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自己決定をめぐって : 現代における「自由」の問題についての一考察

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(1)

題についての一考察

著者

菊地 伸二

著者所属(日)

平安女学院大学生活福祉学部

雑誌名

平安女学院大学研究年報

8

ページ

21-29

発行年

2008-03-31

URL

http://id.nii.ac.jp/1475/00001259/

(2)

自己決定をめぐって

− 現代における「自由」の問題についての一考察 −

菊地

伸二

はじめに

今日、「自由である」ということはどのように理解されているのであろうか。この、一見すると捉 えどころのないような問いに対して、それでも何らかの応答をしようとするとき、「自由」という言 葉が使われている領域をあらかじめ分けて説明するということがしばしば行われる。たとえば、ある 事典によれば 1「自由」は、大きく政治的領域と哲学的領域に分けて説明されている。しかし、こ のような説明に対しては、そのように分けることによって、かえって「自由」というものの全貌が見 えにくくなってしまうのではないか、という批判もあるだろう2 筆者の主たる関心は、「自由である」ということについて哲学的に検討する、ということにあるが、 このことは、いわゆる現代の哲学の領域で扱われている「自由」の問題に限定するということを意味 してはいない3。むしろ、今日、「自由」について語ろうとするとき、必ずいっしょに持ち出されるよ うな事柄を題材としながら、「自由」の問題について検討することにも、それなりの意味があるよう に思われる。 そこで、この小論では、自己決定というひとつの事態を取り上げることによって、現代における「自 由」の問題について考える機会としたい。

1.自己決定とは

自己決定、あるいは自己決定の権利を有しているということが、私たちが自由であるというときの ひとつの基準になっていることについては、さしあたって大きな疑念はなさそうである。じっさい、 自己決定という言葉は、たとえば、患者の自己決定、知的障害者の自己決定、ジェンダーと自己決定、 死の自己決定というように、さまざまな場面で使われており、そこでは、自己決定に関わる当事者に とっての「自由」という意味合いが含まれていることは明らかである。 それでは、自己決定とはどのような意味を有しているのであろうか。今日、さまざまな場面で使用 されている自己決定は果たして一義的なものとして理解してよいのであろうか。また、そもそも自己 決定という言葉が今日的な意味で日本において定着されるにはどのような経緯があったのであろうか。 そこでまず、自己決定乃至は自己決定権の意味について、三つほど例をあげることにしよう。 1)『福祉社会事典』によれば、自己決定とは、「自分に関わることを自分で決めること」と記され ている4 2)『社会福祉用語事典』によれば、自己決定とは、「個別援助の原則の一つであり、サービス利用 者が自らの意思で自らの方向を選択することをいう」とある。さらに続けて、「自己決定の原則は、 利用者自身の人格を尊重し、自らの問題は自らが判断して決定していく自由があるという理念に基づ いている」と記されている5 3)『生命倫理事典』によれば、自己決定権とは、「責任能力があれば、自己の私事については、愚 行でも他人に危害を及ぼさない範囲で自由に決定してよいとされる権利」と記されており、さらに、 「その私事内容には、自己の身体生命や生殖に関する事柄とライフスタイルに関わる事柄が含まれる」 とも記されている6

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1)では、自分に関わることを自分で決めることが自己決定である、ときわめて中立的に、ある意 味で字義的に説明されている。 2)では、自己決定という言葉が、とくに、社会福祉の分野において果たしてきた重要性を考慮し ながら説明がなされている。 3)では、自分に関わることということの意味が、単に、ライフスタイルに関わることだけでなく、 自己の身体生命や生殖に関わることをも含みうるものであることが説明されているが、ここで言われ ていることは、より平たく表現すれば、「他人に迷惑をかけないかぎり、自分のことは自分で決めて よい」という考えであると言ってもよいであろう。 1)から3)までの説明は、相互に共通しているものを含みながらも、それぞれに異なることも主 張しており、このことは、自己決定という言葉が、今日に至るまで決して一義的に用いられてきたわ けではないことを物語っているように思われる。それでは、自己決定とはそもそもどのように使われ ていたのであろうか。 『哲学・思想翻訳語事典』によれば、自己決定について次のように言われている。すなわち、「単一 の原語があり単一の経路を通って日本語として定着したとは考えにくい7」と。 この言葉に相当する英語としては、self-determination, autonomy などが当てられるが、たしかに、 これらの原語は共通の出発点を有しているわけではない。 たとえば、autonomy は、さらにドイツ語の Autonomie に由来し、これは、元々カントの自律とい う思想に遡るものであるが、英米のバイオエシックスの議論では、patient autonomy として患者の自 律を意味するものとして使われるようになった。また、self-determination については、クライアント が自分の判断で自らの方針を決めるというケースワーク上の原則として、自己決定の原則は主張されて はいたものの、第二次世界大戦後の非植民地化を提唱する際に、right of peoples to self-determination の語が使われるときには、日本語訳としては、民族自決権と訳された。他方、唄孝一は、1965年の「治 療行為における患者の承諾と医師の説明」という論文において、医療行為についての患者の personale Selbstbestimmung というドイツ語の訳語として「個人の自己決定権」を使用している8 「単一の原語があり単一の経路を通って日本語として定着したとは考えにくい」と言われるとおり であるが、おそらく、この自己決定という言葉は、社会福祉において早い時期から使われており、そ の流れは、たとえば、障害者の自己決定という形でも展開されていくが、それと並行して、1970 年 代から 80 年代にかけての医療の領域や女性運動との関係で、その言葉の内容的な理解が促進され、 それに応じて、言葉の使用される頻度が高くなってきたと言うことができるであろう9。ただ、先に あげた1)から3)までの意味を含むものとして、自己決定が日本語として本格的に使用されるよう になるのは、80 年代以降、むしろ、90 年代になってからであると言われている10 ところで、このような自己決定という言葉が次第に広範囲に使用され、日本語として定着していく ことと並行して、それを、法律との関連で取り上げたものの中に、山田卓生の『私事と自己決定』が ある。この書で山田は、次のように、私事を大きく四つに分け、さらに細分して全部で十四に分けて いる11 (A)ライフスタイル 服装・身なり・外観――①長髪・ひげと制服 性的自由――②合意ある成人行動 婚――③結婚の権利 婚――④離婚の自由 (B)危険行為 ヘルメット・シートベルト強制――⑤⑥ヘルメットとシートベルト 煙――⑦有害承知の喫煙 スポーツ・飲酒運転――⑧危険への接近

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登山・ヨット――⑨登山と遭難救助 (C)生 産む権利――⑩産む権利 産まない自由――⑪産まない自由 (D)死 治療拒否――⑫病気と治療 安 楽 死――⑬死の選択 殺――⑭自己破壊の自由 この大きな四分類は、先の3)の「私事内容には、自己の身体生命や生殖に関する事柄とライフス タイルに関わる事柄が含まれる」と照合するならば、(A)ライフスタイルと(B)危険行為が広い 意味でのライフスタイルに関わる事柄に、(C)生命と(D)死が自己の身体生命や生殖に関わる事 柄と言うことになるであろう。 なお山田は、自己決定権が登場した背景として、とくに、アメリカにおいては、プライヴァシーの 権利とパターナリズムとの関連の問題があったことを強調している12 このように、自己決定という言葉は、必ずしも単一の源から、という仕方ではなく誕生し、社会福 祉の分野においては少なくとも 1950 年代頃から使われ始め、その流れは今日までつながっているが、 70 年代から 80 年代にかけて、医療や女性運動の領域で、その言葉の内容を徐々に顕わにしながら、 次第に使用されるようになり、さらに 90 年代に入ると、自己の私事に関わることについての決定す る権利という意味合いを色濃くしつつ、今日のような形で定着するようになった、ととりあえずは言 うことができるであろう13 それでは、このような自己決定の捉え方は、ごく最近始まったものであって、その考え方を過去の 思想家に遡ることは不可能であろうか。 このような観点から見ていくとき、そのひとつの源として目に留まるのが、 J .S .ミルその人であ る。なかでも、彼の『自由論』における自己決定に関する見解は注目に値するので、次にそのことに ついて取り上げることにしよう。

2.J.

S.

ミル『自由論』における自己決定

J .S .ミルは、『自由論』の第 1 章のところで、その全体の目的について次のように語っている。 「この論文の目的は、用いられる手段が、法的刑罰という形の物理的力であれ、世論という道徳的 強制であれ、強制と統制という形での個人に対する社会の取り扱いを絶対的に支配する資格のある、 一つの非常に単純な原理を主張することである。その原理とは、人類が、個人的にまたは集団的に、 だれかの行動の自由に正当に干渉しうる唯一の目的は、自己防衛だということである。すなわち、文 明社会の成員に対し、彼の意志に反して、正当に権力を行使しうる唯一の目的は、他人にたいする危 害の防止である。彼自身の幸福は、物質的なものであれ道徳的なものであれ、十分な正当化となるも のではない。そうするほうが彼のためによいだろうとか、彼をもっとしあわせにするだろうとか、他 の人々の意見によれば、そうすることが賢明であり正しくさえあるからといって、彼になんらかの行 動や抑制を強制することは、正当ではありえない。これらは彼をいさめたり、彼と議論して納得させ たり、彼を説得したり、彼に嘆願したりする十分な理由になるが、彼に強制したり、そうしない場合 に彼になんらかの罰を加えたりする理由にはならない。それが正当とされるためには、彼の思いとど まることが望まれる行為が、だれか他の人に対して害を生みだすことが予測されていなければならな い。人間の行為の中で、社会にしたがわなければならない部分は、他人に関係する部分だけである。 自分自身にだけ関係する行為においては、彼の独立は、当然、絶対的である。彼自身に対しては、彼 自身の身体と精神に対しては、個人は主権者である14 いささか長い引用となったが、ここで言われていることは、個人の立場から述べるならば、次のよ

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うになるであろう。すなわち、個人の身体と精神に関わる行為、その限りで個人の行為が、社会的に 見て、たとえ、より望ましい行為が見込まれたりする場合でも、その行為が、社会や他人に対して害 を生みだすことがないと想定されるときには、その行為はもっとも尊重されなくてはならない、とい うことである。 その直後に、この理論が適用されるのは、成熟した諸能力をもつ人間に対してだけであること、子 どもたちや、法が定める男女の成人年齢以下の若い人々をここでは念頭に置いていないこと、さらに、 まだ他人の保護を必要とする状態にある者たちも除外されることが言われている15 加藤尚武は上記のことを要約して、①判断能力のある大人なら、②自分の生命、身体、財産などあ らゆる<自分のもの>にかんして、③他人に危害を及ぼさない限り、④たとえその決定が当人にとっ て不利益なことでも、⑤自己決定の権限をもつ、と言っている16 ミルによって主張されたことは、先の『生命倫理事典』における自己決定権の説明として、「責任 能力があれば、自己の私事については、愚行でも他人に危害を及ぼさない範囲で自由に決定してよい とされる権利」とほとんどそのまま重なっており、今日の自己決定の捉え方に色濃く影響を与えてい るということができるであろう。 ただ、今から 150 年ほど前に誕生した『自由論』においては、社会において個人の有する権限が限 られており、いわば、個人対社会という構図の中で、社会からの圧力に対して、一体個人は何を主張 できるのか、という立場から個人を位置づけようとしたものである、ということもまた記憶に留めて おかなくてはならないであろう。

3.自己決定に対する批判

さて、今日このように広範囲に渡って使用されている自己決定に対して、どのような評価がなされ ているのであろうか。「他人に迷惑をかけないかぎり、自分のことは自分で決めてよい」というこの 主張は、その言葉のまま受け取る限り、さしたる問題もなさそうにも思われる。とくに、自分のこと を自分で決められないでいる状態に較べれば、自分で決めることができるということはより望ましい ことと考えられるであろう、しかも他人に迷惑をかけていないのだから。 しかし、他人に迷惑をかける、とはどういうことを指すのか、あるいは、自分で決めてよい、と言 われている自分のこととは何か、ということについては必ずしも共通認識があるわけではない。たし かに、自己決定における私事内容に、自己の身体生命や生殖に関わる事柄とライフスタイルに関わる 事柄が含まれていることについては、共通に理解されているとしても、自己の身体生命に関わる事柄 の中には、死についての自己決定のようなものも入ってきており、そのような自己決定権についてど のように考えるか、ということについては共通の見解があるわけではないであろう。 この章では、自己決定に対する批判を取り上げようと思うが、それに先立って、そもそも自己決定 あるいは自己決定の権利は、法的にどのように根拠づけることができるのであろうか、ということに ついてごく簡単に見ておきたい。 たしかに、自己決定権は、日本国憲法において明文化されているわけではないが、それを憲法にお いて位置づけようとするとき、憲法第 13 条の「幸福追求の権利」がしばしば引き合いに出される。 じっさい、第 13 条には、「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対す る国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要 とする」と記されている。しかしながら、幸福追求に関して一般的な人権を認めたと考えられるこの 第 13 条を根拠にして、そこから具体的な人権を導き出すことはいささか困難が伴うかもしれない。 ただ、第 13 条では「すべての国民は、個人として尊重される」と言われていることから、自分で決 める、ということのうちに、人間としての何よりもの尊厳を読み取ろうとするという見方も可能であ

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るかもしれない17。いずれにしても、自己決定の権利を法律と関係づけることによって、それを支持 する立場が一方にはあるわけであるが、他方で、自己決定を批判する立場が存在している。ここでは 三人の見解を取り上げることにしたい。 まずは、『自己決定権は幻想である』を著した小松美彦の見解を紹介しよう。 小松は、自己決定という言葉と自己決定権という言葉を次のように区別する。すなわち、「私たち の行動には、そういう、言葉で考えるというよりも身体全体で考えると言ったほうがよいようなもの があって、自己決定には、そういった具体的な生の実相が、まるごと含まれていると思います。これ に対して、自己決定権にはそういう自ずからなる要素はありません。自己決定権は、言葉によって普 遍化された人為的な権利であり、思弁によって客観化された制度であり、さらには個別の実相を他人 事に変えてしまう装置であり、したがって、いつでも政治的な恣意によって道具にされるという危険 性をもったものなのです18」と。 こうして、自己決定と自己決定権を区別した上で、自己決定権に対する批判の根拠を四つ列挙して いる。 第一は、自己決定権という言葉によって、人間関係の尊重すべき貴重な機微が覆い隠されてしまう のではないか、という点である19 第二は、安楽死の自己決定権に絡めて、自己決定権という言葉が謳われ、その美しい響きが無為に 受け入れられてしまうことによって、人々の抵抗が鈍る、という点である20 第三は、いったん自己決定権を盾にしてしまうと、さまざまなことに関して、自分のことは自分で 決めればいいのだから、他人には口を出してほしくないという壁ができてしまい、結果として自己決 定権が他者同士のコミュニケーションを遮断・排除する道具として機能する危惧があるのではないか、 という点である21 第四は、死は果たして自己決定できるかどうか、という点である22 小松の批判は、自己決定という具体的な生の実相が、自己決定権という枠組みによって、いわば固 定化してしまい、そこには、他者からの働きかけというような動的な要素が入り込まなくなってしま うという点にある。第四の、死は果たして自己決定できるかどうか、というところでは、彼は、死を 個人だけに関わる事象とは見ておらず、むしろ、そこには他者も関わってくるのであり、それをあた かも自分だけの所有物を扱うように決定することは容認されないのである。 次いで、仲正昌樹は、『「不自由」論』において、自己決定、すなわち、自分で決めるということが、 今日では、経済的効率と結びついていることもあり、決定する主体としての自己が、それを取り巻く 他者との関係性、すなわち、自己の置かれている状況を十分に把握しないままに、自己決定をせまら れている現実を批判する。「共同体的な文脈抜きの「自己決定それ自体」があり得るかのような言説 が一人歩きするなかで、どういう「状況」なのかという規定なしに、“自己決定”がなされるように なることだ。つまり、何に対する「自己決定」なのかよく分からないままに、“とにかく自己決定” という圧力が働いていることである23」と言われている通りである。 仲正は、自己決定を行う「自己」というものは、単独で存在しているわけではなく、他者との関係 性において成立しており、それ故に、そこで言われる「自己」とは、固定的なものではなく、むしろ 揺らぐものであるにもかかわらず、決定というものが、時間的効率性の中で営まれることによって、 自己決定というものが本来持っているはずの自由性を失い、皮肉なことであるが、「不自由さ」がそ こに現れることを指摘していると考えられる。 最後に、立岩真也は、『弱くある自由へ』において、いわゆる自己決定の主張について、その当事 者に何を認めるのか、その人の何を侵害してはならないのか、ということについて明確なことを主張 していないとして、自己決定のひとつのあり方として、緩い自己決定というものを提案する。それは

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以下の通りである。 「第一点。その者の存在を決定すべきでないという価値がある。次に、決定をすることはその者が 存在していることの一部である。ゆえに、自己決定を尊重するということはその存在を尊重すること、 その存在を決定しないことの一部である。そして、当の者は、多くの場合、自分にとってよい状態を 知っているから、自己決定は肯定される。と同時に、周りにいる私達はどうしても私達の都合のよい ようにその人を扱ってしまいがちだから、自己決定は、それから自らを防御するための、少なくとも 一つの、手段となる。さらに、自己決定は、確定されない現実への参入を可能にするものであり、危 険を冒す自由を(冒さない自由とともに)与える。……第二点。存在するための条件が確保されなけ ればならない。次に、決定は存在することの一部である24 これは、自己決定がともすると、自己決定至上主義のようになってしまい、その決定できる領域を 曖昧にしてしまう危険性について、注意を喚起するための試みと見ることもできるであろう。

4.自己決定における「自由」

さて、前章において、自己決定、あるいは自己決定権に含まれる幾つかの問題点があげられたが、 それを参考にしながら、ここでは二つのことを指摘するとともに、かかる自己決定における「自由」 とは如何なるものであるか、ということを見ることにしたい。 ひとつは、自己決定における決定の質に関わることである。今日、自己決定と言うとき、その多く の場合は、その行為が表面に現われてくるようなもの、すなわち、具体的に何かを行った、と言われ るような行為が念頭に置かれている。じっさいには、具体的に何かを行わなかった場合でも、そこに 意志が働いていることはいくらでもあるのであるが、そのような場合には、決定が下されなかったと 見なされてしまうことになる。 自己決定という考えは、古くは『自由意志』を展開したアウグステイヌスに遡ることが可能である が、この場合の決定という時に使われていた arbitrium は、仲裁裁決、評決などの意味も持っており、 これがよって派生してきたところの動詞 arbitror もまた、仲裁裁定する、そのような仕方で判断する ことを意味している。そして arbitrium はあくまでも意志による決定という意味で用いられている。 他方、今日の自己決定の際の決定という語は、decision ないしは determination と英訳されるが、 これはさらにラテン語の dicisio ないしは determinatio に遡ることができる。decisio は、「切り取る」 「切り離す」を意味する動詞 decido から派生したものであり、他方、determinatio は、「境界を定め る」「限界をおく」を意味する動詞 determino から派生したものである。いずれの言葉も、切り離す、 区切りをつけるといった意味合いを含んでおり、その点で、自分の中で、あるいは他者との間にあっ て考えながら決めていくという arbitrium とは異なっている。 今日の自己決定は、このように、自分の中で、あるいは他者との間で考えながら決めていくという そのプロセスよりも、具体的な行為という形で、いわば外側に切り離され、輪郭を与えられたという 形で決めていくということに何よりも力点が置かれている。 もうひとつは、自己決定における自己という存在の在り方に関わることである。自己決定と言うと きには、その決定を下す自己は、最初から与えられた前提として、いわば不動なるもののごとく位置 づけられており、それが周囲に置かれているさまざまな対象について決定を下す、というイメージで 捉えられている。しかしそのような自己の捉え方は果たして適切なのであろうか。とくに、自己決定 においてしばしば問題となる事柄にあっては、自らの前に差し出された事柄に直面して、あれこれと 考え、ときに迷いながら、ときにとりあえずそのようにしておくという形で決めていく、あるいは、 そのような判断すらできないままでいる、ということが現実的には多々あるのではないだろうか。 そのように見るならば、今日の自己決定は、その決定を下そうとする自己という存在が、自分の中

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で、あるいは他者との間で迷い、考える中で、はじめて立ち現れてくるという現実を見落としている のではないか、と考えられる。 以上述べたことを、「自由」という観点から見るならば、自己決定における「自由」とは、もちろ ん、自らの熟考、他者との間での検討を経て自ら決定を下す、ということをその内に含みながらも、 考えあぐね迷った末に自己決定を下さないでいる自己の在り方については、積極的に評価されること もなく、かくして自己決定における「自由」とは、具体的な行為を選択することこそが、自己による 自由な決定であるという枠組みへと追い込まれていき、その選択のうちに自由の可能性を見出すこと を余儀なくされているように思われる。 また、決定を下すということが有しているある種の潔さは、自分の中で考え続けていく、あるいは 他者との間で考えていく、ということの接続性を切除し、切り離すということとの代償によって与え られたものであるので、自己決定における「自由」とは、他者からのレスポンス、あるいは自己の内 で「考える」という自由から、いわば自!!!!!ということをも含んでいるように思われる。 1 〔岩波哲学・思想事典〕によれば(pp. 705∼708)「自由」は大きく、西洋政治思想史上の自由と近代哲学史上 の自由の二つに分けて解説されている。 2 こうした自由の区別については、たとえば、〔ミル 1859〕の冒頭の箇所にある「この論文の主題は、哲学的 必然論というまちがった名前で呼ばれているものと、非常に不幸にも対立させられているいわゆる意志の自 由ではなくて、市民的ないし社会的自由である。すなわち、社会が個人に対して当然行使してよい権力の性 質と限界とを、問題にするのである」(p. 215)という言葉にも見られるものである。この哲学的必然論と対立 している(と目されている)意志の自由の問題と、社会的な意味での自由の問題の区別は、ある意味で、今 日では常識になっているところもあるが、他方で、H.アーレントのように、自由を非政治的次元に還元す ることに異議を唱える立場もあることを、ここでは留意しておきたい。 3 現代の哲学の領域で扱われている「自由」の問題が果たして限定されていると言えるかどうかは、改めて検 討する必要があるだろうが、さしあたって、英米系哲学の「自由」の問題をめぐる議論は、たとえば、〔Kane 2002〕においても垣間見ることができるように、自由意志と決定論との両立か否か、という問題にかなり集 中していると言えるだろう。 4 〔福祉社会事典〕p.379. 5 〔社会福祉用語辞典〕p. 182. 6 〔生命倫理事典〕pp. 250∼252. 7 〔哲学・思想翻訳語事典〕p. 120. 8 この段落の記述については、〔哲学・思想翻訳語事典〕p. 120 を参考にした。 9 〔哲学・思想翻訳語事典〕p. 120 のほか、〔福祉社会事典〕p. 379、〔小松 2004〕pp. 16∼18 においても概ねこ のような説明がなされている。 10 その理由として、〔小松 2004〕は、脳死・臓器移植の問題と、新自由主義の問題をあげている(pp. 18∼34 参 照)。 11〔山田 1987〕pp. 333∼335.なお、〔立山 2002〕によれば、自己決定権の具体的内容として、ライフスタイルに 関する自己決定権、生殖活動に関する自己決定権、生命・身体に関する自己決定権に三分している(pp. 12∼ 32)。 12〔山田 1987〕pp. 6∼7. 13 もちろん、社会福祉の分野でかねてより主張されている自己決定の流れを無視するつもりはないし、知的障

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害者の自己決定と一般の自己決定の間に何ら区別を設けることが不要であると主張するつもりもないが、こ の小論では、今日、その意味合いが大きく拡張された感のある自己決定という事態に改めて注目して、そこ で言われる「自由」という事態について検討することを主目的としている。 14〔ミル 1859〕pp. 224∼225. 15〔ミル 1859〕p. 225. 16〔加藤 1997〕p. 5. 17〔山田 1987〕pp. 341∼344.〔平田 2000〕pp. 109∼112. 18〔小松 2004〕p. 15. 19〔小松 2004〕p. 37. 20〔小松 2004〕pp. 37∼40. 21〔小松 2004〕p. 40. 22〔小松 2004〕pp. 44∼46. 23〔仲正 2003〕p. 207∼208. 24〔立岩 2000〕pp. 21∼22. 参考文献 引用したものだけでなく、執筆に際して参考にしたものも含んでいる。 〔岩波哲学・思想事典〕廣松渉、子安宣邦、三島憲一、宮本久雄、佐々木力、野家啓一、末木文美士編、岩波哲 学・思想事典、1998 年、岩波書店 〔加藤 1997〕加藤尚武、現代倫理学入門、1997 年、講談社

〔Kane2002〕Kane ,R. ,The Oxford Handbook of Free Will , 2002, Oxford 〔小松 2004〕小松美彦、自己決定権は幻想である、2004 年、洋泉社 〔齋藤 2005〕齋藤純一、自由、2005 年、岩波書店 〔社会福祉用語辞典〕四訂『社会福祉用語辞典』、1992 年初版、中央法規出版 〔立岩 2000〕立岩真也、弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術、2000 年、青土社 〔立山 2002〕立山龍彦、新版自己決定権と死ぬ権利、2002 年、東海大学出版会 〔生命倫理事典〕近藤均、酒井明夫、中里巧、森下直貴、盛永審一郎編、生命倫理事典、2002 年、太陽出版 〔哲学・思想翻訳語事典〕石塚正英、柴田隆行監修、哲学・思想翻訳語事典、2003 年、論創社 〔仲正 2003〕仲正昌樹、「不自由」論−「何でも自己決定」の限界、2003 年、筑摩書房 〔バイステック 1957〕バイステック、F.P、ケースワークの原則[新訳改訂版]―援助関係の形成する技法、尾 崎新、福田俊子、原田和幸訳、2006 年、誠信書房 〔半澤 2006〕半澤孝麿、ヨーロッパ思想史のなかの自由、2006 年、創文社 〔平田 2000〕平田厚、増補知的障害者の自己決定権、2000 年、エンパワメント研究所 〔福祉社会事典〕庄司洋子、木下康仁、武川正吾、藤村正之編、福祉社会事典、1999 年、弘文堂 〔ミル 1859〕ミル、J.S、自由論、早坂忠訳、1967 年、中央公論社 〔山田 1987〕山田卓生、私事と自己決定、1987 年、日本評論社

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On Self-Determination

Shinji KIKUCHI

Today, to have the right of self-determination is the criteria for being free. The self-determination has some meanings and basically dates back toOn Liberty written by Mill, J. S.

In our self-determination, we think for ourselves and select a concrete act for ourselves, though we are sometimes obliged to stop thinking with others and stop continuing thinking within us.

本論では、自己の私事に関わることについて決定する権利という意味での自己決定について扱う。 その源泉は J .S .ミルの『自由論』に見出され、この捉え方は、現代においても大きな影響力を与え ているが、そこには次のような特徴がある。その一つは、自己決定における決定とは、自分の中で、 あるいは他者との間で考えながら決めていく、というプロセスよりも、具体的な形での行為というこ とが念頭に置かれている、ということ。もう一つは、自己決定における自己とは、実際には、自らが 決定しなくてはならないことがらの前に、自らの存在が揺らぐようなことがたびたびあるにもかかわ らず、決定をくだす主体として、確固としたものとして捉えられている、ということである。

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