伝統的都市計画から見た唐の長安城
著者 西森 正晃
雑誌名 金大考古
巻 36
ページ 8‑11
発行年 2001‑08‑26
URL http://hdl.handle.net/2297/2875
学部生
上原大介 土本稔格 堀敬人 江口麻美 太田真琴 川村亜悠美 木村ふさ子 田中範裕 田中美幸 寺村直人 名田草介 丹羽裕樹 廣田典之 宮澤麻理 村田樹綿子 村手裕一 相京和茂 上田康子 織田真理子 佐藤高士 庄田孝輔 竹部佑介 田中智絵子 田村友希子 辻本淳哉 富樫陵 福田智子 吉田風太
研究ノート
伝統的都市計画から見た唐の長安城
( )
西森正晃 金沢大学大学院文学研究科1年
1.はじめに
唐の長安城は、隋の大興城を受け継ぎ完 成させた唐王朝二百九十年の都である。長 安城は、東西十八里、南北十五里で城門は 東西南面に三門、北面に一門、計十門であ る。門道は中軸線である南面中央の明徳門 と東面の春明門と西面の金光門は五条であ るが、他は三条である。王宮は中央北部に よっており北部に皇帝の居住区である宮城 がおかれ、南部に政治が行われる皇城が置 かれている 祖先の魂をまつる宗廟、土地の 神をまつる社、五穀の神をまつる稷つまり
、 ( ) 、 社稷は皇城 内にあり 左側 東側 に宗廟 右側(西側)に社稷がある。市は二市置か れており、朱雀大路を中軸線として左右対 称を意識して置かれている。
( 考古』1978年‑6)
唐長安城復元図 『
しかし、この都市計画が実は中国におけ る伝統的な都市計画からすれば異端の面が 強いとされるのである。中国において王都 としての都城の意義は天下の中心であり、
天子の居場所としてふさわしい威厳と規模 を兼ね備える必要があった。そして古来よ り清の北京城に至るまで理想とされた都城 の都市計画が儒教の聖典の一つである『周 礼』に記載されている。その中の冬官・考
「 、 、 。
工記の文章で 匠人営国 方九里 傍三門 国中九経九緯。経余九軌。左祖右社、面朝 後市」に集約されている。要約すると、都 城の一側面につき三門、計十二門あり、門 道は三条。王宮は都城の中心に置き、皇帝 の居住区である宮城の前に政治を行う皇城 を配置し、市場は王宮より北側に置く。王
、 宮前の左側に祖先の魂をまつる宗廟を置き 右側に土地の神をまつる社、五穀の神をま つる稷、つまり社稷を置く。以上が中国に おいて長く都城を建てる際に模範とされた 都市計画であった。
『周礼』考工記・王城図
この『周礼』の都市計画と比べると、唐 の長安城は、王宮が北面に接し中央北部に あり、さらに王宮が北面に接しているため に市場を設置する余地なく、王宮より南側 に置かれているなど 『周礼』に反する点が、 多く見られるため、唐の長安城は異端であ るという意見が強かった。
ここでは、唐以前の主な都城の都市計画
をみて 『周礼』の都市計画と歴代の都城と、 の相違点を上げて、唐の長安城が『周礼』
を意識し、いかに長い伝統によって培われ た都城であったのかを論証する。
2.魯国曲阜城
『周礼』の作者と言われる周公旦の一族 が封せられた魯国の都曲阜は東西六里南北 五里の長方形である。城門は一面三門ずつ 計十二門。門道はそれぞれ三条ある。王宮 と推定される建築台基が城のほぼ中央にあ り、北側と南側から周代の宮殿跡が見つか っており、それぞれ北から宮城、皇城と比 定されている。王宮の北側からは手工業者 の工房などが見つかっており市が存在した と思われる。城の中軸線をなす南面中央の 稷門から王宮に延びる通りを軸に対になっ た建物跡があり、左側が宗廟、右側が社稷 であったとされる。
このように曲阜は『周礼』に記載されて いる都市計画と比べると城門の数、王宮の 位置、宮城と皇城、宗廟と社稷の配置が一 致する。曲阜は明らかに『周礼』の都市計 画を意識しているといえるであろう。
( 文物』1982年‑12)
魯国曲阜城 『
3.前漢長安城
漢の長安城は、高祖劉邦が長安に遷都し 秦の離宮の一つである興楽宮を改修し長楽 宮と名付けた事に始まる。続いてその西南 に未央宮を建てたが、城壁城門が築かれた
( 考古』1996年‑10)
前漢長安城 『
のは二代皇帝恵帝の時代であった。
漢長安城の城壁は東面以外は屈曲してい る。城門は各面三門ずつ、計十二門。門道 は三条ある。王宮は未央宮が皇城であり、
長楽宮が宮城の役割を果たしていた。市は 城内北西部にあり、宗廟社稷は城外ではあ るが中軸線である横門大街をはさんでそれ ぞれ左右に存在した。
漢の長安城は城壁が不整形であるため、
、 、 、
一見非計画的ではあるが 城門の数 市場 宗廟社稷の位置が『周礼』に一致する。お そらく恵帝が城壁を建てる際に『周礼』を 意識して相当の市街整理を実施したものと 思われる。
4.曹魏鄴都北城
鄴城は三国魏が築き、後趙、前燕が都し た北城と、東魏が築き北斉が都した南城に 分けられる。
鄴都北城は、東西七里、南北五里の長方 形である。城門は北面二門、南面三門、東 西それぞれ一門の計七門である。門道は三 条ある。王宮は中央北詰にあり、北の後宮 が宮城、南に政務や朝会を行う皇城的役割 を果たす朝政殿、文昌殿が存在する。市や
宗廟社稷の位置は不明であるが、東西を結 ぶ線で区切られた北側は苑地と王宮、威里
(貴族、王族の居住区)であるので、必然 的に城内南側に存在したと思われる。
鄴都北城は王宮や市場の位置、城門の数 が『周礼』と異なっている。しかし曲阜で も漢長安城でもあった中軸線を、鄴都北城 ではより強く意識し、左右対称となってい るのは忠実に『周礼』を模したとも解釈で き、王宮が北部中央に位置するのも王都と しての威厳を高めるためと考えられる。
( 考古』1990年‑7)
鄴都北城 『
5.北魏洛陽城
北魏洛陽城は、東西六里、南北九里で俗 に九六城と呼ばれた漢魏晋の洛陽城を継承 しこれを内城として、さらに東西二十里、
南北十五里の城壁を築き、外郭城としたも のである。城門、門道は外郭城では不明で
、 、 、
あるが 内城では北面に二門 南面に四門 東面に三門西面には北魏時代に一門増え四 門の計十三門。門道は三条ある。内城内に は宮域が中央北寄りにあり、宮域北側に宮 城、南部に政務を行う太極殿、つまり皇城 が置かれていた。市は内城外に三市あり、
二市が銅駝街を中軸線として、ほぼ左右対 称になっており、残りの一市は銅駝街の延 長線上の洛水にかかる橋のたもとに置かれ ていた。宗廟社稷は内城内の銅駝街をはさ んで左右に置かれていた。
北魏洛陽城は宮城皇城の配置、門道の数 程度しか『周礼』と一致しない。しかし、
( 考古』 年 ) 北魏洛陽城 『 1993 -3
王宮部分である内城は北に偏り、中軸線を 意識した設計は鄴都北城から受け継いだも のであるといえる。
6.鄴都南城
鄴都南城は、北魏が分裂した後、東魏の 都として先にあった鄴城の南に建てた都城 で鄴都南城と呼ばれている。
南城は、東西六里、南北八里六十歩で、
城門は東西南面に四門ずつ、計十二門(北 面にも三門あるが北城の南門であるから数 にいれない)あり、門道は三条ある。朱明 門大街を中軸線として整然と左右対称にな
。 、
っている 王宮は中央北部に片寄っており 南に皇城、北に宮城が置かれている。宗廟 社稷は王宮前の朱明門大街をはさんで左右 にあったと思われる。市の場所は不明であ る。鄴都南城も鄴都北城や北魏洛陽城と同 じ く 中 軸 線 を 意 識 し 、 左 右 対 称 に な っ て い る 。 そ し て 宮 城 皇 城 の 配 置 、 城 門 や 門 道 の 数 は
『 周 礼 』 の 都 市 計 画 も 参 考 に し て い た と 考 え る べ き で あろう。
( 考古』 年 ) 鄴都南城 『 1997 -3
7. 結論
、 ここまで唐以前の主な都城を見てきたが 各都城がいかに『周礼』を意識したもので あり、歴代の都城から受け継いだ伝統が強 かったのかということがわかった。唐の長 安城も城門数、宮城皇城の配置、宗廟社稷 の位置は『周礼』と一致し、市の位置は北 魏洛陽城の市の配置と似通っており、中軸 線を意識して左右対称とする設計も鄴都北 城から続くものである。
これまで異端の面が強調されてきた唐の 長安城だが 『周礼』の都市計画を意識し、、 長い伝統の上に培われた都城であったので ある。
●図出典文献
・ 禮記図 『欽定礼記義疏』「 」
・宿白「隋唐長安城和洛陽城 『考古』1978‑6」
・田岸「曲阜魯城勘探 『文物』1982‑12」
・劉慶柱「漢長安城的考古発現及相関問題研究−記念 漢長安城考古工作四十年 『考古』1996‑10」
・中国社会科学院考古研究所鄴城考古工作隊「河北臨 章県鄴北城遺址勘探発掘簡報 『考古』1990‑7」
・中国社会科学院考古研究所洛陽漢魏城工作隊「北魏 洛陽外郭城和水道的勘査 『考古』1993‑7」
・ 河北臨章県「 鄴南城遺址勘探与発掘 『考古』1997‑3」
講演会記録
●
古代学協会公開講演会
◆
(東京大学大学院人文社会系研究 安斎正人
科)
「現代考古学のパラダイムの転換」
( ) 2001年5月18日 金曜
参加者
林大智 石川県埋蔵文化財センター( ) 酒井中 福( 井県埋蔵文化財センター) 佐々木花江(金沢大 学埋蔵文化財調査センター)佐々木達夫 藤井純 夫 中村慎一(金沢大学文学部) 武内律志 高橋文 酒井康介 松永篤知 柳生俊樹
西森正晃 湯尾和広(金沢大学大学院)田中範裕
(金沢大学学生)
◆古代学協会公開研究会
『北陸の平安時代 山間寺院を探る』 2001年6月9日(土曜)
古代学研究所・古代学協会)
江谷 寛(
「山間寺院の特質」
(京都国立博物館)
久保智康
「平安時代の山間寺院と越前の遺跡」
(金沢大学埋蔵文化 佐々木花江・岩田安之
財調査センター)
「金沢大学角間遺跡・一乗寺跡の発掘」
(石川県埋蔵文化財センター)
垣内光次郎
「南加賀の山間寺院遺跡」
(石川県埋蔵文化財センター)
松山和彦
「能登・北加賀の山間寺院遺跡」
(小矢部市教育委員会)
久々忠義
「越中の山間寺院遺跡」
(金沢大学文学部)
笠井純一
「文献が語る平安時代の葬送」
討議:古代山間寺院の歴史的諸問題
( )
司会・佐々木達夫 金沢大学文学部 参加者
江谷寛(古代学研究所) 久保智康(京都国立博物 館) 松村知也(福井市立郷土歴史博物館)古川 登(福井県清水町郷土資料館)前田清彦 深川義 之(鯖江市教育委員会)野沢雅人 持田透 酒井 中 赤沢徳明(福井県埋蔵文化財センター)久々 忠義 大野淳也 伊藤隆三(小矢部市教育委員会) 北林雅康 津田耕吉(七尾市教育委員会)小嶋芳 孝 垣内光次郎 松山和彦西野秀和 白田義彦 立原秀明 加藤克朗 布尾幸恵 熊谷葉月 田村 昌良 西田昌弘 湯川善一(石川県埋蔵文化財セ ンター)戸澗幹夫(石川県立歴史博物館)田嶋正 和(加賀市教育委員会)布尾和史(野々市町教育 委員会)望月精司(小松市教育委員会)宮下幸夫
(小松市博物館)堀大介(朝日町教育委員会)
唐川明史(石川考古学研究会会員 江口友子 田
( )
中一穂 田中暁穂 新潟県埋蔵文化財調査事業団 吉村正親(京都市埋蔵文化財研究所)釘谷紀(佛 教大学学生)中川あや(京都大学学生)壱岐一哉 津田耕吉 村上雅紀(同志社大学学生)山野之義
(金沢市議会議員)山本幸子(古代学協会北陸支 部)佐々木花江 岩田安之 井貫昇平 加茂幸彦 辻森由美子(金沢大学埋蔵文化財調査センター) 笠井純一 佐々木達夫 高浜秀 藤井純夫(金沢 大学文学部)多だ正芳 柳生俊樹 西森正晃(金 沢大学大学院 大浦亮介) 田中範裕 岩田和子 金( 沢大学学生)