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Aomori Publio Public College 図 1 盛岡藩領国図 ( 寛文印知集 による ) 出典 : 児玉幸多 北島正元監修 新編物語藩史 第 1 巻 新人物往来社 昭和 50 年 174 ページ NII-Electronic N 工工一 Eleotronio Library 改 f

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全文

(1)

青森

公 立

大大

灯火

せ て

※ 序 章 北辺の青森 と吉 田松 陰 第一節  津 軽 と吉田松 陰  1600 (慶長5)年、豊臣秀吉軍 が徳川家康軍に敗れて、 徳川家が最 も恐れてい た中国地方

4

国を奪わ れて防 ・長

2

国に押し込め られ た と はいえ、

19

世紀に吉田松陰が生 きた毛利家の長州 藩は、徳川時代に は外様 大名の47 万石に及ぶ雄 藩であっ た。 この松陰の時代に本州の 北 辺の 津軽藩は実質

4

5

千石の外様小藩で、 しかも宝暦 ・天 明年間は、 飢饉に苦し め られて 藩が大 阪の鴻池組の米商人の財政管理 を受け続 ける とい う歴史をへ ていた。 長州藩 とは比較にする こ ともお か しい とい う読者印象は もっ ともで あ ろう。  ところ が吉田松陰は 長州藩の 藩校倫館教授で江戸 に出てい た時、 折か らの ア メリ カ ・ペ ル ー艦隊来冦 で 下 田 に来た前年に弘前を訪れて滞在 したこ とがあるとい うことか ら、本稿の題 に つ い ての 因縁を思っ た次第であ るD。 南部一族の形成

 

奥州が 日本 史で忘れ られない のは、紀元

11

2

世 紀 に か け ての平泉の藤原清衞、 基衞、 秀衞 のい ゆる藤原3代の 時代、源経、弁慶、静御前の名 とともに知られてい よ。 藤原三代 は その産銅を 基礎と し て津軽十 三 湖 (湊)を拠点 として中国 ・朝鮮と貿易 した当時の 日本最大 の地方で あ り、その富で鎌倉幕府に対抗 した。  1189 (文治5)年の義経誅殺後、鎌倉幕府将軍源頼朝の従軍人の一入、南部三郎光行はその 戦功で土地 を貰い、 こ こ に南部 一成 し、 ・・に 及地方族 とな い っ た。

 

津軽 (弘前)藩の成立 こ の南部氏が領地 を拡大 していっ て、 図1で見る ように、北進して

F

北 半島に まで及ん だ。 ま た 西進につ いて も、 図2で見る ように1148年頃か ら津軽地方を侵略し 始めた。 こ の間に 一浦為信め た

1571

年2 月、 織田信長が浅田長 政 を 近 江で攻め た年、大浦為信は反乱 を起こして津軽 をほ とん ど平定して、明智光秀をへ て秀吉に移 っ た その領地 支配証明書 を獲得 した。 この 証明書受け取りに 遅 れ た南部氏 本家は、 図 1と2の 比較で見る ように、陸奥の地を南部藩、 津軽 (弘前)藩で分けるようになっ た。 この分割が 幕 1) 玖 村 敏雄、吉 田松陰、岩波書店 1936年、徳冨蘇峰、吉田松陰、岩 波 文 庫1981年、奈 良 本辰 也、吉 田松 陰、岩   波文庫、1981年       X 青 森 公立大 学

(2)

NII-Electronic Library Service

【図1】  盛岡藩領国図 (『寛文印知集』に よ る)

出 典:児 玉 幸多 ・北 島 正 元 監修 「新 編 物語 藩史』第1巻、新 人物 往来 社、昭和50年、174ペ ージ

(3)

【図

2

]  弘前藩領 国図 (『寛文印知集』によ る)

(4)

NII-Electronic Library Service 末まで続い のだっ た。津軽藩の成立の由来はこ こ にあっ た2)。 石 高 (米生産高)本位の 藩政治  戦国時代は米収穫量が兵 ・農民動員数のだっ た か ら、 徳川家康は家門序列 を将軍、 親戚 (家 門)、親藩、 譜代、 外様に区分し、 大 ・中 ・小の石高で家格を 区 分 して武家政治を支配し た, 南部藩は盛 岡藩と して10万石の外様中藩とされ たし、 津軽為信は津軽平野の 高岡に築城し、 弘前藩とも呼ば れ、4万7千石の外様小藩の家格とされ た。  どの藩でも初期のと呼ば れ たの は新田開発、軍事用産業の開発によっ てだっ た。 南部 (盛 岡)藩は山林資源、下北半島まで及ぶ漁業 (鼻曲が り鮭、 干し鮑、 海草、 塩)、 鉱業 (金、 銀、 銅)等が昔か ら全国 に知られてお り、工業と しての箔椀の生産 も著名だっ た。 さ ら に畜 産 と しての 下北半島の南蔀馬の放牧も壮大だっ た。  これに比べ て津軽藩で は17世紀の

4

代藩主が名君 と さ れ ている が、新田開発、治水植林で石 高増大 に関心 を注ぎ、1694 (元禄7 )年に は新田開発で30 万石に達し たとさ れ る が、石高増大 は戦国時代までの こ と だ か ら、 雪、 気候不良の冬の東北地方で は、 亨保期 (

1716

35

年)以 後に な る と、 耕作難 か ら貧し さ が 目立 ち、藩財 政 が破綻してい っ た。  とはい え南部藩 も元禄 1689 〜

1703

)年に な る と、不続 き 、 岩手群北上川水 系の村々 で は

6

分の

5

の稲の青立 ちの凶作だ と当時の 告書にも書か れてい 天明年 間

1781

89

年)東北地方全体 を覆 う凶作記録に よれ ば 明卯凶作 、 奥州津 軽南部藩最も飢饉して、 足腰立てる者は 四方に走りて食物を求む。 飢人の来ること数万 人、 秋 田街道は蟻の如し」と秋田か らの報告で書か れてい る。 しかもこの年の凶作は

4

年間 も続い た のだっ た。 第二 節 青森 県の開設 会津戦争

 1868

(明治元)年、今か ら130 年 前、 京都で徳川幕府か ら政権を奪取し た薩摩 ・長州諸藩は 征東軍を組織して、徳川派で京都を守っ た会津若松藩征討の進軍を開始した。 薩摩 ・長州 ・土 佐軍の会津 ・米沢藩へ の 怒りは す さ ま じかっ た が 「白河以北一山百文」とい う官軍の蔑称 も支 配 し た。迎 え る東北奥州諸藩は越後諸藩 を加 えて奥羽 北 越同盟 を結成したもの の 、 京都での勝 敗が 既 に決定した 以 上、 存亡 を賭ける力は 日々 に衰えて、まず会津が 「白虎隊、 娘子軍」の哀 話と ともに開城し、 会津 藩は斗都藩と改称さ せ られて 南部藩の下 北半 島に転住させ られ た。 南 部藩は内部が分裂し、戦わずに占領さ れ廃藩に させ られ た3) 。 2>新 編 物 語藩 史 第一 巻、北海道・東北地方の諸藩、新人物往来社、1975年 3)星亮一、敗者の維新 史、中公 新 書、1990年、尾崎竹四郎、東北の明治維 新、痛 恨の歴史、サ イマ ル出版会、1995  年、早乙女貢、会津戦争、ノ摩 館幕 末 維新 の 群 像 第4辰戦争、1989明 治維 新の 勝 者 と敗  者、NHK ブックス、日本放 送 出版 協 会、1980年、物語 五綾郭の秘 話、新 人物 往来社、1988年 N工 工一Eleotronlo  Llbrasy  

(5)

青森県の創設  弘前藩は近衛家と関係を持ち、官軍の北海道函館の 五稜郭攻撃に参加し たので官軍に評価さ れ、南部藩領攻撃にも官軍指導の もとで勝利で きた。  南部藩廃 藩後の1871 (明治4 )年、旧弘前藩の改称の弘前県と八戸 藩 (南部藩)西 側 を 吸 収 して弘前県は廃止 され、 青森県が明治政府によっ て新設さ れ た。 そ して北海道に渡航する た め の手段と して、農地だっ た湾に面する地 域 に県庁が置か れて青森市が設定され た。  青森県の言葉は南部の、 津軽の西と異なり、津軽 も弘前と青森とでは異な る。

130

年を経 過しても 「ね ぶ た」の夏祭 りは別々 で異な り、全体では ま と ま ることが ない異様さ が 目 につ く。 第一に、産で は東は漁業、工業、西 は農業、果樹業、中の青森は県庁、無産業で、 東の農業 は

5

6

月 に は 「山背 (や ま せ)」と呼ぶ太平洋岸か らの冷風に お び や か さ れて い る。 全県とし て共通なのは、冬には積雪 ・酷冬に悩 まされ、 高齢者の居住に は温暖化思想が不十分で あり、 若者の大都 会へ の就職転住の指向が強い 。 希望は人材のみ  海を隔て て北、東、西へ と大陸と接する国際環境に恵 まれ てい る県は 日本の本州の県に は存 在し ない 。だ か ら青森県は 日本で世界の文化の大橋にな りうる可能 性とい う意義 を持っ てい る。 す なわ ち幕末に 長州の田松陰が外国渡航で国際文化人になる望 を抱い て松下村塾を起こし た 意義を 思う根拠 をこ こ で知る ことがで きる と思 う。 その ような人材を育て るこ とこそ が、青 森県が果たすべ き なので はある まい か。 で は吉田松 陰、 そ してその思想を誰が継承して20 世 紀に伝 えてい っ たのかを検討すること に し よう。 第一章 長 州藩の吉 田松 陰 第一節 松 本村で の生い 立 幕末の長州藩

 

長 州藩は幕府時代に中国地方西端の山口県の全県を領有し た外様大名で、戦 国時代に は岡山、 島根、 広島県まで含む程の毛利氏の広大 な領土 だっ た が、先にも述べ た ように、 徳川 ・ の最終決戦となっ た1600 (慶長

5

)年の 関ヶ原の戦い で、 開戦前日の東徳川家康が仕組んだ不 戦確約誓書に 同調し た西軍豊臣氏の盟 主毛利氏が 大阪城に 引 き上 げ たこと で徳川 軍の 大勝利と なっ た。 毛利輝元 は家康の誓書の内容を信じて帰国して しまい、 戦後に徳川家康は 毛利氏を周 防 ・長門 (防長 と略称)二国の 領有の み に削減して しまっ た。 こ の年に徳川時代が 始 ま るの だ が、毛利氏は藩の本城が萩、 支城が山口 にあ るこ とか ら 山 口藩とも呼ば れる よ うになっ た。 図

3

を参照 4)。 4)新 編 物語 藩史 第 九 巻、長 州藩、新 人物 往来 社、1976 年

(6)

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長州 藩領国図 (『寛文印知集』による)

【図3

出典:児玉 幸 多・北 島正 元 監 修 『新編 物語藩史』第9巻、新 人物 往来 社、昭和51年、346ペ ー

(7)

 

徳川氏は その経緯か らも中国道の大藩の毛利氏を自己 に とっ て最大厳戒の対象に した。 こう なっ た 長 州藩…の石高は47 万 石で加賀前田120万 石、薩摩 島津

77

万 石、 仙台伊達

60

万石に比べ て外様の大藩とは言えなかっ た が、下関港を 国内貿易の最重要な交通基地と してい て経済力 を持っ てお り、 実力 100 万石ともい わ れてい た。  徳川家康は毛利氏に警戒 を怠ら な かっ た か ら、毛利氏にずば抜 けた逸材があら わ れ たこと は なかっ た。 但し、 立藩者毛利元就は1593 (文禄2)年に正親町 (扇町)天皇の衰微を嘆い て献 納を開始して以来、 朝廷へ の献 金習慣 を確立した。 長州藩は公家を通じて幕府か らこれを許可 され た諸藩唯一・の幕藩であっ た。

 

萩は中国山系に水源 を発する阿部川が日本海に入ろうとする 三角州の上の月山の麓に建て られてお り、 城下の侍屋敷は掘の内に毛利家 一 門、家老の屋敷が並び、掘の外では寄 り組、 大 組な ど上級家 臣から下級家臣へ と家が順番に広が り、そのに明倫館、 有備館 などの藩校が建 て られた。 そこを通 り抜ける と、阿部川 が分か れ た松本川 に出る。 松本川 を渡ると、 城下町は 切 れて松本村になる。 そこはもう農村であり、貧しい下級藩士が農民と入 り交じっ てぼつ ぼつ と住ん でい た5)。

 

松本村の家禄26石の杉 百合之助常 道の家で は1830 (天保元)年に 次 男寅次郎が生 まれ た。 松 陰とは成人 に なっ て本人がつ けた号であっ てそ れ までは寅次郎の名で呼ぶ ことにする。 杉家 は築城か ら萩に住ん でい た が、 寅 次郎が 生 まれ る

11

年前に 大火で焼失し たの で松本村に移住 してい た。 父の末弟玉木文之進 も同居してい た。 玉木はいずれ別居して隣に住んだ。 寅次郎は 次男で男

3

名、妹2 人であっ た が、

5

歳の時、別の叔父吉田大助の養子になっ た。 大助が早死 し たので、藩は家学断絶を恐れて文 之進ほ か に 「家学 を後見せ よ」と寅次郎へ の 無給教師を命じ た。

 

父の百合之助は毎朝暗い うち に

4

ロの 山へ 馬の秣を刈 りに行 く。

5

歳の寅次郎は2歳上の 兄と ともに松 明 (たい まつ ) 父 を先導てい く。 妹は朝食の手伝い を始め る。 これ が 杉家の

1

日の始 まりだっ た。 朝食が終わ る と、兄弟は畑 に出て畦道に座 り、 四書五経の素読を 始め る。 ほ どな く父 が出て きて田の耕作を始めて、 畦道で教え る。 父親が読書をする の は、 夕 食後に米 を搗 きながら米搗合の上 につ け られ た見台の上のを読む時だけだっ た。 藩校 明倫館教授見習いへ

 

暮ら し は楽で はなかっ た が、母親の滝は萩城下に実家があ り 「学 問好 きの家の嫁に ゆきたい 」 が念願のや さ しく温 かい 女性であ り続 けた。こ の母 か らの 愛育 を寅次郎の初学とす る と、

5

歳 か ら は 父、文之助か ら軍学、 四書五経、歴 史を厳しく教育さ れ た。

 

吉田家養子と して

8

歳で藩校明倫館の教授 見習になっ た。 こ の 少年が俊秀だ とい う評判が高 5>司馬 遼太 郎 世に棲む日々、4巻、文 春 文 庫、1975年、龍 馬がゆ く、8巻、文春文庫、1975年

(8)

NII-Electronic Library Service くなり、藩主の慶親 (よ しちか)が 関心 を持っ て、異 例に藩主へ の御前講義をさせて見た。 寅 次郎は家学の 鹿武家全書の中の 戦法方論」を講じた。 藩主 が感嘆して何 回 も声を 上げた程の明確 な論理で、 藩主は 「師は誰か」 と問い、叔父の玉木文 之進の名を聞い た。 その せい で文之進は官に 登される きっ かけをえた。 玉木文之進 松下村塾を創設  そ れまで文之進は松下村で無役でい た。村の子供たちは同一階級で遊ぶ こと が習慣だっ た が、 僅かしかない侍屋敷で は武士は遊ぶ達が なく、寅次郎にも武士の友達がえられなかっ た。 そ こ で文之進は身分差 な く子供たちが集まれ る家を自宅で 「松下村塾」と名づて学問教育を始 め た。 その意 味は松 下村学校であっ て、 魚屋の子、 侍の子 も区別無 く通っ て来た。 寅次郎 が 12歳の時だっ た。 こ の塾 は文之進が その3年後に 八証 人役とい う常勤職に登用 されて村を去る まで続い た。 久保五郎左衛門  玉木が村を 出 て か ら、 寅次郎の別の叔父の久保五郎左衛 門が 隠居して文之進の家に住むこと にな り、 名 も松下村塾 と変わ らず、近所の子供た ち を無料で教 える こと を引 き継い だ。 その教 育は松陰が1850 (安政

2

)年に帰郷 し た時に も継続していた。 だ か ら松 下村塾 は松陰 が創立 し た わけではない 第二節 藩校 明倫館教授へ 明倫館教授へ  長州藩は外様大名で あ り、 徳川支配体制に忠実であるこ とが存続の要件だっ た。 藩制度 とし て明倫館、 有備館の ような藩士教育 を整備することもその体制の要件であっ て、とくに若い 教 育者に よる育成に熱心で ある こ とが求め ら れ た。 長州藩では藩主 か ら

10

歳台の若 年教育候補 者に対して親試があっ た。 親試では藩主が明倫館に出席して教師に講義させ、口頭試問を し た。 寅次郎にして も10、】

2

、14 、16 、18歳と親試 が繰 り返さ れ た。 例 えば

12

歳の親試で は、 武 教全書 を講義させ、 題 を与 えて漢詩 をつ くらせ、14歳親試で は、 当日になっ て予定をや めて 突然 に藩主慶親が、不意に 「孫子 を聞 きたい、 虚実編 を講ぜ よ」と命じた。 準備皆無 なのに寅 次郎が整然と講義したの で、 藩主は感動して所蔵の書を褒美と してあ た え た程だっ た。  寅次郎は明倫館での 講義の た め に官設 家 庭教 師か ら長沼流兵学、 西洋陣法 などを学んだ熱心 な 勉 強家だっ た。 寅次郎の 山鹿 流兵 学は政治学に属する学問体系であっ た。 寅次郎は18歳の 親試で 独 立 師範の資格 あ り と評価さ れ、教授見習い を終了して教授に任命さ れ た。  明倫館は 翌1849 (嘉永2 )年に改築さ れ、寅次郎は 膨 大 な学校規則の作成 を命 じられてその 任務 を果た し た。 その こ と も あっ て、お手当て御 内用掛 (外冦お手当方の情報偵察員)と して、 沿岸防備状態の視察とい う旅行を与えら れ た 藩外の こ とである。 N工 工一Eleotronlo  Mbragy  

(9)

藩外親友の獲得

 1850

(嘉永

3

)年、 寅次郎は成人し、 松 陰 と号した。 こ こからは寅次郎ではな く松陰と呼ぶ こ とにする。 松陰は 山鹿流で高名な松浦藩平戸へ の 10か月間の藩外留学を許可さ れて出発 し た。 この旅行での最大の収穫は始めてす ぐれ た人とその著書へ の接触であ り、松陰 は借 りた著 作の筆写に明け暮れ た。 その人々へ の接触の最高の成果は、肥後熊本藩の 宮崎で宮部鼎蔵 とい う医学、 山鹿流の学者に会っ たこ とであ り、宮部はこ の 時か ら生涯の親友になっ てい っ た。 こ の、 宮部は来年に は 江戸に行 くと伝え た。 江戸留学  留学か ら戻っ た松 陰は宮部の話か ら江戸行 きの希望 を提 出した。 藩主の江戸参勤へ の 出発が 来年3 月だ とい うことが幸い して松 陰が供に加 えられ、 1951年4月、 松陰は江戸に到着、 5月に は熊本か ら宮部鼎蔵 も到着して親交が始 まっ た。  松陰は酒、 煙草をた しなまず、 女性とも交流せず、 剣術、馬術 も不得手で運動神経に欠けて いた。 関心 は旅に 出て観察するこ と、師友を え るこ と、書を読ん で考えることにあっ た。 東北旅行、 脱藩罪で帰藩  再 会で喜んだ松 陰は オ ラン ダ、 イ ギリ ス、 フ ラ ン スなど外国関係に関心 を持っ ていた。 そ こ で防備皆 無の東北地 方の実態 見学 を提案し、私費に よる見学旅行願書を藩屋敷役人に提出し た。 こ の頃は箱根関所以外は武士の関所手形は実際に は不要だっ た。 そこで宮部、松陰は時間 が か かる手形交付処理を待たずに、

12

月末に 江戸を 出 発 した。 旅は会津若松 藩、南部藩、 津軽藩、 北端の龍飛岬 まで の往復

120

日間だっ た。 津軽藩では 弘前城 下 で

2

泊した。  江戸に帰っ た所、幕府を恐れ る長州藩役人は無手形脱藩の罪 を恐れて、 形どお りに松 陰の届 出書を提出 し、まっ た く形 ど お りに手落ちの罪で松 陰は護送で帰藩 となっ た。 長州藩で は処分 は処 分 として

11

月、 明倫館教授 を解職 したもの の、 「実父百合之助のバ グク ミ」とい う罪で、 今後

10

年 間は諸国武者修行に出すと判決した。 こ の素晴ら しい 判決に沿っ て

1853

(嘉永

6

)年

1

月、 松陰は萩を出た。 激動時代の 始  徳川時代は文化文政時代 (

1804

29

年)の欄熟に 入 り、 その中期後には諸藩の財政破綻 も 拡大 し、天保大飢鐘 (

1832

年)、 大塩平八郎の乱 (

1837

年)、開国思想弾圧の蛮社の獄 (

1838

年〉など元に は戻らない 時代に入っ てい た。 その決定的な流れ は外国船の 来訪であっ た。 すな わ ち、ロシ ア艦が

1803

年、 イ ギ リス艦が

1808

年に長崎に来航し、幕府は

1825

年に外国 船 打 ち 払い し た。幕府 も

1808

に は宮林蔵樺太探検 をせ ていた。  そ し て

1844

(弘化 元)年、 オ ラン ダ国王か ら イ ギリス ・フラ ン ス の阿片戦争の報道ととも に開国勧告 国書が到着す る 状 況 に なっ てい た。 明 治維新ま でもう

24

年しか残っ ていなか っ た

(10)

NII-Electronic Library Service の である。 防長 大 揆の長期化  長 州 藩で も、松陰 が 生 まれ た文化文政の末年の (

1830

天保

2

)年に は大 一揆が発生した。 こ れ は藩財政 困難化のの た めに、藩が産物 会所 を通 じて流通全統制 を施行したことに 原 因 が あっ た。 しか も この時期 に は藩主 た ち が僅か数か月の在位で次々 に死去 しづ けるとい う指導力 の無さがあっ た。 例えば

8

歳だっ た松陰が明倫館教授見習になっ た時、 藩の負債総額が通常歳 入額の

34

倍に達していた程 だっ た。  藩がようやく問題解決の具体化に乗 り出し たの と

1938

(天保

9

)年で、

50

石の 中級士村田 清風が玉木文之進な どを糾合し て 天保改革案実 施 に踏 み切っ てか らだっ た。 だ が、蒲財政 を 公 開して減税したことで一時は小康 を得たのだ が、農業生産物を下 関会所に集中 し、農家資本 出 資で運営するとする財政救済政策 を打ち出したこと か ら、 その政策で 利益を得ない武 十 間 で内 紛が激しく、村田清風は

1845

(弘化

2

)年につ いに失脚 して、 それ以後 も内紛が延々 と続いた、1 結局、その内紛 を と もか く静め たのは清風の 後継者である周布政之助派の

1858

(安政

5

) 年の 安政改革で、周布政 之助は藩政府指導者と して幕府の第一回長州藩征伐で総参謀の薩摩藩の西 郷隆盛軍 に敗れ て

1864

(元治元)年に自殺 する まで指導してい っ たのだっ た。 鎌倉瑞泉寺で  そ れ は ともかく長州藩を出て江戸 を目指 した23 歳の陰は、瀬戸内海の三田尻 (現在の 府 市)か ら大阪湾 まで航行して上陸し、 五条で勤皇思想の森田節斉に入門、 木曽街道 をへ て鎌 倉瑞泉寺の知己の院佳職の

1

ヵ月を過ご した。 洋学を知るため に外国に渡る ことを思い つ いたの はこの 時だっ た と さ れている。 竹院住職は江の島で の旅館で出され た焼 き魚に箸を付 けない松 陰が問わ れて 「今日 は先君の日ですか ら」と答えたこ と を聞い て、「物事の大事は あ あい ようなで な くてはで きない ものだと述べ とい う。 ペ ー艦隊浦へ  

6

1

日、鎌倉を 立 ち、

3

日 に は 江戸の佐 久間象 山を訪ねた。 こ の 日の午後、 ア メ リカの ペ リー指揮の

4

隻の鑑が浦質に来た。 松 陰は浦賀に 駆 けつ けて情 報を求めて

9

日まで滞在し た。 ペ リーは幕府代表との 久里浜会談で来春開港決着のた め に来日するこ と を宣言して去っ た6)。  その際の松 陰の思 考 経 路 が 分析さ れてい 。 すな わ ち松 陰は こ の問題 を 「総合感覚」で取り 上げた とい 。 す なわち、 自分のあら ゆ る知識 を総動員して、そこか ら法則、原理、 思想、 自 身の 行動基準を引 き出 して、 それでえた結論につ いて自分の責任と して 行動した とい うの であ 6)奈良本 辰也、左 方郁 子、佐 久間 象 山、清 水書 院、tg75 年 N工 工一Eleotronlo  LlbraUy  

(11)

る。すな わ ち自分はあらゆ ること につ い て原理 に戻り、原 理の 中で考えを純粋に しきっ て思考 する。 そうすれ ば その思考か ら自分の 行動が飛躍して出 て くる と し たの だっ た。 松陰の提案書   その代表例がこ の時に書か れ た文書だろ う。 松 陰は

9

日 か ら

3

3

晩を かけて 「将及私語」 (しょ う ・し ごに ・お よぶと題する文書を書き上げて長州藩主 に送っ た。すな わ ち、「ペ リー は来春に幕府の返書 を受け取 りに来 日する。 もしもペ リーの要求書どお りで な け れ ば必ず一戦 に及ぶ。 その時期へ 余すのは

5

6

か月であり、その時に は 日本の 存亡を賭け た戦い が起こる。 各藩は藩 内外の賢者を藩主の側に置き、その賢才の 衆議決議を藩主自ら実行指揮する組織に 変革せ よ。 藩は其の時に備える準備が 必要であ る」。  松 陰は革命家ではなかっ た。 だがこの文章は徳川時代の 藩制度の危機に対抗するた めの国と して の変革宣言の提 出であ り、 これ か ら

15

年後の政治変革の到来へ の松 陰の予言 を示 した文 書だっ た と思 える。  こ の文書は佐久間象 山の閲読 をへ 長州藩主慶親到達 した 。 松 陰は前回の江戸行 きの 時に会っ た象 山を師匠と仰いだ。 象 山は前回、松陰に 「オランダ語、論語を勉強せ よ」と言 う ば か りだっ た。 オランダ語は当時の日本では唯 一 西洋文明 っ た し、論語は松陰へ の激情 の鎮静剤と して の象山の思い の言葉だっ た。 萩にいた松陰 が 西洋語不得意 とい うのは事実 だっ た。  同 じ く激動の時代に 生 き て坂本龍馬のような若者たちを育て た幕末の思想家 として念頭に出 るの は勝海舟 (

1823

1899

年)である。 勝は無役の御家人の家に生まれ た が、オラ ンダ語を 学んで西洋兵学 を研 究して国事に役立て る志 を立て て

1845

(弘化

2

)年、

23

歳で永井青崖を師 と して入門し た。 勝は松 陰よりも

7

歳年上であ り、江戸と萩とい う文化の差が残念に 思えて な らない 7)。 ロ シ ア艦隊を求め て長崎ヘ  ロ シ アと 同 じ要求を掲 げて長崎港に入っ た とい う風聞が入 り、 象 山に相談して 留学の賛成 をえた松 陰は長崎に急 行し た。

20

月、 松 陰は熊本に入 り、 宮部鼎蔵に会っ た。 松 陰は長崎に入っ た が、

4

隻の ロ シ ア艦隊はクリミ ア戦争開戦の情報で対日交渉を変 更して既に 出港していた後 だっ た。 松 陰は落胆 もせずに江戸に戻っ た。  松 陰の江戸での宿は 旧知の山新三郎の塾で、鳥山 は安房 出身で私塾 を開き、長州藩士とも 懇意で松陰とも親しかっ た。 こ こ で長州 藩の足軽で脱藩した金子 車之助と同居して金子は松 陰 の最初の弟子になっ た。 松 陰は こ こ でロ シ ア艦で のロ シ ア留学へ の夢を語 り、つ い で来年来 日 のペ ー艦隊へ の乗 り込み留学計画 を話し、 金子の 熱狂的な参加希望を承諾し た。 7>奈良本辰也、高杉晋作、幕末・維 新の醐 象第三巻、龍馬と志士たち、1989年、子母 沢寛、勝海舟、第一〜第 六巻、   新潮文庫、1995〜6年

(12)

NII-Electronic Library Service 第三節 再 来ペ リー艦隊乗 り込み活 動 金子と ともに下 田港へ  

1854

(安政元)年

1

6

日、アメリ カペ リー艦隊は

8

隻の艦隊で大統 領の国書を持っ て開港貿 易条約締結 を求め て江戸湾に来た。

24

歳の松陰は清潔な身辺の 日々に あ らわ れ る強い 個人の 自尊心か ら、 民族的 自尊心 を溢れ さ せて 『海戦 策』と題する攘夷論を長州藩主に提 出 した。  す なわち江戸視察の上で、第一段 を海戦 、第二段 を上 陸撃退の陸 戦、そ して艦隊帰米

1

年後 の再来襲の到来に備える軍備 ・兵訓練 を第三段と した。 こ の ような戦術論は 日本と して最初の 理論であ り、これ は攘夷戦術 論と して著 しく流布して勝海舟 も学んだ。

 

実際にも

1864

(元治元)年、

4

国連合艦 隊との長州藩の 下関海戦で展開された。 だが長州藩 で は 基 礎準備無しで松陰の理論ど お りに は進ま な かっ た が、その こ ろ の戦術 論は これ以外に は 皆無だっ た。  これ を藩主に提出 し た後、松陰、金子は宮 部鼎蔵を含む 長 州藩、肥後熊本 藩の

7

名の仲 間を 招待 して

3

5

日 に 別離の宴 を開 き横浜村へ 出発し た この 時に集まっ た仲 間で明治元年まで 生き残っ ていたの は僅か 一人だっ た。 乗艦拒 絶で逮捕  ペ 艦隊江戸湾か ら移動 の は

22

、 漕 ぐ小舟、 漕 ぎ手 を見つ け るの に手間取り、結局は

2

人で旗艦ポーハ タンに漕ぎつ い て 「世界を見たい ア メ リ カへ 連 れて行っ て くれ」と松陰が通訳官に 日本語で懇願し た。 ペ リーは 「通商条約締結直後で 日本政 府が 日本の法律 を守っ て くれ との依頼なの で、 日本人の逃 亡に加担すること はで き ない 」と し て、

2

人 は ボートで福 浦の海岸に送 り返 された。 2 人は名主に出頭し、下田奉行所で狭い 畳

1

畳 もない

2

人一緒に押 し込め られて路上 に晒さ れ、 その ままで江戸の伝馬町の獄に送ら れ た。 取 り締ま りは北 町奉行だっ た が、獄内の牢名主、 囚人たちが松陰の優 しい話に感動して聞い た 記録が残っ てい る。 長州藩萩で の入獄  

9

3

日、

2

人は長州藩に身柄 を移 されて、 檻かごに乗せ られ て

10

24

日、萩に戻 り松陰は城 下の野 山獄に収容さ れ た。足軽で脱藩の金子車之助は 百姓牢である向かい 獄 に 入 れ ら れ た。 冷 たい

3

月の 海、浜での 風 そ れ らによる風 邪、 呼吸病か ら肺炎 を併発し、皮膚病 も江 戸の獄で化膿して、 金子は苦 しみなが ら死亡した。 松陰 は襦袢

1

枚に なり、衣類 を金子に着せ て、 松本村の 父、兄 に し きりに手紙を送っ て医者、 薬 を依頼し、金子の 死 を嘆い て回顧文 を書 き、 獄中の食事 を減ら して金子の 墓 を建てる費用 に あてようと した。  野 山 獄 は 土分牢とい ことで畳

2

畳の独房で向かい合い

12

室の編 成で あ り、牢名主制度はな かっ た。 一女性受牢者 っ た。 受牢期間は

5

年と さ れ た が

50

年の受牢者 もいた。 封建時代 の家制度だ か ら、家・親族で具合が悪い を食費 費負に 頼ん で適当受牢せ る N工 工一Eleotronlo  Llbr ε  

(13)

委託制度があ り、その 女性受牢者は男好きで姦淫罪の身持 ちが悪い と して受牢させ られ てい た。

 

人牢 早々 に松陰 は、これ を機会と し て優れ た受牢者 を師匠と して習い を し ようと申し出て 受牢者に歓迎 さ れ、書道、俳句な どが始ま り、 松 陰は孟子の講義をした。 受刑者の 中の富永弥 兵衛は明倫館の秀才と して知られており、 松 陰は出獄してか ら富永の 出 獄 を 運動して松下村塾 の 教師い た。 また松陰は この時に始めて俳句を学ん だ。  松 陰はまっ たく強い女性 関係はな く没したの だ が、高須久子に は心が動いた ように資料から 読み取られ る。 後に松 陰が安政の大 獄で萩か ら江戸送 りにさ れ た別れ の時に、 久子は 「 一 い かで忘れ ん、ほ と と ぎす」との俳句を送っ た。 久子は明治 まで存命 して松陰の こ と を語りつ づけ ていた とい う。 松下村塾で教育 開始  松 陰の 事件は幕府と して ま だ厳刑にする 意 思 は な く長 州藩に 対 し て 「自宅で蟄居 させ よ」 と 命令するだけだっ た。 松陰は受牢

1

2

か月で 「実家で禁固」とい う釈放 で

1855

(安政

3

)年

12

月に 出 獄 し、 自宅の仏 壇の問 (

3

畳)に 監禁とい う次第に なっ た。  隣家の 久保五郎左衛門は松下村塾で無料で近所の子供たちを教 えつ づてい た。 自宅 監だ か ら松 陰の ところ に 子供た ち が来ることは黙認された。 松 陰は子供 を 「あなた」と常に敬語で 呼ぶしい人間ら し さを持っ てい たか ら、 松 陰は久保との共 同教育の 師匠に た ち ま ち に なっ て いっ た。  武士身分以 下の子供 たちに学問 を教える寺子屋 は萩以外に は ない。 しかも時代はすさまじく 変化し、 松陰 も変化 を経験してい た。 少年の心を転換さ せ育てる唯 一揺 り師匠松下村 塾として生まれてい た。 松 陰が松下村塾で教育を開始し たのは

1855

(安政

2

)年であっ てその 期 間は僅か に

3

年に過 ぎなかっ た。 だ が松陰は幼い子供たちへ の読み書きの教え は久保に任せ て、通常の長州人 と は少し人 間離れ した奇才 をひそか に求め た。 金子へ の思い が残っ ていたの だ ろう。

 

この萩の村か ら育っ た青年人材は列記で きない ほどの多数にな り、 や がて松下村塾党と呼 ば れる ほ どの長州藩 を変革する 人材群を生み出してい くのであっ た。 久坂玄瑞  久坂 (くさか)は

6

歳で高杉晋作と ともにある私塾に通っ て秀才と呼ば れ た が、家 は 家 禄

25

石の藩代々 の典 医の次男であ り、 や がて明倫館に通学し た が、両親が相次いで死去し、 兄の長 男 も急死したの で、家を継 ぐた め に 藩医学所に 転 校 した。 とこ ろが 兄 が抱い てい た攘夷思想を 受け 継 ぎ たい 考えて、 松陰が松本村に戻っ たので長い 論文 を送っ て入 門 を ゆるさ れたのだっ た。 松 陰は最初に出会っ た 元瑞の純粋さを愛して、 妹 を配偶者と してめ あ わ せ る ほ ど に なっ た。

(14)

NII-Electronic Library Service 高杉晋作、品川弥次郎  

150

石の 能吏家系の長男に生 まれて明倫館に通学した高杉 晋作は

1857

(安政

4

)年、

18

歳 の 時、友人の

17

歳の玄端に連 れ られて松下村塾 を始めて訪れて入 門した8) 。 その時に訪れ た 塾 の で 自炊 してい たのが14歳の 川弥二で、品川家は罪 人の断する下士の足軽 世 襲職であ り、 「自分の家は世襲だ が、 私 は 人 を助け る 人間に なりたい 」と入 塾 を志願して き た、, 弥二は鈍才だっ た が松陰は正直で陽気な少年だとして住み込みの弟子にしてい た

10

畳半へ の塾の拡大  松 ド村塾が塾料無料である こ とは設立 以来のことだ が、 入 門者が急に増加して きて農具小屋 をも転用して きた

8

畳間に ひしめ くようになっ た。 そこ で近所の古家の売 りを吉田捻麿 (と し まろ)が聞 き出して きて、 全 員で解体 ・古材運送

10

、 土問

1

坪の塾舎 を建てた (現状保 存の通 り)。 晋作、伊藤 俊 助 (伊藤博文)は同じ 頃 に 入 門 し たの だ が、晋作は高吏の長男だ か ら幕府唯一の官吏学校である昌平 黌 (しょうへ い こう)に 入学 を指 定さ れて

1858

(安政

5

)年

7

月、 江戸 に去っ た。 安政の大獄  こ の事件は江戸時代が明治維新へ の 口をあける画期的 な事件になっ た。 す なわち、ア メ リ カ ・ペ 艦隊来航、そ れに誘導さ れ た幕府の多数国との通商条約の締結で幕府の 国内権力の 激減、 そ れ ま で 陰であっ た朝廷、公 家の反幕府活動の蘇生 が 急 に 生 ま れて、こ の苦境の突破を 狙っ た

1858

(安政

5

)年

4

月の彦根藩主の井伊直弼 (な お す け)の幕府大老の就任を きっ か け とする安政大獄が そ れであっ た。 井伊大老は 越前藩主の 間 部詮勝 (ま なべ ・あ きかつ )を老中 と して朝廷か らの通商条約批准承認 を獲 得する と同時に公家の買収、反対の大名、武士の大弾 圧 を計画 ・実行した。  松 浦亀太郎は村の屋の で品川弥二 の ように松 陰に愛 され た。 亀太郎は絵 師を志 したが 絵師が凡庸で果たせず、松陰が画い た松陰の絵象は松陰の 一の絵象と して現在で も知られて い る。 亀太郎は魚屋の職業 を利用 して京都に出ては え た有用 な情報を松陰に送る役割を果た し た。 亀太郎は松陰の死後、 絶望 して京都の東山で切腹して果て た。  

29

歳の 松 陰は松 本村に蟄居 し な が らこれ らのた情報を分析し、老 中間部の襲撃 を長州藩 に提 案して藩庁 を当惑させ た。 松陰は藩庁の思想も自分と同じ筈だ とする楽天的な軽率 さを持 っ てい た。 8> 古 川薫、高杉 晋 作 わが風雲の詩、文 春 文庫、1995年 N工 工一Eleotronlo  LlbratS ・ 

(15)

松陰の死  井伊大老は攘夷思想知名度か高 くない陰 に まで探索を及ぼ しており、松陰 を江戸へ 送 れ と 長州藩に命じ た。 周布政之肋は仰天 した が、松 陰は む し ろ喜んで、この命令か ら自分は刑死す る だ ろうが、 公式の場で 日本救国の方策を述べ るこ とがで き るの だ と受け取っ た。 周布は若狭 の 人、 梅田雲浜 (うん び ん)が松 本村で 一 しただけの関係 と軽 く考 えた が、 井伊大老の弾圧 と周布の見方には 天 と地の政 治思想の開 きがあっ た。  江戸に昌平黌生 と して滞在してい た高杉晋作は、 師匠の幕府護送到着に狼狽して、 老獄役 人、同室囚人へ のつ け届け、松陰往復書状の安全確実などのつ け届け作 などに日夜の奔走 を続け ること に なっ た。 調べ は

7

9

日 か ら江戸城の和田倉門外で開始 された。 取 り調べ 官吏 は寺社奉 行、大 目付、南北町奉行、吟味役とい う物々 し さで長 州藩の観視を吹き飛ば し た。 尋問は橋本左内、 頼三樹三郎とは別に

10

5

日までおこなわれつ づけた。 松陰は容疑過少だ か ら死罪 も遠島 もな しと楽観視する ほ どの予想 を語っ た。  だ がこ こが吟味役の技術へ の松 陰の無知の悲しさであっ た。 まして松陰は質問もされない の に、 老中間部へ の待ち伏せ計 画を進ん で述べ たりする単純さだっ た。 実は吟味役は長州藩江戸 屋敷の幕府派長州藩士 か ら多 くのか ん じんな情報を既に獲得していたのだっ た。  

1857

(安 政

6

)年

10

27

日、 松 陰は死罪を宣告 されて、 伝馬 町の獄で死刑が執 行 され た。

29

歳。 晋作は 父の心労で萩に呼び 返 さ れ ていた問の ことだっ た。 第二 章 高杉 晋作 と御楯 組 第一節  松 陰の埋 葬 埋葬の戦い  高杉晋作は急いで江戸に上 がり、 松 下村塾 員を集めて 「御楯組」と呼ぶ擬 夷決行決死団をつ く り、 晋作が騎 馬 を指揮 して

1863

(文久

3

)年正月

3

日、 小塚原刑場で松陰の 死体を掘 り出し て大甕 (か め)に納めて、徳川家所有の 上野寛永寺に まで行進して そこに埋葬した。  晋作へ は長州 藩は帰 藩を命じ たもの の 藩主はなんの罪 をも下 さなかっ た。 長州藩は後に大甕 を世田谷 ・若林に移し変 えて松影神社 を建て た。 後に長州藩と公然と敵対 関係に入っ た

1864

(元治元)年になっ て幕府は松 陰を含む 墓、神社の建物な ど を粉砕し て報復した り した が、 松 陰の墓は現在も萩にある。 井伊大老の最後  

1858

(安政

5

)年に朝廷の意向を無視して幕府大老の井伊直弼が米 ・英 ・露 ・蘭 ・仏との 港通商条約 を呑ん で、 安政大獄に よっ て反対勢力を刑死 させ たことか ら、明 治 維 新へ の内乱の 口 火 が 切 っ て お と され たこ とを述べた。 井伊 大老は

1860

(万延元)年

3

3

日、水戸浪士 ら

18

人に よっ て桜田門外での行列行進中に惨殺さ れ た。

(16)

NII-Electronic Library Service 第二節 長州 藩の高 揚と四 国艦 隊との 海戦 天皇の攘夷実行命令と長州藩

 

関門海峡 を通 過する外国艦船へ の擴夷 を実行する た め に攘夷派公家を抱 き込ん で天皇が幕府 に実行の勅 命を出す事件が起き た。松 陰の

1854

政元)年の に な っ た。 困窮し た将軍家茂は

1863

(文久

3

)年

10

月か ら攘夷 を実行す る と返答して し まっ た。 幕 府は横浜港 閉鎖 を

5

国に提 案し て紛糾状態に陥っ た が、 5 月10日、ア メリカの貿易商船が下関 海峡にさしか か り、 長州藩の軍艦、沿岸か ら砲撃 されて上海に向けて逃亡した。 日本の内外戦 乱 が た ち ま ち頂点に駆 け登っ た。

6

ll

日、横浜か ら完全 武装した軍艦ワイオ ミング号が戦 闘 準備で瀬戸 内海か ら出撃し、

5

日にフラン ス巨艦

2

隻 も長州藩にあら わ れて戦艦、 沿岸砲台 を 砲撃して これ ら を全滅させ た。 攘夷戦争は これ で開戦に なっ た。  ア メリ カ、イ ギ リス、フラン ス、 オラ ンダの 四国の要求は損害賠償要求であ り、

1864

(元 治 元)年

7

月、総艦 隊

17

隻が長州薄艦隊 を関門海峡で砲撃し た。 松陰の 「海戦策」を前準備 も せずに戦術だ け を模倣 した だ けで、長州藩は完全な惨敗で講和交渉 となっ た。 イ ギ リスは下 関 港の西の彦島 を清国の港同様の租借地 にする 目的 も持っ てい たのだか ら、 遊戯 をし ていた わ けで はなかっ た。 高杉晋作と奇兵隊の設立

 

高杉 晋作の思想は吉田松陰の思想を受けてずば抜 けていた。 長州藩で は、松陰死後に 短期 間 の

L

海滞在経験者になっ て清国状況 を知っ た

26

歳の晋作 を講和交渉のた めの臨時筆頭家老に、 イギリ ス滞在経験者で松下村塾 出身の伊藤俊輔 上間多を臨時通訳に抜擢 し て連合艦隊と海 上交渉させ た。 晋作は処理責任を巧妙に幕府に押 しつ けて最終処理 に成功 して し まっ た が、 「海戦策」の松 陰の提案 を、 長州藩は臨戦組織づ くりの緊急性 を根本から体験したのだっ た,

 

松 陰はフ ラン スを学んで、 日本では神聖なのは 天皇だ けで、将軍以下の人間はすべ て平 等であるとする、 当時の 日本人と して は勝海舟 を超えた、 非常な危険 思想にた どりつ いていた。 当時の学者、 武士の思想は

 

土 地 は幕府、将軍か らもらっ たもので、藩主は将軍の 家来と して 所有者ので最高位の 人間だ とする思想だっ たのである。

 

高杉晋作は、短期の上海生活 を実体験して、の ん びりし た天皇、 だらだ ら生 きている武士で はな く、富裕な商人 を金主 と して農民、 職人 を問わ ない 人民の救国動 員組織こそが藩の基盤だ とする思想に到達し た。 そこで この敗戦交渉か ら、 内乱 を救う藩の軍人組織として組織化に乗 り出 したのが 「奇兵隊」であっ て、 奇 兵隊は身分、門地、姓名を問わない 、日本最初の近代的 軍事組織であっ た。 こ の思想は藩 内保守派武士には勿論、幕府、他藩でも 「奇兵隊」 を厄介視 してい たのでつ ぶ し に か かっ た が、晋作の思想は変わ らず、 明治初期まで続い て長州藩の思想 の 原動力と して具体化してい こ とになっ た。 N工 工一Eleotronlo  Llbralff  

(17)

第三節 久坂 元端の京都活動 京都攻 防戦の 開始  

1858

(安政

5

)年の 井伊大老の政大獄 が幕末戦争の開始だっ た とい うこ と は 既 に述べ た。 長 州藩は朝廷献金の実績か ら反幕府の公家に接近する役と して松

F

村塾出身の 久坂 玄瑞が工 責任者 となり、 長州藩は大勢力を京都に派遣して反幕府攘夷の風潮を固めて きた が、京都の 主 力は勿論依然と して幕府権力であ り、 長州藩に対抗して外様の薩摩藩も登場して きた。 薩摩 藩 は西郷隆盛、大久保一蔵 (利通)な ど が 長 州藩を

5

万 石い の海無しの 小藩に追い落とす狙いを 持ち、 幕府の京都警護役に任じ ら れ た会津若松藩と密通し (薩会盟約)してお り、

1863

(文 久

3

)年には将軍家茂、 将軍後見職慶喜 も上洛し、 京都は騒乱の集中地になっ た 9) 。  と はい え、尊皇攘夷、攘夷 親政、 公武合体、 尊 皇開国などの諸思想か ら明確に次の

20

世紀 日本を透視してい た 人 は幕府の 勝海舟、 その 門人になっ た坂 本龍馬、 高杉晋作など ほんの 少数 で、歴史の正面に は出て こない のが 日本人の歴史だっ た。 例え ば孝明天皇は 強烈な攘夷思想で、 外交権は 天皇にあっ た が政治実力はなかっ た か ら、紛糾と混乱を重ねてい くこ とになる。 クーデ ター

7

卿 落ち

 

こと は

1863

(文久

3

)年

10

月に幕府将軍家茂が攘夷実行 を天皇に約束する こと までん だの だ が、前述の ように長州藩が

5

月に下 関で ア メリ カ商船を砲撃して壌夷戦争を開始 して し まっ て筋道が 通 ら なくなっ て しまっ た。 しか もそのあとで

1863

(文久

3

)年

8

18

日 に、薩摩藩、 会津藩軍 が 天皇御所の

9

つ の内門を武力で閉鎖して公武合体派の川宮な ど を 入 れ る ほ か は攘 夷派公家

7

名の入 門をを阻止して宮廷か ら追放する とい うーデタ ーを実行した。 追放 され た 攘夷派公家は長州藩に引き取られ たの で 「

7

卿 落 ち」と呼ば れ てい  この会津、 薩摩藩の ク ータ ー撰組に よ る京都屋襲撃事件 も加 れ た 長州藩の憤激を呼び起 こし、孝明 天皇奪回行動と して木島又兵衛、 久坂玄瑞たちを指導者とす る 大軍を京都御所に送りこむことになっ た。 こ の攻 防戦が 「禁門の変、 蛤御用の変」と呼ば れ、 戦 闘は

1864

(元治元)年7 月

19

目に終わっ た が、京都は

3

日 間 に わ たっ て家屋

2

8

千戸が消失 す る 大事件に なっ た。 久坂玄瑞は こ の時に死去した が、 松下村塾党の旧尊王攘夷思想はこ の時 で滅した とい える。 第 一回 長 州征伐

 

この孝 明天皇、「薩会盟約」は長州 藩攻撃、 攘夷と しての横浜港閉鎖な どク ーデ タ政権 確立の好機になっ た。

8

月、 禁裏後守衛総督に任じ られ た .一一慶喜進言し て京都軍議 き、 勅命で長州藩へ の討伐出 兵 を 西南

21

藩に命じ、 総督参謀を薩摩藩の 西 郷 隆 盛 と して総攻 撃開始 日 を

11

18

日とした。 9)田中 怱五 郎、西 郷 隆盛、吉川弘文館、1958年、林 房 雄、西 郷 隆 盛、12巻、徳間書店、1974〜75年

(18)

NII-Electronic Library Service  長州藩に は迎撃力がもう存在しないの で藩主退任、家老切腹 自殺、一戦 もま じ えず降伏の道 を選んだ。 周布政之助の 自決 もこ の時だっ た。

26

歳の 高杉晋作は博多に逃亡し た。 奇兵隊軍 監に昇進してい た山県小助がこの亡 を助け た1ω 。 第三  松 陰の無二 の知己 桂小五  第一一回 長州征伐で西 郷隆盛が求め たのは長州藩の対敵人材で周布政之助、 高杉晋作、 桂 小テ〔 郎などで あっ た。

 

桂小五は藩主侍 医の

20

石の和田家の次男に

1833

(天保

4

)年に 生 ま れ て 六 歳 に

90

石の 大 組馬回り役の桂 孝古の養子となっ た。 久 坂 玄瑞と は医家の子と して幼児 か ら親 しかっ た。

11

歳で明倫館に入学して漢学を学び、

1846

(弘化

3

)年の

13

歳、

1850

(嘉永

3

)年の

17

歳の漢詩 で藩主の賞を えるとい う秀才だっ た11>。  その翌年に は松陰の兵学を聴講 し てこれ が松陰 との接触の開始と なっ たが、小五郎は貧しい 松 下村塾には入 門し な かっ た、 だ が松陰は 日記に小五郎 を 「無二 の知 己な り」と読ん で交際 信頼 を深めてい っ たこ とを知ることが で き る。 斉藤弥九郎  和田家は富裕であ り、 江戸の剣客と して著名だっ た斉藤弥 九郎が 門 ド生の留学を長州藩明倫 館に求め て来たこと を聞い て、自費留学生 とな ることを思い立ち、1852 (霧永

5

)年に江戸に 上京した。 斉藤や 弥 九郎は千葉 周作と ともに水戸、 長州藩の 門 下生を集め てお り、 水戸藩の藤 田東湖も小五とは同門 だっ た。 弥九郎は剣道に加 えて四書、 兵学を も教えた。 松陰の相談  

1852

(嘉永

6

)年

8

月、 小五 郎が

18

歳の時前年にペ リ ー渉 を予 告 して退去し た た めにその 防御砲台速 建設が始まっ た。 小五郎は師匠斉藤弥九郎の弁 当持ち を志願して新設の 品川 お台場の 工現場に日参した。  その

9

16

日、 松 陰か ら相談し たい とい う手紙 を貰っ た。 松陰は東北旅行に出掛け たことで 藩籍を削ら れ 諸国周遊を許可さ れ たので上京し、プ チャ ーチ ンのロ シ ア艦隊が長崎に出現し たの で、これに乗船して ロ シ ア で学び たい とい う相談だっ た。 小五郎は松陰に逢っ てそれに賛 成した。 小五郎は松下村塾 出身では な かっ た が、 既 に久坂 玄瑞、 高杉晋作と並ぶ松 陰の 友に な っ てい たのだっ た。 松陰の画 はつ ぶ れて井伊大老の安政の大 獄 とな るのだ が、その間に小五郎は帰 国し た時、 10) 吉田薫、高 杉 晋 作、わ が風 雲の詩、文春 文 庫、1986年 11) 村松 岡II、醒め た炎一木戸 孝允 上下 2巻、中央 公 論 社、1987年、古川薫、桂小五郎、2巻、文春文庫、1984年、大   江志之夫、木戸 孝允、幕末 維 新の群像第4巻、小 学 館、1989年 N工 工一Eleotronlo  Llbra 愚  

(19)

松 本村に出掛 けて松下村塾 を訪問したことがある。 松陰が大獄で上京になっ た時、 小五郎は高 杉晋作の松 陰救援活動に匿名で醵金しつ づけた 松 陰を失 第二 節 松陰思想 の具 体化へ 周布政 之助との連携  長州藩で は周布政之助が唯一の藩政革新の指導者だっ た。 小五郎は

1858

(安政

5

)年に江戸 藩邸大検使 (財務主任)に

21

歳で抜擢任用 さ れ た。 これ は松陰が小五郎の直目付へ の登用を 周布に熱

L

・に推薦 してい たか らであ っ た。 藩政に返 り咲いて右筆、手元役とい う人事権 を握っ た周布が松陰の推薦に反応し た か らであっ た。  久 坂 玄瑞は朝廷、公家へ 銭運動た が 、 公家の吸収に は思想とは別に多 額の金銭供応が不可 欠 で 小 五郎の財務主任の役が決め手に なり、小五郎は高杉晋作とも共に密 接に 連 絡 しあ わ なくては な らな くなっ た。 小五郎は玄端、 晋作以外の 人々 と目先の繁忙で追い まくられ てい た が、松陰の 戦策」か ら先進外国か らの防御に は 長期間、膨 大 な武力準備が 肝要であることを学んでい て、その思想を具体化して れ る人材を探してい 村田蔵六  小五郎はその人材 を遂に発見 した。 村田蔵六だっ た。 村田蔵六 は長州藩の周 防 (山口の南) の

1824

(文政

7

)年に 生 ま れて

1844

(弘化年間〉に蘭学、 医学を学び、

1843

(天保

14

) 年に は長州藩では職がない ので緒方洪庵か ら蘭学、 医学を学ん で塾長を勤め た。 ペ リー来航に なっ て漸く宇和島藩士 に採用 さ れ て 西洋兵書の翻訳、 軍艦建造を指導する ように なり、 さ ら に 宇和島藩士 として幕府講武所教授を勤めて 英語をも習得した英才であっ た。  小五郎は長州藩にとっ て洋式技術の蓄積、 軍事組織の 生成 ・発展が不可欠であることを深 く 認識 していたか ら、 故郷に定職 を持ちたい村田に着 目してその招致に成功 したの であっ た 12) 。 第三節 桂小五の長 州藩の再建 長州藩再建の 開始  小五は禁門の 変 まで京都で活動し、

1864

(元治元)年の長州 藩の行動に はあ くまで反対 で久坂玄端と袂を分かっ た が、京都では 反薩摩の巨頭と して兵庫に潜伏逃 亡 してい た。

1865

(慶応元)年

11

月、小五郎は京都で馴染みの 人幾松 (後の夫人)と共に ようやく萩に戻っ て きた。 長州藩は京都の政治か ら追い落とされ、 藩内は保守派に満 ちて、 高杉 晋作は九州に逃 げ、 坂 本龍馬は勝海舟の海援隊に熱中し、周布は 亡く、小五郎は 入材の再建、組織化に全力を あげ な くて は な ら な かっ た。 12)司馬遼太郎、花神、3巻、新潮文庫、19ア6年

(20)

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図4

 

長州 藩

 

桂小五郎時代の藩政 (慶 長元〜二 年)

政 治 堂

国 用方引請民政兼務     (財 政・民政)

志 道安房 (3,000石) 毛 利筑前 国 政 方 引 請       (一般 政 務 )

毛利 筑前 (16.023石 ) 鈴尾 駒 之 助 (11,314石 ) 用 談 役      (参  謀 〉 桂小五郎 (木戸孝 允.90石)         :         : 手  元 役 蔵 元 役

憮嬲 講

醐 役

玉木 文之 進 山県九右衛門 (250石〉 山県弥八 北 条 新左 衛 門 柿並市 太 (90石 ) 国重徳次郎 (210石 ) 高杉和介 (晋作,160石) 前 原 彦..・郎 (一一・誠 ) 正 木市 太 郎 中島 市郎 兵 衛 (123石) 久保松 太郎 桂小i:郎 山田.ヒ兵 衛 (102石) (用所役・蔵元役より1名ずつ ) 山 田 宇 右衛門 (100石) 玉木文之助 (40石) 北条新左衛門 (瀬兵衛,109石) 渡辺伊兵衛 兼重譲蔵 (60石 ) 用 所 役

1

役’地 方

(民 政方引請 )    (国 政方引請 )    山田宇 右衛 門    兼重 譲 蔵   広沢藤右衛門 (真臣,104石)   前原彦 太郎   中村 誠一 (50石)    藤田与二右 衛 門    馬屋原右 兵衛   11領九郎 兵衛   村田蔵六 (大村益次 郎,100石 )   渡辺伊兵衛   秋村十蔵 (62石)    中村 文右 衛 門 (50石)    太田市之 進 (40石)     石 川 小 五 郎 (河 瀬 安 四 郎 )    高杉 和 介    野村 弥右 衛 門   国貞真人    桂 小五郎    兼 常 剛之助 (40石)    赤川 又太郎 (LO4石) 備 考:芝 原拓 自著

1

朋治 維 新の権 力基盤 皿お よび田中 彰著 『明 治維 新 政治 史

1

研 究 より 出典 :小西四良陪 『日本の敵視、開国と攘夷』中公文庫、昭和49年、362 ペ ージ N工 工一Eleotronio  Libr ε曲  

(21)

 

小五郎が長州藩江戸 財政で

20

歳代か ら鍛練さ れ たこ とは既に述べ た。 この時期の 藩の 力は 財 政 と武力と兵であ る。 兵は高杉晋作創設の長州藩独特の民衆組織と して の 「奇兵隊]が幸い に して残っ て いた。 武力は軍艦、大砲、 小銃、 爆薬は外 国製と して輸入可能であ り、その訓練 に は村田蔵六の技術、 知識が揃っ てい るし、 外交は村田の知己へ の依存が 可能であ る。 残るの は唯

1

財源である。 小五郎は周布政 之助に代わっ て 国 政相談役に任じ ら れ 財源の発見に 全力を投入した。 財源の発見  小五郎は 財 政の 中で藩主保管 として別枠になっ ている蓄積金に注 目し た。 その

1

つ は長州藩 が蓄積して藩主保管とされてい る厚生福利制度であっ た。すな わ ち藩士 は末期養子の届出を し ない かぎり 後には知行地が没収され る とする終身雇用制度があっ た。 実際にこうい う制度 が あっ ても武士 を離れ ることが あ り、長州藩では そ れ に よっ て知行地 を離れ た場合に は、 知行 地は没収さ れ る が、その

3

1

は撫育金 として、 その 地 を貸し付けてた利子 を藩主の 手持 ち金と して保管し、 知行地 を没収さ れ た家に支給 するとい う制度だっ た。 もう

1

つ は、 藩の

3

ヵ所で商業 を営 む商船に投 資貸し付 けをする金融制度があ り、藩主の手持ち 金 と して保管さ れ て いた。  これ らの藩主保管金 は

200

万両が残っ てお り、財源は 十分であっ た。 再建の具体化  国政組織図は図

4

で見る とお りで あ る。 小五郎は参 謀 として実権 を確保 もし、 政事堂用談役 と して全業務を掌握 した。 奇 兵隊は存続し、 名字使用を許可 し、 村田蔵六 は

100

石の軍政担当 用役に任じ、外交は蔵六の紹介で外 国人折衝になっ てい た栗本佐兵衛を通じて人材を招聘した。 軍艦、 武器、 火薬、 建設機械 などは高杉晋作の長崎活動 を活用した。 米、海産物は輸出主力品 になっ た。  村田蔵六 (後に大村益次郎と改名)に は旋条を銃身内に刻み込む ミニ エ ル銃千丁 を購 入して 銃で

5

個大隊を編成して中隊単位に編成し、 高杉晋作と ともに指揮、 指導に より組織化 した。 第四章 吉田松陰の歴史 的意 味 第一節 王政復古 坂本龍馬  幕末の歴史を見る時、

19

世紀とい う工業化時代に、この よ うな貧 しい小 さな島国の 中で進 展す る 世 界を見渡した上 で

20

世紀の こ の島の こと を見据えてい た 人 がい て活 動 し ていた のだろ うか とい こと を知りたい と思 う。 その思い は個 人の 自由だろ うが、 その筆頭と してあ げ たい のは幕府の勝海舟と土佐の坂本龍馬だろう。  勝海舟は

1823

(文 政

6

)年に 江 戸 に生まれ た幕府の家来、 坂 本龍馬は高知の郷士 生 ま れ だっ

(22)

NII-Electronic Library Service た。 勝海舟は

1863

(文久

3

)年に

41

歳で 日本で最初の軍艦操練所の軍艦奉行とな り、 坂本龍馬 は

1862

(文 久

2

)年に勝海舟の 門 下生になっ て 日本が海の国になるこ とを夢見た 。

2

人ともに こ の島は世界につ っ てい る ことを知 て生き ていた。  徳 川将軍 支配の 日 は

1867

(慶応

3

) 年

6

月に坂本龍馬が土佐藩夕顔丸の 舟中で後藤象二に 示し た 「舟中八策」が 大政奉還、 新政体で最終決定さ れ た。 その最終思想は龍馬が師匠の勝 に 教 え られ 続 け たこと だっ た。 坂本龍馬との 会見  江戸で知己になっ てい た土佐の坂本龍馬が薩摩・長州藩の提携の相談を持っ て長州の小五郎 を訪ねて きた。 薩摩藩は第 一一一 回長州征伐の急先鋒だっ た か ら小 五郎に とっ て最大の不快な相

f

’ だっ た が、龍馬は西郷隆盛の倒幕思想がい よい よ定着して長州 との連携 を望むこと に転じたの だ と力説し、 熱心に誘い 、

1866

(慶応

2

)年

1

月、 薩摩 藩家老桂 久武、 西 郷隆盛、 大久保 一・ (利通)、村田新八 と小五郎は京都で初会合し、 その後に龍馬と会うことに した。 龍馬がこの時 に問に立っ て作成し た長薩協約が幕末最後の舞台を開い たのだっ た 13)。 幕府の第二回長州征伐  この舞台は 日本人の往生際の 悪さを初め か ら終わ り まで示した。 小五郎は 長薩協約直後に陸 海軍に よ る長州全 土の要塞化に着 手 した。 す なわちミニ エ ル銃

8

千挺、アームス トロ ング砲

15

問 を持つ 藩

100

万 石の大 大名の事力に 匹敵する と評価さ れ た。  大村益次郎と改名した村田蔵六 は晋作と奇兵隊を歩い て指揮しつ づたし、 晋作は さ らに母 と妻子とで長崎に家 を持 ち、 「フ ラン ス、イ ギ リス との貿易を始めて武器 ・弾薬を充実さ せ、 薩摩藩 を介 して大砲

4

門を持つ さ な オ テン ト丸とい を購入 して僅か

9

隻だ が長州艦隊 を作っ た。

 

幕府将軍 は

1866

(慶応

2

)年

6

月、 第二 回長州征伐戦争戦 を命令し、 陸軍は芸州口、山 陰の石 川 口、九 州の 小倉口、関門海峡の

1

方か ら侵入攻撃 を開始した。 この戦争は 「四境戦争」 とも呼ば れて い る。 薩摩藩は盟約どお り戦争に 反対し、フラ ン ス、イ ギ リスは利害が対立 して 参加しなかっ た。 実は老中格の小笠原長行は戦争の 中途で逃げ帰っ た し、幕府最高の実力者と いわ れ た 小 栗 忠 順 はフ ランス の ナ ポレオン皇帝がイギリ スを出し抜い て 日本に

3

つ の 造船所を 建設する貸金 をあて に し てい こ とが周知に さ れてい  幕府の生際のには他の例もあ る。 この戦争の最 中の

7

6

日、将軍家 茂が病死し孝 明 天皇 も

12

月に 逝去し た。 これで は戦争継続は不可能に み なっ たの で新将軍の慶喜は や む な く 嫌い な勝海舟に全権を与えて宮鵬で終戦交渉をや らせ ることに した。 ところ が慶喜は 勝 との全 13)加来耕三、勝 海 舟 行 蔵は我にあ り、日本 実業 出 版社、1998年、奈良 本 辰也、四境戦争、’学 館維 新の   群

1

蜘 巻龍馬と志 士 た ち1989年、佐々木克、戊辰戦争、中公新書、1977年 N工 工一Eleotronlo  Llbra2 &  

参照

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