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対抗から共働へ : 戦後労働史(その1)トヨタ1950年 争議(2)

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著者 小池 和男

出版者 法政大学経営学会

雑誌名 経営志林

巻 49

号 1

ページ 65‑83

発行年 2012‑04‑30

URL http://doi.org/10.15002/00012265

(2)

〔研究ノート〕

対抗から共働へ ― 戦後労働史 その 1 トヨタ1950年争議 (2)

小 池 和 男

第 3 章 市場経済認識のつらいプロセス

1 . 解雇への対応

解雇 ― つらい認識のきっかけ

市場経済の実際のしくみを職場の労働者たち が痛切に認識するきっかけ, もっとも大きいけ れど, もっとも辛いきっかけは, 解雇への対応 である。 ありていにいえば, いかにつよい労働 組合でも解雇を防ぐことは, 市場経済ではまず できない相談だ, それが市場経済の非情なしく みであり, 英米独などの 「先進国相場」 なのだ, そうしたことを骨身にしみて知るのである。

いや, かりに一国が指令経済システムをとり, 社会主義体制をとって解雇を認めなくとも, 海 外の国々が競争しているかぎり, そして, どの 国にとってもふつうのことだが, 海外諸国と交 易していかないとくらしていけないばあい, 結 果はかわらない。 その点はかつてのユーゴ経済 をみるだけで充分の証拠となる。

第二次大戦後ユーゴは社会主義経済体制をと った。 もっとも独立戦争の英雄チトーのもと, その盟主ソビエト連邦にしたがわず, ソ連圏で はめずらしく失業統計を発表してきた。 他の社 会主義圏は失業があり得ないとの建前で, 失業 統計を公表しなかった。 そのユーゴでも法律上 はともかく事実上企業は解雇できなかった。 し かしユーゴが生きるためには他国と交易しなけ ればならない。 なにもユーゴにかぎらずどの国 もそうであろう。 解雇しないユーゴは, なるほ ど企業間競争を認めたが (それゆえわたくしが 訪ねたときの印象でも, 企業の従業員のサービ スははるかにソ連を上回った), 解雇を認めな い以上, 生産性がもっとも劣等な企業でも破産

しない価格設定となる。 つまり生産性のもっと も低い企業もいきのこる価格が維持される。 そ のためには党, 政府の意向をくんだ銀行からの 融資がなされた。 それが指令経済すなわち社会 主義体制であった。

その結果, ユーゴの国際競争力は当然にさが り, ユーゴの経済は落ち込んだ。 失業がはなは だ増大した。 当時西欧の失業率をはるかに上回 る高い失業率であった。 他の社会主義国の失業 も当然に多かったであろうが, なにしろ失業率 を公表しないので, その数値がない。 つまり

「解雇がない社会」 とは, きわめて高い失業率 という別の形での 「解雇」 を余儀なくされるの である。 世界に市場競争があるかぎり, 解雇は 避けがたいのだ。

ところが, 日本の多くの社会科学者たちは, それをあえて知ろうとしなかった。 解雇される のは労働組合の敗北とみる考えが, はなはだつ よい。 研究者だけではない。 戦前の労働組合員 の多くもそう考えた (小池 [2012] 第 9 章)。 戦 後の組合員もそうであった。 敗戦直後のわずか な成功事例もあった。 ただし, それは敗戦により 経営の事実上の崩壊の結果ではないだろうか1)

だが, 経済的に追い詰められた赤字企業が解 雇をしないならば, 市場競争にやぶれ, 結局破 産し全員解雇となろう。 それは日本でも架空の できごとではけっしてない。 もっとも周知の事 例は, 1954年尼崎製鋼であった。 鉄鋼大手 5 社 につづく 2 千人規模の平炉メーカーでありなが ら, あくまで解雇をこばみ闘争をつづけ, 結局 会社は破産, 全員職を失った (くわしくは労働 省 「昭和29年資料労働運動史」 pp.344-370)。

なにも日本にかぎらない。 もしこの判定基準 をとるならば, 市場経済のもと西欧や米の, だ

(3)

れもが強いとみる組合ほど, 敗北主義の刻印を おされてしまい, 「理想主義」 者のえがく労働 組合から落第してしまう。 解雇をするのに団体 交渉すらしない, これがつよいといわれる米の 労働組合の実状なのだ。 その点を, すでに他で も記したが, あまりの重要事ゆえにあえてここ でも再説しておきたい。

とはいえ, 基本資料にまでおりた説明はすで に他に書いている。 ここでは, いかにしてそう した認識に到達したか, その個人的な過程を記 しておく。 しかもなお, その説明には多くの前 置きが欠かせない。 これまであまりに誤認され てきたからである。

米の労働組合

おもに米につき記す。 というのは, この文章 が対象とする1950年代から60年代にかけて, も っともストライキを打つ労働組合は, 先進国で は米であった。 社会主義へのあこがれからか, 当時日本で注目する人の多かったのは共産党の 影響のつよいイタリア, フランスの労働組合で あるが, なるほどひんぱんにストライキを打つ けれど, ごく短いものがほとんどであった。 た とえば半日の構内デモなどである。 それでは線 香花火にすぎない。 経営に真に打撃を与えるの は, いうまでもなく長いストライキである。 そ れを打つのは米の自動車など代表的な組合であ った。 なお, こうした記述のもとになるストラ イキの統計数値は, 手軽には小池 [2005] 第 9 章が掲げている。 そのもとの資料, ILO 国際労 働機構の 「国際労働統計年鑑」 は争議について 基本的な統計数値をのせており, 日本でもごく ふつうの一般図書館で利用できる。

しかしながら労働組合の実際の慣行は, しば しば統計だけではあぶなく, その場にいってい ろいろ話を聞かないと, なかなかわからない。

いったい米の代表的な労働組合, 強いとされる 労働組合は, 解雇反対闘争をおこなわないので あろうか。 もしそうならどうしてか。 この点に, わたくしがいかにして接近したかを語ろう。 と はいえ, その前に説明すべきことがたくさんあ る。

わたくしは日本の労働経済研究が専門で, 当

時の典型的な日本人研究者のキャリアをとおっ た。 すなわち学士, 修士, 博士のいずれも日本 のひとつの大学で, 米はもちろん海外の大学に 留学したことはまったくない。 のち教員として サラリーつきで海外の大学, 研究所で働いたこ とは複数回あるけれど。 したがって, アメリカ の地をふみ米の労働組合を直接たずねいろいろ 話を聞いたのは, 中年からであった。

日本専門なのに米におもむいたのは, 日本の ことを真に知るには他国との直接の比較こそが なによりも肝要だ, と痛感したからである。 日 本の状況の判定基準が, 事実かどうかあやしい ステレオタイプの, 西欧や米の状況の理解であ ったからだ。 最初は1973年, 短期の米国務省の 招待旅行であった。 ついで, 1974年アメリカ政 府招聘研究員 (フルブライト研究員) であった。

フルブライト制度は, その年ドルの切り下げが あり, 期間もサラリーも切り下げられわずか 7 か月であった。 そのあとも, さまざまな機会に かなりの回数米の職場を訪れた。

米の企業別労働協約

もっとも印象深いのはもちろん最初の 2 回, とりわけ第 2 回の1974年である。 この時わたく しは米の工場別労働組合Local unionsを数多く たずねた。 (その事例の記録は小池 [1977])。

もちろん, 事例を訪ねても, そのまえに関連資 料, 関連統計をよく見ていかないと, なにも得ら れない。 その関連資料, 統計のひとつに米労働省 労働統計局Bureau of Labor Statistics, Department

of Labor, (ふつう BLSと略称する) の労働協約

調査がある。 当時は米経済の全盛時代で, 予算 もゆたかであったのであろう, 数多くの労働協 約を集め, 丹念に分類し統計をつくっていた

(BLS [1972], わたくしは資料をもとめて BLS

の, 米にしては質素なオフィスをたずねたこと もある)。 いまははるかに簡単になって, 大学 などの民間機関がその機能の一部をひきついで いるようだ。 米の労働協約は通念のいうように まことにくわしく, 就業規則かわりに会社のカ ネで印刷してあった。

どうか間違えないでほしいのだが, 米の労働 協約といえば日本では産業別で企業をこえて労

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働条件を明記してある, と誤解する向きが多い。

だが, 産業別レベルの労働協約をわたくしはみ たことがない。 企業別と工場別が主で, あとは 職種別などがごく一部にあるにすぎない。 米の

いわゆる National agreement とは全国協約と誤

って訳されるが, 実際は大企業の企業別協約を いうにすぎない。 大企業であれば米の各地に多 くの事業所をもち, それらの事業所を通じた企 業内のルールの設定なのである。 その下の協約 はLocal agreementとよばれる。 大工buildersな どの職能別組合craft unionをのぞけば, それは けっして地域別協約ではない。 基本は事業所別 の協約なのである。 内実を知らずたんに字面で 訳されるのは困る。 誤解をうみ, 職場で孜々と して働く方たちに損失をもたらす。

団交なしで解雇開始

解雇の規定がくわしいのは断然事業所レベル の協約の方で, その規定をみてみた。 そこでわ たくしはびっくりしたのである。 米企業では解 雇を団体交渉なしではじめることができる, と。

わたくしは, 米の労使関係で解雇を勤続の逆順 ではじめることは文献で知っていた。 若者いじ めである。 日本は年功制ゆえに若者にしわよせ するとおもわれているが, とても米の若者いじ めには遠くおよばない。 この辺, 近時の日本の 若年者雇用の研究者たちはどれほどご存知か, こころもとないが。 なお, これはなかなかに合 理的な方式とおもう。 勤続が短い人はその職場 で習得した技能がまだ少なく, 他の職種にもコ ストすくなく転換でき, 再就職しやすいからで ある。

それにしても, 団体交渉なしで経営側が一方 的に解雇を開始できることを, わたくしは協約 上の規定ではじめて知った。 もっとも典型的な 規定はいう, 生産が 4 週間にわたり週32時間未 満まで減少したとき, 会社は解雇を開始できる, と。 週労働時間は当時ほぼ週40時間であった。

したがって需要が20%減であれば, (BLS, Dep. of

Labor [1972], 日本語文献としては小池 [1977]

pp.53-60) いや残業を考慮すればほぼ 4 分の 1

ていど減少すると, 会社は労働組合との団体交 渉なしに解雇できる。

しかもそれは文章上の絵空事ではけっしてな い。 その後米のさまざまな工場別労働組合の役 員また工場の労務人事担当者をたずね話を聞い たが, まずそれが確立した慣行であった。 例外 はごくよわい組合などにすぎなかった。

その理由としてやや訳知り, というより一知 半解の答えは, 米企業の解雇が layoff であるこ とをあげる。 Layoff とは門の外にすこし置いて おくという語感があり, しばしば 「一時解雇」

はなはだしくは 「一時帰休」 と訳したりする。

解雇は一時だけで再雇用がかなり確実であり, 日本の解雇とはまるで違う, という含意になる。

だが, 再雇用が確実な 「一時解雇」 はわたくし の知るかぎり米ではtemporary layoffである。 そ れは機械設備の更新などのため休業するばあい をいうにすぎない。 そしてこのばあい, 「layoff されるもの」 は勤続の逆順ではまったくなく, しかも30日以内に確実に戻る。

これにたいし layoff とは解雇そのものにほか ならない。 なるほど再び景気がもどって会社が 人員をふやすばあい, 解雇されたものに再雇用

rehiring の優先権がある。 その再雇用の順番は

勤続順である。 だが, 優先権の保有期間には限 度があり, ほぼ勤続に対応している。 しかも, 当然ながら景気が回復しないときは勤続の長い 人でももとに戻れない。 会社都合解雇そのもの なのだ。 まして勤続の短い人たちにとってはは じめからもとに戻る見込みのない解雇となる。

それにしても, なぜ米のつよい労働組合はスト ライキなしに解雇をみとめるのか。

解雇のふたつの問題

解雇には基本的に重要な問題がふたつある。

ひとつは何人解雇するか, 他はだれを解雇する かである。 だれしも解雇人数こそが肝心の問題 と考えやすい。 一般市民の考えにとどまらない。

専門家の経済学者たちも, とりわけ理論経済学 者たちはまったくそう考えている。 理論経済学 は労働の種類をひとつと仮定することから出発 する。 それゆえ誰が解雇されるかという問題は 生じないのだ。 だが, 実際により重要な問題は はるかに後者であり, 前者は残念ながら, とり わけ米の生産労働者では, あまり問題にならな

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いのだ。 この点もすでに他で説明したが, 肝要 なのであえて短く再説する。 そうしないと, な ぜ米のつよい労働組合は団交なしで解雇の開始 をみとめるのか, それが解けない。

経営側に対抗するのに労働組合が活用できる のはストライキである。 だが, 解雇せざるを得 ないような会社の不況期, ストライキの効力は 最小となる。 どの国でもそうなる。 というのは, はなはだしい不況期, 在庫が当然にたまってい る。 ストライキで生産を停止しても経営側にさ して打撃にならないどころか, むしろ経営側に プラスになる。 ましてストライキ中は賃金をは らわなくてよいのだから, それも経営側を助け る。

解雇を真に避ける方策は, 会社への融資だろ う。 だが, ごく一部の労働組合をのぞき, 組合 は融資できない。 資力がない。 例外とは, わた くしの知るかぎりシンガポールやスウエーデン の一部の組合であって, 労働組合自身が大株主 としていくつかの大企業をもっているのだ。 大 保険会社や大スーパーなどである。

以上の筋は労働組合活動のごく初期ではなか なかわからなくとも, 解雇反対のつらい争議の 経験をつめば, しだいにわかってくる。 わから ないのは弱い組合, すなわち弱いがゆえに, 過 去に解雇反対の結構長いストライキを打って不 成功に終わったつらい経験をもたない組合, あ るいはその組織が消滅し, 経験の伝えようがな い組合である。 つよい組合ほど, うえの論理を 過去の苦い経験で知ってくる。

だれを解雇するか

それでは, いかにつよい組合でも, 解雇にた いしなにも対抗できないのか。 いやそうではな い。 解雇を廃止することはできなくとも, 解雇 の条件をきびしく交渉することは, つよい労働 組合ならできる。 解雇の条件でもっとも肝要な のは, だれが解雇されるか, その人選である。

組合の草の根, この時代のトヨタの事例でいえ ば, 職場の仕事を日々おこなっている非専従の, 職場委員長や職場委員クラスである。 こうした 人たちが真っ先に解雇されては, つぎの担い手 がでない。 草の根がなくなってしまう。 草の根

のない労働組合はとうてい活動できない。 組合 員の利益をまもることがむつかしい。

一 般 的 に い え ば ど の 国 で も 職 場 委 員 shop

steward こそが労働組合の草の根である。 そこ

で解雇という貧乏くじを引いてもらう順序, 基 準が決定的に重要なのだ。 米のつよい組合は, 解雇が起こる前に, その基準をきめておく。 そ れが勤続の逆順であり, そのうえに草の根すな わち職場委員は勤続いかんにかかわらず, 解雇 の順番をもっともあとにする。 super-seniority である。 その結果, 不況期には職場委員になり たいものが続々あらわれたりするのだ。

すなわち, 米はこの順番, 基準をまぎれなく 前もってきめているがゆえに, 解雇人数そのも のは解雇開始の条件をきめることですます。 さ きに記したように生産量が 4 週間にわたり週32 時間未満となったとき会社は開始できるという 規定, また景気が回復したときの再雇用の優先 権などをさだめておくのである。

ただし, 勤続の逆順などという明快な基準は, いまや米の生産労働者にとどまり, 米でもホワ イトカラーはもともと希望退職がふつうである。

なお米のホワイトカラーは, 教員などをのぞけ ば, ほぼ労働組合がない。

英, 独のばあい

英の生産労働者は勤続の逆順ももちいていた が, 希望退職も広がってきた。 その割合は正確 にはわからない。 労働協約の解雇規定やアンケ ー ト 調 査 を み た て い ね い な 研 究 に よ れ ば (Booth [1987]), 勤続の逆順と希望退職の規定が 併存するのがむしろふつうで, 実際の慣行も案 外希望退職が多いという。 ただし, この文献も ブルーカラーとホワイトカラー別にわけて観察 していない。 ただつよいとされる労働組合の労 働協約の規定でも両者併存が指摘されており, つよい労働組合はブルーカラー中心だから, 希 望退職がブルーカラーにも相当に広がっている, とみてよかろう。 そして英のホワイトカラーは, 銀行や保険など米と違い結構労働組合があるけ れど, わたくしが訪ねた事例では解雇はほとん ど希望退職であった。

独は勤続逆順の慣行はなく, ホワイトカラー

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は希望退職中心のようだし, 生産労働者もゆる い基準にとどまり, なおすっきりしないけれど, いまやしだいに希望退職が主流のようだ (小池

[1994] 第 4 章参照)。

勤続の逆順のような, まぎれのない基準がな いばあいは, 西欧でも解雇の開始に当然に団体 交渉がある。 だが, それが長くはげしいストラ イキになることは寡聞にして知らない。 よわい 組合のみが玉砕覚悟で解雇反対を頑張るかにみ える。

このようにだれが解雇されるかという問題の 重要性は, 当時のトヨタの組合も他の日本の労 働組合も経験上知っていた。 そのことは, 会社 の退職勧告状を解雇対象者の手にわたらないよ う集め焼却するなどの行為から, 推測できる。

しかし明快な基準はなく, また長い解雇反対闘 争の経験も1950年まではまだとぼしく, 愚直に もストライキを打ち, 争議を 2 か月もつづけた のだ。

いいかえれば, この市場経済のいわば非情な しくみを痛切に知るのに, 当然に辛い経験を要 したのであった。

2 . なお対抗的な時期

トヨタ

非情なしくみを知るには, 1950年争議のつら い経験だけではすまなかった。 愚直なストライ キを打った職場の労働者は, なお対抗的な姿勢 をすくなからず保った。 すなわち1950年後半か ら53年, 全日本自動車産業労働組合 (略称 「全 自」, 以下この略称をもちいる) の解散まで, ス トライキは短いが, 争議期間は結構長かった。

こうしたストライキと争議期間から, 市場経済 を認識していくまでどれほど時間がかかったか を観察したい。

おもな資料は 「愛知県労働運動史」 と組合史 である。 ただし 「愛知県労働運動史」 が詳しい のは1951年までで, それ以降トヨタ関連の記事 がすくなくなる。 あとはおもに組合史によるこ ととなる。 トヨタについては10年史 (トヨタ自 動車労働組合 [1956]), 15年史 (同 [1961]), 20 年史 (同 [1966]), 40年史 (同 [1986]) と 4 編

あるが, もっともくわしいのは時期の近い10年 史である。 10年史を中心に, つぎにくわしい20 年史を付記しよう。 なお, 社史は30年史 (「ト ヨタ自動車工業 [1977]) が労使関係につきて いねいに記しているが, こまかい争議, ストラ イキへの言及はめっきりと減っていく。

この時期の人々の考えと行動をもっともいき いきと描いているのは, 上坂 [1959] である。

争議時のトヨタ人事部の一員として, 団体交渉 の議事録をつくる役割をつとめていたものの目 で, 人事部のメンバー, また他の部署の人たち の動きを克明にえがいている。 ごくふつうの真 面目なサラリーマンたちが, いかに真剣に争議 にとりくみ挺身したか, そしてしだいに会社の 重要な仕事の魅力をもとめていくさまを, いさ さかの哀しみをこめて描いている。 争議時の描 写はなく, まさのその後の, この章が焦点をす える期間をみつめ, 当時の職場の人びとの認識 と反応を素直に書いている, とおもわれる2)

1950年後半と51年の争議

1950年後半から1953年の期間, もちろん争議

は解雇反対闘争ではない。 自動車の需要は急激 に増加する。 1950年 6 月解雇受諾のわずか 2 週 間後, 朝鮮戦争がはじまったからである。 争議 時の賃金 1 割切り下げの回復をふくめた賃上げ, 一時金の交渉がつづいた。

まず解雇争議直後の1950年後半をみる。 争議 はつぎつぎと長く, ほとんど年がら年中におよ んだ。 まず 8 月夏の一時金要求があった。 スト 賛成投票が83% (このスト賛成投票, より正確 には 「スト権委譲投票」 の意味についてはのち に付説する。), ただし, ここはストなし 2 週間 でひとまず妥結した。 だが, すぐさま翌 9 月10 日賃上げ要求, それは 2 か月におよんだ。 これ もスト権委譲投票の賛成率は93%であったが, ストはなかった。

その妥結の翌日11月 8 日冬の一時金要求がは じまり, 12月15日にまでかかった。 スト権委譲 投票は97%の高率に達し, スト指令がでた。 だ が, 米占領軍の 「中止勧告」 によって実施でき なかった。 いまの方には不案内であろうが, 1952年のサンフランシスコ条約まで米占領軍に

(7)

よる絶対支配がつづいており, 朝鮮戦争の真っ ただ中, 軍用トラックの生産をとめることはで きなかったのである。 そうじて1950年解雇争議 のあと, その年の後半も, 争議が長く対抗的態 勢はつづいていた, とみるほかあるまい。

そのあともこの態勢はつづく。 以下は争議期 間, ストライキの期間中心に記していく。 翌 1951年春の賃上げ闘争は 3 月末から妥結まで43 日間かかった。 その間のストは10年史によれば, まず 「 4 月16日より残業拒否」 (p.80) とあるが, その期間や回数などは記されていない。 4 月23 日 2 時間スト, 24日 1 時間スト, 4 月27日半日ス ト, 5 月 5 日半日ストとある。 なお, おなじペ ージの下段に10年史の編集委員のひとり, のち の教宣部長則武阿喜夫の手記があり, それによ ると, ストはもっと多い。 上記にくわえ, 4 月 26日, 5 月 4 日部分スト, 5 月 6 日, 7 日全面スト とある。

もっともくわしい 「愛知県労働運動史」 によ るとなお多い。 上記以外に 4 月21日 2 時間スト,

26日から 4 職場による 「無期限部分スト」, 同

26日全職場 4 時間スト, 30日 2 時間スト, 5 月 8

日も全面スト, ついに米占領軍の 「勧告」 で中 止となった (第二巻, pp.211-236)。 朝鮮戦争下, 軍用トラックの生産をやめることは許されなか った。 なおこの 「愛知県労働運動史」 は労政事 務所など県の第一線スタッフの資料も活用した とおもわれ, その信憑性は高い。 そうじて1951 年春の賃上げは結構ストを短いながら重ねてい たことがうかがわれる。

さらに夏の一時金闘争, 秋の賃上げ闘争, 年 末の一時金闘争とつづく。 1951年後半も部分的 時間外拒否もあり, 24時間ストは 2 回であった が (「愛知県労働運動史」 第二巻, pp.248, 255-

257), 争議期間は依然長い。

1952-53年の争議

1952年にもストはつづく。 春の賃上げには半

日スト 2 回, 部分スト (回数不詳), ほかに破防 法反対24時間ストもあった。 夏の一時金闘争は スト権投票88%, 3 社共闘で午後 2 時以降スト, また 1 時間ストがあった。 秋の賃上げは 3 社共 闘であり, スト権投票95%, 24時間スト 1 回, そ

のほかときの副委員長, 林田博臣の手記によれ ば, 「実質的な職場放棄を数日に亙って行って いる」 (10年史, p.85)。

1953年はかの日産争議の年である。 トヨタで

も明確な争議期間は把握しがたいのだが, はげ しく長くつづいた。 会社側のいう 「ノーワーク ノーペイ」 と組合側の 「時間内組合活動の賃金 カットを認めない」 方針の争いである。 10年史 にはときの書記長, 土屋満の手記で 「職場交渉, 職場放棄, ストライキなどの実力行使を繰り返 し」 とある。 ただし回数, 時間は記されていな い。 もっとも 「長期ストの疲れ」 でスト投票は

「60%そこそこにすぎなかった。」 (p.87)

1954年以降ストライキは姿を消す。 前年 7 月

朝鮮戦争は停戦, 自動車産業はやや不景気とな る。 さらにトヨタ, いすず両組合からの日産労 働組合への融資返済問題がおこる。 両組合が貸 したカネを, 日産労組が結局両組合に返済しな かったのである3)。 そのためもあって全自は解 散した。 トヨタはのち1962年全国自動車労働組 合をつくり, いすず, 日野も加盟, 他方日産は 自動車労連をつくる。 両者は1965年 「自動車産 業労働組合協議会」 (自動車労協), さらに1972 年合併して 「全日本自動車産業労働組合総連 合」 (自動車総連) をつくった。 つまりトヨタ の組合員が市場経済のシビアな現実に向き合う のに, 当然ながらはげしい解雇反対争議のあと も, なお数年というかなりの期間を要したので ある。

いすず

まず, いすずについて記しておきたい。 とい うのは, 日産は周知のようにこの時期異常とも いえる状況にあったからである。 いすずはほぼ トヨタの状況と重なる。 いすずは断然組合10年 史 (いすず自動車労働組合 [1956]) がくわし い。 社史 (いすず自動車 [1988]) を参照する のはもちろんである。

1951年春の賃上げ闘争で, 2 時間スト 2 回, 3

時間スト 1 回, さらに数十名規模の部分ストを 数日打っている。 部分ストの期間は組合10年史 でも明記されていないが, なおかなりのストラ イキを打っている。 年末の一時金闘争でも交渉

(8)

場に組合員が乱入したり, 24時間ストが 1 回と の記事がある。

翌1952年もストはみられる。 社史は 「ますま すエスカレート」 という。 まず政治ストも24時 間 2 回, 1 時間 1 回と打つ。 秋の年末一時金闘 争でも24時間ストが 1 回ある。

1953年は争議の連続であった。 中心はトヨタ

とおなじく時間中の組合活動の賃金支払いいか んであった。 まずは 3 月23日の賃上げ要求提示 から 5 月の賃金体系要求, さらに 6 月の夏の一 時金にいたるまで, 争議がそのまま継続する。

1 時間スト 2 回, また数日におよぶ 1 時間スト, さらに期間は明記されていないが, 54名の部分 ストが記載されている。 結局 8 月 4 日まで, 部 分スト, 職場での管理者つるし上げをふくみ, 延々とつづく。

こうした点もトヨタとかわらず, 日産労組に カネを貸しながら戻らなかった点もトヨタ労組 とかわらない。 結局トヨタとともに全自解散に ふみきる。 そしてトヨタ, 日野の各労組ととも に1962年全国自動車を組織する。

日産, 1953年争議前

日産については1953年長い 5 か月の争議, そ して第一組合の壊滅, 第二組合の出現, のちそ の第二組合での権力交代という, 激しい展開が あったために, 多くの文献がある。 ここでは短 くふれるだけで充分であろう。 ただし, そのまえ の時期, 1950-52年はあまりかえりみられていな い。 それを一瞥しておく。 なお, おもな資料はこ の 時 期 に つ い て は 社 史 で あ る (日 産 自 動 車

[1965])。 くりかえすが, 概して社史のほうがス トライキの回数期間などの記述が具体的なのだ。

1950年トヨタ争議のとき, 日産の解雇は前年

にあったので, この年はもっぱら賃上げが争点 であった。 それ自体はストなしに妥結したが, その間, トヨタ支援で 2 時間ストを 2 回, さら にほぼ同時期破防法反対などの政治ストを24時 間 2 回, 1 時間ストを 1 回打っている。 この年 後半, 賃金について部分ストを打っているが, その規模, 回数は不詳である。 (社史, p.263)

翌1951年春の賃金上げ闘争では, 3 月30日か ら 4 月18日の間, 職場大会, 「職場サボ」 があっ

た, と社史は記す。 その規模, 回数などはわか らない。 さらに 4 月19日, 20日, 2 時間スト, 21 日24時間スト, 24日以降部分スト, さらに29日 以降さらに部分ストが拡大された。 妥結は 5 月

11日, すなわち二か月半におよんだ。 夏の一時

金闘争にも無断の職場集会, 「生産サボ」 があ った, と社史は記す。 秋の賃上げにもストがあ った。

その賃上げの結果を記す社史の表が重要な数 値を掲げる。 すなわち 3 社のなかでの日産の賃 金がとくに高いことをしめしているからである。

その原資料は 「総務人事週報」 という文書で, その性質を知らず, 実際にこれほどの差が 3 社 にあったかどうかは不詳だが, 参考までにそれ を掲げておく。 というのは, 日産の賃金がトヨ タやいすずよりやや高いことは, どれほど高い かは別として, 日産以外の資料でも散見される からである。

表 3 - 1 自動車 3 社賃金比較 ― 1951年, 指数 旧賃金ベース 新賃金ベース 増加分

100 100 100

トヨタ 63 64 66

いすず 83 83 83

出所:日産自動車 [1965] 30年史, p.266。 原資料 「総務人事週報」

この数字がどれほど正確かはわからないけれ ど, 立地の点からもトヨタとの差はあり得る。

トヨタのある豊田市はいまも中都市だが当時は むしろ小都市で, 横須賀に主力工場のあった日 産にくらべ生活費がより低いことは確かである。

たとえば, かなりあと1970年代トヨタ労働組合 の機関誌の連載によれば, またわたくしが話に 聞いたことだが, トヨタの生産労働者が20歳代 で戸建ての自宅を新築することが少なくなかっ た。 首都圏ではとうてい考えられないことであ ろう。 それにしても, 日産が多少とも他社より 高く, ここが1953年の争議の遠因のひとつか。

1952年も怠業や 2 時間スト, 波状スト, 一日

ストがあったことを社史がつたえている。 長い 争議, ときどきのストライキ, 職場での事実上 の生産放棄はこの期間つづいている。

(9)

1953年日産争議

有名な1953年日産争議は, 会社によれば 3 月

18日から 5 か月, 組合によれば 5 月23日から 9

月の21日まで 4 か月つづいた。 その経緯にもっ ともくわしく, しかも労働側, 経営側双方の当 時の文書資料を採録しているのは, 労働省 「資 料労働運動史」 で, くわしくはそれにゆずる。

ま た 第 一 組 合 側 の 文 献 と し て は 熊 谷, 嵯 峨

[1983], 第二組合側の文書は 「日産争議白書」

などがある。 ここでは, この章の焦点に深くか かわることへの言及にとどめる。

この長い争議は, 第一に, 解雇反対闘争では ない。 その点で1950年トヨタ争議, またはるか に長いストライキの1960年三井三池争議, ある いは1954年日鋼室蘭争議とはまったく違う。 つ まり組合が追いつめられた争議ではない。 相場 をこえた大幅な賃上げを要求した争議であり, しかも同業大手他社よりすでに多少とも高い賃 金であった。 つまり, 戦前最長のストライキ, 総同盟野田醤油のばあいとその点は似ている。

野田のばあいは争議の裏表をよく知る人から

「驕慢」 ゆえのストライキといわれた。 日産も そういわれてもあながち的外れではない。

そして日産労組には, 野田と違い現実をみつ めねばりづよく活用するリーダー松岡駒吉はい なかった。 日産労働組合長, 益田哲夫は当時流 行の考え方にはっきりと反対し, 政党からの労 働組合の自立を説く, 魅力ある組合リーダーで はあったが, 現実をみつめる目がはたしてどれ ほどあったか。

第二, 長い争議の間, フォーマルなストライ キはともかく, 事実上の職場の仕事の停止がつ づいた。 職場放棄というか管理者の長時間つる し上げ, あるいは閉じ込め, である。 そしてそ れを理由に 「暴行傷害」 で会社が告発し, 益田 組合長以下リーダー 6 名が検挙された。 8月7日 である。 のち懲戒解雇となる。 それ以後ますま す争議ははげしくなり, ロックアウト, 強行突 破のくりかえしであり, 生産は全面停止に近か った。

市場経済のもと, すなわち国内, 海外の競争 があるかぎり, このような行動がつづけば, な にが起こるか, それはごくふつうの人たちにわ

からないはずがない。 競争企業にやぶれ, しだ いに赤字が多くなり, 最後は会社破産である。

全員解雇となる。 まさにさきにみた尼鋼である。

あくまでストライキをつづけ破産し解雇となっ たら, 家族はどうくらしていくのであろうか。

これを企業意識の産物などという 「日本特殊 性論」 に逃げ込むのが, これまでの日本の 「理 論家」 たちの多くであった。 高く特異な企業意 識がなければ, 解雇されても同業他社に職をも とめればよいではないか。 それが欧米である。

ところが日本は特異な企業意識ゆえに, 解雇を おそれすぎる, というのであろう。 すなわち

「日本特殊性論」 である。 だが, 解雇がおこな われる不況期, 同業内では解雇しないまでも新 規に採用しようとする他企業があるはずがない。

他業種に移動せねばならない。 それではこれま で培った技能をいかせず, 当然に賃金がさがる。

その論理はなにも日本にかぎらず欧米にひとし く適用されよう。 それが市場経済なのである。

そして市場経済はもとより日本特有ではない。

市場経済の現実に気づく人たちがあらわれる のは, くらしを考えれば必然であった。 当然に 第二組合が出現し, 結局それが組合員の大多数 をあつめた。 ただし, 日産はトヨタ, いすずと 異なり, 異常に激しい抗争となった。 労働組合 が企業の管理職の人事まですくなからず左右す るようになった。 その一種の専制政治を倒した グループも, それを上回る専制であった。 この 異常さのゆえに, ここでは日産に焦点をあてな かった。

以上を要するに, 市場経済の現実, 非情なし くみをよく認識するには, それなりのコストを はらわねばならなかった。 つらい解雇とまたそ の後の数年にわたる期間である。

付説:スト権委譲投票

「スト権委譲投票」 とはいまの方には聞きな れない言葉であろう。 とはいえ, それがわから ないと, 労働組合の対抗度を見る指標としてど れほど使えるのか, その見当もつくまい。 すこ し説明しておく。 それは他国にあまり見ない手 続きである。 というと, すぐに企業別組合特有 かと受けとられようが, けっしてそうではない。

(10)

むしろ個々の組合員の意思を尊重する, あるい は, 尊重しすぎる日本の労働組合法の特徴のひ とつである。 敗戦後米占領軍総司令部の労働担 当課長が, 米の全国労働組合組織 (AFL-CIO) の元役員で, 米労組で理想としながら実行でき なかったことを, 日本で盛りこんだ規定のひと つである。

日本の労働組合法は第 5 条に明記する, スト ライキの開始は, 組合員の直接無記名投票, あ るいは組合員の直接無記名投票によってえらば れた代議員の直接無記名投票の, 過半の賛成を 要する, と。 これをそのとおり実施しては, じ つは有効なストライキは打てない。 ストライキ を打つかどうかは, 経営側の回答いかんによる ことが多いはずだ。 回答につよく反対ならば, 即座にストライキに入るのでないと, その効果 はあやしくなる。 ところが, うえの規定をその まま実施するとしよう。 大企業であれば, 事業 所は全国にちらばる。 その各地から組合員はも ちろん, 代議員をあつめるのは, 時間も経費も かかりすぎ, 時期を失する。 そこで組合員がス トライキ決行の時期を中央闘争委員会などリー ダーたちにゆだねるかどうか, その点につきあ らかじめ賛否の投票をしておくのである。 それ がスト権委譲投票とよばれる。

そのほか, 組合大会を毎年開かねばならない, という当時の規定なども同様で, 組合民主主義 を大いに尊重する精神であった。 だが, 毎年組 合大会をひらけば経費がかかりすぎ, ストライ キ資金など組合活動にマイナスになる。 この規 定はのち緩和されたけれど, 当時はその規定に よらざるを得なかった。

他国にはこうした条項は, わたくしの知るか ぎり, あまりみられない。 各労働組合の自主性 にまかされている。 組合民主主義を尊重するあ まり, また占領下という絶対権力のゆえに, で きた規定であった。

3 . 継続性

組合リーダーはかわったか

なお, 疑問が提示されるかもしれない。 転換 にはなるほど市場経済の認識までにつらい時間

とコストがかかったであろう。 しかし, それだ けではない。 はるかに志のあるリーダーが根こ そぎ解雇されたからではないか。 そして市場経 済に即しすぎ, 労働者の発言を忘れた, 穏和す ぎるリーダーに入れ替わったからではないか, という根強い見解である。 くりかえし主張され てきた。 その点を検討しよう。

検討はふたつの方向からとなる。 第一, 1950 年前後のリーダーがその争議後, あるいは1953 年の後, ほとんど組合から姿を消したかどうか。

第 二, 現 実 的 な 後 代 の 労 働 組 合 リ ー ダ ー は, 1950年前後のはげしい争議とまったく無縁であ ったのかどうか。 このふたつである。

第一の方向から吟味しよう。 資料はもっぱら 組合史の労働組合役員名簿である。 そこに記載 のある人たちのその後を追う, ということにな る。 かぎられた事例しか追うことはできないの が残念だが。

日本人文科学会 [1963] は, 1950年トヨタ争 議のとき志ある人物はほとんど解雇された, と 記して いる (p.104)。 その典拠は 組合10年史

(トヨタ労働組合 [1956] p.77) 掲載の手記, 争

議時の副委員長, また争議直後の委員長を 2 期 つとめた岩満達己の手記である。 「首切り以後 の組合の一番大きいことは, 首切りであらされ た組合の体制を, 如何にたてなおして行くかと いうことであった。 職場の活動家, 青年, 婦人 部で今までよく闘かって来た人達は殆ど整理さ れて行ったし・・・」 という記述である。

そうした面はおそらくあったろう。 だが, そ れがすべてであったかどうか。 その点をおもに トヨタについて検討していく。 いすずについて も短いながら一瞥しよう。 これにたいし日産の 組合リーダーは一挙に交代した。 いや前リーダ ーは追放された。 追放後も執拗に追跡された。

リーダーの交代は調べるまでもなく明瞭であ る。

争議時の三役

さしあたり争議時の組合三役をみよう。 委員 長鈴木善三郎は争議前からの委員長であり, 争 議後は副委員長, あと組合役員名簿から姿を消 す 。 た だ し, 組合 か らの離 脱 と いう よ りは,

(11)

「工務」 畑, 中大専門部卒というホワイトカラ ーであったからか4)。 1954年退職金をうけて退 職したとの記事が組合10年史にある (p.88)。 お そらく40代なかばの退職で, その事情は不詳で ある。

副委員長岩満達己は, さきに引用した手記を 書いた人である。 経理畑, 横浜商業専門学校卒 のホワイトカラー, 1950年争議の中心リーダー であった。 争議のときの副委員長であり, 争議 時の委員長, 鈴木善三郎を助け, また争議直後 のきびしい時期の委員長を 2 期つとめた。 その 前も議長や支部長であった。 そして全自にも出, その最後の委員長でもあり, またのちもトヨタ の組合にもどり, その副委員長なども歴任, さ らに全自解散後もトヨタが肝いりでつくった全 国自動車の前身の役員であった。 組合の記録で は結局1957年まで組合の現役のリーダーであっ た。 けっして姿を消したわけではない。

なお争議時のもうひとりの副委員長宮島貞利 は 東 北 大 学 工 学 部 卒 の 技 術 者, 熊 谷, 嵯 峨

「1983] によれば, トヨタへの融資元銀行の意 向で解雇され, 他方トヨタの組合はかれの復職 をねばりづよく要求し, その間全自の委員長, またその東海支部の役員をつとめた。 結局トヨ タの関連会社に就職をあっせんされている。

争議時の書記長矢島勝利も組合役員の名簿に は1954年まではのっている。 旧制中学卒 (いま の高校) のホワイトカラーである。 そして争議 時全自にでていた畔柳馨は, 1957年まで組合役 員の名簿にみえる。 かれは1952年全自の委員長 でもあった。

そうじて1953年にすっぱりと追放されたので はない。 ただし, あまりに人数がすくなく, と うていはっきりしたことはいえない。 第二の方 向を試みる。

のちのリーダーは争議時には無縁か

第二の方向は, やはりデータの得られる人数 はすくないながら, 鮮明なメッセージを伝える。

トヨタの組合が現実を直視したあとの組合リー ダーのかなりは, それも長く重要なポストをし めた人たちは, 1950年解雇争議前後トヨタの労 働組合の 「専門部員」 などに名をつらねている。

「専門部員」 とはおそらく将来の組合リーダー を育てるために組合本部にあつめた, しかるべ き若者たちであったろう。 1949, 50年当時10-

20名ほどと多く, のち 4 , 5 名と少なくなった。

具体例をあげておく。 トヨタ労働組合委員長 をもっとも長くつとめたのは梅村志郎である。

1971-82年におよぶ。 さらにそのあと全トヨタ

労連委員長を1986年まで, またその前にもトヨ タの副委員長を1968年から1971年までつとめた。

計20年近くもトヨタの労働組合の重要なポスト をしめた。 かれは1948, 9 年専門部員であった。

養成工 3 期生である (読売 [2003] p.223)。

なお, わたくしの知るかぎり, トヨタの労働

組合の No. 1 のポストはトヨタ自動車労働組合

委員長で, これにつぐのはふたつのポストであ ろうか。 ひとつは全トヨタ労連委員長, 他は自 動車総連委員長である。 全トヨタ労連とは, ト ヨタ本体と, トヨタの関連企業の労働組合をふ くめた, 20-30万ほどの大組織の委員長である。

関連企業とは, なにもトヨタが株を所有してい る企業にかぎらない。 全トヨタ労連はおおざっ ぱにいって, つぎの 3 つのグループからなる。

a. トヨタ本体の組合, ほぼ 4 分の 1 をしめる か。

b. トヨタが 2 割なり 3 割の株をもち, した がってその会社のトップ人事をにぎっている企 業である。 これはほとんど上場企業で, 最大は 日本電装 (いまのデンソー), 数万の大企業であ る。 あとトヨタ車体, アイシン精機など従業員 数 1 万をこえる大企業もつづく。 もともとは多 くがトヨタ本体のひとつの部か課であった。 そ れでトヨタが株を相当持っている。 このグルー プが全トヨタ労連のおそらくは 3 分の 1 強をし める。

c. トヨタが株をほとんどもっていない独立 部品メーカーである。 かの名高い 「協豊会」 な どの団体をつくっている。 長らくその会長企業 は小島プレスであった。 トヨタは小島プレスの 株をもっていない。 またよく誤解されるが, 小 島プレスはなにもトヨタとだけ取引しているの ではまったくない。 おそらく大半の日本の自動 車メーカーに部品を供給している。 自動車メー カー以外とも取引がある。 ただ, トヨダとの取

(12)

引がおそらくは 3 分の 1 ていどで最大というこ とだろう。 なにも小島プレスにかぎらず協豊会 の他のメンバーもほぼ同様であった。 さらに自 動車販売会社やさまざまな関連企業がある。 い ずれもトヨタは株をあまりもっていない。 こう した企業の労働者が全トヨタ労連の 3 分の 1 強 をしめるか。

以上abcをあわせると, 1970年代ほぼ25万 前後の組織であろうか。 そしてその事業の広が りは, 販売会社を別にすれば, ほとんど米の大 手自動車メーカー, すなわちGM やフォードの 社内の範囲に近くなるようだ。 すなわち米の自 動車メーカーならば社内に含めるところを, 日 本では関連企業という形で連携するのであった。

すべて 「あろうか」 「ようだ」 という言い方を したのは, 非上場企業が多く, きちんとした数 値がなかなか得られないからである。 なお, こ うしたおぼろげな数字は, わたくしがかつて名 ばかりではあっても全トヨタ労連顧問であった ときの知見にもとづく。 今は事情が異なるかも しれない。

もうひとつの No. 2 のポストは自動車総連, すなわち自動車産業労働組合総連合, 産業別組 合の委員長である。 一見逆にみえようが, なに も自動車にかぎらず, 他の産業でも, その産業

の No. 1 のポストは, 当時はその主要企業の組

合委員長で, 産業別組合の委員長ではなかった。

それは把握している資金の額をも反映する。

他の事例

ほかにもトヨタの委員長を1964-67年につと めた中根盂がいる。 かれの前の委員長はほとん ど 1 年でかわり, おそらくははじめての複数年 におよぶ委員長であった。 そして, かれのとき

「労使宣言」 すなわち生産協力をはっきりとう たう覚書を経営とかわした。 「労使の相互信頼」

「生産性の向上」 をつうじて 「雇用の安定と労 働条件の維持改善」 をはかる, と宣言したので ある。 それは 「穏和な」 あるいはリアリズムの 労使関係を確立した象徴とされてきた。

かれは旧高小卒のブルーカラー, おそらくは 養成工出身か。 争議直前全自の東海支部の役員, また1950年争議時は闘争委員, すぐそのあとに

専門部員をつとめた。 トヨタの労働組合委員長 のあと, 県会議員をながくつとめた。 なお, 全 自の東海支部の役員はトヨタ出身が当時は 2 , 3 人, うち一人はベテラン, 他は若者の訓練の ポストのようにみえる。 専門部員と似た組合リ ーダー養成のポストとおもわれる。

1964年副委員長をつとめた渡辺武三は, 争議

直前専門部員と全自東海支部の役員であった。

また, 1960, 61年副委員長を務めた伊藤一男は その後全国自動車の本部長もつとめたが, 争議 直前の専門部員であり, その後も1952年執行委 員であった。

さらに石川義之がいる。 かれはトヨタ労働組 合の副委員長を1970-73年つとめたあと, 1973

-82年の長きにわたって全トヨタ労連委員長で あった。 かれも1950年争議時点ではやはり専門 部員であった。 おそらく養成工出身であろう。

文書記録のうえではとうてい統計処理に耐え るサンプル数を収集できない。 それでも, リー ダーの継続性を多少とも示唆できたのではない だろうか。

さらにわたくしが追加したい情報がある。 文 献によらずわたくしが多少とも知り得た情報を あえて活用すれば, こうしたリーダーのすくな からずが 「養成工」 出身, ということである。

その後も No. 1 のポスト, トヨタ労働組合委員

長はすくなくとも1986-89年の小田桐勝己まで 養成工出身であった。

養成工とはなにもトヨタにかぎらず, 日本の 労働組合リーダーの給源としてまことに重要な 存在であったのに, いまはほとんど消えている。

当時の労働組合リーダーを知るためにぜひとも 説明しておきたい。 その人たちが組合リーダー になるとは, 戦後日本の労働組合運動にとって きわめて重要な意味がある。 そのゆえに1950年 争議のあと経営側は労働者個人との話し合いを 徹底して広くすすめたとき, 養成工OB を大い に重視した, という (田中 [1982] p.41)。 いや 争議中も養成工第一期生と相談したという。 前 章でふれた再建同志会である (読売 [2003]

pp.136-7)。 節を改めて説明しておきたい。 た

だしその前にいすずを一瞥しておきたい。

(13)

いすずのリーダーたち

リーダーの継続性はいすずにもみられる。 と きに, いすずはリーダーの大幅な交代があった, としばしば強調される。 なるほど解雇争議時の 副委員長などは共産党員, レッドパージで組合 からはなれた。 そのゆえにいすずはトヨタとと もに全自の解散に突っ走った, とよく記される。

たしかに, いすずは17名がレッドパージとなっ た。 他方, 日産 7 名, トヨタはゼロであった。

トヨタがゼロとは1950年争議でそうした人た ちが解雇されたからではないか, とおもわれる かもしれない。 だが, 事情は他の 2 社も同様で ある。 レッドパージの前に解雇闘争があり, お なじような指名解雇は日産にもいずずにもあっ た。 さらにそれからもれた人へのパージであっ た。 当時絶対権力をもっていた米占領軍の存在 をわすれてはいけない。

いすず組合10年史の 「役員一覧表」 のかぎり では, 組合リーダーはかなりが継続している。

いま組合 3 役に注目して説明しよう。 解雇争議 後1952年から54年の 3 年間, 委員長をつとめた 高橋初郎は, 1948年委員長や書記長であった。

また1955年の委員長, それに前年執行委員をつ とめた依田延雄もやはり1948年騒然としたさな か委員長や副委員長の任にあった。 それに1951

-54年副委員長であった村上重明は, 1949年争 議時執行委員, そして1950年書記長をつとめて いる。

そうじて, レッドパージ以後の組合リーダー にも, 解雇争議の前後に役員であったものが目 立つ。 あるていどの継続性は否定できまい。

4 . 養成工と組合リーダー

組合リーダーの研究

トヨタ労働組合のリーダーたちに多く養成工 出身者がみられた。 これはトヨタ特有のものか, それとも相当に一般性をもつものか, その点を 検討したい。 ただし, この節は文書資料のうら づけがすくなく, わたくしの個人的な知見に多 くもとづくことを, どうかご了承いただきた い。

というのは, 日本の労働組合リーダー研究の

文献は少なくないのに, この重要点を追及した ものがとぼしいからである。 ふつう, 東大社研

[1950], 大 河 内 他 [1965], 労 使 関 係 調 査 会

「1962, 63, 64」 日 本 労 働 協 会 [1992] 稲 上

[1995] などがあげられる。 だが, 奇妙なこと に, その労働組合リーダーの分析は, 学歴, 年 齢, 勤続, 大まかな職歴などという表面的な要 因の分析にとどまり, この肝心の点にふれてい ない。

労使関係調査会 [1962, 63] は養成工出身者 の数値を挙げているが, 分析ではほとんど無視 している。 もっとも事情にくわしいはずの白井

[1966], 岩崎 [2000] もどうしてか, この重要 な点に言及していない5)。 いかにももったいな い。 それでは事の内実に接近できない。 それに この時期になると, わたくし自身が見聞してき た事柄が多少ともある。

第二次大戦敗戦後, 労働組合は急激にもりあ がった。 その疾風怒涛の時代のあと, ややおち ついていく。 そして市場経済の厳しさをしだい に知っていき, リアリズムの労使関係をきづく。

この間, 労働組合をリードした人物像は, 戦前 のようなインテリではなく, まさに養成工出身 者であった。 もっとも著名な人として, 民間で は鉄鋼労連委員長, その前の八幡製鉄所労働組 合の委員長, 宮田義二がいる。 当時鉄鋼は春闘 のリーダーであって, 日本の賃金相場を左右し た。 賃上げのリーダーはまだトヨタではなかっ た。 国営企業では国鉄 (JR) 書記長から総評事 務局長の岩井章, 全逓委員長 (郵政) の宝樹文 彦, 全電通委員長 (NTT) の山岸章などがあげ られよう。

せまくわたくしが1970年代見聞した中京地区 をとっても, わたくしがたずねた労働組合の委 員長のほとんどは養成工出身であった。 わたく しは相当の工場, 労働組合を尋ねあるいていた。

そして養成工OBの人たちが自信をもってこと をすすめていたことに, 深く感銘をうけた。

養成工とリアリズムの労使関係

この点は大いに強調されねばなるまい。 こと ばに頼り, したがってイデオロギーにとらわれ るインテリの組合リーダーとは異なり, 養成工

(14)

出身者は職場の仕事に強烈な自負をもつ。 した がって職場でともに働くブルーカラーたちの仕 事と生活に根ざした発言と行動をとる。 いいか えれば地に足がついた組合運営を心がける。

しかも狭い職場の仕事にとどまらない。 なか なかの読書, 深い教養をもつ人材がでてくる。

その点は, かつて総評本部に勤務経験のある法 政大学教授萩原進氏が語る, さまざまな養成工 出身組合リーダーのすぐれたプロフィールによ っても知ることができる。 その話は中京地区の さまざまな労働組合を訪ね, その専従役員たち の話を伺ったわたくしの感懐とまったく一致す る。 こうした深い教養と職場の仕事, 生活への 熟知から, あまりイデオロギーにとらわれない リアリズムの労使関係が基礎づけられるのであ ろう。

とはいえ, 養成工ということばももはや忘れ さられていよう。 表面上の制度についてはとも かく, その内実についてはみるべき文献も見当 たらず, ここでやや一般的ながら, その制度と その人たちをスケッチしておく。 戦後史の重要 な立役者のひとりだからである。

養成工とは

養成工とは日本大企業の中堅層の精髄であっ た。 だが, いまはほとんど失われてしまった。

歴史としては1910年代初めより八幡製鉄所 (い まの新日本製鉄), 日立などではじまった。 若 い生産労働者を入社後数年かけておもにOff-JT, いやまさに学校タイプの訓練をつみかさねるし くみである。 半日は学科, あとは工場での実習と いう形のようであった (くわしくは隅谷 [1971]

など参照)。 学科はふつうの数学, 国語などの ほかに英語もあり, さらに, 製図, 仕上げ工作 法などそれぞれの職業の基礎専門科目であった。

とはいえ, この時期はいわば萌芽にすぎず, 第 一次大戦後から1930年代にかけてしだいに広が ってきた。

こう一般的にいってもあまりイメージが浮か ばないだろう。 具体的にいおう。 わたくしの見 聞した1950年代をとろうか。 大企業は生産労働 者の採用にいろいろな途があった。 そのなかの 小さな, しかしきわめて重要な途が養成工コー

スであった。 中学新卒者をきびしい試験で選び, 3 年ほどの全日の訓練コースにいれるのである。

最初 2 年はほとんど工業高校の授業内容とかわ らない。 国語, 数学, 英語などふつう学科をし っかりと教え, 製図などの職業基礎科目もある。

3 年次からしだいに職場にでていき, とくにそ の後半は職場がむしろ中心になるようだ。

このコースの意味を知るには当時の教育制度 を見なければなるまい。 当時, 義務教育は 9 年 であった。 敗戦後事実上の 8 年から 9 年にのび た6)。 1950年ごろでは, うち 3 割ほどが高校に 進んだ。 だが, 大学までの進学資金にめぐまれ ない家庭の子弟は, 高校進学よりも, きそって 近隣の大企業の養成工をうけた。 養成工試験は むつかしい。 なぜなら授業料がいらないばかり か, 賃金がはらわれた。 したがって資力のない 家庭の子弟で, 志あり適性にめぐまれた勉強好 きのものほど養成工をうけた。 養成工制度を持 つ大企業が身近にある地域では, まず養成工試 験を受け, それに落ちたとき高校に進学するよ うであった。

事例についてみたほうが理解しやすいであろ う。 隅谷, 古賀 「1978」 から比較的情報の多い 石川島重工の例をあげておく (pp.7, 21, 24)。

敗戦直後多くの企業が生産激減により養成工制 度を一時停止するなか, 日立など一部の企業は 養成工制度をつづけた。 石川島重工 (いまの石 川島播磨) もそのひとつで, 1945年米空軍の空 襲で施設が灰燼に帰したあと, 翌1946年再開,

1948年改組した。 その48年時点の数値が掲げて

ある。

期間は本科 3 年, 研究科 1 年とあるが, 研究 科のことはあまり記されていない。 採用は毎年

50名とされ, 中学新卒を募集, 倍率はこの年 8

倍であった。 この倍率からも, その入所のむつ かしさがわかるであろう。 なお学科と工場での 実習の割合は, 本科 1 年次, 学科週 4 日, 工場 2 日, 2 年次, ほぼ半半, 3 年次, 学科週 2 日, 工 場 4 日と記す。 そして全寮制が原則であった。

なおトヨタも初期は最初 1 年は全寮制であった。

この点も組合リーダーの輩出とふかくかかわる。

あとで説明しよう。

(15)

当時の従業員グループ

この養成工の意味を知るために, わたくしが 京浜工業地帯を歩きまわった1950年代半ばから

60年代の, 大企業の従業員全体を一瞥しておく。

ほぼつぎの 5 層にわかれていた。

まずホワイトカラーのふたつのグループがあ る。 第一, 大卒である。 大企業に入るほどの大 卒は, いまでいう有名大学に集中した。 採用人 数も少なく, 多くの私大卒は大企業に入社でき なかった。 第二, 高卒のホワイトカラー層であ る。 それもごく一部の成績優良の高卒しか採用 されなかった。

ついでブルーカラー層がある。 そのトップは 第三のグループ, すでに言及した養成工である。

人数もすくなく, その採用試験のむつかしさは さきにのべた。 なお, 養成工出身者のブルーカ ラー層にしめる割合は, なかなかわからない。

というのは, 養成工自体はほぼ毎年 1 クラス, 数十人ほど採用されるのだが, 他のブルーカラ ー層, すなわち以下の第 4 , 第 5 グループの採 用が, その年の景気におうじはなはだしく増減 するからである。 わたくしが訪ねまわった事例 では, 養成工出身者はいずれもごく少数であっ た。

第 4 , 高校中学新卒の正規生産労働者であり, 高卒をとれば, そのかなりがこのグループに属 する。 このグループは高卒ながら中卒の養成工 たちより社内の地位はむしろ低かった。 第 5 , それ以外の生産労働者で, 臨時工なり名はいろ いろだが, 今日の非正規にあたるであろう。 高 卒もすくなくない。 職場に入って働きがよいと 職場の職長に声をかけられ, 正社員への登用試 験をうけ, 一部は昇格していく。 それに失敗し たり職長から声がかからない人は, 20歳代半ば までにそこをやめ, 他企業の臨時工に応募する か, あるいは中小企業へと転職していくのだっ た。 こうした事情はどうしたわけか, 研究文献 にはあまりふれられず, もっぱらわたくしの見 聞による。

民間大企業の養成工は, 3 年ほどの課程をお えると, 生産職場に配属され, すくなからず将 来, 職長に昇進していく (なお第 4 グループは もちろん, 第 5 グループからも職長へ昇進する

人がすくなくなかったことを付記しておく)。

ごく一部優秀な人はホワイトカラーへあがって いく。 こうした養成工出身者から多く将来の労 働組合リーダーがでた。 なぜか。

なぜ組合リーダーを輩出したか

3 つの理由が考えられる。 第一, 優れた適性,

能力の持ち主ということである。 きびしい採用 試験を突破してきた人材であり, さらになによ りも生産職場の中核の仕事をこなしてきた。 そ れゆえに, 大いに発言したいことがあり, また 発言する能力もある。

第二, ところが大企業はウエーバーのいう一 種の官僚組織 bureaucracy で, 権限のあるポス トは旧帝大卒などのエリートサラリーマンたち が占め, 養成工出身者がその志を実現できるポ ストになかなかつけない。 どの国の大組織にも ある官僚制である。 それゆえさまざまな怨念が 積もる。 その怨念をはらし, その志をはたす絶 好の場が, 労働組合であり, そのリーダーなの であった。

第三, すぐれたリーダーシップをもつ人材を たがいによく知るしくみがある。 まず, 養成工 は大企業であっても人数がかぎられ, 同年次で せいぜい数十人ほどのクラスである。 おなじク ラス内はもちろん, 数年間上下の仲間をお互い によく知る間柄になる。 まして石川島重工業の ように全寮制がすくなくない。 それゆえ, つぎ の労働組合リーダーをだれに頼むとよいか, そ の判断が適切にできる。 さらに同じ釜の飯を食 べた間柄なら, 先達に頼まれるならば, なかな か断れまい。 こうして養成工制度は, まさに日 本の労働組合リーダーの精華であった7)

国営企業こそ

うえの話はもちろん民間に限らない。 いや国 営企業のほうがより早くこの制度をつくってい た。 養成工制度の開祖のひとり, さきの八幡製 鉄所も当時は国営工場であった。 また名前は養 成工と別のばあいがむしろふつうだが, こうし た精髄をより大規模に形成していた。

この文章が焦点をすえる時期, 国営事業でも っとも大規模なのは国鉄 (いまの JR) であろう

参照

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