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自然はいかにして見出されるか

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ソシオサイエンス Vol.14 2008年3月 論 文

自然はいかにして見出されるか

−ハイデガーの「存在了解」を手がかりにして−

野 尻 亜紀子*

157

1.はじめに

古来,自然概念は様々な角度から検討されて きた。ハイデガーによれば,アリストテレス以 来〈存在=現前性=被制作性〉 と見る伝統的な 存在概念があったが,それは生きて生成する自 然をも制作のための質料とみる,物質的な自然 観を成立させたのであった。ここに現れる自然 観は,人間によって観察される範囲での自然を 対象としたものであり,いわば現前性で規定さ

れた自然だったと言うことができるだろう。

「そうではない自然」を人間は考えることは できないのだろうか? というのは,環境問題 や生命倫理など,現代社会が直面する諸問題を 考えたとき,我々は自然や生命に対して何らか の畏敬の念を持つことが必要だと考えられるか らである。

科学は眼前に在るものだけを解釈の盤上にの せ,分析から得た結果をもとに世界を把握しよ うとする。科学的分析は一見客観的であるよう だが,しかしそこには既に分析主体たる人間の 視線が入ってしまっている。はたして,生きて 生成する自然に対してこのような解釈は妥当な のだろうか。カントが「純粋理性批判」で言う

ように知識が主観的判断の総体であるなら,人 間にとっての自然はあくまでも自然というもの の一面でしかないことを悟る必要があるのでは ないか。

自然や生命を語ろうとして,人間は様々な事 柄を表象,想起する。しかしそれは人間による 主観的経験の総体としての知識の集合であり,

過去の積み重ねで構成された全体に過ぎない。

結局のところ,自然や生命については,どれほ ど時が経過しても断片的な知識や記憶の集積が 繰り返されるにとどまる。一方で,我々が自然 や生命について語ろうとするときにはそうした 部分の集積では語れない何かを語ろうとしてい る。断片的な記憶の集積ではつかみきれない何 かが生命・自然には在る。

ハイデガーは「了解」(Verstehen)という用 語を哲学にとりこんだ。これは画期的なことで あった。ハイデガーは「存在」について,「存 在者についてのいかなる経験においても表立 たずにではあるがあわせて了解されている」(1)

が,しかしそれが何かと問われれば我々はどの ような地平から把握し,確定したらよいのか さえわからないものだと言っている。こうし た「存在」と人間の関係をハイデガーは「存在

*早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程3年

(2)

了解」(Seinsverstえndnis)という概念で示した。

了解という概念で指し示されている「存在」,

これは先に語ったような我々が語ろうとして語 れない「自然」に似ていないだろうか。表象

(Vorstellung)としてではなく,知識(Wissen)

としてでもなく,何かを了解しているというか たちで,我々は対象に,あるいは世界そのもの に対している。この表象でもなく,知識でもな い,「了解」という概念を自然に対する人間の 態度に当てはめるとどうなるのか,これが本稿

の発想の基本となっている。

本稿では,まずハイデガーの存在了解につい て考察し,『存在と時間』でハイデガーのいう 存在がいかなる意味を持つものであるかを確認 する。そして,それをもとに人間と自然のあ

り方,すなわち「自然了解」(Naturverstandnis)

の可能性について考察する。ここで注意すべき 点は『存在と時間』(1927年)ではハイデガー は自然についてはほとんど語っていないという ことである。そこで,自然については彼の『存 在と時間』以外,もしくは以後の著作等を参考 にしなければならない。『形而上学入門』(1935 年夏学期講義録)などではハイデガーは生きた

自然としての「ピュシス」について語っている。

さらにもう一つ注意すべき点は,『存在と時間』

以後にはかの「転回」(Kehre)があり,ハイデ

がかいま見られる書物である。したがって,も し我々が「自然了解」と呼ぶべき態度をハイデ ガーの思想から導き出そうとするならば,それ は彼の「転回」前後の思想の違いをふまえつつ,

両者を接合するという試みになるだろう。そし て,当然のことながら,接合の試みの領域に 入ったときには,ハイデガーの思想そのものか らは距離をとっていくことになるだろう。

2.時間と存在了解

存在とは,人間にとってすでにわかってし まっているものでありながら,それを説明し ようとすれば言葉に窮するような「ある」で ある。この,人間なら誰もがもっている「存在

(ある)」についての了解のことを存在了解とい う。それはなにか目の前に現前するものや表象 として把擁されるものではなく,非常に漠然と した,概念以前の了解である。存在了解は人間 存在の特徴であり,ハイデガーはひとり現存在

(=人間)のみが存在を了解する存在者である として,人間の特異性を強調している。

このため『存在と時間』では人間(現存在)

についての実存論的分析が展開され,存在了解 の地平が時間であることが明らかになる。ハイ デガーは現存在を,世界の中ですでに他者や事 物とともに存在しつつ(被投性),みずからの ガー自身の思想の変化があったとされている点

である(2)。『存在と時間』では「存在了解」の 超越論的根拠という性格をもつ「存在の意味」

が探求されたが,その後「主観性を捨て去って ゆく別の思索」が必須となり[Heidegger,1976:

327],後期思想では「存在の真理」が探求され ていくのである。上記『形而上学入門』はまさ

しくこの思想の転換点における彼の思想の遽巡

可能性を目がける(投企性)存在であると言い,

こうしたあり方を「関心(Sorge)」の構造式で 規定する。「関心」は「将来(未来)」「現在」「既 往(過去)」という三つの時間性をその構成契 機としており,将来は投企(EnhⅣurf)(能動的 に世界に関わろうとする現存在のあり方)を,

既往は被投性(Geworfenheit)(受動的にすで に投げられてしまっているというあり方)を,

(3)

自然はいかにして見出されるか      159

現在は現存在が被投的投企という状態にある

「いま」「瞬間」を意味している。この三つの時 間性を現存在がどのように展開するかで,本来 的時間性と非本来的時間性の区別が生じる。本 来的時間性において現存在は,自らの究極の可 能性である死へと先駆けて覚悟を定め,そこか ら過去を反復し,現在を瞬間として生きてお り,三つの時間性は緊密に結びついている。本 来的時間性は死への先駆から生起し,そこでは

「将来」の時間性が優遇している。一方,非本 来的時間性において現存在は,おのれの死から 目をそらし,不定の可能性と漠然と関わりあっ ている。そこでは三つの時間性は緩やかに結び つき,現在が突出している。

現存在が存在を了解してあるという状態は,

現存在が三つの時間の統一態として自らを時間 化することによって可能になっている。さらに 言えば,了解を可能ならしめているある種の超 越のはたらきは現存在の投企性(将来の時間 性)によっておこる。非本来的な日常的頚落の 状態においては漠然とした了解がなされている にすぎず,「存在」は「存在者」として客体的 にとらえられるが,一方本来的な時間性のなか では現存在が自らの有限性(死)を自覚し引き 受けて生きることによって,現存在の全体性が あらわになるとともに,本来的な「存在」の意

時間』にあってこの部分は語られないままに なってしまったが,ハイデガーはアリストテレ ス以来の〈存在=現前性=被制作性〉 という伝 統的存在概念に対置するものとして,〈存在=

生成〉 という概念を導きだそうとしていたよう である[木田,1993‥137−138】(4)。そゐ後の思索 のなかで,存在は生きて生成する自然(ピュ シス)と同義とされるようになる【Heideggeち

1983a:20](5)。

『存在と時間』でいう「存在了解」とは何か と問うとき,大きな導き手となるのが『存在と 時間』の二年後に刊行された『カントと形而上 学の問題』である。このなかでハイデガーはカ ントの『純粋理性批判』第一版で論じられた構 想力に注目する。構想力とは対象が現前しなく ても直観を可能にする能力であり,受容的であ るとともに創造的な能力である。また,構想力 による綜合は時間的であって,ハイデガーはこ こに「関心」(Sorge)と同様な構造(つまり三 つの時間性が統一的にあるという構造)を見出 し,構想力によって存在に関する認識が可能に なると考えた。こうしてカントの超越論的認識 論の試みは,ハイデガーにおいて存在論的な存 在了解の試みとして読み替えられる。

このとき問題は存在の把捉の仕方である。構 想力は形象を創造・形成するとともに,他方で 味が明らかになるのである。そしてこの時開化

をどのように行うかは現存在の可能性であり現 存在の自由にゆだねられている(3)と言われる。

つまり,存在の意味の解明−それはどのような 存在了解がなされるかということにつながるが 一においては現存在の自由という,ある種の裁 量権が与えられているのである。

本来的な存在の意味とは何なのか?『存在と

は感受的な能力であった。そしてカントにおい ては「我々の認識が対象に従うのではなく,対 象が我々の認識に従うのでなければならない」

という人間の認識についての大前提がある。つ まり時間性の統一によって明らかとなる存在 の,その了解のあり方はあくまでも時間化を行 う現存在の方にゆだねられているということに なる。これは,「存在了解」があくまでも人間

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的であることを示している。カント認識論にお いて,認識があくまで人間的認識としてしかあ り得ないことが明らかになったのとまさしく同 じく,ハイデガーの言う存在了解も,存在が時 間的に了解されるかぎりにおいて人間的了解で あることをあらわにするのである。

3.自然了解の可能性

3−1『存在と時間』に即した自然了解の可 能性の検討

前章ではハイデガーの「存在了解」の思想を 考えてきた。本節では,それを踏まえハイデ ガーの考えた「存在」としての「自然」につい て考察する。ハイデガー思想から,人間と自然 との関係がどう導き出されるのかが本節のテー マである。

ハイデガーはその哲学的思索のなかで,晩年 に至るまで一貫して,存在を表象としてとらえ 分析の対象とする自然科学的思想に異を唱えて きた。人間による表象作用,それは自然を単に 操作可能な技術の対象とみなすことに通じる が,ハイデガーはこのような伝統的な存在概念 は人間の非本来的時間性によると考えていた。

これに対し,三つの時間性が緊密な状態にある 本来的時間性により,本来的な存在の意味が明

らかになる。

三つの時間性である将来・現在・既往は,

「関心」の構成契機であった。そして過去(既 往)は現存在の被投性であり,将来は現存在の 投企性を意味している。三つの時間性のなか でハイデガーが優位にあるとするのは将来だ が,これは時間性がまず将来から生起してくる lHeidegger,1927:329]ためである。ハイデガー は現存在の超越と自由について論じ,そこで超

越は,現存在が時間の統一態として自ちを時間 化し,「世界の超越へさかのぼる」ことによっ て可能になる,と述べている[Heidegger,1927:

364−366]。超越によって現存在は「在るとは何 か」を問うことができるようになるのだが,こ の超越へとさかのぼらせるのが「将来」の投企 性である。

超越とは越え出ることだが,自然の概念もま た人間の超越性をもってとらえられるものなの である(6)。伝統的には自然は眼前存在者として とらえられてきたが,本来的時間性のうちに覚 悟をもって引き受けられ,考えられることによ り,生起する自然が現れる。しかし,本来的時 間性に依拠しなければ,自然は表象性としての 自然,事実(眼前存在者)としてとらえられた 自然になってしまう。このことは何を意味する のか。つまり,覚悟という,自然に対する人間 の態度が重要だということを意味しているので ある。「覚悟」(Entschlossenheit)という態度を とること,それによって表象でない生きた自然 が見えてくるのである。

しかし一方,果たして表象としての世界や自 然がたち現れてくるという状況がどうして問題 であるのかという問いかけも可能であろう。ハ イデガーの言うように,それが古代ギリシャの 時代以来延々と続けられてきた人間の営みだと するなら,そしてその歴史を受けて我々のいま があり,こうして我々が世界のなかで生きてい るのであれば,なぜここであえて「存在」を問 題にしなくてはならないのかという問いであ る。

このように人間と自然の関係について問う とき,「不安」という気分(状態)は一つの示 唆を与えていると思われる。「不安」は現存在

(5)

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を非本来的な頚落の状況からひき離し,本来性 へと目がけさせる役割を果たす根本的心境で ある。「不安」をつきつめていくと「死に臨む 存在」としての現存在の本来的なあり方が明ら かになる。死に臨んでの不安は現存在を日常性 との連関から遮断し孤独化し,そうして現存在 の有限性や無根拠性があらわになる。おのれの 有限性・無根拠性を見つめることで,現存在は 本来的な存在可能の可能性をも考え得るように なるのである。では,そもそもどうして人間は 不安になるのだろうか。ハイデガーは「不安は 現存在そのものから発源する…不安は死へ臨 んで投げられている存在としての世界内存在 のなかから湧き上がってくる」[Heidegger,1927:

344】と言う。「死へ臨んで存在する」とは,現 存在が死へとかかわりつつ存在しているという ことを意味するが,それは現存在の時間性ゆえ のことである。現存在の存在が時間性にもとづ く[Heidegger,1927,邦訳上巻20]とハイデガーは 言うが,時間性が人間を人間たらしめているの である。将来(未来)という時間性を持ってし まうことによって,人は死を意識するようにな る。そうだとすれば時間性(特に将来の時間 性)が人間を不安にする,あるいは不安を持つ ということそのものが人間の時間性だというこ とができるだろう。

世界のうちに頚落してある人間は本来的な自 己を忘れてしまっているが,その,普段は忘れ てしまっている本来性から決して無関係ではい られない。むしろ,忘れ,逃避しているために,

つねに不安が現存在を脅し続けているのであ る。不安は人間が時間性のなかにあるが故に,

いや,人間が時間的な動物(存在者)であるが ゆえに,どこまでも人間につきまとってはなれ

ないものなのである。

さらに問えば,ハイデガーは不安について周 りの存在者との連関が断たれ,自分と周囲と の無関連性があらわになる様子を描写するが lHeidegger,1927:187−9],なぜ人間は周囲との 連関が失われるということを不安に感じるのだ ろうか。あるいはなぜ,そもそも連関が失われ るということが起きるのか。周囲との連関,そ れは我々が周囲にとけ込み,調和してあるとい う状態のことだろう。頚藩という非本来的な状 態でおこっている調和ではなく,また本来性・

非本来性を議論する以前に,生命が生まれ出で たそのときには,全ては自然という形で調和の うちにあったのではないだろうか。この調和状 態を消滅させ不安にするのは時間である。人間 の時間性,これが人間を人間たらしめ,結果と

して自然から人間を分離させたのだ。

この分離した状態の自覚からおこる不安こそ が,ハイデガーのいう本来的自己了解の姿を求

めさせるのである。人間は周囲(自然)との調 和を求め,ピュシスとしての自然そのもののな かにありたいのだが,時間性が調和を許さな い。自然との調和を希求しつつも人間はすでに 調和できないあり方をしてしまっているのであ

る。

先の問いかけ(表象としての自然が人間に とってなぜ問題的であるのかという問いかけ)

の答えもハイデガーのこの本来的自己了解の構 えから導きだせるのではないか。表象としての 自然を前提とする世界観のなかにあるかぎり人 間は常に不安の心境におびえ続けることにな る。その不安はそれが何から生じるかもわから ない所在のない不安である。もちろんそれを覚 悟して引き受けたからといって簡単に不安が解

(6)

消されるわけではない。しかし本来的自己了解 の構えにおいて人間は,人間が調和しようとし て果たせない自然を見出すことができるのであ る(7)。

ハイデガーによれば,人間には存在の意味 の解明において,自由や時間化という,ある 種の裁量権が与えられている。超越は人間の 自由にゆだねられており,超越せずに現前にあ る表象としての自然を見るのも,また「調和し ようとして果たせない自然」を見出すのも,ど ちらも人間の自由なのである。しかしそれだか らこそ,果たせない自然を見出すことは重要で ある。なぜならこの自然を見出すことによって

〈存在=現前性=被制作性〉 という強固な伝統 的存在概念に楔を打ち込むことができる。そし て自然が生きて生成するものとして捉え返され

るための道が拓かれることとなるだろう。

以上が,ハイデガーの『存在と時間』に即し て考えた自然と人間とのありかた,即ち「自然 了解」についての可能性である。『存在と時間』

の図式から考えると,人間が自然を覚悟して引 き受けることによって,よりよい自然と人間の 関係が築かれていくのではないかという話にな

る。

しかし,これは「自然了解」の可能性の一例 というべきであろう。周知の通り,ハイデガー の存在論は多くの示唆に富んでいる。ハイデ ガーの思想を手がかりにさらなる考察を行うこ

とは,自然と人間の関係が危機的になりつつあ る現代の状況を考えたとき,決して不要のこと ではないと思われる。

第二節は先に導きだされた自然と人間のあり 方を批判的に検討することから開始される。

3−2 人間と時間性

前節では,『存在と時間』に依拠して人間と 自然のあり方を考え,「人間が自然を覚悟して 引き受けることによって,よりよい自然と人間 の関係が築かれていくのではないか」という人 間的自然了解のテーゼを導いた。ここで考えね ばならないのが,自然を覚悟して引き受けると いう人間の態度である。覚悟して引き受けると は,人間が主体的に自然との関係を取り結んで いくことを意味している。それは人間が自らの 態度を変更するという積極的・能動的な関係の もち方である。しかしハイデガーによれば,人 間は世界の中に被投的投企の状態であるのだっ た。それは望むと望まざるとにかかわらず,意 識的におこなっているのでもなく,人間はつね にすでに世界の中に在らせられているというこ とだろう。そう考えると「覚悟して」とか「引 き受ける」などという能動的な態度のとり方 は,自然との関係を考える際に妥当なものであ るのか,という疑念が生じる。

ハイデガーの後期思想では,このような人間 の能動性が退けられ,存在への受動的な関わり あいかたが示されるようになる。存在は「現わ れ滞在する支配」[Heidegger,1983a:16]とされ,

人間は存在(自然)の圧倒的支配に耐え,服従 するというきわめて受動的な状態にあるとさ れるのである。そしてまた,「存在了解から存 在生起へ」[Heidegger,1983a:218]というハイデ ガーの言葉は,了解以前に存在(自然)がそれ 自体として生起しており,人間はただ生起する 存在に聴き従うという事態を示している。人間 は存在を了解するが,それは何ら人間の能動的 な営みによるのでなく,存在が生起しているか ら了解も可能になるということなのだ。こうし

(7)

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てハイデガーの存在をめぐる思想は前期の,曖 昧な存在了解を明確な存在理解にまで彫琢する という学的探求の態度から,「時間性という地 平そのものの中に立って,そこに顕わとなって 来る存在の声を言葉に斎す」[渡辺,1985:275]

という詩作的思索の態度へと変貌していくので ある。(8)

このような人間の受動性を強調する態度は,

『存在と時間』で述べられた「存在了解」の人 間性(Humanismus)への反省を端的にあらわ していると言えるだろう。しかしながら後期思 想では,主観性を捨て去り「現存在を存在その ものの中から見透し返す」[渡辺,1985:260]と いう態度がとられるため,現存在の方向から存 在がどう了解されるかということ(『存在と時 間』はまさにこの方向から存在を探求してい た)は,もはや主題的に論じられることはない。

そのため,自然了解の可能性を考究する本稿で は,人間の受動性という思想を手がかりとしつ つも,そこから少し離れた視点で自然了解の可 能性を考えていくことになる。

前節では,人間はその時間性ゆえに周囲との 調和のなかにあることができないとの指摘を 行った(9)。調和の中にあることができないため に人間はいつも不安の心境に脅かされているの である。また,第二章の最後では,構想力の議 論に依拠して,『存在と時間』の「存在了解」

は人間的であると述べた。「時間性」の統一体 である関心,その関心の構造をもとに存在了解 を説明するという議論の進め方では,どこまで も人間の認識(了解)の限界性(人間性)を確 認するにとどまることになる。

ここで,問題となっているのが「時間性」で ある。我々は普段(ハイデガーのいう本来的も

非本来的も含めて),・未来・現在・過去という 時間性を思い描いているが,この時間性の思考 をはなれたところに「現存在にとっての存在で はない存在」を考える鍵があるのではないだろ

うか。

ハイデガーは時間を将来・現在・既往の三つ の様態で捉えたが,時間についての観念は多様 である。ここで考えたいのは,果たして将来

(未来)はあるのか(10),ということである。

時間を未来・現在・過去でとらえ,現在を中 心としてその両端に「もうない」過去と「まだ ない」未来をおくのは,我々が時間について考 えるきわめて一般的なやり方である。しかし,

「まだない」として未来を考えるのは,その人 の心の動きである。そしてまた,その心が動い ているその時は現在でしかない。未来に起こる であろうことを考え喜怒哀楽というなんらかの 感情を抱いたとしても,それは過去の了解にも

とづいて未来を予測していることにはかならな いのである。

未来の出来事はあらゆる意味で現在我々に隠 されており,それは現在知覚できないのみな らず,実は感じ・考えることすらできない[中 島,1996:174]。未来について感じ・考えること ができるような気がするのは,過去における未 来把持の経験の蓄積が習慣化し,「未来がある」

という幻想を我々にもたらしているからであ る。我々が未来と呼ぶ時間は,本当は存在しな いとも言える(11)。

このようにいうと,将来・現在・既往という 三つの時間性に依拠したハイデガーの現存在分 析が全く実態にあわないと言っているように聞 こえる。ここで言いたいのはもちろんそうでは ない。人間は未来(将来)というものを考え出

(8)

さずにはいられない,そういう性質を持ってし まっているのだということである(12)。そのた めに世界内存在を可能ならしめる「世界」が成 立するし,その中に「企てつつ投げられてある」

というありかたを,現存在はすることができる のである。言いかえれば,未来性(将来性)と 呼ぶべきものはあるが,表象としての未来(将 来)は実在ではないといえるだろう。

現存在は,死に向かっている存在である自分 自身を兄いだすことにより,自らを有限なも のと捉え,自らの運命を決意して引き受ける。

よって,時間性をその意味として兄いだされる

「存在」は「現存在にとっての存在」であった。

未完に終わった『存在と時間』のうち,現在 我々が目にすることのできる部分は現存在(=

人間)分析で終始しており,このことについて は様々な評価がなされている。私見では,ハイ デガーが緻密な現存在分析を繰り広げることが できたのは,ハイデガーがすでに超越した視点 を持っていたが故であろう。彼は,人間につい て論じ尽くすうちに,「そうではない何か」が 現れるだろうと考えていたのかもしれない。後 に『形而上学とは何か』で「無」について,不 安の無の明るい夜は存在の光にあてられて顕れ てくると語っているように,「そうではないも の」としてしか語り得ない存在が立ち顕れるこ

とを予測していたのかもしれない。だが,『存 在と時間』における人間的存在了解の分析で は,「現存在にとっての存在」ではない「存在」

にハイデガーは到達することはできなかった。

では,「現存在にとっての存在ではない存在」

とは,どのようなものとして考えられるだろう か? ハイデガーによれば,不安は死(=有限 性の発覚)によって現存在の世界との無関連性

を顕わにするという。がしかし,むしろ問題と すべきは現存在が将来という時間性を開いてし まう存在者だという点にある。

本当は現在と過去しかないのに人間は未来

(将来)を開いてしまう。このような性質が人 間のなかに潜んでいる。そうだとすれば,不安 はここから現れるのではないか。未来がないと いう状態を了解しているが故に,奉来性を持つ 自らが不安になる。不安は本当は未来の不確実 性からきているのである。不安において,未来 は実在せず,自分という存在が過去からしか捉 えられないものだという人間の在り方が告げら れているのである。

未来の不確実性を知りながら,それを自らの 実存的あり方の根拠とするという人間主体のね じれたあり方を,不安が告げ知らせる。不安は ハイデガーの言う時間性によってあらわれる

「存在」(人間の「存在」)と,そうではない存 在(自然)との関係が生み出すものなのである。

ハイデガーの「存在了解」は将来・現在・既 往の三つの時間性に基づいていた。未来が無い のが本当だとしたら,三つの時間性に拘束され ない存在の仕方を我々は考えることができるだ ろう。そのとき存在了解はどのようになってい るのだろうか。(ここで言う「存在了解」とは,

『存在と時間』の「ひとり現存在のみが存在を 了解する」というときの了解とは,すでに意味 を異にしている。これは「未来はない」と時間 についての解釈を変更したことによる相違であ る。今後「存在了解」もしくは「了解」という 言葉を用いるとき,このことを念頭に置く必要 がある。)

人間の了解する存在ではない,「そうではな い何か」を考える可能性がここに生まれる。「人

(9)

自然はいかにして見出されるか       165

間にとっての存在ではない存在」について,筆 者はこれを自然と同義であると考えている。そ のため,以下の考察は「人間の自然」と「そう ではない自然」の比較から開始される。

3−3 人間的自然と非人間的自然

前節において,未来・現在・過去という三つ の時間性の思考から離れてみることを提案し た。この提案の基礎は,本当は未来はないので はないかという問いかけである。

本当は,未来はないのである。前節の繰り返 しになるが,未来について感じ・考えることが できるような気がするのは,すでに感じ・考え たことのある過去を未来に投影しているにすぎ ない。しかし,人間は未来(将来)を考えてし まう。また,未来(将来)を考えるからこそ人 間は人間であるとも言える。ハイデガーが時間 性を現存在分析の要とし,「将来」に優位を与 えたように,時間性は人間という動物に著しい 特徴である。

ハイデガーによれば未来の時間性は現存在に 超越を可能にさせる。また,現存在は世界の中 に投げ出されている(被投)という状態で在り つつ,また自らの可能性を目がけるという投企 的な在り方もしている。そして投企的な在り方 ができるのは未来(将来)の時間性ゆえにであ

ている。その,先立ってある本来性に立ち返る ことによって「現存在(人間)にとっての自然

(存在)」があらわれる。

それでは,我々がハイデガーの思索から離れ

「本当は未来はない」という認識を強くしたと き,『存在と時間』の存在了解の構図はあらた めてどのように理解されうるだろうか。

人間は未来を持たないにもかかわらず,将来

(未来)という時間性を持たずにいられない動 物である。ここで言う,「持たずにいられない」

とは,人間の意志や自由に関係なく,人間には つねに既に将来の時間性が備わってしまってい るということだ。ハイデガーは超越をするかし ないかは現存在の自由だといったが,実は自由 など無いのである。超越は人間にとってまった く受動的なことなのだ,そしてこの事態が人間 に告げ知らせるものは,未来性から離れられな い「人間の自然」と,本当は未来が無いのであ るから「未来のない自然」との乗難である。「未 来のない自然」は「非人間的自然」である。

非人間的な自然を人間は知ることができるの だろうか。知ることができるかどうかはわから ないが,了解はできるのではないかと,筆者は 考えている。

この間題を考えるために再度不安の心境につ いて考えてみたい。ハイデガーは,不安とは無 る。超越によってわかるのは現存在の本来的な

あり方であり,超越とは実は未来の時間性(投 企)によって「先立って」あるありさまを取り 戻して(Wiederholen)いくことである。つま り本来的なものがそもそもあって,それは普段 失われてしまっている。少なくとも世界の中で 我々はその本来的な何かを,了解という形でわ かってはいつつも,ほとんど気にかけずに生き

の自覚,いつもなら親しいものである世界から の疎外感であるとした。不安により,人間と周 囲との無関連性があらわになるのだが,そもそ も無関連であるのが本来的な人間の在り方なの だった。このとき,そもそも(未来は無いとい う立場から考えてみれば),無関連な状態とは,

周囲には未来が無いのに人間には将来・既往・

現在の三つの時間性が備わってしまっていると

(10)

いう,周囲と人間との「違い」が原因だという ことができるだろう。この場合に「周囲」とは 非人間的なものを意味する。未来のない状態の 中で,人間という未来性を持つ動物が存在して おり,周囲から浮き上がってしまっているの だ。

つまりこの「違い一周園から浮き上がってし まっていること」を,人間は不安の心境という 形で知っているのである。違いを知っていると いうのは,人間的なものを知っているのと同時 に非人間的なものをも人間性の否定形において 知っているということであろう。ここで否定形 において知ると書いたが,実際に否定的なもの を「知る」ということが言えるのかどうか,何 とも言い難い。むしろ「了解」という状態の方 が当てはまるように思われる。

人間が了解する非人間的なものとは「自然」

である。そしてこの「自然」をまえに,人間は なんら自由を持たない。ハイデガーの図式でい うならば,本来的であれ非本来的にであれ,人 間が自らをどのように時間化するかであらわに なる自然が違ってくるのであり,そこには人間 の自由が存在していた,ということである。し かし,未来が無い場合,人間は本来的にも非本 来的にも自らを時間化することはない。人間性 の否定としての自然を了解するのみである。

一一一一一一人間的自然

の状態を示している。

了解を可能にしているのは現存在のうちに何 らかの超越がおこっているためだが,それを可 能にするのが現存在の投企性であり,将来の時 間性である。頚落状態の暖味な了解は三つの時 間性が弛緩して結びついているためにおこって いる。これらが緊密に結びついた状態になるこ とによって,将来が際立ち,これまで曖昧だっ た存在の意味が明らかになる。小さな円は黍落 状態での了解だが,将来性が突出した状態での

(本来的時間性における)超越で,大きな円ま で視線を向けることができるようになる。

図1−2は図1を横から見たものである。

さて,これまでの議論を図表で示してみよ う。

(1)『存在と時間』の図式による自然了解(人 間的自然の了解)

日常的頚藩のなかにある現存在は,普段,曖 昧な形ではあるが存在を了解している。しかし 曖昧であるために何かと聞かれれば答えに窮し てしまうのだった。図中に示した小さな円はこ

ハイデガーによれば,超越とは先立って本来 的にあったものに立ち返ることを意味していた が,普段その本来性は忘れ去られている。大き な円まで見通せるようになることはこの忘却さ れた本来性を取り戻すことを意味している。そ して,取り戻された大きな円の全体(小さい円 も含む)が「人間的自然」であると言える。

(2)未来がない状態における自然了解(非人間

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自然はいかにして見出されるか      167

的自然の了解)

次に未来がない状態における自然了解につい て考えてみよう。

人間は,本当は未来がないにもかかわらず,

将来(未来)という時間性を持たずにいられな い(人間の投企性)のであった。このとき人間 の周囲には,本来的な未来のない(投企的でな い,つまり被投的な)自然,即ち非人間的自然 がある。人間は本来的には図の大きい方の円の 状態にあるが,未来の時間性(超越)によって 全体の大きな円から浮き上がってしまってい る。

この状態を横から見ると[図2−2]のよう になる。

′一一一一一も

し二二二二二こ

こ涯iiJ

【図2−2】

この図は,人間が周囲(非人間的自然)の内 に調和できない状態を示している。周囲の大き な円から浮き上がって人間的な自然が構成され てしまっている。そしてそうさせてしまうのが 時間性(未来の時間性)である。

このとき,人間的自然が浮き上がっていると 表現したが小さな円が大きな円から飛び上がっ

ているという意味ではない。むしろ,未来はな いのであるから,小さな円の周りにあった大き

な円は,時間と共に遠ざかっていく(図でいえ ば下方へと下がっていく)のである。

時間性は人間に超越をもたらした。しかしこ の場合の超越は(1)とは違って人間が越え出て いくことによるのではない。未来のない周囲 が,過去として遠ざかっていくために,結果と

して越え出ているような状態になるだけであ る。

その意味で言えば,人間は時間のない自然の世 界との一体性から後退しつつある。

この後退的(受動的)「超越」の結果,人間 は「非人間的自然」を了解する。

続く表は,(1)と(2)を対照して示したもので ある。

(3)人間的自然と非人間的自然(対照表)

下表のうち,「時間」,「超越」,「自然」につ いてはすでに述べた。ここで「裁量権」につい てふれておく。ハイデガーは人間が自らを時間 化するのは人間の自由だとした。超越すること に関して人間は自由である,それが裁量権あり と左欄に書いたことである。人間が自然との関 係を能動的に考えたとき,人間の前にあらわれ るのは人間的な自然である。人間はこれを引き 受けることもできるし,引き受けないこともで

人間的 自然

ハイデガー

存在 と時間』)

非人 間的 自然

時由 未来性 未来 はない

能動的) 受動的)

超越 能動的 受動的

自然 人 間的了解 非 人間的了解

裁量権 あ り な し

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それにひきかえ,右欄では人間に裁量権はな い。能動的に考えてもどうにもならないのが非 人間的自然である。どうにもならないといって も了解はされている。非人間的な自然は人間性 の否定形でしかないため,それに対して何か態 度を取ったりするということを人間は自由に行 うことができない。

3−4 人間と動物

前節において,「そうではない自然」とは「非 人間的な自然」であることを示した。また,「非 人間的自然」がどのような形であらわれ,人間 とどのような関係にあるのかについてもいくつ かの解説を行った。本節では非人間的な自然と して,人間でないもの,即ち動物をそこにあて はめてさらに検討を続ける。

ハイデガーは1929年から1930年にかけて,

『形而上学の根本諸概念 世界一有限性一孤独』

という講義をフライブルク大学で行っている。

ここでは「世界」とは何かが問われているのだ が,その際に,三つのテーゼを掲げ,それを比 較考察することで議論が進められていく。

その三つのテーゼとは,「石(物質的なも の)は無世界的(weltlos)である」,「動物は世 界貧乏的(weltarm)である」そして「人間は 世界形成的(weltbildend)である」[Heidegger,

界貧乏的である」とは,世界を持っているが同 時に世界を持たないこと【Heidegger,1983b:293]

を意味する。動物は,あるものを「或る有る ものとして,態度をとってそれへと自分を関 連させる可能性が取り上げられて」[Heidegger,

1983b:360]おり,その都度突き動かされ衝動的 に動いている(衝動的振るまい)にすぎない。

しかしながらその(衝動的に)動いているとい うことで,あるものに近づくことができ,或る ものへと開かれてある。その限りでは世界的で ありゝ 石のように「無世界的」ではない。こ れらに対し,人間は世界形成的である。人間 は「振るまい」(Benehmen)というよりもむし ろ「態度をとること」(駈rhalten)ができ,そ のような意味で世界をもっている。態度をとる とは「或るものを有るものとして有らしめる」

lHeidegger,1983b:397]ということであり,それ は自己性にもとづく。人間はこうした際だった 意味で世界をもっている。そして,こうした世 界形成を可能にするのは人間の投企であるとい

う[Heidegger,1983b:526]。

このとき,動物についてのテーゼ「動物は世 界貧乏的である」を考えてみよう。動物は他の 動物や外界の刺激に対して反応し,ある行動を

とるということを行う。これは動物が或るもの に対して接近することが可能であることを意味 1983b:263]である。ハイデガーは「世界」を

「そのつど接近通路可能な有るもの,付き合い 可能な有るもの」[Heidegger,1983b:290]である とし,石については,石は他のものとの間に通 路が無く他のものを手に入れたり所有すること

もない,そもそも世界が欠如することさえない として,「無世界的である」とする。動物につ いては,石と人間の中間項として考える。「世

する。しかしそこで動物は周囲のものを関連づ けて把握したり,周囲のものに何らかの態度を 決定して臨んでいるというわけではないのであ る。ハイデガーはミツバチの例で説明する。花 の蜜を集めるミツバチは巣を出て花の蜜を集め るが,このようにミツバチはあるものに近づく ことができ,あるものへと開かれてある。蜜を 集めたあと,巣箱へと集めた蜜を運ぶのである

(13)

自然はいかにして見出されるか       169

が,このときミツバチは巣箱から花までの位置 を太陽の角度と飛行距離をもとに「覚えてい て」巣箱へと戻っていく。

しかしこの際「覚える」というのは,「或る ことのために或ることを意図して或ることを 覚える」(つまり一定の場所にある巣箱への帰 り道を見つけることを意図して覚えている)の ではないのである。ミツバチは自分が前にいた 場所によって予め見当を付けて一つの方角を 決めるのではなく,「ある方角によってとりこ

まれ」ているだけなのである。蜜蜂は太陽と飛 行継続時間とに全く委ねられている。そのよう なものをそれとして把握することなく,また把 起されたものとして熟慮のために用いるという

こともなく。それは「もっぱら,蜜蜂が餌集め という根本衝動によって突き動かされている」

[Heidegger,1983b:360]ためなのである。この説 明では,餌集めのために複雑な行動(巣箱から 飛び立ち蜜のある花を見つけ,蜜を採取しまた 巣箱へもどるということ)をとる蜜蜂がその行 為を一つ一つ関連立てて把握しているのではな いということが言われている。

「或るものを或るものとして会得して受け取 ることが本質的に一切とりあげられている」

[Heidegger,1983b:360]のが動物であり,そう いった状況における行動をハイデガーは「動物

はこの輪にとらわれ,輪の中でのみ,出会って くるすべてのものへの関連をもっているのであ るが[Heidegger,1983b:391],一方人間は様々に 自分の態度をとり,出会ってくるすべてのもの へと自分を関連させることができるのである

[Heidegger,1983b:496](13)。

ここで前節の図をもう一度考えることにす る。

図2−3は,未来がない状態における被投性 と投企性の関係をあらわしている。未来という 時間性を開いてしまう特異な存在者としての人 間を考えたときに,このような図の表現が可能 になった。小さい円の「投企性」は人間的自然 を示し,それを囲む大きな円は,非人間的な自 然をあらわしていた。

『形而上学の根本諸概念』では,人間は投企 的であるゆえに世界形成的だとされ,人間以外 のもの,石や動物は無世界的か,世界貧乏的 だった。世界形成的でないため,石も動物も投 企的ではない。

のとらわれ(Benommenheit)」という。

動物は周囲の世界に対して,ある行動をとっ ているが,それは「けっして本来的に或るも のそのものへと自分を関わり込ませて」いる のではない。動物は「自分の諸衝動相互の順 次の衝き動かされの輪によって囲まれている」

lHeidegger,1983b:363]のである。この輪のこと をハイデガーは「抑止解除の輪」と呼ぶ。動物

ここで,試みに大きな円を動物,小さな円を 人間にあてはめて考えてみよう。人間はその投 企性ゆえに超越して世界を形成する。投企的な 人間は,未来性という時間性を,本当は未来は ないが未来を開いてしまうという形で,もって いる。そしてまた,そのために周囲から浮き上 がってしまい,不安を抱えこんでしまってい る。不安を感じるというのは周囲と調和してい

(14)

られないからであった。それは周囲に対しての 自己を発見していることを意味する。

ところで,動物に「不安」はあるのだろうか。

時間性が不安の源である.なら,無いと言ってし まって良いのかもしれない。動物は大きな円の 中で「自己」に気付くことなく,動物それぞれ が,世界の中にすでに自らが適応させられてい るという状態で在るのである。

4 自然と人間

自然と人間について考えたとき,我々は何を 語れるだろうか。本稿ではハイデガーの思想を 頼りに,このことを追求してきた。その際に主 題としたのは「人間は,『人間にとっての』で はない自然を考えることができないのか」とい うことであった。なぜこのような問題設定をし たかといえば,その方が人間は人間として平静 でいられるのではないかと考えたからである。

人間が不安を感じるのは周囲との調和の中に いられないときである。人間の存在構造自体が すでに調和をゆるさないのだから,不安をなく すことはできないだろう。なくすとしたら,人 間であることをやめるよりほかないかもしれな い。また,次のようにも言えるだろう。調和の 中にいるときは不安でないかわりに安らいでい るわけでもない。不安を知ってはじめて安らぎ の感覚に気付くのだからと。自然と人間の関係 についても同じように言えるだろう。自分のま わりに自然があふれている時には自然など意識

していないのだ,自然を失ってみてはじめて自 然のことに思いをめぐらすと。

本稿で展開した「非人間的な自然」とはまさ しく,「人間的自然」があるからこそ思いをめ ぐらすことのできる自然である。そしてそれは

否定形の内でしか語ることのできない自然であ る。否定形で語らなければ,目の前に現前し表 象された自然となり,再び「人間の自然」と

なってしまうからだ。人間によって取り出され たとき,その自然はすでに人間のまなざしで加 工されてしまっている。

しかし,否定形でしか語れないものを,我々 はどう伝えていけばよいのだろうか。議論がた だ抽象的になるだけではないのか。それは,は たしてどれだけの人に理解されるだろうか。否 定形による自然の議論は結局,理解可能な眼前 存在者的なものの探求へと変化してしまうので はないか。現前的な自然へと議論が逆行してい くのではないか。いや,そもそも否定形と一口 に言ってしまってよいのだろうか。否定形と 言ったとき更に検討すべきことがあるのではな いか。

本稿を書き進み,自然について考える内に,

上記のような疑問が筆者の中でさらに強くなっ ていった。実際のところ,本稿で得られたこと は,決して多くはない。それは自然と人間の問 題を考える際の基礎付けの作業であって,今後 の議論のはじまりに過ぎないと考えている。

〔投稿受理日2007.09.21/掲載決定日2007.11.29〕

仕)−この文章はハイーデガ±一一がし『存在と時間』」の広告 文として1927年に執筆したものの一節である[邦訳 上巻19頁]。筆者の参照した原書には掲載されてい ないため,邦訳書の頁数を記す。

(2)「転回」をめぐっては様々な議論があるが,ハイ デガー思想の研究において,一般にこの転回の時 期を挟んでそれ以前を前期思想(1929年まで),以 後を後期思想(1935年以降)とよんでいる。その ため本稿でもこれに倣って前期思想・後期思想と いう表現を用いる。前期の思想はおおむね『存在

.と時間』の思索の圏内にあると考えてよい。なお,

(15)

自然はいかにして見出されるか       171

「転回」という言葉はハイデガー自身の著作の中で は「出来事」(Ereignis)の内実を示すものとして 使われている[鹿島,2006:27−8]。

(3)存在了解と自由との関連について,『存在と時 間』ではっきりと語られている箇所はないが,ハ イデガーは「不安は現存在のうちに,ひとごとで ない自己の存在可能へむかう存在を,すなわち自 己自身をえらび三九を掌握する自由へむかって開 かれているという意味での自由存在を,あらわに する。不安は現存在を(中略)おのれの存在の本 来性へむかって開かれているという,おのれの自 由存在に直面させる。」[Heidegger,1927=188](傍 点引用者)と言う。また彼は,「死へ臨む存在」は 現存在をして自己自身として存在する可能性に臨 ませるが,その自己とは「死に臨む自由」におけ る自己である[同書:266]とも言う。以上から推論 すると,存在了解は現存在が死に臨む様相である とき自由であるとハイデガーが考えていることが わかる。また,木田元はハイデガーの論文『根拠 の本質について』(1929年)のなかで述べられてい る言葉をもとに,自由と存在了解の関係を考究し ている[木田,1993:138]。

(4)古代ギリシャ哲学における存在概念の研究はハ イデガーの思索において繰り返し登場する重要 テーマである。「ソクラテス以前の人々」は,万物

を生きて生成する自然(ピュシス)とする存在概 念を持っていたとハイデガーは言う。そしてこの ソクラテス以前の人々の存在概念と対置するもの として「存在=現前性=被制作性」の概念を考え ている。

(5)ここで「自然=ピュシス」としたが,「自然」と いう言葉で何が考えられているかが問題である。

木田元はその著書において以下の指摘を行ってい 鼠以前の思想象たちが息虻を凝_ら⊥

た〈自然〉 は,けっして今日の自然科学が研究対 象にしているような物質的な自然などではなく,

すべての存在者の〈本性〉,その〈真のあり方〉だっ た,と。〈真のあり方〉 について知る手がかりは ピュシスという言葉にある。ピュシスはく生える〉

〈なる〉 〈生成する〉 といった,植物的生成の動き を示す動詞から派生したものである。彼らにとっ て,「万物はおのれのうちに内蔵している運動の原 理−これもピュシスと呼ばれた一によっておのず から生成してきた(そして消滅していく)もの」

なのであり,これが〈真のあり方〉,ハイデガーが

〈存在=生成〉 として考えた自然の概念であろうと 結論している[木田2000:182−187]。

(6)ここでは『存在と時間』において語られずに終 わった「存在」について後期思想をたよりに「存 在=生成=自然」という図式でとらえて議論を進

めることとする。

(7)「見出すことができる」と述べたが,それは何も かもが白日の下に照らし出されるかのごとく明ら かになるという意味ではない。人間の時間性の結 果としての超越,という有限性を持つ地平を前提 にした上での「明白さ」ということである。地平 の有限性をめぐる議論については稲田知己が詳し く述べている[稲田2006:145−150]。

(8)本来的な時間性の地平に立って行われる詩作的 思索は,形而上学よりいっそう根源的に思索す るた捌こ「もはや哲学ではない」[Heideggeち1976:

364]とされる。ハイデガーによれば,哲学とはま さにこの思索のための地平を示す点のみに成立す る。

(9)この調和とは,(繰り返しになるが,)「頚落」し て道具的存在者の中に安んじているという意味で の調和ではない。「生命(人間)が生まれ出でたそ のときには,全ては自然という形で調和のうちに あったのではないだろうか」と疑問形で示唆した,

それと同義の「調和」である。

(10)真木悠介はあまたの時間をめぐる議論をもとに,

様々な時代における時間意識を考察するなかで,

近代的自我の未来志向性が時間のニヒリズムを生 み出しているという事態を分析している[真木,

2003:298−309]。

帥 この観点をつきつめれば過去も同様にないとい える。即ち現在しかないと言えるのかもしれない。

その上_きには_[塵二間」_はなりということ_になあ。

文化人類学的な観点からいえば,人類は動物的存 在から離反する中でまず「過去」(文化の伝承)を 得,しかる後に脱文化的(=普遍的)文明を築く ことで「未来」を得たのだといえよう(注10と12 も参照のこと)。そうした中,ハイデガーは近代以 降の人間の意識の本質的特性として未来性を位置 づけたのだということができる。

㈹ しかし,これは「近代西欧型の社会に生きる人 間は」と限定されるべきだろう。例えば最近の文 化人類学の研究で,南米のアイマラ族の時間感覚

(16)

は,いわゆる欧米型の先進国に生きる者の時間感 覚とは正反対であることがわかった。時間はつか みにくい概念なので,人類の多くはそれに空間の 比喩を当てはめて時間を把握している。現代先進 国に生きる我々は過ぎ去った過去を背後に,来る べき未来を前方に見据えて生きている。しかしな がらアイマラ族の人々は「過去」を眼前に見出 し,未来を背後にあるものとして意識している。

彼らにとっては先祖や家族の記憶の詰まった過去 を見据えながら生きることが「正常」である。過 去は実在したものであり,人間の生きる意味はそ こにあるからだ。彼らの時間感覚からすれば,何 もない空虚な未来を見据えながら生きる我々の意 識の方が,ある意味では「異常」なのである[7場g

C〝都ゐ叫2005Februaヮ24]0

㈹ ハイデガーによれば,「抑止解除の輪」の意味 するものは,ユクスキュルの「環境世界」にあた る[Heideggeち1983b:383]0 しかし,ユクスキュル が「環境世界」の概念を人間においても適応しよ

うとするのに対し,ハイデガーは異を唱える。動 物と人間の違いについて考える際,問題は「或る ものを有るものとして会得して受け取ることがで きるかできないか」[Heidegger,1983b:384]である と言う。ハイデガーが,人間は動物と違って「世 界形成的」だという,その「世界形成的」とは,

世界を作り出し,世界についての一つの像を提示 し,世界を構成すること[Heidegger,1983b:414]だ が,そのためには既に人間に存在の生起する場が 開かれていることが前提となっている。この「生 起」があるからこそ世界が形成されてあり,人間 は「或るものを有るものとして会得して受け取る

こと」ができる。しかしそれは動物にはけっして 見られないものだと,ハイデガーは言うのである。

参考文献

Heidegger,Martin・1927,SeinundZeit・MaxNiemeyer Verlag,Thbingen.(邦訳:細谷貞雄訳1994,『存在と 時間(上下巻)』,ちくま書房 ちくま学芸文庫)

Heidegger,Martin・1976,〃短marhen・GesamtauJgabe,

l・Abteilung,VitorioKlostermann,FrankfuitamMain・

(邦訳:辻村公一/バルトムート・ブフナー訳 1985『道標』創文社,ハイデッガー全集第9巻)

Heidegger,Martin・1983a,Ei42ibruvindiehh画ySik Gesamtausgabe,II・Abteilung・VittorioKlostermann,

FlankfurtamMain.(邦訳:岩田靖夫/バルトムー トプフナー訳2000『形而上学入門』創文社,ハ イデッガー全集第40巻)

Heidegger Martin・1983b,Die Grundbegr僻

・1√′ 爪1血♪小・∫は・廿〟ト甘′JJ!i 湖・・ト£椚・川′Aでi/.

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FrankfurtamMain.(邦訳:川原栄峰/セヴェリン・

ミュラー訳1998『形而上学の根本諸概念 世界一 有限性一孤独』創文社,ハイデッガー全集第29−

30巻)

Heidegger,Martin・1991・Kantundda∫Probhmder MetqD4y∫ikGesamtausgabe,I・Abteilung.Vittorio Klostermann,FrankfurtamMain.(邦訳:門脇卓爾

/バルトムート・プフナー訳,2003,『カントと形 而上学の問題』,創文社,ハイデッガー全集第3巻)

稲田知己 2006『存在の問いと有限性−ハイデッガー 哲学のトポロギー的究明−』晃洋書房

鹿島徹ほか 2006『ハイデガー「哲学への寄与」解読』

平凡社

木田元1993『ハイデガーの思想』岩波書店 岩波 新書

木田元 2000『ハイデガー「存在と時間」の構築』

岩波書店 岩波現代文庫

中島義道1996『時間を哲学する一過去はどこへ行っ たのか』講談社 講談社現代新書

真木悠介 2003『時間の比較社会学』岩波書店 岩 波現代文庫

渡辺二郎1985『ハイデッガーの実存思想』動草書 房(第二版)

参照

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