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禅研究所紀要 第32号 010木村文輝「駿河国宇津ノ谷峠の地蔵伝説-「素麺地蔵」の食人鬼退治を中心として-」

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Academic year: 2021

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全文

(1)

駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) ─ ─ 一 宇 津ノ 谷 峠の 二 体の 地 蔵 一 駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠 二 二 体の 地 蔵 尊 二 素 麺 地 蔵」 と 食 人 鬼 伝 説 一 慶 竜 寺の 地 蔵 縁 起 二 栃 木 県の 「 素 麺 地 蔵」 伝 説 三 素 麺 地 蔵」 伝 説と 日 光 山の 強 飯 式 四 宇 津ノ 谷 峠の 「 素 麺 地 蔵」 伝 説 五 宇 津ノ 谷 峠の 「 食 人 鬼」 伝 説 六 地 蔵の 遷 座と 十 団 子 七 もう 一つの 「 素 麺 地 蔵」 伝 説 三 宇 津ノ 谷 峠と 地 蔵 信 仰 一 宇 津ノ 谷 峠に 伝わる 他の 地 蔵 伝 説 二 素 麺 地 蔵」 伝 説 翻 案の 意 義 一 宇 津ノ 谷 峠の 二 体の 地 蔵 一 駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠 駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠は、 駿 府( 現 在の 静 岡 市) の 町から 東 海 道を 西へ 約 一〇キ ロ 、 丸 子 宿と 岡 部 宿との 間に 位 置し、 かつ ての 有 度 郡と 益 津 郡との 境、 現 在の 静 岡 市とその 西 側 の 志 太 郡 岡 部 町との 境をなしている 。 東 海 道の 官 道は、 奈 良 時 代 頃までは こ の 峠の 東 側に 位 置し、 駿 河 湾に 程 近い 日 本 坂を 経 由していたと 言われ ている。 宇 津ノ 谷 峠が 日 本 坂 に 代わっ て 官 道に 組み 込まれ たのは 平 安 時 代 以 降のことで あり、その 後 今 日の 国 道 一 号 線に 至るまで 、 こ の 峠が 東 海 道の 一 部をなして きた ( 1 ) 。

駿

──

退

として──

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─ ─ 駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) ただし、 往 時の 峠 越えに は 二つの 道が 存 在した。すなわ ち、 峠の 南 側を 通る 室 町 時 代 頃まで の 「 蔦の 細 道」 と、 江 戸 時 代に 街 道に 組み 入れられた 北 側の 「 旧 東 海 道」 であ る 。 しかし、 蔦の 細 道は 江 戸 時 代の 中 頃には 完 全な 廃 道になっ た。このことは、 寛 政 九 年( 一 七 九 七) に 秋 里 籬 島が 著し た 『 東 海 道 名 所 図 会』 の 記 述 等からも 窺われ る ( 2 ) 。さらに 、 明 治 時 代に 峠の 下にトンネルが 掘 削され ると 、 旧 東 海 道も 使 用され なく なっ た。 そし て、 こ の 二つの 道は 昭 和 四〇 年 代に 郷 土 史 家の 春 田 鐵 雄 氏らによっ て 再 発 見され る ま で、 完 全に 幻の 存 在とな ったの で ある 。 現 在、 宇 津ノ 谷 峠には 片 側 二 車 線から なる 約 八 五〇メー トルのトンネルが 貫 通し、 自 動 車なら ば 一 分 程で 通り 抜け ることができ る。しかし、 標 高 約 二〇〇メートル、 行 程に してお よ そ 二キロの 峠 道が、か つ て は 東 海 道の 難 所として 街 道を 往 来する 旅 人 達を 悩ませてき た。 『 吾 妻 鏡』 によれ ば、 承 元 四 年( 一 二 一〇 ) に 源 実 朝の 「 御 台 所 御 方 女 房 丹 後 局」 がこの 峠で 山 賊に 出 会い、 財 宝や 装 束を 略 奪され る 事 件が 起きている ( 3 ) 。また 史 実ではないけれども、 安 政 三 年 ( 一 八 五 六) に 初 演され た 河 竹 黙 阿 弥 原 作の 歌 舞 伎「 蔦 紅 葉 宇 都 谷 峠」 では、この 峠が 陰 惨な 「 文 弥 殺し 」 の 舞 台とし て 描かれ ている。 蔦 草のからま る 宇 津ノ 谷 峠のイメージが、 人々の 意 識の 中に 不 安な 峠 道の 印 象を 植え 付けたの で あろ う。 同 時に、 小さな 峠 道とは 言え、 旅 人 達にとっ て は 、 こ の 峠 越えが 常に 追 剥 等の 恐 怖と 背 中 合わせの 道であ った こ とが 窺われ る。 ところ が 、その 一 方で、 宇 津ノ 谷 峠は 文 学の 世 界で 広く 知られた 場 所で も あった。そのきっかけ になったのが 『 伊 勢 物 語』 であ る 。 物 語の 中で 常に 「 男」 として 登 場する 主 人 公は、 都を 追われ て 東 国へ 下る 途 中の 若き 公 達で、 古く から 在 原 業 平がモデルとさ れてきた。その 主 人 公が 宇 津ノ 谷 峠で 偶 然にも 知 人の 修 行 僧と 遭 遇し、 都の 知 人への 手 紙 をことづけ る の で ある。 物 語はそ の 場 面を 次のよ う に 描い ている。 行き ぐげ て、 駿 河の 國にいたりぬ。 宇 津の 山にいたり て、わが 入らむとする 道は、いと 暗う 細きに 、 つ たか えでは 茂り、 物 心ぼそく、すゞろなる め を 見ることと 思ふに、 修 行 者あひ た り 。「 かゝ る 道はい か で かい ま す る 」 といふを 見れば、 見し 人なり け り 。 京に、その 人

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駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) ─ ─ の 御もと にと て、 文 書きて つく。 駿 河なる 宇 津の 山べのうつゝにも 夢にも 人にあ はぬな りけ り ( 4 ) 『 伊 勢 物 語』 で 取り 上げら れ て 以 後、 宇 津ノ 谷 峠は 様々な 紀 行 文 学に 登 場し、 歌 枕としても 有 名になった。そうした 作 品の 中で、 宇 津ノ 谷 峠は 多くの 場 合、『 伊 勢 物 語』 の 故 事 にならって 人と 出 会う 場 所、 文をことづけ る 場 所、ある い は 夢と 現 実のは ざま の 場 所として 描かれ てき た。 文 学 作 品 に 描かれ たこの 耽 美な 情 景と、 追 剥 強 盗や 凄 惨な 殺 人を 想 起させる 陰 鬱な 峠 道の 印 象との 懸 隔は 極めて 大きい。しか し、この 二つの 性 格を 共 存させているところに、 宇 津ノ 谷 峠の 特 徴があ る 。 その 意 味を 考える 際に、 注 目すべき 点が 「 宇 津ノ 谷」 と いう 地 名である 。 折 口 信 夫や 国 文 学 者 達の 研 究 通して、 「 宇 津( ウツ )」 は 「 空( ウツ )」 に 通じ、 中が 空 洞、 空っぽ の 状 態を 表わす 言 葉だと 解 釈され て い る。 ま た 、 そ れ は 「 魂 の 籠もる 場 所」 を 示すとと も に、そこに 籠もることに よ っ て 心 身を 浄 化させ、 生 命 力の 復 活をも た ら す 場 所を 意 味し ていたで あろうことが 指 摘され て い る。 加えて、 我が 国で は 古 来、 峠は 二つの 土 地の 境であ る と とも に 、 あ の 世とこ の 世の 境として 意 識され てき た。 つ ま り、 「 宇 津ノ 谷 峠」 は 文 字 通り、こ の 世の 魂があ の 世に 移り、 そこで 一 時 的な 籠 もり を 経 験する こ と で 再びこの 世に 蘇って くる ための 、 生 まれ 清まり の 場 所とみなさ れ て いたので ある ( 5 ) 。 それ だ か ら こ そ、 宇 津ノ 谷 峠はあ の 世に 連なる 夢の 世 界 と 現 実の 世 界との 境であ り 、 そ れ 故に、 遠く 離れた 人の 魂 を 呼ばい、 心の 交 流を 果たす 場 所となり 得たの で あ る。 同 時に、 そこは こ の 世の 人をあ の 世へ 送る 殺 生という 行 為や、 この 世の 様々な 財 宝を 奪い 去ると いう 出 来 事が 起こり 得る 場 所だと み な されて も 不 思 議では なかった。 の み な ら ず 、 都 落ちした 若き 公 達にとっ て も、 この 峠を 通 過する こ と は、 その 罪 過を 清め、 新たな 復 活を 遂げるために 不 可 欠の 舞 台 設 定だっ たので あ る。 二 二 体の 地 蔵 尊 宇 津ノ 谷 峠の 東 西の 麓には 、 そ れ ぞ れ 一 体ずつの 地 蔵が 祀られている。どちら も 正 確にいつ 頃から 祀られているの かわからないが、 万 治 三 年( 一 六 六〇 ) 頃に 著され た 『 東

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─ ─ 駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) 海 道 名 所 記』 には 、「 峠に 地 蔵 堂あり。 又、 下り 坂 口にも、 地 蔵あり ( 6 ) 」 と 記され て お り、 当 時、 既に 二 体の 地 蔵が 存 在 したことが 窺われ る。 これら の 地 蔵の 起 源について、 野 本 寛 一 氏は、 蔦の 細 道 の 途 中、 峠の 鞍 部から 西へ 百メートル 程 下ったところにあ る 通 称「 猫 石」 が 古 代の 境 神の 磐 座であ り 、 そ の 境 神が 後 に 地 蔵と 習 合したのでは な いかと 推 測している ( 7 ) 。この 境 神 に 対する 信 仰は、 今 日では 国 境や 村 境、ある い はその 地 理 的な 境 界をなしている 峠 等に 道 祖 神や 地 蔵を 祀ると いう 形 で 残され て お り、 そ の 事 例は 全 国 各 地で 数 多く 報 告され て いる 。かつてこのことを 指 摘した 柳 田 國 男 氏は、 道 祖 神と は 本 来「 境を 護る 神」 であ り 、 外 敵の 侵 入を 防ぐ 「 塞 障」 さ え の 神として、 「 人 間が 防 御する に し ても 好 都 合な、 通 路の 一 地 點を 擇ん 」 で 祀られ たと 論じて い る ( 8 ) 。さらに 柳 田 氏は、 地 蔵は 地 獄の 入り 口とさ れる 賽の 河 原で 幽 明 二 界の 境を 護 る 存 在であ り 、 同 時に 「 生 命を 司り 更に 又 幽 界を 支 配」 す る 閻 魔 大 王と 同 一 視され て い た。 そ の た め に、 境 界 防 護の 役 割を 担うことになり、やがて 道 祖 神と 習 合して 峠 等にも 祀られ る よ う に なっ た と 推 測して い る ( 9 ) 。そうだとすれ ば 、 図1 宇津ノ谷峠見取り図 (国道一号線道の駅「宇津ノ谷」の案内板より) 図中左下の「鼻取地蔵の碑」の場所に「坂下地蔵堂」がある

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駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) ─ ─ この 世にお け る 境 界とともに、この 世とあ の 世の 境 界とし ての 意 味をあ わせも つ 宇 津ノ 谷 峠においても、 地 蔵が 「 境 を 護る 神」 として 祀られたことは 十 分に 考えられ る 。 宇 津ノ 谷 峠の 西 側の 地 蔵は、 蔦の 細 道と 旧 東 海 道の 岡 部 側の 分 岐 点に 位 置する 坂 下 地 蔵 堂に 祀られており、 古くか ら 地 蔵 堂の 前に 住む 那 須 野 家が 別 当として 管 理してきた。 元 禄 一 五 年( 一 七〇 二) に 新 鋳され た こ の 地 蔵 堂の 梵 鐘に は、 曹 洞 宗の 学 僧であ る 卍 山 道 白の 撰によ る 銘 文が 刻まれ ており 、 その 中には 「 聖 徳 太 子 手 刻 之 地 蔵 菩 薩 霊 像」 とい う 伝 承と、その 前 年に 尊 像を 修 理して 地 蔵 堂を 再 建したこ とが 記され て い た ( ) 。 地 蔵 像は 台 座を 含めて 高さ 約 一 三〇セ ンチ 。 左 手に 宝 珠、 右 手に 錫 杖をも つ 木 製 立 像であ る 。 こ の 地 蔵は 二〇 年 毎に 開 帳され る 秘 仏とさ れており 、 前 回は 平 成 一 五 年が 開 帳の 年であ った ( ) ( 図2 ) 。 一 方、 東 側の 地 蔵は、 現 在、 旧 東 海 道の 上り 口にある 曹 洞 宗 宇 津 山 慶 竜 寺に 祀られている。しかし、かつては 旧 東 海 道の 峠から 二〇メートル 程 東 側に 下った 所に 祀られてお り、 「 峠の 地 蔵」 と 呼ばれ ていた。 当 時から 慶 竜 寺が 別 当と してこの 地 蔵を 管 理していたといい、 峠の 地 蔵 堂を 描いた 図2 坂下地蔵堂の延命地蔵 (平成15年8月23日撮影)

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─ ─ 駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) 図3 慶竜寺の延命地蔵 (建設省静岡国道工事事務所監修、東海道弥次喜多研究会発行 『東海道宇津ノ谷峠』より転載) 図4 慶竜寺の「おまえたてさん」

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駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) ─ ─ とさ れる 絵 馬が 慶 竜 寺に 残され て い る。 ま た 、 先に 述べた 歌 舞 伎「 蔦 紅 葉 宇 都 谷 峠」 の 「 文 弥 殺し 」 は、この 地 蔵 堂 がそ の 舞 台とさ れていた。 けれども、 明 治 時 代になって 旧 東 海 道が 使われ なくなる と、 峠の 上では 参 詣に 不 便だという 理 由で、 地 蔵は 宇 津ノ 谷の 集 落に 下ろさ れ る ことになった。ところ が、 石の 地 蔵 は 重くてなかなか 持ち 上がらない。 明 治 四 四 年 七 月、 地 蔵 が 急に 軽くな ったというの で、 地 蔵 堂とともに 麓の 慶 竜 寺 に 下ろしたとこ ろ ( ) 、 翌 年 大 規 模な 山 崩れが 起こり 、 地 蔵 堂 のあっ た 場 所は 土 砂で 埋まってしま っ た 。 地 元 人々は 、 地 蔵がそ の こ と を 予 測して 麓に 運ばせたのだと 噂しあ った と 伝えられ て いる ( ) 。 この 地 蔵は 弘 法 大 師 作と 言われ る 石 造の 座 像で、 高さは 約 八〇センチ。 両 手を 組んで 宝 珠を 捧げ 持つ 姿をしている ( 図3 ) 。 慶 竜 寺では 本 堂 正 面の 須 弥 壇 中 央にこの 地 蔵を 納 める 厨 子を 安 置し、その 右 脇に 本 尊の 十 一 面 観 音を 祀って いる 。しかし、この 地 蔵は 二 一 年 毎の 本 開 帳と、 一 一 年 毎 の 中 開 帳の 時を 除いて 秘 仏とさ れている 。 前 回の 本 開 帳は 平 成 七 年であ った 。 そ の た め 、 この 厨 子の 前には 通 常は 「 お まえたてさ ん 」 と 呼ばれ る 高さ 一 一〇センチ 程の 木 製の 地 蔵 立 像が 安 置され て い る ( ) ( 図4 ) 。 ちなみに、 坂 下 地 蔵 堂と 慶 竜 寺の 地 蔵はい ずれも 「 延 命 地 蔵」 と 呼ばれ ている。しかし、 それらが 本 来 別々の 存 在 であ った の か 、そ れとも 同 一の 地 蔵であ った の か は 定かで ない。ともあ れ、これらの 地 蔵には 幾つかの 伝 説が 語り 継 がれてきた。 本 稿では、そうした 伝 説の 中から 特に 慶 竜 寺 の 地 蔵にまつわ る 「 素 麺 地 蔵」 と 食 人 鬼 退 治の 伝 説に 焦 点 をあてて、この 伝 説の 意 味を 探るとと も に、 宇 津ノ 谷 峠に おけ る 地 蔵 信 仰の 特 徴を 考 察する こ と に し たい 。 二 「 素 麺 地 蔵」 と 食 人 鬼 伝 説 一 慶 竜 寺の 地 蔵 縁 起 慶 竜 寺に 祀られている 地 蔵の 略 縁 起が、 現 在、 静 岡 県 立 図 書 館に 保 管され て い る。 表 紙に 「 東 海 道 宇 津 之 谷 峠 地 蔵 大 菩 薩 畧 縁 起 別 當 慶 竜 禅 寺」( 以 下「 略 縁 起」 と 略す ) と 記され た 四 丁 八 頁から なる 冊 子で、 江 戸 時 代に 著され たと 推 定され るが 、 正 確な 年 代は 不 明であ る ( ) 。その 全 文を、 以 下に 五つの 部 分に 区 分しな がら 翻 刻する ( ) 。

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─ ─ 駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) 〈 野 州 素 麺 谷の 地 蔵 伝 説〉 ( 一 頁) 抑 東 海 道 宇 津 之 谷 峠 地 蔵 尊ハ、 人 皇 五 十 二 代 そもそも 嵯 峨 天 皇の 御 宇、 弘 仁 三 年( 八 一 二) 、 弘 法 大 師 東 遊の 節、 衆 生 教 化のた め 、 み づ か ら 地 蔵の 尊 像をき ざみ、 野 州 宇 津の 宮の 山 奥に 安 置せら る。 此 処の 人、 欲 心 深 くして、 人の 難 儀をよ ろこび、 旅 人のもてなしに、 家々 皆、 素 麺をうり、 多く 椀 数をな らべ、 理 不 仁に 價をと あた ひ る。 其 仕 業、 実に 人をお ひお とすに ひ とし。 時に、 大 師 御 作の 地 蔵 尊は 遊 歴の 僧と 現し、 垂 跡 愛 宕 権 現ハ 白 髪の 老 人とあ ら わ れ、 同しく 其 処に ( 二 頁) ゆひて 、 素 麺を 食す。 出すに 随て、 両 人 是を 喰ふ。いかほど 出 しても 飽たる 体なく、 猶しき りにこれ を 喰ふ。 其 家 麺 つきて、 隣 家にも らふ。 隣 家もまた 尽く。 近 所をあ つ む。 其 辺、 貯も 皆つきた り 。 人々あきれて 過を 謝し、 あや まち 其 故を 問へば、 只 後の 谷をゆびざす。 是を 見れば、 素 麺 流れてたきのごとし。なを い ましめ て いわ く、 「 汝 等、 人の 難 儀を 悦ぶ 事なかれ。 欲 心を 逞しうす る 事な かれ 。 只、 慈 悲を 専らに して 善には し た が ふ べ し 。 悪 には そむ く べ し 。( 三 頁) 善 悪とも に 汝より 出るもの ハ、 汝にかへ る 。 今、 我 等にあたへし 素 麺も、 悉く 汝 にかへす 」 とい つて、 本 体を 現じ、けすが 如くにさり 玉ふ。 今、 其 処を 名づけ て 素 麺 谷といふ。 〈 食 人 鬼の 出 現〉 其 頃、 当 所 宇 津の 谷の 北に 幽 谷あり。 渓 水なが る。 其 下に 寺あり。 梅 林 院といふ。 其 寺の 住 僧、 難 病をうけ、 苦 痛たえがたし。 膿 血を 吸ひ 出せバ 暫く 其 苦 痛を 忘る。 故に、 時々 小 僧に 命じて 是を 吸しむ。 朱にま じハれ ば あかく な るの 諺、おそる べし。 其 小 僧、 自 然と 人の 肉 の 味ひを 覚へて、 終に 人を 喰ふの 鬼となり 、( 四 頁) 此 山をすみかとなし、 往 来の 旅 人を 捕へて 是を 喰ふ。 故 を 以て、 人 跡をのづからたえ、 通 路 已にふ さが る。 是、 天 安 年 中( 八 五 七 - 八 五 九) の 事なり 。 今、 其 処ハ 旧 趾のみ あつ て、 寺は 桂 島 村の 山 奥、 谷 川のほとりにあ り。 梅 林 禅 院といふ。 〈 食 人 鬼の 退 治〉 こゝ に、 貞 観 年 中( 八 五 九 - 八 七 七) 、 在 原 業 平 卿、 東 国 下 向 節、 勅を 蒙り、 此 処へ 向ひ 玉ふに、 通 路たゆる 事、 年 久し。 故に、みづからお ひしげ れる 蔦 蘿をわけ つ た

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駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) ─ ─ て 下り 玉ふ。 今、 津たの 細 路とて、 木こり 、 草 刈 抔の など ゆきかよふかすかなる 道あり。 此 卿、 御 下 向の 時、 野 州 素 麺( 五 頁) 谷の 地 蔵 尊に 祈 願し 玉ふハ、 「 今、 駿 州 宇 津の 谷の 山 路に 鬼 神 有て、 人 民をなやまし、 通 路 已 にた えた り。 願くハ 菩 薩の 願 力を 以、 彼 地に 遊 行し、 悪 魔を 降 伏し 玉ハゞ、 只、 人 民を 救ふのみな らず、 天 下の 幸ひな らん 」 と。 深く 祈 願し 玉へば、 菩 薩 忽ち 遊 歴の 僧とな つてこの 地へ 出 現し 玉ふ。 彼 鬼 神ハ 柔 和の 姿と 化していづ。 僧とふていわく、 「 汝ハ 何 者なるぞ。 」 彼 答て 云く、 「 我を 祥 白 童 子といふ。 汝ハ 何 者にして、 しょ うはく いずれ の 処より 来る。 」 僧の 云く、 「 汝を 化 度せんが た め、 ( 六 頁) はる グげ 此 地にむかふ。 汝、 速に 本 体をあ すみや か らわせ。 」 彼、 忽ち 二 丈 餘りのおそろしき 姿となる 。 僧 の 云く、 「 汝、 通 力 自 在にして、 よくもろ ぐげ の 形をあ らわす。 若、よ く 極 小の 形をあ らはし、 我 掌の 上にの もし らんや。 」 彼、 即 一 小 丸となりて、 僧の 掌にあり 。 杖を 以てこれをうてば、 砕て 十 粒となる 。 猶、 咒 願してい わく、 「 汝、 後、 来 人をなやます 事なかれ。 われ 、 汝を 化 度し 終る 」 と。 一 口に 是を 呑 玉ふ。 以 後、 今に 至て、 妖 魔の 障りなき の みならず、 駅 路 繁 栄の 一 境となる 。 お に 〈 野 州 素 麺 谷の 地 蔵の 遷 座〉 彼 野 州 素 麺( 七 頁) 谷の 尊 像もまた、 道 中 守 護のため 此 峠にうつら せ 玉ふ。この 地、いにしへの 難 事を 忘れ ざる がため、 十 団 子をこしらへ、 又 遠く 野 州をしたふ て、 家々 皆 素 麺をうる。 実に、 菩 薩 廣 大の 慈 悲 力、 万 世 不 朽の 碑 銘なり 。 ま た、 夢 想の 告あり。 い わく、 「 十 しょ うこ 団 子を 以て 我 前にそ な へ 、 信 心 堅 固にして 是を 喰ひ、 これ を 所 持せば、 道 中 安 全、 諸 事 意のごとくなら しめ む 」 と。 〈 飛 騨 甚 五 郎の 厨 子 寄 進〉 其 後、 当 御 代にいたり、 府 中におゐて 浅 間 両 社 御 懇 請 あり。 宮 殿 御 建 立のみぎ り 、 飛 騨の 住 人、 工 匠( 八 頁) 甚 五 郎なるものをめして 棟 梁の 職となし 玉ふ。 甚 五 郎、 その 大 任を 蒙り、 首 尾 成 就の 冥 助をい のるがため に 、 厨 子 一 宇を 作り、これ を 寄 附す。 今 猶あり。その 霊 験 のごとき ハ、 雨をいの れ ば 雨 忽ちくだ り 、 晴をねがへ ば 天 忽ち 晴れ、 疫 病をのぞき、 難 産をすくひ、 盗 難 火 災をふせぎ、 旅 人をまも ら せ 玉ふ 事、 数ふるにいとま

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─ ─ 駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) なし。 今ハ 只 略してこれをしる す のみ。 二 栃 木 県の 「 素 麺 地 蔵」 伝 説 慶 竜 寺の 「 略 縁 起」 に 記され た 「 野 州 素 麺 谷の 地 蔵 伝 説」 とほぼ 同じ 内 容の 伝 説が、 下 野 国、す なわち 現 在の 栃 木 県 に 残され て い る。 た だ し 、 主 人 公の 地 蔵は 「 宇 津( 都) の 宮の 山 奥」 ではなく 同 県 塩 谷 郡 氏 家 町のもの で あり、 素 麺 谷の 地 蔵 伝 説は、そ こ か ら 鬼 怒 川 沿いに 西へ 約 三〇キ ロ 離 れた 日 光 山 中を 舞 台としている。 氏 家 町は、 宇 都 宮 市の 北 約 一 五キロに 位 置する 。JR 氏 家 駅から 南へ 約 二キロ、 勝 山 城 跡に 程 近い 堂 原 地 蔵 堂にこ どうっぱら の 地 蔵は 祀られ ている ( 図5、 図6 ) 。 こ の 辺りもかつ ては 上 人 坂によ っ て 往 古の 氏 家 村の 境 界であ った と 考えられ て おり 、 境 神とし て の 地 蔵 祀られ る に ふ さ わ し い 場 所で ある ( ) 。しかし、 享 保 八 年( 一 七 二 三) 以 前に 成 立した 『 氏 家 記 録 伝』 が 伝える この 地 蔵の 由 来は、 境 神としての 性 格 からは 大いに 異なっ てい る ( ) 。 それ によれ ば 、 天 喜 五 年( 一〇 五 七) 、 源 頼 義が 奥 州の 阿 倍 頼 時を 討った 際にこの 地に 勝 軍 地 蔵を 祀り、 併せて 七 堂 伽 藍を 建 立したという。その 後、 康 平 五 年( 一〇 六 二) に 阿 倍 貞 任、 宗 任 兄 弟が 反 乱を 起こしたため、 頼 義の 子、 源 義 家が 鎮 圧に 赴いた。ところ が、 義 家 軍が 現 在の 河 内 郡 河 内 町に 達して 鬼 怒 川を 渡ろうとす ると、 魑 魅 魍 魎が 現れて 風 雨を 起こし、 川を 反 乱させた。そのため、 義 家は 同 行し ていた 比 叡 山の 僧、 宗 円に 命じて 祈 祷 行わせ たと ころ 、 河 原の 中に 勝 軍 地 蔵が 忽 然と 姿を 現して 魔 神 達を 退 散させ た。そこで、 戦 勝の 後、 義 家は 父、 頼 義が 開 創した 寺を 再 興し、 新たに 不 動 堂を 建 立して 宗 円に 治 国 平 天 下と 逆 徒 調 伏を 祈 願させ た 。 そ れ 故、 同 寺を 「 将 軍 山 地 蔵 院 満 願 寺」 と 名 付け、 宗 円を 同 寺の 中 興 開 山にしたという。なお、 宗 円は 後に 還 俗し、 一 六 世 紀まで この 地を 治めた 宇 都 宮 氏の 始 祖になったと 伝えられ て いる。 ところ が 、 延 宝 四 年( 一 六 七 六) に 大 金 重 貞が 著した 『 那 須 記』 の 巻 九「 氏 家 原 軍 附 地 蔵 縁 記 言」 には 、「 地 蔵 縁 記を 開テ 見に 」 として、これとは 異なる 由 来が 記され て い る。 それ によれ ば 、 後 光 厳 院の 時 代に 太 宰 府から 下 野 国に 左 遷 され た 氏 家 周 綱が、 勝 山 城を 築いて 満 願 寺を 建 立した。そ の 頃、この 寺にいた 僧が 日 夜 勝 軍 地 蔵の 法を 修 願している

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駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) ─ ─ 図5 氏家の勝軍地蔵 (ミュージアム氏家編・発行 『勝山城──氏家氏栄光の時代──』より転載) 図6 氏家町堂原地蔵堂

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─ ─ 駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) と、ある 時 海 神が 現れて 、 五 衰の 苦を 取り 除くことをこの 僧に 求めた。 そ こで、 僧が 大 乗 妙 典の 法 施を 行うと、 翌 朝、 鬼 怒 川にて 波 間に 漂う 勝 軍 地 蔵の 石 像を 授かっ た。 延 文 二 年( 一 三 五 七) 四 月、 僧は 伽 藍を 建 立してこの 地 蔵を 祀り、 同 寺を 「 将 軍 山 竜 宝 寺」 と 名 付けた とい う ( ) 。 この 二つの 地 蔵 縁 起の 中で、とり わ け 前 者のそ れは 氏 家 の 地 蔵を 源 氏の 棟 梁や 宇 都 宮 氏の 始 祖と 結び 付けて 権 威づ けようとする 作 為 性を 感じさせる。しかし、いずれの 縁 起 譚においても、この 地 蔵が 勝 軍 地 蔵とさ れている こと は 同 じで あ る 。 ま た 、『 那 須 記』 が 「 抑 此 菩 薩ノ 垂 跡 愛 宕 大 権 現 ト 云、 日 羅 乃 霊 也 ( ) 」 と 記し、 『 氏 家 記 録 伝』 もこの 勝 軍 地 蔵 が 「 或 時は 垂 跡 将 軍 愛 宕として 悪 事 災 難 魔 軍を 破 脚し、 叛 逆 無 道 之 族を 亡し ( ) 」 と 述べている ように、この 地 蔵の 垂 迹 が 愛 宕 権 現であ る こ と で も 両 書の 記 載は 一 致している。 ちなみに、 満 願 寺はそ の 後 盛 衰を 繰り 返したが、 天 正 元 年( 一 五 七 三) に 兵 火にかかっ て 全 焼する と、そ れ 以 後は 堂 原 地 蔵 堂として 存 続した。 現 在の 地 蔵 堂は、 元 禄 年 間( 一 六 八 八 - 一 七〇 四) に 宇 都 宮 城 主 阿 部 対 馬 守によ っ て 建 立 され た も ので あ る 。 ま た 、 勝 軍 地 蔵は 六〇 年 毎に 開 帳され る 秘 仏とさ れており ( ) 、 地 蔵 堂の 前に、 秘 仏の 尊 像を 模した とさ れる 地 蔵の 石 像が 祀られている。 さて、この 勝 軍 地 蔵には 様々な 奇 跡 譚が 伝えられ て いる が、その 中の 一つが 素 麺 谷の 地 蔵 伝 説、す なわち 「 素 麺 地 蔵」 伝 説であ る 。 この 説 話は 『 那 須 記』( 一 六 七 六 成 立) に 記され ると と も に、 『 下 野 風 土 記』( 一 六 八 八 成 立) や 『 氏 家 記 録 伝』( 一 七 二 三 以 前 成 立) にも 収 載され た。 それ ら の 内 容には 多 少の 相 違があ る け れども ( ) 、ここでは 『 氏 家 記 録 伝』 の 中で 「 地 蔵 堂 炎 焼 建 立 並 奇 特ノ 事」 として 漢 文 調で 記され て い る 内 容を、 書き 下して 以 下に 示す ( ) 。 向に、 大 永 中( 一 五 二 一 - 一 五 二 八) 、 片 岡 氏と 青 谷 さき 氏の 建 立 以 来 五 十 余 年、 転た 繁 昌すと 雖も、 盛 者 必 衰、 うた 時なく、 至らずして 精 舎 終に 焚す。 元 亀 三 壬 亥 年( 一 五 七 二) 、 殿 下 平らぎ、 信 長 公 之 代、 勝 山 城 主 氏 家 中 務 ( マ マ ) 佐と 道 城 宿 飛 山 城 主 平 石 能 登 守、 嫡 男 佐 渡 入 道 道 連、 意を 合わせて 建 立して 故の 如し。 同 年 四 月 下 旬、 開 眼 もと 入 佛を 為し 奉り 了ぬ。 同 年 六 月 下 旬 頃、[ 氏 家] 中 務 佐、 地 蔵 院 之 弟 子に 託して 曰く、 「 我 焉にあり 。 即ち、 ここ 日 光 三 社 権 現に 参 詣し、 宿 願して 姑く 当 山に 代わる べ しば ら

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駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) ─ ─ し 」 と。 弟 子は 命を 冠し、 乃ち 中 品、 下 品、 饒 堂に 参 詣して、 瀧 尾の 別 所に 至りて、 飯に 飢す。 素 麺を 乞う。 然る 所、 衆の 強 力 山 僧、 左 右に 並び、 嘲 弄して 将に 食 しか を 用いて 之を 責 害せん とす 。 已に 顔 色 顕る( 死 亡した ( ) ) 。 懸に 地 蔵 菩 薩、 彼 等の 業 障に 哀れみ、 齢 四、 五 之 化 はる か したる 沙 弥に 現じ、 別 所に 至りて、 同じく 素 麺を 乞う。 諸の 強 僧 等、 之を 食 責に 為さん と 欲し、 即ち 膳を 調え、 化したる 沙 弥の 前に 居る。 厥の 時、 強 僧は 捜して 捜し そ て 誣ると 雖も、 更に 飽くことなく、 満 山 之 素 麺を 期し しい て 健り 尽くす。 化したる 沙 弥 之 腹、 未だ 満たず と 言う。 むさ ぼ 衆 僧 等、 今、 之に 驚 懼し、 合 掌して 言わく、 「 真に 高 僧 なり 。 常 人に 非ず。 凡 人、 何 如に、 斯の 如く 能くせ ん よ か 」 と。 爾 時に、 化したる 沙 弥、 面 光 赫 然として 強 僧 等に 告げて 言わく、 「 汝 等、 向に 戯 弄して 人を 害せん と 欲す。 其の 業 報、 免れざる 所。 我、 汝 等を 衰( 哀) れ む 故に、 此に 現ず。 已 往( 後) 、 此の 如き 罪を 止めよ。 吾は 是、 氏 家の 地 蔵なり 」 と。 消える 如く 失せたり。 然る 所、 樵 夫 来て 告げて 曰く、 「 是より 西 方、 素 麺にて き こ り 一 谷を 満たす 」 と。 大 衆 聆て 之を 怪しみ、 即ち 行きて きき 見るに、 違うことなし。 寔に 此 尊の 妙 応、 勝て 計るに まこ と 不 逞の 者なり 。 信 仰すべし、 帰 休( 依) すべし。 元 亀 三 壬 亥 年( 一 五 七 二) 秋 七 月 吉 日 地 蔵 院 住 僧 栄 愼 謹みて 記す。 この 出 来 事が 起こっ た 年 代を、 上 記の 『 氏 家 記 録 伝』 は 元 亀 三 年( 一 五 七 二) 六 月とし て い る の に 対して、 『 那 須 記』 は 後 小 松 院 至 徳 二 年( 一 三 八 五) 五 月 下 旬えて いる ( ) 。『 下 野 風 土 記』 はそ の 年 代を 特 定していない。 一 方、 こ の 物 語の 舞 台について、 『 氏 家 記 録 伝』 は 「 瀧 尾 の 別 所」 と 明 記しているのに 対して、 『 那 須 記』 は 単に 日 光 山の 「 坊」 とし、 素 麺で 埋まった 谷を 「 西 谷」 とす るのみ であ る ( ) 。『 下 野 風 土 記』 はそ の 場 所を 「 日 光 別 所」 と 記し、 素 麺で 埋められ た 谷につ いては 、「 ソレヨリシテ 此 谷を 素 麺 谷ト 云、 滝 尾ヱ 行 道ニ 有 ( ) 」 と 述べていることから、 瀧 尾 権 現 社の 別 所を 想 定していることが 窺われ る。また、 享 保 一 三 年( 一 七 二 八) に 刊 行され た 『 日 光 名 跡 誌』 は、 瀧 尾 権 現 社の 「 御 別 所」 の 項 目の 末 尾に、 「 いにしへ 氏 家の 地 蔵 索 麺を 所 望してせめられし 所ハ 此 別 所なり 。 瀧の 向を 索 麺 谷 と 云ふなり 」 と 記している ( ) 。

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─ ─ 駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) ちなみに、 瀧 尾 権 現 社は 輪 王 寺や 東 照 宮の 建ち 並ぶ 場 所 から 一・ 五キロ 程 北 西の 山 中にある。 稲 荷 川に 沿って 石 畳 の 山 道を 上って 行くと、 途 中に 日 光 開 山の 勝 道 上 人の 廟 等 を 経て、 こ れ よ り 先は 聖 域とのこと で 「 大 小 便 禁 制の 碑」 が 現れる 。 更に 進むと 白 糸の 滝にたどり 着き、 滝の 右 側の 石 段を 登ったところ が 江 戸 時 代の 別 所 跡であ る 。 瀧 尾 権 現 社はそ の 奥に 位 置しており、 別 所から 権 現 社に 続く 道 筋の 西 側の 谷が 説 話の 伝える 「 素 麺 谷」 であ る ( ) ( 図7 ) 。 伝 承によれ ば 、 瀧 尾 権 現 社は 弘 仁 一 一 年( 八 二〇 ) に 空 海によ っ て 創 建され た。 そ の 時、 空 海はこの 地で 護 摩を 焚 いて 瀧 尾 権 現を 勧 請し、それ によって 天 女の 如き 姿の 霊 神 が 姿を 現したと 伝えられ て いる ( ) 。 瀧 尾 権 現 社は 日 光 三 所 権 現の 中の 田 心 姫 命を 祀っており 、 大 己 貴 命( 二 荒 山 権 現) た ご り ひ め の み こ と おおなむ ちのみこ と を 祀る 新 宮、 味 耜 高 彦 根 命( 太 郎 山 権 現) を 祀る 本 宮とと あじ す き た か ひ こ ねのみ こ と もに、 東 照 宮の 造 営 以 前、 言い 換えれ ば 江 戸 時 代 以 前の 日 光 山の 中 心をな し て い た 。 ま た 、 三 社 配 置からす れ ば、 瀧 尾 権 現 社は 最も 奥まったとこ ろ に 位 置する 。そ れだか ら こそ、 『 氏 家 記 録 伝』 において、 氏 家 満 願 寺の 僧は 瀧 尾 権 現 社に 最 後に 参 詣し、その 後に 同 権 現 社の 別 所で 食 事を 所 望 したことにさ れているので あろう。 三 素 麺 地 蔵」 伝 説と 日 光 山の 強 飯 式 瀧 尾 権 現 社で 生まれ た 「 素 麺 地 蔵」 伝 説は、その 後「 地 蔵 責」 、 あ る い は 「 日 光 責」 の 言 葉を 生み、 日 光 山に 伝わる 強 飯 式の 由 来になったと 言われ ている。 例えば、 一 九 世 紀 ごうはん の 前 半に 編 纂され た 『 日 光 山 志』 の 「 強 飯」 の 項には 、「 む かし 滝 尾へ 地 蔵 変じ 来り、 索 麺を 乞ひけ るゆゑ、 地 蔵を 責 めしよ り 始まれ りと もいふ 」 と 記され て い る ( ) 。 この 強 飯 式は 文 字 通り 「 飯を 強いる 」 儀 式であ り 、 山 伏 姿の 強 飯 僧が 大 椀にうず 高く 盛られた 三 升の 飯を 頂 戴 人に 渡し、 傲 慢なる 態 度で 「 七 五 杯 一 粒 残さず 食べろ 」 と 強 要 する 。 江 戸 時 代 以 後は 形 式 化され 、 輪 王 寺 法 親 王や 徳 川 歴 代 将 軍、ある い は 諸 大 名に 対しても 行われ た。 今 日では 四 月 二 日に 輪 王 寺 三 仏 堂で 行われ ているが 、 古くは 日 光 山 内 の 各 別 所で、 毎 年 正 月の 他、 適 宜 営まれ たと 伝えられ て い る。 のみ ならず 、 日 光では 各 町 屋においても 祝いの 席で 行 われ て い た よ うで あり、 『 日 光 名 跡 誌』 の 中の 瀧 尾 権 現 社 「 御 別 所」 の 項には 次のよ う に 記され て い る。

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駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) ─ ─ 図7 『日光山志』巻2所載の「瀧尾権現社」図(部分) (須原屋伊八板元、天保8年〈1837〉刊、静岡県立図書館蔵) 図の中央に別所が描かれている。また、階段の左側に あるのが白糸の滝であり、その奥が「素麺谷」である。

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─ ─ 駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) 此 所にて 日 光 責とて 食 物を 望む 者あれ ば 、 其 食 物を 与 へ 強 責る 事あり。かる が ゆへに 捻 棒などの 責 道 具あま ねじ ぼ う た 壁にかかれ り。 又 大きせるなどもあり 。 惣じて 別 所 ぐげ ハいふに 及ばず 、 坊 中 町 方にても 此 事あり。 他 所 より 来りて、は じめて 年をとる 人ハ 勿 論、さなくても 御 宮 御 霊 屋 御 代 参の 大 名 衆、 大せつ の 来 客へハ 馳 走の ため 飯を 強る 事 古 例なり。また 日 光の 地にて 養 子、 婚 礼、 新 宅 等の 祝 儀 事にハかならず 日 光 責を 行ふ。 是 此 所、 故ある 事にて 其 人のため 甚 祈 となるなり ( ) 。 はな はだ この 一 節から も 窺われ るよ う に 、 強 飯 式は 古 来 縁 起のよ い 行 事として 行われ てきた。 今 日でも 、 強 飯を 頂 戴した 者 は 「 七 難 即 滅、 七 福 即 生、 四 魔 退 散、 家 運 長 久」 の 利 益に あず か る と さ れ て お り 、 儀 式の 最 後に 毘 沙 門 天の 金 甲( 兜) と 称する 注 連( しめ 縄) を 頭 上に 与えられ る 。また、その 由 来に 関しても、 近 年では 山 岳 修 行の 行 者が 山 中の 行 場の 本 尊に 供えた 御 供を 持ち 帰り、 それ を 里の 人々に 分かち 与 えたことから 始まったと 説かれ ており、これは 神 人 共 食の 儀 礼であ る と 説 明され て い る。 そ の 上で、 「 往 時、 こ の 式が 主として 瀧 尾 権 現にて 行われ たこと も 、 瀧 尾が 囘 峯 行の 大 宿とな つていたこ と を 思い 合せる 時、ま たむ べな る か な、 と 感ぜられ る 」 とも 論じら れ て い る ので あ る ( ) 。 ところ が 、このような 解 説では、 強 飯 式が 吉 祥をも た ら すことの 説 明には なっ て も 、 大 量の 「 飯を 強いる 」 ことの 説 明には なら ない。 そ こで 、 こ の 問 題をめぐっては、 江 戸 時 代から 幾つかの 説が 唱えられ て きた。 藤 井 萬 喜 太 氏はそ うした 見 解を 以 下の よ うにまとめている 。 山 崎 美 成、 植 田 孟 縉、 成 島 司 直 等 は 神 秘 的 の 行 事 と し て 山 僧 の 言 に 迎 合 し て ゐ る が、 藤 井 懶 齋 は 日 光 權 現 の 前 身 は、 山 麓 の 貧 し い 獵 師 で あ つ た と 云 ふ、 日 光 山 古 縁 起 の 説 を 採 つ て 來、 寒 食 の 故 事 に 及 び、 痛 烈 に 嘲 つ て ゐ る。 貝 原 益 軒 と 柏 崎 永 以 は 簡 單 に 東 陲 民 俗 の 誇 張 と 見 て ゐ る の は 妥 當 で あ ら う ( ) 。 藤 井 氏が 妥 当だとみなした 貝 原 益 軒の 説とは 、 強 飯は「 皆 これ 邊 境の 古 風、 お のづから 有し 事なり 、 何の 故といふ 事 もなし ( ) 」 というもの で あり 、 柏 崎 永 以の 説は、 「 日 本にて 古 は、 賓 客に 飯を 専らし ひる 事を、 礼 儀とせる と 見えたり。 今も 遠 国 辺 土の 民 間には 、 殊に 食 事を 強る 事あり ( ) 」 という もので あ る。そして 藤 井 氏 自 身も、 「 この 日 光 責の 行 事は、

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駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) ─ ─ 神 事 法 要ではなく、 嘉 例 古 實とは 稱する も の ゝ、 實は 民 間 風 俗を 誇 張したもので あ った ( ) 」 と 論じている。 そこで 、 古くから 強 飯 式の 由 来とさ れて きた 「 素 麺 地 蔵」 の 伝 説を 改めて 振り 返って みたい 。『 氏 家 記 録 伝』 の 中で、 地 蔵は 別 所の 山 僧 達に 対して 「 汝 等、 向に 戯 弄して 人を 害 せん と 欲す。 其の 業 報、 免れざる 所。… … 已 往( 後) 、 此の 如き 罪を 止めよ 」 と 語っていた。 ま た、 『 那 須 記』 の 伝える 説 話では、 地 蔵は 満 願 寺の 僧が 別 所の 僧 達に 殺され た こ と に 「 怒て 」 別 所に 現れ、 「 沙 弥( 地 蔵) の 偉 碩、 喰を 為して 還って 悪 僧を 責めて 曰く、 我は 氏 家の 勝 軍 地 蔵なり 。 寺の 聖を 責め 亡され 、 太だ 怨 敵を 取るべし ( ) 」 と 述べている。 『 下 はな は 野 風 土 記』 でも 、 地 蔵は 「 所ノモノノ 殺サレ シ 事ヲ 無 念ニ 思ヒ 」 別 所に 赴き、 「 僧( 地 蔵) ハ 氏 家ノ 意 趣ヲトケ テ 帰リ ケル ( ) 」 と 記され て い る。 これ ら の 記 述からは 、 別 所の 僧 達 の 所 業は 単に 人を 苦しめる 悪 業とみなさ れ て いる ように 思 われ る。 ところ が 、『 氏 家 記 録 伝』 を 注 意 深く 読み 解くと、 そ の 中 には 他の 二 書と 異なる 点があ る こ とに 気づく。すな わ ち、 後 者が 地 蔵の 所 業を 単なる 意 趣 返しとして 扱っている のに 対して、 『 氏 家 記 録 伝』 の 中で、 地 蔵は 「 汝 等( 山 僧 達) を 衰( 哀) れむ 故に 」 別 所に 現れ、 僧 達に 対して 悪 業を 止め るべく 説 得しているの で ある。 さら に 『 氏 家 記 録 伝』 では、 別 所の 僧 達が 素 麺を 食べ 尽 くした 沙 弥( 地 蔵) に 対して 合 掌し、 「 真に 高 僧なり 。 常 人 に 非ず。 凡 人 何 如に、 能くせ ん か 」 と 語って いる ( ) 。つま り 、 僧 達はあ らゆる も の を 食い 尽くす 能 力のあ る 者を、 特 別な 験 力をも つ 者として 尊 崇しているの で ある。 そうだとすれ ば、 多 量の 食 事を 食べ 尽くすことは 、 この 験 力を 身につけ る 修 行の 一 環とみなさ れ て いたのかもしれ な い。 それだからこそ、 現 在も 強 飯 式を 無 事に 済ませた 者は、 この 験 力を 手に 入れた 者として 「 七 難 即 滅、 七 福 即 生」 等 の 利 益を 約 束され 、 毘 沙 門 天の 金 甲を 授かるの で はないだ ろうか。 こ の よ う に 考えれ ば、 「 飯を 強いる 」 行 為には 、 単 なる 悪 行とは 異なる 宗 教 的な 意 味が 込められ て いると 言う ことも で きる。ただし 別 所の 僧 達は、この ような 修 行を 望 まない 者にまで 素 麺を 無 理 強いした 点に 問 題があ る 。『 氏 家 記 録 伝』 において 地 蔵が 叱 責したのは、まさにこの 点だと 思われ るので あ る。

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─ ─ 駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) ちなみに、 強 飯 式がい つ 頃から 始められ た のかは 定かで ない。 栃 木 県 下には 日 光 山の 影 響で 他にも 幾つかの 強 飯 式 が 伝えられ て いるが 、 上 都 賀 郡 粟 野 町 発 光 路の 強 飯 式は 延 ほっ こう じ 文 年 間( 一 三 五 六 - 一 三 六 一) に 初めて 行われ たと 言われ ている ( ) 。もしもこの 伝 承が 確かで あれ ば、 日 光 山の 強 飯 式 の 始まり は、 日 光 修 験の 成 立と 同じく 鎌 倉 時 代 末 頃まで さ かのぼる 可 能 性があ る ( ) 。 そ う だ と す れ ば 、「 素 麺 地 蔵」 の 伝 説をめぐって 『 那 須 記』 が 伝える 至 徳 二 年( 一 三 八 五) と いう 年 代は、 強 飯 式の 発 祥と 伝 説の 成 立との 関 連をさ らに 印 象づけ るもので ある。 ただし、 強 飯 式は 「 素 麺 地 蔵」 の 伝 説がも とに な っ て 始 まったのでは なく、むしろ 日 光 山で 強 飯 式が 行われ ていた が 故に、 「 素 麺 地 蔵」 の 伝 説が 生まれ たと も 考えられ る 。 あ るいは、 瀧 尾 権 現 社の 周 囲でし ばし ば 発 生した 洪 水を 素 麺 に 仮 託して ( ) 、そ れを 強 飯 式と 結び 付ける こ と でこの 伝 説が 生み 出さ れ たのかもしれ ない。いずれ にせよ、この 伝 説の 成 立 年 代も 検 討の 余 地を 含んで いると 言うことができるの であ る ( ) 。 四 宇 津ノ 谷 峠の 「 素 麺 地 蔵」 伝 説 さて、ここで 議 論を 宇 津ノ 谷 峠に 戻すことにし よ う。 先 にも 述べたように、 宇 津ノ 谷 峠の 「 素 麺 地 蔵」 伝 説は、 日 光 山にお け る そ れ とよく 似た 内 容をも っている 。その 一 方 で、 細かい 部 分では 両 者の 間に 相 違 点があ る こ とも 事 実で ある。 こ れらの 相 違 点を 分 析する こ と で、 宇 津ノ 谷 峠の 「 素 麺 地 蔵」 伝 説の 意 味が 浮かび 上がってくると 思われ るので ある。ここでは 五つの 点に 着 目したい。 第 一は、 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵が 弘 法 大 師の 自 作とさ れてい る 点であ る 。 地 蔵 像が 弘 法 大 師の 作と 伝えられ る 例は 全 国 各 地に 存 在する 。そ れ 故、 通 常であ れば この こ と を 特に 問 題 視する 必 要はない。しかし、ここで 語られている 説 話が 日 光 山の 「 素 麺 地 蔵」 伝 説だということになると、この 伝 承はに わ か に 重 要な 意 味を 帯びてくる。 と 言うの も 、「 素 麺 地 蔵」 伝 説の 舞 台とな ったの は 日 光 山の 瀧 尾 権 現 社の 別 所 であ った 。そ し て 、 こ の 瀧 尾 権 現 社は、 空 海が 弘 仁 一 一 年 に 自ら 勧 請した 霊 神を 祀るために 開 創したと 伝えられ て い る。つ ま り、 二つの 伝 承の 年 代に 若 干の 誤 差があ る と は 言 え、 空 海によ る 瀧 尾 権 現の 勧 請と 鎮 座を 地 蔵 像の 作 成と 安

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駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) ─ ─ 置に 置き 換える こと で、 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 縁 起に 即した 物 語の 改 変が 行われ ること に なるので ある。しか も 、 そ れは 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵と 日 光 山との 関 連を 示 唆する 役 割をも 担 うの である 。 第 二は、 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵が 垂 迹 愛 宕 権 現とともに 出 現 して い る 点であ る 。 こ の 点は 日 光 山にお け る 「 素 麺 地 蔵」 伝 説とは 明らかに 異なる。けれども、ここでは 愛 宕 権 現が 地 蔵の 垂 迹とし て 現れたこと が 重 要であ る 。 と 言うの も、 日 光 山で 「 素 麺 地 蔵」 の 伝 説を 生んだ 氏 家の 地 蔵は、 愛 宕 権 現を 垂 迹とす る 勝 軍 地 蔵であ った 。 つ まり 、 こ の こ と は 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵が 氏 家の 地 蔵に 他なら ないことを 示して いるの で ある 第 三は、 「 素 麺 地 蔵」 伝 説が 生まれ た 背 景であ る 。 日 光 山 にお け る 素 麺の 食 責めは 、 瀧 尾 権 現 社の 山 僧 達が 単に 人々 を 苦しめるために 行っていたもの である 。 ある い は 、そ れ は 先に 考 察したように、 本 来であ れば 特 別な 験 力を 獲 得す る 修 行の 一 環として 行われ ていたものかもしれ な い。 一 方、 宇 津ノ 谷 峠のそ れは、 「 欲 心 深」 い 「 野 州 宇 津( 都) の 宮の 山 奥」 の 人々が 、「 多く 椀 数をな らべ、 理 不 仁に 價をとる 」 ことを 目 的としており 、「 実に 人をお ひお とすにひとし 」 い 行 為で あ った。 こ れは、 物 語の 重 大な 改 変であ る 。 し か も 、 それ は 宇 津ノ 谷 峠に 日 光 山の 地 蔵が 出 現する 理 由 付けに も なっ てい る。と 言うのも、 慶 竜 寺の 「 略 縁 起」 の 中で 「 素 麺 地 蔵」 伝 説に 続く 「 食 人 鬼」 伝 説は、 後 述するよ う に 、 おそらくは 宇 津ノ 谷 峠でし ばし ば 出 没したで あ ろう 追 剥や 強 盗をモデルにしていると 考えられ る 。 そ の 追 剥や 強 盗と 同じ 所 業を 行う 人々を 懲らしめる ために 地 蔵は 登 場する 。 つまり 、「 素 麺 地 蔵」 伝 説のも つ 意 味が、 日 光 山で 語られた ような 意 趣 返しでは な く、 山 中を 通 行する 人々の 安 全 保 証、 もしくは 勧 善 懲 悪の 物 語へと 改 変され て い るので あ る。 そして、この 点を 裏 付ける の が 第 四の 点であ る 。 すな わ ち、 慶 竜 寺の 「 略 縁 起」 では、 素 麺を 売り 付けて い た 人々 が 地 蔵に 対して 自らの 「 過を 謝」 すとともに、 地 蔵はこの あや まち 者 達に 対して 明 確な 形で 勧 善 懲 悪の 説 教を 行っている 。こ の 点は、 『 那 須 記』 や 『 下 野 風 土 記』 とは 異なる けれども、 『 氏 家 記 録 伝』 とは 共 通する 要 素であ る 。 第 五に 指 摘すべき 点は、 「 素 麺 地 蔵」 伝 説の 舞 台を 日 光 山 とせ ずに、 「 野 州 宇 津( 都) の 宮の 山 奥」 とのみ 記している

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─ ─ 駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) 点であ る 。 お そ ら く 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 縁 起に 「 素 麺 地 蔵」 伝 説を 取り 入れた 人々は 、こ の 物 語の 舞 台が 日 光 山であ る ことを 知っていた であろ う 。この こ と は 、 伝 承の 細 部で 改 変が 施され て い るとは 言え、 物 語の 大 筋においては 日 光 山 の 伝 説を 忠 実に 継 承していること、さ らに は、 日 光 山にお いて 素 麺で 埋め 尽くさ れ た 谷を 「 素 麺 谷」 と 呼 風 習が、 「 略 縁 起」 の 中に 明 記されてい るこ と か らも 明らかであ ろ う 。 それ に も 関わらず、ここで 「 日 光 山」 の 名 前を 明 示しな かっ たのは 何 故なのか。まず 思いつ く の は 「 宇 津ノ 谷」 と 「 宇 津( 都) の 宮」 の 地 名の 類 似にも と づ く 語 呂 合わせ で ある ( ) 。しかし、 慶 竜 寺の 「 略 縁 起」 が 江 戸 時 代の 成 立であ ること に 注 目すれば、むしろ 江 戸 幕 府に 対する 遠 慮であ っ たと 考える 方が 妥 当ではないだろうか。すなわち、 宇 津ノ 谷 峠の 「 素 麺 地 蔵」 伝 説は 追 剥や 強 盗の 退 治を 主 眼とす る もので あ る。 東 照 大 権 現の 鎮 座する 幕 府 直 轄 領たる 日 光を、 追 剥、 強 盗に 等しい 所 業の 舞 台とす ることへの 遠 慮が、 「 日 光 山」 の 代わり に 「 野 州 宇 津( 都) の 宮の 山 奥」 という 表 記を 用いさせたのだと 思われ るので あ る。 では、 日 光 山の 「 素 麺 地 蔵」 伝 説を、 宇 津ノ 谷 峠に 伝え たの はどの よ うな 人だっ たので あ ろうか。 明 確な 根 拠があ るわけでは ないが 、 一つの 可 能 性として、 日 光 山に 関わり のある 修 験 者 達をその 伝 播 者として 挙げることができるだ ろう。 古 代 末 期から 中 世にかけ て 、 地 蔵 信 仰が 急 速に 全 国 各 地に 普 及していく 過 程で、 修 験 者が 大きな 役 割を 果たし た 可 能 性を 田 中 久 雄 氏が 指 摘している ( ) 。 ま た 、 宝 永 七 年( 一 七 一〇 ) 頃に 成 立した 『 三 山 雅 集』 には 、 羽 黒 修 験で 名 高 い 羽 黒 山の 中 台 滝に 「 素 麺 不 動」 の 伝 説があ る こ と が 記さ れており 、「 かかる 奇 特も 有りけ る 事、 氏 家の 素 麺 地 蔵など 云へる にお なじ き 霊 験にこそ 」 と 述べられ て いる ( ) 。ちな み に、 無 住 国 師が 著した 『 沙 石 集』 巻 二の 中で、 地 蔵と 不 動 はそ れぞ れ 大 日 如 来 柔 軟と 強 剛の 方 便だと さ れ てお り ( ) 、 両 者を 一 体の 存 在とみ なす 信 仰が 存 在したこ と が 窺われ る。 したがって、 日 光 山と 羽 黒 山で 等しく 素 麺にまつわ る 地 蔵 と 不 動の 伝 説が 存 在し、 日 光 山のそ れが 羽 黒 山で 知られて いたということは、 修 験 者 達によ っ て 「 素 麺 地 蔵」 伝 説が 他の 地 方に 伝 播され て い た こ と の 一つの 例 証となり 得るで あろう ( ) 。 さら に、 宇 津ノ 谷 峠の 西 側、 岡 部 宿の 南には 、 宇 津ノ 谷

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駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) ─ ─ 峠から 峰 続きの 高 草 山があ り 、 そ の 頂には かつ て 真 言 宗 十 楽 院という 修 験 道に 関わり のある 寺 院が 存 在したと 言われ ている。 同 寺は 既に 天 正 年 間( 一 五 七 三 - 一 五 九 二) には 荒 廃したとさ れている が ( ) 、 宇 津ノ 谷 峠と 修 験 者との つな が りを 想 起させるには 十 分な 存 在であ る 。 の み な ら ず、 東 海 道 上に 位 置する 宇 津ノ 谷 峠は 様々な 人々が 往 来した。その 中に、 日 光 山に 関 係する 修 験 者が 含まれ ていたとしても 何 らの 不 思 議もないので あ る ( ) 。 五 宇 津ノ 谷 峠の 「 食 人 鬼」 伝 説 慶 竜 寺の 「 略 縁 起」 は、 「 素 麺 地 蔵」 伝 説に 続いて 宇 津ノ 谷 峠の 「 食 人 鬼」 伝 説を 語っている 。その 舞 台とな ったの が、 現 在 岡 部 町 桂 島にある 曹 洞 宗 谷 川 山 梅 林 院であ る 。 ま ずは、 文 政 三 年( 一 八 二〇 ) に 桑 原 藤 泰が 編 纂した 『 駿 河 記』 の 中から 、「 谷 川 山 梅 林 院」 の 項に 記 録され て い る 同 寺 の 伝 承を 見てみよう。 以 下に、その 関 連 箇 所を 引 用する 。 当 寺 旧 天 台 宗にて、 今の 地より 谷 奥に 入こと 一 里 許。 界 巖 僧 以 来 禅に 転じ、 其 後 今の 地に 伽 藍を 移す。 伝 云、 往 古 天 台 宗の 時、 住 僧 某 寵 愛の 児あり。 此 児 同 宿の 児 が 生 血を 好み 吸ふ 事 屡なり 。 終に 鬼 童に 変じ、 寺 中の 僧 俗これ 為に 喰 殺され て 寺 院 退 転す。 又 此 鬼 童 近 郷に 災をなして 里 人を 悩せり 。 一 雲 水 僧 宇 津 谷にて 此 説を 聞き、 此 寺に 尋ね 来りて 一 宿す。 夜 更て 件の 鬼 童 既に 現して 敵せむと 欲す。 時に 彼 僧 密 印を 結び、 法を 修し 念 珠を 以て 鬼 童の 頭を 撃しかば、 鬼 絶 気して 斃ると 云。 斯て 其 後 伽 藍 再 興せしが 又 中 絶す、 仍 後 世 禅 曹 洞 宗に 転て 伽 藍 相 続す。 十 一 代の 祖にあたり 山 崩あり。 諸 堂 破 壊。 依て 今の 地に 易 地すと。 云々。 今の 世 宇 津の 谷 茶 店に 鬻ぐ 十 団 子は、 彼 念 珠の 遺 形なり と 云。 雲 水 僧 ひさ は 是 嶺に 坐す 地 蔵 菩 薩の 慈 悲の 応 化と 云 伝。 此 怪 談 昔 伊 賀 國にもかゝること 有しと 云ふ。 皆 里 俗 伝ふる 所 古 拙の 猥 談なり ( ) 。 この 記 録が 伝えている ように、 梅 林 院はも と 、 現 在 地か ら 東 側へ 二キロ 程 山 中に 入ったところにあったと 言われ て おり、その 場 所を 地 元では 「 会 下の 段」 と 呼んで いる。と え げ ん だ ん ころ が、この 場 所から 更に 東 側の、 尾 根をは さんだ 反 対 側 の 斜 面にも 「 会 下の 段」 と 呼ばれ る 場 所がある 。 そ れ 故、 梅 林 院の 正 確な 跡 地は 特 定され て い な い ( ) 。

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─ ─ 駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) また、 同 寺がい つ 頃の 草 創であ る か も 不 明だが 、 古くは 天 台 宗に 属していたことが 上 記の 記 録から 窺われ る。 さら に、 同 寺が 山 中に 位 置し、そこから 宇 津ノ 谷 峠を 経て 十 楽 院が 存 在した 高 草 山とも 尾 根 伝いに つな がっていることか ら、 往 時の 梅 林 院も 修 験 道との 関わり をも っていたことも 考えられ る 。しかし、この 寺は 後に 断 絶した。 同 寺が 曹 洞 宗 寺 院として 復 興され た の は 長 享 二 年( 一 四 八 八) のこと であ る 。 そ の 時の 開 山は 出 羽 国の 出 身で、 羽 黒 山で 修 行を 積んだ 後に 曹 洞 宗に 転じた 界 巖 繁 越とさ れている ( ) 。 つ ま り 、 天 台 宗の 梅 林 院が 途 絶したのは 一 五 世 紀 半ば 以 前のことで ある。そして、この 途 絶の 原 因とさ れているの が 、 食 人 鬼 と 化した 小 僧の 伝 説であ る 。 この 点は、 『 駿 河 記』 の 記 録と 慶 竜 寺の 「 略 縁 起」 が 等しく 伝える ところ で ある 。 この 食 人 鬼 伝 説のモデ ル を、 私は 宇 津ノ 谷 峠 頻 出し、 殺 生をも 厭わなかった 追 剥や 強 盗ではないかと 考える 。こ のよ う な 見 方は、 既に 天 保 六 年( 一 八 三 五) に 新 庄 道 雄が 『 駿 河 国 新 風 土 記』 の 中で 示しているもの で あ る ( ) 。 さ ら に 想 像をたくましくすれば、この 峠に 住み 着いた 強 盗 達が 梅 林 院を 襲い、 同 寺を 断 絶させたのかもしれ ない。 ところ で 、『 駿 河 記』 が 伝える 伝 説は、 「 是 嶺に 坐す 地 蔵 菩 薩の 慈 悲の 応 化」 であ る 一 雲 水が 食 人 鬼を 退 治したと 伝 えている けれども、 「 素 麺 地 蔵」 伝 説には 言 及していない。 また、 地 蔵は 食 人 鬼の 頭を 念 珠で 撃って 鬼を 退 治したと 述 べられ て おり、 慶 竜 寺の 「 略 縁 起」 が 伝える ように 、 地 蔵 が 鬼を 砕いて 飲み 込んだ こ と に は な っ て い ない 。そ して 、 この 相 違 点こそ が、 慶 竜 寺の 「 略 縁 起」 が 伝える 地 蔵 伝 説 の 特 徴であ り 、 峠に 祀られた 「 境 神」 としての 地 蔵の 性 格 に 関わる 箇 所であ る 。 慶 竜 寺の 「 略 縁 起」 は、 梅 林 院の 断 絶を 「 天 安 年 中( 八 五 七 - 八 五 九) の 事」 と 記している。けれ ど も、これは 明 らかに、 次に 登 場する 食 人 鬼 退 治が 「 貞 観 年 中( 八 五 九 - 八 七 七)」 であ る こ とを 前 提にし ている 。 し か も こ の 年 代 は、 伝 説の 中に 在 原 業 平( 八 二 五 - 八 八〇 ) を 登 場させる ために 設 定され た も ので あ る 。 さ ら に 、 伝 説 中にお け る 在 原 業 平の 登 場が 『 伊 勢 物 語』 の 影 響であ る こ と は 論を 俟た ない。 東 下りの 途 中の 業 平が、 「 略 縁 起」 の 中では 「 素 麺 地 蔵」 を 下 野 国から 勧 請する 役を 与えられ て いるので ある。 ともあ れ 、 宇 津ノ 谷 峠に 遊 歴の 僧の 姿で 現れた 「 素 麺 地

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駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) ─ ─ 蔵」 は 直ちに 食 人 鬼を 退 治した。この 場 面に 関して 留 意す べき 点が 二つあ る 。 第 一は、 地 蔵が 食 人 鬼をだまして 一 小 丸に 化けさ せ る と 、 そ の 小 丸を 杖で 砕いて 飲み 込んだこと であ る 。 こ れ に 似た 伝 説は 日 本 各 地に 伝えられ て いる。 例 えば、 「 三 枚の 護 符」 と 呼ばれ る 昔 話が 全 国 各 地に 残され て いる 。その 中の 一つの 類 型として、 小 僧が 三 枚の 護 符を 用 いな がら 食 人 鬼や 山 姥のもとから 逃れて きて 、 和 尚にかく まっ てもらうというものが ある。 和 尚は 追いかけ て きた 鬼 や 山 姥をだまして 豆や 味 噌に 化ける ように し む け 、そ れを 食べてしまう。この ような 説 話の 場 合、 豆や 味 噌に 化けた 鬼 等を 食べるの は 、 多くの 場 合、 小 僧ではなく 和 尚であ る ( ) 。 すなわ ち 、 修 行を 積んで 験 力をよ り 多 備えている 者が、 鬼 等を 食べる 役 割を 果たしているの で あ る。 しかし、 宇 津ノ 谷 峠の 説 話において、この 役 回りを 演じ ているのは 単なる 和 尚ではない。そ れは あ ら ゆるものを 食 い 尽くす 日 光 山の 「 素 麺 地 蔵」 であ り 、 愛 宕 権 現を 垂 迹と する 勝 軍 地 蔵であ る 。 宇 津ノ 谷 峠の 食 人 鬼を 退 治する た め には 、 そ れ だ け 強い 験 力の 持ち 主を 登 場させる 必 要があ っ たの で あ る。その 理 由は、この 伝 説の 舞 台とな ったの が 他 なら ぬ 宇 津ノ 谷 峠だという 点にある。すなわち、そこは あ の 世に 連なる 夢の 世 界と 現 実の 世 界との 境であ る 。 そ れ 故 に、 たとえ 食 人 鬼のモデルが 追 剥や 強 盗であ った と し て も 、 ひとたびその 伝 説が 生まれれ ば 、 人々は こ の 食 人 鬼をあ の 世に 通じた 存 在とみなし、 通 常の 力では 到 底 太 刀 打ちで き ない 相 手と 考える ようにな った であろ う 。しかも 、 食 人 鬼 が 存 在する 間、あ の 世とこの 世の 境において、 人々が ど ち らの 世 界に 属する か を 決 定する 権 利は 食 人 鬼に 握られてい る。 そうだとすれ ば、こ の 峠を 通 行する 人々は 、 当 然、あ の 世への 入 口が 塞がれ ることを 願った であろ う 。そ れ 故に こそ、 絶 対 的な 力で 「 境を 護る 神」 として、わざわざ 下 野 国から 「 素 麺 地 蔵」 が 勧 請され るこ と に なっ た の で あ る。 さて、 留 意すべき 第 二の 点は、 地 蔵が 食 人 鬼を 退 治する 際に、 「 汝を 化 度」 する と 語っている こと である 。 つまり 、 ここでは 単なる 鬼 退 治ではなく、 悪 業を 為す 鬼を、 正 道に 生まれ 変わら せよ うという 意 図が 込められ て いる。このよ うな 立 場は、 既に 『 氏 家 記 録 伝』 の 伝える 日 光 山の 「 素 麺 地 蔵」 伝 説にも 含まれ ていた。しかし、ここで 重 要なこと は、 飲み 込む 地 蔵が 特 別な 験 力をも っている ばかり で はな

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─ ─ 駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) く、 飲み 込まれ た 者も、 それ によっ て 生まれ 清まり を 果た すことができる 点であ る 。 し か も 、 そ の 舞 台とな ったの が 「 宇 津( ウツ ) ノ 谷」 、す なわち、そこに 籠る 者の 心 身を 浄 化させ、 生 命 力を 復 活させる 生まれ 清まり の 場 所であ る 。 それ 故、 地 蔵と 宇 津ノ 谷 峠はともに 同じ 機 能を 保 持してい ること に なる。 言い 換えれ ば、 宇 津ノ 谷 峠そのものが、 飲 み 込まれ た 者を 生まれ 清まら せる 地 蔵と 一 体 化され て い る と 言うことができるので あ る。 六 地 蔵の 遷 座と 十 団 子 慶 竜 寺の 「 略 縁 起」 によれ ば 、 食 人 鬼を 退 治した 後、「 彼 野 州 素 麺 谷の 尊 像もまた、 道 中 守 護のため 此 峠にうつら せ 玉ふ 」 と 伝えられ て いる。 そ れ 故に、 慶 竜 寺の 地 蔵は 弘 法 大 師の 作と 言われ ているので あ る。しかし、 日 光 山で 素 麺 を 食い 尽くした 地 蔵は、 今も 氏 家の 堂 原 地 蔵 堂に 祀られて いる 。 し た が って、 「 略 縁 起」 の 記 載に 従うな らば、 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵は 正 確には 氏 家の 地 蔵の 分 身と 言うべきもの で ある。 ともあ れ 、 峠に 祀られた 地 蔵はそ の 後も 道 中 安 全の 守 護 者とし て、 言い 換えれ ば、 あ の 世とこの 世の 境にお いて 、 あの 世への 入り 口を 塞ぐ 者として 往 来の 者 達を 守 護し 続け ること に なっ た。 同 時に、この 地 蔵は 宇 津ノ 谷 峠に 鎮 座す ることで 、 人々に 対して 生まれ 清まり の 舞 台を 提 供し 続け た。だ か ら こ そ、 飛 騨の 甚 五 郎は 浅 間 神 社 造 営に 当たり 、 この 地 蔵に 祈 願する こ と で 心 身を 清め、 棟 梁としての 生 命 力の 更 新をは かっ たので あ る。 さら に、 地 蔵の 「 霊 験のご ときハ、 雨をいの れ ば 雨 忽ちくだ り 、 晴をねがへば 天 忽ち 晴れ、 疫 病をのぞ き 、 難 産をす く ひ 、 盗 難 火 災をふ せぎ 、 旅 人をまも ら せ 玉ふ 事、 数ふるにいとまなし 」 と 称され た。 「 素 麺 地 蔵」 はあ らゆる も の を 食い 尽くす 特 別な 験 力の 持ち 主であ れば こそ 、 人々は こ の 地 蔵に 様々な 願い 事を 託した ので ある。 一 方、 地 蔵によ っ て 化 度され た 食 人 鬼は、 その 後どうなっ たで あろうか。 「 略 縁 起」 は、 食 人 鬼が 退 治され た 後、「 今 に 至て、 妖 魔の 障りなき の みならず、 駅 路 繁 栄の 一 境とな る 」 と 記している。すなわち、 鬼は 駅 路 衰 退の 元 凶から 一 転して 、 駅 路 繁 栄の 要 因とな った の で あ る 。 の み な らず、 一 小 丸に 化けて 地 蔵に 砕かれた 鬼は、 後に 十 団 子の 姿で 蘇っ

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駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) ─ ─ た。 そして、 「 これ を 所 持せば、 道 中 安 全、 諸 事 意のごとく なら しめむ 」 と 称され る 程の 縁 起 物として、 人々を 守 護す る 存 在となった。まさに、 食 人 鬼は 地 蔵の 験 力によ っ て 生 まれ 清まり を 果たしたの で あ る。 先に 引 用した 『 駿 河 記』 の 中で、 十 団 子は 食 人 鬼を 退 治 する 際に 地 蔵が 用いた 「 念 珠の 遺 形」 と 記され て い た。 し かし、これでは 単なる 鬼 退 治の 説 話にす ぎず 、 鬼の 生まれ 清まり は 成 立しない。 十 団 子を 化 度され た 鬼の 姿とみなす から こそ、 宇 津ノ 谷 峠は 生まれ 清まり の 場となり 、 地 蔵は それ を 促す 存 在として 霊 験を 保 証され るので あ る。 そ の 意 味で、 慶 竜 寺の 「 略 縁 起」 は 『 駿 河 記』 の 伝える 説 話より も 完 成 度の 高いものだと 言うことができる で あろう。 ところ で 、この 十 団 子につ いては 、 既に 連 歌 師の 宗 長が 『 宗 長 手 記』 の 大 永 四 年( 一 五 二 四) 六 月の 箇 所で 次のよ う に 記している。 十 六 日 府 中。 折 節 夕 立して 宇〔 津〕 の 山に 雨やとり。 此 茶 屋むかしより の 名 物 十たんこ と 云。 一 杓 子 十 ( 団 子 ) つゝ。かならすめらうなとにすくはせ 興して。 夜に 入 ( 女 郎 ) て 着 府 ( ) 。 この 記 録から 、 十 団 子が 一 六 世 紀 初 頭には 宇 津ノ 谷の 名 物として 売られていたことが 知られ る。また、 小 堀 遠 州が 元 和 七 年( 一 六 二 一) に 著した 『 辛 酉 記 行』 の 中にも、 十 団 子のことが 次のよ う に 記され て い る。 そこを 行 過てうつ の 山に 至りぬ。 此 里を 見れば。 白き 餅の 丸 雪のごとく 成を 器に 入て。 是めせと 云。とへば ( 召) とふ 団 子 迚 此 里の 名 物なり と 云。 扠はも ろ こ し よ り 渡 ( 十 ) とて さて ( 唐 ) りた る 餅にや あむ なるといふ。 さには あ らず。 十 宛 杓 によ りてとを 団 子とかたる。さ らばすくはせ よといへ ( 十 ) ば。あるじの 女 房 手づからいひかひとりて。 心のまゝ ( 飯 匙 ) にす くふ。 是に 慰て 暮にけ れ 共。うつの 山にかゝ る ( ) 。 この 記 述から も、 当 時、 十 団 子が 茶 店で 名 物として 売ら れており 、そ れを 店の 女 性 達が 手ずか らすくい 取って 客に 渡していたことが 窺われ る。 ところ が 、 林 羅 山が 元 和 二 年( 一 六 一 六) に 著わした 『 癸 未 紀 行』 には 「 餅 家 多 少ノ 団、 粒々 細 糸 貫ク、 山 裏 若シ 暦 も 無ハ、 斯ヲ 以 十 干ヲ 算ン 」 と 詠まれ ており ( ) 、 浅 井 了 意が 万 かぞ え 治 三 年( 一 六 六〇 ) 頃に 著わし た 『 東 海 道 名 所 記』 にも 、 「 坂のあ がり 口に、 茅 屋 四 五 十 家あり。 家ごとに、 十 団 子を

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─ ─ 駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) うる 。 其 大さ、 赤 小 豆バか りにして。 麻の 緒につ なぎ。 い あ ず き にしヘハ、 十 粒を 一 連にしけ る 故に。 十 団 子といふな らし 」 と 述べられ て いる ( ) 。こうした 種々の 記 録にもとづいて、 鈴 木 覚 馬 氏は 「 十 團 子につ き て は 、 種 種 説をな すものあり 。 曰、 一 説、 此 頃は、 昔の 如く 掬ひて 商ふものあり 、 又、 絲 に 貫きて 商ふものもあり し が 、 漸く 掬ふは 廢し、 絲に 貫く こと 用ゐられ て 、 寛 永( 一 六 二 四 - 一 六 四 四) 頃より 、 全 く 絲に 貫くこととなりしと 見ゆ ( ) 」 と 解 説している。 ただし、こうしたいずれの 記 録によ っ て み て も、 十 団 子 が 先にあり 、 後から 地 蔵 伝 説が 付け 加えられ た のか、それ とも 始めに 地 蔵 伝 説があ り 、 後から 十 団 子が 生まれ たのか は 定かで ない。 ま た、 十 団 子の 「 十」 という 数の 由 来もは っ きり と は わか らな い 。 地 蔵の 功 徳を 説く 「 十 輪 経」 や、 地 蔵と 同 一 視され た 閻 魔を 含む 「 十 王 伝 説」 との 関わり が 指 摘され て い る 程 度であ る ( ) 。ある い は、か つ て 岡 部 宿に 存 在 した 「 十 楽 院」 との 関わり はない で あろ うか。 途 絶した 十 楽 院を 再 興し、 今 日の 曹 洞 宗 瑠 璃 山 光 泰 寺の 開 山とな った のが 、 食 人 鬼 伝 説の 舞 台であ る 梅 林 院 八 世 圓 州 舜 光という ことも、 何かの 因 縁を 感じさせるもので あ る。 図9 『方言修行金草鞋』所載の 「十団子」図 (鈴木覚馬著、名著出版発行 『嶽南史』五より転載) 図8 軒先に下げられた十団子 (宇津ノ谷集落にて)

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駿 河 国 宇 津ノ 谷 峠の 地 蔵 伝 説( 木 村) ─ ─ ちなみに、 現 在の 十 団 子は、 小 豆 程の 小さな 団 子を 十 粒 ずつ 糸に 通し、 それを 九 連にしたもので ある ( 図8 ) 。 こ れ は 「 九 十 苦 離」 を 表すと 言われ ており、 地 蔵 縁 日の 八 月 二 三 日と 二 四 日に 慶 竜 寺で 売られている。ところ が 、 十 返 舎 一 九の 『 方 言 修 行 金 草 鞋』 の 中には 、 岡 部 側の 茶 店で 大 名 行 列の 奴が 串 刺しの 十 団 子を 食べている 絵が 描かれ ている ( ) ( 図9 ) 。また、 同じく 岡 部 側の 坂 下 地 蔵 堂では、 慶 竜 寺と 同じ 日に 行われ る 地 蔵 縁 日の 際に、 直 径 二セン チ 程の 団 子 を 十 個ずつ 竹 串に 刺し、それを 七、 八 串ずつ 並べたものを 一 対にして 地 蔵に 奉 納している ( 図2 ) 。 宇 津ノ 谷 峠の 東 西 の 麓において、 形こそ 違うけれ ど も、 「 十 団 子」 の 風 習が 等 しく 地 蔵に 関 係する も の として 伝えられ て いることは 興 味 深い 点であ る 。 七 もう 一つの 「 素 麺 地 蔵」 伝 説 ところ で 、 宇 津ノ 谷 峠には 、 こ れ ま で 論じてきたものと は 多 少 異なるもう 一つの 「 素 麺 地 蔵」 の 伝 説が 伝えられ て いる 。 以 下にその 物 語を、 静 岡 新 聞 社 発 行の 『 ふるさ と 百 話』 の 中から 再 録する こ と に し たい 。 今 昔、 下 野 日 光 山 一 人 雲 水れ、 別 墅に 至って 一 食をこうた。この 寺では 雲 水の 僧がき べっしょ て 食 物をこうたときは、 その 好むところの 食 物を 与え、 これ を 食 責めにす る と いう 一 種 変わった 習 慣があ っ た 。 何も 知らぬ 件の 雲 水が 「 そうめんを 」 と 望むと、 果た して 一 山の 衆 僧がことごとく 出てき てかわ る が わ るこ れを 勧め 与えた。 ところ が 雲 水は 一 向 困 惑する 風もなく、 勧められ る ままにこれをことごとく 食い 尽くし、 少しも ひる む 様 子がな いの で、 寺 方の 者の 方がかえ っ て 根 気 負けして ついに 食 責めの 儀は 中 止してしまった。 やが て 雲 水に 唖 然としている 衆 僧に 「 私は 駿 州 宇 津 谷のふもとに 住む 者です。かの 地をご 通 過の 節は 小 庵 にお 立ち 寄りくだ さ い。ご 歓 待いたします。 本 日はた いへん お 世 話になりましたが、 雲 水の 身で 何も 持って おり ませ んの で、これを 記 念に 」 とい って、 所 持して いた 錫 杖の 金 輪の 半 輪を 割って 置いて 帰ってい っ た。 数カ 月の 後、 偶 然 京に 上ること に なっ た 日 光 山の 一 僧 侶が、 一 山の 者たちの 依 頼を 受けて 、 駿 州 宇 津 谷の

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