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明 治 法 制 史 最 終 講 義

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Academic year: 2022

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(1)明治法制史最終講義 −主として法典争議についてー. 中. 村. 吉. 三. 郎. さて︑いよいよ︑これでおしまいということになりましたが︑前回の最後に申した通り︑明治二十三年︵一八九〇. 年︶中には︑憲法をはじめ︑いわゆる﹁六法﹂が︑一応全部︑出揃った次第がございます︒そこで︑ここにご覧にい. れるような﹁大日本六法全書﹂︵明治二十三年十一月金桜堂発行︑縦約+八センチ・横約十ニセンチ・厚約五センチ︶も出回る. ようにはなりました︒. ところが︑民法と商法とを除いた他の諸法は︑それぞれ施行されたというのに︑なぜか民法と商法とだけが︑その. 施行に﹁待った﹂をかけられ︑都合七年半もの延期の末︑手直しなどではなくて初めから作り替え︑やり直しをする 羽目となったことの事実の経過については前回︑ざっと申しあげた通りであります︒. それで今回は︑なぜこのような事態にたちいたったのかの真因といったようなものを探ってみたいと思います︒そ. 一. こで︑従来よくいわれてきたように︑仏法学者ボワソナアドの指導による日本の民法典と独法学者・ニスレルの指導 明治法制史最終講義︵中村︶.

(2) 早法五九巻一・二・三合併号︵一九八四︶. 二. による日本の商法典との間の解釈運用上︵一般法特別法関係︶の困難さとか︑商法典公布︵明治二十三年四月二十六. 日︶より施行日︵同二十四年一月一日︶までの短さとか︑翌二十五年︵一八九二年︶二月十五日施行の第二回総選挙. における松方内閣の露骨な選挙干渉への第三帝国議会での野党︵自由民権党︶のなりふりかまわぬ政府攻撃の具に供. せられたためだとか︑また︑これに同調するかのように英法系法律学校︵東京専門学校・英吉利法律学校︶の学生と. 仏法系法律学校︵明治法律学校・和仏法律学校︶の学生との問の法典施行に伴い予想される国家試験等における有利. 不利の問題がそれぞれを団結させ確執を生むにいたったとか︑あるいは以上の諸因のうち一つが主因であるかのよう にいうむきもある︒. さらには︑世界史的観点から︑十九世紀初頭にまでさかのぼり得るドイッにおける法典論争と比較してみる視座も. あるようだ︒すなわち一八一四年︵文化十一年︶︑ナポレオン退位を機に膨濤としておこったドイッ統一の機運に︑. ハイデルベルク大学教授ティボーが︑﹁ドイッ統一民法の必要について﹂を発表したのに対し︑ベルリン大学教授サ. ヴィニーは︑﹁立法並に法律学に関する現時の任務﹂を発表して反論した︒サヴィニーにょれば︑法は︑言語風俗の. 如く︑民族精神それ自体の発露であって民族とともに成長し︑民族が特性を失うや死に絶えるもので︑逆に統一法を つくることで民族の統一をはかることは筋違いだというわけである︒. ところで︑この論争が真にけりがつかないうち︑ベルリン大学教授プフタによるパンデクテン法学が興り︑次いで. ・マニスティーク対ゲルマニスティークの時期を経て︑実に一世紀になんなんとする準備期をついやした後︑一九〇. 〇年︵明治三十三年︶一月一日より施行されたドイッ民法典は完成された次第である︒それと︑せいぜい十年にもみ.

(3) たない法典争議を経ただけの日本の民法典︵並びに商法典︶を比較してのはなしは︑いささか︑牽強附会の嫌いがあ るまいか︒. それはさておき︑いささか前置きがながすぎたようだが︑これから単刀直入︑日本における法典争議の真因解明に うつろう︒. そうなると︑何より這般の事情を最も端的にいい当てている東大教授穂積八束の﹁民法出テテ忠孝亡フ﹂を引き合. いにだすのが一番手っ取り早いようである︒ところで︑この論文は︑明治二十四年︵一八九一年︶八月二十五日発行. の﹁法学新報﹂第五号に掲載されたものでありますが︑冒頭﹁我国ハ祖先教ノ国ナリ家制ノ郷ナリ権力ト法トハ家二. 生レタリ⁝⁝氏族ト云ヒ国家ト云フモ家制ヲ推拡シタルモノニ過キス﹂にはじまるこの論文は︑いわゆる﹁私法家﹂. のいう如く日本の法制を個人本位のものとしたならば︑﹁所謂君子国ノ美俗﹂は枯れはて﹁唯学校ノ修身教課書﹂に. だけ︑わずかにその余命を保つだけにもなりかねまいと結んでいる︒たしかに事態の核心を衝いてはいるが︑何より その題目の奇抜さのゆえに︑絶妙な警句として当時一世を風靡したものである︒. そもそも︑穂積八束が︑﹁君子国﹂日本の︑ついの牙城と頼んだ﹁学校ノ修身教課書﹂の基調をなすものは︑いう. までもなく︑明治二十三年︵一八九〇年︶十月三十日に漢発された﹁教育二関スル勅語﹂であり︑しかも︑同年十一. 月二十九日の﹁大日本帝国憲法﹂施行の日を一ヶ月後にひかえての漢発は︑明らかに憲法施行への最後の備えであっ たことなどは︑しばしば講義でも言及したところでありました︒. 三. たしかに﹁大日本帝国憲法﹂は︑第一条﹁大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス﹂︑第四条﹁天皇ハ国ノ元首︵こ 明治法制史最終講義︵中村︶.

(4) サウラソ. 早法五九巻一・二・三合併号︵一九八四︶. カウモソ. 四. うべの意︶ニシテ統治権ヲ総撹︵すべにぎるの意︶シ此ノ憲法ノ條規二依リ之ヲ行フ﹂と天皇主権の原則を明定して. コウエイ. ノコ. いるばかりでなく︑﹁告文﹂︵神に告げ奉る文︶には︑これらの憲法の条規は︑﹁皇祖︵天照大神または神武天皇︑あ. るいは双方︶皇宗︵鞍靖天皇以下の歴代の天皇︶ノ後喬二胎シタマヘル統治ノ洪範︵大法の意︶ヲ紹述︵うけつぎと. りもつの意︶スルニ外ナラス﹂とあるように決して新規に定まったものではなく︑つまり憲法に明記されることによ. って天皇主権の原則︵国体の原理︶が定まったというよりも正に︑﹁はじめに神︑国体をつくりたまえり﹂というわ けのものでありました︒. だからといって︑これで天皇制は安泰︑国体は護持されると安心していたわけでもない︒それに曲がりなりにも憲. 法施立に伴い議会制も実施されよう︒そこで急遽︑皇室財産を確立させ︑議会における皇室費削減論などに怯えない. ですむ手立てを講ずるなどの︵すでに帝国憲法第六十六条の手も打っているが︶︑いわば対症的処置もなされたが︑. 右大臣岩倉具視のいったように﹁憲法ノ明文モ其力ヲ保ツ為メニハ﹂︑ただに﹁海陸軍及警視ノ勢威ヲ左右二提ケ凛. 然トシテ下二臨ミ民心ヲシテ戦傑スル所アラシム﹂だけでも足らず︑より抜本的な方策を立てる必要がある︒. ここに完壁の抜本策として登場してきたのが﹁教育二関スル勅語﹂である︒これを小学校から大学までの教育の基. 本的指針にすえて︑﹁若しこれに違うものあらば︑これを我国民というべからず﹂とまですれば︑向後いやしくも天. 皇に対し弓を引くような日本国民は金輪際︑生れないようにもできるわけで︑正に国体︑憲法の条規を恒久的に担保 する抜本塞源策といえよう︒. それにしても︑当時の日本の社会の現状は︑二百余年にわたる徳川幕府の厳しい文教政策︵前にも講義で申しあげ.

(5) た﹁五倫ノ道﹂︶を経て士農工商各層それぞれ︑それなりに優れて道徳的倫理的であったと思われるのに︑なぜ殊更. に勅語を漢発してまで新たに国民必須の倫理規範を勅定しなけれぽなちなかったのか︒しかも︑とくにこの時機にお いてである︒. 維新前の日本の社会は︑諸侯の領地別︵諸国︶に分断され︑単一国家観︑一体観が希薄だった︒そこで折角の﹁忠﹂. も﹁孝﹂も︑せいぜい己の仕える主君︑主人への﹁忠﹂︑己の肉親への﹁孝﹂にとどまり︑とても天皇へは直接にも. 間接にも届かなかった︒この現状では︑とても天皇を核心とする全国民の一枚岩的統合はおぼつかないと考え︑何と. か全国民の﹁忠﹂と﹁孝﹂とを直接天皇に届かせ直結させるための︑ひと工夫をしたのではあるまいか︒. ここに浮上したのが単一民族単一国家観で︑これが達成のため︑己の死後は己と血を分けた者に祭られたいとの日. 本人の素朴な心情にもうったえ︑大胆な歴史︵?︶の捏造までしての壮大な血縁の擬制をやってのけたわけであろ. う︒すなわち︑全国民は悉く皇祖を始祖︵総本家︶とする子孫で︑お互いどうし遠近の違いはあっても親類縁者の間. 柄︵血縁︶にあるとの構想である︒そこで天皇への﹁忠﹂は︑全国民共通の﹁親の親﹂たる天皇への﹁孝﹂でもある. ということになり︑この巧みなオーバーラップ︵二重写し︶により﹁忠孝一本﹂化は見事に成りたつわけである︒. それだけにまた︑﹁克ク忠二克ク孝二﹂ということは︑ただに全国民必須の倫理規範︑﹁教育ノ淵源﹂たるにとどま. らず﹁我力国体ノ精華﹂でもあったわけで︑いわば﹁家﹂制度の天皇制的再編成︑つまりは︑帝国憲法を担保するも のでもあったわけであります︒. 五. だとすれば︑日本の一切の法規範もすべて︑これに整序整合されねばならぬ筈である︒とくに明治二十三年公布の 明治法制史 最 終 講 義 ︵ 中 村 ︶.

(6) 早法五九巻一・二・三合併号︵一九八四︶. 六. 民法も到底すんなり施行されるわけにはいかなかった真の理由は︑ここにある︒この民法は︑ともかく仏大革命の洗. 礼を経た仏民法を︑何といっても下敷きに仏法学者ボワソナアドの監修によって成った個人主義を基調とする近代法. 的民法ということになれば︑右の日本国民必須の倫理規範に究極においては乖離するものだからである︒. 残り時間がだんだん少なくなったようなので以下︑いささかはしょって申しあげれば︑その後明治二十七年︵一八. 九四年︶から同二十八年︵一八九五年︶にかけて日清戦争︑独露仏三国干渉などのこともあって︑明治二十九年︵一. 八九六年︶四月二十七日法律第八十九号をもって日本の法学者︵梅謙次郎・富井政章・穂積陳重︶のみにより新たに. 起草された﹁民法第一編第二編第三編﹂が公布され︑次いで同三十︸年︵一八九八年︶六月二十一日法律第九号をも. って﹁民法第四編第五編﹂も公布され︑同年七月十六日より民法全編の施行となった次第であります︒. ここでは時間の関係で︑新旧民法典の緻密な民法学的比較検討は割愛しますが︑ただ︑法典調査会民法起草委員穂. 積陳重︵前述の八束の兄︶が︑大正元年︵一九一二年︶その著︑︑↓箒Zo毛一8き①器Ω<出O&Φ.︑のなかで︑新. 民法典を﹁前近代的要素と近代的要素︑東洋的要素と西洋的要素とを包蔵し︑いわば両者をつなぐ鎖のようなもの﹂ と自賛していたことだけにふれておきます︒. はたしていう如く融合困難あるいは不可能の要素を新民法典は︑見事に調和させた傑作だったといえようかーと. くにその第三編︑第四編においてー︒しかしその答えを得るに︑そんなに待たされることはなかった︒. 大正六年︵一九一七年︶九月二十一日寺内正毅内閣のもとに設置された﹁臨時教育会議﹂なるものが︵大正六年・. シア十月革命︑大正七年米騒動︶︑大正八年︵一九一九年︶一月十七目原敬内閣に提出した﹁建議﹂によれぽ︑﹁国体.

(7) ノ本義ヲ明徴ニシ﹂︑﹁我国固有ノ醇風美俗ヲ維持﹂するためには︑﹁法律制度ノ之二副ハサルモノヲ改正﹂する必要. があるとされている︒これをうけて内閣は︑同年七月九日﹁臨時法制審議会﹂に︑﹁醇風美俗二基ツク民法改正﹂を. ﹁諮問﹂している︒真っ先に民法が槍玉にあげられたのも皮肉である︒これでは折角の民法典編纂やり直しも甲斐が なかったともいえよう︒. ところで日本の民・商法は辛くも日本の資本主義の確立期にはまにあったともいえる︒したがって民・商法の運用. も資本の論理に忠実であるわけで︑つまり︑民法として資本の論理が貫徹すればするほど︑それだけ血族制的支配の. 論理は萎縮させられるわけである︒これが︑民法改正が真っ先に︑あるいは再び矢面に立たされた所以である︒とは. いえ︑民法に対して血族制的支配の論理︵﹁家﹂制度︶の貫徹を求めるのは︑どだい無理な注文なので︑その証拠に. は︑﹁臨時法制審議会﹂が﹁決議﹂の形式で︑大正十四年︵一九二五年︶公表した﹁民法親族編中改正ノ要綱﹂も︑. 昭和二年︵一九二七年︶公表した﹁民法相続編中改正ノ要綱﹂も︑いずれも﹁家﹂制度志向型とはいえても︑決して ﹁家﹂制度貫徹型とはいいがたかったことからもわかろう︒. そして︑この決着がついたのは︑﹁日本国憲法﹂に整合のための昭和二十二年︵一九四七年︶十二月二十二日法律. 第二百二十二号をもって公布された民法第四編第五編の全面的改正法の翌二十三年︵一九四八年︶一月一日よりの施. 行であった︒いうまでもなく事態は全くの逆転であったが︑こうしてみると︑歴史というものは︑いろいろあっても 畢寛︑とどのつまりは︑行くところへ行きつくものではある︒. 七. さて︑いよいよ時間もつきたようだが︑最後に一言︑私は昭和十三年︵一九三八年︶当法学部を卒業しましたが︑ 明治法制史最終講義︵中村︶.

(8) 早法五九巻一・二・三合併号︵一九八四︶. 八. なぜか学生の頃より明治の時代という地層を掘りおこすことがすきでしたが︑その関係か昭和二十四年︵一九四九. 年︶新制大学法学部発足とともに設置された﹁明治法制史﹂の開講以来の担当者となり以来今日まで三十五年間も延. 々と︑何の役にもたたない講義を続けてまいりました︒何の役にもたたないと申しあげましたが︑正直のところ私自. 身すら近頃では﹁明治法制史﹂が実際の役にたってほしくはないと思うようになりました︒昨年昭和五十八年︵一九. 八三年︶の盛夏に八十二歳でお亡くなりになった俳人中村草田男の有名な句に︑﹁降る雪や明治は遠くなりにけり﹂. というのがございますが︑この句は昭和六年︵一九三一年︶の作だそうですから︑今日では︑さらに一層明治は深沈. と遠退いているわけです︒私もそうだと思いますし︑ぜひそうあってほしいと思います︒それが間違っても﹁明治は. 近くになりにけり﹂などということにだけは︑なってほしくないことを祈って︑この講義をおわります︒. 昭和五十九年︵一九八四年︶一月十三日.

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