日 本 岬 問 教 凪 事 協 合 年 報 ハ 第 ナ 年 ︶ 一 五 六 1
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下
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念
悌
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白
書
議告には支那絹宗史上の一問題とあったが、今は五組門下に於ける念悌蹄を考へるととにした。壷
支郊に於ける絹系統の一大要を見ると.最も古くは安世高の輔教の壊に優れて居たのとそれより少し後の昆曇宗 の三臓の賞践した小一来躍とが眼に著く。との蹄は輔教の墜といはる L 如く・例へば三十七道口聞の如き法教の中の 何れかを岬的に行ふことを主としたものと考へらるるから、法数名目の上から小乗捕と見られ、叉賞践者の考が 我宰偏虞であったであらうから大一束縛と匝別せらるるのであらうが、然しそれが究寛地まで到ったとすれば‘共 騨定者の心扶態が果して大乗樟のそれと全く異なるものであるかどうかは問題であるであらうと思はる。少くと も悌敬一般として見れば後世の縄者のなす如き‘設然たる区別を付すべきではなからう。 共には鳩摩羅什.伸駄蹴陀羅の翻語と指導とによって北地に菩薩捕が行はるるととになったが、前者は恐らく 皐に岬経の翻語が主で.自らは必やしも問者的では−なかったと考へらるるに.後者は婦ら絹に建して居先のみた ら中.共指導感化は頗る大きたものであった。悌駄蹴陀羅の捕の巾心は恐らく観悌三昧κ
師着するものであらう と見らるるが.昔時南方に嵐山の白蓮枇があって槻想念怖を主として観像念悌を行じて居った箆に、俳駄蹴陀羅は遂に此祉に入りて開業を指導し.慧速の白蓮枇が南地悌敬の中心をたして大たる影響をなすに至った。との盛 山白蓮世の中に絹と念悌との一一躍の結合閥係が含まれて居ると考へらるるが、然し営時既に日零時串蜜多重良耶舎の 如きが念悌観の経を語出し.叉白羽らも絹者として岬法を弟子に停へたのみたらや、後者の語経は北地までも一般 的に影響を興へて居る。然るに叉南地に於ては他方に於て道生の頓悟成仰設があって.共営時としては比較的に 勢力を得たかったとはいで霊視の漸倍設に封して一種系統的に遵奉者を有し‘後世三論宗内の絹的傾向と呼膳 し て 居 る と い へ る 。 北地は雑什以後鞍凱等の震に偽者の勢力は南地の隆盛に及びもたいが、殊に北柑酬の破怖によって大たる打撃を 受けた。然るに共後間もたく朝那摩提と悌陀岬師とによって縛が鼓吹ぜられ、共に有力たる弟子を養成して心法 を停へたとせらるるが、然し其締法は蝉教的である外に十六特勝法や止観法が主であったと停へられて居る。恐 らくこれ等と系統を等しくして後世の天台宗の止観騨が起るととにたったといへるであらう。 以上に封して建摩の綿系統が起って.古くは最上乗若しくは如来清博開と稿せられ、後には更に組師捕と構せ らるるに至ったが‘建摩は史家によって大乗壁観功業最高.在世関学流師仰如市といはれて居る如く.壁観によっ て直に自心部怖の奥旨に詮契する玄旨幽噴.理性難通の法を俸へ、一種調得の硝系統を−なしたのである。偉設に 従へば六組に至るまでは一人が一人に停へたとせらるるが‘然し賓際としては初代から既に.傍系とせられなが らも.其倖を承けたものが多く・殊に五組の門下が各一方の師たるに足るものとして各地に接化し・建摩の蹄風 が天下を風醸するに至って居る o とれ等の五組門下の中にも.また其以後の系統の中にも‘念悌甜仰を行ふものが あって、純粋輔の中に念悌が‘何等かの意味で取入れらて居るのみたらや.滞土系統と稿せらるる方面へも質際 2 五組門下左念傍稼 三 五 七
日 本 悌 教 感 情 間 企 百 年 報 ︵ 第 十 年 ﹀ 三五入 3 上の影響を興へて居るのが興味あるととである。以下此賠を考へて見ょうと思ふむ
震
五組弘忍は仁寄元年︵六O
一︶に生れ、成享五年︵六七四︶叉は上元二年︵六七五︶に寂した人であるが.此 入が困却して念備に閥係あるかどうかは明確でない。浮費の樽伽師資記に引用して居る.弘忍の直弟子、玄噴の掛 伽人法志の言、ふ所から判やれば‘弘忍は恐らく.六組の一一言ふと同じゃうに、欲得浮土、官浮共心.随共心帯、則 悌土浮を根本とたして居たのであらう。然るに共門下並に門下の系統の中には既に念伸門騨とすら稽せらるるも のが出でて、五租門下と念悌縛との間に密接た関係の存するととが認めらるる。門下として此方面に闘係の多い のは法持と智説門下系統と慧安門下系統と完什とである。 法持会ハ三五i
七O
二︶は牛頭四世の祖師であるが、俗姓張氏、潤州江寧の入、幼年にして出家し長じて明師 に事へたといはるるが、九歳頃に牛頭三世慧方に従って出家し、十三歳で黄梅弘忍の舎下に投じたのである。十 三歳は貞槻二十一年︵六四七︶であるが、とれ宋高崎旧停‘浮土佳生俸のいふ所で、景徳倖燈録によれば、三十歳 印ち六六四年に黄梅に往つといふ。然し法持の弟子であって牛頭五世とたった智威︵六四六!七二二︶は共二十 歳即ち六六五年に法持に牛頭山で従うたのであるから、景徳停燈録のいふ所は正確では友い如くである。そして との法持は黄梅曾下に於て少年・ながらも法要を受け、心地を得‘以℃幽玄を領解し.幾年かの後‘一件ぴ牛頭山に 師り・慧方の印可た受けて牛頭四世となったのである。何時四世となったかは明でたいが、慧方は自の入寂以前 に牛頭山を去った如くであるから、共時以来四世とたったのであるし、とれは六六五年以前であったのであらうと思はる。後.牛頭の席を智成に護って金陵延砕寺に出でたが‘浄土往生侍によれば.浮土に於て以て念を繋ぐ 凡そ九年.怖仰匙止‘必や概想に費す−−とあるから、共寂年、長安二年卸ち七
O
二年、より九年前、印ち六九四年 に出でたのであらう。との九年間特に念伸に努めたのであるが.滞土往生偉すら観想に資すというて居るから、 法持の念怖は所謂槻想念仰の如きもので、開そ主とたしたものであったと考へらるる o 然し法持に於て紳と念伸 、とが結合せしめられたことは明である。法持の入寂の日には空中に紳幡敷背あって.西より来って山を諮る教組吋 衆人戚く見た程であるのみなら歩、先に位した牛頭山幽棲寺の竹林が壁白したといふ。とれが時土往生の現相と せらるるものであらう。法持の寂するや.智威が叉牛頭を出でて延酔ヰすに来り・説法利人.庚く鶴盆を施したと いはるるが.との智威も亦法持と同巳く念併をも修したのではたからうかと考へらるる。 智読は宋高僧俸には虚寂停と無相倖との二所に共名が見えるのみであるが、近世水崎明煙出土の唐代法賞記が公に ぜられたので.共侍記の明となった人である o 智説︵六O
九|七O
二︶は俗姓周氏‘河南省汝甫の人,年十コ記 して寺に入り‘玄奨三蔵に経論を墜ぴ.後饗峯山弘忍に従ひ.弘忍によって‘汝は粂ねて文字の性ありといはれ、 而も一方の人師たるに足ると許されたが、後四川省資州の徳純寺に住し.虚融観三巻.縁起一巻.般若心疏一巻 を者はした。同川省は錦南道であり‘成都は親南である得に、銀南の智読とも.南説とも稿せられ、読は佑とも 書かれる o 暦代法賞記は寓歳通天二年︵六九七UA
十九歳で、則天武后が勅使として張昌期を謹はされたによっ て入内して供養せられ、而も其前年曹漢慧能より奉らしめた停衣を武后から授けられ、武后は慧能には代償を興 へたといふ。然し倖衣については、此書が知円説系統の者の作なる震に書いたととに過ぎない記事t
.到底信やる 4 を得たいと?乙である。智請は長安元年︵七O
一︶頃蹄山したであらうが、弟子に麗寂がある。鹿寂は宋高僧俸と 五組門下と念仰緯 三五九日 本 傍 敬 畢 協 合 年 報 ︵ 第 十 年 ︶ 二 ハ
O
5 膚代法賓記とに其俸があるか、多少一致したい黙がある。前者は俗姓周氏、萄人とたし.後者は俗姓唐氏.綿州 浮城牒人と注して居る。鹿寂は宗密や嘗時の碑文たどには唐和尚唐絹師唐公たどといはるるから‘俗姓唐氏が正 しい。綿州は罰即ち四川省にあるから.此賠は一致する。宋高僧停は賓修絹師に師事し・玄奥に通巳社多行を行 ヒ.議に則天武后に召されて入内し‘後節して陣山したと紅すが、暦代法賓記は十歳父を亡ひ‘智説和上に投じ たといふ。後者の方が古くもあり.共系統の書でもるるから信やべきものと考へらるるが.或は賓修騨師?といふ のが智読のととかも知れ由。年代にも異説があって.宋高僧停は開一冗二十二年︵七三四︶八十七歳寂、即ち六四 八ー七三四の人とし‘暦代法賓記は開元二十年︵七一三一︶六十八歳寂、郎ち六六五|七三二の人とし.異本には 開元二十四年︵七三六︶となすから.六六九l
七三六の人とたる。弟子の南獄承遠は鹿寂に事ふる数年、奥旨を 窺ひ、民乗を悟り、後世に遊方し、開元二十三年玉泉異公に謁すといはるるから.蕗寂の入寂後承遠が世に遊方 したと見れば.開元二十年寂したと怒す方がよいかとも思はる。此慮寂は杜多郎ち頭陀を行じたといはるるのみ であるが、弟子に無相と承遠とがあって、此二人が念怖を行じた人である。 無相は俗姓金氏、新羅人であって、園王の第三王子であったが、出家受戒した。宋高僧俸によれば‘共後開元 十六年︵七二八︶中閣に入り、玄宗に謁見し、禅定寺に隷属せしめられたが、後萄に入り知日読に謁したといふ。 無相が智説に謂したことは宋高僧停は二固までも述ペ‘叉紳清の北山録の症にも停へられて居るが、開元十六年 が既に智読の寂後二十六年目であるから、事賓に相遣して居る。暦代法賓記が智読との闘係を一言も述べないの は全︿E
しい。無相なる名は鹿寂の興へた所であるといはるるが、無相は鹿寂に侍するとと二年.後天谷山に居 り.又徳純寺に師って慮寂の印可を得た。虚寂と同じく常に頭陀行を行ヒて居たが.天谷山石最下に佐し.後持衆寺に住した。従って滞衆寺金和尚といはるるのである。無相は無憶無念英忘の三何を以て敬へ、引聾念伸を以 て人に授けた賠で‘念悌捕の人とせらるのであるが、頭陀行を極端に行うて.食壷きた時は土を喰ふ程であった から.成都勝令楊翌が共妖惑を疑うたが、奇瑞があった篤に却って蹄依し‘檀越とたって滞衆寺大慈寺菩提寺寧 閣寺等を建てたといふ。宋高借偉は至徳元年︵七五六︶七十七歳寂‘印ち六八
Ol
七五六の人となすが、膚代法 賓記は賓臆元年︵七六二︶七十九歳寂‘部ち六八四l
七六二の人とたして居る。恐らく後者が信やべきものであ らう。弟子について宋高僧停に上足李借をいうて居るが、李借が印ち保唐寺無住である。叉浮衆寺神舎も弟子台 あ る 。 甫 獄 承 遠 ︵ 七 一 一 一l
八O
二︶については.柳宋元︵七七三l
八一九︶の南獄繭陀和尚碑並序︵八O
八年作可 及び呂温︵七六七 1 八O
六頃︶の南獄繭陀寺承遠和尚碑があって其俸を知らしめ.叉南縁組勝集も参考に慣する ものであらう。承遠は四川省漢州蹄竹鯨の謝氏の子であるが、初め鹿寂に事へて奥回目を探り員一飛を悟り.後諸所 に遊方して荊州に至り開元二十三年︵七三五︶玉泉寺民公に謁した。真公は南陽憲民で.嘗陽の弘景︵六三四l
七三一︶の弟子であるから、此黙では南獄懐譲.律宗の文綱‘真言の一行と同円であり、天台の勝一・系をも承けて 居る人である。との裏員が承遠に南獄に行くととを命じたから.そとに行くととにたったのである。蛍時慈恵三 蔵︵六八Ol
七四八︶が印度行︵七O
二|七一九︶より闘って所謂慈感流の浮土教を唱へ、一時庚州に居たと見 えて.承還は往いて謁し.慈惑によって.念悌三昧を敬へられた。之によって承遠は念怖を行やる力を得たと考 6 へらるる。慈感流は一方に於ては痛く絹︷一訴を排斥するが‘それだけ縄から影響を受けたものである。承遠は後天 賓の初め︵七四一︶再び南晶舶に入り西甫の最石の下に居り、頭陀行を行ヒ、人の食を興ふるたき時は土泥茄草木 五施門下 L C 念併縛ー
ノ、日 本 悌 教 働 協 舎 年 報 ハ 第 十 年 ︶ 占
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7 を宣する程で‘虚寂や無相の風であったが、念怖に重きを置いた人であって、人々慕び集まり居虚を捕陀肇と呼 ぶに至った。承遠の徳遠く聞えて代宗︵七六三|七七九在位︶は南郷閉して躍し、共居所を般舟道場と稽せしめ. 叉徳宗︵七八Ol
八O
四在位︶は詔して繭陀寺の名を賜はった。永泰年中︵七六五︶法照が鷹山から来て承遠に 従うた。法照は慧遠の跡を慕ひ、東央より来りて.富山に西方道場を結び.入定して安柴閣に至り・繭陀の座下 に謡衣の老比丘の侍するを見.備に問うて、是れ南獄承遠であると教へられ、法照は之によって南款に入り、官 たものを求めて承遠に遇ひ.従ひて嵐一台、共敢によって遣を天下に弘めることにたった。法照は五合法師と稿せ らるる人であるが.共自らいふ所によれば.永泰二年︵七六六︶甫獄繭陀豪で蹟く弘願を護したのである。法服 は後北方の五華山に入り種々の奇瑞があった人であるし.太暦四年︵七六九︶には園師とせられたが、北ハ念怖が 承遠の教を承けたものであるととは明かである。承遠には法照の外に車詮.知明、道償、超然等の弟子があって 何れも優れて居たといふ。慈感三蔵は騨を排斥するととに努めつつも.共間に阪に縛の影響を受けたといはるる が、承還は初めから縛を主とした人であって、硝と念怖とが一致せしめられて居たのである。法照も承遠の教を 受けたから.静的であったであらうと言はれて居る。然し五合法師と呼ばれて有名でるっても、我園の浄土系統 では曇鷺、道悼、善導、懐感、少尉を組師と認めて.一決遠をも法照をも祖師中には教へては居らぬ。其根本的の 理由は口稿念悌でたかったが矯に.組師に敬へられないのであらうが、それだけ騨的であったととを示す酷であ るともいへょう o 法照の弟子には純一.惟秀.師政.智遠.惟英沙繭.張希俊優婆塞などがある。 無住︵七一四|七七四︶の俸は屑代法貨記が最も詳しく越ペ、宗轄の間質大疏紗と景徳停燈録とに簡単に停へ られて居る。格姓李氏.侠西省鳳朔郡臓の人、武人であって、二十歳を過ぎてから道に入らむと欲し、時κ
白衣の居士陳楚章︵嘩とも書く︶に遇うた。陳楚章は弘忍の弟子慧安︵五八二
l
七O
九﹀の弟子である。慧安は老安 と稿せられた人で.則天武后に優遇せられたが、弟子にも優れたものがあった。陳楚章は居士ではあったが陳七 寄と稿せられ.維摩の化身ともいはれ、頓教法を説いて居た。無位は此人によって心法を俸へて‘数年間修行し た。宗密によれば‘後無住は萄に入って金和尚の絹を聞くに遇ひ‘更に諮問して前悟を改むるを要しなかったと いふ。景徳傍燈録は初め法を無相大師に得として、陳楚章のことなど宣言って居らね。然し暦代法資記によれば 六組の弟子明和上、紳合和上、自在和上に諮問する所がb
ったのである。太原に行って自在和上に従ひ.共虚で 剃髪し.天資八年︵七四九︶受共し.一夏を経て、五牽山清涼寺に至って一夏を費し‘更に共山の明和上に行き. 夫賓九年に臨し、西京の安閣寺崇聖寺に往来し、天費十年に賀蘭山に入り‘居るとと二年であった。此時商人曹 璃なる者から金和上のととを聞き.自らが金和上の相貌に似て居て化身の如くであるといはれ、至徳二年︵七五 七︶鳳朔より太白山に至り‘一夏を経て乾元二年︵七五九︶に金和上に浄衆寺で遇ひ.迭に共法を停ふるに至っ たのである c 宗密は.無住が金和上に諮問して後共法を弘めむとしたが.陳楚掌の如き俗人住田市承したのみ吃は 宣便でないと考へて金和上を師とたしたといび、無住の法は全く陳楚章を承けたものとなし・従って無住は老安 系の人となさむとする意味を現はして居る。無住は共後天蒼山に佐し、叉白崖山に住したから白崖山無住と稀せ らるるが永泰二年︵七六六︶杜相公鴻漸等の顕官を化導し.無相の無憶無念莫忘を無憶無念莫妄に改めて.無念 無心帥悌の設をなし‘一切の行事威儀に拘はる所友からしめた。無住は成都に於ては太暦保唐寺に居たから‘無 住を保唐系と稿し.共師無相の浮衆系と直別せらるるのが通常である。 8 紳舎ハ七二Ol
七九四︶は俗姓石氏.もと西域の人であるが、祖父が移ったが篤に鳳期の人である。年三十‘ 五 組 門 下 と 念 品 抑 縛 一 六日本悌教事協合年報︵第十年 υ 一 六 四 9 即ち天賓八年︵七四九︶萄に入って無相に従ひ、其心印に契うて.無相をして吾道今在汝突と嘆ぜしめ.爾後徳 充ち.慧貫く.陸、,として禅宗を矯し.寂照にして境を減し.離念を超誼し.邸心是悌,身有るを見守といふ趣意 を教へて居た。此人は浮衆寺紳曾と稽せらるるから.浮衆寺に在って無相の宗を檎承したのであらうが.然し無 相の念仰までをも共まま承けたか
ε
うかは疑問である。弟子に那提.益州南印、南康玉章公白串がある。但し益州 南印は後に磁州法如に嗣法して荷津宗の組とたった。とれ等の関係の活か、神舎の名の同一によって、之を荷樺 紳舎と混やるととがあるが‘洋一衆寺紳曾は荷樺紳舎とは全く別人で、年代も異怠って居る o 最後に宜什については其倖記等全く知られて居らね。宗密が国費大疏紗三之下に南山念悌門輯宗と稀して、 共先亦五組下分出.法名宜什、果州未和上.閤州離玉、相如麟尼一一来皆弘之。余不的知票承師資昭穆。 ム﹂いうて居るから.宣什が五組の弟子であるととだけは知らるる。宗密の中華倖心地開門師資法襲岡にも五組。 弟子の中に果関宣什が敷へられて居る。果聞は果州をいふか果州聞州を指ずか、果関といふ所か.不明である が、四川省にあるととは確で.関州は現今の関中であるし‘果州は其附近一帯である。果州未和上は宣什のこと をいふのか、又は別人を指すのか‘とれも明確でないが、恐らく別人であらう。聞州灘玉、相如麟尼一一束等との 闘係は.宗密すら明には知らなかったのであるから.現今到底とれ等を明かにすることは出来ぬ。南山は恐らく 四川省の右の地方を指したもので.必やしも山名とのみ限らないであらう。かく凡て明確ではたいが‘ともかく 四川省中に宣什等が念怖門蹄を行じ、それが五組門下に出でたものであるととだけは認めらるる o 念伸騨が四川 省内に多いととも一奇である。参
以上の人々の念怖が如何たるもので、如何に捕と関係するかについては、夫々それ等が記述せられて居るに基 い て 考 へ て 見 る 外 は な い 。 法持の念怖につい℃は就に述ペた如く.念を常に浮土に繋ぎ、術仰準止槻想に資すといはるるから.念を滞土 に繋ぐは必やしも口稿念悌ではなくして.観念の念怖であらうし.概想に資すの観想は騨定概念するととを指す のが主で.之をたすに浮土の悌を念じたのであらう o 故に観想念悌と見るべきものであり・必やしも観像又は観 相でもないととは怖仰進止決して坐定のみでないととからも判る。法持の此風は恐らく延酔寺に俸はったのであ らうし、弟子の智威が牛頭に後植者とたり叉延砕寺の師席をも承けたとすれば.此風をも受けたであらうと推定 するも必やしも無理ではあるまい。 智読と慮寂とが果して念悌に閥係ありしか否かは何等倖へらるる所がたいから明かでたい。慮寂は頗る頭陀行 に努めた人で.四十年足奈落に至らや、 一胡抹に坐して宴獣寝ねやといはれて居るし‘感臆もあったといはれて 居る。弟子の無相に至つては頭陀行は一一屑厳格であった如くである。而も一種特別な説法と化儀とを有した見え 宗密の国費大疏に三句用心、謂︵又は篤︶.戒定慧と述べ、大疏紗に宗密自ら韓して 言三句者、無憶無念英志也。意令勿追憶己過之境.勿預念慮未来柴枯等事.常輿此智相臆.不昏不錯.名英忘 也 o 或 ・ 不 憶 外 境 、 不 念 内 心 、 繁 一 山 無 寄 、 間 賞 。 戒定慧者弐配三勾也。難関宗潰詑方便多端、而宗旨所蹄在此三句。 JO 玉純門下と念傍縛 ニ ハ 五日 本 悌 数 民 苧 協 曾 年 報 ︵ 第 十 年 ︶ 一 六 六 11 共停授儀式時如此︵次ニ此ノ一字アリ、街字ナラン︶閤今時官壇受共足戒方便.謂一一同月前.先刻日牒示、召 集僧尼士女、置方等道場融機、或三七五七.然後授法了。皆是夜間。意在絶外界喧凱也。授法了.使令一言下息 念坐輯。至於遠方来者.或尼衆俗人之類、久住不得.亦直須一七二七坐糾‘然後随録分散‘亦如律宗。臨壇之 法‘必須衆奉.由航官司給文牒、名目開録.或一年一度.或三年二年一度、不等聞数開。 といって居る。暦代法賓記に於ては、金和上は毎年十二月と京月とに.四衆百千寓人の受紘のために.道場虚を 巌設し.高度にて説法す、先づ引聾念僻し一気を藍して念じ.聾を絶ち念を停めしめ.託って.説いて一五はく. 無憶無念英志︵原文ハ安、誤ナリ、下モ同ジ︶無憶は走れ戒、無念は是れ定、莫忘は是れ慧.此三何の語は即ち 是れ総持門たりと述べられて居るから.宜際としては一年二回倖授の儀式を行うたとも見えるし、而も停授の前 に先づ引聾念悌ぜしめたのであるし.一気に念伸し格って念を停める方法を採ったのである。引聾念併にょっ
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念を停むるは無念に至らしむる震であって‘無相の系統では無念を最も草むじ有念を却け、念が起らやば鏡の面 の能く寓像を照らすが如く、念が起ると鏡の背の照見するを符ざるが如くであるとゑして居る。三何と戒定慧と は順次に配賞するとと婦警のいふ如くであるが、恐らく之を以て撞摩組師の停へた民意を得もんものとたし.智読 虚寂二師は之を言は−なかったが、無位自ら之を明言するのであるとたした如くである。蓋し無念を宗となすとと は建摩以来許さるるととであって、根本には一切衆生本来清帯、本来固満で、添ゆるととも亦得や九減やること も亦得中とせられて居るのであるが、無相も此考であったことは、かかる何が無相の教へた言中にあるととによ っても知らるる所である口然しとの無念に導き無念を停ふるに引聾念怖を以てし、而も官壇受具足戒の方法を採 ったととが特異と見らるるのである。引聾念併は一聾であったと考へらるるが.恐らくとれ無相の護明であらう。とれが浮衆宗と稀せらるる系統である。然し弟子の神舎が果して之を共ままに承けたか
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うかは疑問である。宋 高僧停には一脚舎の敦化の盛であったととを述べ、而も上中下の牲については共性に随って入れしめたとある。何 人をも同一方法で入れしめたのではたいから.必や念併によったといふのではたい。故に紳舎は必守しも念伸蝉 のみの人ではたかったのであらう。然らば滞衆宗は後までも常に一様であったとは見られたい如くである。 無位にづいては、宗密は無住が無相を受けたよりも陳楚章を承けたものの如︿見える叙速をゑすも.陳楚章は 暦代法賓記にも皐に頓教法を説くとのみあって‘特別の風のあったことを倖へて居らぬ。恐らく慧安から承けた 縛に専心して居たのみであらう。故に無位は自ら考出して篤す所があったのであるし.共銭した所を見れば.無 相を受けて多少一方に奔ったものの如く感ぜらる。宗密は国費大疏に敬行不拘市誠識とたし.自ら緯して.無位 の指示する法は其意無相と大に同じとし.つピいて 共偉授儀式輿金門下全異。異者謂鰐門事相一切不行.剃髪了.便掛七僚.不受禁戒.至於躍機、騨龍、重僻. 窮経.一一切段之.皆矯妄想。所住之院不置僻事‘故云教行不拘也。 言誠識者、印所修之道也。意調、生死輪特都詩起心・起心即安‘不論善悪不起郎員、亦不似事相之行。以分別 震怨家、無分別得妙蓮。 亦停金和上三何言教。但改忘字銭安字。一再諸同島一命預先師言旨。意謂、無憶無念印真、憶念印妄、不許憶念故 云 莫 妄 。 12 盟諸教相者且意在息減分別而全員也。故所住持.不議衣食.任人供議.選ハ原文ハ一ア活字テ逆ノ二字トス﹀ 即暖衣飽食.不透剖任飢任寒。亦不求化、亦不乞飯。有人入院、不論貴践、都不逢迎‘亦不起動。讃嘆供養佐 五組門下正念供縄 ノ、 七日 本 傍 数 準 協 合 年 報 ハ 第 十 年 ︶ 一 六 入 13 責損害一切任他。良由宗旨設無分別。是以、行門無非無是、但貴無心而矯妙極、故一五減識也。 というて居る。暦代法賓記によれば、法住は陳楚章に遇うて、密契相知り心印を献倖し、一向に思を絶し慮を断 ちて、事相並に除くとあるから、︷一京密のいふ敬行不拘は此時既に錯すに至った乙とであるし.其後無相に遇うて も前悟を改むる要がたかったのである。叉暦代法賓記に無住の言として.寂誠の柴を求めむと欲せば.営に沙門 法を畠・すペし・無心にして意識を離れたる是れ沙門法たり・諾の関梨は削髪披衣して、自ら我は同店れ伸弟子怒り と言ひて、沙門法を接するととを背むぜ守、口に一言びて情作嫡作.嫌鈍にして入らや、此は沙門耀子に非・子、是 れ野干の類のみ、悌に明文あり、未来世に営に身に袈裟を著けて妄に有を詑くあり、我正法を段壊すと.誓へば 指を以て物を指すが如し、愚擁の凡夫は指を見て物を観守、言設の指に随って而して執著を生じ.乃至命の轟く まで.柊に文字の指を拾っるとと能はみ 7 .言に随って義を取って諸法を建立し、彼建立を以ての故に‘死して地 獄中に墜すとあるし.叉鯨南の諸師僧が五裏山に往かむとして無住に挨拶した時.無性は何鹿に行くかを問ひ. 五華山に文殊菩薩を拝せむ鋳に行く由を開いて、大徳よ、備は身心に・在り、文殊は遠から歩、妄念起ら守むば卸 ち是れ悌を見るたり、何ぞ附労して遠く去らむといひ、備も人々が去らむとしたから.備を説いて,迷子浪波波 越山瞳土波文殊ロハ波在背悌求繭陀というたとあるし‘更に諸郎官が、和上は何に縁って人をして讃経念働睦 拝せしめたいか‘弟子解せ守というたのに封して‘自ら究寛担架したれば.亦人をして是の如くたらしむとし、 如来の不了教を勝てせ守、自己の解を廻し巴って初壌を悟らしめば即ち是の人は直に三味に至るを得る者たらむ と答へて俄然として不動であったとある。とれ等は宗密のいふ教行不拘が賓際であったととを明示するものであ るが、恐らく頭陀行の巌格であったとと無念無心を中心思想とたしたととから来たものであらう。無念無心を主
とし分別を却けるについては各種の粧を引用して数々説いて居るから‘とれが重要思想であったととが判るし. 無相の思教を糟承せるものたるととも知られ得る。宗密が減識というたのはよく共意を得たものである。景徳侍 燈録にも庚く言教を演ぷと雛而も唯無念を以てのみ宗と岱すとある。叉無相の三何を停へて忘を妄と改めたとと についても.暦代法賓記に、無住が、杜時漸の金和上は一二旬を説いたといふが宜際かとの問に封して.然りと答 へ.又此三伺は一−怒りや三たりやとの問に釘して.是れ一にして三にあらや.無憶は戒.無念は定.英妄は慧な あり、叉念起らざるは戒門、念起らざるは定門、念起らざるは慧門で、無念には印ち戒定幹一品が具足して居ると答 へ、更に妄の字は亡の下を女とたすか心とたすかの問に封して、亡の下は女であると答へ、典擦を問はれて.法 伺経に.諸の精進法を説いて、増上慢の設を矯す、若し増上慢無くむば、善も無く精進も無し、若し精進心を起 さば、是れ妄にして精進に非守、若し能く心安たらやむば.精進は涯あるとと無しとあるを事げたのを停へて居 るととから判る。景徳倖燈録にも同一事が越べられて居る o ととの法何経は逝常知られて居る法何経ではなくし て、近頃蛾煙から蛮見せられた悌説法何経で、侭経、 h e t −ぜらるるものであるが、然し唐代の縛者には数々引用せら れて居るものである。精進心にしても何にしても心を起さば既にとれ妄で.従
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て員の精進ではないから.心起 らや妄たらやむば、それが郎ち精進であるとたす貼は.管に忘は妄と改めらるべきを一不すのみたら守、無位の思 想をよく現はして居る髄でもある。更に無住が衣食を議せ守衣食を供養せらるれば衣食し.然らされば飢に任せ 塞に任せたととは無相の行うた所を一層巌格に行うた所で‘無相が曾て人より無住のかかる欣態を聞いて、自ら 14 も曾てさうであったし、産寂が自分のととを聞いて苔むだととがあったと述べて居る程である。貴人をも起って 迎へたかったととは社鴻漸をずら迎へたかったととで明に知らるる。然るに無位の停授の儀式にういては宗密は 五 鼠 門 下 k 念傍縛 三大丸日 本 傍 数 曲 牢 柏 崎 合 年 報 ︿ 第 十 年 ︶ 七
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15 金門下とは全く異たるとたし‘異なるとは敬行不拘にあるとたすのであるが、とれは恐らく引聾念備によって無 念に至らしむる如き方法による息念坐輔の儀式をしたかったといふ意味であらう。暦代法賀記は無位の弟子の書 いたもので、比較的に詳しく無佐の設訟が俸へられて居るが、無相のたした如き停授の儀式については述べて居 らね。却って 銀南城都府大暦保唐寺無佐和尚、毎錆臨学道四衆百千寓人及一人.無有時節.有凝任問、慮座設法‘直至見性. 一 五 品 川 と言うて居るから、常に問答魯穫を行うて居た如くである。景徳停燈録も勿論とれについて何事をいうて居らむ。 然らば無位の保唐宗は必守しも無相の崎市衆宗と同一ではなかったといふべきで.少くとも念僻輔が採用せられ℃ 居たとはいへたいと思はれる。 承還については如何たる念僻絹を行じたかは之を明瞭にするととは出来由。同門の無相が引聾念悌を行ふに至 った程であるから、底寂から承けた所にも一一極の念悌締までをも排せねばゑらぬ如き法門でもたかったのであら う。そとに慈感三臓の教が入り込むだのであるから、慈感流の念併が騨と結付いて取られたのであらう。慈磐三 離は痛く縛者を排斥し‘鰐者が念悌粛戒諦経詰像馬粧を排する等を斥けて居るのは如何にも無相無住のいふ所に 劃するかの如く見ゆる程であるが、然し慈感三離は聖歌の詑く所の五輯定は心を一鹿に制し念々相繍して悟沈持 参を離れ平等に心を持するにあるから‘とれを行ふ常に念僻乃至寝経をなし之を回向して浮土往生に努むれば、 雨者は一致ずともなして居る o 承遠は頭陀行を専一にたした如くであるから.他の善行を凡℃頭陀行に含ましめ 以て念怖を行学る方法を取ったのではたからうかと思はる。慈感のいふ所は嘗時の騨者の態度を排斥したのでるって騨共ものを排斥したのではたく、却って騨共ものと念悌との一致を許したのであるから‘承濯も共趣意を承 けて慮寂に承けた輯を行じつつ念怖を行じたのであらう。との承速の弟子に法照があり・法照は承建を越して慈 搭流念伸に専心したのである。法照と慈惑とが密接た関係あるととは墜者が補者の説の内容上之を認めて居る所 であるのみたらや九法照の著述の中に慈感の蹴讃文が入れられて居る如き事質からも判るが、然し法照が慈態と 遇うたととがあるのではたく.慈惑は法服が南獄に来たよりも十七年以前に寂して居る。故に、慈惑の著書によ って慈患を知った臨もあらうが.承遠を過して知った所が多く・或はそれが慈患の著書に接する機縁であったか とも考へらるる程である。従って法照の念僻は慈整流であるにしても、承遠の思想傾向が加はって居るぺきとと は否定出来たいであらう。法照の五品開念僻は法照自らいふ所によれば、永泰二年︵七六六︶四月︵或は太屑元年 四月ともあるが、前者が正確であるととは太屑は十一月の改元であるからである︶に南獄−鞠陀筆に於℃殻願し. 道場に入って阿繭陀怖の所に至り、悌より五合念働法門を授けられのであるが.とれ承速に従うた翌年である。 五曾念働の舎とは集合のとと‘五種の︵泊目撃が較より念に至り、唯梯法償のみを念じて雑念なく.念守るとき則ち 念無きは梯不二門、聾するとき則ち聾無きは第一義となるのであヲて、大無量害経にある滞土の資樹の五食費聾 を出すとあるに基いて考出されたものである。第一舎にては千聾で絞く甫無阿繭陀併と念じ.第二舎にては卒上 聾で綾く南無阿弼陀備と念じ‘第三舎にては非綬非念に南無阿繭陀悌と念じ、第四倉にては漸く h誌に南無阿捕陀 怖と念じ.第五舎にては四字を縛た念に阿繭陀併と念−
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るのであるし、績いて賓樹等の雑讃乞讃昧すべきである と述べられて居る。との五合によって雑念たく市も無念無聾とゑるのを主とたす離は.之を無相の引聾念僻の一 気を聾して念じ.聾を総ち念を停めしめるに比較すると如何にもそとに相泊中る離がある如くに感ぜらるる。雨 16 五組門下と念傍蘇 一 一 一 七 一日 本 悌 欲 降 下 協 合 年 報 ︵ 第 十 年 ﹂ 一 二 七 二 17 者とも引聾念怖を行うて後に設を敷へ雑讃を昧ゃるから.順序も一致して居る。勿論一が他に倣うたとか.影響 を受けたとかいふのではたいが、念悌絹の一には必然的に此の如き方法が採用せらるるに至るのである貼に興味 がある。法照は数々入定し、定中阿繭陀悌を拝したといはるる程であるから.騨定に建して居た人であるととは 明である。以上によって承遠の念悌静も或は法照流のものであったのではなからうかと考へられるのである。 宜什については、宗密が共方法を固畳大疏に藷倖香而存悌といひ、之を白ら標して 言惇香者、共初集衆、曜機等儀式如金和上門下。欲授法時.以偉香魚師資之信。和上手付.弟子却授和上.和 上却授弟子.如是三遍.人皆如此︵原文ハ地トス︶ 0 一言存働者.正授法時、先説法門道理修行意趣、然後令一字念伸.初引聾由念.後漸漸波撃、微聾乃至無聾.議 伸至意、意念猶轟、叉港至心念、念存想有仰恒在心中、乃五、五無想主得遣。 というて居る。此外に資料が見付からぬが、儀式の一方法は無相のたすと同様ぜ、異なる所は停呑を、初め師から 弟子に授け、弟子がそれを師に授け.之を往復コ一遍たす酷である。停脊は停法する時の一杏の意味であらうと忠は るるが.煙立つ香櫨たどを用ふるのであらう。かくして後法門の道現在修行の意趣とを設き敬ふるのであるが、 宣什は禅者であるから、勿論綿について無念無想を最上としそれに至るべきをいふのが法門の道理で.之に績い て一般的の修行を説き叉失の引聾念悌が無念無想に至る共位的の修行なると L ι を説くのが修行の意趣であるであ らう。一宇の念怖は恐らく一聾念怖と同じであらうと推定せらるるが.初め聾を引いて念じ聾を漸弐微とたし. 遂に無撃とたして無念に至らむとするのである。悌を送って意に至るは観想するととであらうが‘心念に想を存 せば僻は心中に在るのであり、とれが念無想となったとき特道ずるのであるとなすのであらう。結局無相のたす
所と甚だしくは異ならない如くである。無相は引聾念怖を先に行うて無念無想と怒り、失いで三伺を説くとせら れて居るが、宣什は先に法門修行を就いて、次いで引聾念怖によって無念無想とたる乙とを敬へた賠で、順序が 逆になって居る。然し大瞳凡て引聾念怖が特長をたして居るものである。
四
以上五世門下並に門下の系統中念悌耐とせらるるものを述ペたが‘門下としては法持と宜什とであり・門下系 統としては主として智説門下系統で、慧安門下系統が関係を持って居るのである。法持の属した牛頭蹄は初秘法 融の上で見れば、般若昼視に立つ時であるから、爾来六組まで、並に共系統として鶴林玄索佳山法欽も.此風絡 であったと考へらるるが‘此聞に於て法持と恐らく智威とが念怖を行じたといはるるのは主として観想念怖であ って表面的に見れば麗山流慈感流の傾向に入るべきもので、唯躍を主としたと認めらるる黙が異たるに過ぎない 如くである。宣什の特異た儀式による念悌縛は宣什自ら考案したものか叉は他に影響せられて出来た乙とか、宜 什の倖記が明確でたい震に之を明瞭にするととを得ないが、成都附近に由来此の如き風があったのか.無相の如 きも亦かかる儀式をたして居るし、宣什が五組の弟子、無相が玄孫弟子である関係からは‘宣什又は共系統の方 が前であって、或は多少無相に影響を興へたのかも知れぬ。ともかく宣什と無相とが念怖締としても特異のもの といふべきであらう。然るに無住になると果して念悌蹄であったかどうか明確でたいが二二句を改良したがらも‘ 明かに無相を承けた賠で無相と関係して考へられ、無相と異なる離で保唐宗とも稽せらるるのである。然し賓際 として無位の後の滞衆宗と保唐宗とは大館に於て類似せるもので、幾分純粋梓に還る傾向を現はして居ると見ら 18 五組門下左念併構 三七三日 本 傍 晶 執 筆 柑 胸 骨 胃 年 報 ハ 第 十 年 u 三 七 四 19 るるであらう。然るに無相と同門の承還は効用子との閥係で見れば、共念働蹄は進に滞土系統とたった如き欣態で‘ 承速が慈惑と法照とを結付けて居るのである。故に全般的にいへば.法持系と承議系とが一方をたし宜什と無相 とが他方を注し、無住と紳舎とが絹に還らむとするものとして.かくコ一種に見倣し得ると考へらるる。 縛宗前九を主とする人々は建摩門流の租門の正統思想としては念悌禅の如きは恰も邪道たるかの如る見むとする が、然し樺者にして念備を粂ねたものは史上決して少なくはたく.而も以上の如く五組門下並に共系統に於てす ら既に認めらるる所である。蹄と念怖とでは如何にも雨極端の如くに考へらるるのであるが.支那悌敬・突の上で いへば‘雨者が結合したものの方が多いといふベ︽.口鶴念悌の五百にしても口構ずる根底としての心土に縛的 基礎があったに相違ない。躍は之を賓践的方面から一般的にいへば‘悌教の凡てに於て採用せられて居るべきも のであるととは戒も慧も定に基い℃初めて真の戒であり慧であるといはれて居るととからも知られ得る。との一 般的の定が特種の一宗一系統となったのが所謂禅宗棉系統であるから.念悌捕の現はるるのも査し必然であり. 叉自然である。噌念怖縛に於ても騨を主とたすか念悌を主とたずかによって.共人の態度傾向が異・なって来るし 種々たる儀式方法まで考へられて来るのであるし‘議事故掠も案出せらるるのである。 以上論越した中で、法照等については従来浮土敬奥の路市者によって、専門的に研究叙述せられたものもあるが. 今此小論文に於てはそれ等とは少し異たって、むしろ絹系統の方面から見る轄を主とたしたのである。