九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
王公族の創設と日本の対韓政策 : 「合意的国際条 約」としての韓国併合
新城, 道彦
九州大学韓国研究センター : 研究員
http://hdl.handle.net/2324/19894
出版情報:東アジア近代史. 14, pp.68-83, 2011-03-31. ゆまに書房 バージョン:
権利関係:
68
﹃東アジア近代史﹄第 四号︵二〇一 ・三︶
︽特集︾韓国併合再考一王朝体制の滅亡と日本1
王公族の創設と日本の対韓政策
i﹁合意的国際条約﹂としての韓国併合1
新 城 道 彦
はじめに
みかど 韓国併合とは︑大日本帝国と大韓帝国という共に﹁帝﹂
を戴く二つの帝国が一つのく日本﹀になり︑それを天皇が
統治することであった︒それゆえ︑併合に際して韓国皇室
の処遇が重大な問題であったことは想像に難くない︒
実際に併合条約をみても︑第一条と第二条で韓国皇帝が
韓国の統治権を天皇に﹁譲与﹂し︑天皇がそれを﹁受諾﹂
するという併合成立の形式を︑第三条と第四条で韓国皇室
に対する厚遇策を説明している︒全八条のうち四条を︑天
皇と韓国皇室に関する事項が占めているのである︒
ところが︑これまで併合研究は条約締結の合法性/不
ユ 法性や列強との外交関係が論点となり︑韓国皇室の処遇に
関しては等閑視されてきた︒日本は併合に際して︑韓国皇 室に日本の皇族︵以下︑皇族と表記したものは日本の皇族を指す︶と同様の礼遇を保障する方針を選択する︒しかし︑当然ながら韓国皇室を皇族に入れることは不可能であったため︑﹁皇族ノ礼﹂を保障しつつも︑皇族とは異なる王族と公族︵以下︑二つを合わせて王公族と記す︶として冊立するという措置をとった︒これは︑琉球処分のときに琉球王が既存の華族として欝本に編入されたのとは明らかに異なる処遇である︒したがって︑併合の特性を考察するためには︑王公族という研究対象が重要になってくるといえよう◎ そこで本稿では︑まず保護期に統監府による韓国宮中・宮内府の改革がどのようになされたのかを概観した上で︑併合を断行する過程で韓国皇室の処遇がどのように議論さ
れ︑いかなる形で王公族が︿日本﹀に創設されたのかを検
69 王公族の創設と日本の対韓政策
善していく︒
一 韓国宮中・宮内府改革と皇室財政
朝鮮半島に宮内府が設置されたのは︑日本の影響下で李
朝開化派が一八九四年に断行した甲午改革のときである︒
初代大臣には李中墨の兄李允用︑二代顕大臣には併合後に
十王職長官となる閾丙爽が就任した︒宮内府には大臣官房
︵庶務課︑人事課︑調査課︑主馬課︶の他︑侍従院︑掌礼
院︑内蔵院︑典膳司︑主殿院︑帝室会計監査院︑帝室財産
整理局︑御苑事務局︑修学院など二〇余りの院司が並立し︑
相互に事務の連絡を欠くだけでなく︑独立の会計をなして
小官庁の集合体といえる状態であった︒しかも宮中の権力
が府中を圧倒し︑国庫から皇室費が支出されているにもか
かわらず︑宮申は徴税の一主体となって雑税を取り立てる ヨ という有様であった︒
その後︑一九〇五年=月一七Bに第二次巳韓協約が締
結され︑韓国の外交権が日本に移譲された︒これにより︑
翌一二月に﹁統監府及理事庁官制﹂︵勅令二六七号︶が公
布されて初代統監に伊藤博文が就任する︒伊藤統監は前記
のような宮中の構造が韓国の政治腐敗を招いていると考え︑
宮申と宮内府の改革に乗り出した︒そして︑統監府総務局
長の鶴原定吉や統監府参与官の小宮三保松が次官として︑ 財政部顧問の井上雅二が書記官として宮内府に送り込ま ハゑれた︒また︑併合後に李王職事務官となって王公族の管理や処遇に直接かかわることとなる︑蜷三新︑権藤四郎介︑末松熊彦︑津軽英麿︑黒崎美智雄︑高木茂もこのとき韓国に渡り︑宮内府に勤務した︒ 伊藤統監がまず取りかかったのは︑廻章府中の分界と宮内府の冗員淘汰であった︒宮中府中の分界に関しては︑一九〇六年七月に高宗皇帝に勧告して宮禁令を発布させ︑一定の官職を有する者以外が宮中に出入りするときには︑規定の門票の提示が義務づけられた︒これは日本人警察官を宮中各門に配置し︑韓国巡検とともに取り締まらせることによってさらに強化された︒宮内府の冗員淘汰に関しては︑
一九〇七年に宮内府官制を改正して韓国皇室に関する一切
の事務および所属官吏の監督を宮内府大臣が執り行うとし︑
さらに勅任一七名︑奏任八一名︑判任五七名︑雇員二七八 こ○余名︑女官二五二名︑内富二〇〇尊名を罷免した︒
こうした改革が終わると︑続けて皇室財産と国有財産の
分離が進められた︒一九〇七年一一月に宮内府収量官を廃
止し︑一二月には従来宮中に属していた紅蓼専売事業︑蓼
税︑玉江税︑土地付帯の諸税︑庖税︑銅鉄鉱税などを国庫
に移した︒さらに翌一九〇八年六月には︑駅屯蟹草租およ
び賭銭︑県単聖母など︑従来宮中が徴収していた雑税をす
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べて国庫に移し︑駅王土と宮内府所管および営営宮所属の
不動産のうち宮殿宗廟の基趾︑陵園墓の内丁字を除く全部
を国有とした︒一九〇九年五月には宮中債務の支払いも終
了し︑皇室財産の整理が完了する︒この改革によって毎年
の皇室費︵歳入︶が減少することはなく︑むしろ漸次増加
して一九〇五年に七二万円だったものが一五〇万円となり︑
これが定額となった︒改革以前の宮中の歳出は二〇〇〜三
〇〇万円であり︑一見すると内見が豊富なようであったが︑
実際は政府から得る皇室費の他に︑足りない部分を雑税等
で穴埋めし︑いい加減な経理によって処理していただけで
ハお あった︒
韓国宮中・宮内府改革で設定された一五〇万円の皇室費
は︑併合後も王公族の歳費としてそのまま同額が支給され
ることとなる︒併合当時の日本の首相の年俸が一万二〇〇
〇円ほどであったこと︑一九二七年時の一一宮家の皇族歳
費を合計しても七八万円ほどしがなかったことを考えると︑
一五〇万円がいかに巨額であったかがわかる︒つまり︑日
本は保護期の韓国宮中・宮内府改革によって併合後の金銭
的負担を増やしてしまったのである︒
併合に際して韓国皇室を︿日本﹀に編入せずに排除して
しまえば金銭的負担を軽減できたにもかかわらず︑日本は
敢えて王公族を創設した︒それは以下でみていくように︑ 日本が併合を﹁合意﹂として実現しようとしたことや韓国皇室の処遇を﹁朝鮮統治上ノ最大要件﹂と考えていたことに起因していた︒
二 小松緑と李人植の予備交渉
一九一〇年六月下旬から七月上旬にかけて永田町の首相
官邸で併合準備委員会が開催される︒委員会の主な目的は︑
併合の大綱の叡ならず細目をも明確に規定しておくことで
韓国政府との談判を円滑に進め︑併合後に日本政府内から
異議が生じるのを防ぐことにあった︒柴田家門内閣書記官
長︵官房長官の前身︶が議長を務め︑小松緑統監府参与官
と倉知鉄吉外務省政務局長が原案の作成を担い︑併合後の
国号︑朝鮮人の国法上の地位︑朝鮮における外国人の権利︑
韓国の債権債務︑官吏の任命︑韓国皇室の処分など︑二一
の事案が議定された︒併合準備委員会でまず議題に上った
のは﹁韓国皇室及功臣の処分﹂であり︑ここでは﹁現象の ロママロ尊称を太公︵グラン・デュック︶として︑世襲とし︑先帝 ロママロ ママロは︑其↓代限り太公とすること︑及太公家の経費として一 年百五十万円を支給する﹂という方針が立てられた︒
寺内正毅統監は同年七月二三日に︑この併合案を⁝携えて
仁川に上陸する︒これを受けて二九日には︑李豊明に肺を
刺されて夕陽にて静養していた李完用が漢城に戻り︑翌三
71王公族の創設と日本の対韓政策
○日に朴斉純の弁理︵代理︶の任を解いて首相の座に復帰
した︒李完用首相はさらに三一日に管理純内部大臣︑趙重 ︵8︶応農商工部大臣とともに北部翠雲亭で内議を凝らした︒
そのころ欝本では︑東京で亡命生活を送る宋業平が下関
に移動し︑韓国に渡る気配をみせていた︒﹁日韓合邦しを
唱える宋棄駿が動き出したことで︑韓国では親臼内閣が組
織されるのではないかとの噂が流れるが︑寺内統監は逆に
彼の入墨を阻止する動きに出る︒小松統監府参与官が言う
ように︑宋乗唆のような親日派が表に出ることで︑﹁合意 ︵9︶的国際条約を締結する意味を没却するやうなもの﹂にする わけにはいかなかったからである︒
また︑小松が﹁時機が熟さぬならば︑半年が一年でも待
ってるても︑差支がなかったのである︒此の方から迂闊に
言ひ出して︑素気なく擾ね付けられては︑面目が立たない のみか︑取り付く島を失ふことになる﹂と記しているよう
に︑統監府側は李完用内閣が併合談判に応じる機会を早期
ではなく半年から一年の展望で窺っていた︒それゆえ︑寺
内統監は宋乗唆の入韓を拒絶しただけでなく︑﹁併合の問
題になると︑石像の如くに︑少しもロを開か﹂ず︑山県伊
三郎副統監以下の幕僚に対してでさえロにするのを捲った
という︒ ところが︑八月四日に李完用首相の私設秘書である李春 植が南山脚下の統監府官舎に小松を訪問したことで︑統監府と韓国政府は急速に接近する︒球人植が統監府官舎を訪れたのは午後一〇時を回る頃であった︒彼は流暢とはいえないH本語で︑訪問の霞的が﹁自己の意思より出でたるもので︑李完且又は趙重応と打合せたる結果でない﹂と告げ かれたが︑小松は﹁渠が︑当面の併合問題に就き︑李︹完用︺趙︹重応︺両相の旨を承けて︑所謂細作の任務を以て ︵2三︶来た﹂との認識で接した︒ここで諸人植は︑李完用首相が
﹁難問題﹂であると考えているのは﹁王室の待遇である﹂
とし︑李完用首相がまだ癒えない体を横たえたまま︑﹁現
帝は︑自ら位を退くの意を洩し給はざるに︑臣子の分とし
て︑数千年来の社財を一時に断絶する大事を言ひ出すに忍
バー3>びない﹂と語ったことを告げた︒
このとき統監府としては﹁単に現内閣が︑併合乱戦に応
ずるや否やを確めんとするのは︑無理な注文で︑さうして
無駄な努力に終るに相違ない﹂との憶測があり︑条約締結
の確証を得ていたわけではなかった︒それゆえ︑李要用首
相の発言を伝え聞いた小松は︑まず併合条件の大体を語る
のが現内閣の最後の決心を促す唯一の方策だと考え︑欧米
の植民地政策と対比しつつ韓国皇室の処遇方針を伝えた︒
すなわち︑フランスがマダガスカル王を孤島に追放したり︑
アメリカがハワイ王を市民に落とした例を引き︑これに対
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して韓国皇帝は併合後も﹁日本皇族の待遇を受けられ︑尚 霧︶ほ今日と異ならざる歳費を給せられやう﹂と説明したので
ある︒小松はこの日の感想として︑﹁李人穂の前後のロ吻
から推察して︑吾輩は︑当方の併合条件が︑先方の予想し
てみた所よりも遙かに寛大であったやうに思って︑頗る快 お 感を禁じ得なかった﹂と記している︒
この日から三︑四望をあけて李人爵は再び小松を訪問し
た︒李人馬によると︑併合案を聞いた李完用首相はコ々
首肯されたのみで︑各事項に対し︑可否の意見を加へられ
なかったが︑唯・最後に︑余り永引くと︑意外の故障が起
るかもしれないから︑一日も早く︑時局を片付けた方が得 ︵16︶策であらう﹂と述べたという︒李完用首相としては宋乗駿
の親日内閣が組織されるのではないかという危機感を抱く
なか︑意外に﹁寛容﹂な併合案を聞き︑統監府側から少し
でも譲歩を引き出せるうちに併合談判を進めたかったので
あろう︒華人穂がこのことだけを告げて退室すると︑小松
は談判開始の機が熟した旨を付け加えて︑寺内統監に李人
植から伝え聞いた李完用首相の発言を報告した︒これを受
けた寺内統監は︑国分象太郎統監秘書官を使者に立てて李
完用首稲を統監官邸に招くことを決断し︑八月一三日には
桂太郎首相に向けて﹁予テ内命ヲ掌レル時局ノ解決ハ来週
ヨリ着手シタク別段ノ故障ナク進行スルニ於テハ其ノ週末 ハレ ニハ総テ完了セシメ度﹂という電報を送った︒
三 併合談判と国号・王称
寺内統監から李完用首相招喚の命を受けた国分は︑世間
が注目するのを避けるために李当用に対して夜間に訪問す
るよう勧めたが︑彼はそれでは却って疑いを招く恐れがあ
るとして昼間に訪問すると告げた︒ちょうどこのとき︑日
本では東海・関東地方を中心とした豪雨によって大水害が
発生していたため︑李完工首相は天皇にその水害見舞いを
述べるという名擦で堂々と統監官邸を訪問することにした
のである︒それは︑降人穂が小松を最後に訪問してから八
日後の八月一六日であった︒
統監官邸に入った李愛用首相と寺内統監は︑国分の通訳
で協議を進めた︒寺内統監は﹁将来韓国皇室ノ安全ヲ保障
シ︑且韓民全般ノ福利ヲ増進セムカ為丹那両国相合シテ一 ミ体ト成り︑以テ政治機関ノ統一ヲ図ルノ外ナキ理由﹂を説
示し︑さらに李完用首相が他の閣員と協議しやすいよう︑
併合の趣旨を記した覚書を手渡した︒
この覚書には併合条約の大略として﹁︵一︶現皇帝︑太
皇帝両陛下︑及皇太子殿下︑並二其ノ后妃及後発ハ相当ナ
ル尊称︑威厳及名誉ト之ヲ保持スルニ充分ナル歳費トヲ受
ケラルルコト︒︵二︶其ノ他ノ皇族ニモ現在以上ノ優遇ヲ
73 王公族の創設とβ本の穀韓敢策
賜ハルコト︒︵三︶勲功アル韓人ニハ栄爵ヲ授ケ之二相当
スル恩賜金ヲ与フルコト︒︵四︶日本国政府ハ全然韓国ノ
統治ヲ担任シ︑法規ヲ遵守スル韓人ノ身体及財産二対シ充
分ナル保護ヲ与へ︑且其ノ福利ノ増進ヲ図ルコト︒︵五︶
誠実二新制度ヲ尊重スル韓人ハ之ヲ朝鮮二於ケル帝国官吏
二任用スルコト﹂が規定されると記されていた︒これ以外
はほとんどが韓国皇室の具体的な処遇方法に関する説明に ママロ割かれており︑たとえば韓国皇帝には﹁太公殿下﹂︑皇太 ロママロ子には﹁公殿下﹂︑太皇帝にはその一代に限って﹁太公殿
下﹂の尊称を与え︑﹁B本皇族タル礼遇﹂を賜ること︑歳
費は減少せずにそのままの額を支給すること︑﹁義親王以
下ノ各皇族﹂はその格式に応じて﹁公侯伯等ノ栄爵﹂を授 ハむ け︑歳費は現在よりも増額するなどとなっていた︒
寺内統監の説明を聞いて覚書を一読した李心用首相は︑
﹁自分等ハ其ノ果シテ如何ナル形式二丁テ決行セラルルヤ ハママロ ママロヲ小春スルニ苦ミシカ今日始メテ其ノ詳細ヲ確知スルヲ得
タリ﹂と述べ︑その上で︑国号と皇帝の尊称に関して少し
考慮してもらいたいことがあるとして﹁国号ハ依然韓国ノ
名ヲ存シ皇帝ニハ王ノ尊称ヲ与ヘラレタキロト﹂を申し入
れた︒窪窪用首相の提案に対して寺内統監は︑﹁一般ノ国
際関係二徴スレハ既二併合実行後二於テ王位ヲ存続スルノ
理由ナキノミナラス星章ノ必要アルヲ認ムル能ハス︒殊二 之ヲ存続スルトキハ却テ将来二禍根ヲ飴シ︑李氏ノ宗室ヲ永久二安全ナラシムル所以二等サル﹂という理由をあげて拒否した︒これを聞いた李完用首相は︑﹁国号及王称ノ問題ハ自分二於テ承諾スルヲ難シトスルノミナラス閣員一同 モ亦同一ノ感想ヲ有スルハ勿論ナリト信ス﹂と述べ︑いったん趙重応農商工部大臣と協議したのちに同大臣を介して韓国側の意向を伝達すると告げて︑わずか三〇分で退出していった︒ 趙重応が︑国号と二心に関する韓国側の考えを伝えるために統監官邸を訪れたのは︑同日午後九時のことであった︒ここで趙重言は︑﹁大体二於テハ異議ナキモ﹂と前置きした上で﹁国号迄モ失フニ至リテハ著シク韓国上下ノ感情ヲ害シ紛擾ヲ来スロトナキヲ保シ難シ︒王称二至リテモ古来ノ歴史日照ラシ嚢二清国二隷属シタル時代二心ヒタル称号ヲ其ノ儘踏襲セムトスル爪外ナラス﹂と申し出た︒さらに加えて﹁若シ此二点ニシテ遠方ノ意思一致スルヲ得サルニ む於テハ妥協ノ途ナキ墨書シム﹂という李完用首相の言葉を伝え︑臼本側がこの点に関して譲歩しないならば条約締結には応じないと強硬な態度に出た︒これに対して寺内統監は︑﹁本案ハ我廟議ノ決定スル七二係り本官ハ統監トシテ勅命ヲ奉シ其ノ実行ノ任二当ルモノニシテ可成韓国ノ事情
二適応スルノ措置二心テムカ為メ覚書所載ノ如キ方法ヲ執
鴨
ラムトスルニ外ナラス︒故二将来永ク彼我ノ珍域ヲ遣シ之
力量メ重ネテ紛雑ヲ醸スカ如キ措置ハ断シテ之ヲ排除セサ
︵22︶ルヘカラス﹂と表面上冷静に応じたが︑内心では︑﹁今叢
二之ヲ峻拒シテ主要ナル条約締結交渉二阻害煩累ヲ及ホス ︵23︶ノ不得策ナル﹂ことを危惧していた︒寺内統監は八月一三
日の時点で日本政府に翌週末までの﹁時局解決﹂を表明し
ていたため︑ここで談判を遅延させるわけにはいかず︑条
約締結交渉が決裂しないように国号と王称に関しては妥協 ゑ せざるをえなかったのである︒
そこで寺内統監は=︑韓国ノ国号ヲ自今朝鮮ト改ムル
コト﹂﹁一︑皇帝ヲ李王殿下︑太皇帝ヲ太王殿下及皇太子 ︵25︶ヲ王世子殿下ト称ス﹂という二件を筆記し︑これを日本政
府に稟議してみると膝繰応農商工部大臣に申し入れた︒趙
重応は︑国号に関しては北海道をもじつた﹁南海道﹂に変 ハ えられるのではないかという点を心配していただけであり︑ ハが ﹁朝鮮ノ名ヲ存セラルルニ於テハ誠二幸ナリ﹂と答えて統
監府側の案に理解を示した︒一方の王称に関しては︑小松
緑が﹃明治外交秘話﹄の中で︑﹁趙︹重応︺は李王といふ
のが気に入らない様子であったが︑それを朝鮮王殿下と直 ハがレしたいとも言ひ兼たらしい﹂と記しているように︑﹁上納﹂
という名称が寺内統監と趙重応農商工部大臣のぎりぎりの
・妥協点であったことがわかる︒二件を示された趙響応は即 答を避け︑李完用首相と協議すると答えて退出していった︒ 翌八月一七臼午前一〇時に李完用首相の使者が統監官邸を訪れ︑趙重応農商工部大臣がもたらした懸案の返答に関しては閣員と協議する必要から︑同日午後八時まで待ってほしいと要請してきた︒ところが李完用首相はその時間になると︑終日閣員と協議したがいまだに全員の同意を得られてない旨を伝えてきた︒しかもその伝言の最後で﹁国号及王称二関スル自分ノ主張ニシテ帝国政府ノ容ルル所トナ タラバ自ラ責ヲ負ウテ閣議ヲ統一スルコトニ尽力ス﹂と付け加えていた︒これにより日本が李完治内閣との問で併合を実現するためには︑国号と王称を韓国側の要求に従って修正せざるをえなくなったのである︒ 一九〇五年の第二次日韓協約締結時︑学部大臣であった李完用は﹁円満二妥協ヲ遂ケ日本ノ要求ヲ容ルルト同時二我方ノ要求ヲモ容レシメ︑彼我合意ノ上締結ヲ為スニ如 ハ カス﹂との考えを皇帝に奏上していた︒併合時においてもこの考えに基づいて︑条約締結による成立という統監府側の要望に応えるふりをしながら︑国号と巡警といった﹁国家﹂の名分に関わる問題に関して巧みに譲歩を引き出したのである︒ 八月一八日︑昌徳宮で常例閣議が開かれ韓国政府におい
て﹁合邦﹂が決議されたため︑あとは条約の草案を韓国皇
75 王公族の創設と日本の対韓政策
帝の親閲に供し︑裁可を得た上で全権委員の任命︵詔書の
下付﹀を待つのみとなった︒ところが韓国では糞意が府中
よりもカを持っていたので︑韓国皇帝の裁可と全権委員の
任命を得るには愛重萸宮内府大臣とサ徳栄侍従院卿を説得 する必要があった︒そこで︑李完用首相は寺内統監に﹁此
の長官︹閥丙爽︑サ徳栄︺に対し︑自分より細目に亘って
説明するよりも︑寧ろ統監から︑直接に︑併合の趣旨を十
分に開示せられたならば︑両官に於て納得することができ お やうと思はれる﹂と述べ︑宮中の説得を要請した︒これを
受けた寺内統監は︑二二日午前一〇時に閥丙爽とサ徳栄を
統監官邸に招き︑これまで統監府と韓国政府の間で交して
きた意見の大要を説明して条約締結の機が熟した旨を告げ
た︒その上で併合を﹁雄魂円満﹂に解決するには韓国皇帝
が詔書を閣員に下して全権委員を任命する必要があると忠 お 告し︑これを執奏するよう求めた︒
寺内統監から説得を受けた関金爽とサ徳栄は午前=時
に参内し︑寺内統監が述べた内容を韓国皇帝に重奏した︒
韓国皇帝は国務大臣の他︑金事豊年枢院議長︑李乗武侍従
武官長︑感興君李蔓に対して午後一時に御前に会すべき勅
命を下したが︑この日は李蔓の誕辰で祝宴が開かれていた
ため︑李褒と金允植は少し遅れて参内した︒午後二時に閾
丙爽︑仁徳栄を従えて出御した皇帝は﹁統治権譲与﹂の要 旨を宣示し︑条約締結の全権委任状を李完膚首相に下付した︒これを受けて李濫用首相が条約案を聖心に供して逐条説明をすると︑韓国皇帝は嘉納・裁可した︒なお︑寺内統監は参内した国分統監秘書官から逐一電話で報告を受け︑ が このときの御前の様子を把握していた︒ 李官用首相と秘画応農商工部大臣は午後四時に統監官邸を訪問し︑対時した寺内統監に詔書を見せて︑皇帝が自ら署名し国璽を押したものであると説明した︒それを聞いた寺内統監は︑この問題が迅速に解決されたのは貴皇帝陛下が宏量なる態度に出て東洋の平和と韓国民の幸福を増進させようとしたからだとして韓国皇帝を讃え︑さらにそのような韓国皇帝の姿勢は﹁将来日韓両国人ヲ結合セシムル為 ハ35︶誠二好例ヲ示シタルモノ﹂と述べた︒この発言から︑寺内統監が朝鮮を統治する上で韓国皇帝を韓国民に対する象徴的な存在と捉えていたことが窺い知れる︒ 午後四時︑寺内統監と李完用首相は条約書に調印した︒その後︑李完用首相と鼻髭応農商工部大臣は太皇帝に﹁時局解決﹂の顛末を説明するため徳寿宮へと向かった︒それと入れ代わりで髄質爽宮内府大臣とサ蓬栄侍従院卿が韓国皇帝の言葉を伝えるために統監官邸を訪れた︒皇帝の言葉とは︑宮中を著しく改革して職員を多数削減しないことと
歳費も従前の額をそのまま給することを寺内統監に求める
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ものであった︒もしこの点に大きな変化があれば﹁一般国
民ノ感情二塁ミ又体面ヲ維持スル上二於テ不面醤ト思
ハがレハル﹂とする伝言に対し︑寺内統監は﹁李王家二対シテハ
日本ノ皇族同一ノ礼遇二出ツ﹂ると告げた︒閾黒戸とサ徳
栄の両氏は寺内統監のこの返事に満足して︑統監官邸を退
出していった︒
四 冊立詔書の作成と﹁李王﹂の誕生
日本政府は一九一〇年七月八日の閣議で併合後の韓国皇
室に一五〇万円の歳費を支給することなどを可決した︒そ ママロして宮内省はこの閣議決定をもとに﹁現皇帝ハ太公ト為シ ママロテ世襲トス︒其ノ世子事跡トシ︑太皇帝ハ尚太公ト称シ︑ ロマ マね各妃ハ各太公妃又ハ公妃トシ︑何レモ皇族ノ礼ヲ以テ遇シ
殿下ト称セシム﹂﹁李綱ハ一代ヲ限りテ公トシ︑妃ハ公妃 ガ トシ︑皇族ノ礼ヲ以テ遇シ殿下ト称セシムルロト﹂という
詔書案を作成し︑八月一六臼に柴田内閣書記官長を介して
統監府に送付した︒
ところがちょうどこの舜︑第三章でみたように︑寺内統
監は趙重事農商工部大臣に条約締結に応じてもらうための
譲歩案として︑併合後の韓国を朝鮮とし︑韓国皇帝︑太皇
帝︑皇太子に聖職を残すと告げていた︒このうち朝鮮案は
すでに閣議で決定していたことなので侮ら問題がなかった が︑もう一方の韓国皇室に王称を残す件は︑﹁大公﹂としてようやく形を持ち始めた宮内省の詔書案を修正し︑天皇の裁可を得る必要があった︒ 八月一七日︑寺内統監は柴田内閣書記官長に打電し︑韓国側の要請に従って宮内省案にある﹁大公﹂を﹁王﹂に変 お 更する必要があると告げた︒桂首相はこれを承諾するが︑問題は尊称を変更するだけで解決できるほど単純ではなか
った︒柴田内閣書記官長は翌一八日に﹁皇室以外ノ皇族待 マ マ ロ遇出先キニ公︵キミ︶ト称スルコトニ決定シ居ルモ辛目ハ 変更ナキヤ﹂と返信し︑﹁大公﹂を﹁王﹂とするならば︑
﹁公﹂はどうなるのか問い合わせている︒また﹁其人名及
之ヲ鍵襲トスルや一代限リトスルや等ノ点﹂に関しても質
した︒ これに対して寺内統監は宮内省案を修正した新たな詔書 ハが の文面を作成し︑八月二〇日に日本政府に電報した︒ここ
には︑韓国皇帝︑皇太子︑太皇帝を︑それぞれ﹁李王﹂
﹁王世子﹂﹁太王﹂にすると記されている︒この電報を受け
たB本政府は︑二二日になって﹁貴府御意見こ基キ宮内省
案ヲ修正シタル全文左二︒但シ括弧内灘凡テ文字二対スル
注意ナりしと付記して最新の詔書案を統監府に送付すると
ともに﹁最早此上修正ノ余地ナシ﹂と告げた︒
ところが︑ここに﹁甫韓国皇帝ヲ概シテ王︵李王ニアラ
77 王公族の翻設と資本の難韓致策
スごと記されていたことが統監府との軋礫を生み︑詔書
の成立を遅らせる︒日本政府が﹁李王﹂ではなく﹁王﹂と
した理由は定かではないが︑推測するに︑形式にこだわる
宮内省が﹁皇族ノ礼﹂を受ける者の尊称に韓国皇室の姓に
相当する﹁李﹂を付けるのを嫌ったからではないかと思わ
ハか れる︒日本の姓︵氏︶は天皇から臣民に賜与されるもので
あり︑天皇や皇族はそれを持たないからである︒
八月二四日︑寺内統監は桂首相に電報を送って﹁単二王
ナル称号ヲ用フルトキハ従来ノ行掛上朝鮮鮒ト称シ度希望 ママロヲ申出ツル恐アー7︒豊明本官ハ故二李王ナル文字ヲ選ヒ︑
予メ之ヲ防影響ルナリ﹂と訴えるとともに︑﹁詔書ハ確定
シタル由ナルモ未タ発表前ノコトナレバ今日甲羅テ之ヲ改 ︵42︶ムルコト敢テ難キニ非サルヘシしと︑宮内省案の修正を強
く求めた︒桂首相は寺内統監の要請を受け入れたが︑宮内
省案を完全に否定することもできなかった︒そこで︑渡辺
千秋宮内大臣と協議し︑﹁詔書壷中︵冊シテ王ト為シ﹀ノ マ マ ロ下︵昌徳宮ト称シ︶トアルヲ︵昌徳宮李王○スモモヲウ○
ト称シ︶二塁メ︑又︵徳寿宮ト称シ︶トアルヲ︵徳寿戯評 タ二王ト称シ︶二重ム﹂という案を寺内統監に返電した︒こ
ヘ ヘ ヘ へうして詔書の文面は﹁前韓国皇帝ヲ冊シテ王ト為シ昌徳宮
へ ヘ ヘ ヘ へ奉・王ト称シ︑嗣後号ノ隆錫ヲ世襲シテ以テ其ノ宗祀ヲ極細
シメ︑皇太子及将来ノ世嗣ヲ王世子トシ︑太皇帝ヲ太王ト 為シ徳寿宮李太王ト称シ︹⁝とに改められる︒韓国政府︑統監府︑日本政府の思惑により︑冊立詔書の韓国皇帝に関する箇所は﹁大公﹂から﹁王﹂に変わり︑そして﹁王﹂は
﹁李王﹂を称するようになったのである︒
五 王公族の監督権を巡る角逐
八月一九B︑寺内統監は柴田内閣書記官長に対して﹁王
ノ宣下ノコト下付テハ特二勅使ヲ差遣セラルルカ︑言口総
督二委任セラルルカ︑敦レニモセヨ相当ノ儀式ヲ要スル義 ︵︶ト考ヘラル﹂という電報を送り︑韓国皇帝を﹁王﹂として
冊立するために勅使を差遣して宣旨を下す必要があると伝
えている︒寺内統監の要講を受けた桂首相は渡辺宮内大臣
と協議し︑二〇日の電報で︑﹁王ハ宮内省蒸器アル如ク詔
書二依り公布セラルヘキモノナルヲ以テ宣下ノ如キ形式
ハお ナシ﹂と返信した︒ただし︑寺内統監の意見を完全に否定
するのではなく︑﹁貴見ノ如ク相当丁重ナル様式ヲ備フル
ハ亦必要ナルヘシ﹂という考えも示していた︒
これによって︑統監府の方針通りに韓国皇帝を丁重に
︿日本﹀に編入する方法が定められたかのようにみられた︒
しかし︑二二日に柴田内閣書記官長は児玉統監秘書官に︑ マ マ リ﹁勅使派遣ノ際御下賜品アルヘキ旨一昨日︵イ九︶ヲ以テ
申上士ルモ更二詮議ノ上︑此度ハ御下賜晶ナキコトニ変
78
︵46︶更ス﹂と電報を送っている︒日本政府の方針転換を知らさ
れた寺内統監は︑併合条約締結の翌日である二三日に桂首
相に直接電報を送り︑併合が﹁彼我統合的意思ノ発現﹂と
いう建前によって実現された以上︑韓国の宗室を永久に存
続させ︑﹁相当ノ礼遇﹂を保障するのは当然であると訴
きえた︒韓国皇室に対して天皇の﹁至仁至徳ナル御宏量﹂を
示すことが﹁韓国民ヲシテ其ノ恩沢二感涙セシムルノ素囲﹂
であると考えたからである︒電報の末尾で﹁以上敦レモ我
帝室ト李王家トノ礼遇上ノ儀礼理外ナラザルモ︑亦畢寛将
来政略上二関係幕閣ラザルヲ以テ特二袋二電稟ス﹂と述べ
ているように︑韓国皇室を﹁相当ノ礼遇﹂で迎えるべきだ
という寺内統監の考えは︑将来の朝鮮統治を見越したもの
であった︒
この要請に対して桂首相は︑﹁勅使御派遣ノ際御下下品
ノ件再考ノ上︑選奨撃力日本風ノ晶ヲ賜ハル3トニ宮相ト
協議ノ結果︵王︑学生︑王世子︶ノ三人二巻物︵ドンスノ が 如キ織物︶ヲ若干宛賜ハル灘トニ取計フヘキ準備中ナリ﹂
と返信し︑寺内統監の訴えに応じる旨を伝えた︒さらにこ
の電報では︑翌二六日午前一〇時に予定されている皇太子
李堰の参内時に下賜品を準備して平常よりも丁重に待遇す
ると付け加えていた︒
寺内統監は韓国皇室を丁重に取り扱い︑詔書で保障され た﹁皇族ノ礼﹂を可視化して韓国を懐柔しようとした︒しかし一方で︑明確に王公族を皇族ではないと見なしていた︒その相反する姿勢は王公族の監督権をめぐる統監府と宮内省の議論において顕在化する︒ 宮内省には︑王公族が﹁皇族ノ礼﹂を受けるのだから同省において監督し︑その旨を記した皇室令を発布すべきとの考えがあった︒その考えは八月二三日に柴田内閣書記官長を通じて統監府に伝えられた︒ところが翌日になっても統監府の反応がなかったため︑柴田内閣書記官長は二五日 ふ に再度児玉統監秘書官に﹁皇室声掛ノ今季意見如何ヤ﹂と電報し︑返答を促した︒これに対して児玉統監秘書官は﹁王族鴬谷族ノ監督工関スル事項ハ政治上最モ重要ナル案件ナリ︒此際軽々シク之レカ規定ヲ設クルハ却テ不得策ナリ﹂と電報して宮内省の考えを否定し︑さらに﹁朝鮮総督二七テ宮内府及掛図府職員全部二対シ残務処理取扱ヲ命シ︑ マ マ ロ当ノ内現在ノ儘之ヲ朝鮮総督ノ下二置キ︑後日適当ナル規 定ヲ設クル事二宮内省二交渉ヲ乞フ﹂と要請した︒電報の最後に﹁右命二依ル﹂とあることから︑寺内統監の指示だ
ったと考えられる︒ ロママロ これを受けた柴田内閣書記官長は﹁王族及公族監督事件 ハ ノ重要ナルハ勿論ナレトモ﹂と統監府の意見に一応の同意
を示したが︑同時に﹁間接二宮内省ノ監督権ヲ認メタル迄
79 王公族の創設と鍛本の対韓政策
ニテ左シタル問題トスル長足ラスト思考ス﹂と︑監督権を
宮内省に置くことに過敏に反応した統監府を牽制した︒さ
らに続けて﹁宮内省ヘノ交渉ニモ相当ノ理由ヲ備フルヲ要
ス︒本案ノ如キモノモ果シテ将来二何力差支ヲ生スル恐ア
リヤ︒其理由ノ詳細ヲ統監へ御内議ノ上︑即刻御回答ア
レ﹂と述べ︑もし皇室令の発布に反対するならば宮内省を
納得させられる明確な理由を早急に回答するよう要求した︒
この文面からは︑条約公布を直前に控えているにもかかわ
らず︑宮内省と統監府の板挟みとなって停滞を余儀なくさ
れた田本政府の焦燥感を垣間見られる︒
翌二六日︑今度は寺内統監が自ら桂首相に電報を送り︑
﹁王族及公族二関シ一種ノ特別ノ制ヲ設ケ其歳費モ亦国庫
ヨリ直接支出スルカ如キ︑専ラ帝国皇族ト之ヲ区別スルノ ハお 必要ヲ墨筆タル学外ナラズ﹂というように︑あからさまに
王公族と皇族の違いを述べている︒加えて︑韓国皇室は
﹁由来政治上禍乱ノ泉源﹂であるとし︑併合後の朝鮮統治
を担う総督が彼らを監督する権利をもたなければ﹁統治ノ
実﹂を上げられないと訴えた︒こうした論理から︑宮内省
による監督を否定し︑さらに監督権が宮内省に帰属する根
拠となる皇室令の発布に関しても﹁早計二失スル﹂として
反対した︒
これを受けた桂首相は︑﹁貴電ノ主旨ハ本官二於テモ元 ハカレヨリ同論ナりしと賛同の意を示したが︑﹁然シナカラ本件二付テハ何力意味ノ疎通セサル点アルニハアラサルカ﹂とも述べ︑王公族が皇族のもとに置かれるから原則的に王公族に関する事項を宮内省の所管としたに過ぎないと伝えた︒しかし︑それでは統監府を説得できないため︑桂首相は﹁将来二百テ朝鮮在住ノ王公族二対スル直接監督ノ職権ヲ統監二委ネラル・ハ勿論しとも付け加えていた︒また皇室令の発布に関しても︑韓国宮中の残務処理に関する規定を設ける以上のものではないとして統監府側の同意を得ようとしていた︒末尾で﹁時日星置ノ際︑御同意相成リタルモノト認メタシ﹂と訴えているように︑条約公布が迫っているこの時点で日本政府には時間的余裕がなかった︒それゆえ︑将来的にどの組織に監督権が帰属するのかを曖昧にしつつ︑宮内省案で収束させざるをえなかったのである︒ しかし統監府としては︑たとえ原則的なものだとしても︑宮内省に王公族の監督権を渡すわけにはいかなかった︒寺内統監はいったん監督権が宮内省に渡ってしまえば︑それを取り返すのがいかに困難であるかを理解していたので︑二七βに桂首相へ向けて﹁本件ハ重大ナル関係ヲ有スル案件ニシテ今軽々シク之が規定ヲ設クルハ却テ後ノ禍源ヲナスノ虞ナシトセズ︒︹⁝︺本官若ハ副統監上京ノ際親シク
其意見ヲ述フヘキニ付︑此際皇室令発布ノ儀見合ハサレン
se
ママロコトヲ乞フ︒尚前電申述ヘタル通り例令皇室令ノ発布ヲ見 ︵騒﹀サルモ実際ノ取扱上二三テハ何等差支ナシ﹂と電報し︑執
拗に皇室令の発布を阻止しようとした︒
さらに寺内統監は条約公布の前日である二八日にも桂首
相に電報し︑王公族の監督権に関して意見を述べた︒まず
冒頭で﹁王族心事族ノ監督二関スル件︑数回ノ往復ヲ重ネ お 猶充分其意ヲ尽ス能ハザルヲ遺憾トス﹂と述べ︑統監府側
の考えを十分に伝えきれていないことに対する﹁遺憾﹂の
意を伝えている︒しかし︑この電報は前Bまでの一方的に
統監府の主張を述べるものとは異なっていた︒あくまで︑
王公族の事務執行に関する職員のうち︑朝鮮に在住する者
の監督は総督が担当するよう主張していたが︑同時に﹁斯
クセバ実際ノ取扱上大ナル差支ナカルベシト考ヘラルルニ
依リ︑此際ハ一応御同意致シ置キ︑他日官三等制定ノ場合
二塁テ更二御協議ヲ遂クルコト重事スベシ﹂とも述べ︑原
則的に監督権を宮内省のもとに置くことに同意したのであ
る︒ 併合条約が公布された翌三〇日︑寺内統監は王公族の監
督権に拘泥した理由を桂首相に次のように説明している︒
李王家監督二付屡々意見ヲ陳べ御考慮ヲ煩ハシタル
ハ︑新政ノ始二当り我皇室ト李王家ノ関係ヲ明カニシ︑
皇室ノ尊厳ヲ盛ニスルト共二︑李王家ヲシテ政治上ノ 関係ヲ絶チ長ク我皇室ノ恩沢二浴セシメンが為二外ナ ラス︒之レ実二皇室トノ関係ノミナラス朝鮮統治上ノ ︵56︶ 最大要件ナレバナリ︒ 王公族と皇族を区別したのは︑単に皇族の尊厳のためではなく︑王公族が政治に利用されないようにしつつ︑彼らを皇族の﹁恩沢﹂に浴せしめるためであった︒寺内統監はそうした韓国皇室の処遇を﹁朝鮮統治上ノ最大要件﹂と位置づけ︑統治を円滑に進める措置をとろうとしていた︒すなわち︑王公族を皇族のように礼遇することで韓国民を﹁感涙﹂させようとし︑一方で皇族と区別することで宮内省の干渉を排除して︑監督権を総督の閣内に置こうとしたのである︒
おわりに
日本は併合を﹁合意﹂として実現するために︑韓国皇室
の処遇を﹁朝鮮統治上ノ最大要件﹂と位置づけて王公族を
創設するだけでなく︑彼らに﹁皇族ノ礼﹂を保障した︒そ
の結果︑日本が韓国宮中改革の過程で設定した一五〇万円
の皇室費もそのまま王公族の歳費として維持されることと
なった︒ だが︑統監府と宮内省の監督権を巡る角逐もあり︑王公
族が皇族か否かは曖昧なままとなった︒それは︑王公族の
81王公族の創設と日本の対韓政策
家務を掌る組織として昌徳宮に新設された李王事をみると
よくわかる︒﹁諸王職官制﹂︵明治四三年皇室令第三四号︶
の第一条では︑李退職は宮内大臣の管理に属するとされな
がら︑同年に公布された﹁朝鮮二於ケル李王職ノ事務及朝
鮮二在勤スル李王職職員二関スル件﹂︵明治四三年皇室令
第三九号︶の第一条では︑総督の監督下に置かれると規定
されていたからである︒宮内省の一機関である李要職は︑
名目上︑宮内大臣が管理することになっていたが︑職員の
ほとんどが朝鮮に在勤しており︑彼らを実際に監督したの
は総督であった︒
また︑李王職の経費は︑﹁仁王職経費ノ支弁及李王歳費
ノ収支監督二関スル件﹂︵明治四三年皇室令第四〇号︶の
第一条によって恩給遺族扶助料と退官賜金を除き李王の歳
費で支弁すると規定されたが︑第二条でその歳費の収支は
総督が監督し︑第三条で収支の予算および決算は総督が審
査したのちに宮内大臣の認可が必要と定められた︒実際︑
李王家歳費は総督府財務局司計課で予算を策定し︑三カ月 ごとに全予算の四分の一ずつが総督府から交付された︒し
たがって︑三王職は宮内省の一組織でありながら︑予算上
の権限は総督府が握っていたといえる︒
このように日本は︑併合に際して王公族や李王職といっ
た特殊な身分や組織を作らざるをえなかった︒韓国皇室を 残存させたことで︑一九一八年には旧皇室典範が増補され︑
一九二六年には日本の国葬が朝鮮古礼に則って実施される︒
王公族に着目してみれば︑併合は韓国を否定すると同時に
帝国日本に変容を迫るものだったといえよう︒
︵1︶坂元茂樹﹁三韓保護条約の効力﹂︵﹃関西大学法学論集﹄第四 註
四巻︑一九九五年︶︑同﹁日韓は旧条約問題の落とし穴に陥
ってはならないし︵﹃世界﹄第六五二号︑一九九八年九月︶︑
李泰鎮﹁韓国併合は成立していない︵上︶﹂︵﹃世界﹄第六五
〇号︑一九九八年七月︶︑同﹁韓国併合は成立していない
︵下︶﹂︵﹃世界﹄第六五一号︑一九九八年八月︶︑同﹁韓国併
合不成立再論1一坂元教授に答える﹂︵﹃世界﹄第六五九号︑
一九九九年三月︶︑海野福寿編﹃日韓協約と韓国併合﹄︵明石
書店︑一九九五年︶など︒
︵2>森山茂徳﹃近代臼蓋関係吏研究ーー−朝鮮植民地化と国際関
係﹄︵東京大学出版会︑一九八七年︶︑海野福寿﹃韓国併合史
の研究﹄︵岩波書店︑二〇〇〇年︶など︒
︵3︶朝鮮総督府編﹃朝鮮施政ノ方針及実績﹄︵一九一五年︶三六
頁︒
︵4︶権藤四郎介﹃李王宮秘史﹄ ︵紺朝三州薪⁝闇四社﹇︑ 一九ニムハ年︶ 三i
四頁︒
︵5︶﹁李王職財政整理大要﹂︵﹃斎藤実文書﹄99−33︑国立国会図
82
書館憲政資料室所蔵︶︒
︵6>前掲﹃朝鮮施政ノ方針及実績瞼三八i三九頁︒
︵7>小松緑﹃朝鮮併合之裏面﹄八中外新論社︑一九二〇年︶九〇
頁︒本稿で引用する史料は︑原則的に漢字の旧字体を常用漢
字に改め︑適宜句読点を付すこととする︒
︵8︶黒田甲子郎編﹃元麟寺内伯爵伝﹄︵元帥寺内伯爵伝記編纂所︑
一九二〇年︶五七九⁝五八○頁︒
︵9V小松前掲﹃朝鮮併合之裏面﹄;δ頁︒
︵10︶山本四郎編﹃寺内正毅B記−一九〇〇〜一九一八﹄︵京都
女子大学︑〜九入○年︶の八月の欄には次のように所々で宋
棄綾に関連した記事が書かれている︒﹁宋︹藁唆︺明日着京
ノ報ア弓﹂︵一七β︶﹁宋棄子本日午后入京ノ報アリ﹂︵一八
日︶﹁夕国分宋︹二百︺ヲ訪フ﹂︵二一日︶︒こうしたことか
らも宋乗駿の動向に神経を尖らせていたことがわかる︒
︵11︶小松前掲﹃朝鮮併合之裏面﹄ 一二二頁︒
16
同煎
、
ノヘ ノへ
15 14 13 12
甫前前前 同同同同
、 、 、 、
一二六頁◎
一三二頁Q
一三五頁︒
一四〇頁︒
一四〇頁︒
︵17︶﹃韓国併合二関スル書類 着電﹄︵国立公文書館所蔵︶八月一
三礒午後四時四〇分発一八月一四臼午前一時五〇分着︑寺内
正毅統監から桂太郎酋棺宛︒以下﹃着電隔と略記する︒
︵18︶寺内正毅﹁韓国併合始末し︵海野福寿編﹃韓国併合始末関係 資料﹄不二出版︑一九九八年︶一二頁︒
︵91︶同晶隅︑ 一ふハ⁝二一頁︒
︵20>同上麟︑ 二山ハi二九菖蝋◎
︵21︶同前︑三〇⁝三一頁︒
︵22︶同前︑三二頁Q
︵23︶朝鮮総督府﹁朝鮮ノ保護及併合﹂︵市川正明編﹃日韓外交史
料﹄第八巻︑漂書房︑一九八○年︶三三一頁︒
︵24︶﹁大公﹂は﹁王﹂の上位に位置する尊称だったため︑小松に
よると﹁先方で大公の尊称を嫌ふのは︑毒内の意外とすると
ころであったしという︒小松緑﹃明治外交秘話﹄︵千倉書房︑
一九三六年︶四ふハ三頁◎
︵25︶寺内前掲﹁韓国併合始末﹂三三頁︒
︵%︶小一松⊥溺掲﹃朋明治外山父秘話﹄ 四山ハ一二頁︒
︵27︶寺内前掲﹁韓国勘合始末﹂三二一三三頁︒
︵28︶小松薗掲﹃明治外交秘話﹄四六四頁︒
︵29︶寺内前掲﹁韓国併合始末﹂三四頁︒
︵30︶﹁薪協約調印始末﹂︵金正明編﹃日韓外交資料集成﹄第六巻上︑
巌南堂書店︑一九六四年︶四六頁︒
︵31︶小松前掲﹃朝鮮併合之裏面﹄一六入頁︒
︵32︶同葡︑一七一頁︒
︵33︶﹃着電﹄八月一一三日午後六時一七分発−八月二四日午後一時
三入分着︑寺内から桂宛︒
︵34︶寺内前掲﹁韓国併合始末し四七−四八頁︒
︵35︶﹃着電﹄八月二三β午後六時一七分発−八月二四日午後一時
83 王公族の創設と日本の対韓政策
三八分着︑寺内から桂宛︒
︵36︶同前︒
︵37︶﹃韓国併合二関スル書類 発電﹄︵国立公文書館所蔵︶入月一
六田午後四時発︑柴田家門内閣書記宮長から寺内宛︒以下︑
﹃発電﹄と略記する︒
︵38︶﹃着電﹄八月一七日午後一時二分発i午後四時二五分着︑寺
内から柴田宛︒
︵39︶﹃発電﹄八月一八日午後三時三〇分発︑柴田から寺内宛︒
︵◎荏︶﹃着電﹄八月二〇日午後八時四〇分発−八月一二日午前○時
四八分着︑寺内から柴田宛︒
︵41︶一九二七年に﹁王公族譜規定﹂︵宮内省令第一〇号︶が認定
され︑それに基づいて一九三一年から三三年にかけて皇族の
皇統譜に相当する王公族の登録簿が﹁王族譜﹂﹁公族譜﹂と
して作成されるが︑これをみると︑王公族は皇族と同様に名
のみが記されていて﹁李﹂の文字は見当たらない︒
︵42︶﹃着電﹄八月二四日午前一〇時一〇分発−午後○時四〇分着︑
寺内から桂宛︒
︵43︶﹃発電﹄八月二五日午後○時︵発着不明︶︑桂から穿内野︒
︵44︶﹃着電﹄八月一九日午前一一時五〇出発一午後二時三〇分着︑
寺内から柴田宛︒
︵45︶﹃発電﹄入墨二〇日午後四時半発︑柴田から寺内宛︒
︵46︶﹃発電﹄八月ニニ日午後発︑柴田から児玉秀雄統監秘書官宛︒
︵74︶﹃着電﹄八月二三臼午後六時一七分発一八月二四田午後一時
三〇分着︑寺内から桂宛︒ ︵8違︶﹃発電﹄八月二五日午後○時発︑桂から寺内宛︒︵49︶﹃発電﹄八月二五日午後四時半発︑柴田から児玉宛︒︵05︶﹃着電﹄八月二五日午後四時一〇分派一午後七時二〇分着︑ 児玉から柴田宛︒︿51︶﹃発電﹄八月二五日午後九時半発︑柴田から児玉宛︒︵52︶﹃着電﹄八月二六日午後一時五〇分営−午後五時五分着︑寺 内から桂宛︒︵53︶﹃発電﹄八月二六日午後九時四〇撃発︑桂から寺内宛︒︵54︶﹃着電﹄八月二七日午前一一時二九分発一午後一時五〇分着︑ 寺内から桂宛︒︵55︶﹃着電﹄八月二八日午前二時三〇分発一午前七時三〇六軒︑ 寺内から桂宛︒︵56>﹃着電撫八月三〇日午後三時三五分発一午後一〇時三〇分着︑ 寺内から斜懸︒︵57︶五味均平編﹃朝鮮愚筆公家取調書﹄︵早稲田大学図書館所蔵︶︒ 李王家が受領した歳費は直に朝鮮銀行に預けられた︒また︑ 会計では現金の支払いを禁止し︑指図式小切手により経理主 任の名をもって諸般の支払いをした︒
︹付記︺ 本稿は科学研究費補助金︵概究活動スタート支援︶二
〇〇九〜二〇一〇年度︵課題番号隠◎◎ρ8諺︶および二〇一〇年
度松下幸之助記念財団研究助成︵助成番号二〇あO蒔︶による成果
の一部である︒