秋 田大学教育学部研究紀要 教育科学部門
46 pp.21‑41. 1994国 語 科 教 育 発 間 論
一師問児答か ら児問児答へ‑
後 藤 恒 允
TheAsking Questionsin ClassesatJa′paneseTeaching TuneyoshiGoTO
Thepurposesofanalyzlnganddiscussingtherecordsofteachingprocesspractic‑ edbytwoteachers,ChujiOnishiandMikiyuAokiistoconsiderthelearnlngteaching processinJapaneselanguageclassesatthelevelofelementaryschool,inwhichprocess pupilsaskedthemselvessomequestionsandansweredthem onthespotbytheirown abilities. Thefreshsignificanceofthefactthatthetwoteachersconverted "a teacherasksquestionsandapupilanswersthem''wayofinstructionintothatof"a pupilasksquestionsandheauswersthem''wasderivedfrom thetwoviewpoints.
1)
How theyelaboratelydiscussedandprogramedtheprocedureorstructureofasking questionsinclasses. 2)How theygraduallychangedtheirclasseswhereteaching procedureitselfwasdependeduponthefirstwayofinstructlOnintothesecondone.く ̀
「 元来、疑問 は教師が提出す るのではな くて,学習者 が提 出す ることを主 とせねば な らぬ。教師 は最善の努力を して,学習者 に優秀 なる疑問を提 出させ ることに突進せ ねばな らぬ。教師の発問 は,主 として学習 者 の優秀なる疑問を誘発す るために使用 し たい。児童生徒 の自主的学習の道を開 くた めに利用 したい。」
( 木下竹次 『 学習原論』 より)
Ⅰ . は じ め に
中島敦 に短篇 『 名人伝』がある。超 の耶郡の 都 に住んでいた紀 昌が,天下第一の弓の名人 に なろうと志 を立て, まず当代の名手飛衛 に
5年 余の問師事 し射術の奥義 を極 める。飛衛 は, 自 分 に射術 を もって挑むまでになった紀昌を身辺 に置 くことが危険だ と考え,西方 の産山の頂 に
住む甘蝿老師を訪ね ることを勧 める。紀呂 は苦 難の旅 の末,甘蝿 に会 って射術 を挑み,折 か ら 空高 く飛 び去 りゆ く渡 り鳥の群れに向か って狙 いを定 め,一矢で
5羽 の大鳥を しとめる。 しか し,老人 は微笑を浮かべなが ら 「それは所詮射 之射 というもの,好漢未だ不射之射を知 らぬ と 見え る」 と言 い,手で見えざる矢を無形 の弓に つがえ,‑羽の鳶 を射落す。紀呂は不射之射 に 憤然 とし,甘蝿の もとで
9年間の修業を積 みや がて耶郡 に帰 った。郡部の都人 は紀昌の妙技が 披露 されることを期待す るが,紀呂は弓さえ手 に取 ろうとしない。紀 昌が甘蝿の もとを辞 しと か ら
40年, ある日知人の もとに招かれた紀昌は, その家で一つの器具 ( 弓) を見たがどうして も 名前 も用途 も思 い出せなか った。 この出来事が あった後,郡部の都で は当分の間,画家 は絵筆 を隠 し,楽人 は墓の弦を断 ち,工匠は規矩 を手 にす るのを恥 じた, とい う話である。
‑gl‑
『 名人伝』 は,中島敦が芸術家 としての過剰 な自意識 を超克す るために中国の古伝説 に形を 借 りて形象化 した作品であ るとも考 え られ る。
これは作品解釈 としてのとらえかたである。 し か し , 「弓矢の要 る 」 「 射之射」 が , 「烏漆 の弓 も粛懐 の矢 も要 らぬ 」 「 不射之射」 に昇華す る 話 ととらえれば,文学 に限 らず さまざまな領域 のたとえ として活用す ることがで きよう。
ただ, その前提 として
2つの ことを考える必 要がある
。1つ は
,「 射之射」 が全 く不要 な も のだ と初めか ら否定 され るのではないとい うこ とである。紀呂は
2年間の 「瞬 きせ ざ る修練」
と
3年間の 「 視 ることに熟 して, さて,小を視 ること大 の如 く,微 を視 ること著の如 くな」 る まで修練 した後, ようや く飛衛か ら射術 の奥義 を伝授 され ることを許 された。 「射之射」 は結 果的には超克 されるに して も,その前段階で徹 底的に極 め られねばな らない。 あるものを否定 す るためにこそその ものを極 めようとす る, こ の矛盾 した行動を とることが
1つ 目の前提で あ る。
2 つ 目の前提 は , 「 射之射」 に 5 年余 の修練 を もって して もなお 「 不射之射」の修練 には
9年を要 していた ことか らもうかが え るよ うに,
「 不射之射」 は 「 射之射」 とは異質 の技術 で あ るために 「 射之射」以上 に長 い修練の期間を要 す るとい うことである。『 名人伝』 で は 「不射 之射」 は 「弓矢の要」 らない神秘的な技 とされ,
その実態 は謎 に包 まれたままで あ る。 しか し, 現実の諸技術では , 「 不射之射」 の技術 も科学 的に解明せねばな らない。「射之射」 の技術 と つなが り 「 射之射」 の技術 とは異質 な, その連 続 と非連続が明 らかにされねばな らない。 もと より 「 不射之射」 は初心者 には容易 に駆使で き ない技術である。だか らといって初心者 は初心 者 にで き得 る範囲の枠の中で満足 しきっていい ともいえない。「 射之射」 の技術 に腐心 しつつ それを超克 し , 「 不射之射」 の技術 を創造 し続 けることに踏み出 してい くことの必要性を自覚 す ること、 これが 2 つ 目の前提である。 こうし た前提条件を もとに したとき , 「射之射」 の技 術を 「 不射之射」の技術 に昇華す るた とえ話が
生 きて くる。
前置 きが長 くなったが,本稿 は 『 名人伝』 を 枕 に 「 発問」 について考察 しようとい うのであ る。つま り , 「 射之射」すなわ ち 「発 問」 中心 の授業か ら, 「 不射之射」すなわち 「 発問」な しの授業‑ 子 ども白身による 「 自問」の授業→
へ転換 させようとす ることが論題 である。 しか し , 「 不射之射」の話のように は 「発問」 が全 くない授業などは考 え られないのであって,わ れわれは 「 発問」をな くすため に こそ 「発問」
の構造を論理的に追究 し , 「発 問」 の構造 の ど こをどのように変え, どこをどのようにな くし てい ったときに 「 発問」中心 の授業 が 「自問」
による授業 に転換す るのか,具体的な実践を検 証 して考察せねばな らない。 また,その具体的 な実践 において , 「 発問」か ら 「自問」 へ転換 させ ようとす る過程 には 「 発問」 に対す るどの ような懐疑 とその懐疑 に対す る打開策が打 ち出 されたか, そのように してなされた 「 発問」か ら 「自問」へ転換 しようとした ことには国語教 育 を推進 させ る点で どのよ うな意義 が あ るか,
さ らに 「自問」の授業を進展 させ る場合 にはど のような方法上の課題を抱えるか論 じねばな ら な い。
こうした観点か ら,本稿で は考察の対象 にか な った実践的研究者 として大西忠治 と青木幹勇 を取 り上 げ, その実践理論 を考察す ることにし たい 。 2 人 は方法 こそ違え, 共通 して 「発 問」
をな くすために 「 発問」を深 く考究 したのであ る。
まず,大西忠治が,教師の 「 発問」か ら子 ど もの 「自問」へ転換 しようとして自分 の実践の 跡を振 り返 った,次の言葉 を取 り上 げよう。
この
10巻の隠 された私のテーマが 「 発間の ない授業 は可能か」なのであ る 。
こう言 ったか らといって,先生が黙 ってい るだけで生徒だけで授業が進 む‑ などと考 えないでいただ きたい。教育 という仕事 はそ んなに単純ではない。
発問が生徒の自問に転化 していくに従 って, さ らに高度な発問を教師 は用意 しなければな
らない。発問 は無 くはな りなが ら,新 しく再
‑
22 1後藤 国語科教育発問論
生 してい くのである。 これが教育 というもの なのである。( 注1 )
大西忠治 は,昭和
27年 に香川大学で教育実習 を受 け,担当教官 の三木立身か ら 「発問 」 「発 問計画 」 「 助言 」 「 密案」などの用語を初 めて聞 いた。 それ以来 「 発問を徹底 して追求 し」, 発 問の構造 について独 自の実践理論 をまとめあげ てい る。 しか し , 「 心 の底で,発間 は, ( 教師が す るものではな く 後藤補注)生徒がす るもの ではないか‑ と疑 い続 けるという矛盾に苦 し」
む。
そ して,発間 とは, 自 ら問 うことで はない か と思 い至 った。真理を 自 ら探求 す るには, 自分 に問い,その答 えを発見 していかねばな
らない。発見 した答 えに満足せず に,更 に問 い続 けねばな らない。 その系列が発問の計画 であ り,生徒 は,教師の発問を受 けて, 自ら に問 うことを覚え,身 に付 けていって こそ教 育 にな り,授業 になるのだ。
教師の発問 は生徒の自問 にな らなければ教 育 として完成 しない。 ( 注 2)
この大西忠治 の発問論の特色 は,発間 とは子 どもに問題解決学習の過程を歩 ませ るための触 発材であるという結論 に達 していることである。
殊 に,教師 自身の問題解決の方法論を子 どもに 転化す ることが 「 教育」だ と述べているのは重 要な指摘である。 しか も,大西忠治 は教師の発 問なり子 どもの 「問い」の方法を科学的 にとら えようとした。すなわち,発問の問題 は発問を 追求す る ことだ けで解決 で き るので はな く,
「 教科内容 の科学的な指導 の問題 と結 び付 いて 解決す る」 ものであることを 「 発見」 して 「 読 み研方式」 とい う独 白の読みの方法論を構築 し,
これに基づいて 「 発問」の定式化を図 ることと
「 発問」を削減す ることを追究 していった。『 大 西忠治教育技術著作集』第
10巻 は, まさに 「 発 間の無 い授業」を追求 し続 けた彼の教師歴の集 約である。
本稿では, この軌跡の過程で構築 した 「自問」
論 に至 るまでの 「 発問」の概念規定 ・構造論 ・ 授業計画論の特質
,「 教科内容の科学的な指導」
と称す る読みの方法論 の特質 と課題 につ いて,
私 な りの視点か ら検討 を加えることに したい。
一方,青木幹勇 は 「 発問権を子 どもに分譲 し よう」 と呼び掛 けて,次のように述べ る。
従来発問 は, ほとんど教 師 の専有 で した。
わた しはここ数年来,子 どもたちにも対教師, 対学級‑の発間 ( 質問,提案, 意見, 感想) す る指導 を して きま した。 それは,つねに子
ども自身が,教材な り,生活事実な りに対 し て, 自主的に,積極的に働 きかけるような指 導 によって育 って くるのです。 いいかえると 子 どもたちに,問題を もたせ,解決 の意欲を 強化 させ ることです。子 どもが発問す ること がで きだす と,発問 に新 しい世界が開 けて き ます。( 往 3)
青木幹勇 は,昭和
17年か ら
30年 にわた る東京 高師 ・東京教育大附属小学校での実践を中心に, 国語教育 「ひとす じの道」を歩み,その成果を
『青木幹勇授業技術集成』 にま とめた。 青木幹 勇 は昭和2 8 年か らは文教大講師 として, また青 玄会主宰者 として実践研究の立場か ら発言 し続 けている。
青木幹勇 は, 自分 の授業や参観 した授業を省 みて,発問による教師の巧みな リー ドで子 ども が活発 に活動 しているように見 え る授業 で も, 子 どもが自 ら進んで学ぶ ことや ともに学 び合 う
ことがスポイル された,受 け身の学習態度を生 み出 しがちな ことに懐疑を持っようになる。 こ の授業 のつまず きか ら抜 け出るために,文章が 子 どもに呼び掛 け触発す るものに,子 どもたち 自身が立 ち向かい,反応 し抵抗 してい く活動 を 組識 しようとした。すなわち,教師の教材解釈 の論理 に子 どもを従わせ るので はな く , 「子 ど
もたちが,文章 に立 ち向かい,そ こで問題を も ち,その問題を解 きなが ら読む」 とい う子 ども たちの 「ほた らきかけの読み」や文章への 自主 的 ・主体的な 「 反応」を出発点 として学習活動 を組 み立てようとす る。 この 「 教 える」 ことと
「 学ぶ」 こととの調和, あるい は 「指導 その も のが,子 どもの学習法 に転化で きるような」授 業が青木の課題 となる。
文章を読む とい うことは,いうまでもなく, 目的を もった行為です。 読 む ことによ って,
I
‑ 23 ‑何かをわかろうとす るはた らきですが,一方, それが指導である限 り,読む ことによって読 む技術 を学 ばせ ることも大事なね らいとしな ければな りません。 〔 注4)
先 に引用 した 「 発問権を子 どもに分譲 しよう」
と呼び掛 けた青木の発言 の背後 には,以上のよ うな実践上の切実 な課題克服の経緯があ った。
青木 は , 「 教え る」立場か らは,発問の本質 ・ 機能 ・構成 ・設定 ・条件 ・形態 ・様態 ・技術な どを精密 に考察す るとともに , 「学 ぶ」 立場 か らは,文章の触発す るものに反応す るという意 味での 「問題」の発見 ・解決について体系的に 考察 している。それは 『 青木幹勇授業技術集成』
第
1巻の 『問題を もちなが ら読 む』, 第
2巻 の
『 書 きなが ら読む』,第
3巻の 『 考えなが ら読む』
に結実 している。本稿で は,青木幹勇の発問論 の特質 と,『 青木幹勇授業技術集成』 に示 され た学習指導技術 の独 自性 について考察 したい。
さて, 冒頭の 『名人伝』 に戻 って,大西忠治 と青木幹勇 とい う二人の 「 紀 呂」 の発問論を考 察す る意義を再確認 したい。二人 とも国語教育 の実践一筋 に生 き, その過程で発問にこだわ り つつ発間依存の指導か ら脱 していった。自主的 ・ 主体的な学習 によって授業が展開され ることは だれ もが望みだれ もが簡単 に口にするけれども, それを真 に実現す る授業 は容易 にはなされ得 な い。二人 は共通 して, この困難な道に踏み出し, 子 どもが自 ら問 う技術を習得 させ るとこによっ て,国語 の授業を真 に 「 教育」 ( 大西) た らし め , 「 学習」指導 ( 青木)た らしめようとした。
「 不射之射」 としての 「 発問」 が 「自問」 に転 化 され再生 されて,子 どもの真 に 「問 う」力 に 培 うようにさせようとした。二人の屈折 した歩 みは , 「自己教育力」 (自己学習力) の育成を目 標の核 に している現在の国語教育 に示唆を与え て くれ るであろう。 こうした期待を込めて,本 稿で は,第 2節 に大西忠治を,第 3節 に青木幹 勇を とりあげて,二人 に通 じ合 うもの と相違す るものとを論 じたい。 また第
4節では,二人 の 考察 した発問論が現在 どのように生か されてい るか, あるいは生か されていないか , 「授業 の ための全発問」 シ リーズ ( 明治図書) の中か ら
一つの授業記録 を取 り上 げて考察す ることに し たい。「 授業 のための全発問」 は, 授業 を ま る ごと分析す る研究資料 として世 に問われた もの であるが, まだ 「 発問」論 の上か ら考察 されて 評価が下 されているとはいえないか らである。
Ⅱ. 大西忠治の発間論
大西忠治 の発問論 は,教室での実践理論 を も とに生成 され,修正 され体系化 されていった実 践理論である。 そのため,生成の過程で概念規 定が変 わ った り,同一用語が別々の概念規定 に 使われ るな ど混乱 も見 られる。 しか し,理論の 生成過程を貫 いている 。 「 不易」 の面 に照明を あてた とき , 「 一貫 したね らい と戦略観 に貫 か れた ( 注5 ) 」生 きた実践技術 の体系化を目指 して いた ことが明 らかになる。
大西忠治 の発問論 の特色 は,第
1に 「 指導言
」とその体系 を提唱 した ことである。
「 指導言」 とは , 「 授業 において教 師 の子 ど もに向か って発す る言葉」 ( 『 大西忠治教育技術 著作集』第
10巻
、69頁。以下
⑲69と略記)の総 称で,図表 Ⅰに整理 したように 「 発問 」 「 説明」
「 指示」か らなる。すなわち, 一般 に使 い慣 ら されている発問が 「 発問 」 「 説明 」 「 指示」を含 めた包括概念 として使われ る暖味 さを避 けて,
3つの要素 に細分化 し, この
3つ の要素 の有機 的な関連 と,授業時 における構成を考えようと したのである。大西の発問論を読む ときに心す べ きことは, これ らの用語がいかに目標達成の
「ね らい と戦略 に組 み込 まれ ( 庄
6)」 て い るかを 考察す ることであ って,発問が形式の上か らい かに分類 されているかに関心 を もっ ことではな い。 なぜな ら , 「 指導言」 とは子 ど もに問題 の 所在 に気付かせ問題追究 の手がか りをっかませ なが ら , 「 何か」 に対す る思 考 を深 め させて い
く一連 の組織だ った発話行為だか らである。
大西忠治発問論の第
2の特色 は
,「 発問
」「説 明 」 「 指示」の中で 「 説明」を中核 とし 「 発問」
や 「 指示」を 「 説明」の変形 と考える点である。
これは、「 授業で一番大切 なの は発 問」 だ とい う常識 に対す る鋭 い警句である。
‑ 2 4‑
後藤 国語科教育発問論
図表 Ⅰ 指導言の構造
構 発 問 説 明 指
示基本的発問 ( 柱の発問.大きな発問) 問題提示の説明 多指示行動 成 副次的発問 ( 小さな発問) F方法提示の説明 一指示一行動
判断提示の説明 】 L
舵 きかける指導言 にもはたらきかける指導言 きかける指導言
指 初 め 中 終わり
至芸 荏 教材の問題 .内容提示の説明 教材の理解 .方法提示の説明 教材に対する教師の判断提示 の説明
指導言 { ≡ 三 ‑ 指導言 { 提 言
子ども ( 生徒)自身による提言
‑‑= E コ 硝
指導言・ ・ ‑・ 問題追究の方向修正 判断提示 ( まとめ)
☆授業 に とって,教 師の指導言 と して一番大 切 なのは 「 発問」 で はな く 「 説明」であ る
( ⑲41 )。
☆授業 における 「 発問」 とは,実 に,教師の
「 説明」 したい こと , 「 指示」 したいことを,
「問 いか け」 とい う形 式 に な お して す る
「 指導言」 の ことだ ( ⑪1
07)。
☆教 え ることとは,教科 内容 を うま く, わか りやす く説明す ることなのである。そ して, 説明す ること,説 明のや り方 が教 師であ る あなたにはっきりとつかめた とき, それを 子 ども自身が, 自分 で発見 し, 自分 で考え つ き, 自分 で教科 の内容 の理解 にた どりつ くよ うに,発問や指示 の形 に替 えて,授業 化す ることがで きるよ うにな るのが, よい 教師であ り,技術的 には高度 な授業 なので あ る (
⑲42)。我 々 は実践体験か ら, 自分 の教材解釈 や指導 j 目標 を生 のままで子 ど もに提示す るのではな く,
これを変形 して提示す ることを知 っている。す なわち , 「 教 えないで教 え る」 とい う矛盾 した 行動 を取 っていることを知覚 している。 これは,
「 教 えないで 」 「 学 ばせ る」 とい う境位 に到達す る道程であ るけれ ども,大西忠治 はこうした実 践体験 の機微 を 「 説明」 とい う 「 指導言」 を持 ち出 して合理 的 に解 きあか したので あ る 。 「説 明」 を 「 発間」 ない しは 「 指示」 にどのよ うに して変形 す るのか とい うことにつ いて は,後述 す る 「 提言」・「 助言」 に触 れた ときに改めて考 察 してみたい。
さて,大西 は 「 説 明」 を , 「問題提示 」 「 方法 提示
」「 判断提示」 に更 に
3分す る。
大西 によれば , 「 説 明 は教科内容 ・教育 内容, つ ま り教材 の深 い研究か らひ き出す他 はな い」
(
⑲155)ものであ って, 1 つ 目の 「問題 提示 」 の 「 説明」 とは, そ うした 「 教材分析 の中で発 見」 された 「 授業 の内容 の重要 な ところを, か いつ まんで,かあ らじめ示 す とい う役割」 を も つ もの と規定す る。つ ま り, この教材で 「 学ぶ べ き もの は何 か を示 す 」 「教 材 内 容 提 示 」 の
「 説明」 が 「 発問」 に変 え られ た と き 「問題提 示」 の 「 説明」 とな る。「 説 明」 はまた , 「 学問 の研究方法 を教 え,示す」 という性格を もっが,
この 「どうい う順序 で, どうい うふ うに考 えて
25‑
いけばわか るようになるか,わか り方 を述べた
「 教材理解方法の提示」が
, 2つ 目の 「方法提 示」 の 「 説明」である。 ただ し,大西がい うよ うに , 「 教材研究方法がその まま説 明 にな るの で はな」 く
,「教 材研究方法 に規定 され るが, 説明 はそれを子 どもを見すえなが ら , 別のセオ
リーで再構成 した もの」である。 この 「 別 のセ オ リ‑で再構成」す ることこそ実践技術なので あ って, それは国文学研究法や国語学研究法 と っなが っているけれ ども切れている,非連続の 連続 の関係 にあることを銘 記せ ねば な らない。
国語教育 ( 学) が国文学研究や国語学研究など か ら真 に自立す るためには,国語の授業 に内在 す る実践技術 の 「セオ リー」その ものを解明 し 創造 していかねばな らな るまい。
とまれ,大西が 「 方法提示」の 「 説明」を指 導 の中核 ・中心」 に据 え,子 どもが 「 教師の方 法提示の説明に導かれて,教材 に含 まれた問題 とその学習へ至 る手順 を身 につ けてい く」ため の 「 指導言」 として重要視 した ことは注 目 して よいo ここに,一般的な意味での 「 発間」依存 の授業を子 どもが 「 学 び方」 を学ぶ学習へ移行 させてい く実践的基盤がある。
3
つ 目の 「 判断提示」の 「 説明」 は,授業 を 締 め括 るにあたって,授業 の結論や自分 の到達 した教材解釈 を子 どもたちに提示する 「 指導言」
である。 したが って
3つの 「 説明」 を指導課程 に沿 って構成すれば , 「問題提示」 は導入時 に,
「 方法提示」 は展開時に
,「 判断提示」 はまとめ の段階でなされる。つ まり, この教材で は何が 問題であ り,それを解明す るにはどのよ うな方 法があ り,解明された問題 ( 教材の本質) はこ
うである, と提示す る一連の 「 説明」が 「 指導 言」の中核だ とい うことにな る。
「 説明」 は以上のような内部構造 を も つ 。 こ の 「 説明」 を 「 機能」の面か らとらえて子 ども の 「 思考」 に働 きか け るものに変形 した とき
「 発問」 とな り,子 どもの 「行動」 に働 きか け るものに変形 した とき 「 指示」 となるとす るの が大西 の考えである。 したが って, 「 説明」 は 機能面か らは 「 説明」 と 「 指示」の中間にあっ て , 「 説明」 にも 「 指示」 に も転化 で きる両性
具備の性格を もつ。 こうして,授業 とは本来 は
「 説明」が中心 にな るべ きで あ るが, 低学年 で は 「 指示」 によ って問題解 明 に導 き, 次第 に
「 説明」 に変えて思考力を刺激 し, 大学 の講義 等で は 「 説明」が中心 になるとい う,発達段階 に即 して どの 「 指導言」 に重点 を置 く体系が明 らかにされた。 もちろん,発達段階 の各 々の過 荏で は , 「 指示 」 「 発問 」 「 説 明」 のそれ ぞれが 発達段階 に即 した比重で按配 され,構成 され る
ように考察 されているのはい うまで もない。
大西 の唱えた 「 指導言」 としての 「 説明」は, こうして 「 指導言」の内部構造や授業技術 を解 明す る手がか りとな り,学 び方学習を考察す る 切 り口を探 した り,発達段階に即 した 「 指導言」
内の構造 のあ り方 を考 えるときに, さまざまな 示唆 を与え るのである
。大西忠治の発問論 の特色 は,第 3 に 「 基本 的 発問」を提唱 した ことである。
大西 は 「 発問」 を 「 基本的発問」( 柱の発問 ・ 大 きな発間) と 「副次 的 な発 問
」( 小 さな柱) とに分 け,少数 の 「 基本的発問」 とそれを支え るい くつかの 「 副次的な発問」 とを組 み合わせ て 「 説明」を構成 しようとす る
。た とえば, ビク トル ・ユ ゴーの 『レ ・ミゼ ラ ブル』 の一節 を教材 化 した 「ミリエル司教 」
(
『中等新国語二』光村図書)を扱 ったときには, 教材研究 の段階 で, ローマ数字 で示 した
3の
「 基本的発問」を立て, それ を分解 して ア ラビ ア数字で示 した○印の 「 副次的な発間」 と◎印 の 「 基本的発間」 に分 け
,○印を ステ ップとし て踏 ませて◎印の解 に到達す るよう,次のよう に計画 している ( ⑪) 。
Ⅰ 「さびた受 け金のかすかな音に もおびえな が らこの部屋 に入 って きた ジャンが,何故 ここでは足音 に も平気 で,大 またで, とら のようにへいを飛び越えて盗みをしたのか
?」①<突然, ジャンは額 に帽子 をかぶ り>
とあ りますが,なぜ帽子をかぶ ったの だろ う。
②<帽子 をかぶ る>前 のジャンの気持 ち はどうだ った ?
③ この<突然> の ところで ジャンは盗む
‑26‑
後藤 国語科教育発問論
決心、 を したのですね。それまでは迷 っ ていたのですね。では,盗 む ところを 読んでみます。 (と読む)
④ どうい う盗みかたを していますか ? ( 昏この部屋へぬすみに入 って きたときの
ジャンの態度 はどうで したか ?
㊥ ところが,ここでは, もう用心 もせず, 足音 も気 に しなか ったのですね。 ジャ
ンの気持 ちが こんなに変化 したのはな ぜで しょう ?
Ⅱ 「 盗みを決定す るまえの ジャンの心 の中に お こった ことをよみ とってみよう
。」( ○印 の 「副次的な発問」 と◎印の 「 基本的発間」
は省略)
Ⅲ 「 身をほろぼす深淵 とい うのはわか る。 だ がなぜ<身を救 う> ことを深淵 と感 じたの だろうか ?」 ( ○印の 「副次 的 な発 間」 と
◎印の 「 基本的発問」 は省略)
ここでい う 「 基本的発問」 とは , 「本来, 撹 業の到達点か ら導 き出されるもの」 ( ⑪1
15)であって , 「問題提示」 の 「 説 明」 か ら導 きだ さ れ る。た とえば,右の
3つの発問 は 「 教材内容 の順序か らいえば Ⅱ ‑ Ⅱ
‑Ⅰとな らぶべ きであ る」 けれども,大西 は Ⅰの部分 に 「この文章 の 主題があ り, それを強 く意識 させ」 たいために
Ⅰを先頭 に立てたのである。大西のみな らず教 析 とは, いち早 く子 どもにこの 「 授業の到達点
」を気付かせ, しか もその 「 到達点」が子 どもの 口か ら発表 され るように 「 発問」の組 み立て方 に気を配 る存在だ といえ る。
ただ し , 「 基本的発問」 とは 「この作 品 の主 題 はなんですか」 のように 「 主題」 や 「要 旨」
を生のまま問 うことではない。右の
Ⅰ・Ⅱ ・Ⅱ ない しは◎印の 「 基本的発問」 のように,①教 材の本質 に根 ざ し,②教材文 の全体 にわ た る,
③大 きな問題で,④ 「わか りに くい 」 「どち ら ともいえない 」 「あいまいな」 ところに着 目し, しか も 「 発問」 の叙述が 「ゆれない 」 「動 か な い」 ものでなければな らないというものである。
ところで , 「 基本的発間」 と類似 した用語 に
「 基本発問」がある。明治図書 が打 ち出 した実 践用語で, たとえば 「 授業者が異 な り,児童生
徒 の状況が異な っていて も,教材が共通である 限 り,教材の本質 と深 く関わ る発 間 は, 必 ず, どんな立場 の授業者 にも相当に使え るものがあ り得 ることも事実である。そ うい う発問をつ く ることを目指 し,それを基本発問 と呼ぶ ことに す る ( 荘 7 )」 のよ うに規定 され る。 「基本発 問」
の提唱 はこの文言か らすれば発問の定式化を目 指 した ものであ って,必ず しも発問の定石化 ・ 固定化をね らって いない。 しか し , 「授業者」
「 児童生徒 の状況 」 「 立場」が異 なるに もかかわ らず,同一教材か ら同一発問が定式 として導 き 出せ るか ば問題視 され る。 「基本 的 発 問」 と
「 基本発問」 との発生 の前後 関係 や影響 関係 に ついてはここで問われないに して も,大西が提 唱す る 「 基本的発問」 は中核的 「 問題提示」の
「 説明」 とい う発想 ( 思想) に基づ くのであ り, また 「 発問」 の叙述が 「ゆれない 」 「 動かない」
とい う概念 も確 たる 「問題提示」の言葉の姿を い うものであって , 「 基本発 問」 とは発想 が異 な っているとことを指摘 してお きたい。 この こ とについては後 に改めて検討す る。
大西 の発 問論 の第
4の特 色 は , 「提 言 」 と
「 助言」を提唱 しているところにあ る。
「 提言」 と 「 助言」 という用語 をなぜ使 うよ うにな ったか, そのいきさつについて大西 は次 のように述べ る。
ところで,柱の発問 も,指示 もそ して授業 の柱 となる説明 も, よ く内容 を分析 す ると, これか ら生徒 と教師 とが とりくむべ き課題を 提示す るという性質 を もっている。
< この作品の主題 は何か> ( 発問)
< とび箱を とびなさい> ( 指示)
<文学作品には次 のような構造 がある>
( 説明) 右のような 「 指導言」 は,一時間の授業 に とりくむべ き対象を示 し,何をなすべ きかを 提言 している。すでに述べ た 「大 きな発 問」
と同 じもので あ り , 「問題提示」 の 「説 明」
である。
だ とす ると , 「柱 の発 問」 とい うよ りは, む しろ 「 提言」 とい うほうがふ さわ しいので ある。だか ら , 「 柱 の発問」 と 「助言」 とい
‑ 27‑
うよ りは 「 提言」 と 「 助言」 といったほうが 正確だ といえ る。 そ うい うことか ら 「 柱の発 問」 という言葉 をすて ることに したのである ( ⑩8
0)。また,大西 は従来使 って きた用語 との関係を 次のように図示 している。
言 言
弓 指 ー 王
∵ 」 」 」 」 」 」 明 問 示 明 問 示
説 発 指 説 発 指 ド ド ド ド ド ド
ここでは , 「 指導言」 は , 「とりくむべき対象」
( 問題)の提示 と, それを解 くには 「何 をなす べ きか」 ( 方法 を含んだ行動) とい う論理的 な 関係 に単純化 され, しか も , 「指導言 」 「助言」
の中に従来の用語 の概念 も内包 されて内実 は複 雑 な構成 にな ることを指示 している
。大西 にとって発問計画 とは , 「提言」 と 「助 言」 をどのような組合せで, い くつ, どのよう な順序で設定 してい くか計画を立てることであっ て,実践体験か ら 「 一時間に 『提言』 は
3つ,
『 助言』 は3×5 つ」 とい う目安をたててい る
。日常 の授業で我 々は発問の 「 多発」防止や 「 精 選」を切実 な実践課題 とす るが,大西の立てた 目安 は 「 精選」 に一つの判断基準を示 している。
さて,発問 と 「 助言」 を一緒 に考察 した先行 研究 には,野地潤家の 「 発問 と助言 の機能 (
注8)」がある。 この中で野地 は , 「説 明」 と 「助言」
の意義 ・機能 について論 C, また , 「説 明」 と
「 助言」 の特性 と類型 につ いて精密 に考察 して いる。 これを簡略 に図式化すれば図表 Ⅱのよう になろう。野地 の論考 は 「 助言」の教師の重要 な発話行為 として重視 してその類型化 にまで踏 み込 んで考察 したところに,発問だけ しか論 じ ない他 の論考 とは違 った価値がある。ただ, そ の野地 の論考で も , 「 説明」 と 「助言」 を授業 で どのように関連づ けて設定す るか とい う実践 課題 について は触れていない。大西の提唱 した
「 提言 」 「 助言」 は,その類型 の考察 においては 轍密 さを欠 くとして も, この実践的課題を授業
の中で気付 き,修正 し,体系化 してい ったとこ ろに意義 がある 。
なお,大西が 「 方法提示」 の 「 説明」 として の 「 助言」 をとりわけ重視 し
,「『 助言』 こそ授 業っ くりのカギである」 と提唱 した ことは注 目 されて よい。 「提言」 も重要 で あ るけれ ど も, 授業 のさまざまな場面 に適応 した 「 助言」を正 確 に打 ち , 「 子 どもの思考 の方 向 を示 しそち ら へ向 けて思考 をすすめるように調整 し, うなが す」技術 はより重要だ とい うのである。
大西 は 「 助言」のす ぐれた技術 として,芦田 恵之助の 『読み方教授』 にあ る 「 冬景色」 の授 業や,斉藤喜博の 『 未来誕生』 にあ る 「出 口」
論 を分析 して, ともに教材内容 と類似 した子 ど もの生活経験を想起 させ る, その適切 さを指摘 している。 この技術 は我 々が普段行な っている ものであるが,教材内容 と子 どもの生活経験 と の問により密接な類似関係を発見 し,それによっ て より強力 に子 どもの思考を活性化 させ る方法 提示 の自覚的で的確 な仕方が必要 とされ る。
ただ , 「 助言」 の技術 に関す る実践 的研究 に はまだ体系だ った ものがない。右のように複数 の授業記録か らその本質を抽出 し, そ うして集 め られた技術を体系化 してい くことが各教科教 育学 に課せ られた今後の課題 である。
大西発問論の第
5の特色 は , 「助言」 を科学 化す るため,次のような方式 を立てていること である 。
①教材を, 7,説明的文章, ィ,文学作品の 2種類 に分 けて, 2つの, ま った くちが う
「 読み」 の方法を子 どもたちに教える。‑
( 前者を要約読 み, 後者 を形象読 み) あ るい は, 前者 を (しぼ り読 み), 後 者 を ( ひろげ読 み ・うら読み) とい う。
②授業 はすべて,文学作 品 で は Ⅰ構造読 み,
Ⅱ形象読 み,Ⅲ主題読 みの順序で行 う。説 明的文章では
,1構造読 み, Ⅱ要約読 み, 皿要 旨読 み となる。
③ まず,比較的動かない,客観的な,教材分 析 を行 う一一教材分析の定説化 とい う。
④右 の定説化 した 「 分析」 に もとづいて,子 どもたちにどこまで読 ませ ることがで きる
‑
28‑
後藤 国語科教育発間論
図表 Ⅱ 野地潤家 の 「発 間 」 「助言」論
̀,
・1..・‑ JLl 毒 言言 ̀ j .1、i l 、 11 ・ 一、
l一\\
発 問 助
口話 しあい学習 の導入部‑導入力 話 し合 い学習 のい きづ ま り打 開 学習上 の障害 を除去 学習上 の困難点 に示唆 を与 え る 義 ′ ′ 展開部‑展 開力 .推進力
役 話 しあい学習 を本格 的 ものた らしめ, 刻 々に生 き
練習発問 理解 .記憶 .技術 な どの強化 .熟達 段 間接 ( 筆頭)助言 的 庵 展発 問 .理解 力 .思考力 の誘発 冒 指導 的助言
蕎
序 定発問 ≒ 秦 集 団的助言
韻
即時発問 時 期 学 習活動 の事
前過 J導入発 町
′′事 中
程 凍 結発 問 t
警 芸 芸 ( 谷本富説) 示 誘 ∴ 唆 発 性 性 l l l
;機
‑\i事 事 事 前 後 ■予定発 問 .即 時発 問 中 .即時発問 予定発問 事 事 事 前 後 中
i推進 的助言 治療 的助言
興味 .関心 展開発 問 て 芸芸誓学 習 に参加
終結発問 意 ・警 苦言誓 言 言 妻 童 .討議 .応答 な どの基本技能 を身 に ! …誓いよ うに, さ らに開眼 させ る !
…と ①発問指名 の原則 ②発 間分配 の原則
1 ヽ ・発 問 をや さ しく言 いかえて焦点 をぼかす な, ず
一 巳、
上島 ・ ! 間 の くふ うを入念 に 話術 ‑間術 ‑魔術 らす な
か,授業 における,教師の指導方法の定式 化 を追求す る ( ⑪2
45)。
この中で注 目され るのが 「 構造読み」で,莱 践か ら割 り出 した大西独 自のテクス ト論である。
その妥当性 については検討を要す るが, この こ とについては後 に考察す る。
また, ある学級で最初 に 「 構造読 み」の授業 をす る場合 を想定すれば として,大西 は次のよ うに①の 「 提言」 とアか らサまでの 「 助言」を 提唱 している。
① 文学作品の第
1時 は構造読みを します。
ア 人間のつ くった ものの ほとん どは,構造 が考え られています。文学作品 も人間がつ
くった ものだか ら構造があ ります。
イ 文学作品の構造 は 4 部構造が一般的です。
り 小説で は,導入部 ・展開部 ・山場の部 ・ 終結部 という4 部構造が一般的です。
エ そ して, この構造の分 け目は,冒頭,発 端 ・山場のはじまり,結末,終わ りの
4つ の点を読み とりでわか ります。
オ 又,構造上, もっとも重要 な ところを, 日本では,最高潮, あるいはクライマ ック スといいます。
カ 構造 の読み とりは, 冒頭 ・終 わ りは,見 ればだれで もわか りますか ら,発端の読み とりが前半の重点 にな ります。
キ 後半の重点 は,最高潮, クライマ ックス の読み とりです。
ク 発端 は,筋 のは じまるところです。す ぐ 読み とって下 さい。
ケ 最高潮 は,緊張 の もっとも高 くなった所 です。読み とって下 さい。
コ 最高潮が読み とれた ら,最高潮へ と事件 の もりあが るは じまりを山場 の は じま り, 事件のおわ り, そ して筋 のおわ りが結末で す。
サ 発端,山場のはじまり,結末がわかると, もう,導入部,展開部,山場の部,終結部 が読 み とれた ことにな ります (
⑲180)。 右の 「 提言 」 「 助言」 の妥 当性 もここで は問 わず,後 に検討す ることに したい。それはとも あれ,このように 「 定説化 した 『 分析
』」と 「教
師の指導方法の定式化」を追求 しようとした科 学性 は,国語教育 における一つの結果 として評 価 され る。
大西発問論 の第
6の特色 は,前述 したように
「 説明」のない授業すなわ ち子 ど もたち 自身 に よる 「自問」の授業を目指 していたことである。
この点 について大西 は次 のよ うに述べ る 。
私が 「 説明」 とい うより 「 指導言」主義 に 反対す るのは, その発問, ない し指導言を計 画的 に授業によって,学習がすすむにしたがっ て変化,縮少, な くしてい く方向を考えてい るか らこそである。
そ してそうな らない発問や指導言 は, ほん とうの意味で学習指導 にはな らない と考える か らである。
指導言 は生徒 の自問へ と転化 しなが ら,す こしずつな くな ってい くことこそが,指導の 本質 なのである。
発問 ・指導言 の固定化 は,子 どもの学習を 教師の発問 ・指導言持 ちの思考 にとどめて し
まうものなのである ( ⑩
183)。
大西 は発問や指導言をな くしてい く方法 とし て , 「か らみ問答」 をあげて い る。 た とえば前 述 した 「 構造読 み」 にお け る 「提言 」 「助言」
の場合,子 どもが教師の定式化 した指導方法 に 慣れて,教師の打つ 「 助言」 が自分で も順序 よ く設定で きるようになると,教師の 「 提言」だ けで 「 形象読 み」や 「 要約読 み」がで きるよう になるというのである。「か らみ問答」 を さ ら にすすめると 「 提言 もまた,生徒が 自分で行 う ことがで きるようになる」 。 ただ し, この場合 で も教師の 「 指導言」 はな くな るので はな い。
「 生徒の追究がよ じれている時, あ るい は不十 分な とき, そ くざに教師 は助言をせねばな らな い し,『 判断提示』 (まとめ) は,やはり教師の 仕事であ」 り, こうした指導言 を 「とっさに,
しか もいっで も,的確 に」発す る高度な技術が 要求 される。
子 どもの 「自問」 による授業を成立 させ るに は,同一学級を長期間担当 し,同一指導方式 に 教師 も子 どもも成熟 してい くこと,学級経営な かんず く学習態度の育成 と学習集団の形成がな
‑30‑
」
後藤 :国語科教育発問論
されてい ることなどが必要 な条件 とな る。 こう した諸条件 の整備 を しつつ,子 ど もの 「自問」
による授業 を進展 させ ることが望 ま しい。大西 の実践 の歩 みには, そ うした ことへの遭進 が見
られ る点 で評価 で きよ う。
Ⅲ.青木幹勇の発間論 について 青木幹 勇 と大西忠治 の共通点 をあげ ると,発 間依存 の授業 か ら脱却す るために,国語教育 の 遺産 とりわ け芦 田恵之助 の読 み方指導 を批判 的 に継承 しつつ, 自 らの授業 の事実 に即 して粘 り 強 く改善 を加 えてい った ことであ る。
芦 田恵之助 の読 み方指導 の独 自性 は,周知 の よ うに 「 芦 田式七変化」 と呼ばれ る 「 数式」 を 創案 した点 にあ る。『 数式 と教壇』( 注9 )に結 実 し た
「1よむ
」「2とく ( 話 しあい
)」「3よむ (
柿)」「4か く
」「5よむ
」「6と く
」「7よ
む」 とい う 「 読み方 を指導す る際」の 「 手続 き」
は,読解読書指導 の方式 と して歴史的 に高 い価 値がある。青木幹勇 は, この数 式 の中 で
「4か く」 が 「 書 く ( 書写) とい うことを読解 の中 に もち こみ,書 くことによって よ り正 しく, よ り深 く読 む とい うことの意義 を主張」す る もの であ った ことによ って示唆を得て,図表 Ⅲのよ うな指導過程 を創案 した
(『青 木幹 勇授業 技術 集成第 1巻
」161頁。以下 ①
161と略記 )。 図表
Ⅲの 「 文章 を書 写 す る 」 「自注 を書 き入 れ る」
が芦 田の 「 数式」 か ら示唆を得 た点 である。
しか しわ た した ち は ここで
,「4か く」 が
「 十分 に」青木幹勇を 「 満足 させ るもので はな」
く,青木 のい う 「 書写」 や 「自注」が 「 芦 田式 七変化」 の 「 4 か く」 とは異 質 の もので あ っ た ことに注 目せねばな らない。
青木 が不満足 に感 じた第
1の点 は 「 芦 田教 式 は何 とい って も, その授業 の根本的な姿勢 が教
時間
】 学習 活 動 指 導 の 要
点l 備 考
3
;令 ・ 話 す ・前時の学習の要点, とくに大造 じいさんの 残雪 に対す る心境の変化 について話させる o F 】
喜 読むべ きところを指摘 させ るO る○
;令 7 ・文章を書写す る ・大造 じいさんが,残雪 に呼 びかけている部 ・書 きなが ら読 み,書 きなが ら考えることが,
; す る○ ≡ 発表 させ るo ・他人の発表 をよ く聞 くよ うにo
にo
師主体であ り,教え導 く指導過程だ と」受 けと め られ た ことで あ る ( ②
32)。 青 木 は芦 田 の
「 随意選題」論 の中には 「子 ど もの主体性 を生 かそ うとす る近代的な教育観のあ った こと」を 認 めなが ら,読解指導の中には 「いまわた した ちの指導観の中に生 きているような,学習主体 者への配慮 と,主体的な学習 についての徹底的 な認識が」欠 けていた ことを指摘す る ( ②
33)。 芦田の授業 は今 日か ら見 ると,教科書教材 に対 す る教師の解釈を子 どもに教え込む古 い性格 の 授業であった ことは否定で きない。 「芦 田式七 変化」 は,旧解釈学 の流れを汲む一つの読解指 導過程であ ったところに限界があ った。 これに 対 して青木幹勇は 「 教える教師」か ら 「 子 ども を育て る教師‑」転換を図 ろうとしたのであっ て , 「自主的 ・自発的な国語学習 ので きる子 ど もを育て る」 ことが青木の課題であった ( ①
25)。
青木が不満足 に感 じた第 2 の点 は,芦田の板 書が 「 文章 その もので はな く,文章か らひさだ された語句,文章 の こまざれであ っ」た ことで ある ( ②
32)。芦田が晩年 の教壇行脚 で示 した 板書の方式 は,黒板 に横線 を引いて文章 の時間 的線状性を表 し, それを段落 の数 に区切 って, 各段落の区分のなかに芦田が選定 した 「 重要語 句」 を書 き付 けるとい うものであ った。芦田に よれば この 「 重要語句」 は 「 文章の露 出面」で あり
,「それを辿 って作者 の意図 に添 う理解 に 到達 させ る」 ための ものであった。 これに対 し て青木幹勇 は, この 「 重要語句」 は文章 の 「 部 分的な面」す なわち断続的な点 にす ぎず
,「7よむ」の過程で 「これを文章の全面にひろげて」
全体を再構成 させ ることは , 「子 ど もに とって は,文章理解 の上での,抵抗 と飛躍 が あ った」
と指摘す る ( ①1
66)。青木幹勇が板書するのは,
「まとまった文章」すなわち子 ど もが出 した問 題の集中 している段落 の文章全文である。 あ く まで 「 子 どもの読解関心の密度の高いところを 選」んで原文のまま板書す る点 に 「 子 どもの読 みを基調 に し」 ようとす る青木幹勇の 「たてま え」がある。子 どもの側 に立 って子 どもの読み の実態か ら出発 しよ うとす る青木の立場 は,芦 田の読 み方指導が子 どもを 「 作者の意図に添ふ
理解 に到達 させ」 ようとして)作者」主体 ・文 章主体 の立場 に立 っていたの と対 照的で あ る。
図表 Ⅲの指導案 は今 日ではそれ はぞ珍 しい も のではない。「 話す 」 「 読む」 の導 入部 を経 て,
「 書写 」 「自注 」 「 解釈」の展開部 に至 り , 「 読む ( 音読) 」 「まとめる」の整理部 で終 わ る展開 は オー ソ ドックスである。青木の手柄 は彼 自身が 言 うように,子 どもがまず 「問題」を 「 書 いて みる」,そ うすれば 「いい読 みを誘発」 で きる ことを 「 発見」 ( (
丑49)して, それを 「書写」
「自注 」 「解釈」 に具体化 した ことで あ って,
「とくにかわ った学習」を主張 した もので はな い ( (
丑78)。 しか し, 発 間 によ って子 ど もを
「引 き回す読解指導」,子 どもにとっては 「うけ みの読み」であ ったのを,子 ども自身が問題意 識 を もって文章 に向か ってい く 「はた らきかけ の読み」 に転換 していった実践の積 み重ねは平 凡ではない。その転換 の過程でさまざまな苦 し みや失敗,挫折や限界があったが,それをあ り のままに読者の前 に曝 け出 して検証 し続 けてい るところに青木の真骨頂があ り, そ こか ら,読 者 はかえ って授業実践の真髄 を豊かに学 び取 る
ことがで きる。
さて,書名 にもな っている 「問題を もちなが らよむ」 ことの内実 と意義を以下 に探 ってい く ことに したい。
(i )青木幹勇の功績 は,第
1に読解理論 の 伝統 に異議 を申 し立て,その異議 申 し立ての正 しさを独 自の実践 の技術 によって実証 した点 に ある。青木幹勇 は垣内松三 ・石山傭平 ・西尾実 などの旧解釈学 を検討 して次のように述べ る。
これ らの読解理論 は,わた しのみ るところ で は, みな文章 を読み とる論理的過程であっ て, それが必ず しも子 どもたちが,文章 を読 み とる心理過程 に即 した もの とはいいかね る ように思 います。 さ らにこの読解過程 は,千 どもたちが文章 を読 み とってい くとい う学習 過程の中で,読書技術 として,身 につけるこ とはで きに くいものだ と考えます。 いいかえ ると, この読解方法 は,教師のものであって, 教師が これを理解 していて, これ によ って, 子 どもたちの読解 を誘導 してい くという, そ
‑
3 2 ‑後藤 :国語科教育発問論
ういった指導のよ りどころになるので はない か と思 います。ですか ら, こうした読解体系 を指導の軸 とす る限 り,常 に,教師の誘導が ないことには,子 どもの読解 は進 まない。‑
たん教師の手元をはなれ ると,子 どもの自力 では,文章が読 めないということになるので す ( 傍線 は後藤) ( ①3
3)。
右の引用文中 , 「 文章を読み とる論理的過程」
か ら 「 文章を読み とる心理過程」への転換 は重 要 な指摘 で あ る。 青木幹 勇 の実践 は一 に この
「 文章を読み とる心理過程」 の実現 の仕方 いか んに関わ っている。 また, この 「 文章を読み と る心理過程」 の中で こそ 「 学習過程の中で,読 書技術 として,身 につ けること」すなわち学習 方法の体得が可能であるとの指摘 も注目したい。
発問の技術 は現在で も教育話法 の中心である ことに変わ りはない。 しか し,発間 は両刃の剣 である。質の高 い発間 は子 どもの思考を活性化 す る一方で,子 どもの自発的な思考をスポイル す る危険性を も学んでいる。 ま してや教師が 自 分の 「 文章を読み とる論理的過程」 に子 どもた ちを引 き込 もうとす る場合 はなお さ らで あ る。
青木幹勇 はこの危険性を痛切 に感 じ取 り,子 ど もの素朴 な 「 文章を読み とる心理過程」 その も のに立 ち戻 って, そ こか ら出発 し直そ うとした ところに, あた りまえそ うであ って しかも理法 にかな った着眼があった。
しかが って,青木幹勇が 「問題 を もちなが ら よむ」 というときの 「問題」 も,問題解決学習 の 「 問題」や単元学習の 「 話題 ( 主題) 」といっ た規模 の大 きな問題」ではない ( ①3
5)。 それ は 「 読んだ文章」か ら受 ける 「何等 か の触発」
であ り,文章 に対す る 「 何等かの反応」の総称 である。青木幹勇の実践の特色 は,子 どもの意 識化の段階 にとどまっているこの微弱な 「 反応」
に着 目 し,子 どもに問題文 として書かせ ること によって この微弱な 「 反応」を強固にさせ増幅 させ, それを文学表現 に表 出させようとした点 にある。
問題を書 く。文 にす る。文章 にす るとい う ことになると,子 どもの読むはた らさは, に わかに緊張 して きます。漫然 と文章 を読む こ
とが許 されな くな って きます。 そ こで反応 の 増幅運動が起 こって くるのです。
○問題をはっきりとらえ,意識 にのせ るた めによ り積極的に読む。
○問題を, ことばに表現す るために,考え る。
という,読む こと,考え ること,書 くことの
3つの歯車がか らみあ って回転 を は じめ るの です ( ①4
9)。
ここには 「問題」 を中軸 に して読解 ・思考 ・ 表出が
3つ巴にな って深化 し合 う学習過程が想 定 ( 設定) されている。 この場合 , 「問題」 は
「 文章を読み深 めるための問題」であって , 「 文 章を読 む」 という主 目的を活性化 し達成す るた めの手段 に青木が とどめていることに注 目した い。「問題」 を解 くことと 「文章 を読 む」 こと との順位 を逆転 させてはな らないのである。 あ くまで も 「 文章を読む」 ことが 目的 となる。
以上が 「問題を書 く」 ことに着眼 した青木幹 勇の 「 発見」 の意義である。 しか し,授業技術 の実際問題 と しては, どのような 「問題」をい つ ( 授業のどの時点で‑どのような発達段階の 過程で)つ くらせ るか, どのようにして 「 問題」
を引 き出すか , 「 問題」の質 を いか に して高 め るか,だれのどの 「問題」 をいかに選択 し,揺 業のどの時点 ( 場面) にどのよ うに して取 り入 れ活用 してい くか, いずれ もゆるがせにで きな い。
(止)青木幹勇の実践理論 の第 2 の意義 は, こうした点を克服 していった過程 を精密 に記述 し自己分析 していることである。青木の記録は, 同 じよ うな試行錯誤 の過程 をたどるであろう後 進 に多 くの示唆を与える。
「問題を もちなが らよむ」 とい う方法 に取 り 組みだ した ころ,昭和3 7 年 6月 に青木幹勇 は東 京教育大学附属小学校 における研究発表会 で
4年生を対象 に 「島取砂丘」 ( 学 図版) の公 開授 業 を している。青木 は通読後 に 「問題」をつ く
らせ, この 「 問題」 を 「 子 どもたちの読解の力, これを利用 してすすめようとす る読解指導 を予 想 して,段落 ごとにまとめ」, その プ リン トを 子 どもたちに配 って学習を進めている。 プ リン
‑ 33 ‑
トされた 「問題」 は
64個 あり,各問題文の末尾 には出題者 の氏名をつ けている
。この指導法 は,青木 自身が言 うようにすでに 多 くの人 に実践 されていたが,青木 のね らいに は次 の よ うな点 で特色 がみ られ る。 1つ は,
「問題」文 をつ くることを通 して 「学 ぶ ことの お もしろさ, 自分 の成長 してい くことの喜 びを 経験」す るような 「シチュエーション」 を設定 し 「そ うい う場 ‑子 どもたち を追 い こん で」
「 積極的な読みの学習を育て よ う」 と してい る 点である 。 2 つ には,出題者 の氏名を明 らか に して学習意欲を高 めていること
。 3つ は , 「問
題」 を分類 ・整理する観点 として 「 文学 ・語句 ・ 文 ・文章」 の階層順 , 「 段落順」 , 「読解 のね ら
いに即 した」 ものなどを独 白に設定 しているこ とである。青木の分類法 には今 日の学習課題論 に見 られ るような体系 はないけれども,混沌た る 「 問題」 に秩序 を与 えようとした試みにおい て評価 される。
しか し, この初期の ころ,子 どもか ら出され た 「問題 」 には多 くの課題 が卒 まれ て い た。
「問題」 は細部 にこだわ った ものや中堅 しいあ らさが Lなど 「まことに雑然 として」いた。 こ のため青木幹勇 は 「問題集」の末尾 に 「その問 題 を中心 に して, クラスの人が考え, いい勉強 がひ らけて くるような問題」 は少な く ,「 『こと
が ら』 についての問題が, とびぬけて多 く, こ とばや,文,文章 についての問題が少ない」な どの感想 を書 き添 えている。説明的文章を読む ときに子 どもが題材 に関心を持つ傾向が強 いの で,筆者 の表現態度 ( 題材 を認識す る視角や視 座 ・立場 ・発想 の動機 ・対読者意識など) と一 体化 した叙述 の仕方 に着 目す る学習態度を身 に 付 けさせたい と思 う教師の願 いは今 日わた した ちが抱 えているもので もある。か くして,教材 文 の叙述 に即 して筆者の認識 の核心 を突 いた,
しか も 「 学級 の学習の場 にもちだ して,級友 の 追求 にたえ, さ らには学級 の学習を高めるのに 役立つ ような問題」 に出題傾向を変えてい くこ と,すなわち 「問題の質を高めること」が課題 となった。そのため,青木 は 「問題」づ くりの 準備期問の設定 , 「問題 の質 を高 めて い くため
の段階の踏 ませ方 の考察,学習指導要領を参考 に した学年段階 ごとの 「問題」の着眼点の体系 化 , 「 教師の発問によって, 文章 の中 の問題 の 所在をわか らせ,それを問題作 りに転化 させる」
など, さまざまな試みを している。
これ らの根底をな しているの は , 「作問 の基
本」 は 「よ く読む とい う経験を しっか りもたせ る」 ことだ とい う考えである ( ①
78)0「読 み」
が先か 「 作問」が先か とい う優先順位 の問題 は わた したちが抱えているジレンマであるけれ ど ち,通読段階か ら 「よ く読む」 こと , 「よ く読」
もうという意識 を持 たせ る ことが大事 で あ る。
「よ く読 む」 ことを通 して 「作問」 の技術 が向 上 し , 「 作問」 の技術が向上す ることによ って
「よ く読 む」 ことが促進 され る とい う循環 が, 学習の場で実行 されることが必要 なのである。
こうして
,「問題」 を子 ど もか ら引 き出 し,
「 雑然 とした 」 「 問題」 の状態か ら質の高い 「問 題」 に転換 させねばな らな い とい う
,「作 問」
の段階での課題 は克服 された。 しか し,読解 に
「問題」を適用す る段階で , 「問題 を解 くこと, 文章 を読む こととを, どのようにつな ぐか とい
う 」 「 厚 い壁」 に突 き当た った。「問題」をつ く りなが ら読む学習方法にはいくつかの陥斉があっ たのである ( ①8
5)。
子 どもを尊重 しよ うと して 「玉石清清」 の
「問題」を逐次追 うことは時 間的 に制約 が あ る うえ,授業 の流れが切れ切れで単調 とな り子 ど もの学習意欲を削 ぐことにさえな った。
殊 に問題 とな ったのは 「 読 み」 その ものの変 質 ・低下である。「問題を追 いか け」 ること自 体が目的にな って 「かん じんの文章 を読む とい うことか らは遠 ざか り」 ,読 みのね らいに沿 っ た 「 一貫 され,統一 された授業の流れにな りに くい」事態が生 まれた。そ して , 「もっとも致
命的な問題 は,子 どもの問題を解 きすすめるこ とが,読解 のた しかさ,深 ま りに即 しがたいと い うこと」であった。つまり,通読の段階で作 っ た問題 が精読 の段階で は 「 読解 の手がか りとし ての価値 は ぐん と下 が」 り,追究す る意味がな くなるとい うことである。子 どもが通読段階で 作 った 「問題」が精読 ・味読の段階にな って も
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