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大連愛光・社内報表紙

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Academic year: 2021

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2015年2月1日発行 No, 92号       愛 光 集 団 だ よ り  

愛 光

通商

通訊

       

冬季号

《大連愛光創業20周年・経営発表会&聖誕祝会 特集号》

〜“アジア夢カレ”10周年 おめでとうございます!!〜 主によりたのむために 耳を傾けて、知恵のある者のことばを聞け。        你须侧耳听受智慧人的言语, あなたの心を私の知識に向けよ。         留心领会我的知识: これらをあなたのうちに保つなら、楽しいことだ。         你若心中存记, これらをみな、あなたのくちびるに備えておけ。         嘴上咬定,这便为美.   あなたが主に拠り頼むことができるように、         我今天以此特特指教你,        私はきょう、特にあなたに教える    为要使你依靠耶和华。         (箴言22章17〜19 節) 亜細亜大学“夢カレッジ・インターンシップ”第 10 期生・謝恩会・ 1 月 10 日 松田耀介君・谷口伊吹さん 手応えあり!の研修でした!!

大連

タイ

連絡

事務所

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愛光標準規格クリップ 略図集

   愛光集団は46年のクリップ一筋にて、車両業界に生産提供させて頂いております。金型設計製作・ プレス加工・メッキ処理・絶縁コーティング加工と、社内一貫生産体制により長年の信用を頂戴致して 参りました。特に、コーティング処理加工は《PVC ・ゴム・粉体ポリエチレン・粉体ナイロン》と多様 な加工技術を有して、顧客のニーズに対応させて頂いております。  46年のクリップ生産の中で、1万点を超す金型を有しておりますが、この度、特に共有で使用され ます2000 余アイテムを愛光標準規格化し、お客様に金型費用の発生しないご使用策をご提供させて頂 きます。  ご検討頂きます場合は、弊社まで資料のご請求をお願い致します。

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2014年・社内報「秋季号」目次

表 紙 …… 「大連愛光創立20 周年記念・夢カレ謝恩会」 表紙裏 …… ISO/TS16949 品質認証書 01頁 …… 目 次 02頁 …… 「混乱する世界ビジネス界に、如何に“活”を求めるか!」     03頁 ……       中 文     ・・・・・・・・・・・ 董事長 倉永 和 男 04頁 …… 冬のことば「二人で歩いた幾春秋」  ・・・・・・・・・・ 副董事長 倉永加寿子 06頁 ……「21 期アクションプラン」  ・・・・・・・・・・・・・・・・・総経理 渡辺 賢 一 08頁 …… 母へ贈ることば「ありがとう!感謝します!」 ・・・・・・・・・・・ 倉永 和男 10頁 ……「大連愛光創立20 周年を振り返って」 ・・・・・・・・・・・ 董事長 倉永 和男 16頁 …… アジア夢カレ「インターンシップ最終レポート」亜細亜大学二年 ・・・・ 松田耀介 20頁 ……   〃  「将来に繋がるインターンシップ」 亜細亜大学二年 ・・・・ 谷口伊 吹 24頁:第21 期経営計画発表会&聖誕祝会スナップ   ・・・・・・・・・・・・・・  編集部 26頁:寄稿原稿・永年勤続表彰者「大連愛光20 年を回顧する」 ・・・・・ 潘 永耀・陳 迎景 27頁:       〃         ・・・・・・・・・・ 葛 春華 28頁:       〃       ・・・・・・・・・  潘 日華 29頁:       〃       ・・・・・・・・・・ 葛 茂順 30頁:       〃       ・ ・・・・・・・・ 劉 文忠 31頁:       〃       ・・・・・・・・・・ 曲 焕锋 32頁:       〃       ・・・・ 李 巧伶・李 華新 33頁:       〃       ・・・・・・・・・・ 寅 楽波 34頁:       〃       ・・・・ 寅 楽毅・紀 春莉 35頁:       〃       ・・・・ 劉  奇・王  栄 36頁:       〃       ・・・・・・・・・・ 王 新善 37頁:       〃       ・・・・・・・・・・ 許 有俊 38頁:       〃       ・・・・ 滕 徐発・李 淑波 39頁:       〃       ・・・・ 常 兆遠・王 秋玲 40頁:       〃       ・・・・ 白 雪蓮・李  華 41頁:       〃       ・・・・ 王 勤全・許 梅月 42頁:「こんにちは、赤ちゃん!」       ・・・・・・・・・・・ 編集

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部 44頁:桃源郷だより「桃源郷は何処へ行く!?」        ・・・・・・・・・・ 桃源郷主 46頁:「結婚、おめでとう!」       ・・・・・・・・・・・ 編集 部 47頁:社歌・編集後記        ・・・・・・・・・・・ 編集 部 ~巻頭言~

混乱する世界ビジネス界に、如何に“活”を求めるか!?

 董事長 倉永和男  世界中の経営者は、…と言うより、中小企業経営者はそれぞれの置かれた立場で、表題の「如何に“活” を求めるか」を模索しているに違いない。かく言う私も、無い知恵を絞り日々悶々と思考を巡らしてい る。  先ず、昨年度の経営数値を見よう。中小企業規模の大連愛光としての 2013 年度の売上では約 7,000 万元(約 11 億円)で、昨 2014 年は約 8,000 万元(約 13 億 7 千万円)だった。約 15%増加は日本向 け価格の 8%増加と同等の受注増である。日本円換算であれば為替レートは、12 年度 1 中国元は 12.8 元、13 年度は 15.64 元、昨年 2014 年度は 17.08 元、今後は 20,00 元を超える思惑が支配的です。 現在 1 円の円安がおよそ 30 万元(約 500 万円)の損失に直結する。  2014 年度の決算数字は、300 万元の利益を計上した。2013 年度の 230 万元の赤字決算からみれば、 厳しい環境の中での急浮上といえる。急激な円安による為替差損は確かに 577 万元と驚異的なダメ ージだった。しかし、愛光本社の値上げ協力を頂き 350 万元を解消した。また 2013 年度の延辺愛 光へ援助停止や、大連愛光本体の種々の原価低減活動により、思いもよらない総合での 530 万元利 益増加という数値が生まれ、決算として 300 万元の利益を計上できた。12 年度の為替レート 12.8 元の決算であれば、いくらの利益が計上できたの?…こんな計算は虚実になってしまう。 為替変動による数値のアレコレは、私には馴染まない。やはり経営者には向いていないのであろ う。私たち人間、心ある同志の皆さんには、努力の証は何も無い!…こんなことを言ってもどうに もならないタワ事だ。そうは言っても、…確かに虚しさが胸を過るのは事実である。…もう止し ましょう、このようなマイナス愚痴は!!  昨年の第 21 期経営計画発表会の席上、私は今年の経営戦略を発表しました。最大の戦略は、タイ 日系車両メーカーへのクリップ拡大販売戦略です。もう一つは、大連愛光社内の組織体制の簡素 化、生産改善による生産原価の 20%ダウン。大連愛光全社員が一致団結して、この目標を完徹する。 タイ日系車両メーカーへの、大連愛光本業であるクリップ拡販戦略は、私のトップセールスで、 タイに根を張る各車両メーカー専業商社様との協同による、販売戦略です。最終目標は、車両メー カーと専業商社様の関連を深めた、世界各地(欧米を主力に)で車両生産を展開する、日系車両メ ーカーへのグローバル販売の構築です。 幸いにも、“バンコク 2015 ものづくり商談会”という、展示会が 6 月 24 日〜27 日までの 4 日間 催され、わが社も出展参加します。大連愛光の生産する“クリップ・キャップ”部品は、どちらか というと隙間産業アイテムで、専業の競合メーカーがほとんど無いことです。そのような意味で、 これから、まだまだ車両生産市場への、大連愛光生産部品の供給の余地が大きく残されている、と 私は考察しているのです。 本当に中小企業のトップは頭を痛めています。ここ大連開発区も大手企業の撤退が相次ぎ、そ の一次大手日系サプライヤーは中国企業に身売りし撤退を余儀なくされています。 中小企業や零細日系企業は更に厳しい環境に晒されております。大幅な受注減、超円安、超中国元 高の中で、経営者として打つ手は殆ど阻まれた外地経営の昨今です。  そのような経済修羅場の中、“活”を求め 1 月 13 日から 23 日までタイ・バンコクに飛びました。 昨年の 1 月以来 2 度目の訪問です。30 度を超す真昼の気温、朝晩は 22,3 度の肌寒さは、氷点下の 雪の大連からは異次元の世界です。この度のバンコク訪問は、昨年とは違い、タイの地に根付いた 営業活動と位置付けていましたので、如何なる営業活動形態を取るかが最大の確認ポイントでし た。

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 数社のタイ進出コンサルタント会社と指導を受けての相談なのですが、どうも私が戦略として 練っています方策とは、なかなか一致しないもどかしさに悩みました。パートナーと成るべき専 業商社の責任者方々との面談も行うのですが、私のタイ展開方策が定まらない中でのお話合いで は、これまた、中々良い方向への道筋が現われないのも現実の話でした。やっと、滞在最終日の 23 日の午後、正に最後の最後で、某商社から紹介頂きました政府系のコンサルタントのアドバイスで、 私が求める最小の経費で最大の効果を得られる方策に導かれました。  今年は、毎月 10 日〜20 日の 10 日間ほどをタイ・バンコク出張活動計画とし、グローバル拡販戦 略の“元年”としたい! “マイナスは必ずプラスになる!”を胸に秘め、70 歳の青春をタイ・バンコクにも振りまいて、大連 愛光同志の幸せを確保して行きます! ~巻頭言~

在这混乱的经济世界中、寻找“生存”之道!?

董事长 仓永和男 作为世界上的经营者、…或者说、中小企业经营者,想必都在摸索着「“生存”之道」。作为我也不 例外、虽然无知,但每天也在苦思闷想中徘徊。 首先让我们看一下去年的数据。作为中小型企业规模的大连爱光 2013 年的销售额约 7000 万元(约 11 亿日元),2014 年约 8000 万元(约 13 亿 7 千万日元)。约增加 15%,订单增加量等同于向日本销售价格的 8% 上涨。汇率状况,12 年 1 人民币换算 12.8 日元,13 年 15.64 日元,14 年 17.08 日元,今后可能会达到 20.00 日元。现在 1 日元的贬值就会给公司带来 30 万元(约 500 万日元)的损失。 2014 年总盈利 300 万元。与 2013 年的 230 万元赤字相比可以说是从困境中逃离出来了。由于日元急 速贬值的影响,公司确实损失了 577 万元。但,通过爱光本社加价的协助,解决了 350 万元。另外,从 2013 年开始停止对延边爱光的援助,以及大连爱光自身的各种降低成本活动的展开,为公司盈利 530 万元,最 终年盈利 300 万元。如果按照 12 年的汇率 12.8 元来计算的话会盈利多少呢?…现在说这些也无济于事了。 汇率的变动对我来说是一个不擅长的话题,可能我真的不适合当一个经营者。 我们人・员工同志所付出的努力无法得以证明。现在说这些也无济于事。虽然这么说、但…确实感到 内心有些空虚。 该停止这些负面的牢骚了!! 在去年第 21 期经营计划发表会上、我发表了今年的经营战略。最大战略是、扩大泰国日系汽车企业 夹子产品的销售。另一个是、大连爱光社内组织体制简捷化、通过生产改善降低成本 20%。大连爱光全体 团结一致来完成此目标。 向泰国日系汽车企业扩展大连爱光的本行业夹子产品的销售战略、由我亲自负责、与扎根在泰国的各 汽车企业专属商社合作完成。最终目标是、通过加深汽车企业与专属商社之间的关系,向世界各地(以欧 美为主)日系汽车企业进行国际化销售。 值得庆幸的是、“曼谷 2015 制造商谈会”于 6 月 24 日〜27 日召开、我公司也会出展参加。大连爱光 所生产的 “夹子・帽套”产品、属于夹缝产业部品、几乎没有竞争对手。也就是说今后针对汽车生产市场, 大连爱光的产品还有很大的空间,至少我是这么认为的。 作为中小企业的老板确实头疼。在大连开发区大企业相继离去,供应商也只能将工厂卖给中国企业撤 回日本。 中小企业与零散日系企业的状况更是严峻。大幅度的订单减少、超日元贬值、超人民币上涨、现在对 于在国外经营的经营者已经束手无策。

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在这经济状况中、为了求“生存”,1 月 13 日~23 日我飞向了泰国曼谷。从去年 1 月到现在,这是第 2 次访问。中午室外温度超过 30 度、早晩 22,3 度、与冰天雪地的大连相比简直就是来到了另一个世界。 这次的曼谷访问与去年不同,是要在泰国开展营业活动,以什么样的形式开展营业活动才是此行的重点。 拜访了几家驻泰国的咨询公司,相谈的结果总是和我预想的不一致,真让我痛疼。又与一些专业商社 的负责人面谈了一下,因为我还没有决定在泰国发展的具体方法,所以面谈的结果也不是很理想。终于、 在泰国的最后一天 23 日下午、最后的机会、某商社介绍我到一家政府相关的中介公司,在那里我找到了 我梦寐以求的投资小见效大的方法。 今年计划毎月 10 日〜20 日的 10 日出差泰国曼谷、开始国际销售扩展的“元年”! “负必能成正!”将这句话藏在心中、用 70 岁的青春在泰国曼谷拼搏、确保大连爱光同志的幸福!

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~冬のことば~

大連愛光 20 年の歩み「二人で歩いた幾春秋」

副董事長 倉永加寿子 (この“冬のことば”は去る‘14 年 12 月 13 日、大連愛光創立 20 周年記念・大連愛光経営計画発表 会の折り、加寿子副董事長が発表したメッセージを、“冬のことば”として転載致しました。) 只今、ご紹介を頂きました。倉永董事長の家内の倉永加寿子でございます。 本日は、年末のお忙しい中、大連愛光 20 周年記念の発表会にご参列いただき、誠に有難うございま した。 大連に董事長と私と娘と共に、20 年前に三人で大連に参りまして、20 年と言う年月を当地大連で過 ごす事が出来ました事を、深く感謝いたしております。 20 周年を振り返り、思い出された事は、50 年も昔の私が、高校生になったばかりの時、「道路工事の 歌」と題した、河野義男と言う方が詠んだ歌が、「二人で歩いた幾春秋」、と言うタイトルで映画化され ていました。友人数人と本を回し読みする事になっていたのですが、残念ながら、私のところまで回っ て来ませんでした。 私は映画も、原本になる「道路工夫の歌」という本も、読んだことがありませんでした。ここ大連の 地で、20 年を過ごし、大連愛光創立 20 周年を迎えるに当たり急に思い出し、どんな本なのか知りたく なって、本の仕事をしている弟に探してもらいました。少しボロボロの色あせた50 数年も前に出版さ れたもので、値段は150 円の文庫本を手に入れ、読むことがきでました。 主人公の、歌を詠まれた河野さんは、戦前消防の仕事をされておられましたが、戦後復員して、日本 に帰ってきてから、故郷の山梨県の田舎で、道路工夫をしながら、生計を立て、貧乏ながらも親子三人 は、幸せに暮らします。雨の日も、風の日も道路工事をやり続け、自分たち親子が生きるのに精一杯の 中、人の面倒を良く見、誠実に家族と共に、悩みや苦労を抱えながら、地道に頑張って生きる庶民の姿 が、歌を詠んでいくうちに、脈脈と伝わり響いてくるのです。  本の後書きを書かれた作者河野さんの歌の先生が、「素朴で素直な温かい庶民の歌、貧乏を歌っても 暗くなく、孤独であっても明るい」と、共に歩んだご夫妻にお褒めと労りの言葉を贈られておりました。 私ども夫婦は、河野さんと生きた時代も、仕事も違うのですが、何か共通するものを感じ、この場で お話をさせて頂いております。 映画化された「二人で歩いた幾春秋」というタイトルは、この20 年間、主人と私と苦楽を共に歩ん だ年月を思い出し、良く今日まで守られ、生き延びてこられたなぁ~~と感慨深い昨今でございます。 もうダメか〜と、思うような苦しい時も、何回もございましたが、私ども夫婦は、「ネアカ」と申しま すか?すべての事を深刻に考えて行かない、有るところでストップさせて、次に進んでいける特性を、 二人とも持ち合わせていると言う、特殊なコンビなのかとつくづく思っております。 「数えて見よ、主の恵み」という讃美歌にございますが、次々と不思議な恵みを頂き、今日を迎える ことが出来ました。  この激動の大連愛光の 20 年を恐れを抱いては、歩んで来られませんでした。「主の山に備えあり」と聖 書の御言葉がございます。どんな時でもすべてを満たしてくださる主が、私どもにはおられます。これ からもどこまで神様からのお許しがあるか解りませんが、「二人で歩く幾春秋」を続けていく所存でご ざいます。 今後とも、皆様のご支援を頂き、励んで行きたいと思っております。ありがとうございました。

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~冬之语~

大连爱光走过的 20 年「二人走过的若干春秋」

副董事长 仓永加寿子 冬季号副董事长的文章——冬之语,将转载 14 年 12 月 13 日,加寿子副董事长在大连爱光 20 周年纪 念——大连爱光经营计划发表会上的致辞。 正向刚才介绍的,这位是仓永董事长的妻子——仓永加寿子。 今天,大家在百忙之中抽出时间来参加大连爱光 20 周年纪念的发表会,由衷地向大家表示感谢。   副董事长和董事长还有女儿一家三口能齐聚到大连,共同庆祝大连爱光的 20 周年纪念,深表谢意。 回顾 20 周年,能让副董想起的是,50 年前的副董刚上高中时,作词过《修路歌》的河野义男先生朗 诵过的一首诗《二人走过的若干春秋》作为标题改编成一部电影。和几个朋友一起轮流看这本书,只可惜, 直到最后这本书也没轮回到副董手里。 副董事长也没看过电影版本《道路功夫之歌》这本书。在大连这个城市,历经 20 年,在迎来了 20 周 年之际,忽然间想看一下这本书,就让在书店工作的弟弟帮忙寻找。虽然是 50 年前出版的有些发黄的颜 色,但只花了 150 日元就买到了这本袖珍书,如愿以偿的看了一遍。 河野先生虽然从事战前消防工作,战后复员回到日本后,在家乡山梨的农村,从事着修路工作维持生 计,虽然很贫穷,但是一家三口很幸福地生活在一起。下雨天、大风天都不停歇,坚持修路,为了自己和 家人的生存竭尽全力,并且关照着身边的每一个人,和家人一起共同承担着烦恼和劳苦,这首诗中充分表 达了为了生活勤勤恳恳劳动的人们的姿态,脉脉相传。 书的后记里,作者河野先生的诗词老师,是这样赞扬着河野夫妻:“唱着朴素暖民的歌,歌唱着贫穷 但不黑暗,即便孤独也很开朗”。 董事长夫妇,与河野先生生存的时代、工作虽然有所不同,但总感觉有一种共通的东西存在。因此发 表了以上的讲话。 通过电影版本的《二人走过的若干春秋》,联想到董事长和副董事长这 20 年间的苦乐岁月,总是感慨 竟然能守护公司到今天。 已经支撑不住了,这样的想法有过好多次。副董事长夫妇,难道是乐天派?所有的事情不会去想太多, 该停止时就停止,迎接新的事物继续前行,这是副董事长夫妇共同持有的特性,可谓是特殊的搭档。 有这样一首赞美歌《数一数看看,主的恩惠》,正因为时常从主那里得到不可思议的恩典,才会迎来 今天。 心怀恐惧迎来了这激动的 20 年。有这样一句圣经,“在主的山上做好准备”。无论何时都会得到主的 眷顾,我们一直在一起。今后是否继续会得到主的恩典,不太清楚,但副董事长夫妇会持续坚持《二人走 过的若干春秋》。希望今后还能得到大家的支持和理解,激励我们奋勇前进。谢谢。

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21期アクションプラン

総経理 渡辺賢一 21 期もスタートしましたが、我社にとっては昨年同様厳しい経済環境であることは間違いありませ ん。この状況を踏まえ、会社が更なる躍進をするために次の 5 項目をあげました。 1、 会社全体の体質改革を強固に推し進め、損益分岐点を 1 元 18 円にするための組織見直しと、現 行のものづくりを原点から見直し、既存の工程からイノベーションを推進し、ローコスト経営 を目指します。 2、 原材料の戦略的な購買と仕入先との Win-Win な関係をつくり、競争力を高め、経済環境に左右 されない工夫改善をすることで前年比 10%のコストダウンを行います。 3、 製造方法の見直しは勿論、手待ち時間工程の削減、自動化やセル化を進める。また、週単位発 注ロット生産から予測適応生産ロットに変えることで生産効率を上げ、生産性 20%を改善する ことで中国国内でも優位性、コストパフォーマンスのある商品をつくり上げる。 4、 クオリカシステムの完全運用をすることでレスポンスある効率経営のサポートできるツールと して造りこむ。また、MRP を使用した材料発注から生産管理、システム改善による作業効率化を 進め、管理部門の生産性を 40%改善する。 5、 個人評価システムの導入により、人材育成を強化し、競争力効果を生み出すことでより優秀な 管理者を育成する。また、組織の見直しをすることで組織間の壁を取り払いお互いが協力する スピード経営を目指し、会社が永遠に存続する組織と仕組みを確立する。 現在進行中の改善項目 1、 ゴム成型 ・プレス成型方式から射出成型方式に変更し、稼働を開始しました。今回の設備導入により、バ リ取り工程削減を行い7名の改善となります。(効果確認2月) 2、 巻きゴム金具コスト改善 ・巻きゴム→プレス成型方式から押出し成型方式に替えることで 35~38%のコストダウンに繋 がります。(2月末開始) ・金具製造→金具の生産、組立を内製から外注化にすることでシナジー効果が生まれ 15~18%の コストダウンを見越しています。(2月中旬より随時) 3、 プレス製造コストダウンと生産性 UP ・ストレートプレス製品の1連プレス構造から2連構造に金型変更することで生産性を2倍に 上げ、コストダウンと生産性改善を行う。(3月より随時) 4、 線材製品のコストダウン(製品原価 20%目標、4 月開始) ・線材生産工程の見直しにより、工数を削減する。 ・線材の仕入れ価格を根本的に見直し、30%のコストダウンを目指す。 ・線材加工機の新規導入により、直線材での購入を止めることで 20%コストダウン。 以上のアクションプランを確実に達成することで会社の利益が良くなり、そして社員の生活を保障 できるように微力ながら邁進します。私一人では何もできません。社員皆様と一丸となり、21 期頑張り ましょう。

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21 期的行动计划

总经理 渡边贤一 21 期已经开始了,对于我们公司来说,与去年同样是处在一个非常严峻的经济环境中、介于这种状况, 为了公司能有更高的飞跃,列举了以下的 5 个项目。 1、 加强推进公司整体的体制改革、重新将损益分歧点改定在 1 元对 18 日元、从原点开始改正现有的 生产模式、推进与革新现有的工序与技术、实现低成本经营。 2、 原材料的战略性的购买、与供货方的互惠汇利的关系建立、提升竞争力、为了不被经济环境所左 右,投入精力进行改善,与去年比降低 10%的成本。 3、 生产方法的改正首要问题是等待时间工序的削减、推进自动化与单元化。另外、将现有的周单位 的生产改为从生产实绩来预测适当的生产批量来提高生产效率、目的是改善 20%的生产性、使我们 的产品在国内具有绝对优势、可以制作出性价比高的产品。 4、 高律科系统的完全应用使之成为有效率的经营并提供支援。另外利用 MRP 从材料采购到生产管理、 通过改善来推进作业的效率化、改善管理部门的生产性 40%。 5、 通过个人评价系统的导入、强化人才育成、竞争力效果作用来培育更加优秀的管理者。重新审视 组织架构,打破组织间的障碍,实现互相合作的有效率的经营、使公司成为永久性存活的公司。 現在進行中の改善項目 1、 橡胶成型 ・模压方式改为射出成型的生产方式、已经开始嫁动。这次的设备导入、改善削减了修边人员 7 人。 (效果确认在 2 月) 2、 卷曲橡胶的金具成本改善 ・卷曲橡胶→模压成型方式替换为挤出成型方式,可以降低 35%~38%的成本(2 月末开始) ・金具的制造→内置式的金具生产转为外协化来达到相乘效果,使之成本降低 15%~18%(2 月中旬随 时) 3、 冲压生产的成本降低与提高生产性 ・平板冲压产品的一连冲压构造改为 2 连的构造模具,提高 2 倍的生产性、降低成本改善生产性。(3 月随时) 4、 线材产品的成本降低(产品原价的 20%为目标)、从 4 月开始 ・线材生产工序的改进、减少工数。 ・从根本上重新审视线材的购入价格、目标是降低 30%的成本。 ・线材加工机的新规导入、阻止了直线材的购入,可以降低 20%的成本。 以上的行动计划可以确实的达成的话,公司将得到很大的利益、社员的生活将会有保障,从一点一滴 开始向前迈进。我一个人的力量是有限的。让我们全员团结起来,21 期让我们共同努力吧。

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母へ贈ることば「ありがとう!感謝します!」

    倉永 和男  母は2 月 2 日早朝、99 歳 4 か月の天命を全うして天に召された。前夜から当・社内報冬季号の最終 編集徹夜作業で、朝方3 時過ぎに床に就いたばかりだった。5 時半ごろ、日本からの家内(副董事長)の 電話で起こされ、訃報を知った。  私の波瀾万丈の人生は、正にこの母の生き様そのものだ。母は8 歳で貿易商の父(私の祖父)に連れ られ中国天津に来て、女学校(高等学校)卒業の18 歳まで過ごした。その後祖父の貿易拠点が大連に 移り、中山広場にある三菱商事にタイピストとして勤めた。父は早稲田大学の理工学部を卒業して、大 連のNHK に赴任した。早稲田の同級生にソニー創立の井深大氏、八木アンテナ社長の八木氏がおられ たという。それでは何故息子・私の頭脳には全く違う遺伝子が組み込まれたのであろうか!?  それはさておき、大連で結婚した父母は、父の勤務するNHK の当時建国間もない、幻の傀儡国家満 州国への放送局の技術者先兵として、1 年ごとに奥地に向けて支局開設の為、転々と地方都市を転勤し、 その土地土地で記念品の如く私たち子供たちを生んでいった。長女は奉天(現瀋陽)、長男(愛光会長) は大連、次男は奉天(現長春)、次女はハイラル、そして私がハルビン。1 歳違い年子の 5 人兄姉だ。  母の 1945 年(昭和 20 年)終戦前までの人生(30 歳まで)は、正に絵に描いた幸せ人生そのものだっ たであろう。終戦直前にロシアが国境を越え、民間人だけの日本人集団を攻め追い立てた。日本人の黒 竜江省からの逃亡が始まった。父は終戦とほぼ同じ時期に、ロシア軍に捕虜として連行され、そのまま 行方知れずになった。NHK 勤務で敵方の無線傍受の任務が、そのような捕虜の結果となったのだろう。  小説やテレビで知る「大地の子」は、私たち母子 6 人の、正に中国脱出行そのものだ。私は 2 歳だか ら記憶には無い。兄や姉は小さいながら、それなりの記憶があり、中国に対する思いには、無意識に拒 絶する所が多くあるがようで、私とは随分と隔たりがある。  テレビの「大地の子」を観れば、ここに記す必要は無く、また記すには多くの原稿枚数を要する。 とにかく、筆舌の絶する日本人逃亡の生き様で、是非ビデオで観て頂きたい。  母が日本に帰ってから、8 歳を筆頭に、末っ子の私 2 歳の 5 人の子供たちを、30 歳わずかの女手一つ で、どうして育てていけますか?疎開した日本宮城県の故郷は 8 歳で離れ、実家といえども、戦後の日 本人全てが貧しい所からの再出発です。身内とはいえ、生きていくには余りにも厳しい戦後の日本です。 母は毎日 60 キロほどの呉服反物を背負い、朝から晩まで休みなく近隣の農家を、毎日行商して歩いて 生計をたてた。農家相手の行商だったので、売った呉服反物はお米で貰い、私たちの生きる糧となった。 呉服反物の仕入れ金は、父の軍属死亡での恩給が 2 年に 1 度あり、そのお金で支払った。  とにかく母はネアカだった。厳しい子育ての環境ながら、悲しい顔は一度も私には記憶が無い。笑顔 で人に接し、人の悪口は一言も言わない母親だった。花が好きで行商から家に帰って、陽が沈んでも月 の光で花を愛でる母だった。私が母から受けた大きな財産は、この数行に籠められた母の生き様であ る。  受け継ぐ金銭的なものは一切無いが、この無形の母から頂いた財産は、何物にも代え難いものであ る。本当に代えがたいものを母から頂いたと、30 歳を過ぎた頃よ り心に沁みついて、母の有難さを胸に秘めているのである。  その母が天国に帰った。余りある大きな財産を母から頂いた。 日本出張の度に母には会っていた。95 歳を過ぎた頃からちょっと 言葉にちぐはぐなところはあったが、元気な若い声で交流が出来 て、天国に帰ったことが信じられない現実だ。  ともあれ、大きな存在であった母は、これから天国から私を見 守ってくれる。 長い間、本当にご苦労様でした。心から感謝の一語のみです!

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致——亲爱的妈妈 谢谢!真的很感谢!

仓永和男 母亲是 2 月 2 日清晨,享年 99 岁零 4 个月的天命被召回了天国。从前天晚上开始,彻夜编辑冬季号 的社内刊,早上 3 点钟才上床睡觉,5 点半左右,妻子(副董事长)从日本打来电话,接到了讣闻。 我波澜万丈的人生,正是母亲本身的生活方式。我的母亲在 8 岁时被贸易商的父亲(我的祖父)带到 中国天津,一直到女子高等学校 18 岁毕业为止都是在天津度过的。随后,祖父所在的贸易公司搬到了大 连,在位于中山广场的三菱商社做起了打字员工作。我的父亲毕业于日本早稻田大学的理工学院,就职于 大连的 NHK。听说早稻田毕业的同班同学还有索尼公司的创始人井深大先生,还有八木天线的社长---八 木先生。那为什么,作为我爸儿子的我,头脑中完全没有继承我爸的遗传因子。 那些暂且不提。父母在大连结婚,父亲就职于当时建国不久的 NHK,作为虚幻的傀儡国家满洲国的广 播局的技术者、先驱者,每年向内地支局的缘故,辗转各个城市,并且在各个城市都留下了“纪念品”, 那就是我们兄弟姐妹的诞生。长女在奉天(如今的沈阳),长子(愛光会长)是在大连,次子在奉天(如 今的长春),次女是在海拉尔,我是在哈尔滨出生的。我们兄弟五人是各相差一岁。 母亲在 1945 年(昭和 20 年)战争结束前为止的人生(直到 30 岁),应该是在画中描绘的幸福人生吧。 二战结束之前俄罗斯超越国境,仅是平民百姓的日本人集团被进攻驱赶,日本人从黑龙江省开始逃亡。父 亲是在战争结束的几乎同一时期,被俄罗斯军人作为俘虏抓走,从此下落不明。应该是在 NHK 工作时被敌 方无线监听任务,结果被捕获了吧。 小说和电视上听说的“大地之子”,真正上演在我们母子 6 人身上。因为那时我只有 2 岁,所以是没 有任何记忆的。哥哥和姐姐也很小,多多少少有一点记忆。对中国的回忆,也是无意识的拒绝,许多地方 和我是有隔阂的。 看过电视剧《大地之子》的话,就没有必要在这里铭记这些,并且如果想写的话,是需要很多张投稿 纸的。总之,笔墨和言词绝对是无法形容日本人的逃亡方式,请大家一定要观看一下录像。 母亲回到日本以后,带着我们 8 岁为首,和最小 2 岁的我,仅有 30 岁她为什么能一手培育着我们? 离开疏散的日本宫城县故乡是在 8 岁,虽说是老家,战后的日本人全部从贫穷的地方重新出发。虽说是亲 人,但当时的日本是战后,想生存是很难的。妈妈每天背着 60 公斤左右的绸缎布匹,从早到晚不休息, 向附近的农家行商维持生计。正因为是向农家行商,因此,用卖了的绸缎布匹换来米作为赏钱,作为我们 生存的粮食。购买绸缎布匹的钱,是用父亲 2 年 1 次的军属死亡抚恤金来支付的。 妈妈是个性格开朗的人,在这样严峻的情形下,抚养着儿女,在我的记忆当中,我妈妈一次也没在我 们面前流露过悲伤的表情,微笑着与人交往,是个从不说人坏话的母亲。我妈妈很喜欢花,行商回到家, 已经夕阳西下,但她会借着月光赏花。我从妈妈那里得到的巨大财富就是,这几行所写的母亲的生活方式。 虽然没有继承到金钱,但从母亲那里得到的这种无形的财产,我认为是任何东西都无法替代的。我过 了 30 岁左右开始就对母亲的感激之情一直埋放在心里。 就是这样的一个母亲去天国了。我从她那里得到了巨大的财产。每次回日本出差会和母亲见面。过了 95 岁之后语言上虽然有一点不协调,但每次都是精神抖擞,发出很年轻的声音和我聊天,母亲就这样去了天 堂真的是难以置信的事实。 无论如何,我坚信如此伟大、了不起的母亲,今后一定会在天国守护着我。 (2000 年 6 月、大連湾村碧海山荘(昔は“柳樹屯”)で・ 郁男長兄(愛光会長)が生まれ…母は60 年振り訪れました)

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长期以来,您真的辛苦了。由衷的感谢话语只有这一句话! (2014 年 12 月13日・日航ホテルで開催された発表会の講話)

創立 20 周年経営発表会 董事長 講話

董事長 倉永和男 本日は年末・12 月の慌ただしい中、第 21 期大連愛光経営計画発表会及び、大連愛光創立 20 周年式 典にご参列頂きまして、心より御礼申し上げます。 私、創業から一貫して大連愛光の経営立ち合い続け、その舵を取り続けて参りました。この大連で、 20 年という長い年月を経営体験した、数少ない中小企業トップとしての感慨を、かい摘んで述べてみた いと思います。 一口で20 年と申せば“アッ!”という間の時の流れだったと言えましょう。また、中身の濃い 20 年 だったと言えば、意義のあった、思い出の籠った、20 年の時の流れでもありました。 初めて大連の地を踏んだのは、1994 年 8 月 14 日でした。6 年間稼働させた台湾の工場を、大連に移 転させ、大連愛光を創業さすべく、大連・金石灘に乗り込んできました。 当時の金石灘はちょうどゴルフ場の開発が開始したばかりでした。企業らしい企業の存在はありませ んでした。よく、冗談話半分でお話ししますが、当時の金石灘には貨幣=お金が存在せず、物々交換の 世界だったと。 現在の電車終点・金石灘駅のちょっと先にロータリーがあります。直角に曲がれば海に 向に出てゴルフ場に行きます。ロータリーを半周して道なり、即ち真っ直ぐに200mほど行きますと、 旧大連愛光社屋があった所です。…今は、マンション群に変身して、昔の面影は全くございません。 そのロータリーを中心に旧金石灘・陳家村があったのです。そのロータリー道路の両側に種々の形し た洗面器・バケツ・竹籠等々の容器に、漁師の人たちは海で捕った魚介類を、農家の人たちは農産物も 山盛りに盛って、威勢の良い声を張って商売をしているのです。 売り買いの主流は正に物々交換そのものでした。大連愛光に20 歳前後の若い社員が入社してから、 彼らの現金収入が金石灘に貨幣経済をもたらした、…などと、冗談半分で言ったりしていたことが、昨 日のことのように思い出されます。 旧大連愛光社屋は、この陳家村役場を事務所に、荒れ果てて使われていない二棟の工場棟を、賃貸で のスタートでした。 事務所棟4 階部分に水道の浄化槽兼水圧槽が設置されていました。ひと月に数回はその水槽の水管が あちこちで破裂し、事務所棟3 階以下が水浸し。バカにならない水道料金と、水害処理に悩まされたも のでした。 また、電気や暖房も、私どもの知らないうちに、隣り近所の会社や個人に、随分とお助けしていたよ うで、事情も数年後に発覚して、苦笑いしたこともございました。 創業年度の1995 年 11 月、第一期の新入社員 20 名募集を行いました。200 名を超える地元の 20 歳 以下の、若者の応募を頂きました。今では考えられませんが、面接での皆さん方の服装は、まさに質素 そのもの。季節も今と変わらない頃で、寒さはもっと厳しかったです。当時の写真を今見ても、薄手の セーターらしきもので、ダウンなどの防寒着は誰も着ていません。 第一期入社組で現在も勤務しているのは、生産の潘永耀部長と総務課長の葛春華の2 名のみです。葛 春華課長に初任給をいくらだったか聞いてみました。 彼女曰く、初めてのお給料は、額面で300 元手取りが 280 元でした、とのことでした。 因みに、国で決められた最低賃金を追ってみましたら、2000 年で 350 元、2004 年で 500 元、2007 年で700 元、2011 年で 1100 元、2013 年で 1300 元。これに各種保険、住宅基金等の補助、及び各種 福利厚生費用を含めて、最低賃金の約3 倍が、社員一人当たりに要する経費と言えます。 即ち現状でいえば、1300 元の3倍、4000 元前後が社員一人に要する経費です。今、新たに新入社員 が現場の社員として採用されたら、会社は最低、4000 元の人件費を含めた費用が発生する、という意味 です。当然、勤務年限や職務経験者により、皆さんの手取り金額に比例してその費用も増額しての、会 社負担となるのです。 また、販売額を追ってみますと、1995 年の創業時から 2001 年までの 7 年間は、㈱愛光からの月間約 800 万日円、三菱自動車の同様月額700 万日円、月商 1500 万日円が全ての、ささやかな零細企業規模での稼 働でした。 そのような生産実態の中、創業稼働4 年目の 1998 年、生産体制が整った時期、㈱愛光へ注文増加を申し 出ました。しかし、㈱愛光自体には、日本国内におけるクリップの販売体制、そして生産供給体制はそ の機能を失っておりました。大連愛光に発注するクリップアイテムの、経営資源が失せていたのです。 ㈱愛光からの受注増を計画しておりました私にとり、㈱愛光の中国生産基地としての存在価値が全く 無くなりました現実を、思い知らされました。時を同じくして、タイ国に発した東南アジア金融危機に より、僅か、月額1500 万円しかない商権が、1 か年近く半減する状態に追い込まれてしまいました。 私は即、行動を開始しました。中国全土に進出する当時550 社の日系企業をリストアップし、内 350

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社を直接訪問、販路開拓を行いました。1998 年と 1999 年前半の 1 年半、中国各地を駆け巡り、100 社 との契約を取り付けました。 しかし、1 社 500 元から 1000 元の、且つ、不定期注文です。当時の進出日系企業は未だ本格的な工 場進出ではなく、補完的工場が主力で、今のような大量生産規模での生産体制をとっておりません。こ のような金額では、いくら小規模企業の大連愛光とはいえ、とても経営は成り立ちません。 背に腹は代えられません。1999 年後半より日本逆上陸による、日本車両業界への売り込みを開始し ました。幸か不幸か、先に述べました如く、㈱愛光は既に本業である、車両用クリップにおける製造販 売から、完全に撤退しておりました。そのような意味から、私が、大連愛光が日本車両市場での拡大販 売活動、には大きな支障はありませんでした。 伊藤忠オートモービル社との連携・というより、小松製作所やいすゞ自動車の、購買トップ紹介を頂 きましての、トップセールスの展開でした。 このトップセールスの約1カ年の販売活動により、 2002 年には小松製作所、2004 年にはいすゞ自動車への成約納入が開始しました。正に、「災い転じて 福と成す」のことわざどおりです。マイナス要素をバネにプラスに転換させた、大逆転劇そのものの、 大連愛光の大浮上・大成長でした。 このコマツ、いすゞ自動車両社への大型納入実績により、2008 年 1 月の、現在の大連愛光社屋完成 を見たわけでございます。 2000 年以降導入開始しました各種の加工新技術を、新工場移転を機に、新生大連愛光を中国進出車両 メーカーへ、又、日本国内車両メーカーに、大々的にPRし、更なる大きな飛躍発展を期した次第です。 そのような意気込みで新工場生産体制を整えている折り、2008 年 10 月、例の世界を震撼させたリー マンショックが、またまた大連愛光に襲い掛かってきました。この 1 年間は 40%もの受注減で、社員も 500 人から 250 人まで半減させた、苦渋の年でもありました。 2010 年にはリーマンの嵐も去り、以前にも増しての活況を呈した、受注の復活がありました。また 2011 年 3 月に東日本大震災という、日本国として大痛手を負いましたが、産業界は国内国外トータルと して、大連愛光も含め安定した経済発展を示しました。 ところが 2013 年、2014 年となり、思いも付かなかった超円安現象と中国元高が、又しても日本経済 に異常警笛を鳴らし、又、継続しております。大連愛光にとりましても考えられない、大幅な為替差損 計上の日々の連続です。1人民元=12日円台で推移していましたが、2013 年には 16.9 円、2014 年は 18 円を超す予想がされております。 現状、大連愛光として、1 円の円安は、月額 30 万元の差損です。12 円台の頃と比較し現在 18 円であ れば 6 円の差損は 180 万元の差損ということです。とても、生き続けていける為替レートではございま せん。 今年は春以降、このような事情に基づき供応社の方々に多大なご協力=即ちコストダウンを強力に お願い致しております。特に入社して間もない渡辺総経理には、厳しいナタを振ってもらい、供応社の 方々には辛い思いをして頂き、大連愛光の苦境を乗り越えております。お互いに生き続けなければ、大 連愛光が存続し続けなければ、将来の相互の幸せの獲得が不可能なのです。 供応社方々のご協力度合いの濃淡・多少・一体感等々、言葉の表現は微妙です。これまでの、また、 これからのご協力度合いを、経営トップにある私自身が判断致します。ご協力頂いた方々と、この難局 を乗り切った後の、“楽しい宴の席”での共に飲む、美酒の味を味わいたいものです。 また、1人民元=20 円が眼前に現われています。私には「死ぬか・生きる」かの二者択一しかありま せん。私は当然「生きる」選択以外ありません。中国撤退など毛頭ございません。 これまでに何度かの危機苦難を述べましたが、この度の危機苦難の乗り切り策に関しましては、ト ップ私の腹は決まっております。過去の危機苦難は、ある意味では私一人で乗り切ってきた、と言って も過言ではありません。 しかし、この度の危機苦難は私一人の力では乗り切れません。一人でも多くの大連愛光社員同志の協 力、一致団結が必須です。危機困難脱出のトップ決断及び意志の理解と実践行動出来うる同志による、 統一行動のみが大連愛光が生き延びる唯一の道・方策です。方向として、社内向けと社外向けの二方向 に分けて考えます。 社内的な面の改革としては次の点です。この一年、渡辺総経理を中心に種々の生産改善・改革を実践 に移しております。未だ緒に付いたばかりで、その改善値・改革値は微々たるものではあります。しか し、来年度は、それらの芽を出し始めた改善改革を、生産性向上値に直結させた、目に見える形で目標 値を獲得することです。 すなわち、2014 年度 300 人社員で獲得した月額 650 万元(1元=17円⇒21667 元/1 人)を 20%up さ せる。同様、利益性も目標値設定する。 社外的面の改革は、トップによります販売市場の開拓です。 今年 11 月の広州自動車部品展示会に参加しました。参加日系企業の半減による中国生産市場での日 系企業の生き残りの困難さを実感しました。政治面での困難さもダブっての実感です。 しかし、大連愛光の大連での生産拠点の維持継続による、世界市場への供給という以前からの企業ポ リシーには一点の変化はありません。 そのような中国での生産企業環境の中で、タイ国での拡大販売の推進を 2015 年度の重要課題とし

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て、積極的に構築していきます。東南アジアは日本車両メーカーの生産&販売市場として独断場の現状 です。来年度は駐在員事務所を開設し、地元への進出日系専業商社との連携を密にし、最少の経費・人 員で如何なる効果を上げられるか、どれだけの受注が獲得出来るのかを明確に確認して参ります。 2000 年以降、生産加工の多角化ということで、線材加工・粉体被覆加工・パイプ加工・ダイキャスト 加工・ゴム加工等々多岐に亘る社内生産加工を行ってきました。しかし、今後は本業の「絶縁クリップ」 を積極的に前面に出し、グローバル販売を基本に据え、本業回帰を前提で販売していきます。種々の加 工は、大連愛光として容易に加工ができ、本業のクリップ販売と連動出来る範囲での受注活動に限定し たものとします。 延辺愛光の土地・建物の処理もまた大きな問題・重荷でもあります。2013 年 1 月生産稼働させ、9 月 末に生産を停止させ、即・一時撤退を図りました。延辺地区での短期間による量産立ち上げの困難さ、 及び気付かずに忍び寄ってきた円安地獄が最大原因でした。 一時撤退があと 2 か月遅かったら、現在の大連愛光の存在も無かったことでしょう。ともあれ、延辺 愛光を 1 か年置き去りにする中、大連愛光は超円安に脅かされながらも、㈱愛光の絶大なる協力を頂き、 供応社のご協力をも頂き、厳しいながら、二本の足で立ちあがることができるまでになりました。 植物工場というのが日本農業分野で脚光を浴びております。日本の農業は爺さん婆さん農業と呼ば れ、若者の参画の無い、衰退の一途な農業と言われています。しかし、昨今の日本の地方創生という合 言葉に乗り、若者の参加による生き生きした農業改革が進んできております。植物工場とは従来の路地 栽培中心から、いわゆる工場形式で、科学的方法で野菜作りをしていこうというものです。日本の国立 千葉大学が 40 年 50 年前より研究開発し、現在では世界的に、最も進んだ植物工場技術国の先端を、日 本は走っています。 私も新聞紙上でこの半年前から植物工場の記事を見て、興味を持ち、延辺愛光への応用を考えていま した。11 月に東京での植物工場の展示会も見学し、12 月には千葉大学での植物工場勉強会にも参加し、 延辺愛光への導入可否、プロジェクト立上げの可否の検討を開始しました。 このプロジェクトは一私企業での企業化ではなく、大きく言えば国や、地域政府、農業大学、大手企 業等々を巻き込んでのプロジェクトである、という規模での企業化です。食の安全の問題は中国でも重 要課題です。中国の農地の 20%は重金属に害されています。 世界中には砂漠地・酷寒の寒冷地・一般の農作に適さない荒地が散在しています。植物工場は太陽光線 やLED光線を活用した、植物生育環境を人工コントロールした、1 年 365 日生育可能な野菜生産工場 なのです。 私は植物工場の勉強を始めたばかりです。しかし、私はその生産経営者になるのが目的ではありませ ん。延辺愛光の植物工場の良きパートナー探しが私の目的です。その為のプロジェクトの立ち上げを開 始しようとしております。活動開始しましたら、何らかの方向・良き方策が出て参ります。是非、そう なるべく活動していく考えです。 創立 20 周年を振り返り、大雑把ではありますがこの 20 年を振り返ってみました。ビジネスというも のは、本当に「生き物」であるということと同時に、その「生き物」の「生死」は、常に背中合わせで 存在していることを、身を以て体験した 20 年でした。 異国という、見方を変えてみれば異次元とは言わないまでも、右も左も全く勝手が違う国で、20 年も の長い期間・時間。斯くも楽しみながら、苦難困難をも愉快に過ごして来られたことを、心底思うにつ け、本当に幸せ者の一経営者だったと、述懐しております。 70 歳の古希を迎えたばかりです。後、残された 30 年、大連愛光の生産&供給基地としての、より強固 な基盤造りに励みます! 延辺愛光の植物工場プロジェクトを成功に導きます! タイ駐在員事務所開設とタイを中心とする東南アジア日系車両業界への、クリップ拡販を軌道にの せます! 東南アジアクリップ市場の拡販の延長戦上での欧米日系車両クリップ市場を開拓します! これらの夢が大きいのか小さいのかは分かりませんが、70 歳の青年は日々を楽しみながら、更に、愉 快に過ごして参りたいと熱望致しております。 創立 20 周年を大きな節目とし、この 20 年間の体験したことを良き教訓とし、ご参加頂きましたご来 賓、供応社のお方々、大連愛光社員同志皆様方のご協力を頂戴致しまして、共に発展・成長して参りま しょう!! 最後に一言申し上げます。 私も、家内・副董事長も本当に小さき、力も何も無い者です。 何故、このような小さき者・夫婦が長きに亘りまして、この大連で、大連愛光と共に 20 年も生き続 けてこられたのでしょうか? 信仰です!  篤き信仰とは申しませんが、イェス・キリストを信ずる思いに応えてくださる、神 の、愛の恵みだと信じております。 「いかなるマイナスも、必ずプラスになる!」 この言葉を心の支えとして、心から信じればこそ、如何なる困難も、幸いに転換して下さるのです! 本当に、心から、イェスキリスト、神様に、心から感謝申し上げます!  アーメン! ご清聴、ありがとうございました!

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(2014 年 12 月 13 日市内日航酒店召开的发表会讲话)

创立 20 周年经营发表会 董事长 讲话

董事长 仓永和男 首先在百忙之中,参加第 21 期大连爱光汽车部件有限公司经营计划发表会以及大连爱光创立 20 周年 庆典,表示衷心的感谢。 在大连爱光创立 20 周年之际,创业至今,本人一直参与大连爱光的经营。作为董事长,在大连经营 中小企业 20 年也是少数。通过这 20 年的经营经验,今天想阐述其感想。 20 年! 感觉是一眨眼间,只是时间的一个流逝。可是这 20 年要细细讲来的话,是非常有意义的 20 年, 是个值得回忆的 20 年。 第一次踏上大连是 1994 年 8 月 14 日。当时是为了把经营 6 年胡台湾工厂计划转移到大连,创立大连 爱光胡目的,探访的大连金石滩。 当时金石滩正赶上高尔夫球场的开发建设,还没有像样的企业。我总是半开玩笑的说这样的话,了解 当时金石滩的人应该是有印象的。 现在金石滩轻轨站,往东走有转盘道。向右拐能到海边,再走是高尔夫球场,转盘道转半圈后直走 200 米左右,就是旧大连爱光的地址。现在那一片都变成了住宅楼。根本找不到昔日的影子。 当时的金石滩,陈家村就是以这个转盘道为中心,在道路两旁用各种盆,水桶,竹筐等容器,出海的 人们装满捕获的鱼类,耕地的人拿来各种蔬菜水果叫卖。 当时买卖的形式主要是物物交换。当地 20 岁左右的年轻人入社大连爱光,是他们的现金收入直接带 动了金石滩的货币经济,这些常挂在嘴边的笑话仿佛还是昨天发生的事情。 大连爱光旧工厂是租借了所属陈家村村委会不使用的两栋楼开始的。 办公楼四楼部分有水管道的净化槽兼水压槽。可这些陈旧的水槽多次发生管道漏水现象,浸泡整个办 公楼。这样的事情连续了 2-3 年左右,水费也交了不少。 还有工厂电和供热等等,在我不知情的情况下,分享给了周围的公司和个人。几年后才知道实情,也 只是苦笑而过了。 1995 年 11 月的创业年度,公司决定招工第一期员工 20 名,可是来了 200 多名 20 岁以下的当地年轻 人来应聘。现在都不敢想象,当时面试的时候大家的穿着,那真是朴素。季节跟现在差不多,气温可比现 在冷多了。翻起那时候的照片,都穿着薄的毛衣,根本没有羽绒服之类的防寒服。 第一期入社的员工当中,至今为止在职的只有生产的潘永耀部长和总务的葛春华课长两位。我问了葛 春华课长的第一个月工资是多少。他们回答说,当时工资男性是 350 元,女性是 300 元。 我查了一下,国家规定的最低工资标准的变化。2000 年是 350 元,2004 年 500 元,2007 年 700 元,2011 年 1100 元,2013 年 1300 元。再加上各种保险福利费用,公积金等,一个员工的经费是最低工资的 3 倍左 右。 现状,1300 元的 3 倍,大概 4000 元是一个员工的经费。新入职现场职员的话公司就要支付 4000 元的 人工费。还有随着工龄的增加,员工工资的涨幅,这些都是公司所要负担的。 我在查看了一下营业额。至从 1995 年创业到 2001 年的 7 年间是接受日本爱光的每个月 800 万日元和 三菱汽车的每月 700 万日元的订单额。合计每月 1500 万日元,属于一个非常小规模的加工生产过程。 在这样的订单生产下,大连爱光启动第 4 年,内部已经完善生产体制,向日本爱光提出了增加订单的 要求。可当时日本爱光在日本国内夹子的销售体制和生产供应上已经失去了机能。所以也没有了向大连爱 光加大订单的能力的经营资源。 对于我来讲,日本爱光增加订单的计划和大连爱光成长为日本爱光在中国的生产基地的目标,这些都 已经失去价值,感觉非常失落。同时,又发生了以泰国为起点的东南亚金融危机,原本有的每月 1500 万

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日元的订单也减少到了一半。 我立即开始行动。当时收集了在中国的 550 家日本企业资料,其中亲自访问 350 家日企,开拓销路。1998 年到 1999 年上半年为止,一年半时间我走遍了中国各地,与 100 家企业签订了合同。 可都是从 500 元到 1000 元的不定期订单量。当时在中国的日本企业还没有达到大量生产的阶段,规 模都很小,不像现在这种大规模生产。虽说大连爱光也是小规模生产,对于这样的订单,大连爱光还是不 能盈利的。 为了打破这种情况,1999 年下半年,我决定重返日本,开拓日本汽车行业的订单。刚才前面说过,当 时日本爱光在夹子的生产销售方面已全部暂停。所以,我在日本开拓新市场的过程中,没有遇到过很大的 障碍。 跟伊藤忠公司的链带,通过小松制作所,五十铃汽车等,采购部长的介绍,我一人展开了扩大销路的 活动。 通过一年多的营业活动,2002 年拿到了小松制作所的订单,2004 年又跟五十铃汽车成功签订了合同。 虽然不是“因祸得福”,可正是把负面要素转换成了正面能量,才实现了大连爱光的复活和成长。到今天 为止,小松和五十铃的一个月订单达到一亿日元。 通过给小松和五十铃的供货,2008 年,建成了现在的大连爱光厂房。 在新工厂移转之际,公司凭借 2000 年开始导入的各种新的加工技术,不仅是国内的日企还是日本国 内的汽车行业,大大的宣传了新生大连爱光,期待着大连爱光更大的飞跃发展。 正当在大连爱光整顿新工厂生产体制之际,2008 年 10 月,发生了震撼全球的雷曼金融危机。这一年 订单减少了 40%,员工也是从 500 名消减到 250 名,这真是艰难的一年。 到了 2010 年的时候,雷曼危机过去了,订单状况也是日益好转。2011 年 3 月,在日本发生的东日本 大地震,对日本国内影响极大,可是对于车辆行业总体来讲,包括我们大连爱光都展示了稳健的经济发展。 2013 年和 2014 年,突如其来的日元贬值和人民币高腾,给日本经济敲了个警钟。现在还在持续着。 对于大连爱光来讲,是万万没有想到的,在没有防备的情况下受到了汇率的严重打击。之前一直是 1 元=12 日元左右的,可到了 2013 年是 16.9 日元,2014 年都有超过 18 日元的。 对于现在的大连爱光来讲,1 日元的贬值,月额达到 30 万元的损失。12 日元到 18 日元,涨了 6 日元 的话,就意味着每月损失 180 万元。这种汇率变动下是根本生存不下去。以 2012 年度 1 元=12 日元为基准 的话,2013 年度,汇率损失 1367 万元,2014 年度,汇率损失 2031 万元。 基于这种状况,今年年初开始,向供应商提出了降低成本的强力要求。全过程全权托付给刚到大连爱 光的渡边总经理,也得到了各个供应商的理解和支持,大家必须齐心协力,共度难关。假如我们不能互相 帮助,大连爱光不能持续,就不可能获得将来的幸福生活。 跟供应商合作关系的深浅,多少,以及一体感等等用语言表达起来非常地微妙。合作至今以及今后合 作关系的深浅都由我个人来判断,希望这次共同携手度过此次难关,共享胜利的果实。 现在汇率 1 元直逼 20 日元。对于我来讲就是“生或死”的选择。当然我只能走“活”下去的选择。 根本没有想过从中国撤资。 讲了多次克服危机苦难的事情,关于这次的难关,我心里已经有了各项方案。过去的难关可以说是用 我一个人的力量闯过来的。 当前面临的汇率危机,我一个人的能力是远远不够的。这次必须要大连爱光的全体员工团结一致,齐 心协力,理解并用实际行动来支持我的决定和意志,大家付出统一行动,才能让大连爱光生存下去,这也 是我们唯一的选择。改善方案分 2 部分,公司内部和公司外部。 首先是公司内部的改革。今年,以渡边总经理为中心,对生产进行了改善,改革。由于改善刚刚进行 还没有实际效果。希望下一年度能够发挥其效果,提高生产性,达成预期目标。内部方面,包括今年的反 省和明年的改善,会有具体发言总结。

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公司外部改革就是,我要亲自开拓新的销售市场。今年的 11 月份,大连爱光参加了广州汽车部件展 览会。参加这次展览会的日企比往年减少了一半,亲身体会到了在中国日本企业的艰难性。当然跟两国之 间的政治方面的因素也是密不可分的。 可是我们公司以大连爱光为生产基地,向全世界供货的发展方针是丝毫没有改变。 在这样的中国国内生产的日企环境中,2015 年度,积极地推进在泰国的销路。在东南亚日本汽车行业 可以说是垄断型的。明年计划在泰国设立一个常驻人员事务所,跟当地日本商社密切联系,怎样才能够以 最少的经费和人力取得最佳的效果,明确订单金额。 2000 年以后,公司为了加工项目的多样化,积极地开拓了线材加工,粉体披覆加工,铝管加工,合金 及橡胶加工等。可是今后我要以我们公司最擅长的“绝缘夹子”为扩大销路的重点,放到全球销售的中心。 其他以简单加工,可与夹子产品联动生产为前提的。 延边爱光的土地及建筑物的处理也是非常大的问题。2013 年 1 月开始试生产,9 月末决定暂停生产。 原因有二,一是短时间内的生产要求达到量产效果,期望值过高。二是不知不觉中袭来的汇率问题。 如果暂停延边爱光的决策再慢 2 个月的话,可能没有今天大连爱光的存在了。这一年完全搁置了延边 爱光,大连爱光在受到严重日元贬值的环境下,得到了日本爱光和各供应商的极大帮助,大连爱光在这样 严峻的环境中走过来的。 现在在日本有种叫植物工厂的项目,在农业当中备受瞩目。日本的农业比喻为爷爷奶奶农业。基本上 没有了年轻人的参与。可是在日本政府“地方创新”的倡导下,越来越多的年轻人加入到农业改革的行列。 植物工厂简单来讲就是从农田栽培转向工厂栽培的形式,以科学的方法种植蔬菜。日本千叶大学从 40。 50 年前开始研究开发此项目,迄今为止可以说拥有全世界最为先进的植物工厂加工技术。 半年前,我在报纸上看到了关于植物工厂的新闻。很感兴趣。想到了能否在延边爱光否能应用。11 月 份我参加了在东京的植物工厂展示会,12 月份到千叶大学听取了植物工厂研修会的内容。开始检讨可否把 这项目导入到延边爱光。 这个是超大型的项目,一个私营企业是难以完成的。需要国家,地区政府,农业大学,大型企业共同 携手来完成。 食品安全在中国也成了重要课题。中国农地的 20%,已经被重金属严重污染了。全世界各地都有沙漠 地区,极寒地区,不适合正常耕地的荒地等。植物工厂是利用太阳光或 LED 光线,人工控制植物生长环境,1 年 365 天都可以栽培的蔬菜生产工厂。 我刚开始接触和学习植物工厂。可是,我的目的不是当生产经营者,我的目的在于为延边爱光的应用 找到最合适的合作伙伴。一旦开始行动会出现很多方向和方法。希望有好的结果。 公司创立 20 周年之际,大体回顾了一下走过来的风风雨雨。商业真可谓是活生生的生物,经常受到 生死的威胁,这是我都亲身经历。 在异国他乡,在生活习惯,处人处事各个方面都有着很大差别,在这种环境中走过了 20 年,欢乐地 愉快地享受了各种苦境苦难,从心底里还是觉得我是一个非常幸运的经营者。 今年 70 岁古稀了,剩下的 30 年,我要为巩固大连爱光生产加工基地而努力。我要为延边爱光成功导 入植物工厂项目而努力。我要为以泰国为中心的,开拓东南亚日本汽车行业而努力。以开拓东南亚夹子市 场的延长线上,努力开拓欧美市场。 这样的梦想不知道是大还是小,70 岁的青年,只是盼望着开心,愉快地过好每一天。 大连爱光创立 20 周年之际,我阐述了这 20 年的亲身经历,希望在座的各位来宾,企业领导,还有大 连爱光的同志们,能够借鉴,共同求发展求进步。 最后,再讲一句。我跟我的太太,就是副董事长,真是两个非常渺小的没有什么力量的人小人物。这 样的两个人为什么在大连,跟大连爱光一起能够走到现在呢?那就是信仰,耶稣基督给予我们的爱的恩惠。 “任何负面因素都能转化为正能量”只有坚信,才能把所有困难转变为福音。从心底感谢耶稣基督的爱! 阿门!谢谢大家!

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インターンシップ最終レポート

亜細亜大学 国際関係学部2年 松田耀介  私は大连爱光汽车部件有限公司で1 ヶ月間インターンシップをさせて頂きました松田耀介と申しま す。大連愛光では、日本では体験することのできない貴重な経験をたくさんさせて頂きました。この場 をお借りして感謝をお伝えすること、そしてここで経験したことや学んだこと、感じたことをお伝えし たいと思います。  大連愛光に来て一番感じたことが「人の温かさ」でした。インターンシップ初日、寮に着くと倉永董事 長が笑顔で出迎えてくれました。私が抱いていた董事長のイメージとは従業員とは距離を置いた遠く離 れた存在だと認識していたのですが、その考えは倉永董事長によって覆されてしまいました。董事長は 私に対し距離を置くようなことはせず、むしろ董事長自ら私に歩み寄ってくれたのです。また、私のル ームメイトとなる方も連絡を聞きつけて出迎えてくれました。引越しの準備がある程度終わると、私を 近くの町に連れて行ってくれて、必需品や暖房製品などを買い揃えてくれました。ここまで親切にされ ると中国人である彼を「中国人らしくない」と思ってしまったほどです。初日から驚きの連続でした。 翌日、実際に現場での研修も始まり、中国人従業員と一緒に作業をする機会が多々ありました。何も かもが私にとって新鮮なものであり、たくさん学ぼう、自分の価値観を変えてやろうと心の中で思って いたのも今となっては懐かしく思えます。最初はプレス部門での研修で、重機の音がうるさい中で担当 の方が熱心に指導してくださったことを今でも鮮明に覚えています。私の中国語のレベルは決して高い ものではなく、所々単語を聞き取るのがやっとな上に方言が混ざった中国語で説明されたときは正直お 手上げでした。ただ見ていてくださいと私を見放すこともできたでしょう。しかし、従業員の方々は決 してそのようなことはせず、私も分からないなりに身振り手振り質問を続けることで相手側も紙に書 く、ゆっくり話すなど親身になって答えてくれました。これはプレス部門に限った話ではなく、その 後研修させていただいたPVC、ゴム、線材部門の従業員の方々全員が親切に接してくれました。突然や ってきた留学生である私を「同じ大連愛光の仲間だ」と迎え入れてくれたのです。私はこのことに対し深 く感銘し、倉永董事長が従業員の方々に説いている「愛と信頼」の表れであると感じました。

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