〔展示等記録〕
二〇二〇年度秋季企画展 「早稲田で学ぶ ── 時代のなかの学生と学問」
佐 川 享 平
二〇二〇年度秋季企画展は、「早稲田で学ぶ──時代のなかの学生と学問」と題し、東京専門学校の開校から敗戦
後の占領期までの七〇年間を対象に、時代のなかで学ぶ学生たちの姿にスポットを当てた。
会期は二〇二〇年一〇月二日から三〇日までの約一か月間で、会場は早稲田大学歴史館企画展示ルーム(早稲田キャ
ンパス一号館一階)であった。期間全体で二〇五名の来場者があった。
以下、展示会の概要と展示資料の一部を紹介する。なお、資料は全て当センター所蔵である。
はじめに
いつの時代も、早稲田の学生たちは学問と真摯に向き合ってきた。講義の内容を書き記した学生たちのノートが、
その何よりの証である。本展示では、受講ノートをはじめ、学生たちが残した学びの記録を紹介しながら、東京専門
ポスター(図書館閲覧室風景、1915年)
学校の開校当初から戦後直後まで、その時代、その時代のなかで学びつづけてきた学生たちの姿をたどる。
一八八二年、八〇名の学生を迎えて出発した東京専門学校は、開校から二〇年を期して「早稲田大学」を名乗り、
その後、さらに約二〇年を経て、大学令に準拠した正式な大学となる。この間に学科や附属機関が拡充され、校舎や
図書館も整備されて、学生数は一〇、〇〇〇名を越えた。
東京専門学校が早稲田の地に開校したとき、日本にはまだ、憲法も議会もなかった。早稲田大学がその内容を充実
させていく過程は、日本が近代的諸制度を整備し、戦争を繰り返しながら大国へと変貌を遂げていく過程でもあり、
変わりゆく大学の姿は、国家と社会の変容を反映するものでもあった。近代化の過程から、デモクラシーと「改造」の
時代を経て、アジア・太平洋戦争へと至る時代のなかで、早稲田の学生たちは、何を、どのように学んでいたのか。
Ⅰ 近代化のなかで──一八八〇~一九一〇年代
一八八二年一〇月、東京専門学校は、わずか八〇名の学生を迎えて出発した。小野梓が掲げた「学問の独立」の理
念には、外国の学問からの独立という意味が込められ、東京専門学校では、外国語で教育が行われる帝国大学に対
し、日本語によって専門学を速成する教育方針が採られた。
「学問の独立」のもう一つの含意は、政治からの独立にあり、学内には学生の個性を尊重する自由な雰囲気があっ
た。自由民権運動から憲法の発布、そして議会開設へと続く近代国家建設の過程のなかで、初期の学生の間には、権
力におもねらない反骨精神、反官僚意識、強い政治志向が育まれた。授業も、そうした学生の気風を醸成する基盤と
なった。擬国会として知られる政治経済学科の「国会演習」は、議会開設に先んじて始められ、一授業の枠を超え、
学内外の注目を集める早稲田の名物イベントとなった。
一九〇二年一〇月、東京専門学校は開校二〇周年を期して「早稲田大学」へと改称する。大学部には政治経済学
科、法学科、文学科に続き、商学科、理工学科が新たに設置された。また、附属学校として、専門部や高等師範部、
工手学校などが次々に発足した。さらに、国内改革の一環として日本への留学生派遣を推進した清国の留学生を迎え
入れる特設機関として、清国留学生部が設置された。早稲田大学は多種多様な学生が国内外から集う一大教育機関へ
と成長を遂げ、学生数は、開校から三〇年を迎える頃までに、大学部だけで三、〇〇〇名以上、附属学校・機関を加
えれば一〇、〇〇〇名に達した。
学科・附属学校等の拡充と学生数の増加に合わせて、校地の拡大と新しい校舎の建設、学習環境の整備も進んだ。
早稲田大学に改称した一九〇二年には、書庫・閲覧室の二棟からなる図書館が開館した。一九一一年には、教員の研
究室のほか、理工科の教室・実験室や階段教室を備えたレンガ造の恩賜記念館が竣工した。開校当時の校舎もまだ健
在だったが、周囲に田圃が広がるのどかなキャンパス風景は、着実にその姿を変えていった。
〔主な展示資料〕
○山田英太郎(一八八五年邦語政治科卒)「高田早苗「欧米史」受講ノート」資料1/大塚藤一郎(一八九〇年邦語行政
科卒)「天野為之「国債論」受講ノート」/西村真次(一九〇五年国語漢文及英文学科卒)「坪内逍遥「Concerningon
Romanticism」受講ノート」
開校当初の教壇に立ったのは、東京大学を出たばかりの高田・天野・坪内ら。薄給で、多数の科目・講義時間を
受け持っていた。
○小山松寿(一八九五年邦語法律科卒)「織田萬「行政法」受講ノート」/西村真次(一九〇五年国語漢文及英文学科卒)
「坪井正五郎「諸国風俗談」受講ノート」資料2
講師数は次第に増加し、創立一五年を迎えた一八九七年には約八〇名を数えた。学外からも優秀な研究者が出講
してきていた。織田は一八九九年より京都帝国大学教授を務める日本行政法学の祖、坪井は日本初の人類学者に
して東京帝国大学理科大学教授。
キャンパス風景(1912年頃)
資料 1
資料 2
○高野清八郎(一九一二年専門部政治経済科卒)「永井柳太郎「植民政策」受講ノート」資料3/勝田友三郎(一九一七
年大学部政治経済学科卒)「大山郁夫「国家学原理」受講ノート」・「塩沢昌貞「経済学」受講ノート」/金澤雅志(一
九一八年大学部商科卒)「田中穂積「財政学」受講ノート」
創立二〇年を経る頃には、早稲田出身の教員が登場する。各教員の講義ぶりについては、次のような批評が残る
(雑誌『青年』一九一四年八月号)。
「先生こそは雄弁中の鏘々たるものに
て候…この雄弁を以て社会政策と殖民
政策との深遠なる研究を発表す。学生
の人気の翕然として集る」(永井評)
「立板に水を流す様なる弁舌と、キビ
キビしたる態度とが累をなして不評判
なるはお気の毒にて候」(田中評)
「その見識その人格は世既に定評あり…
不得要領と点の辛いのと、エエエエを
連発する講義に閉口させられることが
学生の定評にて、彼には然し正直な先
生だ」(塩沢評)
資料 3
田中穂積の「財政学」講義風景(恩賜記念館階段教室)
(1917年、「政治経済学科卒業記念帖 大正 6 年」)
○「早稲田議会(擬国会)開催通知」・「傍聴券」(一九〇四~一九〇五年)資料4
政治経済学科の授業「国会演習」において行われた擬国会は、「早稲田議会」の名で呼ばれるようになり、教員
や招聘された(実際の)議員・官僚らが閣僚・政党の代表・政府委員役を、学生が一般議員役を務めた。擬国会
には、毎回、数千の聴衆が学内外から集まったが、一九二〇年の大学昇格に伴うカリキュラム再編に伴って終焉
を迎えた。
資料 4
擬国会の様子
(1915年、「政治経済学科卒業記念帖 大正4年」)
○近藤浩一路著、博文館発行『校風漫画』(一九一七年)資料5
「ナマケ振り」を天下に誇る文科、寒い旧校舎でオットセイのように厚着をする政治科、ストーブのある新校舎
で朝から晩まで勉強に没頭する理工科、「高襟」(ハイカラ)で要領のよい商科など、学生の姿をユーモラスに描
く。学科の新設と学生の増加は、学科それぞれに特徴的な気質を生み出していった。
○清国留学生部「教場日誌庚班」資料6
毎日の授業内容と担当教員が記される。
資料 6 資料 5
宋教仁の日記にみる清国留学生部
清末の革命運動に参加し、政治家として活躍した宋教仁(一八八二~一九一三)も、清国留学生部に学んだ一人。
一九〇四年、黄興、陳天華らと企図した蜂起計画が失敗し、日本に亡命した彼は、孫文らと結成した中国同盟会
で活動する傍ら、一九〇六年二月、清国留学生部の予科(本科進学の前段階として設けられた課程)に入学した。
二月一日くもり。辰初星〔午前七時〕、早稲田大学にいって授業を受けた。余が入ったクラスは留学生部予科の壬組であ
り、すでに開講して三カ月あまりとなる。余はこのときはじめて出席したので各科目いずれも補習せねばならなかった。
はじめの講義は数学であったが、余はあまり理解できなかった。巳正〔十時〕、日本語の授業を受けた。程度はひじょう
に低く、余は理解してなお余裕があった。午初〔十一時〕、理科の鉱物の講義を受けた。正午に帰り、未初〔一時〕、ふ
たたび学校にいって歴史の授業を受けた。西洋史である。未正〔二時〕、ふたたび日本語を学び、申初〔三時〕に休憩し、
申正〔四時〕になお一時間あって、また日本語の授業であった。余はいそいで帰って他の科目を補習しようと思い、す
ぐに帰った。毎日の授業時間表をかいて壁に貼った。学校の授業時間表を合わせてすべてこれに写し取り、さらに余自
身が定めた自習時間表を付け加えた。
十五日晴。朝起きるのがまた遅かった。そのうえ時計が停まっていたのでとうとう算学の授業に一時間遅刻してしまっ
た。ああ!余はついに堕落してしまった。
二十三日雨。午前、学校で日本語と算学の試験を受け、日本語で四字間違えた。午後は図画と日本語の試験で、日本語
はまた三字間違えた。…
松本英紀訳注『宋教仁の日記』(同朋社、一九八九年)
Ⅱ 「改造」の潮流と戦争の足音──一九二〇~一九三〇年代
デモクラシーの潮流のもと、一九二〇年代には社会的諸矛盾の是正を求める動きが広まった。労働運動や普選運動
をはじめとする様々な運動が高揚し、社会主義が広がり、「改造」が時代のキーワードとなった。早稲田大学は、こ
うした新思潮の震源地の一つとなった。他方、産業構造の変化と学校教育の浸透は、サラリーマンのような新たな社
会階層を生み出し、大衆社会化が進展した。一九二〇年二月、早稲田大学は大学令に基づく正式な大学となる。早稲
田にはさらに多くの学生が集うようになり、その数は、一九二〇年代半ばの時点で一四、〇〇〇名余りとなっていた。
キャンパスの景観も大きく変貌した。学生数と蔵書の増加に応えるため、一九二五年に新図書館(現在の二号館)
が開館した。一九三〇年代に入ると、明治期に建てられた木造校舎に替わって、鉄筋コンクリート造の耐久校舎が
続々と竣工した。教育内容・教授方法の充実も図られた。大学昇格に際し、早稲田大学は教育の基本方針に「自知自
発」を掲げ、自学自習の精神を重視した。この方針に沿って、自修的研究と詰込主義排除を旨とする学制改革が実施
され、選択科目や演習討論が拡充された。
社会運動・政治運動が高揚する一方で、治安当局はそれらの運動や思想への警戒と取り締まりを強化していく。と
りわけ、社会主義・共産主義への弾圧は徹底され、その波はキャンパスにも及んだ。一九二三年には佐野学・猪俣津
南雄両講師の研究室が捜索され、学内外に強い衝撃を与えた。大学の運営も、次第に、政府や治安当局の意向を無視
できないものとなっていった。「改造」の思潮を主導し、学生にも大きな影響を与えた大山郁夫は、一九二七年、無
産政党である労働農民党の中央執行委員長就任を機に、学生の留任運動にもかかわらず解職された。同時期、新聞学
会・雄弁会など多くの学生諸団体が解散に追い込まれた。
一九三一年九月の満州事変勃発を機に、日本は国際的な孤立と戦争への道を進む。その過程で、教育に対する統制
も強められた。一九二七年から始まった軍事教練には、事変後、野外教練が加わった。一九三六年には、早稲田でも
御真影と教育勅語の謄本を奉戴し、紀元節・天長節・明治節の奉祝行事を実施するようになった。
キャンパス風景
(1937年、「商学部卒業記念写真帖 昭和12年」)
新図書館閲覧室風景
(1937年、「商学部卒業記念写真帖 昭和12年」)
〔主な展示資料〕
○千葉匡(一九二二年政治経済学部卒)「林癸未夫「最近労働政策」受講ノート」資料7・「青柳篤恒「最近極東史」受
講ノート」/銭廣克之(一九三二年文学部卒)「「オスカーワイルド論」(日高只一講義課題)ほか課題レポート草稿」
「労働政策」は大学昇格後に設置された選択科目。林はやがて、国家主義を基礎に土地・主要産業の国有化を主
張する国家社会主義の立場を採る。青柳は日本屈指の中国通として、清国留学生部教務主任のほか、大隈の中国
語通訳や中華民国大総統袁世凱の顧問などを務めた。
○安部磯雄「「都市問題農村問題」講義ノート」(一九一三~二五年頃)資料8・「「社会学」「社会問題」講義ノート」
(一九二〇~二三年頃)
一八九九年に同志社より早稲田に移った安部は、資本主義社会の抱える問題の解決を目指し、社会問題・都市問
題を講じた。その講義振りは、「直立不動の姿勢を以て、グラスゴーの市設病院はと都市問題を講ずる処は、ほ
んに懐しい小父さんに候」と評された(雑誌『青年』一九一四年八月号)。
○理工学部採鉱冶金学科の鉱山実習報告書(一九二〇~三〇年代)資料9
理工学部採鉱冶金学科のカリキュラムには、鉱山・炭鉱での実習が組み込まれていた。学生は約一か月間、実習
先の鉱山・炭鉱に滞在し、採掘技術や労働状況を克明に記録した。
○「新解釈学生日記」(一九三二年、「法学部卒業記念昭和七年」)資料
10
資料 7
資料 9 資料 8
資料10
Ⅲ 戦争と荒廃、そして復興 ──一九三七~一九五二年
一九三七年七月、日本は中国との全面戦争に突入する。総力戦体制の構築が進み、あらゆる人材と資源が戦争遂行
のために動員されるなかで、早稲田大学もまた、国策に順応していった。
戦時下で新設された鋳物研究所や興亜経済研究所などの研究機関、あるいは、「東亜の文化開発に雄飛すべき青年
学徒を養成」するとした特設東亜専攻科は、戦争遂行のための技術や理念、人材を提供する役割を担った。その一
方、反戦的、自由主義的、反天皇制的と見なされた教員に対する当局からの圧迫が強まった。津田左右吉や京口元吉
が大学を追われ、帆足理一郎・西村真次・林癸未夫らの著作が、発禁・絶版や一部削除などの処分を受けた。
カリキュラムも戦争遂行に適合的なものへと再編された。軍事教練は必修科目となり、「国是即応、体力錬磨、集団
訓練」を目的とする学徒錬成部が新設された。学生が学問と向き合う日常は次第に切り詰められ、やがて、戦争一色と
なった。日本が対米英開戦に踏み切った一九四一年一二月には繰り上げ卒業が始まり、在学期間を短縮された卒業生
が戦場へと赴いていった。一九四三年には、それまで学生に与えられていた徴兵猶予の特典が廃止され、五、〇〇〇
名余りの文科系学生が一斉に入営・応召した(学徒出陣)。残留した学生に対しても、軍需工場や建築現場への勤労動
員が急速に強化された。戦争末期には、国民学校初等科を除く全教育機関で授業を取りやめることが決定され、早稲
田大学もその教育機能を停止するに至った。
戦争はキャンパスにも大きな被害をもたらした。一九四五年五月二五日の空襲によって、恩賜記念館や大隈会館
(旧大隈邸)をはじめ、レンガ造・木造建築のほとんどが壊滅した。新しい耐久校舎の被害は比較的軽微だったが、
キャンパス全体の三割が損害を受け、多くの校舎が使用不能となった。
それでも、戦争終結直後の一九四五年九月には、灯火管制によって窓ガラスがタールで塗りつぶされたままの薄暗
い教室で、授業が再開された。戦地や動員・疎開先から、徐々に学生も帰ってきた。こうして、早稲田に再び、学問
に勤しむ学生たちの姿が戻ってきた。
空襲で倒壊した理工学部校舎
(1945年5月26日、早稲田大学図書館所蔵
「早稲田大学戦災写真」)
図書館閲覧室風景
(1950年頃、「昭和26年度卒業記念 早稲田大学第一理工学部機械工学科」)
〔主な展示資料〕
○ある学生の「通学の一日」(一九四一年、「某商学部学生旧蔵早稲田大学在学記念アルバム」)資料
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写真には、「大学には休講とブランクの時間と云ふものがある。学生は之らの時間を無意義に過ごしてはいけな
い」と、本人による解説がある。
○川村芳太郎(一九四三年専門部商科卒)「小林行昌「商業学」ほか受講ノート」(一九四一~四三年頃)資料
12 筆記者の川村芳太郎は繰上げ卒業後の一九四三年末に入営。一九四五年五月一日、沖縄で戦死。
資料12
資料13 資料11
○川原篤「「国際政治」講義ノート」(一九四三~四四年)資料
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政治経済学部教授の川原は一九四四年六月に応召。一九四五年一月、中国の漢口で戦病死。
○山崎直幸(一九五一年第一商学部卒)「上坂酉三「貿易実務」受講ノート」(一九五〇~五一年頃)資料
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※本展示の図録は、大学史資料センターのウェブサイトにて閲覧が可能である。ウェブサイトのURLは左の通り。
https://www.waseda.jp/culture/archives/
資料14