子 どもにおける内的崩壊の考察
一精神的 な活性化 を求 めて一
Consideration on the Internal Collapse in Children
-Facilitation of the Mental Activation-
高 橋 洸 治
KouJl TAKAHASHI
(平成11年
10月
4日 受理)1.内的崩壊の様相
不登校、い じめ、そして小学校低学年での く学級崩壊〉な どの現象に関す る報告書 に触れて、
子 ども (青少年 を含む)たちの く心の内なる崩壊〉のような ものが感 じ取 られる。 そしてそれ に伴 う寂蓼感 は、その事態 を生起 させている見通 し難 い心のメカニズムヘの一種の畏怖心 と、
既存 の教育学的な思考 と実践では対処で きない とい う挫折感 な どか ら成 る複雑 な感情 で もあ る。その教育学的に行 き詰 まった事態 を克服す るために、学級崩壊のいわば主役やいじめられ る脇役 に対す るケア リングやカウンセ リングが前面 に出されて きた。
学校・ 学級崩壊 は、子 どもたちの興味・ 関心あることを追求 したい とい う要求、その意味で の自由を求める強い要求が充たされない ことの帰結であると解することもできるであろう。そ の観点か ら見れば、それは 〈崩壊〉ではな く く変化 を求めての胎動〉であるか もしれない。そ うだ とすれば、子 どもたちの心 における 〈内的崩壊〉は、子 どもを理解 していない大人が勝手 に想定 した幻想 ということになろう。
しか し、その く内的崩壊〉 は程度の差 こそあれ実際に生 じているし、控 えめに内的崩壊の危 機 に直面 していると見 るのが妥当な ことである。子 どもたちの心の く内的崩壊〉 とい うのは、
い くつかの様相 をもって現れている。例 えば、何 もか も破壊 して しまいたい と思 う極端 な怒 り、
生 きる意味 をもてない絶望感、 自己存在 とアイデンティティを否定する態度、そして両親 はも とより誰か らも愛 され理解 されてはいない と思 う孤立感 な どである。
それ らの現れか らプロファイル される子 ども像 は、他者 との社交的な関係が希薄 なために自 己の拠 り所がな く、 それゆえ自己の存在価値 を感知で きな く、他者のために役立つ ことの意味 と喜びをもてな く、決断 を可能 にす る自己規制力の発達が不十分であ り、そして将来への展望 を築 きあげる心の活力が衰弱 している状態である、 というように描写で きるであろう。
2.教育者の問題
そうした意味での内的崩壊への傾向は、誕生 してか らの育児の在 り方に起因するところが大 であるとの見方がかな り優勢のように見受 けられる。い じめ、不登校、学級崩壊 な どの原因を 学校ではな くて家庭 に、そして とりわけ母親 に帰属 させ る見解 は、そうした見方 を反映 してい
ると言 えよう。
しか し、家庭環境や母親 にすべての責任 を負わせ ることは、行 き過 ぎた決めつけである。 と い うのは、「育てに くい気質 をもつ子 ども」の存在が指摘 され、いわゆる 〈母親絶対説〉の是正 を要請する調査所見が提示 され るようになったか らである。(1)それによれば、気質的に「難 し
い
(difficult)子
ども」は、新 しい刺激 に対するネガティブな回避反応、変化 に対する不適応、ネガティブな気分の強い表出などの特徴 を示す。 こうした特徴 をもつ子 どもたちの一部 に、学 童期 になって「注意集中困難多動症候群」 を示唆す るような行動 を示すケースが認 められると いうのである。そうだ とすれば、「 これ らの子 どもたちの困難 さが く親の気持ちの持ちよう〉だ けでは解決で きない、生理的な ところに深 く根差 した問題であるか もしれない」 と判断するこ とは適切 なことと思われる。
要するに、 こうした「難 しい子 ども」の問題 は、く親の育児への態度や力量〉を越 え出た もの と考 えざるをえないので、一般的な子育て支援だけでな く、く特別 に手厚い縦断的な支援〉を必 要 としているのである。つ まり、 この場合 には、その子 どもに対 してのみでな く、それ以上 に 母親へのケア、カウンセ リングが不可欠なのである。なお、 こうした生理学的な気質の発生原 因 と克服 については、関連諸科学 による今後の研究 に期待 したい。
心の内的崩壊 を生み出 している基底的な要素 は、先 に指摘 されているように、他者 との関係 能力 としての社会性の弱体化である。 この問題 は、共同主観性 に基づ く共同体 としての伝統的
な日本社会 における自己 と他者 との関係の在 り方 と深 く関連 しているように思われる。
文化心理学的な調査研究 によって次のようなことが明 らかにされている。O)日本文化の中で 育つ子 どもたちにおいて、「〈他者〉は二重構造 を備 えた他者で、く自己〉もまた同 じ構造 を備 え た もの として形成 される」のである。それは日本の母親 による 〈仲介的―間接的な育児法〉に 負 うところが大 きい。子 どもの行為 を叱責する際に、母親 自身が直接的に我が子 に語 りかけな いで、く他者〉の眼差 しや嘲笑、怒 りと出会わせ、その他者 に代弁 させるのである。
そうした育児法 によって、子 どもは他者の く冷たい眼差 し〉 を避 けようとする心理的な構 え と、母親への依存心 をもたされることになる。 この視線の分化の もとに、く見せかけの自己〉と く本当の自己〉 との二重性が生ずる。他者 を理解する場合 にも、く表向 きの心〉 と く本当の心〉
との二重性の視点で捉 える傾向が強 く見 られ る。 そのために、他者の理性的、合理的な言動 さ え素直 に認 めることを遮 る猜疑心 を払拭 しきれない こととなるのである。
この日本的な自己・ 他者理解の二重性構造 は、そうした問題点を内在 させているとはいえ、
今 日の日本人の社会意識 を形成 している伝統化 された習俗的なな要素 と言 えよう。 ところが両 親 (殊に母親)による子 どもの虐待 は、く他者の冷たい眼差 し〉の位置 に親が入 り込む形 となっ ている。基本の構造型 に変わ りはないが、子 どもに とっては庇護 を求める当の母親か ら冷たい 仕打 ち と視線 を投 げかけられることになる。そうなれば、その子 は母親 との同一視 に葛藤 を感 知 し、 自己 を否定的に捉 え、増幅 された冷たい視線 を浴びることになろう。その時、子 どもは 親 に対 して、そして身の周辺の環境 に対 して攻撃的に身構 えざるを得ないのではなかろうか。
あるいはそれ とは反対 に、冷たい視線 に屈服 してしまう弱 さを示す ことにもなろう。いずれに せ よ、それ らは子 どもの内的崩壊 を示す ものである。
親 と子 との緊密な関係 は、子 どもに対 していじめへの一定の耐性 をもた らす ものである。中 学校時代のいじめ体験 をある生徒 は「いまだか ら言 えること」という作文 にしている。0いじ
め られて、持ち物が取 られた り体が傷つけられた りしたけれ ども、作者 は我慢 して笑 うことに
した。「毎朝 ぼ くのためにお弁当をつ くる」母親 にい じめられているとは言 えない。「 ぼ くが傷 つけられることは、……果た してぼ くだけの ことであろうか。だか らぼ くは笑 うことにしたん だ」 と結んでいる。そ こにはいじめに耐 えさせ る少年の自尊心がある。我慢することは、 自分 の自尊心 を育 んで くれたその母親の自尊心 を守 ることで もある。 ところが、文中の「先生 はくい つ も明 るいね〉 と話 し掛 ける」 とい う箇所 は、本当の ことを相談することがで きない教師 との 皮相的な関係 を端的に表 している。
い じめやその他の理由で不登校ないし登校拒否 をしている子 どもに対 して、現在、教師には 登校 を強制 しないで、く当事者〉の気持 ちを親身 に聞いて理解 し、傷ついた心 をつつんでケアす ることが求め られている。だが、大半の教師たちにとってそれは実際に不可能なことであ り、
専門のカウンセラー等 に委ねざるを得ないであろう。
それで も多 くの教師 は、悩 みを抱 える子 どもたちのために誠心誠意 を尽 して指導 に当たって いる。 しか し、思 うような手応 えも得 られず疲労困懲 していわゆるバーンアウ トす る教師 も見 受 けられるようである。バー ンアウ トというのは、 ヒューマ ンサー ビスの従事者が、長期間に わた り人 に援助する過程で、心的エネルギーが過度 に要求 されるために、極度 に心身が疲労 し 感情が枯渇 して しまい、その仕事への嫌悪感、 自己卑下感 そして思いや り喪失が生ずる状態 に 陥 ることである。そうなるのは、献身的な完全主義者や理想主義者のタイプに多い と云われて いる。要するに、今や教師自身が自己をケアする技法 を身につけな くてはならない状況 となっ ているのである。
3.物語的なケアの問題
不登校 な どの子 どもをケアする場合 に、単なる心情的な思いや りよりも、その問題 を意味づ けて語 って聞かせ ることの方が より効果的な癒 しをもた らす ようである。 しか し、問題経験の 物語化 には効用 とともに無視で きない難点 を伴 うことが指摘 されている。0
不登校の子 どもは、当初 自分が社会的な問題 とされている く登校拒否〉 をしているとは明確 に意識 していない。実情 は、何の理由 もな くただ学校 に行 けな くなってしまっただけだか らで ある。そうした子 どもたちに共感 して、彼 らを社会的にうけいれる大人たちは、不登校 は「心 の病気」 とか「 自我の未発達」とい う「病気ではない」と主張する。そして不登校 は、「 自分 ら
しくあること」を求める子 どもたちが 自ら「選択」した ものであ り、「学校化社会への異議申し 立て」であるとの解釈が提示 された。その文脈 において個々の不登校児たちは「登校拒否児」
としてカテゴ リー化 されることになったのである。
そうした登校拒否 についての大人の語 りを く物語〉 として受 け入れた子 どもたちは、その物 語 を自分の口で語 り始 める。語 ることによって彼 らは、 自分 は登校拒否 をしているのだ との新 鮮な意識 をもつようにな り、学校 に行 けない ことの苦 しいネガティブな経験 をポジティブな経 験へ と読み替 えてい くことになる。そして、「 自分 を見失って しまう人の多い この世の中で、登 校拒否する人 は立派です」 との発言 さえするようになる。そのような発言 を生み出す登校拒否 の物語 によって、た しかにその子 どもたちの心 は癒 されていると言 えるであろう。
しか し、「 そうした語 りは、子 どもたち自身の経験 を癒すばか りでな く、逆 に自他の経験 を傷 つけて もいるのではないだろうか」 とのきびしい指摘 にも耳 を傾 ける必要があろう。
実際に、大人が作 った登校拒否の物語のいわば語 り部 となった子 どもたちは、自分たちが「立 派な」登校拒否児であるのに対 して、普通 に登校 している友達 を「命令 されなければ動かない
人間」、「自分 を殺 している人間」、 そして「社会 に疑間を感 じない人達」と決めつけ、時には敵 対心 さえ表明 しているのである。学校や友人、 さらに社会 を敵 にまわす ことで、彼 らは本当に 癒 され、救われているのであろうか。類型化 された登校拒否の物語 に彼 らの心が囚われてしまっ ているとす る所見が正鵠 を射ているとするな らば、彼 らは内的崩壊 をさらに深化 させ られてい るとさえ言わざるをえないのである。問題ある指摘 と承知 しなが らも。
経験 を語 るという行為 は、その経験 を くかた どる〉 こと、具体的にはその経験 についての一 つの物語 を作 るということである。 自分が作った物語 を通 して、経験 は感覚的にも再一体験 さ れ、理解 し直 されるのである。その意味において、 どのような物語 を作 りあげるかは認識的に 重要なことなのである。多元的な社会 というのは、画一的な物語 を押 しつけることを排 し、各 人が個性的な物語 を語 り、その物語 を生 きることを支持するのである。 けれ ども、そうした状 況 においては自分の作 った非合理 または非理性的な物語に囚われて、そこか ら脱 しきれずに感 情や言動の混乱 に陥 る危険性 もまた待ち受 けている言 えよう。 この問題点 については後で言及
したい。
4。 「生 きること」の問題
「生 きる力」の育成が求められるのは、われわれは 〈生 きること〉 に責任 を負っているか ら である。その責任 とは、具体的には、各個人 自身の人格 とその状況か ら発せ られる責任のこと である。
(D
人格 に起因する責任 とい うのは、衝動的存在ではな くて精神的存在 としての人間である自己 自身 に対する責任 ということである。人間は、単 に性・ 快楽・ 権力への衝動だけではな く、 さ らに本質的に く意味への意志〉 を有するものである。それゆえ、生 きることは意味への意志 を 作動 させ ることである。そして意味 を実現することは価値 を実現することであ り、 この ことが
く生 きること〉の意味である。
価値 は、 フランクルに依拠すれば、主 として知性 に関わ る創造の価値、感性 に関わる体験の 価値、そして自己の境遇や世界 に対する態度の価値の三つに分類 される。 ここで注 目されるの は態度価値である。 自分の運命や、自分が置かれている状況に対 して、そして状況か ら課せ ら れた問題 に対 しての態度決定、意志決定 は、自我 を明確 にし、 自己発達の契機 となるもので、
人格の核心的な作用である。その意味で態度価値 は人格価値 その ものなのである。
状況か ら発せ られる責任 については、人間の世界内存在 とい う在 り方か らよリー層理解 され うるであろう。世界内存在 は基本的に く共存性〉 と く相互性〉 を特徴 として有する。共存性 と 相互性 は、他者への配慮、すなわち互いに くかえ り見〉、く見 まもり〉あうことによって維持 さ れるものである。つ まり、人々は「本質的に他人のために存在する」のである
0。
他人の くた めに〉 とい う関心か ら成立する共同存在 において、感情移入、他者の理解 (了解)が可能 とな るのであ り、 自己の認識 も成立す るのである。それゆえ、個人の自立性 とは共同存在 としての 人間の在 り方をいうのであるとの認識 をしっか りと押 さえてお く必要がある。しか し、近年そうした捉 え方が崩壊 しつつあるように思われる。価値の多元化 と多様化の状 況 において多様 な生 き方が推進 され、生 きることは各人の単なる欲求の追求であるとする見方 が浸透 して しまっているか らである。
た しかに、各人の欲求追求 を強調することは、生 きることへの く自我関与性〉 を保持 させて いるように感 じられる。〈何かを欲する (したい
)〉
という衝動 は自己を強 く意識化 させ るか らである。しか し、その欲求 は社会的に認 められるとい う妥当性 を保証 されてはいないのである。
それゆえ、欲求追求 をする本人 自身 に、その ことに確信 をもてない もどか しさが影のようにつ きまとうのである。その不確かさこそ、実は、社会 との関係 を本質 とする自己が、そして自我 が本当に関与 していない ことを示す ものなのである。
そして、欲求追求の強調 は、価値 を単 なる個人の恣意的な選択の対象 とすることであ り、そ の意味において個人の 自由が確保 されていると思わせ る面 をもっている。 しか し、それは人間 としての主体的な自由ではないのである。先 に見たように、主体性の形成 は共同的な社会 に根 ざしているか らである。
欲求追求重視の見方において、個人の自由 とは社会的な拘束が存在 しない ことと捉 えるのは よい。 けれ ども、 さらに拡張 して く社会的な負荷のない自我〉 とか く状況 に位置づけ られない 自己〉 こそが 自由の証明であるとす るのは間違 っていると言わざるをえない。
欲求追求の強調 における最後の難点 は、生 きることを単なる個人の趣味や欲望の問題 と見な す こととな り、その ことは個人の社会的アパ シー とレサジー (無気力)を、ひいては社会的な アノ ミー (社会的な規範の崩壊状態)を もた らす ものである。
各人が 自分の欲する価値 を追求す ることは、広義 における 〈善〉の追求 と云われる。そうし た善の追求 は、上で指摘 した ような問題性 を有するものである。それ らの問題点 を克服するた めには、別の視点 を導入す る必要がある。それは社会性の視点であることはいうまで もない。
J。
ロールズに拠れば、く正義の感覚〉である。正義の感覚 とは、「他者 もまたおそらく自分のそ れ とは異なるかれ自身の善の観念 をもってお り、 したがって、そのような異なる信念の持ち主 である他者 と協同 して一つの共同体 を形成 してゆかねばな らない」0とい う確信 をもっている ことである。 この確信の もとに、善 と正義 との間に く善 に対す る正義の先行性〉 という原則が 設定 され るのである。この原則が共同体の構成的な原理であ り、個人の自由の条件 なのである。5。 自滅的な感情の問題
生 きることの目標 ない し動機 は、社会的な学習 を通 して獲得 されるものである。幸福 とい う のがその一次的な目標であろう。幸福 な生 き方をもた らす基本的な目標 0動機 として、心理臨 床的な視点か ら8点があげられている。い)要点的に示せば、次の ことである。
①快楽の獲得欲求 と苦痛の回避、②経験を理解 し、それを体験 したい欲求、③他人 との関係 欲求、④統合された自己への欲求、⑤理性や論理、科学的手法を用いたい欲求、⑥人生の難 関を乗 り越 え、熟達 したい欲求、⑦新 しい新奇で刺激的なな経験を得たいという欲求、そし て③仕事 と社会生活の安定を得たいという欲求、以上である。
これらの一見雑多にみえる目標は、 これらが充足されない場合に、人々の出来事の知覚の仕 方や、世界の評価の仕方に一定の影響 をもたらすものと見なされている。知覚や評価の仕方に 影響 を及ぼす ということは、感情や行動 と密接な関わ りをもっているということを意味 してい る。つまり、 これらの欲求が充足されなければ、欲求不満や悲 しみを生 じさせ、さらには感情 や行動面での混乱を生み出す怖れがあるというのである。それでは、 どのような条件において そうした混乱は生ずるのであろうか。
そうした問題を解明 し治療することにおいて注目されている米国のセラピス トA.エリスの
「理性感情行動療法」は、子 ども・ 青少年の内的崩壊の理解 と克服に対 して重要な示唆を与え て くれるもの と思われる。
その理論 は次の仮説か ら構成 されている。すなわち、「人間の思考 と感情 は異なった2つのプ ロセスではな くて著 しく重な りあってお り、ある面では本質的に同じものである。感覚 と運動 という基本的なプロセスのように、思考 も運動 もお互い不可欠な関係があ り、それぞれが関連 して生 じる。」0とい うことである。つまり、感覚・運動・感情・ 思考の4つの活動 は、独立 し ていな くて、相互 に緊密に連動 しあっているとの認識が前提 されているのである。
人 は、何かを「 よい」、「不愉快」、「害 になる」 と感 じた場合 に、評価 をする。評価 は何 らか の知覚 と反応 を生み出す ものである。その意味で、評価 は「人間の基本的一実質的―限定的な 特性」 と見なされている。
その思考 と感情 との結びつきに基づいて、かれは認知 を3種類 に区分 している。
(10
①「冷たい」、記述的な認知 :「これは丸いテーブルです。」
②「穏やかな」、評価的な認知 :「 私 はこのテーブルが好 きor嫌いです。」
③「熱い」、強い評価的な認知 :「 このテーブルは嫌いだか ら壊すべ きだ
!」
注 目され るのは3番目の強い評価 をする「 ホッ ト」な認知である。 この認知が「 自滅的な感 情」をもた らす可能性 を有するのである。た とえば、いじめられて自らを傷つけた女生徒のくみ んなか ら汚い臭い と云われる私 を私 は大嫌いだ。そんな私 はいな くなってしまえばいい と思っ た〉 というような自己崩壊的な言葉 はこれに相当するもの と言 えよう。
要するに、人間の悩 みの原因は、出来事 その もの というよりも、その出来事 についての評価 の仕方に見出される、 と捉 えられている。評価 というのは、物事の受け止め方、すなわち物事 をどのように解釈 して意味づけるかによって規定 されるものである。それゆえ、悩みは意味次 元の もの と言 えるのか もしれない。
したがって、「熱い」認知 に起因する感情混乱やネガティブな行動 は次の2つのステ ップか ら 生み出されることになる。(1。
①硬直 した、独断的な、強力な (明示的ないし暗黙的)要求や命令
「熱い」認知 は、た とえば、 自分の目標 は絶対 に妨害 されるべ きではな く、完壁 に叶 えられ ねばならない というような信念 をもたせ る。つ まり、独断的な「一ねばな らない(musts)」、「一べ きである(shoulds)」 という非理性的な信念 をもつ ことによって、出来事 な どの受 け取 り方、解 釈が歪 められ、心身的な不安や怒 りを感 じることになるのである。
②上のような要求か ら派生する、非常 に非現実的な、過度 に一般化 された推測 と象徴化 た とえば、 もし私の目標が叶 えられなければ、
私 は、
(a)と
て も恐 ろしい (ぞっ とする)(最悪か、それ以上だ!)(b)そ
んなことに我慢で きない (生きてい られない、不幸だ !)(C)無価値の人間だ (まった く役たたずで、何 ものにも値 しない !) (d)求めるものは全て失い、得 られるのはどうで もよい ものだけだ
(も
う三度 と成功 しない!)(e)何か悪い ことをしていたのに違いない、
という感情的な混乱 をもつようにな り、攻撃的 とか自暴 自棄的 といった、ネガティブな言動 を 取 らせ ることとなるのである。
そうした感情的な混乱 を克服するための方策 として指摘 されているのは、非理性的な信念 を 論駁す ることと、それに代わる新 しい効果的な考 えや好 ましい信念 を獲得することである。た とえば、「
TAは
成功 し愛 されたい と思 うが、絶対 にそうあらねばな らない というわけで もない」とか、「他人 に優 しく気 をつかって もらうのは非常 に好 きだが、他人が必ず私 にそうしなければ な らない理由は何 もない」 というごく当た り前の信念 をもつ ことである。
その観点か ら見 ると、子 どもたちに「強 さ」、「明 るさ」などを求めすぎてはな らない という ことである。 しっか りしなさい、 さっさとしなさい、あなたならできるはずだ、 よい子だか ら
…… とい う指導は、意外 と子 どもたちに強い要求 として受 け止められているか もしれないので ある。む しろ彼 らに、人間の「弱 さ」、「暗 さ」 を受容 させ るような語 りかけが必要であ り、そ うす ることによって感情的な混乱が緩和 されて、かえって子 どもたちの感情的安定が確保 され るように思われ る。
非理性的な「……ねばならない」 とか「……べ きである」 とい う信念 は、子 どもを消極的、
否定的な感情へ と誘導 し、心や行動の混乱 に陥 らせ る別の信念 を生 じさせ るのである。そのよ うな独断的で、非理性的な信念 は、①事実に基づいていない し、②論理性がな く、③人 を幸福 にしていない、 ということを確認する必要がある。
それに対 して理性的な信念 とい うのは、願望、好み、好 き一嫌い といった通常の形で表現 さ れ るものであ り、幸福や欲求充足 を目指す信念である。しか し、これ らの願望や好みな ども「熱 い」認知が介入することによって、絶対的な要求へ とエスカレー トされてしまうのである。そ してその絶対的な要求 は、自分 自身や他者 に、そしてそれ らを取 り巻 く世間に対 して向けられ、
「不適切 な感情」 を生ぜ しめるのである。
言 うまで もな く、すべての子 どもが非理性的な感情 をもつ ことにはな らない。た とえば、受 験 に失敗 した という出来事 に直面 して、全員が自滅的感情 に捕 らわれるのではな く、「 自分 は絶 対失敗すべ きではない」な どのホッ トな信念 をもった子がそうなる可能性が高い ということで ある。そこで必要なことは、ある意味では簡単な ことで、「絶対失敗 しない」とか「 もう終わ り だ
!」
とい う信念 を「切 り崩す」 こと、つまりその信念 を「論駁する」 ことである。その論駁 を受 け入れた時 に、かれは自滅的な感情か ら解放 され、心の重荷が取 り去 られるのである。要するに、 この技法 は文字 どお り論理的、理性的な性格 をもつ ものである。感情的および行 動的な混乱 に対 して果た して本当に有効 なのであろうか。 そうい う疑心 は、 この療法の仮説で ある思考 と感情 との関係 を納得 しない限 り解 けないであろう。 しか し、子 どもが万引 きをやめ ないのは、 してはならない ことの理由を納得 していないか らではないのか。 また、大人か ら叱 責 されて もかえって反抗的に茶髪 に固執するの も、それが非理性的であることを理解で きない か らではなかろうか。 というよりも、茶髪禁止の理性的な理由は何であろうか。
そのように考 えてい くと、教育 における荒廃、学級崩壊、子 どもたちの内的崩壊 という現象 は、従来の教育 によって子 どもたちの心の中に埋 め込 まれていた非理性的0非合理的な自滅的 感情が、あたか も時限爆弾のように今爆発 し始めた ということなのであろうか。 したがって、
学校教育および他の領域での教育 に内在 している非理性的な信念 を取 り出 し、それを検討する という課題が提示 されていると言 えよう。
以上、エ リスの「理性感情行動療法」の要点的な内容 を中心 にして言及 してきた。そこで示 唆 されている教育的な意味 は、大 き くかつ深い もの と言 えよう。それゆえ、その技法 はカウン セ リングヘの直接的な適用だけではな く、学校での授業 に対 して も応用 されているのである。
それは、 この論理療法 は「論駁」とい う技法 を採用 していて、「積極的一指示的心理療法」とい う性格 をもっているか らである。授業での応用実践例 とその効果等の考察 は別の稿 としたい。
江
(1)神田直子「乳児期 に「難 しい気質」 と評定 された子 どもたちの児童期 までの発達」
愛知県立大学文学部論集 (児童教育科学編)第47号,` 1998,11‑27頁参照.
(2)守屋慶子「 自己一他者関係 の形成」:柏 木恵子他編『文化心理学』東京大学 出版,1997, 128‑149頁 参照.
(3)作者不明「いまだか ら言 えること」:土居健郎監修 『学校 メンタルヘルス実践事典』,日本 図書センター,1996,456頁.
(4)北山由美「く登校拒否〉経験 の物語性 について」:立教大学教育学科研究報告,第42号,
1997,119‑132頁参照.
(5)フランクル『識 られざる神』みすず書房,1969,5‑12頁参照.
(6)ハイデッガー『存在 と時間』岩波文庫,1963,236頁参照.
)岩田靖夫『倫理の復権』岩波書店,1994,27頁.
(8)A.エ リス (野口京子訳)『理性感情行動療法』金子書房,1999,83頁参照.
(9)同上,60頁.
00 同上,65‑66頁 . αD 同上,85頁参照.