別領主権を中心に
著者 柳田 和久
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 41
ページ 19‑35
発行年 1989‑03‑24
URL http://doi.org/10.15002/00011041
文政十年、幕府は関東の村々に四四ケ条にわたる触書を発して文政改革を行なうのであるが、その改革で特に注目されるものに改革組合村の編成がある。(1)改革組合村の研究は、すでに諸先学によって進められ、改革組合村編成以前の組合村の設置、改革組合村編成の意義と役割、改革組合付武装化の問題、幕末期の改革組合村の役割など、多角的視野から研究が行なわれて多大な成果をあげている。そのなかで、改革組合村と個別領主権との関係で問題にされているものに森安彦氏・長谷川伸三氏・煎本増夫氏・高橋実氏等の研究がある。 はじめに
結城藩領における改革組合村の編成について(柳田)
結城藩領における改革組合村の編成にっ
l個別領主権を中心にI(2)森氏は、彦根藩世田谷領を中心に、関東領国の入組象錯綜した知行形態では、中後期に変動する農村支配に対応できず、新しい一円的統一的な支配機構が要求され、そのため関東取締出役の設置・組合村の編成が行なわれたことを論述されたのである。(3)長谷川氏は増上寺領を研究対象にされ、文化十二年四口幻より、増上寺領独自の取締改革が行なわれているため、改革組合村編成にあたっては増上寺御霊屋料・方丈領の単一の改革組合村を結成することになり、そのため一般の改革組合村よりも関東取締出役の干渉をかなり避けることができたことを論述されたのである。(4)煎本氏は佐倉藩を研究対象にされ、佐倉藩独[日の五郷組合とは別に、幕府による改革組合村が編成され、警察的機
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柳田和久
一
九
構・経済的機構を担った改革組合村を私領にまで設定することによって、幕府は関東全域にわたる中央集権的な行政支配を志向したものであることを論述したのである。(5)吉同橋氏は関宿藩・龍ヶ崎藩・笠間藩などを取上げ、改革組合村を編成したのは幕府が関東領国化を志向したためであり、そのため治安対策や経済的統制を遂行する役割を、関東取締出役・改革組合村に求めたのである。このように、改革組合村の編成は関東領国化支配を志向したものであることには異論がないことであろう。しかし、個別領主権のなかに、いかに幕府権力が浸透していったのか具体的にしているとは言いがたい。本稿では結城町組合に起きた諸入用割合不正訴訟を取上(6)げ、結城藩領内に幕府権力が介入していく様相を分析の課題としたい。
関東の知行形態は天領・大名領・旗本領・寺社領などが複雑に入組糸錯綜した相給形態を形成している。関東で一円支配を形成しているのは水戸・小田原・川越藩などの大藩であり、大部分の中・小藩では相給支配のため非領国を形成しているのである。そのため、幕府は文化二年には関 法政史学第四十一号
改革組合村の編成 東取締出役、文政十年に改革組合村を編成して、関東領国の一円支配を図るのである。改革組合村の編成基準は次の(7)ようである。御取締御用心得侯御趣意筋被仰渡候事今般御改革組合定に付書物の儀は、御用番に不拘旨、豊後守殿御奉行所へ可差出侯事、一、御取締組合定之儀、江戸端宿品川・板橋・千住・内藤新宿、右四ヶ所は一宿取締方申渡、在々町々と屯違、御府内に類し候宿方に付、勘弁可取計候事、「江戸町へ入会候在村々、御料・私領・寺社領の分は、一村限り取締方可申渡候事、但、組合の村々相成度旨相願候村方は、其村勝手の筋に付、願の通取計可申侯事、『在々村々の内に組合定難渋いたし候村方は、故障の次第書付取置、其尽残置、追て申上候積にて無之村方計組合定取極可申侯事、「在々の内にても辺鄙山寄、又は浦方等にて隣村無之、格別里数隔候村方は、時宜に寄一村又は一一・三ヶ村も為組合可申侯事、「城下・陣屋元等は其所限取締方申付、尤在村々へ組合度旨領主役人中立侯か、町方相願候分は、組合
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一
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第1表関八リ'''1寄場数.石高・村数・家数表
に入可申候事、一、御料所陣屋等有之候共、格別賑ひも無之場所、其外村々同様組入可申事、(後略)とあるように、取締の諸書類は勘定奉行曽我豊後守助弼が
結城藩領における改革組合村の編成について(柳田)
国名 組合村数|寄場数|石 高 村数|家数
ケノツT 84-2 37+1 50+1 50+1 55 41+3
13 12+1
石余 1,153,137
549,439 671,051 408,377 649,776 572,715 174,669 永1324賃524文 92,925
1十523763032079戸、76881205032
,‘,9,9211111 軒
213,359 86,639 58,464 70,140 93,189 48,520 30,136 25,439 武蔵国
上野国 下野国 上総国 下総国 常陸国
7920513283555411
相模国 安房国
…|永,3;鰯要|…|`…
合計 349
取計うこととなり、品川・板橋・千住・内藤新宿の江戸端四宿は一宿の組合村とする。江戸町へ入会の村女は一村限りで取締りを行なう。組合難渋の村々は、そのまま残して置き、追ってその村だけの組合を編成する。辺鄙・山嵜・浦方で隣村のない村は、一村又は一一・三ヶ村の組合を許可する。城下町・陣屋などは其所限りで取締りを行なう。御料所陣屋でも賑いがない所は組合村の編成を行なう。など御府内を除く関東全域に改一革組合村が編成されたのである。関東八ヶ国の改革組合村数及び寄場数などを示したのが(8)第1表である。組合村は一二四九組、寄場数は一一一四一一ヶ所である。石高にして四二七万石余、村数九五五九ヶ村、家数六二万五八八六軒が組合村に編入されている。その内、組合村数・寄場数が最も多いのが武蔵国、次が下総国・下野国・上総国・常陸国・上野国・相模国・安房国である。また、一国あたりの組合村数は四三組合であり、一組合あたりの平均石高は約一万一三四○石余、平均村数は一一七ヶ村、平均家数は一七九三軒である。関東八ヶ国のうちで八十ヶ村以上の組合村は常陸国の小田・藤沢・中村組合である。八十~七十ケ村組合は四組合、七十~六十ヶ村組合は八組合、六十~五十ケ村組合は十六組合、五十~四十ヶ村
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法政史学第四十一号
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組合は四六組合、四十~三十ヶ村組合は七一一組合、一一一十~一一十ヶ村組合は九三組合、一一十~十ヶ村組合は六一組合である。また、組合高は千石以下より四万六千石余とまちまちであるが、総じて一万石~二万石の組合村が最も多い。寄場に指定されている所は六浦・岩槻・行田・北生実・古河・関宿・結城・佐倉。小見川・多古・佐貫・久留里・五井・大多喜二ノ宮・足利・壬生・宇都宮・喜連川・大田原・烏山・黒羽・安中・高崎・小幡・七日市・沼田・伊勢崎・館林・牛久・龍ヶ崎・麻生・下館・下妻・笠間・宍戸・士補・府中などの城下町・陣屋などである。そのうち、岩槻・行田・高崎・館林・宇都宮・壬生・土浦・龍ヶ崎などは城下町だけで組合村を編成しているが、大部分の城下町は村々と共に組合村を編成している。また、岩槻は岩槻西組合・東組合の寄場をも勤めている。その他に、街道では東海道・中山道・日光道中・奥州道中・日光例幣使道・日光御成道・水戸佐倉道・日光裏街道・結城街道・厚木大山街道・五日市街道・青梅街道・東金往還・房総住還・外房方面への街道など、主要街道・脇往還などの宿場町・継立場などが寄場である。寄場は城下町・陣屋所在地・宿場町・継立場・在郷町など、各地域の経済上・交通上の要所に位置しているといえる。 法政史学第四十一号
改革組合村の編成のうち、一宿二町で編成しているのは、前述の城下町のほかに品川・千住・板橋・内藤新宿・桧原・駒込・大宮郷・岩鼻・板荷・鹿島宮中根三田村・大仙波小仙波・駒場多田木などがあり、大宮郷は横瀬組合の寄場をも勤めている。同一領主だけで改革組合村を編成しているのは、武蔵国では増上寺領の中目黒村組合・上小田中村組合、松平下総守領分の谷郷村組合、伊奈半左衛門支配所の三輪之郷組合・平沼村組合、山田茂左衛門支配所の亀有村組合、常陸国では松平陸奥守領分の福田村組合、下総国では堀田備中守領分の佐倉町組合・船尾村組合、高木健次郎支配所の上ノ島村組合、藤堂和泉守領分の大貫村組合、久世大和守領分の岩井村組合、上総国では黒田豊前守領分の田淵村組合、大岡主膳正領分の筒森村組合、松平駿河守領分の竹ヶ岡組合、下野国では戸田山城守領分の白沢宿組合・下塩原村組合・高徳村組合・玉生村組合、喜連川左馬頭領分の喜連川宿組合、小笠原信助支配所の横川村組合、宇都宮明神領の瓦谷村組合など一三組合である。福田村組合は、従来からの取締体制で充分であること、取締費用も領主より支弁されていることなど、仙台藩領村々で改革組合村を編成(9)している。同一領主だけで改革組合村を編成しているのは
一 一
四
第2表川越藩・前橋藩領支配村名と相給形態 も、改革組合村が編成されたことによって、関東の村女は 況をさらに細かく分析する必要があろう。いずれにして 大藩だけでなく、天領・寺社領などもあり、各組合村の状
結城藩領における改革組合村の編成について(柳田)
領主の相給形態 村数|村 名
組合名 代官|大名 旗本|合計
ケト
扇町屋村組合 59 1 1112121112111111122111111111113 315123423211124257465428221 FDo〕〈0くづ、。o〕ん了o〕o】o]FDnj44、。o〕o】O】刈坐(0〈j(b〔ろPC【l〈bPDndq〉ndnjq〉
紫不〃に△7広円最勿時而
羽生町場村組合 出丸下郷組合 石井村組合
433715
大和田村組合 野本村組合
43 23
1
八幡山町組合 44
寄居村組合 熊ケ谷宿北組合 同西組合
36 38 22
‐【]
深谷宿組合 66 笥配閃西
叩森島脈崎許
ソ また、御府内のほかに川越町・川越領分村々、前橋町。 権力介入も重なり二重支配を受けることになるのである。 大名・旗本・寺社などの個別領主の支配のほかに、幕府の本庄宿組合 66
上野国 新町宿組合 51
高崎宿組合 王村宿組合
53 26
一 Ⅱ-1
一
五 大間々町組合 47
前橋領分村々、榛名山、日光神領村々、水戸領村々、小田原領村々、浦賀附村々などは「御改革手限二「御改革手限(、)(Ⅱ)別達」として、さらに相州の長州藩預所村々などは改革組合村編成より除かれている。これらの藩領や神領は大藩で、しかも権威のある所では、幕府権力の直接介入を嫌っ(皿)たため、改革組〈口村編成より除かれ、藩・神領独自の組合(皿)村で取締りを行っているのである。(u)しかし、川越藩・前橋藩領であっても第2表のような村女は改革組合村が編成されているのである。入間川・藤倉・篠井の三ヶ村は扇町屋村組合に属し、入間川村の領主は山本大膳・松平大和守・田村源十郎・小野勘解由・村越淡路守の五給支配である。藤倉村は松平大和守・山本万之助の一一給支配、篠井村は松平大和守・士屋三郎右衛門・同勝四郎・有賀□之丞・山本万之助・酒井周幡守の六給支配である。上野国の帯刀・五明の二ヶ村は新町宿組合に属し、帯刀村は松平大和守と旗本一一名の三給支配、五明村は九給支配の村である。武蔵国では十二組合に属する二六ヶ村、上野国では四組合に属する五ヶ村が相給支配のため、川越藩・前橋藩領であっても改革組合村が編成されているのである。改革組合村は相給支配のため支配力の弱体な地域に編成され、幕府権力の介入を容易にしたのである。 法政史学第四十一号
元禄十三年十月、水野勝長が能登より下総国結城に一万石を拝領したのが結城水野藩の成立である。元禄十四年に三千石、同十六年に五千石が加増され、一万八千石の大名として幕末まで続くのである。結城藩領村々は下総国結城郡十九ヶ村、上総国山辺郡四ヶ村、武射郡十四ヶ村、下野国芳賀郡九ヶ村、常陸国真壁郡十一一ヶ村、茨城郡一ヶ村の(旧)五九ヶ村であり、二一ヶ国に分散されている。文政十年九月、関東取締出役山田茂左衛門手附武藤僖左衛門・柑本兵五郎手代森東平・同人手附松村小三郎の一一一名(胆)が改革について触れ、結城町組合の編成を行っている。結城町組合は六五ケ村、組合高四万三八一一四石余で、寄場Ⅱ親郷は結城町である。六五ヶ村とは下総国結城郡四九ヶ村・猿島郡十一ヶ村、下野国都賀郡五ヶ村、常陸国真壁郡一ケ村で、領主は代官である勝田・平岡・北条・寺西、大名に水野日向守・鳥居丹波守・一橋御領地・久世大和守・京極右近将監、他に旗本・寺社領などが含まれている。(Ⅳ)文政十一二年に、結城町六五ヶ村組合は、第3表のように(焔)結城町組合(十九)、組合高一万七二一○四石余と、諸川町組合(四六)、組合高二万六五一一○石余に組分けされてい ニ結城町組合と諸入用負担 一一一ハ
る。結城町組合は結城藩領村々十四ヶ村と、ほかに天領・旗本領・寺社領村々と組合されている。結城藩領である山川村・矢畑村は諸川町組合へ、武躰郡成東村・和田村・板付村・大木村・椎崎村・木原村・武勝村・湯坂村・森村は成東村組合へ、武射郡、谷村は埴谷村組合の寄場に、上総国山辺郡家子村・道庭村・武射郡姫島村は東金町組合へ、常陸国真壁郡大里村・大渡戸村は新井村組合へ、真壁郡関本村・船玉村は関本村組合へ、真壁郡下江連村・小川村・大谷村は下江連村組合へ、真壁郡古都村は小栗村組合へ、
第3表結城町組合編成表
結城藩領における改革組合村の編成について(柳田)
村 名 支配形態
代官|大名|旗本|寺社|合計 下総国結城郡
結城町 大谷瀬村 上成村 作之谷村 五助村 久保田村 武井宿 小森新田 林村 小田林村 中村 中村新田 小森村 鹿窪村 下野国都賀郡
中島村 福良村 高椅村 梁村 中川原村
111111111.1211212822
1111111111111
111111 11412 向川澄村は下舘町組合へ、茨城郡門毛村は羽黒宿組合へと、結城藩領村々ばそれぞれ各地の改革組合村に編入されたのである。また、結城町組合の寄場Ⅱ親郷の大惣代は、結城町名主である八右衛門・彦四郎・市左衛門が勤めている。結城町組合は三小組合に分れ、文政十三年の小惣代は福良村名主惣右衛門・中島村名主四郎右衛門、小田林村名主源(旧)弥、鹿窪村名主平司が、それぞれ年番制で勤めている。結城町組合では、文政十年に十七ケ条にわたる定書を作(卯)成し、諸入用の負担方法などを取決めている。文政十三年
3
担方法などを取決めている。文政十三年の組分けの時にも大惣代・小惣代が連名(皿)で議定聿冒を作成している。文政十年と同十三年の定書を比較すると、三条・四条・五条・十二条。十四条。十八条は削られている。しかし、文政十三年には組合内出入の禁止と内済の奨励、農民博突の禁止、合力宿の禁止と不法狼籍の取締り、取締出役が組合内へ止宿の節は小惣代は用向・諸入用を見届け割合勘定すること、川縁通りにて召捕人の諸入用は組合村の総高割とすること、質素倹約の奨励、などが新たに加えられている。ま
一
一
七
た、費用負担方法や囚人費用などに変更がふられる。両者を比較すると次のようである。文政十年の定書によると、(一条)|、御出役様方結城町御一逗留中御上下道案内之衆賄方諸入用之儀者、是迄☆通宿方持切之積り、尤組合が差出シ囚人、又者組合之儀二付、御出役之上御逗留入用之儀、組合惣高割一一可致事、(二条)|、御出役様方他所汐御召連被成侯囚人、亦者組〈口内一一而御召捕一一相成候囚人、永ク御預ヶ之節者、村番ヲ以いたし候而者一同難儀いたし候間、御領主様御牢内拝借可仕、就而者囚人賄入用之儀者、組合惣高割一一いたし入用可差出事、(六条)一、御預り囚人|直人入牢中諸入用左之通り、銭四百三拾四文内わけ銭百文右者囚人扶持代同弐拾四文右者水油代銭弐文右者附木とふしん代銭八文右者鼻紙代同百文右者薪莚代同弐百文右者勤番人弐人給分心付 法政史学第四十一号
白米壱升五合時相場ヲ以銭一一而相渡し可申候右者勤番人弐人分、但し壱人二付一日米五合之訳(八条)|、御預り囚人壱人分御調中、扶持代弁勤番人足共諸入用左之通り、銭壱賃四百文内わけ銭八百文右老番人足弐人賃銭、但し壱人二付一昼夜銭四百文之積り、銭三百文右者囚人番人足弐人扶持代一昼夜四賄、但壱人銭三十六文シ、銭弐百文右者囚人壱人扶持代、夜扶持共一昼夜四賄、但し壱人分銭三拾六文シ、銭百文右者勤番入一昼夜炭薪代とあるように、一条は御取締出役が結城町へ逗留中の道案内衆の賄方諸入用は結城町で負担する。組合より差出した囚人や組合村へ御用心逗留中の諸入用は組合総高割とする。二条は囚人入牢は結城藩の牢を拝借し、囚人の賄入饒用は組合総高割とする。六条は囚人入牢中の諸入用は一人につき銭四三四文とする。八条は囚人取調中の一人分扶持代と勤番人足諸入用は銭一貫四百文とする。以上のことなどを取決めたのであるが、文政十三年の議定になると次のょ
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うに変更されている。「御出役様方結城町御逗留中、御上下道案内之衆賄方諸入用之儀者、是迄之通宿方特切之積り、尤組合村江相拘り候御用向一一而御止宿被遊候とも、町方限り割合組合村々江割合相掛申間敷候事、「御出役様方他所より御召連被成候囚人、又者組合内二て御召捕二相成候無宿之囚人、御手都合一一寄寄場町江日数御預ヶ相成候村番にいたし候而へ一同難義いたし候間、当御領主様御牢内拝借可仕、就而者入牢中入用之儀牢番扶持方〈入牢日数応し御領主様より被下置、其余掛り惣入用高者、寄場町方一一而三分残而七分之儀〈在町惣高割一一可指出、尤も寄場一一於て御取締中其外組々同様有宿囚人者、其身元村――て相賄候儀二付、組合――て者不差構、無宿之分者組合内順番に番人足指出、同人弁番人足賄入用者、是又定之通其村番より相弁置、追而参会之節組合惣高割に可致事、囚人壱人壱昼夜掛り一、銭三百文但、囚人賄代番人手当と屯但、囚人弐人の節者一昼夜六百文二相成、三人より己上者番人足者不相増同人掛り百五拾
結城藩領における改革組合村の編成について(柳田) 文ソ、相増可申侯積り、外一一番人足扶持方者御領主様より被下置候事一、寄場――て囚人御取締中番人入用左支通り、囚人壱入一昼夜掛り一銭弐百文但、囚人壱人昼夜賄代一銭壱人百文但、戈領村役人壱人番人足三人、都合四人旅龍代小以壱人三百文但、壱人弐百七拾弐文シ、四賄之内夜中一賄者湯漬之積り、尤前々之通り賃銭町方一一而立替相勤、組合在町惣高割一一可仕候事、とあるように、取締出役逗留中の諸入用は町方限りで割合い組合村へは負担させない。囚人賄入用は寄場町方で三割、残り七割は在町総高割とする。囚人一人入牢中の諸入用は三百文とし、番人足扶持代は結城藩より支給する。囚人一人取調中の扶持代と勤番人足は囚人一昼夜掛り銭三百文とする。以上のように議定を変更している。組分けにより結城町組合は組合石高が減少したため囚人賄入用を節約するかたわら、結城町は総高割の三割負担、囚人番人足賃銭・扶持代は結城藩で負担するなど、結城町や結城藩にとって負担を増大させる結果になったのである。
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九
弘化二年六月、結城町組合村女の名主・与頭十九名は、小惣代である武井宿直三郎・中村義助・中島村四郎右衛門の三名を惣代に立て、大惣代を勤める結城町名主丹次・新右衛門・孝助・長左衛門・弥平太・仙左衛門の六名を相手(”)取って訴訟を起したのである。その理由は、文政十三年の組分けにより村数・組合高数が減少したため、年々諸入用が増加し村々の負担が重くなっているため、以前のごとく六六ヶ村組合にもどしてほしい。それが「難相成」場合は、結城町を離れ十八ヶ村組合を編成し、寄場を新たに設(犯)げたいというものである。これは、六月一二日の参会の時に入牢入用などが増大しているため、天保六年より同十五年までの十年間の諸入用を取調べたところ、御取締御出役様方在御預ヶ囚人入用金百四拾七両余火方御役人様方汐御預ヶ入牢入用金弐拾七両余御調中組合村御預り岡番人足御差立入用金八拾五両余其外諸入用金六拾五両余の合計一一三六両余しの費用が掛っていることが判明したの(、)である。諸入用が増加した原因は、「尤結城様江御預ヶ囚人入牢入用老年点御役場汐御下ヶ金一一相成候由被仰聞侯へ 三諸入用割合不正出入 法政史学第四十一号
とも、水野日向守様江御預ヶ囚人与、組合村御預ヶ囚人不(皿)分明二付、御取締御出役様方へ御伺申上度」として、囚人入牢は結城藩の牢を拝借しているため、結城藩へ御預ヶ囚人と改革組合村へ御預ヶ囚人とが不分明になっていたのである。その結果、結城藩へ御預ヶ囚人の費用を、改革組合村々で負担しており、それが諸入用増加の原因として大惣代六名を訴えたのである。小惣代三名は関東取締出役へ直接訴える予定であったが、結城藩の知れるところとなり、六月四日には直三郎・義助両名に出頭の旨が達せられている。また、結城藤代官藤郷伸右衛門が義助宅へ来て、大惣代と掛け合い示談すれば、組分けに応じるとの内達があったため、六月九日に結(幻)城藩家中枝喜三郎の取扱いをもって内済したのである。その内済証文は、次のようである。済口証文之事御改革組合寄場結城町外拾八ヶ村組合御取締向諾入用割合之義者、其度女大小惣代立会勘定取調承知印形致置罷在候処、此度組合村内汐勘定違有之趣申出有之候一一付、小惣代四郎右衛門.直三郎・義助汐結城町大惣代名主六人江相懸、諸入用割合之義二付及混雑、既二可及出訴一一も処、扱人立入双方申争之廉々相分熟談仕
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候処相違無御座候、然ル上者町在不弁理之次第も有之候一一付、双方申談行届組分ヶいたし候筈、価而老今般御出役様御廻村先江願出候而者免角廉立候筋一一も相当り候二付、在町惣代連印以書付、追而御領主様汐御取締御出役様御廻村先江御願立組分ヶ被成下候筈、右一一付而者結城町与在方拾八ヶ村与組分相成候迄之御預ヶ囚人、其外都而諸入用、当六月朔日汐以来之分者結城町一一而差出、肌たり共拾八ケ村江割合申間敷筈取極、双方申分無之熟談内済仕候上者、右一件二付双方汐御願ヶ間敷義決而仕間敷候、為後日済口証文、価而如件結城町大惣代名主六人連印小惣代名主一二人連印(弧)とあるように、六月九日に内済となったのである。内済の条件は「組分ヶいたし候筈」「組分ヶ被成下候筈」と組分けを前提にして、関東取締出役へ小惣代が直接訴えると「免角雛立侯筋一一も相当」るため、結城藩より関東取締出役へ願い出ることにしたのである。また、結城町と左方十八ヶ村が組分けになるまでの御預ヶ囚人・其外諸入用は結
結城藩領における改革組合村の編成について(柳田) 城町で負担し、在方十八ヶ村へは決して割振りしないことを取決めている。内済となったことにより直三郎・義助は.件内済二相成候上老御答等被仰付候筋曽而無之旨」と、結城藩役人よ(お)り御呰はない』日が達せられている。また、他領との関係もあり「穏便之取扱」をするよう直三郎・義助へ金十両を支給している。両名は代官藤郷伸右衛門・宮田斧右衛門・山(妬)田登一丘〈衛、町目付中沢広次郎へ請書を提出したのち、組合村々へ支給金の割渡しを行っている。ところが、六月十四日に関東取締出役園部弾次郎が小山宿へ廻村し、惣代・村役人一同を呼出し、他組合にも影響を与えるため「在町組分ヶ致度趣相聞候得共、右外組合迄も相響候義二付、組分ヶ其外如己前組合侯義今更難相成」(〃)と一一一一口い渡されたのである。そのため、小惣代三名連名で、(犯)今度は関東取締出役へ直接訴訟を提出している。訴訟と辻〈に諸入用割合帳十六冊・結城町引不足取調帳一冊・御預ケ囚人入牢中入用書抜帳一冊を提出し調査を願い出たのであ(羽)る。しかし、その結果は次のようである。右書面差出候処、其度々調印致置今更勘定違有之趣申出候共、取調難相成段被仰聞候、巨細者間々田宿一一而中山誠一郎様江差上侯始末書一一いざぬ有之候、
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と、割合帳へ調印しておきながら、今更勘定運があるとして調査を願い出るのは心得達として一蹴されたのである。そのため、諸入用はこれまで通り三割は結城町、残七割は組合村々で負担し、提出した書類十八冊の御下げ願いを出(卯)して内済したのである。七月二十日、結城藩は直三郎・義助に対し御答を課すことを内々に達している。代官より両名に対し詑書を提出すると罪が軽くなると内々に知らされたため、枝喜三郎・青(皿)川伝右衛門・代官所を通じ再一二にわたり詑書を差出すが、七月一二日に結城藩役所へ呼び出され、次のように一一一一口い渡されている。七月什一日関根義助武井直三郎其方共儀、去月中組合村諸勘定割合之義二付、小組村女申談、結城町名主共江懸及混雑、既二可及公訴一一も処呼出、御代官中目付取調中扱人立入、在町組分ヶ之儀者申立可遣旨申渡熟談令内済、八州御取締方手所中小山宿出役先江其筋け申立侯処、外組合迄も拘候義組分ヶ麹も取用不相成候得とも、在町小山宿江呼出取調一一而、御他領迄一件事済相成侯得共、小組惣代与して 法政史学第四十一号
割合帳印形いたし置、町方を相手取及混雑、公儀衆迄之厄介一一相成候始末不埒二付、吟味之上急度御呰メ申付方可有之所、町方寺院を以御慈悲願出候二付、格別之御憐感を以急度御吃り置候、但、直三郎義者己来小組惣代相勤候義、今停止候間、此段申渡候、(犯)とあるように、小惣代として割合帳に調印していながら、結城町を相手取って訴訟を起し、公儀へ厄介を懸けたとして直三郎は小惣代役停止、義助は御吃りを言い渡されたのである。惣代の一人である中島村四郎右衛門は天領村であるため、御答は言い渡されていない。これを不満として、四郎右衛門・義助。直三郎・元小惣代平司の四名は、関東取締出役中山誠一郎へ「組合村一件(鋼)始末書」などを提出し、小惣代の諸入用割合監査の不行届を詑びるとともに、小惣代役停止の御免願いを訴えている。特に、小惣代役停止については、「前文之通御呰メ筋有之惣代停止等被仰付候次第一一而者、此上惣代之者共取計方一一差支何共何共当惑仕候、一躰惣代共如何之取計有之、御取締様方が御答メ被仰付侯義者格別、仮令御領主様一一御座候而も前段御呰之次第一向存意一一相叶不申、当惑難渋仕(羽)侯、右二付而(向後惣代御免奉願上候」と、関東取締出役
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より御答が言い渡されるのならいざしらず、結城藩より小惣代停止があるのは筋違いとして、小惣代停止の取下げか、または小惣代全員が小惣代役御免を願い出たのである。九月八日には、中山誠一郎が廻村の折、これまでの諸勘定帳を持参するよう達しがあったため、天保六年より十五(弧)年までの諸割く口帳を提出したが、内済不行届となったため諸割合帳は差一戻しとなっている。この時に、中山誠一郎は奉行所へ御伺いを立てることにし、また、このまま訴訟を続けると「双方諸雑費相懸り難渋殊一一川之廉而己一一而者不(妬)相済」として、ようやく、十一月に大・小惣代、扱人十名連名で、関東取締出役中山誠一郎へ内済の願書を提出したのである。義助の小惣代役停止については明確ではない(犯)が、「是迄之通惣代勤役致筈」と記されているため、小惣代停止は取下げになったものと思われる。また、内済により結城藩では、今度は十一両を支給している。これは「割戻(妬)し与名目二無之、諸入用として扱人汐受取」と、訴訟に掛った諸費用として村々へ支給したのである。このように、結城藩では改革組合村が編成されたことによって、関東取締出役の判決を受け入れざるをえず、結城藩が出した判決を二・一|一度も撤回して、関東取締出役の言動に従わなければならなかったのである。
結城藩領における改革組合村の編成について(柳田) 本稿では、関東における改革組合村の設置と、結城町組合の編成、および結城町組合の出入について記し、個別領主権のなかに幕府権力が浸透する様子を述べたのであるが、最後に要約しておわりにしたい。幕府は、文政十年に改革組合村を編成して関東領国の一円的支配を行なうのである。しかし、水戸藩領・川越藩領・前橋藩領・小田原藩領・日光神領・浦賀奉行付村々など、領内が一給支配で領国を形成している藩領では改革組合村編成から除かれ、独自な組合村で領内支配を行っているのである。改革組合村は相給支配のため非領国を形成している地域に設置されたのである。幕府は、改革組合村を勘定奉行l関東取締出役の下に置くことによって、私領においても幕府権力が介入できるようになり、幕府権力と個別領主権力の二重支配を余儀なくされたのである。また、結城藩領内村々は下総国・上総国・下野国・常陸国と分散されているため、各地の改革組合村に編入され、ますます幕府権力介入を容易にしたのである。弘化二年六月、結城町組合小惣代は、大惣代の諸入用割 おわりに
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合不正をめぐって訴訟を起し、結城町との組分けを願い出るのである。結城藩では組分けを前提に、小惣代に対し御答を課さないことで、一旦内済となるのである。しかし、関東取締出役は他組合へも影響を与えることを懸念し、組分けは「難相成」としたため、訴訟側は今度は直接に関東取締出役に訴えるのである。これに対し、関東取締出役は今更勘定違いを訴えるのは筋違いとして訴訟を却下するのである。ところが、七月一一一日に結城藩では直三郎に対し小惣代役停止、義助へ御吃りを言い渡すのである。この判決を不満とした訴訟側は、今度は関東取締出役へ小惣代停止の取下げを訴えるのである。ようやく、十一月に内済となり小惣代停止は許されるのである。結果的には訴訟側の敗訴に終るのであるが、結城藩では遂一、関東取締出役の指示を受け、関東取締出役の判決に従わざるを得ず、結城藩が下した判決の変更を余儀なくされたのである。本来領主が掌握している領内の裁判権は、改革組合村編成により幕府にも許すことになり、幕府権力が個別領主権のなかに容易に介入できることになったといえよう。そのため、農民側にとっても結城藩より幕府権力の強さを認識させることになり、結城藩の権威を失態させ 法政史学第四十一号
る結果になったのである。
註(1)文政改革についての研究史は、森安彦「文政改革と関東農村1幕末期の対外危機と組合村の武装編成l」(村上直編『論集関東近世史の研究』所収)に詳細にまとめられている。(2)森安彦「関東における農村構造の変質と支配機構の改革日l関東取締出役設置の歴史的意義l」(『史潮』七四号)、「幕藩制社会の動揺と農村支配の変貌l関東における化政期の取締改革を中心にl」(東京教育大学昭史会編『日本歴史論究』所収)、「幕末期の幕政」s幕末郷士史研究法」所収)。(3)長谷川伸二「文化・文政期増上寺領の村方騒動と改革の展開」(『日本史研究』二二号)。(4)煎本増夫「江戸幕府の関東支配と佐倉藩」(木村礎・杉本敏夫編『譜代藩政の展開と明治維新』所収)。(5)高橋実「改革組合村』制の展開過程」(『茨城県歴史館報」五号)。(6)結城町組合については、『結城市史』第五巻近世通史編、『小山市史』通史編Ⅱ近世、篠崎利男「御改革組合結城町外一八ヶ村についてl中島村を中心にl」『小山市史研究』三)がある。(7)「地方落穂集追加」(『日本経済叢書」巻九、四八二頁)。
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(8)文久二年「関東八箇国御取締組合寄場村高家数帳」国立史料館所蔵富沢家文書。(9)註5(、)年未詳「関東八ヶ国御改革組合寄場附、同断所々市場定日附、同断寺町之分留書」神奈川県高座郡綾瀬町深谷比留川家文書は、山中清孝・渡辺和敏「関八州改革組合村寄場および市場定日について」s近世史藁』創刊号)に収録されている。(Ⅱ)山中清孝「武川、相州「改革組合村」編成について」(「神奈川県史研究』二七号)。(皿)註5.註u(Ⅲ)註Ⅱ。小田原藩では領内を中筋掛・西筋掛・東筋掛と筋に分け、筋ごとに幾箇の組合村を編成している。また、文政元年には各筋ごとに郡中取締役を任令して領内取締りの強化を図っている。前橋藩では領内を西領・向領・川通・中通・東通・前通・善養寺領・玉村領などと領・通に分けて組合村を編成している。口)年未詳「武蔵国御改革組合限地頭性名井村名郡附帳」・「上野国御改革組合限地頭性名井村名郡附帳」宮内庁書陵部所蔵文書より作成。(巧)「結城市史』第五巻近世通史編一七三頁。(肥)文政十年九月「組合村々被仰渡御請証文」小山市中島、柴山良四郎家文書。(Ⅳ)年未詳「下総国御改革組合限地頭性名井村名郡附帳」神
結城藩領における改革組合村の編成について(柳田) 奈川県高座郡綾瀬市深谷比留川家文書より作成。(旧)()内は改革組合村数を示す。⑮)文政十三年四月「組合村内議定惣代連印帳」小山市中島柴山良四郎家文書。以下、特に断らない限り同家文書を示す。(別)文政十年十一月「囚人諸割合扣帳」「小山市史』史料編・近世Ⅱ四八五頁に収録)。(Ⅲ)註旧(犯)『小山市史』史料編。近世’四九二頁。(羽)弘化二年六月「組合寄場結城町在方拾八ヶ村引合一件書類留」。(型)註皿四九六頁(妬)註羽(恥)註泌(Ⅳ)註羽(肥)註皿四九八頁(羽)註肥(釦)註羽(釦)註皿(胡)註皿四九九頁(羽)註朋(弧)註皿五○○頁(弱)註皿五○一頁(邪)註別
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