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東亜協同体論と教育科学

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東亜協同体論と教育科学

一城戸幡太郎の「教育科学」についての一考察一

佐 藤 広 美

1 問題の所在

 本稿は,城戸幡太郎の「教育科学」を明らかにすることを目的とし,とりわ け1940年に彼が大政翼賛会に参画したことにみられる権力機構内部への参入が なぜ生じたかを,東亜協同体論(昭和研究会)と城戸との思想的理論的交叉に おいて検討していくことを課題とする。(1)

 城戸が自らの教育科学論の輪郭を明らかにし,本格的に教育科学運動に着手 するのは1930年代前半であるが,その運動をはじめる当初から彼は昭和研究会

(1933〜40)と深い関係をもち,理論的にも運動的にも大きな影響をこの研究 会から受けてきた。城戸の「教育科学」は昭和研究会との交流を通して形成し,

発展してきたのであり,研究会の中心理論たる「東亜協同体論」 (協同主義)

は城戸の「教育科学」に大きな影響を与えてきたのである。そしてこの点は城 戸自らが語るところであった。

 城戸は戦後,自らが中心になって組織した教育科学研究会(以下,教科研と 略する)は「昭和研究会と提携しながらやっていた」とし,教科研が標榜した科 学主義・生活主義と昭和研究会とが「一つのイデオmギーで結びついて」いた

としつつ,そのイデオロギーこそが昭和研究会内部で三木清らが主張した「東 亜共同体論」であったとするのである。そして,その考え方に城戸は「共鳴」

し,大政翼賛会にも入ったとしたのである。②城戸にとって,大政翼賛会への 参画は,「教育科学研究会に対する弾圧を恐れ」「それをカムフラージュする ため」のものだったのではなく,むしろ, 「政治の新体制運動によって教育の 生活主義と科学主義を標榜する教育科学運動を推進」するためであった。(3)

(2)

 城戸の「教育科学」を,彼の権力機構内部への参入に焦点をしぼり,その必 性然を探ろうする場合,「東亜協同体論」との関連を問うことはきわあて大切 な課題であるといわなければならないのである。

 城戸の教育科学は,観念的な教育哲学を批判し,現実の教育諸問題の科学的 解決を求め,観念的で国粋主義の非科学的な教育内容や鍛練主義が学校教育を 支配している現実を改革するすぐれた遺産として従来より高い注目をあびてき た。それはファシズム教育への「抵抗」の証として評価されてきた。その「抵 抗」の教育科学に,なにゆえ権力機構内部への参入による教育改革の展望が生

じたのだろうか。これは解きあかさなければならぬ重要な問題であろう。

 昭和研究会は,多様な知識人を集あた近衛文麿の私的諮問機関であり,彼の ブレーントラストとして機能した政策研究会であった。研究会の同人は,軍部 を牽制し,「合理的で革新的」な政策遂行を近衛に期待したのである。その中 心理論である「東亜協同体論」は,日中戦争が拡大するにつれて既成事実と政 府への追随が露骨になったが,東亜協同体の建設のためにはなにより日本国内 の変革ないし再編が必要であると説き,他の新体制運動の理論と比べ「自由主 義,個人主義の一面を強調する」(4)点で大きな特徴があった。たとえばその自 由主義ゆえに皇道亜細亜派からは「肇国の精神に反する」と批判され,攻撃を 受けているのである。(5)昭和研究会自体もまた,右翼から「アカの巣窟」とし て非難され1940年に解散に追い込まれるのであった。

 「東亜協同体論」には,明らかに反全体主義的な性格が含まれていたのであ り,軍部の「独走」を多少なりとも批判しようとする契機が隠されていたので あって,(6)しかも,のちに明らかにするように,近代的に装備された国家機構 の介入による社会政策・福祉の増進という「改革構想」が少なからず提示され ていたのであった。城戸は,自らの教育改革の構想を昭和研究会を中心とした 勢力による新体制運動のなかにその実現の足場を求めたのではないだろうか。

しかし, 「東亜協同体論」は結局,侵略戦争を美化・肯定する役割を果たした こと,そして大政翼賛会は「比類ない国民収奪の体制」(7)であったことは明ら かであった。

 国家総力戦体制は,人的資源を含めたあらゆる物資の「合理的で体系的」な

(3)

57

配分と編成を死活的問題として要請するのであり,城戸の「教育科学」はその 要請に応えるものとなっていったのではないだろうか。城戸の「教育科学」は,

総力戦体制そのものを批判し得る「科学性」を持ちえたのであろうか。ここに,

彼が大政翼賛会に参画する必然性を解きあかす重要な理論問題があるように思 われるのである。

 城戸の権力機構参入の必然性を探るうえで, 「東亜協同体論」と彼の教育科 学との関連を検討することは避けて通れない課題であり,それはさらに彼の教 育科学の「抵抗の質」を真に問いただす一端を開くに違いないであろう。

 すでに指摘したように,城戸の教育科学は戦前のすぐれた遺産として多方面 から検討が加えられてきたが,その検討には,彼の弱点への言及も少なからず 存在した。とりわけ,彼の大政翼賛会への参画にかかわって,その原因に「生 産力理論」や「超階級的な協同の思想」の影響,そして彼の「教育の機能主義 的把握」や「国家権力についての認識の甘さ」を指摘する先行研究は注目して よいであろう。しかし,これら研究は,城戸の教育科学を形成過程に即して検 討し,その理論的弱点を探り出すには十分でなく,さらに,当時の理論状況に おいて大きな影響力をもった「東亜協同体論」との関連で城戸の権力機構参入 の必然を探るまでには至っていないのである。(8)「国家権力についての認識の 甘さ」というところに批判を止あるのではなく,さらに立ち入って城戸がどの ような国家認識(ないし圏家観)をもっていたかに分析の目を据えていかなけ ればならないのではないだろうか。彼が能動的に新体制運動に加わっていくの

もあるべき国家像を所持したゆえではなかったろうか。

 こうした城戸の教育科学の評価をめぐる状況に触れるとき,戦前の教科研の 会員として活躍し,戦後その運動を総括して,研究会の国家権力への協調を厳

しく批判しその反省のうえで再出発すべきことを論じ#山田清人の指摘にあら ためて注意を払いたいのである。山田は,教科研の新体制運動を支えた思想的

立場として,次の三つをあげていた。第一一・一一に,天皇制に対する一片の疑義をも

持たなかったこと,第二に,経済新体制における「公益優先」の原理,そして 第三に, 「生活協同体」または「協同組合主義」の原理,である。(9)これら三 点はいまだ本格的な検討をみていないものばかりではないだろうか。

(4)

 本稿は,以上の課題意識より次のような順序で検討をすすあていきたい。

 第一に,城戸がなぜ大政翼賛会に参画したかを,彼の「協力主義」の思想に その原因を求あ,その思想にいきつく必然性を彼の「教育科学」の形成過程か

ら分析し,また三木の「東亜協同体論」 (協同主義)の影響から明らかにする よう努める。第二に,経済再編成の原理である「公益優先」の思想を,城戸の 職業教育論と昭和研究会の「協同主義」との関連において検討し,彼が自らの 教育改革の展望を新体制運動に見いだす論理を探るようにする。そして最後に こうした検討をふまえて,彼の天皇制に対する認識を問いつう,権力機構への 参入の必然性を明らかにしていく。

H 「協同主義」思想と教育科学

はじめに

 城戸は終戦直後,戦前の自分の基本的な思想的立場は,「自由主義」から「協 力主義」へ移行したとのべている。彼は「わたくしの思想には資本主義的機構 の改革を必要とする社会主義的思想のあったことは事実」としながらも,「そ れを実現するために,階級闘争による方法を採らず,教育によらしむ」との態 度をとったとし,この政治闘争に対する「教育的態度」こそ「自由主義」であ ったとした。つまり「政治的には社会主義,教育的には自由主義」という「矛 盾」した思想が存在したとする。しかし,日中戦争が全面化するにしたがいこ の「自由主義」に徹底することができなくなり, 「国家的計画教育の必要を認 めるに至った」としつつも,その計画教育こそ「社会主義的統制の政策的具現」

でなければならぬ,と考えたとした。そしてこの立場が「協力主義」であった とのべ,それを以下のように説明する。

  「わたしは社会主義の思想はわが国においては政治の日本的性格と調和せ  しむべきものと考へ,特にこれを協力主義なる言葉で表はそうとした。政治  の日本的性格とは天皇を奉載する国民の生活協力体制を確立する政治を意味  したのであって,これが日本的民主政治の性格であると今でも確信してゐ

 る」(10)

(5)

       59  自由主義と社会主義の思想的「矛盾」は「協力主義」という思想によって解

消されたとみてよい。「協力主義」には明らか「社会主義的統制の政策的具現」

が期待されていた。しかし,この「協力主義」は「天皇制のもとでの社会主義 的統制」の実現を展望するものであった。(11)しかもそれは終戦後においても 城戸の「確信」でさえあった。この「天皇制のもとでの社会主義的統制」につ

いてはこの後も何度か問題にしていきたい。しかし,今は戦時中の城戸の発言 から「協力主義」の内容にもう少し立ち入ってみたい。

 彼は論文「協力主義の教育態度」で,日本の現実には容認できない「非合理 的存在」があまりにも多いとし,その非合理性を正しく認識し,新しい社会を 創造するたあにはそのためのイデオロギーが必要であるとし,それが「協力主 義」であるとのべ,次のように説明する。

  「そのイデオロギーの宣言する言葉は自由主義と統制主義,個人主義と社  会主義とをアウフ・ヘーベンするr協力主義』といふことでなければならぬ」

 そしてこの「協力主義」のもとでのみ「社会は合理的」に編成されるとし,

さらに教育は「合理化されたる生活協同体を基礎として初あて教育協同体を形 成し,教育の国家的社会的機能を有効に発揮せしむることができる」とするの

であった。(12)

 城戸の「教育科学」は,「協力主義」に行きつき,「協力主義」を思想的基盤 にして展開されたといってよいだろう。ところで,この「協力主義」こそ三木 清の「東亜協同体論」 (協同主義)と基本的な点で同一の思想傾向を示すので あった。三木は論文「協同主義の哲学的基礎」で以下のようにのべている。

  「協同主義は個人主義的或いは自由主義的無政府状態に対して全体の立場  における統制の必要を認める。この統制は綜合的・合理的・計画的でなけれ  ばならない。全体主義的統制が上からの官僚的統制に陥り易いのに対して,

 協同主義の強調するのは自主的な協同である。協同主義は下からの組織が形  成されることによって全体的統制の実現されることを求める。従って革新的  な国民運動や国民組織は協同主義の大いに関心するところである」α3)

 個人主義・自由主義の限界を論じ,全体主義の優位を説きながら,その官僚 主義的傾向の克服を国民の自主性に求ある「協同主義」は,先の城戸の「協力

(6)

主義」とあまりにその基調が符合しているではないか。 「協力主義」こそ城戸 が「革新的な国民運動」に,すなわち「新体制運動」に参加していくイデオロ ギー的基盤だったのではないだろうか。大政翼賛会への城戸の参画は,「協力 主義」を重要な思想的基礎にして行なわれたとみてよいと思われるのである。

 では,三木はこの「協同主義」でもって日本ファシズムにどのように対決し ようとしたのであろうか。そして「協同主義」の運命はいかなるものであった のか。また,城戸はこの「協同主義」に何を期待し,自らは「協力主義」を打 ち出したのか。本章の課題の焦点はここにある。

 以下,城戸の「教育科学」の形成過程を分析し, 「協力主義」に行きつく原 因を明らかにしていくことから検討をはじめていきたい。

1 「教育科学」の形成一「協同の精神」 「社会協力」とは        (1)

 1930年代以降,城戸は1910〜20年代の心理学研究を基盤にして教育現実に積 極的に関与しはじめる。30年に企画され,31年から33年にかけて刊行された岩 波講座『教育科学』の編集に阿部重孝らと共に参加し,自ら率先して教育科学 運動を行なっていく。37年には教科研を組織し, 「会長」の任務を努める。

 では,この城戸が教育(問題)に関心を示し, 「教育科学」の形成に自らの 努力を傾けていくきっかけを与えたものはなんであったのか。そしてそれはい

つごろのことであったのか。

 東京帝国大学で心理学の研究を始めて(1913),ほば10年後の22年,城戸は ドイッに留学の機会を得る(1922〜24)。しかし,留学中,心理学の研究は必ず しも「自分の思うように行かなかった」という。がその分,教育に「深い関心」

をもつ機会ともなったのである。彼はそこで「ドイッの新教育は生活共同社会 学校でなければならない」とする「イエナ・プラン」のペーターゼンやクリー

クが提唱する「教育科学」に触れることになる。そして「これまでの教育学が 教育の理念を問題とする規範学であるのにたいして」,この教育科学が「教育

を一つの社会事実としてその法則を発見しようとする」ことを知る。しかし,

この「教育科学」は教授法を問題にしていないとする,つまり心理学をまった

(7)

       61 くオミットしている,という疑問を同時に抱くことになる。 「目的なり価値と 無関係に」教育を考えるわけにはいかないのであり, 「この問題をどう解決す

るか」に「教育科学」の課題があるとした。(14)

 このように城戸の教育への関心は,規範学的教育学を批判する「教育科学」

との接触において生じたのであり,しかしその関心は同時に,その教育科学が 立場を問わず価値を志向しない,すなわち実践的で変革的な「教育科学」でな いという批判的理解のうちに形成されてきた。31年,講座『教育科学』を刊行 しはじめたその年,城戸がクリークの「教育科学」を「徹頭徹尾教育の事実に 立脚し教育の本質を明らかにしようとする」ものとしつつ,以下のように批判 するのは上記のことをよく表している。

  「教育科学の問題は『何であるか』(das, was ist)の問題から『如何にあ  るべきか』(das, was sein soll)の問題へ高められねばならぬ。従来の教育  学の課題はこの問題を逆に取扱った点にある。クリークによって問題にされ  なかった教育技術や教育価値の問題はシュトルムの教育科学における立場と  同様にやはり教育科学の問題として取扱はれねばならぬ」(15)

 城戸の「教育科学」は,社会による被規定性のみを強調する「社会学」的性 格を批判し,没価値的態度を戒あ,能動的に教育現実に働きかけていく価値実 現の「教育科学」,すなわち「価値の批判学」としての「教育科学」を構想し

た点に大きな特色があったのである。(16)

 では,その「現実」や「価値」の内実は果たしてどのようなものであったの か。もう少し,城戸の「教育科学」の中身に分け入ってみよう。

 20年代の城戸は,従来の心理学の方法論を綿密に検討し,心理学の実践的性 格を問う努力を重ねていた。その努力は,先に指摘したドイツ留学による「教 育科学」の接触のほか,帝大時代の同級生・黒田照清が勤めていた「本所の太 平小学校」での精神薄弱児童の知能の構造に関する実験やその観察,(17)さらに 東日本の自由教育運動をリードした白楊会への関与(18)などによる実際の教育

問題に触れることと大いに関係していたといってよかろう。ドイツ留学後は,

文化改造・社会改造の意識を一層強め, 「文化」 「理想j 「個性」などの概念 を先験的概念から経験的概念へ,そしてさらに実践的概念へ組み替える努力を

(8)

つづけるのであった。(19)

 心理学の方法論への批判とその実践的性格への組み替えの努力は,心理学に 対する社会学の特性を,自然科学に対する精神科学の特性を,実証科学に対す

る倫理学の特性を,精神科学に対する社会科学の特性をそれぞれ明らかにする という諸習作のつみ重ねのなかで行なわれていく。彼は26年,「社会学的認識 は現象を説明したり人生を理解したりすることではなく,文化を批判すること

によって人間生活を改造する方法を発見することができなければならぬ」(20)

とのべ,28年には, 「経済学の経済学たる所以はどこまでも社会科学としての 実践的性格に自らの問題を見いだしていねばならぬ」(21)とし,そして29年に

は「吾々は何をなすべきかの目的意識を自覚する点に精神科学の本領を見いだ すことができる」(22)というように,諸科学の実践的変革的要素を強調した。こ

うして31年,「立場を問題とする哲学」を論じながら,自分の立場を注意深く 批判しそこに誤謬を発見し,自分を再創造していく行為の技価を「生活力」と 規定し,(23)またrealなるもののうちに絶えずidealな姿を発見することこ

そが正しい哲学的精神であるなどという理論化ののち,(24)33年,当時の教育 学の系譜を批判的に総括し,自己の教育学を積極的に論じた代表的論文「社会

的教育学」に至るのである。彼は「教育科学の方法がたんに人間が環境によっ て変化されることのみを説くものとすれば,それは誤られたフォイエルバッハ 流の唯物論に基づく人間学か社会学の方法に過ぎぬ。人間を教育する社会を変 革する人間の実践に教育の意義を見出すことのできぬ教育科学には真に教育科 学としての自律性を認めることはできぬ」と,自らの「教育科学」を確定する のである。それはまさに「実践の理論」としての教育科学であった。(25)

 「実践の理論」を語るとき,どうしても触れなければならないのはマルクス 主義との関連であろう。城戸はマルクス主義にどういう理解を示したのか。そ して日本のマルクス主義陣営にいかなる態度をとったのだろうか。28年の3・

15事件,29年の4・16事件と日本共産党に対する全as−一斉弾圧がつづき,30年 には三木清が日本共産党に資金を提供した疑いで検挙されるというように,こ の時期,マルクス主義への接近は注意深い配慮を必要としていた。このような 状況にあって城戸は意欲的にマルクス主義に学ぶ姿勢をとった。そして,すぐ

(9)

       63 あとでのべるように,城戸もまたこの時期に書いた論文が原因で検挙・投獄さ れることになる。では彼の「社会主義思想」とはいかなるものであったろうか。

 社会科学こそ「実践的改革」に貢献しなければならぬと説く城戸は,マルク スの経済学の方法はあらゆる学問についての考え方に大なる変革を与えたとし,

その経済学の方法を次のように指摘する。

  「マルクスの資本論は現代の経済形態としての資本の記述分析であり理解  説明であったが,それが経済批判としての社会科学的方法である限り,資本  の単なる記述分析であってはならぬ。それには資本の正体を暴露してこれを  否定すべき問題が提出されてゐねばならぬ。ここに経済批判としての弁証的

 方法がある。」(26)

 彼は,労働と資本の対立を問題にし, 「社会は階級闘争の場として存在せざ るをえない」(27)と,現実に生起する問題の階級性を認識する。そして「封建時 代から現在の資本時代に至るまでの社会事業なるものはかかる労働者より搾取 した剰余価値としての資本によって行はれた」とのべ,資本家の利潤を容認す る社会事業は社会民主主義的協調に陥って「真のプロレタリア文化」としての 社会事業を達成させることはできないだろうとする。社会事業のその方法がい かに科学的合理性を備えていても,社会主義的合理化か資本主義的合理化であ るかによって,その実践的性格はまったく異なるとし, 「抽象的な社会事業科 学」の「無意味」なることを論じる。そして,「資本主義的合理化運動の手足

となって活動することは自殺するよりも苦しい」であろうと,無産大衆のため に活動する社会事業家への激励とともにその苦闘に思いを寄せるのである。(28)

 これらの指摘をみるかぎり,城戸は理想の社会を社会主義においていたと思 えなくもない。 「特高」はこのような城戸の見解をとらえ「反戦主義者」とし て彼を1944年に検挙・投獄した。(29)では,城戸は社会主義の実現のたあの階 級闘争や革命実践をどう把握しただろうか。そして,革命実践と教育実践との

関係をいかにみていただろうか。彼の思想的特色はまさにこの点においてこそ 正しく理解されなければならない。

 彼は社会主義の実現にはなにより文化革命が必要であると主張した。よって 教育が階級闘争や革命実践の手段となりそれに従属するような理論的主張に対

(10)

しては厳しい批判の目を向けた。彼は,マルクスの社会科学的方法の意義を認 めるが,その思想や結論(共産主義)はただちに日本の現実にあてはめること はできないとのべる。マルクスの社会学は「プロレタリア的革命の必然性を認 識し,かつその実践的方法を教える学問」であるが,これを現代の社会にも

「妥当し得ると考えることは,明らかに時代錯誤或いは階級錯誤に陥ったブル ジョァ・イデォロギーに基づく社会学」(30)であるとした。まず何より現実の日本 の冷静で科学的な認識こそが必要であると彼は考えたのであろう。それは,一 方で社会主義の理想を論じながらも,「プロレタリアートの独裁」に対する批 判的論述を行なうこととも関連を有しているのではないか。彼はプロレタリア ートの独裁による国家であるかぎり弾圧と反抗はさけられず, 「他のイデオロ ギーに基づく教育の自由は許されぬ」(31)とのべる。資本の専制とともに労働者 階級の専制にも反対することは大正期の民本主義に特徴的にみられることであ るが,(32)その影響は城戸においても現われているのである。

 城戸にとって大切なことは,人間の判断力における合理性と自由性であり,

だからこそその形成を目的とする教育の意義を論じるのであり,教育の自由の 保障を主張するのであった。日本の大衆が自由な教育的環境を創造し,その中 で自主的に主体的に物事を判断し,矛盾を解決していくことこそが重要であっ

たのである。

 この自由で主体的な精神活動を指摘する城戸にとって,日本のマルクス主義 陣営は大きな問題をもっているように思えたのである。プロレタリア科学研究 所(1929年創立)は,その活動を純粋な理論的関心から大衆の啓蒙的宣伝活動 に移したとし,そこにマルクス主義の「危機」があるとする。(33)また31年の長 野県教員赤化事件をとらえ,彼ら左翼教員が「学校」において「非合法的」に 教育運動を行なったことを問題とし,彼らの「意識は極めて低いもの」と批判 した。城戸は,最初から一つの立場にたった教育は人々から批判力を失わせる とし,「観念的にアヂられてゆく階級意識は階級闘争を激化せしあるであろう」

が「しかしかかる階級意識は社会を正しく認識し得た知識とはいえぬ」と「赤 化教員」を戒めた。(3の彼の立場は何より 「教育の自由」を保障する自由主義に

こそあったのである。

(11)

65

  「革命的実践から見れば,かtsる教育(教育するものが自由な立場から教       び

 育する一佐藤)は煮えきらぬ日和見主義として軽蔑されるであろう。しかし  支配するものにとって最も危険なのはかSる教育の自由であって,それは如  何なる支配階級にとっても危険であるが,新しき社会の発展にとっては如何  なる時代においても必要な立場である」(35)

 「教育こそ覆はれたる目を解放し,思想に対する正しき判断をなすべき命令  を行なふべきものである」(36)

 封建遺制の残存と,思想の自由を基本的に大衆から奪っていた戦前日本の状 況を考えてみるとき,自由で主体的な精神活動の営為に格別の意義を与える城 戸のこの発言は重要なことであったと思われる。

 城戸の「自由主義」の意義は次の点からも,さらに論じられなければならな いだろう。28年,イタリアのファシスト党の政権確立以来,内外のファシズム 的潮流に対して城戸はどのような発言をしたのか。彼は,ファシズムの実践は

「実践のための実践」であり,「実践の理論」ではないとし,「明らかに哲学 の没落における最後の断末魔を表現してゐる」(37)とする。また,「独裁政治に とって最も恐るべきものは自由主義であ」るとの確信をのべつつ,ナチスは

「国家観念論者であるだけ,イデオロギーの宣伝と威嚇とに狂奔する」とし,

ナチスに罷免された自由主義者アウグスト・メッサーの教育学を紹介すること で「我国における隙由主義の危機に対する一つの反省」(38)を促していた。

 城戸は人間の合理的で自主的な思想の形成を重んじた。人間の精神的解放を 求め,政治的変革に対して言わば「文化的革命」を強調した。それはファシズ ムがイデオロギーの宣伝と教化をこそ武器に成立する狂気であるからこそ重視 されなければならぬとする「自由主義者」の確信からであった。では,彼は教 育の固有性・自律性をどのように捉えたであろうか。彼の考える教育の理念と 方法は何であったのか。

  「しかし社会科学における実践がたんに経済生活における階級闘争の克服  のための革命的実践を意味するものとすれば,社会科学の方法を以て直ちに  教育科学の方法となすことはできぬ」(39)

 城戸がつよく教育の自律性の解明を志向していたことがここから分かる。

(12)

 人間の精神形態を「歴史的社会的存在」として考察することを早くから説く 彼は,その対象は個人の現在意識に限定すべきではなく,「人間の協同精神」(40)

にまで拡大しなければならぬ,と考えていた。この「協同(共同)の精神」こそ 彼が考える教育の目的であり手段であったのだ。

 31年,彼は次のようにのべていた。

  「人間は事前のうちに文化を生産してゆく社会の労働者であると同時に,

 人間のうちに文化を享楽してゆく協同の生活者でなければならぬ。」(41)

 ドイッ留学時に,ペーターゼンのイエナ・プランに接し,「生活共同社会学 校」に興味をもち,かつ共鳴した城戸は,ペーターゼンを高く評価し,33年に は次のようにのべている。

  「教育社会における陶冶の方法が,ペーターゼンのいふやうに支配にある  のではなく指導にあるとすれば,教育の実践は政治や革命とは異なって,あ  らゆる社会生活における共同の精神を実現することであらねばならぬ」(42)

  「彼の教育科学は教育の現実性として社会生活によって限定されてゐる教  育の事実を正しく認識すると同時に,個性の自由なる陶冶によって新しき生  活共同体を形成せしめんとするものである」(43)

 教育の固有性を論じるとき,彼は「協同の精神」をこそその中核に据えよう としていた。 「協同の力」によって人間に「協同の精神」を形成すること,こ れが教育固有の目的であった。城戸は,この結論を今までに示した思想的営為 のなかから引き出してきたのである。

 「協同の精神」は,「価値の批判学」の志向のうちに生まれ,自由な精神活動 を内容とし,革命的実践に対する教育の固有性を主張し得るものとして捉えら れるだろう。しかし,すでに見てきたように城戸の思索過程にはいくつかの問 題が孕まれていたといってよい。

 彼は, 「教労・新教」の運動に懐疑的・批判的であった。何よりも教員が全 教一般使用人組合教育労働部の指導下に組織運動をつづけていたことを問題に

した。彼は,積極的に階級闘争と教育的実践の関係を問う作業を進めなかった。

むしろ階級的政治運動の弱点を批判する一方で,教育の自律性や固有の意義を 論じた。教育運動と教育実践のダイナミズムを発展させるうえで,これは大き

(13)

       67 な弱点であったろう。「新体制運動」に「社会主義的統制」の期待をかける原 因もここに一つの遠因があったのではないか。

 また,ファシズム批判も弱点はなかったか。城戸はファシズムを「精神主義」

「神秘主義」と特色づけた。この指摘は重要である。ところで,同じ時期に出 された林達夫の論文「イタリア・ファシズムの教育政策」 (r教育科学』の付録

『教育』第14号)と城戸の主張を比べてみたい。林は,ファシズムの教育が人 間の教育を「動物の調練」に引き下げるものであることを具体的に分析する。

ついで,Fブルジョアジーの独裁」はイデオロギー的には「協同体的国家」ない し「職能別代表」の思想で「粉飾」されているとし,ファシズムは何よりプロ レタリアートの解放運動を極度に「憎悪し恐怖」していると指摘していた。(44)

日本のマルクス主義陣営の批判と並べてファシズムの批判を行なう城戸とは,

具体的分析の有無とともにファシズム批判の核心においてかなりの「開き」が あるのではないだろうか。新体制運動への参入の二つめの遠因がここに隠され

ているのではないだろうか。

 では,30年代後半以降,「協同の精神」はどのように展開していったのだろうか。

       (2)

 城戸はこの「協同の精神」を特に幼児教育論のなかで展開する。城戸の幼児 教育の基本的性格は,児童中心主義に対して社会中心主義を標榜するところに あり,現実の社会で生活する子供の生活を積極的に指導する立場に立つ保育を 主張する。その保育理論の核心は「何よりも先ず子供の自然である利己的生活 を共同的生活へ指導していく」ことにある。子どもの「利己的生活」を共同的 生活」へ指導すること。これは,ペーターゼンに学んだ「共同」の思想の応用

・展開であることが分かるであろう。

 ペーターゼンによれば,今日の学校は,「物」や経済的利益を追求し,その 生産と消費をめぐって成立している「利益社会」の単なる「施設」であって,

支配階級によって維持される「国家学校」でしかないという。それに代わるイ エナ・プランによる学校は, 「利益社会」の機能を担うのでない,自由で自律 的な民衆学校であって集団を基礎とする「教育協同体J(45)であるという。

 城戸はこのペーター一一 tiンの思想に学び,自らの保育理論を深めていく。現在

(14)

の社会は, 「自分の子供さえよくなればよい」 「他人と競争して勝たねばなら ぬ」とする「利己的栄達主義」の社会であり,これが「生存競争における自己 保存の本能に基づく個人主義資本主義社会の誇らしい道徳」である。また,子 どもも「生まれながらにして自己保存の本能をあらわす利己的闘争的存在」で ある。その原因は「資本と労働との対立による階級闘争が行なはれ」ざるをえ ない「経済的機構」にあるとする。(46)

 こうした現実をどう克服していくのか。彼は次のようにいう。

  「社会機構の改造が行なわれない限り子供の教育的環境を改造することは  困難であるが,教育政策は社会政策と相侯って子供の生活環境を改造してい  くことはできる。学校はかかる意図のもとに計画される新しい生活様式の教

 育的組織でなくてはならぬ」(47)

 こうして,城戸は教育政策による教育環境の改造と,子供の「利己的生活」

を「共同的生活」に指導する「社会協力」の原理を主張するのである。

 この「社会協力」の原理は,保育理論の固有な課題にこたえたものであった が,それは同時に資本主義「体制」の原理に挑戦する意味で「国民教育全体に とっての共通の課題」でもあった。(48)また,その原理は当時の幼児保育方法に 問題を提起するすぐれた内容であった。 「集団保育」理論を中心に総括される その内容は豊かである。(49)しかしいまここで問題にしたいことは何故その理 論が戦時体制にまきこまれていくかである。

 社会中心主義理論を展開した城戸は,40年に入り「国家中心主義」的保育理 論を説きだす。

  「この時期の躾としては何よりも子供の自己中心主義を社会中心主義に転  換させて,将来は国家中心主義の立派な国民に錬成しなければならぬのであ

 る。」(50)

  「そしてその方法も『国家から』の立場がとられる限り,保育の技術は単  なる保nv−一人の技術ではなく保育の組織であり,その組織は国民の内に認め  られる保育協同体である」(51)

 この「保育協同体」を城戸は,翼賛体制の末端組織である「隣組」に見出す

のである。(52)

(15)

       69  時代の進展に応じて,「社会協力」は「国家」への協力に転化したといえよ

う。現実の社会がまさに個人主義的な競争社会であるからこそ,城戸は国家に その「共同性」を求めたのであった。

 城戸は,階級闘争が行なわれている社会には「社会協力の精神」など認めら れないという。(53)彼は階級闘争の原因である「資本主義社会機構」を問題に するが,階級闘争そのものは「社会協力の精神」に対置させている。資本主義 批判が利己主義批判に還元され,階級闘争が否定されたとき,そこに国家への 幻想的「共同性」が生じたのであり,「社会協力」の原理は国家主義に強く色 彩られていくのであった。(54)城戸の「自由主義」から「協力主義」への移行 は,このような理論展開を背景に行なわれたのである。

 ではなぜ城戸は階級闘争を否定し,国家に「共同性」を期待したのであろう か。これは城戸独りの問題にしてはならない。当時の思想状況がさらに吟味さ れなけれはならないだろう。次にこの問題に移りたい。

2 昭和研究会と三木清の「協同主義」

       (1)

 天皇制国家主義教育は一貫して,本来的に「道徳」教育であった。一方,産 業とテクノロジー一の発展は技術的知識を必然的に要求する。この国家の要求に

内在する国民の精神的「統合」の要求と技術的合理的要求の矛盾は,総力戦段 階にはいるやいっそう深刻になる。(55)城戸の「教育科学」の意義はこの「矛盾」

を衝くことにあった。

 日中戦争の開始は教育の軍国主義化に拍車をかける決定的な契機となる。文 部省思想局は,37年,『国体の本義!1を発行し,H本精神主義による教育の思想 統制を強化する。勅語奉読をともなう諸行事の強化,各教科への「時局教育」

の導入がすすめられ,さらに「日本」的科学,「皇道」に基づく科学などの非科 学的理論が横行するようになる。城戸は「日本主義」の宣揚にみる復古的観念 性をくりかえし批判し,「合理的で科学的」な教育政策の遂行を強調した。彼 は,「生活科学は単に自然科学的方法によって生活を合理化することではなく,

国民に対する生活政策の科学的企画を樹立し,更にそれを実行せしむる方法で

(16)

あるから,国民の新生活運動を指導するための教育計画を樹立することが重要

な方法でなくてはならぬ」(56)とのべた。

 しかし,一一方,近代の戦争は高度な知識・技術を要求する機械戦であり,人 間関係における物質的および精神的な全領域の過程を一定の軍事目的にあわせ て整合的に行なうことを要求する「総力戦」(total war)であった。国家と社 会の各方面において,計画・統制・経営の諸技術を駆使するテクノクラシー体 制の確立が死活的な問題となる。既存の国家体制の改造を求める合理的総合的 な思考様式をもつ「テクノクラートの一群」が台頭してくるのであって,「新 官僚」「革新官僚」といわれる人々がそれであった。そして彼らは明治時代の

「牧民官的官僚」の性格から抜け出し,社会関係の構造をとらえそれを動かす ことで社会問題を解決しようとする思考様式,つまり「全機構的把握の仕方」

を備えていた。彼らは多かれ少なかれマルクス主義の教養を身につけていたの

である。(57)

 すなわち,戦時経済への移行は,官僚の役割を増大させ,全機構的視野と知 識を要求し,マルクス主義的社会科学に独特な「機構的把握」が天皇制ファシ ズムの下で活用されだすのである。そして,こうした国家的要請が,逆に,33 年以降大量に転向したマルクス主義者を中心とする左翼知識人が体制内に入り こみ,内部からの変革をめざす根拠ともなっていった。(58)

 城戸の「教育科学」がこの官僚層の思考に対応していくことは十分に推察し うるであろう。そしてまさに,この点の問題こそここでの最大の焦点となるの

である。

 城戸は, 「教労・新教」の運動に参加した実践家や生活綴方教師との接触を もち,教育の統一戦線的発想をすくなからず彼らから学びとることはできた。

しかし,一方,彼は30年代の早い時期から「国家改造」をめざす先の官僚層と もつながりをもち続けた。昭和研究会がそれであり,同研究会は新官僚・革新 官僚と連携し,またその拠点ともなった政策研究会であった。

 城戸はいかなる勢力をたのみとし,彼の教育改革の構想を実現しようとした のであろうか。 「協同の精神」「社会協力」そしてその「協力主義」への移行

も,昭和研究会に集うメンバーたちとの思想的交流の分析を経ずしては,その

(17)

       71 内容は見えてこないのではないか。

 ところで,三木清は,反体制運動のほとんどが弾圧によってその存続の可能 性がたたれたのち,軍部への牽制と「合理的」な社会機構の編成を狙う昭和研 究会に入いる(38年)。彼はファシズムの阻止を昭和研究会内の活動によって,

展望した。三木もまた昭和研究会の活動に期待したのであり,研究会もまた三 木の力を頼りとした。三木と研究会とのこの関係の分析は,さきの城戸の「教 育科学」の問題すなわち体制内への参入の論理を解明するうえで重要な手が かりをあたえてくれるのではないか。城戸は三木の「協同主義」に強い影響を 受けていたのであるから。

 では,その「協同主義」とはいかなる思想であったのか。

       (2)

 昭和研究会は,33年,ソビエト,ドイツ,アメリカなど激動する世界を直接 目にして帰国した後藤隆之助(第1次,第2次近衛内閣の組閣に加わる)が,

蝋山政道を中心に設立した国策研究会である。城戸はこれより先この後藤が勤 めていた日本青年館で阿部重孝らが行なっていた「教育研究会」に参加してお り,同研究会はその後も昭和研究会の部会として存続しつづける。昭和研究会 は後藤の友人である近衛文麿に新しい政治力を期待して,そのブレーン・トラ ストとして結成されたが,やがて研究会は発展し,「新官僚」「革新官僚」へ の影響力を通じて現実の政治の動向に関与しはじめる。

 研究会は,はじめ国内問題(特に農村問題や教育問題)を中心に現状の科学 的分析に活動の力点をおき,政策理念の探求をすすめた。しかし,やがて「支 那事変」を契機に, 「東亜協同体論」の形成さらに「新体制運動」へと情勢の 急変に応ずる理論化の問題に追われることになる。(59)三木が研究会に参加を 求められるのもこの事態の推移からであった。37年当時,研究会の最大のテー

マは現実にとめどなく拡大していく戦争をどのように解決し,いかに日中両国 の提携をはかるかという問題であった。さらに研究会内部では政治・経済の研 究をつづけてきたが,それらの分野を通底する世界に通ずる思想原理が必要で あるとの局面にさしかかっていた。当時,研究会の事務局員であった酒井三郎 は,「このように世界政策研究会で次々と話をきき,これをそれぞれ政治,外

(18)

交,経済の各研究所で取り上げ,掘り下げていったが,文化思想を扱う研究会 はなかった。しかし,すべての研究会を貫くバックボーンとして,それを求め る気持ちは次第に強くなってき」(60)ていたとのべている。

 三木は37年11月号の『中央公論』に「日本の現実」という一文を書く。これ が酒井の目にとまり,研究会として三木の話を聞いてみようということになっ た。伏せ字の多い同論文で三木は, 「今度の支那事変は日本に新しい課題を負 わせた」とのべつつ,日本の特殊性のみを力説する日本精神の限界を指摘し,

「日本の政治の指導精神の意義を秘教的にではなくて科学乃至哲学的に世界に 通用する言葉でもって閾明する必要」を説き, 「資本主義の弊害を是正して日 本と支那との『共存共栄』を計り得る思想は如何なるものであろうか」,(61)と 課題を提示した。酒井はこの三木の話を聞き, 「私たちは迷いに迷いぬいた道

に,明るい灯が見えたような気がした。……私たちは三木の提案こそ,われわ れの求めてやまないものであること,これを掘り下げ,探求する必要のあるこ

とを痛感した」(62)とのべている。これが機縁となって三木は昭和研究会に参 加し, 「協同主義」思想を展開し,会をリードしていくのである。

 三木はさっそく研究会内に「文化研究会」を発足させる。同研究会のメンバ ーには,三木のほか船山信一,三枝博音,林達夫,笠信太郎らが集まり,その ほとんどが従来マルクス主義者とみなされていた人々によって占められた。(63)

同研究会のなかで三木は「東亜協同体論」(協同主義)を練り上げ,39年1月 に「新日本の思想原理」を,39年9月に「協同主義の哲学的基礎」を書き上げ る。これらが昭和研究会に与えた影響は大きく,城戸もまたその一人となった のである。

 三木の「協同主義」は「支那事変の発展は,国内改革なしには事変の解決は 不可能であること」とのべるように,対外問題と国内改革とを連続線上で捉え たこと,および「支那の民族的統一を妨害すべきでない」とする中国人民の民 族主義に少なくない配慮を払った点で,他の侵略戦争を正当化する「東亜新秩 序」建設の理論との違いがあった。三木は日本が「資本主義経済の営利主義を 超えた新しい制度」を打ち建てることこそ「支那事変の世界史的意義」である

ことを強調した。(64)

(19)

73

 ついで三木は,民族主義,全体主義,家族主義,共産主義,自由主義,国際 主義,三民主義,日本主義を「協同主義」の原理に照らして批判検討していく。

全体主義に対しては「官僚主義」 「非合理主義」の弊害を,家族主義に対して は「封建性」を,個人主義に対しては「利己主義」を,日本主義に対しては

「偏狭な排外主義」の弊害を戒め,それらを乗り越えるものとして「協同主義」

を展開する。(64)この中で注目すべきは「共産主義」と「自由主義」に対する 三木の見解である。これはすでに問題にしてきた城戸に共存する「社会主義」

と「自由主義」の「矛盾」に対する,有力な「解答」ともなるからである。

 三木は「共産主義については,何よりも階級闘争主義,プロレタリア独裁の 思想が否定されねばならぬ。社会の存在はつねに階級性に対する全体性の優位 を示している」とし,つづけて次のようにいう。

  「もとより現代社会のうちに階級の問題が存在するといふのは事実であり,

 この事実に対して目を蔽ふことは許されない。しかしながら階級の問題は階  級闘争主義に依存することなく,却って協同主義の立場に於いて新しい解決  を見出だすべきものである」(64)

 一方自由主義について,利己主義としての自由主義は排斥しなければならぬ としながら, 「自由主義の主張してきた人格の尊厳,個性の価値等の諸観念は 重要な意義を有してゐる」とし,「個人主義に於いて重んぜられる人格,その 個性,自発性,自主性,さらに個人の責任等は協同主義に於いても重んぜら れ」るであろうし,また「個人の自由を認めない社会は自由な社会とは云ひ得

ない」とまでのべた。(65)

 階級の問題に目を蔽うことはできない。しかし,その解決は「階級闘争主義」

によっては無理である。 「公益主義」の立場に立って「個人の自発性と創造力」

によって,自由と個性を発揮することを尊重する「協同主義」によって問題は 解決すべきである。「協同主義」はこの意味で「国民運動」に注目する。国民 運動は「大衆の自発性」と「強権主義」でない「指導者」との「協同」によって 創造されるべきである。 「指導者と大衆との関係は本質的に教育的でなければ ならぬ」(65)。三木はこうして「資本主義の問題の解決」を展望したのであった。

 ここに城戸の「教育的態度」ないし「協力主義の教育態度」の原理ともいえ

(20)

るものがよく示されているのではないか。城戸の「共鳴」の原因はここにあった のであろう。

 三木の「協同主義」が,日本の中国侵略へのブレーキの役割を果たそうとし たことは明らかである。極端に非合理な国家主義に歯止めをかけ,個人の自由 を無視した全体主義的統合に制約をかける原理たるべく「協同主義」は提出

された。(66)三木は「全力をそそいで,戦争の意味をかえるたあの異議」申し たてを行なった。(67)しかし,実際の「協同主義」は,現実の「理念的浄化」(68)

(「支那事変」の事実を肯定し,それに「世界的意味」を付与しようとする!)

に終わるほかなかった。

 三木の「協同主義」は,すべての対立する契機を「止揚」する「万能薬」的 性格を備えていた。この性格は,たとえば, 「かなりの国粋主義者とある程度 社会主義的な考えを持っている者でも一致してやっていける」との期待を多く

の人々にあたえ,「資本主義をいくらか修正して農村対策や中小企業対策をや っていけばなんとかなる」などの展望をもたせたという。(69)「協同主義」は 種々の対立的要素の「止揚」を狙ったものであり,そして「新体制運動」はそ の現実的基盤であるとの期待を多くの人々に与えることとなった。しかし,

「新体制運動」が「精動運動」に変質したことに示されるように,対立の「止 揚」は見事に裏切られたのである。

 城戸に影響を与えた三木の「協同主義」の運命は,以上のように総括されよ う。ではもう一度,城戸の「協力主義」を三木の「協同主義」に重ねながら検 討をすすめていきたい。

3 城戸の「協力主義」と新体制運動

 日中戦争の開始以来,支配層の最大の関心は「国家総力戦体制の樹立」であ った。そのためには,第一に,多元的な天皇制国家機構を統合整備し,権力集 中を実現すること(とりわけ軍部の抑制),第二に,自発性を喚起させつつ国 民を組織し,戦争に動員することが必要であった。(70)近衛らが進めようとし た運動の意図はここにあり, 「大政翼賛会」はその「中核体」であった。城戸 は40年12月,近衛らの意向に賛意を示し,同会に「参画」する。

(21)

       75  城戸は,その年の10月に,論文「新体制の思想原理」を書いており, 「独裁

の政治」を批判し,議会制度を革新しなけれぼならないとしっっ,「思想にお ける自由原理」を次のようにのべている。

  「国家の問題として自由が認められる場合には,自由は国策討議の方法と  して自由であり,いはS 国民の構成原理であって統制原理ではない」 「自由  のない国民に協力鐵力を求めることなどはできない」(71)

 そして,指導者と国民の間の「信頼」を説き,教師こそ「新体制における指 導者の地位を占むべき」ことを主張した。(72)

 この城戸の発言に三木の主張を重ねてみよう。

  「協同主義の要求する指導者は,専制的独裁者ではなく,国民から遊離し  たものでなく,却って国民の中に入って国民を教育し,国民の要求を取り上  げてこれを指導する者である」(73)

 両者の意見はぴったり符合するであろう。

 城戸は,欽定憲法発布に際しての明治天皇の告文中の用語である「民生の慶 福」をとらえ,この「民生の慶福」こそ国家が国民生活の向上と教育・福祉の 増進を果たすべきであるとする「民生教育の立場」を主張する。(74)天皇制の 建前を逆手にとって日本の現実を批判するこの批判の様式は, 「協力主義」と ともに城戸独特のものと評価されてきた。城戸はこのr民生教育の立場から』

のなかで, 「個人主義的自由思想に基づく文化は社会主義的協同思想に基づく 文化によって克服されねばならぬ」とのべつつ,しかしこの社会主義とは「個 人主義に対する意味であって,われらの社会が天皇の統治による国民協同体と して形成される限り,社会主義は皇道民生主義であり,また新しい意味での国 民主義,国家主義でもある」(75)と説いた。自由主義と個人主義そして社会主 義と国家主義をそれぞれに「止揚」するところに「民生主義」がある,との主 張がここから読み取れよう。ただ,城戸の際立った特徴は,天皇制に対する忠 誠の表明であり,「民生主義」も容易に「皇道民生主義」に転化する点である。

 こうして城戸は, 「東亜の新秩序とは,国共合作による蒋政権に対する新し き国家の秩序を意味するもの」とし,「三民主義並びに共産主義に対抗し得べ き新しき国家秩序の建設」こそ課題であるとのべていくのである。彼にとって,

(22)

「共産主義や三民主義を排撃するのは」天皇による統治方法がそれら主義と決 して矛盾しないからである。(76)

 城戸は, 「民生の慶福」を実現できない「東亜新秩序」の政策は「世界的使 命を果たし得ない」(77)という。ここに「抵抗」の思想をみることは可能かも

しれない。しかし,一一方,彼は日本語を東亜協同体の統治語とする「言語教育 政策」を支持し,「寛容の精神」をいいながらも「東亜の新秩序を乱すが如き 思想に対しては徹底的弾圧が必要である」(78)ことをいう。中国侵略の進行に 対する「状況追随主義」は明らかであろう。

 城戸は,国民の「自発性」に基づく「国民運動」を期待したが, 「皇道民生 主義」の下ではそれはむしろ天皇制への「自発的」統合を促す作用を発揮せざ

るをえなかったのではないか。諸思想を「アウフ・ヘーベン」する「協力主義」

や「民生主義」は社会機構の合理化をめざしたが,国家総力戦体制そのものを 批判するものではなく,むしろそれを前提として社会改革をめざす思想であっ たのである。 「協力主義」もまた「新体制運動」のイデオロギーに統合され,

それを担ったといえよう。

 しかも,この「協力主義」は,終戦後においてもなお城戸の「確信」とする ものであったことは前にのべたとおりである。たとえば,それは次にのべるこ とからも窺うことができよう。

 彼は,46年1月の「戦時教育への反省」という論文のなかで,「骸悔すべき ものは国民全体ではなく敗北すべき戦争を敢えて行なった戦争責任者と総力戦 体制を確立し得なかった政治責任者とである」とのべ, 「戦争による国防国家 体制の確立が国民の協力によって遂行されたのではなく,国民の自由を抑圧し た強制であった」としつつ,つまり「日本の敗北は自治的協力を阻止した誤れる 国家主義的戦時体制の構成に原因したものであると断言してもよかろう」(79)

とした。敗戦の原因は,国民の協力を十分に組織しえず, 「総力戦体制を確立 し得なかった」 「誤れる国家主義」にあるとしたのである。そして,さらに次 のようにいう。

  「自由主義,個人主義に対する統制主義,全体主義の高調は単なる戦争完  遂のための一時的体制としてS はなく,自由主義,個人主義の行詰まりに対

(23)

       77

 する革新的制度として要請されたものである。」(8°)

 これは,新体制運動のなかで準備された「革新的制度」を指していることは 間違いないであろう。 「新体制運動への参入の論理」,つまり 「協力主義」は 城戸の終戦直後の教育科学にも深く影響を残す問題であったのである。

 しかし,この「新体制運動」は,その当時の良心的な知識人がギリギリの思 想的営為をかけて日中戦争の終結を計ろうとした努力をもあわせ含んでいたの である。城戸がこの「ギリギリの思想的営為」の影響下にあったことは明らか

であろう。

 さて,次章では城戸がなぜ「新体制運動」に積極的に加わるかを,経済再編 成の動向を中心にして検討し,明らかにしていきたい。職業教育論を柱に彼の 教育改革論・国家観を分析し,教育改革の展望を「新体制運動」に求める彼の 論理を探っていくことにする。

皿 職能教育体制と「組合国家」

はじめに

 日本資本主義の国家独占資本主義への移行は,1929年の世界大恐慌と31年の 満州事変を契機とし,経済的には重要産業統制法によるカルテルの助長,軍需

表1工業生産額の構成よりみた日本産業の重化学工業化率(%)

1930年 1935年 1940年

(重化学工業熨ョ・機械・化学)i一帥7

63.2

工…の 業…瀞

軽穆 64.5 47.3 36.8

36.6         32 9         18.0

27.9  1  144     1&8     1

合 計

玉00.0 100.0 1∞.0

島 恭彦「戦争と国家独占資本主義」r日本歴史 現代4』

岩波書店 1968年 9頁より

参照

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