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實 諸田 リストとドイッ関税同盟

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(1)

論 説

フリードリツヒ・

パリ時代を中心に

リ ス ト と ド イ ッ 関 税 同 盟

目次

一問題関税同盟に対するリストの関心

﹃国民的体系﹄の成立過程パリ時代のリスト

ーパリ行きと懸賞論文の執筆

2﹃自然的体系﹄から﹃国民的体系﹄へ

三パリ時代のリストの関税同盟論

1﹃自然的体系﹄

2﹃自然的体系﹄以後の論稿

﹁英国の穀物法とドイツの保護制度﹂

﹁歴史的見地からみた外国貿易の自由と制限﹂

諸 田 實

81

(2)

問 題 ‑ 関 税 同 盟 に 対 す る リ ス ト の 関 心

フリードリッヒ・リスト(一ヒ八九1一八四六)は国民経済学者であり︑鉄道の先覚者であり︑すぐれたジャーナリス

トであったが︑また︑﹁ドイツ関税同盟の父﹂ともいわれている︒ドイツの国民的統一の基礎となったこの関税同盟の

形成と発展を考えるとき︑リストの果たした大きな役割を見逃すことはできない︒リストは五六年の生涯を通じて︑

特に一八一八年以降︑ドイッの政治的・経済的国民統一という目標に向けて文筆と実践の活動を続けたのであるが︑

彼の活動と著作を年代を追って点検してみると︑その中で特に関税同盟に深く関わった時期が︑関税同盟の成立以前

(1)と関税同盟の第一回の延長(更新)の時期と︑前後︑一回あったように思われる︒

前期というのは関税同盟が成凱するト数年前のことで︑一八一九年から二年足らずの間︑リストの生涯の中で州初

期の商業政策的闘争期﹂と呼ばれている時期である︒リストは一八一九年春(..九歳︑テユービンゲン大学教授)フラン

クフルトで﹁ドイツ商工業協会﹂(のちに曲ドイッ商人・r場セ協会﹂と名称変更)の結成に参画し︑その法律顧問として

1実質的には指導者としてーー連邦議会への請願︑ドイッ諸国の宮廷歴訪︑協会の機関紙﹁オルガーン﹂の発行な

ど︑ドイッの内部関税の撤廃と共同の国境関税の設定を目標に︑国民的商業・貿易政策の実現に向けて精力的な活動

を続窪・この運動を通じてリストは全ドイツの関税統一を明確に主張したが︑この時の彼の主張はのちに関税同盟

の形成と拡大の過程を通して実現されることになった︒その意味でリストは﹁関税同盟の父﹂といわれるのである︒

しかし︑この時にリストが唱えた全ドイッの関税統一は︑ハンザ都市ブレーメンが最後にドイツの関税制度に統合

される一八八四年まで(発効は一八八八年)︑その実現に七〇年近くを要したし︑実現された関税統一の空間構造はリス

トが考えていたようなドイッ連邦巾心の大ドイツ的統一ではなく︑ドイッ連邦という政治的枠組の外側に︑連邦の議

(3)

フ リ ー ド リ ッ ヒ ・ リ ス ト と ド イ ツ 関 税 同 盟

83

長国オーストリアを排除して生まれたプロイセン中心の小ドイッ的統一であった︒しかも︑一方では︑のちに関税同

盟の盟主となるプロイセンは前年の↓八年に自国内の関税改革を実施したばかりで︑財政再建に追われていたこの時

点ではまだ他国との関税同盟の形成を明確な政策目標に掲げていなかったし︑他方では︑﹁全ドイッ関税統一の前段

階﹂としてリストがその実現に期待を寄せた南ドイッ諸国の関税統一は︑一八一九年からこ三年まで何回会議を重ね

(3)てもまとまらないで失敗に終っている︒

そのうえ︑関税統一運動が始まったばかりの一八.一〇年一二月に︑リスト自身ロイトリンゲン市民を代表してヴュ

ルッテンベルク王国の等族議会に選出されたが︑その直後の一八一=年一月に彼の草した請願書(勧Φ三ぎαq2勺Φ亭

二︒桝ごの急進的な内容を密告されたことから︑︑一月に議会から追放されたばかりでなく翌二︑一年四月には有罪判決を

受けて官憲に追われる身となり︑逃亡(一八.﹃年四月‑二四年八月)と拘禁(一八二四年八月L.五年一月)のすえに釈放

と引きかえにアメリカへ渡ることになって(一八二五年四月一六日︑ルアーブル発)︑プロイセンが蔵相モッツを中心に関

税同盟推進の政策に着手する頃には︑関税統一運動の戦列から離れざるを得なくなった︒そういうわけで︑ドイッで

最初の二国間関税同盟が南(バイエルンとヴュルッテンベルク両国)と北(プロイセンとヘッセン・ダルムシュタット両国)で

続いて成立した↓八二八年には︑リストは海の彼方のアメリカにあって︑ドイッ語新聞の編集や炭鉱と鉄道の事業に

かかりきっていた︒一八三二年にドイッへ戻ってからも彼の関心はもっぱら鉄道問題に向けられて︑郷国ヴュルッテ

ンベルクでプロイセンとの関税同盟をめぐって賛否両論が闘わされた三三年にも︑ドイツ関税同盟が︑=か国を結集

して発足した三四年にも︑﹃リスト全集﹄第九巻に収録されている著作一覧で調べた限りーロイトリンゲンの﹁リス

ト文厘の空ドで調べてもー︑新聞と大衆雑誌に発表した三編の幾を除けば・リストは関税同盟に関する論稿

を一編も発表していないのである︒

(4)

したがって︑関税同盟が成立するレ数年以前にいちはやく全ドイッの関税統一という目標を明確に示した点で︑リ

ストは﹁関税同盟の父﹂だといえるが︑現実に関税同盟が形成される時には彼自身は運動に参加できない状態にあっ

たし︑発足時にも彼の関心は主として鉄道という国民的交通制度に向けられていたのである︒﹁ドイッ関税同盟の思想

的建設者﹂と評される窒んであ蓄・〒﹂の点は︑リスト自身が自分の思索と活動の跡を半生にわた.て振り返.て

記している︑﹃国民的体系﹂の緒︑葭を読めば明らかであろう︒

さて︑一八三四年に八年間の期限で発足したドイッ関税同盟は︑四〇年から四一年にかけて条約を更新して一︑一年

間延長された︒第一期の関税同盟は発足後.一年以内に南ドイッを完全に統合して︑のちのドイツ帝国領域の人口の八

二%を占める広域の共同市場に成長し︑関税収入の増加が加盟国の財政状態を改善した︒同盟の内部では盟主国プロ

イセンと他の諸国との間に︑たとえばライン河入港税や調整課徴金をめぐって意見の対立も生じたが︑三〇年代には

関税同盟の運営は比較的平穏に推移したといえる︒関税同盟内の対立が一気に増大するのは︑同盟を代表してプロイ

センがオランダとの通商条約(一▲一.九年)︑英国との航海条約(一八四一年)を締結した頃からである︒これら二つの

条約の締結は︑特に後者の場合︑関係する産業界の反対をこえてドイッ人の国民感情に火をつけ︑南ドイッを中心に

世論をまきこんだ幅広い保護主義の運動がまき起こった︒そして︑関税同盟が第二期に入った四二年以降︑麻.綿糸

と銑鉄の輸入関税をめぐって自由貿易か保護主義かという関税・貿易政策上の対立が︑専制政治に対する自由主義の

運動と結びついて︑一気に高揚することになる︒

リストが現実の関税同盟の政策に深く関わるのはこの時期である︒一八三.一年にアメリカから帰って以来︑ドイツ

最初の長距離鉄道であるライプツィヒ"ドレスデン鉄道の建設に携わっていたリストは︑大きな貢献にもかかわらず

三七年八月に追われるようにザクセン(ドイツ)を離れてパリへ向かった︒パリに移ったリストは同年中に懸賞論文の

(5)

フ リ ー ド リ ッ ヒ ・ リ ス ト と ド イ ッ 関 税 同 盟

85

冒然的体系﹄茎臼きあげて関税.貿易問題を論じ奈︑引きつ・?数年間に︑関税同盟の関税貿易政策に対して関心と危惧の念を饗︑差し迫った現実の必要に応えるたあに︑スースとセあ世界義経肇に対抗する国民経済学

の体系の第暮として薗際貿易︑貿易政策︑ドイッ関税同盟Lを執筆した︒これが現存する園民的体系﹄である・﹃国民的体系﹄は︑初期の﹁ドイッ商人.工場t協会﹂時代の活動と米国時代の関税貿易政策をめぐる論争の経験を

踏まえ︑冒然的体系﹄とその後の論稿を補訂し綜A・して︑主としてず時代に書かれ・四年四月にドイッで出版されたもので︑蛮田の出版は︑四〇年代に関税同盟が経験した︑世論をまきこんだ保護主蓬動の高揚にはかりしれない影響を及ぼしたといわれている︒﹃国民的体系﹄の成功に勇気づけられて︑リ済は二年後に﹃関税同盟新聞﹄を発

刊するが︑志半ばにして自.b命を断.たのであった︒このように︑自由貿易か保護義かという貿易肇の高の選

択は︑関税同盟にとってもドイッにと・ても三月前期の霧な経済問題になったが︑また・晩年のリストが最大の関

心を寄せた問題でもあった︒

本稿では︑冒然的体系﹄かり﹃国民的体系﹂をへて﹃関税同盟新聞﹄にいたる彼の著作を通して・晩年のリストの関税同盟への関わりを諮ろ.つとする作業の笙歩として︑パリ時代(天︑.輩諮・年舟)のーの関税同盟論を検討してみよ・つと思・つ︒‑ストの関税同盟論は︑彼が攣を目指していた国民経済学の体系中の実践的な傾向を

もつ蔀分であるかり︑当然に︑発展段階論︑生産諸力の理論︑育成関税論などの理論を基礎にしているが・それと

同時に︑現実に関税同盟が直面していた︑その時々の具体的な関税貿易問題と連動して唱えられたという時論的性

格をもっているさつに思われる︒したが・て︑リストの関税同盟論を検討する場合には・一方では関税同盟が直面していた関税.貿易問題の推移と︑他方ではそれと連動して発表されたリストの論稿と・その両方に目を配るーリスト研究の先学の華を借りれば︑関税同盟史とリストの関税同盟論との間の﹁試行錯誤的往反﹂(小林昇)1という・

(6)

手間のかかる困難な作業が要求されるであろう︒

(1)本稿ではリストの著作とこれに関連するリスト文献を次のように略記する︒

蟹 駄 讃 個蜂 聾 餐 賑 儒零 籍 詠蕪 .㌃ 胎 紹郵 讐 陰 財 霧 鵬 膳 .紮 喧 ︑油 建 鷺

冒然的体系﹄ピΦω墓暑zき同Φ爵§量菱三ρ仁Φ(ぎ蕩葺亀Φ図喜ααΦ仁けω︒げ︒︒σΦ目け﹃僅・自=コ・q)・前記﹃リス

ト全集﹄第四巻︒

﹃国民的体系﹄小林昇訳﹃経済学の国民的体系﹄岩波書店︑一九七〇年︒・'

穿ωεαω一口ΦN・匡ωσ7一Φ.

oσ一一N一ω︒︒︒︒Q︒ΦαqΦ=Φ2=α︒︒P

(2)諸田章ぞリストとドイツ商人L場主協会L(﹃禦川大学創立五〇周年記念論文舞

(3)諸田實﹃ドイッ関税同盟の成立﹄有斐閣︑一九ヒ四年︒

(4)諸田實﹁米国時代のリスト﹂(神奈川大学﹃経済貿易研究﹄一七号︑一九九一年)

(郵 諌 灘 儲 辱 鱒 7療 越 炉. 麟 齢 鄭 艦 罐 ﹃死 塑 網 境 藷 唾 "勾 勤 邸 耐 纏 瑠 鱗 洞 酷

一〇日)に発表した﹁ライプツィヒの審軌﹂の.︑編で︑最後の記事はドイッの関税統歩ブイプツィヒの定期市に及ぼす影響

を報道したもの・国民的体系﹄の﹁藝・﹂で﹁大ドイツ商業同嬰ドイッ関税同盟の▼﹂と︺がわたし9ブイプツィヒ滞在中に

はじめて実現に移されたこと︑⁝﹂と注記している︒

(6)小林昇編﹃経済学史小辞典﹄(学生社︑一九六一.年)のリストの項︒

(7)α§ΦN=<Φ一口ω9Φ・︒9p.<

=ωOω6ΦαΦωUΦoΦN9Φω︒︒

(8)とりあえず・小簾茂ヲーーッヒ・装あザクセンの鉄道組織L(﹃立教経済学研究﹄‑︑天i三︑冗八三年)︒﹃力

i

(9)リストがパリを訪れたのはこの時が四度目である.最初は有罪の漕け止口をつけて芒中の天.西暮で︑途中の英国行きを

(7)

除くと鞄か月滞在した︒二度目は翌二五年四月で︑米国行きの旅券をもらってルTブル港へ向かう途中・多分二泊している︒.二度目竺八...○年末か.b三年秋にかけて米国に家族を残して単身︑米国炭の販売とヨ占ッパでの生活の可能性を探るためにフランスとドイツを旅行した時で︑パリには合計して約四か月滞在したと思われる︒

なお︑本稿で扱.つ四度目のパリ滞在竺八三七年δ月から四〇年吾まで約・年七か月であるが・リスあ手紙や全集の年譜などか.り判断すると︑ワ﹂の間パリを離れなかったようである︒もし..年七か晶︑度真リを離れなかったとすればー﹂年半もの間︑住居を定鎗都市か・り長期にわた.て離れたことが度もなかったことは︑リストの生涯の中で天天年に結婚して以後ー▼﹂の時がただ度だけである︒リ誉は米国時代にペンシルヴニァ州ピアィングに輩数か月・パリへ移る前に一ブイプツィヒに四年.﹂か月︑最後にアウクスブルクに五年数か月︑住居を定めていたが︑この時にはいずれも席のあたたまる暇のないほど旅行している︒

87フ リ ー ド リ ッ ヒ ・ リ ス ト と ド イ ツ 関 税 同 盟

一一﹃国民的体系﹄の成立過程パリ時代のリスト

ーパリ行きと懸賞論文の執筆

リストの主著﹃経済学の国民的体系﹄は一八三九年から四〇年にかけてパリで書かれ︑四一年四月一七日にコッタ

出版社かり刊行された︒﹃国民的体系﹄の成立史は︑この書物の﹁緒言﹂の中で著者自身が半生を振り返ってくわしく述べているよ.つに︑天天年ードイッの福祉に深い退禦おりしり︑リス占身にとっては経済学にかんする糞

を準備しなければなりなか.た年f以来︑︑δ年以上にわたる思索と実践の過程であった・この点は間違いないと

思.つ︒だが︑半生にわたる思索と実践か・り得たものを﹃国民的体系﹄という扁の書物にまとめて世に問うことを決

心し︑実際にこの書物を執筆したのは二年半余におよぶパリ時代(一八こヒ年一〇月四〇年五月)のことであった︒

この点もパリ時代に書かれたリストの手紙や論稿から明らかだと思われる︒

(8)

天三七年秋にパリへ移ってから一八四〇年五月にパリを離れるまで︑リストはアゥクス︒フルクの﹃アルゲマイ

ネ.ツァイトゥング﹄紙の外国通信員として︑三七年に九編︑三八年に三〇編︑三九年に一一九編︑四〇年に三五編

の記事を送ってい(親・パリへ行く途中︑ベルギで同紙の責任編集者になっていた旧知のコル.フ︒ロωけ餌く臣¢餌.︒

閑︒三垂..①伊)と会って・定響稿者になるように勧められたので臥罷.その当時︑艮なヴュルッ一アンベルク

王国の市民としての名誉回復の訴えが国王か・り拒絶され(天三六年四月)︑一フイプツィヒ・ドレスデン鉄道の建設へ

の大きな貢献にもかかわらず鉄道問題の専門家として委定した地位Lを得る道を断たれ(天三七年六月)︑三七年に

起三た恐慌でフィラデルフィアのビドル鰻に預けていた財産を失い︑三九年七月には外人部隊の下級将校にな.

ていた息子のオスカル・ω蚕(§︒‑垂が任地のアルジェリアでチフスに禰って死亡するなど︑連続して不運に見

舞われていたが・そのなかで︑外国通信員として生活を支えなが・り︑ハイネ=Φ一コ・圃︒臣Φ助コΦ(一刈㊤刈1一〇Qα⑪)やフウベ

=①葺喜ピき忠.・8山.・.・心)との交友を鶉︑﹃国民的体系﹄の摯を続けていたのであった︒

パリへ移ったころ・リストの関心の中心にあった問題は鉄道問題︑すなわち国民的輸送制度としての全国的鉄道網

の建設であった.外国通信員としての最初の仕事は︑ずへ行蓬中︑天三七年九月かりδ月にかけて滞在鏡

ベルギからの記事・﹁ベルギ紀行﹂と﹁ベルギ適信﹂であるが︑この中でも鉄道の}﹂とが人きく扱われている︒

九旦○日にはベルギ国営鉄道メヘレンルーヴ・ン間の開通式に招かれており︑パリに着いてか.b︑ベルギ国

慧 繰 離 撫 馨 蕪 璃謙 蓮 茄 震 理 響 σ哲 漿 蛎

代に彼が書いた最初の学術論文が貿易の自由と制限を論じたもの(醤論文)であ.た▼しとかりも判るよ,つに︑その当

時リストは鉄道網の建設だけでなく︑関税・貿易問題にも理論的実践的な関︑心喬けていたのであ.た︒

(9)

フ リ ー ド リ ッ ヒ ・ リ ス ト と ド イ ッ 関 税 同 盟

89

パー2へ着いてまもなく︑リストはフランス学士院の﹁精神科学・政治学アカデミー﹂が懸賞論文を募集しているこ

とを知った︒その課題は﹁ある国民が自由貿易の採用ないし一般に関税立法の変更を意図する場合に︑国民的生産者

の利害と消費者大衆の利害をできるだけ公正なやり方で調整するために︑この国民が考慮すべき事柄は何か﹂であっ

た︒賞金は三︑○○○フランで︑入賞者には名誉だけでなく洋々たる前途が約束されていた︒しかし︑締切りは三七

年一二月三一日と迫っていた︒リストがこの懸賞論文の募集をいつ知ったか︑これに応募しようといつ決心したか︑

それは判らない︒恐らく=月半ばごろから一二月末まで三八年一月一日の午前四時までかかってー1六週間ほ

(8)どで書き上げて提出した︒この間のリストの足どりと生活を残された手紙から復元してみよう︒

父より早く長女のエミーリエ国ヨ一一一Φ(一︒︒一︒︒よ8N)が音楽と語学の勉強のためにパリへ出てきてスチブンス夫人の寄

宿舎に入っていたが︑八月一一日にライプツィヒを発ったリストは九月六日にオステンデから長女に手紙を書いてい

る︒八日までオステンデに滞在したのち︑鉄道開通式に出席するたあにブリュッセルへ行くこと︑コルプ博士と会っ

たこと︑ブリュッセルに二︑三日滞在して︑九月一四日と二〇日の間にパリへ着く予定であることが記されている︒

ところが︑九月二一日にブリュッセルで書いた手紙では︑息子のオスカルの就職問題に手間どったのであと数日滞在

しなければならず︑δ旦‑五日以前にパリへ着くことはできない・と予定が変って馳・ヴェンドラーは一〇月

七日にパリで書かれたリストの未知の手紙を発見して︑リストのパリ到着を一〇月六日か七日であろうと推定してい(記・

この時リストは妻と下の二人の娘をライプツィヒに残して︑ブリュッセルから息子のオスカルといっしょにパリへ

到着し︑単身︑ヴィヴィエンヌ通り一四番のホテル・ヴィヴィエンヌに落着いた︒パレ・ロワイヤルの横︑国立図書

館の裏に沿った通りである︒ベッドを置く場所のついた広い部屋と小さな寝室があった︒オスカルは=月九日に母

(10)

に書いて馳・遍間前から父の所にいるが自分の鶴諺より快適で︑この冬は去年のように寒い思いをしないだろ

う︒﹃われわれは五時まで一日中仕事をし︑それから夕食︑その後ちょっと散歩をして七時ごろ帰って就寝︒父はいつ

も二時か三時には起きるからです︒﹂この時の仕事は国王に口Eする鉄道にかんするメモで︑懸賞論文ではなかった︒

それから︑一週間後の一一月︑一.一日国王に会った翌日にリストは妻に宛てて長い手紙を君いているが︑ここ

には長女のエミーリエに手伝ってもらって懸賞論文に取り組んでいることが記されている︒﹃エミーリエは字がきれ

いで正確な文章を書き︑フランス語の文法を駈分に理解しているので︑われわれはいまフランス語の大きな論文も

いっしょに作っています︒・一つの懸賞課題に答えることに取りかかりましたが︑来年の一月一日に仕ヒげなければな

りません︒健康であれば間に合うでしょうし︑できあがれば賞金(..一︑000フランと一︑五〇〇フラン)四︑五〇〇フラ

ンが手に入るでしょう︒賞金を獲得すればドイツにいる私の敵に対して凱歌をあげたことになり︑当然ドイッかフラ

ンスで良い道が開かれるに違いありません︒目下のところ一日に一五時間以上仕事をしています︒﹄この手紙の裏には

三月四日付けの手紙が豊nかれて雛・﹃当分の間工ーリエと懸賞問題に取り組んでいます︒私は.兀気で︑仕事がは

かどっているし︑前便であなたと子供たちが元気でいることも判ったので︑気分は上々です︒われわれは朝畢くから

夜遅くまで仕事をしています︒﹄

一八三八年一月一日付けの手紙には︑二つの懸賞課題に答える論文を書きあげ︑満足のいくできであったこと︑六

週間で仕上げ︑このために三〇冊以上の本を読んだこと︑午前一時か二時から一〇時まで執筆︑それから図書館で午

後三時まで勉強︑そのあとまた五時半まで執筆︑食事をして七時か八時に就寝︑という生活であったこと︑賞金を両

方とも︑少なくとも片方は獲得できると期待していること︑しかし︑論文は大急ぎで仕上げたものだし︑審査員が出

来栄えにかかわらず自分への授賞を拒否するかもしれないし︑自分は︹経済学の︺新しい体系をもっているが審査員

(11)

フ リ ー ド リ ッ ヒ ・ リ ス ト と ド イ ツ 関 税 同 盟  

91 は古い考えでいるから︑期待が欺かれるかもしれないこと︑いずれにしろ自分はこの論文を出版するつもりで︑そう

すればアメリカの時のような成功を約束できること︑など︑懸賞論文を提出した直後の安堵と期待と不安の心境がリ

(13)ストらしい卒直さで︑やや無邪気に記されている︒

リストの提出した論文はこ七編の応募論文の中で三編の優秀作品の一つに選ばれ︑﹁注目に価いする作品﹂︾8<‑

轟αqΦ器ヨ碧Ωロp三Φ︽という評価を得たが︑入賞とはならず︑当てにしていた賞金を獲得することができなかった︒審

査結果は三八年六月三〇日に伝えられたが︑同日付けの妻への手紙には﹃将来の幸福にかんしてすべての約束を夢遊

病者の誘とし︑ずっとここ︹パリ︺にとどまる決心を固めた﹄こと︑一日も早く妻と下の娘に会いたいこと︑が記さ

(14)れている︒リストの論文には︑当時の懸賞論文の慣例にしたがって︑懸賞課題と﹁祖国と人類と﹂犀冨冨厳Φ皿

一.7ロヨ山臨融というモットーがつけられていた︒原稿は一九=二年にダイヒタル国ロαq曾Φ鳥団ざ葺び食︒一によって確認さ(15)れ︑﹃全集﹄第四巻に︑編集者によって﹃経済学のn然的体系﹄リスト自身が原稿の中でつけた表題という表

題をつけられて︑フランス語の原稿とドイッ語訳が収録されている︒

引用したリストの手紙にもあるように︑この時のアカデミーの懸賞課題は.一つあった︒第一の課題は﹁現在新旧世

界に弘まっている蒸気力と交通機関は経済︑市民生活︑社会構造および諸国民の勢力に対してどのような影響を及ぼ

すか﹂というもので︑賞金は第一の課題の半額︑一︑五〇〇フランであった︒リストは第.一の課題についても﹁世界

は動く﹂ピΦヨo邑Φ∋黛oぎという論文ー1分量は﹃自然的体系﹄の約四分の}ilを提出したが︑結果はペクーの応

募作品が入賞し︑リストの作品は落選した︒この原稿は﹃全集﹄にも収録されていなかったが︑一九八三年一〇月︑一

五日にヴェンドラーによって発見され︑フランス語とドイッ語の対訳版が八五年に田行さな縛︒

(12)

(1)﹃リスト全集﹄第九巻の著作目録によると︑リストはこの他に一▲..七年にはパリへ移る前に二編︑四〇年にはパリを離れ

てから一〇編︑四一年には三二編の記事をこの新聞のために書いている︒

(2)コルプは学生時代ブルシェンシャフトに所属し︑テユービンゲン大学でリストの講義を聴講した︒リストが一八一九年に妻

の兄弟と創刊した﹃ネッカi・ッァイトゥング﹄紙の協力者︒一八..五年政治的秘密組織に参加したかどで有罪判決をうけた

が︑二年後にヴュルッテンベルク国王によって赦免され︑その後コッタ出版社で働いた︒アウクスブルクの﹃アルゲマイネ.

ツァイトゥング﹄紙はコルプの編集長時代に最盛期を迎えたといわれる︒リストは死に際してコルプ宛ての遺書を遺している︒

(3)ビドル銀行↓ゴoヨ鋤︒・ロd一α巳Φ卿Oρはフィラデルフィアの銀行で︑リストは一八二九年=一月に﹁小スクールキル水運.鉄

道・石炭会社﹂のために二〇万ドルの融資をうけた︒

(4)詩人のハイネは七月革命の翌年(一八..三年)市民的自由に憧れてパリに移った︒ハイネも一八三二年一月i九月︑一八四

〇年‑四三年に﹃アルゲマイネ・ツァイトゥング﹄紙にパリから寄稿している︒ラウベはブルシェンシャフト運動や青年ドイツ派の機関紙の編集(一八三三︑一.一四年)のためにプロイセン官憲ににらまれていた︒のちにウィーンの宮廷劇場の舞台監督に

なったが︑政治的立場も人間的心情もリストに近い︒リストの死を悼む文の中でパリ時代の交友を回想している︒﹁モンマルト

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(13)

フ リ ー ド リ ッ ヒ ・ リ ス ト と ド イ ツ 関 税 同 盟

93

(9)﹃リスト全集﹄第八巻四九四︑五ページ︒

(01)睾①コ巳Φ﹃(7﹃・励⁝)・閃ユΦα量=ω;Φ萎g壽α‑葺暮g§﹀︒ω三ぎづαq豊巴§ぎ;象ΦヨΦ§ωO:coω80︹.卜oP

(11)

(12)

(31)﹃リスト全集﹄第八巻五・下五・三fジ.この手紙の裏に書いた亘三日付けの煮には・二つの醤論文の矯を

雛 蓑 欝 籍 瀕 建 難 極 霧 訂 正 す る た め に 持 ち か え ︒ て 仕 事 を 続 け ︑ }月 倉 群 た 時 に は 仕

(14)..

(15)

(61)図≦Φ渇α}㊦﹃(ぴ﹃ω鱒y罫鼠・蔓ω;睾Φ藷藷{.・葺響作集気一五ヒLハ一→ジ・

2﹃自然的体系﹄から﹃国民的体系﹄へ

前述のよ.つに︑醤論文窒臼きあげた直後の穴三八年万百付けの手紙で︑リストはこれを出版する気持を妻に伝えていた︒だが結局︑醤論文はそのままの形でなく大幅に手を加えられ︑三年後に﹃国民的体系﹄となって出

版されたのだった︒その間の経緯を彼の手紙によってたどってみよう︒

醤論文重田きあげて疲労困轡たリストは︑四週間後には妻に﹃少努とも百軒も問い合わせ・見にいって・やっとAコ日部髪借りる}﹂とに決めた﹄皇臼いている(万二八日付け).そこは貸出・讐図書館の近くで・仕事に必要

な資料を入手できる︒それに続いて︑自分の警の中から次のものを探して持ってくるよう籟んでいる・英語のも

のでは︑

(14)

OOOO=OOOO

OO=60Oμ"

ΦOO自ρOOO"

H一ΦωΦΦσqQ自

次に假りとじのものでは︑ヲランス経済改革案と﹁フィ一フデルフィア.スピ;チ﹂

ONZ簿αOOρ卜QしdαΦ

;ΦαΦZOαOOρΦ"

POOρZOδOOδu口

これらの疏からは︑δ年前に詣で保護関税覇に荒した頃の経済学(世界セ講済愚子の批判)の研究を繍し

ようとしていたこと・その際スースとセあ理論を表面的に祖述するドイッの俗流経済学も批判と検討の裂に航え

ていたこと・が窺える・この間に彼は鉄道株の売買で﹃数千フランの利益﹄を得たり(三月二八日付けの妻に宛てた手紙)︑

﹃貿易の自巾に関する論文﹄(醤論文)のドイッ語版を出しても・りえるだうつか︑あ・りかじめその要約を貴社の四季報

に載せてもらえるだろうか・とコッタに問い合わせたりしている(四旦八日付けの手紙)︒健康状態については︑田目と

内臓からくる病気で﹃δ時前には起きられず︑ほとんど何も仕事が出来ない﹄ほど調子を崩したり︑﹃量に健康に

なって・体調の良かった時のように午前一時から仕豪出来る﹄ようになったりしていた}しとが︑妻への手紙か.り判

る(六月二︒日付けと六月二九得けの手紙)︒妻と下の娘は四月初めにライプツィヒを発って︑七月にパリへ着いた.

さて・﹃国民的体系﹄を出版したコッタ︒9甘p<.︒・幕費こ・蚕コ聞ユΦα噌一︒;慰げゴ(一刈①蒔⊥・︒・心凹ご︒ゴ餌鵠コ︒Φ︒﹃‑q

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95 フ リ ー ド リ ッ ヒ ・ リ ス ト と ド イ ッ 関 税 同 盟

団..μ(一刈¢①ー一Q◎αω)は父子二代にわたって︑通常の出版者と善の関係をこえてボでの熱心な窒者であり後援者であったか︑り︑﹃全集﹂第八巻にはコッタ父子に宛てた呉あ手紙が八七通(父へ三︒通・子へ五蓮他に巖社宛て↓.適)も収録されている︒そのなかに︑﹃国民的体系﹄の刊行の意図と霧の状況を伝える手紙が二通ある・そのうち

の蓬︑爵民的体系﹄の最初の計画Lを讃したものといわれる三八年九月六日付けの手紙から判断すると・リストは}︑の時︑懸賞論文に手を加えて薪しい経済学体系﹄の序論となる﹃まとまっ奎同物﹄を﹃成文法のもとでの世界交易の自由と諸国民の結A口について﹄という書名で︑﹃フランス語とドイッ語で同時に出版したい﹄と考えていたよ.つである.すでに小林昇氏が阻りかにされたよき︑ここには﹃国民的体系﹄(舞学の国民的体系・笙巻・国際貿易貿易政策︑ドィッ関税同盟.︑)言分の経済学(社会賛子)体系の序論的蓬として刊行する意図が示されている・先にド

イッ語版の出版寄能性喬いA口わせた彼が︑フランス語版とドイッ語版の同時出版の希望を記しているのは・醤

論文の結果が知.bされて︑入掌フランス語版の出版の可能性がなくなったからであろう・

そして︑}﹂の嚢臼物の内容について次のよ・つに皇臼いている︒﹃私の書物の印.艦は︑畠な交易が︹経済学の︺理論に

よってどの程度まで要求されるか︑自由な交易はどのような方法で実際に農されるか・を示すことにあります・ま

た︑工業と商業︑科学と文明︑政治制度︑発明と発見︹の諸分野︺における諸国民の進歩の結果現在国際法と呼ば

れているものが徐々に国家同盟の法ω塁Φ§§ω﹁Φ受へと移行せざるをえない点を明らかにすることにありま

縞漫︑れは︑﹃ドイッ商業同盟の意義ξ︑の同盟の原理を萬民の交易にどのように拡げていくか﹄という・新しい

課題に敏口える甲﹂とであった.同じ手紙の中で︑臭なコッタ出版社の﹃四季報﹄のために特に銀行制度・鼻商業・国民経済一般に関する論説茎開‑▼﹂とを重口し︑また︑コッタ社から出版されたヨハン・シェ←﹄︒§尋§の

盤凹物島p薩・ω団・︒侍ΦBαΦ﹃2鐵8琶αぎ鼠①その他過去︑一︑三年間にドイッで出たこの分野の書物(﹃ネーべ言スの

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書物は当地に持っています﹄)を入手したい希望を記している︒

この手紙は﹁醤論文から経肇のドイッ的体系(琶繋7Φ・・蚤Φヨα・弓︒濠・,︒7Φコ︒オ・コ・ヨ一Φ)へと進蓮続的関

連﹂(ゾン了)を示して峯同じご一八年末(日付け不明)の﹃四季報﹄饗者フォン・ケルレ閃・訳,<.閑α=①(一刈.︒エ.︒心.︒)

宛ての手紙後・﹃四季報﹄に譲する論文が出来上・たことを知りせたあとで︑﹃二・年来︑私はス︑︑︑ス︑セ置理論

の根本的な誤りの原因を解明することに・心を砕き︑この理論を批判して︑事物の自然α一ΦZ鋤↓ロ・αΦ.︒一コーq.にA口致し

た新しい理論を肇するために着想と材料を集めています.すでに6態削かり私の気持は決ま.ています.そして︑

この問題についてフィラデル三アで刊行した私の論説(あとか・り墜をみてお送りします)によって私はA口衆国でいく

らかの名声を得ております・﹄と記している.二・年前にス三・セあ自由貿易の理論を受容したドイツが深刻な経

済的不況に陥ったという塁に直面して︑経済学への目を開かれ︑δ態削に米国の保護関税運動に参加して国民主

義学派のアメリカ経済学の形成の翼を担った艮‑は︑懸賞論文をへて︑いわば国民義学派のドイッ経済学の体

系(﹁経済学のドィッ的体系﹂)の肇に向けて︑猛烈に勉強を始めたのであ.た.後述するよ.つにワ︑の勉強の成果は翠

から われる 

は噛 講 種 覇 羅 環 昨縫 薪 蒲 慧 瀕 嚢 臣鐸 藁 饗

リとフィラデルフィアでフランス語と英語で出したあとで︑死後にドイッ語版を出そつと考えていた▼しと︑しかし

これでは余りに時間がかかりすぎるし・来年中には原稿が出来上ることを考えて︑﹃それで私はドイッ語版を︑完結し

た全体をな重巻で最初に出し・それに続いて第二巻と第三巻を出す︑とに決めました.﹄と室日いている.自然的体系

三︒し三五ボーゲンの﹃お送りした原稿﹄)はこの巻の蔀分である.﹃二・年の襲と熟考をへて︑私はハイ↓アルベルク

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97フ リ ー ド リ ッ ヒ ・ リ ス ト と ドイ ツ 関 税 同 盟

9フゥ︹教授︺よりも︑それどころか子ベニウス︹教授︺よりさ凡も1喪は決してその他の国々や商工業窒括

してはいませんー進んだ所に来ている︑と言って差し支えないと考えています︒私の課題は・この学問︹経済学︺

において早のところ天と地ほどにかけ離れている実際と理論との間に橋を撫・特にドイッ関税同盟の商工業の利

害を明らかにすることです︒﹄

また︑二通の手紙の中間箋日いた手紙では︑﹃私は順次︑ドイッにとって特に重要な実践的な国民経済学のあらゆる

問題を四季報に発表するつもりです︒.・.・‑冨由貿易の理論を頭から信奉している︺ドイッの土地所有貴族に対して・ドイッの保護制度が彼︑bにとって価値のある点を数字をあげて説明する論文に着手しています・これによって私は

百由貿易の︺理論々り抜け出したのです︒﹄(四月.査付け)とも︑﹃理論家を目指そうなどとは全く考えていません・自状しますと︑私の狙いは経肇の全体を改めることです︒︑δ年の禦と研究と熟考をへて・私はこのことを使命

と感じています︒﹄(五月三日付け)とも述べてい(罷・

﹁初期の粟政策的闘争期﹂以来二〇年の田心索と実践にもとついて︑スースやセあ理論を批判してリストが肇を

目指していた国民経済学は︑柳フウ(﹁ドイッのセ⊥マルクス)や季べ言スのそれとは違ったものであり・ドイッ関

税同盟の健全な発展を方向づけるとい,つ実践と結びついていた︒鼻義経肇の批判という理論とドイッ関税同盟

論とい.つ時論,実践とが︑リストの場合にはドイッの国民経済学の体系において結びついていたのである・三九年δ月三日付けの手紙には︑強い関心をも.ている問題として︑工業が土地価格に及ぼす影響と現在の北米の恐慌の︑一つをあげている︒前者は︑四月の手紙にあ・たように︑保護制度の下で国民的嚢が発達し・国民的交通制度が構築されれば土地価格が上昇するかり︑工萎だけでな主地所有貴族にとっても利益になる・という問題で・恐.bく国民的保護制度の実現には東部ドイツのユンカ幽級の支持が必要だと考えていたのであろう・合衆国の恐慌

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はリストにとって財産の損失という大問題であったが︑そればかりでなく︑恐慌時にイギリスか・りの巨額の資金が引

きヒげられて・これがイギリス人の投資に依存していた合衆国の経済を混乱させた点に注目していたのではなかうつ(側・

いまち注目されるのは・一年前に豪族といっしよに当分の間h窪露塞NΦ﹃パリに留まるよ.つになった▼しと

を・やっと貴方にお知らせできます﹄とコッタに書いたリストが︑この手紙では﹃いずれにしろ私は来年の夏をパリ

以外でーもしかしたらドイツで過ごすことに決心しました︒﹄茎日いている点である︒,﹂の葎間のどつい.つ出来事

に触発されて︑リストはドイツへ戻る決心をしたのだろうか︒

このあとリストは﹃国民的体系﹄の執筆をすすめ︑翌四〇年五月初めにパリを離れてフイ.フツィヒへ移る︒そして

すぐに・中部ドイッの柔リンゲン地方と南ドイツの鉄道建設に忙殺されることに焦魏.そして︑以後度とフ一フ

ンスの上を踏まなかった・﹃リスト全集﹄に収録されている手紙のうち三九年の分は一〇月三得けの▼﹂の手紙が最後

で・四〇年にパリから出した手紙は三月四日付けのヘルダ妻店宛ての手紙が蓬だけである︒}し}﹂には︑去年の最

後の三か月間ずっとドイツ行きを計画していたが不測の事態で実現できなか.なしと︑斉初めにドイッ旅行に出る

ことが記されている・次の手紙・五月初めのレッサ売ての手紙の発信地ゆブイ︒フツィヒになっている︒したがって︑

パ蒔代のリストの生活を遺された手紙にもとついて復・兀する作業は︑最後の半年間についてはほとんど断念しなけ

ればならない・年譜によると︑四・年初めに首相のティエールピ︒ロ一ω︾α︒一℃びΦ↓7一Φ﹃ω(一お刈⊥Q︒ミ)魂年俸万二︑

○○○フランでフランス政府の相当の地位を提供したいとの申し出があったが︑7しれを断わったとい.つ︒

(1)ク㌧→ぎ慧ω︒︒︒覆(ミ・㊤⊥︒・ω㊤)は自由貿易派の代表的経済学者︒彼の董日いΦ︒辞口門Φω︒鵠9Φ璽①墓コ一ω︒賠︒霧ゆ一

(19)

99 ブ リ …'ド リ ッ ヒ ・ リ ス ト と ド イ ツ 関 税 同 盟

守︒師︒日団患α・の根本的誤謬・.を論破すること・が︑‑スあ﹃禦﹄の課題であった︒レイモンド∪山量琢∋8き刈.・α⊥..お)はバルティモァの弁護士で経糞r者︒アメリカ国民嚢学派(アメリカ体制派)経済学の笙段階‑生誕段階の袋者・薫凹雷︒=‑q簿ω︒嵩℃︒琴ゆ奪§塁§蒙畠}ΦヨΦ昌亀・琴島§・ヨニト・.・,ケァリ藍垂薯︒碧Φ賓(§[

題)はフィ.フデルフィアの出肇者で経懲r者︒づシルヴ︑ニアの保護関税運動のイデオ7クで・}あ運動の中心になっなペンシルヴェ季斐技術促進協会・かり出された著作物は︑大部分がケァリたよって書かれたといわれる・藝臼に

堺・︒鋤団︒コ勺︒ま︒鋤函︒3ヨ団・§などがある︒壽・・.壽ε島Φ︒・護はバルティモアの有力な週刊新聞で・リストは黍以)印にすでに︒しの新聞を知っていた︒饗者のナイル臣婁専諄・・(§⊥・・︒・り)はケアーと並んで保護関税運動の舞者

瀦った.﹁フ一フンス経済改藁﹂α婁三Φω﹁Φ喜畷奮§・葺舞8塁Φ憎g謬;§.塁鋼︒晋崇ω跡寓§.ρ一コ紬く自Φ国コN団︒圃︒曇︒ロ①・垂く︒㎞・奮ρ認ほ︑呈ふ米国時代の末期に葎近くヨ占ッパに戻った時・一八三〇年末

諺 に錆 響 籍 蜂 磁螺 馨 雛 謎 禦 尋 砦 パ趣 喜 欺 塾 苅

}︒穿§閃.一Φα・陣︒臣¢ωΦ三鷹︑ピ︒榊︑(一刈刈Oー一◎QωGQ)は葎家で経済学者︑徹底した自由貿易論者・﹁スミスをドイッで水割りした︒ッツ﹂(園民的体系腎︑五→ジ)︒‑ユ麦出曇・・;量§α冒Φ量(§鼓り)は経填者・ヤ書コプ冒量αq国Φ一.︑﹃一︒7<・書︒σ(ま£︒︒§はハレ大学の哲学︑国家経済学教授・

(2)ゲッチンゲン︑ハレ︑ケ⊥ヒスベルクρ︑.悉rは︑天世紀末以来︑7ギリス経済思想の侵入目Lであり・﹁ドイッにおけるス︑︑︑ス義の牙城﹂であった︒ブリンクマンは︑この時期にゲッチンゲン大学のザルトリウス(石九六年)・ブラウンζヴァイク恣rのリュ歩よλOO‑〇四年︑前注の人物)︑ヴュルツブルク大学のヴrグ†(天〇五年)・ベルリン大学のクルク(天〇八年)︑ケ⊥ヒスベルク大学のクラウス(天〇八年)︑ハレ大学のシュマルツ(λ〇八年)・カッセル大学のムルハルト(天〇八年)︑ウィーン人学のッィツィウス(天二年)などの手で︑麗主義とスミス義にもとつく藝日があいついで刊行され︑︑嗣家経済学﹄の新しい教科書の氾濫L現象がお三た︑と述べている・︒毘ゆ量∋舞∪陣Φ噂HΦ蚤・自︒ゴ︒欝ロ胤Φ一ω︒︒奏く︒憎§N︒=<①﹃Φぎ⁝集醇碧§二§=昌Φ三聾⑦三露鱒ま抽著﹃ドィッ関税同盟の成壷﹄五四!五五︑Lニページ︒

(3)周知のさつに︑小林昇﹃フーーリッヒ・リスあ簾力論﹄(冗四八年︒﹁リスあ生産力論﹂という題で﹃著作集寄)一︑

甲■,欄」耽II伽1̀呵鴨 剛

(20)

(4)フラン季廃のアカデーは天︑天年六貝︑・・の総会で新しい讐課題とし三ドイツの粟同盟ゆよ嘱Lを決定し

た・これに&て・リスな同じ燕で︑賞を与えずに落とした自分の論文か・り新しい醤課題のアエアアを剰窃した︑と憤

慨している・﹃パリのある有力者がアカデー‑嫡窃者の巣窟だと私に打明けぞれたのを聞いて︑・しん蓮中のために材料を

提供する気持がなくなりました・㌃ス潅新しい懸賞課題に応募せず︑ドイツで園民的体系﹄を出版した︒なお︑}しの手紙

には﹃マルティ三通り・四三番・私はほんとうに懇都の通り撞んでいます︒﹄と︑住所を記している︒初代のパリ司教聖

ディオラスが五〇年頃シテ島で死刑を宣告され︑この地で処刑されたので︑殉教者(マ少アィーユ︑メ少アイ一フー)の通り

という名がついたのであろう・竪図書館の裏のホテル・ヴィヴィエンヌ々リモンマルトルの近くに移っていた︒

(5)シェ←喜弓ω.まコはオ支ーアの統計家で経窺ア者︒蚕Φd口一Φ﹃・︒¢︒7ロコ・QαΦ﹃2pぎづ麟一︒ズ︒づ︒aΦ=⁝Φ﹃

︒き誓︒<︒重三ω.藝的︒募藷(↓登コα‑Φ戸蓉)の藝.ラウ歪富曾彗寄¢三ゆ・.山・.§は著名な経済学者

πボ 鰍 蘇 卸鋲 騰 融誕 慕 勲 羅 擁 .讐 媛 ︑騒 翫 諺 畷 得

(6)

(7)

(8)‑,1

(融)﹁経済学で鐘論と実際がほとんど関係なく切り離されて傷つけA口.ている.﹂﹃自然的体系﹄の序論り︑の文章で始ま︒て

/

(9)﹃リスト全集﹄第八巻五四〇西︑窄ジ.四月.べ・付けの手紙には﹃︹畠貿易の理論を︺丸暗記している人々がどれほ

ど君臨しているか・ぞっとするばかりです︒ドイツ商蕎盟は南ドイツかり形成されねばなりません︒﹄と皇日かれている︒ま

た・五月三日付けの手紙には﹃天四〇年百号のために︑肇・棄国家の本質について︑および▼﹂の国家と単なる肇国

家との相違について︑も三つ︑むろんそんなに大きくない論文を書いています︒﹄とある︒

(m)国民的体系﹄第二〇章・第豊早︒楠井敏朗ヲメ劣独姦争と産叢會(大塚久雄編薫西洋経済史﹄筑墜田房)三

九⊥6→ジ・ティリたよれば︑ドイッの外国貿易も天三〇⊥ハ・年間には︑A口衆国と同様に︑﹁だいたい半分ぐ.りい英

国の金融に依存していたをいう・ハンブルクの・ンドンへの轟的依存︒天吾年代にはドイツに対する英国の短期の債権

参照

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四税関長は公売処分に当って︑製造者ないし輸入業者と同一

、「新たに特例輸入者となつた者については」とあるのは「新たに申告納税

I assume responsibility for proving such representations and agree to maintain and present upon request or to make available during a verification visit, documentation

◎ペルー特恵税率が新たに適用され、それと同時に一般特恵 一般特恵( (GSP GSP) )税率 税率

本資料の貿易額は、宮城県に所在する税関官署の管轄区域に蔵置された輸出入貨物の通関額を集計したものです。したがって、宮城県で生産・消費

本資料の貿易額は、宮城県に所在する税関官署の管轄区域に蔵置された輸出入貨物の通関額を集計したものです。したがって、宮城県で生産・消費

 貿易統計は、我が国の輸出入貨物に関する貿易取引を正確に表すデータとして、品目別・地域(国)別に数量・金額等を集計して作成しています。こ