九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
ハイデッガーに於ける實存と無の性格
佐々木, 一義
https://doi.org/10.15017/2328851
出版情報:哲學年報. 9, pp.77-104, 1950-07-20. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:
権利関係:
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一︑序ノ 説
私は或る時代の苦悩と見えざる傷とを雌もよく顯示するものは︑其の時代が問題とすz問題であると考え乙心今ま
でそれに自己遼委畑︑それによって自己の生活の安全と︑自己の糀紳の立命とが確保され一﹄いる様に見えていた虚の
精祁的I文化的地盤や︑經濟的I政治的支柱が突如として崩壊し︑それによって人川的現存の内的なそして外的な安全
さが全面的に解消する時︑人は好むと好まざるとに拘らず無の前に立たされ︑更めて己れ自ら蓮見つめざる注得なくな
るであろう︒何故芯らぱ︑此虚にこれまで外面的な行爲や思索にのみ己れと委鯉ていた自己を己れ自らに引きもどす
深淵が蛮存の中に顯わになるからである︒測り知ることの出来ない深淵に立たされている自己莅識ろ時︑何等有の確乎
たる地盤症持たない頼りなさの中にある己れを發兄する︒それはこれまでの人が如何に多く意識されない力によって
循わ伽︑古い知的財によって本能的に導かれていたか在我盈に示してくれる︒己れ自らの力や考えによって自己の生活
を再び建一﹂直そうと決意す伽ぱする程︑却って人はそれによって己れ自らの力や考え牡破壊する結果になってしまう
このzとが現代怖勢の著しい特色逓芯すものではなかろうか︒そして此堤に過去に隠さ伽ているが︑而も歴史の根
本的主題症なす人間的現存の最も内面的な問題が現わになっていろと思われる︒人は今日確かに無の前に砥かれてい
−恥ろ︑否な︑︐無の上に立たされている︒何故ならば︑無それ自体の中に凡ゆる傳統的なもの︑全ての存在せるものへの
本賀的な敵意が︑つまりそれを全面的に破壊し去らんとする意志が存在しているからであ渚︒だが我糞は此の意志の
中に一つの大きな肯定が隠されているの逓汚過する︸︶とが州來ない︒方向のない混沌への意志のより深い意義はY本
來自由な創造と自己方向付けとへの意志であると考えられるからである︒だから︾︶そ人は凡ゆる傅統的なもの︑存在
せるものを破壊しつくすことに蚊早滿足せずして︑むしろ更らに徹底的に自己の存在逓無に委飽ながらも︑而も岐早
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イデッガーに於ける實存さ無の性格
佐々木一義
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無に破壊し去られることのない尻海の存在と確乎たる濟存の茶盤とを新たに嘘得し︑再び之逓取り返えさんとして苦
悩しているのである︒此の意味で現代は川邊元博士の所謂﹁全くその擦る所症失い虚無に逢着して︑文字通り無から
の再出發をし江ければならない﹂︵畦不安の時代であり︑未竹有の崩壊不安が我交の目前に迫り來って我糞を脅して
いる時代と謂えよう︒
︵註︶田謹元署︑﹁疫存と愛と賓践﹂六頁
︾此の檬芯不安に畷されているのは︑演際の生活領域のみならず︑それは深く形而上學的意識にまで浸透していろ︒
此の点で喧糞たる日常生活と靜寂なる害齋の仕事とが完全に一致していると見られぬでもない︒今日睡存哲學思想が
︲全く本礎的な特徴を以って時代の統祁的状況を規定している庭から見ても︑今日の祈畢が如何に脅かさ郡た﹁涜存﹂
の哲學であるか営明かになるであろう︒﹁溌存﹂︑そ伽はこの様な意味で確かに時代の言葉であり︑時代の問題なの
である︒
〆
狂存が時代の言葉︑時代の問題であるとすれば︑溌存思想に基く哲學的方向も同様に時代の哲學で稚ければならな
い︒虚で私が此虚で取扱うとする主題はハイデッガー︵冨夢罠冒国9号膿月︶の﹁涯存﹂に關する問題である︒だから
私にとつイほ︑ハイデッガーの﹁狂亦﹂の概念内容逓明かにすれば蕊足りる︒それはハィデッガーの﹁簡存﹂の概念
が彼渦自の意味内容を持っているからに他ならないのではあるが︑他面同時に︐盃存哲學が唯一人の思想家の仕事では
芯くて︑却って非常に異った方向に於て唾はあるが同一の目標に向って探究の歩を進めて來た多くの祈學者逹の共同・
の作業で壁もあったことよりして︑ハイデッガーの麓存に開す﹄っ思想が打學史的流れ一とくむ多くの思想内容を包含し
ている︾︶とも着逃す鐸には行かない︒此の様な意味で︑私はハイデッガーの﹁費存﹂の概念と共に︑むしろこれが基
礎付けとして︑﹁費存﹂一般の許遍的な概念内容を明確にして匠く必要があると思う︒
﹁質存﹂︵国閃璽の旨︶という語を術語として初めて取り上げ︑その諏學の中心思想としたキェルケ今コール$・園2●︲
府磐胃らは︑商存的涯概念に就いイーは︑定義を避けようと↓することこそ肋のよい證擴である︑と語ってい﹄令﹁震
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二︑.實存の概念
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存﹂という概念は︑之と定錠しようとすれば︑結局空疎なものになるといふ意味であろう︒成る程︑キエルケ今コール
瞳﹁斑存﹂に關して渋直接に定義付けをしてはいない︒然し彼は決して﹁在存﹂を空疎な無内容のまAに放世したの
ではなくて︑寧ろ彼が﹁實存﹂の下に理解したものが如何に豊富な而も特殊な具体的意味内容症持ったものであるか
は︐彼の著書全般を通じて見るならば容易に把握出來ろところであって︑之と概念にまで麓らすことも左程困難なこ
とではない︒私はこの様な意味でも私なりに論述の歩を進める上に一應これが概念と確立して見度いoそこで私は﹁
壷存﹂とは何か︑に就いて答うべきであろうが︑それ以前に﹁存在﹂とは如何なるものであるか︑それと附明にして
おか鰹ぱならない︒何故ならば︑一般に因濁再曾瞬との①旨とは同じ様な意味で使用されているからである︒アリス
トテレースによれば︑﹁存在こそ他の伽ものよりも蚊も普通的なもの﹂詮一︶なのである︒何故ならば︑﹁理解の中
に溌初に捕えられているものは存在︲一であり︐﹁その了解は人が存在に就て捕える全てに既に含まれている﹂詮二︶
がらなのである︒確かに存在に就いての理解は人が存在者に於て捕える全てのもの土中にすでに包含さ肌ている韮刷通
性である︒然し此の様に存在といふ概念心持つ普遍性は︑動物や生物或は物体乃至蛮体等の様な類概念の持つ普遍性
ではなくして︑全ての類的な普遍性症超えているものである︒中世に於ける存在論の表現を借りれば︑それは一つの
超越といふ概念なのである︒近世に至ってヘーゲルが存在を︐﹁無規定的な直接看﹂として定義することによって︑
それ注彼の論理學の他の一切の範鴫症導き出す韮盤としたことも︑彼が存在なる概念を草なる類的普遍性と解せずに︑妓高の普遍的概念として理解していたことを物語るものである︒
︵註一︶・陸爵さ亙吊帥冒①言喜君一目.国全.邑臼酌圏
︵注一こ閃ご臼匙鐘.・国蝕む④四コ四画︑︑
存在の概念がこの様に妓高の普遍性を持つとす伽ぱ︑其虚から必然的に推論されることは︑存在なる概念は定義す
ることが出来ない.といふことでなければならない︒定義は隣接の類と睡差とによって可能にせられるからである︒
例へぱ︑動物の概念が種差として假りに﹁自ら自由に動くもの︲一といき︶とを持つとすれば︑﹁生命ある物﹂として
の生物の概念に﹁自ら自由に動くもの﹂といふ種差筵加えることによって︑動物への定義付けは可能になる︒然し存
在といふ概念に於ては︑此の様な様式による定義付けは不可能である︒何故ならば存在︵ある︶と定義しようとす
れば︑﹁SはPである﹂といふ形式︑具体的に一云へば︑﹁存在︵ある︶とは⁝・・である﹂といふ形式に於て表現され
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ざる駐得ないからである︒この際︑﹁何糞﹂とは何であるかを問うならば.概括的に﹁或るもの﹂であ︾やと答えざる
を得ないであろう︒だが﹁或る物﹂︐とは何等かの意味で﹁在るもの﹂︑﹁存在するもの﹂でなければならぬ︒とすれ
ば︑定義さいようとする言葉が意味不明の主上定義の中に於て使用されろといふ非合理を犯している︾︶とになる︒そ
伽ばかりではない︒﹁:⁝・であ与昌と表現する場合︑我友は常に既に﹁ある﹂︵存在︶駐用いている︒從って﹁存在
﹂︵曹sは又それ自らに於て自明的な概念として全ての言表.凡ゆる認識・研究に閥して用いられる庭の︑概念で
さへあ﹄令我糞が何ものかに就いて云卦時︑そのものがそこにあることを常に既に知つ一﹂いるのであり︑我凌が刊等
か心の情況に關して語る場合︑その事柄が其虐に横わっていること逓常に豫め理解しているのである︒此の意味で存
在程人糞によって熟知さ那了解されている庭のものはないと謂える︒と同時に恰も亦その理由から存在の概念程規定
するに困難なそれはないとも考えられろ︒﹁存在は定義的に︑より商次の概念から引き出すことも出来なければ︑
l何故藤らぱ.存在は定義的に雌も高い概念であるからであるlより低い織念にょ2﹂表現て2とも脳来ない
﹂詮一︶ものである︒それは存在が最も低い概念について云われる事柄であり︑存在と表現するものが存在そのもの
でぞ︒からである︒かくて存在の概念は蚊も自明な︑それ故に却って鐘も定義し難い獣念であると詔わいばならな
い︒紘局此虚でもヘーゲルの﹁存在とは直接的にして無規定なもの﹂といふ言葉を繰り返﹄えさごろ症得ない︒直接的
なものは勿論必ずしも抽象的ではないが︐︾て伽は無規定的であり︑その限りに於て室漢たるを菟伽猟であろう︒ヘー
ゲルが直接的なる存在逓非存在と同一脱した様に︑存在が無規定で曹っ限り︑それは無に等しい︒杵通的な存在はそ
れだから却って内容がなく︑存在は事物の普遍的なものと表現するが故に無規定的なものにならざるを得ないのであ
︑ろ︒とすぃぱ︑ハイデッガーの詔必様に成る程﹁古代希臘の存在論の中にその華礎を持つ虚の傅統的な論理學の定義
の仕方は︑存在そのものには適用されない﹂冠三かも知れ症い︒が然し存在なる概念の定義し難いといふ乙とが︑
その意味に關する問題と措定すや今︶とを免除するのではなくて︑却ってそ郡を要求して己ま芯かつたし叉要求して己
まないのである︒だからこそアリストテレースは存在を存在として︑存在が存在である限りに於て︑存在そのもの症
研究せんとすることを形而上學としたのである︒フヒジークは自然的事物を對象とするが︑︑メタフヒジークはこれ等
自然的事物児n後にあり︑之逓支へそれをしてそ伽たらしめている所以のものと探究しようとする︒自然的事物は特
殊的な或る物であるが︑或る物は根底的には一︲宿るもの﹂でなけ伽ぱなら芯い︒だから事物を存在として捕えること
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は︑事物在火として︑水として︑室氣として把えることよりもより根源的であり︑より普通的である筈である︒存在はこの様に古い時代から研究せら帥た中心問題であったし︑叉現代に於ても尚ほ探究せられつ上あり︑叉將來ともに探究せらるぺき永遠な重要な課題であるであろう︒
︵註一︶員・国①蔓の路⑦罵陣冒冒昌浮許乞鵲加聖
︵註二︶声.〃苧○・m﹄
現代の蹴群の諏學も亦此の存在の問題筵問題としている︒然しそ伽に於てば存在が存在として単に取扱わ伽ている
のではなくして︑.特に﹁賀存﹂として把握せられているのである︒その理由は一体何虚にあるのであろうか︒存在は
定義することの出來芯い最も韮脚迦的な而も草純な概念であった︒存在の斯様な消極的規定によっては︑存在について
何事も語られていないに等しい︒より械極的な存在規定が得ら郡ないものであろうか︒若・しそれが雄得され得るなら
ば︑其塵から変存の識極的規定への通路が開けて來そうである︒其虚で存在︵ある︶の表現形式に佳驚を向けるなら
ば︑我左は普通︑存在︵ある︶の概念が少くとも二様の異った意味に於て語塾恋ていることに氣付くであろう︒その
一つは﹁Sがある﹂と表現される場合の﹁ある﹂と︑他はや﹁SばPである﹂といふ表現形式をとる際の﹁ある﹂と〃
である︒通常我交は此の﹁がある﹂の﹁ある﹂も﹁である﹂に於ける﹁ある﹂も︑同じ様に﹁存在﹂︵ある︶といふ
概念で総括していろ︒雨者の間には形式の上では何等の相逢もない様であるが︑果して本貫的に異るところがないの
であろうか︒﹁Sがある﹂という場合︑﹁が﹂は日本語雁於ては申寺迄もなく︑用言に釣して主語たるものと示す格
助詞であるから︑﹁がある﹂に於ける﹁ある﹂はSの︑王休であることを明示し︑Sといふ對象を絶對的に措定し︑そ︲
の存在を端的に認容してい全盲難である︒虚が﹁SはPである﹂に於ては︑之と趣と異にして︑Sなる主語に對して
Pといふ述語を相對的に措定しているので・ぞっ︒山川孝雄博士の御読によれば︑﹁である﹂は﹁に﹂叉は﹁と﹂とい
ふ助詞が﹁あり﹂と熱合して形成された﹁なり﹂﹁たり﹂より鍵移したものである︒薩一︶だからそれは﹁に於てあ
り﹂﹁に於てある﹂の様に︑一般者の場所的限定匪三症示すものと考えてよいであろう︒つまりSとPとが﹁であ
る﹂によって相對的に措定さ夘共庭に一つの判断が成立する場合︑﹁主語と述詔との關係は同列的なるもの典關係で
はない︒述語はいつでも主語を包むものである︑﹃於てあるもの﹄と場所との關係でなければならない﹂・詮三換
言すれば孵殊が一般に於てあること逓意味す黒毛とすれば︑﹁である﹂が表現するPは一般者であり普遍者である︒
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つまり可能的存在者なのである︒アリストテ吃−スにょ伽ぱ︑本賃でありざ匪⑦巨・冒昌である︒涯巴そい健﹁何
であるべくあったかのもの﹂である︒彼は本鷺症厳密に零鯉るならば︑﹁何で老つか﹂でも﹁何であったか﹂・でも充
分でなく︑現在の﹁ある﹂と過去の﹁あった﹂とを一貫して亦在する﹁何である雲へくあったか﹂と問うべきであると
考えたものらしい︒本賀はだから存在の全過程に於てあるもの︑超時間的存在とも詔うぺきものである︒假令それが
佃盈の存在の中に存在するにせよ︵アリストテレース︶︑之を超えて存在す﹄︒︵プラトーン︶にせよ︑佃友の存在者
に共通し︑そいをしてそれたらしめるもの︑何であるかと問われるなら︑﹁・・・・.・・である﹂と答へられるもの︑即ち定
義.ロ傘コスによって示される様な存在なのである︒この様な性格を有する存在をアリストテレースは︑の閉g冒と呼
んだ︒此の易︑g爵に對して計昌の詮へ佃物︶と名付けられる佃別的な猫自の存在は︑﹁Sがある﹂に於ける﹁ある﹂
が端的に絶對的にSなる對象を定立する時︑其虚に現庇的な對象として織成せられる虚のものである︒この様にして
措定さ肌た現筏的な對象としての個物は他の如何なる對象によっても代えることの出來ない個別的な渦自の存在であ
ると同時に︑現在其虚に存在していてもなくなることもあり︑過去に於て芯かつたこともある虚のもの︑即ち﹁軍に
ある虚のもの﹂︑・謂わぱ︑時間的な具体的江存在である︒それは一般にの〆璽呂冒と稲せられるものである︒かくて
1
我堂は︑蒋逓者であり本賀存在である鹿の可能的存在と個別的な猫自の存在としての現在存在とが存在に於ける二つの在り方であることを知り得たが︑我掩が日常︑存在と詔必時︑それは可能的存在︵︵甑呂冒︶を指しているよりも︑
我掩に經験的に認識し得られる具体的存在者︑即ち佃物としての現溌存在︵の〆專の目らを表象しているのが一般であ
る︒そして私はこのの凶︑弓邑冒である現繊存在を狂存として理解する︒
︵註ご山田孝雄博士︑﹁日本文法論﹂三三五頁以下
︵註二︶西田幾多郎博士︑二般者の自畳的体系﹂参照
︵註三︶西田幾多郎博士︑.般者の自発的体系﹂に於ける﹁述語的論理主義﹂の章︒︵西田鍵多郎全集第五巻五九頁︶・
︵註四︶シ周一切さ討胃畠冒の宮屋虫3.第五巻第七章並びに七繕第一牽及り第四章参照︑
確かに瀝存は普遍的な存在に對して個別的存在として︑可能的な猴在に對して現在存在として規定される︒此の意︲
味で存在を軍なる普通的可能的な存在から唾別し一﹂︑眞に具体的な現斑存在として把握しようとするのが現代の涯存
哲學ではある︒然し篭亦哲學に於て問題とする従存は︽存在を普通的可能的存在より唾別して具体的な現汪的な仙別
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的存在として規定しただけでは必要にして充分な規定とは云えない︒それは如何芯る理由に基くであろうか︒之逓明・
かにする爲には︑﹁がある﹂と﹁である﹂との關係とより深く検討して見るところがなくてはならない︒プレンタル
ノ︵園.厚g言:︶は存在註眞正面から取り上げて︐全ての判断を﹁Sがある﹂の存在判断に蹄着せしめようとした︒
彼は直立的な意味の存在を斥けて個物の存在に一切の判断の基底を見ようとしていろ︒彼は判断一般に關して︒
︐.﹁判断は表象された徴表の分離叉は結合では菰い︒今﹃Sがぞこといふ時︑之れはSに﹃がある﹄といふ徴表を
述語として結合することではなくてS自体と承認することである﹂晨一︶
の如く考えていろ︒此の際︑プレンターノの承認するといふことは佃仙判断的な意味に於て詔われるのではなくて︑
あ名もの凸存在症直下に認めることに他ならない︒從って現在存在である佃物の存在筵直下に認める知琵も判断であ
る︒彼はつまり一﹁SはPである﹂の定言判断は﹁S焼おる﹂の存在判断に遠兀し得られろと説く︒﹁ある人が病氣で
ある﹂とは﹁ある病氣の人がある﹂といふことと等しいと考えるのであって︑彼は從ってコプラ﹁である﹂と﹁があ
る﹂に還元せしめようとするのである︒虚がヴィンデル今︿ンドは之に反對して﹁凡ゆる判断が存在判断に還元し得ら
・れろということは無意味塗言説でしかない﹂︵註二︶という︒それは此の場合︑存在とは何還意味するか営妓も廣い意
味で主張せらろ上時︑全ての判断症存在判断に還元せしめることは︑唯だ文章牝書きかえることに過ぎず︑それ以外
の︑叉それ以上の何もの在も物語っていな伽からであるし︑叉之に反して存在の概念筵︑外界に存在するものAみが
それによって意味せらる上時︑凡ゆる判断症存在判断に埋兀することは不可能なことに脇するか︑或は存在の一つの
概念からひそかに他の概念に移すことによってのみ可能であるからである︒この様な意味で﹁判断が存在判断である
といふのは無意味な仕業であるか︑或は畢党不可能な企て野あるであろう﹂︵践三︶と彼は調う︒プレンターノに對す
るヴィンデル今ハン頂の此の様な非難は︑彼がカント的立場に立って︑判断のコプラが存在的なものと意味せず︑判断
の必然性叉は安當性を表現するものとして考えていたからに他ならない︒然し判断に於て主僻と蜜僻とを結合するコ
プラは唯だ草に二つの概念の必然的關係症表現しているのではなくて︑むしろこの必然的關係の存在そのものを表現
しているのである︒判断に於けるコプラは存在から雛在した安當性をではなくて︑存在そのもの上ロゴス的表現を意I味することは︑いみじくもアリストテレースの既に道破せる庭である︒凡ゆる判断淀存在判断に還元することも此の︲
存在性を明かにする爲にであって︑他の如何江ろ理由からでもない︒此の様な意味でヴインープル今ハンドのプレンター
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ノに對する批判は安當性逓妖ノ︑ものでは江からうか︒
.︲︵駐一︶園.国胃の目言己.9屯望昌ろき四の︑国︵一目・砂坐②
︵註二︶量﹃旨号罵言目鼻田①弓侭①醸胃園の胃⑦ぐ○巨匡偶昌くのご戸・言凄め︑扇心
.︵註三︶星く旨q9ケ目寺⑦ずつ匡堅鈎
斯様に全ての判断が存在判断に還元せられ︑判断が存在そのものを表現することを認容するとして︑而も判断の存
在面を蚊も集中的に代表するものがコプラとしての﹁である﹂とするならば︑それは主僻と賓僻とを連結すると︾︶ろ
のものではなくて︑判断がそれの表現である庭の存在の在り方在ロ︑コス的に限定することを意味する︒此虎に於ては
︑特殊と考えられる﹁に於てあるも2としての主瀞が︑蒋逓者と考えら飾る﹁に於てある場所﹂としての笂瀞によ
って限定ぜら郡ろことと︑具体的に云へぱ︑﹁が曹己の限定としての在り方を︑示すのが﹁である﹂としてのコプ
ラなのである︒特殊が普遍者に於て在る在り方と示すのがコプラである︒﹁此の花は赤い﹂と云う判断はプレ・ンター
ノの説く様に﹁赤い花が其虚にある﹂といふ存在判断に遼元出来はするが︑同時に﹁此の花は赤に於てある﹂という
様に︑此の花が軍に其虚にあること牡直下に認めるばかりでなく︑﹁赤に於てある﹂在り方を表現していると見鰺ぱ
なら江い︒それは﹁此の花﹂といふ仙物が﹁赤﹂といふ杵遍者によって限定せられることによって︑此の花の具体的
な現蛮的な在り方を表明しているのである︒﹁彼は學生である﹂の場合に於ても︑彼といふ個別的な現疵存在が許逓
者によって限定せられることを通して學生としての在り方駐示している︒佃別者は普遍者としての場所に於てあるこ
とによって其の具体的存在が表現せられ現狂の姿を民ら顯わにする︒
畢党︑﹁である﹂は﹁がある﹂の限定であり︑﹁がある﹂の在り方症﹁である﹂の限定によって言表する虚のもの
である︒而も﹁である﹂が還元せられる﹁がある﹂によって措定される主僻は仙別的な澗自の存在︑つまり現疵存在
であった︒此の現實の存在症限定することによって其の在り方と示すものが﹁である﹂に於て言表されるのである︒
では斯様に限定する働きの主体は何であるか︒ハイデッガーの用語に從えば︑現灘的存在者は物在者︵号︑ぐs・盲屋︲1
号員︒臣置屋︶や用在者︵号︑国戸言昌呂固ら︑即ち道具負の匡巴詮一︶ばかりでなく︑人間も此等存在者のⅢに介在
する一つの現謎存在者なので診名虚がレヴィットの説く操に︑物在春も用在者も共に自ら自らを限定し︑自らの在
り方を規定することは出來ない︒詮三此等の存在者は亡くなったり︑見付つたりする︒このことは人と人との根源
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的な關係から導き出された表現である︒つまり斯様な表現は︑所謂﹁事態﹂︵曾呂︲ご良﹈農︶なるものが人川的關係より派生さ伽た一つの概念で診・ことの証左とも云える︒何故ならば︑物在者も用在者軒共にそい自体に於て存在す
ることも出來なければ︑呪んや人間に對して振舞うことも出来ないからである︒だから人間が之と失う場合に亡く菰︑
ろのでありい人間が之を見出す場合に見付かるのである︒此等の現庇存在薪は人側が他の人間に對して振舞うことが
出來ろ様に︑自ら人間に對して振舞い態度を決定することは出来燕いのであるから︑共等が他の物在者や用在者に對・
して自ら働きかけることが出来ないのは申す迄もない︒だから厳密に考えるならば︑此等の存在巻が相互に關係し︑
自らの在り方筵自ら決定することは勿論︲他の存在者の在り方牡限定することは不可能である︒︑インクは自らの在り
方を自ら限定することが出來ないと同様に︑自らインク壷との關係を柵成しインク壷の在り方と規定することば出來
江い︒逆も亦同様である︒にも拘らず︑此等存在者の間の相互的な關係が口にされるが︑乙郡とても如上の意味に於
て︑まさしく擬人的表現と考えられるのであって︑根源的には他人に對して︑他の物在者︑用在者に封して︑自ら振
舞い態度を決定することの可能な人間そのものに︑その根擁を持っていろと見想ばならない︒
︵註一︶国①一号膿⑦罵酔旨冒旦圃昌亟.急驍ぐ唱・胃9F但︒ご器鞭昌﹄号切言︵冒口己君農ご侭畠目の昌呂
︑のざ匡竪①臣︒
︵註二︶属胃骨︼ぢ⑦三号己鼠目昌昌含二冒旨号冨罰昌⑦号切昌冒目の易︒言旨.岳麗.い︑呂罵ぐE︐・胃︑︒眉.唄岳.
辱い⑦ロ全国与君畠戸冒︵﹄ご頤のロユ画盲四・.
物在者や用在者の様な現蛮存在が自ら︑自ら筵限定し︑從って自ら他の存在者の在り方を規定することが出來ない
とすれば︑此等現貸存在者に對して何等かの様式で︑直接にしる間接にしろ︑關心交渉し自ら此等存在者の在り方蓮
決定することの出來ろ・人間︑換言すれば︑此等存在考逓有ち︑而も此等の現在存在者と同様に一つの現狂的存在者で
旬ある人間こそ︑患ご限定する働きの主体でなければならない︒﹁限定は事物荘持つ人間の有ち方の限定である﹂・
啓一︶だからこの限定は︑現迩に此等存在者莚持つ場合でも︐或は此等存在者猛持つと催定してその有り方のみ筵問題
とする場合でも︑同じ榛に行われるのである︒だから一般的には︑常に﹁がある﹂乙延に基いて︑判断の形式から云
えば︑・プレンターノの様に存在判断に基いて︑それが﹁である﹂注問題とするにも拘らず︑抽象的にはそのものL有
無を問題外にして︑﹁がある﹂の限定である虚の﹁である﹂のみ筵問題とすることが出來るのである︒とすると﹁あ
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り﹂が物在薪や用在春の様な現流存在蒜について語ら飾る限り︑﹁がある﹂は人川が有つ︽ことであり︑﹁である﹂は
人洲の有ち方の限定なのである︒この様に見て來ろ江らぱ︑﹁がある﹂と﹁である﹂との厘別︑プレンターノにょつ・
ては問題とせら師なかった此の厘別は︑.結局人間といふ現翫存在者の内部に於けるそれでしか漣い︒そして此の雨者
の根底に根源的な﹁あり﹂を認めろとするならば︑それは人間的現存の存在でだけいばならぬ︒
〃︵註己私は以下本稿に於て峰人間といふ現変存在者を他の現変存在者と厩別する爲めに︑レヴィットに倣って﹁人間的現存﹂
︵冒の易︒匡言篇︑ご易の旨︶口らのご吾言齢.蝉.○・mごといふ表現を用いる︒
.︵詮二︶和迂哲郎博士︑﹁倫理學﹂︵岩波哲畢跳座︶八七頁︒
かくて現睡存在の中の一つの現溌存在である人間的現存に於て︑現在存在の意味が他のそ肌とは比較にならない程
の重み牡以って︑蛾も明瞭にそして弧く具体化されて來る︒現在存在は腿糞ご儲⑦旨といふ言葉で表現されるが︑こ
のご酉といふ語は﹁其虚にあるもの﹂或は﹁現にあるもの﹂淀意味するところからして︑三︒・g冒冒5︵其虚にそ
して今︶︑つまり時間と空間とと表現するものとして現在的なる存在を示すものと考えられる︒だからそ伽が物在者
であるなら﹁そこにある﹂を︑用在考でもそれが生物であるなら﹁生存する﹂註意味することになろう︒然し乙如が
人間に於ては単なる﹁生存﹂につきるのでは江く︑先づハイデッガーの云う様に︑﹁自己の存在に於てまさにこの存
在そのものが問題である存在考﹂︵註ごとして︑﹁自己の存在に於て此の存在者そのものが問題であるが故に此の存
︑在はその都度私の存在﹂︵註三として生存しているのである︒それはキェルケゴールの﹁自己とは自己自身にかiわ
る關係である﹂︵註三といふこと上軌を一にする︒自己としての人川は︑班なる關係ではなく︑關係が自己自身にか︲
Lわる様な自己として生存しているのである︒人川的現存はそ弧ばかりでなく︑﹁あれやこいやの態度をそれに對し
て持つことが出來︑叉常に何等かの仕方で態度をとる虚の存在﹂濯巴としての在り方に於て生存しているのであ
﹂っ祖人間的現存は畢党︑自己の存在そのものに自ら關心を持ちつ上︑その存在と自己猫自の仕方で決定して行くこと・
の出來る常自己的な佃別的存在である庭の生命的現在存在なのである︒換言す伽ぱ︑稠自の在り方で存在する現涯存
在であり︑か上る仕方で存在する現齪存在としてその都度私自身である虚の存在薪である︒私はこの様な人間的現存
の︑他の現凝存在とは異った渦自の在り方をハィデッガーと共に優飾た意味に於て﹁礎存﹂として把握する︒かく見
て來ろならば︑﹁疫存﹂とは単に︑許遍的な可能的存在に對する佃別的な現睡存在と意味するばかりでなく︑現霞存
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変存について︾嗣まで知り得たことは︑単なる可能的領域にある存在︑即ち可能的存在ではなくて︑現資にあるも
の︑即ち現涯存在であり︑考えられ槻ら飾る客体的存在ではなく一﹂行嬬的主体でなければならなかった︒而もそれは
一般的な現疫存在に止まるのではなくて︑人間的個別的存在であり︑他からの限定の中にありつAも︑自鉦によって
自らの在り方荘自ら決定し得る存在者︑つまりキェルヶ雫コールの所謂﹁あれかこれか﹂︵固岸言畠の尾︲○号この決断の
主体で稚くてはならない︑といふことであった︒乙飢を要約すれば﹁現麓に行爲により成立す﹄繍坐︲者としての自己
の︑自由による決定に基く存在の自墨﹂︵廷として定義付けられるであろう︒此の様な蛮存は常に自己に關心と持ち
自己とのかAわりに於てありつ比︑本來の食噌屋震︒ご自己︑腫狂の自己になろうとし︑眞の自己を求めている︒斯
様な在り方としての疫存症人間的現存の本來性であるとする江らぱ︑人川的現存は常に本來的自己に於てあるであろ
うか︒換言すれば︑人間的現存は日常性に終て本來の自己を失った非本來的な︵屋巨措のロ豊g︶状況に於てあるので
はなかろうか︒それは凡俗性の中へ頽落︵ぐ日註目こした人川的現存の在り方に於てあることであり︑本來の自己自
身に目毘めようとはせず︑空談と暖味さと好奇心との中で時遊過す非本來的在り方に於てあることを意味する︒確か
八七 在でありつAも︑而も人間以外の存在者に關心し交渉して其の在り方と決定すると共に︑自己自らに關心し︑自らの
Ⅱ1竜︽稠自の在り方症自ら決定し得る鰹の存在者︑つまり行鐡的自兇的主体である虚の存在者たる人間の特殊な在り方なの
である︒現代の資存哲學に於て取扱われる﹁演存﹂も以上の様な根振付けとそれに基く概念内容に於て理解さ伽てこ
そその全き姿を顯わにするであろう︒ハ邪宗シガーは詔ふ︑﹁現存の本質は魔存にあり﹂.︵註至と︒
︵註一︶国⑦匙の鴉の罵酔冒員昌静言醜﹃
︵註二︶国の畠の照の尉浄.掛○・の菌〃
︵註三︶属討門岸の四韓胃鼻属司曽時罫⑦詳騨屋日日○﹄pい︑Hc
︵註四︶0用閂①己の的一喝届︑の冒戸旨全国の許の.揖脚 卸
︵註五︶国の匙の鴉の罵閑冒冒戸昌︵宮弓HC更の冒号r冒黒聖︶ご切晨印隠巨浮冒声昌園昌.睡自︑
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.三︑實存と日常性︾
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八八に人間的現存の日常的在り方は本來惟に於てあるのではなく︑本來的自己より目をそらす︑自己逃避的な在り方をし
ている︒とすれば人川的現存が一般に澄かれている日常性に於ける非本來的在り方とはどん芯在り方なのであろう
か︑叉何故人間的現存が日常性の菅みの中に自己と菰落した非本來性に於てあるのか︑人川的現存は日常性より如何
にしてその本來性である廠存として自ら逓回復するのであるか︒それ淀間わ鯵ぱならない︒
︵註︶田謹元博士︒︐﹁疵存と愛と従践﹂十七頁︑︑
可能的存在より暉別せられる現在存在は︑況んや人間的現存は優れて︑そいが共虚に於て在る状況症必ず持つ︒人
間的現存が其虚に先づ大抵︵園冒旨の3mご冒邑国冒凰邑世かいている一般的壯況︑それが日常性である︒勿論それは人
間的現存の特殊の場合の在り方ではなくて︑蒋趣一般の在り方である︒虚が人間的現存はその都唯私自らであり︑自
らに開心し︑自らの態度と自ら決定すること筵その本質とする佃別的存在新であった︒此の個別的存在者は常に他人
と共にあるのは勿論︑用在者と交渉していろといふ意味で︑.﹁存在と時間﹂に於てハイデッガーの所謂曼冒︲号胃三島︲
︑の旨︑︵﹁世界I内I存在﹂・﹁世界Iにlあること﹂︶として純粋に根元的に孤立しているのではない︒此の際︑他
人は自我の抽象乃至孤立から出發して︑此の孤立した主観から他人への移行在求めなければ芯らない存在者︑つまり
●他人はそこから自我が抽出さ師ている私以外の残りの者の全休といふ位の意味の存在者︑ではなくて︑むしろ他人は
大抵の場合︑人間的現存が自らと唾別しないものであり︑人糞も亦その下にある虚のもの註指しているのである︒人
間的現存がこの様に他人と共腰で︒︑つまり他人との共同相兀存在Q﹇一言冒拶昌自驚言﹄︶として在るといふことは︑
他人が人間的現存からその存在注奪って噂ることを物語っている︒他人の勝手が人川的現存の日常的な存在可能性の
上では許されているのである︒勿論人川的現存は之を脚兇してはい江いが︑睡際に於て人間的現存を支配しているの
は他人なのである︒他人といって限定された意味の他人ではなくて︑如何なる他人芯それに入り得る様芯他人であ
る︒これを他人と云うのは︑自己もそいに脇している乙と淀蔽う危めなのである︒此の他人こそ日常的な相万存在に
於て先づ大抵は塞旨︲号﹃︲三島︲駕冒雲である︒では日常的に曇冒︲︵ざ胃三鳧︲賀言︑菰るものは誰か︑と云へぱ︑それは
ハイデッガーによれば︑﹁此の人とかあの人とか叉はそい人〜の人自身でもなく︑若干の人でも全ての人の総和でも
稚い︑そ伽は中和者であり︑﹃ひと﹄︵︵冨昌謹己である﹂︒霊︶自分自身で意兇を立てたと思っているが︑その意見
等は滋ぱ新聞紙や雑誌の論調による意見である︒此等の論調に引きづられろ﹁ひと﹂が意見を立てAいるのである︒﹁
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ひと﹂が梁しむ通りに享樂し︑﹁ひと﹂が縦賛し批評する通りに文蕊を讃み翫武L評慨するo︾掘らの現象は﹁ひと
﹂が日常性の在り方と導いていることのよい證左である︒この様な相五存在に於ては︑人間的現存は自己を他人の存
在の仕方の中へ解消している状況︑即ち本来的自己を失った非本來的な在り方に於てあるのである︒然し自己淀根元
的に持つものでなくては自己淀失うことさへ出來ないであろう︒だから﹁ひと﹂としての人間的現存の日常的芯在り
方は︑自己と失った自己︵巨昌蒋昌一号の︑︑島︶解︶としての在り方であるとも謂えるであろう︒
︵註︶国の匙侭頤臼.即mc旨冒昌函⑦夢︑自画②
斯様な人間的現存の﹁ひと﹂としての日常的な在り方は︑ハイデッガーによ郡ぱ︑同時にその存在上本鷺的に平均︑
性︵ロE・gmo官詳言︸詩︒sに關心と持っていること淀物語っている︵畦と云う︒だから﹁ひと﹂は事斑上自己に厨し
ている虚のもの山平均性の中に保たれているとも云える︒異常なものは靜かに抑峨され︑|初めてのものは間もなく前
から知られているものとして平珀一化されてしまう︒だから﹁ひと﹂は平坦化の性格を持っているとも見られる︒此等
の性格が合することによって公共性︵c島︒畠言嶌の言︶と稲される性格が榊成されるo此の性絡は水準や混正さとの間
の全ての差逵に對して全く鉦祁經である︒だから公共性は全て淀不明にし︑この様にして薇われたものを既知のも
の︑誰れの手にも届く様にしてしまう︒#
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︵註︶雷の廷侭晦日・軸湧.鱈.○.の.﹄画﹃し庭が﹁ひと﹂は人間的現存が決断逓芯す場合︑いつでも又そこからこっそり逃げている様なものでもある︒我交は
常に﹁ひと﹂に訴えて判断荘し行鰯をする︒﹁ひと﹂もするから自分もしたのだといふことは腿あり得ることなので
ある︒﹁ひと﹂が常にそ弧を引受けているからこのこと逓鰯し途げろことが出來るのである︒﹁ひと﹂はこの様にそ
の時共の人間的現存をその日常性に於て黄任を菟除するばかりでなく︑人間的現存の中に輕凌しく物を考え事と総す
傾向がある限りに於て︑人間的現存に迎合するので曹名・冠︶
︵註︶国の匙の鴉⑦鴬色︐色.○.切愚認︐
かくて日常性に於ける人間的現存の自己は﹁ひと﹂それ自身であり︑叉大抵はそれに止まっているのであって︑本
來的な自己︑つまり本源的に理解された自己ではない︒﹁ひと自身﹂としてのその時交の人川的現存は﹁ひと﹂の中
へ分散してしまっていろ︒だから﹁私﹂も本來の意味の自己に於てあるのではなく︑﹁ひと﹂の在り方に於ける他人
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なのである︒とに角︑人間的現存が先︒つそして大抵の場合︑それに世か畑てある日常性に於てはや自分の現存の自己・
も他人の現存に於ける自己も未だ發兇されてい江いか︑或は失われている︑即ち額落しているのである︒その都度自
分自身の故哩ゆり︑自己自身の存在に關心逓持つ唯の人洲的現存︑そして他人との共同存在に於てある着としての﹁
世界I内I存在﹂である人川的現存は日常性に於ては︑本來的な自己の存在可能としての彼自身から離肌落ちて︑﹁
ひと﹂の公共性へ埋没している︑即ち﹁世界﹂へと菰落しているのである︒此の様な世界への額落は︑ハィデッガー
によれば︑﹁筌談︑好奇心︑暖味性によって導かれてい右限りに於て共同存在へ没入する﹂涯︶ことなのである︒そ
伽は人間的現存の日常性が非本來的であることの證左ではあるが︑非本來的といっても︑人間的現存が自己の生存を
全く失っていることを意味するものでも芯け伽ぱ︑蚊早﹁世界﹂に芯いことの調いでもない︒むしろ他人との共同現
存によって﹁ひと﹂の中に心を零わ伽ている稲特芯世界にある在り方芯のである︒非本来的︵宮屋c噌昌豆︺︶である
こと︑自己自身でないといふことは︑本質的に世界の中へ没入している存在者の菰極的可能性である︒これこそ人間
的現存の最も普通の在り方であって︑人間的現存は大抵はこの在り方の中に於て働いているのである︒
︵註︶国皇号鴉①罵鋳.角.○.い﹄副
人間的現存が日常性に於て本來の自己から逃れ︑﹁ひと自身﹂へと高奎り︑世界に没入し︑それへ額落している状
況に於て生存しているのは︑如何なる理由によるのであろうか︒何かに對して恐怖を感じて自らより逃避しているの・↓
▲であろうか︒ハイデッガーによれば︑恐怖の對象となるものは一定の方位から近ついて害を芯す塵の世界内部的存在・
者なのである︒詮︶用在者︑物在者或は共同存在の在り方蓮持つ虚のもの等世界内部的に見出されろもの淀人間的現
存は恐れろ︒恐怖の對象は脅かすという性絡を持っている︒然し額落するといふ意味の人洲的現存の本来的自己より・
の逃避は決して此の様な枇界内部的に存唯せるものに對して恐怖症感じ▽それから逃飾去っているのでは芯くして︑
人間的現存自身から逃れているのである︒成る程此の逃避の對象は一般的に脅威するという性格︽と持っているかも知
郡ない︒然しそれは逃避すっ存在者の在り方を持つ存在者︑つまり人間的現存自身である︒この際の逃避の對象は決
して恐しいものではない︒といふのは︑此の様な性格を持つものは常に世界内部的に存在するものであるからであ!
る︒だから額落に於ける逃避は世界内部的に存在する考に對する恐怖によって基礎付けられた逃避でもなければ︑釜
れからの逃亡でも芯い︒いなそれどころか却って逆に︑頽落に於ては世界内部的存在者えの没入として︑此の様芯存
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在者へ自己を歸入しているのである︒人間的現存の頽落が世界内部的存在肴に對する恐怖によって︑そ肌からの逃避でないとするならば︑蝿そしてそれは人州的現存自身からの逃避である江らぱ︑如何なる理由で自己自身から逃れてい
るのであろうか︒それは畢寛人間的現存が自己自身に對して不安症感ずるからである︒人間的現存が根源的不安であ
るからである︒では何に就いて不安症感ずるのか︒不安の営の對象は︑︾てこに投げ出されて世界にあることそのこと
であり︑世界にある在り方そのものに不安を感ず﹄今のである︒だから︑不安は恐怖と異って︑脅かすものがそこから
近づいて來ろ一定の﹁此鹿﹂とか﹁彼虚﹂とかを見ない︒つまり脅かすものが何虚にもないのである︒不安は自分が
それに對して不安がるも○が何であるか筵知らない︒不安の對象は全く無規定なのである︒然し此虚に於て顯わにな
るものは︑恐怖に於けるとは異って﹁世界﹂なのである︒︑人川的現存が自己の於一﹂ある﹁世界﹂に不安を懐くのであ
る︒世界は世界にある虚のもの典構成要素であるから世界に不安を感ずるといふことは畢党︑世界I内I存在そ肌自
体に不安症感ずることで芯ければならない︒︑
愚︶用冒号脂身︽蜜︑雲.○・の虐験
斯く人間的現存が頽落して本來的自己より逃避しているのは︑・人間的現存の根本構造が投げ出されて世界に在ると
いき︶とに根差しているからなので聾っ︒だからこそ不安の對象︑即ちそぃに對して人間的現存が不安逓感する庭の
ものが︑﹁世界I内I存在﹂そのことであり︑その鰯めに人川的現存が不安を感ずる虚の根擁も亦﹁世界1内I存在
﹂それ自身だと調えるのである︒では﹁世界I内I存在﹂で蓮︒ことが︑そして己伽自身が人間的現存にとって︑ど
うじてそんなに不安なのであろうか︒我共は不安の擦って來ろ鹿とより一層根源的に解樺して見るところがなければ
ならない︒
人間的現存は日常的には自己の本來的在り方に目を塞ぎ︑本來的自己から逃避した非本来的自己に非本來的生活
に︑ゞ即ち世界へと額落しているのであった︒それは人川的現存の根本欣況が不安であるからであった︒投げ出さ伽て
世界にあるそのことが︑ハイデッガーの言葉を借りれば︑﹁既にI中Iにある﹂冠一︶︵酔言回︐いの旨︐旨︶といふ事変
四︑不安と無の性格
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性が不安であるからであった︒だから不安の原凶の一つは︑この世界に投げ出さ帥七あること︑つまり﹁被投性﹂︵
の①言︒匙⑦号農︶にあると考えら郡ろ︒人川的現存は彼荘し一﹂﹁被投性﹂の状況に瞳いた主体たる詮三ものが何であ
るにせよ︑この投げ出した投者に彼が完全に依存していることと体瞼する︒不安によって︑人川的現存は既に以前か
らの彼の背後に横わっているもの︑不確狂性の前に立たしめられる︒人川的現存の故郷たる暗黒の深淵の縁︑無に臨
ましめられるのである︒と同時に彼の不確睡な未来の前にも立たざる牡得なく江る︒人間的現存は不碓汪性を彼の背
後にせ負うのみでなく彼の未來にもそれが識わっているのを兇ろ︒人間的現存は自己の未來に於ては可能性と見るにノすぎないのであるが︑この様な可能性が必然的に現変性となるという保證は少しも與えられないのである︑かくて不安は人間的現存を彼の日常的な頽蒋に躯り立一﹂たものであった︒人棚的現存の背後に枇わる暗黒と彼の未來に横わる
・夜とから追い立てられて︑彼には一つの現蛮だけが︑泄界に没入することのみが礎さいたのである︒人川的現存に魔
在する日常性へ淡入せんとする衝動は︑詔わぱ︑人間的現存本來の﹁負い目﹂なのである︒彼は世界との心持ちなき
戯れによって自己の前後に横わる無を談間化し逃避せんが矯めに︑自己が全く世界に束縛せられていることを利用し
ているのである︒世界に於ては人川的現存は﹁ひと﹂という全く平均的芯確変性の中に安らわんとし︑常に﹁無﹂に
直面す﹂っ存在たるべき本來的自己から逃れていちのである︒結局︑人間的現存は不安の中に浮動しているのである︒
此の不安が︑ハイデッガーに從えば︑﹁無を開示する﹂証一三・とすれば諺人洲的現存とは無の中に引き入れられ︑無
の中に住して浮動じている存在と調えよう︒虚でこの様に人川的現存を常に不安に躯り立て︑頽落えと誘参原因たる
無とはどんな性格症持っているものであろうか︒
︵註己国︒匙⑦鴉昌酔旨巨昌爵寮の届黒・︑
︵註二︶デルプは云§電人間的現存の被投性一か︑投げた者は誰れかとの問いをひき起す︑被投性を通路として岱然超越者にいた
るべきではないか︵P.づ︵含即自昌嗅︑︒言同〆璽8劃.ご鼠.い亀︶とoキエルケゴールも確かにそう考えたO﹁人間の自己
.は自己自身に對して閥係するところの自己闘係であるが︑この朋係そのもの︑此の闘係全体は錐三者たる他者︵註祁︶によって
措定さかている︒かLる他者にまって措定された派生的關係疋即ち人間の自己である﹂Q幽自冒習冒壽閑冒冒匡葺曽冒
目員の.︑己︶︒そして眞武の自己にたるとは︑稗によって措潅さ九神のうちに基礎付けられた永遠の自己に返えることであっ
た○だ↑かハイデッガーはそうは考えていない︒彼にとっては.投げと叢かているということから跡にさかのぼる途は妓早存しな
夢
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グー︲い︑人間の存在の意味は彼を越えたものL中にではなしに︑現にこLに投げ出されている彼自身の中に求めなければなゎないの
である︑即ち彼の人間は︑絶對者を失った人間Iぐ自冨︑の目鼻号の胃昌嘱屋旨︒こめ鼻の巨冒三号巨号︑殴昌号匡l
︵国の匙の鴉の馬の①胃苦の冒昌言品号胃号具呂呂己昌ぐ⑦易冒昌邑笛酌.眉︶︑現に投げ出されているといふ事安心孝か〆
確笈であるところの人間である︒
.︑ ︵註一己吊岸匙の四四の﹈包叩二畳m︼解昌の冨宅ゴ菅︑岸や胃の画P︑弓.
不安が無と開示する︑とハィデッガーは云った︒何故なら︑不安が去った時︑人間的現存は自ら此の事賢と体験
するからであると云う︒不安がすぎ去った痔︑日常的には︐我盈がそれに對して叉その矯めに不安逓感じたものは﹁
本來何でもなかった﹄詮︶といふ様な云い方とする︒この様な表現の仕方は.恰も無として其虚にあった︑或は其虚
には無があった︑という様に︑それがあった虚のもの蓮存在的に表現している様に見えろ︒人間的現存の於てある虚
の無とはこの様に有にして﹁無い﹂ものであろうか︑それとも軍に﹁ない﹂ものとして其虚にあるもの江のであろう
か︒其塵で我盈はハイデッガーと共に﹁無とは何であるか﹂と問わ娘ばならない︒だがこの様に問うことによって︑
我交は既に前以って無を何物かとして措定していることに氣付く︒︒﹁⁝である﹂として︑一つの存在者として規定し
ているのである︒然し﹁無﹂は﹁ある﹂ものとは絶對に厘別さ﹄令へきものである︒從って﹁無﹂に就いて問うこと
は︑その問は伽た對象注全く反對のものに愛ずるのであって︑此の問いそのものが自らその對象を恋う結果を濁らす
のである︒と同時に此の問いに對する答えも本來不可能である︒何故芯らぱ此の問いに對する解答も必然的に﹁無﹂
は﹁⁝である﹂の形式によって與へら伽ろからである︒とすれば︑無に關しては如何なる問いも答えも共に自己矛盾
に落ち入らざるを得なくなる︒無と一般に論理的に對象として認識することが不可能である以上︑﹁無﹂に對する我
盈の問いは︑論理が最高の審判であり︑無逓根泌的に把握して共の顯現の可能如何筵決定する爲めに悟性がその手懸
りであり思惟がその方法であるといふ前提の許にあっては︑既に絡末に達している課である︒
︵註︶国①匙の蝮照罵︑⑦冒屋巨角唖の諄いH雪
然し我凌は悟性の助けによって︑無は存在すろもの壁全休の否定︑即ちあらざるものそのもの︑として規定するこ℃▽︑︑︑
とは出來ないであろうか︒確かにハイデッガーの説く様に︑﹁これによって我盈は無を無的なもの︵︵富男の︸号鼻の︶︑
︑︑︑︑︑︑い従って否定されたもの︑といふ一段商い規定の下に笹くことは出來ろ﹂詮一︶かも知れない︒然し無は非すというこ
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とい︐即ち否定が存在するが故に︑作在するものであろうか︒或は逆に無が存在するが故に︑否定があり︑非すといふ
〆︒ことが存在すると解してよいであろうか︒ハイデッガーは之に對して﹁無は非ずといふことよりも︑或は否定よりも
・一層根源的である﹂涯三と答える︒とすれば此の様芯性格を持つ無を我左は何虚に︑そして如何にして見出すこと
が出來るであろうか︒我糞は日糞何等の反宿も芯く眼に語るにすぎないのであるが︑何等かの意味で無在了解してい
る︒無が對象的な存在でないとすれば︑このありふれた我盈の日常の言蕊使いの中に秘かに働いている無逓一つの定
義にまでまとめあげることに足場症求める以外に方法はなさそうである︒かくてハイデッガーは無を﹁在るものi總心h体の絶對的否定である﹂詮一三として定義付ける︒と・は云っても在るものi全休が絶体的に否定せられることによっ
て無を願わにする爲めには︑否定さ弧る在るものA全体が我凌に豫め與へられていぃばならない︒有限涯名現蜜存在
としての人間的現存にとって︑しかく容易に在るものA全休にそれ白身の姿に於て近付くことが可能であろうか︒有
限なろ人間的現存である我凌のなし得ることは︑高く在るものA全休を理念に於て︑そしてかく想像したもの逓頭
の中で否定し︑叉否定されたものとして考えろこと位のものであろう︒この様芯方法で城想像された無の形式的観念
的概念は得ら伽ても︑無それ自体は得らるぺくもない︒ではどういふ仕方で無は得ら恥るのか︒︿イデッガーによれ
ば︑﹁無の基礎經験﹂︵註凹によってのみ︑無はその正常さに於て證明さ帥るのである︒
︵註ご国の国の鴨の罵弓鼠︑騨昌晨昌ご切岸や切忌
︵註己国の匙の鵤昌魚.釣︐○・m眉
︵註一己国⑦己の脂の罵湧.輯.○・m届
︵註四︶国の己偶鴨屠鍔.鐸.○.即置
存在するものA全休注論理の力又は悟性の力によつくそれ自身のありのま上の姿に於て把握するざとは︑有限な
る人間的現存としての我だのよく癒し得る庭では芯も唯だ我盈自身が何等かの仕方で︑その全休に於て露わになっ
ている存在者の中に腫かれ一﹂いる一つの存在者である乙と筵見出すたけである︒我交はかくJ1であると云う氣分に
︑よって全休に於て在るものk眞只中に曹名この様な共礎窪嶮逓維ることなくしては無逓休瞼し得芯い︒それは悟性
の助けによって對象的存在として認識することでないことは勿論である︒何故ならば︑此の氣分の傭呪性が在るもの
i全休を顯わにするばかりで永く︑此の開示そのものが人間的現存の根本的生起でさえあるからである︒虚が此等の
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氣分は人間的現存を全体に於てあるものL前に導くと︑却って無をかくしてしまう︒だからと云って此の様な氣分的
に願わになっている全体に於てあるものと否定することによって無に直面するとは考えられない︒結局か上る否定も
根源的には︑其の本源的な意味に從って無逓開示する虚の氣分や.假令稀夘であつ︸﹂も︑不安という根本的荊分に於て
のみ生起し得ると謂える︒ハイデッガーが﹁不安が無逓開示する﹂といったのも此の意味に於て蛍あったのである︒
かくて︑我登は人間的現存が其虚に置かれている無が︑有に對する無でも芯ければv無として在ることでもないこと︑換言丁伽ぱ︑無は認識の對象でもなく︑一般的に如何なる種類の存在考でもないこと逓知り得た︒
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五︑世界の無的性格 I
無は不安という根本氣分によって体験せられるものではあっても︑如何なる毬類の存在者でもないとすれば︑それ
ひは抑糞何と指示しているのであろうか︒ハイデッガーは﹁存在と時間﹂に於ては﹁存在者﹂と﹁存在﹂とを存在論的
に︵呂巨○胃︒ご嚴密に唾別している︒﹁存在﹂とは彼によれば︑﹁存在者としての存在者逓規定しているものであ
り︑存在者が︑假令いか様に説明されようとも︑︲それ逓根擁としてその都度既に了解さ知ている爲めの可能根篠︵
三.目〆屋一らとなるもの﹂詮一︶である︒存在者をして存在者として規定する﹁存在﹂とは存在者の﹁在り方﹂であ
る︒だから在り方としての存在は勿論自ら存在者とは唾別さる今へきである︒彼が存在者でないものとして︑或は存在
者逓越えるものとして︑詮三考えた無は﹁在り方﹂.aの旨︑自己としての此の﹁存在﹂を指示していろと考えられな
いでもない︒かく理解することによってのみ﹁﹃純粋存在と純粋無とは同一である﹄というヘーゲルのこの命題は正
営である﹂︵註三と云う彼の言葉が我盈に正しく了解されるからである︒
︵註二国①匙の鴨角酔旨巨且国農.の.の
︵註二︶国⑦匙の脂⑦罵堂.夢.○・m笛
︵陛己国の匙の脂の罵二罫唾騨冨の貫嘗瀞房心い鵠ご鰹.冨昌冒旦曾唾胃ozo日号再冨曾騨吾弓房.︑函弓.
虚が人間的現存は本質上﹁世界ⅡⅡ内I存在﹂︵言︐号﹃︲毛①崇めの盲︶であった︒人剛的現存が生存する︲こいうことは︐
泄界に︑ハイデッガーの言葉を借りれば︑人間的現存ではない即ち世界内的にGE︵﹀三くの舅︒gに迺遇される存在者
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︑がではなくて︑人間的現存が共虚に於いて生き﹂勺虚のもの︑つまり環境︵蓮︑としての祉界に於て生きること芯ので
ある・だから人州的現存は世界と離れてあるのではない︒世界は存在論的には本蹴的に﹁世界l内I存在﹂としての
人間的現存の存在や即ち﹁在り方﹂に脇していろ︒此の様な意味でハイデッガーが︑不安の開示するものとして説く
︑虚のものは︑﹁世界I内I存在﹂としての人間的現存自身であり︑之と闘連しての﹁世界﹂であったのである︒とす
ると︑一体ハイデッガーは﹁在り方﹂としての﹁存在﹂を無と見ているのか︑それとも世界と無と考えているのか︒
無に就いて︑特に全体に於てあるものとの連關に於け﹄っ無に就いて論じている﹁形而上學とは何ぞや﹂に於いて︑此
等の事に關して彼の説くところは決して明瞭でをつとは云えない︒ハィデッガーが無に於て﹁存在﹂と﹁仙界﹂とそ
の何れを虞に指示しているか︑彼の論説に於いて蔽われているもの牡顯わにし明確にすることがこの際亜要涯契機を
永すと思われる︒何故ならば︑これ淀なす乙と芯くては﹁世界I内I存在﹂としての人間的現存の本質たる厳存の眞
の姿を露呈せしめることが出來ないからである︒
︵註︶国9号麗罵酔旨戸昌昏夢︑函.︑
私は此の問題の解決の手懸りを彼の所謂﹁超越﹂角昌扇函目︷盲sに求め度い︒﹁超越﹂それ険越えて行くことで
あ﹄っ︒形式的に把握すれば︑或る物﹁から﹂﹁或る物﹂へと向う關係であ﹂亀越えて行くにはそれの行く先雪と同
時に越えられる何物か醇考えら飾る︒乙肌らは要するに超越逓筌間的な出來事として理解したものであるが︑ハィデ︒
/シガーの證示しようとする術語的な意味での超越は︑何よりも先づ﹁人間的現存に固有なもの﹂涯一︶であり︑而も
そ帥ら一切の行動に先立って生起する虚の存在者の根本榊造なのである︒勿論人川的現存は筌間的に唾存するものと
して︑他の多くの可能性之和並んで筌川的な限界乃至は割目を筌川的に越えて行こうとする可能性と持ってはいる︒
然し超越そのものは賛存一般遼︑從って叉自己が室川の中で動くことを可能ならしめる働きなのである︒我共各自が
それであり︑人間的現存として理解されている存在者に鋤して﹁主観﹂という名稲を選墨とすれば︑超越は主観の本
質と示すもの︑主槻性心根本構造をなすものなのである︒だが主槻はそれが先づ豫め主概として存在していて︑︑そ郡
から偶変客槻が眼前に存在する場合に超越す﹄っというのではない︒むしろ主概であるということが超越の中に且つ超
越として存在しつ上あるということなのである︒此の意味で超越は主槻l客観l關係として規定されず︑従って叉超
越的現存を主槻の前に置いて主柵逓内在へと弧いる制限乃至は︑主観を客槻から切断する割目逓超えることでもな
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