Author(s)
真栄平, 房昭; 漢那, 敬子
Citation
沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THE
HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(42): 97-108
Issue Date
2019-03-25
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/24871
はじめに 明 治 五 年( 一 八 七 二 ) 、 ち ょ う ど 琉 球 王 国 の 末 期 に あ た る こ の 年、 東 京 に 生 ま れ た 樋 口 一 葉( 本 名 奈 津、 夏 子 ) は、 の ち に「 た けくらべ」 「にごりえ」 等の名作で知られる女性作家である。 「五千 円 札 の 顔 」 で も あ る が、 そ の 人 生 は 皮 肉 な こ と に 借 金 生 活 で あ っ た。 小 学 校 の 成 績 は 優 秀 で あ っ た が、 十 一 歳 で 中 退、 針 仕 事 や 洗 濯 で 一 家 の 生 計 を 支 え た。 学 業( 向 学 ) の 道 を 閉 ざ さ れ た 一 葉 は、 こ の 出 来 事 に つ い て、 「 悲 し く 辛 い こ と だ っ た 」 と「 日 記 」 に 残 し て い る よ う に、 ひ ど く 心 を 痛 め た。 そ ん な 娘 を み か ね た 父 親 は、 知 人 の 紹 介 で 一 葉 を 歌 塾「 萩 の 舎 や 」 へ 入 門 さ せ た。 明 治 十 九 年、 一葉十四歳のときである。萩の舎で和歌を学ぶかたわら、 『朝 日 新 聞 』 の 小 説 記 者・ 半 な か ら い と う す い 井 桃 水 か ら 文 筆 の 手 ほ ど き を 受 け た。 桃 水( 当 時 三 十 一 歳 ) に 一 目 惚 れ し た 一 葉 は、 創 作 意 欲 を 大 い に 刺 激 さ れ、 上 野 の 図 書 館 に 通 っ て 小 説 な ど を 片 っ 端 か ら 読 破 し た と いわれる。 だ が 父 や 兄 の 死 後、 樋 口 家 は ま す ま す 困 窮 し た。 貧 し い 家 計 を 支 え る た め に 苦 労 し た 一 葉 は、 む ろ ん、 お 金 に 苦 労 す る 人 た ち の 小 説 を 書 い て い る。 そ の 代 表 作 が「 大 つ ご も り 」 。 話 は 大 み そ か の 出 来 事 で あ る。 大 金 持 ち の 奉 公 人、 お 峯 は 十 八 歳。 育 て の 親 の 伯 父 か ら、 年 越 し の 金 の 都 合 を 頼 ま れ る。 伯 父 は 病 床 に あ り、 八 歳 の 息 子 が シ ジ ミ を 売 り 歩 い て の 稼 ぎ が 唯 一 で あ る。 お 峯 は 主 家 の 女 主 人 に、 借 金 を 申 し 込 む。 承 知 し た は ず の 主 人 は、 金 を 出 し 渋 り、 つ い に 大 み そ か を 迎 え る、 と い う あ ら す じ で あ る。 一 葉 の 生活体験に根ざした小説であろう。 そ ん な 中 で、 文 筆 を 続 け て い た 一 葉 の 日 記 を 読 む と、 意 外 な こ とに、沖縄を詠んだ歌が登場する。 「 蓬 よ も ぎ ふ 生 日 記 」 明 治 二 十 四 年( 一 八 九 一 ) 十 月 十 三 日 の 記 事 で、 次に掲げる。当時一葉は十九歳の秋を迎えていた。 十 三 日 晴 兄 君 如 何 な し 給 ひ け ん 只 案 し ( じ ) に 案 す ( ず ) れ と ( ど ) 更 に ふ ミ も お と つ ( づ ) れ も な し 沖 な わ 県 よ り 依 頼 の 歌 師 の 君 に 添 刪 乞 は ん と て も て 行 も の へ 行 給 ひ て 留 守 成 し こ そ い と 筌 (詮) な し 又 こ そ 参 らめとて帰る
樋口一葉「沖縄の和歌」とその周辺―小林家の人
々
真栄平 房昭・漢那 敬子( 『樋口一葉全集』第三巻(上) 、 六四頁 〔以下、 『全集』と略記〕 ) 十 月 十 三 日、 晴 れ、 お 兄 様 は ど う し て い る か し ら と 案 じ て い る が、 い っ こ う に 手 紙 も 訪 れ も な い。 沖 縄 県 か ら 依 頼 の あ っ た 歌 を 「師の君」に添削をお願いに行ったが、留守であった。云々 「 日 記 」 に い う「 兄 君 」 と は 一 葉 の 次 兄 虎 之 助 で 当 時 三 田 に 住 んでいた。この翌十四日付けの虎之助あての書簡が残っている。 前 略 御 用 捨 被 下 度 候。 先 日 の 件 は い か ゞ の 御 都 合 に 相 成 候 や。 み な
く
心 配 仕 居 候 間、 御 落 着 に 相 成 候 は ゞ 一 寸 御 来 車 御 申 聞 せ 被下度願上候。余は御拝顔の上万々可申上候。草々以上。 廿四年十月十四日 芝区三田台裏町十一番地 樋口虎之助様 本郷菊坂 樋口なつ ( 『全集』第四巻(下) 、八三七頁) こ の 書 簡 を 出 す 前 の 十 月 十 日、 虎 之 助 か ら 家 計 の 窮 状 を 知 ら せ る 手 紙 が 届 い て い る。 負 債 危 機 に 陥 っ て 財 産 差 し 押 さ え と い う こ と に な っ た、 明 日( 十 一 日 ) が そ の 期 限 で、 そ れ で す べ て 破 産 と い う 事 態 に 至 っ た、 三 円 あ れ ば な ん と か な る が 云 々 と い っ た 内 容 で あ る。 一 葉 た ち は 相 談 の 上、 母 た き が 三 田 へ 赴 き、 手 元 に 残 っ た 四 円( 元 々 た き が 知 り 合 い か ら 借 り て き た 金 ) を 届 け て い る。 その後虎之助から連絡がないのを案じての一葉の手紙であった。 一 葉 の「 日 記 」 に「 沖 縄 」 が 出 て く る の は、 先 に 掲 げ た 明 治 二 十 四 年 十 月 十 三 日 の 記 事、 一 箇 所 の み で あ る。 で は、 「 沖 な わ 県より依頼」の歌とはどういうものだろうか。 明治二十年代の萩の舎と夏子 一 葉 = 夏 子 の「 沖 縄 」 の 歌 が 詠 ま れ た 明 治 二 十 年 代 の 歌 壇、 夏 子が学んだ「萩の舎」はどのようなものだったのだろうか。 菅 聡 子 に よ れ ば、 「 明 治 二 十 年 代 は、 国 民 国 家 と し て の 根 幹 が 形 成 さ れ た 時 期 で あ る と 同 時 に、 人 々 が『 国 民 』 と し て 教 育 さ れ、 『 国 民 』 と し て の 自 己 認 識 と 同 一 性 を、 と く に 対 外 戦 争 を 具 体 的 な 契 機 と し て 内 面 化 し て い っ た 時 期 に あ た る 」 と し、 文 学 の 領 域 に お い て も 近 代 の 価 値 観 を 前 提 と し た 作 品 が 登 場 す る よ う に な っ たという( 「樋口一葉と天皇―〈和歌〉を視座として―」 ) 。 一 葉 は そ の 短 い 生 涯 に 四 千 首 を こ え る 歌 を 残 し て い る。 周 知 の よ う に、 小 説 家 と し て の 一 葉 が 活 躍 し た の は、 「 大 つ ご も り 」 を 発 表 し た 明 治 二 十 七 年 十 二 月 か ら 二 十 九 年 に か け て の 十 四 カ 月 で あ る。 一 方 で 小 学 校 に 通 っ て い た 十 一 歳 の こ ろ か ら 和 歌 の 手 ほ どきを受けており、学校をやめたあと十四歳で「萩の舎」に入る。 萩 の 舎 は 明 治 十 年 前 後 に 設 立 さ れ た 中 島 歌 子 の 歌 塾 で あ る。 歌 子 は 香 川 景 樹 の 流 れ を 汲 ん で お り、 花 鳥 風 月 を 題 詠 と す る 古 典 的 な 詠 風 で あ っ た。 和 歌 だ け で な く 千 蔭 流 の 書 や 古 典 文 学 も 講 義 し て い た と い う。 萩 の 舎 の 門 人 に は 華 族 や 旧 大 名、 上 流 の 士 族、 明 治 政 府 の 高 官 の 子 女 が 多 か っ た。 そ れ ら の 華 族 た ち は 歌 子 の 人 脈 の 広 が り と な り、 萩 の 舎 の 社 会 的・ 経 済 的 な 支 え と も な っ て い た。 夏 子 が 入 門 し た 明 治 十 九 年 頃 は 萩 の 舎 の 全 盛 期 で あ り、 一 時 は 千 人 余 の 門 人 を 抱 え て い た と い う。 歌 子 は 歌 人 の 伊 東 祐 す け の ぶ 命 や )1 ( 小 こ い で つ ば ら 出 粲 と )2 ( 親 し く 交 わ り、 彼 ら を 通 じ て 御 歌 所 所 長 の 高 崎 正 ま さ か ぜ 風 の 知 遇 を 得、 御 歌 所 出 仕 と な っ て い く。 歌 子 が 上 流 の 子 女 を 多 く 抱 えたのは正風らの援助によるところが大きいという (塩田良平 『樋 口一葉研究』一一七頁) 。 そ の よ う な 中 で、 元 士 族 と は い え、 父 は 下 級 官 吏 で し か な か っ た 夏 子 が、 肩 身 の 狭 い 思 い を し て い た こ と は「 日 記 」 に も 垣 間 見 え る。 夏 子 は 萩 の 舎 の 門 人 の 中 で も 平 民 出 身 の 伊 東 夏 子・ 田 中 み の子らと「平民組」と称して仲良くしていたという。 ( 1)一八三四~八九年(天保五~明治二十一) 。石見国浜田藩(現 ・ 島根県) 生まれ。歌子の同門で、萩の舎の歌会でもよく判者を勤めた。 ( 2) 一 八 三 三 ~ 一 九 〇 八 年( 天 保 四 ~ 明 治 四 十 一 ) 。 江 戸 生 ま れ だ が 父 は 石 見 国 浜 田 藩 士。 高 崎 正 風 の 知 遇 を 得 て 御 歌 所 寄 人 な ど に な る。 萩 の 舎 に おいては顧問格。夏子の歌の才能を高く評価していた。 萩 の 舎 で は 毎 週 土 曜 日 が 歌 の 稽 古 日 で あ っ た。 当 時、 小 石 川 藤 坂 に あ っ た 萩 の 舎 ま で、 夏 子 は 下 谷 区 西 黒 門 町 や 本 郷 菊 坂 町 の 家 か ら 通 っ た。 夏 子 の 残 し た 歌 の ほ と ん ど は、 萩 の 舎 に 提 出 す る 題 詠 で あ る。 題 詠 と は、 「 あ ら か じ め 設 け ら れ た 題 に 即 し て 詠 む こ と 」 で あ る。 萩 の 舎 で は 題 詠 の ほ か、 「 数 詠 み 」 と い っ て 一 日 に 三 十 と か 五 十 題 も 出 さ れ、 手 当 た り 次 第 詠 ん で い く 方 法 で、 一 定 時間に多くの歌を詠んだ (塩田 『樋口一葉研究』 一五七頁) 。また、 宿 題 と し て 出 さ れ た 歌 を 次 の 稽 古 日 で 披 露 し、 歌 子 の 添 削 指 導 を 受けたり、 毎月の歌会では「点取」と称して点数を競ったり、 「難 陳」という各人の歌を相互に批評することも行われていた。 「題詠」 といい 「数詠み」 といい、 そこでは歌の即興性ではなく、 題 か ら 構 想 さ れ る 伝 統 的 な 世 界 の 観 念 を 歌 う も の と な る。 い っ て み れ ば、 和 歌 の 伝 統 と 教 養 に 基 づ い て 歌 わ れ る も の で あ り、 萩 の 舎 で 和 歌 を 学 ぶ と い う こ と は、 平 安 時 代 か ら 連 綿 と 続 く 伝 統 的 な 和歌の世界を学ぶことであった。 一 方 で、 夏 子 は、 明 治 二 十 六 年 十 二 月 一 日 の「 日 記 」 に 次 の よ う に 記 す。 「 さ り と て、 み そ ひ と 文 字 の 古 体 に し た が ひ て、 汽 車 汽 船 の 便 あ る よ に、 ひ と り、 う し ぐ る ま、 ゆ る
く
と の み あ る べ き に あ ら ず。 い か で 天 地 の 自 然 の も と ゝ し て、 変 化 の 理 に し た が ひ、 風 雲 の と ら へ が た き、 人 時 の さ まく
な る 三 寸 の 筆 の 上 に 呼 出 し て し が な 」 ( 『 全 集 』 第 三 巻( 上 ) 三 四 七 頁、 句 読 点・ 濁 点 は引 用 者 ) 。 伝 統 的 な 歌 風 に あ き た ら ず、 明 治 と い う 新 時 代 に 生 き る 若 い 女 性 ら し く、 「 変 化 の 理 」 に も 少 な か ら ず 関 心 を 示 し て い た の で あ る。 当 時 流 行 し て い た 新 体 詩 に 反 発 を 感 じ る 一 方 で、 夏 子は新しい時代の変化を筆にあらわしたいとの思いも秘めていた。 夏子の「沖縄の歌」 夏子の詠んだ沖縄の歌は次の三首である。 沖縄名所 真玉川いかなる玉かしつむらむそこゆかしくもおもほゆる哉 都まて名もとゝろきの瀧といへはよそに聞たにすさましき哉 あ曳するいとまの浦のあまの子はくるしきことや覚えさるらん ( 『全集』第四巻(上) 、二〇六頁) こ れ ら の 歌 は「 四 季 恋 雑 園 の わ か 艸 樋 口 夏 子 」 と 表 書 さ れ た 歌 集 に 綴 ら れ た も の で、 『 全 集 』 に は 詠 草 23と し て 整 理、 収 録 さ れ て い る。 『 全 集 』 凡 例 に よ れ ば、 「 園 の わ か 艸 」 は 明 治 二 十 三 年 か ら 二 十 四 年 に か け て 一 葉 自 身 の 手 に よ り 編 纂 さ れ た も の で、 二十年後半から二十四年十一月までを整理したものとある。 「 沖 縄 名 所 」 と 題 し た 和 歌 三 首 は、 前 述 の「 日 記 」 と あ わ せ て みると、明治二十四年十月に作られたものであることがわかる。 伝 統 的 な 題 詠 に よ る 花 鳥 風 月 や 恋 歌 な ど を 主 と し て い た 萩 の 舎 の 趣 き を 考 え る と き、 ま た、 「 沖 縄 名 所 」 前 後 の 和 歌 の 題「 霧 中 紅 葉 」 「 残 菊 久 」 な ど を み る と き、 こ の 三 首 は 少 し 異 質 な 感 を 覚 え る。 課 題 を 与 え ら れ、 文 字 か ら、 あ る い は 情 景 の 説 明 な ど か ら 想 像 を ふ く ら ま せ て 詠 ん だ の で は な い か。 題 詠 の 多 い 萩 の 舎 で の 修 行 を 重 ね て い た 夏 子 に と っ て は お 手 の 物 だ っ た の か も 知 れ な い が、 明 治 二 十 四 年 と い う 早 い 時 期 に、 中 央 の 歌 壇 に あ っ た 著 名 な 歌塾で「沖縄」が題材に取り上げられたのは、きわめて珍しい。 「 沖 縄 名 所 」 と さ れ て い る の は「 真 玉 川 」 「 轟 の 瀧 」 「 糸 満 の 海」である。 「轟の瀧」は名所だが、 他の二カ所は名所というより、 沖 縄 風 景・ 風 物 で あ り、 そ の ま ま 歌 題 と し て と ら え た ほ う が よ い。 また、 中島歌子は夏子一人ではなく、 他の門人達にも「沖縄名所」 を詠むという課題を出したのではないかという推測も成り立つ。 ち な み に 作 家・ 樋 口 一 葉 に 関 す る 研 究 は 数 多 い が、 夏 子 の 和 歌 に つ い て 触 れ た 研 究 は そ れ ほ ど 多 く は な い。 「 沖 縄 名 所 」 に 言 及 し て い る の は、 管 見 の 限 り 菅 聡 子 だ け で あ る。 菅 は「 日 清 戦 争 を 詠 む こ と 」 と 題 す る 論 文 で、 前 記 の 明 治 二 十 四 年 十 月 十 三 日 の 「日記」と歌三首をあげている。しかし、 菅の論旨は、 「沖縄名所」 の 歌 で は な く、 詠 進 歌 と 天 皇 と の 関 係、 歌 を 詠 む と い う こ と が 自 動 的 に〈 帝 国 〉 に 結 び つ く と い う こ と へ と 発 展 し て い く の で、 歌 の紹介のみにとどまっている( 『女が国家を裏切るとき』 ) 。
こ れ ら の 歌 が 県 よ り の 依 頼 だ と し て、 誰 が な ぜ「 依 頼 」 し た の か、 わ か ら な い こ と は 多 い の だ が、 こ こ で は 夏 子 の 歌 そ の も の と、 樋口家周辺の人脈と沖縄との関わりを探ってみることにしたい。 「 真 玉 川 い か な る 玉 か し つ ( づ ) む ら む そ こ ゆ か し く も お も ほ ゆ る 哉 」 ( 真 玉 川 と は ど の よ う な 玉 が 沈 ん で い る の だ ろ う か、 ど こ と なく心惹かれるように思えることよ) こ の 真 玉 川 は 真 玉 橋 の 架 か る 国 場 川 の こ と で あ ろ う か。 琉 歌 の 世 界 で は「 真 玉 」 は 文 字 通 り「 た ま 」 「 真 珠 」 の こ と で あ り、 転 じ て「 真 心 」 を 表 す 語 で も あ っ た。 三 つ の ア ー チ 橋 が 連 結 さ れ た 真 玉 橋 は、 琉 球 古 来 の 石 造 建 築 物 の 代 表 的 な も の で あ る。 真 玉 橋 伝説ともあいまって名高いが、 一葉の歌は 「橋」 より 「川」 であり、 「 川 」 よ り 川 底 の「 玉 」 に 焦 点 を あ て、 「 底 」 と「 そ こ ゆ か し 」 と 語を連ねている。真玉と川という語のイメージから 「川に沈む玉」 を「 ゆ か し く 覚 え る 」 と 歌 っ た の だ ろ う か、 現 実 で は な く、 ど こ か幻想めいた雰囲気を感じさせる歌である。 「 都 ま て ( で ) 名 も と ゝ (ゞ) ろ き の 瀧 と い へ は ( ば ) よ そ に 聞 た ( だ ) に す さ ま し ( じ ) き 哉 」 ( 都 ま で 名 前 が と ど ろ い て い る 瀧 と い う の は、 聞 く ほ ど に す ごい瀧かな) 轟 の 滝 は 沖 縄 本 島 北 部、 名 護 市 数 久 田 に あ り、 数 久 田 滝 と も い う。 河 口 か ら 約 一、 三 キ ロ メ ー ト ル に 位 置 し、 王 府 時 代 か ら 名 勝 と し て 知 ら れ、 昭 和 三 十 一 年( 一 九 五 六 ) に は 県 の 名 勝 に 指 定 さ れ て い る。 沖 縄 県 の 二 代 目 県 令 上 杉 茂 も ち の り 憲 は、 民 情 視 察 と し て、 赴 任 半 年 後 の 明 治 十 四 年( 一 八 八 一 ) 十 一 月 か ら 十 二 月 に か け て 沖 縄 本 島 を 巡 回 し た。 そ の 時 の 記 録「 沖 縄 本 島 巡 回 日 誌 」 ( 『 沖 縄 県 史 第 11巻 資 料 編 1』 琉 球 政 府、 一 九 六 五 年 ) に は、 「 轟 キ ノ 瀑布ヲ観ル、 雲木陰翳ノ間、 右ニ千仞ノ大巌聳へ、 左ハ老松(略) 、 其 間 ヨ リ 百 丈 ノ 瀑 泉 懸 ル 」 と 記 し、 同 行 し た 護 得 久 朝 常 は「 山 北 の つ と は と と へ ば 誰 よ り も 我 ま づ い わ ん 轟 の 滝 」 と 詠 ん で い る。 明 治 三 十 四 年 に 刊 行 さ れ た 田 山 花 袋 編『 琉 球 名 勝 地 誌 』 に も 口 絵 頁で紹介されている。 「 轟 の 瀧 」 と 名 が と ど ろ く、 を 掛 け た 歌 は 琉 歌 に も 見 ら れ る。 た と え ば「 落 て る み な か み の 果 て や 知 ら ね ど も 浮 世 と ど ろ き の 音 の 高 さ 」 ( 田 崎 朝 用 ) 、 「 夏 も よ そ な し ゆ さ 浮 世 名 に 立 ち 現在の轟の滝
ゆ る 数 久 田 と ど ろ き の 滝 の 麓 」 ( 松 田 賀 烈 ) な ど で あ る。 琉 歌 は 轟 の 滝 の 名 高 さ を 歌 っ て お り、 一 葉 も ま た 同 様 の 発 想 で 詠 ん だものだろうか。 「 あ (網) 曳 す る い ( 糸 満 ) と ま の 浦 の あ ま の 子 は く る し き こ と や 覚 え さ ( ざ ) る ら ん 」 ( 網 引 き を す る 糸 満 の 浜 辺 の 海 の 子 は、 苦 し い こ と と は 思 わないのだろうか) 沖 縄 本 島 の 南 端 に 位 置 す る 糸 満 は 昔 か ら 漁 業 が 盛 ん な こ と で 有 名 で あ る。 「 あ ま の 子 」 は「 海 士 」 、 い わ ゆ る ウ ミ ン チ ュ ー な の か、 海 辺 で 漁 の 手 伝 い を す る 子 供 な の か 迷 う と こ ろ だ が、 こ こ で は 子 供 と し て と ら え た。 そ の ほ う が 夏 子 ら し い と 感 じ た か ら で あ る。 三 首 の う ち、 夏 子 の 個 性 が 表 れ て い る の が こ の 歌 で は な い だ ろ う か。 小 説 に 幼 い 子 供 を 登 場 さ せ、 自 身 も 生 活 苦 に あ え ぐ 夏 子 だ か らこその働く子供に寄せる思いが 「くるしきことや覚えざるらん」 の 句 に 表 れ て い る よ う に 思 う。 伝 統 的 な 流 麗 な 歌 を 詠 ん で い た だ け で は こ の よ う な 発 想、 表 現 は 出 て こ な い の で は な い か。 萩 の 舎 と い う 伝 統 的 な 歌 塾 に 属 し て い な が ら、 他 の 門 人 達 と は 違 う 身 分、 生 活 に 貧 す る 自 分 が い て、 そ の よ う な 自 分 の 思 い や 不 安、 あ る い は 女 で あ り な が ら 父 の 死 後 は 戸 主 と し て 母 や 妹 を 養 っ て い か ざ る え を 得 な い 重 圧、 女 で あ る こ と で 蒙 ら ざ る を 得 な い 社 会 的 な 不 満 も 含 め た さ ま ざ ま な 思 い を 表 現 し た い と し て 小 説 を 書 き 始 め て い く夏子=一葉の片鱗が、この歌から読み取れる。 宮中歌会始と沖縄 こ こ で、 時 期 的 に は さ か の ぼ る が、 明 治 初 年 の 琉 球 と 和 歌 の 関 係について面白いエピソードがあるので紹介しよう。 明 治 七 年( 一 八 七 四 ) 、 宮 内 省 よ り 琉 球 藩 へ、 和 歌 を 詠 進 す る よ う に と い う 通 達 が あ る。 外 務 省 外 交 史 料 館 所 蔵「 琉 球 関 係 雑 件 /琉球藩取扱書」に綴じられた史料である(句読点は引用者) 。 琉球藩 毎 年 御 歌 会 始 詠 進 之 儀 ニ 付、 別 紙 之 通 布 達 候 ニ 付 而 者 、 詠 進 之 分ハ於其藩庁取纏、当省 江 可差出候、此旨相達候事 明治七年一月十五日 宮内卿徳大寺實則 毎 年 御 歌 会 始 詠 進 之 儀 ニ 付、 宮 内 省 よ 里 御 布 達 御 取 添 御 達 之 趣 承 知 仕、 本 藩 江 差 越 候 処、 別 冊 之 通 取 纏、 此 節 差 登 候 間、 御 内 省 江 御差出被下度奉存候也 琉球藩 津波古親方 (( ( ㊞ 明治七年五月 ( 3) 津 波 古 親 方 政 正。 一 八 一 六 ~ 一 八 七 七 年。 唐 名 は 東 国 興。 琉 球 王 国 末 期を代表する知識人の一人。この時期、年頭の慶賀使として東京にいた。
外務省 御中 ( アジア歴史資料センター、 レファレンスコード B03041135900 ) 歌 会 始 は 宮 中 行 事 と し て 執 り 行 わ れ て き た が、 明 治 七 年 (一八七四) に一般国民からの詠進も認められるようになった。 「琉 球 関 係 雑 件 / 琉 球 藩 取 扱 書 」 に は「 毎 年 一 月 御 歌 会 始 之 節、 官 員 華 士 族 僧 侶 平 民 之 無 差 別 詠 進 可 有 之 旨 琉 球 藩 へ 布 達 ノ 件 」 と あ る。 ち な み に 明 治 七 年 の 勅 題 は「 迎 年 言 志 」 で あ る。 歌 会 始 の 事 務 を 所 管 す る の は 明 治 四 年 に 設 置 さ れ た 歌 道 御 用 掛 で、 八 は っ た と も の り 田 知 紀 、 )4 ( 渡 忠 秋 )5 ( 、 高 崎 正 風 )6 ( ら も そ の 任 に あ た っ た。 明 治 二 十 一 年 に 御 歌 所 と な り、 初 代 所 長 は 高 崎 正 風 が 拝 命 し た。 正 風 は 明 治 四 十 五 年 に 没 す る ま で 所 長 を 務 め、 御 歌 所 派 と し て 明 治 期 の 歌 壇 に 枢 要 な 位 置を占めていく。萩の舎の歌子もまた高崎に連なる位置にいた。 こ の 明 治 七 年 の 詠 進 歌 と し て 提 出 さ れ た「 別 冊 」 は ど う い う も の だ っ た の か。 喜 舎 場 朝 賢 は『 琉 球 見 聞 録 』 で、 宜 湾 朝 保 が 明 治 七 年 正 月、 宮 内 省 よ り「 迎 年 言 志 」 の 勅 題 が も た ら さ れ た の を 受 け て、 「 藩 王 に 聞 し 首 里 那 覇 泊 久 米 村 の 諸 士 に 命 を 下 し 東 苑 に 参 ( 4) 一 七 九 九 ~ 一 八 七 三。 薩 摩 生 ま れ。 香 川 景 樹 に 歌 を 学 ぶ。 明 治 五 年 に 歌道御用掛となる。宜湾朝保編『沖縄集』に序文を寄せている。 ( 5)一八一一~八一年。 近江生まれ。 香川景樹らに学び京都桂園派を守った。 宜湾朝保編『沖縄集二編』の跋文を書いている。 ( 6) 一 八 三 六 ~ 一 九 一 二 年。 薩 摩 生 ま れ。 八 田 知 紀 に 学 ぶ。 明 治 九 年 に 歌 道御用掛となる。 会せしむ十八日藩王東苑に臨行」 、百余人が集まって和歌 ・ 琉歌 ・ 漢 詩 を 詠 み、 和 歌・ 琉 歌 は 朝 保 が、 漢 詩 は 津 波 古 が 検 点 校 正 を し て 藩 王 の 前 で 朗 誦 し た、 と 記 す( 『 琉 球 見 聞 録 』 、 東 汀 遺 著 刊 行 会、 大正三年初版、一九五二年再版、一一頁) 。 宜 湾 朝 保 は、 明 治 五 年( 一 八 七 二 ) に 維 新 慶 賀 使 と し て 上 京 し た と き、 九 月 に 吹 上 離 宮 の 滝 見 茶 屋 で 行 わ れ た 御 歌 会 に も 参 列、 「 水 石 契 久 」 の 兼 題 に「 動 き な き 御 代 の こ こ ろ を 巌 が ね に 掛 け て 絶 え せ ぬ 滝 の 白 糸 」 と 詠 ん で い る。 こ の 時 の 点 者 は 八 田 知 紀 で あ っ た( 池 宮 正 治『 近 世 沖 縄 の 肖 像 』 ( 下 ) 、 一 八 三 頁 ) 。 朝 保 ( 一 八 二 三 ~ 七 六 年、 唐 名 は 向 有 恒 ) は 八 田 知 紀 に 師 事、 明 治 三 年 に 沖 縄 の 歌 人 三 十 六 人 の 歌 を 集 め た『 沖 縄 集 』 、 明 治 九 年 に 当 時 の 沖 縄 の 和 歌 人 の 歌 を 集 め た『 沖 縄 集 二 編 』 を 編 ん で い る。 朝 保 没 後 の 明 治 二 十 二 年 に は 弟 子 の 護 得 久 朝 置 )7 ( が ま と め た 朝 保 私 家 集『 松 風 集 』 が 出 版 さ れ て い る。 な お、 池 宮 正 治「 『 御 茶 屋 之 御 掛 物 並 御 額 御 掛 床 字 写 』 所 収『 宜 野 湾 朝 保 歌 集 』 ― 解 説 と 翻 刻 ―」 ( 『琉球大学法文学部紀要 国文学論集』 第二八号、 一九八四年) に 面 白 い 資 料 が あ る )8 ( 。 同 歌 集 に は 朝 保 の 歌 二 五 五 首 が 収 め ら れ て い る が、 そ の な か に 明 治 七 年 の 勅 題 と 同 じ「 迎 年 言 志 」 で「 雲 ( 7) 一 八 二 七 ~ 一 九 〇 八 年。 唐 名 は 向 起 龍。 明 治 二 十 四 年 当 時 の 沖 縄 県 知 事丸岡莞爾(在任:明治二十一~二十五年)とも交友があった。 ( 8) こ の 資 料 は ハ ワ イ 大 学 ホ ー レ ー 文 庫 蔵 で、 歌 集 の 成 立 年 代 に つ い て 池 宮 は、 同 治 十 年( 明 治 四 ) の も の も あ る こ と か ら、 お お よ そ こ の 時 期 の ものであることが推測される、と記す。
井迄かたひあけてんすぐ人の 笛のしらべにしらべあはせて」 「我 も ま た わ が 大 君 に さ ゝ げ て ん 今 朝 く み そ め し 千 世 の 若 水 」 の 二 首、 明 治 八 年 の 勅 題「 都 鄙 迎 年 」 で 二 首 が み え る。 こ れ ら は『 沖 縄集二編』 『松風集』にも採られていない。 「 別 冊 」 の 内 容、 所 在 に つ い て は 今 の と こ ろ 不 明 で あ る。 し か し、 歌 会 始 と い う 宮 中 行 事 に「 琉 球 藩 」 を 参 加 さ せ る と い う こ と は、 明 治 政 府 が 文 化 の 面 で も 琉 球 を「 日 本 」 に 取 り 込 ん で い こ う とするシンボリックな出来事ではないだろうか。 一葉と沖縄をつなぐ人物群像 「沖縄」の歌はなぜ作られたのか。 萩 の 舎 の 門 人 に は 上 流 の 子 女 が 多 か っ た が、 な か に は 侯 爵 で 貴 族 院 議 員 で も あ っ た 鍋 島 直 な お ひ ろ 大 の 妻 栄 な が こ 子 と そ の 娘 伊 都 子( 後 に 梨 本 宮 家 に 嫁 ぐ ) が い た。 鍋 島 直 大 は 沖 縄 の 初 代 県 令・ 鍋 島 直 な お よ し 彬 と は 従 兄 弟 に あ た る。 そ の ほ か に も 子 爵 綾 小 路 有 良 の 娘・ 八 重 子、 江 戸 幕 府 の 老 中・ 小 笠 原 長 行 の 娘・ 小 笠 原 艶 子 な ど、 歌 子 の 周 辺 に は 当 時 の 皇 族・ 華 族 や 政 府 に つ な が る 人 物 が い た。 そ れ を 考 え る と、 「 沖 な わ 県 よ り 依 頼 」 は、 歌 子 に 政 府 あ る い は 華 族 な ど の 誰 か か ら 依 頼 が な さ れ、 そ れ が 夏 子 に 課 題 と し て 出 さ れ た の で は な いか、と推測される。 「 日 記 」 に は「 沖 な わ 県 よ り 依 頼 の 歌 師 の 君 に 添 刪 乞 は ん と て も て 行 」 と あ り、 で き あ が っ た 歌 の 添 削 を 乞 う た め に 歌 子 の も と へ出かけた、と読める。 「師の君」はここでは歌子を指す。 一 方、 夏 子 と 沖 縄 を つ な ぐ 意 外 な 人 脈 が あ る。 夏 子 の 父 則 義 が 東 京 府 に 勤 め て い た 時 の 同 僚・ 小 林 好 よ し な る 愛 で あ る。 小 林 好 愛 と い う 人 物 に 焦 点 を あ て て み る と、 沖 縄 と の つ な が り で 興 味 深 い 事 実 が 浮かび上がってくる。 そ の 前 に ま ず、 明 治 初 年 の 時 代 背 景 の 中 で、 琉 球 の 位 置 に つ い て要点を述べる必要がある。 明 治 政 府 が 全 国 に 廃 藩 置 県 を 公 布 し た 翌 年、 明 治 五 年 ( 一 八 七 二 ) 九 月、 政 府 か ら の 要 請 を 受 け て、 琉 球 国 王 尚 泰 の 使 者 が 東 京 へ 派 遣 さ れ た。 伊 江 王 子 朝 直、 宜 野 湾 親 方 朝 保 ら 一 行 は、 鹿 児 島 を 経 て 横 浜 に 船 で 到 着 後、 外 務 省 か ら 出 迎 え の 人 力 車 に 分 乗 し て 東 京 に 着 い た。 九 月 十 四 日、 宮 中 に 参 内 し た 琉 球 使 一 行 に 対 し て、 明 治 天 皇 は「 冊 封 」 宣 言 を 行 う。 琉 球 側 が 望 ん だ わ け で も な い の に、 政 府 は 一 方 的 に「 琉 球 藩 」 の 設 置 を 通 告 し、 天 皇 が 尚 泰 を「 琉 球 藩 王 」 に 封 じ る 旨 を 宣 言 し、 そ の 詔 書 を 伊 江 王 子 ら に交付したのである。 こ う し て、 琉 球 国 を「 藩 」 と し て 日 本 の 一 部 に 併 合 し て い く う え で、 最 初 の 外 交 戦 略 の 布 石 が 打 た れ た。 さ ら に 政 府 は、 琉 球 藩 の 人 口 や 税 制・ 土 地 制 度 お よ び 物 産( 黒 糖・ 反 布 な ど ) の 実 態 を 調 査 す る た め、 大 蔵 省 の 官 員 数 名 を 現 地 に 派 遣 し た。 そ の 調 査 メ
ン バ ー が 大 蔵 省 戸 籍 寮 の 役 人 で あ る 根 本 茂 樹 お よ び 随 員 の 小 林 好 愛、 山 崎 潔 ら で あ る。 ま さ に 偶 然 だ が、 ち ょ う ど そ の 年 の 三 月 二 十 五 日( 新 暦 五 月 二 日 ) 、 樋 口 家 に 次 女 と し て 生 ま れ た の が 奈 津(後の一葉)である。 夏 子 の 父・ 樋 口 則 義( 一 八 三 〇 ~ 一 八 八 九 年 ) は 幕 末 に 甲 斐 国 (山梨県)から江戸に出てきて、 維新後の明治二年東京府に勤めた。 明 治 二 十 年 に 退 職 し、 起 業 す る も 失 敗、 二 十 二 年 に 死 去。 夏 子 の 長 兄 泉 太 郎 も ま た 二 十 年 六 月 大 蔵 省 出 納 局 配 賦 課 に 職 を 得 て お り、 小 林 と 関 わ り の あ っ た 可 能 性 も あ る。 た だ 泉 太 郎 は 同 年 十 一 月 に 病 で 退 職、 十 二 月 に 二 十 三 歳 の 若 さ で 亡 く な っ て い る。 小 林 も そ の 葬 儀 に 参 列 し 香 典 二 円 を 包 ん で い る。 翌 年、 樋 口 家 の 相 続 戸 主 と な っ た の が、 十 六 歳 の 夏 子 で あ っ た。 明 治 二 十 二 年 に 父 則 義 が 死 去 す る と、 夏 子 は 名 実 と も に 女 戸 主 と し て 母 や 妹 を 養 っ て い か ざ る を 得 な く な っ た。 明 治 二 十 三 年 五 月、 萩 の 舎 に 住 み 込 む が 長 く は 続 か ず、 九 月 に は 本 郷 区 菊 坂 で 母・ 妹 と と も に 女 三 人 の 借 家 生 活 が 始 ま っ た。 裁 縫 や 洗 濯 な ど 手 仕 事 で 生 計 を 立 て よ う と す る が、 暮 ら し は 日 に 日 に 苦 し く な っ た。 夏 子 は 萩 の 舎 で 歌 子 の 手 伝 いをしながら、家計のため小説を書くことを考えるようになる。 小林好愛と樋口家 小林好愛は弘化元年 (一八四四) 生まれ。明治二年 (一八六九) に 東 京 府 少 属、 そ の 後 大 蔵 省 に 勤 め、 土 地 整 理 事 業 で 功 績 を あ げ、 つ い で 金 庫 局 長、 預 金 局 長 を 勤 め、 明 治 二 十 四 年 従 五 位 勲 五 等 に 叙 せ ら れ た。 同 年 大 蔵 省 を 退 職 し て 万 世 生 命 保 険 会 社 に 入 社、 明 治 二 十 九 年 に は 社 長 と な っ た。 明 治 二 十 六 年 に 本 郷 区 の 区 会 議 員、 四 十 年 に 東 京 府 府 会 議 員 と な っ て い る。 明 治 四 十 年 の『 京 浜 実 業 家 名 鑑 』 ( 塩 田『 樋 口 一 葉 研 究 』 所 収 ) に は、 小 林 は 家 藩 閥 の 縁 故 や 大 家 の 引 き が な い に も か か わ ら ず、 「 朝( 政 府 ) に 在 り て は 能 吏 の 名 を 博 し 野( 民 間 ) に 在 り て は 英 材 の 称 を 得 る 」 と あ る。 大蔵省で出世して要職にのぼり、 「快刀乱麻を断つの手腕」を発揮、 「人と為り謹直重厚且至孝にして奉養甚だ厚し」と称されている。 一葉の「日記」から小林好愛に関連する箇所を拾ってみよう。 「沖縄名所」 の歌を作ったのと同時期、 明治二十四年 (一八九一) 十 一 月 六 日 の「 日 記 」 に は、 小 林 好 愛 の 母 が 亡 く な っ た 知 ら せ が 青 山( 小 林 の 娘 婿 ) か ら き て、 翌 七 日、 八 日 と 母 た き が 小 林 宅 へ 出 か け た。 十 日 に は 初 七 日 逮 夜 の 招 待 状 が く る。 二 十 五 年 一 月 十 七 日 に は 母 た き が 小 林 宅 へ 年 賀 の 挨 拶 に 出 か け、 二 月 十 七 日 に は 小 林 好 愛 が 樋 口 家 を 訪 れ て い る( 一 葉 は 留 守 だ っ た ) 。 十 八 日、 小 林 か ら 八 円 を 借 り る。 十 月 十 九 日、 母 が 小 林 宅 を 訪 問。 二 十 六 年 一 月 二 十 三 日、 二 月 十 四 日 に も 母 が 借 金 の た め 小 林 宅 を 訪 問。 七 月 に は い よ い よ 商 売 を 始 め る た め ま と ま っ た 金 が 必 要 に な り、
四 日、 母 親 が 小 林 宅 へ 相 談 に 行 っ て い る( こ の と き 五 〇 円 ほ ど 借 りたかったらしいが、翌日、小林は調達は無理だと断った) 。 借 金 に 関 す る 記 述 が 多 い の が 目 を ひ く が、 小 林 が 父 則 義 の 死 後 も か な り 金 銭 的 な 援 助 を 続 け て い た こ と、 ま た 樋 口 家 の ほ う で も 小林をある程度頼りにしていたことが知れる。 と こ ろ で、 明 治 二 十 四 年 十 二 月 二 十 六 日 付 の 小 林 へ の 借 金 証 文 ( 樋 口 な つ 自 筆 ) が 残 っ て い る( 塩 田『 樋 口 一 葉 研 究 』 所 収 ) 。 こ の時期の「日記」は散逸したのか、 『全集』にはみえない。 借用金之証 一金弐拾円也 右 之 金 員 無 拠 入 用 有 之 拝 借 申 上 候 段 実 正 也 返 済 之 義 を 来 廿 五 年 十二月卅一日限り御返済可申上後日之為借用金証書依而如件 明治廿四年十二月廿六日 本郷菊坂町七十番地 樋口なつ 小林好愛様 「 日 記 」 で は 小 林 に 関 す る 記 述 は 以 上 で あ る が、 父 則 義 の 東 京 府 時 代 の 同 僚 で あ っ た 小 林 と は 盆 暮 れ の 付 届 け を す る 親 し い 間 柄 で、 家 族 ぐ る み の つ き あ い で あ っ た )9 ( 。 単 に お 金 の 貸 し 借 り だ け ( 9) 明 治 十 四 年 十 月 か ら 十 七 年 十 月、 樋 口 家 は 小 林 好 愛 の 持 家 で あ る 下 谷 区御徒町三丁目に住んでいたという( 『群像日本の作家3 樋口一葉』 ) 。 で な く、 小 林 の 妻 と の 間 で は 日 本 の 古 典 文 学 も 話 題 に 上 っ て い た と み え、 小 林 夫 人( 奥 様 ) あ て の 夏 子 の 手 紙 に そ れ が う か が え る。 明治二十四年二月十四日と思われる日付である。 昨 日 は 母 事 参 上、 い つ も
く
御 叮 嚀 の 御 と り は や し に あ づ か り、 有 難 く 御 礼 可 申 上 旨 申 し 付 け ら れ 候、 其 節 何 か 和 文 章 類 御 入 用 と か 御 も の 語 り の よ し、 甚 だ 粗 本 に は 候 へ ど、 湖 月 抄・ 枕 草 紙 (子) ・ 栄 花 (華) 物 語・ つ れく
艸 の 四 種 は 揃 ひ 居 候 ま ゝ 右 の 内 に て 御 間 に も 合 候 ハ ゝ 何 時 に て も 御 覧 に い れ 候、 ま づ は 右 申 上 度、 何 もく
と り あへず 早々かしこ 二月十二日 小林様 夏子 奥様 御ひざもとへ 夏子 二月十四日 ( 『全集』第四巻(下) 、九三八頁、句読点・濁点は引用者) 小 林 は 長 兄 泉 太 郎 の 葬 儀 に も 参 列 し、 さ ら に 則 義 の 死 後 も 樋 口 家 が た び た び 挨 拶 や 借 金 の 相 談 に い く ほ ど 親 し く 交 わ っ て い た ので あ る。 夏 子 か ら す れ ば 小 林 は 頼 り が い の あ る 親 戚 の 伯 父 さ ん の ような感覚だったのではないだろうか ) 10 ( 。 そ の 小 林 好 愛 が、 実 は 一 葉 と 沖 縄 を つ な ぐ キ ー パ ー ソ ン で は な い か。 前 述 し た よ う に、 小 林 は 大 蔵 省 に い た と き の 明 治 五 年 十 一 月、 戸 籍 寮 の 根 本 茂 樹 の 随 員 と し て 琉 球 へ 派 遣 さ れ た。 根 本 は 多 く の 名 所 を 見 学 し て い る が、 そ の 随 行 が 小 林 で あ る こ と も 多 い ( 『 沖 縄 史 料 編 集 紀 要 』 四 一 号、 「 岩 瀬 文 庫 蔵「 南 颿 日 録 」 ( 1) 」 ) 。 明 治 六 年 に ま と め た「 琉 球 藩 雑 記 」 に は、 物 産、 租 税 の 項 に 調 査 官として「小林権大属」の名がみえる。 おわりに 以 上 の 考 察 か ら 明 ら か に な っ た こ と を 要 約 す る と 次 の よ う で あ る。 「 沖 縄 名 所 」 を 詠 ん だ 夏 子 = 樋 口 一 葉 と 沖 縄 と の 直 接 的 な つ な が り を 示 す も の は な い が、 樋 口 家 周 辺 に 明 治 五 年 末 か ら 六 年 に か け て 沖 縄 を 訪 れ て い た 小 林 好 愛 が い た こ と な ど、 少 な か ら ず 沖 縄 と縁のあることがわかった。 一 葉 と 沖 縄 を つ な ぐ キ ー パ ー ソ ン と し て 小 林 好 愛 を 置 く こ と で、 一 葉 の 沖 縄 の 歌 も 違 っ た 視 点 か ら 見 る こ と が 可 能 に な る の で は な ( 10) なお小林の子息愛雄 (英文学者 ・ 作詞家) は、 一葉宅をしばしば訪れた 『文 學界』 同人の平田禿木の友人であった。大正十一年、 山梨県甲州市 (塩山) の 慈 雲 寺 に 一 葉 女 史 碑 が 建 立 さ れ た が、 石 碑 の 裏 側 に 賛 助 者 と し て 田 山 花袋 ・ 森鷗外 ・ 与謝野晶子らとともに小林愛雄の名も刻まれているという。 い だ ろ う か。 夏 子 の 和 歌、 小 林 好 愛 と 樋 口 家 の 関 わ り は、 「 沖 縄 」 が 明 治 二 十 年 代 の 東 京 の 和 歌 の 世 界 に も 登 場 し て い た こ と を 知 る こ と の で き る さ さ や か な、 し か し 貴 重 な 資 料 で あ る と 同 時 に、 一 葉 を よ り 身 近 に 感 じ ら れ る こ と の で き る エ ピ ソ ー ド で は な い だ ろ うか。 一 葉 が 死 ん だ の は 明 治 二 十 九 年( 「 一 八 九 六 ) 十 一 月 二 十 三 日 で あ っ た。 「 沖 縄 名 所 」 を 詠 ん で か ら 五 年 後 で あ る。 最 後 の 日 記 は 明 治 二 十 九 年 七 月 二 十 二 日 で 途 切 れ て い る。 八 月 上 旬、 駿 河 台 山 龍 堂 病 院 で 診 察 を 受 け た が、 肺 結 核 で 絶 望 的 と さ れ た。 症 状 が 重 く な っ た 九 月 十 六 日 に は 森 鷗 外 の つ て で 帝 国 大 学 医 科 大 学 教 授 の 青 山 胤 通( 小 林 好 愛 の 娘 婿 で も あ る ) が 診 察 し た が、 も う ど う す る こ と も で き な か っ た。 十 一 月 三、 四 日 頃 に 一 葉 を 訪 ね た 馬 場 孤 蝶 ) 11 ( に よ れ ば、 妹 が「 会 っ て 呉 れ と は 云 ひ 兼 ね る、 唯 見 て 行 っ て 呉 れ 」 と 言 い、 孤 蝶 が「 此 の 歳 暮 に は 又 帰 っ て 来 ま す か ら、 そ の 時 又 お 眼 に か ゝ り ま し ょ う 」 と 言 っ た の に 対 し、 一 葉 は う め く よ う な 声 で「 そ の 時 分 に は 私 は 何 に 為 っ て 居 ま し ょ う、 石 に で も 為 っ て 居 ま し ょ う か 」 と、 と ぎ れ と ぎ れ に 言 っ た と い う( 『 全 集 』 第三巻(上) 、五三二頁) 。 葬 儀 は ご く 質 素 な も の で あ っ た。 香 典 帳 に は 小 林 好 愛 の 名 も 記 ( 11) 一 八 六 九 ~ 一 九 四 〇 年。 高 知 市 生 ま れ。 翻 訳 家・ 随 筆 家。 明 治 二 十 七 年 初 め て 一 葉 宅 を 訪 れ、 以 後 頻 繁 に 訪 問、 姉 と 弟 の よ う な 関 係 だ っ た と いう。
さ れ て い る( 塩 田『 樋 口 一 葉 研 究 』 七 一 二 頁 ) 。 一 葉 の 墓 は 築 地 本 願 寺 の 分 院 で あ る 和 田 堀 廟 所( 東 京 都 杉 並 区 ) に あ る。 両 親 の ふ る さ と で あ る 山 梨 県 塩 山 の 慈 雲 寺 に 建 立 さ れ た 一 葉 女 史 碑 建 立 奉 加 帳 に は 半 井 桃 水 の 詠 ん だ 追 悼 の 句「 一 葉 散 り て 秋 し る 文 の 林かな」が残されている。 〔 付記〕 わ た く し に と っ て、 一 葉 の 歌 と の 出 会 い は、 ま っ た く の 偶 然 と い っ てよい。 二 〇 一 七 年 夏、 体 調 を 崩 し て 宜 野 湾 の 病 院 に 入 院 し、 手 術 を 受 け た。 そ の 後 少 し ず つ 体 調 が 良 く な っ た 秋 の あ る 日、 主 治 医 の 先 生 の 許 可 を 得 て、 病 院 の 近 所 を 散 歩 し て い た。 歩 い て 五 分 ほ ど の 宜 野 湾 市 民 図 書 館 で ひ と 休 み し な が ら、 ぼ ん や り と 書 架 を 眺 め て い た。 何 気 な く『 姉 の 力 樋 口 一 葉 』 ( 関 礼 子、 筑 摩 書 房、 一 九 九 三 年 ) と い う 題 名 の 本 を 手 に と り、 パ ラ パ ラ と 頁 を め く っ て い る う ち に、 一 葉 の 周 辺 に ふ た りの「歌子先生」がいたという記述に興味をおぼえた。 こ う し た 偶 然 の き っ か け で 一 葉 の 和 歌 に 関 心 を も つ よ う に な っ た わ た く し は、 そ の 後、 ま た 闘 病 生 活 が 半 年 余 り 続 い た た め、 和 歌 の 世 界 どころではなくなった。 そ の 後 よ う や く 退 院 し て、 別 の 用 件 で 図 書 館 を 訪 ね た 折 に、 『 樋 口 一 葉 全 集 』 ( 筑 摩 書 房 ) に 収 録 さ れ た 一 葉 の「 日 記 」 を 読 ん で い る う ちに、 「沖縄の歌」と出会 ったというわけである。 参考文献 塩田良平 ・ 和田芳恵 ・ 樋口悦編纂『樋口一葉全集』全四巻六冊 筑摩書房、 一九七四~一九九四年 塩田良平『樋口一葉研究 増補改訂版』中央公論社、一九六八年 岩橋邦枝他著『群像 日本の作家3 樋口一葉』小学館、一九九二年 岩 見 照 代・ 北 田 幸 恵・ 関 礼 子・ 高 田 知 波・ 山 田 有 策・ 田 中 良 和 編『 樋 口 一葉事典』 (株)おうふう、一九九六年 菅 聡 子『 女 が 国 家 を 裏 切 る と き ― 女 子 学 生、 一 葉、 吉 屋 信 子 』 岩 波 書 店、 二〇一一年 菅 聡 子「 樋 口 一 葉 と 天 皇 ―〈 和 歌 〉 を 視 座 と し て ―」 ( 『 「 対 話 と 深 化 」 の 次 世 代 女 性 リ ー ダ ー の 育 成 :「 魅 力 あ る 大 学 院 教 育 」 イ ニ シ ア テ ィ ブ 平 成 18年 度 活 動 報 告 書 』 お 茶 の 水 女 子 大 学「 魅 力 あ る大学院教育」イニシアティブ人社系事務局、二〇〇七年) 池宮正治『近世沖縄の肖像』 (下)ひるぎ社、一九八二年 池 宮 正 治・ 嘉 手 苅 千 鶴 子・ 外 間 愛 子 編『 近 世 沖 縄 和 歌 集 本 文 と 研 究 』 ひるぎ社、一九九〇年 島袋盛敏・翁長俊郎『標音評釈 琉歌全集』武蔵野書院、一九六八年 「 琉 球 関 係 雑 件 / 琉 球 藩 取 扱 書 」 国 立 公 文 書 館 ア ジ ア 歴 史 資 料 セ ン タ ー、 レファレンスコード B03041135900 、外務省外交史料館所蔵 (*轟の滝の写真は二〇一八年十二月当山昌直撮影) M AEHIRA Fusaaki and K ANNA Keiko:A
Study of Higuchi Ichiyo’
s
W
aka
(T
raditional Japanese Poetry) on Okinawa and its Periphery
, Kobayashi Family