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絶対的な善の場面 スピノザとカントを参考に

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絶対的な善の場面 スピノザとカントを参考に

木村  競*

(1992年10月7日受理)

ζOn the Scene of the Absolute Goodness

Klso KIMURA

(Received October 7,1992)

はじめに

本論文は,日常的に頻繁に用いられる言葉であると同時に哲学・倫理学の基本的概念でもある

「善」について,それが用いられる時どのような場面が開かれることになるのかということを整理 する一つの試みである。

哲学については我々の日常生活の具体的・実際的事柄には直接に役立つことはないと一般には考 えられがちであり,哲学の側にしてもこのような通念に甘えて「名誉ある孤立」を享受していると ころがある1).しかし,当然のことながら,哲学と日常的思考との結びつきが存在しないわけではな い。そもそも,哲学で用いられる概念や思考法は,他の学的活動同様に,日常生活の中で用いられ る言葉の用法・意味に根をもつものであり,それが豊かにされたり,限定されたりして形成された ものである。その意味で,哲学は我々の日常的思考との一定の連続性を有する。哲学が抽象度を増 し,制度的な学問になっているにしても,この連続性が消滅することはあり得ない。

この連続性については次のように考えることができる。

日常的思考はそれ自体ある程度反省的なものである。我々は一般に日常的思考の概念・発想法を 用いて認識し,価値判断するわけであるが,その際我々は同時にその概念・発想法がどのような内 容のものであり,どのような構造を持っているかをある程度は自覚している。別の言い方をすれ ぼ,日常的思考はその内に自らについての自己把握を含んでいる。

無論それは明確なものではないが,この自己把握が常に既に存在しているからこそ,それをより 明確なものにしようとして哲学的思考が始まる。つまり逆に言えば,哲学的思考は,日常的思考に おける自己把握から出発し,そうであるがゆえに日常的思考の在り方を明確にし,その構造を浮か び上がらせる。

しかし,ここで重要なのは,この哲学的思考による日常的思考の明確化は複雑な性格をもってい

*茨城大学教育学部社会科教育講座哲学研究室(〒310茨城県水戸市文京2丁目1−1).

(2)

ることである。

第一に,哲学的思考は日常的思考における自己把握から出発するのであるから,それによって浮 かび上がった日常的思考の在り方・構造は日常的思考の自己把握と基本的に一致している場合が多 い。この場合は,日常的思考の明確化ということは同時に日常的思考の自己把握の明確化というこ とである。すなわち,哲学的思考は日常的思考の自己把握を肯定的に確認する機能を果たす。

第二に,しかし,哲学的思考による日常的思考の明確化によって浮かび上がってくる日常的思考 の在り方・構造が,日常的思考の自己把握によるそれとは食い違う場合がある。この場合は,明確 化ということを,日常的思考そのものの明確化と言うことができるが,それによって哲学は日常的 思考の自己把握に対して批判的に機能することになる2)。

しかし,さらに考えればこの哲学の批判的機能はこ通りに区別される。

まず,日常的思考の自己把握に対してその誤りや不十分さを指摘するにしても,その把握の基本 的視座・方向性にかんしては共通性がある場合。この限りでは,第一の肯定的機能と第二の批判的 機能は両立し得,かつ多くの場合は哲学的思考は両方の機能を合わせ持つ。言い方を変えれば,こ の限りでは哲学的思考は日常的思考の自己把i握を訂正しつつ完成するのだと言ってもよい。

だが,哲学的思考による日常的思考の明確化によって,日常的思考の自己把握においては全くと らえられていなかった日常的思考の在り方・構造が浮かび上がってくる場合があり得る。つまり,

哲学的思考は日常的思考の自己把握から出発しながらも,それを越えた思考の場面を開くことがあ るのである。

哲学の批判的機能はこの場面でこそ本来的に働いているのであり,そして,この逆接的在り方に こそ哲学と呼ばれる人間の知的活動の存在意義の中心があると言うことが出来よう。この場合に は,当然,哲学は日常的思考の自己把握に対して発想の転換を迫ることになる。

ここで重要なのは,日常的思考の自己把握は日常的思考の中に含まれ,それと一体のものである から,この発想の転換は日常的思考そのものにも及ぶところとなる点である3)。日常生活の具体的

・実際的事柄には直接に役立つとは思えない哲学も,このような転換を引き起こす限りにおいて,

根源的な意味で我々に「役立つ」と言うことができよう。

さて,哲学の伝統において,善の問題は一貫して論じられてきた重要な主題であった。その理由 は,第一に,善についての日常的思考の自己把握が常に哲学的思考による明確化を呼び起こすよう な性格のもの  つまりは生産的な曖昧さを含むもの  であったからであり,第二に,何より,

哲学的思考によるその明確化が日常的思考の自己把握および日常的思考そのものの転換を引き起こ すようなものであり続けたからであろう。

この論文は,上記のような過程の一部分を取り出す試みである4)。

第一章では,我々の善についての日常的思考の自己把握の一面を明確にする作業を行なう。(こ の限りでの哲学的思考は,その本来的批判機能を十分に発揮していない。)

第二章,第三章では,スピノザとカントの哲学的思考を検討する。言い方を変えれぼ,スピノザ とカントの哲学的思考から我々の日常的思考の自己把握に対する本来的な批判的機能を引き出す。

第四章では,スピノザとカソトの議論が開いている思考の場面を日常的な思考に引き戻して確認

し,それによる日常的思考の転換の方向性を瞥見する。

(3)

第1章 よい・善い・善 1) 日常的思考

日常的に用いられる「善い」は,より広い意味を持つ「よい」の内に含まれつつも,一定の 意味的限定をもっている。そして,それがさらに限定されて哲学・倫理学的概念としての

「善」が成立していると考えることができる。いくつかの段階を追ってそれを確認し,我々の

「善い」についての日常的思考の構造を明確化してみよう。

①何かにとってよい

「よい」について,『日本国語大辞典』はまず広く次のように説明している。「物事の本性,

状態などが好ましく,満足すべきさまである意」。すなわち,「よい」とは,もの・こと・状態

・ふるまいなどが,性質・状態・機能・能力などにおいて,優れている,好ましい,満足すべ きといった肯定的な在り方をしていること,とひとまずとらえることができよう。

ここで,気がつくのは,或るもの・こと・状態・ふるまいなどが「よい」とされる場合に は,〈何かにとって〉そうであるということが伴っている,少なくともとそれにとってよいと

ころの〈何か〉が想定され得ることである。

もちろん,このく何かにとって〉という構造は単純であるとは限らない。或る特定のく何か にとって〉よい場合も,広く一般的なく何かにとって〉よい場合もある。また,或るものごと の状態が或る何かにとってはよく,或る何かにとってはよくないということも有り得る。(例 えば,フロンガスの使用はそれを吸い込む人間にとっては他の有害なガスの使用よりもよい が,オゾン層の維持にとってはよくない。)さらに,このく何かにとって〉という構造は,連鎖 的に想定することができる。(例えば,栄養のある食物の摂取は強健な身体の形成にとってよ いが,それはさらに運動能力の向上にとってよい。)

②人間にとってよい

さて,この〈何かにとって〉よいという場合のく何か〉は,ひとまずどのようなものごとも 想定することができる。しかし,さらに考えてみると,その中心は明らかにく人間にとって〉

よいということにある。

このことは,「よい」ということを判定するのは人間以外に有り得ないということから帰結

する,とひとまず考えることができる。どのようなことが人間以外のく何かにとって〉よいこ

となのかが直接には経験できない以上,他のく何かにとって〉よいと判定することは,人間の

想像力にとらえられる限りでの他の〈何かにとって〉よいということにならざるを得ない。ま

た,判定のためには一定の基準が必要であるが,判定するものが人間である以上,この基準は

人間を中心とした世界観に基づかざるを得ないのである。

(4)

このことは,直接的あるいは具体的には,人間以外のく何かにとって〉よいということを,

〈人間にとって〉ということのアナロジーとして判定するという形で現れる。つまり,我々は 多くの場合,擬人法あるいは一種の「感情移入」によって人間以外のく何かにとって〉よいと いうこと判定する。また,反省的あるいは理論的には,〈何かにとって〉という構造の連鎖を 追って行くと結局何らかの形でく人間にとって〉ということにたどり着くということに現れる。

このようにして,「よい」ということの意味の中心は,そのよいとされるもの・こと・状態など の人間に対する関係の内に置かれることになる5)。

③人間の状態・行為が善い

しかし,一方,もの・ことが「よい」あるいは「わるい」といっても,「自然」のもの・こと

・状態はそれ自体としてはそうあるしかない,別様には存在できないものである。

それに対して,人間あるいはその状態・行為は変えることができる。人間あるいはその状態

・行為は,単によいこともわるいことも有り得るというだけでなく,よくもわるくもなること ができるものであると我々は想定している。ここから,よい,わるいということは,とりわけ 人間の状態・行為について問題にすべきことだというが生じると考えることができる。

このような理解に基づいて意味が限定され,より一般的な意味の広がりをもつ「よい」か ら,人間の状態・行為について用いられることを中心とする概念である「善い」が区別されは じめると考えることができるだろう。すなわち,人間(の状態・行為)が作り出すよいものが 善いものであり,そのような人間の状態・行為は善いという意味でよい。

④人間が追求すべき善

しかしさらに考えると,我々の日常的思考においては,用いられた「善い」には明らかに一 定のニュアンスが伴っている。それは人間は善くあるべきであり,善いことをすべきであると いうニュアンスである。先ほどの把握と結びつけて言えば,人間がその状態や行為を善くも悪 くもできるのであるなら,もっぱら善い状態,行為をめざすべきだということである。これを 道徳的・倫理的含意ということもできよう。

このような含意を善いが持つのは,善いということが一つの価値付けである以上当然とも言 えるが,我々の日常的思考においては,現実の世界における人間の状態や行為は未だ十分に善 いものとなっていないという認識があるからだと言うことができる。ここから,我々の日常的 思考においても善いについてのある種の抽象化が生じる。

第一に,十分に善いということは現実的,すなわち具体的ではないのであるから,それは抽 象的性格をもったものにならざるを得ない。抽象的性格の強い概念は,具体的な現実との連関 を欠く分だけそれ自体としての独立性が強いから実体化されやすい。したがって,この限りで とらえられた善いは,具体的な状態や行為の在り方というよりも,あたかもそれ自体として先 在しているもの,すなわち「善」として想定されることになる。

第二に,しかしそれは現実のものとなるべきものでもある。善が現実のものとなるのは,上

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記の議論にしたがうならば人間の行為においてのみである。したがって,善あるいは善いをめ ぐる議論は,もっぱら,いかにすれば人間の状態や行為は現実の世界における善性における不 十分さから脱して十分な善性を持ち得るものとなるかということに集中することになるのであ

る。

2) 伝統的な理論的把握

さてしかし,ここまでくればもはや哲学的思考の領域であろう。

哲学的思考の伝統は,これまでまとめてきたような善に関する日常的思考の自己把握を様々 な概念を用いて理論的に把握してきた。後にみるスピノザやカントの議論も,善についての伝 統的な理論的把握を前提とした上で自らの主張を述べていく。それを整理しておこう6)。

第一に重要なのは,伝統的な哲学においては,「善」あるいは「善い」が「目的」一「手段」

という概念と結びつけられたことである。善あるいは善いということが,一旦人間が追求すべ きもの・こと・状態などであるととらえれたならば,それは「目的」ということに他ならなく なるが,伝統的な哲学は,「目的」一「手段」という概念によって,善をめぐる諸問題を再構戒 することになった。

善(い)のく何かにとって〉という構造は以下のようにとらえられた。或るもの・こと・状 態などが善いのはく何かにとって〉であるということは,その或るもの・こと・状態などが存 在していることによってそのく何か〉が存在する(少なくとも現実性が増す)ということに他 ならない。このことをもの・こと・状態の側からみれば,それらはく何か〉の存在あるいは現 実化を結果するところの原因であるということであるが,〈何か〉の側からみれば,善いもの

・こと・状態とはく何か〉の存在あるいは現実化のための手段であるということである,とと らえられる。とすれば,或るもの・こと・状態などの善性は,この或るもの・こと・状態がく 何か〉を結果する原因であること,あるいはそのく何か〉という目的の手段であるということ そのものを意味しているととらえられる,ということであるη。そして,この〈何かにとって〉

という構造は次々と連鎖的に想定できるものであったが,これもまた目的一手段の連鎖構造と して把握されることになる。

この善(い)と目的一手段概念の結びつき,および目的一手段の連鎖構造から様々なことが 帰結してくる。

まず,人間がそれを追求すべき目的としての善いものは,その善さを支えるところのところ の目的の手段なのであるから,人間はその善いもの・事・状態などの根拠としての目的をさら に追求すべきであることになる。すなわち目的は手段よりも善い。ここに目的一手段の連鎖構 造が加われぼ,より上位の目的は(より下位の目的よりも)より善いととらえられることにな

る。したがって,善(い)には一定の階層構造が想定されることになる。

ここで,この目的一手段の連鎖構造あるいは善(い)の階層構造が目的あるいは「より善

い」の側で完結しないならば,或るもの・こと・状態などの善性は結局のところそれを支える

最終的根拠を持たないことになる。伝統的哲学は,このような事態を嫌った。したがって,こ

こに,もはや他のより善きもの・こと・状態などの手段ではない最高の善,言い方を変えれ

(6)

ば,究極の目的が存在するはずだという想定がなされた。その典型はプラトンにおける「善の イデア」である。

この最高の善,究極の目的ということを,善いということはく人間にとって〉問題なのだと いう把握と結びつけて考えれば,あらゆる人間にとって善いく何か〉がそこに置かれることに なる。その典型は(アリストテレスに始まる)「幸福」である。したがって,最高の善,究極の 目的がその絶対性,超越性から神的なものとされる場合でも,何らかのかたちで人間の幸福

(その実質的内容は種々であるが)との連関において善(い)ということが論じられることに なった。

さて,では善いという概念の中心は人間の状態・行為が善いということにあるという点はど うであろうか。ここで,「決定」一「自由」という概念が組み込まれてくることになる.

すなわち,伝統的哲学あるいはそもそも学的思考一般は,あるゆるもの・こと・状態などに ついて,それがそのようであるということには原因があると考える。その原因を探究すること が哲学あるいは学的思考の作業に他ならないわけである。しかし,原因については二通りの場 合が想定できる。つまり,当のもの・こと・状態とその原因が異なる場合と,同一の場合であ る。前者の場合,当のもの・こと・状態は自らがそのようであるということを自ら決定したの ではないのだから,当のもの・こと・状態はそれとは異なる他のもの・こと・状態によって

「決定」されているということができる。対して,後者の場合は当のもの・こと・状態は自ら がそのようであるということを自ら決定したということになる。伝統的哲学は,この或るもの が自らの在りようを自ら決定できることを「自由」と呼んだ。すなわち,人間およびその状態

・行為が善くも悪くもなることができるのは人間は自由であるからだ,ということになる。

このように考えると,或るもの・こと・状態が自由であるか,他のものによって決定されて いるかによって,それらが善いといっても意味付けが異なってくることになる。自由であるも の・こと・状態については善いということを能動的な意味で問題にすることができる。すなわ ち,それらについては善性における不十分さから脱してより善くなることを論じることができ る。対して,他のものに決定されているもの・こと・状態については,それが善いあるいは悪 いということを論じることはできても,議論はそこで終わらざるを得ないことになる。

伝統的哲学においては,人間の自由の根拠を人間が「自由意志」を持つということに求めて きた。自由意志とは自らを原因として行為を始める(そしてその結果としての一定の状態を生 み出す)人間の能力である。したがって,自由意志に基づいて行なわれるととらえられる人間 の行為(およびその結果としての状態)こそ,すぐれた意味で善いという概念が適用されるべ きものということになる。

したがって,伝統的な哲学的思考の理論的把握をまとめると以下のようになる。最高の善,

究極の目的としての人間の一定の状態(例えば幸福)があり,それを実現するための手段とし て善いもの・こと・状態など(の連鎖)があり,とりわけ自由意志にもとつく人間の行為(の 連鎖)については善い目的の実現を追求するという積極的な善さが論じられる,という構図。

スピノザもカントも,このような善(い)についての伝統的な一般的な把握を前提としつ

つ,人間の在り方として絶対的に善いと言い得ること一スピノザ的に言えば「精神にとって

もっとも善い」こと,カント的に言えば「普遍的に妥当する」善の規定一はどのようなこと

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かということを追求していく中で,この伝統的な把握を越えた善の場面を開示することになる。

第2章 スピノザの議論

スピノザの議論についてはその主著rエチカ』を取り上げる8)。

スピノザは善を「我々にとって有益であることを,我々が確実に知っているもの。」(W定義1)

と定義し,この善について「人間の本性の典型に接近していくための手段として我々が確実にしる ところのもの」,「このような典型に,人間がより多く接近している限りより完全であり,より少な く接近している限りより不完全である」(N序)と説明を加えている。

つまり,ひとまずは,伝統的な善把握にしたがって,善を(「人間の本性の典型に接近していく」

という意味で人間が「完全」になるという)目的のための手段としてとらえている,ということが できる。すなわち,「人間の本性の典型に接近していく」ことが最高の善,究極の目的であり,それ を実現するための「手段」として通常の善いもの・こと・状態あるいは人間の善い行為があるとい

う図式である。

しかし,スピノザは同時に,「同一のものが,同時に善であったり悪であったり,またその両方に 無関係でも有り得る」(N序)ことがあるということを指摘する。このようなことが生じる理由とし て,スピノザは「人間が一般的観念を形成し,(中略),しかも或るものの典型を他のものの典型よ

りも優れたものとして選び始めるようになってからは,そのような同種のものについて形成した一 般的観念と一致するようにみえるものを,完全と呼ぶようになった」(N序)からであるとする。す なわち,「典型」がいかなるものであるかは人間の一般的観念の形成の仕方に規定されるが,この一 般的観念の形成の仕方は相対的なもので在らざるを得ないからである。

スピノザの存在論にしたがえぼ,このような事態は以下のようにとらえらえる。

真に存在するものは無限実体であり自己原因である神のみであり,個々の存在者はすべてこの実 体の様態である。したがって,個々の存在者はそれが存在者つまり実体の様態である限り,自己原 因としての神の自己限定によって規定されて存在し活動する。すなわち,「自然の内には偶然のも のはない。そうではなくて,すべては一定の仕方で存在し活動するように神の本性の必然性により 決定されている。」(1定理29)「あらゆる個物,すなわち有限で決定された存在を有する各々のもの は,同様に有限で決定された存在を有する他の原因から存在または活動に決定されるのでなくて は,存在することも活動に決定されることもできない。そしてこの原因もまた,同様に有限で決定 された存在を有する他の原因から存在または活動に決定されるのでなくては,存在することも活動 に決定されることもできない。このようにして,無限に進む。」(1定理28)

人間も,存在するものである限りは実体の様態である。実体は無限に多くの属性をもつが,人間

が認識し得る属性は思惟と延長の二つしかなく,人間という存在者も思惟と延長の二つの本性をも

つ。すなわち,人間は精神的かつ身体的存在者である。身体は「もの」が一定の関係を形成して因

果的に連結されている状態であり,精神はこの身体=「もの」を表象している「観念」の集合であ

り,精神(=「観念」群)は身体と同じ一定の関係をもった状態で因果的に連結されている。した

がって,人間の精神が行なう一般的観念の形成も「有限で決定された存在を有する他の原因」から

(8)

決定されて行なわれることになる。

つまり,スピノザは,あらゆる有限な存在者がその存在または活動にかんして他の存在者から決 定されているという把握から,単にそれが善く在るあるいは悪く在ると決定されているというだけ ではなく,その判断の根拠となる目的としての「人間の本性の典型」という一般的観念の内容も決 定されているという把握を導いている。

ここで重要なのは,スピノザがそこから目的としての「人間の本性の典型」の相対性(したがっ てそれの手段としての通常の善(い)ということの相対性)を言っていることである。なぜなら,

この「人間の本性の典型」という一般的観念の内容を決定するところの原因もまた「有限で決定さ れた存在を有する」のだから,或る人間の精神が行なう一般的観念の形成にかかわるこの原因は,

各々の人間の精神にかんして(そして個々の人間の精神にかんしてはその都度)異なって限定され たものであり,「人間の本性の典型」という一般的観念の内容が絶対的に同一であることは望めな いからである。

一方,人間の存在または活動が他の存在者から決定されているということは人間における「自 由」の否定であるから,我々は「人間の本性の典型」という一般的観念に「接近していくための手 段」である行為を,この決定に逆らう形では自ら為すことはできないということになる。

では,善(い)ということの絶対的で同一の目的であるところの「人間の本性の典型」を我々は 持ち得ないのであろうか。また,自らより善くなることはできないのであろうか。

第一の点にかんして,スピノザは「欲望」という「本性」を言う。

人間もまた存在者に他ならない。ということは,その最も本質的な「本性」は存在することであ る。スピノザはそれを「コナトゥス」,すなわち「それによって各々のものがそれ自身の存在に固執 しようと努力する,そのものの現実的本質」(皿定理7),「それによって各々のものが単独であるい は他のものと共に,あることを能動するあるいは能動しようと努力するところの能力」(皿定理7 証明)であるとした。

スピノザによれば人間は精神的=身体的存在者であるが,スピノザは,この「コナトゥス」は,

精神だけに関わるときは「意志」と呼ばれ,精神と身体の双方に同時に関わるときは「衝動」と呼 ばれ,自らを意識している「衝動」は「欲望」と呼ぼれる(皿定理9注解)とする。したがって,

「欲望とは人間の本質そのものである」,「衝動とか,意志とか,欲望とか,あるいは潜在衝動とか いう概念によって意味される,人間本性のあらゆる努力を統一的に総括しようとして,私は欲望を 定義した。」(皿感情の規定)と言われることになる。

さて,しかし,このように相対性を脱した「人間の本性」がとらえられるとすると,逆に人間は 何かを「欲望」し,「意志」し,すなわち精神としては何かを「観念」する限り,多少なりとも「人 間の本性」を現実化していることになる。つまり,或る特定の「典型」を「欲望」し,「意志」し,

「観念」する時にのみ人間は「善い」のではなく,「欲望」し,「意志」し,「観念」する限り,人間 は少なくとも幾分かは「人間の本性の典型に接近して」いるのであるから,その限りで善い。言い 換えれば,人間の存在・活動の善さは,その「目的」に拠るのではなく,その存在・活動そのもの に拠るのだということになる。すなわち,スピノザはここで,善ということをもはや「目的」=

「手段」という構造ではとらえなくなっているのである。

スピノザはこのことを以下のように表現する。「それが善であると判断するがゆえに,そのもの

(9)

へ努力し,意志し,衝動を感じ,欲するのではなく,むしろ逆に,あるものへと努力し,意志し,、

衝動を感じ,欲するがゆえに,そのものが善であると判断することが明らかになる。」(皿定理9注

解)

さて,しかし,問題は,「より」ということである。つまり,スピノザの把握にしたがえば,それ 自身の存在により多く固執している時,人間はより完全である,つまりより善いことになるが,こ れはいかにして可能かということである。

このことをスピノザは「感情」について議論することで示す。

スピノザは「感情」を以下のように定義する。感情とは「それによって当の身体の活動能力が増 大あるいは減少させられる,促進あるいは抑圧されるところの身体の変様,同時にこのような諸変 様の観念である。」「もし我々が何かしらのこのような変様の十全な原因であり得る場合には,感情 ということで能動を理解し,それ以外の場合には感情ということで受動を理解する。」(皿定義3)

この定義に現れる「活動能力」とは,「コナトゥス」,(そして身体と精神の双方にかかわるから)

「欲望」に他ならない。つまり,人間が存在することに固執し,何かを能動的になそうと「欲望」

する限り,人間は「感情」として存在する。

一方,スピノザは「喜び」と「悲しみ」という「感情」について以下のように言う。喜びとは

「人間がより小さな完全性からより大きな完全性へと移行すること」,悲しみとは「人間がより大き な完全性からより小さな完全性へと移行すること」(皿定理11注解)。

したがって,我々は「喜び」に属する「感情」をできるだけ多くし,「悲しみ」に属する「感情」

をできるだけ少なくしたときにのみ,それ自身の本性としての「欲望」としてより「大きな完全 性」をもつ善き人間であることになる。

しかし,それはいかにして可能か。

人間もそれであることろのあらゆる存在者=実体の様態は,他の存在者=実体の様態によって存 在や活動へと決定されている以上,自ら「自由」に「感情」をもつことは不可能であるはずである。

スピノザも言う。「感情はそれと対立的な,しかもより強力な感情によらなければ,押さえられるこ とも除去されることもできない。」(W定理7),「感情は,精神に関する限り,我々が受けている身 体の変様とは対立し,しかもより強力な変様の観念によってでなければ,押さえられることも除去

されることもできない。なぜなら,我々にとりついている感情は,それよりも強力で,しかも対立 的な感情によってでなければ,言い換えれぼ,我々が受けている身体の変様よりも強力で,しかも 対立的な身体の変様の観念によってでなければ押さえられることも除去されることもできないから である。」(W定理7系)

ここで「受動」と「能動」の区別が効いてくる。

人間もそれであるところのあらゆる個別的存在者=実体の様態は他の個別的存在者=実体の様態 によって存在や活動へと決定されているということは,人間がその限りで「受動」の状態にあると いうことである。この限りでの=自らが「変様」の十全な原因ではない限りでの感情が,「感情」の 定義に言う「受動(感情)」の状態である。この,「受動(感情)」の状態である限り,人間は外部の 原因に規定されて存在・活動しており,それ自身の存在により多く固執していないから,それ自身 の本性としての「コナトゥス」としてより「大きな実在性」をもつ「善き」人間であることにはな

らない。

(10)

しかし,スピノザは,「受動である感情は,我々がその感情について明晰判明な観念を形成すれ ば,ただちに受動であることを止める」(V定理3)と言う。しかし,そのようにして「受動」から

「能動」への転換が行なわれるとき,当の人間(身体・精神)はいかなることになっているのであ ろうか。

スピノザは,「感情」についての明晰判明=十全な観念を以下のようなものと考える。「人間の身 体corpusおよびつねに人間の身体を変様させるいくつかの外部の物体corpusに共通で本来的なもの についての,またこれらの各物体の部分の内でも全体の内でも同じように存在するものについての 観念もまた,精神において十全である」(丑定理39)。すなわち,「能動(感情)」へ転換するために は,「共通で本来的なもの」,「部分の内でも全体の内でも同じように存在するもの」を観念=表象=

認識すればよいわけであるが,これらはいったいいかなるものか。

ここで,前にみたスピノザの存在論が効いてくる。

スピノザの存在論にしたがうならば,人間もそれであるところの「個物」は,「それ自身がそれの 様態であるところの属性の下で考察される限りでの神を原因として有する。」(皿定理45証明)そし て一方,「結果の認識は原因の認識に依存し,かつこれを含む。」(1公理4)よって,「現実に存在 する個々の物体あるいは個物の個々の観念は,神の永遠にして無限の本質を必然的に含む。」(皿定 理45)

したがって,「共通で本来的なもの」,「部分の内でも全体の内でも同じように存在するもの」と は,「受動」状態として(身体としても精神としても)存在している人間とそのことの「原因」とし ての「もの」と「観念」の中に見いだされるところの「神の永遠にして無限の本質」に他ならない。

すなわち,人間と原因に「共通」の「神の永遠にして無限の本質」をとらえたとき,「受動」の状態 である「感情」についての十全な観念が形成され,それは「能動」の状態である「感情」に転換す

る。

したがって,スピノザにとって「最高の善」とは神の本質を認識することに他ならない。r精神に とってもっとも善いことは神の認識であり,精神の最高の徳は神を認識するはたらきである。」(w 定理28)「(まず)精神が認識し得る最高のものは神である。言い換えれば,.それなしには何ものも 存在し得ず,考えることもできない,絶対に無限の存在である。したがって,精神の最高の利益,

あるいはもっとも善いことは神の認識である。次に,精神は認識する限り能動的であり,その限り においてのみ有徳的にはたらく,と言うことができる。それゆえ,精神の絶対的な徳は認識するこ とである。ところが,精神が認識し得る最高のものは神である。それゆえ,精神の最高の徳は神を 認識することである。」(W定理28証明)ここで注意すべきは「神の認識」といっても,その内実は 通常の意味での何か神秘的なものの宗教的認識を意味しているのではないということである。

重要なのは,「現実に存在する個々の物体あるいは個物の個々の観念は,神の永遠にして無限の 本質を必然的に含む」のであるから,我々は,通常の認識において,すなわち「有限で決定された 存在を有する他の原因」から決定されて或る観念を有している時でも,すなわち「感情」において

「受動」の状態である時でも,常に既に「神の永遠にして無限の本質」をとらえているということ である。

つまり,人間がより善くなるためには,「他の原因」から決定されている状態を脱するという意味

で「自由」に何かを為す必要はないのである。その意味では,スピノザは人間がより善くなるとい

(11)

うことと「自由」との伝統的関係を脱している。一方,人間がより善くなるために必要なのは個別 的なものから共通で本質的なものへの「精神」の向け替えであるが,この向け替えが自らを原因と して行なわれる「自由」なものであるにしても,この自己原因性は人間が「欲望」という本性で もって存在している限り(自己原因である無限実体としての神の様態であるから)常に既に有して いる。その意味では,スピノザは,人間がより善くなるということと「自由」との間に新しい関係 を見いだしているとも言える。

さて,この最高の善は「すべての人にとって共通であり,しかもすべての人が等しく楽しめるも の」(W定理36)である。なぜなら,全ての人間は,存在するものとしては神の「様態」なのである から,精神の本質においては,神と同じ観念を有する,神の永遠にして無限の本質についての十全 な認識をもつことができるから。そして,この「共通性」から,「最高善」の状態にあるものは,

「各自自分のために求める善を他の人々のためにも欲するであろう」し,「この欲求は,彼に神につ いてのより大きな認識があるならば,それだけまた,強いものになるだろう。」(W定理37)という ことが導かれるのである。

第3章 カントの議論

カントは,基本的には伝統的把握に則って,善をすぐれて自由意志をもった人間について問題に している。まず,カントの存在論的構図を整理しておこう。

周知のように,カントはあらゆる存在者について「現象」として在ることと,「物自体」として在 ることを区別した。この両概念は,様々な文脈で論じられているが,次のような意味であると解釈 することができる。「現象」として在ることとは,感覚的な所与を内容として経験され,それについ ての確実な認識を持つことができる限りでの存在者の在り方であり,「物自体」として在ることと は,感覚的な所与が得られない=経験できず,したがってそれについての確実な認識を持つことが できないが,思考することはできる限りでの存在者の在り方である。

人間も存在者である以上,「現象」として在ることと「物自体」として在ることの二面性をもつ。

カントは,「現象」として在る;経験的に確実に認識できる限りでの人間については,他の存在者と の間の因果的関係において決定されているとした。つまり,他の存在者から因果的に規定されるこ となく自らを最初の原因として事態を開始する絶対的自発性としての「自由」は,この限りでの人 間には否定されることになる。

一方カントは,「物自体」として在る限りでの人間については,その在り方について確実な認識は 不可能であり,それが「決定された存在」であるとも「自由」であるとも積極的に主張することは できないとした。ということは,「物自体」として在る限りでの人間が「自由」でないとは言えない ということである。すなわち,人間がどの様なものであるかということについての経験的認識では なく,人間がどの様なものであるべきかということについての理性的な思考を問題にする限り,

「自由」をその議論の中に組み込むことは必ずしも不当なことではない。カントは,人間につい て,「人間は何を為すべきか」という道徳的な領域において「自由」を「要請」したのである。

以上のような存在論的構図の下でのカントの善についての議論については,r人倫の形而上学の

(12)

基礎付け』,r実践理性批判』およびr単なる理性の限界のうちにおける宗教』を取り上げる9}。

カントは,「意志」を「或る表象に適合して自分自身を規定して行為する能力」(M27)とし,

「意志にとってその自己規定の客観的根拠として役立つものが目的である」(伽4.)とする。つま り,カントにとって,目的とは,それが結果するように行為するように意志が自己を規定するとこ ろの意志の対象の表象である。すなわち,意志(目的との肯定的あるいは否定的関係に応じて「欲 求能力」あるいは「嫌悪能力」とも言い換えられる)は自由であるが,その自由を一定の「目的」

の実現のために用いて自分自身を規定する。この自己規定の規則,つまり,意志が目的を実現する ために自らの行為の仕方を規定するところの規則を,カントは「格率」と呼ぶ。

このような枠組みの下で,カントは善悪を,この一定の対象(の表象)を目的として有する意志 と結びつけて考え,次のようにとらえる。「善とは我々の欲求能力の必然的対象」(V58)であり,

「悪とは我々の嫌悪能力の必然的対象」(伽4.)である。重要なのは,ここでは「必然的」というこ とが言われている点である。つまり,カントは,善について,意志の規定根拠として絶対的なもの であることを求めているのである。

カントは,通常の善悪把握を次のように批判する。善は「快適のための手段となるもの」

(ibid.),悪は「苦痛と不快の原因となるもの」(必f4.)と考えられている。しかし,「単に手段と しての善いものの概念から出てくるであろう実践的格率は,決してそれだけで善いものを意志の対 象として含まず,せいぜいただ何ものかののために善いものを含むだけである」(V58)とする。な ぜなら,ここでは,善は「快」という「目的」の「手段」として理解されているが,「快適」は他の 存在者との間の因果的関係において決定されて生じる感覚的なものであって,「あらゆる理性的人 間の判断において欲求能力の対象」(V60f.)ではないからである。したがって,「ただ幸福あるい は禍に関係してのみ善い,悪いと呼ばれ得るもの」(V62)ではない「それ自身における善・悪」

(ibid.)が判定されねばならない。

カントによれば,絶対的なものである「それ自身における善」は以下のようなものである。そこ においては「理性の原理が必ずそれ自身において,すなわち欲求能力の可能的客体を顧慮せずに

(したがってただそれの格率の法則的形式によってのみ)意志の規定根拠と考えられる。その場合 には,この原理はア・プリオリな実践的法則であり,純粋な理性は自分だけで実践的であると容認 される。またその場合には,この法則が直接に意志を規定する。この意志に適合する行為はそれ自 身において善いのである。それの格率が常にこの法則と適合する意志は,端的にあらゆる点におい て善いのであり,全てのよいものの最上の条件である。」(ibid.)

かくして,カントにおいては,絶対的な善いということは意志についてのみ認められることに なったが,上記の内容の,我々の関心からするポイントを確認しておこう。

まず,重要なのは,「欲求能力の可能的客体」とは「目的」に他ならないから,カントにとっての 絶対的な善はもはや「目的」一「手段」という概念によってとらえられるものではないことである。

意志の善さとは,何を目的として意志するかということににかかわるのではなく,(何を目的とす るにせよ)どのように意志するかという「形式」にかかわることなのである。

そして,その〈どのように〉を規定するのは「理性の原理」あるいは「ア・プリオリな実践的法

則」であると言われているが,カントはこれを一般に「道徳法則」と呼ぶ。すなわち,カントに

とって,「道徳法則」に従うことを意志することが絶対的に善いことなのである。ただし,上記の説

(13)

明からわかるように,この「道徳法則」は具体的(=感性的)な内容規定を持たない。つまり,そ れは,具体的な行動の在り方を指示するものではなく,行為の「善さ」が普遍妥当的であるべしと いうことだけを規定するものである。

また,上記の記述で「理性」が持ち出されるということは,以下の二点を意味する。まず,カン トは理性は全ての人間がアプリオリに有しているものとするから,「道徳法則」は,全ての人間が行 為を行なう際に常に既に自らの内に見いだすものであるということ。さらに,カントの場合,加え て,実践的場面における理性は経験的(感性的)条件に左右されずに自発的に判断を行なう能力で あるから,「道徳法則」が「直接に意志を規定する」というのは,理性的である限りの意志が,あら ゆる経験的(感性的)条件から,自由に自ら自分の行為の格率を普遍妥当的であろうとする,とい うことに他ならないこと。したがって,カントにおいては,絶対的に善い意志は以下のごとき「定 言命法」を自分に与えて従っているところのものであることになる。「汝の意志の格率が常に同時 に普遍的立法の原理として妥当し得るように行為せよ」(V30)。

さて,このようにカントの議論は,人間の意志の「自由」を前提としている。しかし,というこ とは,人間は悪を意志する,すなわち「人間が道徳法則を自ら意識しながらも,なお道徳法則から のその時々の背反を自らの格率の内に採用する」(V[32)ことも可能だということに他ならない。

ここで問題は,人間が本来理性的な存在であり,道徳法則に従うことを意志するはずなのに,な ぜ「道徳法則からのその時々の背反を自らの格率の内に採用」してしまうのかということである。

また,カントは,現実問題として,実際の人間の行動は「悪」=道徳法則に従わないことを意志す ることに満ち満ちていることも認める。すなわち,人間の諸行為の「悪」は一定の普遍性をもって いるのである。

カントは,人間の本性の内に道徳法則に従わないことを意志する「性癖」の存在を認め,それを

「悪への自然的性癖」(伽4.)と名づけ,この性癖そのものが(選択をしていることには責任がある から)人間の「根本的な悪」(伽4.)であると言う。ここで,カントは,この「根本悪」からの解放 はいかにしてなされるかを示す必要がある。もしそれが不可能であるならば,人間が絶対的に善く なることを望むことは不可能になる。

カントは,この「悪への自然的性癖」としての人間の「根本悪」を克服することは,「格率の基準 が不純である限り,漸次的な改革Reformをいくら積み重ねても実現され得ない」(M47)ことを認 める。しかし一方,「志操の革命Revolutionによって実現されなければなら」(伽4.)ず,それは可能 であることを言う。なぜなら,(人間は理性的な存在である以上「善への根源的素質」をもち,しか も「定言命法」という道徳法則=理性的意志の命令はそれに従うことを命じる以上)人間が「自分 から善い人間になること」(ibid.)は「義務」(伽4.)であり,「義務が我々に命じるのは実行可能な

ことだけである」(ibid.)から。

ここでカントの念頭におかれているのは宗教的な回心である。しかし,我々の関心において重要

なのは,ここに及んで,人間が絶対的に善いものとなることと,他の存在者から因果的に規定され

ることなく自らを最初の原因として事態を開始するという意味での「自由」との結びつきが変質し

ていることである。人間が「自由」であっても絶対的な意味で善くも悪くもなり得る。逆に言え

ば,絶対的な意味で善かろうが悪かろうが人間は「自由」であり得る。そして,絶対的な意味で善

いということ,すなわち「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当し得るように

(14)

行為せよ」という命令を自分に与えて従うということの内には,回心の「自由」,すなわち個々の人 間の個別的な場面での自発性という意味を越えた精神の転換の「自由」ということが含まれること に成らざるを得ないのである。

第4章 相対的な善と絶対的な善 1) 目的から説明される善の相対性と社会性

スピノザとカントの議論に共通しているのは,善いということについての伝統的な哲学的思 考で把握された限りでの善の相対性の指摘であった。そして,さらに共通しているのは,その ように相対的なものとしてとらえられた善いということは,他の存在者によって因果的に決定 されているもの・こと・状態などについて言われることであるという把握である。

まとめれば,以下のように言うことができよう。伝統的議論においては或る「目的」の現実 化の「手段」であるところに善いということの根拠があった。しかし,伝統的議論においては 同時に目的一手段連関は原因一結果連関の裏返しとしてとらえられ,また,世界のもの・こと

・状態などをすべて原因一結果連関のもとおくことが哲学的思考を始めとする学の基本的立場 であった。だが,一旦世界のもの・こと・状態などをすべて原因一結果連関のもとにおこうと するならぼ,善いということの判定者である人間が何を目的としてとらえるかもまた原因一結 果連関のもとで決定されることになる。そして,或る人間の目的の定立にかかわる原因一結果 連関は,各々の人間のその都度の目的の定立ごとに異なっている限定されたものである。した がって,定立された「目的」の内容は各々異なる個別的で相対的なものにならざるを得ず,そ れにもとつく善いということも絶対的な一般性をもたない相対的なものにならざるを得ない。

しかし,この善いということの相対性についての把握は,より広く考えるならば,善いとい うことにかんする日常的思考の自己把握に以下のような視点を加えることを要求するものだと いうことができる。それは善いということの社会性という視点である。

我々は世界に存在する他のもの・こと・状態などとの原因一結果連関のもとで存在している。

とりわけ,社会的存在として他者との関係をもって存在している。ということは,自らの状態 が他者から規定されているということにとどまらず,善いということの判定の基準たる「目 的」の表象の仕方もまた他者から規定されていることを意味していることになる。

したがって,上記の議論を認める限り,通常の社会的存在としての人間については,二重の 意味で,絶対的な意味での善悪はなじまない,ということになる。つまり,善悪の判定の対象 として相対的な意味での善悪が判定されるにすぎないのみならず,善悪の判定の主体としても 相対的な意味での善悪を判定できるにすぎないのである。このことは,言い方を換えれば,社 会的関係が変化すれば,或る人間およびその活動についての善悪の判定は変化するものである

ということを意味する。

この善いということの相対性の把握は消極的な態度のみを導くわけでない。学的理論的思考

の基本態度が原因の探究であるとするならば,ここから,善いということについての学的理論

(15)

的思考の作業以下のようなものであるべきだということが導かれる。すなわち,社会的存在と しての人間にかんしての学的理論的思考の作業は,善悪が判定される対象としての人間につい てはその状態がどのように他者から規定されているかについて,また善悪の判定の主体として の人間については善いということの判定の基準たる「目的」の表象の仕方がどのように他者か ら規定されているかについて,個々の場合に応じて具体的に「原因」を探究していくというも のであるべきなのである。

2) 自由と絶対的な善さ

さてしかし,哲学的思考がそれをあらためて明確化するとはいえ,上記のような視点は日常 的思考の自己把握の内に既に含まれているとも言えるものである。ところが,それでもなお 我々は,時に,とりわけ人間の在り方について絶対的としか言いようのない善悪の判定を行な う。スピノザやカントをして絶対的な善の探究に向かわしめたのもまた,この「経験」であろ

う。

絶対的に善いということにかんする両者の議論において重要なのは,第一に,絶対的に善い ということはもはや目的一手段連関ではとらえらえないということであり,第二に,したがっ てそれは原因一結果連関によるもの・こと・状態などの規定を超越しているということである。

よって,両者とも,絶対的に善いということは(カントの場合は明示的に,スピノザの場合も 我々の解釈にしたがう限りは)「自由」と結びつくことになった。

しかし,ここで重要なのは,どちらの場合も,この「自由」ということが,単に他者から決 定されずに自己を原因としてものごとをはじめるという意味に留まってはいない点である。ス ピノザの場合には,個別的な因果関係においてみるならば他の原因から決定されているととら えられる場合でも,存在者である限り常に既に有しているところの「自由」が浮かび上がった。

カントの場合には,他者から決定されずに自己を原因としてものごとをはじめるという意味で 自由であっても,それだけでは絶対的に善いということには不十分であるということが浮かび 上がった。

両者の議論の共通性を積極的に取り出そうとすれば,それは以下の点に求められるであろう。

すなわち,人間について絶対的に善いということは,人間が世界のもの・こと・状態などとの 間の原因一結果連関から自由であるということで判定されることではなく,このような原因一 結果連関のもとで諸判断をすることから「自由」になっていることによってはじめて可能にな るととらえていることであろう。すなわち,絶対的に善いということは通常の相対的な意味で の善悪が判定される対象としての在り方にかかわることではない。絶対的に善いために必要な のは,原因一結果連関のもとで諸判断をするという通常のものごとの捉え方とは次元が異なる 精神活動の仕方への,決定的な心の向け替えなのである。

これをより広く考えるならば,以下のようにとらえなおすことができる。相対的な意味での

善悪を判定する基準は,通常の原因一結果連関のもとでのものごとの捉え方を前提とし,それ

を目的一手段連関に転倒させることから生じる。よって,通常のものごとの捉え方から決定的

に離脱するということは,相対的な意味での善悪を判定する基準がその基盤を失うことを意味

(16)

し,ここに,相対的な意味での善悪を越えた絶対的な善悪を問題にし得る場面が開かれる.

これを,社会的存在としての人間にかんする相対的な善悪は確定的なものではなく,社会的 関係の変化に応じて変化するということと結びつけると,以下のような視点を日常的思考の自 己把握に加えることが可能であるように思われる。

すなわち,既存の社会的関係に対応し規定された相対的善悪の基準にとらわれない人間およ びその行為は,通常のものごとの捉え方から決定的に離脱する働きを含んでいるから,その限

りで,それ自体として絶対的に善いと。

もう少し具体的に言えば,絶対的な意味で善い人間の在り方とは,次々と視点の異なる発想 から認識し活動する開かれて流動的な状態のことであり,悪い人間の在り方とは,一定のもの の見方からしか認識し活動できないとらわれて固定的な状態である。カントの「形式主義」に 即して言えば,絶対的な意味で善い在り方をしている人間は,意志の確率が普遍妥当的である べしという「形式」に対して確率の「内容」を柔軟に変化させて行為し,悪い在り方をしてい る人間は,一定の「内容」をもった確率のみをこの「形式」に当てはまるものとして行為する と言ってもよい。この時,スピノザの「欲望」論に即して言えば,善い在り方の人間は欲望が ますます高まって活動力を増していく状態にあり,悪い在り方の人間は欲望が次第に枯渇して 活動力が減退していく状態にある。

最初に述べたような日常的思考と哲学的思考の連続性がある以上,哲学的思考によってこの ような善悪観が明確化されるということは,ある意味でそれが我々の日常的思考の中で既に

「経験」されているものであることを示している。しかし,これまでの日常的思考の自己把握 の典型とは異なったこのような善悪観をあらためて明確化することは,我々の日常的思考と活 動をこれまでとは幾分か異なった方向に導く力もまた十分に有していると言い得る。

さてしかし,スピノザおよびカントの議論は,それぞれ,全ての存在者は唯一の自己原因的 実体の様態であるという「汎神論」,および人間はすべて理性的な存在者として「道徳法則」と

「善への根源的素質」をもつという「汎理性論」に支えられているものであった。このような 存在論を日常的場面に引き戻したかたちで我々は十分に認めることができるであろうか。その 検討は残された課題であるが,その検討によってさらに日常的思考のあらたな転換が引き起こ

されることになるであろう。

1)しかし実は,哲学は結構具体的に役立つものである.学問と言われているものの内部で考えれば,哲学史的

知識は,諸学が前提としているものの考え方,強く言えば,存在論,世界観の整理という意味を持つ.この知

識は,学問を学び始めようとする者にとって,そこに入って行くための予備学としてなかなかに重宝なもの

であると同時に,或る学問を根底的に再検討しようとする時に欠かせないものである.また,学問の世界に

限らずとも,各分野の知的作業というものは孤立しがちである.互いに参照し合うことによって得るところ

が多いことがわかっていても,各々の専門性によってそれはなかなか難しい.このような場合,哲学的思考

は,その一般性,抽象性が逆に有利に働き,各分野を連絡する通路の役割を果たすことができる。いわば,

(17)

コーディネーターとして,哲学は実際的場面においても結構具体的に役立つことができるものなのである.

こういった哲学の「実学」としての側面が,研究の面でも教育の面でも軽視されがちなのは残念なことであ る.あるいは,哲学が「孤立」を享受しているのは,このような点について具体的なプログラムを考えること を哲学の方でも周囲の方でも怠けているからだということもできよう.しかし,このように哲学が「実学」と して役立つことができるのも,この後に述べるように,哲学的思考が我々の日常的思考と一定の連続性を有 しているがゆえであることは言うまでもない.

2)「日常的思考の自己把握」がある程度整理され固定化されたものが「常識」,「通念」と呼ばれるものである から,一般に哲学的思考は「常識」,「通念」に対して批判的な性格を帯びることになる.

3)ここで,日常的思考一日常的思考の自己把握一哲学的思考の連続性をも共に強調するなら,この一連の 思考の総体は自らの中から自らを転換させる契機を生み出していくという言い方もできる.例えば,ヘーゲ ルが概念の「否定性」ということを言い,哲学を「意識の経験の学」であるととらえた所以はここにあると言

うことができよう.

4)「善」と一般に対にされる概念に「悪」がある。悪は,それ自体考察すれば,単に善の対立・反対概念とと いうだけではとらえきれない問題をもった概念である.しかし,本論文では悪概念については積極的には論 ぜず,議論の進行上必要な限りで用いるだけにとどめる.

5)このように「よい」ということをく人間にとって〉という視点から判断すること,つまり価値判断の基準が

「人間」にあるということは,昨今「人間中心主義」として批判されることが多い.つまり,このような考え 方は,近代ヨーロッパに始まる,存在者はすべて「対象」としてとらえられ,「人間」が認識=判断の主体と

しての特権的地位を占めるという存在論から生じるものであり,「人間」の立場からする一面的な諸物の価値 の裁断が環境問題などを引き起こすことになったというわけである.このことは稿を改めて論じるべき大問 題であるが,ここでは次の点だけ述べておく.この批判が正当であるにしても,だからといって現在の我々 はこの「人間中心主義」の外側に立つことは単純にできることではない.例えば,環境問題についての様々な 論述(およびそれの我々の理解)の内でく人間にとって〉という視点から全く解放されたものはどれだけあ るだろうか。我々はく人間にとって〉という視点から「よい」を論じるのと同じくらいのリアリティと適用 力をもった別の「よい」の語り方・考え方を未だ持ち合わせていないのである.

6)以下の整理は哲学史書を中心とする様々な書籍,論文類を参考にしており,かつ内容的には一般的,定説的 なものと思われるので,典拠は示さないことにする.

7)本文で用いているように,「目的」には,人間が追求すべきもの・こと・状態という意味での「目的」と,

もの・こと・状態の存在・現実化の原因一結果関係の裏返しとしての手段一目的関係における「目的」との 二義がある.伝統的な哲学的思考,またそれに限らず世界を理論的に把握しようとする思考法においては,

いわば前者を後者の中に取り込む形で両者を統一しようとする立場が一般的である.しかし,両者を全く同 一視してよいかは疑問がある,先回りしていえば,後にみるスピノザおよびカントの議論は,この立場から 出発しながらも,結果として,前者の意味での「目的」が後者に収まりきらない場面に行き着いていると言う ことができる.

      !

W)rエチカ』についてはアッピューンによる羅・仏対訳版Spinoza, E而9粥, Texte et traduction par Charles APPUHN(Paris:Librairie Philosophique J.Vrin,1983)に拠り,引用部分の邦訳は畠中訳(岩波文庫,1975),

工藤・斎藤訳(中央公論社・世界の名著,1969)を参考にした.引用箇所の指示はすべて本文の中に組み込

み,そのローマ数字は同書の「部pars」を示す.

(18)

9)カントのi著作についてはアカデミー版全集の普及版1(侃 ∫Wθ7舵,Akademie−Textausgabe(Berlin,

Walter de Gruyter&Co。,1968)を用い,引用部分の邦訳は理想社版rカント全集』の諸訳を参考にした.引

用箇所の指示はすべて本文の中に組み込み,そのローマ数字はアカデミー版の巻数を示し,アラビア数字は

頁数を示す.

参照

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以下の通りである。

は、人間がある 場面に遭遇した際にどのような態度を取るかはそ

リーダーシップを発揮していったのではないだろ

状況か ら発せ られる責任 については、人間の世界内存在 とい う在 り方か らよリー層理解 され うるであろう。世界内存在 は基本的に く共存性〉 と く相互性〉

] がそ のなかで自己と同一的であるところのものとして規定する」からにほかな らない。 (7) (7) −i <大> c 力の無限性

)。 で す

理解に役立つもう一つのサンスクリット語の言葉は、「結合」を意味するヨーガです。 『バガヴァッド・ギーター』の一節は、言っています。