二六七
はじめに
筆者が 「鎌倉初期における禅宗の性格 (序 )1 ( ) 」 と 題 し て 、 大日房能忍 を 開 祖 と す る 達磨宗に関 す るささ や か な内容の 論文 を学 術研究誌に発表し て か らすで に四〇年近い歳月が 流 れ た 。顧みる と 、 こ の 論文 を 執筆した当時 、達磨宗に関 心 を よせる研究者は意外 と 少なく 、また達磨宗の消長 を 主 題 と した内容の先行論文も十指に満たぬ状況 で あ った )2 ( 。そ のため 、筆者はもっぱ ら鷲尾順敬 )3 ( 、大久保道舟 )4 ( 、辻善之助 )5 ( 博士らが執筆さ れ た論文などを い く ど も幾度も読み返し て 、 達磨宗教団の維持 や 発展に寄与 す る ところがあった僧徒の 動向などを 念 頭に置 き ながら 、 自分なりに問題点 を さぐり 出そうと し て いたの で あ る 。筆者の処女論文は 、奇遇にも 柳田聖山博士の目に止まっ て 評 価さ れ 、 そ れ が 大 き な 励 み となっ て 、その後に 「大日房能忍 と 達 磨宗に関 す る 史料 )6 ( 」 を 掲 載 す る機会 を 得たの で あ る 。 その史料集は鷲尾 、 大久 保 、辻博士らの研究成果に所引さ れ た 種 々 の文献 や 資料の 要文記事 を 母胎 と し 、さらに筆者が勤務し て いた神奈川県 立金沢文庫保管の鎌倉時代の 写 本聖教類から拾い集めたい くばくかの珍しい要文 を 付 け加えたものに す ぎなかったが、 ごく一部の禅宗研究者に 、 一つの手引 き 、 簡便な道具 と し て 活 用し て い た だ けた らしい。 学 問上のある恩師から、 「高橋君、論文 と い うものはど ん なに論証 を 尽くし て 書いた ところ で 、いつかは色あせ て し まうけれど 、 資料 と い うものは特有の価値があっ て 、いつ ま で も残るよ。資料はいいよ。 」 と 、諭し励まさ れ た ことが あったが 、その ひと 言は千金の重み をもっ て 、いまも筆者 の耳の底に残っ て お り 、研究に取り組 む 上 で の 大 き な支え となっ て いる 。筆者が 、 日本仏教 を テ ーマーにした長編の 論文 を 書 くより 、鎌倉時代の 写 本聖教の資料紹介 、ないし は資料の翻刻に終始し て いるのも 、 じつは恩師のその ひと こと に起因 す る ところが大 き いの で あ る。人 と し て 生ま れ 、達磨宗に関する補足事項
高
橋
秀
榮
駒澤大學佛敎學部 硏 究紀 第六十七號 平 成二十一年三月達磨宗に関 す る補足事項(高橋) 二六八 さらに 学 術研究の分野に身 を 置く者に と っ て 、 もっ とも願 わ し い こ とは、 善 き 師 友( 学 究者、 研究者) と 善 き 書 物(資 料 、聖教)にめぐりあう こ とで ある 。その感慨は 、いまも 変 わ らず抱 き 続け て いる。 ところ で 、時節光陰は矢の如し 、の喩え通り 、 達磨宗に 関 す る史料集めいたもの を 作 成公表し て か ら早くも三〇年 以上の歳月がながれ た 。 こ の 間 、 達磨宗に関心 を 寄せる研 究者は数 を 増 し 、また新たな関係資料も発見さ れ 、 そ れ に ともなっ て 研 究成果も格段 と 増 え 、 今 で は外国にも達磨宗 の研究者が存在 す る と 仄聞 す る ほ ど 、達磨宗に関 す る研究 は大いなる進展 を みたよう で ある 。筆者が能忍の信仰活動 に興味 を 覚 えて 、 わ ずかばかりの関係論文 を 渉 猟 し 、通読 し て いた時期 と 比 べる と まさしく隔世の感がある。 さ て 、達磨宗に関 わ る珍しい資料 や 重 要な文献 、さらに は関連 す る要文記事は 、いまなおあいつい で 発 見さ れて い る状況 で あ り 、 お ど ろきを 隠 せない で いる 。いったいぜん たい 、 ど んな資料が新たに見つかり 、また要文記事が補足 でき たのか 。本稿 で は 、その近況報告 を さ せ て いただく こ と にした 。先ず最初に九つの補足事項 を 箇条書 き の 標題 で 示す なら ば 、 一、 名古屋の真福寺から「能忍」 「無求尼」 に 関 わ る禅宗聖 教が新たに発見さ れ た こ と 。 二、 達磨宗門徒の 「覚晏」 はもと 比叡山の僧侶 で あった こと 。 三、 「覚晏」の四百年忌に ち な み、 誠拙周樗が法語 を 捧げ て いる こと 。 四、 快慶作阿弥陀如来像の像内納入文書にも 「能忍」の名 がみ える こと。 五、 達磨宗門徒の 「聖順房範永」は大和の正暦寺に住み 、 清凉寺式釈迦如来像 を 造立した こと 。 六、 応仁の乱 で 廃墟 となる以前の摂津中嶋の三宝寺には子 院がいくつもあった こと 。 七、 『大徳寺夜話』 に 「 大日上人」 の名による関連記事がみ える こと。 八、 長野県大昌寺所蔵の 『室中秘書』に 「能忍」に関 す る 記事がみ える こと 。 九、 「拙庵徳光賛達磨画像」 の模 写 一 幅 (寸松庵旧蔵) が売 立 て に出た こと 。 などで ある。 以下、 箇条書 き の 順にそっ て そ れぞれ の 内容、 趣旨 を 簡 単に解説し て い き た い と 思う。
一、
名古屋の真福寺から
﹁能忍﹂
﹁無求尼﹂に
関わる禅宗聖教が新たに発見された
平成二〇年六月中旬 、筆者は東京大 学 の末木文美士教授 から、 名古屋の真福寺宝生院大須文庫から「能忍」 「 無求尼」 の名が記さ れ た達磨宗関係の新たな 写 本 が発見さ れ た こと 、達磨宗に関 す る補足事項(高橋) 二六九 そし て そ の 写 本は 、金沢文庫所蔵の 『 伝心法要』 と 同 じ内 容の禅籍 で あ る と いう趣旨の電話 を い ただいた。 能忍 を 開 祖 と す る 達磨宗に関 す る 文献 、資料 や 論文によ る研究成果は 、 昭和六十四年ま で に ほぼ出つくした感があ ったが 、 さらになお平成時代に入っ て も 、史実解明に結び つく鎌倉時代の新たな古 写 本が発見さ れ た と なれば 、 幻の 禅宗一派ともいうべき 達 磨宗の実態解明に一石 を 投 ずる画 期的な 発 見と いうこ と になろう 。まし て 「無求尼」と いえ ば、 『潙山警策』の出版に寄与した尼僧、あるいは大乗寺本 『六祖壇経』の奥書にみえる尼僧の ことが即座に連想さ れ る だけに 、 大 き な驚 きを 覚えた 。 と 同 時に 、目下 、下火にな りつつある達磨宗の研究が こ れを 契機に ふ た たび日の目 を みる こと になるかも知 れない と の大 きな期待 を 抱 いたの で ある。 七月十八日 、名古屋大 学 教授阿部泰郎氏の並 々ならぬ力 の入 れ よ う で 開催さ れ た真福寺大須文庫 を 会場にしたプレ ・ カンフアレンス と 銘打った研究会 で は 、栄西 と 能忍に関 わ る新出資料の展観 と 資料調査に携 わ っ た末木文美士 、牧野 淳司 、米田真理子 、和田有希子氏ら四氏の調査報告が行な われた。 筆者がもっ と も関心 を 寄せ て いる能忍の達磨宗関係資料 につい て は 、和田有希子氏から報告があり耳 を 傾 けた 。 こ の時の報告要旨は 、当日配布さ れ た報告書 )7 ( に詳しく掲載さ れて いるの で そ れを 参照さ れ たい。 さ て 、新出した禅籍資料の一番の注目点は 、『伝心法要』 +『宛陵録』+『書名未詳(かな書 き 法語集?) 』の三巻一 冊の装丁になる 写 本 の禅籍 で 、しかも四十二紙目に 「文治 五年 、遺宋使帰朝時 、宋国佛照禅師 、 送遣新渡心要 、有先 段無後段 、 而奥有此伝心偈等 、己上十八行二百七十七字是 秘本歟。大日本国特賜金剛阿闍梨〔能忍〕 、 為弘廻之、広灯 心要後段了彫継之也 。後賢悉之 。彫料浄施財者尼無求」 と いう原本刊記の文章が書 き 写 さ れて いる ことで あった。 『伝心法要』 と 『 宛陵録』の二巻 を 一冊に書 写 し 綴じた 写 本はほかにも存在 す るが、 『伝心法要』+『宛陵録』の末尾 に 「 かな書 き の法語集」らしい書名未詳のテキストを 一冊 に綴じ合 わ せ た禅宗関係の書物の存在は こ れ ま で に 見た こ とも聞いた こともないもの で 、実に珍しい禅籍 で あ る 。 さ らに驚 き を 禁 じえなかったのは 、『伝心法要』+ 『宛陵録』 の末尾に記さ れ た 奥書 で あった。 「文治五年」 と い う年号は、 宋版の 『 伝心法要』が わ が国に伝来した年次 を 語るもの で あり、 「能忍」 と 「 無求尼」 の二人の僧尼名 を ま じえた文章は、 その後の模刻版本 と 関 わ るもの と 考えられ る 。おそらく無 求尼の施財 を もと に、和版による『伝心法要』+『宛陵録』 の刊行が完成したのは建久年間の こと か と 推察さ れ る 。 ところ で 、 こ の奥書からは 、示唆に富 む い ろいろな情報 が読み取 れ る 。まず第一に注目 す べきは 『 伝心法要』の書
達磨宗に関 す る補足事項(高橋) 二七〇 名が 「心要」 と 略 称さ れて いる ことで あ る 。筆者は 、 こ の 略称はきわ め て 重 要だと 思 う 。 と い うのは 、 能忍の高弟の 覚晏が 「心要提示」 と 題 す る書物 を 著 わ し て い た と いう こ とと 関連性があるように思えて な らないからで ある 。いま は類推に とど め て お き たいが 、 覚晏の 「心要提示」 と 題 す る書物は 、 もしか す る と 『伝心法要』の こ とで あったの で はないか 。第二に注目 すべきは 、能忍の肩書 きが 「大日本 国特賜金剛阿闍梨能忍」 と い うように 、密教僧のそ れで あ る と いう ことで あ る 。能忍が天台密教 を 学 ん だ僧侶 で あっ た こ とは、 『 渓嵐拾葉集』の記事からある程度予測がつい て いたが、 新出資料の禅籍の奥書から、 その点が明白になった。 ところ で 、『伝心法要』+『宛陵録』の二巻一冊 と い う書 冊形式 をと るテキストは 、宋版 、 五山版 、 写 本のいずれ に おい て も 同じ で あ る 。 例えば 、 福州開元寺版宋版一切経の 中に収録さ れて いる『伝心法要』 (南宋時代の紹興十八年に 開版した題記がある。 また内題 と 尾題の下には千字文の 「實」 字が刻ま れて いる)は、一折六行、一行十七文字の配分 で 、 全十八紙 を 数 える折帖装の版本 で あ るが 、 こ れ に は 「 黄檗 断際禅師宛陵録」の内題 、尾題があり 、『伝心法要』 (本文 は第一紙から十二紙ま で ) と 『 宛陵録』 (本文は第十二紙か ら終 わ りの十八紙ま で )の版式によるテキストで ある 。ま た第十三紙目の柱(版心)には、 「 實 法要宛陵録 十三 王英」の細字刻銘があり、 『伝心法要』 と 『宛陵録』は二巻 一帖の形態 を 採る折帖 で あった ことが こ こ か らも確かめる ことが で き る 。 こ の点は京都の知恩院所蔵本の一切経も同 じ で ある 。 ち なみに金沢文庫保管の宋版本は 、 前二紙が欠 落し て い るが 、本文に訓点 、返り点 、送り仮名など 、 学 習 の跡が認められ る 善本 で ある。 一方、 わ が国 で 印刷さ れ た『伝心法要』は、 『 宛陵録』 と 合併調巻さ れ た二巻一帖の形態 を 採る折帖本 で あ る 。 これ には 、( 1)弘安六年刊行の 『伝心法要』 (大東急記念文庫 所 蔵 ) 、 ( 2)正安四年(一三〇二)刊行の『伝心法要』 (金 沢文庫保管) 、( 3)刊年不詳の 『伝心法要』などがある 。 ともども宋版一切経の構成に倣っ て 、『伝心法要』の末尾に 『宛陵録』 を 添付 す る 書冊形態の禅籍 となっ て いる 。( 1) ( 2) の両本はともに二巻一冊本の構成 で 、片面九行×十六文字 の同版 で ある 。ただし罫線の有無に相違点がみられ る ( 大 東急本は毎丁に罫線 を 付 すが、 金沢文庫本は無罫線 で ある) 。 そ れ に対し て 今回発見さ れ た 大須文庫本の「黄檗断際禅師 宛陵録」は、宋版一切経の版経、ならびに鎌倉時代に印刷さ れ た版本 と 内 容は同じ で あ るが、相違点も少なくない。宋版 一切経は、一行十七文字 で あ るが、和版本は一行一六文字 で ある。大須文庫本は片面一〇行、一行あたり十七~十八文字 の配分 で 書 写 さ れ た冊子本 で あ る 。文中に施さ れ た 返り点 、 送り仮名が、金沢文庫保管の宋版一切経 や 五山版のテキスト に施さ れ た もの と 違 う。また「宛陵録」の末文が省略さ れて
達磨宗に関 す る補足事項(高橋) 二七一 いる。加え て もっ とも大 き な相違点は、大須本には、末尾に 「能忍」 「無求尼」の名 を 刻 んだ文章(おそらく印刷本の刊記 に相当 す る もの)がある ことで あ る。 これが大 きな要素 で あ る。しかし残念ながら書 写 奥書が無い。 奥書 と い うのは、 一冊の書物が、 いつ、 どこで 、誰によっ て 、 何のために筆 を 染 め て 出現 す る こと になったか 、 と いう こ とを 記録した文章 で 、書物誕生の来歴 を 語る重要なもの で ある 。 と ころが大須本には本文の最後 を 飾る一紙 と 裏表紙 がいまだ発見さ れて いないがため で も あるが 、 その肝心な 書 写 奥書が見当たらない 。いつ 、 ど こで 、誰が 、 書 写 した 禅籍なのか 、 こ の 点が明らか で ないのが返 す 返 す も惜しま れて ならな い 。 ところ で 、能忍が在世中に 、拙庵徳光から 『潙山大圓禅 師警策』 (以下 、『潙山警策』 と 略称) と 題 す る宋版本の禅 籍 を 贈られ た と い い 、 その末尾には 「 此書者 、宋国明州廣 利禅寺長老佛照国師 、 付遺宋使所恩賜也 。日本国能忍令雕 板 、願弘道矣 、施浄財者尼無求」 と い う文面の刊記 )8 ( が刻ま れて いた と い う こ とで ある 。しかしながら 、 こ の宋版本の 遺存 を 聞 かない 。古来の印刷本 を 集 大成した大型の図書に も 、その図版が掲載さ れ た ものがない 。原本はいったい ど こ にあるのだろうか 。全国各地の寺社に所蔵さ れて いる文 化財の調査報告書 を 丹 念に開い て も 、いまだにその存在 を 確かめる ことが で きない 。能忍の帰依者の無求尼が施財者 となっ て 印刷さ れ た と 伝 える和版本の 『潙山警策』も 、ま た底本に用いたはずの宋版本も目の当たりにした人がいな いよう で ある 。いったい 、その禅籍はどこ に秘蔵さ れて い るの で あ ろうか 。 こ の 点につい て は 、禿氏祐祥氏が早くか ら疑問 を もた れて い て 、「禅籍の初出は建久年間に能忍の開 版した潙山警策 で あ る と い わ れて いるが 、 こ の 刻本につい て 充分に能忍研究しなければ信用出来ない )9 ( 」と 指 摘 さ れ て いたほ どで ある 。筆者も以前からどうも疑 わ し いなあ と 感 じ て いたの で 、ある時 、 書誌 学 の泰斗川瀬一馬氏に直接質 問した ところ、 「そ れは西村兼文の偽妄かもし れない」 と の 返答 を 受 け 、 そ れ ならばいたしかたなし と 納得した ことを 記憶し て いる 。 と なる と 、古来 、能忍は 『 潙山警策』の刊 行者 と 伝 えられて いるが 、 じつはそのような書名の禅籍は 印刷さ れなかったの で は あるまいか。 尼無求が 『伝心法要』の刊行にかか わ っ て い た こ とは 、 今度の新出 写 本の発見 で 明 白になった 。 もしか す る と 、尼 無求の施財による禅籍の刊行は、 『伝心法要』だけ で あ っ て 、 『潙山警策』の刊行 とはかか わ り がなかったの で は あるま いか 。 と いうのは 、達磨宗の宗風 、ないしは教 学を さぐる 上 で 重要視さ れて いる 『成等正覚論』 をはじめ 、その他の 関係文書 を 丹 念に読みほぐし て も 、いっ こ う に『潙山警策』 の要文の引用が見いださ れ ないからで あ る 。 達磨宗の門徒 に と っ て 、重要視さ れ た 禅籍の一つ で あ るならば 、必ずや
達磨宗に関 す る補足事項(高橋) 二七二 どこ かに一文半句なり 、引用さ れて い て もおかしくない と 思うの で あるが、 その痕跡はまったく見当たらない。 例えば、 真言僧の頼瑜が著した『顕密問答抄』 と いう聖教 を 見 る と 、 その文中には、 「宗鏡録」 「伝心法要」 「首楞 厳 経」 「血脈譜」 など 、達磨宗がより ど ころと したの と 同 じ書名の禅籍の要 文が引用さ れて いる ) 10 ( が、 『潙山警策』の書名は一度も見出さ れない。じつに不自然 で あり、不可解 で ある。 達磨宗の開祖能忍ならびに覚晏 を 筆 頭 と す る門弟らは 、 最澄の『内証仏法相承血脈譜』 、安然の『教時義』 や 『教時 諍論』 、あるいは中国 で 著さ れ た 『六祖壇経』 『伝心法要』 『宛 陵録』 『宗鏡録』 『 首楞 厳 経 』などを 書 写 し 学 習し て い た可 能性がよりいっそう高くなった 。本書の出現は 、 能忍の事 跡 と その禅風の研究に新たな光彩 を 加 える基本資料 ともい えるもの で 、 ま こ と に貴重 で ある。 二、 達磨宗門徒の ﹁覚晏﹂ はもと比叡山の僧侶で あった 達磨宗の開祖能忍の門弟 で 、教団の継承者 で あった覚晏 の経歴はほ と ん ど 知 られない 。生没年も 、 家系も明らか で ないし 、出家の時期 や その動機も 、また修 学 の足跡 、 修行 の経歴など 皆目知られない 。京都八幡市の正法寺 (能忍の 甥の平景清の墓所の一つ と の 伝承もある)には鎌倉時代の 古文書など 複数の達磨宗関係文書が残っ て いるが 、 覚晏の 名が明記さ れ た文書 、記録類は皆無 で ある 。も ち ろ ん覚晏 の行状記も存在しない。 ただ わ ず かに、 徹通義介が瑩山紹瑾に与えた 『 嗣書之助証』 にその名がみられ る 程度 で 、 そ れ を 通 じ て 、能忍の後 を 継 い で 、京都の東山から大和の多武峯に布教活動の場 を 移 し、 達磨宗の存続に寄与 す る と ともに、 門弟の懐奘に 『首楞 厳 経』 の 「頻伽瓶」の比喩 を 提示し て 、 見性成仏の奥義を 省悟さ せた豊かな見識 と 指導力のある す ぐ れ た禅者 で あった と い う こ とと 、著作に 『心要提示』 と いうものがあった と い う ことが伝 わ っ て い るだけ で ある 。しかしその著作も 、 はた し て ど ん な内容の書物 で あったのか 、今日に伝存せず 、そ の人物像の真相解明が待た れ つづけ て いる わけで ある。 しかしながら 、先年 、 こ の人物の経歴に関し て 一 つだけ 明らかになった こ とがある 。そ れは金沢文庫が保管 す る鎌 倉時代の( 『法華文句第二雑見聞』四月十六日始之) と 題 す る聖教の中に、 「仏地房、 首 楞経、 始 テ点スト云 々 、 本山僧」 と あ っ て 、仏地房 すな わち 覚晏が 「 本山僧」= ( もとや ま のそう 、 もと さんぞうと 発音し 、元来比叡山の僧=本来比 叡山の僧の意味) で あった ことが明らかになった ) 11 ( 。 覚晏が天台宗の僧 で あった ことは 、 かなり以前に 、 村上 素道氏が 「 当時多武峯に覚晏和尚 と い ふ 方があっ て 、 此方 は原 と 天台宗の人 で あ るが ) 12 ( 」 と 記し て お り 、一部の研究者
達磨宗に関 す る補足事項(高橋) 二七三 には知られて いたが 、より具体的に比叡山出身の天台僧 で あった ことが 、 由緒確かな鎌倉時代の 写 本聖教の中にその 証拠が見出さ れ た ことは大 きな収穫 となろう。 覚晏が叡山の僧 で あった と い う事実から 、 新たな考察の 糸口が開か れ て くるような気がし て ならない 。例えば 、鎌 倉時代の初期に禅の信仰布教 を め ざした僧侶の多くは叡山 で 顕 密二教 を 修 学 した経歴 をもつ人 々で ある 。栄西 を 筆 頭 に、能忍、覚晏、道元、懐奘らの名 を あげる こ とが でき る。 こ の 人 々 は大なり小なり 、 叡山 で の 修 学 中に 、中国 で は禅 宗がすこ ぶる隆盛 で あ る 、 と の 新しい情報 を 得 て いたかも し れ ない 。あるいは人づ て にも最新情報 を 共有しうる環境 の中に身 を 置 い て いたかも知 れない 。よし や 時 期的に多少 のずれがあるかも知 れないが 、あい前後し て 、 叡山に て 修 学 し て いた経歴 をもっ て いた可能性は考えられ る 。 筆者は 、入唐帰朝の経験 をも ち な がら消息 を 絶った覚阿 と 、 達磨宗の覚晏の二人の関係に注目し て いるの で あ るが、 二人 ともに関係資料が乏しく 、研究が阻ま れて いるが 、 そ れぞれ の法名に 「覚」の文字がつい て いる こと にも注目 す るの で あ る。覚晏が叡山の僧 で あった と い う事実からし て 、 覚阿―能忍―覚晏 と い う三人の禅宗志向の流 れが一本の線 で つ ながるような気がし て ならない 。平安末期から鎌倉初 期にかけて 、覚阿が叡山に齎した禅籍が能忍の眼に ふ れて 禅宗一派の新規開宗 を 促 し 、その動向に覚晏は従った とす る図式が考えられはしないか。
三、
﹁覚晏﹂の四百年忌にちなみ
、誠拙周樗が
法語を捧げている
江戸時代の文化十三年 (一八一六)に鎌倉円覚寺の 住持になり 、百廃 を 一興した と い う傑僧誠拙周樗 ( ? ~ 一八二〇)の『誠拙禅師語録』に、 「熊嶽開祖仏地禅師四百 年」 と 題 した 「拈出 す 。禅師は東嶽の真 、 分明に是 れ 旧時 の人にあらず。傷風、今日、序髪 す る に慵し。惹 き 得 たり、 満堂一笑の新たなる ことを 。」 と いう法語一編が収録さ れて いる ) 13 ( 。 と りた ててどうと い う こ ともない内容の法語 で あ る が、標題に「熊嶽開祖仏地禅師」 と あるのが注目さ れ る 。 「熊嶽開祖」 と いえば 、 先ずはインドから中国に旅し て 、 禅 を 伝え 、没後 、熊耳山に埋葬さ れ た と 伝 える菩提達磨そ の人の こ とが連想さ れ るが 、そ れ に 続けて 「仏地禅師」 と 明記さ れ て いるから 、 ここ は中国禅宗の開祖 、達磨大師そ の人の こ とで はなく 、 わ が 国の鎌倉時代初期に 、天成の禅 者能忍によっ て 開 か れ た達磨宗の高弟 、仏地房覚晏 (生没 年不詳)に対 す る 尊称 と 理解さ れ る 。 こ の 法語の内容の良し悪しはともかく と し て 、重要なの は 、 江戸時代に下っ て もなお達磨宗の こと 、およびその門 下にいた仏地房覚晏の存在が忘 れ られて い なかった と い う達磨宗に関 す る補足事項(高橋) 二七四 歴史的事実 で ある 。しかもその法語は 、道元下に参 学 し て その後の教団 を 守 り立 て た 達磨宗出身の経歴 を 帯 びた曹洞 宗の僧侶によるもの で は なく 、臨済宗の禅僧に関心がもた れて いた と い う事実が注目さ れ る の で ある。 近時、石井修道氏の研究により、達磨宗の開祖能忍の禅 は 、 「臨済宗大慧派の宗風 で は なく 、唐代禅に近い ) 14 ( 」も の で あった ことが明らかにさ れ た が、 こ の法語 を み る と ころ、 江戸時代におい て は 、能忍が開いた達磨宗は、中国の臨済 宗の系譜に列なる禅宗の一派と 理解さ れて いた ことが わ か る。 ち な みに仏地房覚晏の房号に関し て 、 ひとこと 補足し て お き た い こ とがある 。例えば 、鎌倉時代に法華経信仰 を 力説した日蓮は 、 念仏宗の法然 と 達 磨宗の能忍 とを 並 びあげ て 、その宗教活動 を 注目し て い た人物 で もあった が 、 『教機時国抄』 と い う著作の文中には 、 「大日仏陀 、 禅宗 を 弘め」 と い う一文が記さ れて いる ) 15 ( 。こ の 文 章を ど う読 む か 、 ど う解釈 す るか 。 「大日仏陀」 を 大日房ただ一 人の ことと みるか 、大日房 と 仏 地房の二人 と みるか 、研 究者の間 で 二つの解釈が生ま れ て い たが 、宮崎英修氏は 、 大日 と 仏陀の間に中黒点 を 施 し て 、大日房能忍 と 仏地房 覚晏 (仏陀=仏地)の二人の ことで あ る と 解釈さ れ た 。 筆者はその説に賛同したい。 日蓮は、 三人の僧名 を 表 記 す るにあたっ て は 、 源 空、 能忍、 覚晏 と い う法名 を 用いず 、 法然 、大日 、 仏地 と い う房号 で 表記し 、区別し て いたの で あ るが 、たまたま仏地の房号 を 仏陀 と 書 き 誤 っ て しまった 、 と 解釈 す る ことが で き る から であ る ) 16 ( 。 し て み る と 、右の法語の表題にみる 「熊嶽開祖仏 地禅師」 すな わち 仏地房覚晏の達磨宗開祖 と い う こ とはあ りえず 、歴史的事実 と し て は大 きな誤り となる わ け で ある が 、四百年後の追善供養の時点におい て は 、達磨宗の開祖 に匹敵 す る高僧 と みなさ れ 、その記念の遠忌に心寄せる僧 侶から追慕さ れ 、法語一篇 を 手 向けられ たよう で ある。 いま ここで は 、 こ れ 以 上の考察 を 省 くが 、江戸時代にな っ て もなお達磨宗の宗風活動に尽くした門弟の存在は忘 れ 去られて いなかった と い う事実 、そし て 臨済宗の禅僧誠拙 周樗が 、仏地房覚晏の四百年供養に ち な ん で 法語 を 献 じた と い う事実は十分に注目し て い いだろう。
四、
快慶作阿弥陀如来像の像内納入文書に
﹁能忍﹂の名がみえる
京都市北区鷹峯光悦町に所在 す る遣迎院の阿弥陀如来 像の像内から発見さ れ た 「如来立像印仏」 (「 建久五年六月 二十九日始之」の端書がある印仏も混在)の中 (№5 -1) に、 「仏師快慶、重源、栄西、鑁阿」らの名にまじっ て 「 能 忍」の名も記載さ れて いる 。さらには 、 能忍の門弟か と み達磨宗に関 す る補足事項(高橋) 二七五 なさ れ る蓮阿弥陀仏、観照、定観らの名前も見出さ れ る ) 17 ( 。 こ の印仏など 七十三紙に列記さ れ た一万二千余名にのぼ る結縁交名 を 解読 、翻刻し 、さらにその内容 をこ まかに分 析さ れ た青木淳氏の解説によ れば 、遣迎院は 、 法然の弟子 の証空に帰依した藤原道家が正治元年 (一一九九)に建立 した寺院 で 、 その当初 、寺地は東福寺の近く で 、 三ノ橋南 にあったが 、歴史 を 重 ね て 、昭和三〇年に現在地に移った と い う。鎌倉時代の初めに創建さ れ た遣迎院が、その当時、 東福寺の近くにあった と い う こ とは 、達磨宗の布教拠点の 一つ で あった東山に隣接し て いた可能性が高い と いう こと にな る。 法然の門弟が 『 宗鏡録』の内容に関し て 能 忍 と 問答した と い う記事があるが 、 そ れ なども遣迎院の阿弥陀如来像 と の縁 をもっ て いた能忍 と の 絡み で 真実性が高まっ て くるよ うに思 わ れ る 。その東山の信仰活動のエ リ アに両寺が隣接 し て 存在し て い たならば 、藤原道家が発願した仏像の造営 完成 を 祈 っ て 、応分の喜捨 を 施 し助ける と い う善行は実現 可能 で あった と み なさ れ る ) 18 ( 。 あ わ せ て こ の印仏に能忍の名が記さ れて いる こと の重要 さは、 能 忍が少なく と も 「 建久五年 (一一九四) 六月二十九日」 頃ま で は 確実に存命し て いた ことを 裏 付けるもの で あり 、 『百練抄』に「在京上人能忍」 と 記 さ れ て いる記事 と も 深 い 関連性があるか とも考えられ る 。 年号が明記さ れ た 印仏が わ ず か一枚だけ 、 と い う の が 何 と も 心もと な いが 、建久年 間 こ ろ 、能忍が京都の東山界隈に独自の宗風 をひ ろめるた めの地盤 を 築 き つつあった ことを 裏 付ける一つの証 ともな るこ と は 疑 い な い で あ ろ う 。
五
、達磨宗門徒の
﹁聖順房範永﹂
は大和の正暦
寺に住み、清凉寺式釈迦如来像を造立した
能忍 を 開 祖 と す る 達磨宗の初期教団にはさまざまな僧尼 が混じっ て い て 、 宗風 を 鼓吹し て い た 。 能忍の不幸な死に 直面し て 、 教団の存続が危ぶま れもしたが 、 その後 を 継 い だ覚晏らの努力によっ て 教団の維持が図られて い たらしい。 能忍の没後に、一部の僧尼の離散もあったよう で あるが、 弟子から 孫弟子へ と 法の相続が行な われ 、おおよそ室町時 代の初頭 、応仁の頃ま で は 、摂津三宝寺における布教活動 は継続さ れて いた 。その ことは京都八幡市正法寺所蔵の関 係資料 を 通 じ て 明らかになった歴史的事実 で あ る ) 19 ( 。 ところ で 、門弟の離散 と いう こと に ち なん で 一 つ補足 す べきことがある 。 そ れ は能忍の没後に 、摂津三宝寺 で 達 磨 宗の宗風 を学び 、 舎利信仰 を 育 ん で いた聖順房範永 と い う 僧が 、その教団 を 離 れて 、大和の正暦寺 ( 菩提山寺 と も呼 称 す る)に移り 、清凉寺式釈迦如来像 を 造立し て いる と い う新たな事実が見つかった ことで あ る 。 そ れ は 、 岐阜県本達磨宗に関 す る補足事項(高橋) 二七六 巣郡巣南町の即心院に伝 わ る古い仏像の修理 を 通じ て 、 そ の像内から取り出さ れ た鎌倉時代の文書に記さ れ た 文面か ら明 らかに な った次第 で あ る が 、 き わめ て 注 目 す べ き 事 柄 と思 われる 。 こ の 仏像の調査に当たられ た 成城大 学 学 長 の清水真澄氏 の論文 ) 20 ( に よ れば 、その像は来迎印 を 結 ぶ阿弥陀如来像 で 、 全身薫香に覆 われて い て 、 全身に施さ れて いた金泥、彩色、 切金模様もほ と ん ど 見 えない状態 で あった と い う こ とで あ るが 、頭髪 と 衲 衣の形態から清凉寺式釈迦如来像 で ある こ とが明白に判断さ れ た の で 、当初の像容に戻 す 修理 を 行 な った ところ 、 その像内から 「文応元年申五月十四日 、大和 国菩提山寺□□□院 、施主範永聖順房此造立畢 、□法界□ (衆か)生平等利益并四恩法界、覚円仏子造之、□平等 々々 利益敬白」 と 墨 書 き さ れ た文書一紙が発見さ れ た と い うの で あ る 。清水氏は文字が虫に食 わ れて い て 判読 できなかっ た箇所 を □にさ れて いるが 、筆者が推定 す る と ころ 、菩提 山寺の下の□□□院はおそらく「四十九院」 、造立畢の下の □法界は、 「為法界」の文字が書か れ て いたの で は ないか と 思わ れ る 。 ところ で 、筆者が こ の仏像 と 納入文書に特別に関心 を よ せるのは 、仏像の すがたかた ち が 清凉寺式釈迦如来像 で あ る こ ともさり とて 、その造立発願の施主が聖順房範永 と い う僧侶 で あったからで ある 。 こ の人物 こ そ 、 じつは能忍 を 開祖 とす る達磨宗 ともかか わ り があった聖順房範永その人 にほかならない ことが判明したからで ある 。清水氏からこ の論文 を 頂戴し 、 拝読した ところ 、 なん と 見 覚えのある聖 順房範永 と い う僧名が見いだせる で はないか 。背筋に電気 が走るかのような驚 き を 覚 えた記憶がある 。 と い うのもか なり以前の こと になるが 、奈良国立博物館 で 開催さ れ た 特 別展 「舎利信仰の美術」 で 目にした京都八幡市の正法寺所 蔵の文書の中に 「 範永生年三十八之年 、自一蓮御房普賢光 明御舎利一粒処分給畢 、 件御舎利元者心蓮御房御所持也 。 数三十七粒也。 ( 中略) 寛喜二年十月七日、 金剛仏子範永 (花 押) 聖順房証文 (端裏 ) 21 ( ) 」 と 記 さ れ た文書の ことが強烈に 思い出さ れ た からで あ る 。聖順房 と い う房号 、 範永 と い う 僧名は特異なもの で あ り 、 筆者に と っ て は 忘 れ がたい鎌倉 時代の僧侶の一人 で も あったから で ある。 納入文書の筆跡 や 文章 を 丹 念に目 で 追いながら 、 どうし て 達 磨宗教団に加 わ っ て 禅 を学 ん で いた聖順房範永が 、 い つ 、 いかなる事情から 、菩提山寺の山内の一院 (四十九院 か)に移り住み 、慶派仏師の一人 と 推 定さ れて いる覚円に 清凉寺式釈迦如来像の模刻造立 を 注 文 す る施主 と なったの か 。 右の文書の文面からはその真相 を 探 り出 すことは でき ないが 、いかなる理由 でと いう疑念解明は今後に課せられ た一つの問題点 となろう。 範永が達磨宗の教団から離 れ た時期は不明 で あ るが 、菩
達磨宗に関 す る補足事項(高橋) 二七七 提山寺の山内に移り住 む よ うになったのは 、 かなりの年齢 になっ て からの こ とと 推察さ れ る 。 と いうのは 、正法寺所 蔵の文書に 、寛喜二年 (一二三〇)の時 、 範永は三十八歳 で あった と 明記さ れて いるから、 文応元年 (一二六〇) に は、 六十八歳になっ て いたか と 思 われ る 。いったいそ れ ま で の 間、範永はどこで 、何 を し て いたの で あ ろうか。 ところ で 、範永が晩年に移り住んだ菩提山寺は 、藤原忠 通の息子の信円が鎌倉時代のはじめに再興した法相宗の寺 院 で 、春日信仰 とも格別に縁が 深 かった寺院 で あ る 。 清水 氏によ れば 、その春日信仰 と の 深 い 絆から 、律宗系 と 異 な る像容形式 や 全 身に金泥 、彩色 、切金 を 施 した特殊な表現 による清凉寺式釈迦如来像の造立が計られ た と の こ とで あ る。 すで に知られ るように 、鎌倉時代は清凉寺式釈迦如来像 の模刻が流行した時代 で あ るが 、かっ て 能忍 、覚晏師弟が 開創した達磨宗に 学 ん だ経歴 を もつ範永が仏師覚円に清凉 寺式釈迦如来像の模刻 を 依頼した事実は注目し て い い 。 達 磨宗の宗風に馴染んだ足跡がある僧が教団 を 離 れ た以後に その ことを 成 し遂げ て いる ことは こ れ ま で まったく話題に なった こ とがない 。仏像の像内に納められ た一枚の文書が 発見さ れて はじめ て 歴史が明らかになる と いう好 き 一例 で ある。 ところ で 、達磨宗の本拠地 で あった摂津水田の三宝寺の 本尊はいったい何 で あったのだろうか 。従来 、 こ の点につ い て はほ と ん ど 考察さ れ た ことがないが 、一度 、検討し て みる必要があろう 。はたし て 拙庵徳光自賛の達磨画像が本 尊的な役割 を になっ て いただけなのか 、ほかに木造彫刻の 釈迦如来像 と か 、 普賢菩薩像 と かが安置さ れ て いたのか ど うか 、三宝寺 と い う寺名呼称 、三宝寺に伝来した六祖普賢 舎利 と い う法宝 と も関連させながら多少考察し て み る必要 があろう 。達磨の画像 とはべつに本尊仏が安置さ れて いた 可能性が高いの で は あるまいか 。 こ の点 を さぐる こともま た今後の研究課題の一つ で ある。
六
、応仁の乱で廃墟となる以前の摂津中嶋の三
宝寺には子院がいくつもあった
三宝寺の子院につい て は 、原田正俊 、西岡秀爾両氏の論 文に詳し い ) 22 ( 。 こ と に 原田正俊氏は 、寛正二年 (一四六一) 一二月二六日付けの 「中島崇禅寺領目録」 と い う史料の内 容 を 検討し、 「崇禅寺領の名請人の中に三宝寺 を 始め子院塔 頭の名がみえ 、 すな わち 三宝寺には 、 妙観院 、弥勒院 、西 光院 、千手院 、大日院 、地蔵堂 、遍照院 、 薬師堂 、 吉祥院 等が存在した。 」 し、さらにまた「崇禅寺領の四至に隣接し て 三 宝寺田がいくつも見え 、 字名 と し て 三 千沢 ・大沢 ・板 加野 ・板加野外島開 ・平田 ・ 三千沢外島 ・総屋敷の辺りに達磨宗に関 す る補足事項(高橋) 二七八 三宝寺の所領があった ことが わ かり 、三千沢等は乳牛牧内 の字名 で 、三宝寺の す ぐ 近くの字 と 確 認 で き る の で ほぼ北 中島北東部に三宝寺の所領が散在し て い た と いえる。 」 と も 指摘さ れて いる。 寛正二年 (一四六一) と い えば 、三宝寺の開祖能忍の活 躍した時代からは二百年後の こと になるが 、達磨宗の本拠 地には、 多くの所領があり、 かつ仏、 菩薩の名 を 付した子院、 塔頭に類 す る九つの建物が建っ て いた と い う こ とは 、その 宗風が 深 く根 を 下 ろし 、定着し て い た こ とを 裏付けるもの で あり、十分注意 を 払っ て い い こ とで ある。 その時期における達磨宗の発展 を 暗示させる出来事 で も あり 、当然の こと 、御堂に安置さ れ て いた本尊の尊像形態 も考察の対象になろう 。 おそらくは時代が下った時期の達 磨宗の信仰活動は能忍 や 覚晏が在世し て い た時期の信仰活 動 と は様変 わ りし て いた可能性も考えられ よ う。
七、
﹃大徳寺夜話﹄に﹁大日上人﹂の名による
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『大徳寺夜話』に 「 大日上人伝禅法 、於大恵弟子光仏照 。 後寺ヘ推出テ、魚肉ヲ入タ。地頭、依嫌之停止。虚空叫云、 大日上人ハ 、大明眼テ 、 魚肉ヲ寺ニ入テ 、 停止サスル曲事 チ ヤ 。如旧入寺サ セ ヨ ト 、其後復魚肉ヲ寺ニ入タ也 。」 ( № 一六三) と いう法語が収録さ れて いる ) 23 ( 。 そ の 書 き 出しにみ える 「大日上人」 とは 、いうま で も なく 、達磨宗の開祖大 日房能忍の ことで あ り、 「大恵弟子光仏照」 とは、大慧宗杲 の弟子の仏照徳光の ことで ある。 こ の法語は、 「薫酒山門に入る を 許 さず」 と いう標語 を 連 想させる内容のもの で あるが 、 じつは仏照徳光から禅法 を 伝授した大日房能忍がす ぐ れ た明眼の僧 で あるにもかか わ らず、寺院に魚肉 を 持 ち 込 むことを 停止させた曲者(変人、 異常な人)だと 地 頭が不満 を あ らわ にし 、大空に む か っ て 叫び声 を あげるの で 、能忍はその不当な要求に折 れて 、以 後 、 ふ た たび寺内に魚肉 を 入 れ る こ とを 許した 、 と い う趣 旨か と 思 われ る 。 こ の 言動の背後には 、 あるいは 、 逃亡中 の平景清 をも て な そうと 、 能忍が弟子に酒 を 買いに行かせ た と いう有名な逸話 を 踏まえながら 、逆説的に物語っ て い るの で あ ろうか 。 これもまた文献には見当たらない珍しい 内容の記事 で ある。 江戸時代になっ て 、京都の名刹大徳寺 で 、 能忍の ことが物語られて いた ことを 示 す 興 味 深 い一話 と し て 注目さ れ る 。八、長野県大昌寺所蔵の﹃室中秘書﹄に
﹁能忍﹂に関する記事がみえる
長野県の大昌寺に 『室中秘書』 と 題 す る 写 本が所蔵さ れ達磨宗に関 す る補足事項(高橋) 二七九 て お り 、その文中に 「 其ノ頃 、 筑紫ノ博多ニ能忍上人ト云 マ ク 。彼上人 、遙大唐ノ育王山住ス仏照禅師 ト 云名師ヲ聞 及テ 、達磨宗ト 成 ウ シ ト志シ 、 練中ノ勝弁ト云者ヲ育王山 遣シ 、徳光禅師ニ一片ノ心ヲナケキ 、達磨ノ賛并法衣一張 ヲ贈□也 。其賛ニ云 、 直指人心見生成仏 、大蔵劈ノ門ノ滄 溟 頓ニ渇、 雖モ然徳ス神光ヲ 争 イカンカセン 奈 当 門ノ歯□ヲ云 々 。 能忍、 此賛并法衣誇テ 、日本ノ達磨宗ト号ス 。其後 、 覚晏上人ト 云貴僧一人ア リ。彼能忍、御聞及テ博多ニ下テ弟子トナ ル、 故ニ多武峯ノ達磨宗覚晏上人ト云ヒ伝ル也。此ノ事ニ(ヲ) 恵監 (懐鑑)坊聞及テ即捨テ我宗ヲ上ル洛陽ニ 。二人ノ弟 子ヲハ上 セリ 山 。 令落髪受戒 。我身ハ上テ多武峯ニ 、 聞法 禅、則チ受 ク 晏上人ノ弟子ト。 」 と い う記事が記録さ れ て い る。 奥 書 が な く、 そ の 書 写 年 代 が 明 ら か で な い の が 残 念 で あるが 、従来に知られない記述内容だけに注目したい 。中 国の育王山の徳光から贈られ た達磨の画像に付さ れ た 賛文 なども引用さ れて いるだけに注目に値 す る要文の一つ と み なさ れ る 。ただし、当 て 字 、誤字が少なくないの で 、十分、 注意 を 払 わ ね ばならない 。 こ の 記事 を めぐる真偽検討は今 後の課題にしたい。
九、
﹁拙庵徳光賛達磨画像﹂の模写一幅
︵寸松庵旧蔵︶が売立てに出た
拙庵徳光から能忍に印可證明の証拠品 と し て 贈 られ た「 朱 衣達磨図」は 、顎鬚 を 豊かにたく わえた僧侶の強烈な個性 を 表 現した画幅 で あ る。画面上部には、 「直指人心見性成仏 太華擘開滄 溟 頓 竭 雖然接得神光 争奈當門齒闕 、日本 国忍法師 遠遣小師練中勝弁 来求達磨祖師遺像 、大宋国 住明州阿育王山法孫徳光稽首敬讚 己酉淳熈十六年六月初 三日書」 と い う徳光自筆の賛文が認められて いる。 昭和四十三年に こ の画像 を 詳しく調査さ れ た 徳永弘道氏 ) 24 ( は、その原本は兵庫県尼崎 で 古美術店 を営む 薮 本荘五郎氏 の所蔵品 と いう ことを 明 らかにし 、あ わ せ て その画幅は 、 絹本墨画着色 で 、法量はた て 九 十八 、 〇 、よ こ 五 一 、 〇 セ ンチの掛幅 。箱入り で 、 箱口貼には 、 「渡辺家伝来 、宋人 徳光達磨画賛」 と 書か れて いる こと 、賛語は左勝手に書か れて いるが、赤外線 写 真 を 通 じ て 賛文に欠落箇所がある こ と 、 また後世の補彩があり、後人の補筆 や 入墨があっ て 伝 来当初の美観 を か なり損ね て いる作品 で あ る こ とを 報告し て いる。 ところ で 、鎌倉時代の初期に能忍に付与さ れ た 徳光賛達 磨像は 、近世に大いに注目 を あつめたよう で 、 その模 写 作 品がいくつか伝 わ っ て い る 。「原本あるいはそ れ に非常に達磨宗に関 す る補足事項(高橋) 二八〇 近い存在」 で あ る薮本氏所蔵のほかに 、京都の天竜寺 と 東 京青山の根津美術館にそ れが確認さ れ る と し て 論文 で 報 告 した ことが あ る ) 25 ( が 、 さらにもう一幅 、模本が存在 す る こ とが判明した 。 す な わ ち 京都の古美術商思文閣の売立目録 一一四号に 写 真入り で 掲 載さ れて いる。 解説による と 、 寸松庵旧蔵のもの で ある と い う 。 写 真 図 版 で みる ところ 、 達磨の姿態 、 面貌表現 と い い 、 徳光の賛 文 と いい 、ほぼ同一 で 、模 写 本 も原本に即し て 忠実に 写 さ れて いるように見えるが 、原本に漂う厳 し さは薄 れ 、柔和 な顔立 ち の達磨に 写 さ れて い て 、多少の物足りなさ 、 迫力 に欠ける ところがあるが 、 これもまた近世になっ て 描か れ た と 推定さ れ る模 写 画 で ある。 薮本本 で は 、画像 と 賛文の間に余白 と いうものがないの に 、天竜寺 と 根津美術館 と 思文閣の三幅には 、 画像 と 賛 文 の間に大 きな余白がある こ と 、 薮本本に 「傾竭」 と 記 さ れ て い る賛文の文字が 、 他の三幅 で は 「 頓竭」 と 書 か れ て い る と いう相違点が見いださ れ る 。 ち な みに賛文の表記上の 意味からは、 「傾竭」が適当 と 推察さ れて いる。 なぜに こ の達磨画像は模 写 さ れ 続けたのか 。今は類推に しか すぎないが 、近世に茶道が盛んになり 、床の間に飾る 掛け軸に ふ さ わ しい一幅 と し て 愛玩さ れ た からかも知 れ な い 。 とい う の は 、 この 達 磨 画 像 こそ 、 宋 国 か ら わ が 国 に 将 来さ れ た禅宗祖師画の最初期の遺品 で あ る こ と 、 また画像 に添えられ た 賛文が南宋禅林の名僧 、拙庵徳光の遺墨 で あ る こ とが格別に好ま れ たため で は あるまいか 。江戸時代に 模 写 さ れ た徳光賛達磨像が三幅も遺存し て い る事実は注目 すべきことで ある。 摂津水田の三宝寺 、京都東山の庵室 、大和の多武峰 、 そ し て 越前の波着寺などを 拠 点 と した達磨宗の宗風は 、惜し くも消滅し て しまったが 、 開祖能忍に関 わ る 徳光賛達磨像 は 、茶道の世界に長らえて 生 き 続け 、歴史の ひとこ ま を 語 りかけ て いるの で あ る。
むすびに
達磨宗の信仰活動の足跡 、摂津中島水田における三宝寺 教団の消長など に 関し て は 、鷲尾順敬 、大久保道舟 、辻善 之助、柳田聖山 ) 26 ( 、石井修道 ) 27 ( 、石川力山 ) 28 ( 、船岡誠 ) 29 ( 、中尾 良 信 ) 30 ( 諸氏らの緻密精細な研究成果があり 、おおよその終止符が 打た れ たかの印象 を 抱 か れ た人が多いかもし れない 。 こと に二〇〇五年に吉川弘文館から刊行さ れ た中尾良信著 『日 本禅宗の歴史 と 伝 説』は 、 現存 す る 関係資料 を 網 羅した最 新の成果 で 、 もう これ 以上に追加さ れ る 情報 と 進 展は望め ないか と も予想さ れ た に違いない 。 だがあにはからん や 、 平成二〇年七月十八日に 、名古屋真福寺大須文庫 を 会場に し て 展示公開さ れ た 『 伝心法要』+ 『 宛陵録』+ 『書名未達磨宗に関 す る補足事項(高橋) 二八一 詳(かながき 法語集) 』の三巻一冊 と い う書冊形式 をもった 写 本の出現 、そし て そ の禅籍の書誌解明 を 担 当さ れ た 和田 有希子氏の報告発表は衝撃的な で きごとで 反響も大 き く 、 感慨も ひ と し お で あった。 達磨宗の布教の実態 を 多 少なり と も明らかにしたい と 願 う研究者は少なくない 。筆者も先 学 の驥尾に ふ し て 関心 を 寄せて き た一人 で あ るが 、拾遺す べ き も のは まだ まだ ある 可能性がある 。 達磨宗にかか わ る 関係資料は 、 いつ 、 ど こ から ひ ょ こ り 出 て くるか知 れ ない 。時には古寺の経蔵の中 から 、あるいは未修理の仏像の像内から発見さ れ る 可能性 が考えられ る 。岐阜の即心院に伝来した清凉寺式釈迦如来 像の像内から取り出さ れ た一通の文書からあらため て 、 種 々 の資料 や 関 係 す る要文記事の拾い集めは 、今後も継続し て いかねばならない と の思い を深 くしたほ どで ある。 そ れ にし て も バ ラ バ ラ に離散し て いた 『伝心法要』の 写 本 を 根気よく整え 、当初の原型装丁に復元 す る ことを め ざ し て 悪戦奮闘さ れ た関係者(末木、和田、牧野、米田各氏) の努力 を 心 から称えたい。 本稿は 、東京大 学 の 末木教授から 達 磨宗に関 わ る新たな 禅籍の出現 を 知 らさ れ 、 かつコメントを 求 められ た こと に 促さ れて 、書く意欲が沸 き 執筆したもの で あ る 。 末木氏に 厚く感謝したい 。 こ の原稿 を 書 き 綴 っ て いた折に 、一周忌 を 迎 えられ た 柳田聖山博士の追悼文集が届いた。博士は 『 祖 堂集』の世界的な研究者 で あ られ たが 、また達磨宗研究の 第一人者 で も あられ た 。 こ のささ や か な内容の報告論文 を 博士の膝下に送付 できなくなっ て しまった ことを 残 念至極 に思う次第 で ある。 注 ( 1) 高橋秀栄 「鎌倉初期における禅宗の性格 (序 ) 」 ( 『 宗 学 研 究』第十三号、昭和四十六年) ( 2) た と えば 、佐橋法龍 『道元の全一的仏法』 (『 日本曹洞宗 史論考』昭和二十七年) 、 今枝愛真 『禅宗の歴史』 (日本 歴史新書 、昭和三十七年) 、嗣永芳照 「日本曹洞宗に於 ける大日能忍の達磨宗の消長」 (『 書陵部紀要』第十八 号 、 昭和四十一年) 、矢島智津子 「禅宗成立期における日 本達磨宗の位置」 (『 東洋大 学 大 学 院紀要』第六号 、 昭和 四十五年)などが発表さ れて いた程度 で あ る。 ( 3) 鷲尾順敬 「大日房能忍の達磨宗の首唱及び道元門下の関 係」 (『 日本及日本人』第三三八号、昭和十一年) ( 4) 大久保道舟 「道元禅師の僧団結成 と その会下の僧衆」 (『駒 沢大 学学 報』第一輯、昭和十六年) ( 5) 辻善之助 『日本仏教史』第三巻 、中世篇之二 ( 岩波書店 、 昭和二十四年) ( 6) 高橋秀栄「大日房能忍 と 達 磨宗に関 す る 史料 (一)・ (二)」 ( 『 金 沢文庫研究』第二三九 ・ 二四二号、昭和五十二年)
達磨宗に関 す る補足事項(高橋) 二八二 ( 7) 和田有希子 「新出初期禅宗聖教断簡の復元 と 研究」 (『 プ レ・ カ ン フ ア レ ン ス 真福寺大須文庫聖教展観―中世宗 教テ ク ス トの世界― 』(名古屋大 学 大 学 院 文 学 研究科 、平 成二〇年) ( 8) 田島柏堂 「 日本曹洞印書史の研究」 (『小出有三先生古稀 記念論文集』昭和三十八年) ( 9) 『仏教考古 学 講座』第三巻 ( 10) 千葉正 「中世真言密教の禅宗観」 ( 『 宗 学 研究』 第 四十四 号 、 平 成十四年) ( 11) 高橋秀栄 「私家版日本中世の天台僧人名辞典」 (平成十七年) ( 12) 村上素道 『永平寺二祖孤雲懐奘禅師』 (京都永興寺内参禅 会本部、昭和二年) ( 13) 鈴木省訓 「訓註 『 誠拙禅師語録』その三」 (「 駒沢女子短 期大 学 研究紀要」第二十三号、平成二年) ( 14) 石井修道 「正法寺文書よりみた日本達磨宗の性格」 (『 仏 教 学 』第三十五号、平成五年) ( 15) 『昭和定本日蓮聖人遺文』二四五頁 ( 16) 宮崎英修 「教機時国抄にみられ る大日仏陀―大日仏陀 と 大日仏地―」 (『 大崎 学 報 』第一三六号、昭和五十八年) ( 17) 『日本彫刻史基礎資料集成』 (編纂者代表 ・水野敬三郎 鎌倉時代 、造像銘記篇 1、図版九十一頁 、中央公論美術 出版、平成十五年) ( 18) 青木淳 「快慶作遣迎院阿弥陀如来像の結縁交名―像内納 入品資料に見る中世信仰者の 「結衆」 と そ の構図―」 (『 仏 教史 学 研 究』第三十八巻二号 、平成七年) 。同 「仏師快慶 と 天台関係の造像活動」 (『日本宗教文化史研究』第七巻 二号、平成十五年) ( 19) 高橋秀栄 「三宝寺の達磨宗門徒 と 六祖普賢舎利」 (『 宗 学 研究』第二十六号、昭和五十九年) ( 20) 清水真澄 「岐阜 ・ 即心院の清涼寺式釈迦如来像」 (『 仏教 芸術』第二六〇号 、毎日新聞社 、平成十四年) 。 ち なみに こ の 仏像は 、 平成二〇年十月三日から十二月七日ま で の 期間 、神奈川県立金沢文庫 で の特別展 「釈迦追慕」 で 展 示さ れ た 。 ( 21) 中尾良信 「摂津三宝寺関係史料」 (『 曹洞宗研究紀要』第 十八号 、昭和六十一年) 。 筆者は、奈良国立博物館の 学 芸 課長 で あった河田貞氏から 、 写 真の複 写 を 提供し て い た だき 、 こ の文書の文面 を 翻 刻したため 、 端裏に 「 聖順房 証文」の五文字の墨書がある こ とを 知らなかったが 、 後 日 、中尾氏が こ の端裏 をも丁寧に翻刻し て く れ たおかげ で 、即心院の仏像から発見さ れ た 「聖順房範永」 と 達 磨 宗の関係文書にみえる 「範永」 とが同一人物 で あ る こ と を 確かめる ことが で き た 。 ( 22) 原田正俊 「達磨宗 と 摂 津国三宝寺」 (『 有坂隆道先生古稀 記念論集』平成三年) 、西岡秀爾 「 摂津中嶋三宝寺 と その 周辺」 (『印度 学 仏 教 学 研究』 第五十五巻二号、 平成十九年)
達磨宗に関 す る補足事項(高橋) 二八三 ( 23) 飯 塚 大展 「龍谷大 学 図書館蔵 『大徳寺夜話』 を めぐっ て (一)―資料編― 」( 『駒澤大 学 禅研究所年報』第十号 、 平 成十一年) ( 24) 朝日新聞社発行の古美術研究誌 『国華』九二九 ・ 九 三〇の 両号に詳細な調査報告が掲載さ れて いる。 ( 25) 高橋秀榮 「大日房能忍に附与さ れ た達磨画像 を めぐっ て 」 (『 宗 学 研究』第二十九号、昭和六十二年三月) ( 26) 柳田聖山 「日本達磨宗は何 を 説いたか」 (人類の知的遺産 16『ダルマ』 、昭和五十六年九月) ( 27) 石井修道 「仏照徳光 と 日 本達磨宗―金沢文庫所蔵 「成等 正覚論」 をて がかり と し て ― ( 上) (下) 」( 『金沢文庫研究』 第二二二 ・ 二二三号、昭和四十九年十一 ・ 十二月) 石井修道 「日本達磨宗の性格」 (『松ヶ岡文庫研究年報』 第十六号、平成十四年三月) ( 28) 石川力山 「達磨宗の相承物につい て 」( 『 宗 学 研究』第 二十六号、昭和五十九年三月) 石川力山 「越前波着寺の行方」 (『 宗 学 研究』第二十八号 、 昭和六十一年三月) ( 29) 船岡 誠 「 日本禅宗史における達磨宗の位置」 (『宗 学 研 究』 第二十六号、昭和五十九年三月) 船岡 誠 「能忍 と 達 磨宗の創唱」 (『 日本禅宗の成立』 所収、 吉川弘文館、昭和六十二年) ( 30)中尾良信 「能忍没後の達磨宗」 (『 宗 学 研究』第二十七号 、 昭和六十二年三月) 中 尾 良 信 「 達 磨 宗 の 展 開 に つ い て 」( 『 禅 学 研 究 』 第 六十八号、平成二年三月)