲,落語講談があげ られてい る。 「青森県統計書」に も 「遊芸倭 人」 として 「義太夫 」 「落語」な ど, 「遊芸師匠」 として 「三味線 」 「琴 」 「尺八 」 「琵琶」な どに従事 し ている人数が示 されているものの,盲人が従事 していたか否かについての確証は得 ることはで きないが先の 盲人職業か らみてその可能性はあ るだろ う。 この 「統計書」に含 まれ ているか否かは定かではないが,青森 県生 まれの高橋 竹山 ( 盲人)の戦前の生活はその一例であ る。

「十七歳 の とき,師匠のボサマ ( 家 々を三味線ひいて唄を うたい米や銭を もらって歩いた盲人たちの こと を さす‑ 筆者注)は死んだO仕方な く一人で,下手な三味線を弾 いて津軽は もちろん,北海道 まで渡 り, 難儀 しなが ら門付け ( 一軒一軒金銭や米な どを もらって歩 くことを 「門づけ」 とい う‑ 筆者注) して歩

いた。その頃は,靴 も服 もなか ったので,汚ない袷一枚に下駄は き,乗 り物 もないし,一年三六五 日ただ 歩いた。下駄 のへ り方 もはげ しか った。下手な りに も歌が好 きだ ったので歌 いもした。一生懸命や ったせ

1 0 ) いか,貰い も多 く, 自分一人の生活は ど うにかで きた。 」

高橋竹山の生 まれは明治 4 3年であ る。高橋 の この よ うな生活は特異な例ではな く,多 くの盲人が この よ う な生活を していた と思われ る。次は,同 じく高橋 の幼少の頃の思い出を記述 した部分であ る。

「一 日に,二組 も三組 も三味線を弾 いて 『ホイ ド』 ( 乞食)が きて,門付けを していたが,三味線をき く のがわ しの楽 しみにな っていた 。 」 「一俵一銭五厘の炭俵を一 日三枚か五枚編んで 小使い銭を 稼 いでいた が,門付けが くると,その手をやめて, きいた もんだ。景気が悪 くて,満州だの樺太だの と夜逃 げ した り,

1 1 ) それ も出来なか った者は,今みたいに扶助料がなか ったか ら, 目明きのホイ ドもず い分来た もんだ。 」 戦前の農業社会にあ って,多 くの障害者は農業の補助的な労働 に従事 していた。農業労働 の容易でなか っ た盲人の一部は,伝統的な職域であ る三療 に従事 していた。 しか し,その技術を もたない盲人は,三味線等 での 「門付け」あ るいは女性 にあ っては 「イタコ」などの宗教的活動に参加す ることに よって糊 口を凌 いだ。

3 . 公的救済 と障害者

障害者が生活困難に陥 った場合,戦前の救済政策はいかなる対応を していたであろ う。

明治か ら昭和初期にかけての生活困窮者の公的救済は 「他救規則 」 (明治 7 年)に もとづ いていた。 しか し救済は 「人民相互の情誼」を以 ってす ることを原則 とし,対象は 「目下難差置無告 ノ窮民」に限 られてい た。盲人の例で見れば, 蓑 5 で もわか るよ うに 「自活 シ得ル老」以外は,多 くが 「親族知人 ノ扶助」にゆだ わ られ,公的救済を受け る者は極めてわずかであ った。南津軽郡において も 「吉凶禍福‑社会 の命運 ナ リ隣

1 2 )

保相扶 ケ同郷相憐 ム‑抑同情心 ノ発現 ニシテ比美風 ‑益之 ヲ助長セシメザルべ カラズ」 とし,救済は,家族,

親族,村落共同体の責任においてな され ることが強調 されていた。

(6)

蓑 9 は,同郡におけ る国費,町村費に よる救済人員,表 1 0 は,救済の内容を表わ している。救済率が,明 治 41 年で人 口 1 万人対比 5. 7 5 人であ り,救済対象は現在の水準 と比べてみるときわめて限 られていたことが

1 3 )

わか る。 また,明治 41 年 より,その対象が前年度比 5 0% 以下に削減 されている。 これは, 日露戦争後の深刻

表9. 南津軽郡における国費,町村費他救人員

療 疾 l老 衰 l疾 病 l幼 弱 ]棄 児

計 l 昆 若 ‑ 演 ; ' ) 9 8 7 4 1 2 2 2 1 1 0 l 1 6 3 1 1 1 0 2 2 1 6 6 6 6 2 1 2 8 0 9 1 5 4 4 1 1 1 9 0 0 1 5 4 4 6 4 日 H HH

町村費 l明治 4 2 年 l 2 1 7 l l l L l 2 L 21

( 南津軽郡役所編,前掲書 ,20 8‑21 2 頁 より作成) 表注 1 )救済率は,明治 41 年の南津軽郡の人 口 1 0 4, 2 00 人に もとづいて算出した。

表 1 0. 南津軽郡における国費救他の米高及び代金

表注)一人当 りの数値は表 9の救済人員で割 って出した。

1 4 ) な恐慌の結果 とられた国費削減策が反映 した ものであ った。

さらに公的救済の内容を見てみ よう。救済の内容は,主食の保障である 「米」 とその他の金銭的援助にあ たる 「代金」 とにわけ られている。米高は平均的な年である明治 4 0 午 ,42 年の場合,一食当 り平均一合の援 助であ った。代金で見 ると最 も高い明治 41 年が年間 3 0 円67 銭 3 厘,最低の 3 8 年が 1 0円45 銭であ った。ちなみ

1 5 )

に,明治42年の農作業の年傭は男 ( 普通)の場合で 4 3 円 3 0 銭であ った ことか ら考えて も,公的救済者の生活 は当時の生活水準の中で も最低辺に位置 していた。

救済の対象は,表 1 0で示 しているように, 「廃疾 」 「老衰 」 「 疾病 」 「幼弱 」 「棄児」であ ったが,先の

「他救規則」に よれば,救済対象は 「極貧 ノ老独身 ニテ廃疾 二罷 った 老」 「独身 二非 ス ト錐モ飴 ノ家人 7 0 年 以上 1 5 年以下 ニテ其身廃疾 二罷 り窮迫 ノ老」に限 られていた。 したが って,障害を理 由に してただちに救済 の対象 とされ ることはなか った。以下の例はこのことを示 している。

「南津軽郡黒石浜町○浦○右○門は,六歳に して父に別れ,家産亦数次の火災に罷 りて,全 く烏有に帰す,

加之母 さは数年前 より明を喪い,又血族の頼 る可 きな し,盲 目の母,辛 うじて縄を掬 い,草履を造 りて,

微かに露命を繋 ぐ,○右○門助辞乍 らも此難苦を見 るに忍びず,健気に も強いて母に乞 うて中町尾坂源次

郎方の麻僕 となる,爾来,毎朝未明に起 き出で,走 って母の許に至 り,先ず其志なきやを質れ 藁を打ち,

(7)

戦前青森県における障害者の生活実態 8 7 水を汲 んで其労を分 ち,後帰 り来 りて主家 の業務 に服 し,昼夜解 らず,期 の如 き者累年,終始一 日の如 し,

1 6) 是 を以て数次 の凶款 に遇 うも,他の救を迎かず,母を して凍飯 の厄を免れ しむ」

この例は,明治末期 の南津軽郡におけ る盲人の母親 とその子 どもの生活を明 らかに している。災害や凶作 に遭 い, しか も折 るべ き親族のない障 害者が落 ち行 く生活の実態を表わ してい る。 しか も 「他 の救を迎が」

ない ことが美徳 とされ,公的救済 は極限に至 るまでな されなか った と言 える。

4 . 障害者の生活基盤の崩壊

農業生産を主体 と した社会 において,補助的 な労働 に従事す ることに よって生活 の塩 を得 ていた障害者た ち も,社会 の崩壊,再編 に よってその生活基盤が動揺す る。

明治2 7 年 ( 1 89 4)の 日清戦争を前後 して, 日本資本主義は綿紡績業を中心に産業資本を確立 させ, 明治37 1 7)

午 ( 1 9 04 )の 日露戦争を契境 に造船業,鉄鋼業を中心 とした重工業を も飛躍的に発展 させた。資本主義 の発 1 8 )

展 に よって,二次産業,三次産業の人 口吸収 力が増大 し,農村人 口を吸収 してい った。 その結果,相対的 に 農業人 口が減少 し,都 市部‑ の人 口集 中が始 まる。 こ うした現象は青森県の場合 も例外ではない。表1 1は, 青森県におけ る市部人 口の占め る割合の推移を表わ してい る。大正1 0年か ら昭和1 0年 にかけての変化が顕著

表 1 1 . 戦前青森 県におけ る市部人 口の 占め る割合の推移

全 体 l 市 部 l 割 合 l 備 考

明治2 4 年 31 年 40 年 大正1 0年 昭和 1 0年

5 55, 1 1 3 人 6 1 1, 91 9 7 01, 51 5 7 9 6, 64 6 967, 1 29

31, 4 3 7 人 62, 0 32 81, 41 4 85, 0 31 2 01, 6 38

「明治2 4 年青森県統計書」弘前市 のみ

「 青森県統計要覧 ・明治4 0 年 」

青森,弘前の二市

「 大正1 0年青森県統計年鑑」青森,弘前の二 市

「 青森 県統計書,昭和 1 0年」青森,弘前,八 戸 の三市

であ る。市部‑ の人 口集 中は,農業人 口の流 出を も意味す る。表 2 は,農家戸数の占め る割合の推移であ る。

明治20 年には75%あ った農家戸数 も,昭和1 0年 にお いてその占め る割合は50%を割 った。

資本主義 の発展に伴 う農業人 口の減少以外 に,青森 県の場合,凶作に よる農業生産 力の低下が考え られ る。

凶作は数年 お きに発生す る。近年 の凶作 のなかで も,比較的災害規模 の甚大 であ った大正 2 年 の凶作を例に, 農業お よび農村 の生活 に与 え る影響 を見 てみ よ う。

1 9 )

大正 2 年 におけ る米の収量 は平年作の21 %,大豆 は前年度比5 8%,小豆 は54%の収量であ った。 こ うした 生産力の低下 は,生活に様 々を影響 を与えた。た とえば,県下 の国税滞納者総数につ いて見れば, 明治4 4年

20 )

度4, 71 6 人,大正元年度 3, 4 64 人であ ったのが,大正 2 年度には‑拠 に 9, 95 7 人に達 した。 また, 同 年 度 の

「窮民」総数は,36, 1 70 戸 1 5 9, 979 人 ( 全人 口の35%)に達 し,その中の2 6, 9 70 戸 ( 74. 6%)が農業であ っ た。 「窮民」の うち, 「食料を給す る外 な き者」は,6, 4 7 0 戸 34, 75 9 人であ り, これ は,戸数に して, 「窮

2 1 ) 民」全体の1 7. 9%を占めていた。

こ うした凶作に よる窮乏化は当然 なが ら障害者お よび障害者を持つ家族 の扶養能 力の喪失 まで も意味す る。

以下 はその顕著な一例であ る。

「大杉村大字高屋敷○村○太 ○ ( 六十八歳)は妻及二男○次○ の三人暮 しな るか全家挙けて不具者 ( ○太

○及妻は盲 目○次○ は眼病)にて労働す る能は さる有様又浪 岡村大字浪岡○満○助 ( 四十二歳) は療疾 な るに加え六十余の老母 と妻子六人全家八名 に して妻 こよは長男 ( 十六歳)長女 ( 十四歳)を相手に藁 細工

2 2 ) をな し続 に生計を営みつつあ る。 」

人 口の都市部‑ の集中の背景には,資本主義 の発展に ともな う農業人 口の減少 と同時 に, この よ うな凶作

に よる農業生産 力の低下があ った。流 出す る農村人 口を都市部が吸収 しきれ ない場合,浮浪者な ど無業者層

が生 じる。表1 2 は,青森県 内におけ る乞食,浮 浪者数の推移を示 している。経年的 な増減傾 向は見 られ ない

(8)

表 1 2. 青森県内におけ る乞食 ・浮浪者数

者 計

( 青森県統計書,各年度の数値 より作成)

ものの変動が著 しいのが特徴である.なかで も.大正 1 3 年,昭和 5 年, 9 年に急激に増加 しているのが顧著 である。 これ らは,凶作のために農業生産力が急激に低下 し,その結果凶作直後,あるいは数年を経 て多数

2 3) の人 口が都市部‑流入 していったために生 じた現象であると考え られ る。

当然 この ような無業者層の中に障害者 もまた存在 していたことも考え られ る。表 7 で もわか るように,育 人の職域 としての三療 も晴眼者の進 出もあ ってその絶対数は増えなか った。先に示 された高橋の話に もある

ように,盲人にあ っては都市の浮浪者にな る前段階 として 「門づけ」にまわ る 「ホイ ド」の存在があった。

2 4)

昭和初期, 「県立盲聾唖学校設立の急務」 と題 した工藤大成の一文に も,浮浪せ る盲聾畦者たちの姿が記述 されているが,先の文脈か らみ るな らばあながち強調の しす ぎとも言えない。以下その部分を掲げ る。 丁 マ

「本県に於け る盲聾畦者英数実に砂 Lとせず試みに街頭に立たば便 りなき盲者唖児を見 ること日に幾人に 止 らざるべ く若 し夫れ祭紀時神社仏閣の娃内に人 らんか彼等の一群其処に彼処に憐みを乞ふの状誰か側隠 の心起 きざる者あ らんや。 」

5 . まとめ

戦前と くに明治期の青森県は農業を中心 とした社会であ った。農業生産を主体 とす る社会の中にあ って多 くの障害者たちは,補助的な農業労働に従事 していた。 これ らの障害者たちの扶養は,家族,親族お よび農 村共同体の相互扶助に委ね られ,公的救済は極 く限 られた もので しかなか った。

資本主義の確立に伴 う商工業の発展は,農村人 口の減少,農村の扶養能力の減退を もた らした。 さらに凶 作はこれ らに拍車をかけた。農村の扶養能力減退の結果生 じた無業者層の うちの障害者の場合,盲人を例に とれば,一部は三療業や 「イタコ」な どに吸収 された ものの,多 くは 「門づけ」を行な う 「ホイ ド」へ さ らには都市浮浪者などの貧困層‑ と流入 してい った。

明治末期 より昭和初期にかけて県内においては,社会事業が相次いで組織 されたが, これは以上の ような 貧困層の増大に 対応 した もので あ った。孤児貧児虚弱児保護事業 としては,東北孤児院 (明治 3 5 年),青森 同情園 (同 3 3 年),八戸保嬰学校 ( 同 35 年)の三施設の創設,保育事業 としては,弘前託児園 ( 大正 3 年), 青森保育園 (同 1 0年)などの都市部での保育所の設立および昭和初年相次いで設け られた農村託児所の設立 をあげ ることがで きる。青森盲人教育所 も, これ ら保護事業の一環 としての 「盲唖教育事業」の一つ として

2 5 )

大正 1 4 年に創設 された。盲人教育所創設者である西蓮寺幸三郎 も,先の ような盲人の生活状態 を 目 に し, 2 6 )

「盲人の多数なるを痛感 し奮然身を挺 して盲児教育事業に当 らんことを決意」 したのである。

(9)

戦前青森県における障害者の生活実態 8 9 ( 注)

1) 安藤房治,青森県障害児教育史一盲 ・聾教育の創始と八戸盲駈学校の設立1.弘前大学教育学部紀要, 第 51 号, 1‑l o 衷,昭和 5 9 年。

2) 加藤康昭,盲教育史研究序説 ,1 9 頁,昭和 4 7 年。

3) 同前書 ,1 9 頁。

4) もちろん,現在の精神薄弱児 ・者の出現率には軽度の者 も含 まれているので,重度 ・中度に限定すれ ば,その差はさらに縮小す る。ちなみに,加藤 ( 前掲書 ,7 4 頁)に よれば,中度 ・重度の出現率は 1 万 人につ き 2 6 人であ る。

5) 加藤,前掲書 ,7 5 頁。

6) 加藤 ( 前掲書 ,7 5 頁)は,監聾の出現率が現在のそれ より低か ったとし,軽度の精神薄弱と同様の解 釈を行なっている。 しか し,加藤 の場合,依拠 した統計が昭和 4 0 年時点のものであ る。現在では,その 当時に比 して重度の聴覚障害の絶対数が増加 し,出現率 も高 まっているため,出現率の比較か らだけで は必ず しも加藤のよ うな解釈はな り立たない。

7) 南津軽郡役所鼠 南津軽郡是全 ( 復刻版) ,9 5 頁お よび 5 0 4 頁,昭和 5 0 年。なお,農家 1 2, 1 6 9 戸の うち 専業は1 0, 9 6 4 戸 ( 9 0 %)であ り,小作は 4 5. 8 % であ った。

8) 加藤康昭,前掲書 ,8 0 頁。

9) 明治 4 2 年, 日傭人夫の平均賃金は 日当 6 0 銭 8 厘 ( 上等) ,5 2 銭 ( 普通) ,4 2 銭 ( 下等)であ った。 ( 戟 日新聞社, 日本経済総観 ,9 3 8 頁,昭和 5 年)

1 0) 高橋竹山,三味線 とともに歩んで‑わ しは名人で も日本一で もない‑,みんなのねがい, 札33 ,7 0 頁, 昭和 5 2 年。

l l ) 同前書 ,6 9 頁。

1 2 ) 南津軽郡役所編,前掲書 ,2 0 8 頁。

1 3 ) ちなみに,昭和 5 5 年におけ る生活保護の保護率は,人 口 1 万人につ き 1 2 3 人である。( 厚生の指標 ・臨 時増刊 ・国民福祉の動向 ,2 4 0 頁,昭和 5 9 年。 )

1 4 ) 日本社会事業大学救貧制度研究会, 日本の 救貧制度 ,1 4 2 頁,昭和 4 7 年。他救規則に よる 受給人員は, 明治 41 年頭初 1 3, 0 9 0 人であ ったが,同年内に 4, 5 0 0 人が保護を打切 られ ,4 2 年末には 3, 7 5 3 人に激減 させ られた。

1 5 ) 朝 日新聞社,前掲書 ,9 3 8 頁。

1 6) 青森県庁,青森県善行#. 2 頁,明治 41 年。

1 7 ) 樟酉 ・加藤 ・大島 ・大内, 日本資本主義の発展 Ⅰ ,2 5 3 頁,東京大学出版会 ,1 9 7 1 年。

1 8 ) 同前書 .3 5 8 頁。

1 9 ) 青森県,大正二年青森県凶作誌, 1 1 7 ‑1 1 9 頁,大正 4 年。

2 0 ) 同前書 ,21 6 真。

21 ) 同前書 ,2 4 4頁。

2 2 ) 同前書 ,2 61 ‑2 6 2 頁。

2 3) 大正期か ら,昭和にかけての凶作年を例示すれば先にあげた大正 2 年が 「大凶作」の年であ り,昭和 6 年が 「凶作」,同 9 年が 「 大凶作」,同 1 0 年が 「凶作」であ った。閑正治,冷害問題の技術論的考察, 農業経常研究,第 1 9 巻第 3 号, 4 頁,昭和 5 7 年。

2 4) 工藤大成.県立盲聾唖学校設立の急務,青森県教育 ,1 9 5 号 ,1 0 頁,昭和 5 年。

2 5 ) 青森県庁社会課,青森県社会事業要覧 ,2 5 ‑4 2 頁。

2 6 ) 同前書 ,41 頁。

表 1 2. 青森県内におけ る乞食 ・浮浪者数 者 計 ( 青森県統計書,各年度の数値 より作成) ものの変動が著 しいのが特徴である.なかで も.大正 1 3 年,昭和 5 年, 9 年に急激に増加 しているのが顧著 である。 これ らは,凶作のために農業生産力が急激に低下 し,その結果凶作直後,あるいは数年を経 て多数 2 3) の人 口が都市部‑流入 していったために生 じた現象であると考え られ る。 当然 この ような無業者層の中に障害者 もまた存在 していたことも考え られ る。表 7 で も

参照

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