沖縄の人形芝居 : チョンダラー芸能と念仏歌
著者 池宮 正治
出版者 法政大学沖縄文化研究所
雑誌名 沖縄文化研究
巻 2
ページ 143‑190
発行年 1975‑10‑20
URL http://doi.org/10.15002/00013112
沖縄の人形芝居
││チョン
ダラl
芸能と念仏歌ー
ー ー
池
宮 正 治 人
形 芝 居 と し て の チ ョ ン ダ ラ
l芸能
チョンダラーという芸能は即人形芝居ではない︒人形芝居の正体も明瞭ではないが︑
その周辺にある芸 能の性質・成り立ちともに複雑で︑研究としてはむしろこれからに負うところが大きいものと思われる︒
もう一つ断っておかなければならないことは︑人形芝居としてのチョンダラーは︑すでに滅んだ芸能だ
ということである︒
したがって人形芝居としてのチョンダラ
l
の研究は︑過去の文献による以外にない︒
例によってそれも多くあるのではなく︑非常にかぎられている︒
しかも︑詞章は口承によったため︑伝承 者と採録者の理解と時間の経過によって流動し︑
その資料の解明もまた容易なことではない︒発表された これまでの資料は︑すでに人形芝居としてのチョンダラーが消滅してからのものである︒
ただ消滅したと
143
言っても︑採録者たちは人形芝居を過去に経験した世代である点で︑彼らの採録した詞章および報告は︑
人形芝居を知る貴重な手がかりである︒
人形芝居が巷間で演Jぜられたのはいつ頃までであろうか︒詳しいことはわからないが︑だいたい明治三
︒年代までと見てよいだろう︒チョンダラl芸能の中でまずこの人形芝居の部分が脱落した︒それを明治
三
0
年代と見るのである︒人形芝居を脱落したチョンダラl芸能は︑辛うじて詞章のみを残して︑彼らの本貫である首里郊外安仁屋村に伝えられた︒
その一部は安仁屋村からいったん首里の寒水川芝居に入って役者の芸能になり︑さらにそれが︑沖縄本
ぎ の ぎ み き と あ わ ぜ
島北部の宜野座村宜野座︑中部の旧美里村泡瀬にもたらされて︑現在まで伝承されている︒これらは珍しく
たんめi伝来年がはっきりしている︒前者は一九
O O
(
明治一三ニ)年に新渡久地の爺という人が伝来したといわれ︿雑
誌﹃
南島
研究
﹄第
九号
当間一郎﹁沖縄の人形芝居1泡瀬のチョンダラI﹂一九六八年二一月)︑後者は一九
O
六︿明治三九)年故喜屋武盛武氏がもたらしたものと一言われる(琉球政府文化財保護委員会編﹃文化財要覧﹄一九五
八年
版)
︒
その他︑﹃勝連村誌﹄(一九六六年)によると︑勝連村平安名では︑一八八三(明治二ハ)年に
地頭代を
務めたことのある浜村刻雲上が首里から習得して来て以来︑毎年村踊りで演︑ぜられたという︒いまは消滅
してしまったが一八九七(明治三
O )
年七月の村踊りで︑京太郎役を演じた故盛小根武太氏から
﹁勝
連
41 tb '
よか 1drhw﹂の著者が
一九
四
(昭和二ハ)年に採録したものが載せられているいずれも人形芝居を欠き︑
明治になってから中部以北にもたらされている
ではいつ頃チョンダラl︿京太郎﹀は沖縄へ伝来されたのだろうか︒﹃琉球国由来記﹄巻四﹁京太郎﹂の
項に
︑
不ド
可ド
考也
︒﹂
とあ
る︒
﹁当国京太郎︑准ニ依侃一者︒昔日︑京都ノ人渡来︑教v之乎︒又京小太郎ト云者︑其業ヲ作リタルヤ︑
かいらいチョンダラーは低価(くぐっ)になぞらえたものであり︑
京都の人がやって来てそ
の業を教えたものだろうか︑あるいはまた京の小太郎という者がその業を創作したのか︑
わか
らな
い︑
と
いうものである
一七
OO
年頃までの認識を伝えていると思われるが
﹂の二つはそれほど変化すること
なく伝承されたものと思われる︒
たとえば京都人渡来説は︑宮良当壮氏が一九二四(大正二ニ)年安仁屋
村で採録した伝来説話にも見られる︒
京都の街近くに一つの岩窟があって︑そこに貧乏な夫婦と︑その問に生れた子供と三人で暮してゐた︒
夫はその妻が除りに美人なので︑
その側を離れて野良で仕事をするのを厭がってゐた︒併しいつまでも
かうしてゐては食にも困るので︑丹念して漸く妻の絵姿を拍き︑
そしてそれを畑で自分の仕事をする目
の前に棒を立て斗掲げ︑それを見ながら仕事をするようにしてゐた︒かうした日が幾日か続いた︒所が
或日突然旋風が襲って来てその絵像を捲き騰︑げてしまった︒夫の落胆は一方ではなかった︒
各を蒙つては大変だと直にお上へ差出した︒お上ではこれを御覧になって非常なる御機嫌︑そして仰せ
所で
︑ その絵像は幸か不幸か︑京のお城の庭中へ墜ちた︒役人はそれを拾ひ取って驚
喜した︒併しお
られるのにはこんな絵があるからには天下何処かにかういふ美人がゐるに相違ないと︒それで早速家
来共を四方へ走らせて京の内外を探さしめられた︒所が却々見付からなかった︒時に例の岩窟の中では 妻と子供とが食事をしてゐた︒そこへ捜索人が踏み込んで来て︑子供を残して妻女を凌って行った︒妻
145
の絵像を失って落胆しながら畑から戻って来た夫は︑その由を聞いて狂はんばかりに驚き且つ悲しんだ︒
146
併しお上の仰せとあってはどうすることも出来なかった︒今まで命と頼んでゐた妻を奪ひ去られた夫は︑
日夜苦心して遂に人形芝居と万才とを案出し︑そしてせめてもう一度だけでも妻の顔を見たいと思ひ︑
これを子供にも仕込んだ︒
愈々正月元日のあした︑父子は京のお城へ乗り込んで目出度くその新案の芸当を演じて︑轟くばかり
の拍手と賞讃とを浴びせられた︒この時妻(今はお上の側女)は早くも自分の夫であることに気が付い
チ 胃 プ タ
ルてゐた︒併し口に出す訳にも行かないので︑角袋といふものを作り︑その底の方に数多の小判を入れ︑
その上の方にお米を盛って小判を隠してやった︒その時夫は美々しく着飾った天女のやうに麗はしくな
った妻の姿を見てたマ拝脆するばかりであった︒
その後父子は陵々お城ヘ行った︒その都度妻は角袋を作って例のやうに小判を入れてやった︒幾度か
前一なる中に到頭発覚して︑父子をこの土地に置くことはお上の御為でないと︑遂に島流しに処せられる
そのおが即ち沖縄島である︒それ以来彼等はチョlト・タラl
こと
にな
った
︒
(京
都太
郎)
とい
はれ
て︑
人形芝居や万才や念仏を唱へ︑鉦叩きなどをして各地を廻り歩いた︒
(﹃
沖縄
の人
形芝
居﹄
)
同様の説話は玉代勢法雲︑山内鹿彬︑比嘉盛井氏らの後述の著書論文に見られる︒伝承者の渡来と芸能
の由来をつなげて考えるのに都合のよい説話で︑﹁京都ノ人︑渡来︑教之乎﹂というのは︑
これを指すも
のであろうしかし官良氏自身︑一九五九(昭和三四)年一二月に述べておられるように(﹃沖縄タイムス﹄
ー ︐
﹁沖 縄
の人形芝居のことからi
チョ ンダ ラ
ーは
大和
下り
の芸
能﹂
)︑
これ
は
﹁絵
姿女
一周
伝説
﹂
とよばれる説話類型
で︑古く﹁万葉集﹂の巻一六の三八
O
七番歌などに見られるものである︒つまり︑渡来説話はチョンダヲl特有のものではなく︑ましてや史実などではないことがわかる︒ただ本土において古くから伝えられて
いた絵姿女房説話が︑チョンダラl伝承者の聞に古くから保存されていたということは︑消極的ながら本
土とのつながり︑本土から沖縄へ南下したものであることを証している︒この点はむろん各詞章にも窺え
るところで︑詳細は後に述べるとおりである
さて
︑京ノ小太郎の創作というのはどうか︒﹂れはたとえば組踊﹃万才敵討﹄︿一名︑高平良﹀に見られ
るのではないか︒親の仇を狙う二少年が万才の姿に身をやっして仇に接近し︑﹁此の二人や京太郎頭どや
よる﹂︿此の二人は京太郎の頭だ﹀と名乗って演じたものの中に︑﹁京の小太郎がつくたんぱい︑つびふげや
れ手龍尾すけて︑板切目穴き乗り木なる﹂
︿京
の
小太郎が作ったのか
底抜
け︑
破れ手簡に尾をつけ
て︑板切れに日投きをした乗り木(馬)
なる・﹀とあって︑チョンダラ
l芸能の一つである﹁馬舞者﹂
ゃんざいつ守つけて﹁万才講者や馬舞者﹂とも言っており︑人形芝居こそ見えてなをはやしたらしいくだりがある
いもののチョンダラl芸能がこの当時︑万才︑馬舞者︑京太郎と︑
一速
に
なっ
ていたことがわかる︒
つま
沖縄の人形芝居
り︑チョンダラiH万才の演ずる滑稽な馬鮮者の振りの創案者を︑
﹁京
の小
太郎
﹂
かと問うている
や は
り彼も京都渡来の小太郎でありチョンダラl集団を個人的な人格として把握したものであって︑さきにあ
げた渡来説話が下敷きになっていることはいな
めな
い︒
しかしながら︑﹁京の小太郎﹂という言い方が︑
ここでしか使われていないことは注意
して
よい
し︑
組問の中で二少年によって演ぜられるチョγ
ダラ
l芸
147
能らしい四曲も︑組踊から独立して舞踊化し﹁高平良万才﹂として今日でも演ぜられるが︑はたしてこれ
がチョンダラl芸能であるかどうかも問題である︒文献にはたまたまこれらは含まれていないが︑
チョ
ン
ダラ
l芸能だと思われたらしい形跡があり︑音楽家の山内康彬氏も含めてそのように考えている一人であ
る︒いずれにしても︑人形芝居としてのチョンダラlの渡来は︑肝腎の人形が把えにくいということもあ
って
︑
その始期を明らかにすることは困難である︒
だが︑島津入りご六
O
九年)以前に沖縄に渡来したとすることで諸家の見解は一致している︒それがどのような経路でと言った細かい話になると全く知られて
︑句
︑︑
︒ し中
jh
L
らも突地調査し︑ 折口信夫氏はチョソダラlに関して有力な考え方を提出している︒
チ ヨ ン ダ
ラ﹁京太郎と言ふ戯曲は︑元︑内地のお伽仮名草紙にあったものに相違ない︒
一九
二一
(大
正一
O )
年 折 口 氏 は 白 し ら
L
・お
ちくぼ・京太郎と並び称せられて居た位だから︑いづれ︑継母・継子の話だったのだらう︒継母・継子の
話は︑平安朝からあるが︑男の子を苛める話は︑鎌倉時代から斗しい︒此話を︑かなり早い時代││薩摩
ネ ソ プ
ア
ヒ ジ
リの琉球攻め以前ーーに︑念仏聖の徒が︑人形を舞はしながら︑持って行った︒それが人気を集めたので︑
後々までも︑人形舞はしの事を京太郎︑と言ふ様になったのであらう︒彼等が持って照る歌を見ると︑念
仏系統の歌l11寧︑口説風の歌ーーが多い︒外には︑高才の様なことほぎの歌︑それから︑寓才のくづれ
の様なものもある︒どうしても︑念仏聖の持って行ったものと言ふことが考へられるのである﹂(雑誌﹁民
俗芸術﹄﹁偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道﹂一九二九年四月全集三巻所収)と述べておられる︒
し ら
L
・お
ちくぼ・京太郎とならび称された継子いじめ諒の主人公の一人が︑チョンダラーだというのである︒
その
物語を人形芝居に仕組み︑念仏聖たちが持ち込んで来た︑とするのが︑折口氏の考え方だ︒私自身たしか
また折口氏の考えは︑全体として正鵠を得ていると思うが︑本書に収録された詞章から
見るかぎり︑若干説明が困難なところがある︒人形を使う部分の詞章は︑現在︑不明な箇所が多いが︑ど な考えはないが︑
うやら継子いじめ諮ではないらしい︒継子いじめ諒のはっきりしたものは﹁継母念仏﹂である︒この詞章
は︑後に詳述するように︑奄美にも︑沖縄本島各地︑八重山各地に伝えられているが︑かならずしも人形
をともなっていない︒念仏系の詞章だけが南西の諸島に漂泊したらしい︒
八重山には一八七二(明治四)年に筆写された﹃念仏集﹄(現琉大図書館所蔵)がある︒それには
﹁親
の御
恩﹂
﹁ま
tA親﹂﹁天神世界﹂﹁梅のだんぎ﹂﹁阿の鐙﹂﹁春咲く花﹂﹁ちゃうじゃの流﹂があるが︑そのうちの
三一
編ま
でが
︑
チョンダラl芸能の詞章の中にあり︑念仏歌とチョンダラlの関係がぬきさしならないもの
であることがわかる︒これら念仏系詞章を念仏聖が持ち込んだことに異論はないが︑継子いじめ諒が当初
から人形芝居としてのチョンダラlの主題であったとするには︑若干説明を要するものと思われる︒つま
り当初継子いじめ諒を中心にした人形芝居が︑人形を脱落して現在見られる念仏系詞章(継母念仏)にお
に見られる意味不明瞭な詞章のものにだけ限定されるようになった︑といった︑幾筋かの説明をした方が きかわったか︑あるいは他所から入った﹁継母念仏﹂系の念仏詞章が︑人形芝居を追い出し︑人形は本書
わか
りや
すい
︒
しかし︑宮良当壮氏が﹃沖縄の人形芝居﹄で図示したような親子の人形などを見ていると︑
折口氏の考えがきわめてすぐれたものであることがわかる︒
本土においては︑念仏系の芸能がさまざまに発展し︑周辺の芸能を統合し︑鉱散しながら︑そのうねり
は地方にまで及んだ︒その一部は流浪の芸能者となって︑
あるいは戦乱をさけつつ︑民衆の耳目に入りや
すい
弥陀の名号と︑若干の芸能をたずさ
え
て ︑
はるばる市海の品々にまで︑幾重にもわたって渡来したで
あろうこ
とは
︑
容易に想像できる︒仏教的
な内容をわかりやすく人形に仕組
んで
︑ 民衆に見
聞させる
のに
︑ 人形は大きな力を発揮したであろう︒人形を﹁仏﹂とよぶのは︑方
言
では古いことだが︑それはやはり人
形が仏だっ
たか
らであろう︒それが︑仏教の縁のうすかった雨品では︑ついに念仏盟たちの芸能も風化さ
れて︑仏教的な色彩も色徳せ︑純子いじめの悲しい物語の主人公京太郎(チョンダラ
l)
が
︑ 人 形 芝 居 と
その
芸能者の代名詞になったとも考えられる︒
とこ
ろで
︑
チョ
ンダ
ラ
l詞章には︑念仏系詞章の
他に︑大半は﹁御知行の歌﹂﹁念願の文句﹂﹁京の下 り ﹂
﹁馬舞者
﹂﹁
鳥刺し舛﹂のように︑いわば万才系の机育を述べるものである︒
万才 系詞章と念
仏
系詞章
とは本来別々の系にあるものであっ
て ︑ それが沖縄ではチョンダラi芸能に共有されている︒当初からニ
者携行
して
伝来
したのか︑それとも二者が沖縄社会で疎外されるようになり︑
一屑を
ょせあって郊外の特殊 部落に肘住して合一するようになったのか︑考察を深めていく必要がある︒私は後者に傾いている︒念仏
者も
門付
の祝
一一
一口
を述
べる
万才講者も︑もと
もとは後
世のように賎民
あっ
かいされたものではあるまい︒都
市の封建化(精神的に)が進むにつれて︑
芸能者が没落
して底辺に組み込まれ︑二者とも首里久場
川 の 行
脚村に集められ︑
ますます特殊な部務を形成
し︑民衆に多くの偏見を与えることになったと思う︒山内盛
彬民はたびたび熱心に︑チョンダラl芸能者が︑島津入りのさい︑島津のスパイであったと述べているが︑
これもその偏見の一つで
ある︒京太郎伝来説話
とともに︑現在の
零落を合理解
したもので
ある
︒
スパイが
定住したのも不思議だが︑戦勝した側の彼らが︑王府から蝉圧されて賎民化したとするのもおかしい︒彼 らの芸能が多く本土渡来であったところから︑気の毒な彼らの境遇に追いうちをかけるように︑このよう
ないわれのない容疑をかけたのであろう︒
人形芝居の構成
いまは滅んでしまった人形芝居の椛成を知るには︑先学の報告によって組立てるほかないのである︒こ
の点で詳しいのは︑官良氏の﹃沖縄の人形芝居﹄と︑それに対する批判の形で書かれた比嘉盛昇氏の論文
ふだん地方廻りをする時には︑
てら時代に首里で行われた本式のチョンダラーは︑三個の寺とよばれる人形箱を持っていたという︒ で
ある
︒
その比嘉氏の論文によると︑一個の人形箱を持っていたが王府
三ケ寺は三人の人形廻はしが持って三方面に向ひて︑人形を鮮はしめたらしいが︑中央の寺は中之寺
と称し︑他の二ケ脇寺よりも一等上位に泣かれ︑其の椛迭も立派で且つ上品であった(中略)︒
寺の構造は長さ二尺五寸︑幅一尺七寸︑深さ五寸位の台箱の四隅に︑四本の円柱を立て︑破風型の屋
根を梢へ︑中央に宝珠︑両端に鋭を立てること︑恰も琉球式の禽の如きものであった︒寺の総高さは二
尺七寸で︑三方は蓮華を書いた幕を垂れ︑その下から両手を入れて人形を扱ったのである︒台箱の中に
は多くの人形を入れ︑うたの進行に従ひ︑順次人形を出して踊らせたものである︒
(﹃
沖縄
朝日
新聞
﹄﹁
沖縄
の人
形芝
居を
読み
て﹂
一九
二五
年四
月)
151
しかし︑大正期の採録段階では地方廻りのように一筒の寺を持ち(と言っても人形芝居は消滅してい たわけだが)ゴ一人を一組にしたものであったことが︑宮良氏の調査からも知られる︒あらたまった時三つ
の寺を出したと
= 一 一
口わ
れる
が
これも基本的には三人と児てよい︒2忠太郎の歌Lを見ると︑﹁口上念仏﹂を
除いて︑すべて三人を一組にした芸能であることでもわかる︒この三人を一組にして︑屋形のある﹁ティ
ラ﹂
を︑
西宮のくぐっのように首にかけ︑各地を巡業したものである︒
寺が三つ出る正式な場合の人民は七人で︑比嘉氏は﹁三人は人形箱持︑一二人は補助役者︑一人は太鼓打
であ
る︒
﹂(
前掲
論文
)
といい︑折口氏は﹁わざ三人・太鼓打三人・荷持ち一人で︑寺即人形を踊らせる桁を
三つ携へた相である
﹂(
﹁沖 縄採
訪手
帳
﹂) と︑ 内わ けの 役
割は相違しているがやはり七名だった︒
チョンダラ!のコスチュームは︑中之寺が赤地の大柄の琉球形付に︑同じ模様の袴を着︑同じく赤地で
模様だけ異なった陣羽織を着て︑頭には紫色の頭巾で︑風折烏帽子のような形にしたものをかぶり︑
一 扇 子
を持つ︒一扇子は﹁一扇子舞﹂の時の一扇子であり︑﹁馬舞者﹂の時の鞭であり︑﹁鳥刺し舞﹂の時の竿になる小
道具である︒太鼓打と他の補助役者は︑白地に赤の模様で︑柄は中之寺と同様で︑同じく袴と陣羽織を着︑
頭には山一一のエピス頭巾をかぶったという(以上比嘉論文)︒本土の万才のコスチュームと思われるが︑
当 時
の人にとっては異形の姿にうつったであろう︒そして︑時には仮而をかぶって舞った︒仮面については宮
良氏の著書に図が示されていて参考になる︒
このおかしげな一団は︑毎年正月になると︑祝言をのベ︑チョンダラ!芸能を披露して歩いたのであるP
主府時代の首里にあっては一定の格式のようなものがあって︑問得大君御殿では元旦から二
O
日まで毎日招じ入れられ︑王子家は二
O
日までに七回︑按司家は五回︑総地頭家はゴ一回︑脇地頭家は一回がきまり だったという︒首里のチョンダラーは二0
日間︑城下の貴紳への奉仕に忙殺されるのを例とした︒むろん士以下の庶民も他のチョンダラーを呼び︑一年の息災を願ったのである︒
その他︑定期のものとしては︑旧七月の伶祭や︑春秋の彼岸に︑念仏歌をうたい歩いて︑
﹁二
一盟
乃至
一銭
﹂
の鳥目をもらい︑
また臨時には︑家
・基の落成祝賀に
︑
喪家の念仏
・鉦
叩
きに︑
首里以外の郡部からもよ
ばれ(佐喜真興英﹃シマの話﹄一九二五年五月)︑鳥目・物品などをもらったりした︒
したがって彼らは︑京太 郎を上演するが故にチョンダラーであり︑万才をするが故にヤンジヤヤーであり︑念仏歌をうたうが故に
ニンプチャーまたはニンプ!とよばれ︑彼岸ごとに訪問するが故にフィンガナ!とよばれた︒
しか
も︑
H
常は乞食をして歩いたので︑
しばしばムヌクlヤ!ともよばれた︒すべてチョンダラl芸能者の属性から
出た名称で
ある
︒
﹂れとは別に
チョンダラ!ということばは地方によってさまざまな意味を派生させている︒沖縄本島
。〉
中 部
‑tlr
?li で は
チョンダラ!と言えば肩車のことである︒チョンダラl芸能者が寺を一周から吊して歩い
たことから来たものであろう︒
山内氏の報告によると︑首里・那覇地方であろうか︑﹁醜いほど派手な服
装をしている人にいう軽蔑語﹂(﹃沖縄文化論叢﹄四︿文学・芸能編﹀﹁沖縄の人形芝居﹂)として使われるとい
う︒八重山では﹁長ばなしをする﹂﹁ばか話をする﹂﹁道化る﹂という意味にも使用されているという
須 藤 利
﹁八重山の穂利祭﹂雑誌﹃南方民族﹄一九四
O
年三
月﹃
南島
覚書
﹄所
収)
︒
人形をフトゥキ︿仏ゾということはすでにのべたが︑
そ れ を 遣 う こ と を フ ト ゥ キ
・ マ
lシl
︿仏
舞わ
し﹀という︒舞はしはあくまで舞はしであって
芝居でないことも︑﹁沖縄の人形芝居﹂を理解するさい
あらためて断っておかなくてはならなくなったのではないかと思う︒本土で人形の舞いが芝居になったの は︑浄瑠璃人形の出現をまたなくてはならなかったからだ︒げんみつには沖縄の人形芝居もこういう含み
をもって理解した方がよい︒官良氏の調査によれば﹁人形は木製︑高さ凡四五寸︑その数は十︑そして各
人形には特別の名称がある﹂という︒折口氏は︑
宮良
氏が図示した親子の人形を見ているが︑﹁三
四 寸 の
人形に竹の手足で動かしたのである﹂(﹁沖縄採訪手帳﹂)と言っているが︑宮良氏の図を見ているかぎり︑
と ても手足を動かしたとは思えない︒小さなデク人形のように思える
︒
宮良・折口両氏とも︑それはきわめ てボロボロの人形だったと述べている︒久しく使われなかったか︑修理を加えられなかった事情があった
ので
あろ
う︒
一
0
センチないし一五センチの素朴な人形を︑ティラとよばれる小宇宙で舞わしたのである︒人形については︑
看過でき
ない報告
があ
る︒
一九
四
O
年三月に発
表され
た
須藤
氏の前掲論文による
と ︑
四五
年前
︑
石垣で十日許り遊んだ時︑この郷土室にも来た事があったが︑今更めて見ると︑前には余
り気にもとめなかったものの中で︑非常に面白いものがある事に気付く︒特に︑此の前知らなかった八
重山の京太良(チョンダラl︒八重山ではキヨンダラ!と言ふ︒又アッチルナ!とも言ってゐる︒操り人
形の意味である)の人形は甚だ珍らしいものであった︒後でこの人形を保管してゐた家や︑又二三の
古老に就ていろいろ
審ベ
て見たが︑確にこれは京太良人形に間ちがひなささうである︒今
残っ
てゐるも
のは︑バラバラになった首と手足の数組だけであって︑着物は亡くなってゐる︒ボロボロになったので
捨てたと云ふ話であった︒沖縄本島のものに比較するとずっと大形であって最大の首は約四寸の長さが
ある
(沖
縄本
島の
もの
は一
寸位
であ
らう
か)
︒
とあ
る︒
八重山にキヨンダラ!ということばがある以上︑チョンダラl芸能があった可能性がある︒
し か
らば︑須藤氏の見た人形は氏の言われるように︑
チョンダラ!人形であろうか︒人形のことをアッチルナ
ー(
操る
もの
)と
一一
一口
って
いる
こと
も気
にな
る︒
チョンダラl
の人形は操りと言えるほどのものではない︒
﹁最大の首の長さが四寸﹂というのもおかしい︒
八重山の人形は頭だけで︑首里のチョンダラ!の人形の
総高に匹敵し︑その割合でいけば全長も一尺二寸くらいになり︑
とてもチョンダラーのように携帯できる ような舞台︿寺﹀におさまるものではない
つまりチョンダラl
の寺の何倍もする︑固定した舞台で上演
されたと凡なければならない︒須藤氏が示した写真を見ても︑
チョンダラ!の人形とは全く別物であるこ
とが判然する︒
チョンダラ!の人形に比べて面が繊細で︑浄瑠璃の人形のようにととのっている︒
そし
て︑
人形は頭だけしか残っていないが
つまり頭・胴・手が別々になっていたと考えてよく︑チョンダラ!の デク人形に比べてはるかに技術的にすぐれた人形で︑人形の大きさから見て︑手妻人形と見てよい︒八重 山の人形がチョンダラ
l人形だとすれば︑首里のそれとは全く別系のものと言わねばならぬ︒
石垣の宮良信知氏の宅に狂一一一日用の人形の破片を見たとのことである︒土地の人は該狂言に大和狂言と 管見を裏づける資料がある︒比嘉氏の前掲論文によると︑鎌倉芳太郎氏の八重山調査のさいの見聞として︑比嘉氏は
称して居るとか︑そして該片は福禄寿の頭︑思源太の頭︑女頭二ッ︑武士ロッ︑坊主頭一ッ︑チャ口人
形の頭と胴其の他に人形の手足︑万等であり︑破片には﹁かけきよ﹂﹁大こうつ﹂﹁あくやひめ﹂など銘
が刻まれて居る︒これが作者は同家々譜によれば︑始祖石垣親雲上信保九世の孫︑南風見目差信升の第
二子真孝(一七四四l
一八
一八
年
筆者注)とのことである︒
と述べている︒人形の寸法は記されていないが︑頭がはっきり識別できること︑大和狂言とよばれている
﹂と︑頭︑手足︑が分離していることなどからこれらが須藤氏の言う八重山のチョンダラl人形に酷似し
ていることに気づかれることだろう︒しかもその破片には﹁かけきよ﹂﹁あくやひめ﹂と刻まれていたと
いわれる︒﹁かけきよ﹂は平景清で︑浄瑠璃の一連の景清物語の主人公であるし︑﹁あくやひめ﹂はそ
の恋
人阿古屋のことであろう︒
とす
ると
︑ これはチョンダラlの人形などではなく︑浄瑠璃の人形ではないだ
ろう
か︒
アッチルナl︿操り人形﹀という語の重要性が︑﹂れでたしかめられるはずだ︒浄瑠璃が行われ
たかどうか︑記録では確定できないが︑一七六二年土佐に漂着した潮平親雲上たちは浄瑠璃本をもってい
っており(﹃
大島
筆記
﹄)
︑
したがって上演された可能性もあったのではないかと思う︒浄瑠璃人形が八重山
にありまた八重山士族の間で作られたことに驚くが﹂れが沖縄の人形芝居に影響を与え︑豊かにしえ
なかったことは悔まれる
l 本文解説
ウ チ ジ ョ
l
ヌ ウ タ
(御知行の歌)
この
歌は
︑
チョンダラーが島流しになった時︑﹁実際は一万石から五石までの扶持米や団地金銀宝物な
どを遣るから沖縄へ行けといって遺られたのであるといふ︒所が愈々沖縄へ下って見ると︑今に下る/¥
と噂だけは非常に高かったが︑結局何物をも手に入れなかった﹂(宮良氏前掲書)というふうに合理解され
てい
る︒
チョンダラl芸能者たちは︑外来の詞章を馴化するのとひきかえに︑その本来の意味を忘失して
しまったらしい︒これは︑本土では﹁升斗舞﹂﹁桝舞﹂﹁桝ばかり舞﹂などとよばれ︑いわば祝言万才の
種である︒﹁桝ばかりの舞を見さい︒桝ばかりの舞を見さいな︒一万升の桝には一万一千一百餅一十
斗一升一合一勺納めたれば︑受け取り給はりた︒二万升の桝には二万二千二百餅二十斗二升二合二勺納め
たれば﹂と︑九万升の桝まで数えて︑﹁十万升の桝には十万餅も万万斜も幾万万餅も今此の御所に納
め奉る﹂といったもの(高野辰之﹃日本歌謡史﹄一九二六年一月)である︒数が多いことも目出たいが︑万升
の桝にそれ以上も納め得たということはいうまでもなく大変な豊作だということだ︒琉歌にも﹁計て春
き余す雪の真米﹂とある︒つまり祝い謡である
寸升斗舞﹂は一万石から順次十万石まで歌われるが︑チョソダラ!詞章は五万石までしかない︒かつては
最後の﹁ジュ!ニンティワ︑ジュールクタンサミ:::﹂以下は︑﹃京太郎の歌﹄の︑﹁御知行﹂にもある 十万石まであったことが予想される︒
が 日 の
﹁ ト ィ サ シ メ
l﹂(鳥刺し舞)の末尾にもある︒意味の上での連絡がはっきりしないところから
あるいは混入ではないかと思う︒あるいは︑黄金も白銀も宝も積み渡す云々といった文言
が ︑
おめでたい
もの
とし
て︑
これらの歌の末尾に付けられたとも考えられる︒
2
ヤマプシ
(山
伏)
編笠をかぶり︑杖をつき︑鉦を肘に︑撞木を腰に差して︑流浪する山伏の辛苦をうたっている︒元の大
和に戻って此のたびの苦労を語りたいこれからは山伏に生まれるな︑といった最後のくだりは傷ましい︒
チョンダラーがこれを保持した背景にはこの山伏に自らの境遇を見たこともあったであろう︒チョンダ
ラl詞
九 日 十 に
は
︑まま白期的な口吻が見られるが︑乞食をし︑社会に賎しめられた自らの境涯を悲しんだと
もと
れる
︒
﹂の歌は八音と五音を一句とする定形になっているつまり八五調である︒八音は沖縄語の律語の特色
であ
り︑
五音は本土語のそれの特色である︒それがどうして八・五音句になったのだろうか︒平安末期か
ら支配的になった七五調の詞形が︑以後の日本の歌謡の主流になるが︑それが沖縄化した時のスタイルで
はないかとも思われる︒八五調が基本だが︑なかには七五調も見られるからだ︒
八五調にはこのほかに﹁ジョl
ルシ
ュ
l
ガム
ンラ
ン﹂
(浄
土宗
が文
段)
﹁ジ
ョ
lルシュ1ガグプラン﹂(冷
土宗が孝諭)﹁ママウヤニンブツ﹂(継母念仏)﹁チョンジョンナガリl﹂(長者の流れてかある︒これはすべて
念仏系の歌であることに気づく︒逆に言えば念仏系の歌は八五調なのである︒とすると﹁ヤマプシ﹂は︑
たんに山伏の辛苦を道行風にうたっただけのものではなく︑もっと一般的に人生の行路苦をうたったもの
と考えたほうがよいつまり念仏歌である︒
この詞章は他に例がなく︑また類歌も見あたらない︒ただ詞章の一部には︑他の念仏歌に見られる類的
表現がある︒他の念仏歌との関連を示すものだろう︒この詞章が今日見られるのは全く宮良氏の功績であ
る
3
唱門の詞
﹃京太郎の歌﹄の﹃京太郎おぞきからくり)﹂
に相
当し
︑
チョンダラl詞章中もっとも難解なものである︒
宮良氏は﹁招かれた家で門を聞けようとする時︑彼等は次のやうな文句を唱へるさうである︒それは甚だ
難解であるが︑その全体としての意味は︑御免下さいと挨拶を述べて︑それからチョンダラlの御利益を
説き立てtAゐるものだといふ﹂とのべている︒残念ながら全体を感得できるような意味はくみとれない︒
語句の型併というより︑その気持を込めた呪文のようなものになっていると︑見てよいだろう︒ところど
ころ意味がわかるところから︑かつては意味があったと忠われる︒
とこ
ろで
︑
2尽太郎の歌﹄ではこれは唱門の詞ではなく︑﹁覗きからくり﹂つまり人形芝居の詞章であっ
て︑但し書きの説明からも知られる︒宮良氏は﹁招かれた家で門を川附けようとする時﹂に唱われるので︑
﹁唱門の詞﹂と名付けたわけだがこれには疑問がある︒比嘉胤昇氏の報告では︑チョンダラーはまず一尉
子舞
いで
祝一
一一
口(
万才
)を
のべ
︑
その次にこの歌をうたいながら人形をまわすのだという︒名前も﹁唱門の
詞﹂や﹁のぞきからくり﹂ではなく︑
﹁仏
の
一話﹂だという︒名前にそれほど比重があるとは忠わないが︑
仏とはやはり人形のことで︑人形をまわしながらうたうので﹁仏の謡﹂だったので
ある
︒
チョンダラl詞
章中人形をともなう芸能として記憶されている唯一のものである︒したがってこの詞章は沖縄の人形芝居
を知
る上
で︑
もっとも重要なものである︒この人形舞わしも︑芝居ではなく舞わしであり︑叙事ではなく
祝言であったようだ︒宮良氏も﹁彼等は人形に対して織烈なる信仰を有し︑魂が寵ってゐるといひ︑
れ
を神聖祝して非常に大切にし﹂﹁人形に対する崇敬の念は少しも衰へてゐない﹂とのべている
つま
り
仏は人形だが︑人形がまた仏であることがこれでわかる︒たとえば次の
﹁念
願の
文句
﹂
の回
目頭 に
︑﹁
ウ
i
トlドゥ﹂︿おお尊と﹀からはじまって
シ ン ニ ン ヌ フ ト ゥ キ ガ ナ シ
l
イl
ク ト ゥ ヌ カ ミ ド ク
千年の仏加那志
吉き
事の
神ぞ
お迎えして
歩きます
ウン
チケ
lシ
ア ッ チ ャ ピ
lル
とあるがこういう﹁仏加那志﹂八仏様﹀という敬称は︑人形(仏)に込められたチョンダラ!の気持をい
ったものだろ
う ︒
その人形が家々へ福神をお迎えして下さるのである︒
4
念願の文句
この詞章は口語体である︒歌われたのではなく︑唱えられたものであろう︒他には見られない独自のも
のである︒全編敬語が使われている︒そのかぎりでは︑神前での願文などによく見られるものだが︑対象
てゐ巾T
丹
﹂
﹁ ム ノ
¥
︐ 刀
441吋t f
︿チョンダラーを招いた家人であるところに︑チョンダラl詞章らしい特色がある︒子孫繁呂︑
栄達︑富賞︑無病息災︑延命長寿を予祝している︒
5
京の下り
﹃京太郎の歌﹄の﹁扇子舞﹂に相当するもので︑比嘉氏も扇子舞とよぶのがよいとする︒人形芝居上演の
前に
︑
三人のチョンダラーが扇子をもって舞う万才である︒意味はよく分らないが︑番匠が船を造り︑そ
れに乗って京都に上り︑習い覚えた万才だから︑由緒あるものだと言って︑王きまから順に万才を奉ると
いった主旨だと思われる︒同様の発想は︑地方の祭杷歌謡にも見られ︑まが玉(ガl
ラ玉)の霊力権威を
言う
のに
︑
山から木を伐り出して船を造り︑それに乗って大和へ行き求め来たったものだというふうにな
っているものが多い︒
一‑
屋良
クェ
iナ﹂の後半を連想させるのも︑そうした似かよりによるものであろう︒
比嘉盛昇氏が採録した一扇子舞詞章を紹介しよう︒宮良氏のそれ︑﹃京太郎の歌﹄のそれと比較していた
z‑
ミb
‑ n ‑
︑中
j 中A)C J 1
一 V
︑祝
言
サー
あっぱりが
やり
/︿
¥
さし
みか
んど
l
御主拝てし
ゅう
らい
左のまつりや 天晴れやれ/¥騒くなよ壬
様を
拝し
て
お芽出たい
左の
祭り
は
(︒左は二人の誤ならん
,
ちゃんく 、
まぢゃいな7
まちとちにと
まl
しま
iさ
い
きl
しさ
lさ
い
ちゃんと万才よ
松と鶴と
在ましませ
﹁対
句
L
年の始めに
年はとl
いて
一一
般お
船の
年を取りて
( ︒一
一般は利生の誤りか三河万才には利生とあり) 玉 の み ち ゃ ぶ り 玉 の 御 冠
見んそl
り . 見 給 へ よ か ん そ ー が 元 祖 か (
? ) 作 い た て た る 作 り た て た て ん
︑ ち の 刀 や 給 子 の 万 は
(O
三河万才には錦の万とあり)
く し に さ し っ て 腰 に き し て
御用にまあしは
(︒三河万才には五葉の松はとあり詑転ならん)
手 に む っ ち ゃ る 手 に 持 っ た
︒三河万才は手に持ちて
なんでlは
うきたてて 南殿は(?)
打ち立って
スリふlくえlどくるに豊加へ所に
ふにうきて
( O
豊は幸福のこと現代語也)
船を浮かべて
サlサl
しゅゆいてん
うわしのもとの
す ilぢ
はいまl
しは
ゆl
いて
ソ1ヤ
首里の王様
御足の下の
小路│街路也
走り廻はせば
首里天ソレ (︒祝ひての誤ならん)
首里の王様
このまくとの
みんだし
しゅらには 此の誠の珍らしい
主口(男子のこと)
アー
しゅらよい
たからや
ふにくだl
ゐて
てんよいそlむく
さんじゅlしlて
はしらぬ
ぬぬういだl
けは
ふlくlぬ たたぬとまいか とまいか するわlん
サ ー
見事なよい
宝や
船 下 さ れ
? 布
織 り
? 抱 け は
?
福の
たたの泊か 泊か港か 為 す 哩
?
まちれl
福寿の泊か 福寿の泊か 祭り
うくすとまいか うくすとまいか
まlしは廻はせは
いのlぬ稲穂の
まちれ1祭り な ん な lぢち
難 な く し て
?
す る わ lん
サl
く ん ご l
為 す 哩
? 金 剛
( O
金剛とは役者奉公のこと)
さlしは
ゆlしぐわんにど
かしらを
たてって
ちょlぬ ぐ ん ご
!
なにはぬ
ぬ lちぢ
サ1スリ
あlまが
ふあーやっひには
ちんぶんいぬちゃ
ながむぬ
ちくには さすれは頭を立てて京都は金剛よ波速は野辻よ天が杖には
沖縄の人形芝居 竹 長 命
Uこ し 、 は ; は も ( の 尺 八
165
ちゅ
lしん
かなをの
ちょlぬ
うっちぬ
くわんそーや
サー
ふ ち ち ょ ー や l
八百八十や
文人ならびぬ たいふあlんーや
ちょlぬならびの
うゆうえlぬ
まぢゃいなー
なんぢやハl
まぢゃいな
l
くがにもハl
ま︑
ちゃ
いな
l
御主加那志ヤイヤ
うちばらヤイヤ
うみん子部サl
ウ ネ
うみむとヤイヤ
まぢゃいな
l
ま ぢ ゃ い な l まぢゃいな
I
ま︑ちゃいなl
ま ぢ ゃ い な l
うやくさサl
虚 第 京 膝 士 ? 無 一 都 緒 を 僧 の の の や
文人習ひの 普化僧や 大 般 若 や
? 京都習ひの
御祝の万才よ
︹南
鏡︿
銀﹀
万才
よ︺
︹黄
金万
才よ
︺
︹王
様
万才
よ︺
︹内
原
万才
よ︺
︹思
子部
万才
よ︺
円思弟ヤイヤ
万才
よ︺
︹恐
れ多
い
万才
よ︺
まぢ
ゃい
な
l
まぢ
ゃい
な
l
万才 よ︺
万才
よ︺
いち
まゆ
ヤイ
ヤ
ある
じょ
にハ
l
イヤま︑ちゃいなー
をがまりみしょlり
噺し語ハl
ライ
ヤヨ
lラ
イ
︹い
つま
で
︹有
るょ
に
︹万
才よ
︺
︹拝
まれ
給与
え︺
タl
ライ ター ライ ラ
lハl
サlタlラl
イラ
lハl
ハl
サ シ ラ ヌ
明らかな誤字︑脱字は訂正してある︒行のわけ方︑訳文︑注書ともに比嘉氏のとおりである︒
カ ッ コ
I
、
︺は︑訳が付けられていないので︑試みに私が付けた︒詞章は︑どちらかと言うと﹃京太郎の歌﹄
所収のものに近いことがわかると思う︒
6
ジョ
lルシュlガムンラン(浄土宗の文段)
チョンダラーはつまりニンブチャ
l (念仏者)であったわけだが︑
地方
では
︑
たとえば︑宜野湾の新城で
沖縄の人形芝居
は死者が出るとニンブチャーを首里や那覇へ迎えにやったものである︒一ンブチャ!は﹁迎へられて死
人の家に至るや︑小屋か雨戸を立てかけて作った所に︑鉦をつるして︑ケンケγケンケソと鉦を打った︒
時折死人の枕元に来り︑彼世の案内めいたことを語った︒島人は︑此は著しく功徳のあるものと信じた︒
167
僧の読経は欠くことが出来ても︑此はなくてはならぬものとされた︒念仏者は︑鉦をうちながら葬列の末
に加はtAって墓に到り︑ここでも一度所謂念仏をやった︒金や米などを貰って帰った︒僧は︑普通は一人︑
宮家は三人招いて読経して貰った﹂(佐喜真興英﹃シマの話﹄一九二五年五月)のだと言う︒そこには︑社会的
にはいやしめられながらも︑葬礼におけるニンブチャーが尊重されたことがよくわかる︒ニンプチャlの
読経
と一
一一
一口
つで
も︑
持ち
前の
念仏
歌を
うた
う以
外に
なか
った
であ
ろう
︒
じじつ八重山では現在でも念仏歌に
大きな功徳があると信じられている
このムンランは︑八重山では﹁親の御恩﹂﹁無蔵念仏﹂とよばれているものである︒親が子をいつくし
む心はたとえようもなく深いこと︑その親の愛(恩)も親︑が死なないと悟らないことなどを言って︑
親
" ' "
の孝養を説いたように理解されている︒おそらくこれは仏教思想の希薄化と比例してこのように理解され
たのであって︑もともとはもっと仏教的に︑無常とか行路苦といったものが主題になっていたのではない
だろうか︒私は仏教にはくらいが︑島尻勝太郎氏は︑この詞章の前半のところは︑父母恩主経の︑とくに
第五の﹁廻乾就湿の思﹂を拠りどころにしているといわれる(﹃興南研究紀要﹄創刊号﹁沖縄仏教史の一側面︿漂
泊の
念仏
者﹀
一九
七二
年五
月)
︒
そこには﹁水の如き霜の夜︑氷の如き雪の暁にも︑乾ける処に子を廻はし
湿れる処に己れ臥す︒子︑己が懐に尿まり︑或は其の衣に尿するも︑手自ら洗ひ濯きて︑自ら械を厭ふこ
と無し﹂とあるとのことである︒
沖縄本島ではもうこの詞章はほとんど採録できなくなったが︑八市一山では︑詞章に若干の出入りはある
ものの︑各島各村ごとに︑いまでもうたわれ︑採録できる︒八重山では旧七月のソlロン(精霊・盆行事)
ン ミ イ ( 姐 ) に率いられた女装の
アンガマ集団によってうたわれる︒ グショ(後生・あの世)から来たという仮面のウシュマイ(翁)︑
アンガマ集団はまず仏前で座開きに三味線にのせてこの念仏歌をうた
の三
晩︑
い︑それから庭前で歌舞する︒ここにはまだ仏教臭さが濃厚にただよっている︒
この詞章はもっともポピュラーなもので︑活字化されたものも多い︒比較参考のために︑最も古い資料
親の御恩 である﹃念仏集﹄(一八七二年)から紹介しよう︒
親の御思は深きもの
父くが御恩は海深き
母くが御恩は山深き
昼は父くがあしの上に
扇子の風にあふかれて
夜は母くか懐に
とよひや廿や御衣の内
ぬりたるかたには母か寝て
乾くかたには子はかねせて
諸腰しぬりれば胸の上に
是程親におもわりて
とよひや廿ゃなよりとも
親の御恩は又しらん 親の御思は深いもの父御の御思は海のように深く母御の御恩は山のように深く昼は父御の足の上に扇の風にあおがれて夜は母御の懐に十重二十重御衣の内濡れたる方には母が寝て乾く方には子を寝かせて全部濡れると胸の上にこれほど親に思われて十や二十になよれども
親の御思は又知らぬ
切て見てこそ哀しれ
おそみてそくれは親はなし
我か親姿を拝よて
ょたつかあけれはきじに待き
ひもとかさかれは門に立
我待りとも待兼て
あさきの浜迄行見れは
さるしぎぬりたる墓印
あふしけ山をおしわけで
其夜基屋宿とれて
其よの夜中夢拝て
おそみてさくれは親はなし
父呼て母呼て声すれは
戸あるものは山ひびき
あさみた夢のつれなきよ
二度ものに牒て
我か親にる人拝まらん
それから戻て口口口
父くか形見はとりひびき
母くか手っかさとり並て 切れて(死んで)見てこそ友れ知る目覚めてさぐれば親は無し自分の親の姿を見ょうとて明星が上れば辻に待ち日元が下れば門に立ち待っているが待ちかねてアサキ(地名)の浜まで行って見るとサルシギ(植物名)生えた墓
印
(墓
標)
青繁山を押し分けて
其夜は墓屋に宿を取って
その夜の夜中に夢に見て
目覚めてさぐれば親は無し
父を呼んで母を呼んで戸をすれば(戸を出す)
声あるものは山響き(山彦)
朝見た夢のつれなきよ
再びものに牒されて(起きて見るが)
我が親に似た人は見られない
それから戻って口口口
父御の形見を取り拡げ
母御の手近さを取り並べて
それ見て泊の土しまらん
泊は袖にうし隠き
是程あさましことのある
見る人間人あわりしり
それ見て親の跡は取る
それ
見て
一択
が止
まら
ない
涙を袖におし隠して;
これほどあさましいことがあろうか
見る人・聞く人哀れを知れ
それ見て親の後を取るのだ
(訳
・筆
者)
7 ジョlルシュl
ガグ
9フ
ラン
(浄土宗の孝諭)
この詞章も本島では採録できなくなっている︒八重山では﹁グプダン念仏﹂﹁コウフダイ念仏﹂﹁グフグ
イ念
仏﹂
﹁コ
lフダイの歌﹂﹁大和念仏﹂と言われ︑三十三年忌法事のアンガマのさい歌い踊られる︒
不孝の子と孝子とを対比し︑孝子は後生の仏に手を引かれて︑阿弥陀の浄土に渡されるという内容であ
る︒島尻氏は浄土宗の﹁二阿白道﹂のたとえを想起せしめるといい︑﹁大事の小道といい︑
先世の橋から
後世の世の仏の手にとられ︑阿弥陀の浄土迄渡されたという句の中に︑白道を歌ったことがみられるが︑
八重山では各地(竹富︑黒島︑大浜︑与那国など)に見られる︒主旨は同じだが︑
詞句には若干相違があ
次第に本来の意味が忘れられ︑地域社会の習俗に合うよう変化していったのであるまいか﹂(前掲論文)と
述べておられる︒
り︑地域的に特色が見られる︒その一つを例示して比較検討の使に供したい︒
ぐふだい念仏(大浜)
四
う 守 ふ あ l
親ぬよぐふだいとうらん子や
ふ み じ い わ
井戸掘りばん水や湧かぬ
はけしはなしばん離さるぬ
ういういよすすりわんくじみなり
活る花やていん茎どう枯り
むかゆる木草やていん茎どう枯り
うきゆみちいh
た と う き い
浮世ぬ道から渡る時
ゆ み ち い み
ちいばる行く道やていん道悪さ
渡る地ぶくに落さりてい
う
苧 ふ あ
l親ぬぐふだいとうる子や
ふ み じ い わ
井戸掘りばん水どう湧ちゆる
五
ばちしはなしばんはなさりてい
ういういよすすりわん花どう咲く
活るよ花やていん茎どうすり
むかゆる木草やていん茎どうすり
う き ゅ み
もいわたとうきい浮世ぬ道から渡る時
ゆみち
い み ち い び
る行く道やていん道広さ
ちりぬ花ちいじいにかめ
り
ん 寸 は な う で
い蓮根ぬ花やよ腕にかけ
ず
ん 巳 ゃ ぐ さ ん
尊者ぬていじりば杖ばし
̲.̲.
ノ、
親の孝行取らぬ子は
井戸を掘っても水は湧かぬ
はけし(不明)離しても離せない
(不
明)
活きる花でも茎ぞ枯る
繁る木草でも茎ぞ枯る
浮世の道から渡る時
逝く道でも道悪さ
渡る地べたに落されて
親の
孝行を取る子は
井戸を掘っても水ぞ湧く
ばちし(不明)離しても離されて
(不
明)
活る花でも茎ぞ揃い
繁る木草でも茎ぞ延び
浮世の道から渡る時
行く道でも道広く
ちりぬ花(不明)を頭に頂き
蓮根の花は腕にかけ
尊者のていじり(不明)を杖として
七
尊
1
黄j:南なく者ぷ金に無みち ん ぬ 陀だよ
流2寺ごぬふし
り まら仏iぬ
t
南 な で に
t
仏;無 む い 腰 に い 陀 だ ん う 手t
仏三渡立さ J i[;
さ り か り で り て い て
(上
門金
蔵氏
採録
ノ
lト)
8
ママウヤニン︒フツ
すでに幾度となく述べて来たように︑ 後生の仏に手を引かれて南無陀の仏に腰押されて黄金の寺までも渡されて尊者の流れ南無陀仏
( 訳 ・
筆者
)
(継母念仏)
八重山にはさまざまな念仏歌があることが報告されている︒
し か しどういうわけか現在﹁継母念仏﹂は報告されていない︒ところが﹃念仏集﹄にはこれが入っており︑当然 あったと見てよいと思う︒沖縄本
島
ではほとんど全域にわたって伝え
ら
れており︑もっともポピュラーだ
やす
い︒
八音五音をそれぞれ一句とすると︑ と思われる︒コ口小太郎の歌﹄の﹁口上念仏﹂もこれである︒
八六句に及んでいる︒奄美にはこれと非常によく似た﹁継母 八五調になっており︑
意味も比較的にわかり
﹂れは一一六
口説﹂が山本学夫氏によって報告されている(
﹃日本庶民生活史料集成﹄第一九巻︿南島古謡﹀
) ︒
句にもおよぶ長大なもので︑
山本氏によると大島本島︑沖永良
主題・展開・詞句に共通するものが多い︒
部︑徳之島にもそれぞれ同傾向の歌があるという︒﹁口説﹂とよばれるので当然七五調(奄美の場合も多く
は八五調)であるが︑沖縄本島の継母念仏と比較すると︑八重山のそれよりはるかに距離があり︑
奄美で 独自に発達した様子がうかがえる︒仏教の影のうすい宮古(官国)でも︑この継母念仏系の詞章がクィチ
ャーの中に伝えられているといわれる(島尻氏前掲論文)︒たかだか十数句のもので︑
奄美
︑
沖 縄
八重山
のものともまた全く様子が異っている︒
とにかく︑このようにして継母念仏は琉球諸島全域にわ
たっ
てい
る︒
いっぱんに沖縄本島の影響と言わ
れて
いる
が︑
そうとばかり言えるかどうか︒文献にはあらわれないが︑弥陀の名号を唱えながら︑芸能を
たずさえて︑南海の島々を渡り歩いた集団の波が︑幾度も打ち寄せ︑あるものはとどまり︑あるものは消
滅し︑あるものは習合して生きのびたのではないかと思われる︒そういう考え方があってもよいのではな
いだろうか︒知られる歴史はごく一部で︑庶民の中に潜入した念仏者の芸能など︑歴史の表面にあらわれ
ることこそ珍しかったのだ
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チョンジョンナガリ(一長者の流れ)
﹁チョンジョン﹂というのは中城村仲順のことで︑そこにすぐれた仲順大主という人物がいたという︒
口
碑によると﹁大主は仲順村の創始者であり︑大主の時代に王位を英祖に譲って野に降った義本王が︑
国 頭
の奥地から読谷山に移りそこに寄過していたころ大主の善政を噂に聞いて王は仲順に身を寄せ大主の厚遇
を受けて晩年を過ごした﹂(﹃北中城村史﹄一九七
O
年)とのことである︒つまり伝説上の人物である︒奄美の八月踊歌にも﹁仲順主﹂をうたったものがかなりある
しかし︑例の八重山の﹃念仏歌﹄には
﹁ち
ゃう
じ
ゃの流﹂とあり︑﹁チョンジョンナガリl﹂
では
ない
︒
﹁長者の流れ﹂と考えるべきである︒もともとは﹁長者の流れ﹂だったのではないかと思う︒宮良氏もそ