19世紀中葉におけるアメリカ土地問題
その他のタイトル The Problems of Land Tenure in American Agriculture, 1840‑1860
著者 東井 正美
雑誌名 關西大學經済論集
巻 7
号 3
ページ 243‑271
発行年 1957‑06‑01
URL http://hdl.handle.net/10112/15664
243
一九
世紀
中葉
にお
ける
アメ
リカ
土地
問題
︵東
井︶
このような急速な発展は︑通常﹁農業革命﹂と呼ばれている︒
五五
このような資本主義的農業の発達 なわち十五年間に二倍以上に︑増加した﹂ 衆知のごとく︑アメリカ農業における資本主義の発達の画期は︑リカ資本主義的農業は︑南北戦争を画期として︑やはりこれを画期となし飛躍的に発達したアメリカ資本制生産一
﹁南北戦後の十力年般の巨大な進歩と平行して︑急速に発達したのであった︒アメ
9
カのセンサス資料によれば︑間 に
︑ 農 家 戸 数 は 一 八 七
0
年の二六六万から一八八0
年の四0
0
万九千に増加し︑その耕地面積は四億七七0
万約一億三千万エーカー増加した︒
一九
0
0
年の五七三万七千戸となり︑その耕地面積は︑四億三千万エーカー増加して︑一九
00
年の八億三八六
0
万エーカーとなった︒最も重要な食糧作物︵小麦︑裸麦︑トーモロコン︑燕麦︑一八六六年の五五六一万三千エーカーから一八八
0
年の一億二0
七六万三千エーカーえ︑す︵エ
ル・
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ツ︑
そし
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﹁最
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論の
諸問
題﹂
八六
ー七
頁︶
︒ 大麦
︶
の作
付面
積は
︑
に︑農家総数は︑二倍以上増加して︑ エーカーから五億三六一
0
万エーカーえと︑ ︱ ヽは し が き
﹁南
北戦
争﹂ 東
一八
年から一九七
0
00
年の期間 ︵一八六一ー五年︶であった︒アメ
井
一九世紀中葉におけるアメリカ土地問題
正
美
244
一九世紀中葉におけるアメリカ土地問題︵東井︶
﹁アメリカ型の道﹂と腑灸されるにいたったのは︑
決 の 実 験 と 革 命 の 今 後 の 道 程 に 関 す る 論 争 と が 党 の 関 心 の 中 心 点 に 押 し 出 し た 時 代
﹄ り高次の﹃第二の問題﹄即ち︑
田盛太郎編﹁変革期における地代範疇﹂︑二九四頁︶ことにはじまる︒
﹁二つの道﹂の指摘をえて︑ ﹃二つの道﹂
綱領」(-九
0
七•一―|―二)において、レーニンは︑こう書いている︑ ﹁第一革命(‑九レーニンが﹁先の﹃発展﹄において正しく解決した問題︵即ち︑ロジア農業における資本主義的発展の必然性︶のほかに︑よ
の理論を提起した﹂︵上原信博﹁﹃土地国有論﹂と﹃二つの道﹄の論理﹂︑山
そ の 理 論 的 大 成 が な さ れ た
﹁ 一
九
0
五ー七年のロシア革命における社会民主党の農業
﹁闘争の核心は︑ロシアにおける農奴制の残存物のもっとも顕著な体現物︑そのもっとも強固な支柱としての︑農奴制的巨大
土地所有である︒商品経済と資本主義との発展は︑絶対的な不可避性をもつて︑この残存物の始末をつける︒この点では︑ロシ
︑︑
︑︑
︑
アのまえにあるのはただひとつ︑プルジョア的発展の道だけである︒
だが︑この発展の形態は二つありうる︒農奴制の残存物は︑地主経営の改造という道によっても︑また︑地主的巨大土地所有
の廃止という道によってもー—すなわち、改良の道によっても、改革の道によっても、消滅しうる。プルジョア的発展は、大き
な地主経営が先頭に立つて︑これがしだいにますますブルジョア的になっていき︑農奴制的搾取方法をブルジョア的搾取方法に
よってしだいにおきかえていつても︑すすむことができる︒また︑プルジョア的発展は︑小農民経営が先頭に立つて︑これが革
命的手段によって社会という有機体から農奴制的巨大土地所有という﹁こぶ﹄をとりのぞき︑そのあとで︑巨大土地所有なし
に︑資本主義的農業経営制度の道を自由に発展していつても︑すすむことができる︒
プルジョア的発展の客観的に可能なこの二つの道を︑われわれはプロシア型の道とアメリカ型の道と名づけよう﹂
﹁全集﹂︑邦訳︑二三四ーニ三五頁︑以下頁数は邦訳のそれを示す︶︒ 0五年十二月ー—_「革命の頂点」)を契機に、
︵レ
ーニ
ン
﹃発展﹄第二版の序文(‑九
0
七・七︶における
︵﹁発展﹂一五頁︶に至って﹂
﹃農民運動が起り而して瓦解した時代︑ストルィピンの農業問題解 ま ︑
~,
﹁アメリカ型の道﹂と膳灸されている︒
五六
2 4 . 5
ここ
で︑
レーニンが︑地主的なブルジョア的農業進化に対比して農民的なプルジョア的農業進化を︑
の道と名づけたゆえんは︑アメリカ農業における資本主義の発展が︑生産力のもつとも急速な発展︑住民大衆にとつ
てもつとも良い労仇条件︑自由な農民が農業企業家に転化するもとでのもつとも急速な資本主義の発展であったか
らである︒レーニンは︑雑誌﹃ナウーチノエ・オボズレーニエ﹄(‑九
0
0年︑五ー六月号︶で︑次のように書いている︒
﹁農民が解放にさいして土地を手に入れることが多ければ多いほど︑またその土地が安価であればあるほど︑ロシアにおける
資本主義の発展はますます急速に︑ますます広範に︑また︑ますます自由に進行し︑住民の生活水準はますます高いものとな
り︑国内市場はますます広範となり︑生産への機械の適用はますます急速にすすむ︑
リカの経済的発展にますますよく似たものとなるであるう﹂
このように︑レーニンが︑農民的なブルジョア的農業進化をアメリカ型の道と名づけたのは︑
カ資本主義的農業の発展を︑
とで一般に可能なかぎりでの︶生活条件とを意味する﹂ものと考えていたからにほかならない︒
レーニンが︑農民的なブルジョア的農業進化をアメリカ型と名づけたゆえんは︑単にこのことだけにと
どまるものではない︒というのは︑アメリカ資本主義的農業の発展が︑
的手段によって社会という有機体から農奴制的巨大土地所有という﹃こぶ﹄をとりのぞき︑
所有なしに︑資本主義的農業経営制度の道を自由に発展していつても︑すすむことができる﹂農民型のブルジョア
一九世紀中葉におけるアメリカ土地問題︵東井︶ 的進化そのものであったからにほかならない︒ ﹁生産力のもつとも急速な発展と︑
五七 そのあとで︑巨大土地 ﹁小農民経営が先頭に立つて︑これが革命
しか
し︑
農民大衆のもつとも良い︵商品生産という環境のも
巻︑
二三
六頁
︶︒
︵﹃
非批
判的
批判
﹂﹁
全集
﹂︑
第三巻︑六六0
ー一
頁︑
﹁全
集﹂
第十
レーニンがアメリ 一言でいえば︑ロシアの経済的発展はアメ アメリカ型
246
二
︑ 南 部 奴 隷 制 の 粉 砕
は︑暴力は農奴主的地主にむかつてもちいられた︒彼らの土地は分割され︑土地所有は封建的大土地所有からブル
ジョア的小土地所有に転化しはじめた︒ところで︑
のための︵すなわち資本主義のための︶新しい土地制度をつくりだすというこの役割をはたしたものは︑﹃アメリカの
黒い割替﹄︑四
0
年代の地代撤廃期成運動(A nt
, Ri
en t , B ew eg un
g) ︑
⁝⁝
の嚢
業綱
領﹂
︑﹁
全集
﹂︑
第十
三巻
︑二
七三
頁︶
︒
かくのごとく︑これら南部奴隷制の粉砕と﹁アメリカの黒い割替﹂︑四
0
年代の地代撤廃期成運動︑ホームステッド法などが︑南北戦争以降のアメリカ資本主義的農業の急速な発展のための道を切り開き︑
民的なプルジョア的農業進化を強力に押し進めえたとレーニンは考えたのである︒
では
︑
これら南部奴隷制の粉砕と﹁アメリカの黒い割替﹂︑四
0
年代の地代撤廃期成運動︑ホームステッド法がアメリカ資本主義的農業の急速な発展︑または農民的なブルジョア的進化を押し進めえたとなすのは︑
論理的構造によるのであろうか︒以下︑
の地代撤廃期成運動︑ この点について︑南部奴隷制の粉砕と﹁アメリカの黒い割替﹂︑
ホームステッド法を︑主としてレーニンの著作を中心として︑追究してみたい︒
南北戦争は︑南部農業に壊滅的な打撃を与えるとともに︑四
0
0
万の奴隷を解放して︑南部の奴隷制プランテイション制度に終止符をうった︒ここに奴隷が解放されて自由人となり︑この解放奴隷
l l 自
由人
は︑
アメリカでは資本による土地所有の改造は︑
一九
世紀
中葉
に油
ける
アメ
リカ
土地
問題
︵東
井︶
﹁南部諸州の奴隷所有者経営にたいして暴力的に行われた︒ここで
アメリカの大量の﹃自由な﹄土地にたいして︑新しい生産様式
ホームステッド法などであった﹂
一体いかなる ︵
﹁一
0九七年
アメリカにおいて農
五八
四
0
年代一方
で︑
自由
な賃
247
四年︶しているのである︒ ま
た︑
五九
︵一 八六
労佑者として都市工業労佑者となり︑他方では︑土地を購入して自営農民となり︑あるいは土地を借地して小作農
となり︑資本制農業への可能性が与えられたのであった︒事実︑農業借地は︑﹁緩慢に︑不可避的に︑南部の棉プラ
ンテイションにおける奴隷に代った︒⁝⁝農業の再建の諸条件のうちから︑かぎられた数ではあるが︑自営農民的
土地所有
(h om e ow ne rs hi p)
が幾分加速された︒たいていの場合に地主は彼の所領地の全部︑または一部を売却し
ようとした︒⁝⁝黒人小作農は︑実に︑正当な条件で小農場を購入しえた︒奴隷解放後数十年間には︑ジョージア
の黒人農だけでも︑三三八︑七六九エーカーの農地を購入しえた︒︑他の南部諸州でも︑黒人農業者はだいたい同一
速度で農場所有権を獲得しつつあった﹂︒
南北戦争の経済史的意義は︑
( W .
B .B ぽ
e l l , Fa rm Te na nt ry i n t h e U .
S .
,
1 9 2 1 ,
P
P .
166 1 6 7 )
1 ︒このように︑解放奴隷11自由人は︑自営農民となりえたし︑また借地農となりえたのである︒
アメリカ産業資本の確立にあるが︑その他面において︑南北戦争は白人・黒人共に
平等の権利を有すべきことの主張の是非をめぐつて開始されたから︑この戦争目的の成否は︑南部の土地問題の解
決如何が決定するものである︒黒人も貧窮白人も自由な土地所有者となりうるようになって︑始めて彼らの間にも
政治的︑経済的平等は樹立されるのである︒そしてこの方向への動きはあった︒この方向への措置としては︑叛乱
者の所有する動産の没収を規定したものであって土地には適用されなかったとはいえ、第一•第二次没収法があり、
これも実施に至らなかったとはいえ土地に関して戦争末朝に至って南部自作農地法案が下院で成立
︵高 村象 平︑
﹁アメリカ資本主義発達史﹂︑
レーニンは︑このような南部奴隷制の粉砕による諸結果を次のごとく評価している︑﹁小経営の革新は資本主義の
もとでも可能である︒奴隷所有者の巨大土地所有を革命的にうちくだき︑資本主義のもつとも急速でもつとも自由
一九世紀中葉におけるアメリカ土地問題︵東井︶
一三 七頁
︶︒
248
の農
業綱
領﹂
︑
﹁全
集﹂
第十
三巻
︑二
九一
頁︶
︒
諸要素が地主経営︹切取地を除いて︺にも農民経営にも形成されているという︶を正しく規定し乍ら︑
︵﹁
一七
0七
年:
・⁝
ここでレーニンは︑奴隷所有者の巨大土地所有を革命的にうちくだくことが︑資本主義のもつとも急速でもつと
も自由な発展の条件をつくりだした︑と考えている︒これは︑いかなる事理によるものであろうか︒
一九
0
三年の﹁切取地﹂綱領において︑同綱領が当時﹁発展の方向﹂︵ロツアにおいて資本主義的農業の﹁発展の程度﹂を過大
評価したため﹁一切の古い農業制度との闘争という任務﹂でなしに﹁農業制度のなかにある古いものの残存物との闘
切取地返還要求に止まる﹁歴史的見通し﹂の誤りをおかしたのである︵上原信
この誤りの訂正は︑︑︑︑︑︑︑︑︑古い.農業制度との闘争という任務を提起しなければならない︑という点にあった︒地主経営の清掃のかわりに︑
︑ ︑
の廃絶が提起されたのである﹂︑と述べ︑これにすぐつづいてこう述べている︒ ﹁前掲論文﹂︑山田編﹁前掲書﹂︑二九八頁上︶︒レーニンは︑﹁一九
0
五ー一九〇七年の⁝⁝農業網領﹂において︑︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
﹁農業制度のなかにある古いものの残存物との闘争という部分的任務のかわりに︑いつさいの
そ
、「だが、…•••この訂正は、われわれのうちの多くのものに、ロシア農業における資本主義的発展の程度にかんするわれわれの新
しい規定を最後まで考えぬかせるにはいたらなかった︒いつさいの地主の土地の没収が歴史的に正しいものであったとすれば—それはたしかにそうだったーーこれは、資本主義の広範な発展が新しい土地所有諸関係を要求しているということ、地主経
営のなかにある資本主義の朋芽は︑革新された小経営を土台とする資本主義の広範で自由な発展の犠性に供せられることもあり
うるし︑また供せられるにちがいないということを︑意味していた︒地主の土地の没収という要求をとりいれるのは︑資本主義 博 ︑ 争という部分的任務﹂︑すなわち︑
レー
ニン
は︑
な発展の条件をつくりだしたことによってアメリカは︑
一九
世紀
中葉
にお
ける
アメ
リカ
土地
問題
︵東
井︶
そのように小経営を革新したのである﹂ 六〇
2 ‑ 4 9
のも
とで
小規
模農
業経
営を
革新
する
可能
性と
必要
性と
を承
認す
るこ
とで
ある
﹂
レー
ニン
は︑
を挙げているのである︒このレーニンの序列を意図的に整理すれば︑地主の土地の没収
11
地主経営の廃絶は資本主義のもとで小規模農業経営を革新するということ︑奴隷所有者経営を革命的にうちくだき資本主義のもとで小経営
を革新するということとになり︑
が自ら分明するであろう︒この土地私有の廃止こそは︑プルジョア社会で可能なかぎりでの最大限のものであり︑
そして︑農業へ自由に資本をもちいるのを妨げ︑資本が︱つの生産部門から他の生産部門へと自由に移動するのを
妨げる障壁を除去することである︒
かく
して
︑
この﹁小経営の革新は資本主義のもとでも可能である﹂例として︑
ここからレーニンが︑
レーニンは︑南部奴隷制が地主経営を廃絶するという論理的見透しのもとに︑奴隷所有者の巨大土地
所有を革命的にうちくだき︑資本主義のもつとも急速でもっとも自由な発展の条件をつくりだした︑と述ぺるに至︑︑︑̀︑︑︑︑ったのである︒ここに見られるのは︑土地国有の論理構造である︒
しかしながら︑この南部奴隷制の粉砕は︑歴史的には︑南北戦争後の再建期の挫折︑
いわば﹁プロシャ型﹂の制覇は︑アメリカ南部において農民的なプルジョア的農業の進化ではなくむしろ地主的な
ブルジョア的進化を押し進めることになったのである︒南部再建には二つの方向があって︑
に改造しようという方向であり︑もう︱つの方向は旧南部を改良的に改造しようという方向であった︒結局︑改良
の道
が制
覇し
︑
ついに一八七六年﹁南部の権力は︑ふたたび完全に旧プランターの手にかえった︒それと併行して︑
プランテイション制度は︑北部資本の参加をもえて︑奴隷制度の廃墟の上でクロッ︒ハー小作制プランテイション制
一九
世紀
中葉
にお
ける
アメ
リカ
土地
問題
︵東
井︶
六 一 ︱つは旧南部を革命的 アメリカ南部奴隷制の粉砕の例
アメリカの奴隷制の粉砕を地主経営の廃絶とみていたこと
いいかえれば改良的方向
I I
︵同
﹁全
集﹂
︑第
十三
巻︑
二九
0ー 一頁
︶
d
250
に於
ける
資本
主義
﹂一
〇九
l ‑
︱︱
頁︶
と︒
かくのごとく︑南部農業における資本主義の発達は︑南北戦争後奴隷制がなく遺制化したところの﹃純粋にロシ
ア的な﹄雇役制度︵クロッバー制プランテイツョン制︶
であ
った
︒
﹁奴隷廃止以後︑南部においても徐々に大土地所有が分解をおこしてき
たこともまた否定されがたい︒そして︑奴隷制的大土地所有の分解によって南部は︑﹁自由な﹂西部ーーlそこでは土
地は全然もしくは殆んど無償で農園
( H o m e s t e a d )
として分譲されたのであるがー│ーとともに︑自由な土地の供給源
れは
︑
それ
が︑
﹁典
型的
に口
.シ
ア的
な︑
一九
世紀
中葉
にお
ける
アメ
リカ
土地
問題
︵東
井︶
度へと︑再編成されたのである︒南部の︒フランター寡頭権力は︑黒人たちを︑プランテイション強制労仇につなぎ
黒人法
( B l a c k c o d e s )
といわれるさまざまな黒人差別法その他の非民主的法律および方法を固定
した
﹂︵
菊地
謙一
︑
﹁ア
メリ
カに
おけ
る前
資本
制遺
制﹂
︑五
一頁
︶︒
制大農場が粉砕されたが︑南北戦争後﹁再建﹂期の挫折︑ このように︑南部においては︑南北戦争によって奴隷
いいかえれば改良的方向11
いわ
ば﹁
︒フ
ロシ
ャ型
﹂の
制覇
は︑
奴隷制にかえてクロッ︒ハー制プランテイション制を出現せしめた︒そして解放された黒人は︑再び元通りの劣悪な
条件で︑奴隷からクロッ︒ハーヘ形態転化したけれども本質は以前と変らず︑プランテイションヘ制縛されていった
第一分冊アメリカ合衆国における資本主義と農業﹂(‑九一七年︶において︑
いて
は︑
こう指摘する︒この小作制度の特質につ
それは﹁封建的制度の経済的残存物と竜末も異なるところがない﹂
︵南
部農
業の
後進
性︶
︒け
れど
も︑
のである︒この制度︑この農民について︑
﹁奴隷制度の経済的残存物﹂であり︑
﹃純粋にロシア的﹄な雇役制度﹂であること︑そして黒人小作農については︑そ
︑︑
︑︑
「主として半封建的、或いはーーん経済的関係においては—ー
i
半奴隷的屈役農民である。」(直井武夫訳、「農業の経済的基礎の上になされ︑北部および西部にくらべて緩慢的
レー
ニン
は︑
﹁農業における資本主義の発展法則に関する新しき資料︑ とめるために︑ 六
251
一九
世紀
中葉
にお
ける
アメ
リカ
土地
問題
︵東
井︶
ごとく次のごとく指摘している︒ ﹃合衆国には︑他の先進諸国に存在しない二つの事情があって︑
それが農業における企業数の増加を非常に強め︑かつ促進している︒それは第一に︑南部においては奴隷を所有し
た大土地所有の分解が今日にいたるまでおこなわれ︑黒人のみならず白人の農民もまた﹃プランター﹄
(P
la
nt
er
)
の
土地を少しづつ﹃買戻し﹄つつあることである︒第二は︑広大な面積にわたる・占有されない・自由な土地が⁝⁝
︵直
井武
夫訳
︑
に︑南部における︒フランテイションの分解は︑資本主義的発展の一契機であった﹂︵白杉庄一郎︑
説﹂
︑三
四八
︶︒
かく
して
︑
レー
ニン
は︑
力的に行われた︒ アメリカでの資本による土地所有の改造は︑
ここでは︑暴力は農奴主的地主にむかつてもちいられた︒彼らの土地は分割され︑土地所有は封
建的大土地所有からプルジョア的小土地所有に転化しはじめた︑﹂となした意味が明確に理解されるのである︒そ
ロシアにおける闘争の核心である農奴制的巨大土地所有の廃止という二つの適理論における農民型の
十九世紀中葉におけるアメリカ土地問題
│
﹁ ア メ リ カ の 黒 い 割 替
﹂
︑ 四
0
年代の地代撤廃期成運動︑アメリカ資本主義的農業の急速な発展のための資本による土地所有形態の改造について︑
﹁アメリカの大量の﹃自由な﹄土地にたいして︑新しい生産様式のための︵すな
︱ ‑
︑
ブルジョア的農業進化と結びつき︑軌を一にするものである︒ してこれは︑
すべての希望者に分譲されつつあることである︒﹄ と
なっ
.て
きた
ので
ある
︒
レーニンはいつている︒
'
.
. , . ,
ホームステッド法ーーー
﹁西洋経済史研究序
レーニンは︑前出した ﹁南部諸州の奴隷所有者経営にたいして暴
﹁農
業に
おけ
る資
本主
義﹂
︑二
五六
頁︶
と︒
たしか
2/52
ーニ
ンま
︑
'
レ 以
下︑
﹁アメリカの黒い割替﹂︑
(1
)
地代撤廃期成運動の歴史的意義を︑次のごとくくりかえして述べてい わち資本主義のための︶新しい土地制度をつくりだすというこの役割をはたしたものは︑﹁アメリカの黒い割替﹂︑四
0
年代の地代撤廃期成運動︑ホームステッド法などであった︒﹂と︒では︑レーニンは︑アメリカでの資本による土地所有形態の改造について︑特に﹁アメリカの黒い割替﹂︑四0年代の地代撤廃期成運動︑ホームステッド法な
どを指摘したのであろうか︒そこで︑レーニンによって指摘されたこの﹁改造﹂は︑どのような経済的背景におい
て起り︑どのような歴史的意義︹実践的課題︺をもつていたのであろうか︑が問題となる︒
この問題を︑主としてレーニンの著作を中心として︑究明し︑具体的に明らかにしよう︒
地 代 撤 廃 期 成 運 動 の 歴 史 る ︒
﹁ドイツの共産主義者ヘルマン・クリーゲが一八四六年に︑
︵傍
点レ
ーニ
ン︶
︒
アメリカにおける土地の均等割替を説いたとき︑
ルクスはそのえせ社会主義のエス・エル的偏見と俗物理論とをあざわらったが︑しかし彼は︑アメリカにおける生
︑︑
︑︑
︑︑
産力発展の利益︑資本主義の利益を進歩的に表現する運動として︑アメリカの土地所有反対運動の歴史的意義を評
.︑
︑
価し
た﹂
﹁﹃
フペ
リョ
ード
﹄︑
一九
0
五年︑第一五号︵ジュネーヴ︑四月七ーニ十日号︶の論文﹃アメリカの﹁黒い割替﹂についてのマルクスの所論﹄︹本全集︑第八巻︑三二三ー三三
0
ペー
ジ︺
︒︵
メー
リン
グ編
︑マ
ルク
ス・
エン
ゲル
ス著
作集
︑第
二
ナショナル
•9フすーマー巻︶︑マルクスは一八四六年にこう書いた︒﹁われわれは︑アメリカの全国改革協会派の運動を︑歴史的に正当なも l九世
紀中
華に
おけ
るア
メリ
カ土
地問
題︵
東井
︶
六四
マ
253
争﹂について︑ のとして完全に承認するものである︒この運動が達成しようとつとめている成果は︑なるほど一時的には近代プル
︑︑
︑︑
︑
一般に土地ジョア社会の工業制度を促進するであろうが︑しかしそれはプロレタリアの一運動の結果である点で︑
︑
︑
︑
︑
所有にたいする攻撃である点で︑とくにアメリカの現存の諸関係のもとでは︑それ自身の帰結によってかならず共
産主義にまでおしすすんでいくことを︑われわれは知つている︒クリーゲは︑ニューヨーク在住のドイツ人共産主
義者たちといつしよに地代撤廃期成運動
(A nt
, Rie
nt
‑B ew eg un g)
に参加したのであるが︑運動の内容にたち入ろとし
もないで︑これだけの事実にその誇大な空文句をはりつけている﹂︵以上︑﹁一九〇七年の⁝⁝農業綱領﹂︑﹁全集﹂第十三
巻︑
二七
三ー
四頁
︑傍
点筆
者︶
︒
・クリーゲの俗物性を容赦なく暴露した︒﹁一八四六年にマルクスはアメリカのエス・エルであるヘルマ
マン・クリーゲはアメリカのために真正の黒い割替を提案し︑この割替を﹃共産主義﹄と呼んだのである︒
スの弁証法的で革命的な批判は︑この俗物的な教義の殻をはぎとつて︑
ヽヽ・ヽヽヽ
動﹄という健全な核をとりだした﹂以上のごとく︑
レー
ニン
は︑
マルクスに従って︑﹁
アメリカにおける生産力発展の利益︑資本主義の利益を進歩的に表現する運動として﹂評価しているのである︒で
﹁アメリカの黒い割替﹂︑地代撤廃期成運動の歴史的意義を何に故にかく評価したのであろうか︒
そこで︑先ず地代撤廃期成運動の歴史を見てみよう︒
この地代撤廃期成運動は︑ はレーニンは︑ ﹁アメリカの黒い割替﹂︑地代撤廃期成運動の歴史的意義を︑ a
(「一九
0
七年の••…•農業網領」、一九
世紀
中葉
にお
ける
アメ
リカ
土地
問題
︵東
井︶
六五
﹁全
集﹂
第十
三巻
︑二
七九
ー八
0頁 ︶
︒
アメリカ史上では︑﹁反地代戦争﹂
(A nt i , R en
t , W
ar )
といわれている︒この﹁反地代戦
ェドガー・ゼイ・ラウアー
(E dg ar
J•
La ue r)
とヴィクター・ハウス
( Vi c t or Ho us e)
の綾述をかり ﹃土地所有への攻撃﹄と﹃地代撤廃期成運
マル
ク
ヘ
}レ
254
取立ては︑最大の不平不満をまきおこした︒なおさらに︑当時その法律は︑地主に︑遅滞の支払い賠償として小作農の所有物を
取り上げ売却しうる﹁差押え権﹂
( th e r ig h o f t " d i st r e ss "
)
を与
えて
いた
︒
最初の︒ハトローンたちーーそのうちスティヴン・ヴァン・レンスラー
(S g ph en Va n R e ns s e la e r )
がおそらく最もよく知られ
ているがーは︑ し
てい
た︒
農が借地権を売却した場合には︑ 一九世紀中葉におけるアメリカ土地問題︵東井︶﹁
歴史
家は
︑
一八
四ー五年間をニューヨーク北部諸州におけるいわゆる﹁反地代戦争﹂の時代として想起する︒アルバニ00
ー︵
と ba ny ) ︑
コロ
ンビ
ア (C ol um bi a)
︑レ
ンセ
ラー
(R en
s 器l a
e r) ︑ゼネシー
(G en es ee
)︑シャートクワ
(C ha ut au qu a)
︑デラウェア
e
el aw ar e)
︑スコアリー
(S ch oh ar ie
)など諸カウンティにおけるぼお大な土地は植民時代およびリ︒ハビリック
( th e Re pu bl ic )
ク イ ー ル
の最初の年代において︑﹁︒ハトローン﹂( th e
"
pa tr oo n"
)
という称号で衆知となった少数の人たちによって集積されたのであっ
た︒そしてその﹁パトローン﹂は︑逐次︑主として条件付き証券制
( co n d it i o na l de ed s)
︑もしくは永代借地制
( pe r p et u a l l ea s e s)
—いわゆる「リース・イン・フィー」(合
'lea 咎 s
i n ー~のもとに、これらの制度で多くの権利が保留され、色々な義務をfee")
農業者ー借地農から強請しえたのだが︑土地を農業者に割当てたのであった︒
以上のごとき義務は.しばしば︑封建的イギリスにおいて広く行きわたつている一種の性質を帝びていた︒それらの義務は︑
多くの実例において︑はじめに課せられたときにはかなり軽かったと思われるが︑諸条件が変化するにつれてそれらの義務は︑
非常にやつかいなものとなりまた苛酷となってきた︒その主たる理由は︑借地規定によれば︑︒ハトローンは︑借地のどのような
条件たりといえども万一小作農が不履行をなせば︑たとえそれがいかに些細なものであろうとも︑小作農がなしたであろう全て
の改善を含めて所有地
( th e pr op er ty )
を取りもどしたり︑奪うであろうからである︒これに加えて︑たいていの借地は︑小作
﹁罰
金﹂
(a
" f i ne "
としてその価格の四分の一もしくは契約された高を得るべきであると規定 )
﹁四
分の
一販
売﹂
("
qu ar te
r, s
a le s
" )
︑
小作農の永い間の滞りを何らの訴訟なくしてそのま
4
にしておく寛大な人たちであった︒て描写せば︑次のごとくである︒
「十分の一販売」(^•
t en t h 's a l es "
)
等々として知られているかくのごとき強制
六六
しかし彼らの嗣子
255
た
—-.-
ちは
︑
そのやりかたにおいてより苛酷であった︒そして一八三六年からわれわれは︑北部諸カウンティにおける土地事務所
ツ ェ リ フ
(l an d o f f i c e s )
! , J .
対する色々な攻撃と破壊︑およびパトローンたちに代つて法的手続を執行しようとした執行官やその他の人た
ちに対いする組織された反対などを知る︒武装隊︑軍隊︑市民軍が︑アルバニーカウンティの執行官を支援するために一八四0
一︑
五00
ないし一︑八
00
人の︑小作農およびその同調者たちが結集した︒年に召集された︒そしてこれらに反対するために︑
流血は︑この事件では僅かに避けえたが︑その次の年に起った暴動
( r i o t s an d v i ol e n ce )
には︑その結果流血︑
その騒動に参加したと認められた多の人たちの投獄などがもたらされた︒総督ウィリアム・エイチ・シーワード
(G ov er no rs Wi ll ia m H . S ew ar d)
のメセージが一八四0
年にシイラス・ライト
( S i l W a s ri gh t)
が一八四五年に︑ジョン・ヤング
(J oh n
かくのごとき暴動について鮮明な説明を興えている
("
Me ss ag es fr om th e Governors,"
d i e t ed b y Ch ar le s S . L i n co l n , V ol .
I V ,
P P .
774
ー7 7 6 ,
8 2 2
18 4 1 ;
V o
l . V,
P
P .
1 3 9
11 5 0 ;
H is to ry o f N ew York,by l l E i s H. Ro b e rt s , V ol .
I I ,
P . 6 2 9 . )
小作農たちは︑当局に対するレジスクンスによることはもち論のこと立法によって彼等の状態を改善しようと努めた⁝⁝︒歴
史は次のことを記録している︒
﹃一八四五年の議会
( th e l eg i s la t u re )
は︑サミュエル・ゼイ・ティルデン
(S am ue l J . Ti ld en )
を議長とする議会
( th e a ss e
,
mb ly )
の委員会に現れたところの︑小作農の代表者たちによる請願ではん濫した︒﹄
( ^' L e ga l an d J u di c i al Hi st or y o f N ew Yo rk
`•(1911),
V ol .
I l ,
by J . H am pd en Do ug he rt y,
P .
1 6 4 . )
同じ歴史はわれわれに次のことを語る︒
『ぼう大な数のヨーマンを彼等の自園から追い出すような、苛酷な借地契約および借地諸条件を履行しようとなす•••…企ては、
反地代争論
( th e a nt i , r e nt controversy)をどたん場に追い込んだ··…•
﹃歴史上たびたびくりかえされたので︑
公衆の反感が起った﹄︒ 一面が厳重な法律上の権限の範囲内にあったとはいえ︑
一九世紀中葉におけるアメリカ土地問題︵東井︶
Yo un g)
が一八四六年に︑
六七
生命
の損
傷︑
彼等の主張に対して圧倒的な