Colonel Sellersの 創 造
赤 尾 憲 一一
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Q1一
7物0∫1464オ98はMark Twainの38才のときの作品である。郷里Hanniba1 で新聞業を経営していた兄の助手をしながら見よう見まねで,習作丁肋・0朋4γ F7妙 6痂9 加5卿観67をBostonの代表誌σαψ甑βα8に載せてもらったのは 1852年であるから,21年の才月が流れている。この才月は大ざっぱに言って前 後の二期に分けられると思う。つまりノπηψ∫ηgFro9の書かれた1855年まで
と,それ以後1873年までとである。前半は作家としての修業時代,後半はデビ
ユー梠繧ニいっていいであろう。1865年までは,笑いの創造のテクニックの習 得と・笑いの種の蓄積に力が注がれた時代で,1865年以後はそのテクニックを 駆使し,蓄積された材料を随所に用いながら長篇に応用した時代で,血η068鳩 α670砿1〜oπ9痂η9」配そして乃8α娩4取8の三長篇が書かれている。このな かで最後の7「劾α1484オ96は前二作に比べていささか特色を異にする。とい
うのは翫η06θη ∫!痂0α4といい,Ro〃9痂9丑といい一種の旅行記であって,自 分の見聞したことをユーモラスな文章で報告したものである。なるほど笑いの テクニックは一段と洗練され,また笑いの材料も豊富になっており,全体とし て両者それぞれの味わい,良さを持ったいい作品である。がしかしこれらの作 品は,いわゆるフィクションではない。登場人物もほとんどすべて実在人物で あるし,その人物の実際の行為と思われるものだけが書かれている。もちろん 笑いを中心とした作品の性質上,大いに誇張され,時には粉飾もされていよう 、
ェ,しかし本質はあくまで事実にもとついた見聞記である。これに対し7伽 α漉4オg8は完全なフィクションであって,登場する人物群はすべて架空の人 たちである。もちろん,もとになった人物は幾人かいるようだ。たとえばsi Hawkins夫妻はMTwainの両親らしく, Sellers大佐は母方の叔父のムam・
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ptonという老人であったらしいというように。しかしこれらの人物は参考に なった人物にすぎず,作品の中の登場人物の本質と直接には何の関係もない。
フィクションということになると,当然そこには作者が構成しようとする小説 という世界の中で,その中核となり,作者が自分の人生観なり世界観なりを附 託しようとする一つの個性ないし性格を持った人物が生れてくる。Sellersは,
LauraやWash1ngtonなどとともに,まさしくそのようにして生れてきた人物 である。換言すれば,Twainはこの作品で初めての喜劇的人物像を描いたとい える。しかもその人間像は,彼の作品群の中で最初のものであったにもかかわ らず,全体としていきいきと描かれており,優にアメリカ文学を代表する数人 の人間像の中に加え得るものであった。
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さてこ・で少しく具体的に,彼が何故喜劇的人物と目されるのか,彼の行為や 物の考え方がどのような意味で喜劇的なのかを考える前に少しく筋そのものを 追ってみることにする。彼はTennessee州のObedstownなるところで,この 小説の主人公Hawkins一家と暮していたが事業に失敗し,Missouri州のHawk一 eyeに移住して再起をはかる。彼の性格上の特色はいつも現実離れした壮 大,雄大な夢を見ることであって,この点で彼は典型的なアメリカ人であった が,その空想癖のおかげで失敗することが多くObedstownにも居られなくな ったわけだが,Missouriでは一段と彼の夢は大きくなる。彼はHawkeyeの附 近を流れるGoose Run川に大型船の航行できるように改良行事を施せば,附 近の発展のためにはきわめてよいことに着目する。そしてその川に臨んでいる Stone・s Landingが,今でこそとるに足らぬ寒村だが,地形上船着場にはかっ こうの場所であることを見抜き,ここに本格的工事を施すことを計画する。そ してそれには地名にふさわしいものにする必要があると考え・Goose Runは Columbus川, Stone・s LandingはNapoleonと,ともにその将来の輝しい役 割にふさわしい雄大な名前に改める。こうしてSellers大佐は現在の荒野同然 の土地が,遠からずこの地方の産業文化の一大中心地なるだろうという夢をい だく。しかもそのことはまた同時に,彼によれば,附近の土地の値上りという 事態を招くであろうから,附近の住民にとっては二重,三重の幸運がおとずれ
るはずであった。他方,舞台は移ってNew Yorkでは, Philip Sterling・Henry Brierlyなる二青年が登場する。親友であるこの二人は, Missouri州にSalt
Lick Pacific Extensionなる名称で鉄道が敷かれることを知り,運動してそれ それ技師ならびに測量師の職を得る。二人はSt. Louisに到着してSellers大 佐と知り合いになり,たちまち意気投合する。Sellers大佐は,この鉄道を彼も
また強く期待していること,それはMissouri州という未開発の宝庫が開発さ れるからであること,そしてそれに伴って土地の値上りも見込め,個人として 有利な上,ほかにもひ益するところが大きく,文字通り一石二鳥三鳥であるこ となどを,こっそり,しかし熱っぽく青年たちに耳うちする。当面Goose Run 川の改良工事に夢中になっているものの,もし鉄道がくるようなことがあれ ば,まさしく鬼に金棒で,願ってもない幸運なのであった。Sellersはそのため 同じ頃,鉄道建設の主任技師にも合って熱心に説明し,本来ならばSt・Lou量s から直線コースにあるHawkeyeを通すべきところ,少々迂回してStone s Landingを通すよう説得する。
さてこの実現には,まず順序としてGoose Run川の開削工事から始めなく てはならない。そしてそれを進めるには巨額の費用がいるし,事業の公共的性 格から,政府の資金援助を求める関係上,有志によってColumbus River Slackwater Navigation Companyなる名前の開発会社がNew YorkのWall街
の一角に設けられる。こうして集った資金と,政府への運動の結果認められた 補助金とが,この工事の原動力である。SellersとHenry Brierlyは,この会 社の役員で,現場責任者ということになる。ところでここで,少し細かくなる
けれども,この会社の体質,役割,機構といったものを一寸のぞいておきた い。というのは,そうすることによって当時のこの種の会社なるものの実態も 分るし,また政府の補助金というものの本質も分り,ひいては「鍍金時代」と 俗称される時代のいまわしい実態が実にリアルに理解できるからである。
SellersとHenryは政府から会社に20万ドルの補助金が初年度分として認め られたので,当然その一部が二人のもとに送られてくるものと考え,現地で大 勢の労働者を雇つて仕事を進めてゆく。しかし補助金はなかなか送られてこな いので,Henry自身New Y。rkへ出かけ,社長に合って督促したところ,意 外な事実が明らかになり彼は荘然自失する。というのは,2万ドルの金を貰え
るどころか,逆に二人は会社に対して1万ドル近い借金を負っていることを知 らされるからである。しかも彼らは労働者たちに対しても,それまで払ってい るべき賃金をまだ払ってないので,それも彼ら二人が払うべきだといわれる。
Henryが事情の説明を求めたことに対する社長の説明は次のごとくである。
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会社は設立と同時に株主から株金の払い込みを求めたが,そのときHenry とSellersはともに1株1,000ドルで100株を申し込んだのであるからiO万ド ルずつ計20万ドルを払い込む義務があった。ただし当初は全額払い込みではな
く10%払い込みでよかったので,けっきょく2万ドル払い込めばよかったわけ である。しかし現地責任者としての二人には,現地で労働者を集め,その賃金 を支払ったりするなど,いろいろの経費が必要なので,実際は上記10%の出資 金は払い込まず,その分は現地での諸経費にあててほしいというわけであっ た。さてHenryが本社を訪れた時点では,まず労働者への給料として9,640ド ル,二人が会社から貰うべきサラリーとして2ケ月分2,400ドル,計12,040ド ルは必要経費として認められるので,払い込み金2万ドルから差し引くと7,940
ドル残りこれが二人の,会社に対する純粋な借金である。以上の説明に驚き ながらも,Henryが20万ドルもの補助金を,いったい会社はどのように使うの かと質問すると,社長はHenryがその辺の事情にうといことを,嘲笑いなが
ら,この20万ドルは河川の開削工事などに使うのではなく,「将来の本当の補 助金をわんさとちょうだいするための,いわば鶏にだかせる瀬戸物の卵なん だ」と説明する。つまり開削工事はあくまで表向きの看板で,本当の会社の目 的は政府からしこたま補助金をせしめ,大いに私腹をこやすことにあるという わけだ。さて社長によると,その20万ドルの補助金は,より多くの補助金への さそい水として次のように使われるのだという。この辺がいわゆる鍍発時代 に,中央政界がいかに腐敗していたかの実態である。まず第一に議会で,会社 が申請している補助金の件が通過するように,下院の関係議員に賛成投票して 貰うため一人当り1万ドルで計4万ドル。上院も同じく4万ドル。一,二名の 委員長にはさらに2万ドル。次にこの議員に働きかけるのを商売にしている,
いわゆるロビイスト(対議員運動員)が八人いるので計3,100ドル,こうるさ い議員には特別に一人3,000ドル上のせして計3万ドル,議員の接待費として 計1万ドル。ほかに印刷物,新聞への広告などで約12万ドル。以上に諸雑費
を含めて総計は30万ドルを越えているが,政府:よりの補助金20万ドルに対し て,それを上まわる10万ドルをどうやって回収するのか。社長によれば,「別 の補助金」を要求するわけで,その要求額は50万ドルとし,それがうまくいっ たら,さら100万ドルの要求をするのだという。しかし必要経費は第一回目で すべてすんでいるので,これからは1セントも要らず,それどころか議員たち は会社のために「ビーバーのようにいっしょうけんめいに,働いてくれる」は
ずであった。これを聞いてHenryはさいごに「アメリカ人は多くの哀れな異 教徒を救うために大勢の宣教師を外国に送っているが,むしろアメリカに帰っ て,アメリカの文明をその源において味ってもらった方が,ずっと安上りに つくではないか」と考えこんでしまう。要するに会社は西部の開拓地をより住 みよい場所にしようとする計画などには一顧すらはらわず,もっぱら私腹をこ やすことのみに専念しているのを}lenryは知る。こうして二人の夢は,それ が鍍金時代によってふくらんだ風船であったが,ほかならぬその鍍金時代の機 構,からくりによって一場の夢,砂上の楼閣として終る。
けれどもColumbus River Slackwater Navigatlonの失敗が, Sellersを落胆 させたのは,ほんの一時であった。彼は「一時に長い間水面下に沈んではいな いコルク」で,いつまでも失敗にくよくよせず,たえず明日を,未来を夢見る典 型的なアメリカ人だったからだ。むしろ失敗は次の夢をより大きいものにする のに役立った。つまり彼はSt. Louisからの鉄道の建設に全力をあげてぶつか
ってゆくことになったからである。Goose Run川の失敗を妻に説明したとき 彼女の慰めと,いつものおだやかな苦言は,むしろ彼の意欲の火に油を注ぐよう なものだった。彼は不安げに耳を傾ける妻に,とうとうと新計画について語っ て聞かせる。食卓の上に,身近にあるジャガイモ,ナイフ,砂糖入れなどを手当
り次第に並べて,それぞれ町や駅や線路と仮定しながら説明してゆく。まず起 点St・LouisからSlouchburgへ(これはジャガ芋だ),そしてコショウ入れの Doodlvillへ,さらにBrimstone,13elshazzar, Catfish, Babylonと通過予定地 を説明しながら,Hark−from・the−Tombを経て終点Columus River(Goose Run)まで。「それからわれわれはさらにつっ走って そうそう一一そのコ
ップまで,そこがBrimstoneだ」とか「これが終点だ一ねえ,ちょっとそ の糸を二,三本こっちに渡してくれないか。川をあらわすんだがね。そうその 砂糖入れはHawkeyeだ。そしてそのねずみとりはStone s Landingだ」とい った調子の中に想像,空想を楽しんでいる彼のうきうきした気分がよく出てい る。終点Columbus Riverでは一段と夢は大きくなり,この川では三哩半の間 に橋を17本かける予定で,これは,Hark−from−theTombからStone s Landing まで実に49本の橋をかけることを意味していた。しかし,けっきょくのとこ ろ,Sellersだけでなく,一般民衆も大きい期待をかけたStone s Landingへの 鉄道誘致という夢も,さいごの段階になってHawkeyeの町がSellersの計画 に気ずき,大急ぎで鉄道誘致派に転じ,土地提供などによって自分の町を通す
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ようにしたので,ふたたびSeUersの大きくふくらんだ夢はくずれることになる。
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@ _1一
以上がSellers大佐を中心にしてみた物語の概略であるが,この辺でSellers という人間の喜劇性といった点について少し考えてみたい。上記のようにSeU・
ers大佐の人間としての最大の特色は,自分の事業や地域社会ないし国家の開 発,発展に関して次次といろいろな案を考え出してゆく,いわばその空想癖に
あるといえるだろう。彼はまずGoose Run川の開削,改良工事に夢中にな る。そのことが失敗に終りそうだと分った瞬間,彼の頭は鉄道のことでいっぱ いになつていた。この間に普通の人間の場合に見られる,反省,後悔,葱塊と いった心理は全くられ見ない。彼には過ぎ去ったことはその瞬間,無縁になっ てしまうのだ。同じような例としてこの物語の終りのところで,殺人を犯した Laura Hawkinsが,弁護士の努力によって無罪を言い渡されたとき,彼は感激
のあまり,弁護士という職業がいかにもすばらしいものに思われ,たちまちこ れから勉強して弁護士になろうと決心する。弁護士というのはそれまでの彼の してきたこととは全く縁のない,いわば全く未知の分野であるが,彼にはその ようなことは問題にならない。それは彼にとってそれまで手がけてきた大事業 と同じく,彼の意欲を満足させるものであったからだ。この例と同じくもう一 っ,二つ彼の空想力のいわば純粋さを示す例がある。Washington Hawkinsが Se11βrs家を訪れたとき,ストーブが燃えているのに何とも寒くてやりきれない 場面がある。彼はよく見ると,ストーブが燃えているように見えたのは実は中
に一本のローソクがともっているだけで,その頃事業に失敗したSellersとし ては石炭を買う金がなかったのであった。しかしSellersは決して自分の悲境 を認めない。彼はWashingtonに,こうしているのはリューマチになるのを防
ぐためであると説明する。Sellersによればリューマチはあまり強い熱を身体に あてることからくるので,ストーブで石炭をたいて暖をとるのはよくないとい う理屈である。Sellersは現在の悲境を感ずる直前に,その悲境をすら夢に変え てしまうことが可能で,彼の頭の働きが,なまなかのものでない例といえる。
こうして彼はいわば夢を食べて生きてゆく人間だといってもいいし,喜劇人物 特有の己れというものを見る能力が皆無で,いつも魔法のランプを手の中でい
じくりまわしていた人間であったともいえる。
彼が滑稽なのはこれらの空想が一つとして実現せず,すべて夢,空想に終っ てしまうところにある。実現できない理由は,彼が現実を直視しないせいで,
この現実を見ないという性質が喜劇人物の基本条件である。そして現実との距 離が大きくなればなるほど滑稽さは増大する。MicawberよりDon Quixoteの 方が滑稽の度合がすざまじいのは,彼が中世の騎士道精神なるものに夢中にな
っている程度が,Micawberの自己過信の程度より,はるかにすざまじいから である。Sellersはこれらの喜劇人物たちと本質において同じ欠陥を持っている わけだが,リアリストならば望まぬことを,まだ望んでも自ら避けてしまうで あろうことを,Sellersは避げずに,本能にかりたてられるま・に行ってしま う。こうした人間的欠陥はいわば万人共通のものであるので,それを賢明に避 けようとせずに,我を通してしまう彼らに,読者はあわれみと好意とすらを感
じてしまう。彼らはいわば 五nspired idiot である。もっともSellers, Don Quixote, Micawber, Falstaffと四人を並べてみると,その間に多少の喜劇性の 差がある。Sellers大佐の面白さは, FalstaffやMicawberのように,いわゆる 人生が与えるものに対する悲喜こもごもの人間的反応といったものから生じて いるのではない。彼の場合は,時代という触媒によって人間ばなれした,壮大 な夢をつくりだす面白さ,エクセントリックな面白さ,その規模の大きさにお いて桁違いで,いかにもアメリカ的な面白さにあるといえる。
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ところで忘れてはならないことは,Sellersの特色がた寸滑稽な人間としてだ けにと寸まらないことである。彼が一個の人間として気品があり,読者に笑い とともに一種の感動をひき起こす理由は何であろうか。それはおそらく,
Se】lersの関心がいつも地域社会の発展一一場合によっては,それはそのま・国 家の発展にもっながるものだったが一一について雄大な夢を描い七いることで あり,同時にそれは究極的には一般民衆のためになることを信じてのことであ
り,いわゆる私利私慾の追求といったものからの発想でないことからきている からであろう。鍍金時代の特色は国民全体が金銭の獲得のために狂奔したとこ うにあるわけだが,彼にはそういった感じはなく,むしろ多分にヒューマニステ イックな感じが強い。換言すれば彼の空想をすばらしいものにしているのは,
彼がいつも周囲の社会を,どうやって理想郷にすることができるかを考えてい
8たその人間的な態度にあったといえる。この点はFalstallやMicawberの関心
が,いつも自己中心的であり,滑稽さの点ではともかく,人間的魅力の点で は,だいぶ異なるところがあるといえる。
ところでこの品性のすばらしさは,もちろんSellers大佐の生得のものであ ろうが,しかしやはり伺時に時代の持つ影響力も無視できないであろう。この 物語の初めの部分は,1870年代の初期と思われるが,鍍金時代といってもまだ
ごく初めの頃であるし,かつ舞台がTennesseeからMissouriという純農村地 帯でもあっただけに,純朴な気風が濃厚に残っていたものと思われる。金儲け のための非人道的風汐は東部の都会ではともかく,まだこの片田舎までは届い ておらず,いわばその前夜といった時代であった。Hawkins−一家が苦しい旅の
さ中で二人もの孤児を養子として家族の一員に加えたのは,高潔ですがすがし い態度で,この基調はこの小説の主施律となっている。こういう出来事を合ん だ第一章から第十二章までの部分はTwainの執筆であるが,何か b三blical な 感じすら与え,その簡潔,上品な文体と相まってきわめて印象的である。これ はアメリカの建国時代の,新天地に理想郷をうち建てるのだという彼らの夢と 使命感が,その最後の段階に来ていたとはいうものの,まだはっきり残ってい たことを示している。Twainは後半,文字通りぎらぎらするような鍍金時代を 書いているのだが,それとあたかも対照的に質朴,高尚な農本主義の姿を描い て,両者の相違,いやむしろ農本主義時代の人間の生きる姿のすばらしさを暗 示しようとしているように思われる。いったいアメリカでは,建国の当初から 敬虜なるクリスチャンとして生きることと,物質的繁栄をめざしての勤勉なる 努力とが,相矛盾するものでなかったことは,新天地という外的条件が必然的 に彼らに認めかつ求めたことですらあった。しかしながらその物心両面が,い い意味で均衡のとれた時代は鍍金時代の到来と共に,音をたててくずれ,彼ら は次元の低い物質文明の完成にむかって狂奔してゆくことになる。Sellers大佐 は,いわばその直前の時代のすばらしい象徴的人間像であるといえるだろう。
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いったいアメリカ人は明日を夢見て新大陸に渡ってきた人たちである。この 傾向は彼らの眼前に西部という大天地が獲得の可能性あるものとして出現した とき,いっそう熾烈に燃え上ったはずだ。もちろんその獲得の過程において新 天地での生活は,生やさしいものでなかったことも事実であろう。しかし日々
の生活がきびしいものであればあるほど,彼らはいよいよ将来に期待をかける ことによってその苦難を乗り越えたといっていい。Sellers大佐の精神はこのよ うなアメリカ人の精神の象徴である。現実には一般の人々は,一方においてバ ラ色の夢を描きながら,しかし日々の生活そのものを成り立たせるために,よ り多くの精神を生活に注がざるを得なかったであろうが,Sellersの場合日常人 としての影は薄く,その精神活動はひたすら未来を空想することに費されたと いっていい。南北戦争後のアメリカは,ある意味では建国の理想のかげにかく れて見えなかった富の獲得への意識が顕在化した時代といえる。換言すれば,
アメリカ人がLouisiana地方購入を中心とする国土の拡大に専心した第一ラウ ンドに対し,Sellersの時代は己れのものとなった国土の開発,そこからの収益 に関心が注がれた第ニラウンドであったといえる。こうして彼の全存在はあげ てアメリカの輝しい未来に捧げられたわけだが,かれは加えて一個の人間とし て善良で,人聞味もあり,しかも品格もあり,じゅうぶん魅力のある人物であ る。アメリカ人はいずれも夢を持った人たちだと,先にもちょっとふれたけれ ども,Sellers大佐の場合は,時代がそのスケールを他の場合と比較してはるか に壮大なものにしている。こうして彼はHesterやLeatherstockingやAhabと 並んで,いわば代表的アメリカ人の一人といえる。そして,くり返すことにな
るが,彼の夢の対象がいつも生活と密着したものであること,また社会の発展 に関係したものであること,こういった意味でDon QuixoteともFalstaffと
もMicawberとも異なり,純粋にアメリカ的喜劇人…一それも最初の喜劇人物 といえるであろう。 完